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「と」


2012年鑑賞作品

東京プレイボーイクラブ
2011年 96分 日本 カラー
監督:奥田庸介 脚本:奥田庸介
撮影:今井孝博 音楽:石塚徹
出演:大森南朋 光石研 臼田あさ美 淵上泰史 赤堀雅秋 三浦貴大 浜崎茜 安藤聖 佐藤佐吉


2012/2/6/月 劇場(渋谷ユーロスペース)
うっ、や、やかましい……などとまず思ってしまう自分のオバチャンくささにウンザリしてしまう。うう、でもでも、ラストの爆音エレカシにはガマンしきれず耳の穴に指を突っ込んでしまった。ああ、オバチャン(爆)。でも良くないよ、耳が悪くなるって(爆爆)。
まあこのエレカシの曲にインスパイアされて書き下ろした脚本だというんだから、より主張したいのかなあ。んー、まあでも別にエレカシはどうでもいいっちゃ、どうでもいい。
ちょっとね、よりオバチャンになってしまったから、やたら殴って血まみれとか、やたら威嚇して吠えまくるとか、しまいには拳銃ぶっ放しまくるとか、なんかただただうるさくて。あー、やだ、私いつからこんなに感性がなくなったの、って昔からか……。

でもそれこそ若い頃(この言い方だけはしたくなかったけど……)、やはりハンパないバイオレンス作家、塚本映画に心震わせていた時分の私がこの映画に出会ったら、やっぱり違ったのかなあ、って。
でもなんかさ、ダメになっちゃってるのかも。猥雑な街の中のチンピラのケンカ沙汰やら、ザ・チンピラな威嚇の顔と怒鳴り散らしやら、ボコボコ描写やらでインパクトを与えよう……っていう訳じゃないのかもしれないけど、ちょっとね、あるんだもん、こういうのって。
ある傾向というか。ありていに言えば、男の子が作りたがりそうな映画、なんて言ったらますますオバチャンくさい(爆)。女の子が弱く可愛くふわっと白痴寸前ぽいのも。

い、言いすぎ(爆)。でもそう、女の子、この東京プレイボーイクラブなる店に詰めている、たった三人きりのフーゾク嬢たちがわっかりやすくキャピキャピうるさかったり。呼び込みの青年に妊娠したと告げるもう一人のフーゾク嬢、もう呼び出した時点で彼女が何を告げるのか丸判りって感じだったり、そうした定型の女たちがいて。
更に定型の、弱く可愛く這い上がろうとして崩れ去る女がバイオレンスの中に可憐に花開いていることに、ちょっとイラッとしたのかもしれない、オバチャンだから(爆)。
どんなに若い才能でも、女に対するイメージって単純極まりないのね、などとお局様のような言い方だな(爆)。いや、可憐な女の子、臼田あさ美嬢はとても良かった。それ以上の化学反応を示していたと思った、けれども……。

あー、ヤだヤだ、私、年取ったな、ホント(爆)。でも、なんか、もったいないな、って気がした、のは、そのうるささ、やかましさ、単純さの中に、大森南朋と光石研が、どうしようもない男の色気と可愛さを刻み付けていたから。
二人とも色気と可愛さがあったけど、より色気担当が大森南朋で、可愛さ担当が光石研。大森南朋の色気はむせかえるようで、光石研の可愛さは胸を苦しくさせるほどで。

大森南朋はもうどーしよーも救いのないバカで、光石研は矮小であることを自嘲しながら、生きていくことに必死にプライドを持とうとしている愛すべき男。
でも双方ともになんとなく子供。いや、大森南朋の方はどうしようもなく子供。ああ、このやかましさがなければ……と思ったけど、だからか。彼らの救いようのなさが生み出す愛しさが匂い立つのは。
だとしたらこのやかましさは計算のうちか。うーん、でもやっぱりやかましいな……。

やかましさのメインとなるのは、この二人、大森南朋扮する勝利と光石研扮する成吉がこの街のチンピラ三兄弟と関わる場面で、である。
勝利と成吉は田舎で、まあチンピラ仲間でね。冒頭で勝利が働いていた現場で、騒音にクレームつけてきた青っ白い受験生に黙って金槌を振り下ろす場面で既に、この男の分別のなさ、後先考えないバカさが示されている。
このことだけではないだろうなあ、彼がこの地にいられなくなったのは。成吉が東京の場末に構えたフーゾク店に、勝利が転がり込んでくる。

で、勝利はこの通り、クズみたいなプライドをちょっとでも傷つけられると狂犬になるヤツだから、久しぶりの酒を酌み交わした居酒屋のトイレで出くわした、どーでもいいチンピラの挑発にあっさり乗ってぶちのめしてしまう。
それが、成吉が恐れる、ここをシマにしているチンピラ三兄弟の末弟なんであった。

トークなどはちらちら目にしていたけど、実際作品でお目にかかるのは初めての友和さんの次男さん。そういう前知識がなかったら、フツーにうるさー、うっざー、とか思ってたかも(爆)。
弱い犬は吠えまくるを地でいくような、可愛らしい顔なのにやたら吠えまくるうるささ(爆)。まあ確かにこの青二才に勝利がイラッとくるのも判る気が、するかな。
すると似ても似つかぬ松村みたいな巨漢アニイが弟に何すんじゃと乗り込んできて、焦る成吉を尻目に勝利は、こんなヤツらになめられてたまるかと、ケンカを買う気マンマン。

と、いうメインストリームと共に、ちらっと先述した呼び込みボーイの貴弘のパートも描かれる。
後にこのメインストリームに重大に関わってくるエリ子という恋人と一緒に暮らしているんだけど、なんたって先述したフーゾク嬢の妊娠告白がある。
その告白に彼は動揺しながらも大丈夫、心配すんな、名前を考えなきゃな、こんな街出て行こうと思っていたんだ、と、やけに誠実なことを口にする。
この時ウッカリ、お、見所あるじゃん、などと思った私がバカ(爆)。いや、エリコとあまりに倦怠期っぷりを示していたから、彼女との関係はこの時頭にのぼらなかった(爆)。ダメじゃん(爆爆)。

ダメ男跋扈の中でもコイツはサイアクのダメ男で、まあ正直その登場シーン、客引きでよわっちいスーツ青年を恫喝同然に引っ張るシーンからドン引きだったが(ふっ、オバチャンは単純なのさ)。
後から思えば、このシーンが、彼が一番きちんと仕事しているトコだったかもしれない(爆)。このシーンでは、彼にもそれなりに世間の厳しさが見えているようにも見えたんだけどなあ(爆爆)。

ザ・出来心って感じで、社長から留守番を頼まれた時に引き出しの金庫の中にあった札束に目がくらんでひっつかみ、そのフーゾク嬢の元に突っ走る。
カネパクって来た、逃げるぞ、一時間で支度しろ、と言うまではカッコ良かったが、こともあろうにそのカネを彼女に渡して、一時間後の待ち合わせを言い渡して出て行ってしまう。
あ、あ、アホか!そんなん、女がカネ持って一人で逃げちゃうに決まっとろーが!!

こんなアホはメインストリームのクライマックスにもあって。あのチンピラ三兄弟の長兄がうっかり死んじゃって、その死体を始末するのに、ジャラジャラついてたアクセを死人には必要ないだろ、と外した時点でイヤな予感がしたが、案の定。
その後事務所に乗り込んできた弟たちに発見されてしまうし。た、単純、判りやす過ぎる。それともそれも計算のうち?観客に予測されまくりなのも?……なあんか、違う気がするんだけどなあ。

ちょっと、先走っちゃったかな(汗汗)。そう、エリ子である。こんなアホな恋人、貴弘のために、成吉にいわば売られちゃう哀れさである。
しかもコイツ、後に実にわっかりやすいウワキをアッサリエリ子に発見されるていたらく。同棲してる部屋に女連れ込んで朝を迎えるなんて、あ、アホか!!
彼のアホさを演出してる、つまりユーモアなのかなとも思うけど、そういう示唆をはっきりと感じられないから、なんか単純にアホか、と思う。

エリ子は登場シーから彼にバカにされててね。貴弘が朝起きると、傍らで音楽を聞きながら本を読んでいる。それが太宰の「人間失格」で、何読んでんだよ、と彼が聞くと、彼女は、バカを直すんだ、と応える。
そんな文学なんか判んのかよ、そんなんで賢くなったつもりかとか、あんまり言い回し覚えてないけど(爆)、とにかく貴弘が爆笑しまくるのが、恋人同士の気安さとはいえ、なんかオバチャン、気ぃ悪くてね……。

この時点で彼らが倦怠期迎えているのがアリアリだから、そう思うのかもしれないし、それが引き金である、のだろう。
正直、彼女がアッサリ「バイトクビになった」とか言って、ダメ人間の烙印押されてる感じなのも、ちょっと納得いかないんだよな。
だってその後の彼女の造形は決して、簡単にバイトクビになって、しかもそれに平然としているようなキャラには見えないんだもの。
なんたって、「もっとちゃんと勉強していれば良かった」と言うぐらい、なんだもの。

……まあ、ね。そう彼女が思うのは、アホな恋人のせいで身売りさせられ、チンピラのもとに派遣された上に、そのチンピラが一人で勝手にSMプレイに興じて、ショック死しちまった、なんていう、怒涛の展開を経験したからかもしれないんだけど、さ。
エリ子が読んでいるのが太宰治の、しかも「人間失格」だということや、「21歳?まだ全然やり直せるじゃないか」などと、あの、どーしよーも救いのない勝利から何か胸がキュンと来るような台詞を貰ったりとか。
もう情感的伏線は張りまくられてて、彼女は人生をやり直しなど出来ない、このどーしよーもないバカ男たちの間に飲み込まれて、ただただ落ちていくしかない、と判りきっている、んだけど。

太宰、そして「人間失格」ってあたりも、なんとも青春くさくてちょっと頬が赤らんでしまうような心地である。
そんな“文学”を読んでいる恋人がお茶を入れて隙にしおりをずらして、気づかないかと思った、と嘲笑う貴弘に本気で腹を立ててしまうほど、太宰を愛していた文学少女であった頃を思い出してしまうんであった(爆)。
太宰に本気になったままでいると、人生は生き抜けない。青春の熱病として、あたたかくしまっておかないと、ダメなのだ。
だからまあ……エリ子が太宰を読んでいる時点で、うっすらと彼女の先行きもまた、予測出来ちゃっていた、かも。

勝利が弟たちをボコボコにしちゃったことで、チンピラ長兄にカネと女を差し出さなきゃいけなくなって、やっとこの街で生きていけるようになっていた成吉は、あまりに子供っぽい勝利にメッチャ腹立ててたのに、不慮の事態でこの長兄が死んでしまうと、その処理に困って頼るのはヤハリ、勝利なんである。
死体をバラバラにするしかないと落ち着き払って道具を揃えてきた勝利に成吉は感心し、「経験あるのか?」「ある訳ねえだろ」。
結局、成吉は勝利のケンカっぱやさ、つまり気に入らないことや人は潰してしまえばOKていう気質を、最終的には頼っていることが露呈しているあたりが、ね。

バラバラにして、夜の橋の上から川に投げ捨てて、喫茶店で三人横並びでモーニングを食べている場面(さすがにエリ子は手をつけてない)。
意外に落ち着いているのか、それとも動揺している気持ちを押し付けているのか、食欲旺盛に千切りキャベツまでもりもり食べる光石さんがちょと可愛い。

で、その後エリ子は貴弘の浮気現場に遭遇、成吉は乗り込んできた弟たちにあっさり証拠(失敬した長兄のジャラジャラアクセサリー)を見つけられ、勝利がエリ子をピックアップして事務所に到着した時には成吉血まみれ。
どういうことか説明しろと迫られて、勝利は意外にも自分がぶっ殺したと言い、成吉もエリ子もビックリ。
それじゃ勝利だけが殺されちゃうよと思ったが、成吉が勝利をかばったり、激昂した次兄がぶっぱなしまくった銃弾が末弟に当たって「ちゃんと狙い定めろよ……」てなことになったり、エリ子が巨漢次兄にオーディオセットを振り下ろして撲殺したり!!予想外含めていろいろ、なんかてんやわんや!

