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「そ」


2014年鑑賞作品

そこのみにて光輝く
2013年 120分 日本 カラー
監督:呉美保 脚本:高田亮
撮影:近藤龍人 音楽:田中拓人
出演:綾野剛 池脇千鶴 菅田将暉 高橋和也 火野正平 伊佐山ひろ子 田村泰二郎


2014/4/28/月 劇場(ヒューマントラストシネマ有楽町)
この日の隣の席の人が挙動不審で気持ち悪くて、かなり落ち着かなかったもんだから、映画そのものを自分の中で何とか抽出しようと二日ぐらいモンモンとしていた。
これはあまり見直したいと思う作品ではなかったし(いや、いい意味?でね)、ある意味この隣席の人のおかげで必死にスクリーンに集中していたことは事実だから。
映画との出会いというもんは、それが運命みたいなもんで、そういう状況で観ることも、まあそういう出会いの運命だったんだと思うことにしている。そういう状況で観て感じることも含めての、その映画との出会い。

本作はやはり、「海炭市叙景」の佐藤氏原作が、再び映画作品として取り上げられたということが最も大きかった。
とはいえ、いまだに未読のまま、未知の作家さんではあるのだが、なんといっても私の生まれ故郷の函館であること、そしてその映画化作品がとてもとても素晴らしかったことで、心を大きく動かされたんであった。

なので正直なところをいうと、その時の熊切監督がまた手がけてくれたらなぁなどと勝手なことを思ったりもしたのだが……。でもまあ、かの作品が短編を並べたものだったのに対し、本作は長編、趣は当然変わってくる。
女性監督がそれを手掛けたら……などと区別して考えるのはフェミニズム女の自分としてはあまり好きじゃないところだが、でもやっぱり、興味はあった。

彼女の作品を観るのはこれで3度目かな、4度目かな?ところでなんだったっけと思って(爆)、過去作品を探ってみると、過去作品からの印象では、現代家族を社会派叙情派 の両方の感覚で描く感じ。
そういう意味でいえば、ここにも家族は色濃く存在しているけれども、これまでの、現代的で危うい形ではあるものの、あたたかな手触りのあった家族の形とは違って、家族という血に縛られ、でも確かに家族という血にただ一つのつながりを感じて、ここにいるしか出来ないどうしようも仕方のない、やるせなさを抱え持つものであった。
そういえば、そんな彼女に“腐れ縁”の男が言う。「血だもんな」と。それは、男に身売りするような女だという意味で、見下しまくって言った台詞だけれど、彼女がその後起こした行動は、それ以上の重さを感じたのだった。

と、相変わらず訳も判らずクライマックスにいってしまいそうなので、修正修正。
本作の主人公は仕事もせず、物憂げにパチンコばかりしている達夫(綾野剛)。そんな達夫と知り合うのが、歯を煙草のヤニで真っ黄色にして、ジャージをハサミで切った“ハーパン”にビーサンを引っ掛けた、半分色の褪せた黄色い髪の青年、拓児(菅田将暉)。

その拓児に強引に誘われる形で、海辺のバラックに連れていかれる達夫が出会ったのが、拓児の姉の千夏(池脇千鶴)。
半身不随となって寝たきりの父親は性欲をもてあまして、始終妻に手コキを催促する。
函館は北海道と言っても一番南でそれなりに暑い。扇風機に顔をさらし、姉の作ったチャーハンをフライパンごとかっ込む拓児は、自分のスプーンで達夫に食え食えとよそってやる。そんな家族。

最初ね、この達夫は原作の佐藤氏自身の分身なのかと思って見ていた。何の仕事にもつかずに人生をもてあましている感じが、作家としては不遇のまま、自ら命を絶つに至った彼の感じなのかなと勝手に思ってしまったから。
考えてみれば何度も芥川賞の候補に挙げられたほどの人なのだし、挙げられたのに受賞できなかったから不遇だったと考えるのは、ちょっとアカデミックすぎる思想なのかなあ。
でも、きっと、いつでも小説の主人公は、特に男性作家の場合は(と、またまたフェミニズム的に言ってみたりする(爆))分身であるような気がする。

