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2012年鑑賞作品

ペッティング・レズ 性感帯
1993年 55分 日本 カラー
監督:サトウトシキ 脚本:小林宏一
撮影:小西泰正 音楽:E−ton
出演:林由美香 ゐろはに京子 紀野真人 佐野和宏 吉行由実 秋山ひなこ


2012/6/11/月 劇場(銀座シネパトス/PINK FILM CHRONICLE 1962-2012/レイト)
由美香さんの死の直前のインタビューで、私ちょっとカン違いしてたんだけど、彼女が挙げた自分にとっての三本の中に本作が入っていたと思ってて。
実際は「由美香」 「たまもの」そしてこれは観ることが出来るかどうか判んないAV作品「硬式ペナス」だった。
でも本作のことも彼女が、初期の、何も判んないでやっていた感じが恥ずかしいと、本当に恥ずかしそうな感じ(インタビュー記事の文面だけでもなんか伝わってきてた)で語っていたのが印象的だったから、頭の隅にこびりついていたんだと思う。

今回のクロニクルで、もちろん「たまもの」も後の上映予定に入ってきているけれど、初期作品の由美香さんの本作を観られるということで、嬉しかった。
それにこの年代あたり、いわゆるピンク四天王がサブカルのひとつとして、一般劇場の企画上映にかかっていた時代、まさに、私もそこでピンク映画に出会ったし、四天王に、このサトウトシキ監督にも衝撃を受けた。
私が一番最初に見た四天王の作品って、誰の監督だったんだろう。瀬々監督か、佐野監督だったと思ったが、サトウ監督だったのかもしれない。

まあそんな思い出話はどうでもいいんだけど。だからね、由美香さんが挙げてたから、私はてっきり、本作は由美香さんの主演映画かと思っていたら、彼女はいわゆるキーマンとしての、まあ準主演といってもいい役どころではあるけど、主演ではなかった。
主演は、こういう人が主役を張るというのも初めて見たというか、ちょっとビックリするぐらいブス系の(ゴメン!お前が言うなって感じだよね……いや素直になんか、ビックリしたから……)ゐろはに京子という女優さん。
おっぱいはまあそれなりにおっきいけど、こういうタイプの女優さんを、特にピンクのヒロインとして見ることがなかったから結構ビックリした。
でも確かに、上手い気がする。でもこれ以外では、私観た覚え、ないなあ……まあそんな、見てはないけど……。

由美香さんは、このヒロイン、友子の幼馴染で、高校時代に恋愛関係になった直美役。
タイトルがペッティング・レズだし、レズ関係、つまり肉体関係と言ってもいいのかもしれないけど、幼い頃からずっと仲良しで、その仲良しの気持ちを肌の触れ合いで深く確かめ合って、気持ちも恋愛感情になった、という部分こそを重視したいと思う。
由美香さんはそれでなくても童顔だし、後年に至るまで結構若い役を堂々とやっていたような記憶がある(すいません、なんの作品だったかは……なんかそんなイメージだけかも(爆))けど、本作の時は本当に若いし、あの時代、だよなあ、あの太く黒々とした眉毛。それでもふっくらとしたほっぺたと、ちゅんと突き出た唇はやっぱりなんとも可愛い。

AV界では相当の有名女優だったということは後に知ることになるけれど、由美香さんの凄いところはこの穢れなき童顔と、AVにしてもピンクにしても不利にしかなりそうにないちっちゃなおっぱい。
でもそれが、まさに印象付けるんだよね。これまた穢れなき。だからこそ割と巨乳の友子が、自分だけの直美とでもいうように慈しむのがリアリティを感じるし、直美が裏切った時のショックも大きいのだ。

本作は全篇、主人公、友子のモノローグによって進んでいく。だからという訳でもないが、直美役の由美香さんはちょっと驚くほど台詞がないんだよね。ほとんどないと言ってもいいぐらい。
そう、だからという訳でも、ないか。実は本作は、直美の尺はそれほど多くない。回想として描かれる友子と直美の高校時代までの仲良しシーンと、直美が結婚した後に再会する仲良しシーン、そして衝撃のエンド、それぐらい。
直美を愛し、裏切られたことによって破綻の人生を堕ちていく友子は、直美以外の人物との関わりによって展開されるから、そこでのドラマは普通に台詞のやりとり、どころかかなり激しい展開もあるんだけれど、友子と直美は、言葉がいらない、って風に、直美の台詞はホント、ないんだよね。
直美が自分の夫に、居候を決め込んだ友達(友子ね)の処遇のことを話し合ったり、セックスのやりとりをするぐらいで。

そういう意味では、由美香さんはやたら恥ずかしがっていたけれど、直美って難しい役だったんじゃないかという気がする。
由美香さん自身が恥ずかしいと思ってても、本作が観客に強い印象を与えるのは、彼女が、そう思って演じていなくても、ファムファタルになっているから、なんだよね、きっと。
ただそれは、対友子に対してだけ、っていうのが、大きいんだけど。劇中の男たちにとっては、友子こそがファムファタル、いや、直美のダンナの古くからの愛人にとっても、そうであろう。
結婚して自分の元から去っていった愛する直美を再び取り戻すために、友子が直美のダンナを呼び出し、あっさりと陥落させ、その肉体のとりこにさせる。

そのダンナの古くからの愛人は、彼の友人の女房である。友子の肉体におぼれてこの愛人とのセックスがおろそかになりながらも、「お前が一番好きなんだよ。お前と結婚したかったんだよ」とむしゃぶりつく。
レズセックスも含めた様々な組み合わせのカラミシーンの中でも、この二人の、シーツをぐちゃぐちゃにして荒れる(乱れるというよりそんな感じ)セックスが、お互いの含むところを隠しながら激突していて、ひどく扇情的。
吉行由実、監督としても素晴らしい彼女だが、こういう大人の女、重い女、上手いなあ、と思う。こういう女をソデにしちゃマズいだろ、と一目見てゾゾっとするような、妄執あふれる大人の女!

そう思うと、吉行由実とも、ゐろはに京子ともまさに対照的な、少女のような、ドールのような愛らしさの由美香さんはしかし、口ではダンナのことをいい人よと言うが、その交わりはバックからのセックスのみだし、ダンナは二人の愛人をもてあまして往生しているし。
そんなタイプに見えない男なんだけどね。極めてフツーのサラリーマン。
ちなみにその、古くからの愛人の夫、つまり彼の友人を演じているのは佐野和宏で、女房が浮気していること、その相手が誰なのかオレは知っているんだ、と友人を呼び出す昼日中ののどかな公園のシーンはひどく印象的である。

誰だか知っていると言いながら、彼は結局それを言い出さない。言い出さない佐野氏の、彼独特の落ちぶれた感じがたまらなく胸を突く。直美のダンナがシュッとしたサラリーマンを作り上げている余裕があるだけに。
二人をスクリーンの左右の端っこにおいて、ひぐらしがカナカナカナと鳴く、緑あふれるシーンがやけに心に残る。
「明日は晴れるといいな。どしゃぶりだよ、オレんとこ」と言い残して去っていく佐野氏の重さよ!