で、勝利はエリ子を連れてこの場を辞そうとするんだけど、もう死んだだろと思ってた、次兄の拳銃に撃たれた末弟が、最後の一発をこともあろうにエリ子の背中に打ち込んだ。
バタッと倒れるエリ子に、勝利は目をむく。カッと、頭に血が上ったのが見えた気がした。
もう死ぬ寸前だった末弟を、ボッコボコに、ボッコボコに、ボコボコボッコボコに殴り倒して、エリ子をずるずる引きずって、店の階段を上っていく。

ちらっと書いたけど、事務所に二人で向っている途中にね、まだ21歳なら、今から勉強して学校行って、人生やり直しても遅くないだろ、という、もうめっちゃ、青臭いやりとりがあった訳。
あの時、ああ、勝利は、このふんわり娘にちとホレてんだな、と判った。だからね、正直、ここまでで良かったのに、彼の言葉に「そうかな……」などと窓の外を見やるエリ子のショットに、ああ、ダメや、こりゃー、ダメってこと、示しちゃってるやん、とちょっとガッカリしてしまったりした。

でも、どうなんだろう。あの、ラストは。ズルズル引きずってきたエリ子、もう死んでんのかと思ったのよ。だって背中のど真ん中に一発でバタン!だもん。
でも、車の後部座席にようよう横たわらせると、あら、なんかお腹で呼吸してる、あらあら、こういうの、ちゃんとチェックしておかないと、と思ってたら、死体じゃなくて、生きてたわ、みたいな(爆)。

かすかに息をしている彼女を後部座席に乗せて、狂犬のように吠えながら夜の街をどこともしれず疾走する勝利、この画って、なんか「トゥルー・ロマンス」みたいな。
でも、「トゥルー・ロマンス」ってどういう話だったっけ。それを覚えてない時点で、ダメじゃん(爆)。あのヒロインが生き延びたんなら、エリ子もひょっとしたら救いがあるかなあ。

この界隈を仕切ってるのが、こんな安っぽい三兄弟なら、勝利が言うように、ブチのめしちまえばいいじゃんとふっと思ってしまったら、もうダメかもしれない。
成吉がおびえるほどのものを、この三兄弟には感じないのよ。彼らのバックにはもっと大きな組織がついてるとかさ、そういうことがないから、どんなに勝利が短気なオバカさんでも、成吉に心から加担できないのがツライ訳。
まあそういうところが、バカで弱気な男に愛しさを感じるっていう手法なのかもしれないけどさあ。

臼田嬢は、良かった。彼女はそのぽってり唇が石原さとみ嬢並に魅力的だが、それ以上の、なんともいえない味わいがある。彼女が演じた役以上の化学変化を感じるが故に、もったいないような気持ちもある。
なんにせよ、こんな一歩間違えば男が大好きな白痴女(爆)になりそうな天然娘を、かの色気大爆発の大森南朋とツーショット場面においても競り負けない重さを感じさせるのは、やはり彼女は尋常ではないと思うんである。
なんだろ、なんか違うよね、彼女。あー、だからだから、もったいない、もったいない!と。それこそガッツリ大森南朋と色気タップリ組ませたらどうなるのか見てみたいと思っちゃう。彼女ならやれそう、やれるよ!

キャピキャピフーゾク嬢のおしゃべり場面とか、呼び込みボーイの貴弘がミラーボールきらめく店内で張り切ってDJしてるシーンはあるものの、女の子がお客にどういう接客してるかっていう、店の様子がいっこも示されないのも、古い映画の形態に慣れてるオバチャンにはどうにも居心地悪いのよ(爆)。
でも、それもこの店や成吉や勝利たち、浮世を生きてる女たちや、この街自体のはかなさを示してる、なんていうのは、いくらなんでもうがちすぎの、青臭くてキモチワルイ深読み、だよね(汗)★★☆☆☆


どっこい生きてる
1951年 102分 日本 モノクロ
監督:今井正 脚本:岩佐氏寿 平田兼三 今井正
撮影:宮島義勇 音楽:大木正夫
出演:河原崎長十郎 河原崎しづ江 河原崎労作 町田よし子 中村翫右衛門 木村功 岸旗江 市川笑太郎 今村いづみ 寺田勝之 寺田健 飯田蝶子 中村梅之助 中村公三郎 坂東秀弥 瀬川菊之丞 川路夏子 河原崎国太郎

2012/2/2/木 劇場(銀座シネパトス/今井正監督特集)
主演の河原崎長十郎、私何かの映画で観たことがある気がするんだけど、なんだっけなあ、とキャストをずらずらっと見ていたら、あれ、妻役の人は同じ河原崎姓じゃん、てことはと思ったらホントに奥さんだった。
で、え、え、子供も河原崎姓、あ、ホントにお子さん!うっそお、と思ってシネパトスの解説をちらりと見たら、「レッドパージによって追われた映画人たちが集まって作った傑作」
レッドパージ……赤狩りってヤツですかあ?と思い河原崎長十郎をウィキで見ると、あらら、文革やスターリンの支持者、うーむ、うーむ、ど、どうなの(汗)。
というよりは彼が主宰した前進座が共産主義で睨まれたらしいけれど、そういう話はさらりとでも触れるといろいろやぶへびだから、これぐらいにしとこう(逃げの姿勢……)。

とにかく、そんなことより、これは確かに傑作なんである。簡単に傑作傑作と言っちゃう私ではあるが(爆)、そうした背景を考えると、余計に、追い詰められた映画人たちが、芝居を、映画を、演劇を、いいものを作りたいと願うそのエネルギーが爆発したってことを、肌身に感じることが出来る。
監督を任された今井正自身も共産党員でレッドパージに苦しめられ、独立プロを設立したというから、その中で作られた本作は、まさに、まさに、エネルギー大爆発、なんである。

だからといって別に共産主義の映画な訳もなく、ていうか、そうだったら傑作として映画史に残ることはないだろうな……。
でも底辺をはいずる貧民が“どっこい生きてる”姿を活写することは、確かに彼らの主義主張なのかもしれないと思う。
いや、そんなうがったことは言いたくない。ここには人間のエネルギーがあるし、どんなことがあっても生きていかなきゃいけないと思わせる勇気があるんだもの。

時代はいつになるんだろう。この製作年のリアルな時代背景なんだろうか。戦後日本が高度経済成長に向って驀進していた時代、だろうか。
街中がどんどん近代化していくから、土木仕事はあちこちで行われているけれど、それを求める日雇い労働者はそれを上回ってあふれかえり、毎日毎日、朝も早よから職安(というよりは、日雇い斡旋窓口といった感じ)に詰め掛ける。
いや、詰め掛けるというより、押し合いへしあい、いやおしくらまんじゅう、もうどう言ったらいいか、とにかくバスから降りたとたんに駆け出す人たち、無数の人たちが集まっている俯瞰の画は思わず息を呑んでしまう。
人が集まるところには屋台も出る、ていうあたりが実にしたたかである。何とか仕事にありついた人たちはその屋台で軽く食事を済ませ、その日の食い扶持を稼ぎに行く。

主人公の毛利は、冒頭では仕事にありつけない。職安の窓は閉じられて、臨時の仕事があると叫んでいるトラックに群がる有象無象の画も凄い。ヨボヨボのじいさんまでもがとりすがっている。
しかし当然、そこでは早い者勝ちの窓口より更に過酷で、動けそうな若い男だけをピックアップして去っていく。取りすがる毛利は哀れ振り落とされ、泥水に這いつくばるんである。

家に帰れば、女房と幼い息子と娘。家といっても今にも傾きそうなボロ長屋で、以前から大家に立ち退きを迫られている。そう、ここにも近代的な建物が建つ予定なんである。
他の家族は皆出て行った。貧乏人にヒドイことを、だって?以前から言っているじゃないか、と大家はにべもない。

実際、ね。なんかこの毛利は頼りなくてさ。なんでここに至るまで何とか出来なかったのか、などと観客は思ってしまう。女房もそう言い募るし、その後の毛利の人物造形を見るにつけても、なんとも子供っぽく、頼りないヤツなんである。
彼の周りにいる同じ日雇い労働者たちが、中には日雇いベテランで皆を仕切っているような歯欠けのおばあちゃんやら、さっさとキップをもらって「あと何人はイケるよ!」などと押し寄せる人波を誘導するしっかり者の若者や、バクチ好きで盗人のような仕事に手を染める男なんかがいるもんだから、殊更に彼が頼りなく見えるんだけど、でも、このぐらいがフツーの男なんだろうな、という気も、するのね。

それこそ現代ぐらいのそれなりに安定した経済社会なら、彼のような男と妻と子供たちだって、それなりの暮らしが出来るんじゃないかと思う。実際、毛利はかつて旋盤工として親方と呼ばれ、女中まで置く暮らしをしていたのだというのだから。
その暮らしがなぜ失われたのか、戦争のせいだとは思うけど、彼自身の才覚のせいだったのか。とにかく手に職あるんだから、何とかなりそうなもんなのだが。

そう、なんとかなりそう、なんである。日雇いの土木作業の最中、毛利は電柱に貼られた旋盤工募集の張り紙を目にする。意を決して面接に出向くと、あっさりと採用が決まり、毛利は狂喜。
狂喜ついでにという訳でもなかろうが、恐る恐るながらも前借りが出来ないかと申し出てしまったことが運の尽きだった。もちろん社長もイヤな顔をしたけれども、それ以上に過敏に反応したのはおかみさんだった。
あんな汚いなりして、日雇いでしょ。何しでかすか判りませんよ。持ち逃げでもされたら困りますよ、と、もう大体が奥さんに頭が上がらないのが世の常だからさ。
もうこの時点で毛利の採用中止は大決定、なのになのに、毛利は日雇い稼業から足を洗えるとすっかり有頂天で……。

と、その前に、言っておかなきゃいけないことがある。毛利はこの時、一人きりなのね。長屋がいよいよ壊されてしまってさ。ホンットにあっさり壊れるのよ。縄をくくりつけて、せーの、で引っ張るとドーンと倒れちゃう。なんてあっけないの……。
奥さんの方が現実が見えていたから、毛利も仲間に声をかけてはいたけど埒があいてなかったから。
奥さんのきょうだいがいる田舎に子供とともに一時帰るという話を、彼が知らない間に取り付けて、そのための費用を、家中のものを売っぱらって工面している。
でもね、後に判るんだけど、それも頼みにしていた質屋が「資金が工面できるまで休業」になっててさ、なんかクズ屋みたいなところに引き取ってもらったから、きっと二束三文でさ、切符代には足りなかったのよ。
それでもこれから困るだろうからと、夫になにがしかのお金を残していく奥さんが不憫でさあ……。

まあ、それは後の話なんだけど、この時にちょっとケンカするのね。ダンナに黙って勝手に決めやがって、と毛利は奥さんに手を上げちゃう。
バカ!愚かな男!おめーのせいだろーが!と思うんだけど、彼がすぐに後悔して、ていうかきっと、うっかり手を上げる前から自分の不甲斐なさこそに腹を立ててて、それを奥さんに向けてしまったことに後悔してさ。
オレが悪かったよ、と殊勝にこうべを垂れ、奥さんも、焼酎を買っておいたんだよ、と、そしてささやかなごちそうの膳といい、なんかちょっとラブで、泣かせるんだよね!
特に、子供たちが寝静まってから、二人身を寄せて、これから運が開けるかもしれないよ、と口では言いながらも、先を悲観して涙をこぼす奥さんに、早く迎えに行けるように頑張るから、と言う彼。
なんか、あのやるせないケンカの後だけに、なんとも夫婦愛を感じてさ、夫婦愛っていうか、ラブを感じてさ!!

