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「ろ」


2010年鑑賞作品

ローラーガールズ・ダイアリー/WHIP IT
2009年 112分 アメリカ カラー
監督:ドリュー・バリモア 脚本:ショウナ・クロス
撮影:ロバート・イェーマン 音楽:ザ・セクション・カルテット
出演:エレン・ペイジ/マーシャ・ゲイ・ハーデン/クリステン・ウィグ/ドリュー・バリモア/ジュリエット・ルイス/アリア・ショウカット/イブ/ゾーイ・ベル/アンドリュー・ウィルソン/ランドン・ピッグ/ダニエル・スターン


2010/6/18/金 劇場(日比谷シャンテ・シネ)
ドリューの初監督作品!と聞けば観に行かずにはいられない。それまでプロデューサー業も精力的にやってきた彼女、子役の成功から波乱万丈な人生を送ってきた彼女が、それまで人生を送ってきた映画に、その経験を生かして恩返しをしているようにも思えてなんだか嬉しくなってしまう。
今回は本当に彼女の監督作品であるということしか足を運ぶ動機はなかったんだけれど、彼女自身もバリバリのローラーガールとして登場!
しかもドMの恋人を喜ばすためにドSに尽くす姿そのままに、ゲーム中もクラッシュクラッシュ!その意味のままのローラーネーム、スマッシュリー・シンプソンだなんて!嬉しくなっちゃうなあ。

さて、そんな訳で内容も知らずに足を運んだ私であったが、なるほど、ローラーゲームに没頭する女の子の話を、よくタイトルが示しているんである。
しかしローラーゲームの話だと言うと私の上司は、そんな古いスポーツと返し、原題を重んずる英語好きの友人は、「バスケットボール・ダイアリーズ」をパクってるのか……ヒドい邦題だ、と憤っていた。

どちらもナルホドと思う。まあ、私は日本でローラーゲームが流行っていた頃なんて知る由もなく、今の日本では確かに??なスポーツだろうと思う。
ただ私がティーン時代に好きだったアメリカを舞台にした少女マンガ(これまた当時は結構一ジャンルとして多かったと思う)にはアメリカ文化の一端として出てきていて、それこそ原題となっているホイップのワザが出てきた時にはああこれこれ!と嬉しくなってしまった(ちなみにそのマンガっていうのは、渡辺多恵子氏の「ファミリー!」である)。

んでもってさ、確かに原題でまず情報を得ていて、文化としてのアメリカ映画を尊重している人たちにとっては、そりゃあこの邦題はヒドイと感じるのだろうけれど、私は、上手いなー、と思ったよ。このあたりはヤハリ、配給元の宣伝方針に基づくのだろうけれど……。
そりゃね、確かにこれってさ、「バスケットボール・ダイアリーズ」のもじりだと思うよ。でもね、その作品を知っている人が気付くことで、つまり、気付く人はそれなりに映画を観て来た人、あるいはまあ、レオ様好きかもしれないけど、アメリカ映画を好きな人、だよね?
そういう層を、まあヒドイ邦題だと思わせつつも引っ張り込むには、これが例えば「愛と哀しみの……」みたいな邦題よりよっぽど上手いと思うんである。それに見事に映画の内容を言い当てているし。

恐らく原作自体は本当に純粋に、ローラーガール(邦題につられてそんな風に言っちゃうけど、それも言わないかも……ローラーゲームプレイヤーの女の子たち)の、大勢の観衆の前に立つまでの様々な人生を綴ったものなんだろうと思う。
エレン・ペイジが主演のローラーガールの物語と聞けば、しかもミニスカを基本としてパンチラは当然、チームによっては網タイツだのといったセクシー衣装がウリのローラーガールたちなんだから、そのチームメイトたちも彼女と同じような若い女の子たちかと思えばさにあらず、30の坂を越えているのは当然、40の坂を越えている人も珍しくないような“ローラーガール”たち、なんである。

しかし彼女たちは臆せずにそんなイケイケな衣装に身を包み、当然メイクもアイメイク中心にバッチリ濃いめに塗りたくり、セクシーさは当然として、相手チームへの暴力と言い換えられるような攻撃がこのゲームの最大の武器なもんだから、足を引っかけりタックルぐらいはカワイイもんで、フツーにぶん殴るのも全然アリってのが、これって女子プロレスじゃん!という激しさ。

そう考えてみれば、女子プロレスの要素と見事なまでにローラーガールズのそれが共通していることに驚く。キュートでセクシーでメイクがキョーレツで、プロレスと同じぐらいローラーゲームは格闘技性もあるし、まさにリングネームさながらの、ベタにおどろおどろしい“ローラーネーム”、までもがある。
そうなると必然的に悪役の役割分担も発生し、敵方である、ジュリエット・ルイス(!)が演じるアイアン・メイビンはまさにその象徴。で、エレン・ペイジが演じるような小回りの聞く小動物系の女の子が、時にスターになるあたりまで似ているのよね。

そうそう!ジュリエット・ルイスが出ていることにも、思いがけず驚いちゃったんだけどさ!アメリカ映画をなかなか観る機会がないせいだろう、彼女を見かけるのは随分と久しぶりで、この顔、絶対知ってる、ていうか、大好きな女優さんの筈!ともう、観ている間は思い出せないていたらく、そしてそして……ようやくラストのキャストクレジットで、そうだ、ジュリエット・ルイスだー!!!

ある意味ティーンエイジャーの青春物語である本作、エレン・ペイジ以外はトウのたったオネエサマがたとはいえ、それでも青春映画には違いない本作に、ジュリエット・ルイスのようなトンがった女優が出ることに大いに驚いたけれど、その一方で、きっとドリューが好きな女優に違いなく、ジュリエットも彼女をきっとそう思ってる、相思相愛だろうなという思いがあったんだよなー。一見ドリューとは対照的にも見えるけど、実は骨太なスピリッツは似た者同士かも、と思ってさあ……。

でもそれで言ったら勿論、当然、間違いなく、ヒロインのエレン・ペイジこそが、“ドリューの好きそうな女優”の筆頭に上がることは間違いないんである。
ホントにね、ドリューの初監督、そのヒロインがエレン・ペイジだと知った時即座に、なんつーか、運命を感じたなあ。
エレン・ペイジはこれでやっと見るのが三回目。しかしその一回目二回目、とハンパないインパクトを与えてくれる女優。今回改めて見ると、決して美少女って訳でもなく、フツーの、どちらかといえばベビーフェイスの女の子なのにさ(実際、今回17歳の役だけど、そうよね、もう23歳よね!)。

そう、決して美少女ではないのよ。なのに劇中、母親に強要されて田舎町の美少女コンテストに出場させらている。しかも、何度も何度も、である。
冒頭、無邪気な幼い妹は、大きなトロフィーを抱えてまた優勝しちゃった♪とご満悦だけど、エレン・ペイジ扮するブリスは、どうせ出てもムダなコンテストと思った訳でもなかろうが、親友のパシュに染められた青い髪の色を落とすことが出来なくて、もちろん母親はおかんむりなんである。

この母親は若い頃はかなりの美人だったらしく、コンテストで優秀な成績を収めた痕跡も残されているんだけれど、どうやら満足いくまでの結果は残せなかったらしい。
豊かな人生のためには、こうした結果が大事、とオーダーメードのドレスまで作って娘を送り出すものの、そもそも性分が違いのはまるわかりで……。
こうした美少女コンテストに連戦連勝の学園のマドンナにはあからさまに失笑を浴びせられるだけでなく、イジワルまでされるし、ほおんとにクサクサした生活だったんだけど……。

そのブリスの生活が一変したのは、この田舎町から都会であるオースティンに母親と妹ともに買い物に出かけた時だった。
オシャレなブーツを買ったショップで、母親はドラッググッズが売っていることでおかんむりだったけれど、ブリスはまさに運命の出会いをしたのだ。
颯爽と滑り込んできたローラーガールたちに、ブリスは釘づけになった。彼女たちが風のように去った後には、大会のチラシが置かれていた。
しゃなりしゃなりとカッコつけるコンテストとはまさに真逆の世界、ブリスは親友のパシュを誘って、もちろん親にはナイショで出かけるんである。

このパシュとはホントに四六時中一緒に行動する親友である。当然バイト先も一緒。大きな豚のハリボテが店の上に鎮座しているのが強烈な印象を残すバーガーショップが、またイイ味を出しているんである。
ウエイトレスがかけるエプロンの豚のデザインもいい感じでダサダサで、学園のマドンナが連れてくるボーイフレンドが挑む子豚(巨大バーガー)の早食いなる無料サービスがまた、何とも痛々しくて(爆)。

ここの店長に“昇格”した、ブリスやパシュとは長い付き合いの店長、バードマン(これはあだ名で、彼はこう呼ばれるのをひどくイヤがるんである)がイイんだよねー。
ローラーゲームに熱中し出したブリスがバイトのシフトを減らしてしまい、恐らくブリスとパッシュぐらいしかバイトの子がいないであろう状況で彼はとっても困るんだけど、でもちゃんとやりくりしてくれるのだ。
時にはパッシュまでもがブリスの試合を見に行くためにバイトが皆無の状態になっても「オレが観に行きたいとは思わないの?いいよ、パッシュの分まで頑張るよ」な、なんてイイ奴なんだ!!