佐野氏が、由実さん演じる女房の浮気を責め立てているやるせないカラミシーン、女房はバックから攻め立てられながら言ったんだよね。あなたより、ずっと素敵な人だと。私の一番好きな人だと。
愛人から、お前のことが一番好きだ、と言われた台詞に呼応している。一番好き、一見、素敵な台詞だけど、言われたい台詞だけど、何か、言い訳めいてる。
結婚できなかったけど、一番好き。まるで免罪符のよう。一番好きなら、一番一緒にいたかったなら、なぜ頑張って、押し通して、結婚しないのか。
こうやって不倫として会って、そんな睦言を言って、傷をなめあって。そんなことが大人だということならば、あまりにも、あまりにも……。

だからこそ、罪滅ぼしのような、あの結末なのだ。ダンナと別れ、その責任を鬼のような顔で追及しに来た由実さん、愛人の目の前で、車に撥ね飛ばされた。ガンと頭を打って、あれは明らかに、死んでしまった。

そもそも、そもそも、友子の方が直美に入れ込んでいたんではないか。
友子のモノローグでは二人同等にイチャイチャしていたように思えたけど、思えば物語の冒頭、幼き頃の二人、「子供の頃の夢はひとつだけ。直美とずっと一緒にいること」と友子がモノローグしているのだもの。
後から思えば、全てが終わった後、友子が後づけで回想しているようにも思えるモノローグ。

「大学2年、直美に恋人が出来た」とのモノローグから、二人の仲が破綻し始めるけど、先述したように直美の台詞、そして気持ちが明かされないこともあって、実際直美がどう思っていたのか。
直美と恋人とのセックスを覗き見る友子は、そのブス風貌(だから、ゴメン!!)なこともあいまって、かなりコワい。
ピンク映画の要素としてのカラミを示す場面であり、友子と直美のレズセックスだけだったところの、必要要素としての男女のカラミシーンではあるけれど、友子の恨み節の顔の方が強烈に印象に残る。

直美のダンナが、佐野氏演じる友人、不倫相手の夫に刺されて死んでしまう。友子が直美夫婦の部屋に居候として転がり込み、ダンナが困惑していた最中の出来事である。
三人で記念写真を撮ろうというタイマーの中に突然突進してきて、刺された。
友子がこれを幸運と思ったのも無理なきことだけど、計算外は、直美がそうは思わなかったことだった。
高校時代のラブラブを忘れたように、結婚と共に友子の前から姿を消したのは、適当な言葉で濁していたけど、やっぱり思うところがあったに違いない、のだ。
直美がダンナのことをいい人だと言った時、友子は「男にいい人なんているわけない」と断じ、「これからずっと一緒よ」と直美を愛撫した。でも、でも、それは友子の一方的な論。

そして再び直美は友子の前から姿を消す。しかも、あれは誰を殺したの?なんか死体を引きずって埋めて、その罪を友子になすりつけた。
流れ的に佐野氏かと思ったけど、雨の中、泥だらけの遺体は佐野氏のようには見えなかった……ような……うーん、判らない。
てか、佐野氏は人を殺したんだし、普通に考えれば刑務所にいるし、やっぱり違うかあ。何か、ゆきずりで誘った人とかなのかな。

あっさりブタ箱行きとなった友子はしかし脱走を図り……このあたりになると脱走もあまりにもアッサリとなされて、ええっとか思うけど、思えば最初から友子目線の展開だったなあと思うし。
友子は直美の消息をたどるがなかなかつかまらない。直美の今が印象的に挿入される。草原の中、やたら強い風の中、もうすっかり乾いているからいいじゃんと思うシーツを、風にバタバタと踊るシーツを、なんとか物干し竿にとめようとしている直美。その意味のない感が妙にざわざわと心を騒がせる。
友子は脱走中、レズビアンの恋人を得、その恋人は献身的で、直美とのささくれを癒してくれるのには充分で。
実際、直美への愛は忘れたと言っていたのに、でも、直美への愛どころか、友子は全ての愛を忘れてしまった、失ってしまった、のだよ、ね。

あの風の強い草原、シーツになぶられているかのような直美にまっすぐ向かって、安そうな、切れなさそうな文化包丁で友子は直美を刺した。
白いシーツがみるみる真っ赤に染まっていく。カメラが引き、倒れる直美を見下ろす友子、強い風が二人の間を吹き抜けていく。

後に改題されるのって、なんでなんだろう。シナリオタイトルはまた別にあるだろうけれど……。
本作は、まずこのタイトルがオープニングに現れ、ラストクレジット後に「気持ちよくてとろけそう」のサブタイトルに変わったタイトルが改めて示される。
まあことにピンクだとタイトルは割とどうでもいいけど(爆)。タイトルでは内容を想起できないことも多いからなあ。 ★★★☆☆


ヘルタースケルター
2012年 127分 日本 カラー
監督:蜷川実花 脚本:金子ありさ
撮影:相馬大輔 音楽:上野耕路
出演:沢尻エリカ 大森南朋 寺島しのぶ 綾野剛 水原希子 新井浩文 鈴木杏 寺島進 哀川翔 窪塚洋介 原田美枝子 桃井かおり

2012/7/30/月 劇場(TOHOシネマズ錦糸町)
すっかり沢尻エリカありきの映画のように喧伝されているから、監督自身が7年もの歳月をかけて準備をしてきたというのは意外だったけど、ならば監督の頭の中では、主演女優として、当初考えていた女優から様々な変遷があった筈で、どの時点で沢尻エリカと思ったのか、ちょっと気になるところでもある。
というのも、だってね、この時点での沢尻エリカ、しかもこの役に、というのはヤハリ、どんなに監督自身がまことしやかなことを語っても、商業的成功を狙ってのキャスティングであることは誰しもが思うことでさ。
勿論、商業作品なんだからそれはそれで全く問題のないことなんだけど、ただ……あまりにもイメージがつきすぎてて。