綾野剛は今最も売れている、つまり彼が出ればそれなりの興行成績が見込めるという点での売れている役者さんであり、そうしたキャスティングな感じがそれなりに匂いもする。
でもこの達夫は、彼のイメージというか、彼に求められる最も凝縮された役柄であり、むしろ彼がその求められるイメージに120パーセント没頭する形で演じているのが、ある意味エライな、と思わなくもなかったりする。

このバラックのみならず、彼の暮らす中級アパートも冷房設備なんかなくて、いつもTシャツの胸元を汗染みで濃くしているような、そんな湿気た、曇天の函館の夏にゆらめいている達夫。
彼のバックグラウンドは後に明かされる。当時の職場であった石切り出し現場で、可愛がっていた職場の後輩を事故で死なせてしまった。そのトラウマと自らを責める気持ちで、すっかり生きる道を捨ててしまったんである。

そんな達夫と出会う、明らかに大分年下なのにナマイキな態度で最初からぶち当たってくる拓児を演じるのが、これまた“今期待される若手”と検索したら一番上にヒットしそうな菅田君である。
彼は確かに有望な若手と思うし、この役も見事に演じてはいるんだけれど、綾野君同様、彼を出しておけばそれなりの……的な感を感じなくもない。
だってこの役ってもうけ役だもの。確かに彼はそれまで実績を残してきたけれど、この役はいかにも、こんな役も見事に演じられますよ、というタイプの役柄なんだもの。

……うーん、いくらなんでも意地悪すぎる見方だろーか。別に彼に不満がある訳でもなく、見事に演じていると思っているのに(爆)。
ただ、綾野剛、菅田将暉というカップリングがあまりにも、今売れてる役者、って感じだったからさあ。どっちか一方にしておけよと思わなくもなかった、商業的な匂いがちょっと強すぎた(爆爆)。
でもしょうがないよね、映画は商品なんだもん、モトをとらなきゃいけないんだもん。それこそこんな、地味系の映画では……。

まあそんな風に意地悪な見方ばかり書きたがるのは、つまりはちーちゃん、池脇千鶴嬢を持ち上げるためだけの理由なんである。
いーのにいーのに。そんなことしなくてもちーちゃんは素晴らしいに決まってるのにっ。でも何か、久しぶりにね、彼女の本気を見た気がしたなあ。

いやいつだってちーちゃんは本気に決まっているのだが、本気を発揮できる役柄っていうの?本作のオフィシャルサイトでさ、“実力派女優”と書かれてて、そりゃまあ当然!と胸を張ったが(なぜ私が胸を張る……)、実力派だから、何を任せても安心だから、最近はワキを堅実に固める感じが多かったように思う。
年齢的に母親役も増えてきて、時にはシリアスに、時にはハートフルにキーパーソンとして締めてはきたけれど、彼女自身が物語を動かすメインの役柄として出ているのを観たのは、何気に久しぶりのような気がする。いや単に、私がチェック不足だということもあろうが……。

やあっぱり、この役を任せるなら、ちーちゃんみたいにきちんと脱げる女優じゃないとね!とまたしても下世話なポイントで話を進めてしまう自分がちょこっとイヤだが、でもでもこれはやはり言っておきたい。
ぜえったい、これはおっぱい出さなきゃ意味ないでしょ!という作品で、乳首だけはと死守する女優が多すぎるっ。
脱がなきゃ意味のない作品、っていうのはあるんだよ。それに抜擢されているのに、ギリギリまでやっているのに、なぜ死守する、ふくらみは見せてもなぜ乳首だけを死守するのだっ、とゆー、書けば書くほど下世話オンリーなポイントではあるのだが、でもやっぱり重要だよ。女優なんだもん。

女優は、女の持ち物を持っている、その時点でそれが仕事だと思う。ちーちゃんに関しては勿論、そんな心配などない。
しかし先述したとおり、メイン級は久しぶりで、久しぶりに見る彼女のおっぱいは、ああ、なんかおっきくなってる、“女”の形になってる……とうっかり涙目になりそうなんであった。
それでなくてもうっかり10数年経ったちーちゃんは、確かに女になって、彼女の演技力以上の“女”になってて、この可愛らしさ、童顔だけならとても演じ切れるものではない千夏の暗いバックグラウンド、諦念を、ひしひしと、切々と感じさせるのであった。

なんといってもなんといっても、彼女はさ、背も低いし、いわゆる“女優さん”といった、すらりと背が高いとか、すらりとした足とか、そういうタイプじゃないじゃない。
小柄で、普通に肉もついていて、太ももを丸出しにしたキャミ姿も、ロリータなムチさ加減で、だけど無造作にウェーブのかかった長い髪をかき上げる仕草、そしてオーラは不幸に疲れ切った女そのもので、そのミクスチャーがたまらん、たまらんのよ!

