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「か」


2012年鑑賞作品

ガール
2012年 124分 日本 カラー
監督:深川栄洋 脚本:篠崎絵里子
撮影:河津太郎 音楽:河野伸
出演:香里奈 麻生久美子 吉瀬美智子 板谷由夏 上地雄輔 要潤 林遣都 波瑠 加藤ローサ 初音映莉子 吉田羊 黒川芽以 森崎博之 野間口徹 矢島健一 モロ師岡 池田成志 左時枝 段田安則 向井理 檀れい 椙杜翔馬


2012/6/26/火 劇場(TOHOシネマズ錦糸町)
森崎リーダーが出てると知らなければ観なかったかもなあなどと……。深川監督、すっかり商業映画の忙し監督になってしまって、それぞれに標準レベル以上の作品を残してはいるけれど、最初に出会った時のワクワクが忘れられない。オリジナルを撮ってくれないかなあ、と思う。
というのはまあ、別の話。本作は原作もオムニバスだそうだし、パッケージを見ただけで、うっ、これ、それぞれの女性の物語、オムニバス映画ではない形にしているにしても、書くの相当めんどそうだなあ、という、これまた私の苦手印の映画。
それにこういう、いわゆる“女性映画”つまり、男性客があまり来なさそうな映画(爆)、来るとすれば美人女優を目当てにしてくるであろう映画……で、別にいいんだろうけれど、そういうタイプの映画ってちょっと懐疑的になる気持ちがあって。

うー、観た日にさ、私の隣の隣の席の男性が、すんごい巨体で、バケツみたいなポップコーン抱えて、それを口ん中に放り投げるように食いながら見てて、窮屈なのか何度も体勢をしかも大きく変えて、乗り出したりなんだり、自分の家か!ってメッチャ腹立たしくってさあ、ってそれもまた別の話だが。こーゆー男性が一人で観に来るような映画でもまあないとは思うが……。

別の話ばかりだな(爆)。まあとりあえず構成行こう。語られる女性は四人。その中でも切り込み隊長で、主演と言えるのが一番若い香里奈嬢。一番若いコが主演となるのもこの趣旨に反してるんじゃないの、と思わず噛み付きたくなる私は、もはや彼女らの苦悩もかわゆく見えるただのオバサンかも(爆)。
広告代理店、だよね、彼女が勤めてるの。デパートの女子企画に奔走するも、お堅いクライアントの加藤ローサに手を焼く。
ブリブリファッションで、他の三人の年上の親友たちから、そろそろイタいよ、と釘を刺され、ただいまお悩み中の由紀子。

一回り下のイケメン部下にときめく自分に戸惑っているのが、吉瀬美智子演じる容子。由紀子から見れば(由紀子が他の三人のお姉様方をモノローグで評するのね)、オシャレも手抜きがちなお気楽シングル。
妹の結婚や職場での若い女子社員からの同情と失笑の空気にも戸惑ってる。でもあんまり困っているっていうまでには見えない。
それなりにキャリアを積み、それなりに上の立場ではあるけど、そこそこの規模の会社って感じで、彼女の感覚は私にも判る……気がする……でも私にはそもそも部下の女子社員がいないからやっぱり判らんか(爆)。

管理職に抜擢され、年下のやり手部下に敵意、ならまだいい、蔑視むきだしにされる聖子。麻生久美子は意外にこういう役、見たことなかった。
本作通じて思うことだが、今更、今でも、こんな最先端の時代でも、こうなのか、と思う。今更、今でも、こんな最先端の時代でも、女の苦悩を描く映画が作られて女の共感を得ちゃうことこそに、その前提こそにイラッとしたり、空しさを感じたりしたが、それが最も時代錯誤な感じに示されるのが彼女のパート。でもそれこそが現実なんだから、ホント日本はダメ。

板谷由夏演じる孝子のシングルマザーのパートも、まあその点ではそうかもしれない。離婚した場合、シングルマザーが当たり前で、シングルファザーだと同情され、子供を引き取らない女の方を冷ややかに見るこの風潮。
そして当たり前になったシングルマザーなのに、その手当ては厚くなく、彼女のように過剰に頑張ってすら、それが“普通”とみなされるのだ……。
だからこそ友人たちから頑張りすぎと言われても、“普通”から転落すること、つまり社会的弱者になることがイヤな彼女は「頑張らせてよ!」と咆哮する……。

ひとつひとつ、一本の映画になりそうなぐらいの重さがある。それが原作ではオムニバスで、映画では一本にしちゃうあたりに、ガールという“女子”のくくりの軽さがある、なんてかみついてはいけないだろうか。
上手く出来ていると思うけれど、そもそも切り込み隊長の香里奈嬢のような女子が一番私から遠いところにいるから、なかなか難しい。

いや、もちろん、本作はそれも承知の上での構成だと思う。女から見ても、微妙なというか、難しいキャラ。嫌われそうなタイプ。非ロマンティックな彼氏にトキメキを感じないとブーたれるあたりも反感を買いそう。
おいしい定食屋さんなら、いつも同じ場所でもいいじゃん、鍋を焦がしたと聞いたから最新機能の鍋をプレゼントしてくれるなんて最高じゃん、と言いたくなるのは、別に相手が向井理だからではなく(爆)。
うーん、でも彼も、イケメン君なのに、かなーりわざと目に非ロマンティックでダサ男に落としてくるのがネラいすぎて、ヤだ(爆)。

でもね、彼らカップルのエピソードで、唯一彼女の方に共感出来るところがあった。それは、弱気にグチる由紀子に彼が「一回ぐらいの失敗なんて。もう一度頑張ればいいじゃん」とか、彼女言うところの“正論”であっけらかんと励ます場面。
この場合、女が求めているのは励ましなどではなく、ただただ、その弱気のグチを受け止めて、頑張ったね、君は頑張ったよ、と認めてくれることなんである。具体的な体験を思い浮かべたりして、めっちゃ、判るー!!と思った。
男性諸氏が、なんでこれで彼女が怒るのかと戸惑う気持ちもまあ判るよ。でもね、落ち込んでいる時に、その場で立ち直るなんてアラワザ出来る訳ないじゃん。その時はとことん落ち込んで、受け止めてくれる人がそばにいてほしい訳よ。

おっと、私的な思いで突っ走ってしまった。てな訳で、彼女のエピソードではむしろ、クライアントになる百貨店社員、加藤ローサのキャラが判る気がしたなあ。
女子という言葉が嫌い、そういうところに逃げ込むこと、いい年して気持ちが悪い、ちょっと言い回し違うと思うけど(爆)、彼女の拒否反応、いちいち判っちゃう。
ただ、彼女のキャラが、とことんかたくなで、最終的には由紀子たちによってムリヤリって感じでファッションショーに出され、「マジヤバイ」と瞳を輝かせてウォーキングをするのが、私的にはあまり気持ち良くない(爆)。彼女の気持ちに共感したことが、否定されたような気がして滅入っちゃう。
オシャレが苦手な女もいるんですと言った彼女に、そうそうと思った私の気持ちはどこにいけばいいの(爆爆)。

まあいいや、次に行こう。吉瀬美智子のパートは、ラクチンで好きである。林遣都君がイケメン新人社員ということに、隔世の感を感じる。そうか、彼ももうそんな年なのね。
女子社員のみならず、得意先の老若女の全てをとろかす恐るべき慎太郎君というキャラを、イヤミなく爽やかに演じられるなんてのは、そらー、なかなかいないよ、彼にピッタリ!!
でもね、でもねでもねでもね、やっぱりさ、どの女もバカみたいに彼にハートマークでウットリしている感じは、いくらこのエピソードがちょっと息がつけるコメディパートだとしても何となくイラッときたりしなくもない(爆)。

だから、こういういかにもな“女性映画”は難しいのよ。しかもアラフォー女(香里奈嬢はアラサーだけど)の苦悩を描くというテーマにおいてはさ、おちょくり方がちょっとズレると、矢のような批判がきそう。
いや、これは単純、使い古されたと思うほど、手垢のつきまくった、無難な描写だけどね。でもそれだけに……また今更、という感じもしたり。

でも最終的に新太郎君が容子を初々しい感じで食事に誘った場面でエンドなのは、確かに女子的には嬉しいけども(あー、ダメだ、私……)。
でもでもね、合コン場面で道連れにした“合コン中毒”の男性との出会いの方が、運命的な気がしたけどなあ。彼の方が容子の気持ち、判ってくれそうな気がしたが……。
でもやっぱ、恋心にはいくつになっても勝てない。それを女の方が長く許されなかった、今でも、容子の職場での周囲の反応を見れば、今だってやっぱり許されない時代で、やっぱりそこを突かれると、弱いのかなあ。

麻生久美子のパートがいっちばん、判りやすく、いわゆる社会に生きる女の苦悩を示してる。敵対する、というか超絶蔑視してくる男性部下、あるいはナアナア主義の男性上司もそうだけど、彼らに対して外側から武装するところから始めないと、女は(未だ)男性社会の中で対等にやっていけない。
そうすると、「目を吊り上げて仕事して、ダンナはカワイソウだね」などと、このムカつく部下に言われる。さぞかし三つ指ついた奥さんを従順に飼いならしているのだろうと想像され、聖子は「お前は殿様か!!!」と毒づく。毒づく場所は自宅で、年下の可愛い、でもいかにもカイショなさそうなダンナがいる。
実家に帰ると、いつまで仕事するのかねえ、子供ほしいと思ってるよ、きっと、かわいそうにねえ、などと、ノンキに(というわけでもないだろうが)専業主婦時代を送った母親に言われて、ムスッと一言もない。

彼は確かにカイショなさそうだし、アドバイスも的を射てないけど(だって彼のアドバイスで、信頼してあげたら上手くいくかもしれないと言われて、あのムカつく部下にまかせちゃってトラブルになったんだもおん)、何より大事な一点がある。
それは、香里奈嬢扮する由紀子の彼氏の正論にイラッとしたのに反し、彼はやわらかく、彼女の全てを受け止めてくれることなんである。
子供が欲しいか、こんな奥さんはイヤか、と尋ねる彼女に、不満なんてない、ただ笑っててほしい、という彼は、年下で可愛いし(爆)、まさに理想のパートナー。まあ今後は判んないけど(爆爆)。

それにしても、要潤があんなにムカつく男がハマるとは思わなかった。ゴメン、私彼に関しては、可もなく不可もない感じのイメージでさ(爆)。
もー、めっちゃ、あったま来る、やり手だけどそのやり口が根回しだのなんだのと、古いこと極まりない典型的男社会の男でさ、「これだから女は使えない」いまどきそんな台詞を言う男が……いるんだろうな、たっくさん、いるんだろうな、そう、もう何十年前から変わってないの、変わらなすぎなの、日本は!!
……なんて、私はメッチャお気楽な環境で仕事してて、自分ひとり生きていけるだけの食い扶持があれば的な感じだし、周囲にも恵まれていて、彼女たちの苦悩、判んないのがほとんど(爆)。

でもちょっとは、判るのよ。感じる部分はある。やっぱり、これだから女は、って思われていると感じる場面はなくはない、からさ。でもそーゆーそっちがだろ!と言えるだけの仕事能力は私にはないから……。
だから聖子が一発逆転をカマし、外側は威圧的な女上司を武装しながらも、心の中ではビクビクで、トイレに駆け込んだところを一発逆転を乗り切った女性部下が追いかけてきて、共に涙を流して抱き合う場面は、うん、この場面は泣けたなあ。

板谷由夏演じるシングルマザー、孝子は、日本でのシングルマザーの過酷な状況はいつまで続くの、と思わせる一編。もう何十年も前から、離婚がこんなに増えて、つまりシングルマザーがこんなに増える現在よりずっとずっと前から(そう、シングルファザーは大していないのにさ)、こういう描写、見続けてきたよな、と思うんである。
それどころか、シングルマザーのみならず、共稼ぎ夫婦の妻の方もこれと似たり寄ったりな感じがしてる。共稼ぎでも、夫は専業主婦の奥さんを持っているような感覚で仕事しているヤツが、私の見えている範囲でも結構いらっしゃるんである。
それは、聖子のエピソードのムカつく男性部下を見るにつけても判る。男性が女性に求める価値観はビックリするぐらい変わらない。
由紀子の彼氏や聖子のダンナは理解あるけど、それが現実感がない、ファンタジーの男のように見えるのは……現実にそんな男性がいまだ、いまだ、数少ないからだろうと思うんである。

孝子の別れたダンナが一切出てこない徹底ぶりが、彼女の意固地のような頑張りを強調しているようでね。
実際、意固地になってるんだろう。元ダンナが転勤することになって、子供に会いたがっても会わせないんだもの。これっていいんだろうか……でも、子供が親に会う権利は保障されているけれど、逆は……どうなんだろう。

「お母さんは何でも出来るんだから!」と、逆上がりもキャッチボールも仕事の合間に練習して愛する息子に教える彼女は立派だけど、ただ、息子がボールを取れるようになるまでと、暗くなるまで、ボールが見えなくなるまでキャッチボールを繰り返す彼女の、母親業、いや、親業を“頑張りすぎる”様が、可哀想というより怖くてさ。
子供が「だってお母さん頑張りすぎて、泥だらけなんだもん」と言う、その台詞自体が、子供もお母さんが“頑張りすぎてる”ことが判ってるというその大人びてるのがツラい。
でもこの場面、子供の目には哀れみよりも怖さの方が浮かんでいた気がするなあ。だってコワかったもの、もうあたりが真っ暗になってるのに、執拗にキャッチボールを繰り返す彼女……。

もリーダーは孝子に逆上がりとキャッチボールを教える同僚として登場。孝子がどんな職業についているのか判然としないけど、何かスッチー風のデキる女ファッション。もリーダーはいかにも現場の整備工といった感じのツナギ姿。
キャッチボールの場面では、自分が替わりにキャッチボールをしてやろうか、父親役をやるのまでは頑張りすぎだろ、とここでも頑張りすぎという言葉が出る。
恐らく孝子は頑張りすぎという言葉に過敏反応があって、その申し出を丁重に断るけど、これって、さあ、プロポーズまではいかないけど(そもそもそんな関係ではないけど)、そういう意味合いを持って彼は言ってるでしょ!

そう、イイ感じなんだけど、劇中ではそれ以上の進展はない。設定は日をまたいでるけど、恐らく一日で撮影終わったであろう、一場面でのエピソード。
もリーダー、メッチャイイ役もらってる!ナックスさんで板谷由夏の相手役、ヤスケンに続いて二人目!まあそれはいいか。

あー、長い長い、長いなー(爆)。いっぱい名台詞や名場面、他にも沢山あるんだけど。由紀子の彼氏が精一杯サプライズした定食屋のシーンとかさ、あるんだけど、もう疲れちゃった(爆)。
あ!でもそうだ、もう一人強烈キャラがいたんだっけ。こうしたガールたちの先を行く、ある境地に達した由紀子の先輩、壇れい演じる光山さん。
ブリブリファッション、クラブではなくディスコに通い、おじさま上司たちとタメ口でメロメロにさせる。他の女性社員たちから、オバサンなのにイタい、と冷ややかに見られるけれど、仕事能力は優秀。
でも彼女の設定、38歳なんだね。なんかキャラ的感じでは40はるかに超えてそうだけど(爆)。

由紀子が聖子たちお姉様の親友たちに、そのブリブリファッションをとがめられ、似合わなくもないけど、若くもないし、そろそろ考えないと、とクギを刺されるところから始まる本作、そのまま行けばこんな感じになるという判りやすいキャラとして登場する光山さん。
結局は肯定されて終わるけど、なんかフクザツだなあ。振り切ってやり切った壇れいは素敵だったけど、ある意味逆に女を捨てている感じもして……。
いや、ちらりと出てきた専業主婦の初音映莉子の「狭い世界で生きてて、焦っちゃう」という存在、あまりにもちらりとで、こんなにちらりとでいいのかとも思ったし、光山さんの存在と対照的だけど、こんなに極にならざるを得ない女ってなんなの、とさ、思っちゃう訳。

あー、女って、メンドクサイ、メンドクサイ。
これってさ、まあ脚本は女性だけど、やっぱり男性監督だから、なんだかんだ言って頑張ってる女はカワイイじゃん、みたいな風になったんだよ。女が女の目線で作ってたら……きっともっともっと、毒々しいよ。女って、そうだもん。 ★★★☆☆


海燕ホテル・ブルー
2011年 84分 日本 カラー
監督:若松孝二 脚本:黒沢久子 若松孝二
撮影:辻智彦 満若勇咲 音楽:ジム・オルーク
出演:片山瞳 地曵豪 井浦新 大西信満 廣末哲万 ウダタカキ 岡部尚 渋川清彦 中沢青六 水上竜士 山岡一 東加奈子 真樹めぐみ

2012/4/4/水 劇場(テアトル新宿)
知らない間に始まってて、あっという間に上映が終わろうとしていたもんで、慌てて観に行く。なんでー、若松作品が二週間で終わるだなんて、と思って劇場に入ったら水曜割引だったのになんか閑散としていた、のは、観終わって抱いた、んー……という思いで何となく納得してしまった、ような。
いやいやいや、基本若松作品には無条件にひれ伏すんだけど。それは無知で狭いところで生きている私の知らない、圧倒的な世界観によるものなんだけど。
それはつまりつまり、私が不勉強によるもの、その劣等感を突かれるからなのかもしれないけど。

……なんてことを思ったのは、本作がそういう要素ではない世界、人間誰しもが持っている愚かな心、欲望、嫉妬、裏切り、そうしたものをベースに、ファンタジックともいえる世界で描いているから、まあつまり、ありていに言えば、私でも想像の出来る世界だから、“無条件にひれ伏す”ることがなかったのだろうか……。
どうも、奥歯にものの挟まったような言い方だな、私。いやさ、この原作の作家さんのこともそれこそ“不勉強”なことに私は知らないのよ。若松監督の盟友だという。なんかそれを聞くと、更に何とも言えない気持ちになる。
この原作はその作家さんにとっては“らしくない”世界観らしいのだけれど、それをあえて“盟友”である若松監督がとりあげた、というのが、何とも言えない気持ちになる……寒い、などと言ってはいけない、だろうか(爆)。

そりゃ、若松作品の情念渦巻く作品世界にだって、私はヤラれ続けてきた筈なのに、なんでだろう……。
別に、“盟友”に対しての遠慮とか、贔屓目があるとか感じた訳じゃない。だって観てる時にはそんなことは知らなかった訳だから。
でも、この、居心地の悪さとでもいったような感触を、後にこの事実を知ると、なあんとなく、なるほど……と思ったりしてしまうのであった。

でもやっぱりやっぱり、一番の原因は、ヒロイン、だよなあ……。原作は当然未読なのでなんとも言えんけど、やっぱりどう思ったって、要はヒロイン、これぞファム・ファタルという存在。
本作がどういう物語なのかひとことで言ってしまえば、一人の女によって崩壊していく男たちの絆、とでも言えるんであって、このファム・ファタルが全ての成否を握っているんだもの。

映画の冒頭から、思わせぶりに後姿で歩いていくこの女。白いシンプルなキャミソールドレスに紫の和傘というのも、なんか画に描いたように“印象的”に見せる感じで、最初からなんとなくイヤな予感はしていた。
確かに後姿からスタイルはバツグンで、劇中男たちが口々に言う「あんなイイ女」という期待度は充分だったのだが……振り向いてみると、ん、ん??
いや、別にブスという訳じゃない(爆。お前が言うな)。その厚ぼったい唇は確かに印象的だが、厚ぼった過ぎて、というか、厚ぼったいだけで、色気というには……いや、私は女だから判らん、男の人は魅力を感じるのかもしれんが。
でも彼女、さ、言っちゃうけど、もう言っちゃうけど、オーラ、ないじゃん(爆)。

そりゃ難しい役だとは思う。最後のキメ台詞以外はただただ無言で、たばこをふかしてばかりで、それだけで、男を狂わすファム・ファタルの存在感を出すのは相当、難しいと思う。
それは、言ってしまえばどんな美人だって、どんなボンキュッボンだって、難しいと思う。
でも、だからこそ、観客さえも狂わすような女を持ってきてよ、と思うじゃん……。なんかぼんやりたばこをふかすばかりの、そのぼんやり顔の彼女に、……なんでこの女に彼らがイカれてしまうのか全然判らん……と思ってしまう。

そりゃさ、こういう役柄だからちゃんと脱ぐし、そのヌードは美しいさ。夜のプールを素っ裸で泳ぐシーン、淡い紺の水面から、白い二つのおっぱいがゆらゆらと浮かぶ(背泳ぎね)のなんて、女の私が見ても、ほお、と見とれるぐらいさ。素っ裸で殺伐とした荒野を駆け抜けていく引きのシーンも、どこにも無駄な部分のない美しいヌードさ。
でも……それだけ、なんだよなあ……。正直、きちんと脱げる人という条件以上のものがなかったような気がして仕方がない。

彼女の存在はファンタジックで、男たちが夢中になればなるほど突然ぱっと消えたり、何より身元不明というのもあるし、とてもミステリアスで魅力的なのに、なんかただただぼんやりしているようにしか見えないんだもん。
あっ……なんか、ヒロインのことばかりに熱くなって全然進まないけど(爆)、でも更に脱線してしまおう(爆爆)。
正直、正直、主人公の彼も、ピンとこない(爆)。若松組の常連俳優?そうだっけ……確かにフィルモグラフィーは大概観てるけど、全然覚えがない……(爆爆)。

今回、ARATAを本名で出してきたのもなんでなのかよく判んないし、正直、ARATAほどの人をワキに回して彼を主人公にするだけの理由もよく判んない(爆爆爆)。ああー、もう、爆発し疲れたっつーの。
でもね、ARATAが彼をアニキとあがめて言うたびにめちゃくちゃ違和感があるんだもん。まあARATAの造形もベタなチンピラであんまりって気持ちがあるけど……。

もういい加減、どういう話か書いとかないと、自分でも行き先が判らなくなっちゃう。
えーとね、主人公の藤堂が、仲間たちと現金輸送車を襲うのね。しかしそこに、言いだしっぺの一人が来ない。そのまま計画は実行されるけれど、藤堂だけが捕まってしまう。
逃げた一人と、言いだしっぺの一人は、藤堂が口を割らなかったことで罪に問われないまま、藤堂だけが七年の実刑を受けた。
幼い女の子がこの光景を目を見開いて見ている。傘を取り落とす。この子が成長してこの後……とか思ったらそんなこともなく、単なる盛り上げの形容詞的キャラ。うっ、く、クサい。

正直、この最初のシークエンスだけで、裏切った二人をかばうだけの理由に得心がいかなかったんだよね。
それを男同士の友情の証だと言ってしまえばそれだけだけど、それなら出所後、鬼のような形相で現場で逃げ出した仲間を糾弾する藤堂がよく理解できないし。
その仲間の一人のことは家族もいるからなんとか許したというなら判るんだけど、もう一人、言いだしっぺなのに最初から現場に来なかったヤツを「あいつだけは許せない」と言うぐらいなら、口を割れば良かったのに……まあ、計画立てただけじゃ、口を割っても知らぬ存ぜぬで通されちゃうかなあ。
でもそれにしても、黙って刑期を受け入れた藤堂が、どうにもしっくりと腑に落ちないんだよね。