でも、これから大変なんである。そう、先述したけど、一度は採用が決まりかけたのに、彼の知らない間に不採用になってしまった旋盤工。
毛利が前借りを申し出たのは、日雇いの身でその日をかつかつに生きている彼には蓄えなどある筈もなく、給料日まで生活をもたせることが出来ないからであった。
家賃を滞納しまくっていた長屋を出て、身を寄せている木賃宿はツケなどきかないし、何より食べることがままならない。
前借りを却下された毛利は、いつも日雇いで顔を合わせている青年のもとを訪れる。そう、いつもチャッとキップを手にして、あと何人!とか先導しているやたら歯並びのキレイな青年である。

青年といいつつ、奥さんに子供が三人、脳卒中でもやったのか言葉が不自由なおじいさんが一間にひしめく大所帯。天井からつるされたかご(市場でよく見る竹網のあれ。この当時から今でもあることを思うとなんとも感慨深い)には産まれて間もない赤ん坊がいて、「とんでもないところにいるな」と毛利は相好を崩す。なんだかんだ言って、毛利は子供好きだよね。子供に当たることはないし……。
この赤ちゃんがおしっこしちゃって、かごから滴るのを、慌てもせず缶で受け止める子供らのしたたかな強さが素晴らしい。
奥さんが美人でね、しかしなんかとんでもないカッコで帰ってくるの。「チンドン屋をやってるもんですから、こんな格好で……」となんともハツラツとしているんだよなあ。

毛利の頼みを受けて青年は、あのベテランおばあちゃんに話を持ちかけると、彼女はあっという間にこの貧乏アパートの住人、まあほとんどが日雇いであろう人たちを集めて寄付を募ってくれるんである。
逃げようとする男の首根っこを捕まえて、苦笑いを浮かべる彼にドッと笑ったりさ。そんなこんなであっという間にひと月は充分過ごせるカネが集まって、毛利は大感激。

……このこと事態でなんか先のトラブルが見えたような気がしてヒヤリとしたけど、それ以上に、ああもう、クビになってるのに、それを知らずに、ああ……と、毛利が喜べば喜ぶほどたまらなくなっちゃって。
そしてこのたまらない思いはこの後長―く続くの。もう毛利は本当にバカでさ、いや、彼がクビになっていると知ってる観客はそうとしか思えなくて、彼とともに長い夜を過ごす、のだ。

木賃宿で、バクチが繰り広げられている。まさかそこに参加するのかとヒヤリとしたが、そこまでバカではなかった。
しかしそれ以上にバカだったのは、手持ちの金を見せてしまったこと。この木賃宿の牢名主?みたいな、危ない仕事にも手を染める、それに一度は毛利も巻き込まれたことがある、そんな男に見せてしまったこと。
彼はこのバクチでその日ツイてて、毛利の採用も聞いて、祝い酒だと振舞う。両替がしたい、という彼に札束をそのまま見せてしまう毛利に、ば、バッカ……と見てる方はもう冷や汗。
祝い酒が過ぎてすっかり毛利は酔っぱらい、それどころか救いようのないカラミ酒になり、皆の手に負えなくなって、これじゃ仮にクビになってなくても朝寝過ごしておじゃんになるんじゃないの、というほどなんである。

朝、寝過ごしはしなかった。夜更けにふっと目が覚めて、懐の金がないことに気づいて、盗られたんだと騒ぐと、宿の主にいい加減にしろと怒鳴られた。
あのバクチ男じゃないのかなあ。でも今となってはさ、判らないよ。あまりにもワキが甘すぎるんだもの。
悄然と工場に行ってみればクビを言い渡されているし、交通費として恵まれたカネも意地張って置いてっちゃうし。
カネを盗られたことを告げに青年のアパートに行くと、青年はいなくて、カネを集めてくれたおばあさんに告げなきゃいけなくて、そりゃあ罵倒されるわ。

この時青年がいない、っていうのがやはり大きなネックなんだよね。この青年は、毛利以上に大変な家族構成の中で同じく日雇いでやってるのに、要領がいいのかなあ、住んでいるところも、家族の様子も、やっていけてる度が段違いなんだよなあ。
あるいは彼は、日雇いであることに悲観をしていないのかもしれない。毛利が給料取りになったことを手放しで喜ぶ彼は、だから自分もという訳でもなく、日雇いから給料取りになると、その間を持たせるのが大変であるということも判ってて、助けの手を差し伸べてくれる。

そして、大勢の善意をくだらない理由で裏切った毛利に対して、おばあさん以下は当然烈火のごとく怒り、もう顔を見せるな!と吠えたけど、当然だけれど、彼だけは心配して、その後すぐに木賃宿に顔を出してくれるんだよね。
その後、おばあさんたちも職安に顔を出さない毛利を心配しだすけど、何よりこの青年の変わらない立場の存在が、大きいんだよなあ。

その時、毛利は宿賃を払えず、木賃宿を追い出されている。ずるずる家賃を滞納していた長屋とは違ってシビアであり、ここにも毛利の甘さが示されているんだよね。
しかも妻子がキセルでつかまり、舞い戻ってきていた。あの時、出来るだけ早く迎えに行けるように頑張ると、餞別を握らそうとしたのに奥さんは断って、子供とともに列車に飛び乗った。なのに……。
この時に、“乞食同然の生活”だからと、罰金を免除されて放り出されたというのも切ないが、その時に、いつでも気丈だった奥さんがしおれているのを見たせいか、すっかり悲観した毛利が何かを決意したのが、切ないどころか、もう、どうしよう、どうしよう、もう一度考え直してよ、何とかなるよ!と心の中で叫ばずにはいられなくって。

先述した、あのバクチ男の危ない仕事に手を染めたのは、この時だったんだよな。なんか私も記憶があいまいで、事実関係が前後してる(爆)。
正直、コイツがカネを盗ったかもしれないのになんでと思うが、そのカネがあったから木賃宿に戻ってこれて、そして“最後の晩餐”を奮発できた。
明日は楽しいところに行こうと、子供たちと約束もした。奥さんはね、当然、彼が何を考えているか察して、なんとかなんとか反駁するんだけど、でもなんたってこの状況、信頼している人たちを裏切って、自分ひとりの食い扶持もままならず、長屋のようにツケもきかない木賃宿で、もう……そう、死ぬしかないと思いつめている夫を、説得することが出来ないの。

次のシーンは、楽しい場所、飛行機もブランコもある、そう、遊園地である。こんな平日(多分)に遊びに来ている周囲は、見るからに上等のカッコしたセレブばかりである。
飛行機の乗り物を堪能した後は、幼い娘のリクエストで川べり(池かな)のブランコに乗る。毛利も乗る。やけに気合入れて乗る。天まで届けとばかりにこぐお父さんを、こどもたちがあっけにとられて眺めている。
奥さんは察知してさ、ここまで来るのにも、どうにかならないのかと思っていたからさ、もう悲壮な顔でさ……あんなに楽しそうにしている子供たちを、明日も連れてきてやりたい、と訴えるんだけど、当然夫は首を横に振る。

しかしそこに、子供がおぼれている!という悲鳴が響く。この場所ね、遊園地からちょっと離れてて、なんか芝刈りなのか、農家風の女たちがかごを背負って腰をかがめて歩いているのが、上等な洋服を着たセレブ親子たちが集う遊園地と比してなんとも印象的なんだよね。
そこにもうすっかりよれよれボロボロの汚れたトレンチコートを、しかし後生大事に着込んでいる毛利が、はじかれたように駆け出して、沼地に足を取られながら、おぼれた息子に向って歩いていく長いショット。

おぼれている息子を映す訳でもないから、しかも水の底にジャブジャブ足を取られて思うように早く進めないから、もうジリジリたまらない思い。
妹の方は岸で泣きじゃくってる。カットが替わって、毛利がぐったりした幼い息子を抱えて岸に向って歩いてきた時、ああ、本当に、素直に、良かった、と思った。

だってさ、その直前まで毛利はもう今この時が心中と思いつめてて、子供が彼にどう命を断たれるのかと、リアルに想像しかかってゾッとしていたんだもの。
だから子供がおぼれた!という声がかかった時、もしや彼が、ラッキーと思ってしまったらどうしようと思って……。でも、この時、彼は、子供が死んでしまうかもしれないということがどういうことなのかを、知ったのだ。本能的に体が動き、子供を死なせたくないと、思ったのだ。

このアクシデントがなかったら、彼は子供を殺し、奥さんとともに心中していたかもしれない。本当にそうかもしれない。彼が思う以上に、彼や彼ら家族を心配している人たちは周りにいるのに、それすら気づかずに。
だから、だからね、ああ、良かったと、素直に思った。それは、どんなに孤独で、どんなに誰からも見捨てられていると思っていたって、その人が思う以上に、差し伸べられる手があり、そのことを気づかせる、こんな神様の采配があるんだって、信じたいから、信じたかったから、凄く、凄く、凄く……。

ラストシーンは、毛利が再び朝イチの職安に顔を見せるシーン。まさに朝イチに気合入れて臨んで、いち早く仕事を手にする。
あの青年がさっと近寄ってきて、来たんですね、と笑顔を見せる。毛利も笑顔を見せる。
他人様に恥ずかしいという“プライド”というヤツは人間独自のもんで、それを忘れてしまったらそれはそれでキビしいけど、それで、死ぬことは、ないんだ。なんとかなる、なんとかなるんだ。どっこい生きてる。たまらなく、胸が熱くなった。 ★★★★☆


トテチータ・チキチータ
2011年 95分 日本 カラー
監督:古勝敦 脚本:古勝敦 北里宇一郎
撮影:高橋清 音楽:棚谷祐一
出演:豊原功補 松原智恵子 寿理菜 葉山奨之 大鶴義丹 石堂夏央 佐藤仁美 萩原うらら 井村空美 斉藤暁 滋野由之 東山明美 近藤京子 小沢日出晴 森下くるみ 斉木テツ 望月遥香 斉藤榛那 遠藤純 宍戸乙羽

2012/4/30/月 劇場(銀座シネパトス)
アイディア自体は悪くないと思うんだけど、アイディア倒れになってしまった印象は否めない、かなあ。というか、核となるアイディア以外に盛り込んだ要素でそれぞれが薄まってしまって、というかまとまりつかずとっ散らかってしまった印象。
核となるアイディアというのは、全くの他人が痴呆気味の初老の女性の家族となること。それも年恰好もバラバラで、40代働き盛りの主人公、一徳が“お兄ちゃん”、高校生の青年が“お父さん”、小学校の女の子が“お母さん”で、初老の女性、百合子は彼らに百合ちゃんと呼ばれるのだ。

このアイディア、まあ前世的なことであり、ファンタジーなんだけど、予告編で見た時には確かに魅力的だと思った。ほんわりとした松原智恵子がそれぞれをお兄ちゃん、お父さん、お母さん、と実に嬉しそうに呼びかけるのも、そこはさすがのキャリアでリアルに感じたし、その呼びかけられる総じて年下の(時には孫ぐらいの)相手という画が新鮮で、魅力的でもあったから。

そしてこれは震災後の福島での物語であり、もはや流行語のように多用される“絆”を、斬新な発想で具現化していて、確かにいいアイディアだと思ったんだよね。
他人同士でも、それぞれ遠い場所から来た、本当に見も知らぬ他人同士でも、結びつく絆。本当の家族にだってなれる絆。まさに今、今でしか言い得ない、例えそれがファンタジーの形を借りても、今でしか成立しないアイディアだと思った。

予告編で見た時にはほぼそれしか要素はなかったし、このタイトルの意味も考えもしなかった。そう、このアイディア以外に盛り込んだ要素というのが、まさにこのタイトルで、トテチータというのは家族を守る竜神、なのだという。
ていうか今、オフィシャルサイトに書いてたことまんま書いたけど(爆)、劇中では戦争を絡めた、いわゆる道徳的な御伽噺として語られていたと思う。
でもこのトテチータって、ヒロインの凛が父親のスケッチブックの片隅に落書きしたり、クラスメイトに話したり(する描写はほとんど覚えがないんだけど、後になって急にイジメの要素(つまりウソツキってことの)になるんだよね……)するから、凛の創作物語のような印象もあって。

いやでも凛は多分、おじいちゃんだかおばあちゃんだかから聞いたんだよね?いやいや、それこそ、“前世”の家族から聞いたのか、そういうことか……。
まあそんな具合に、重要そうな要素に見えつつも、かなりおざなりに点描されるトテチータは、最後の最後、子供たちが、あ!トテチータ!と空を見上げるからおお!と思ったら、単なる雲の形(爆)。うーむ、キビしいのだ……。

更にもうひとつ、これが一番、このアイディアをジャマする要素だったと……思う……こう言っちゃうとキビしいんだけど。
百合子の脳裏に何度もよみがえる戦争の影である。そして百合子は、あの震災で戦争を思い出し、それ以来痴呆がぐっと進んでしまったんだという。
判るんだけど、とても判るんだけど。あの震災、そして津波が全てを押し流した情景が戦争の風景のようだというのは、よく言われたことだった。
でもね、この中で、この尺で、あるいはこの展開の中でそれを同等に語って収束させるには、それぞれが大きすぎて、ぶつかって、薄まってしまうのよ。

特に今は、震災のリアルさが大きすぎて……判ってるよ、引き合いに出すほどに戦争の悲惨さだって、繰り返し私たちは学んできたさ。でも今は、この現実の、悲惨さなの。過去の戦争と比べられても、って思うのさ。
今はまだ、そんな落ち着いて考えられない。早すぎる。この限られた尺の中で同等に語られると更にテンションが下がってしまう。
正直、主人公の一徳がなぜゼロ戦ファンなのか、まあそりゃね、百合子の“お兄ちゃん”であるんだから、そういう前世なつながりがあるんだから、ってことなんだろうけど、正直ものすごーく、とってつけた感があるんだよね。