こんな風に感じるの、単純すぎてホントヤだなと思うんだけど。映画は何の先入観も、イメージも持たずに対峙したいと思ってるし、情報を入れることもほとんどないんだけど、さすがにこれだけ騒がれたお人だとイヤでも目に耳に入ってくるじゃない。
あの騒動があった時、その印象が頭から離れなくて、そのまま観ることがどうしても出来なくて、「クローズド・ノート」はスルーしてしまった。沢尻エリカ嬢の女優としての素晴らしさは充分に判っていた筈なのに、外野で何が起ころうとそれは変わらない筈だったのに、どうしても振り払えなかった。

そんな自分が情けないとも思うけど、その時、役者という仕事は、必要以上にイメージという手垢がついてはいけないものなのだと思った。
山本太郎氏の活動に津川雅彦が、役者はニュートラルであるべきと苦言を呈したことも、同様のことだと思った、って、突然全然違うトコから話持ってきてゴメン。

本作に足を運んだ理由を、「クローズド・ノート」の時と何が違ったのか、そんな理由を考えること自体思いつかなかったんだけど、観て、判った気がした。
正反対の理由で、私は足を運んだのだ。あの“エリカ様”そのものの役(だろう)から、つまり役柄との違和感がないだろうから、そう思って、足を運んだんだ。
そのことに気づいた時、私ってサイテーだと思って、なんか落ち込んでしまった。彼女のこと、素晴らしい女優だと判っていたのに、どんな役を演じようと、そんなこと関係なかった筈なのに、って。

でもね、結句、その通りだったんだよね。このりりこという役柄に、世間にばらまかれ、あおられ、拡張していった“エリカ様”のイメージはあまりにもピッタリだった。
多くの人がその寸分たがわぬ“エリカ様”を見たいと期待をふくらませただろうし、だからこんな、大騒ぎにもなったんだと思う。

でも、それで、良かったんだろうか……?

率直な感想を言うと、あれ?彼女、こんなワザとらしい芝居するの……という気持ちだった。
最初はね、その役柄のせいかなとも思った。類稀なる美貌をもって、芸能界のトップに君臨するカリスマ。周囲のスタッフを奴隷のように扱い、その魅力で金持ちの御曹司も、敏腕プロデューサーも、マネージャーの可愛い年下の恋人さえ、奪っていく魔性の女。
しかしその美貌はまがいもので、治療をちょっとでも怠ると醜くなっていくことに怯え、テンションは急激に上がったり下がったり、まさに狂気。狂いゆく女。

そりゃあ、こんなテンションの上がり下がりの激しい、魔性の、ザ・女王の女なら、それなりにワザとらしくもなるかもしれんが、でも、彼女の上手さを知っているからこそ、あれっ、と思ったんだよな……。
ただね、微妙、なんだよね。ひょっとしたらそれを彼女が、あるいは監督が、判ってやっているのかもしれないと思って……。
りりこを演じるにあたってエリカ嬢が、入れ込みすぎて体調を崩しただの、いやそれは宣伝の一環だのと、これまたくっだらない“商業的”“マスコミ的”なあれこれがあったじゃない。

いやがおうにも期待は高まり、沢尻エリカはりりこに魂を捧げたもうたのだ、と、なんか共演のキャスト側からもそんな話が聞こえてきたりしたしさ。
これはトンでもない狂った映画になったんではないか、そこで沢尻エリカはまさに狂い抜き、全ての外野を嘲笑って突き抜けたんじゃないかと、そう勝手に期待したんだけど……。

そもそも、この作品世界自体が、もしかしてエリカ嬢がそう思っていたとしても、それを受け止めるタイプの器じゃないというか……。
外野があまりにもうるさいもんだからうっかり忘れていたけれど、蜷川実花監督作品、「さくらん」でしかまだ判らないけど、その極彩色の映像世界、カラフルでキッチュなそれは、その中でどんなに女の愛憎が描かれようと、基本いい意味で“マンガチック”なんだよね。
だって「さくらん」だって漫画原作、本作だって、でしょう。漫画だからマンガチックと言ってしまうのはそれこそヘンケンだけど、こと蜷川実花作品となれば、それはもう大前提のような感じだもの。

特に本作ではそれは強く感じた。勿論、カラフルでポップな感じもそうなんだけど……なんたって芸能界の話、写真撮影のカットのめまぐるしさを、そのまま芸能界のめまぐるしさに転化するような表現方法で、しかもそれを何度も何度も、繰り返し繰り返し、やるんだよね。
まあそりゃあ、その過程でりりこの感情、あるいは芸能界でのレベルが変化していくのを示している訳で上手いんだけど、あくまでポップで、つまり……一般大衆から見れば、まるで現実感のない世界で。
それを、充分判ってて、大前提で、やっているように見えたし、そうなんじゃないかと思うし……。

だってさ、エリカ嬢以外のキャスト、ことに寺島しのぶや新井浩文あたりの、えーっ、彼らにこんな役ふるの、てな、これはもう、遊び心、それこそマンガチックでしょ、てな感じが、あったから。
彼らはそれを、充分に判って演じてたし、だからこそ、エリカ嬢の気合充分が生み出す作り込みの、ある種のわざとらしさと比して、どうしようもなく違和感があったのだ……。

あの寺島しのぶがオロオロするばかりのマネージャーで、化粧なんかしても一緒ですから、とスッピンで、年下の恋人にデレデレでフリフリのエプロンなんかして、っていうのをね、彼女ならマジにやったらちょっと違うアプローチがあったと思うけど、蜷川実花作品、このカラフルな世界、の中でのアプローチだったと思うんだよな。
正直、だからこそ、寺島しのぶがコレ!?ってのがあって、うわーっと思ったけど、“マンガチック”だからさ。
新井浩文のオネエ系スタイリストだって、これまでの彼では考えられない役。彼もまたしのぶ姐さんと同じく、いい遊び心を持って臨んでいたと思う。
決して、ガッチリマジじゃないんだよね。世界観の作りこみもそうなんだよね。それとエリカ嬢、あるいは“彼女はそう臨んだ”という先入観が違和感となって噴き出してしまって……。

それはね、一見思いっきりシリアスムードで、いわば物語のけん引役として位置する大森南朋扮する検事だって、そうなんだと思うんだよな。
もう彼は、いやんなるぐらいマジ演技で色っぽくて、そう、ただ一人、りりこの色香にかからない男として、いい役中のいい役。りりこがヘルター・スケルター=しっしゃかめっちゃかだと評したのは彼で、タイトルとなっていることから、どれだけ重要な役か判る。
一見、エリカ嬢と同じく、超マジにこの役に没頭しているように見えるけど、助手的な鈴木杏嬢から「ポエムですか」とか失笑気味に突っ込まれ、それでもそのマジが動じないってあたり、彼(あるいは彼のキャラ)もまた、その“マンガチック”を充分踏まえて臨んでいるんだと思うのよ。
そうなるともう、一人違和感のりりこには味方がいないの。あ、でも、そう考えると、りりことしての存在を描写するにおいては、奇しくもピタシだったのかもしれない……。