伊豆大島に隠遁して、廃墟のホテルでバーをやっているその男(ゴメン、劇中ではしっかり役名言ってるんだけど、忘れた上に、調べても出てこない(爆)を訊ねて行く。
裏切ったのは、女を失いたくなかったからだと言われて、藤堂は唖然とする。そんな理由でオレは七年もクサイ飯を食っていたのかと。
ただただ砂浜に額をこすりつけるばかりの彼の胸倉をつかんで、罵倒する。当然だ。

当然、なのに、藤堂自身がその女に入れ込んでしまう。最初は、七年間の間にお前はこの女とヨロシクやってたんだろ、そんなにぶくぶく太りやがって、という腹いせのつもりだった、のだろう。ある程度は。最初から彼女に目を奪われていたのは確かだけれど。
一晩を過ごした様子があいまいに示され(もっとガッツリエロなセックスシーンがあるのかと思った。意外。)、それ以前から曖昧模糊とした彼女は、彼の前から突然ふっと消えたり、荒野の中を素っ裸同士で追いかけっこしたり。どうも尋常じゃない。

そもそも、彼女はこの若い美しい(かどうかは微妙だけど(爆))そのものの彼女なのか。
後に明らかにされるように身元は不明だし、藤堂がこの島に尋ねてきた時、ホテルの場所を尋ねたのはアングル的にも紫の和傘をさした後姿の彼女だった筈なのに、答えたのは一人の老女だった。
「私はここにさらわれてきて、それからずっとここに住み続けているの」この気になる台詞を、後にARATA演じる藤堂のムショ内での仲間が訪ねてきてホテルの場所を聞いた時にも、全く同じ繰り返しをした。
つまり、この老女の姿こそが、彼女の姿?ラストシーンは、愚かな男たちを糾弾した彼女が、素っ裸になって観音像がまつられてる大きな石碑(墓?)の中に消えていくシーンで、意味深が意味深のままに終わってしまうのは、き、キツイっすよ(汗)。

そう、藤堂が投獄された、現金輸送車を襲った事件以外に、その刑務所の中での事件もかなりおっきいのよね。
その当事者になるのは大好きな渋川清彦氏。高熱を出した藤堂を医者に見せようとして、冷笑的な刑務官にくってかかり、懲罰を受けた末に死んでしまった。
自分のせいだと自責の念に駆られる藤堂と、同室だったARATA演じる青年が、強い絆で結ばれた……筈だった。
この刑務官への“落とし前”は、藤堂こそが亡くなった彼の奥さんに誓った筈なのにARATAが果たして、その成果を藤堂は、もはやあの女に入れあげている藤堂は、ぼんやりと聞き流すばかり。
ARATAは藤堂がムショ内で持ちかけていたと思しきヤマをやるきマンマンで、それが判っているから藤堂は彼から必死に姿を隠していたんだけれど、この廃墟のホテルのバーを探し当てて彼はやってきてしまった。

廃墟のホテルのバー、それこそが大きな魅力になっているのはそうなんだけど、その廃墟っぷりも特に描写されることもなく、そのバーだけが独立して舞台として展開されるのも、なんか凄く、違和感。
荒い波がうるさいぐらいに打ち寄せる海岸に、まるで流刑刑務所のように煤けてぽつんと立つホテルと、その中にある“筈”のバーがまるで結びつかないんだよね……。
ホテルの中と思しき階段を上るとたどり着く場所、という描写が繰り返されるけど、繰り返されてもどうにも結びつかない。
客たちがただぼんやりとテーブルに座っているだけなのはネラった描写なのかもしれないけど、彼女目当ての若い青年が原発問題を声高に叫ぶのには、……あの後だから入れたんだろうけど、あの後にしても早すぎる、生々しすぎる、軽々しすぎるような気がどうしてもしちゃって、身が硬くなってしまう。

……それはまあおいとくとしても、この青年も、そして事情聴取に来たおまわりさんも、一発で彼女の魅力に参ってて、でもって、共にプールを覗き見して、おまわりさん、「女子供を守るのがワレワレの職務だ」とこの青年を撃ち殺しちゃう!しかもそれを、藤堂のせいにしちゃう!!

ていうかていうか、めっちゃ大事なところすっ飛ばした!藤堂、このバーのオーナー、つまり言いだしっぺだったのに逃げ出したこの男(役名覚えてないと、メンドクサイな)を殺しちゃったのよ。
500万で勘弁してくれ、という、その500万自体がウソカネだったのが直接の理由だけど、カネを渡したらすぐ出て行ってくれ、もう俺たちの前に現われないでくれ、というコイツの台詞が、お前がそれを言うか、という雰囲気満点だったからさ。
だって顔を見たくないのは、こんなところに来たくなかったのは、藤堂の方なのにさ。
これまでの藤堂のキャラ描写から言えば、そこにこそかみつきそうなもんだったのに、黙って受け入れてたのは、もう彼女にのぼせていたからなんだろうか。

で、まあ、そう。このオーナー、そしてあの青年、もう埋めるしかなくって。
ごつごつとした荒野、まるで地の果て、地獄のような風景。原始的にスコップで穴を掘って埋める。ARATAもその手伝いをする。
しかしおまわりさんが青年殺しの嫌疑をしれっと藤堂にかけにきて(お前だろ!)、藤堂はARATAにその嫌疑を押し付けて、それでなくても刑務所内で立てたヤマ(まあまた、押し込み強盗あたりよね)を、彼女にのぼせた藤堂が辞退したことで幻滅してたARATA。
そりゃそうだ、まさに、藤堂が裏切った友たちへの想いをまさにここで、自分に突きつけられる訳で。
でも再三言ってるように、それだけのオーラをこの彼女から感じられないからさ(爆)。まあとにかく、男どもそろいもそろって殺し合い。皆、死んじゃう。

彼女が、それを見届けて。「愚かな者どもー!!!」と荒野に叫ぶ。彼女の、唯一の、作品を〆る台詞である。
まあ確かに彼女の言うとおりなんだけど……あまりにもピリッとしない。台詞の感じだと、凄く高貴。天からの目線。でもどうにもこうにも、どうしてもそうは聞こえない。
声の調子といいなんといい、バカみたいにしか聞こえない(爆爆)。もう、どうしたらいいの。

どうしてARATAはARATAじゃなく、本名?で出てたの?なんか意味あったんだろうか……。 ★☆☆☆☆


海軍特別年少兵
1972年 127分 日本 カラー
監督:今井正 脚本:鈴木尚之
撮影:岡崎宏三 音楽:佐藤勝
出演:地井武男 佐々木勝彦 佐山泰三 粕谷正治 福崎和宏 高塚徹 中村まなぶ 内藤武敏 山岡久乃 小川真由美 三國連太郎 奈良岡朋子 加藤武 荒木道子 森下哲夫 近藤宏 遠藤征慈 辻萬長 高橋義治 加藤嘉 蔵一彦 加藤土代子 大滝秀治 佐々木すみ江 沢村いき雄

2012/3/2/金 劇場(銀座シネパトス/今井正監督特集)
書く前にいきなりネガティブなレビューをうっかり読んでしまって、ちょっと落ちてしまった。いやだって、私はすんごい、打たれてしまったから……。
何せ戦争映画というくくりだけで遠ざけてしまう私は、確かに免疫がないのは自覚している。戦争映画に詳しい人たち、いわゆる史実を盾に“冷静な批評”を企てるようなお歴々には、それでなくても歴史的なことに(特に戦争におけるものは)勝てないだけに本当に苦手。
うろうろとネットをさまよって、これは傑作だ!と書いている方に出会えて、そうだよねー!!!と単純に一気に復活。本当に単純……。

でもね、本当に、そう思うのね。何を伝えるべきか、核心は何なのか。本作が強烈に訴えかけるのは、彼ら幼き子供たちが、本気で、ほんっきで、“お国のために”とか、“戦死こそが名誉”と思っていることの恐ろしさであり、それを支えていることを自覚している大人たちの苦悩であり。
それを伝えるための手段を、映画的物語としての手腕を、いかんなく発揮しているのが本作であり、何もこれはドキュメンタリーじゃないんだからさ、とも思うんである。
こんなことを言ってしまえば語弊があるかもしれないけど、特別年少兵という全き史実を基にしていながらも、大いにフィクショナルな脚色はしているだろうと思う。映画なんだから。実際の人物に取材した訳じゃ、ないんだから。

なんか奥歯にものの挟まったような言い方になってしまう。だって、結局私はホントに無知だから……歴史、ことに戦争の話になると、“お歴々”がうじゃうじゃいるからホントに臆してしまう。
正直、だから戦争映画は見たくないし、だからというか、人が血だらけになって死んでいくのをスクリーンで見るのは、それこそフィクションだと判ってるバイオレンスやらホラーならまだいいけど、そのことが実際にあったことだと判っている戦争ものを、好んで、進んで、観る気にはどうしてもなれない。
戦争映画、好きな人っているじゃない、結構。ちょっと、私は、ダメなんだよね。ただ、観てしまえば、こんな風に打たれてしまう。たまに観るからかもしれないけど。どちらにせよ、冷静になることなんて、どんなに詳しくなったって、出来そうもない。

なんか、自分の無知でグチグチ言ってるだけみたい。恥ずかしいな。でもね、これはいわゆる戦争映画から想起される、戦場での目を覆う惨状というのは、ほんの少しなの。ちょっと、拍子抜けするぐらい。
戦争作家というイメージが一方である今井正監督だけど、実際に彼が撮ってる戦争映画がどうなのか、観ていないから判らなかった。だから本作で、なんか拍子抜け……というと違うな、予想外、だったのだ。

冒頭いきなり、示されはする。硫黄島。あ、たしかにイオウトウって言ってる。イーストウッドの映画で世界的に有名になっちゃってから、イオウジマではなくイオウトウだという悶着があったけど、ちゃあんと、こんな傑作でイオウトウと言ってるじゃないの、などとどうでもいいことに感心していると……。
折り重なる死体は皆、声変わりするかしないかといった年頃の少年たち。泥にまみれ、血にまみれ、内臓が出ている子さえいる。
米兵が検分に近づいてくる。こんな子供を戦わせるなんて、と痛ましげに言いながら歩いていく。すると息のある子がいる。「自分は子供じゃない、軍人だ!」しかもそれを英語で言う。
あんな痛ましげなことを言ってたくせに、米兵は息も絶え絶えに叫ぶ彼を撃ち殺してしまう。……怖かったのかもしれない。

この冒頭は、つまりはラストである。そこに、戻っていくんである。だから、戦場での惨状は尺で言えばそんなに長くない。長くないだけに、トラウマのように刻み込まれる。
全篇戦場シーンのような映画で、何か酔ったように麻痺してしまうのとは明らかに違う。実際、戦場に出て死んでしまうまでと、それにいたる準備期間(ヘンな言い方だけど)を比べると、それぐらいのギャップがあるんだと思う。
戦友と固い絆で結ばれるのは、その準備期間に濃厚な絆を交わすことも大きな要因だと思うんだけど、それが少年たちなら、そこが学校であり、学友なら、そして最終的に命を共にするのなら、それは大人の兵隊さんたちとは比べ物にならないぐらい強いそれだと思われるんである。

あのね、それこそ「硫黄島からの手紙」は、大人の兵隊さんしかいなかったじゃん。私は当然、知らんかった、この島で、こんなにもたくさんの子供たちが死んでしまった、なんてさぁ……。
ていうか、この特別年少兵制度すら知らなかったんだから話にならない(爆)。「硫黄島……」でケンワタナベが演じた栗林中将の無線を傍受する場面などが出てきてウッと詰まってしまう。
確かに彼ら大人たちも悲惨だったけど、でも、戦争というものが無意味なものであると、さすがにこの辺になれば大人である彼らは薄々判ってきていたから……最後まで、信じられないほどに純真に、玉砕という華々しさに向っていった少年たちと彼らと、一体どちらが悲しいのだろう。

特別年少兵として志願し、集まってきた少年たちは、貧しき者が多い。というのは史実とも異なるのかもしれんが、とにかく本作ではそういうテーマで押している。
貧乏の子沢山である山奥の地方から出てきた少年たちばかりで、皆さまざまな訛りを抱えて自己紹介する。自ら口減らし、そして後に将校になれる道もあるなら、親孝行が出来る。そんな思いを抱えてきた子達も数多い。
なけなしの給金をそっくり仕送りし、酒びたりの父親がそんなけなげな子供に改心したりするエピソードもある。

子供たちが、本当にいい顔をしていてさ!今の子達はさ、皆総じてさらりとしたお顔をしてるじゃない。こんなお顔の子供は、今はホントにお目にかかれなくなった。もう、総じて平均的なイケメンって感じで。
ここに出てくる子供たちは、本当に素朴なの。土くれの中で転がって育ったという感じなの。彼らの中ではちょっとエリートを思わせる子ですら、丸顔に八重歯が可愛いの。

エリート……つまり、彼の家庭は、父親も祖父も伯父も軒並み“名誉の戦死”を遂げている。菩提寺の僧侶が、母子の墓参りに付き添い、これがだれそれの墓、あの戦争で、その隣がだれそれの墓、あの戦争で……などと次々と並び立つ墓を解説するのがヘンに可笑しいの。
だって、その僧侶は、そんな事実を全部知っているぐらい、よぼよぼの老僧でさ、こんなに戦死者を出している名誉ある家系は、なかなかない、なんて、よーく考え……なくてもどうにもおかしなことを、しみじみ口にして、学生服も青く似あってる少年に、そうだろう、なあ、とばかりに諭す訳。
そ、それって、つまり、彼もその道筋を継げって言ってるようなもんじゃないの。テメーはそんなよぼよぼになるまで長生きしたくせにっ。

でもその言葉にうなづく彼は、めちゃめちゃその気マンマンなのよ。傍らのお母さんはなんとも言えない顔で聞いてる。
その後、何度となくそんな息子の純真なる思い込みと母親の思いのギャップが、言葉もなく示される。
まるで死ぬために、名誉のために死ぬために産まれてきたみたいなのよ、彼は……。

最も印象的なのは、ちらっと先述した酒びたりの父親を持つ口下手な少年である。ドンくさくって、頭の出来もイマイチの彼は、“バッチョク”(罰直?)という、連帯責任の原因をいつも作ってしまって、かのエリート少年にめっちゃ疎まれるのね。
まあ、そう、ここはね、軍隊の訓練所というより、子供たちだからさ、教育もきちんと施される訳よ。有名大学出の将校たちが教官になって、きちんと授業が行われ、試験もされる。

こういうアタリはいかにも日本的という気がする。敵国の言葉をなぜ覚えなければいけないのか、こんな勉強をするよりも、実践を学びたい、と真摯な瞳で教官に訴える子供たちに、先述した、戦争の美学の胡散臭さをうすうす感じている大人たちは、マイッタよ、という顔をしている。
この時彼らが覚えた英語が、冒頭に示される、自分は子供じゃない、軍人だ!と米兵に英語で訴えて撃ち殺されてしまうところに通じると思うと、もうホントに……なんとも言えんのだが……。

で、まあ、ちょっと脱線したけど、そう、そのドンくさい彼、林君は成績が悪くて、しょっちゅう食事ヌキになっちゃう。
林君と同郷で、ちょっといい家庭の友達、彼の父親が教師で、年少兵志願に口ぞえしてくれたんだけど、その彼と、あのエリート少年がそれでケンカになったって、林君はいたたまれなくなる……。

なんかね、もう、青春、というか、本当に、中学生の男子の生活、なんだよね。いや勿論、格段に厳しい生活なんだけど、この、お互い譲れない、何か甘酸っぱい正義感が、たまらんの。
林君、ホント見てると心配になってたんだけど。野外演習で一般民家に分宿した時、民家のおばちゃんのあったかいもてなし、もういっくらでも山盛りのご飯をおかわりしてさ、お風呂に入って軍歌を皆で熱唱してさ(意味を判っているのかなあ……)。
こんなふかふかの布団で寝たことない、あんなご馳走も食べたことない、という林少年のはしゃぎっぷりが、仲間から、別人みたいだ、とからかわれるほどの明るさが、後から思えば充分伏線になっていた、のだ。

斥候演習の過程で、帯剣を紛失してしまった林少年は顔面蒼白、班長の工藤教官と共に暗くなるまで探すも、見つからない。
絶対に見つけてやるから、お前は宿に戻れ、と工藤が言い渡した時の林少年の泣きそうな顔(泣き顔より始末が悪いの……)で、この後何が起こるか、判ってしまった。判りたくなかった。
工藤だって、うっすらと予感していたからこそ、まっすぐ帰るんだぞ、絶対にオレが見つけてやるから、とあれだけ念押ししたんじゃないの。林少年は、バカ、バカ、バカ!!!廃屋に入り込んで首を吊ってしまうの!
帯剣はテンノーヘーカから賜ったもの。なくしたりしたら軍法会議だとか、仲間たちがひそひそと囁きあっている場面が、あのくだらない戦争というものを、なんと端的に示していることか。

林少年の死には、もう、うっそお、と思ってね。正直、後に展開されるであろう戦場での彼らの壮絶死より、こっちの方がキツいと思った。決してそんなことはない、ないんだけど、でもちょっと、やっぱり、そんなところはあるかもしれない、と思った。
こんなこと言っちゃうとアレだけど、少年たちは、死ぬことを前提に、名誉の戦死、玉砕という“華々しい幕引き”をゴールとしてここに集まっているじゃない。本当に、それは、メッチャ純粋に、彼らはそう思ってるのよ!!
戦争映画って、現代に近づけば近づくほど、実は死にたくなかったとか、大人の本音を現代の価値観に照らし合わせて描写することが多いけど、実際大人たちはそうだったかもしれないけど、子供たちはそうじゃなかった、んだよね。

言っちゃえば、ここで自殺しようが、戦場で玉砕しようが、タイムラグだけで死ぬのは同じ、ヒドイ言い方だけど。
でもすっかり心を通わせた友達の死に少年たちは打ちひしがれ、少年たちだけでなく、あの時宿に一人帰らせてしまった工藤教官も、死んでしまった少年の頬を、いつものスパルタのように往復ビンタして号泣する。
この工藤だって、玉砕を前提にここにいるのに。それを生徒たちに教えているのに。

興味深いというか、なんとも言えない気分になるのは、その、いわば、矛盾を、彼らが追及しないことなんだよね。
私ね、死ぬなら敵に突っ込んで死ね!とか少年たちや教官が言うのかと、思ったのだ。なんかそれこそ戦争映画としてありそうじゃん、と。
でも彼らはそんなこと、一言も言わなかった。本当に普通に(というのもアレだが)、一人の少年が追い詰められて死んでしまったことを、ただただ、哀しんでいた。
こんなつまらないことで少年が追い詰められることに絶望した工藤は部署替えを志望、時を同じくして、他の教官も同じような疑問を感じてここを去る。
苦悩を明確な理由として説明できて、ここを去れる大人たちはまだ、幸せだ。たとえその後、工藤が硫黄島で少年たちと合流して、ともに玉砕する運命にあるとしても。

この工藤を演じるのが地井武男で、彼の演技がこの映画の完成度ともども高く評価されたというのが、本作に心を惹かれたひとつであった。
実際は、メインは柔らかく青い、いたいけな少年たちの姿こそではあるんだけれど、彼らに暴力教師よろしく(これもちょっと語弊があるかしらん)、バッツバッツ体罰メインの生活指導をほどこす工藤。
今の柔らかいイメージと違って、もうマッチョバリバリで、精悍な顔立ちは今よりずっと二枚目で(爆)、ちょっとM的な気持ちで萌えてしまう(爆爆)。

一歩間違えれば、この役、この芝居、難しいよね、と思う。彼以外の教官たちは、英語やら物理やらを教える、有名大学出のエリートで、力任せの工藤に、教育は愛を持ってやるべきだ、と対立したりするのね。
確かに工藤の暴力っぷりは当時の、軍隊としても、子供に対してと思うとやはりキツくって、このエリートの言葉にうんうん、とうなずきかけるのだが……。
「愛とは、具体的にどういうことですか」と工藤から返されると、ぐっとつまってしまうのよ。身体で覚えさせる、それが自分も受けてきたことだと、愛ではなく、力の教育だと、工藤は迷いなく言い放つ。
子供だからこそだと。身体でしか覚えさせられないんだと。それに対して、あんなに頭のいい、理想もあるエリート大学出が、なんで言葉に詰まっちゃうの!

