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セックスの向こう側 AV男優という生き方
2012年 86分 日本 カラー
監督:えのき雄次郎 高原秀和 脚本:
撮影:高原秀和 音楽:渋谷慶一郎
出演:日比野達郎 速水健二 山本竜二 平口広美 加藤鷹 栗原良 平本一穂 島袋浩 田淵正浩 トニー大木 ミートボール吉野 森山龍二 吉村卓 黒田将稔 しみけん 鳴沢賢一 阿川陽志 森林原人 沢井亮 平井シンジ
AVという文化、市場が形成されているのは、これほどしっかりと根付いているのは恐らく日本だけだと思う。それはまあ、平和な国家だという大前提がありがたくもあるからだとは、思う。
でもそれ以上に、どんなことでも、どんな分野でも、どんなジャンルでも、こつこつとした努力と学究心によって突き詰める、日本人特有の真面目な気質があると思う。それがAVという、まあ言ってしまえばタブーで差別されやすい世界を通してみると、より一層明瞭に見える。
今現役で活躍している男優が70名そこそこという少なさには非常に驚くけれども、だからこそより一層彼らのプロ意識と、職人技術と、哲学に感嘆する。
言ってしまえばこれは、AVの歴史をさらりと綴りながら彼らへのインタビューだけで構成しているのに、これがめっぽう面白いのは、人間力がハンパないからなんだよね。
それにしても、そう、70名そこそこ……年間タイトル、そして華であるべきは女優の方のあまたの数を数えると、驚くべき少なさ。
カラんだ、つまりセックスした女優は何人かと聞かれて彼らが応える、5、6千人だという数は、本作のとっぱじめ、つまりはツカミはOK的な導入でドギモを抜くものの、それこそが彼らが、そう、この数の少なさで長年支えてきたのだもの。
信頼と技術と哲学を持った、まさに職人であることを、簡単な質問に答える形のインタビューだけで見せていくのが凄いんである。
そういう意味ではAV女優というのは、よっぽどの売れっ子にならなければ職業として成立しづらい感じがあるけど、AV男優って、まさに職業。
スケジュールを自分で管理し、次の現場、その合間にシノプシスに目を通し、ローションやコンドームなどの小物も、その品質も吟味して“念のため”とはいえしっかりと携帯していく、全き、職人。
思えば作り手も受け手もほとんどが男性であるこの世界、作り手と男優の信頼関係こそが大事であることを痛感させられる。まあだからこそ、女優側は流れては消え去る向きが多いのかもしれないけど……。
きっと男子的にはおおおぅ、と思う人たちが次々出てきているんだろうな。インタビューにかぶさる形でプロフィールがクレジットされるんで、ゆっくりとそれを吟味出来ないのが残念。まあ後からオフィシャルサイトでゆっくり見させてもらいましたけどっ(照)。
やっぱりね、思うのは、その息の長さ。熟女ジャンルがあると言ったって、やはり基本、オカズになるのは若い女の子。まあそれは一般映像世界でも変わらないかも(爆)。若い女優が現われては消えていくのは、AVも、テレビや映画も変わらないかも(爆爆)。
しかし70名……まあそりゃあ、テレビや映画と違って、ほとんどが一対一、まあ何Pとかはあれど(爆)、脇役だの通行人だのエキストラだのはほぼいらない世界。どの作品でも出ている人だけが主人公であるというのは、そりゃあプロ意識が磨かれてしかるべき世界。
だからこそ本数も尋常じゃなく、玉石混合具合はテレビや映画以上に厳しく、観る機会がなかなかない女子としては、コレと思う作品には出会えないのもむべなるかな。
でも、だからこそ、目からウロコが落ちたなあ。そりゃね、正直、男子的にはするりと判るであろう数々の用語……汁男優だの、なんだのってのは、え、ええ、とにわかには飲み込めず、最初から判ってたら、その奥深き世界を語ってくれる彼らに、もっと入り込めたのになあ、と思うぐらいで。
汁男優かあ、言うにこと欠いてスゴイ言い様だが、前述のようにその世界を確立する、突き詰める、磨き上げる日本人はすげーなー、と思う。
量やタメや勃起の維持方法について日々鍛錬している彼ら、キャリアを重ねていくと巨根になるよね、と共通認識で語る彼ら。その拡大率のパーセンテージは云々とか、こうして書くとなんかギャグみたいに聞こえてしまうのがなんとも悔しいんだけど、まさにそれは、プロで、技術で、職人なのよ。これはホントに女子には判らない感覚だからさ……。
女子的には気になるところがある。ずっと、気になっていた。これはやっぱりAVから派生したんだとここで納得した、“潮吹き”ってヤツである。
正直私は経験ないし(爆)、だから不満という訳でもないし(爆爆)、こんなんホントにあるんかよ、と思っていた。
あるらしいし、劇中のベテラン男優の一人が、医学博士よろしく詳細に解説してくれて、な、なるほど……と思わず納得してしまって、女子である自分の身体を、自身で探求してないんだなあ……と彼らのプロ意識に反射する形で思わず反省してしまうんである。
そういやあ劇中、男子の性器は外に出ているからケアしやすいけど、女性は中に引っ込んでるから……たまにヒドい女の子とかいる、と言われるとゾゾとする。
う、うう、でも女はそれで色々、色々、苦労してるのよーっ。引っ込んでる分、病気にもなりやすいし、デリケートなのよーっ!!