そもそも、沢尻エリカがバストトップを出しただの、全裸映画だの、この無粋な言い方は一体なんなんだよなー、と思う。ほんっと、つまんないこと、言う。
それを見越した訳でもないだろうけど、桃井かおりとか原田美枝子とか寺島しのぶとか鈴木杏とか、そんな騒ぐこともなくさらりと脱いだ新旧女優たちでワキを固めているのが、見越した訳じゃないだろうけど、見越したのかも、などと思ってしまう。
女優なんて脱いでナンボよ。若い時しか脱げない……訳でもないけど、基本、そうじゃん、と彼女たちは、いや観客だって、思っていると思う。

でもね、彼女が「頑張って脱いだのに」と言うように、確かにおっぱいがさらけだされるシーンはほんのちょっと、そのおっぱい出してのセックスシーンも冒頭の窪塚君とのそれだけ(あとはおっぱい出しはナシのカラミ。意味ないなー)で、エリカ嬢の不満も判る気がする。
まあこういう、“頑張って脱いだ”女優と監督の意識の違いはホントよくある話で、これをエリカ嬢のワガママとかことさらにあげつらうのは、それこそホント無粋なことなんだけどねー。
でも、こういう作品世界なら、エリカ嬢の“頑張り”をもっとくんであげても良かったように思う。観客の欲するところでもあるというのも正直あるし、その欲望を満たすタイプの作品なんだから尚更。
りりこの精神世界の崩壊を重視したとか言われても、えー、こんな映画を作っといて今更そんなこと言う訳、とか“無粋”な観客は思っちゃう訳。

うん、まあ、そう。確かにこれは、りりこが壊れていく映画。美しさを追求し、追求され、そして捨てられる女の悲しさ、壊れていく女の壮絶さを描いた映画だから、それはそれで正解なんだけど……。
まあそのう、再三このサイトで言ってるように、私ゃー、壊れゆく女は、キライさ(爆)。それに、壊れゆく女は、芝居としてのインパクトを残しやすくて、やたら賞がらみになるのも気に入らないし(爆爆)。
それにそれに、先述したように、その壊れゆく女を気合マックスで演じるエリカ嬢はワザとらしいし(爆爆爆)。

本当は田舎出の普通の女の子。事務所の社長に見出され、全身整形をほどこされ、その美貌で芸能界トップにのぼりつめた。
後に検事から指摘されるように、作り上げられたりりこの顔は、若い頃の社長にソックリ。つまり自分の分身として、自分がなし得なかった成功を託されたりりこ。
そう考えると、元が取れなかった、新しく売れる子が出てきたという理由でりりこを「あんたは用済みよ」と斬って捨てるのは説明がつかないんだけど、でもあれはりりこの妄想の中の話ってところで終わってるから、まあいいのかなあ。

その、“新しく売れる子”として登場するのが、水原希子嬢。「ノルウェイの森」で映画ファンに鮮烈な印象を植え付けた彼女は、本作でまさに、まさに、エリカ嬢に取って代わるフレッシュさを振りまく。
「モデルなんて、皆吐いてるに決まってますよ。そうでなきゃ、あんなに痩せてる訳ないじゃないですか」とあっけらかんと言う場面からドギモを抜かれ、なんたって彼女自身現役モデルということもあろう、りりことのツーショット撮影シーン、あるいは単独のシーンでも、明らかに彼女の方がヴィヴィッドで、観客のハートをつかんでしまうんである。

これって、計算のうち、だったんだろう、か……。物語は後半になり、インチキ美容整形の後遺症に悩むりりこは、「まるで老人の肌のように、弾力がなくて押しても戻らない」状態になっている。
まるでそれがリアルに感じられるように、エリカ嬢の隣でジャンプする希子嬢の、水の滴るどころじゃない、水が弾け飛ぶフレッシュな魅力ときたら、ないんである。これは、これは、なんという、皮肉な結果だろう。
ほどなくして、何を思ったのかマネージャーからのリークで(これは何でなのか、ホント判らない)、りりこの全身整形が明るみに出て、りりこは、その直前まで副作用による肌のアザと新人の出現で自分は忘れられてしまうと狂いかけていたのに、思わぬことでトップの話題にさらされることになる。

その記者会見の場でりりこは、社長から用意された原稿などどこへやら、すくりと立って、ナイフを片目に突き刺すんである。
この場面の、今時黒いマイクだけがしかも等間隔に大量に設置されているテーブル、記者たちは皆揃いの黒いスーツ、質問を浴びせることもなく、カメラのフラッシュだけが光るという、それまでも充分に確信していたけど、リアルさなんて、リアルな世界なんて、描くつもりは、ないんだ。それまでのカラフルキッチュな世界より、このシーンの幾何学的な遊び心の方が好きだなあ。

それに、このシーンのエリカ嬢、メッチャ、きれいだった。それまでの、皆にちやほやされる、つけまつげつんつんの、ベタベタに塗りたくりまくった彼女より、ずっとずっと、きれいだった。
すくっと立って、ナイフを片目に突き立て、いちごシロップみたいなキレイな赤い涙がしたたる白い肌、とてもとてもキレイで、この場面、赤い羽が舞うなんていうそれこそカラフルキッチュな描写がきても、突っ込むことなくうっとりと眺めることが出来た。
これは、大森南朋演じる検事が、もう羽を撒き散らすことはない、という台詞に、彼女なりの抵抗という呼応なんだと思うけど、そんなうがったことなんかは忘れて、たただただ、キレイだったのだ。

だから、ここで終わってほしい気持ちは、あったかなあ。全身整形の衝撃で打ち上げ花火のように一瞬だけ盛り返した彼女が、アンダーグラウンドのあやしげなバーの、そのまた奥に用意された部屋に鎮座している、なんてさ。
つまりそこでりりこは何してるのさ。そりゃまあ、美女の眼帯姿は萌えるが、その眼帯がやたらキラキラしてると、あまり萌えない(爆)。

そこでマネージャーの寺島しのぶも嬉々として働いてる。本作で一番印象的だったのは、寺島しのぶったかもしれないなあ。
年下彼氏(綾野剛!)とイチャイチャしてるのもそれなりに衝撃だったが(爆)、彼女が誰よりも愛しているのはりりこであり、「マンコなめたぐらいでいい気になってんじゃねーよ!」と言われて号泣する。
つまり……この台詞どおりの“濡れ場”がね……あんなにウブな寺島しのぶは……うーむ、でも、やっぱり違和感が……(爆)。