で、そうそう、ブリスはね、ローラーゲームを観に行って、一目で魅せられてしまう。ハール・スカウツというチームでトライアルがあると知って、「親友の私がいなければ何も出来ないくせに」とパッシュに言われてても……確かにその通りで、このローラーゲームだって彼女がいなければ観にくることなんて出来なかったんだけれど、こう言われて反発したのか、ブリスは初めて一人で、たった一人で、オースティンなんていう都会に乗り込むのね。
そしてトライアルを受ける。なんとまあ、ルールさえも知らなくて、周囲から冷たい視線だって受けちゃう。それでなくてもトライアルを受けに来た子達は、ローラーガールになりきりのイケイケばかりだったんだから。

しかし、天性のスピードで、超難関を突破してしまうんである。
そうそう、その前のシーンでね「バービーちゃんがついているスケート靴しかない」と言っていた彼女が、しかしそのバービーのローラースケートをはいて練習のために、最初はへっぴり腰で並木道を滑走する、そのなんとも楽しそうな様子が凄く可愛くてさ!もうこの時にキマリだったんだなあ。

で、彼女は両親には特進コースで勉強したいからとウソをついてバイトを減らし、練習に没頭、試合に出てみればたちまちトッププレイヤーになっちゃう。
そもそもこのトライアル自体が21歳以上の条件だったのよ。というのも、親の同意がいらないから。
まあ17歳のブリスでも親の同意があればプレイヤーとして活動するのは可能ではあるんだけれど、父親はともかく、白いロングドレスを着ての美少女コンテストの優勝を夢見ている母親が許す訳がない。
だからブリスはナイショにしていたんだけれど……まさにバレるのは時間の問題だったんである。

ブリスはオースティンで、イケてる男子と恋に落ちる。最初にローラーゲームを観に行った時に同じ観客として出会った子だから、まさに運命の出会いと言えなくもない。
そしてブリスがローラープレイヤーになり、彼とも運命の再会を果たしてラブラブになる。彼との時間を過ごすためにパッシュを思いがけず裏切る形になり、未成年飲酒容疑で捕まってしまったパッシュと一時絶交状態になってしまう。

の、くだりはね、女の子プロフェッショナルであるドリューの気持ちが色濃く出たと思う。パッシュは元々わりとおカタイ……つまりはブリスが親にしかれたレールにそれなりに同情はするものの、彼女とちょっとバカはやっても、彼女自身はまっとうなレールからそれほど外れることはなくここまできたんだと思うんだよね。
警察に捕まってブリスと仲違いしている間に、もともとマジメだったんだろう、そんなことはものともせずに名門、コロンビア大学に進学を決め(そこだけじゃなく、地元を含め、いくつも受かったらしい!)自分の力で、そうブリスのように、このショボい街から出て行くことを勝ち取ったんである。

そこからブリスとも友情を復活させる。奇しくもそれは、ブリスがあのイケメン男子に失恋した直後だった。
お兄ちゃんのバンドに参加している彼は、ツアーが決まり、一ヶ月間会えない状態だった。
しばしの別れの前に彼にオンナを捧げちゃって、Tシャツを交換したブリス、彼のバンドのサイトをウキウキと開くと、そこに彼女があげたTシャツを着た女の子と、彼女の肩を抱く彼とがオフショットとしてアップされていたのだ。ひどく落ち込んでしまうブリス。

最終的には、ツアーから帰って来てブリスの晴れ舞台、リーグの決勝戦に駆けつけた彼が、あれは誤解だ、クレイジーなファンが勝手に着たんだ、バンの中はプライバシーがなくて、電話も出来なかった、と弁明する。
まあ、筋が通ってなくはないんだけど、ブリスは、「それでも私なら電話したわ」と軽いビンタとともに返すんである。

その後二人がどうなるかはわかんないんだよね。そもそもブリスが彼と交換した上着を燃やしてしまった時点で、彼女の思いは整理されたようにも見える。
……なんかこのあたりが、そもそもローラーガールとして生きていくことを決めて、田舎町からも、何より親からも離れることを決意したブリスのことを思うとね、この甘い恋物語は女の子の自立のための一つの壁になっただけで、蹴散らすそれだ、ていうこととしてドリューがもうけたように思ってさあ。
それだけドリューも女の子としての色々を経験して、勿論女の子だから恋は欠かせない要素として取り入れるけれど、そしてあいまいな結末ではあるけれど、これって結構非情な決断、だよね?

ローラーガールになることを猛反対する母親と大喧嘩して、一度は家を出たブリスが彼の裏切りを知って家に帰り、なんかヤキソバみたいなのをヤケ食いし、「今は何も言わないで」と泣きべそをかいて母親の肩に寄り添う場面がある。
この時はホントに母親は何も言わないのだ。どこに行ったのか、心配していたに違いないのにさ。
でもそう……この時点では、母親はまだ反対している状態。そして、もともとゲームスポーツが好きな父親だけど。子供たちの教育を一手に握っている、“戦士”の妻に逆らえない状態。

そんな中、万年最下位だったハール・スカウツがブリスの活躍と、それによる、頑張れば勝てるんだ!という今まで感じたことのなかった勝利への意欲、そして相手チームからの見下しの視線への悔しさなども発奮になって、見事リーグの決勝へ進出。しかしそれがこともあろうに、母親が力を入れていた美少女コンテストの日と重なってしまう。
失恋して母親に慰められ、コンテストはママのためではなく自分のために出る、と宣言したブリスだったんだけれども……。

ここでカギを握るはお父ちゃんよ。ブリスはね、いつも家族にはゆるーくしか関わっていない父親が、実はバンの中で好きなアメフトを見ながらビールを飲んで大興奮している場面に出くわすんである。
バンの中からイエース、イエース!という声が聞こえて車体が揺れているもんだから、ブリスは、やだ、見たくない!と顔を逃げ出そうとするんだけれど、娘の声に気付いて戸をあけた父親は「なんだ、ブリスじゃないか」爆笑!
ママにはナイショだぞ、ビールもひと口だけな、という父親に、判った、と言ってグイッと一缶あけてしまうブリスに苦笑い。一緒にゴールにコーフンして、親子は心を通わせてしまったのだ。

だからね、ブリスがリーグの顔になるぐらいのプレイヤーになったと知った時、激怒する母親のそばで父親は一応は怒ってはいるものの……そう……なんかフクザツな顔をしてて。そして娘から「逃げ回っているのはパパじゃない!」と言われりゃー、もうひとことも返せないわけ。
そして、娘が楽しそうにプレイしている様をネットで見た父親は、ここはオレの出番だと、コンテストから娘を連れ出すんである!