でも、そのエリートの同級としてここに赴任したばかりの、妙にシニカルな教官が言うのね。あの男の言葉の方が実感にあふれていた、と。
ただ、それでも、愛の教育を否定するわけじゃないのよ。それでも自分は教育は愛で行うべきだと思う、と彼は譲らないし、そうでなければいけないとも思う。
ただ……工藤の愛がその力の教育にあったのだし、それはこの時代、この状況だからであり、工藤は、少年たちと同じぐらい、その結論に純真で、それが、哀しい、のだ。

他にもね、姉弟二人きりで、お姉さんは身体を売り、弟は親戚のうちで肩身の狭い思いをしてて、で、年少兵に志願した少年とか、アカと糾弾される父親を嫌って、自分はお国のために玉砕するんだ!とここに来た少年とか、忘れがたい少年たちがたくさんいるのよ。
もうここまで書いてくると疲れちゃって、濃いエピソードがいっぱいあるんだけど、情けない(爆)。
パンパンのお姉さんは小川真由美で、アカの父親は三國連太郎という、豪華さ。パンパンというはすっぱさというより、襟を粋に抜き加減にした色っぽい姉さんのことを弟は、口で言うほど恥ずかしいと思っている訳じゃなく、それどころか、姉さんに幸せになってほしいが故に、彼は年少兵に志願したのであった。
メンツ上、面会日にも会おうとはしないけど、彼女が結婚したという話を教官からもたらされると嬉し涙にくれる、優しい優しい弟。

一方、“アカの父親”を持つ少年は、しかしアカなんて。この父親が言うのは、「自分たち貧乏人は苦労するばかりで、国に何の恩義もない」と言うだけ。めちゃくちゃ、まっとうな意見で。
これがイコール、アカになるということ自体がオドロキだというのが……現代の感覚、なのか。なんと恐ろしいこと……。
記号のように繰り返される“お国のため”“名誉の戦死”それに、“玉砕”という言葉の見た目のイメージも、まさに、だよね。何気なく言っちゃってるけど……。
こんなところでこんなこと言うのもナンだけど、漢字のイメージってホント、恐ろしい。なんか凄い、美学を貫いている錯覚に陥ってしまう。これぞ、洗脳、マインドコントロール。

その“パンパンのお姉さん”と、“アカの父親”が、ともに面会日に弟、息子に会えなくて、場末の定食屋で偶然出会う。
アカだの社会主義なんて言葉も判らないであろうこのお姉さんが、「難しいけど、おじさんの言うこと、判る気がする」と言うのが全てなんである。
このお姉さん、その“結婚”、脱走兵との満州への密航疑惑で逮捕されてしまう。心優しき教官は、弟には何も知らせず、警察署に向う。
「初めて私のことを本当に好きになってくれた人なんです」どうして幸せになっちゃいけないのか。それもアカの思想なのか。
三國連太郎は頭良さそうだし、アカと断じられてもちょっと仕方ないかなとも思うけど、幸せになるための手段がアカだとされることへの単純な疑問を口にする彼女はホントに、さあ……。
こういう所、さすがだと思う。さすが、今井監督だと思う。だって彼女のこの、まっすぐな問いかけに、どんな難解な反論も、響かないよ。

この時、お姉さんが捕まっている時、知らずに弟は、学友(と言っていいんだろうか……)たちと演芸会で大盛り上がりしている。
女装して、金色夜叉のお宮に扮して拍手喝さい。教官たちもハラを抱えて笑ってる。
楽しそうであればあるほど、この先に来る展開が判っているから、胸が苦しくなるばかり。重いため息を、何度も何度もついてしまう。

硫黄島の場面になってからはね、もう……あまり、言いたくない。追い詰められれば追い詰められるほど、少年たちの純度は増していって、皆と一緒に玉砕することこそ、真に美しいことだと、宇宙の真理のように、迷いのない瞳で、泥と血で汚れた幼い顔で、示すから、それをくつがえす言葉もなにも、他のもので汚れた大人は持たない。
目をかけた数人に、連絡を待てという理由で生き延びさせようとしても、彼らは頑として拒否し、命令だと言ってムリヤリ行かせても、自分たちの判断で、突撃し、“玉砕”する。

……この地で教え子たちと合流した工藤だけが、少年たちの気持ちを判ってて、そうしたのは、子供なのに軍人に育てたのは自分たちだと、あいつらは、生き延びるより、玉砕することを選ぶと、無様な死に方はさせたくないと、ついていって。
でも、工藤は見事な玉砕も、勿論命を救うことも、手助けできなかった。無様な死に様は工藤の方で、工藤班長が来てくれたことを知った上で、まるでそれに希望を得たように、少年たちは、決勝戦のゴールに突っ込んでいくかのような、迷いのない瞳で、銃剣を手に突っ込み、銃弾のアラレを受けた……。

ひとつ、印象的な場面がある。林少年が自殺して、それは工藤が追い込んだせいだと、むしろ工藤自身が子供たちにそう思われているんじゃないかと思ったのか、黙りこくっている少年たちに、自分を本気で突いてみろ!と銃剣(じゃなかったかな、木のやつかな?)を持たせるシーン。
ぶるぶる震える少年は、挑発に乗るかと思いきや、一瞬きびすを返して、訓練用のわら細工に突っ込んだ。他の少年たちもうっぷんを晴らすかのように突っ込んだ。工藤も突っ込んだ。
少年の優しさであり、鬼のような工藤の、性根の優しさであり、……死んでしまった林少年の優しさだった。
でもそれこそが、彼らを玉砕させたんじゃないの。戦争に勝つのなら、そんな優しさはいらない。でも、戦争に勝つって、どういうことなの。負けることと結果的に何が違うの。優しさの方がほしい。優しさを、誇りだと思いたい。

照明弾が明滅する中、壮絶な最期を遂げる少年たち、それだけでも見るに耐えないラストだったのに、ラストにバン!と実際の年少兵たちがズラリと、当時のピントの妙にぼやけたモノクロ写真がスクリーンいっぱいに刻まれて、息がつまりそうになった。
ピントが妙にぼやけているから、幼い感じは判るけど、なんか……凄く、怖かった。幼さだけが判って、表情が、気持ちが、読み取れないのが。
純真という名の洗脳に犯されている写真のように見えた。劇中の純朴な彼らが、とてもとても可愛かったから……。★★★★☆


鍵泥棒のメソッド
2012年 128分 日本 カラー
監督:内田けんじ 脚本:内田けんじ
撮影:佐光朗 音楽:田中ユウスケ
出演:堺雅人 香川照之 広末涼子 荒川良々 森口瑤子 小山田サユリ 木野花 小野武彦

2012/9/24/月 劇場(有楽町スバル座)
もはや三作めで既に、この人にハズレナシの信頼、新作を待たれるようになった……とつい最近他の監督さんでも書いた記憶が。ここ近辺の中若手とも言うべきクリエイターは実に実り多し。そこからちょっと上に行くとシリアスな作家性をこれでもかと押してくる人たちが多くて正直苦手だったが、やはり映画はエンタテインメント、(ある程度)万人に面白くなくっちゃと思う。
内田監督はその筆頭に上げられるクリエイターだよなあ。過去二作ではその構成の憎たらしいほどの上手さ(を、憎たらしく思わせないところこそが才能なんだけど)を、その緻密さこそを見せ所としてあっと言わせたが、言ってみれば商業デビュー作で発揮した上手さを、よりメジャー展開出来た二作目で広く知ってもらうためにもう一度、という感があった訳で、第三作目となる本作が、まさに正念場だったのかもしれない。

そう、驚いたの。だって内田監督だからさ。あの二作のイメージはそりゃあある訳。面白いのは判ってるけど、それこそこうやって後から書くとなると相当大変な構成力。それを思うと思わず嘆息してしまう緻密さ、とたかが趣味サイトなのに思わずブルーになっていたりした訳(爆)。それでも面白いのは判ってるんだから、観ない訳にはいかないっ!とね。
予告編で見た限りの情報では、そうした構成の緻密さも発揮されそうな設定だなと思っていたからさ、二人の人物の人生が入れ替わり、そこに一人の女が加わり、なんていったら、いっくらでも手の込んだ構成に出来そうじゃん。
内田監督なら、同じ設定で過去二作のような作品も出来たんじゃないかと思う。何かね、意識的にそれを放棄したような気がするんだな。
もっと、更に、万人が好きになる、気楽に楽しめるエンタテインメント、それを意識的に目指したような感じが、なんか、するんだな。

両主演とも言うべき二人、堺雅人が前作からの連投であることはなかなかに興味深い。内田作品の世界観を表現できる役者として、監督の信頼を得たという感じがする。その意味ではよーちゃんもまた呼ばれてほしいが。
考えてみれば、デビュー作はまあピン主役、第二作は三人が同等主演の趣、そして本作は二人と、あらゆる人物構成で作れるというあたりも才能の確かさを感じる。
そしてそのどの作品も書き方によってみれば、尺や重きの置き方で主役と呼べる人物の人数などいかようにも操作出来そうなあたりも、恐るべきストーリーテラーだよね、ホントに。

で、なんか話が脱線したけど、二人目は香川照之。押しも押されもせぬ名優だが、堺雅人と一緒に出ているのはひょっとして初めて見るような……訳はないか。共演機会が多いと彼らが言ってるんだから。
でも、少なくともこんなにがっぷり組んでいるのは初めて見る。年齢も10は違うし、いわゆる同世代役者としてはなかなか顔を合わせるチャンスがないということもあるだろうが、この二人のがっぷりだけでも、それがどんな作品であったって、足を運ぶ要因になるぐらいの二人。

しかもそれが内田作品で、しかもしかも二人の人生が入れ替わるなんてことになったらさ!しかもしかもしかも(しつこい)、香川照之の方は記憶を失ってしまって、自分が誰だか判らず、つまり自分のキャラさえ判らず、堺雅人演じる極貧役者の人生に自分を押し込める訳だからさ。
何かそれは……入れ替わる人生という原始的な映画の面白さ、「転校生」を引き合いに出すのは強引過ぎるかもしれんが、とにかく面白いの!

そう、記憶を失って、もそうだし、人生が入れ替わる、も、そう。こうして書いてみると映画的フィクションとして陳腐になりかねないほどにベタベタなんだよね。
しかも香川照之扮するコンドウ(ホントは山崎)なんて、殺し屋だよ!いや、最終的にはそれは違うってあたりがミソだが、少なくとも物語の後半まで堺雅人扮する桜井にも、勿論観客にもずっとそう思わせる。
だって冒頭、いきなりドッ!ドッ!と標的にナイフを突き立て、雨ガッパに返り血を浴び、その“死体”を車のトランクに押し込め、なんて流れを、香川照之のあの顔でやられたらさ(いや顔は関係ないが……)信じるでしょ!

でまあ、また脱線したけど(爆)、そんな具合にベタな要因満載なのに、なんでまあこんなに面白くなっちゃうんだろ!思えば売れない役者の桜井が人生に絶望して首吊り自殺に失敗する、なんて流れもベタベタなのにさ!ここまでくると、ホンットそれを意識してやっているように思えてならない。もうある意味挑戦状的にさ。
だって考えてみれば、二人の人生が入れ替わる起点となる、コンドウが風呂場のせっけんにすべって天井高く跳躍してスっ転ぶ、なんてのだって、リアル状況としてはありえないやん。それをスローモーションでアングル変えて描写する丁寧さも、これを意識的といわずしてなんとする。そしてそのシーンこそが予告編で大きなインパクトを与え、足を運んだ人も多かろうと思うもの。

意識を失ったコンドウの手元に残されたロッカーの鍵を、桜井は自分のものとすりかえた。仕立てのいいスーツに高そうな車、キーでキュインと開錠される今のシステムじゃなきゃ、この設定も生きてこない。
いやー、私ゃ免許も持っとらんが、私ら世代はフツーにガチャ、だからさあ。どうやって車を探し出すのかとか一瞬心配になって、あー、私、年だなと思ったよ(爆)。
で、まあ、このキュインという音、キュインキュインと連続するいわばサイレン的な音が、まさかまさか、そんな大事なキーワード、いや、キー音になってくるとは思いもよらず。しかも、トキメキのキュンを喚起するキュインなのよ!いやー、驚いたよ!

……だって、それこそがそれこそそれこそ、キュンキュンしちゃったんだもーん!オチバレとか言わないで!……落ち着け、軌道修正、軌道修正。
一人入り込む女子は涼子ちゃん。そうか、言われてみればホントに最後まで笑顔封印だ。気づかなかった。私ゃー涼子ちゃん贔屓だから、同性にはあまりウケが良くないらしい彼女のちょいとワザとらしめなスマイルも大好きだが(クサしているようだが、ホントに好きなのよっ。「20世紀ノスタルジア」で一目惚れしてから心は変わらん!)、笑わないと、改めて気づくが、涼子ちゃんって、キレイ、だね……。雪白肌に目鼻口の控えめなパーツがしっくりときて、眼鏡を何度もかけかえる仕草がなんとも萌える。

スケジュールを立ててそこまで努力すれば何事も何とかなる、それが結婚でも、というあたりが、ヘタすればうぬぼれ、自己チューになりそうなキャラを、会社内のスタッフたちとのやり取りという構成上の上手さもありつつ、笑わない涼子ちゃんという、浮世離れした真面目さ、の雰囲気が実に上手く功を奏してて、へーっ、と思う。
まあそりゃー、もともと涼子ちゃん贔屓ではあるが、彼女にはもっともっと、与えればこなせる柔軟さがあると思うなあ。最初から最後までマジメちゃんなのに、なぜか可笑しいコメディエンヌっぷり。ホレたわー。

ハイソなモノを紹介する雑誌の編集長である水嶋香苗は、とにかく結婚を、しかも期限付きで宣言。恐る恐る立候補の表明をする部下もいるが、「検討しましたが、職場内に可能性のある人はいませんでした」と彼の気持ちにも全く気づいておらずに却下。
彼女の気質を判っている、というか類友っぽい部下たちは、編集長の計画に最大限の努力を約束、「アリです」とゴーが出たエリート男子を集めて合コンを開くが、マジメな彼女にはどうもそぐわない。

そんな中出会ってしまったのが、父が入院している病院に入院してきたコンドウで、自分が誰だか判らないことに困惑しながらも努力していく彼に惹かれていく。なんたって水嶋女史が結婚相手として掲げた条件はただ「健康で、努力家であれば」だけなんである。
しかもそれが、物語の冒頭、アルバイト募集の条件としても同じだってあたりが面白く、ある意味人間としての評価など、そこに尽きるというポジティブさも嬉しい。
コンドウはそんな彼女の思惑など知る由もなく、病院からは健康だと言われている、とにかく努力する、とまさに彼女が欲しがっている言葉を口にする。その言葉こそを手がかりとして、水嶋女史は彼をほっとけなくなるんだけど、オクテな彼女は恋をするという感覚すら判っておらず、そういう意味ではコンドウの方が早めに彼女に恋に落ちてたんだよな。

そうそう、桜井の人生を生きることになるコンドウが、そのデータを手がかりに水嶋女史に35歳と告げ、独特の間の後、バックミラーを覗いて「老けてますよね」とつぶやくのには思わず爆笑!そりゃ実年齢でも、役の上でもそうなんだからさ!
いかにも30過ぎのフリーター、てな軽くはおるネルシャツにジーパンを、きっちり上までボタンを留めてウエストインする“着こなし”っぷりも、可愛くて泣けちゃうよ、もう。
一方の桜井はコンドウの人生を生きる訳だけど、これまたいかにも着られているという違和感たっぷりのスーツの浮き上がりっぷり、高級車の似合わなさ、サングラスは怪しさ満点。
別に堺雅人が安っぽい訳な筈もなく、そう見える、見えてしまうっていうあたりはやっぱさすがだよなーっ。

それでいえば、この役柄である。売れない役者。皮肉なことに、自分が桜井だと思い込んで、役者なのだと知って、懸命に芝居の勉強に“努力”するコンドウの方が、エキストラの中でも重要な役どころに抜擢されていく。
カレンダーに書かれた駅前集合のメモに、自分を知る手がかりがあるかもと行ってみたらエキストラ集合だった、なんてあたり上手い構成だよなー、と思う。
後に記憶を取り戻したコンドウが桜井と対峙する時、何がメソッド演技だ、8ページから先読んでる形跡なかったじゃねえかと罵倒し、ここから先の大バクチの芝居をニナガワもかくやという鬼演出でつけるシーンの面白さときたら!だって香川照之が堺雅人に演技つけるんだよ、スゴいよ!!

おーっとなんかまた色々すっ飛ばしちゃったが。でもさ、どのあたりを行こう……どこもかしこも面白いんだけど!
ああ、そうそう、コンドウが自分をつかむために全てをノートに書き記していくキマジメさ、その文字の几帳面さがすんごく人物を物語っててね、素晴らしいの。
やぁっぱり、代筆にはこだわってたんだねー。逆に桜井の文字がまるっこく雑なのが、演出の元とはいえ堺氏自身が書いてるってあたりがまた(笑)。しかもこのアイテム、節目ごとに笑わせながら、最後にはキュンキュンのアイテムになるってあたりが!

おっとおっと、だからそれはホントに最後の最後なんだってば!でね、コンドウが記憶を取り戻してからがまた凄い展開になる。そこまでは桜井がぎこちなくコンドウの人生をなぞって、彼のカネを使って方々に借金返したりする描写の中に、桜井のこれまでを語らせつつ……。
元カノが引越ししているところに行き会い「写真まだ残ってるけど」とゴミ袋の中から取り出すのには、あまりの可哀想さに……でもやっぱり思わず笑っちゃったけど。
コンドウの高級マンションの部屋に隠された、コスプレまがいの大量の衣装や身分証、ぶあつい本の中に隠された銃、クッキーの缶の中の万札の束などに、一体コンドウってナニモノ!?というドキドキを高まらせていく。

いや、ナニモノどころか、ずっと、ずーっと、殺し屋だと思ってたさ。そりゃそうさ、冒頭のアレだし、コンドウが銭湯に行ったのはこびりついた血を洗い流すためだったし。
でも確かに、ずっと気になってたんだよね。トランクに入れっぱなしの筈の死体、腐っちゃうだろう、って。しかも、コンドウの携帯に連絡が来たのを受けちゃった桜井が、車のトランクを開けてビックリはするけど、でもナイフを手にしただけで、その後、そこに入っている筈の死体を気にやむ風がなかったから。

いや、ナイフであれだけ動揺していたから、きっと死体のことも気にしている、と観客に思わせるあたりも上手いなと、後から全てが判明して思った。
死体は、なかったのよ。だって死んでなかったんだもん。ナイフは突けば引っ込むおもちゃ、部屋にあった銃も銀玉鉄砲、つまりコンドウは伝説の殺し屋の情報を“営業”で各方面に流し、仕事を請け負ったらその標的にコンタクトを取って演技をつけ、逃がして痕跡を残さず、“死体も残さない完璧な仕事”をする優秀な殺し屋としてここまで来ていたんである。

それが判明した時は、もう、ほんっとうに、心底ホッとしたよーっ。だって、水嶋女史とののどかなやりとりは本当に初恋のようで、なんとかなんとか、二人にハッピーエンドが訪れてほしい、と思っていたんだもん。
でもそこまでにはまたかなりの道のりがある。そりゃまあ桜井はコンドウがホンモノの殺し屋だと思ってるからさ、連絡をつけてきた依頼主に標的が持っていた筈の大金が見当たらないこと、そのカギを握っている筈の愛人を締め上げ、更に消してほしいことを追加依頼され、弱り果ててしまう。

この愛人を演じる森口瑤子の、この年齢の女性が持つリアルな美しさ、隙のある感じがヨロメキ度満点で、だから後に、彼女が本性を見せる様にちょいとブルってしまう。
依頼主の荒川良々が彼女にホレていたこと、殺されたはずのカレが本当は生きているんだと知っても、そのカレが自分のことを本当に愛しているんだと判っても、ちっ、という感じでカレから託された高額なビンテージもの(これぞ、財産隠しだった訳)を失ったことに対する苛立ちを隠さない。この、意識的ベタファンタジーの中でこそ、キラリと光る女の怖さ。

ビンテージものに気づいたのは、ハイソ雑誌を自ら作り上げたという設定がここで活きた水嶋女史。この二人ののっぴきならない状況に巻き込まれ、というか、コンドウを追ってきたことで自ら巻き込まれる。
桜井の“真剣だけどドヘタな演技”(これを堺雅人がやるってのがね!でも上手くなきゃ、出来ない!!)を依頼主にあっさり見抜かれて……もうここは、さあ!ハラハラ!
いや、依頼主のコワモテが、ちっともコワモテじゃない荒川良々であるという点で結末への安心感はあったけど、でもやっぱりハラハラするよ!
しかしコンドウの機転でコソドロとして通報されてしまうなんてなんと間抜けな。いや荒川良々だからこそそれでホッとするんだけど!

しかしなんたってラストである。本当はコンドウは、いやさ山崎は、いくら法には触れない、お天道様に恥ずかしくないという自負はあっても、彼女から離れる決意をしていたのかな。
一度は桜井に「お前を助けてやる。替わりに、お前の人生もらうぞ」と言ったぐらいだったのにさ。
そう桜井からも指摘されたけど、とにかく山崎はあの愛人を“死んだ”筈の標的の元に送り届ける。その道中……あの時銭湯に入ろうと思った道で、桜井の元カノとの写真を発見したんだよね、あれ、私なんか、記憶がおぼろげ、ゴメン(爆)。
水嶋女史の方は、山崎の残していったあのノートの中に、好きなもの、の項目を大きくバツして、水嶋香苗、と書かれているのを目にする。心臓に手を当てて、キュンとなる。

これがね、彼女の姉から、二度も結婚している姉から言われたことでね、今から恋する期間まで経て結婚しようと思ってんの、30過ぎたらキュンとしないのよ。キュンよ、この辺がね、と言われても彼女はピンと来てなかった。えーっ、ひょっとしてキュンの実感もないって、は、初恋!?キャーッ!
そしてそこにドーン!と突っ込んできた山崎の車、つまらなさげに後部座席に座ってる愛人森口瑤子を手前にアップにしながら、二人歩みより、お互い大きくふりかぶって(爆。いや、そんな感じなんだもん)抱擁!キャー!!

あー、良かった良かった。ラストクレジットに幸せな余韻でひたると、早くも前の席の人が立ち上がった。うーむ、最後までいろよと思っていたら、メインキャストの名前が出た後、パッとまた画面に戻って慌てて戻るその人。ほーらだからっ。
でもそれは、予想以上に素敵なオマケ。そうだ、元の世界に戻った桜井はどうなるんだろうとは思ってた。役者の才能、なくはないと山崎から言われて、また仕切りなおしで再挑戦するんだろうとは思ってたけど、極貧生活よりも失恋で自殺未遂したようなヤツだからさ。

山崎が桜井としての自分を知ろうと、恐る恐るご近所伺いをした時にうっそうと現われ、「猫ですか……大家さんには言わないでくれますか。私、この子がいなければ、生きていけないんです」と訴えた、黒魔術でもしてそうな雰囲気の女子。
しかしこのオマケラストでは明るい日中、桜井が部屋に戻ってくるなり、入り込んでくる子猫、追いかけてくるこの女子。「君の猫?カワイイねぇ!」抱き上げる桜井、いやさ堺雅人の無防備な笑顔に、この女子ならずとも心臓に手を当ててキュンキュンだよ!
いやー、このオマケラストはヤバかった。勿論桜井にも明るい未来があるという点もそうなんだけど、こんなわっざとらしいやりかたなのに、メチャときめいた、もうっ。

水嶋女史のお父様の葬儀の泣き笑いビデオとか、車のドアを何度も壊されて泣き出しそうな荒川良々の手下とか、あと細かいディテールも色々、色々、手抜きナシでね、ホントに。こういう、なんの迷いもなく面白かった!と思える映画って、これが案外、ナカナカないんだよなあ!