でまあ、ちーちゃん賞賛ですっかり脱線したけれども(爆)、つまりね、ヘタすればこの男子二人のキャスティングで売れ線ネラいの商売っ気がニオいそうなところを、ちーちゃんが見事に抑え込んだと言いたい訳。
本当に彼女は素晴らしかった。それこそさあ、メイン級がなかなかなかったからさあ、いわゆる賞レースとかで彼女が絡んでくることがなかなかなかった。本作で久しぶりに、彼女をそういう場所に引っ張り出してほしい!と嬉しくなってしまった。

大阪女の彼女が、この曇天の、暗い藍色の北の海、ざっぷんと打ち寄せる荒涼たる函館の海で、これまた生きることを投げ出した男とずぶぬれになって、絶望的な愛を確かめあうエロティックに胸を高鳴らせずにはいられなかった。
そりゃね、そりゃ判ってるよ、最初から判ってる。もう最初から、ハッピーエンドになんかなる筈ない空気がぷんぷんしているんだもの。
絶望の結末を予感しながらも、でもこのタイトルと、そして二人の愛に、やっぱり希望を感じた、感じたくなったんだもの。

彼等の愛を邪魔するのは、千夏のパトロンであり、前科持ちで仮釈放中の拓児の雇主、後に「俺が保護司に報告する立場だっていうのを忘れたか」と千夏を脅迫めいた言葉でかき口説き、レイプめいた、いやあれはレイプだな、で乗っかってくるようなサイテーの男、中島である。
演じる高橋和也がまたまあ、ベテランさんだから、ホント憎々しいんだよね!ノラないセックスから逃れようとする千夏を、中年男のちょっとだらしないバックヌード丸出しで止めようとするあたりとか(爆)。

でも表面上はいっぱしの経営者だし、家族も大事にしている、仕事を与えてくれた彼を拓児はアッサリ慕っているし、姉のパトロンだっていうのも、そのために彼女がどんな仕打ちを受けてどんな気持ちでいるかなんて、考えてない。ただ、姉ちゃんの男、というだけ。だからこそむしろ、慕っている気持ちに疑念を挟まないってぐらいの単純さ。
拓児が前科持ちになった過去を、自分も理由を覚えていないような喧嘩で人を刺した、と千夏は言う。そんな単純さは確かに見え隠れしているけれど、彼自身はきっと、忘れてなどいないに違いない。

きっとまた繰り返してしまった今回のように、本当に信頼していた相手に裏切られたからなのだ、きっと。
単純に信頼して単純に好きになる、でもその単純が深くて、だから傷つく。まるで子供のようで……と思いかけてハッとする。子供のように疑いもせず信頼し、好きになり、愛する気持ちを、いつから大人たちは捨ててしまったのだろう。

前科持ちで稼ぎの薄い弟、寝たきりの父親、そんな状況で千夏が働くのは塩辛工場と、そして何よりの食い扶持は、表向きはスナック、実は客と寝て金を稼ぐ稼業。
偶然か運命か、場末のこのスナックにふらりと立ち寄った達夫は、一回八千円だと聞いてはじかれたように笑い出し、千夏に二度、三度とぶん殴られ、追い出される。
ちゃんと事務員として働いたこともあったのだと、千夏は後に言う。でももたなかった。一日働いて、その後みんなで飲みに行って、そんなことが出来なかった。そんなのって、判んないでしょ、そう、彼女は言った。

彼女が言う意味を、私自身がきちんと汲み取れているとは思えない。そんなこと、そんな“世間一般の普通のこと”が出来ない、そんな彼女の状況、環境を理解できると言えるほど、知ったかぶることは難しい。
そういう意味では限られた尺と、行間というものがない映画というメディアは難しいのかもしれないと思う。
もちろん、この家族、住居環境、抜け出せないパトロンとの関係等々はその想像を助けるものではあるけれど、それを理由にするような構成にしちゃったら、それこそベタな昼メロになりかねない。