もちろん、その前に妻の説得を試みる。あの子が自分で選んだ道を信じてやりたい、と。父親に手引きされたメンバーが迎えに来ていた控え室に母親が入ってくる。そしてブリスに、「これからパパが決勝に行けと言ってくる。あなたは自分のために出ると言ったわよね?」「……」
何も言えずに母親を見つめるブリスに、もう悟ってしまう彼女はちょっと哀れだけれど、いつか子離れしなきゃいけない時が来るのだ。

元々ね、ブリスはもう決勝に出るのを諦めてた。皆といるだけで楽しかった。相手チームのメイビンから挑発されて、食堂で食べ物をつかんで投げ合う時でさえ楽しかった。
ブリスが仲間に年齢を告白し、「決勝には出れないの」とうなだれても、「出られなくてもあなたはチームメイト。マスコットにでもなる?」とメンバーたちは笑い飛ばしてくれたのだ。

そして大興奮の決勝。負けナシの強豪、メイビン率いる強豪チーム相手に大技、三人足をつなげてのホイップ!
女優陣は大特訓の末の吹き替えナシでさ、時々はまあ正直、モタつく場面もあれども、そこはうまくカメラで逃げて、でもね、その生々しさがやっぱり肉弾戦って感じで凄くいい。ホイップにはやっぱり興奮しちゃうし!
そして……思いがけず試合には母親が見に来てくれている。父親はもちろん、末の娘ともどもノリノリなんだけど、母親は、うん、やっぱり母親だもの、凄く心配そうに見ててね……一度はブリスは起き上がれないぐらいの大転倒もしちゃうしさ。
でも、大観衆に手を振って立ち上がるとうおおお、と歓声が地鳴りのように起こる。そんな娘の姿はもちろん、見たことなんかなかった筈だから……。

こうして書いていくと、まるでメンバーだけで進行しているようだが、ちょっと頼りない、というかちょっとオタクっぽい??いつも短パンはいているヒゲヅラのコーチ、レイザーが良かったなあ。
もう色々作戦持ってるんだけど、作戦4!とか言っても勝つ気などない最初のうちのメンバーたちは、「1.5ぐらいまでしか知らないんだけど」という態度。スネた彼はなんと敵チームに作戦を教えてしまうという!!
でもその、作戦好きのコーチの指導をちゃんとあおげば、彼女たちはメキメキ上手くなっていくのだ!

そして勿論、ティーンの青春模様!好きだったのは、プッシュが酔っぱらって吐きそうになったのを「大丈夫、飲み込んだから」!!!などと言って、ブリスがここで吐いちゃいなさいよ、とトイレに連れて行き「両親がエッチしているのを想像してみて。父親が汗だくで……」とパッシュの耳元で囁くシーン。
パッシュはオエーとなってエレエレエレ……(爆笑!)ドリューがエレエレ吐いてたシーンが秀逸だった「2番目のキス」を思い出したなあ。いやあ、もう、さすがドリュー! ★★★★☆


老人とラブドール 私が初潮になった時…
2009年 分 日本 カラー
監督:友松直之 脚本:大河原ちさと
撮影:小山田勝治 音楽:
出演:吉沢明歩 鈴木杏里 里見瑤子 山口真里 野上正義 金子弘幸 如春 藤田浩 亜坊 妹尾公資

2010/5/16/日 劇場(テアトル新宿/第22回ピンク大賞AN)
もう一目見て即座に「空気人形」を思い出してしまったのだが、しかし公開は本作の方が先。「空気人形」の情報はあったにしても早いもの勝ちでこれってちょっと凄いなァ、と思った。吉沢明歩嬢のメイド姿はペ・ドゥナのそれの可愛さと甲乙つけがたく、素晴らしく萌えた。
勿論ピンクだからそれなりのエロはあるけど、彼女に関してはなんと、カラミがないんだよね。まあお風呂場でご主人様にフェラをするぐらい。
というのは彼女は試作品で、まだセックス機能を持たされておらず、後付けで加えようとしても試作品というレアタイプが故に、互換性がなくてそれが不可能だから。

自分のデータを新しいアンドロイドにインストールすれば、と彼女はご主人様を慮って提案するのだけれど、じゃあ今ここにいる君はどうなるんだ?燃えないゴミに捨てるのか?僕にはそんなことできない!と彼は拒否し、結果この二人は心から愛し合っているにも関わらず純潔を守り続けるという、奇蹟のピンク映画なんである。
それこそ「空気人形」がダッチワイフであったことを考えると、まさにそのあたり、確信犯的、なのよね。

とまあ、いきなり核心まで突っ走ってしまったが、あのアッキーを出してきてカラミがないっていうのは、本当に凄い、なんて贅沢な使い方だろうと思った。で、だからこそ、彼女のチャーミングな魅力がフル活用されているのも更に凄いと思った。
彼女を最初に観た「悩殺若女将 色っぽい腰つき」から強い印象はあったけれども、やはりそれはAV女優としてトップアイドルである吉沢明歩であり、カラミは必要不可欠なものとして(まあ、ピンクなんだから当たり前といえば当たり前なんだけど)ついて回ってきていたからさ。
でも改めて思うと、過去の彼女の出演作品でも、その素晴らしいボディをむしろ見せないところで、彼女の可愛さに萌えていたことを思い出すんだよなあ。
ある意味、そんな彼女を見たい、という願望もあったかもしれない。これならR15版編集のDVDが出たって確かに全然オッケーだよなとも思わせた。

試作品とか、バッテリー切れだとか、あるいは新型セックス機能付きアンドロイドの“試乗”シーンのやたらの細かさとか、監督のインタビューで語られている、手塚治虫や石ノ森章太郎などの影響は、聞けば確かになるほどなあ、と思う。
でも私がスッと頭に浮かんだのは、清水玲子のロボット漫画、だったんだよね。さすがにこの影響はないだろうと思う、単に私が勝手にそう思っただけとは思うが、いわばこの、セクスレスなのにやたらキレイなロボット、バッテリーを入れ替えれば再生するロボット、人間と見まごう細緻なつくりは言うまでもなくだが……が、なんか清水玲子的だなあ、と思ったのだ。
セクスレスというのは中性的な魅力であり、こんな可愛くてナイスバディーなアッキーには当てはまらなそうに見えるのだけれど、これが意外や意外、そんな雰囲気も私は感じたのだよなあ。

監督も言っていたけれど、本当にお人形さんのような美貌、つまりは浮き世離れした端正さ、お人形さんってのは、女の子型、男の子型と形は違って作られても、でもお人形さんなんだからやっぱりセクスレスなんだよね。
で、それってとても切ないじゃない?お人形さん、という言葉自体が、何にも出来ない女の子、という意味も含んでいるしさ。
でもそれもまた裏意味と考えると、このアンドロイド、マリアの切なさにピタリとくるんだよなあ……。
ドジッ子プログラムを組み込まれ(この設定がまた良すぎる!!)、失敗ばかりを繰り返すマリアは「もっと仕事が出来るメイドになりたいですぅ」(この口調も勿論プログラムだろうが……直球!)と落ち込むものの、彼から「君はそのままでいいんだよ」と言われた時から彼をご主人様と認識する。
そう、「そのままでいい」というのが、パスワードだったんである。

あ、ていうか、そもそもどういう設定かというと……この“ご主人様”(役名は与えられてなかったよね?)は、現在時間軸ではすっかり老人になり、バッテリーが切れて動かなくなったアンドロイドのマリアと二人ひっそりと暮らしている。
もともとは親が会社の試作品を持ってきたもので、その“ドジッ子プログラム”でヘマばかりしていたマリア。
あごのところに握った両手を持ってきて、あーん、という表情をするアッキーのなんとまあ、可愛すぎること!こんな今やありえないブリッ子(という言葉自体死語じゃ!)演技がハマるのは彼女ぐらいだろうが!

しかし、彼の両親は突然の交通事故で急逝してしまい、彼はひとりぼっちになった。いや、一人ではなかった。マリアはご主人様がひとりぼっちになってしまってかわいそうだと泣いてくれたけれど、彼はマリアがいるから一人ではないと言う。
その後、セックスプログラムを追加出来ないこともあって女性との結婚も考えたけれども、土地財産つきの童貞君をせせら笑いながらがっつく“メス豚”に汚されたことを心底後悔して、それ以降彼はそんな考えも起こさなくなった。
このシーン、ふすまの外でうなだれたまま待機しているマリアが、切な過ぎるんだよなあ……。

実はね、このマリアと彼との物語と同時進行のような形で、もう一つのラインがあるんだよね。むしろ物語が始まるのはこちらの方が先だったと思う。
扇情的にあおられるニュース映像。連続レイプ魔はどうやら人間ではなく、独身女性を癒す目的で作られた“AIBU”という名のロボット犬。その名からどういう目的かというのは、もちろん察せられる。
ホスト型ロボットでは満たされず、そしてこのロボット犬も捨てられる運命に至った女の性癖(本性?)についてのミスターXのウンチク「女は支配され、陵辱されたいんだ」的な(ちょっとニュアンス違ったと思うが)言葉には、まー、さすがに若干そりゃ違うさと思わなくもなかったが、しかし100パー否定出来るかといえば確かにそうでもなく(爆)。