それにしても黒スーツ黒タイ黒光り革靴ビシッ、髪もビシッと分けた香川照之には、シビれた。 ★★★★★


籠の中の乙女/Dogtooth
2009年 96分 ギリシャ カラー
監督:ヨルゴス・ランティモス 脚本:ヨルゴス・ランティモス/エフティミス・フィリプ
撮影:ティミオス・バカタキス 音楽:
出演:クリストス・ステルギオグル/ミシェル・バレイ/アンゲリキ・パプーリァ/マリア・ツォニ/クリストス・パサリス/アナ・カレジドゥ

2012/9/4/火 劇場(渋谷シアターイメージフォーラム)
空いた時間に飛び込んで観る外国映画は、なぜかこんな風に大抵不思議なものに当たる、のはなぜかしらん。それが映画との出会い、ということか。
というか、ギリシャ映画というもの自体、観る機会がない。ほとんど、どころか、全然、ない。それこそ遠い昔のアンゲロプロスぐらいしか思い出せない(てゆーか、今更ながらアンゲロプロスが今年、交通事故で急逝したことを知ってビックリしてるあたり……)。
世界各国にはそれぞれの映画があるのに、それぞれの国で観られる映画って、偏っているんだなあと今更ながらに思う。それでも日本は世界の映画を広く観られる国だとは思うけれど。

そう、だから、ギリシャ映画どころか、決まった国の映画以外、見慣れていないせいかもしれない。何が起こっているのか判らないまま終わってしまった印象が正直、あった。
でも思い返してみればシンプルながらに恐ろしい物語なんであった。端的に言えば、子供を一切外に出さないまま、まさに塀の中に閉じ込めたまま育てている家族。そうなるとどうなるか。
考えてみれば当然の結末が用意されているんだけれど、父親はそれが当然起こるなんてことは考えもしなかったに違いない、ということが、恐ろしいのだ。

でもね、観てる時は、そのラストの反乱は観客にとっても唐突で、衝撃的だった。……なんて書くともう最初からオチバレ必至だが、いつものことだから言っちゃう。
外の世界に焦がれた乙女は、父親が説く“車に乗ることが出来る時期になったら”の条件を満たそうと、犬歯をダンベルで殴りつけてブチ折り、血だらけになって父親のトランクに身を隠すんである。

そのまま朝まで見つからないままトランクの中に潜んでいた彼女が、その後どうなったのか、示されないでブラックアウトである。
娘が潜んでいるとも知らずにその車で勤務先まで出かけた父親、止められた車から父親が離れても、トランクにカメラが近づいても、うんともすんともしないまま、シーンとしたまま、ブツリとブラックアウト、物語は終わってしまった。
出血多量で乙女は死んでしまったのだろうか、とも思わせた。

あーあ。オチ言っちゃった。ゴメンね。まあいつものことだから(爆)。でも本作はオチとかヤマとかそういうことはあまりないというか……。後から考えるとこれがギリシャ映画だと言われると、なんとなくナルホドとも思う。
画も会話も無防備な水着姿やヌードまでもが、神話的に映る。この家族の中でだけ通用する奇妙なゲームの数々、おもちゃでもなんでも奪ったものが勝ちだというのはまだ判りやすいけれど、目隠ししてお母さんまでたどり着いたら勝ちとか、そしてもらうのはシールって、ピアノ教室でマルもらうんじゃないんだから。

子供たちは3人いるけれど、皆結構なお年頃である。いわゆるハイティーンの年齢には達している。いやでも、いくつなんだろう。若そうに見えて、もっと行っているのかもしれない。
見た目年齢より中身はひどく幼くて、世間知らずで、キラキラ光るカチューシャとか欲しがったりする。つまりそれだけ親がモノを与えてないからだけれど。

カチューシャを欲しがったことを、というか、子供と外からの“客”との間でそんな取引が行われていることを、親は知らずにいたのだろう。彼ら親たちの理想を完璧にするならば、外からの“客”は入れるべきではなかったのに。
もうその“客”は物語の最初から登場する。彼女の存在があるから、彼女こそが物語のキーマンなのだと思ってしまって、なかなか本作の本質に気づけずにいた部分はあったかもしれない。

いや、確かに彼女はキーマンであることは間違いない。乙女たちに外の世界を教えてしまったのだから。それこそがあのラストにつながるのだから。
でも、やっぱり彼女は脇役に過ぎないんだよね。この父親の考えからすれば、クズにも等しい脇役であろう。外の世界を教えてしまった彼女を、突然ビデオデッキでブン殴るんだもの。その前に、彼女から借りたビデオを見た娘を、そのビデオテープで激しくブン殴るシーンが衝撃なんだけど……。

うーむ、なんか判んないまますっ飛ばしてるけど。肝心なこと、忘れてた。この“客”である彼女、大人の女はつまり、息子のセックス処理のため、なんである。もろ、それだけ。
セックスに愛が介在するなんて幻想を、これほど打ち砕かれる設定と画もないだろうと思う。こんな画じゃ、映倫のやる気のないボカシ(いや、やる気がないのは配給元かな……)なんて意味がなさ過ぎる。アッチもソッチもエロなんて全然、ないんだもの。
それでもこの“客”である彼女は乙女たちにソソられたらしく(てことは、彼女は実はレズビアンだったのだろうか??)光るカチューシャをエサにアソコをナメさせることで、彼女たちに外の世界を教えていくことになる訳で。

結局、最初からかなり決定的な要素を持ち込んでるんだよね。でもなんか観てる時にはさ……まあいいや。
ところで、この邦題はいかにも日本的なタイトルのつけ方だけど、でも確かに上手い、これでちょっとノセられて足を運んじゃったもの。
絶対原題はそうじゃないだろうなあと思ったら原題というか英語題は「Dogtooth」……思いっきりオチじゃないの、私レベルにヒドイ(爆)。

てか、父親は、息子には性欲処理は必要だと、まあ自身が男だから思ったんだろうけれど、娘に対して少なくともその点がほったらかしだったのが、この崩壊を招いたひとつの要因だったのかもしれない、とも思う。
てゆーか、てゆーかさ、奥さんの立ち位置がまたナゾなんだよね。この理想の家庭を作り上げようとしているのが、狂った夫婦共々というなら判るんだけど、なんか奥さんはことあるごとに泣いてばかりなんだもの。

そして序盤に父親と同僚との意味ありげな会話、あんな悲惨なことに直面したんだから奥さんが立ち直れないのもムリないとかなんとか、そんなニュアンスの会話、してたよね?
息子は一人しかいないのに兄弟と言い、娘姉妹と競わせるあたり、ひょっとしたら子供を亡くしてこんな監禁家庭が出来上がったのだろうかとも思うけど、明確に示されないからちょっと言い切れなくて……。

でも、この日本タイトルは、そう、上手いと思う。宣材に使われている、姉妹二人が固い表情で、パーティーの飾り付けをした部屋の中、白いオシャレワンピース姿で並んで棒のように突っ立ってる写真なんて、実にそんなイメージである。
この画のシークエンスは確かに実に印象的でね、夫婦の結婚祝い(だったと思う……)に彼女ら二人が息子のギター演奏に合わせて即興ダンスを披露するんだけど、ギター演奏は永遠のように繰り返されて終わらないの。
乙女1は脱落し、乙女2は父親から止められるまで、執拗に、執拗に、パンツ見せながら踊り倒す。そして、“Dogtooth”を自分でブチ割って、外へと出て行くのだ。

姉妹二人のこの宣材写真は、何かホラーめいた怖さもあって、だから私はちょっと惹かれたのかもしれない。
私の世代あたりなら判ってくれるでしょ、トラウマになる映画のトップ10には確実に入ると思われる「シャイニング」の血だらけ双子を思い出しちゃったのよ。すんません、本作とは全然、関係ないのに(爆)。
でもね、でもでもでも……ある意味あの双子も、あの屋敷に閉じ込められていたじゃない。幽霊だったにしてもなんにしてもさ。姉妹二人を閉じ込めちゃイカんのよ。何かが起こるの、コワイことがさ。

でも彼女たちは勿論、そんなホラーな要素などない。外から見る限りでは、他愛ないゲームに興じてシールなんてカワイイポイントを稼ごうとするような純粋な少女たちである。
いや……このシールポイントこそが彼女たちのささやかな欲望を満たすためのものなのだから、そんなウカツに言える訳がない。そしてあの、息子の性欲処理の大人女性が入り込んできたことで、彼女たちは正当な手段以外の駆け引きというものを覚える訳なんだもの。

姉妹がこの大人女性からぶんどったビデオはなんだったのか。姉妹にも、息子にも、名前は与えられていなかった、よね?ビデオに感化された乙女が、自分にブルースという名前をつけて、もう片方の乙女に呼ばせる。
ブルースという名前を呼びかけられるたびに、振り向くポーズをつける。もう片方の乙女がうらやましがって、私も名前が欲しいと言う。好きにつければいいのよ、と“ブルース”が言う……。
その後、“ブルース”が姿をくらました時に皆がブルース!ブルース!!と言って探すということは、つまり、ホントに彼女にはその以前の名前がなかったの、か……。

そういやあ、名前、というか、モノの名前、つまり両親が、子供たちに知られたくないモノを隠すために、ウソを教えているというのも大きなファクターだった。
それこそ、それは冒頭も冒頭に示されてて、暗号のように言葉が言い換えられているもんだから、何が起こっているか判らず、???となっていたんだった。性的なものを筆頭に、欲望や汚い事柄から子供たちを徹底的に遠ざけるこの暗号を、親たちがちゃんと全部覚えているのだろうかと心配になるぐらいだった。

でもさ、親を信頼させ、尊敬させ、畏怖させるために、なんだってやるんだもの。プールに活魚を放って捕獲したりさ。門の外に出てしまったおもちゃの飛行機を、“パパに車でとってきてもらうしかない”と結論づける段に至っては、その徹底ぶりにボーゼン、ゾゾッとした。
しかも父親は、自身も門から出た車から降りずに、地面を踏まずに落ちたおもちゃを拾って、息子に渡すのだよ。この塀の中こそが真の楽園、ここから出ちゃダメなんだと、地面を踏むだけでダメなんだと……。

彼らはよく塀の外にモノを投げる。神聖な時もあれば、切ったカステラを投げる時もある。ここは正直、ちょっと判らなかった部分でもある。
親たちは塀の外に汚らわしいものを捨てていたのかもしれないけど、少なくともカステラを投げた乙女は、外への憧れをもてあましていたように思えて仕方ないもの。

でも、やっぱり、やっぱりやっぱり……息子が猫を殺すシーンは、見るに耐えなかった。いくらカットを割っても、猫の死体が“うまく出来ていて”も耐えられなくて、その後、このシーンの意味とかその後の展開がしばらく頭に入らなくて、困った。猫好きはこういう時、困る(爆)。
その後、猫に食い殺されるとか、だから猫を殺すんだとか、過去にそういうことがあったような会話とか、あるんだけど、もうこのシーンのショックで、その会話やなんかでこの家族の秘密を解明できるのかとかいうことも、どうでもよくなるんである。弱すぎ(爆)。
でもフィクションでも猫を殺すのは、ホントにやめて(泣)。それだけで作り手を信用出来なくなっちゃう(最弱)。

でもまあ、冒頭に言ったように、ギリシャの神話、だからなあ……なんか猫とか殊更に、邪悪扱いされそうだもん。いやいや、そんなこと言ったら、ギリシャの猫好きな人に怒られるかもしれない。
一方でギリシャなんて街中にメッチャ猫いそうだもんね。だとしたら、逆かもしれない。そんな神聖なる使者の猫をヒドイ目に合わせる故の展開。

とにかく、全てを知らなすぎるんだもの。他人を知らないから、当然恋なんて感情も知らない、筈、なんだけど……。
姉妹が息子の性欲処理担当の女性にやたらなついたり、取引はあれどレズ的な行為があったりするのは、この少ないチャンスに本能的に飛びついたのかなあ。
息子の方は“健全”な正常位での性欲処理よりもバックでバコバコがお好みらしく、まあある意味ちゃんと健全とも言えるんだけど。

でもこのオトナ彼女が去った(というか父親からボコボコにされて排除された)後、彼は新しく用意された女の子には興味を示さず、姉妹二人と静かにお風呂に入り、静かに抱き合う、イミシンだけど美しいシーンが用意されているのよ。お尻の弾力を確かめたりする手の動きでさ、ぎこちなく、初々しいけど、官能的なのよ。
ちょっとその後を想像させるようなシーンで、実際にナニとかは展開しないんだけど、なんか……官能的以上に、この姉妹と息子が、初めて“きょうだい”としてのつながりを感じさせたようでもあって、凄く、意味ありげ、なんだよね。

そういやあ、犬歯。犬歯だ。トレーニングに預けたまま、家に戻ってこない犬がいた。夫が様子を見に行ったその犬は、トレーニングを受けさせるようなタイプではない、小さないかにも愛玩犬という感じで、彼が名を何度呼んでも、声を荒げて呼んでも、きょとんとして近寄ってこなかった。
彼は、外界に出た幸せを手放さなかったということなのかもしれない。トレーニング計画をもっともらしく語って夫を追い返す店主も、そんな犬の気持ちを判っていたのかもしれない。正しい方法で外に出た。もうあの場所に戻ってはいけないのだ、と。

それにしても奇妙で、不思議で、恐ろしく、でも確かに美しい映画であったとは、思う。父親から、犬歯が抜ければ車に乗れる、つまり外に出て行けると解釈して、表情には出さないけれど外への世界に恋焦がれていた乙女は、トランクの中から出てこないまま、映画は終わった。
それこそギリシャ神話的だ、太陽に焦がれて、飛んで飛んで、翼をくっつけたロウが溶けて死んだイカロスのように、外の世界に焦がれた乙女は、死んでしまった、のか。★★★☆☆


かぞくのくに
2012年 100分 日本 カラー
監督:ヤン・ヨンヒ 脚本:ヤン・ヨンヒ
撮影:戸田義久 音楽:岩代太郎
出演:安藤サクラ 井浦新 ヤン・イクチュン 京野ことみ 大森立嗣 村上淳 省吾 塩田貞治 鈴木晋介 山田真歩 井村空美 吉岡睦雄 玄覺悠子 金守珍 諏訪太朗 宮崎美子 津嘉山正種

2012/8/9/木 劇場(テアトル新宿)
公開間もないということもあるだろうけれど、結構な人出で、しかもシニア層の人気も高い。若手に人気のある役者陣をそろえている、しかもインディーズ作品としては異例のことのように思う。
この“ヒット”っぷりに、彼女の過去二作のドキュメンタリー作品とは異質なものを感じるなあ……などと、私だってその過去二作は公開リアルタイムで観てなぞいなく、それこそ本作の公開に合わせて上映された機会に慌てて駆けつけたぐらいなんだから、そんなこと言えるわけもない。

ただ……やっぱり、そういうことなんだろうと思う。直裁に言ってしまえば、その過去二作のドキュメンタリーの方が、そう、ありていに言ってしまえば“面白かった”。
ドキュメンタリーだから、この“フィクション”より“真実”が映し出されている筈なのに、映画的エンタテインメントとして、“面白かった”んである。
フィクションとして作られた本作は、その過去二作を思うと驚くほどシリアスで、見てる間ずっと重苦しい気持ちを強いられる。
揺れ気味のカメラは人物たちの心情をあらわしてでもいるのか、とにかくそれも、ちょっとツラかったりする。よそ見を許されない雰囲気がある。

でもやはり、そういうこと、なのだ。フィクションとして作られ、トンがった個性派実力派役者が揃い、そして何よりあのお騒がせなお隣の国に翻弄された家族の物語を、アーティスティックに仕上げると、こんなにも裾野の広い観客が集まるのだ。
恐らく、恐らくだけど、ドキュメンタリー作品の時は、評価も高かったし、ドキュとしてはかなりのヒットを遂げていたと思う。それぐらい、タイトルは有名だった。
でもやっぱり、タイトルは、ドキュメンタリーとしては、てところに留まるんだよね。それが意外にも映画的エンタテインメントにあふれていても、つまり事実は小説より奇なりであっても、集められる観客は限られている。

あの過去二作を急ぎ観なかったら、私は率直にどういう思いを抱いただろう、などとも思う。特に最初のうち、リエが父親に結婚相手を「日本人、韓国人、アメリカ人はダメ。朝鮮人がいい」と言われるところなんて象徴的に、過去二作を焼きなおしているような感じがしてた。
勿論、その時点で、このリエに監督自身がまっすぐに投影されていることは判ったし、北朝鮮に行ったお兄ちゃんというのが、実は監督自身には三人もいる訳で、投影しまくっているのは、勿論、判った。

過去二作のドキュメンタリーでは、それぞれ主人公はお父さんであり、姪っ子のソナであった訳で。監督自身を投影したリエであり、北朝鮮に渡ったお兄さんたちにスポットを当てる本作は、またひとつの変形であると考えると、ある程度の焼き直し感は無論、あるのだろうと思う。
過去二作を続けて観ると、それはとても分けて考えることなく、終わることなく続く物語に見えた。というか、そのとおりだろうし。
そしてフィクションとして作られた筈の本作にも、それを感じたというのは、実に不思議というか、当然なのかもしれないけれど。

そう、でも、こういうタイプの映画には人が集まる。普通に集まる。それはとても、重要なことなのだろうと思う。
本作が、監督の意向からではなく、プロデューサーとの出会いによって、つまり商業的に、つまりつまり、これは商品としてイケるという企画として作られたことを聞くと、強く確信する。
過去二作のドキュでも、冒頭で丁寧に説明された帰国事業の詳細。本作では、ドキュの時よりは簡潔に示されたように思う。やはり、問題はその先だからだろうと思われる。
でも、やはりやはり、ドキュでは、それ自体の問題性にとらわれた、と言うと言葉が違うだろうか、でも諸悪の根源というか、そういう感じがあったと思う。
それが、いわゆる“在日”の人たちに対する、差別を助長させたのだというのだから、余計にその思いにとらわれざるを得なくなる。

本作のリエのようには深刻に追い詰めないけど、監督が父親に、兄たちを北朝鮮に行かせたことをどう思うかまっすぐに聞く場面があって、父親は、あの頃はすぐに南北統一がなされると思っていたから……と口を濁した。
本作の厳格な父親とはかなり印象の違う、よく笑い、よく喋る、おちゃめな父親。でもそれは、監督自身が充分に大人になって、関係性を築いたからそう映るのであって、実際は本作のように、ただただ近寄りがたいばかりの存在だったのかもしれない。

なかなか、本作の中身に行けない。やはり、ドキュにとらわれてしまう。“予習”をしたのは、良かったのか、悪かったのか。
でも、観てしまった前提で考えると、勿論本作には、そこでは出てこなかった事柄がいっぱいある。
そもそもの本作のキモである、病気を治すために一時帰国を許されるということ、その際の監視人、スパイめいた仕事をする気はないか妹に切り出すこと、等々、様々に。

それらが、ドキュでは言えなかった“真実”なのか、あるいはフィクションを作るに当たって取材から作り上げたものなのか、興味のわくところであり、そこんところは監督の著書をぜひ、てなプロモーションも効くのかもしれない(爆)。
まあそこはスルーするにしても、どこまでがフィクションなのかということは、判らないけど、ただ、この、お兄ちゃん、お兄ちゃん!!

ARATAはすっかり本名の井浦さんになっちゃったんだね。ずっとARATAで慣れ親しんでいたから、なんだか……。まあそれはどうでもいいか。
彼がね、もう予告編で見た途端に、うっと胸が詰まった。そして、過去二作のドキュを見て改めて彼を思った時、まさに、監督のお兄ちゃんだと思った。

三人のお兄ちゃんを集約している部分があるんだろうと思うけれど、その中でも長兄の、クラシック音楽を愛し、鬱になってしまい、かの地で死んでしまったお兄ちゃん。
その死の原因は少なくともドキュの中では明らかにされず、されないからこそ、自殺とかだったんじゃないだろうかなどと、想像をたくましくしてしまう。
日本の薬事法が変わって処方箋がなければ薬が手に入らなくなって、北朝鮮に送れなくなってしまったことを、オモニはとても気にしていた、その後の描写だったから……。
……なんか私、本作自体よりすっかりドキュに心が行ってるなあ、いけないいけない。

でもとにかく、そのお兄ちゃん、監督が北朝鮮に会いに行った時は、おみやげのクラシックのCDを二人で聴くことが楽しみだったという物静かなお兄ちゃんが、ARATA、じゃなくて、新氏にピタリと当てはまるのよ。
別に顔が似ている訳ではないんだろうけど、雰囲気がピタリなせいか、顔まで似ている錯覚を覚えてしまう。
リエを演じる安藤サクラもまた、そのちょっとナマイキな感じが監督と良く似ている(双方にゴメン!でもつまりそれが素敵だということよ!!)もんだから、この二人の顔合わせで再現されるというのには、かなり胸がざわつく。
つまり新氏は三人分のお兄ちゃんをぎゅっと凝縮して、一番センシティブな長兄がトップに来てるんだから、胸がざわつかない訳がない。

病気を治すことが“任務”だとして、“非公式”を強調して日本に帰ってきた、いや、アチラさんにとっては帰ってきたという表現も使えないんだろうな、とにかく25年ぶりの家族の再会。
同じ“任務”で来た中には、顔中に赤い斑紋が出来ている女性などもいて、思わず息をのむ。後に明らかになることだけど、このお兄ちゃんは脳腫瘍が見つかって実に五年も経ってから、ようやくこの“任務”についた。しかも期間はたった三ヶ月である。

この5年間、家族がいかに気をもんでいたかを想像するだけでもゾッとするのに、三ヶ月となるとそりゃあ病院も“責任が取れない”という形の放棄。
それでも何とか、期間延長、あるいはそれでも引き受けてくれる医者を探していたのに、理由も何もなく、突然の“帰国”命令。
あの国には従うしかない。思考を停止するんだ。ラクだぞ、思考停止、と冗談交じりに言う兄に、リエはただただ泣いて、判んない、判んないよ、と言うしかない。

その間に、先述した、兄からリエにスパイの仕事をする気はないかと遠慮がちに聞かれる場面が挟まれているから、まあフィクション映画的に思えば、リエがこの話を断り、断ったのみならず、兄についている監視員に食ってかかったことが原因だったんじゃないの、などと俗なことを考えてしまうが。
でもこれは、確かに“フィクション映画”として作られてはいるけど、根本の成り立ち自体はそうじゃないから……。やっぱり、違う、だろうな。
お兄ちゃんの、「こういうこと、ホントよくあるんだよ」の一言に象徴されるように、ただただ、北朝鮮が不気味な国であることが間違いない、ただただ。

まるで犯人のアジトに張り付く刑事のように、監視を続ける“ヤン同志”。演じるのは「息もできない」で、それこそ観客を息も出来なくしたヤン・イクチュン。よくぞこの人を引っ張ってきたなあ!
新氏や安藤サクラだけでもゾクゾクきたけど、彼のキャスティングには、本作がただならぬ作品になることを約束された気がした。

「息も……」の時よりはややふっくらと、柔和な雰囲気、などと思っていたが、終始能面のような表情、本国の決定に不満めいたことを言うと「今のは聞かなかったことにしてやる。判ったか、えぇ、判ったのか!!」と超冷徹。涙が出るほど怖い(涙涙)。
でも彼に関しては、最初、挨拶がてらリエたちの家でコーヒーを振舞われた時、砂糖を三杯、ミルクをドボドボ入れるもんだからリエはこっそり笑っちゃうし、待機しているホテルではアダルトビデオを凝視してるし、ちょっとしたコミカルパートも用意されている。
でもそれもうがって思えば、北朝鮮という国の“無さ”を端的に示しているようにも思い、ストレートには笑えない、あたりが、上手いと思う。

突然の帰国命令が出るまでの数日間の中で、ささやかな同窓会が開かれる場面がやはり、印象的である。
地下にある小さなバーで、涙もろいおかまのチョリ、「俺は中立だから」と言うシンラツなジュノ、ソンホ(あ、なんか今まで言ってなかったけ、お兄ちゃんの名前ね)と淡い恋心を結んでいたスニたちが集まる。
こんな小さな店、地下にある、監視の目も届いていないんじゃないの、と素人は思ってしまうような場所でも、ソンホは穏やかに微笑むばかりで何も語らない。
チョリが執拗に聞きたがるのを、ジュノが「お前、何も判ってないな。帰ったら、総括させられるんだぞ。家族にも危害が及ぶんだぞ」とズバッと言って、一気に場が冷える。
それに対してソンホが肯定も否定もしないんだけど、ただ黙っただけなんだけど、でも、それが全てを語っていると、思っちゃう。

ジュノを演じているのは、無頼漢な風情が素敵なムラジュンで、しかしなんたってムラジュンだから、そのシンラツさはリアリティがありまくる。
それにしても、“総括”なんて、それこそ映画の世界、過去の映画の世界でしか聞かない言葉、舞台となった時代はほんの10年かそこら前なだけ。首筋がそそけだつような気がした。
リエが、お兄ちゃんからの“仕事の依頼”を断ったことで「これを断ったら、オッパ(お兄ちゃん)の立場が悪くなる?オッパの手柄になるの?」と食ってかかった場面は、このシークエンスの随分後になるんだけれども、即座に“総括”!と浮かんでしまった、のだ。

リエは日本語学校の講師を勤めている、まあいわばフツーの女の子、ちょっと付け足すとすれば、“ナマイキな”フツーの女の子。この冠形容詞はお父さんがつけたもの。
監督自身を投影しているとはいえ、学校卒業後は自由を求めて家を飛び出し、クリエイター、ジャーナリストの道を歩んだ監督とは大分趣が違う。でもそれもまた、重要なのかもしれないと思う。
ドキュ第一作「ディア・ピョンヤン」によって北朝鮮入国禁止になった彼女は、決して迎合することなく、活動を続けてきた。
普通に考えれば、それこそ家族に危害が及ぶかもと思う。凡百の人間なら、怖気づき度1000パーセントなのに。