なんてことをなんだかんだ言っても、やはりさすが寺島しのぶで、ちょっとカワイイと思っちゃった。
でも、あの彼氏はないよなーっ。彼女の目の前でりりこに誘惑されてそのままヤッちゃうなんてさ。しかも一瞬も悪びれなく。
いやさあ、それを納得できるだけの経過があればいいんだけど……確かにりりこ=エリカ嬢は魔性の魅力を放ってるけど、でも、いくらなんでも、だよ。そう、それこそこれがいくら“マンガチック”な世界であったとしても、よ。
とにかくりりこ、というか沢尻エリカの魔性さ、エロさを提示することだけで、その堀固めが置き去りになっているような気がしてならない。見た目の美術的美しさだけではカタルシスを感じない不満があるのは、そのあたりかなあ、と思う。

ふっとね、最近見た「私が、生きる肌」を思い出した。本作以上に全てを作り変えてしまったあの映画にも、“ちと間違えればマンガチック”を感じ、でもその“ちと間違え”を熟知して、映画として昇華していた。
あの違いは、どこにあっただろう。例えば医学技術、手術の場面のリアルさとか、本作だって充分あったと思う。ほっぺたに糸を通した針を刺す場面とか!ブルッときたもの。

そういやあ、「私が……」では、キャストたちは全員マジ演技だった。マンガチックだからなんていう加減はどこにもなかった。
ならばエリカ嬢のアプローチは正解だった筈なんだけど……そもそもの世界観の作り方がそうじゃかったことが悲劇だった。
もう、言っちゃえばね、本作って、ファッションショーのプロモみたい。その中で時々エリカ嬢が気合入れて怖い顔で雄たけびあげる。脇キャストはまあまあ、と なだめているように見える。そんなこと言っちゃったら、ヒドイだろうか……。

でもね、そう、「私が、生きる肌」を見た時に、女はとにかく肌、そしてCMの「肌がキレイなら、女は無敵」ていう台詞にキー!と思ったことを改めて思い出してさ。
まあ希子ちゃんはまさにあのCMに出てる訳だが(爆)。本作は、まさにそれを、追究、いや、追及できるテーマだった筈。太宰治の一作を思い出したりもしちゃう。女はたかが皮膚一枚なのだと。
ある意味、あのラストシークエンスが“なければ”、その余韻を残せたように思うんだけれど、あんな、どっこい生きてる、だってりりこだもん、みたいに示されたら、女の強さを示したんだろうけど、でも、ちょっと私は、納得できない!

恋人である御曹司の婚約者にマネージャー使って硫酸かけさせるとか、見た目判りやすくブスの(爆。こんなこと言いたくないよ。私が言えるかっつーの!)りりこの妹が、姉に憧れるあまり東京に出てきていかにもオミズな女になってるとか、それこそベタなワイドショー的描写。
原作にあるのかもしれないけど、そもそも尺長いし(爆)、結構このあたりがイライラして、好きになれないなあ。話題になってる映画だから、アンビバレンツな気持ちは思いっきりありそうなんだけど……。★★★☆☆


へんげ
2011年 54分 日本 カラー
監督:大畑創 脚本:大畑創
撮影:四宮秀俊 音楽:長嶌寛幸
出演:森田亜紀 相澤一成 信國輝彦

2012/3/22/木 劇場(シアターN渋谷)
最近の新鋭監督さんは、若いのにやたら人生哲学を知ってて、もういきなり倦怠期の夫婦だの、人生に疲れた独り者の女だの、あくせく働いてきた意味が見えなくなって呆然とするサラリーマンだのの映画を撮っちゃうから。
そりゃまあ才能はあるのだろうけれど、妙に老成した才能ばかりで、なんかなあ、若いのになあ、とちょっと思っていた節があった。それに、そんな疲れた人生ばかりを見たくもないしね……。
うん、才能はあるんだろうけれど、と、心のどこかで思いつつ、その才能ってでも、これまでの映画史の、名作であり、巨匠が描き、評価される道筋のそれを、器用になぞれる“才能”であるような気も、してたんだなあ。
確かに映画が出来て100年が経って、ある意味一巡してオリジナリティを出すのは難しいだろうし、影響や憧れもあるのだとは思うけれど。

……などと、つらつらとツマンナイおばちゃんのひとり言を言ってしまったのは、なあんか久々に、そこからぽーんと抜け出た“才能”に出くわした感があったから。
勿論この世界観だって、名作が脈々と連なる日本の特撮映画をメインに、ホラー映画、オカルト映画、サスペンス映画、サイコ映画、更に言えば大前提は壮大なるラブストーリーと、もうメッチャ“なぞって”はいる、のだろう。
でもつまりこれだけ欲張りに、あらゆるジャンルをムチャクチャに取り入れて、基本大ボラなのに大マジなのが、めちゃくちゃ気持ち良かった。

いや、実はさ、“あらゆるジャンル”などというのは後からこちょこちょ解説なんぞを読んで、ああそうかと気づいたぐらいで、観てる時には“大ボラを大マジにやってる気持ち良さ”という単純さにこそ、ヤラれた。
おーっ!と、高らかに笑ってしまうような思い切りの良さ。それでいてドラマはめっちゃシリアスでキャストたちもめっちゃ入り込んでシリアス演技を披露しているのもイイのよ。こういうのを中途半端にしちゃうと、この世界観、この魅力はそれだけで破綻しちゃう。

その点は、この監督さんが注目されたという、同時上映された短編「大拳銃」でもきちんと踏襲されているから、彼の基本はしっかと確立されているのであろうことが、頼もしいよね。
で、まあ、漠然としたことばかり言っていてもアレだから話のメインに行きますってえと……ある夫婦がいて、旦那さんが、変身しちゃうのよ。もうウガアウガアと内からの突き上げに苦悩しまくって、最初は夢を見ているのかと思った……夜うなされて、ちょっとずつ変身して、朝起きると元に戻っていたから。

この感じ。自分が中からの謎の力に突き動かされて、つまり何かに侵食されて、違うもの、ありていに言えばバケモノに変わっていく、っていうのは、カフカの「変身」を持ち出さなくても、ひとつの王道であろうかと思う。それは映画、日本映画、こうした新鋭が出てくる映画としても、あの「鉄男」をやはり持ち出したくなりもするし。
そうした変身映画は、特に映像のインパクトも手伝って、それだけで突き進みたくなるもんで、まさにあの「鉄男」はその傑作だった訳だけど、本作はかなりマジにドラマを刻んでいくんだよね。
いや、ドラマというほどの筋立てではない、かなあ。展開は彼の変身一辺倒でシンプルだし。
つまり、感情、夫婦の愛。この夫婦を演じる二人がめちゃ大マジな演技を繰り広げるから、むしろそっちに心惹かれちゃうの。