でね、そんなワガママな女たちの欲望を満たしきれなかったAIBUが捨てられ、野生化(自販機で電力を蓄えたり)して、道行く欲求不満の女性たちをレイプする事件が多発する。
捜査に乗り出した女刑事もかつてAIBUを飼っており、しかしご多分に漏れず捨て去ったのであった。
ミスターXに会って、自分が捨てたAIBUもその中にいるのかもしれない、と心痛めた彼女は、そのレイプ魔ロボットを抑えるのは、ご主人だと認識させて機能停止するしかないと聞き、自らいけにえに踊り出る。
レイプ魔ロボット犬にレイプされながら、ごめんね、捨ててまた機能停止させるなんて、ひどい飼い主だよね、とあえぎつつ謝りながら、機能停止を命じる。ただここではまだパスワードが発せられていないから、保留状態なんである。

正直ね、この時点に至るまで、なんでこんな二本仕立てにするんだろうと思っていた。アッキーのメイドロイドと、その彼女に純愛を捧げて老人になった野上氏があまりにも良かったから、彼ら二人の物語だけでいいじゃん、と思っていた。
まあ確かに、それじゃカラミも足りないけれどもとは思ったが、後に監督の「カラミ要員という言葉は嫌い」「カラミ自体が物語であるべき」という考えを知り、大いに共感したけれども、でも正直、まったく違う二つのテイストがムリヤリ同居させられているように感じて違和感があった。

でもね、このストイックな女刑事が、贖罪の思いを抱えて自らワナにはまり、自分のAIBUもいるかもしれないスクラップがごちゃごちゃに合わさったようなレイプマシン犬に「ごめんね、愛してるよ」と言った途端、それがパスワードになって、つまりご主人様と認識して、機能停止命令を受け入れるのには激しく胸がつまってしまったんだよなあ。
だって、もともとこのレイプ事件だって、ご主人様を見失ってさまよった彼らが、生来の従順な気持ちから起こした事件だったんだもの。
機能停止、とピーとなって、バラバラバラ、と解体されてしまうレイプマシン犬にとりすがって泣く女刑事に、思わずこっちももらい泣きしてしまったのだ……。
だってさ、このAIBUのなれの果てはほおんとによく出来ていて、覗く舌は本物の犬のそれだろうし、尾っぽを振ったりしてさ、なんかもう、ご主人様のために生まれ、死んでいく様があまりに哀れだったんだもの。

でね、このパスワード「愛してる」が、マリアを人間として生き返らせるそれともシンクロする訳なんである。そうここで、バラバラだった二つの線がシンクロするのね。
この老人が見ているテレビの中で、“フィギュア萌えオタ”が女たちから激しく糾弾される場面がある。激しくっていうか、あからさまに侮蔑と失笑を込めている。
少子化や晩婚の問題も、彼らにかぶせられる。最初は論理的に話を進めようとしていた“フィギュア萌えオタ”の男性は激昂し、お前たちブスがイケメンだのなんだの高望みするから(少子化や晩婚は)だよ!と吠え、何人もとセックスするのがそんなに勝ちなのかよ、そこには愛はないだろ、フィギュアへの愛を貫いて童貞であることの方が、愛はある!(これもニュアンス違うと思うけど、そんな感じで……)と吠えまくる。

この場面単体だけを取り上げると確かに“フィギュア萌えオタ”のキモチワルイ主張に思えてしまうと思うんだけれど、ここまでの過程で、その主張に頷いてしまうだけの語りの力が確かにあるもんだからさ……。
確かにその論理が通ってしまえば、少子化どころか人類は絶滅してしまうんだけれど、でもそれを経験豊富なセックスを持ち上げるのではなく、たった一人を愛する、と置き換えれば望みがあるのかもしれない、と思う。
それこそ現代では“キモチワルイ”と言われる部類なのかもしれないけれども……でもそれって、究極の理想じゃない?
何人もと経験があるとか、これが何人目の彼氏とか彼女とか、それがまるで人間形成に必要な経験値みたいに言われた時代が確かに存在して、そう出来ない人が閉じこもってしまったことで、なんだかおかしくなってしまったように思う。
思えばそれも、崩壊したバブルの副産物だったのかもしれない。

老人は、幼い頃マリアが読み聞かせてくれた、ピノッキオの物語の、その中に出てくる青の妖精からお告げをもらうんである。三回くちづけをして、願いごとを唱えれば、叶うと。
彼はネットオークションでマリアのバッテリーを落札したばかりで、そのために土地家屋を売る覚悟をしていた。
しかしそのお告げをもらい、三回キスをし、愛してると言った瞬間、うつむいて眠っているように動かなかったマリアの瞳からぼたぼたと涙がこぼれる。そう、人間へと再生する。
このシーンと、AIBUのなれの果てのレイプマシン犬が解体したシーンとが交互にシンクロして、愛による崩壊と再生に、その根源的な衝動に、突き上げる熱い涙を抑えられなかった。

そして、バッテリーが宅配便で届いた時、二人の姿はなかった。
マリアのメイド衣装のカチューシャだけが残されていた。
私は、無残な姿で倒れた二人の姿が映し出されることを想像して、身を固くしてスクリーンを見つめていたのだけれど、結局二人は姿を消したままだった。
この幕切れに、希望を見出せたらとてもロマンチックだけれど……いや、二人の安住の地がこの殺伐とした現代(というか近未来と言った方がいいだろうけれど)にないんだと思えば、やはりハッピーエンド、なんだろうか。

シュコー、ピキーンというロボット音を響かせるアンドロイドたち、無論マリアもそうなんだけれど、セックス機能満載の新型ロボット(しかも違法改良版)を“試乗”する場面はサイコーだった。
黒地に白抜きで様々な機能を次々に紹介していくのは、なんかエヴァ風?
膣の閉まり具合は処女から経産婦まで(女としては微妙に傷つくなあ……)、リアクションの大きさは不感症モードまでもが搭載されているという(マゾすぎるだろ!)多彩さで、もちろん?ミミズ千匹やカズノコ天井もボリューム調節アリで搭載(爆)。
しかしリモコンの制御不能で「チ○ポがちぎれる!」と悶絶し、その遥かなる絶叫が、聞き込みにきた女刑事の耳に届くシーンは爆笑!

確かに正直二つのラインが乖離する感じはあったけど、結局はその腕力に押さえ込まれちゃった感じ。 ★★★★☆
ロストパラダイス・イン・トーキョー
2009年 115分 日本 カラー
監督:白石和彌 脚本:白石和彌 高橋泉
撮影:辻智彦 音楽:安川午朗
出演:小林且弥 内田慈 ウダタカキ 奥田瑛二


2010/10/5/火 劇場(ポレポレ東中野/レイト)
楽園が失われた東京。それなら誰もいない島を手に入れて、そこに行くしかないのか。
でも、東京は既に、誰を思いやることのない、人の気持ちが失われた島ならば、同じことなのか……。

障害者の兄、実生を持つ幹生。彼らの父親の葬儀から、物語は始まる。幹生は兄を引き取り、二人暮しがスタートする。
性欲を処理できず、違う環境に戸惑う兄のために、幹生はデリヘル嬢を呼ぶ。呼ばれた“マリンちゃん”は、秋葉原の地下系アイドルとして活動する顔も持っている。
彼女が気に入った実生と、必要以上に踏み込んで欲しくない幹生の間の葛藤。
彼女を取材するドキュメンタリーチームが彼女のデリヘル嬢としての顔をかぎつけて、三人の間に入り込んでくる……。

あまりにも重くて、正直、途中観ているのも気が重かったし、こうしてPCに向かうのも気が重かった。
私はよくね、エラソーにもね、こんなことを思っていたのだ。いわゆる健常者だけしかいないように見せている、この閉鎖された世界はヘンだって。五体満足に生まれてきたごく一部の私たちは、そうではない人たちが存在することを、存在する筈なのに、見えないフリをしてるって。締め出してるって。
まるでそれは、カッコイイ野球部の先輩とカワイイ女子マネージャーでだけ少女マンガが成立しているような世界ほどに、不自然で不健康で違和感があるって。全ての人が同じ世界に同じように存在している世界こそが正常であるべきだなんて、エラソーに考えていたのだ。

でも、私は、その中に知的障害者の人たちを加えていただろうか?様々な世界の人たちが共存すべきだ、そんな人たちを知りたいと思いながら、実は想像の範囲を超える彼らを、排除していたんじゃないだろうか?
想像の範囲?何それ?脳に欠陥がなければ、想像の範囲内で受け入れられるというの?結局は同じように考えている同じ人間だ、というありがちなきれいごとの中に押し込めて、仲良しゴッコをしたいだけじゃないのか。
それが出来る自信がないから、“何を考えているか判らない”“何も考えていないんじゃないか”などと思っちゃうから、彼らを無意識に排除しているんじゃないか。
もっと言えば、私は彼らを、ちゃんと人間としてさえ受け入れていないんじゃないのか!?