監督自身が自分のことを強い人間だと思っているかどうかは判らないけど、やっぱり、普通の女の子としての、この事態を見つめる作品としての本作は、それだけで重要なのだと思う。
ジャーナリストとしての彼女ならば、北朝鮮の理不尽な決定も、判らないと泣くばかりで済ませず、何らかの解説?を試みるだろうと思う。でもそれは、ドキュメンタリーやニュースならば有効だけれど、凡百の人間にとって見れば意味のないことなのだ。
この理不尽な悲しみを、ただ共有すること、共感すること、あまりにも遅い一歩だけど、そこからしか始められないのだ。

突然の帰国を命じられ、かつて淡い恋心を交わしたスニとの、ささやかな夕暮れの場面が、美しすぎる。スニを演じるのは京野ことみ。まったくもってイイ女になりやがって、である。
おかまのチョリ曰く、玉の輿に乗った彼女のダンナは医者。3ヶ月の中での治療という厳しい条件のために奔走してくれるんだけど、こんな風に、空しく終わってしまう。

「このまま二人で、どっか行っちゃおうか!」25年も前の淡い恋心、夕暮れ、この別れがもう本当に、永久の別れになってしまうだろう哀しき確信。
それらが彼女に言わせたこの台詞は、でもあまりにも実現不可能で、そして、哀しいほどに使い古されていて、実行された試しのない常套句。
つまり、これ以上ない“フィクション”なのだ、なんて、なんて、哀しいの。

くたびれた白シャツに金日成バッチをつけて日本にやってきたお兄ちゃんと監視員のヤンは、オモニの心づくしで、ぱりっとしたスーツ姿でこの小さな、東京の片隅の町を出て行った。
ヤンは恐らく北朝鮮生粋、ソンホのように豊かな文化を知らない。
ソンホたち兄妹をわが子供のように可愛がり、高そうな肉や、時にこっそりおこずかいをくれる叔父はソンホに「腐った資本主義も悪くないだろ」とイタズラっぽく耳打ちする。

ソンホはともかく、ヤンはこの皮肉さえ、理解できない、だろう。でも、リエからくってかかられた時、ヤンが、「私も、そしてお兄さんも、あの国で生きていくんです。これからずっと」と言った時、リエも息をのんで何も言えなくなったし、観客もまた……。
でも、彼、ソンホのお母さんが用意してくれたスーツを素直に着て、見えるところに金日成バッチをつけている様子は無かったように思う。中のシャツにつけていたのかな?でもそれもさ、かなり、意味深いことに思えるんだよなあ……。

ドキュ2作ではお父さんの“思想”を掘り下げることが大命題だっただけに、本作のお父さんが、息子を北朝鮮に行かせた思いがあまりにシンプルで、本音が語られないままに感じてしまって、ちょっと消化不良な気はした。
でもそれは、あのドキュでがっつり語られていたからこその、物足りなさだったのかもしれない。全ての父親なんてこんなもんで、私ら子供たちは翻弄されるばかりなのだ。
後悔してる、反省してると言われても、お兄ちゃんはただただ黒塗りの車に乗せられて、連れてかれるだけ。
お兄ちゃんはその車の中で「白いブランコ」を歌う。「白いブランコ」同窓会で、かつての仲間たちとの思い出の曲として、チョリがギターを弾いてくれた。お兄ちゃんが歌いだした途端、仲間たちは息を止め、そして皆で、涙を流した。

その歌を、お兄ちゃんは歌った。理不尽な決定に、青臭い反抗を示しておにいちゃんの腕をとって放さない、放そうとしない妹のその手を、ゆっくりと外して、去って行った車の中で。
かすかに、日本語の歌だ、って、判らないぐらい、かすかに。車の窓を少し開けて、空を仰いで、不思議に晴れ晴れとした顔を見せた。

「お前、こういうの持って、いろんな国に行けよ」ショーウインドーの奥、銀色に輝くスーツケース。あまりの値段の高さに、こっそりと店を出て兄と妹は笑いあった。
リエはその、無骨なぐらいの銀色のスーツケースを引いて、怒ったように街をさまよう。ただただ、怒ったように。

観終わって、今、思えば、本当に、真実を映すのは、全てを飲み込んで生きている人が吐き出す、フィクションと言う名の、それなのかもしれないと思う。 ★★★★☆


CUT
2011年 132分 日本 カラー
監督:アミール・ナデリ 脚本:アミール・ナデリ/アボウ・ファルマン/青山真治/田澤裕一
撮影:橋本桂二 音楽:
出演:西島秀俊 常盤貴子 菅田俊 でんでん 笹野高史 芦名星

2012/1/6/金 劇場(シネマート新宿)
なんつーか、いかにも“本物の映画”ファンが喜びそうな、というか目配せを感じる映画なんだけど、私はなんか、ひどくイヤーな気分になってしまった。
映画ファンが世間的にこんな風に見られてたら、凄くイヤだ。排他的で、流行り映画やシネコンを侮蔑して、自分たちだけが“本物の映画”を知っている、知らない奴らはバカだ、と言っているような。

なんかかなり過熱しそうなので、恐る恐る牽制なぞしておくけれど、これはあくまであくーまで、私の個人的感情、である。
ま、このサイトはそもそもメッチャそうだけどさ。
でも……この映画を持ち上げる向きは、“本物の映画”ファンには数多くいそうなんだもの。実際、国際映画祭ではスタンディングオベーションされ、熱狂的な賛辞を得たという。

うーん……。

なんかわざとらしくカッコ付で“本物の映画”ファン、などと言うのには勿論理由がある。
“本物の映画”というのは本作の中で再三触れられる、いわばキーワードである。
今の映画はカネにまみれて腐ってる、娯楽ばかりのクズ映画である。
シネコンにそんな映画を観に行く奴らも腐ってる。本物の映画が危機に瀕している。
かつて映画は真の芸術であり、娯楽であった。その本物の映画をとりもどそう!と、トラメガ片手に西島秀俊演じる主人公、秀二は吠える訳なんである。

彼は“本物の映画”を愛し、上映会を主催しては熱弁を振るう。彼の過激な行動が睨まれて、上映会場も限られてくる。
吹きっさらしの屋上で風に吹かれながらキートンのサイレント映画を上映する彼は、この風の音も風情を与えてくれるでしょうとか、嬉しそうに言うんである。

彼の言葉の中に既に、いくつかの矛盾が含まれているような気がする。彼はかつての映画は真の芸術であり娯楽であった、と言った。
そう、娯楽を肯定しているのに、今の娯楽映画を否定する秀二に、たまらなく傲慢を感じてしまうのだ。
彼が上映する“本物の映画”の中には、かつての人たちが気楽に笑いながら観ていた筈のミュージカル映画なども含まれていて、その観客たちの気分と、彼がクズだと腐す、お金をタップリかけた今の娯楽映画を観る観客の気分と、さして変わらないように私には思える。
というか、日本の映画黄金期に作られた数多くの映画の多くも、彼の言う“クズ映画”としてクサされる側にあるのではないかと思う。あの頃なりのたっぷりのお金を作って作られていた筈の娯楽映画の数々も、彼は否定するのだろうか……?

何よりこの、“本物の映画”という言い方である。何度もワザとらしく“本物の映画”ファン、という書き方をしたのは、“本物の映画ファン”とは言いたくなかったから。
本物の映画、誰がそれを決めるの。秀二が上映にかけ、物語のクライマックスには100本の“本物の映画”としてうやうやしくひとつずつ、タイトルと監督名が黒字バックに白抜き文字で差し出される“本物の映画”を一体、誰が決めるの。

そりゃあ世界的に評価された映画たち。私だってその中には大好きな映画が数多くある。でも正直、受け付けないものだってある。もう、感情的に、生理的にダメなものだって、ある。
そして、データベースの中にさえ見つけられないような小さな映画にたまらない愛しさを感じ、これこそが私にとっての本物の映画だと感じもする。

“本物の映画”って、そういうことなんじゃないの。一人一人にとっての本物の映画があり、それは観るべき映画としてじゃなく、一人一人が出会うものなんじゃないの。
それは、彼が嫌悪するカネにまみれた娯楽映画かもしれない。でもそれだってその機会をようよう得たクリエイターが、心血を注いだ映画かもしれない。
その中にはきっといとおしい要素があり、それに共鳴して、これぞ私にとっての本物の映画だと思う人が、どんな映画にもきっとそれぞれいる筈なのだ。

そりゃあ、私だって、これぞ本物の映画だ、なんていう言い方をしちゃったこともある。ていうか、そう言いたがっていた時期はあったと思う。
それこそ、シネフィルという言葉に憧れていた若かりし頃だった。本作の中で秀二が開催する上映会が“シネフィル東京”だというのは、なんともほろ苦い感覚を覚える。
今はシネフィルという言葉に、なにか社会とは隔絶された、悪い意味でのオタク気質を覚える、などと言ったら怒られるだろうか。

結局私は、シネフィルにはなれなかったのだ。大体観た端から忘れてしまうオバカな私(でなきゃ、こんなサイトやってない(爆))がシネフィルなんて域に到達出来る筈もなかったのだ。つまりこれは……負け惜しみなんだろうか。

確かにかつての私もシネコンを苦々しくも思っていたけれど、考えてみれば、それこそ“本物の映画”の上映機会が失われることを憂いているのならば、シネコンを否定してしまったら、圧倒的に上映館は足りなくなってしまう。
かつての、それこそニューシネマパラダイスのような大劇場に街の皆が集まってひとつの話題作に大興奮した、なんてことを夢見るならば、かつての“本物の映画”どころか、今の“本物の映画”さえ、観る機会を逸してしまう。
そして今の“本物の映画”を見出すためには、新作をかけ続けなければいけないし、評価から漏れたかつての映画の中にだって、“本物の映画”は隠れているかもしれないじゃないの。

……なんか、映画の内容そっちのけで熱くなってしまった。でももうひとつだけ、言わせて。
秀二は、“本物の映画”がスクリーンで観られる機会が失われていたことを憂いていたよね。
確かに私だって、映画館に観に行くことにはこだわってる。でも、過去から数えて膨大な数にのぼる、“本物の映画”を含めた数多くの映画の全てとスクリーンで出会うことは不可能だし、そのことにこだわることも、どうだろうと思う。

秀二が「小津監督の映画に出てくる父親に似てますね」と言った笹野高史が、小津か、昔テレビで観て感動したよ、としみじみ返すシーンがある。そのことに関して秀二が特にコメントをしないのはちょっと卑怯なような、気がした。
だって秀二はスクリーンで映画を観ることにこだわっている感アリアリじゃん。でもその秀二が上映会場として使っている、もう追い詰められて追い詰められてここしかないような屋上の映画館は、それこそちょっとコダワリのある作り手や観客なら、こんな環境で映画を上映するなんて、と怒るかもしれないような状態だよ。

でも映画館には千差万別あって、スクリーンの大きさから、音響効果の設備から、椅子や空調の居心地の良さに至るまで全然違うじゃん。
これじゃ最新のホームシアターの方がマシだと思えるようなところだって多々あるよ。それでも映画館、劇場、にこだわり、シネコンを軽薄だと卑下するのか。

昔ね、個性的な小さな映画も積極的に拾い上げるいわゆるミニシアターでね、つまり私、お気に入りの映画館だった。いや、今もお気に入りの場所である。
そこに作り手がトークで来てて、スクリーンとか音響とか手入れが悪すぎると怒ってて、これじゃ心を込めて作った自分の映画の思いが伝わらないって言って、それがね、なんかちょっと、ショックだったことが今でも忘れられないのだ。
それこそ最新のシネコンの方が、彼の希望は叶えられたのだろう。

もしかしたらそれ以来、映画と映画館に関する気持ちが変わったかもしれない。フィルムからデジタルに移行していくことを憂える向きもあるけど、それもまた、映画の未来を考えれば懐古主義と断じられてしまうのかもしれない。
……私、ちょっと、アレやね。なんかそんなに怒らんでもとも思ったけど、今までの、映画に対する思いを、言わずにはいられないような映画なのね、きっとこれは。

もしかしたら、そういうことも全部飲み込んでの、シニカルやアンチテーゼな意味を込めての作品なのかなあ。うーん、あんまりそういう風には感じられなかったけど(爆)。めっちゃストレートだったけど(爆爆)。
でも、主人公の秀二が、自らが“本物の映画”を作りたいと思っているに違いないのに、カネがないために作れなくて、“本物の映画”をプロパガンダ的に熱愛し続ける様、そして最終的にはヤクザからカネを借りて、自分の映画を作ろうとするエンディングは、シニカルやアンチテーゼ、かもしれない。

かもしれない、ていうか、確かにそうかも!結局私が個人的な感情にとらわれすぎて、見えてなかっただけか(爆)。
でもそうなると、本作は“本物の映画”へのオマージュどころか、それを愛するあまりに死んでいった(色んな意味でね)あらゆるクリエイターや、ファンもそうかもしれない……側からの、強烈な皮肉と思えなくもない。
けど……うーん、でもでもでも、やっぱりそこまでうがっては見られない気がする。生理的な部分で(爆)。

ていうか、物語のメインは、秀二が兄の借金を“殴られ屋”で返す、その間も“本物の映画”のタイトルをぶつぶつつぶやき続けるという、うっとうしいことこの上ない展開で、それを延々と見させられるんである。
正直、この状況が成立すること事態に大いなる疑問を感じる。ヤクザは羽振りがいいのかもしれんが、下っ端連中までそれほどなのだろうか。
いくら殴っても倒れない秀二に闘争心をかきたてられて、最初は数千円から始まり、最終的には何万も払うまで、何日も続けて参加するほど羽振りがいいのだろうか……?

彼らの士気(?士気とは違うか……)がこんなにも続くことが疑問だったし、そもそも秀二が、これが映画に対する愛なのだと言わんばかりの風情で(オフィシャルサイトの解説なんぞを読んでもやはり、実際そうらしいのだが……)殴られ続けるのも、それの何が映画愛なんだろう、殴られて映画のタイトルを唱えるのが映画愛なのだろうかと、どうにもこうにも首をひねるばかりで。

じゃあ何が映画愛なのかと聞かれると困るけど(爆)、少なくともこの状況は違うんじゃないのかなあ。
秀二は映画を作りたくて、でも作る金がなくて、映画愛を上映会の方に向けて、過激な演説なんかで自分の事態を危うくしている状況。
秀二を心配している鈴木卓爾演じるクリエイター仲間は、脚本を書いては売り込んでいるけれどもなかなか結実せず、もう二年(だっけな)も映画撮ってないよ。おかしくなりそうだ、と自嘲気味に笑った。
秀二に関しては、脚本さえちゃんと書けているのか。書いては破るシーンが用意されてはいるけど、書いて破る、今時(爆)。
いや、別にどんな形で書いててもいいとは思うけど、なんか“本物の映画”にこだわる秀二のアナクロニズムを揶揄したようにも思えるなあ。

……と考えると、結構そういうシニカルな視線はあるのだろうか?でもどうだろう……。
私、不勉強ながらこの監督さんは知らないのだけど、国際映画祭では高い評価を得ているイランの監督さんなのだという。
イランと日本の映画状況はまた違うとも思うが、あ、でも今はニューヨーク在住なのか。シネコンへの嫌悪はこのあたりからかな。
でもシネコンがある状況自体、映画的環境としてはひどく恵まれているよね。それを彼のような経過を辿った人が、否定するのか……。

そんなことにばかりとらわれて、そもそもの映画の内容が置き去りにされまくりだけど(爆)。でも大方、ここまでぽつぽつ言ってきたこと以上のことはない気がするなあ(爆)。
このヤクザの造形も、新しそうでなんか古い、それこそ“本物の映画”を嗜好する監督さんらしい、黄金期の日本映画のヤクザの風情。
でも、100本の映画の中にも、秀二が上映する映画の中にも、ヤクザ映画はなかったけどさ(爆)。

そもそもこの兄貴がなんでそんなに借金を重ね、ヤバい道に手を染めてトラブッて殺されてしまったか、っていうのは、劇中ではさっぱり判らなかった。
単純にヤバい轍を踏んでしまっただけかと思っていたら、オフィシャルサイトの解説によれば、弟の映画の才能を信じ、出資していたから、らしい。そんなこと、ちっとも判らなかった(爆)。
まあそう考えれば、秀二が兄の死に殊更に自責の念を感じて、みそぎのように殴られ続けるのも納得な気がするけど、なんせそれが判らなかったからさ(爆)。聞き逃したかなあ。なんかかなーり台詞が聞き取りづらくてさ。

まあ、つまりこの弟に、映画の才能はなかったということなんじゃないの(爆)。それこそ、映画の才能、“本物の映画”の才能なんてとこにさえ、辿り着けない訳よ。
……そこまでのシニカル感を感じられたら逆にほおーっと思ったかもしれないんだけど。なんかマトモにシネフィル礼賛、みたいな感じが気持ち悪くて(!)さあ……。

でも、確かにそうだったのかもしれない。物語のラスト、せっかく身体を張って、“本物の映画”にオマージュを捧げまくって(あー、気持ち悪い(爆))ボッコボコの顔になって兄貴の借金を返したのに、新たにこのヤクザに借金を申し込む。
この兄貴を舎弟として可愛がっていた菅田俊(彼の台詞が一番聞き取りづらかった(爆))が、ボコボコの秀二を見かねて個人的にカネを融通しようとしたのに拒否した、そんな秀二を買っていたのに。
どー考えても秀二がこれから“本物の映画”を作れるとは思えない。いや、作れるという体なのだろうか。

うっ、うっ。私はオマージュ映画が苦手なのだよ。苦手というか、はっきり言っちゃえばキライだ(爆)。
オマージュ捧げて、判る人には判るというのが、観た端から忘れてしまう私のようなテキトー映画ファンにとってはたまらなく屈辱だから、って、それじゃメッチャ自分勝手な理由だが(爆)。
でもさ、観てて忘れてても、観てなくても、結局同じことじゃないの。そこでまず排除されちゃうじゃん。一体どれだけ“本物の映画”を観ていれば許されるのか。それはスクリーンで観てなきゃダメなのか。

殴られてボコボコになっていく西島秀俊は、ああ、こんな美しい彼が……と思うほどに見事だが、でも鼻も折れなきゃ歯もきれいに並んだままなのは、殴られる、ボコボコにされる、という点で行けばかなり甘い気がするなあ。
まあそこが、ヤクザ的仁義の切り方?やたら腹の筋肉を気にして、美しい肉体を披露してくれるのはうおーっとは思うけど、でもそれじゃ、顔がボコボコになってて、目が腫れあがってて、なのに鼻も歯も無事なのはムリがある気が(汗)。
細かいこと言いすぎ?でもこういうのって、大事だよ。リアリティを感じられなくなったら、それこそ“本物”じゃないんだもん。

常盤貴子をスクリーンで見たのは久しぶりな感じがする。ヤクザ事務所に設けられたバー(やたら広大。一升瓶がキープボトルというのがなんとも、“外国人から見た日本”ぽい)で働く……働いている、のだろうか。
どうも彼女の設定は判らない。紅一点だし、かなり重要キャストだとは思うのだが。
秀二のことを、何くれと心配する彼女は、秀二の兄貴と、まあつまりそういう関係だったのだろうか、なんて感じもちらとうかがわせるけれど、特にそれが明示される訳でもない。

こんな男くさい中に紅一点なのに、ショートカットにチェックのシャツにジーンズという、かなり意図的にボーイッシュなカッコ(マニッシュというより。つまり色気がない)なのは、意図的なのに、その意図がイマイチ判らなくて、つまり女としての意図のないキャラだからなのかなあ、それだけの理由ならつまんないなあ、などと思ってしまう。
男の中に女一人なら、兄貴との関係なり、秀二との心の交流なり、それなりにあっても良さそうだけど。あ、こういうこと思うのが、それこそクズ映画に毒されているってことなのかね(自嘲)。

主演の西島秀俊に関してはさあ、彼はオールドムービーファンで、名画座系の劇場に出没しているというのは有名な話だから。
つまり彼は秀二のような思想(という言い方はイヤだが、そうとしか言いようがない)を持っているのかもと思うと、なんかちょっと……。
いやいや、キャストを役者に重ねて勝手に言うことほど、映画ファンとしてやっちゃいけないことだよな、ううむ。

判るけど、判るけど、私は大嫌い。矛盾だと判ってるけど。その矛盾が私が今抱える、映画ファンとしての矛盾なのだろうと思う。
本物の映画ファンになりたい。でも、と……。それ以上は、自分でも上手く説明できない。★☆☆☆☆


壁の中の秘事
1965年 74分 日本 モノクロ
監督:若松孝二 脚本:大谷義明(曾根中生 吉沢京夫)
撮影:伊東英男 音楽:西山登
出演:可能かづ子 藤野博子 寺島幹夫 吉沢京夫 野上正義

2012/5/22/火 劇場(銀座シネパトス/PINK FILM CHRONICLE 1962-2012/レイト)
ピンク映画50年特集が始まり、そのオープニングを飾った、若松監督と足立監督の二本立て。それだけでも、受けて立つにはなかなかに大変。いや、受けてなんて立てる訳もない。かなり疲労困憊して家路に着く。やはり、その当時の時代の気分というものも判っていないと咀嚼するのも難しい。
ヒロシマ、ベトナム、平和運動、組合、そんな記号は、記号、なんて言ってしまったらいけない言葉ではあるんだけれど、でも記号としてのそれらは、やはり遠くに飛び去ってしまった感を感じる。

本作がベルリン映画祭に出品された時、国辱映画とクサされたという話だけれど、どのへんが国辱なのか、それこそ遠くに飛び去ってしまった今の時代のアホな私にはどうにもピンとこない。
ヒロシマの描写あたりだろうか、いや、単にエロな映画だからなのか。今でもそうだけど、当時はもっともっと、エロ映画に対するヘンケンはあったかもしれないし。

とはいえ。エロに関してはちょっとビックリするほどなくって、拍子抜けしてしまうぐらいなんであった。特に中盤に至るまでは、おっぱいは映さないし、手が背中を這うぐらいだし、なんかイライラするほど、ない。
いやいや、これを単純に若松映画として観に行っていればそんなことも思わないのだろうけれど(爆)、ヤハリピンク映画の特集として足を運んでいるからさ(爆爆)。
それを思うと、若松映画はどんなパッケージをまとっても若松映画だなあ、と思う。後半の、浪人生の性欲と自分をもてあます爆発に至るラストに、その悶々とした感じを先送りして盛り上げたのかもしれないとも思いつつ、やはり何とも若松映画なんである。

さっきあげた記号以外にもうひとつ印象的、というか、この作品世界を決定付けているのは、箱、まさに箱そのものの、この団地という舞台。今ならそこんとこ、もっと開放感とかを重視した集合住宅も建てられるんだろうけれど、まさにこの高度経済成長の時代、真四角の箱に真四角の窓が定規で引いたようにきっちりと、いや、ぎっちりと並んでいる。
その中で、ヒロシマのケロイドを背中に負った男が、その負を愛として受け止めた女と絡み合っている。今はもう、すっかりトウがたった感じの二人の、情熱的だった頃の描写が点々と挿入される。

ケロイドを愛撫しながら、これはヒロシマの象徴、戦争反対の象徴、あなたと共に闘うわ、とセックスの時にこんなことつぶやきたくないなーという言葉をつぶやく女。男は「僕はいつ死ぬか判らない」を執拗に連発しながら、女を抱く。
「私たち、なぜ結婚しなかったのかしら」「君が結婚してしまったから」「だってあなたが三年間もいなくなってしまったから……恨んでるの」「全然。青春が終わったと思ってるよ」

でも彼らが結婚したとしても、一体何が変わったというのだろう。情熱的に反戦運動をいつまでもいつまでも続けられただろうか。
女は運動にはジャマだと言って、不妊手術を受けた。ということはつまり、彼女には子宮がない、のだね。明確にそうだと言った訳ではないけど、もう、女ではない、のだ。
こんなこと言っちゃったら怒られる向きもあるだろうけど、あるひとつの、視点から言えば。そしてそのあるひとつの視点として、女ではなくなったことが、本作では痛いぐらい重要なことであるように思える。

女の友人が遊びに来る後半のシーンが、だからこそ印象的である。正直、いかにも気楽な主婦といった感じのその友人だが、子供なんて産まなくて正解、ダンナと別れないのは、子供がいるからよ、なんて何が楽しいんだか笑い転げる。女もまた、つられたように笑い転げる。
夫は「何がそんなに笑えるんだ。男は外で闘っているのに」とベトナムの情勢も持ち出しながら呆れ顔である。夫は組合運動に没頭していて、女が「私だって昔は平和運動をしていた」と言っても軽蔑のまなざしで「昔ね……」と失笑するだけ。

しかし女に言わせれば、夫のしているナアナアの組合運動なんか、吐き捨てるようなシロモノなのだ。女はだけど、この夫が、というか世の男と言った方がいいのかもしれない……男は外で闘い、女は内で支える、その内での女が何を抱えているかなんていうことに全く無関心に、新聞を読みながらおっぱいをまさぐるなんて屈辱的なことをヘーキでするこの夫に失望しまくっているんである。
ちょっと話を聞いてもらいたいと思って声をかければ「なんだ、欲求不満か?」と卑しげに笑う始末。子供がいないからイライラしてるのか、それは俺のせいじゃないだろ、と、こともあろうに、こともあろうに、こともあろうに!!

