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それにしても、本作は歌舞伎という世界においては、相当に衝撃だっただろうことは想像に難くないんである。トーク番組に出ていたクドカンを観る機会があったんだけど、「途中で出ていかれたお客さんもいた」と語っていたようにね。
でも一方で「これぞ歌舞伎だと言ってくださる人もいた」と。それも「意外にお年寄りの方の方が喜んでくれて、若い人の方が出て行ったり」だったんだという。
これぞ、歌舞伎。私は歌舞伎ファンではないし、歌舞伎の伝統の知識もちっともないけれども、でも歌舞伎がかぶき者、傾く者、つまり、人が眉をひそめるような新しいものや珍しいものを積極的に取り入れてきた文化が根っこにあることを考えると、確かにそうかもしれない、と思うんである。
新しもの好きの江戸文化が育てた歌舞伎、と思えば、実はちっとも保守的でもなんでもない、と。
そういえばそれこそシネマ歌舞伎で観た「らくだ」のブラックユーモア溢れる面白さにも興奮したもんなあ。
そういえばあれも、死者を踊らせるカンカンノウの話。本作にも、はけん(ゾンビ)に比してカンカンノウがチラリと出てくる。そんなことも、はけんは出来るよ、というブラックユーモア。クドカンはちゃあんと歌舞伎のツボも押さえているんだよなあ。
さよなら公演の演目で観た時から、りびんぐでっど、とタイトルを持ってくるあたりがなんとも映画心をくすぐるなあ、と思っていた。劇中では通りのいい“ぞんび”という名称がまず当てられる。臭さに鼻の存在が危ぶまれるという意味から、在鼻と当てるというテキトーさがイイ!
しかしそれも、ぞんびを供給源とした派遣業を営むところから、はけん、と呼ばれるようになり、ぞんびという通り名はほんの一瞬である。このあたりに、クドカンのコダワリを感じる。
映画におけるゾンビはあくまで、リビングデッド、なのよ。ジョージ・A・ロメロが生み出した「ナイト・オブ・ザ・リビングデッド」
ていうか、あの当時はね、私は、この原題じゃ長いから、日本でだけゾンビなんて名前をつけて映画を公開したのかと思っていた。リビングデッド、生ける屍。判りやすいとは思うけど。
今更ながらゾンビという言葉の由来を調べて見ると、限られた地域的な古い宗教とか絡んでなかなか難しい問題があるらしい。うーむ、本作とはあまりにもかけ離れているドロドロした問題だからここで持ち込んでもね(汗)。
でもそんなことも、今まで知らなかったなあ。映画におけるゾンビはあくまで、ジョージ・A・ロメロが作り出したリビングデッド、なんだよね。それ以降のゾンビ映画もすべて、その流れを継承しているんだもの。今思うと、ゾンビというより、リビングデッドという方が、なんか典雅な感じがする(!?)
まあ、とにかく。始まっていきなりドギモを抜かれたのは、くさや、なんである。後に、ゾンビたちに食われないワザとして、彼らと同じ匂いを身体につける、つまりくさや汁を塗りたくるという方法自体においおいー、くさや関係者から苦情こないかよ!と心配にもなっちゃうが、徹底したくさやフューチャリングっぷりにはもう降参!って感じなんである。
だって、だってさ。その冒頭。くさやで有名な新島の港で干されているひときわ大きなくさや二人(!?)、「寒いよー」「臭いよー」と腹から開いた状態で文句を言う。
それ自体シュール過ぎるが、その文句に合わせてくさやを干してるお葉さんが「くさや」「くさやっ」「〜くさやぁ」と様々にバリエーションを変えて絶妙な合いの手を入れるのが可笑しすぎる!
そんで「そんな屋号、ねえよ!」あっ、そういう意味か!(歌舞伎を観ないから、そんなことにも気付かない……)
そしてその大きなくさやは、ばちっと閉じると「お前、イルカだったのかい!」おいおいおいおいー!!「確かにそんな大きなくさやはない」そういう問題か!?
そして、生きていく気持ちが芽生えたと、海に帰っていく!!!達者でなー、とばかりにゆるゆると手を振るお葉さん(……)に、波間から小さなイルカが跳ねるささやかな舞台演出に爆笑!
そしてもうひとつのくさやは「俺は、魚ですらねぇ」すちゃっと這ってみせると、何、何、トカゲ!?イグアナ!!??あまりの予想外にどよめきが起こる!だって、開いて腹の方をこちらに見せている時点では、そんなの予測も出来なかったんだもん!
こういうあたりは、もともと舞台人であるクドカンの、しかも大人計画というエンタメ系現代演劇で鍛えられた才だよなあ、と思う。
しかもね、それをトカゲのくさやに扮した半助をはじめとした、演じるすべての歌舞伎役者たちが、メチャメチャ面白がってやってるのが感じられるのが実―に、イイんだよなあ!