ただ、彼女はそう達夫に言ったし、達夫もまた、そう軽々と人に言えない過去があった。
時折父親が訪ねてくる。片目が白濁して、どこか浮世離れした、堅気ではないと言うのは大げさにしても、フツーの勤め人という感覚ではなさそうな父親。
こういう人物は確かに火野正平だよなと思う。直感で彼を信頼した(この感覚だけは正しかった)拓児も連れて、安っぽそうなジンギスカン屋で達夫と対峙するシーンは、若い役者同士では得られない、綾野君のナマな青さであった。
そう、人生に悩むだけの余裕があるうちは、まだ青いのだと、そんなことをあぶりだせるのは火野正平だけなのであった。でもまだ悩む、まだまだ達夫は悩むんである。

悩んでいるうちに、拓児が姉を侮辱した中島にブチ切れて、夏祭りの中、タコ焼きの返し串で刃傷沙汰を起こす。
せっかく達夫の元の職場、石切現場に拓児も連れて、再出発しようと話が固まっていた矢先だった。
達夫は千夏を救い出すために とサシで中島とやり合い、これで安泰、家族の盃、と思ったところだったんである。

そりゃあ、そんな簡単に行くはずは、ないんである。中島を刺した拓児を探しまわった達夫、彼のアパートのドアの前でうずくまっている拓児を見つけて殴りつけるも、それ以上、出来る訳ないじゃないの。もう山にはいけないよな、と泣きじゃくる拓児を、かき抱くしか出来る訳ないじゃないの。
ああ、やっぱりやっぱり、ハッピーエンドが待っている訳なかったとこの時点で思い、でも拓児を交番に送り届けた達夫、ここから少し長くかかっても、拓児を待って幸せになれるかなとまたまた単純極まりなく思っていたら、戻ったバラックで、千夏が思い余って父親を絞め殺しかけていた。

ここで本当に絞め殺していたら、冒頭からずっと感じ続けていたイヤな予感が的中するところだったし、正直、ああやっぱり、そういうお話なんだ、それが避けられないんだ、とも思った。
だって綾野君もちーちゃんも幸せになる予感なんてちっとも感じられない負のオーラ100パーセントだったし……でもだからこそ、どうしようなく刹那の色気があるんだけれどさ、二人ともに。でも心のどこかで、このタイトルに希望をつないでいた。

本当は、観終ってからも、このタイトルが示す本当の意味を図りかねてはいる。でも朝陽の照らした二人、絶望から泣き笑いを達夫に見せた千夏に、すっかり目の下にクマが出来てしまったけれど、間違いなく朝陽の、新しい一日の始まりに笑顔を見せた千夏なのだ。
絶対に絶望が待っている物語だと、それはある意味当たっていたけれども、でも朝の光という、誰しもに降り注ぐ24時間後には必ずめぐってくるチャンスに、希望を願わずにはいられなかったんだもの。

なんかサワりながらもうっかり言い忘れたが、綾野君とちーちゃんのラブシーンはとても良かった。やっぱりこのぐらい見せてくれなきゃねと思う。
大人になると全き純愛というものがなかなか難しくなるけれど、性愛という、大人の愛の言い訳のようなモノが、それ自体純愛と感じられるものに昇華するのには、真摯なる物語と、真摯なる役者が揃えばこそだと思う。
人間も動物だから、じゃあだから、動物が純粋じゃない訳もない。性愛を純愛ではないと斬って捨てられるのは、人間は別だというオゴリがあるからなのかもしれない。この愛を演じた二人に、そんなことを思った。★★★☆☆


そして泥船はゆく
2013年 88分 日本 カラー
監督:渡辺紘文 脚本:渡辺紘文
撮影:バン・ウヒョン 音楽:渡辺雄司
出演:渋川清彦 高橋綾沙 飯田芳 武田美奈 鈴木仁 羽石諭 戸田古道 平山ミサオ