それに何より、何より……キャストの芝居がキビしい(爆)。いや、判るのよ。この映画は、地元のエキストラを使うこととか、そういうのが重要だって。
そう、確かにエキストラ、特に凛の同級生、つまり小学校の女の子たちはキビしすぎた(爆)。しかも彼女らに課せられた芝居は、かなり重要度が高かったから、余計にキビしい訳。
凛は人に見えないものが見える子で、だからこの前世騒動の牽引役となるんだけど、小学校でもその騒動を引き起こすのだ。遠い昔死んでしまった天才的なピアノの才能を持つ男の子を見出して、彼のコンサートまで開催するんである。

つまり幽霊なんだけど、ビックリするぐらい、凛の同級生たちは驚かない(爆)。メッチャ冷静(爆爆)。いや、台詞を冷静に分析すれば(汗)、驚いているようにも思えるんだけど、恐ろしいほどの直立不動&棒読み(汗汗)。ここはワザとらしいほどでもいいから、もうちょっと芝居つけてよ、と思う。
こんだけ冷静だったのに、何キッカケ?と思うほど突然、凛を無視しだす。しかしその描写も特にある訳じゃなく、黒板いっぱいに書かれた悪口一発、下駄箱で彼女に浴びせかける型どおりの悪口「ウソツキ」「お化け女」てなだけで、型どおりに凛が落ち込んでも、あんまり彼女が可哀想だとか思わない(爆爆)。

てか、凛を演じる寿理菜嬢が、……正直この大きな役を任せるだけの芝居が……あわわ。
……いや、これは、脚本にも結構責任あると思うよ(爆)。だって彼女がキーワードのように口にする、ていうか叫ぶ「あなたには守る人がいますか?いるよ!」ていうこの台詞、どんなに名子役でも、難しいよ……クサすぎる(爆)。いやその……実感がないというか……。

彼女にだけ責を負わせるのは気の毒なような気がする。正直、本作で芝居がマトモだったのは主演の豊原氏とキーマンである松原氏、百合子のヘルパー役の佐藤仁美ぐらいであったような気がする。佐藤仁美、久しぶりに見た気がするけど、いい具合に貫禄出たなあ。

物語の冒頭、凛の両親が別れ話をしているシーンから、うっ、何たるクサさと思ってさ。大鶴義丹はその後、そうでもなかったけど、つまりこのクサさの原因……うっ、石堂夏央。彼女も久しぶりに見た気がするけど、こんなにヘタな筈じゃなかったのに(爆)。うう、ゴメン(爆爆)。
凛のことを心配して再三登場し、最後には再婚相手のいる海外に彼女を連れて行くんだけど、登場するたびに、キビしい、のが哀しい(泣)。うう、なんで(泣泣)。

てか、父親が、彼についてきた凛をなぜ手放すのか、表面的には娘を心配する元妻に押し切られたような展開にも見えるけど、正直決定的な場面もないし、ピンと来ないんだよなあ。
まあ、凛が、誰からも信じてもらえない、ならばどこに行っても同じという台詞はあるけど、ならなぜ母親の方なのか、だって母親の方には再婚相手がいて、父親は一人になっちゃうのにさ。
学校で孤立したのが辛かったのか、それは前の学校でもそうだという伏線が張られてもいるけど、百合子のもとに“家族”を終結させたのに、自らそれをブチ壊すなんて、矛盾してるよなあ……。

それにね、もっと、最も、大きな問題。本作は福島が舞台で、福島全県でロケが行われたという。“お父さん”の青年、健人は白河の高校に高校ごと避難してきた。はっきりとは描かれないけど家族をこの震災で亡くしたらしい。
そう、はっきりとは描かれないけど、同じ被災地でもなんたって福島なんだから、やはり彼らの被災場所は……原発の影響を受けていると思われる。
バラバラに避難生活を送っている同級生たちが、休日に久しぶりに顔をあわせる場面で、もとの学校に戻れないだろうと言い合うのは、もう三年生にもなって時間がないということ以上の理由がある筈なんである。
でも原発のことは、不思議なほど触れられない。いや、確かにね、触れなきゃいけない訳じゃないさ。震災は色々な形の被害をもたらしているんだから。
でもやっぱり、福島で作られている以上、それを全面に押し出している以上、避けられない問題じゃんか。

そういえば物語の冒頭、あまりの芝居のクサさに忘れかけてたけど(爆)、凛の母親が「この時期に福島に行くなんて、何考えてんの!」と言ったんだよね。ヒヤリとする台詞だったけど、でも子供さんを持つ母親が発する台詞としては、リアリティがあった。だからこそ、その後その問題にイマイチ向き合わないことにあれれれ?と感じてさあ……。
凛の父親が娘を手放したのは、原発が理由にもあったのかもしれない。親としての気持ちをリアルに考えればね。でも彼も、そして冒頭にあんな台詞を吐いた母親でさえも、まるでそんな事実はハナからないかのごとく、その後全く口にしなかった。
ちょっと、納得いかないんだよ。福島を舞台にして、冒頭あれだけの台詞を言わせておきながら、雲の形でトテチータで終わるなんて、甘すぎるよ!って思っちゃって……。

ひととき擬似家族の楽しい時を過ごした百合子だけれど、そもそも一徳が勤める建築会社が詐欺まがい話を持ち込もうとしていたことから周辺住民に糾弾され、百合子はまたまたひとりぼっちになってしまう。
おっと、言い忘れてたけど、一徳、つまり主人公である豊原氏のキャラ造形もちょっとヨワいよな(爆)。個人経営の事務所がつぶれる描写は、お定まりの、ドアにべたべた貼られた借金取りの張り紙、資金繰りが上手くいかないことが示される携帯電話のやりとり、ビルの屋上で結婚指輪を外して柵を乗り越えようとする描写まで、めっちゃ、めーっちゃ見たことありまくり(爆)。
そこにあの凛の「あなたには守る人がいますか?いるよ!」の絶叫。思わず背中がひんやりしちゃう(爆)。んでもって、彼女が指し示した「あっち!」の方角に従って一徳は白河で再出発を図る。

だけど、あっちってだけで白河ってのもムリがあるし、しかも会津とはいえ、やっぱり“フクシマ”であり、彼がそのことに対して何かを思わなかったのか……ぜんっぜんスルーされるのが、何とも納得いかないんだよなあ。
そもそも一徳が妻子持ちで、家族に逃げられたっていうのも、百合子の最期のシーンで唐突に(に、見えちゃう)語られるだけだし、しかも彼が家族のことを思い出すシーンは一度たりとも、ないしさ。
別にね、妻を思い出さなくてもいいのよ(爆)。でもせめて、子供は、思い出してほしい。あれ?子供いるって言ってたと思うけど……もはやそれも記憶のかなた(爆)。

なんか色々ツメが甘いというか(爆)。凛が健人と強引に待ち合わせを約束する場面で、場所だけで時間を言ってなかったり、詐欺師と思い込まれた一徳が住民と警察に取り囲まれ、駆けつけた健人に「(百合子がいる)病院に行け!」と言うだけで、病院名を言ってなかったり。いくらなんでも、この町にひとつだけしか病院がない訳じゃ、ないでしょ(爆)。
そういやあ、細かいことかもしれないけど、近所のおばちゃんたちが、痴呆老人をダマそうとして、って観点だけで一徳や凛たちを排除しようするのにもツメの甘さを感じたなあ。

だってやはりそこには、震災に乗じてとか、そういう観点は当然あるべきじゃない?彼女らはそれをひとことも言わなかったよね。しかも、なんか口だけで、彼女らが百合子を心配してるとか、気にかかけてるとか、面倒見てるとか、そんな感じも一切、ないしさ。
まあだからヘルパーさんがいて、一徳たちが家族になりえた訳で、ヘルパーさんも、戸惑いながらも彼らを家族として認め、百合子さんの最期に立ち合わせたんだけれどさ。
でも本作が、家族や血のつながりを超えた“絆”をテーマにしているなら、この近隣住民の描写は、ネライじゃないなら、マズった気がするんだよなあ。いや、ネライなのかな?

一徳が百合子をターゲットにしたのは上司の命令で、この上司も最初は、福島(てうか、被災地)がそういう、不動産的な詐欺まがいのターゲットとして最適ということをちらりと言ってた気がするけど、あくまで主眼はボケ老人につけこむことであってさ。
なんか、なーんか、全篇において、重く突っ込むことを避けている気がしちゃって。

そういや、健人への恋心のあまりに凛たちに嫉妬して、小学校の女児を連れまわしているとか学校に告げ口する陸上部女子マネージャー(あ、そうそう、健人は優秀な陸上選手。ここまで言い忘れるにも程があるが(爆))なんてキャラもいるしなあ。
でも彼女の場合は、それこそ彼女だって被災者でここに避難してきているのに、オトメな気持ちを優先しすぎだけど……。

震災後の映画だから、当地を舞台にしているから、福島だから、やっぱり色々、思ってしまう。★☆☆☆☆


となりの人妻 熟れた匂い
2011年 分 日本 カラー
監督:後藤大輔 脚本:後藤大輔
撮影:飯岡聖英 音楽:大場一魅
出演:冨田じゅん 松井理子 瀬名りく なかみつせいじ 世志男 沼田大輔 久保新二 薫

2012/5/13/日 劇場(銀座シネパトス/第24回ピンク大賞)
2011年度ベストテン3位作品であり、監督賞受賞作品。落語の「芝浜」をモティーフにしている……と言っても私は無知なもんで知らないので、本作としてしか相対できない。
でもね、正直な印象としてはドタバタだなあ、と思ったの。なかみつさんは……まあ彼はいつもいつもノリノリでやる人ではあるけど、それにしても悪ノリかってぐらい弾け飛んでて、幼い子供を亡くして悲しみのあまり飲んだくれて、もう何年も漁師の仕事から遠ざかっている、だなんて風にはとてもとても思えなかったし。

後から思えば全てがこのリズムで押しているのも判るし、なんたってこの亡くしたと思っていた子供はいなくなっただけで、遠い海の向こうから「パードレマードレ!」とスペイン語叫びながら戻ってくるし!
でも、それにノリきれるまでには時間がかかった……というよりは、ノリきれないまま終わってしまった、かもしれない(爆)。

でもね、後から後藤監督のインタビューを読んだりすると、凄く色々深いところを考えて、突いて、入れ込んでやっているんだなあ、って。
どんな作品だってそうなんだろうとは思うけど、作り手の思いをこんなに汲み取れてなかった、その能力がない自分が、すっごく悔しい。

でもね、確かにその弾け飛んでるなかみつ氏、そしてその相手となる奥さん役の富田じゅんなる女優さんは私、初めて見たんだけれども、本当にずっとこんな風にぶつかりあって、連れ添ってきている夫婦のように見えた。最初から、見えた。
冒頭のシーンはね、ほんっとうにこれぞドタバタなのさ。今日こそ仕事に送り出そうと奥さんがおにぎりを作ってる。でもダンナは飲んだくれて階段からずり落ちる。怒った奥さんがおにぎりを握り締めてダンナとすったもんだ。

「俺はあの部屋から出ない!」と二階の部屋にずりずり這い上がろうとするダンナを、行かせるか!とそのスウェットをつかんで引きずりおろす。
私があの部屋に行くわ!と言う奥さんのスウェットも引きずりおろされる。めっちゃおばさんパンツにもひえっと思ったが、あらわになったお腹や太ももはブルブルで妊娠線バッチリ。うわあ、リアリティありすぎ!