そう、やはり、子宮がない女が女ではないという要素は、ひどく重くのしかかってくるのだ。99パーセント、男はそれ以外の部分で女を見ているのに、その1パーセントが重くのしかかるのは、女こそがそれを欲しているから、なのかもしれない。
女が不倫するケロイドを負った男は、彼女が自分のためにそんな身体になってしまったことを泣かんばかりに感謝し、愛するけれども、愛する?……彼が情熱を傾けていた反戦運動だって、今やベトナムの情勢で株価を左右するビジネスに転化し、何より女のダンナにこの関係がバレることを恐れる小心者なんである。

終盤、女が「私はあの人を愛しているのかしら……」と自問し、愛していない、でも離れられない、離れるのが怖い、なぜあの人が相手だと燃えるのだろう、と自戒する。
この男と夫と、今や大して違いはないのだ。だって、おんなじことを言う。この壁だらけの団地に押し込められた不安を女が訴えて、ここから連れ出してほしいと訴えても、男と夫は、本当に、全くおんなじことを言うのだ。
「どこだって、ここと同じ」だと。ならば男たちはなぜ外へ出て行くのか。ここと違う場所を知っているからじゃないのか。

壁の中に閉じ込められている人たちはまだまだいる。ある意味この作品の視線となっている、ちょっと先述した浪人生。
望遠鏡で向いの棟の部屋を覗き見している彼は、勉強する気なんかちっともない。予備校を「あんな屈辱的な場所はない」と言い放つのは、まあ、あの時の彼の真剣な表情からして、ナンクセ以上の思いはあるんだろうけれど、でも覗きをしたいから部屋に閉じこもっているのはアリアリである。
狭い畳部屋で美容体操をしている姉は、ホットパンツで足を上げたりやたらなまめかしく、音楽がうるさいとこれまたナンクセをつける弟に、こんなところに閉じ込められて息がつまる、冒険してみない?と持ちかける。

ここで彼が応じていればどうなっていたのか。だって彼女が言う“冒険”なんて、外で見知らぬ男と出会ってセックスする程度のことだった、じゃない。
タクシーで送ってきたという男が、彼女が忘れていったハンドバックを届けに来たことでそれと知った弟、想像力を爆発させて姉を犯すに至る(ホント、おっぱいは隠すのよねー)のは、この団地から外に出ること、いや、ドアから外に出ることさえも出来なかったからじゃないの。

この当時、急速に林立したであろう団地という世界観から、こうした事態が実際にあったのかどうか……確かにそんなこともありそう、なんて風に思うけれど、実際問題よりも、団地がどうということよりも、団地が象徴する閉塞感自体の問題なのかもしれない。
ヒロシマ、ベトナム、特に当時のベトナム問題。学生運動の重要なモティーフになったベトナム戦争。ひょっとして、ひょっとしたら、この豊かな経済生活の中で、結局はよそ者の視点だったベトナム戦争、アメリカを批判しても、結局は豊かな生活者からの視点。
浪人生はアメリカのエロ雑誌の豊満な肉体でコキながら、「あーあ、ベトナム行きてえな」とゴロリと畳に寝転がる。団地の畳からベトナムはあまりに遠い。

高級なシルクの下着を下の階のベランダに何度も落としてくる、ざあます言葉の婦人。階下の女は適当にあしらって追い返すけれども、後に、自殺遺体となって運び出されるさまを目撃する。
閉じ込められた団地、高級なフランス製下着をつけるような奥様に巣食う闇なんて、もはや判らない。いくつか用意された人間関係の中で、このざあます奥様だけがひどく点描で強烈な印象を残す。ヒロシマからもベトナムからも冒険からも切り離された、壁の中の孤独。

浪人青年こそが、この奥様からつながっているのだと思う。押し込められた欲情がタカビーな姉に向って爆発したのは、彼女が外で見知らぬ男とセックスしたということが一番の引き金だろうけれど、その前に、会社から帰るとテレビばかり見ている父親と、小言ばかり言う母親のあえぎ声が彼をイラつかせていたし(いかにも昭和な夫婦だから、この画は結構衝撃)。
直前、着替えをしている姉が「外から見えるじゃないの」とカーテンをジャッ!と閉めたシーンが心にザクッと印象を残してて、ほんのちょっとしたシーンなんだけど、あのシーンが意外に、彼のたがを外してしまったんじゃないか、って。

タオルを顔にぐるぐる巻きにして殴打し、陵辱にかかる。おっぱいはなかなか見せないのに腋毛があらわになるのが妙にエロくてドキリとする。
でも、執拗な殴打は、死んじゃうよ、殺しちゃうよ!とヒヤヒヤする。彼女は、死ななかった。どうやら陵辱にも失敗したらしい、のは、冷蔵庫から多量に持ち出されたソーセージやらなんやらをぶちまけるシーンでそうと知れる。ソーセージで陵辱……なんて哀しいの。

そして彼は、いつも覗き見していたあの女の元に向う。不敵な面構えで部屋に入り込み、憎らしさと弱々しさを交互に見せるあたり、無意識にしてもズルいツンデレである。
だってそうじゃなきゃ、散々辛酸をなめてきた経験豊富なこの女が彼を招きいれ、ケガの手当てをし、身体をさらして、ついにはナイフを突き立てられて殺されるまでに至る訳、ないじゃん。
いや、でもどうだろう……結局はこの壁の中に閉じ込められていた彼女は、ヒロシマだ、反戦だと言ってそれを半ば言い訳にして男を愛し、おぼれた彼女は、世間知らずだったのか。

だって彼女は、男との関係がもう終わりだと悟った時、「赤ちゃんが欲しい!!」と顔を覆って泣いたじゃない。自分で子供が産めない身体にしたのに、後戻りが出来ないと知っていたのに。
彼への愛だけでそうしたのに、そう、反戦運動にジャマだからそうしたと彼女は言ったけれど、ジャマだと彼に思われるのがイヤだったんでしょ、そうでしょう?

女を訪ねてくる段に至ると、浪人生の顔は背筋が凍るほどの恐ろしさに変貌している。姉を陵辱したあたりから顔つきは変わっていたけれど、ラストシークエンスの顔はもう……恐ろしくて見ていられないほど。
それまでの、単なる子供っぽいワガママな彼のぼんやりした表情を、観客サイドの気持ちでどこか軽んじていたからかもしれないと思うと、エロが少ないとかつまんないことこぼしてたところを突かれたように思い、怖くなる。
ああ、ついに殺してしまった。姉を陵辱した時点で、ああ、これで人生踏み外してしまったよと思ったが(いや、姉を殺したと思ってたからさ……)、ついに、ついに。

でもその事件は、それこそベトナムの記事が踊る新聞記事の、三面記事の下の方、小さな囲みで示されるだけ。
それまでも新聞記事、あるいは雑誌記事なんかも印象的に示されていて、毎日新聞とかあれ、実際の記事だよね?その流れでの、つまりこれだけがツクリモノの記事なんだけど、その流れがあるからリアリティがあって、日本で人が一人殺されることより、遠い国での戦争の、日々終わることない続報が大きく取り扱われる。
その遠い国の戦争とつながりたがっていた、箱の中に閉じ込められた哀れな人たち、だったのに。

女と男が睦みあう部屋に大きく貼られたスターリン、その理想を信じていた時代、大学に行きさえすればと、神話とも言える大学信奉の時代。
ああ、あの台詞、ケロイドを負った男が、子供が欲しいと言い出した女に、自分たちは被害者なんだと言う、女は、あなたは加害者になったのよ、私に対して、と言う。あの頃の関係を、青春の一時の過ちだったというんだもの。
確かに女が不妊手術をしてしまったのも青春の一時の過ちといってしまえばそれまでかもしれない。でもそれはあまりにもあまりにも、取り返しのつかない過ちで、何より男には、判らないのだ、判らないのだ!!★★★☆☆


カミハテ商店
2011年 104分 日本 カラー
監督:山本起也 脚本:水上竜士 山本起也
撮影:小川真司 音楽:谷川賢作
出演:高橋惠子 寺島進 あがた森魚 水上竜士 松尾貴史 深谷健人 平岡美保 ぎぃ子 土村芳 大西礼芳

2012/11/20/火 劇場(渋谷ユーロスペース)
予告編の印象からあまりはみ出さなかった、という言い方はおかしいだろうか。あ、でも予告編からは、実はこれはブラックユーモアなのかな、という気もしていた。妙にトボけた独特の音楽が耳について、すんごい印象的で、それがまさに、そんな感覚を引き起こしていたし。
いやいや実はホントにそうだったのかもしれない。自殺者をただ黙って見送るおばあさん。その不気味な怖さ。そして崖の上に残された靴を持ち帰って棚の上にコレクション(という訳でもないのだろうが)している不気味さ。最後の晩餐がコッペパンと牛乳というのも不気味な可笑しさ、になりそうなところだったのだが。

うーん……。

彼女の心の変化は、ありそうでなさそうで、なんか唐突のように見えて収まって、結局はなんだったんだろうという印象も残る。
淡々とした、何を考えているのか判らないおばあさん。自殺する人に興味なんかないように見えて、母子が姿を表すと突然動揺して通報したりするのが心の変化なのか、元々そういう人だったのか、どうも判りにくい。
というか、高橋惠子がおばあさん、ての自体が衝撃、というか、なかなか受け入れられない。最後まで受け入れられない。どうしても、まだまだ美しい女優さんの彼女の面影を追ってしまう。
60そこそこなんて、昔ならまだしも、老女などと呼べる年じゃない。劇中の年齢は実際よりは高めの設定なのかもしらんが、それにしても……である。

いや確かに、浅黒いメイク(すっぴんなのだろうか……)に何より地肌が透けて見える髪の薄さに、た、高橋惠子……女優だ……と衝撃を受けたが、しかしその歩みのゆったりさはなんかワザとらしく(スミマセン……だって彼女のさっそうとしたイメージが頭から離れないんだもん)病院に行くために街に出るのに、ちょっと今風の防寒着を着ただけでキレイに見えちゃう。その表情は変わらず仏頂面であったとしても、である。
彼女のテリトリーである“カミハテ商店”では、いかにもおばあさんチックな暗い色とダサいデザインのカッコをしているのが、とってつけたように感じちゃう。こーゆーとこは、気を使ってほしいんだよなあ。

いや別に、ミスキャストとまで言う気はないけど(ちょっと言いたい気持もあるかも……(汗))、なんかそんなことばかりがずっとずっと気になっちゃって。
実際の物語は、ヒューマンチック。冒頭、高橋惠子演じる千代の幼い頃の回想が出てくる。大きな男物の靴を抱えて呆然と歩いてくる幼女を、大人たちが慌てて迎える。
彼女の父親が自殺した断崖絶壁は、その後皮肉にも自殺の名所としてひそやかに語り継がれ、そのそばに建つ最果ての雑貨屋“カミハテ商店”で買ったコッペパンと牛乳を最後の晩餐よろしく食べて死ぬ、なんてマニュアルまで出来上がっていた。

ネット時代に突入し、そんな都市伝説ならぬ秘境伝説を面白がって探索に来るギャル(ハズかしい言い方(汗))まで現われて、携帯で写真を撮ってはしゃぐ始末。
福祉課の職員、須藤は一人暮らしの千代をそれとなく気にする……よりは、そんなよろしくない噂が町のイメージダウンになることを気にして(それほどのイメージがあるようにも思えないけどねえ)、それとなく進言しに来る。
でも千代から呼び出しがかかっても将棋の最中だと「明日行くから!」と、いかにもお役所仕事なんである。

カミハテ、というのは地名。上終と書く。実際にある地名、なんだろうか。バス停の趣は上手く古く作ってはいるけれど、BUS STOPなんてアルファベットなのが、奇妙なギャップを感じさせる。
これは意図的なのか、なんとも微妙なトコである。ファンタジックに見せる意図なのかもとも思うが、それもまた微妙。
上終を終点としたバスが駅前から出る。地方の路線バスとは思えない豪華な作り。観光バスみたいに立派で、車体に小さく“路線バス”と書かれているのが、これまたなんかわざとらしい……と思ってしまうのは、べ、別に重箱の隅つつきをするつもりはないんだけれども(爆)。

その路線バスを運転してくるのがあがた森魚というのが、なんとも風情。上終まで乗ってくるのは大抵が自殺志願者、あるいは街に出た千代の帰り。
実際はそんなことないんだろうけど。だってここは港町で人もいるはずだし……って、千代がなんかアルバイト的に漁港でイカをよっている様子が前半ちらりと映されるんだけど、そこは彼女の住んでいる側ではないの?どうもよく判らない。バスに乗ってる他の人の様子はあまり出てこないからなあ。

あがた森魚が運転してくるバスの気配で、静かな、本当に静かな商店の奥の部屋でひっそりと居眠りなんぞをしていた千代は起き上がる。
そのバスから人が降りることもあれば、降りないこともある。この運転手と千代とは、なんだか罪悪の契約を交わした相手同士のように、目を合わせることもないけれど、まるであうんの呼吸である。
ここをブラックユーモアに出来なければ、そらー、全きヒューマンドラマである。折り返し地点の上終で、乗客がいてもいなくても、たばこを一服吸って、あがたさんはまた復路を運転してゆく。

コッペパンと牛乳というのはヤハリ、小学校の給食のイメージだろうか。千代と並行して同じぐらいの尺と重さで語られる彼女の弟、扮するのは寺島進なんだけど、彼が経営する小さな会社が火の車でね、それこそ彼は自殺しようとビルの屋上に腰掛けて、いざ、なんていう場面もあるが、クールな女子事務員に取引先からの電話をつながれてあっさり断念したりする。
カネがないくせに安くさいスナックに通い、これまたチープなホステスと近しくなる。酒が入ると距離が近くなる、単純な例を見せられる感じが、酒飲みとしては何とも気恥ずかしい。

仲良くなったと思って彼が彼女のアパートを訪ねると、予想外に子供がいて、それでも彼は、彼女とその子供と仲良くなろうとするんである。
持参するのはコッペパン。彼女は懐かしいとかぶりつく。でもその袋入りのパンは、彼の方がイメージする給食のパンではなく、コンビニか何かで売っているそれであり、もっと寂しいイメージ。
だからという訳ではないのかもしれないけど、彼女は置手紙と通帳とその幼い子供を置いて、姿を消す。
その通帳の数字を見てふらふらと外に出る彼の姿、閑散とした、妙に見通しのきく住宅街の街路のシーンが強い印象を残す。カミハテの絶景より、このシーンの方が妙に心に残る。

母親から捨てられた幼い娘は、通帳を手にした彼を追って不安げに外に出た。大丈夫だから部屋で待ってなさいと言われて、次の瞬間、カットが変わると姿を消したのが、まるで魔法のように、神隠しのように思えたのは、うがちすぎだろうか。だって彼は、その通帳の数字は、本当にこの幼い娘のために使おうと思って外に出たの??

コッペパンと牛乳。それが示す懐かしさのイメージにふと疑問を持ってしまうのは、コッペパンが千代の手作りで、牛乳が、ちょっと知的障害のありそうな青年が運んでくるという、その出自のヒネリというかなんというか、がどうにも引っかかるせいもあるかもしれない。
パン作りって結構難しいと思う。千代は福祉課の職員、須藤に、店をやっていた母親から習ったのかと問われて、学校を卒業してすぐにここを出たから、と否定する。

母親が死んでから戻ってきたという示唆が、母親の死ぬ間際の、入院先を姉と弟で訪れる回想映像によってなんとなく示される。それともその解釈は、私が間違ってる、のかなあ?うーん……。
なんにしても、オーブンさえも見当たらない粗末な台所で、パンのタネを親の仇みたいに打ち付ける場面はあれど、ホントにパンが焼けるのかなあ??なんて思っちゃう。

それよりもやはりやはり、牛乳である。「毎度ありい」という元気の良い挨拶と共に、いつも2本牛乳を持ってくる配達の青年が最初に登場するシーンで千代は「余ったら困るから、これから1本でいいから」と言うものの、ただただニコニコするばかりの青年に「……判らないか」と嘆息気味につぶやく。
路上に空瓶を規則正しく並べて楽しげにしている彼が、一服の清涼剤、と単純に言えない存在であることが、いや言えたとしても、なんとも難しいところなのだ。

後半のクライマックス、もう自殺志願者を迎えるのはイヤだと、千代はパンを焼くのをやめ、店を畳む準備を始める。
そうしたらこの青年がマジメにこなしていた配達をほっぽり出す。店の主人はぶつぶつ言っていたけれど、千代は何か悪い予感を感じて、断崖へと向かうと、案の定、彼がいた。
その表情からは、飛び降りるつもりなのか否か、読み取れない。千代は、またパンを焼くからと繰り返し、毎度ありい!と彼の口癖を必死に繰り返す。
ニッコリと笑顔を返しながらも、まだその心のうちが読めない彼に冷や汗モンで近づいて、手を握り、押し倒すようにして、倒れ込んで、抱きしめた。

……この一連のシークエンスを、単純に感動のようにとらえられたらいいのだろうけれど、なんだろう、なんだろう。「毎度ありい!」の呼びかけとか、そういうシーンをクライマックスに持ってくる映画、よくあるよなあ、と思って。「ラブレター」の元気ですかー!とかさ。
でもそれは、そこまでに観客の気持を持っていけるかどうかが大事で、ここまでに青年が自殺したいとか、そういう心の悩みを持ってるとかいう表現は皆無だし、千代が彼のことを気にかけてるとかいう訳でもないよね。言い方悪いけど、彼が知的障害チックなことを、このクライマックスのドラマチックに使うためだったような気がしてしまって。

その前に、千代がショックを受けた、母子の自殺志願者、せっかく千代が通報して親族に迎えに来てもらったのに、須藤からお手柄だと言われたのに(まあそれは、どうでもいいんだけど)、迎えに来た親族を振り切って、飛び降り自殺をしたというエピソードが披露されてさ。
その母子の、子供の方が、この青年に無邪気にまとわりついていたのだ。ちょっとね、そういう展開、あんまり好きじゃないなと思った。彼のような存在を使えば、判りやすくドラマチックになりやすい。でも、それだけに、あんまり、あんまり、好きになれない。

最終的に、残るのは、自殺したくて来たのに、せずに帰った女の子。店を閉める決意をしていた千代が、コッペパンも牛乳もない、死にたいんなら、勝手に行きなさいと冷たく対応した子だった。
あの子は戻ってきたから帰りのバスで送った。パンぐらい焼けよって言ってましたよ、と笑い、初めてですよと運転手は言った。今まで、ここで降ろして戻らない人ばかりで、そんな日は眠れなかった。今日は晴れ晴れとした朝ですよ、と千代に笑った。

最後のシーンで、これまでとは違う意味でパン生地を練る千代、だってセーターもエプロンも主婦雑誌の奥さんみたいに明るい色だもん(こーゆーあたりがね……なんとも)。
バスの気配ではなく、バスを目にして外に出ると、降りてきたのはその女の子だよね?私ちょっと、自信ないの(爆)。弟がフラれて子供を押し付けられたホステスさんとの見分けさえつかないとか思って(爆爆)。
メイン以下は制作した京都の芸大学生が演じてるから、顔の認識感覚が薄くって……(爆)。

そう、そうなの。京都の、しかも学生さんが関わっている制作スタルなんだよね。この形態で作られたのはもはや三作目であるという。
私は初見なんだけど、ここ最近、京都発信の映画が結構あって、私、それことごとくダメなのよ(爆)。相性が悪いっていうことだと思うんだけど、今回もオープニングクレジットでその旨を知った時、ヒヤリとしてしまって、そんな身構えがいけなかったかもしれない(爆)。
学生さんが制作に関わるというスタイルも最近、京都じゃないけど他の作品であったんだけど、それもまたダメで(爆爆)。なんかね、メッチャ肩に力が入ってるというか、芸術魂がこもってるというか(爆)、そんな風に先入観を持っちゃうせいかもしれないんだけど……今んところ、私的にはこの制作スタイルは難しいんだよなあ……。

千代が歯磨きで出血して、そのことが気になって、病院の先生に、自分はガンか何かではないか、と問い詰める。このシークエンスがいまいち突き詰められたなかったのが気になる。
父親が早くに死んで、母親も死んで、遠くに住む弟ときょうだい二人きり。その状況は、今の時代、誰もが何となくその不安を推し量れる。私も、一番の不安は、孤独死、は別にいいけど(それはある意味、当たり前のことと思う)、腐って発見されることだから。
彼女のこの不安、が単なる不安だったのか、それ以上のものだったのか、スルーされるのが、なんとも消化不良。いや、彼女の不安をそんな風に推し量れるだけで良かったということなんだろうか。

福祉課の須藤さんを演じる水上さん、あんなにトンがってたのに、やたら一般人的穏やかな風貌になっていたのにも驚いたけど、役者としてあんまり見ないと思ってたら、脚本家にシフトしてたのにはオドロキ!★★☆☆☆


カラスの親指
2012年 160分 日本 カラー
監督:伊藤匡史 脚本:伊藤匡史
撮影:岡雅一 音楽:林祐介
出演:阿部寛 村上ショージ 石原さとみ 能年玲奈 小柳友 鶴見辰吾 ベンガル 戸次重幸 なだぎ武 古坂大魔王 ユースケ・サンタマリア

2012/12/6/木 劇場(楽天地シネマズ錦糸町)
オチを口外すなと言われたって、これはオチを言わなきゃハナシにならないし、まー私の感想はいつもすっかり遅くなってからだし、オチバレネタバレあり前提はいつものことだから、ま、いっか!
まーでも、“衝撃のラストは誰にも話さないでください”的なことって、一時期は確かにハヤリのようによく聞いたけど、久々に聞いたなあ。まー、私はそんな情報もいつものように入れることもなくぼーっと足を運んだから、イヤマジで驚いた。

詐欺師の話なのにどこかのんびりとした平和さで、いや実際その中身を見ると登場人物たちの置かれてること自体は皆凄くシリアスなんだけど、この擬似家族がなんともノンビリと幸せそうで、この幸せがこのまま続いてほしいなんてコトは無論ムリだと判っていても、そうであってほしい、なんていつになくガラにもないこと思っちゃったりしてさ。
で、彼らが決行する大勝負は、標的同様まあそれなりに騙されはするものの、結構予測できるところも多くて、なぁんだ、大したことないじゃん、などとナマイキなことを思っていたのだが……。

村上ショージ!村上ショージよ!彼が最後に全てをひっくり返す、いや、というかそのことに気づく、阿部ちゃんの、阿部ちゃん扮するタケの、“出来すぎている”というほんのカンみたいなところから、じゅうたんの端っこのほころびみたいなところをつかんでずるずるいくと、一気にひっぺがされるみたいな、村上ショージ扮するテツの本当の姿に椅子から転げ落ちそうになるほどに驚く。
そうよ、まー、こりゃー、映画を観てない人には言えないわさ。村上ショージがまさかのキーマン、全てをひっくり返す存在だなんて、言ったらこのお話はオシマイだもの。

でも、このメンツの中になぜ村上ショージなのかとふと思ったら、もしかしたらそれも予測できたのかもしれない。けど、私はなんたってぼーっと足を運ぶ単純な映画ファンだからただただ、メッチャ驚いた。
それこそこのかわいらしいほどに初心者詐欺師、タケに出会ったことで詐欺師の道に転んだというテイの素人、何とも微笑ましく憎めない、いかにも人生に失敗しそうでほっとけない親戚のおじちゃんといったタイプ。
実際タケも自殺しそうになっているテツをほっとけなくて、自分の相棒にしたのだった。そんなの、テツの計算ずくだったのに!!!