2014/12/18/木 劇場(新宿武蔵野館/レイト)
経過を後から追えば実に興味深い作品で、ホント、この公開に至るまでの経過を思えば、この満席も納得できる……と思うのだが、なーんも知らんと、渋川清彦主演イッパツで足を運んだ私は、映画サービスデーでもない木曜日、一時間前に既にチケット完売、立ち見の状況になっていたことにひっくり返ってしまった。
いや、その日のゲストの一人がリリー・フランキー氏だったからなのかもしれない。いやそれにしても、一週間だけのしかもレイトショーに、監督さんはともかくとして主演の渋川氏が毎日登壇するというのは、オドロキの気合の入れよう。

え?ひょっとしたら渋川氏は初主演で(いや、知らんけど)気合入れてるとか?とかトンチンカンなことを思っていたのだが、きっと彼もまた、私が全然知らなかったその経過に深い愛情を注いでこの作品に参加したんだろうと思うのである。
オフィシャルサイトの立ち上げの頃の写真なんて涙出る。小さな新聞記事をベタ撮りして載せてたりさ、そりゃあこんな期間限定レイト公開とはいえ、関わったみんなが盛り上がりたくなるのだろう……。

しかしどうやら、ここに至るまでにやたらと玄人筋に絶賛されているのを目にすると、渋川氏イッパツで足を運んだミーハーなイチ映画ファンに過ぎない自分としては、なかなか言葉を発しづらいものを感じてくるんである。
……小津とかジャームッシュとか言い出されると、ホント、苦手なんだよな。そういう評価の仕方は、私が最も苦手とするもので、それはもちろん無知から来るものなんだけれど。
いや、そういう評価の仕方って、好きじゃない。いや、評価なんつー大したもんが出来る訳がない、ただの感想垂れ流しだから(爆)。

とか言いながら、このオフビートにジャームッシュと言いたくなる気持ちも判るかもとか、知ったかぶり気味に思い(爆)、それはこのモノクロも手伝って、「ストレンジャー・ザン・パラダイス」あたりを指してるのかなあと、これまた知ったかぶりが増長(このあたりでは、まだ外国映画もそれなりに観ていたのだった(爆))。
でも監督自身がそれを望んでる訳でもなかろうと、勝手な妄想をしたりもし……。

私はね、震災バカだから(爆)、やっぱり本作の中に明確に入れ込んでいる、震災、いやハッキリと、原発の影の方がどうしても、どうしようもなく気になったよ。
そりゃ主人公は、何もやる気のない、何もできないから何もしないんだ、という、禅問答のような主張で、いい年こいてプータローしている男だ。ハラ違いの妹から「40前半に見える」と言われて「どこがだよ!36だよ!」と怒りまくり、年下の友人からは、「アラフォーだろ」と言われてやはり同じ台詞を返して憤る。
年下の友人……つーか、彼の目からはパシリぐらいにしか思ってないけれど、友人サイドからは、どうしようもない先輩、と見られている感じ(笑)。

で、ちょっくら話が脱線したけど(いつものことだ)。ここは栃木県大田原市。渋川氏の出身の群馬県と隣接し、海がない内陸県というのも共通している。
恐らく言葉も似通っているだろうから、芸名を出身市からとっている渋川氏の思い入れはなんか、判る気もするんである。

で、そう、劇中にかなりハッキリと出てくる原発の影。原発事故の地点から100キロしか離れてねえんだぞ、とその台詞そのものの印象よりは軽い調子で言う、渋川氏演じるグータラ男、平山隆志である。
その台詞の先は、「震災孤児が一生懸命作ったハンカチ」を一枚800円、5枚で4000円でいいですとか、微妙に交渉してくるというアヤしさで訪ねてくる、アキバのオタクみたいなチェックのシャツにナップサックの青年。

後に地元っ子たちがボウリングしながらワイワイ話す「震災でもうけようとかサイテーだよね」という流れにつながる。
そこから年寄りが詐欺に騙される話になり、平山のばーちゃんは100超えてるという話になり、テレビに出れるよ、と若い女の子がはしゃぎ、でもボケてるからダメだよ、という話になり、平山はぷいと出て行く。