男優さんたちは息が長いから、もうダンディなお年頃の人たちもいるから、当然結婚し、家庭を持っている方もいらっしゃる。
仕事したての頃に、監督の家で、二階に奥さんと子供たちがいて、下で撮影して、しかも監督自身が“ホンバン”をやっているのを目にして(彼はまだ擬似と言われる挿入のない芝居だった)、凄い世界だと、カルチャーショックを受けたというエピソードも披露される。
それこそ潔癖な若かりし頃、特に潔癖な若かりし頃の女子は、こういうの、ホント相容れないと思うんだよね。私もさー、昔は、AV女優さんは元より、女優さんが映画で脱ぐだけで、親御さんは……とか思ってたもんね(爆)。
でもそうじゃないんだということが次第に判ってきて……でも、そうじゃないんだというのが、どうそうじゃないのか、上手く説明できないまま今日に至って。
ああそうか、彼らの側から語れば、もっと明瞭に、シンプルに、判るんだと思うのだ。その現場で求められることを仕事すること。それに付随する様々な技術や、心の持ちよう。
その仕事、が、セックスだから、当然難しい部分がある。本作の中でシンプルにぶつけられる様々な質問の中に、プライベートと仕事のセックスの違いとか、女性とはなんだとか、究極は、愛とはなんだとか、投げかけられる。
本当に質問がシンプルで、それが本作の面白さを形成している何よりの部分だと思い、そしてその答えに戦慄したり、共感したりする。
正直、ね、本作の冒頭あたりは、彼らの仕事に対する姿勢とか、価値観とか、割と共通する部分も多くて、AV男優というひとつの人格を皆で作っているようにも見えたのね。この仕事をするようになったキッカケも、様々ではあるけど、似た感じの人も多かったし。
好みの女の子なんてそうそういないとか、昔と違って女優さんとコミュニケーション(この場合は会話)をとる時間すらないとか。そういう構成かあ、と。
でもシンプルな質問を次々に投げかけるうちに、彼らの違い、人間としての個性、その面白さがどんどん出てくる。
不思議なことにね、一番年若い、ように見える(女優以上に彼らは年が判んない……若く見えるというだけじゃなくて、逆でも)、茶髪でダラダラしたトレーナー姿でジャラジャラした金アクセの男の子が、凄くいい言葉を持ってて、なんか聞かせちゃうんだよね。
くだんの、ここに来ている女の子たちは、来たくて来たんじゃないんだ、と言ったのが彼。それはカラんでいれば判る、セックスってそういうもんでしょ、と。
死ぬまでAV男優を続けたいと語る彼は、若い頃を語った部分を見れば……私みたいなイナカモンにしてみれば、ナンパで引っ掛けての経験が大半、セックス好きだからAVに入ったとか、もうそこだけピックアップして聞いちゃったら、あーヤダヤダとか単純に思いそうなんだけど。
でもさ、大前提として、ここでは誰もがわざわざ言わないけど、セックスは人間にとって、てゆーか、生きているものにとって必要不可欠なものだし、気持ちよくて素敵なものだし。
セックスとは何か、愛とはと問われて彼が、考え考えして口にした、愛の行き着くところは家族愛だと自分は思っている、そのためのツールがセックスで、でもそのツールは気持いいもんだから、おぼれてしまう人たちも多い、と。
私、ビックリしちゃってさ。彼の哲学にはそこに至るまで充分驚かされていた筈なのに、なのにやっぱり、先入観っていうか、そういうのがあったんだなと思って……。
だって彼、セックス好きっす、AV男優っす、一生やりたいっす、みたいな、そういう判りやすい外見なんだもの。あー、やっぱ人間って、見た目で判断するイキモノなんだなと思う。落ち込む。
いや、ね。だって登場する男優たちは本当に十人十色でさ、見事に違うのよ。ある意味男子見本みたいな感じよ。30年という歴史の中、初期からのベテランも含めているから、老若もタイプも、得意とするジャンルも、哲学も違う。
いかにもダンディなベテランが「こんなトドがモテるのか」と嘆息するような売れっ子男優もいたり、でもそれって女としては、そうそう、女は男よりメンクイ度は低いのよ、イケメンだからいい訳じゃないのよ、むしろイケメンはイヤだったりするのよ!と思わず溜飲が下がる場面もあるのだが、まあそれは置いといて(爆)。