もちろん、知的障害のレベルにも程度はある、だなんて考えること自体、私ってサイテーだと思う。さらに自分がサイテーだと思うのは、劇中、この知的障害者の実生が18歳の頃、小学生の女の子を襲った事件というのが、どこまで行ったのか、などと考えてしまうところなんである。
それがキッカケで兄を閉じ込めるようになった父のあとを受け継ぐように、兄を閉じ込めながら生活している幹生にデリヘル嬢のファラが「本当に実生はその子をレイプしようと思っていたのかな。好きだって気持ちを表現する方法を知らなかっただけじゃないのかな」と言う台詞があるけれども、その台詞は、実際にレイプしてしまったとも、レイプ未満で留まったとも取れる、微妙な台詞である。

でも、その違いがなんだというのか。私はどこかで、重苦しい現実に直面したくないという卑怯な考えがあって、未満なのだと、思いたがってしまう。

もし実生が本当に女の子をレイプしてしまったのだとしたら、それが自らでは制御できない彼の障害のせいだと判っていても、どうしても彼を許せないと思ってしまう、と。そう、後半、彼らが謝罪に行った先で、容赦なく実生を殴りつけた女の子の父親のように。

河岸にも知的障害を持ったお兄ちゃんが、お父上と一緒に仕入れに来ている。とても純粋で気のいいお兄ちゃんで、みんな彼が大好きだ。
お父上は彼が、可愛い女の子になついてしまうのを心配しているようなんだけど、だから私にはそんな心配もないし(爆)、みんなも長年の付き合いだから、距離感が自然と判っている風があるんである。
でも、そういう懸念がちょっと判る場面は見たことある。いるでしょ、可愛くて、愛想ふりまいて、男性に受けがいい女の子って。
河岸の男どものオアシスだった彼女は、彼にもすんごく気に入られちゃって、困ってた。しまいには、彼の姿を見ると、隠れるようになった。
私にとっては、すれ違いざま無邪気にハイタッチして、お喋りするのが楽しいお兄ちゃんだったから、それを見ていて複雑な気持ちだった。いや、自分がそういう立場になれないからじゃなくてよ(爆)。
彼女もいい子だったけど……でも……って。これって本当、難しい問題だと思った。

……ただ、これは、そうした、問題をリアルに考えるような、ドキュメンタリーとか福祉映画では、ないのだ。そこんところが、この映画に対峙する難しさを感じさせる。
これはあくまで劇映画でエンタテインメントで、だからこそいい意味で“逃げて”いるところもいっぱいある。本来なら、実生レベルの知的障害なら(こういう言い方はイヤだけど……)、専門の施設に入れるというのが一般的な道であろうと思う。
ただ、彼が過去に起こした事件も一つの要素だろうし、そうじゃなくても、家族の中だけで問題を抱え込んでしまうケースはきっと、あまたあるんだろうと思う。
それこそ福祉系映画ならば、彼の幸福のためならば、しかるべき施設できちんとした生活をさせましょう、と道を開くところであろうと思う。
しかしこれはエンタテインメントなのだ。残酷なまでに。私が逃げていたことにもきちんと対峙している。
実生はこの物語を盛り上げる、再重要人物である。彼がいなければ、この物語は成り立たない。それは彼を、他の世界に排除しないからに他ならないのだ。

デリヘル嬢が彼ら兄弟の“癒し”になるなんて、娼婦が男たちの身体だけじゃなく心の癒しにもなるという、実に映画の王道を行くスタンスなんである。
私は正直、この“王道”自体がどうなのと、昔から引っかかっている部分があって……まあそれは、勿論私が女だからなんだろうけれど。
大抵そういう風に登場する女たちというのは、そういう役割にも誇りを持っているんだという描かれ方をしているんだけれど、果たして本当にそうなのかしらん、という気がするもんだからさ……。

ただ、本作が特異なのは、彼女がまず、アキバ系アイドル、ファラとして紹介されることにあって、狭いイベントスペースで歌い踊る彼女に、息がかかるほど近い客席の男たちは、一糸乱れぬイタいダンスを躍るという、今や世界的に有名になったアキバの文化を披露するんである。
その一方で、一回18,000円という価格破壊でデリヘル嬢もやっている彼女。そのあたりのリアリティがどこまで信憑性があるのかは判らないけれど……ただ、大いなる皮肉は感じる。
恐らくこの二つの顔の間には、それほど差異はないんだもの。実際、ステージでピンクのボンボンをつけてブリブリ口調で歌い躍る彼女と、「マリンちゃんでーす!」とデリヘル嬢として玄関から入ってくる彼女は、少なくともキャラの使い分けはしていない。
秋葉系アイドルとしての彼女に取材を試みているドキュメンタリーチームが、食べては吐いてスタイルを維持している彼女を半ば呆れ気味に見ている。アイドルとしてのファラも、デリヘルとしてのマリンも、虚構性を貫いているのは一緒なのだ。

それだけに、彼女が実生と幹生に出会って、いわばフツーの女の子になっていくことにこそ、意味があるのかもしれない。
でもね、そう、根本的な前提、娼婦もアイドルも、男にとっての役割は基本同じなのよね、っていう……。生身でお世話になるか、2次元でお世話になるかの違いだけ。
昔のアイドルと違って、過剰なロリータ性で男の下半身をくすぐる昨今のアイドルは、ロリータだけに余計に背徳的である。
このあたりも、実生が小学生の女の子を襲った事件につながせているのかなあ……というのは、考えすぎだろうか?そこまで考えちゃうと、本当に気が重くなっちゃうのだが……。

性欲が自分で処理できないから、というのは、つまりマスターベーションを知らないから、ということだよね?
うーん、そういうのって教えてあげることは出来ないのだろーか、などと、ついつい具体的なことを考えてしまう(爆)。

そして、ドキュメンタリーチームの登場が、更に私の気を重くさせる。それこそ、私がそんなエラソーなことを考えるのは、優れたドキュメンタリーを観る機会があったればこそである。
そうしたドキュメンタリーたちはきっと、根気よく取材の体制を整えたであろうし、決して決して、こんなヒドいやり方はしなかったと思いたいのだけれど……でも、判らない。いやきっとこれはテレビ的ドキュなんだと思うのこそ、そりゃあ偏見だろうとは思うけれど……。
でも、彼らが見ている“発禁になった映画”の、引きこもり青年のドキュメンタリーの一場面、飛び降り自殺をしてしまった、その場面をとらえてしまったという映像がユーチューブっぽい、投稿動画サイトにのっけられてて、いわゆる、こういう、決定的な、衝撃的な画を撮りたいんだと、彼らが舌なめずりしているのがあまりにもあからさまで胸が痛いんである。
まあそれは、ある意味ちょっとワザとらしいほどに、こっちに嫌悪感を与えるために赤裸々過ぎるほどに、ザ・悪役な訳だから、これぞエンタメのひとつの要素だということなのかもしれないけれども……。

外に逃げ出しては窓ガラスやなんかに落書きを繰り返し、幹夫を苦悩させる実生。しまいには兄を閉じ込めるために、ドアに鉄鎖までかけるようになる。
しかしそれは、実家の荷物に入っていたもの。つまり、父親がやっていたことを、彼は継承してしまうんである。
実生とファラ(マリン)のカラミを撮影した後、ドキュメンタリーチームがドアにぶらさがっていたこの鉄鎖を、これぞウケる要素だと嬉々としてカメラに収めているのはゾッとする。

そもそもなぜこんな話を引き受けてしまったのか……アキバの地下アイドルがデリヘル嬢で、しかもその客に知的障害者がいるだなんて、もう彼らが舌なめずりしまくっているのが判るのに。
ファラはこれが、実生が思う存分落書きが出来るようなアイランドに連れて行ける手段だと、元からアイランドを買おうとこつこつ金を貯めていたんだと幹生を説得するけれど、幹生がこの話に乗ってしまうというのが……半ば本気にしてない感じはあったのになし崩し的に乗ってしまったのは、幹生がそれだけ追いつめられていたからだろうか?