この富田じゅんという女優さんが、それまでどんな活動をしていたかは知らないけど、ひょっとしたら女優業からは離れて久しいのかな?
何かね、凄く、生活のリアリティをその肉体から感じて、その肉体の最初のインパクトが凄かったんだよね。そのお尻でおにぎりを踏み潰さなくても、充分インパクトがあった。いや、あのスローモーションでおにぎりを踏み潰すおっきなお尻には、確かに笑っちゃったけど。
そして階段でそのままエッチに突入し、とっても久しぶり感のある燃え上がりっぷりのインパクトも、その肉体あればこそで、あのスウェットのカッコとか、熟年夫婦のリアリティ、特に彼女にね、アリアリでね。

なかみつ氏は男優賞も獲ったし、それには本作の演技が大いに寄与していると思うけど、本作はヤハリ、彼女だと思うなあ。
男性はさ、いくつになっても精子が元気だから(爆)、この年だからこれぐらいの子供がいるとか推測しづらいじゃない。
でも彼女の肉体の風貌、亡くなった幼い子供、そこからの時間、そうなるともう新しく子供を作るのは不可能……それはダンナとのこの状態、このエッチがきっと相当久しぶりだったであろうことも含めて、ってのまでバーッと印象づけてさ、リアリティ、あるんだよなあ。

恐らくダンナはそこまでは考えてないってのが、女が男に対する憎らしさ。いや、本作の設定ではそこまでのことは示してないだろうけど。
でも、フォトフレームに飾られた写真は幼い顔のまま止まり、庭にさび付いたまま放置された幼児用の自転車や、部屋中に散乱しているおもちゃ、何より水色のランドセルが、何年経ってもこの夫婦の悲しみを消えさせないでいるのは、判りすぎるぐらいに、判っちゃう。

水色のランドセル、ってところがミソである。弘美、という名前が示されたら、まんま女の子だと思い込んでしまうが、そして彼らも殊更に男だ女だなんて言う訳もなく、ただ愛しい我が子、弘美、として思い出しては悲しみにくれるばかりだからさ。
オチバレしちゃうと弘美は男の子であり、この土地で両親と生き別れになった、と別件で訪ねてくるマルサの女が、「ひょっとしたらと思ったけど。違った。チンチンがついてるもん」とフォトフレームを示す。あらら、ホント。

まあ、だからといってこのマルサの女と夫婦とのやり取りがある訳ではなく、彼女は別ストーリーというか、カラミ要員という感じだけど(爆)。
でも毛皮にサングラスに編みタイツ、海辺に止めたバンで雑貨を売ってるおっちゃんにそういうサービス業だと間違われるような色気を振りまき、まあいっか、という感じでこのおっちゃんにサービスしたる、その女の子版のヒロミを演じる松井理子嬢は良かったわあ。
それこそ特に意味もなく、マルサ捜査線上の関係者である女の子とエロエロなレズセックスがあったりして。

で、このおっちゃんは、この日「現存する最古の深町章監督のピンク作品」として上映された「痴漢満員電車」で怪演してた久保新二氏!
ふがふがした口元にバチッと入れ歯を入れると、いきなりイケてる感じになるのには爆笑!このフットワークの軽さが、若い頃からちっとも変わってないのが、素敵すぎる!

で、マルサ嬢のレズセックスとかも、まあ、意味もない訳でも、ないというか。
彼女の捜査している先は、あの夫婦たちが借金している漁協の理事長な訳さ。演じるのが、もうホンットに、こういうコミカルかつ安っぽい(ゴメン!褒めてるのよ〜)キャラをやらせたら右に出るものはいないであろう、実際に見ると実に穏やかそうないい人っぽいサーモン鮭山氏でね。
マルサ嬢が、本作の中でも最もエロエロなシーンを繰り広げるレズセックス(やっぱり美しい女の子同士は、良いわぁ〜)の相手が、この理事長が就職をエサにコスプレエッチを強要しているという女の子な訳。

勿論、この女の子とサーモン氏とのシーンだって、そらー重要なカラミシーンだし、ただストーリーの重要度が低いだけ(ゴメンゴメン……褒めてるのよ(汗))気楽に楽しめる訳で。
気楽に楽しめるっていうトコを実に上手く使ってて、ドンキで買った安っぽいコスプレ衣装とかさ、あの、うすっぺらなスケスケワンピース水着は、実に良かったなあー。
理事長は「ピチピチだなあ」とこの若い肉体にご執心だけど、一方であの奥さんに横恋慕してる。
まあ奥さんにはずっと、きっとずっと若い頃から恋心を抱いているんだろうけれど、彼女にちっとも相手にされないことへの悔しさもあって、ピチピチ若い子に執心している感じもあってさ、ちょっと、ちょっとだけ、カワイソウではあるんだよな。

確かにちょっとどころじゃなくカワイソウかも。だってさ、借金を棒引きにしようとするこの夫婦の計画、夫が死んで喪服姿の奥さんが涙に暮れている、なんていう芝居に引っかかりかけるんだもの!
しかしこのシークエンスはさすがにムリがあるような気もしたけど(爆)。まあ、面白かったけどね……コミカルシークエンスとして良かったのかな?
あ、でも、ここで、理事長がマジで奥さんに言い寄って、コイツは結局弱い男だ、自分の方が幸せに出来る!と、それを聞いてダンナは、死んでいた筈なのに(爆)ムクリと起き上がって、その通りだ、お前が幸せにしてやってくれ!と飛び出しちゃう。

追いかけようとする奥さんを組み伏せる理事長、ここもエロシーンが展開するかと思ったら、そこにあのマルサの女が誘惑たっぷりに登場!
あまりにもムチャクチャな展開とも思うけど、思えば、そう、理事長と奥さんのカラミは、どんなに理事長が彼女に想いを寄せていても、なかったんだよな。
奥さんはダンナとのみ。勿論、ダンナも奥さんとのみ。ピンク映画の中で、それだけ考えても、この二人の愛はガチガチに固いのだ。

で、なんか言い忘れちゃったけど、重要な展開。ダンナが奥さんに押し出されてしぶしぶ仕事に出るけど、「漁のやり方なんて忘れちゃったよ!」ってぐらい、ちっともやる気もないんで、砂浜にごろりと横になる。
と、なんか浮きが埋まってる。最近の漁師は道具を大事にしない、とぶつくさ言いながらダンナが掘り出してみると、なんとそこから万札がつまった大きな壺が!

このシーン、引きのカメラで砂を一心不乱にかき出している、なかみつ氏の姿がマンガチックで実に可笑しいんだけど、引きや固定カメラの可笑しさが、他でも上手いんだよなー。
もう最初に何となく言っちゃったから言っちゃうけど(爆)、ダンナが、子供が小学校に上がる記念に船に乗せた、その時に大波にさらわれてしまった。
俺たちにとってのお宝だ!と壺を持ち帰ったダンナに奥さんが「遺骨なんて、イヤー!!」と言うんでも判るように、遺体は見つかっていない。

で、その、もはや死んでしまったと思っていた子供が、スペインの宣教師のカッコで現れたシーンでもね、巧みな引きと固定カメラが実に可笑しいのよ!
唐突だったし、ギャグかとも思ったぐらいだけど、ことコミカルという点では実に秀逸だった。

白っぽくだだっぴろい、ひと気のない田舎の砂浜に、まるでそぐわない、テンションの高い宣教師、訳判らんスペイン語をくっちゃべるのもそぐわなすぎて、シュールすぎて可笑しくて。しかもそれを妙に冷静に引いた固定カメラで映し出し、なかみつ氏が右から左から出たり入ったりするのも可笑しくて。
で、なかみつ氏から、何だよ、お前、と気味悪がられて突き放されたその宣教師君が、ぽつりぽつりといる、潮干狩りやら釣り人やらに近寄っては逃げられるのを、静かに見つめる固定カメラが可笑しくてさ!

よもやこの時には彼が夫婦の子供だなんて思いもよらず、ただただ唐突な登場に何、何コレ??と戸惑うばかりだったのだが……。
だってさ、あの、万札がつまった壺を見つけちゃったからさ、当然ひと悶着。こんなカネがあるなら、仕事なんてする必要ないだろ、借金も耳をそろえて返してやる!と犬猿の仲である理事長を呼び出すように奥さんに指示するも、奥さんは電話をかけながらも、出来ず……。
奥さんはダンナがこの金で更にダメになることを心配したから、なんだけど、理事長には余計な火をつけちゃう。その時、理事長はあの女の子を散々いたぶって楽しんでいた訳だが(爆)。

で、まああの、死んだフリして借金チャラにしようとかいうくだりがあったりして、飛び出したダンナが自分の子供とは露知らず、怪しげなスペイン語を喋る宣教師に出くわす。
久保氏が演じるバンで雑貨を売ってる老人がなぜかスペイン語を解して(NHKテキスト程度で、判るか!てか、なんでそんな都合よくスペイン語講座聞いてるんだよ!!))、パードレマードレは、あの夫婦だと彼に教える訳。

そこにあのマルサの女がやってきて、感動の再会を果たした三人が、あらあら海に飛び込んじゃった、なんて実況中継。そう、そんな“感動の場面”が完全にカメラから見切れている、どころか、この第三者から語られるだけというのがコミカルにも切ないおかしみにも感じられて、なんとも味わい深いのだ。
そしてまた、マルサの女はセブンスターを買って去っていく。この彼女、エロエロだけど何気にハードボイルドでカッコイイかも。

ここで終わってもいいぐらいなのに、更に時間は三年後を刻む。すっかり真人間に立ち返ったダンナに、奥さん突然全裸になって(!)三つ指つく。
ダンナには夢だったと説明した大金が入った壺は隠してあったこと、持ち主が見つからないままだったこと、こんなウソをついて私は許される訳もないから、身一つで出て行くと……。
あ、ちなみに、この壺はあの理事長の隠し財産で、マルサの女に脱税をすっぱ抜かれた上に壺もなくなって彼は……うーん、ちょっとカワイソウだったかもしれないけど(爆)。

網の修理をしていたダンナは、彼女にバッサー!とかけて、ニッコリ。そらそうだ、こんなイイ奥さんを逃してたまるか!
魚網がかかった奥さんが顔を上げると、まるでそれがレースのようで、奥さん、美しく、エッチシーンに行くのもこれは本当に幸福の収束。
何度となく繰り返された、若い頃は締まってたけど、今はゆるゆる、でも又締まったでしょなんて睦言も、それまではいかにもピンク、下世話な台詞の応酬のようにも聞こえたけど、ここでは乗り越えた夫婦の、愛の言葉に聞こえるんだなあ。

そしてこの大金は、「息子に会いたいだろ?」宣教師の息子を日本に住まわせるための、この芝浜に教会を建てちゃる!ていう!
大金を最初に目にした時にはディズニーランドレベルのテーマパークだの、空港だのと、それこそギャグにしか聞こえない絵空事を口にして奥さんを呆れさせたダンナの、ステキすぎる計画!めっちゃ大団円に持ち込む力ワザ。

ヘンテコリンと思って見てたけど、確かに3位、監督賞の実力はあったかも。★★★☆☆


囚われの淫獣
2011年 分 日本 カラー
監督:友松直之 脚本:友松直之
撮影:飯岡聖英 音楽:teekey
出演:柚本紗希 倖田李梨 若林美保 津田篤 如春 藤田浩

2012/5/13/日 劇場(銀座シネパトス/第24回ピンク大賞)
個人的には本作の作品度の高さに圧倒され、これこそがベストワンではないかと思ったが、これを一位にしてしまうと……というかなってしまうと……やはり問題なのかもしれない。映画としてのエンタテインメント、うん、確かにある、あるけど、ない、かもしれない。少なくともエンタテインメントを描くために作られた映画じゃない。

シナリオ時点でのタイトル「上野オークラで、ソウだかキューブだか。ついでに言うとオチは夢オチ」って、全部言っちゃってるけど(爆)、少なくとも「ソウだかキューブだか」ってあたりが反映されているのは確かにエンタメ。「SAW」は観てないし、「CUBE」は一作目しか観てないけど(汗)、つまりは不条理と、その中に閉じ込められる恐怖、その中でどんどん精神が破壊されていく恐怖。
いや、この場合は、本音があぶりだされ、プライドの鼻がへし折られ、自分の見たくない部分を見せ付けられる恐怖、かもしれない。
しかもしかもそれが、ピンク映画に対しての自分自身から発露されるもので、何人か出てくる彼らの対峙の仕方はそれぞれ違うんだけど、私にも覚えありまくりの弱点をつかれまくりで、冷や汗が出た(爆)。そのことは自分自身、充分判っていることだったんだけど、判っていることだけに……。

てことよりも、もっともっと基本は、急降下に斜陽していくこのピンク映画界を、めっちゃ斬りまくってる、んだよね。ピンク映画やピンク映画業界に対する裏切り行為、裏切り作品だと言われ、アンチアピールをされた、と友松監督はジョーク気味に言ってたけど、結構ホントかもしれない(爆)。
特に、ピンクとAVの違いを突きつけるトコなんか赤裸々に過ぎる。ピンクとAVを一緒にするな、ピンクは映画だと言う男性客。これは私も言っちゃうかもしれない言葉だから、これまた冷や汗。