実際、様々な演目を演じる歌舞伎役者たちとはいえど、まるでミュージカル映画さながらに、ダンスを踊ることはなかろうと思う。本作での一番の見所は、ゾンビたちが見せる群舞であり、それ以外は意外に歌舞伎の様式に従っているんだけど、ここだけはまさに、ミュージカルさながらなんである。
しかも腸や脳みそが飛び出したり、包帯だらけだったり、つまり基本血だらけのコスチュームの彼らが一糸乱れぬダンスを繰り広げるカッコ良さは、そのコスチュームの基本が江戸の衣装であることも実に新鮮で、なんともワクワクするんだよなあ!
その延長線上で、大工の辰を演じる中村勘太郎が見事なマイケル・ジャクソンダンスを披露し、「ポォー!」とまで雄叫ぶなんていうサービスシーンもある。
改めて、実は歌舞伎の世界というのは、実に柔軟な姿勢を持っているんだと思う。それは、若い人たちがメインを張っているから、というだけじゃなく、実はベテランの人たちもすんごく面白がってやっているのも伝わるしさ。
そもそも歌舞伎自体がそういう要素を持っているのだろうけれど、それってすごく、強いよなあ。
そう、ベテランの人こそが、である。劇中一番笑いを誘ったのは、置き屋の用心棒で、ゾンビたちの退治を依頼される四十郎を演じる坂東三津五郎なんである。
「この角度が一番自信があるんだ」と決して顔の向きを変えないまま、そしてニヒルな笑み(だと本人は思っているんだろう!!)を絶やさないまま、キメキメの立ち回りを演じる可笑しさときたら、ないんである!!!
しかもこれって……歌舞伎だから皆そうなんだけど、彼の白塗りだけがキャラの可笑しさを際立たせていてさ、時代劇スターみたいに後ろで一本に結っている髪型もお約束な可笑しさで、どうにも面白すぎるのだ!!
そんな四十郎は真っ先にゾンビになってしまうのだが……(爆)。
彼が斬っても斬っても甦るゾンビたちが、しかし一時は彼の睨みに倒れたままになったり、それでもしつこいゾンビに「生き返るなら、朝になってからにしてくれ」と四十郎が懇願するに至るのもいかにもクドカンっぽく、しかもそれを三津五郎氏が実に巧みにおかしみをにじませて演じているのがたまらないんだよね!
まあ、そんなことばかり言ってたら……主人公は染五郎さんなんだから。最終的に色々謎や過去が解き明かされると、結構ダークな展開である、その一身を背負っているのが彼演じる半助なんである。
新島のくさや職人だった新吉が何者かに殺されて、その時くさや汁を浴びたことから新吉がゾンビ第一号になった。
その後どんどん増え続けたゾンビたちが江戸に上陸、花街で騒ぎを起こすまでになり、そのゾンビたちの処遇をめぐって名乗りを上げたのがこの半助。
話せば判るヤツらだからと、はけんという名をつけて、安い労働力として使うことをお上に提案し受け入れられ、その元締めとして君臨するんである。
と、いう展開に至るまでに、そうそう、このゾンビが花街に登場するくだりがまた、面白いんだよね!
本作のコメディリリーフと言ってもいい、中村勘太郎演じる大工の辰は、「四年に一度だけ上がるんだから」と、女郎のえり好みが激しい。
しかもその待ち時間の間も、腕立て状態で腰を落とすという奇妙な運動?を繰り広げており、もうこの登場シーンだけで爆笑!
しかも、ヤル気マンマンで手には小ぶりのこけしまで握りしめ(!!)やっかいごとを引き受ける“居残り佐平次”に「好感度が下がりますよ!」と忠告されるありさまなんである。
このあたり!勘太郎さんは時期が時期だけに、確かに好感度下がっちゃマズいよねー!いや、前田愛ちゃんだけに好感度が保たれていればいいのかしらん??
佐平次が語って聞かせる“らくだ”つまりゾンビであり、はけんである“生ける屍”の話が辰を震え上がらせる。
それは佐平次が彼にうるさいことを言わせないための単なる世間話であり、この場は超年増女のお染さんに若いオトコッ!とばかりに襲い掛かられるという見せ場のためとも言えるんだけれど(お染さんに扮する中村扇雀のブリッジとか、もうサイコー!)それでも「誰かにそばにいてほしい」と辰が彼女を受け入れるのがイイんだよねー。
この場面で、実に印象的に、これぞゾンビ!と観客に植え付ける。だって、だってさ、障子の格子の全てから、無数の白い手がバリッ!と現われるんだもん!
そう、これぞ、これぞこれぞこれぞ、ゾンビ、いやさ、リビングデッドよ!この恐ろしさにかつてゾンビ映画を体験した子供だった私は、どれだけ心臓止まる思いがしたか、ってね!
しかし今やジャンルとしてすっかり定着してしまったゾンビ映画は、パロディやコメディまで現われるようになり、実は今は、それほど怖い存在じゃなくなっているんだよね。それってなんか、ゴジラっぽいかも?
そんなアンビバレンツな要素も感じさせながら、実は本作はそれを通した社会に対する皮肉を描いているってあたりがスゴイ!