確かに、そう思わせるだけの描写はある。兄の存在を隠し、閉じ込め、彼を食わせるために人間性を失うような職場で働く幹生。
電話や飛び込みでマンションを売るという仕事(飛び込み営業のシーンはなかったけど)は、考えただけでストレスがたまるしかなさそうな、もう絶対やりたくねー仕事のトップテンに入りそうである。
正直、結婚している訳ではなく、兄ちゃんはいるにしても二人暮らしていくだけなら、もっと気楽な仕事があるんじゃないかなどと単純に思ってしまうけれど、幹生は、あくまで外での自分は、兄の存在を理由や言い訳にしたくない、一人で立って一人で生きてる自分にしたかったんだよね。

そう考えると……実は幹生は、一人で立って一人で生きてないってことかなとも思う。それこそ、キレイごとだろうか?実生がいるからこそ、幹生が生きていられるなんて結論づけるのは……。
でも間違いなく幼い頃からお兄ちゃんの存在と共に生きてきたんだし、彼がファラに語る、他の人間がみんないなくなって、兄ちゃんと二人だけで、誰も兄ちゃんを笑う人もいないから胸を張って歩いて、駄菓子屋や公園で思いっきり遊んで……と夢の話をするくだりは、幼い頃は、お兄ちゃんは真に彼にとってのお兄ちゃんで、大好きなお兄ちゃんで、笑ったりいじめたりする周囲こそが許せなかった筈なのに、と思うとなんとも切なくて仕方ないのだ。
大人の価値観で生きてかざるを得なくなるに従って、単純で純粋な愛情が、押しつぶされるしかないってことが。

ファラがあの悪徳ドキュメンタリストの話を飲んだのは、実生と幹生と暮らすアイランド購入資金のためである。
正直、1500万なんていう、マンションが買えるかどうかもアヤしい金額で買える“アイランド”なんて、そりゃまあリゾート会社のお姉さんも「こんなコバルトブルーの海という訳ではありません」と慌てていたし、どんなヘボい島か、想像がつくってなもんである。
それとも私がゼロの数を見間違えた?実は一億五千とか……まさかね。いくらそれまでフーゾクでコツコツ貯めて、今回のギャラが破格だったとしたって、それはないよなあ。

意気揚揚とリゾート会社のお姉さんの前に札束を積み上げたファラだけど、結局その話はパーになる。それは……“その必要がなくなったから”。実生が姿を消したのだ。
実生が18歳の時に起こした事件の被害者とその親に謝罪に行く場面が、あのドキュメンタリストによってセッティングされ、それはいかにもドキュメンタリーのために、修羅場を展開させるために用意された場面に過ぎなかったのに、そのことがずっと引っかかっていた幹生はウッカリそれに載っちゃって……。
女の子の父親からメチャクチャに殴られ、足を果物ナイフで刺されたりもしちゃう。この父親を演じているのが奥田瑛二で、彼が出演していることがこの作品に足を運んだ一つの理由でもあったんだけど……彼はなんたって実際、溺愛してる娘二人を持つ父親な訳だからさあ……。

マジでこの場面は、怖いのだ。幼い娘にそんなことされたら父親はそうだろうなと思わせるのもあるし、そんな風に奥田氏が娘二人がいる人だから、感情移入しているだろうというリアリティもあるし。
そして彼は、なぜ10年前に謝らなかったのだと言うのだ。実生と幹生の父親が死んで、その父親がなぜ謝りにこなかったのかと。実生を閉じ込めることで、それで謝った気になっていたのかと。
もちろん、もちろん、謝れば済むという問題ではない。それは10年経とうが20年経とうがそうなんだけど……もしかしたら、“閉じ込めることで、謝った気になっていた”というのは本当にそうかもしれず……でもそれは、どう言えばいいのか。
親の責任?それとも、子を恥じる気持ち?それとも……。この時点で、いわゆる施設だの介護だのという、他の手を借りること自体を諦めてしまったのかもしれない、のは、どっちの気持ちからくることだったんだろう。

最初に私が思った問題に立ち返ってしまう。私は身体障害者ならオッケーで、知的障害者は……と考えていた。そもそもその分け方自体が間違っているのに。
謝罪に行った後、実生は姿を消した。ドキュメンタリーチームたちはしたり顔で、謝罪を受け入れる用意があるというだけで、許してくれると言った訳じゃないから、と言った。女の子の父親が幹生を刺した場面が撮れたことで、ホクホクしてる感さえあった。
実生は、ちらりと姿を見せた被害者の女の子が、帰っていく彼らを二階の窓から見ているのに気付いた。目が合った。獣のような咆哮をした、のは、オフになって聞こえない。

その後、姿を消したのだ。

幹生はうろたえて、探し回る。その前の晩、すっかり様子のおかしくなった実生にショックを受けて、自分を責めた。その夜、ずっと気持ちを交わしていたけれど、身体は交わしていなかったファラと初めて愛し合った。その朝、実生はいなくなっていたのだ。
どこを探してもいない。ファラは、ためらいながら、実生がそうしたいならアリなんじゃないかな、と幹生に言った。幹生は怒って、たとえそうだとしても、俺は連れ戻す。兄ちゃんは俺たちとは違う、何にもなれないんだ、と言った、のだ。

この台詞は本当に凄かった。ファラも否定出来なかった。観客である私たちも、否定出来なかった。俺たちとは違う、何にもなれない……いわゆる、世話をする人がいなければ、生きていけない実生。否定出来なかった。
この時ばかりは、じゃあ、私たちは何にでもなれるのか、などと、ありがちなキレイごとを言う気にもなれなかった。
だからね、この後用意された、実生が発見されるラストシーンがいくら爽快で、救われても、ファンタジーだとしか思えないけれど……だって、それまでに何日経ってるのよ、その間、食べ物とかどうしたのよ、とヤボなことを思うしかないけれども……。
でも、そう、だから、これはドキュメンタリーでも、福祉映画でもないのだ。そう思うことは、逃げではないと思う。これがエンタテインメントの強みだと言っていいんだと思う。

三人、思う存分落書きをした砂浜で、幹生は兄ちゃんの消息を失った。実生の落書きにいつも悩まされていたけれど、それは奇妙にアヴァンギャルドな、ちょっと天才的なそれだったのだ。アイランドを買って、思う存分落書きをしよう、そう思っていたのに。
実生がファラに譲って、でもいつでも一緒にいた小さな亀と、ファラが買ってあげた真新しいスニーカーが海辺に残されていた。
最悪の事態を予感して、泣き叫ぶファラ。絶対に連れ帰ると言ったじゃないと彼女は幹生を責め、実生がそうしたいならと言ったじゃないかと、幹生は彼女を責めた。
でも、それでも、幹生は、兄ちゃんは、行ってきますと言ったかもしれない、となぐさめにもならないと思われる言葉で彼女をなぐさめようとした。実際彼女は、はねつけるのだけれど、本当にそうだったのかもしれないのだ……。

アイランド購入を断念し、ドキュメンタリー制作を中止させてフィルムを撤収させた。そしてファラと幹生は同居生活を解消した。俺は、あの部屋で兄ちゃんを待っている。幹生はそう言い、ファラは微笑んで彼の元を去った。
それからどれぐらい経ったんだろう。あのヒドい職場を辞めて、幹生は工場でアルバイトをしている。良かった良かった、全然この方が健康的だよ!と思ったら、不況だからとアッサリクビを言い渡される。
休憩の昼休み、幹生はニュースで、みすぼらしいボートをこいで、どことも知れず海原を漂っている“謎の男”を見る。間違いなく実生兄ちゃんである!きっと彼は、二人が諦めてしまったアイランドを目指しているに違いないんである!!