とにかく十人十色、百人百色でさ、この“いいこと言う”男の子は、その中ではいわゆる、簡単に思い浮かべられるような“AV男優”なだけにさ……。
かつては人間力も問われたこの職業だけれど、今は“誰でもなれる”と彼らは自嘲気味に口にする。女優さんと会話のコミュニケーションもろくにとれない、ところてん式の現場、パンツが脱げて、タフであれば誰でもなれる、と。
劇中、パンツを脱ぐことへの抵抗をメッチャ感じてた向きあり、逆に全く感じてない向きあり、“パンツを脱ぐ”という単語がやたら連発される可笑しさがあり、出すべき場所が一箇所である男子と女子の違いを感じて面白いなあ、と思ったりする。
女子的には、足を出す、お尻を出す、おっぱい出す、ヘアを出す、あるいはそれ以上にスッピンを出すことが一番怖いのかもと思ったり、まあ色々あるじゃない。
と、脱線したけど、AV男優に今では“誰でもなれる”と言う彼らは、“今では”というところに哀惜と、誇りを持っていて、いわばこれからが第二ステージになっているということなんじゃないかと思う。
一番最初に言ったけど、こういう文化、市場を育ててきたのはきっと、日本だけだからさ。
セックスは確かに秘めごと。それは男優さんの一人が言っていた。セックスは何か、プライベートと仕事のそれは違うかと問われた時、その質問が一番彼らの職業とプライベートのアイデンティティを突いていて、メッチャ面白かった。
セックスはセックスで、同じだと、プライベートも変わりないと、そうじゃないって人がいるなら教えてほしいと言う人たちが複数いる一方、明らかに違うと言う人もいて、でも一番しっくり来たのは、色んなセックスがある、それでいいじゃないかと、それが人生なんだ……とまでは明確には言わなかったかもしれないけど、そういう論を発した人、だった。
彼は、なんていうか、普通に、イイ男で、ああ、そうそう、プロフィールの解説が端的、細マッチョ系男優。実にイイ男。
好きな相手とする充実したセックスも、行きずりの女に声をかけてする乾いたセックスも、その両方があるからこそ人間なんだと。愛のツールだとか、好きな相手とじゃないセックスを否定するんじゃなくて、いろんなセックスがある、それでいいじゃないかと。
まあそりゃー、彼は仕事柄ってこともあるし、何たってイイ男だし、そういう機会も色々あるだろうし、つまりは私あたりの事情とはあまりにもかけ離れている、んだけど、不思議と、彼の論がしっくりと来たんだよなあ……。
なんでだろう。セックスとはなんぞやというものに、縛り付けられているのはむしろ女の方だからこそ、それを糾弾されるのも女の方だからこそ、そう言いたくても言ってしまえばインランとか、まあその言い様も古いかもしれないけど、いつまで経っても男社会だからさ、そういうのがあるから、そうそう、と、彼の言うように言えたらいいのに、と凄く、思ったのかもしれない……。
本作の魅力はなんといっても、彼らの女優さん、つまり女に対する優しさ、である。潮吹きの描写が大げさになっていくことに懐疑的な複数の男優さんたち、気をつけているのは、女優さんを痛くしないこと。気持ちよくすることではなくて、そっちが優先に来ることに、ジンと来てしまった。
AVを観る機会は男子より女子は少ないと思うけど、でも目にした時思うのは、こんなの女子は喜ばないよ、というのが大多数、なんだもの。やっぱり、傷つく。こんなことで喜ぶと思われていることも、それを基本に、男子のセックスの教科書にされていることも。
そう思っていたから、彼らの女優さんへの、女性への優しさに、なんだかジーンとしちゃう。私もさあ、ピンク系列の女優さんとか監督さんからしかAVを知らなかったけど、AVの成り立ち、需要の理由を考えれば、少数精鋭の男優さんたちで選ぶべきなんだ、凄く新鮮な、発見だった。
マツコさんから「あんたは本気でAV男優やらなきゃダメ」と背中を押された人がいたり、とにかくとにかく、書ききれない面白さが多すぎるんだけど!!