だってそれに対して、からくり人形さんはこう言うんだもの。男の性欲を満たす目的は同じだろうと。しかもAVは社会経済(産業とか言ってたかな)の中で切磋琢磨しているけれども、ピンク映画は古い体制のまま衰退していくばかりだと。
……とにかく言葉の洪水で、頭悪くて覚え切れないんで(爆)かなりここで書く言い回しは違ってるだろうけど、ごめんなさい(汗)。

でも、これって、これって、確かに全ての人が思ってることで(汗汗)、でもピンク映画は映画だから、と、勿論それも誇らしく思ってるのも、それも本当の筈なんだけど、でもそれが最後の砦というか、言っちゃえば言い訳というか(爆)、それを言い訳にして、最後の砦にしていたら、ただただピンク映画は死にゆくばかりだと、確かにそうかもしれないと。

なんか流れで言っちゃって、何が何やら判らないからとにかくアウトライン。アウトライン?さっき言ったとおりだけかもしれない……。上野オークラで、ソウだかキューブだか、である。
突然ロビーで目覚めた数人の男女、客と従業員。内側から打ち付けられて、閉鎖されていると思しき成人映画館。てゆーか、上野オークラ。なぜかボカシ入って紹介されるけど。

表通りの劇場が廃館になり、移転したという張り紙がなされ、そんな描写が実にデジタルっぽく、チャキーン、チャキーンと示される。
デジタルっぽく、というのも本作で重要に語られるところで、そう、デジタルなんか、3Dなんか邪道。フィルムでなければ映画じゃない、ピンクはそれを守っているじゃないか、というのを、予算的、システムの古さの問題だ、と斬って捨てちゃう赤裸々さ。
あの女優の巨乳は3Dで観たいじゃないか、と名指しで女優さんの名前言っちゃう(確か菊池エリ)のには思わず笑ってしまうが、そ、そうかもしれない、と。

おっと……アウトラインと言っておきながら、また脱線(爆)。で、そうそう、ロビーで目覚めた数人の男女は、打ち付けられたドアを破ろうとしても、劇場のドアから転げ出てしまう繰り返しの無間地獄。
スクリーンに映し出されている老人のからくり人形が、一人一人にピンク映画、それを劇場に観に来るこだわりについて聞き取り調査よろしく聞き出すんである。
で、先述のピンク映画は映画だ、という主張をバッサリ斬られ、それだけでもダメージが大きいんだけど、やはり最も私にとってダメージが大きいのは、倖田李梨姉さん演じる女性客に対してのバッサリ。

ピンク映画は映画だ、というのもそうだけど、彼女が言う、普通の映画やドラマで、セックス描写が避けられることに冷める、ピンク映画はそれをきちんと描いているから共感できる、というのも、それこそ私も言っちゃいそうなことでさ。
しかし彼女が知り合いの男性同伴で劇場に来ていることを、またまたバッサリ。ここはリタリアした男性たちの憩いの場なのだと。あ、これは、若い男性が観客として来ていることへの痛烈な揶揄でもあった。
ピンク映画館に来る若い男はヤッてくれる相手がいないから、と。それでも部屋にこもってセンズリかいてるAVよりも健康的だ、ピンク映画は健康的だ、皆健康的にピンク映画に行こう!ピンク映画を観に行く男はモテモテだ!と画面に明朝体大写しで示すのには爆笑!

でも、そう、男性の場である成人映画館に女が来るのは、女性専用車両にうっかり乗ってしまった男性が浴びる、冷たい視線を浴びざるを得ないとか、だから男性と一緒に来ているんだと彼女が反論を試みれば、痴漢に遭いたくないから、ボディーガードのつもりか、と皮肉る。
うう、うう、ううう、痛すぎる、この浴びせられ方。覚えがありすぎるんだもん。でも私が御願いしたボディーガードは何の役にも立たず、私はまさに、男性車両におよびでない女があっさり排除されて、恐怖と屈辱と強烈な悔しさと……でも結局、尻尾を巻いて逃げて、そのまま今に至る、と。

更に、この段に至るとからくり人形さんよりも、やたら攻撃的な作業着サラリーマンの論調が突き刺さる。飲み会で映画が好きだと言うと、何の映画が好きかと聞かれる。ピンク映画だと言うと、そこで会話が止まってしまう。だけどもっと腹が立つのは、理解を示そうとする女だ、と。
うう、うう、うううー、“理解を示そうとする女”ってこの、言葉のパッケージ、キツい、イタ過ぎる……。覚えがありすぎるんだもの。この状況じゃなくてもさ、そうやってイラッとされてるのか、ってさ……。

おっと、なんか違う方向に脱線しそう。修正修正。ここまで議論が煮詰まってくると、彼らの行動の方も次第に危なくなってくる。
ていうか、この状況自体が常軌を逸しているし、映画の中なのか、現実なのか、混沌としてくるし、それに何より本作自体がしっかりピンク映画なのだから、当然そういう描写も……。
でもね、ピンク映画が、セックス描写がある程度あればOKであるならば、彼らが観客としてスクリーンを見上げている、そこでかかっている、それこそAVチックな、女優がカメラ目線で語りかける劇中作品で、充分ペイ出来てる?筈なんだよね。

それなのに凄くしっかりとした、しっかりとした?言い方ヘンかな……ガッツリとレイプシーンがある。確かに夢オチにされてしまえば、現実じゃないんだからとも言えるけど、彼らはそれを現実そのもののように感じているし、レイプされた李梨姐さんはスクリーンに向かって、つまり観客に向って助けを求める。
観てるだけなのかと。それはレイプするより罪が深いのだと。レイプする側の男性、ピンク映画は映画だと言い、理解を示そうとする女を吐き捨てたあの男性が、レイプは男の権利だと、女は男をレイプしないだろとスゴいことを言い、まあそれはさ、それは映画の中の印象付けるための台詞だけど、でも凄い台詞で。

ただ、これは本作とは関係なく、今回のベストワン作品の監督が言ったことだったと思うけど、本当の自由というものが現実世界では得られない、殺しも、レイプも、だからスクリーンの中では徹底的にやりたい、と。
危ない発言だけど、でもちょっとそれは、そうかもしれないと思い、本作もまた、そのことを示しているように思う。

夢オチは確かにちょっとズルいと思う部分もなくはないけど、レイプしたことを単純に「ゴメンな、悪かったよ」と謝られてもな、とも思うけど、ただそれは、李梨姐さんが「死ね死ね死ね死ね!こんなところ、二度と来るか!」と鬼の形相で吐き捨てて憤然と劇場を出て行く場面でなんとか決着をつけてくれたとは思うのね。
ただ、それが、女はやっぱりピンク映画館に来るなとか、あるいは、“こんなところ”という語感に対する、滅び行く予感とか色々感じなくはないけれども……。

そういうあらゆることは、クライマックス、いやエンディングと言うべきか、こんなシンラツを連ねてきたのに、あまりにも甘やかな展開に、全て飲み込まれてしまう。
初めて見た時からちょっと松ケンに似てると思っている津田篤氏、彼だけが、からくり人形さんに対しての姿勢、やりとり、違ってたんだよね。
李梨嬢演じる唯一の女性客、彼女をレイプしてしまう、ピンク映画を映画と思うがゆえに屈折するサラリーマン、ホスト時代のトラウマからインポになり、ピンク映画でしか勃たなくなった青年、彼と客席でスクリーンを見ながらセックスする女性従業員、彼らがピンク映画に対する思いや態度は、熱くても冷たくても、とにかく固く、しっかとしていた。

ただ、津田氏だけは……ふわっとしてたんだよね。彼はただ一人の女優を観に来ている。スクリーンに広がるおっぱいが観たいとかじゃなくて、ただ一人の女優。
でもそれは、彼だけに見えているのかもしれない、と彼自身が思っている。主役級の時だけじゃなく、通行人みたいな役でもカメラ目線を送ってくる。時代も関係なく、彼が見に来る時にはいつでも出ている……。
この時スクリーンにかかっているのは、まさに彼女の主演作、ていうかAVさながらの、相手役の顔は見切れてて見えず、彼女だけが幸せそうに喋って、求めて、よがって、そして、私とヤリたいなら、来てよ、待ってるから、とニッコリ笑顔で言う。まさしくAVチックなんだけど、でもそれがね……。

冒頭、この女優は誰だっけという話になる。見た顔だけど……と李梨姐さんは眉根を寄せる。それは、現れては消える、長続きしないピンク女優の変遷を思わせもするけれど、でもそれでも、彼女たちはスクリーンの中で永遠に生きている。
と、いうのを、この青年はリアルに見ている。現れては消える、長続きしない、というのも、皮肉めいた要素として入っているのかもしれない。現実世界のピンク女優としてはもういない彼女、なのかもしれない。そして彼もまた、現実世界では生きていく力のない彼、なのかもしれない。

ソウだかキューブだかの中に閉じ込められて、彼だけが出口を見つけた。ここは映画館、スクリーンの中に出口があるのだと。
でもそれは彼だけが望んだ出口。早く来てよと呼びかける彼女に、今行くよ、とこれ以上ない幸せそうな顔をして、スクリーンの中へ吸い込まれていった。
閉じ込められた映画館の中なんて、全く季節感がなかったけれども、スクリーンの中はさわやかな木立の中で、二人は顔を見合わせて、手をつないで歩いていった。

ああ、これは「カイロの紫のバラ」の逆バージョン。ていうか、そもそもは、スターが向こうから出てくるよりも、むしろ、あのスクリーンの中に入っていきたいと思うことこそが、映画ファンの真の願いだったんじゃないだろうか、と思う。
「カイロの紫のバラ」を観た時は、スターがスクリーンを抜けてやってきてくれることこそが夢だと思っていたけれど、実際はそうじゃない、あの中に行きたかったのだと。
でもそれは、でもそれは……現実世界を捨てることなのだ。軽い現実逃避なら、それこそこうして映画館に、ピンク映画館に入れば出来る。でも本当に捨て去ることは、出来るの?
ハッと夢から覚めた時、青年は目を見開いて椅子から倒れていた。救急車で運ばれていったけれど、助かるかどうか。

夢から覚めた彼らは、でもその夢、いや現実だったのかどうか、とにかくハッキリと覚えている。
スクリーンの中に出口、いや入り口を見つけた青年、スクリーンの中で見切れていた筈の男優が彼になっていて、幸せそうに、実に幸せそうに、追い求め続けた、時空を越えた彼女とセックスをしている。

時空を越えた、なんて、当たり前だ。映画とはそういうもので、どの映画を見ても出ている、どの時代の映画でも、というのを不思議がるのは、そこに出ている人たちを、今の時間軸で生きている人間と同じに考えているからなのだよね。
勿論現実的に考えればそうなんだけど、映画という、スクリーンのマジック、それこそビデオとかテレビとかじゃない、フィルムじゃなきゃいけないとまでは言わないけど(ちょっと言いたいけど(爆))マジックの中では、そんなファンタジックだってあっていいんじゃないのと思っちゃう。
このシークエンスがなければ、ひどく冷たい、シンラツな、ホンット、ピンク映画、業界への裏切り映画と思ってしまいそうだけど、これはさあ、これはさあ、ズルいよね!!