私ね、本作の中でゾンビを“はけん”として、つまり使い捨て労働者として使って、つまりそれは、自分の意思がない、生ける屍だからであり、自分の意志はないけど、気のいいヤツらだから、という定義が、使う側の言い訳を伴った、奴隷扱いをハッキリと示していてさ、それを“はけん”としているのが、実にシンラツだと思ったんだよね。
そんでもって、ソイツらが腕のいい職人の仕事(まあ、つまり、現代で言えば正社員とかだよな)を食い荒らしている、と。
そう、確かにそれはそうなんだけど、実は、ちらっと先述したゾンビのそもそもの定義……古い宗教や文化に現われているソレが、まさにそのもの、“自発的意思のない人間=ゾンビは、言いなりに動く奴隷として農園などで使役される”ものなのだということを知った時、今の派遣の問題をも思うと、メッチャ深くて怖くて、すっごい問題提起をしている作品なのかも!と思って……すっげー!と震えがきてしまった、のだ。
しかも、物語の最後には、はけんたちを使って大もうけをした半助自身が実はゾンビだったのだ、という、オドロキの結末が用意されているんである。
それは、ゾンビ第一号だとしていた、お葉の元ダンナである新吉が、実は死んでなどいなくって、それでも死にかけてほうほうのていで江戸に出てきて、半助にその事実を突きつけることで明らかになるんである。
この、「お前が死んでるんだよ」というどんでん返しは実は王道で、王道になるがゆえに、これほどコワいどんでん返しはないんである。
実際、めっちゃヒヤリとしたなあ……。いやね、半助がお葉やお偉方に披露した、新吉が半助のくさや汁を盗もうと強盗に入り、半助ともみあって刺され、くさや汁をかぶってゾンビになってしまったというエピソードは、ウチの人はそんな!とお葉が抵抗するのに対し、半助がここはこう言っておかないと、と濁したから、この話はホントじゃないんだろうなとは思ったけれど……。
でも実はお葉も半助が自分の夫を刺したことは知っていて、ていうか、殺したと思ってて、よもや半助自身が一度死んでいるとまでは思ってなかったみたいなんだけれど、それでも、どうしようもないと。
自分に思いを寄せている半助の気持ちも汲んでいるし、「江戸に出てきた時は一人。今は二人。そして島に戻る時は三人」と、子供を授かることを夢見ているんである。
でも、なんたって半助はゾンビだから、子供を授かることなんて出来る訳もなく……。
物語のクライマックスは、祭りで人が押し寄せた永代橋が落ちてしまうというスペクタクル。これは実に、これこそはじっつに、舞台的!
そういやあ、山本一力の小説とかで、大きな橋が落ちてたくさんの人が川に落ちて死んでしまった、という話が出てきたから、実際歴史的にあったことなんだろうなあ。
歌舞伎という、しっかりとした舞台で、それこそ職人の腕でまっぷたつに折れた橋が作り上げられる迫力、そしてそこからどんどん人が落ちていってしまう臨場感は、凄い。
生きた人間に飢えたはけんたちは、落ちた人間なら食い放題だと言われて嬉々として川に飛び込む……てのはまさに川に落ちそうになっているお葉を助けるための半助の口からでまかせで、橋と橋の間で、はけんたちが戸板を渡し、その上に乗ったお葉を手から手へと運ぶのにはドキドキと祈るような気持ち。
お葉は、半助が、実際に新吉を殺した下手人だろうと、実はゾンビだろうとどうでもいいのだ、と吐露するのが泣かせるのだ。
もうそれまでに、半助はすっかり自分の正体に意気消沈して、口からでまかせの半助が、自分のでまかせに騙されちゃっちゃ、世話ねぇよなあ!と自暴自棄になり、今度こそ殺した新吉のはらわたを食って、ちきしょう、うめぇ、とうめくのが、その狂気が、恐ろしくも悲しかったから。
この時はさすが染五郎氏の鬼気迫る演技が、本当に、何とも、涙をそそったなあ……。
そして、戸板が無事届けられた二人がひしと抱き合う、不毛な二人であることは判っていても、ああ良かったと思ってしまう。
生きた人間に飢えたゾンビたちに死にかけの人間を供する“死神”を演じる中村獅童が、何とも照れくささをにじませながら演じているのは、あれはひょっとしてわざとなのかしらん?
俺は実は死神だぁ!とバババと衣装を脱ぐと、黒地にガイコツが浮き出たショボい衣装、ゾンビたちもその安っぽさに恐れるどころか唖然とし、口々に、死神ってのは薄着なんだねえ、などとヒソヒソ言い合うのが可笑しい。
なんか常に中村獅童は照れ笑いを含んで台詞を言っていたからさあ、そんな気がしちゃった!