★★★★★
全文が数分で読める短さだったことに驚いた。そして映画として作られた半分が、その中に存在しなかったことにも。
「続戦争と二人の女」というものもあるというから、そっちの話がそうなのかも、と思って探したら、これはその“一人の女”側の視点からの話で、つまりその二つで野村と女の話は完結している。驚いた。まさか、ムラジュンの話が全くの付け加えだったなんて。
でもね、実は、違和感というほどじゃないけど、特にラスト、ムラジュン扮する、戦争で右腕を失った男が強姦殺人の罪でとらえられ、その動機を吐露する場面、妙に説教臭いなと思ったのね。
私は坂口安吾の作品はちょっとしか読んだことない。それこそこれも映画になった「白痴」と何篇かをちょろちょろっとぐらい。
でもその数少ない印象からも、彼はそんな、戦争が人を狂わせるということを、天皇陛下は戦犯ではないのかと糾弾するようなことを、しかもお上のイヌである警察に向かって、カメラ真正面で(ってのはもちろん、映画だからだが、つまりそのぐらいまっすぐに)ある意味青臭いことを言うかなあ……と思ったのだ。
まあ……それは私の勝手なイメージ。退廃美なんていうことを、これほど職業作家として長く活躍した人に勝手に植えつけるなんて、それこそ読んでないくせに、てなもんである。
でも、実際の原作がこうだと判ると、なんか途端にその付け加えが、ええ、なんで、と思ってしまう。それともどこか他の安吾作品との融合なのだろうか。そういう話も聞こえてこないけど……。
何か、ね。このヒロイン、タイトルロールであるヒロインのことを、決着つけさせようとするための人物のようにも思えたのが、なんか、なんていうか……。
後から気づいたけど、このヒロインには名前が与えられていないんだよね。原作でも、女、だし、彼女側からの「続」でも私、の一人称で通されてる。
一人の女として、彼女自身の行く末を見極めることをしていないからこその魅力のように思う。そして……ウッカリ原作のあらましを知ってしまったからだけれど、そういう、決着のつかない女として、じっくり一本の映画で堪能したかったように思う。
この女は妾で、小さな飲み屋を営んでいるけれど、その旦那に去られて、飲み屋をやるのも面倒になって、そこの常連だったうらさびれた作家に鞍替えする。女は江口のりこ。作家は永瀬正敏。ワクワクする顔合わせである。
江口のりこはその存在を知った時からバンバン脱いでくれていたし、判りやすい美女でもなく、スレンダーでスタイルはいいけど、おっぱいが大きい訳でもない。
つまり判りやすいエロからは離れている、一人の女としてのリアリティを持ってて、そして今彼女が達している年頃もイイ感じで、少し張りをなくしたおっぱいの柔らかさ加減とか、それがしどけなくほどけた和服の胸元に見え隠れするのが、イイなあ、と思う。
まったく見当違いの方向から持ってくるけど、若く張りまくったおっぱいを出すことにもったいぶりまくったエリカ様のことなんぞを思う。
女のハダカなんて、そんなもったいぶるもんじゃないのよと、のりこ様はさらりとしたもんなんである。
本作がやたらタブータブーと言われているのはよもや、彼女を含め、女たちがヘア出しまくりだからという訳でもなかろうが、つまりオリジナルのキャラ、ムラジュンの示す戦争の罪悪のことだったりするんだろうけれど、なんか、そんな雰囲気もしなくもない。
まあでも確かに、のりこ様が焼け野原の中でもんぺを脱ぎ捨て、パッと裾をからげ、「須崎にいた頃は病気にならないように、こうして天から干しをしたのよ」とあっけらかんと言い放つ場面は強く印象に残る。
彼女の店の常連さんで、しつこく彼女に言い寄っていた初老の男(柄本明)が、空襲後の焼け野原、黒焦げの死体をわざわざ見に出かけるのが好きだというエピソードに乗っかる形で、このエピソードもオリジナルであり。
そう思うとこれもなあんとなく、戦争に対する、あるいは戦争を語る上での暗黙の了解に対するアンチテーゼという感じがしなくもない。
のりこ様が黒焦げの犬の死体を見て「これがホントの犬死にね」なんて言うのはクスリとさせられなくもないんだけど、そんな風に後から思うと、それもちょっとなあ、と思わなくもない。
でも、そう、そんな風に、後から思えば、である。あーあ、ウッカリ原作なんか探さなきゃよかった。こんなのいっちゃん、つまんない観方だ(爆)。
うーん、でもでもでも、知ってしまえばやっぱりムラジュンのキャラは気になる。彼はこの女とは基本的には人間関係を結ぶ訳ではない。
彼自身の物語が女と作家の物語と共に並行して描かれるし、女も強姦殺人未遂の対象になるけれども、それこそ、まるですれ違いのように捕えられた彼は、先述した警察での取り調べの場面で、青臭いことを吠えまくる。