「老人とラブドール」で瞠目させられた監督、あの作品でもシンラツさは見えていたけど、本作は毒だらけ(爆)。
でも、スクリーンに大写しの明朝体で皮肉たっぷりのクレジットとか、笑わせる要素にも照れ隠しが感じられて、なんとも愛しいんだよね。映画のこと、ピンク映画のこと、好きで好きでたまらないんでしょ!って。不惑=FUCKとかいう言葉遊びを唐突に入れてくるのもメッチャ照れを感じて妙に可愛い。
業界への目配せのようにも思われる「そんなこと、言っちゃダメでしょ!」「監督なら上手くそこんとこ描けるでしょ!」とかいう、映画会社担当をワザとらしくギザギザ映像にして出してきて言わせるのも、自負と照れと、何より強固な反骨心を感じてね、キュンとグッとが同時にくるんだなあ。★★★★★☆


鳥を見て!
2012年 85分 日本 カラー
監督:佐々木友紀 脚本:佐々木友紀
撮影:佐々木友紀 音楽:まついえつこ
出演:七咲楓花 広澤草 片山享 永峰絵里加 清瀬やえこ 永井努 黒田耕平 吹上タツヒロ 広江美奈 塚原大助

2012/4/20/金 劇場(ポレポレ東中野/レイト)
……なんだろう……判らん……。いや、チラシやwebの解説だけ見れば至極シンプルなラブストーリー、そして思い返してみれば、そう、筋だけを思い返してみれば、確かにその“筋”はあるのだが、なぜこんなに判らんのか??
タイトルからして意味が判らないけど、それも途中、ヒロイン、かおりがネラってる男の子、弦太が鳥好きであるという設定が出てきて、なんかこう、納得できる展開があるのかとも思ったが、特になく……。

なんと言ってもこの「鳥を見て!」という台詞を静止画の画面いっぱいにずらずらずらーっと敷き詰めて、鳥を見て!鳥を見て!鳥を見て!とかおりが連呼するに至っては、何、これは何かの呪い??と……。
平凡な映画を作るぐらいなら、奇をてらった方がいいのかもしれないけど、こうなると意味不明としか思えん……。
この“呪い”は作品後半にも繰り返し現れて、鳥を見て2に続く!鳥を見て2に続く!!えーっ……本気で続編あんの、それを観なきゃ判んないとかいうの……観る気はとても起きないよ……。

全く持ってあの、「鳥を見て!」の真意は何だったんだろう……。
先述のように、弦太が鳥好きで、特にそれを知らずに「珍しい鳥を見つけた」とかおりが言い、それまではちっともなびかなかった彼が突然態度を豹変、画面にはちっとも映らない鳥を二人してあれだこれだと探しては、盛り上がるというシークエンスがあって、そこにしか結びつかないんだけど、だからと言って「鳥を見て!」どうなのかって訳でもないし。

つーか、この“呪い”以外にもやたらと奇をてらった描写、というか、表現方法はあるのよ。奇をてらったというより……言い方悪いけど、小手先という感じがする。
同じ会話のシークエンスをアングルを変えて何度も繰り返したり、スクリーンの外から声が聞こえてくる、台詞を言っている人は完全に見切れている(ていうか、隠れている)のに、手前に関係ない人が思わせぶりに大写しになってて、思わせぶりに移動したりする。
……なんていうか、ね。こういうのやってみたら面白そうだとは思う。なんていうか、実験映像的な?でも……小手先な感じばかりがしたんだよなあ。

いや、というか、これは深読みしろってことなのかなとも思ったのよ。この“小手先”のシークエンスは、弦太のお姉さんとかおりのシーンで多用されていたから。
そうそう、二人、目的もなくそぞろ歩いて、アドリブ的な会話でどんどん街中も暗くなってきて、特に決着点がないまま散歩シーン終了、てのもあったなあ。
お姉さん側がかなり一生懸命ネタ見せ(難癖つけるゲームとか、早足で歩くゲームとか)しているのが、時間稼ぎを彼女が一生懸命考えているように次第に見えてきてツラくなる。

だってこのお姉さん、かおりが言わなくても「いつも楽しそう」な笑顔が印象的で、何かそれを必死に保つために役者としての彼女が必死になっているように次第に見えてきちゃうんだもん。
散歩してて会話に夢中になってる女の子同士で、知らぬ間にどんどんあたりが暗くなる、というのも、頭で考えているだけなら確かに面白そうなんだけど、見てる方は時間を持たせるために二人が必死になっているように見えて、ハラハラしちゃう。

というか……弦太のお姉さんと言って出てくるけれど、本当にそうなのかどうかは立証?されてないし(少なくとも弦太側からの確認は取れてない)、どう見ても彼女はかおりのことが好きみたいだし。
どうやらワインに薬かなんか混ぜてかおりを眠らせ、すわ襲うかと思ったら、ちょいとキスだけなのは拍子抜けしたが、このシーンもねえ……。
誕生日を迎えたお姉さんの家にかおりを招いて、二人でチキンやらシチューやら食べてるんだけど、天井視線、真上からの画で通してるの。
……なんかこのあたりまで来ると、こういう“小手先”が何の意味もなしてないよな、って感じがどうしてもしてきてるから、見てて疲れちゃう。

確かに画としては面白いよ。食事している二人、完全に相似形?に配置されていてさ、顔の表情一切見えないで、ただ食べながら会話が聞こえてくるだけ。
でもそれって一瞬の画なら面白いけどそれで通されても……何かそこに意味を汲み取れと観客にごり押ししてるのかなあ、って気持ちになっちゃう。
実際、なんか考えちゃったよ、これは意味があるのかなって。二人の表情が見えないっていうのが、お互い和やかそうな会話だけど実は……みたいな。でも少なくともかおりの方にはそんな含みは感じなかったなあ。

なんか全然、そもそもの前提を何も書かないまま進めちゃったからワケ判らんけど、もういいや、流れだから行っちゃう。
このお姉さんがね、なんか現実実がないように感じてね、かおりの妄想なのかなあとかも思ったんだけど、でもかおりがそんなことを妄想する理由も何も皆無だもんなあ……。
なんたってかおりは“肉食系女子”なんだから。うーむ、これまたやたら判りやすい説明だが。
と、結局ここで“前提”を書くのか、弱気だな、私(爆)。まあ前提というか、大筋、よね。
大学生と思しきかおりは、友人が設定する合コンには必ず出席、一見清楚で愛らしい風貌で、男たちは総じてイチコロ、合コン後には必ずそのうちの一人とホテルにしけこむんである。

しかし。冒頭の、つまり最初の合コンシーンで、途中退席した、つまりかおりに目もくれなかった男、それが弦太だった。
後に繰り返される合コン&ホテルシーンによって、かおりに目もくれない男なんていうものが存在しないことが明らかにはなるものの、最初の最初だし、ブリブリのカッコ(常に白ストッキングはなー)のかおりに男が男全員マイッちゃうってのがピンと来なかったからさあ。

いやまあ、ひがみと言われればそれまでだが(爆)。そう、ひがみと言えば、合コンシーンの女性側は常に同じ三人。かおりと、合コンセッティング係の女の子と、もう一人、重い黒髪とメイクもしてない感じでただただ無口の子。
この子が確かに気にはなっていた。合コンシーンではあからさまに無視されるし、かおりもセッティング女子も全然彼女をフォローしてあげないしさ。
でも彼女がかおりのメールしてるところを覗き込んだり、「あなたが好きです、大好きです」のDVDを渡したりするから、ああかおりのことが好きなんだなあとは思っていたけど……。

このDVDもちらと映されるだけで、マニアック度を高めている感があるのもなんかツラい(爆)。
しかもこの女の子はね、本編が(ようやく)終わったか!と思った後に、オマケというにはあまりに長く、あまりに思わせぶりに、彼女の支離滅裂なポエム(ギリギリ良く言って。能書きとは言いたくない(爆))が延々とモノローグされ、どこのC級アイドルのPVなの、と……。

これは、本気で、ツラかった。逆にこの“オマケ”が魅力的ならそれこそ“続”があっても観てみたい気になったかもしれないけど、これはナイよ。
単純にルール違反だし、それに……それまでの、前述しまくってきたことを含め含め含め……この“小手先”のオンパレード、マスターベーションとしか思えない(爆爆)。
うわー!言ってしまった!!ゴメン!オバチャンのたわごと!!でもでもでも……。

あのね、それこそ最初に言った“筋”で言えばね、合コンで男つかまえてセックスして終了、という流れだったかおりが、自分になびかない男は弦太が初めてであり、ストーカーよろしく彼のバイト先に通いつめるのね。
で、珍しい鳥の話題でお近づきになれたかと思いきや、彼の誘いの野鳥観察に気合を入れて完璧な登山スタイルで赴いたら、弦太は婚約者と共に来ていて……という、まあ言ってみればわっかりやすい“筋”なのさ。

でも弦太のお姉さんが登場して、つまり、途中弦太はすっかりいなくなって、だからこのお姉さんの存在がやたら非現実的魅力を持っていた、持ちかけていたんだけど尻すぼみで(爆)、まあそれはいいとして……とにかく、とにかく、ね。
ラスト(あのオマケは除いて)で、すれ違いまくっていた二人の思いが重なるのさ。つまり、“筋”だけ見れば王道のハッピーエンドなのだが……。

うう、うう、ううう。恐怖の超引き&長回し。これを出しちゃったら、この手法を使っちゃったら……これまでの“小手先”は、これさえなかったら新鮮な、若々しい感性と思えたかもしれないけど、もうこれで一気にドーン、落ちたよ。
引き&長回しは、映画やってりゃやりたくなることなんだろうけど、これはやっぱりね、本当に上手い人がやらなければ、ただ、しんどいだけなんだもん。
それでなくても特に長回しにはそういう、玄人アピールを感じて無条件に拒否反応を示してしまうの、私。ホント、ダメなの。
だからこそ、たまーに、本当に稀に、あ、あれ長回しだった、と後で気づいたりする、腕のある作品や監督さんには入れ込むけど、もう、まんま、出されると、ホント、ダメ。

しかも引き、しかも超引きまで加えられたら、だってこれって、彼らが何らかの動き、キーポイントとなる動きをするまで、瞬きするのも許されないほど見つめ続けろ、ってことでしょ??
そりゃあ、山の中、緑、さえずる小鳥、偶然出会うボーイミーツガールは美しいさ。でもいくら美しくても、そうそう何分も目ぇ見開いていられないよ。しかもレイトショーで、辛くて仕方ないし(爆)。
タルコフスキーやらタル・ベーラやらがやったって私、ガマンならないのに(いや、それはオバカな私だけだろうが(爆))。

あー、なんかこう書いてくると、ただ単に私のバカ丸出し(爆)。
……でも……少なくともあの“オマケ”がなければ、こんなに、ここまで拒否反応は示さなかった気もするけど、なあ……。
あの恐怖の超引き&長回しだって、チャキッとカットが替わって二人のキスシーンのアップになり、これまで男に対してはセックスだけだったかおりが、初めて恋を知った、と静かにモノローグするのは効果的だと思ったし。
ただ、最初から弦太に対しては恋の感情で動いているように見えていたから、つまり、自分になびかない男に対する意地を感じさせるほどの芝居力は正直なかったから(爆)、あるいは脚本力かもしれないけど(爆爆)。 ★☆☆☆


どんずまり便器
2012年 81分 日本 カラー
監督:小栗はるひ 脚本:小栗はるひ
撮影:春木康輔 音楽:有木竜郎
出演:菜葉菜 中村邦晃 菅原佳子 宇野祥平 玄覺悠子 菅田俊

2012/4/24/火 劇場(渋谷ユーロスペース/レイト)
若い女性の監督さんの出現は嬉しい。長編は今回がデビューらしいので初見だが、短編で腕を磨いてきたというだけあって、自信に満ちた構成力。まあちょっと、ヒロインが療養施設に移された時には唐突な感じもしなくもなかったけど、その後の弟との決定的な別れから、ユーモラスで明るい未来を感じさせなくもない見事なラストに至ると、充分に計算されていると思う。
監督さんが言うように、このタイトルはあくまでオッと目を惹くためだけのもので、特に意味はない……いや上手く内容で意味づけはされているけれど、テーマはとても真摯にシンプルに、だからこそ壮絶な姉と弟の愛憎物語。というか、姉の弟に対する執着物語。怖いけど、切ない。

切ない、などと感じるのは……これがヤハリ、姉と弟の物語、だからなのかもしれない。これが母と息子の物語、だとしたらやはりエグイ、キツいもの。
いや、男性の立場、あるいは実際に弟の立場の男性からしたら、姉ちゃんがこんなんだったら充分にキツい、エグいのだろうが、でもね、やはり年も近いし、そして運命共同体としての血のつながりじゃない、きょうだいって。
母と息子でも姉と弟でも、血のつながった守るべき小さな異性に対する、母性と性愛が入り混じった感情が発生してしまったら、それは同じくエグいのだろうけれど、立場というか、立ち位置が違うからさ……。

それに母親が息子を溺愛し、のめりこみ、時にはそういう、性的虐待な関係に及んでしまう話もなきにしもあらず、それは本当にその子供が可哀想だし、エグイし、それがどんなに美魔女(爆)な母親だとしても、AVのテーマにありそうであっても(爆爆)、全然美しくないんだけど……姉と弟だとね、うっかり美しかったりも、しちゃうのだもの。「のんきな姉さん」とか思い出しちゃうからかなあ。

あるいはそれは、この姉と弟だからなのかもしれないけれど。両親が事故死して以来、姉弟二人きりで肩を寄せ合って生きてきた……という部分は特に示されない。
ただ、両親という、子供たちを監視する存在が亡くなった瞬間から、男と女としての秘密を持ってしまった恐るべき子供たちという展開は、母と息子の力関係とはまた微妙に違ってやはり……秘密の運命共同体であって。
でもやはり姉と弟だから力関係はあって。それでも両親が亡くなった時に二人が持った秘密は……お互いの大事な部分を見せ合って、幼い弟君は初めて本能に目覚めて射精してしまった、という衝撃の秘密で。