ていうか、彼が変身していく様は、日本のお家芸の、つまり手作り感たっぷりの“ごてごて系”のそれだからさ。もちろん凄く上手く出来ているけど、こういう場合、カネのかかる“CG系”だとやっぱり、変身していく恐怖が格段にリアルに表現されるのだろうと思うのね。
正直、次々にパテで肉付けされていく“バケモノ”の造形は、リアルなCGを見慣れた現代の観客には正直、微笑ましいように映ってしまう感はあると思う。だから、それだけでは勝負できない、というのは前提にある。
それこそしつこいけどあの「鉄男」だって、作り物であることがアリアリだからこそ、変化していく圧倒的なスピードと硬質なモノクロ映像で唯一無二の作品になっていたんだものなあ。

でも、そう。最終的には、大気圏をも突き抜けんばかりの、全ての生物の、いや生物どころか、全ての存在の総意として摩天楼より高く高く、巨大に膨れ上がるのだから、ゴテゴテ系としたって実に徹底しているんだけれどさ!
そう、これだけ、徹底しているからなんだよね、手作り感があっても圧倒されるのは……。お決まりな、窓の外に膨れ上がる巨大怪物に、ビルの中のサラリーマンやOLが恐怖におののく描写、振り下ろされる足に逃げ惑う街の人々、運悪く踏み潰される人々、ビルを引っこ抜き、走っている電車をつかみ上げ、もうそれは、誰もが思うであろう、ゴジラだよ。
最初のゴジラが人々に与えたであろう衝撃を、その基本形な描写をまっすぐに、てらいなくぶつけている本作に、ふと思いが行った。

でもね、ゴジラももちろんすぐに頭にのぼったけど、なんかすんごい思ったのは、キングコングだった、んだよね。愛する相手がいる怪物。それは、たった一人(一人?)で孤独に恐れられるゴジラと、どっちが辛いかなあ、なんて思ったりした。
街の中でどんどん巨大化して暴れまわる彼が、悲痛な叫びを上げる奥さんをいつ抱き上げるのかと期待して見ていたけど、最後までそれはなかった、のが凄く哀しい気がした……。
行け、ヨシアキ!の叫びは、彼に届いていたのだろうか。それさえも……。

なんか、最初から追っていくつもりだったのに、思いっきり最後まで行っちゃってるし(爆)。えーとね、まあ中篇だし、そんなに筋がある訳じゃないんだけど。
でもともかく冒頭では、催眠療法なんぞも試したことがあるらしい映像を、彼がじっと見詰めている。奥さんが、もうこんなの見ないでよと怒り、判ったよ、と彼はそのDVDを真っ二つに割る。
しょっちゅう起こる発作のせいで、彼は(元は有名医大の出身だったらしいが)まともな生活も出来ずに、後輩から回してもらう翻訳の仕事で夫婦の生活をなんとか続けている。

彼は、虫に支配される、という表現をする程度で、奥さんにはあまり話をしていないのね。虫、ってあたりはやはりカフカ的、なのかなあ。
医大時代の後輩は心配して何度となく訪ねてきて、入院して詳しく調べるべきだと言うんだけど、なあんとなくこの後輩の奥さんに対するなれなれしい態度がさ……。
いや、結局は最後までそんな事態にはならずに、彼によってこの後輩は食われてしまうんだけど、でも絶対、この奥さんにヨコシマな気持ちを抱いていた、よなあ。
元気付ける言葉を言いつつ、さりげなーく腕に触ったりするし、名前にさん付けはいいんだけど、必要以上に呼びかけるしさ。

あ、そうか!考えてみれば、変身して、生身の人間を食らわずにはいられなくなる彼の描写って、基本吸血鬼、そこから連なるゾンビ映画の系譜、よね!感染るのよ、感染るの!
年齢的にもそれなりに夫婦生活を続けていると思しき彼らの間に子供がいないことは確かに気になってて、この後輩によって、奥さんが二回流産していること、その時「先輩は、ホッとしたんじゃないですか」とこれまたまあ、横恋慕しているコイツらしい言い方をするのだが、つまりそれは、異形の血を受け継いだモノが産まれるんじゃないか、ってことでさ……。

これが中篇という尺じゃなければ、そんな展開もひょっとしたら期待出来たかもしれない。だってね、この奥さんは夫がどんなに恐ろしい怪物になろうと、まあちょっとはね、自分ではどうしようもないと思って、病院に預けもするけれど、彼がほうほうのていで彼女の元に帰ってきてからは、彼女自身もある意味怪物になり、彼と共に行くとこまで行く決心を固めるんだもん。

もう生き血ならぬ生き肉を喰らいまくり、ボコボコな怪物に成り果てた夫に身を預ける彼女は、彼に生き肉を提供するために、セクシーなカッコで男を引っ掛けては家に連れ込むことまでし、このあたりもなんとなくありそうな展開ではあるけど(爆)。
でもそのセクシーなカッコで、ボコボコ怪物の夫に身を沈め、バラバラ死体の画の外であられない声が聞こえてくるっつーのは、おおう、なかなかやりおるな、と(爆)。
究極の美女と野獣、異形の恋、結構女はこういう場面、リアルに想像して萌えるのよ、基本、女はヘンタイだからさ(爆)。

だから、ね。自分の中に異形のタネを宿すとかいう展開も、期待したかったなあ。いや実際、あの流産のエピソードがあるってことは、そういうアイディアもあったんじゃないか、って気がする。
彼が、自分の中に侵食してくる異形のものに怯えるっていうのは、男性が経験し得ない妊娠を想像した時に出てくるアイディアのようにも思えるもん。まあ女の私も経験ないからそう思うのかもしれないけど(爆)。
それでも妊娠は愛の先の形。ならば内から侵食されて変貌する男も愛の形、ってことかも。