ひょっとして、製作側は彼のことを描きたくて本作を作ったんじゃないかと思うぐらい、どうにも乖離しているように思ってしまう。
それは、本作がタブーだというならば、戦争という非常事態に、しかも日本が戦争に負けるだなんてことを、口がまがっても言っちゃいけないご時世に、あっさり口にして、セックスにふけりまくって、戦争に負けて日本という国はなくなる。戦争に行かずに、欲求を持て余した女たちが生き残って、あいのこを産みまくるんだと、作家が、言葉の激しさとは対照的にぼんやりと口にするあたりなんじゃないかという気がしてる。
防空壕にも入らずに花火みたいな焼夷弾を眺め、爆風に吹き飛ばされた後、妙に興奮して焦土の中セックスをする女と作家。
ムラジュン扮する隻腕の帰還兵は、最初からそんな鬼畜男だった訳じゃなかった。でも彼が戦争で経験してきたことは、それこそ先述した捕えられた警察での独白まで、明かされることはなかった。
大きくなった子供は父親を覚えていなくて人見知りし、さじで食事をする彼は子供に「朝鮮人はこうして食べるんだ」「右腕があっても?」「そうだ」と語る。
子供と母親が市場でシナソバを食べる場面で、かつての敵国であった食べ物であることを子供があっけらかんと口にし、こんなにおいしいのに、と言い、父親のマネして左手で食べようとしたりとかする場面、原作が……と思ってしまうから、とってつけたように思っちゃうのかな。
戦争という形や、それがもたらした罪悪を、判りやすく足した場面がどれもこれも、本作オリジナルである部分のような気がして、なんだか居心地が悪い。
隻腕のムラジュンがもはや戦力にならず、銃剣訓練でも模範を示せず、彼はぼんやりとさまよう。
女が輪姦されている場にでくわす。やめろと割って入ろうとするも、数人の健康な男たちでは相手にならない。
ボカリと殴られてキュウと気を失った彼が目を覚ました時、犯されている女はうつろな目で彼を眺めていた。そして彼は、帰還後どうにも勃たなかったムスコが元気になっていることを知ってうろたえる。
そして妻と子供を疎開させた後は、「コメが安く手に入る」ネタで女たちを強姦、殺害ざんまいである。
何も殺すまでせんでもと思うが、捕まることを恐れたのだろうか。それを含めての快楽だったのかなあ、判らない。
もしそうなら最後の相手、のりこ様を殺さなかったのはどうなのとも思うが、彼女が自分と同じ性癖をここで開花させて頬をバラ色に染めて絶頂に達し、もっともっととすがった姿に、自分自身の愚かさ汚さを見て、萎えたということなのか。……でもそれも、随分と教科書どおりって感じだけどなあ。
なんかうっかり狭間に陥って忘れそうになるが、この作家先生こそが、坂口安吾世界を示している、筈、である、多分(あまりウッカリしたこと言えない……)。
のめりこみ型俳優の永瀬氏は当然、ずっぱりこの作家先生で、なんか気の毒になるぐらいである(?何が?)。
戦争が終わり、死ぬ気マンマンだった彼と女は、どこか拍子抜けしたような晩夏を迎えている。
女は彼の言葉に従うように、いや自分自身のまっすぐな意思でこそだろう、あいのこを産むために最初は慰安所に入り込み、そこが規制されると立ちんぼとなってアメリカ兵相手に仕事をこなす。
久しぶりに会った作家に「ダメなのよ。病気を怖がってみんなサックをつけるもんだから」。
そしてあの刹那の夫婦生活を思い出すかのように、クスリ中毒でフラフラの先生に、精のつくものを作ってあげる、とほほ笑む。
んでもって、あのムラジュンの“安く米を分けてあげられる詐欺”、に引っかかる訳。んでそこで、長い女郎&妾生活ですっかり不感症だったのが感じちゃって、殺されそうになったっていうのに、その後、この隻腕の帰還兵を探してさまようようになるんである。
まあ、男も女も色々あるし、いいんだけど、この展開はあんまり、好きじゃない。ムラジュンが強姦場面でムスコ復活も、のりこ様が強姦&殺人未遂でエクスタシー復活も、道徳的を破る=タブーとしての単純図式に思えてしまう。
まあでも、戦時中だからという前提だから、なんだろうけれど。平和な時代なら、あくまでフィクションという位置づけでの、こういうエロネタは健康的なぐらいじゃない。まあたまには刺激的なバリエーションで楽しみましょう、みたいな。
このシークエンスはあくまで、この帰還兵が戦場で体験した鬼畜さ……無抵抗の捕虜や地元住民を銃殺、略奪の上に焼き払い、女たちを数十人で輪姦、それを彼自身が深い傷として抱えて帰ってきた筈なのに、だから久しぶりの女房に対しても勃たなかったのに、なのに、強姦場面で勃ってしまった、という罪悪感によるもの、でしょう。
それなら判る。判りすぎるぐらい判る。凄く、辛いと思う。でも、ならば、それだけで作ってよと思っちゃう。