慌てて自転車に飛び乗る幹生。携帯が鳴って、そのまま出ようとして、ああ、危ないよー!と思ったしな、案の定見切れて車にぶつかったもんだから、最悪の事態を思って青くなったけど、これはちょっとしたギャグだったらしい。
電話の相手はやはりファラ、凄い音したよ、と心配げな彼女に、フラフラと立ち上がった幹生はニュース見たよね、と言う。うん、と返した彼女は、これからそっちに行っていい?と問う。
電話の向こうの彼女は、アキバではない、どこかビジネス街で、カッコもフツーで、OLさんになったのかな?って感じで、そしてラストには、大写しになった海原の幹生が、せっせとボートをこいでいるのだ。

この映画を観た後、私は、私は、どうしていいのか判らないけど、ただ……この救いのある気持ちを、素直に受け取ってもいいのかなと、思いたかった。だってさ、だって……それ以外に、出来ないもの。 ★★★★☆


倫敦から来た男/THE MAN FROM LONDON
2007年 138分 ハンガリー=ドイツ=フランス モノクロ
監督:タル・ベーラ 脚本:クラスナホルカイ・ラースロー/タル・ベーラ
撮影:フレッド・ケレメン 音楽:ビーグ・ミハーイ
出演:ミロスラブ・クロボット/ティルダ・スウィントン/ボーク・エリカ/デルジ・ヤーノシュ/レーナールト・イシュトバーン/スィルテシュ・アーギ

2010/2/4/木 劇場(渋谷シアター・イメージフォーラム)
タル・ベーラ作品を初めて観た「ヴェルクマイスター・ハーモニー」の衝撃は大きかった。あの時、その凄さが一度では判らず、2度目でようやく大きな衝撃を受けるという時間差攻撃だった。
その独特のモノクロ表現は、モノクロ作品にはありがちなくっきりとした白と黒のスタイリッシュな魅力などではなく、白く柔らかい光を驚くほど大胆に使いながら、しかし決して明るい雰囲気ではなく、漆黒まで何段階も続くグレーをその夢のような画面の中で、鮮やかな筆裁きのごとくに配している。
その“夢”は、「ヴェルクマイスター……」ではまさに、幻想のごとき夢だったけれど、本作は……これは悪夢であろうと思った。それに違いないと思った。

ストーリーだけ取り出してみれば、それほど奇をてらっている訳でもないサスペンス、なのかもしれない。
実際、あの超作家主義と思えたタル・ベーラが、原作モノを映画にするなんてちょっとオドロキだった。
しかしこれが驚くべきことに最初から最後まで、隅から隅まで、パンの耳の端っこまでまさにタル・ベーラなのだ。まだこれが彼の作品を観るのはたった二作目なのに、そうだと断言できる。

例えばそう、こんなところ……登場人物がただ歩く、ただただ歩く。その登場人物にぴたりと寄り添ったカメラ。
いや、カメラの存在など忘れている。その登場人物そのままに、“スクリーンが歩いていく”のだ。その緊迫感溢れる手法は、「ヴェルクマイスター……」で印象的な一つだった。
本作はその手法が何度も使われている。主人公である男、金を持ち逃げした犯人の妻、ただ歩いている、それだけなのにぞっとするほどの不安感に満ちている。

タイトルロールが、主人公じゃないんだよね。主人公は、その“倫敦から来た男”の犯罪を目撃した男、マロワン。でも“主人公”ということがなんだか不自然に感じられるほど、観客の共感を得るには難しい男。
いや決して、イヤな男という訳ではないのだが、とにかく寡黙だし、秘密を胸のうちに抱えているせいか理不尽に家族に怒鳴り散らすし、自分の行動を暗示したり誰かに相談したりする訳じゃないので、見ているこっちは彼の考えが判らずひどく不安に陥ってしまうのだ。

いや、それこそが、説明過多の映画に慣れきってしまった私たち観客の退化ということなのだろうと思う。
実際、このマロワンが何の仕事をしているのかさえ判然としないのだ。ガラス張りの高台の小部屋から、船から列車に乗り換える人たちをじっと見つめている。
何かレバーのようなものを操作しているけれど、何をしているのか判らない。取り合えずこの船か列車かの制御に関する仕事をしているのだろうけれど……後の場面で「誰が食わせてやっていると思ってるんだ!」とお決まりの台詞を妻にぶつけるシーンがあるけれど、このガラス張りの部屋でさしたる仕事もやってるようには見えないのが、何とも皮肉なんである。

冒頭、マロワンがその高台から、犯罪が行われているのを見ているシーンはひどく鮮烈である。いや、彼がその一部始終を見ていると気づくまでにはかなりの時間を要するし、制御室の彼の様子を映し出すに至っても、そこまでの一連を見ていたのかどうか、あるいは彼はこの男たちと最初から関わりがあったんじゃないか、それで金を横取りしたんじゃないかとか、あらぬことを色々推測してしまう。

……というのは、マロワンがまあ見事に、喋らないから。そりゃ喋る相手がいないんだからなんだけど。
そう考えると、“普通の”映画中の登場人物たちが、いかに不自然な独り言を言っているかに思い当たる。マロワンは、心の中ではこの事態に遭遇して様々なことを思っているんだろうけれど、それを喋る相手もいないから何一つ言う訳がない。
ふと気付くと犯罪者たちの動きを見つめる彼がシルエットでフレーム・インして、その円形脱毛の後ろ姿がじっとうずくまるように孤独な制御室に座してるだけなんである。

そう、このシーン……船から降りて列車に乗り込む人たちを見下ろすシーン、画面を何度も太い影がよぎる。
それはこのマロワンの影だったのか、あるいは……なんとも暗い予感を感じさせる断続的な影。
不安や予感を感じさせる断続的な動きや音は、本作の中で非常に印象的なものがいくつもある。肉屋が肉を叩く音か、どこかの部屋から降ってくる赤ちゃんの泣き声か……。
しかもそれらが特に説明もされずに放置され、ただ断続的な音だけがスクリーンに響き続いていたりするのが、やたら落ち着かない気分にさせる。それはきっと……マロワンの心のうちなのだ。

音楽もそう。繰り返し繰り返し、執拗だと思えるほどに同じテーマ音楽が流れる。しかもそれが、カメラが引いてみると、彼らがお酒を飲んでいるカフェで演奏されているアコーディオンだったりする。
観客が肩透かしをくらったのを楽しむかのように、アコーディオン奏者だけではなく、ビリヤードの玉を鼻の上に乗っけてバランスをとる老人やら、椅子を掲げて踊る男やらが、とてもはしゃいでいるとは思えないような神妙な表情で、しかしはしゃいでいる。これは遊び心というヤツなんだろうか……なんてイジワルな!

マロワンはほおんとに何にも言わないから、観客も事態を掴むのにかなり時間がかかるのね。
二人の共犯者。ひと目をしのんで船の上から投げられたトランク。しかしその二人は恐らく、お互いそのカネを独り占めにしようともめて……一人がトランクを抱えたまま海に落ちた。もう一人はいったん諦めて去って行った。……よもやその一部始終を見ている人物がいるとは思っていなかっただろうから。

そう、それを見ていたのがマロワン。彼はおもむろに外に出ると、男が海に落ちたあたりまで歩いて行った。
モノクロだからただでさえ画面は暗く、マロワンが歩いて行ったスクリーンの隅っこは、目を凝らさなければ判別出来ない。知らず知らず、そんな観客への強制に乗せられていることに気付いて、そのことにも舌を巻く……。
この監督は人物の表情をつぶさにとらえるための、ほとんど動かないままの長回しも非常に多用するんだけれど、それが観客のガマンのギリギリという絶妙のタイミングでふっと、あからさまにカットを変えるんだよね。小憎らしいぐらいに。

私、長回しってさ、時に玄人ぶってるのかただ長く回して悦に入っている、みたいに使うような人もいるから……正直苦手なんだけど、ほおんとにこれは、観客のそんな心までも読みきっていると思って降伏しちゃったなあ。
ほとんど動かない表情の、ほんの微細な動きに心のかすかな動きを見せられる、それを絶妙のタイミングで、こんなおバカさんな観客にも感じさせるんだもの。
超作家主義的作風に見えて、実際超個性的ながら、そういう部分はキッチリ押さえてる。それが彼の凄いところだと思うんだよなあ!