全ての生き物の総意をあらわす、古代から伝えられる謎の言葉を、夢遊状態の彼が口走り、最後には奥さんも口走る。摩天楼を突き抜け、大気圏突入とばかりに巨大化した彼に、行けー!と叫ぶ言葉がそれである。
この展開は特撮もホラーもミステリもサイコも突き抜けて、何か懐かしいオカルト風味であり、古代より伝えられる謎の言葉なんてあたりは「マニトゥ」あたりを思い出したりする。
まあ「マニトゥ」は観る前までは怖かったけど……いや、かなりいわくつきだったんで……実際観てみたらかなりC級だったんだけどさ(爆)。
でも当時は、そういう“いわくつき”オカルト映画ってあったよね、結構。いや本作には関係ないんだけど、ふと青春の記憶を思い出しただけさっ。

とにかく、やりきった感と、てらいないシリアスな愛の物語が素敵。ラブは障害があればあるほど燃える、その最大最上級だもの!
特撮映画は、そもそもの、本当の始まりの時は、これぐらい大マジだったよね。だんだん娯楽やコミカルに侵されていっちゃったけど……。
この新しい才能が、この道を突き進んでくれることを切に望む!意外にない、本格的なエンタテインメントホラーな新作映画が観たいっすよ!★★★☆☆


変態家族 兄貴の嫁さん
1984年 62分 日本 カラー
監督:周防正行 脚本:周防正行
撮影:長田勇市 滝影志 音楽:周防義和
出演:風かおる 山地美貴 麻生うさぎ 大杉漣 下元史朗 首藤啓 深野晴彦 原懶舞 花山くらら

2012/6/1/金 劇場(銀座シネパトス/PINK FILM CHRONICLE 1962-2012/レイト)
周防監督のデビュー作、彼の唯一のピンク映画、小津安二郎監督へのオマージュ……等々、見逃せない作品のひとつとして伝えられる本作をようやく観る機会を捕まえることが出来た。
しかし私は小津作品をあんまり観てない。本作は「晩春」の続編として考えられた作品だという。「晩春」私、観て……ないかもしれない。ヤバい(汗)。それを観てない方が、相当ヤバい気がする(汗汗)。
いやさ、小津監督といえばまず「東京物語」で、映画ファンなりたてのまだ幼かった私、メンエキもないままそれを見ちゃって、なんか苦手で、判らなくって、そのトラウマ(大げさだけど)的イメージがあったもんだから、なかなか小津作品に触れる機会がないまま来てしまったところがあって。

まあ、それは単なる私のグチだ(爆)。でも、数少ない小津経験者にとっても、その仰ぎ見るカメラアングル、人物が画面の中にきっちりと計算されて置かれる構図、その棒読みのような独特の台詞の言い回しで、うっわ、確かに小津だー、と判るんである。
真似?パロディ??なんといったらいいのか。一番可笑しかったのは、隣人?の夫婦が通りがかりに、大杉漣扮する周吉(はー、確かに「晩春」の笠智衆と同じ役名なんだ……)に目顔で挨拶するシーン。
同じナナメ角度で会釈するストップモーション、奥さんのお腹が大きくなり、次には産まれた子供を抱いて、同じようにナナメ角度に会釈する。それに対して大杉漣は挨拶にしては丁寧すぎるほどに深々と頭を下げる。あの感じ、ほんっと、小津っぽいもの!

その台詞の独特の言い回しってのは、本作に関しては最もキツかった部分なんだけど(爆)。実は私が小津作品から遠ざかってしまったのは、この部分が最も大きかった、かも(爆爆)。
年をとった今の自分なら(笑)、その良さも判るんだけど、当時の幼い私は、スゲーヘタクソ、とか思ってさあ。うわー!昔のこととはいえ、ハズかしい!!

でもね、本作で、またその思いがよみがえっちゃったの(爆)。特に、ソープ嬢となる長女の、客にサービスしながらひたすら独白する場面、OLのむなしさ、女のむなしさ……彼女の言いたいことは判るけど、カットをドライに切ってつなぐ面白さもあるんだけど、ツラかったなあ。
弟の前でいきなり泣き出して、OLである自分、女である自分がなんだか哀しくなった、という唐突さの方がまだ、ああ、と判る気がした。この台詞回しで観客に納得させるのには、やはり役者の力量が相当必要、かも(爆)。

なんかまたしても見切り発車で書いてるけど。最初から行こう。最初、どこだろう……(爆)。
あ、そうそう、冒頭のスタッフクレジット、美術、種田陽平、音楽、周防義和にドびっくり。今や日本映画界を担う気鋭のクリエイターたちが集結している!
この後、周防監督はすぐに一般映画に行ってしまって、ピンクはこの一本だけ、だよね?彼がここでやったことは、一度だけやりたかったという、小津監督のいわば模倣であって、彼がこの一本きりでピンク映画界を離れたことを思うと、何となくうーん……と思うところがある。

本作は、ピンク映画が“エロ描写があれば何をやってもOK”という認識を一般的に広めたという功績はあるけれど、それが生み出すピンク映画の魅力、作家性の魅力という点に至ってはどうだろう……。
その後、これで満足したから、とでもいうように(まあ、そうなんだろうと思うけど)、彼自身の個性で一般映画に進出していったことを思うと、試金石、踏み台、かませ犬??ちょっと、フクザツな立ち位置だよね、この作品……。
それは、それこそスタッフクレジットでギョッとした、種田氏や義和氏にしてもそうだし、大杉漣にしたって、そうだよなあ。まあ彼はピンクには随分貢献しているみたいだけど……。

難しいところなんだよね。今はピンクと一般を行き来することも出来る(というか、そうせざるを得ないというか……)環境も整ったけれど、当時はヤハリ、ハッキリと分けられてしまう場所だったかもしれない。どこで見切りをつけてメジャーに進出するか、みたいなさ。
でも周防監督が彼自身の個性でピンク映画を撮っていたらどうなっていたのか、その後の展開も興味があったから……。
だって本作では、カラミはあまりにも淡々と撮っていたでしょ。まあそれは、タイトルである兄貴の嫁さん、長男夫婦の淡々としたセックスと、そこから解放された長男とバーのママのSMセックスとの対照もあったと思うけど、そのSMセックスも、妙に冷静な撮り方してた気がするなあ。それこそ小津的にね(いや、小津作品にSMがある訳ないけど(爆))。

うーむ、脱線しまくり。どこから行こう(爆)。えーとえーと、とりあえず、アウトラインから行こうか。
家族構成、父親、長男、長男の嫁、長女、次男。二階でセックスしている長男夫婦、残り三人の家族が茶の間で黙って座っている。声が聞こえているのか、その辺は微妙。
長女はOL、次男は学生……高校生?浪人生?この座ったきり、じっと前を見つめている登場人物のアングルは後に多用される。
特に、父親の画。彼が見ているのは何なのか。構成的には長男夫婦のセックスやら、長男とバーのママのSMプレイやら、次男と長男の嫁とのセックスやら、にも見えるんだけど、あくまで構成的にであって、時空的には彼はそれを見ている訳もない、んだよね。
ただ、淡々と、座って、前を見据えているだけ。その大杉漣は、静かで、優しげなのに、ちょっと怖い。いや、大分怖い。

ただ、ラストシーン、浮気をして外に出たっきりの長男を待ち続ける嫁が、二階でオナニーをしている場面にもそれが適用されるかと思ったら、それは、見ていない。
嫁さんが、見ていることを期待するようにカメラの方に首を傾けるのに。そんな思わせぶりがあるのに。見てなくて、でもそれを見ているかのように、「母さん、いい嫁じゃないか」とつぶやく大杉漣は、見た目には小津映画の静謐さをたたえているけれど、なんかコワい!