これは「戦争と一人の女」でしょ。彼のトラウマの中に彼女がシンプルに悦楽を見出すのは確かに面白い図式だけど、結局その後の彼の、天皇の戦犯問題だの、戦争と平時における殺人や強姦の罪の有り無しのギャップだのといった独白、どころか演説になってしまうから、さ。
もうそうなると、何か男子的な戦争演説会状態って感じで。せっかくの、不感症だった女がレイプ殺人に悦楽を見出した、という“タブー”が薄れてしまうんだよね。
薄れてしまうどころか、それこそひるんだ彼が自らを省みずについ言ってしまった「この、キチガイ!」で終わっちゃう。凄く、もったいない気がするんだよなあ……。
これは恐らく原作そのままの、あの時代そのものの言い回しや口調が何とも雰囲気で、魅力的。こういうの、昔は、そう、若い頃は、わざとらしく感じて苦手だったんだけど、年をとった、っつーことかなあ、などと思う(爆)。
焼け野原の造作が微妙にスカスカで妙にセットくさいのがちょっと気になるけれど、この作品世界はリアルにしたら違う気がするのも確かで、難しいところ。
戦時中的モンペ姿は一瞬だけで、情勢が変わると落ち込む間もなく(間もなくというか、気もなく)あっという間にモード系フレアースカートをなびかせて闊歩するのりこ様の気にしなさが素敵。
それもあって、彼女が戦争で死にたかったと、戦後の晩夏をあられもないスリップ姿でどこか呆然としているのが、これもちょっとだけ、形骸的に感じた、かなあ。
でも女なんてそんなもの。波は激しいけど、その波の幅は狭いのだ。ウソ泣きじゃないけど涙はあっという間に乾いてしまうし、セックスの感覚だって、恐らく男性が考えている以上に自分勝手。相手ではなく、自分次第、妄想と余韻でいかようにもなってしまうのだ。
作家が女に感じた執着と、相反する軽蔑は恐らくきっと、それを判っていないからに他ならない。
男が女に感じる可愛いという感情と、女が男に感じるそれは、前者が、男が女に騙されていて、後者が、女が男を騙しているから、なのだ。
そこを踏まえないと、本作のみならず、いろんな作品世界が大きく違ってくる。つまりそれだけ、女はあらゆる場所から排除されてきたのだ。
いつになったら、この違和感が排除される時がくるのだろうと思う。もちろん、それぞれの、男と女の、一人一人の人間の、個々の思いで作られる作品なのだから、と思う。それでもいまだにこうした違和感はつきまとう。
こうして原作が用意されていてすら、付け加えられて、良かれの筈のそれが、軌道を外す。……男と女が、そして時代が、相容れないことはしょうがないと言ってしまえば、それまでなのだけれど。 ★★☆☆☆
それでもやっぱり、そう、遺作だもの……と思って足を運ぶ。イザナギイザナミの神話、女陰の形状を赤裸々に映す巨岩、男たちを股からひねりだす女を賛美しているのか穢れて見ているのか渾然となった男の視線は正直、昭和の時代の匂いがプンプンとして、もうこういうの終わらせてくれよ……と思いながらも、三人の男たちのダダモレ色気に目が離せない。
三人、宣材写真に出ているのは高良君と高岡君の二人で、三人目の染谷君は確かに尺的にはあまりにもチラリだが、三人の男たち、と言いたい等分の存在感。そしてそれを受けて立つのが若松監督の最後のミューズ、寺島しのぶ姐さんの圧倒的存在感。
でも、この産婆のオリュウのオバには、彼女は若すぎるような気もした、なんて、原作も未読なんでアレだし、この物語自体が年老いてもう命の火が消えかかっているオバが回想する形だから、彼女が産婆を始めた年齢付近に彼女の年齢を合わせていると思えばいいんだけど。
でも、メインとなるのは三人の男たちをオバとして、オバというか、劇中ではオバアと呼んでいるように聞こえたし、つまりそういう、地域の皆が頼るオバアチャンみたいな雰囲気があったから、寺島しのぶでは何となく若すぎるよなあ、という気がしたのね。
イヤ勿論、彼女の達者な芝居はそう感じさせないというのはあるんだけど、でも語り部として寝たきりの老女の彼女が、髪だけ白くてお肌は若いし、まあ不自然な老けメイクをするよりはマシだけど、なんか……違和感を感じてしまった。
いや、それよりも、三人目の染谷君とあーゆーシーンをやっちゃうのなら余計に、“オバア”であることが重要であるように思えた。
高良君、高岡君と、女たらしの血をつなぐ男たちにたわむれのように口説かれながら、そう、それはあくまで、息子のような、孫のような相手のジョークであって、もう、アンタはいい加減にしなさいよ、てな雰囲気であった。
でもその時点から寺島しのぶ姐さんは、彼らと充分ヤレるよなと(下品な表現でゴメン)思う美しさだったし、そして一等若い染谷君と最後に相対することになって、彼とはそれこそ親子のように年が離れてはいるんだけれど、まあ寺島しのぶとはアリかと思っちゃうのね。