それにしても圧巻は、ダンスと共にゾンビたちが歌うりびんぐでっど〜なロックである。♪死んでる以外は問題ない、死んでる以外はお前と同じ(!!そりゃそうだけど……)、などという歌詞の楽しさ自体はクドカンなれど、三味線も唸る声ももちろん、歌舞伎伝統の、それこそ職人によってなされ、これが渋いの何の。この遊び心を本気になって面白がる歌舞伎は、やはり傾いた者たちのワザなのだね!★★★★☆
で、そうか、監督さんのこと、全然気にしてなかったなあ、と思って、最後の最後に出たその名前に、あれ?なんか見たことある……そうか、「酒井家のしあわせ」の。彼女のデビュー作であるあの映画を観た時期、なんかタイトルも家族モノだということもやたらと似通った作品が、偶然なのか時代の必然だったのか続々と現われてたんだけど。
その中で、大坂の匂いがプンプンとするあの作品、そして一人の東京男が入ることによって醸し出す化学変化が印象的な作品だったことを、ふと思い出した。
あの東京男、ユースケ・サンタマリアに当たるのが本作ではまあバリバリの関西人、桐谷君になる訳だけど、やっぱり化学変化、いや彼こそが引っかきまわす構図は同じだなあ、と思ったのだ。
とはいえ本作には原作があるというから、これは単なる偶然か。
話だけ追うと、これを出したらもう泣くしかないでしょ、といういわば禁じ手である“実は病気だった”てなネタを入れてくるし、正直どうかと思うフシもある。
だってさ、今やガンなんて国民病で、ガン=死なんて古臭いんだもん。てか、そう思いたい。
だから、こういう設定の時ってさ、“発見した時は、もう末期だった”と、ハンで押したようにおんなじコト言うんだもん。
正直、看護師として働いているこのオカンが、定期健診のひとつも受けていなかったのか、その方が不自然な気がするんだけどなあ。
ただ、原作はどうか知らないけど、本作が、オカンが死ぬところでは終わらない、それどころかその“結末”にさえ届かず、ひょっとしたらこのまま、新しい家族の時間がこれからもずっと流れていくのかもしれない、などと思わせる作り方にしたのは、ステキだったなあ、と思う。そう、それこそ、現代医療は進歩してるんだしさ!
いや、それでも、あれだけ劇中でもハッキリと“あと1年もつかもたないか”と言っていたんだから、まあそれはないとは思うけれど……でも、死をお涙ちょうだいのネタにしないで、どこかハッピーな気持ちで終わらせてくれたのは、心地良かったんだよなあ。日常の幸せを優先してくれたような気がしてさ。
それにしても、大竹しのぶと宮アあおいである。これが原作があるというのが信じられないぐらいに、こんな新旧大物女優を2人迎えてさえ、まるで当て書きのようにしっくりと来る。
それはオカンが連れてくる結婚相手、桐谷君にしてもそうなのだけれど、ことにこのオカンは大竹しのぶでなければつとまらないであろうと思うほどのハマリっぷりである。
だってさ、親子ほども年が下の男と付き合える女なんて、そうはいないよ。これが逆ならいくらでもアリだというのが悔しいところだが(爆)。それこそ大竹しのぶなら。
記者会見で桐谷君が、リアルでも全然オッケーだと言っていたのはあながちセールストークではあるまい。
大竹しのぶが凄いのは、それが年相応の可愛らしさであるところなんである。若作りじゃないんだよね。
いや、そりゃあ、一般的なこの年の女たちに比べればバツグンに若々しいことはそうなんだけど、その年頃にはとても見えない!ことに腐心するような、昨今のちょっと気色わるいアンチエイジングさじゃない。
ちゃんとこの年頃の娘がいるリアルさを持ちながら、彼女本来の気質としての可愛らしさがあるのが、それこそを見習うべきなんだよなあ……私も含めて、世の女たちはさ。
ま、だからちょっと、白無垢の白塗りはキツかったという訳じゃじゃないんだけど(爆)あのシーンは感動ポイントなだけあって、年をとるとあの大竹しのぶでさえ、白塗りがホラーになるのね、と思わざるをえない場面だった(爆)。
試着なんだから、別に白塗りまでせんでも、いつものキレイで可愛い大竹しのぶのメイクのままでいいじゃんと思ってしまった(爆爆)。
お顔もそうだが、白塗りだと更に老いの目立つ手がまた悲惨だった(爆爆爆)。
うーん、まあ確かにあのシーンは泣いたけど、そのせいで、没頭して泣けた訳じゃなかったなあ。
おっとついつい、一気にクライマックスの話まで言ってしまった。
えーとね、これって予告編を見てしまえば、あらかた筋は判っちゃうみたいなとこはあるんだけど、ただその中には入ってきてなかったのが娘、月子のパニック障害である。
冒頭、オカンが金髪の若い男、研二を「おーみーやーげー!!」と酔っぱらって連れ帰る場面から、彼がなし崩し的に彼女たちの家に居座るなんていう非日常が繰り広げられるもんで、しばらくは月子がお勤めに出ていないことに気付かないんだよね。
でも、彼女がオカンの勤める病院にお弁当を届ける段になって、あれ?と気付く。お弁当を作っている段階では、自身のなのかなと思ってた。