……という衝撃ばかりを追って話すとキリがないので、最初からいかなければいけない。阿部ちゃん扮する主人公のタケと、相棒のテツが競馬場で“競馬初心者にコーチ料をせしめようとしている男”の会話を演じ、タケに注意してやる代わりに自分が手数料をとろうと寄って来る男を逆にカモにするという、実に手の込んだ詐欺のシーンからスタートするんである。
しかもタケは“社長から換金を頼まれている”という万馬券を手にしている。あの、決して人に騙されることなどなさそうな、世の中上手く渡っていきそうなユースケ・サンタマリアが、十分の一の倍率にウソをついて換わりに換金してやるよと言い、自分で騙したつもりでホクホクしてたのが騙されたというドッキドキのシーンから始まるもんだから、すっかりハートをつかまれてしまうんである。

だってあのユースケ・サンタマリアが騙されるんだもの!タケが初心者のテツのタイミングの悪さを叱責したりといった画が、あの上背の阿部ちゃんにいかにも人の良さそうなショージさんだから、もうすっかり出来上がっちゃってるんだもの。まさかこのショージさんが手練手管のど玄人なんて思わないじゃない!!

……まあそのう、先にオチバレさせてるにしてもトバしすぎだけど。でもね、これって原作ファンならヤハリ、このテツに誰を持ってくるのかっていうの、興味のあるところだと思うんだよな。そうだよな、原作があるんだから、オチを口外すなとか、ナンセンスよね!……と責任逃れ(爆)。
誰も、まさか、手練手管のカラスとは思わない男。社会の荒波についていけずに転落した、ザ・落伍者のお人よしにしか見えない男。そんな人物に誰を抜擢するか。
風貌的にもキャリア的にも、これを演じたいと思うベテランはいくらでもいると思うけれど、それじゃ、ダメなんだよね。百戦錬磨の役者さんじゃ、まさか!がないんだもの。それは演技力、芝居力の上手さとして、さすがよね、で終わってしまう。
まさか、村上ショージが、それまでの全てが全部お芝居で、まさに彼こそがカラスもカラス、大ガラスであるなんて、誰も思わない。誰も思わないもの!!

あ、そうそう、カラスというのは、タイトルにも使われているけれど、玄人という意味。黒と、カラスのクロウにかけている。
親指というのは、劇中、擬似家族の生活をしだす彼らの役割をたわむれに話している時、親指=お父さん指を添えると全ての指をくっつけることが出来る、そういう存在なんだというところに通じている。
一見いかにも頼りなさそうだったのに、テツはまさに、お父さんだったのだと。
その擬似家族、タケとテツの元に転がり込んでくる三人の若者。まひろとやひろの姉妹、やひろの恋人の貫太郎。それぞれいい子達なんだけどクセもので、振り回されるタケとテツが可愛い。でも彼らが最強のチームとなってクライマックスのゲームに臨むのだっ。

なぜ彼らの元にこの若者たちが転がり込んでくることになったのか……それは偶然のように見えて、テツの正体が明かされるラストに至って、必然も必然、大必然だった訳で。
タケは同僚の保証人になったことで闇金に骨までしゃぶられた。相手の帳簿を警察に売ったことで、放火によって愛娘を失ったんである。
それ以来、火事=放火には殊更に敏感になっていたからこそ、テツが節目節目でそれを利用してタケを動かしていたことが後に明らかになるのも驚愕である。

まあそれはおいといて。タケが闇金のために働いていた時、貧しい母子家庭に取り立てに行って、何度もしつこく行って、ついに母親が自殺した。幼い姉妹が残された。
タケは自責の念に駆られ、そのことで闇金の帳簿を警察に売った。自らもヒドい目に遭いながらも、この姉妹の行く末をほっておけず、無名で封筒に無造作に金をつめて送り続けた。

その姉妹の妹の方、まひろがスリをする現場に偶然居合わせたんである。そりゃあ偶然なんて、出来すぎていると、この時点で思ったっておかしくないハズなんだけど、まさか、だもの。
まひろのスリの腕前、タケから送られていた金は使う気になれずに手付かずで貧しい生活をしていたこと、テツがそのことを調べ上げて彼女たちのポストに宝石店の激安バーゲンセール、支払方法は現金のみのチラシを入れただけで、ホントに彼女がやってくる。そしてそこに劇団俳優を使って成金男を演じさせ、サイフをすらせる!!

あの成金男もテツの手配だったなんて。全ての場面で効果的に配されている人物たちが、小さな劇団の俳優たち。その全てじゃなくて、全てが芝居なんじゃなくて、とっかかりになるところにだけ配置されている上手さが、後で判明するとゾーッとするほどに、上手い!
“出来すぎている”と感じたタケが、そういえばあのラーメン屋に貼ってあった「コンゲーム」という芝居のポスター……と見事なカンを働かせて劇団を突き止めた時、稽古中の彼らの振り向いたメンメンに、あちこちの重要な場面でいた顔、顔、顔、にゾゾー!
でも、あくまで現実の世界、社会がベースであり、そこにちょっとワナを仕掛けるといった方法だから、気づかないのだ。本当に、そうだと、思っちゃうのだ!!

……ネタバレオチバレの筈なのにどうも上手く書けない、歯切れが悪いのは私の理解力の悪さのせいか。カンベン(汗)。
まひろとやひろの姉妹、最初に彼らの前に現われ、その時はたった一人の孤独な女の子と思わせといて、姉とその恋人を引き連れてやって来て、タケたちをボーゼンとさせる妹の方のまひろちゃん。
姉のやひろは妹に家事からコンドームの買い物までやらせる“何もやらない”女の子で、そのぽやーっとした喋り方もちょっとムカつかせるような子。
このやひろを演じているのが石原さとみ嬢なんだけど、彼女が出ているのも知っていたハズなんだけど、観てる時には全然そう思ってなかった。うっそ、石原さとみの唇に気づかないなんてっ(爆)。こういう彼女、初めて見たというか、ホント、化けてた。驚いた。

化けてたと言えば、彼女の恋人である貫太郎を演じる小柳友もまた、である。最後にキャストクレジットを見て、えーっとのけぞる。うっそー、あのシャープな、いかにも現代の若者、って言い方古いけど。
あの小柳友が、こんなのそーっとした、ガタイだけが大きくて、気が弱くて、いや、気が弱いというのもちょっと違う、気が弱い自覚もないというか(爆)、気は優しいけど意外に図太いし、でも自分がいじめられていた過去があるだけに人の気持には繊細に反応する、これまた憎めない男の子。

後から解説で、この役のために10キロ増量したと聞いてなるほど!と思う。役のために減量はよく聞くしストイックさが判りやすいけど、役のために増量は勇気のいること。久々に聞いたな。まさに、デニーロメソッドですな。
いやあ、まさにのんびり優しいノッポ君。彼が大計画の準備中に漫喫で、PTSDのサイトをこっそり見ている場面が一瞬だけ挿入されるのが、あまりに一瞬で、どういうサイトかわかりづらく、彼は実はウラギリモノなのではないかと思われそうでハラハラした。
実際、この計画のキーマンとなるのが彼、計画中、まさにウラギリモノを演じることが最も大事な役柄になる訳だからさあ。

で、なんかそれぞれの子達のことを言っていたら、どこまで話が進んでいたのか判らなくなっちゃったが(爆)。
そう、大事なことを言い忘れていた。まひろとやひろはテツの娘なのさ。更にオチバレを言うと、テツは詐欺師稼業のために家族を捨てたんだけど、もう余命いくばくもなく、家族の消息を調べたら、妻は闇金に追い詰められて自殺、子供たちもやさぐれた生活を送っていたことが明らかになった。
そのある意味仇としてタケが浮上したんだけど、タケのバックボーンも調べ上げたテツは、子供たちが再スタートを切るには、タケと引き合わせ、判り合わせ、そして共通の敵を倒すことだと判断し、この大バクチを打ったのね。

そもそもテツは汚い仕事をしていた不動産会社から、何千万という金を詐欺でふんだくったほどの腕前。こんな小芝居は朝飯前だったのかもしれないけど、でも……村上ショージのキャラは、本当にそれを、最後の彼の望みとしての真摯さを、感じさせたんだよなあ。
皆を引き合わせて、理解し合わせて、そこからさよならになるにしても、笑顔で、前向きに別れたいと。

実はテツが仕掛けた放火騒ぎで、また闇金が追ってきてると住みかを変えることを決意したタケ、テツが見つけてきたのが「こういうのは逆に借り手が少ない」という一軒家だというのも、実に効いてるんだよね。
縁側があって夕涼みが出来て、部屋が沢山あることで三人の若者が転がり込んでもシェアできるということだけど、実際はいつでも皆一階の、台所続きの食卓スペース、リビングダイニングなんていうシャレた言い方じゃなくて、縁側に面した、みんなの集まる場所、に、いつでもいるんだよね。

テレビさえなくて、なんてことを感じさせもしなくて、卓球したり、紙パックの安い日本酒で晩酌したり。妹のまひろは必要に迫られて料理が上手で、「先に準備しておいた方が安上がりだから」と食材を色々買い込んできた。
このシーン、大きなトマトの缶詰を「トマトスパゲティがスキだって言うから」いうテツのリクエストによって買い込んできたことが、その缶詰を嬉しそうに流しの下にしまい込むテツの姿が、まさか後につながってくるなんて!

そのつながるエピソード、この家に迷い込んだ子猫までもがテツの仕込みだったことには驚愕だったけど、一度は死んだと思っていたからさあ……。
闇金の嫌がらせによって、無残な死体を無造作にレジ袋に入れられて放り出された、というシーン、ちらりと見せた“死体”がまさか、「ぬいぐるみとトマト缶と鶏肉で作りました」だなんて!!
私ね、猫が殺されるってだけで、あー、ダメだ、この映画、ダメだ、もうダメだ!って思ってたの。もうそれだけで、作品としても許せないって。犬ならそこまで思わないくせに(爆)。
だから、これがウソだって判った時、テツさんが大ガラスで、騙されてクヤしいと思ったけど、猫が無事だと判ったとたんに、全てがオッケーと思っちゃった。ダメね、私(爆)。

もちろん、大きなクライマックスは、闇金との対決である。実際は、タケが告発して組織をいったん壊滅状態にした時点で、タケもまひろたちもそんなに怯えるほど、彼らをまた追ってくることもなかったのかもしれない。
実際、タケが引越しすることになった放火事件もテツ仕込んだことだった訳だし……。それでもテツは、娘たちがこの生活から抜け出して、立ち直るためにはかつての敵と決別する、つまり倒すことが必要だと思ったし、それより以前に、彼女たちにとって直接的な敵と思われていたタケとのそれも必要だと思っていた。
タケのことを調べ、倒し、決別するべき相手ではなく、判り合い、共通の敵を倒すべき仲間だと知り、テツの計画はより緻密に壮大になった。

貫太郎は一人、関係ない立場なんだけど、そんな存在がクッションというかなぐさめというか、大きなやすらぎになったと思う。
ホント、小柳君は良かったなあ。時計の修理職人、腕はあるけどそんなピンポイント職人じゃ、なかなか次の職場が見つからない。それもこのぼんやりした性格じゃあねえ、といった……。
でも彼の腕が、プリペイド携帯電話の盗聴器の仕掛け、盗聴器のありかを調べるダミーの機械のリアリティ等々を作り上げるんだもの!

しかしそのPTSDがもちろん、現場をドキドキもさせる訳で、緊張のための汗ぼたぼたにはホンットハラハラしたし、「ダメだ、貫太郎、目がいっちゃってる」と思わずホントの名前をタケが口に出してしまった、拳銃を取り出すシーンには!
でも上手いのは、この時ホントにテンパッてたのはタケで、緊張のあまり汗ばむ首筋を思わずぬぐったのが、合図になっちゃった。貫太郎はそれをちゃんと見てたわけで、彼は冷静だったんだよね。タケの方がテンパッていたんだ……。

そりゃ当然だよな。この場面には、当初いない筈だった、タケのまさに仇、組織のトップ、もうその風貌だけで震え上がらせる鶴見辰吾がいたんだもの。
鶴見辰吾はいつからこんなコワモテになっちゃったんだよ。もうすっかりコワモテ。出てくるだけでコワい。彼がテーブルをツメで引っかくクセがタケさんを震え上がらせるんだけど、そんなのなくても風貌、たたずまい、雰囲気一発で怖いよーっ。
でもだからこそ、彼と対決しなくちゃしょうがないんだよ。鶴見辰吾が所用から帰ってくることも、テツさんはきっと把握してたんじゃないのかな。そうでなければ、タケが本当に解放されることにはならない。彼を本当に欺き、騙したおし、悪銭をふんだくらなければ。

この場にいなかった姉のやひろのことをすっかり忘れていて、それに気づけば予測できたのにアッサリ驚いてしまった。バカね、私。
んでもって首尾よく大金をせしめ、大団円。
最後まで自分が彼女たちの母親のことを追い詰めたことを言えずにいたタケに、別れの朝、まひろが言う。「もう、お金送ってこなくていいからね!」それまでタケが送ってきたお金も、豪華なホテルの宿泊代やらなんやらで使ってきて、残りも今回ゲットしたお金とともに山分けして、これで踏み出せると彼女たちは言っていた。
タケが“母親の仇”であることを、テツはもちろん意図的にタケとの会話で聞かせたに違いないんだけど、でもテツがその時、姉妹のバッグから見つけた自身が家族に当てての書き置きは、きっと想定外だったと思う。
だってあれが出てこなければ、タケが後にテツの本名を、テツがよく使っていたアナグラムから突き止めることは出来なかったんだもの。

ワタシハサギデスとか、コレハニセモノとか、アナグラムで相手に教えているんだと笑っていたテツ。その記憶から彼の本名、そう、あの姉妹の父親だと突き止めたタケに、彼はまるで、突き止められて嬉しそうな笑顔を浮かべる。
今までどおりのテツのまま、そう、正体を暴かれていきなり本当の詐欺師の顔になるとかじゃなくて、今までどおりの人のいいテツのまま、タネあかしをして、そして……「私、仙台が田舎なんですよ。タケさんも行くところがないなら、一緒に行きませんか」
もうこりごりだと言いつつ、まんざらでもないタケの風情、二人の後姿は、もう子供たちに会うこともないと決心したテツに、きっとタケさんは一緒に仙台に言って、側に付き添っていくんだろうなと思って……。

なんか、すっごいすっごい、さわやかにカンドーするバディムービーを観た! ★★★☆☆


カルテット!
2011年 118分 日本 カラー
監督:三村順一 脚本:鬼塚忠 三村順一
撮影:岡田次雄 音楽:渡辺俊幸
出演:高杉真宙 剛力彩芽 鶴田真由 細川茂樹 田中美里 サンプラザ中野くん 上條恒彦 由紀さおり 東幹久 秋山和慶 山根一仁

2012/1/19/木 劇場(新宿ピカデリー)
こ、これってあまりに話のツメが甘すぎない(汗)。え、この話の出どころってどこからなの?浦安市の市制30年(あ、意外と若い市なんだね……)で作られた映画だというからオリジナルストーリーかとも思ったけど、浦安出身の原作者の小説が元になっているんだという……そ、そうなんだ(汗汗)。
小説原作で、このツメの甘さ、いや、映画オリジナルだったらツメが甘くてもいいと言ってるみたいに聞こえるけど(爆)、小説としてひとつの世界になっているものを映画にしてこのツメの甘さ(爆爆)。しかも原作者が脚本に参加もしているのにこのツメの甘さ(爆爆爆)。

……ごめんなさい、決して、クサすつもりはないんだけど(汗)。でも結果的にそうなってしまう(汗汗)。
それともアレかな、映画では尺が短すぎる故の、ツメの甘さなのかなあ。この尺に収まらせるための、ツメの甘さなのかなあ。ていうか、私何度ツメが甘いって、言いすぎだっての(爆)。
でも、これが家族の再生の物語だっていうなら、彼らが結束していく節目節目のきっかけなり理由なりが、ま、いいや的な流れで進んでいくのは、最もやっちゃいけないことじゃない。
いわば、最も重要な感動ポイントをいくつもいくつも、ていうか全てスルーして、スルーどころじゃない、投げ捨てているようなもんじゃない。
原作者が脚本に参加しているなら、多少捨てるとこは捨てても、そういうポイントは押さえたいと思うんじゃないのかなあ。

それとも原作自体がこんなナアナアだったんなら、どうしよう(爆)。ああもう(爆爆)。
まあ、具体的に言っちゃえば、こうなの。主人公はこの四人家族の最年少、バイオリンに打ち込んでいる長男の開君。お姉ちゃんは非行に走り(という言い方も古いが)、お父さんはリストラされ、お母さんはそんなお父さんにイライラし、家庭はギクシャク。

そんな家族をひとつにしたい、両親は音大出身で、お姉ちゃんも過去はフルートをやっていて、かつてはおばあちゃんの誕生日会で家族で演奏会をやったりもしたじゃないか。
今度は僕も参加して、家族四人でカルテットをしたい。そのことが家族がひとつになることなんだ!と、とにかくこの開君の頑張りで最初はお父さんのピアノとのデュオ、次にお姉ちゃんのフルートが加わってのトリオ、最後まで渋っていたお母さんのチェロも加わってついにカルテット、となっていく。

こう書くとなんかカンドー的なんだけどさ、その全て、お父さんも、お姉ちゃんも、最後まで頑なに渋っていたお母さんも、なぜ開のプランに乗っかるのか、明確な理由がないのよ。なんか、全てがナアナアなの。
まあ、よーく考えてみれば、判らなくはない。お父さんはこれから子供たちにお金がかかる時にリストラされて、主夫に収まって、奥さんにブーブー言われて、そもそも二人とも音大で、結婚して音楽を諦めたことも、奥さん的にはダンナには音楽の道を踏ん張ってほしかったこともあって、もうめっちゃギクシャクしてるワケよ。

だからお父さんは開君のプランに心惹かれていたかもしれないけど、奥さんのケンマクに押されて素直にウンとは言えない。心惹かれていたかもしれないから、プランに乗るだけの理由はあったのかもしれないけど、その決定があまりに唐突な訳。
そうした経過と決定のしっくり来なさが、その後のお姉ちゃんにしても、お母さんにしても、全て、そうなのよ。

状況や彼らの気持ちをよーく考えれば、つまり観客が心優しく分析すれば確かに判らなくはない。
でも葛藤もぶつかり合いも全然なくて、それこそお姉ちゃんなんてあんなにツンツンして、ありえないんだけど、関係ないでしょ、キモいんだけど、てな台詞の連発だったのに突然、やってもいいよ、となってからは、あの仏頂面が急にアイドルスマイル全開!
そりゃあ剛力彩芽ちゃんは今売り出し中の美少女女優だけど、そらないだろー。

剛力彩芽ちゃん扮する美咲はフルートを習っていて、幼い頃は両親にも凄く褒められたし得意満面だった。剛力彩芽だけど弟がバイオリンを始めてからは、才能豊かな彼へのコンプレックスでフルートを辞め、家族との会話もない。剛力彩芽弟からお姉ちゃんのフルートが聴きたい、家族でカルテットをやろうよ!と言われても、そりゃあ素直に聞ける訳がない。

……ということなんだけど、楽器が違うのに「どんどん弟に抜かれていく」っていう感覚って、あるのかな……てーのはやっぱり素人考え?
でも同じ楽器なら“抜かれる”っていうの判るけど、違う楽器で、っていうのがどうも判んなくてさ。これってフツーにそう思っちゃうよ。
そこんところを納得もさせてほしかったし、彼女がそんな幼い頃からの根深いコンプレックスを解いて、一緒にやろうじゃないの、というキッカケも薄くて唐突な感じしかなかったんだよなあ。
まあそっから吹っ切れて突然友好的になるのは、女の子の切り替えの早さとフォローも出来るけど。

キッカケは、なくはない。美咲が尊敬する先輩やその取り巻きに、やってみりゃいいじゃん。美咲がクラシックデビュー、ウケるよ、と背中を押されたからである。
正直この取り巻きはまあつまり、不良、ていうのはあまりに古い言い方だから、なんて言えばいいの、なんかいつもダラダラつるんでいる女の子たち、その中にも上下関係があって、美咲はその下に金魚のフンみたいにくっついて歩いているみたいなさ。
美咲はそのトップのかっこ良さげな先輩にホレこんでいて、彼女の後押しがあったからこそフルートをもう一度やろうと思ったんだけど、でもこの先輩が何を美咲に影響させたのかも判らないしなあ。

冒頭、この先輩の幼馴染であるサッカー部のイケメンに、先輩の手引きで呼び出してもらって告白、玉砕する場面があるんだけど、私はてっきり、最終的にはこの先輩と彼がラブになってしまって、青春の痛みを美咲が味わうのだとばかり思っていてさ。
後半に先輩から呼び出されたのが彼の試合場だからすわ来たか!と思ったら、「私、ニューヨークに行くんだ。(離婚して会っていない)オヤジに会いに」おいおいおいおいー!!!あ、甘すぎる……ていうか、少女マンガかよ……。

最も理解不能なのがお母さんで。そもそも彼女が抱えていた屈託が、よく判んないのさ。
いや、深読みしすぎたのかもしれない。ただ単に彼女は、子供が出来て結婚して、音楽を捨てざるを得なかったこと、だから今更音楽をやることなんて出来ない、とまあそういう気持ちだったのかもしれない。
でも開君が提案する家族カルテットに猛然と反発する彼女の言い様は「そんなの、出来る訳ないでしょ」「あなたは何にも判ってないのよ」とかで妙に意味ありげでさ。

こりゃあ、彼女がチェロを弾かないと、弾けないと、ガンコに決めている大きな理由があるのかと、その秘密が開示される時のクライマックスをドキドキしながら待っていたのに、先述のようにナアナアにお父さん、お姉ちゃんが参加して、そうしたらお母さん「私も参加する。だって一人で心配している方がソンだもん」てなんなんなんだー!!!