これはさあ……そうじゃなくって、オバアだからこそこのシーンは衝撃があるんじゃないの。玉の汗を玉の肌に浮かせる美しい若い男に、オバアになって、ついにガマン出来なくなったからこそ、その画だからこそじゃないの。
……いや、これはあくまで推測なので、ゴメンナサイ。とにかく最初から行こう。最初の最初は三人の一人目じゃなく、プラスアルファとも言うべき最初の美しき男。それこそ若松監督が最後に信頼を寄せた男、井浦新氏。
妻が出産するというその時になって、手を出した女に腹を刺されて血まみれになって、この血が、中本の血が、と、口からも大量の血を吐きながら吐露する。
あんな状態になってよう喋るわと思わなくもないが(爆)、これはいわば全篇神話とも言えなくもないのだから、それでいいのかもしれない。
オリュウさんの夫である僧侶が手を合わせる。その隙に、血まみれの着物を残して彼は姿を消した。まるで神隠しに遭ったかのように。
その息子が、高良君演じる半蔵である。彼をオリュウさんが取り上げるところから物語は動き始める。
舞台となる、急な斜面に緻密に、というかゴチャゴチャと作りこまれた、路地と言われるところが、劇中で語られる雰囲気では何か、それ以外の土地の人々から卑下されるような感覚がある。
半蔵は産まれた時に父を亡くし、ほどなくして母も男を追って姿を消し、親戚をたらい回しにされた上、遠くにやられて、成長した姿でこの路地に戻ってきた。高良君だから当然とはいえ、まぶしいほどに美しい青年に育った彼をオリュウさんは一瞬、判らないほどだった。
身ごもったヨメと共に帰ってきた彼は、すぐに中本の男の血を発揮し始める。「女の方から寄ってくるんじゃ。してみると気持ええしな」。
そしてキスマークを見せ付けて「オバにも吸い跡つけてやろうか」とその時だけじゃなく、やたらと下ネタをオバにぶつけてくるのは、ひょっとしたら彼は、オバのことを慕う気持ちの延長線上でそんな気持も持っていたのかもしれない。と思うのは、高良君としのぶ姐さんのそんなシーンを見たかったからかもしれないけど(爆)。
それにしてもそれにしても、高良君の美しさは相当、ヤバかった。彼が美しい男の子だというのは知っていたけれど、実はその美しさを、そのまま当て込んだ役柄って、なかったのかもしれない。トンがった役や、純朴青年の役があったのに、こんなドンピシャな、美しい男であるがゆえに、女を狂わせる男、ってのが、なかった。
ああでも、つまり彼がそういう年齢になったのかもしれない。これは若い時にはやれないもの。人生も役者もある程度キャリアを積んだ高良君の、女たち、ていうか年上の女たちを狂わせる様はくらくらするほど美しい。
うぐいすの鳴き声を発するインコをイイ仲になった人妻の家から奪ってきて、オバの元に届けるシーン、あれって、やっぱり、彼はオバのことがソウイウ意味で好きだったんじゃないかと思わせた。
ハデなナリで路地に帰ってきて、自分の子供が誕生しても怯えたような顔して、人妻に入り浸って、山の仕事で榊を刈っちゃうしくじりを犯して、愛人に助けてもらったゆえにその夫に刺されて死んでしまう。
高良君、高良君!高良君!!ヤバいよ、あんたの美しさ!この顔が女を狂わせるんだと、道端の石ころで自分の頬に傷をつける、ガラス窓ににじんで映るシーンの退廃美、ヤバすぎるよ!!
でもね、私が三人の男、いや、井浦氏を加えて四人か、あるいはこの物語の中で最も心をつかまされたのは、中本の血なんてナンボのもんじゃいと、火のように生きたいと願ったそのままに生きて、尽きてしまった三好を演じる高岡君だった。
あのつまんない騒動で、あんなつまんないことで三行半をつきつけられて、ショボく消えていきそうだった彼を、若松監督は救ってくれた。
高岡君がこの作品に参加したことは知っていたけれど、まさかこんな重要な、ていうかメインの一人であるなんて思ってなかった。若松監督は図らずもアウトローとなってしまった彼を、その意味で買ってのキャスティングだったのかもしれないけど、この仕事ぶりで今後の若松組に重用される可能性は充分にあったのに。ていうか、きっとそうなっただろうに。
高良君の刹那的な美しさに比して、あるいは彼自身が、そんな風にはならないと強く思っていることもあって、生きる力にみなぎっている。
半蔵が愛人の夫に刺し殺された場面のヤジウマの中に彼はいて、オバが血だらけの半蔵を抱きしめながら泣いているのを冷たく見下ろして、自分はそんな風にはならないとつぶやく。
倉庫から盗んだパイナップルの缶詰をオバへ手土産に持ってくる。オバのダンナの僧侶は渋い顔をしているけれど、オバは無邪気に喜んで受け取る。
半蔵の時も、そしてこの三好にも、彼らにどんな悪い噂があって、いや、噂っていうか事実だと判っていても、彼女は彼らをあたたかく、母親のように迎え入れる。いや、母親にさえ出来ない無償の愛。だからなんだか、あぶなっかしい、んである。