元板前だという研二の作った見事な朝食を、腹立たしげに三角コーナーに投げ捨てて、粛々と弁当作りをする月子。
向かった先は病院で、抜き足差し足してるから、あら?ここは彼女の勤め先で、遅刻でもしてコソコソしているのかな?と思ったら、ここはオカンの仕事場であり、いかにもベテラン看護師といった風情で、小学生の男の子をバシッと励ましている。
月子は初老の先生を呼び出し、オカンにお弁当を届けてもらうように頼む。
あら、彼女の仕事場じゃないんだ……なら月子は実は大学生とかで、今は冬休みかな?などと考えたりしていると、勝手に犬のハチを散歩させた研二と衝突する場面、走り行く電車の轟音に月子は固まってしまう。そして一年前の回想が始まるんである。
えー、えー……林泰文がこんなコワい役だなんて(泣)。でも彼の温厚な風貌とイメージがあるからこそ、このねちっこいストーカー男がコワい(泣泣)。
実際、そんなに尺がとられる訳ではない。本社から転任してきた優秀な人材。月子がいわば彼の世話係に任命され、この会社でのこまごまとしたことを教えることになった。
「大阪といえばたこ焼き、美味しい店を教えてくれないか」という程度なら、初日にコミュニケーションをとるという分には問題ないと思われた。
日本一、世界一、宇宙一、と大阪らしいネーミングで、日本一でこんなに美味しいなら、世界一、宇宙一はどうなっちゃうんだろうと言う彼に、経営者がおんなじだから、全部おんなじですよ、と月子が暴露するなんていうのも面白かった。
それだけに……次に彼が、今度はゆっくり食事しようというメモをおいただけで彼女がドン引きするのがちょっと唐突な感じもしたんだけれど、その次が彼女の鉛筆画の似顔絵じゃあ、確かにコワいわと。
でも月子、結構最初から彼に対して腰が引けてたよなあ?最終的には彼がねちっこく後を追って、逃げる彼女に対して豹変してキレる様が凄まじく怖いからそこに落ち着いちゃうんだけど、ちょっとそのへん、気にならなくもない。
まあ彼が家庭持ちだから、線引きしていたのかもしれないにしても……。
でもさ、本社から、大阪も大都市とはいえ、見る限りは小さな規模の支店に出向してきたってことは、彼はこれが“初犯”じゃなかったのかもしれない……かもなあ。
ことは明るみに出たらしく、彼は謹慎処分を受けたらしいんだけど、月子がとりあえずは身体の傷も癒えて(いや別にゴーカンされた訳じゃなく……本当に外傷だが)、明日から会社に行こうとしていたところへ、彼も謹慎があけて、出社してくると聞かされる。
そして会社の人間は、あんなことをした人間でも、会社にとっては優秀な人材だから、むしろキミに出てこられると……ねえ、と言葉を濁す。
困る、とハッキリ言わない、言えないんじゃなくて、言わないことが、ハッキリ言うよりずっと月子を傷つけることを実は知ってて、濁しているんじゃないかと思ってしまう。
それでも月子は毅然と、いえ、平気ですから、行きますと言うんだけれど、ホームで固まってしまって、電車に乗れなかった。
それ以来、一年間、月子はいわばプー状態なんである。
金髪で、ダサいファッションで、ヘラヘラしている研二。元板前、はあくまで元であって、彼もまたプーである。
オカンがまるで思いつきみたいにこんな軽い男を連れ込んだことに、月子は嫌悪感を募らせる。
月子の父親は彼女が生まれる前に死んでしまっているから、父親に対する義理立てという訳じゃないのかもしれない……と思ってはたと思いなおす。
父親の顔も知らず、父親という感覚も知らずに育っているからこそ、むしろ父親を神聖化しているのかもしれない、って。
毎朝仏壇に線香をあげて、「おはよう」と挨拶を欠かさない月子。でも、その仏壇に写真がある訳でもない。
オカンが「薫さんが私の最初で最後の男」と口癖のように言っているのが月子にも刷り込まれて、オトンというより、彼女にとっても聖なる男性、薫さんなんである。
実際、いかに仏壇の中の男とはいえ、月子が父親をオトンと言うことはないんだよね。オカンに腹立って家を出て行こうとする時も、位牌をかざして「この人に恥ずかしくないの!」オトン、とは言わないんだよなあ……。
それだけに、突然現われた、とてもオトンとは言えっこない、自分の方に年が近い男に殊更に反発するのもムリはなくてさ。
いや、むしろ月子がオトンの面影を追っていたのは、オカンが勤める病院の初老の医師、村上であったに違いない。
國村隼演じるこの村上先生は、年齢的にもオカンと釣り合うし、周囲も「陽ちゃん(オカンのことね)は村上先生とだと思った」と口をそろえるほど、そういう雰囲気を醸し出していたのだ。
もちろん村上先生はオカンが好きだった。それは月子が「先生がグズグズしているから」と当たり散らす台詞からも判るし、何より彼自身が「わしが一度も陽ちゃんを口説かなかったとでも思ったか」と明かす場面で明らかである。