またまた脱線しすぎちゃったかな(爆)。まあ脱線ついでにこのエピソードについては完結しておこう。
パシリ青年(飯田芳。彼が出ていることも足を運ぶ大きな動機のひとつ。間違いなく、今最も飛躍しているニューカマーだ!!)が「どうしたの」と、何で怒っているんだか判らないと困惑していて、この場面だけは、なぜ判らないの!!とビックリしたりするんである。
確かに平山は、この後輩青年が言うように、訳の判らない人、違う星に住んでいるような人、そんな価値観なのかもしれない。でもここだけは、平山が怒った理由ははっきり判ったもの。おばあちゃんを、ぼけてるから、と単純に切って捨てられたことだもの。

彼にとって、いや、観客にとっても、おばあちゃんはぼけてる、なんてことはない。ひとこと柔らかく発するリアクションは、的を射ていて、だからこそチャーミング。
こんな描写だけで社会派、というのもランボーかもしれないけど、100は超えていなくても実際に100近い実際の監督さんのおばあちゃんを出してきたんだから、主張したいことはしっかりと、あったと思う。

いやだから、だからだから、原発の話だってば。脱線するな、どうも(爆)。
本作は全体を通して見れば、このどーしょーもないグータラ男の話だし、一番フューチャリングされる「何もできないから何もしない」ゆえに働かない、家もあるし、ギャンブルもパチンコをそこそこ程度で、動かなければそんなに金もかからない、というスタンス。
それなのに離婚した妻から養育費をぶんどられるし、しょーもねーなー、この男、と失笑したくもなるんだけど、巧妙に入れられてくる原発の描写(などと言いたくなる。実際あまり見たくないから……)が、ただのバカ男に見えそうな男がちゃんと、「100キロしか離れてない」としっかり認識していることで、これは絶対見逃せない要素じゃないのと、震災バカは思っちゃうんである。

原発再稼働反対のシュプレヒコールを上げる、この大田原から遠く離れた……いや離れてないのかもしれない、テレビの中の出来事だから、勝手に離れていると言っちゃったけど、そんな、言ってみれば平和な光景よ。
ここで仕事もなく、というか、する気もなくウダウダしている平山がぼんやり眺める原発反対のシュプレヒコール。でもこのシュプレヒコールの場面だけ、いきなりカラーになるんだよね。それも荒いドキュメントタッチの感じでさ。

だから、これはこれ以降で、震災、原発の社会派メッセージが展開されるのかと身構えたら、全然なの。拍子抜けしたようなホッとしたような、奇妙な感覚。
栃木という位置にいての当然の感覚の、原発への距離感、それは、同じ福島県内でも、ここと同じ、内陸にいる中通りの感覚と通じててよく判るし、だからこそ、このオフビートな作品の中で、いきなり生々しくカラーで、浮いた感じで示されるこの部分が妙に、気になった。

揶揄しているのか、それとも気にしているのか、栃木にとって、大田原にとって、そこに暮らす平山のような一般市民にとってどうなのか。
まるで日常の一コマのようにスルーされて、いやそれは全然いい、それこそがまっとうだと思うのに、わざわざカラー付けされるからさあ……。

ああーあ、やっぱり私は震災バカだ!だってまだメインキャラが登場してないのに(爆)。
祖母と気楽な失業生活を送っていたところに突然訪ねてくる、”父の隠し子”。後から思い返してみれば、彼女が本当にそうであったのか。
平山が「写真とかないのか」と聞いても「あるけど、見せない」それは、平山があまりにもどーしよーもない”お兄ちゃん”だから失望した、というテイを見せてはいるけれど、でも……。

いっこも証拠が、ないんだよね。ただ、彼女が父親の名前を頼りに訪ねてきた、ということだけ。
その頼りの父親は数年前に、自身が酔っぱらって車道に出て轢かれてしまったという事故死、平山にとっては特に感慨はないけれども、この、まだ未成年の”妹”から散々つっつかれて、「哀しかった……かなあ」なんてところまである意味追い詰められる。

平山が言う、どーしよーもない父親、というのは、明確な描写はされないまでも、その設定だけで今の平山そのもの。
でも、平山が定職につかず、つまり家にずっといる、ということが、ふんわりと恍惚の人であるおばあちゃんを見守るためなのかな、と思う部分もあるが……それは女子的ロマンティックな見方かな。
パシリ後輩とカーセックスを見物に行ったり、ボウリングに行ったり、するんだから。でも、ちょっと、やっぱりちょっと、そんな気がしちゃうんだよな……。

それで、そうそうそう、このハラ違いの妹こそがメインキャラなんだから!
とにかく兄を罵倒しまくるこの妹、中盤まではかなり引きのカメラで写すもんだから、この子が若いのかどうかすら、よく見えない(爆)。だってこの日、早々に満員になって、腰痛をこらえながら立ち見だったんだもおん。
……ところで、こういう引きの感じ、こーゆーところが、玄人筋を喜ばせるのかなあ。確かに食事シーンのフィックスとか、小津……そんな下からあおりカットだったかな??