んー、そう考えると、確かに寺島しのぶ姐さんで正解だったのか。だってその危なっかしさは、女としての危なっかしさ、だもの。でも、母親は息子に対して擬似恋愛にも似た感情と関係性を持っていると言われることを考えると、納得かもしれない。
しかもこれは、冒頭にイザナギイザナミ、女陰の岩、なんだもの。半蔵が繰り返し、自分のマツタケだのなんだのと自慢げに言っていたのは、息子も母親に対してまた……いやいやそれは、息子を持ったらと考えちゃう独女の悲しき妄想、だわな。
それにしても高岡君は素晴らしかった。なぜ今まで若松組に呼ばれなかったんだろうと思うほどの、若松監督が好みそうな、その世界の住人だった。美男だけどどこか泥臭さのある風貌は、刹那を生きる若松世界にピタシである。
コソドロを繰り返し、大きな盗みの仕事に声をかけられて「そういう仕事を待ってたんだよ!」と有頂天になる場面がまさに顕著。この仕事はハタから見ただけでもダマされてると判るし、彼が中本の血から抜け出すためにあえいでいるのを、見せないように見せないようにしているのに、こんなところでまるで無垢にポンと見せてしまっている子供のようなところが、オバじゃなくても、息子のように、バカだねえアンタと、愛しく思われてしまった。
最終的に彼は、引っかかってしまった女との睦みごとの延長線上で彼女の家でコソ泥を働き、居合わせた夫を殺してしまう。
女はいかにも、自分が悪いんだ、自分の家ならば、この人がやりたがっている盗みが出来ると提案したと言い、彼もまた、ダンナがいる時の方がスリルがあっていいと思ったと言う。
でも、でもでも、実はさ、この女、計算だったんじゃないのと、思ってしまう。中本の男の血、その美しさが女を狂わせる血だと、まあ確かにエピソードを辿れば思うけど、そのことで身を滅ぼし、死んでしまうのは当の中本の男の方、なのだもの。三好もまた、首をつって死んでしまうのだもの。
そしてそれを見届け続けるオバもまた、ついに最後に、中本の男の魅力に負けてしまうけれど、ヤッてしまうけれど、その若き男がほどなくして渡った開拓地で殴り殺されて死んでしまったのは、そりゃあ直接的にはオバは関係ないにしても、彼がこの路地をあとにしたのは、オバとそんなコトをしでかしちゃったせいもあるかもしれないしさ、やっぱりさ。
染谷君、彼はなんだってこうも、年上女をあてがわれるのだろう。可愛い顔した男の子、確かにそれはおねーさん、おばさんにウケはいいだろうが、対等な年齢の女子にだって、充分しっくりくるだろうに。
なんかもう、彼はそういうイメージがついてしまったような気もしてしまって、ちょいと気の毒だが(爆。まあでも、「ヒミズ」はそれを補ってあまりあるか……)、しかし、ホント、似合うのよねー!!
実際、こんなんこなせる同世代の役者の男の子がいるだろうかと思うと、彼が重用され続けるのも判るけど、これからの時代、恐らくこーゆー役柄は増え続けるだろうからさ。うーむ、何か不毛だが……それがニーズ(私のような(爆)というものだろう(自嘲)。
美しき中本の男たちが、穢れているけれど高貴、あるいは高貴だけれど穢れている、そんなアンビバレンツを刹那の美しさ、はかなさで活写される横っちょで、いや基本のところで、女たちが迷路のような路地にたくましく、かしましく、しぶとく生きている様子が活写される。
これを素直にポジティブに女の価値観としてとらえていいのかと、最初にもちょこっと言ったけど、何かフクザツに悩む気持が起こるんである。
そう、未読なんで、しつこいけど未読なんで(しつこいのは、読む気がないってことかも……)アレなんだけど、原作自体も実際は男を賛美してるんじゃないのと思うからさ……。
かよわく見せてて実はしぶとく、股から男をひねりだす女。男にクラリとなびく様子を見せながら、男の下であえぎながら、そうして女を卑下させ優越感にひたらせながら、結局は男を破滅させる女。
それを、それだけをまっすぐに描写するなら、女のしたたかな強さ美しさと思う。でもここではそうじゃない、よね。それを穢れたものとして示してる。そんな気がしてならない。
血に負けた男たちの情けない生き様と死に様を、実はそっちこそ賛美しているように思えてならない。……読んでないくせに、映像化とかでちらちら目にする中上作品に何となくイラッとするのはそのせいかもしれない。
そしてそれは昭和、なんだよね。どうしようもなく、昭和。そんでもって、それを、昭和を、中上健次をありがたがる男にイラッとするワケなのさあ。
まあそれもまた、女の側の勝手な言い分なのだろう。中上健次も、そして若松孝二も、そういう意味では価値観の狭間に生きた作り手だったと思う。評価よりも共感が分かれるのは、足跡を残すという意味でエポックメイキングな存在だったと思う。★★★☆☆