そしてもしかしたらオカンも、ひょっとしたら……そういう気持ちがどこかの時点ではあったんじゃないのかなあと思う。それは、村上先生が二度も玉砕した、そのどちらも理由が「月子、あんたや」と言ったからさぁ。
月子が生まれた時から、女手ひとつで育ててきた。月子が理由で口説かれなかったというのは、逆に考えれば、月子がいなければ口説かれちゃったかもという意味かもしれない??なんてさ。
この病院に通ってきていたおばあちゃんの孫である研二と、付き合い始めたのは三年前。月子も社会人になって、いいタイミングだったのかもしれない。
でも別れようと思った、のは、もちろん病気のせいもあったけれど、月子があんな不測の事態に陥ったからというのは大きかったに違いない。ずっとずっと、二人で暮らしてきたんだもん。
でも研二は、一年でも陽子さんと一緒にいたい、と逆にプロポーズしてきた。その気持ちが嬉しくて、人を好きになることなんてずっと封印してきたこともあって、オカンはこの若い若い男の子との結婚を決めたんである。
金髪で安っぽい赤革ジャンといういでたちも、その理由を村上先生は知っていた。「あれは、ジェームス・ディーンなんやって」
その理由は彼に聞けと言う。月子が彼に聞いてみると、おばあちゃんが死に際、ジェームス・ディーンに会いたいと言ったんだという。結局もう一度意識が戻ることはなかったんだけれど、「戻すタイミングが判らんで」そのままになっているんだという。
オカンは彼のヘラヘラしたところが好きだと言う。「結構苦労しているのに」と。
身内はいない。両親は彼が幼い頃に亡くなり、おばあちゃんは、養子としての関係だと。それだけでも、彼が「身内のゴタゴタで」仕事を失ったことに容易に察しがついてしまう。
おばあちゃんと切り盛りしていた店で、ささいなことでケンカし、一日仕事をさぼったその日に、おばあちゃんは倒れた。
「死んでしまったら、もう謝ることも出来ない」と、オカンと衝突した月子に彼は語る。
なんかね、桐谷君のキャラもあるだろうけれど、研二が自分と年の近い若い女の子ではなく、オカンと恋に落ちたことが、不思議に説得力があるなあと思っちゃったんだよなあ。
別に彼がおばあちゃん子だったからっていうんじゃないんだけど、ふとこの場面で、彼が愛していて、優しくしたい相手が、陽子さんであることが、なぜかものすごく、納得できてしまった気がした。
この後陽子さんが亡くなっても、彼は月子とヘンな関係には決してならないだろう、なんて、それこそヘンな仮定を思ったりもした(いやでも、これは誰もが思うことでしょう!)。
そりゃあ、研二と月子は、戸籍上の関係はともかく、決して親子という感じにはならないだろうけれど、きっと、オカンを愛した者の同志、という関係を築き続けるんじゃないのかなあ。
その同志ならば、この人も入るであろう、この母娘をまるで保護者のように見守る大家さんのサクである。
二人からサクちゃんと気安く呼ばれている彼女を演じる絵沢萠子がもー、良くて。
大竹しのぶも宮アあおいもオオサカを結構こなしてはいると思うけど(いや、それこそ関西人じゃない私には、そんなこと言えないか(爆))、絵沢萠子が登場しちゃうと、やっぱりホンモノって感じがするんだよなあー。
それが、こちらも関西の桐谷君に対しては大してそれを思わないのはどーゆーことかしら(爆)。やっぱりそれは、キャリアの差かしらね(爆爆)。
とか言いながら、桐谷君はとても良かった。彼のことは結構前からスクリーンの中で見て来た筈なのに、顔と名前が一致したのはつい最近かも(爆)。それこそ最近、バラエティでも大人気だから、やっと気付いたかも(爆爆)。
彼は、本作のいわばキッカケになる人なのに、いわばメインなのに、母と娘の関係や展開を、ジャマしないんだよね。
月子が今どういう状態になっているかも、もちろん知っている。彼は人間関係の経験豊富なんだから、きっと彼なりにアドヴァイスだっていくらだって出来ると思うのに、しないんだよね。
むしろ、アホなフリをしているとさえ思える。ヘラヘラしていることが、彼の第一印象。でもそれは恐らく、そうしていれば、誰も傷つかないから、なんじゃないのかなあ……。
それは彼自身もどこかで、真に人生に踏み出せていないのかもしれないとも思うけれど。
あんな腕があるのに、おばあちゃんが死んで、おばあちゃんとやっていた店も辞めて、そのまま仕事を探していないのは、そしておばあちゃんに見せたかったカッコのままでいるのも、そういうことかなって……。
ひょっとしたら、陽子さんが死んでから、彼も生きなおすのかな、と思っていた。そういうの、ありがちな展開じゃん、と。
でも違った。そう、先述したように、陽子さんが死んでオワリ、じゃないのだ。
まずは結婚の記念写真一発で時間経過が示される。すわ、もう陽子さんが死んだ後かと思いきや、しばらくサクちゃんの家に“家出”していた月子が帰ってきていて、オカンと一緒に食事の支度をしている。サクちゃんが雑魚を炊いたのを持ってきてくれる。