……また脱線しちゃった。えーとね、大杉漣はね、そう、周吉はね、妻に先立たれている訳。で、嫁さんのことも、行きつけのバーのママのことも「母さんに似ている」と言う。ママも嫁もその台詞に喜ぶんだけど、周囲は「あれは父さんの口癖だから」と。
後にね、長女がバーに行ってママに、兄さんの嫁にもそう言っていることを聞いて、ママが顔を曇らせるシーン、あるいは、ダンナから誰にでも言うんだと言われて嫁が顔を曇らせるシーン、二人の女ともども、この立ち枯れた初老の男に想いを寄せていたんではないかと思われる訳。
でも、二人ともども彼とのカラミのシーンはない。そう、大杉漣は主人公なのに、ピンク映画の主人公なのに、まさに笠智衆に徹してて、一度のカラミもない訳!!

嫁さんはダンナを思って待ち続けるけど、ママの方は、そのダンナといい仲になってしまう。いい仲……なんだろうか??ダンナ、つまり兄貴の嫁さん、の、兄貴、である。ソープ嬢になった妹の客になってしまいそうになる場面からして、彼が嫁との性生活に満足していないことが判る。
性生活どころか、それ以外は全然ないって感じ。つーか、フリフリのエプロンして、「お腹がすいたんですか?お茶漬けぐらいしか出来ませんけど」という嫁とのやりとりは、生活のリアリティーはなさすぎる。いや勿論、それはネライなんだけど、でもそれがピンク映画としてのネライかどうかは……。

なんたって種田陽平の美術だもの。縁側、そこから見通せる和室、くつろぐ大杉漣、ダンナのワイシャツにアイロンをかけるべくいそいそと運んでくる嫁の様子が見通しよく示され、エロが入り込むのはナカナカ難しい……っていうか、恐らくそれに対してはほぼやる気ゼロだよな(爆)。
長男がママと念願のSMプレイに耽溺する描写も、他のカラミシーンの淡白さに対する埋め合わせのような気がしちゃう(爆)。いや、嫁さんを安っぽい荷造り用ビニールロープで縛り上げようとしたり、彼のSM願望が満たされないままここまで来たという伏線は一応、あるけれど、なんか、ね。

ま、私としては、タイトルロールの一翼、長男が大好きな下元史郎であることでテンションあがりまくりだけど!
あー、ヤバイヤバイ、やっぱ素敵。素敵素敵!その七三分けがたまらないわー!!(なんじゃそりゃー)小津的カメラに彼が黙って真正面から視線を送る幹感じ、ゾクゾクする、もう!

……落ち着こう。で、なんだっけ(爆)。そう、ダンナはママのところから帰ってこなくなっちゃったの。嫁を不憫に思って周吉が訪ねると、しれっと支配人みたいなカッコしてママの隣に鎮座ましましているのが思わず笑っちゃう。
でもさ、ここって単なるバーのように描かれていたけれど、実際周吉も酒を飲みに来るだけだったし、長女がいとこと奇妙な仲間たちを引き連れて飲みに来た時もただ飲んでいるだけだったけど、ママがSM女王になって、長男をいたぶって楽しむ場面を見るにつけ、え?ひょっとして何か、ここは実は、秘密のSMクラブだった、とか……そりゃいくらなんでも考えすぎかなあ。

次男が、それこそ“兄貴の嫁さん”をどっかに連れ込んでヤッチャう場面はかなり唐突。そこまでの経過がイマイチよく判らない、のは、この日の私がちょっとお疲れ気味だったせいかしらん(爆)。
そんな秘密を抱えつつ、長女の嫁入りが決まる。彼女がOLをやめてソープ嬢(今の言い方ではね。当時はトルコ嬢)なっていたことなど知る由もなかった周吉が「(相手が)トルコの支配人とは驚いたな。私より老けてた。ハゲてた」とつぶやくのには爆笑!

その前にね、周吉が次男と釣りをしている場面はかなり味わい深い。それこそ小津的に、釣竿を垂れる二人が、見事に画面の中に等分に配置され、カットが替わると、彼らの釣竿がまたしても美しく等分に配置されてたてかけられている。
嫁さんがおにぎりを作って持ってきてくれている。土手に座って食べている場面も、三人きっちりと等分である。そしてあの、仰ぎ見るカメラワーク。

恐らく何より、小津的だったのは、帰ってこない長男を待ち続ける嫁を不憫に思って、実家に戻ってもいいんだよと声をかけた舅に嫁が、モノローグよろしく独白をするシーンであろうと思われる。これが恐らく、「晩春」的なのだろうな、判んないけど(爆)。
「幸せは待っていてもやってこない。幸せは作るものだ。夫婦で作るものだ。父親に私はそう言われた。お父さんに向けたような暖かい心を幸一君(ダンナね)にも向けてくれと……」淡々と、まさに小津的に、ズラズラズラズラーッと、言うのさ。まさにまさに、原節子的にね。

嫁のその、用意されたような独白に、まるでそれを先から知っていたかのように、唇を動かして合わせる大杉漣。これって、どういうことなのかなあ。この台詞ソックリのこと、小津作品のどこかであったということだろうか。あれれ、私、メッチャ無知露呈してる、追及しないで(爆)。

階上でダンナに縛られたビニール紐の切れ端をネタにオナニーしている嫁さんを、そう、先述したようにじっと見るシーンは用意されないまま、宙を仰ぎ見て、「母さん、いい嫁じゃないか」と周吉がつぶやき、まるで穏やかな幸せがもたらされたようにラストを迎える。
うーむ、大杉漣、だね。今回、「ぼくらの季節」共々ピンク時代の大杉漣初めて見たけど、双方共に、なぜか老け役。一体この時、彼はいくつだったの?て感じ。

とりあえず義務的作品を観ることが出来てホッとはしたけど……。★★★☆☆


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