そう、でだいぶ話がズレたけど(爆)。マロワンは水に浮かんでいたトランクを引き上げるのよ。そうしてあのガラス張りの部屋に戻ってぐしょぬれの紙幣をストーブの上に網をのせて、一枚一枚広げながら丁寧に乾かし始めるのだ。
無論、この間も彼はひとことも発することはないんである。だから彼の気持ちがなかなか見えてこない。ていうか、見えない(爆)。
でも、黙っているだけに……段々切迫したものを感じ出してくるのだ。これを横取りしようとしているのか、そうしたらどんな事態が待っているのか、彼も誰も、何も言わないのに、勝手に不安にあおられてしまうのだ。

マロワンが狭い路地を通って帰宅の途につく。その途中で娘が仕事をしている店がある。約束と違い、娘は裏路地に丸見えの格子のところで、超ミニスカの格好でお尻を突き出し、床掃除をしている。
……いや、“お尻を突き出し”というのは、約束とは違う仕事をさせられている娘を心配するマロワンが“道を行く男たちに尻を突き出しているんだぞ”と言ったからああそうかと思うぐらいで、そうと言われなければ判らないのだが……。
ただね、ここの店主のオババは確かにちょっと異常な感じなのよ。かなりのオババなのに(爆)ストールをどけると結構露出度の高いカッコをしてるし、やたらマロワンの娘に執着している感じがあるし。

……いや、それは考えすぎかなあ。ただのごうつくばりババアなだけだったんだろうか。マロワンはあの大金を手にして、娘を容赦なく辞めさせ、毛皮のマフラーをプレゼントし、奥さんに激怒されるんである。
……そりゃあ、何の事情も説明しないままだったら、奥さんが怒るのは当然だけれど……。
ホントにマロワンは最後まで、自分ひとりで抱え込んでしまうんだよね。その割に娘を救い出して毛皮をプレゼントしてみたりさ、奥さんにはそんなこと一つもしてないのに(爆)、ヤハリ、そのあたりが、血のつながりの有無というものなんだろうか……寂しい。

でもね、むしろ娘よりは、奥さんとの場面の方が印象度は高いんだよなあ。
激しい夫婦喧嘩の場面はまあ、そうなんだけど、そうじゃなくてもね、夫が着替えに行った部屋に奥さんが続いて入って、柔らかく陽光が入った部屋の窓をバタン、バタンと閉めて行く。すると……漆黒の闇になる。それまでのモノクロの中のまばゆい光がウソみたいに。
でもそれは……彼にとって奥さんがそういう存在なんだということを示していたら……それはキツいなあとも思うのだが。
奥さんが、夫が娘に仕事を辞めさせたのみならず、高い毛皮のマフラーを買ってやったことに激怒する場面もひどく印象的なだよね。だって奥さん、唇がマジでワナワナしてるんだもん(爆)。このシーン、その奥さんのワナワナっぷりをこれまた絶妙な長まわしでとらえているんだもんなあ!

そもそもなぜ、“町に噂が広がって、娘が働けなくなる”とそこまで危惧するのか……。学生のように若く見えるこの娘だけれど、娘が働かなくてはこの家の家計は立ち行かなくなるのだろうか?それならば、“俺がお前たちを食わせてやっている”というマロワンの言葉は?
この寒々としたグレーの画に若い娘の青春を描くのは難しく、娘が好奇の目にさらされているというマロワンの危惧も正直、ピンとこないような閑散とした風景。
ただただ天にそびえる今にも崩れ落ちそうな集合住宅の狭間の路地で、男の子が器用にリフティングをしている描写は、本作の中で唯一ポエティックなのだけれど、パンアップするカメラがとらえる狭い空は、希望を感じさせるにはあまりに足りない、のだ。

“倫敦から来た男”を追って、かの地の有名刑事がやってきた。足腰も弱いようなかなりの老刑事、というあたりが、皮肉な雰囲気も醸し出すものの、しかし頭の回転とカンはピンシャンしている。
彼がカフェで二人の犯人のうちの一人、ミッチェル・ブラウンを詰問している場面、マロワンも客の一人としてカウンターで耳を済ませていた。
そしてこの敏腕老刑事に問い詰められた後、ブラウンは姿を消した。その後、刑事は現場検証をし、その現場が見渡せるところにいたマロワンを尋問にかけるんである。

ていうかさあ、マロワンは、そもそもこのブラウンと接触、というか交渉していたんだろうか……?
こんな具合にストイックな展開だから、なかなか判然としないのだ。でもね、事件の後、カフェに一杯ひっかけに向かうマロワンに何か言いたげに近寄ってきていたのはブラウン……だったと思うんだけれど。
でもマロワンはひとことも発さず、彼の目の前でバタンとガラスドアを閉め、古い付き合いのマスターを相手にまったりと飲み始め、チェスなんぞを楽しんだ。

でもさ、物語も最終局面を迎えるに当たって、観客に対しては接触していないと思わせていたブラウンを、海辺の小屋にかくまっていたんだから。
いや、それとも偶然、この小屋にブラウンが逃げ込んでいただけなのか?
でも「知らない男が小屋にいる」と父親に報告をした娘が鍵をかけて閉じ込めてしまった、ということは、やはりマロワン家の所有としか思えないし……。

しかもしかも「閉じ込めたのか!?」とマロワンが声を荒げたってことは、しかも小屋に向かうにあたって食料まで準備し、ドアを開ける時には「ブラウン」と呼びかけたってことはさ。
ちなみにこの場面まで、“倫敦から来た男”がブラウンという名前だったなんて、知らなかった。劇中ではずっとミッチェルと呼ばれていた。それは、彼がカネを盗んだ劇場主のお気に入りだった大同芸人のファーストネームとしてのそれ、だったんだろうと思う。
それを言っちゃえばマロワンだってそうなんだよね。彼の名前がマロワンだっていうのは、たった一回の場面でしか示されない。確か、娘を辞めさせた店のバアさんに怒り心頭に呼ばれたんだと思うけど……一回だけ、だったのだよね、彼が名前で呼ばれたのは。

そういう意味で言えば、たった一回しか名前を呼ばれなかったマロワンと、ファーストネームだけ、つまり芸人としてのお手軽な名前しか呼ばれなかったミッチェル・ブラウンは、なんか……共通した気持ちがあったのかなとも思うのだ。
だってさ、ミッチェルは、ファミリーネームを認識されてないってことは、そこには涙ぐむ奥さんは入ってないんだもの。実際、奥さんは恐らく何も知らず、ただただ呆然としていただけなんだもの。

二人は面識を持っていたのか、それともニアミスだけだったのか……マロワンとブラウンがニアミスしかかる場面は印象的に用意されている。
ことにビリッと来たのは、マロワンが見下ろす夜の路地、本当に真垂直の角度に、街灯に照らされて見上げているブラウン。窓に寄りかかるように下を見下ろしているマロワンの、ほんっとうに垂直の真下にジワジワと、しかしまっすぐにカメラが下りていき、ぼんやりとしていた男の輪郭にピタリとピントを合わせる、その鮮烈、いや恐ろしさ!

マロワンが「私が殺しました」と、トランクを持って刑事の元に現われる。老いた刑事が吹き飛ばされそうな。激しい波風が打ち寄せる海岸に面した粗末な小屋に案内する。
ブラウンの奥さんは、引きとめられてもついてきた……ていうか、引き留め役を命じられたマロワンとその友人の二人とも、全然やる気ないんだもん(爆)。
しかしその場面でも中の様子は示されない。ドアの外でマロワンが悲痛な表情を浮かべるばかりなんである。

自分から「あのイギリス人を殺しました」と告白しておきながら、最終的に彼は罪に問われることもなく、それどころか「長年の経験から、あれは正当防衛だった」とあのベテラン刑事から言われて、盗まれたカネを取り戻したい劇場主からの謝礼さえもらってしまうんである。
確かにマロワンは、「食事を運んだだけだった」と言っていた。でもそもそも、なぜ彼の小屋にいたのか、食事を運ぼうと思ったのは、その事態を予測していたからじゃないのか。そして思いがけない異変があって“正当防衛”で殺してしまった、のか。

でもあの場面、しばしの“長回し”の間、吹き付ける激しい波や海風の音ばかりで、中の音なんて全然聞こえてこなかった。殺しだの正当防衛だの、全然うかがわせないほどの静けさのまま、マロワンは出てきたのに……。
このあたりも、説明過多に慣れすぎた映画観客へのアンチテーゼを感じるし、結局は最後までミステリーを解き切らないまま観客に残した感もあり、魔術的な(呪術的な?)映像もあいまって、ヤラれた感を否めないんである。

って、まだ二作品しか観てないのに!!!★★★★☆


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