あ、そうそう、この、陽子と月子の家とサクの家、縁側で向かい合わせで、すぐ入ってこれるのよ。で、玄関も、格子ひとつで仕切られているだけ。
あの作り、すんごい素敵だった。上映後、そんな感想をもらしている人たちが沢山いた。時代劇の撮影所で撮影されたというから、つまりは今はそんなん、ないのかもしれないけど。
でも、理想だなあ。月子が“家出”しても、ほぼ意味がないんだもの。お互いまるで自分の家のように出入りしている。食事も、サクちゃんの家に行けば、当然のように用意されるしさ。
研二が、月子がいない状態では、一緒に住めないと、一度は出て行きかけ、陽子に連れ戻され、だけど一緒に寝ることだけはやっぱり出来ない、と縁側の下に寝袋で潜り込んでいるのを、縁側が隣り合わせのサクちゃんの家の窓ガラスの隙間から、月子が覗き込んでいるのがじっつにほほえましいんだよね。
「凍死されると困りますから」と研二が中で寝ることを許してからは、陽子の病気が発覚したこともあって、すっかりなし崩しになる。
お風呂上りでぱんついっちょの研二に月子が遭遇しちゃって、彼が大慌てになるシーンとか、おかしかったなあ。
あのクライマックスのシーンは、先述したように大竹しのぶの白塗りのホラーさがどうにも気になってしまったが(爆)。
でも、「一度こういうのやってみたかった」と、涙をごまかすようにいたずらっぽく笑うしのぶさんはやっぱり可愛かったし、母の娘への“愛の告白”を聞いて、たまらず落涙してオカンに抱きつき、「白無垢に鼻水つけちゃった」と泣き笑いするあおいちゃんも、メッチャ可愛かった。
そもそもこの場面は、これから先の娘を心配する陽子さんが、一緒に電車に乗って試着に付き合って、と提案するところから大喧嘩になり、病気が発覚し、そして月子が電車に乗る決意をする……という流れがあってね。
つるかめつるかめ、と村上先生お得意の呪文を二人してつぶやくのも微笑ましく、エイッと車両に飛び乗った時には、二人上気しながら抱き合う姿に、ここにこそもらい泣きをしてしまうんだなあ。
そう、白無垢での挨拶のシーンより、実はこの場面こそがすんごく、好きだったかもしれない。
ラストクレジットにかぶせる形で、一度写真オンリーで時間軸を飛び越えた結婚式のシーンが描かれる。
ここに、新郎新婦、月子と、月子がリードを引く愛犬のハチ、大家のサクちゃん、村上先生、が付き従っているのがじっつにイイ。
それこそハチは、尿道結石になったエピソードで、月子がそれまでツンケンしていた研二と思わず距離が縮まるなんてこともあり、ちょっとした名脇役なんである。
散歩のシーンでおしっこをしないハチに「知らない人に連れてかれたら、緊張するでしょ」と憤懣やるかたない月子に研二が頭を掻くシーンがあって、その時点で、うっわ、これ、季節も冬だし、絶対膀胱炎だろー、と思っていたのがほぼアタリだったのが(尿道結石は、膀胱炎からくるからねえ)、ほらみろーという感じでさあ。
村上先生と月子の、釣りに行ったりきったない中華食堂で食事をしたりするシーンも良かった。
國村隼はなんか、不思議な色気のある人。月子とは擬似親子のような関係だけど、あおいちゃんとなら、それこそ年の離れたカップルだって、全然出来そう。
それこそ、「月ちゃんには、わしがおるがな」なんて、ちょっとそんな妄想をさせる台詞もあったしさ。まー、大坂らしく、しっかりオトされちゃうけどね(笑)。 ★★★☆☆
なもんで、ほおんとに久しぶりの山田作品だったのだが、なんつーか、小百合様に対しても同じく、何となく優等生っぽい女優、みたいな気持ちが壁を作っていたので、双方共に激しく反省する気持ちになる。
うー、うー、おっぱいを見せることばかりに主眼を置いた昨今の私の俗なこと(爆)。
確かにおっぱいをちゃんと見せる女優は素晴らしいが、小百合様は確かにおっぱいは見せることはない女優さんだが……清楚なままそのイメージがまるで崩れないまま、ここまで女優人生を重ねてきたその奇蹟をこそ、もっと重視しなければならなかったのだッ。
でも確かに私は、小百合様の映画はあまり見ていないまま、イメージだけが先走りしている感は確かにあったかもなあ。サユリスト、というイメージが本当に大きかった。
確かにそれは正しい彼女のイメージであったと、本作を観て改めて思いはするものの、でも本作で見せた彼女の軽やかさは、ひょっとしたらもっとガサガサした女の役をやってもいけちゃう人なんじゃないかと思わせた。ちょっと、そのヘンリンを見せた気がした。
実際は本作でだって彼女は美人母娘のその母であり、きっと長年、この町の可憐な花であったに違いなく、そして彼女のことなど何も知らぬ大坂の、場末の街角においても「きれいなお姉さんが来ていたんだってね」「未亡人だよ」と囁かれるような、そんな、永遠の“きれいなお姉さん”なのだ。