あ、でも、そうか。実はお母さんの方が先に参加してたんだっけ。おばあちゃんの誕生会の演奏会、そのたった一回きりの約束。最初のトリオはお父さん、開、お母さん、だったんだっけ。うっかり忘れてた、訳でもないんだけど(爆)。
これは失敗に終わったんだよね。お父さんが緊張しいで、それをお母さんは最初から心配してた。案の定、おばあちゃんが訪問している老人施設で、多くのお客さんの前での大失敗。で、お母さんは、もうこれで一回きりよ!とその後余計に頑なになってしまう。

最初から頑なで、余計に頑なになったからこそ、お母さんが参加する一度目も二度目も、その理由が薄くて、あいまいで、ええ?って思っちゃうんだよなあ。
そもそも開君が熱望していた、家族がまとまるためのおばあちゃんの誕生日の演奏会、その目的にこそほだされた、というのは一度目の理由としてまあ立つにしても……そしてこの時には参加していなかったお姉ちゃんが、老人施設という地味な場所(ゴメン!)ではなく、音楽を聞かせるレストラン、つまりは大人の空間で参加してきたというのは確かに、後から考えるとナルホドなとも思うんだけど。

……そうなの、後から考えればそれなりにナルホドとも思うからこそ、見ている時にそれが感じられないのが惜しいの。
剛力彩芽ちゃんなんて、今売り出し中の若手女優で、ピッチピチで、確かにそれだけでいいぐらいなんだけど、それだけでいいだけに、こうもきっかけも動機も薄いと、なんかバカみたいに見えちゃうんだもん(爆)。
だってあのフルート、絶対吹けてないだろ(爆)。いや、判んないけど、やたら上下運動、演奏してますよパフォーマンスがワザとらしいんだもん(爆爆)。
別にいいんだけどさ、吹き替えでも。でもそれなりにリアリティは欲しいじゃん、やっぱり。

それなりにじゃなく、やっぱりリアリティは欲しい……いや、彩芽ちゃん以外はそれなりにリアリティもあったから(爆)。
バイエルから始める手元からパンアップしたお父さん役の細川茂樹は、つまりそれなりに弾けそうな感じがした。
お母さんの鶴田真由は、やはり彩芽ちゃんとはキャリアが違うから(爆)、そんな大げさなパフォーマンスをせずに、手元がそんなに映らなくてもリアリティがあったし。

主人公の開君は、細かい旋律の時の弓の動きとか微妙だったけど、まあ……それなり、だったかなあ。
うーん、でもでもでも、開君と同じ年頃で実際に注目されているバイオリニスト、山根君が登場しちゃったりすると、もう弦を押さえる指の動きからしてもう、違いすぎるんだもん。
開君が将来を嘱望されているという設定なだけに、いくら開君が山根君の才能に打ちのめされるというんであっても、このあまりの違いは、ちょーっとキツいんだよなあ。

まあ、でもなんたって救いは、この開君を演じる、オーディションでこの役を勝ち取ったという高杉君の可愛さである。
向井理をそのまんま小さくしたような美形。それなりに芸能界で活躍しているみたいだけど、めちゃめちゃ初々しい、のは、つまり、芝居的にはかなりキツイという意味なのだが(爆)。
でもある意味、ヘンに達者な子より安心するワなどというのは、昨今の子役ブームがちょっとキモチワルイとも思うから??
いやーでも確かに、あの手足を手持ち無沙汰にしている感じとか、萌えたわー。いや、顔が可愛いから許されるんだけどさ(爆)

開君は有名指揮者、秋山和慶氏のコンサートに参加するチャンスを得る。それというのも、お父さんがお母さんの反対にも踏ん張って、レストランで開君と演奏し、そこにお姉ちゃんも巻き込み、ついにお母さんも折れて家族カルテットでの演奏、永江カルテットが大きな人気を得て、そのライブにお母さんが音大時代の仲間、今はコンサートプロデューサーをしている北原を呼んでいた。
で、北原は開君の才能を見極めて、秋山氏のコンサートのメンバーに開君を加える。これからのステップアップにめったにないチャンス。
そのコンサートはクリスマス、お父さんが企画したレストランミラコロのクリスマスイベントと一日違いで、どちらに集中するかで家族との衝突もあったけれど、どちらも頑張る、挑戦する!と開君は決断するのね。

どちらに集中するか、どちらが大事か。家族、特にお母さんは当然、未来を考えて秋山先生のコンサートに集中すべきだと言う。
悩む開君に先生が、どちらにも参加すべきだ、挑戦することが音楽だ。私もいまだに挑戦している。音楽はゴールがない、と言い、開君の決意が固まるんである。

全篇通してカッコイイ先生、悩む開君をバイクで送った前半のシーンから、もうこれは、クライマックスでは絶対彼女が開君を送り届けるな!と丸判りである。
田中美里が演じるこの先生はかなりの儲け役だけど、まだ中学生の開君の演奏に首をかしげ、「自分の音を見つけなさい」なんてカッコイイ台詞しか言わないのは、まあその後の展開を考えれば判るんだけど、ちょーっと、なんかなあ。しかもあんな街角の雑居ビルの一角でさあ。

うう、つまりはそれは、才能のないヤツのヒガミかも(爆)。まあ、結果的には、クライマックスよ。タイムアクションよ。
これみよがしな危機、一日違いだった筈の秋山先生のコンサートと、ミラコロのクリスマスイベントが、開君たち若手交響楽団の出番が一日繰り上がってしまって、まさにどっちを選択ってなことに陥る。
この時点で、ぜえったいあの、バイクで送り届けることになるんだろうとは思ったが、こっちで演奏して、バイクで送り届けてセーフ、とまでは都合よく行かずに、開君は「僕の音楽はあっちにあるんです!」なあんてまあ、泣けること言いやがって、秋山先生のコンサートを捨てる。
しかも、向こうのミラコロのイベントはもう始まってて、最初の家族三人の曲はもう終わってて、ラストの曲に間に合うかどうか微妙なのに。

この開君の台詞、田中美里が「先生、しびれちゃった」なんて言わなくても、充分、しびれたさあ!
渋滞で、しかも雪が降ってきて、この雪はさ、見るからにホンモノの雪、こういうのが活きるって、ジュンとくる。
見慣れた総武線界隈、川を渡る橋、ドキドキする。
これもまたお約束、ラストの曲を紹介された時、まだ間に合ってなくて、家族が勢ぞろいして、美咲お姉ちゃんが泣きながら、事情説明して、どうしても弟と演奏したい、少し待ってくれないか、と言う。

正直、これまでの展開、描写、まあ言ったようにツメが甘すぎてさ、こっりゃヒドいなとずーっと思っててさ。
しかもこの直前、開君がイベントに参加できないとなって、それでも美咲にとっては重要なイベントだから、開君がいなくても、家族三人で頑張ろう!となってさ。
お母さんが街頭でチェロを演奏してチラシ配ったりして、そこに美咲が偶然(偶然過ぎるわな!)居合わせて、カンドーして、お母さん大好き!お母さんも美咲が大好き!とか抱き合って、え、何でそうなるの、とかまたしても戸惑って。
もうとにかくとにかく、おざなりすぎる、ツメが甘すぎたんだけどさ。

美少女の涙はズルいよねーっ。それだけで泣かせちゃうんだもん。それだけで、経過とか考えさせずに、もらい泣きさせちゃう。たとえその後の家族カルテットの、特に彼女の演奏シーンがワザとらしすぎてもさ、いい訳よ。
その後、家族四人で仲むつまじく散歩して、姉弟二人が外れてナイショ話してる場面、音大行こうかなと冗談交じりに言う美咲に驚く開君、まあそりゃあ、今からはちょいと……ね。
その気持ちを汲んだか、先輩を追ってニューヨーク行って勉強しようかな、これは親にはナイショだからね、と秘密を共有。ま、そっちの方が美咲にとってはリアリティあるか……。

ミラコロやイベントのプロデューサーとして登場するサンプラザ中野くんが、地元発信映画のある種の違和感を牽引しちゃってる感じがしてさあ。
こんなこと言ったらアレだけど、ホントそんな感じなんだもん。いわゆるちゃんとした?キャストの中では彼が半ば意図的にワザとらしいし、それがエキストラ含めた地元キャストのそれにつながっちゃってて、なんかもう、いたたまれないのさ。
なんか彼、痩せてからへんに悟っちゃってる感じがちょっとヘンだし(爆)、なんとも言い様がないんだよなあ。

本作が、市制30年記念というよりも、被災地となってしまった浦安市がそれに負けずに作り上げた映画という形になってしまったのが、更に微妙な感覚をもたらしてしまったのが、ね。
液状化という、浦安だけが体験した特異な被災の形。それは今後の教訓も含めて広く知っておきたいことだと思うし。
でもね、これを、クランクイン直前の出来事を、ラストクレジットを利用して紹介する様には、そりゃあ涙を禁じえないけど、……うん、せめて、本作が作品としての完成度がもうちょっと……いやいや、ううう、だから、こういうのホンット難しいんだってば!!!★★☆☆☆


カントリーガール
2010年 70分 日本 カラー
監督:小林達夫 脚本:渡辺あや
撮影:柿崎知也 音楽:SuiseiNoboAz
出演:服部知 久場雄太 藤村聖子 鎌田彩 松本錬太郎 藤村光太 浅田麻衣 俣木千里 濱崎大介 新舩聡子 高嶺剛

2012/5/20/日 劇場(渋谷ユーロスペース/レイト)
正直観ている時には、この映画は何を描きたいのか、今ひとつ判然としなかった。京都の街をぶらぶらする高校生たち。男の子は慣れた風にタバコをふかし、外国人観光客を達者な英語で騙しては財布を盗み取る。
その一方で、街の一角で再開発をする計画に、「若い感性」を買われたことに情熱を燃やし、「東京はもう、だめっすよね。ただの巨大マーケットなだけで、何も生み出さない」と、わが街京都こそが文化を発信するのだと意気込む。

その二つのベクトルはまるで交わらないように見えるんだけれど、財布を盗むのはこの計画に使う資金のためであり、マトモにバイトとかしないことに特に罪悪感を持つこともなく、かといってこれが正義だと思っている訳でも無論なく、表面上彼らは、タバコも騙しも再開発計画も、このブラブラとひまそうな高校生活の延長線上にあるような雰囲気。

こうして書き起こしてみると、展開の波やシニカルな視点も大いにあるのに、観ている時にはブラブラとした男子高校生の日常にしか見えないのは、実はかなり凄いことなのかもしれない。そう、何を描きたいのか判然としないと感じさせるというのは、それだけ彼らの日常がリアルだということなのかもしれない。
それが証拠に、何を描きたいのか判らないと思いつつ、そういう時には感じがちなイライラした気分はなかった。何か不思議な気持ちで見ていた。

中盤、主人公(というのも、ようやくこの頃において固まってくる感じのフレキシブルさ)のハヤシが、見習い(半玉?)の女の子に恋をして(恋、だよな、あれはやっぱり)以降は、再開発の話もどうやらインチキらしかったことが判ったりして。
そしてその女の子を同級生のチバに横取りされそうになる、みたいな、まあいわば“映画的”盛り上がりを見せてくると、ホッとしたりする一方で、ちょっと、ああ、前半のダラダラする感じも良かったなあ、などと思うんだから、実に勝手なもんである。

監督さん自ら書いたイントロダクションを後から読んで、ああなるほどと思ったんだよね。監督さんも勿論、京都のお人。お若いお人。
本作の脚本は渡辺あやだけれど、短編映画で名を馳せた彼が長編デビューとして用意された場なのだから、脚本作りにも相当のディスカッションがあったのだろうと思われる。
そう、監督さんのイントロダクションを読んでぱーっと、なるほど!と思ったんだよね。ていうか、何でそれに気づかなかったのかと思うぐらい、明確だったじゃん、と。

京都、海外にも有名な、文化と伝統の街。365日、国内外から観光客がわんさと訪れる街。ひょっとしなくても、在住者よりも観光客の方が多いかもしれない街。
在住者にとっては、古くからの伝統にうっとりする観光客の気持ちを誇りに思うなんて段階を、とうに通り過ぎているのかもしれない、いや、それ以上に、もはやうっとうしいのかもしれない。
彼らが達者な英語で話す「舞妓は伝統の美ですよ。見ておいた方がいい」なんていう台詞がやけに芝居がかっているのは、そのせい。英語のニュアンスそのものが、芝居がかっているもんだからさ。

そういう感覚って、本当に、京都以外では判らないことだと思う、ってことを、なぜ今まで気づかなかったんだろうと思う。もしかしたら京都の人たちは、特に若者たちは、自分たちが強いられるこうした感覚に苦しめられているのかもしれない、と思う。
いや、でも、どうだろう。京都で生まれ育っているのなら、その他の土地で生まれ育つ感覚がないのなら、これが特別なことである気持ちもない、んじゃないかな。
だからこそ彼らが、サラサラと英語を話して観光客を騙し、東京をただの巨大マーケットだとくさすのも、全てが、彼らにとっての日常なのだよね、と思うのだ。

そう、サラサラと英語を話す。こんなに外国人観光客が来る土地ならそうかもしれないと思う。何かやはり、少しずつ、京都の学生は、他の土地の学生たち、自分たちだけの生活に集中して育っていける他とは、明らかに違う気がする。
少なくとも、私がいくつか過ごした土地とは違う。それは、北日本、東日本と西日本は違うってだけかもしれないけど、ただひたすら、自分たちの世界に集中して学生生活を送ることが“出来ていた”から、京都の学生の環境というのは、改めて思うと想像を絶するものがあるというか……。
東京もまた違うとは思うけど、東京は少なくとも観光客は、生活している人の圧倒的多さに飲み込まれてしまうだろうから……。そう考えると、京都を生活の場と考えると、生まれ、育つ場所と考えると、やはり何か、とても特殊なのかもしれない。

舞妓は見ておいた方がいいですよ、と言いながら、今舞妓が通ったとウソをつきながら、実は彼ら自身、本当に舞妓さんを間近に目にする機会がなかなかないということが明らかになるあたりから、事態は動き出す。
本当に偶然、ウソがホントになって舞妓さんと、従えた見習いの女の子たちに出くわした時、男の子たちはポーッとなる。あれだけ伝統文化をスルーしてきた彼らなのに、舞妓もアリかも、なんて真剣に言い出す。
一人、チバだけが、財布を盗むタイミングをはかるためのサインを出さなかった見張り役の子に最後まで怒り続ける。彼とハヤシが特に両極端として描かれるけど、チバはチャラ男に見えながら一番、友達とのつながりが失われるのを恐れていた、のかもしれない。

ちなみにこのタイトル、カントリーガールというのは、谷山浩子などではなく(古い)、まさにハヤシが恋した見習いの女の子のことなんである。
京都の、ザ・伝統である舞妓はんなのに、地元っ子じゃない。彼女は山口県から来ているんである。舞妓が地元ではなく、地方から来ている女の子たちであるというのは、それ以前に彼らによってもう語られていて、だから、彼らにとって伝統は更に遠のくのかもしれない。
でも恋をしてしまえば。白く塗り上げ、豪奢な衣装を身にまとった、臈たけた舞妓さんに付き従う、質素な浴衣姿の見習いさんは、勿論スッピンで、その若さゆえのばら色の頬がひどくまぶしくて、ハヤシでなくても目をしばたたいてしまうほどだった。
……後から思えば、京都に住んでる、生まれ育っている筈の彼にとって、なのに足を踏み入れたことのない領域、つまり、カルチャーショックの衝撃、だったのだ。だってそこは地元な筈なのに、伝統を守っている女の子は、カントリーガール、なのだもの。

チバほどではないにしても、ハヤシだってタバコをくゆらし、チバの彼女の誘いに乗って、オシャレな店のトイレでナニしたりする。
元々、ハヤシの方がこの彼女と先に仲良くなったのに、「先にコクってくれれば、良かったのに。ハヤシの気持ちがハッキリしないから」と、彼女はチバと付き合い始めた。
彼女いわく、チバはハヤシから横取りしたかっただけで、自分のことを好きな訳じゃないんだ、と言う。この点については、後々においても本当はどうなのか、イマイチ明確にはされない。
少なくともチバがハヤシのことを、カノジョとか女とかいう存在よりも大好きなんじゃん、ということはなんか伝わるんだけれど、だからこそハヤシが思いを寄せる女の子たちに手を出していったかどうかは……そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない。

あの見習いの女の子に、ハヤシがまるで純愛よろしく、授業をサボってまで通い詰めて、全然話がつめられないのに、偶然行き合ったチバがあっさり彼女の携帯番号聞いちゃって、「携帯、持ってるんだ……」とハヤシがボーゼンとするシーンなんて、二人のキャラの違いがハッキリしてるけど、でもキャラの違いじゃなくって、ただ単に、ハヤシは恋を知り、チバはまだ知らない、だけなのかもしれない。
あんなにチャラ男そうに見えて、実は友達との絆が失われるのを何より恐れてる。そうか、だから、ハヤシの思い人を確かに“横取り”したのかもしれない。女に夢中になられてしまうのは困るから……。

なあんて、ドロドロが描かれる訳じゃないのさ。チバは、そういうのを示したがらない、つまりそれだけ、純なヤツなのだろう。ハヤシの方がドツボにはまっていく。
女の子のこともそうだけど、再開発計画のドンである、いかにもアーティストっぽいカフェのオーナー、モリさんが、チバを買ってて、ちょっとした計画とかもハヤシ一人の時には「チバが来たら」と話さないことに、ハヤシは激昂するんである。
女関係のことで頭に血が上っているから当然といえば当然だけど、そもそもこのモリさん自体がマユツバな人物であって……。

それは、計画が進められている区画を見に行った時に、案内してくれた不動産会社が、これまでモリさんの計画がありつつ何度も頓挫していること、モリさんって、あのカフェのオーナー以外、何かしてるんですかね?と恐る恐る聞いてきて、チバもハヤシも、さあ……何かはしてるんじゃないですか、と返すのみ。
何かね、彼らはモリさんを、あの白いひげの仙人みたいなじいちゃんを盲目的に信じてるのね。でも彼が作るもっともらしい立体模型とか、「プラモデルで作った」という時点でやっぱりアヤしいしさ、それを見抜けないあたりは、やっぱり彼らは、垢抜けているように見えて、まだまだ子供なのだよね。

でもそれは、まるで夢か幻のように消え去ったって感じで。お金を騙し取られた訳でもないし。このために騙しを繰り返して盗みまくった金を、几帳面に銀行に入れていた金を、几帳面に等分する。
バイトしたみたいだな、と買いたいものを言い合う仲間たち。チバだけが怒る。これでいいのかよと怒る。俺たちだけでもやろうぜと怒る。
ハヤシとチバがしっくりいかなくなってから、観光客を騙すのも上手くいかなくなっていた。あからさまにヘタな芝居とたどたどしい英語でさ。

チバと決裂したハヤシ以下の仲間たち。ハヤシはあの見習いの女の子とチバの経由で仲良くなれたけれど、その際にまた横取りしたかと誤解したことで気まずくなってしまい、彼女ともイマイチ上手くいかなかった。
夜抜け出してくる彼女は、うつらうつらするばかりで、ハヤシは、帰って寝た方がいい、舞妓になったら休みももらえるんだから、と彼女を諭したけれど、そうじゃ、そうじゃ、ないんだよね。
たとえ眠くても、外に出たい、そして好きな人が出来たならば、もっと楽しい。彼女の場合、その順序、恋が一番て訳じゃないあたりが、ハヤシとのすれ違い、だったのかもしれない。

ハヤシが彼女に恋しているのはもう、誰が見ても明らか。まるでストーカーみたいに彼女のお稽古の通り道に、授業をサボってまで待っていて。彼女はそんなハヤシに、そりゃあ女心をときめかせた筈なのに、手馴れたチバが入り込んだことで、おかしくなってしまった。
てか、ハヤシはやっぱ、手馴れてないからさ、ただ外に連れ出してくれて、朝まで居眠りしていても黙っていてくれる、そんなチバと一緒にいるところを見て、ハヤシは……。
でも判らない、この後ブラックアウトになって、彼女は舞妓になったと話をする彼らはスーツ姿で相対し、その舞妓姿で、ハヤシがいつも待ち構えていたお稽古の通り道で、彼女は、彼が来ていないかと、振り返り、ラストクレジットもなく、終わるから。

なんか、なんか、こう書いてみればやたらドラマチックじゃん!あれれ?見てる時にはね、ホントにストイックというか……京都の高校生、特に男子高校生のダラダラとした日常なの。
そりゃ、筋を書いてみればこんな風にそれなりに波乱万丈だけど、なんか、なんというか……ことさらに、クールなんだよね。“カフェミュージック”として、唐突にガナり、唐突に終わる今風(オバチャンくさい言い方(爆))の音楽の使い方も、その感覚を強めているかもしれない。

いや、それ以上に、“チバが私をハヤシから横取りした”と言い放つあの女の子の存在が大きい。薄暗い喫茶店でハヤシとナニをかまそうとした時に、「チバと別れた。そもそも私のこと好きじゃなかった、ハヤシから横取りしたいだけだったんだよ。どうする?もう普通に付き合えるけど」なんて、ハヤシに押し倒された状態でさらりと言う。
“どうする?もう普通に付き合えるけど”かあ……。この時、見習いの女の子に、チバが入り込んではいるものの恋しちゃってるハヤシが「そうか……どうしようか……」と、こ、この台詞は、このシチュエイションじゃ言っちゃいけないだろ!どうしよう、って!!
でも、確かにどうする?って台詞もアレだけど……。ああ、少女マンガ的トキメキラブストーリーは、現実社会には存在し得ないのか!

とにかく、カントリーガール、カントリーガール。この伝統の古都、外国人観光客にとって垂涎の地で、まさによだれをたらさんばかりに会いたい舞妓は、田舎の出。
睡眠不足も押して遊びに出たい彼女たちが、辛い修行をがんばっている筈なのに、その遊びの最中に「やめようかな」とあっさりと言ってしまうこの空しさ。
そして当の京都で生まれ育った高校生たちの、この関心のなさ。でもそれが交わって、空しいながらの化学反応を示して、彼らはこの京都に、まだまだしっくりと来ないスーツ姿で歩き出し、カントリーガールも、京都を象徴する舞妓となる。

なにか、やっぱりつかめないけど、つかめないけど、ラストクレジットもなく、舞妓さんとなった彼女が、ハヤシが来てないかと、小さな川沿いの通りを振り返る画でバチッとカットアウト。よそ者が突き放された感じもして、彼女と共に、彼女と共に。 ★★★☆☆


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