本作でゆうばりの映画祭でベストアクトレス賞をとったという菜葉菜嬢。インディーズ映画の女王なんて言われ方もする彼女のことを、私も、全てではないけど見続けてきた。気になる映画には出ている、そんな女優。
だけど正直、その気になる映画が、私自身にあまり響くことが少なくて(爆)、好みやタイミングの問題もあるだろうけど……何か本作で、ずっと見続けてきた彼女が、初めて貫禄を持って、魅力を持って、存在感を持って、迫ってきたような気がした。何かね、彼女にとっても運命的な作品のような気がした、のだ。

正直このヒロイン、ナルミに感情移入するのは難しい。ずっと仏頂面だし、理不尽なことばっかり言うし、弟の恋人にはツラくあたって弟を困らせ、ていうか、弟の恋人、殺しかけた!
ていうか、私、あれマジで殺したのかと思って、その後出てくる弟の恋人は幻なのかとか(爆)。それとも、あのギリギリ首を絞めてるシーンはナルミの妄想??なんかよく判らないけど……。
とにかく、ね。ナルミは困ったヤツなのだ。見た目はハード系で自己主張が激しくて、つまりはしっかりしてそうだけど、過去の時間軸から始まる登場シーンでは、「ナマでやっていい?」と言う同級生にさっそく流されちゃってるし、今の時間軸でも同じように「あ、コンドームないんだ。いい?」というありがちな流れでそれもいいよと言っちゃう。俗な例だけど、何よりそれが物語ってる。

ナルミは弟大好きが基本だけど、高校時代に思いを寄せていた年上の男(大学の研究者?)のことも、現在の時間軸まで引きずってかなりエグイことになってるし。
あ、コンドームがないってことを言い訳にしたのはコイツね。で、しかも「ベタベタすんの好きじゃないんだよ。確かに高校生の時にはお前のこと、可愛いと思ってたよ。こういうのって、交通事故みたいなもんじゃん。セックスしたから付き合ってると思っちゃった?」てなヒドイ男!
「交通事故?フザけんな!だったら最初から運転するな!」とナルミは吐き捨てる。いい台詞だ。

なんか色々すっ飛ばして脱線しまくってるけど(爆)。そもそもこのタイトルとも大きく関わっているのがコイツで、彼の精子を手に入れてスポイトで膣に入れようとするシーン、弟のケイも加担してて、これがどういう結果になったのかが判るのは、大分後になってからである。
スポイトで妊娠って、「ハッシュ!」みたいだよな……ホントに出来るのかな……。

時間が飛んで、大人になったナルミが刑務所から出てきて家に帰ると、弟が女の子と同棲している、という展開。ナルミが刑務所に入った理由って、劇中では明かされてなかった気がするんだけど……後からオフィシャルサイトを見ると、同僚を刺したとかって言うんだけど、え?そんなこと言ってたっけ?みたいな。
ちょっとそこんところがピンと来ないので。あのスポイトシーンから、やはり妊娠して、学校のトイレで、血だらけになりながら、それでもウンコしてるみたいに便器にまたがっていきんで、小さな胎児を、タツノオトシゴみたいな小さな胎児を産み落とし……。
多分便器の水溜りに浮いた胎児はその瞬間から死んでしまっているあのシーン、それが刑に触れて収監されたのかなとか。
でもそれって、刑務所に入るような罪(いや、語弊があるけど。とっても重たいことだけど。なんていうかさ……)かなあとか、観てる間頭を悩ませちゃってたからさ。

あの、便器に浮かんだ胎児はとてもとても小さくて、微生物みたいにグロテスクで、やはり早産だったのだろうか。
誰の子供か知っているのは弟のケイのみ。ナルミは嫉妬から、ケイの恋人に弟とセックスしたと言うけれど、それはどうだろうか……。少なくとも作品中に示されるのは、両親が亡くなった時に、暗い路地で見せ合った大事な部分、そして幼いケイがお姉ちゃんのその場所に訳も判らないまま本能で反応してしまって、人生初めての射精を飛ばしてしまった場面のみ。

実際、ナルミとケイが本当にセックスしたことがあるのかどうか、あの秘密の場面だけ、それ以外は何もなかったのか、判らない。
ケイは恋人、カナと同棲に及ぶぐらいその交際に真剣なのに、セックスはおろか、触れることすら出来ないでいるから、ナルミから悪意に満ちたささやきを聞かされてカナは逆上、ケイもこれはイカンとばかりに彼女とエッチしようとするんだけど……勃たないの。そしてそれ以降も、カナに対して勃たないことを圭は苦しみ続けるの。
自分の問題だから、俺が気にしてるんだから、カナには判らないよ!と……おーっと、禁句を口にしてしまった!それだけは、それだけは、言っちゃいけない台詞なんだよう。

ケイは童貞だったんじゃないのかなあ。ずっと、ずーっと。そんな気がする。あんまりモテる容貌にも見えない(ゴメン!でもすんごい、印象的な面構えの役者さん)の彼は、その意味でもずーっとお姉さんに翻弄され続けてきた。
実際、姉ちゃんのこと、好き、だったんだろうとも思う。本当に妊娠して本当に産み落としてしまった姉ちゃんを見て、狂ったように走り出したのは、勿論そんな大変なことに加担してしまったという思いが大きかったかったからだろうけれど……嫉妬のような何か判らない爆発する感情を、彼がもてあましてしまったように見えて仕方ないんだもの。

その後もナルミはその妊娠の相手、まるで初恋のような、年上の男と関係を持つしさ。それをケイが知っていたかどうかは判らないけど……。
自分を拒絶するケイをナルミが「あんたには忘れたいことがないから判んないのよ」と言うと彼が「俺は姉ちゃんのことを忘れたいよ」とつぶやくシーンが、それこそ忘れられない。
ケイはその台詞を言った後ハッとしたように詫びの言葉を口にするけど、勿論本音だし、忘れられないのは、姉だから忘れるとか忘れないとかじゃないけど、でも、やっぱり“忘れられない”のは、お姉ちゃんのこと、彼だって、そういう意味で好き、だから、なんだよね。
だよね?ここはそう言っちゃって、思っちゃって、いいんだろうか。ここを断定するかしないかで、大きく変わってく部分だと思うんだけど。

確かに、問題児のお姉ちゃんに翻弄されているケイは可哀想だし、せっかく恋人と幸せな同棲生活をしていたのに、お姉ちゃんが出所してこなければ、そのまま幸せだった筈なのに。
でも、そうだろうか。出所のことは彼だって判ってた筈だし、カナから「ここを出よう」「そんなカネないよ」というやりとりは、そりゃまあそうだからここに住んでる、そうでなけりゃ、いつお姉ちゃんが帰ってくるかもしらんのにいないだろうとは思うけど、でも若い恋人二人、カネないっつったって、なんとかなるだろ、と思うのね。

いやね、ナルミが出所してきた場面、まずお父さんとお母さんの仏前に挨拶して、と促すケイはいかにも“長男”で、そういう自覚があるからこそ、ここにいるのかもしれない、とも思った。まず現在の時間軸でそれを示しているから、そうかなとは思った。
でも……その後彼が特段そのことを口にすることもないし、それこそ長男なんていう言葉なんて一言も出てこないし。やっぱり違うかなあと。
やっぱりただ、ただただ、ケイは、そんな思いを恋人には勿論自分自身にさえ見せなかったけれど、お姉ちゃんのことを待っていたのかなあ、と。

展開を見れば、そんなことはとても思えないんだけれどね。ナルミはケイを困らせるばかりだし、しつこいお姉ちゃんにケイは何度も何度も、もう終わりにしよう、と泣きそうな顔で、てか泣きながら訴える訳だし……。
でも、ケイがナルミの妊娠事件を思い出すシーンとか、上手いんだよなあ。ケイの仕事先の同僚が、“浮気した、好きでもない女”を妊娠させてしまって、殊更に「好きでもない女」を強調して弱り果てている(そのチャラ言葉はあまり弱っているようには聞こえないけど(爆))描写から入るのが、上手いんだよね。
本来愛の結晶である筈の妊娠をスポイトで行なった姉、姉との関係のトラウマからか勃たない自分、生々しく便器の中に浮かぶ、赤黒い胎児の亡骸……。

制服姿のナルミが妊娠の“父親”のあの彼から、セックスの意味を大人の視点から説かれ、「愛、ねえ……」とめんどくさそうにつぶやくシーンも、何気ないけど、大きい、よね。
結局ナルミとケイのセックスシーンなどはないし、療養所を飛び出してケイに会いに来たナルミが、あの秘密の時間を再現するように、まさにあの場所で、お互いの大事な部分を見せ合うけど、ひょっとしたらあの時、泣き顔のケイは勃起していたんじゃないかと……。
そりゃま映さないけど、なんか菜葉菜嬢の表情とかから、思ったんだけど、でも勃起が愛ではないことは、ここまで紆余曲折しながら、描いてきたことなのだ。
いやでも、愛でもあることも、描いてきたことなのだけれど……ケイはきっと、きっときっと、後者なのだろう、けれど……。

ケイが、恋人のカナに対して勃たないことに焦ってたのは、そういう意識があったからのように思えてならない。
カナはね、本当に可哀想で……このキョーレツなお姉さんに、例えばシチューににんじんが入っていただけでわざとやったでしょ、と吐き出すようなキチクなお姉さんに、うつむきながらも「……だったら食べなきゃいいです」と頑張ったりもするんだけど、肝心のケイが、イマイチ煮え切らないからさあ。
いや、彼にしてみれば自分は充分ガンと言ってるつもりなんだろうけど、全然なの。「カナだって悪気があった訳じゃないんだから」この台詞ひとつとっても、煮え切らなさ100パーセントなの、判るでしょ!

完ッ全に嫁姑の間に挟まれた、いやそれ以上にタチ悪い状況。カナが出て行ったのはナルミに殺されかけたからだろうけれど、ケイがカナを見つけた時、どうやら彼女、ウリのバイトを(爆)。
彼女を救い出そうとしたケイにほだされて、ついにナルミと修羅場、決定的に別れを告げられてナルミは狂乱、なじみの飲み屋で飲んで暴れて、どうやら幻覚まで見えてしまうまでの症状は、アル中か、躁鬱か……店のマスターに療養所に連れてかれてしまう。

……ナルミはね、あの、妊娠相手の年上男との別れでも、弟との別れでも、同じように、身も世もなく、天を仰いで号泣したんだよね。そこに、違いはなかった、ような、気がする。
何かそれがね、弟君はずっとずっと、幼い頃から、お姉ちゃんに翻弄され続けてきたからさ、感情も、存在も、行動も……。
キツそうに見えるのはナルミ、なんたってヒロインなんだからそうなんだけど、ケイが、凄く、これ以上ない大失恋したみたいで、見ててツラかった、の。

それにね、やっぱり女は強いよ。弟から、勃起した(多分)弟から拒否されて、引導渡されて、また身も世もなく泣いて療養所に帰ってきて。
そこで会うのがね、両親が亡くなった時の弟と同じ年頃の男の子、秘密を共有した弟と同じ年頃の男の子、彼もまた父親を亡くしたばかりで、心のバランスを壊してて、般若心経を唱えているような、男の子でね。
ボロボロになったナルミが帰ってきて、ふと便意をもよおして汲み取り式とおぼしき壮絶な(爆)便所に入って、あの、赤ちゃんを産み落とした時の、まあ10パーセント程度の感じでうーんといきんで、スッキリする。

ふと気配を感じる。あの男の子がドアを開けてる。あげたパンツをまた下ろして、男の子に見せてやると……なんとまあ、この子、ありがたく手を合わせた!
笑っちゃったけど、なんだか、救われたというか、救われた、なあ……。赤ちゃんがこの世に出てくる、神聖な場所なんだもの。そう、言ってもらえた気がして、ね。ニコリと笑顔を作った菜葉菜嬢の表情でストップし、見事なラスト。

これだけきわどい題材で、下を脱ぐシーンはいっぱいあるのに、意外におっぱいは出さない菜葉菜嬢。あれ?前からそうだっけ……エロいイメージがあったけど……なんかこうも上手に隠されると(ヤッた後に、後ろむいてブラジャー装着、とかさ)ちょっと残念な気がするなあ。せっかくインディーズ女王なのに、もったいない。★★★☆☆


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