うーむ、うーむ、だから、コンプレックスからは離れなさいって!!
そうそう、この妹が来てこそ、物語は始まるんだよね。勝手に来て、グータラ兄を罵倒し、勝手におばあちゃんを散歩に連れ出したりする、この見知らぬ妹を、平山は困惑……じゃないな、激怒しまくるんだけど、まあ、この子、全然、メゲない。

最初はね、引きめのカメラで、ちょっとだけ小津的フィックス、だったから、キャリーバッグをごろごろ引きずってきたこの子が若いのかそうでないのか、よく判らなかったし、小津的フィックスが使われ出す、彼女が平山家にすっくりと入り込んじゃうと、更にそうよ。
殊更にそれは強調されるんだよね。平山も彼女も、なーんにもやることがない、という更なる強調をなされる形で。
登場シーンこそ、鮮烈。カーセックスのメッカにデブ男の運転する車に乗って現れ、お兄ちゃんが蹴散らして帰らせるが、この妹が3万ももらっていたことが発覚。しかし恐らくフィニッシュはしていないことを鑑みて、嘆息を漏らすんである。
これが男と女の快楽ポイントとシチュエイションの違い。そして年齢格差、いや、年齢差別の、価格帯の現状ですよ、ってね!

妹はさ、つまりなんだったのかなあ。なんだったのかなあ感は、特にラストシークエンスで感ずるところではあるけれど、私の大っ嫌いな女の役割的なことを若干示唆する存在だったのか……。
冷蔵庫の中のものがみんな賞味期限切れで「私、コンビニで食べ物買ってくる!」と言い放って出て行く。お兄ちゃんが正義感ぶった(ぶってる訳じゃ、ないけど)妹の言い様のモノマネをして、お嬢様かよ、と、あーあ、アイツは全然判ってない、と。数少ない、平山に共感出来る場面なんである。
彼女の詳しいスタンスは判らないままだったけど、東京の学校に通う、でもセンシティブでどうやら不登校、というのは判るんだもの。……つまりそれだけ、平山が非・センシティブということなんだけどさ。

正直、というか当然、平山がラストシークエンスでヤクの運び屋になってキケンな国に降り立ち、そこから帰れなくなって何年も逃亡生活、だなんて、ぜんっぜん予期してなかった!!
さびれたパチンコ屋にキケンな運び屋の仕事を持ちかける、怪しさ満点のオッサンはもはや有名人で、断るのがフツーなのに受けちゃった平山は特殊な存在だったんだろう。

ラストシークエンスはね、その前までのチャプターとは打って変わって、いきなりどっか東南アジア??のホテル。腹の中に隠すための大量の薬を飲み込めないのか、のたうつ平山が、そこから逃げ出す。

しかしそう簡単に逃げ出せる訳もない。髪も髭も伸び放題、ドレッド状態になった平山のシークエンスに移る。
正直、この状態だと、それまではそれなりにリアリティも保っていたんだけれど、今まで信じていたリアリティはなんだったの、つまりこれはファンタジーなの??と言いたくなるんである……。

面白いんだけどね、面白いんだけど……監督の掲げる、生きるとは何か、というテーマをどう咀嚼すればいいのかしらん、と考えこんじゃうよ。
だって、運び屋として渡った先から横井庄一さんばりにサバイバルした後、宇宙人に出会って追っかけっこした末、なぜか故郷に帰還。
正直、そんなラストシークエンスは困惑したかなあ。あの詐欺震災ビジネス青年が、神だ神だ!!と崇め奉り出したから余計に、なんか笑えずにどうしよう、どうしよう、と考えてた。そしておごそかにラストクレジットだからさあ……。★★★☆☆


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