吉永小百合はあまりにもそんな吉永小百合だったから、窮屈な気もしていたのだけれど……本人もひょっとしたらそんなことを思っていたんじゃないかなどと妄想もしていたんだけれど……その狭いイメージの中でも、本作の彼女は素敵だった。
大阪から来たごんたくれの弟と喋る時だけは、ふと彼女にとって懐かしい大阪なまりを聞かせ、それがまた、泥臭い弟のそれとは違ってとても柔らかで優しいのだけれど、でもかつて、そこで暮らしていた懐かしさをたまらなく感じさせた。
別にね、彼女に全編大阪弁を喋らせても良かった様に思う。それが考えられないからという理由で大分脚本が手間取った、みたいな話が聞こえてくるけれども、それでも充分、素敵だったと思う。
ていうか私、本作が市川崑監督の同名タイトルの映画にオマージュが捧げられていること、というか、そもそもその作品が発端だったことを、知らなかった。
私、観ていないのだよね、市川版の「おとうと」を。だからちょっと、観る順番が違っちゃったかなあ、という悔しさを感じてはいる。
ただ、市川版の「おとうと」が、恐らくこちらこそが原作に忠実な、若い姉弟の物語だったのに対して、本作は、お互いもう充分過ぎるほどの大人である。
結末が、弟の最期を姉が看取る、というのが共通してはいるけれども、そして弟が手の施しようのない不治の病にかかっているというのも同じだけれど、人生の終焉を迎えても決しておかしくないぐらいの年に差し掛かっているし(いや、そんなことを言ってしまったら、今の平均寿命に対して合わないことは判ってるけど)、やはり作品の色合いは大きく異なっていたと思う。
だって、少年時代の不良は甘酸っぱい感触を残すけど、大人になってもごんたくれの男はやはり……人生の枯れた哀しさを残すのだもの。
きっと青春映画の甘酸っぱさと苦さを刻んでいたであろう市川版と、人生の悲哀はあっても決して苦くない、温かな愛を確かに感じられる本作とは、もはやジャンルが違うと言ってもいいぐらいなんじゃないかと思う。
いや、未見だからそんな大きなことは言えないけどさ(爆)。
ていうか、ていうか!そもそも私がこの作品に足を運ぶ気になったのは、鶴瓶師匠に他ならない訳で!ていうか、師匠は「母べえ」にも出ていたって?す、スミマセン……。やはり、ヤハリね、「ディア・ドクター」での彼の素晴らしさが大きくてさ、だから本作にも足を運んだのだった。
いやあ……本当に素晴らしかった。山田監督はきっと、彼のファンに違いない。なんかね、黒澤監督が「まあだだよ」でファンである所さんを起用したことを思い出した。
かの作品も、本作も、この人は最高なんだよ、大好きなんだ、って気持ち、カメラの向こう側にいるそんな監督の気持ちが伝わってくる感じがするんだもの。
本作は、小百合様演じる吟子の娘である小春のモノローグで進行する。つまり彼女にとってはおじさんが、鶴瓶師匠演じるところの鉄郎なんである。
エリート医師との結婚が決まった小春の、その披露宴への招待状を一応鉄郎にも出すものの、宛て先不明で戻ってきてしまう。
小さい頃は面白いおじさんである鉄郎が大好きだった小春だけれど、思春期を通り過ぎたこともあって、しかも亡き父の13回忌に酔っぱらって大暴れしたこともあって、彼女の心には影を落としている存在なんである。
いやー、ヤハリヤハリ、蒼井優嬢が出ていることも、本作に足を運ぶ大きな動機のひとつだったかも(爆)。
彼女に関してはダブルあおいである同じ世代の女優、宮崎あおいがひとつの対象であるけれども……山田作品的匂いは、間違いなく蒼井優嬢だよね。いやー、生身の人間じゃないぐらい可愛い(萌)。
実はね、彼女のキャラに関しては……何か古いなーって感じもしなくもなかったんだよなあ。
そもそもこの母娘が生計を立てている昔ながらの薬局にしたって、なかなか今は見ない風情だけど、まあそれでも近々出来る大きなショッピングモールの話題で、そんな地元商店街が戦々恐々としている話題なども出てくるし、現代的なテーマは折り込んで入るけれども……。
それでも山田監督は、例え消えゆく運命にあっても、そんな“昔ながらの”風情にこそ愛情を注いでいることは、もう明確に判っちゃうんだよね。
いや、それは凄くいいことだとは思う。でも、なんか小春のキャラはちょっと古い感じがしたような。町のマドンナという位置づけや、家柄のいいエリート医師の家族から、ごんたくれの弟の存在を知られて「そんな血を引く孫は、いい気持ちはしない」と言われたりとか。
うーん、でもきっと、それは私がそんな境遇とは縁がなかったからそう思うだけだろうなとも思うんだけど。いまだにこういう、上流社会の血とか言い出すエリート階層ってのはいるんだろうと思うし。
でも、しっくりこなかったのは基本的な部分……小春の喋る台詞、なんだよね。言い方、とでも言ったらいいのかな。現代の女の子っぽくない気がした。言ってみれば、なんか凄く、女くさい感じがしたんだよなあ……。
今ってね、言葉の最後に「……わ」てつける、つまりは女の子言葉を一番判りやすくする喋り方、あんまりしないよね。
それが一番に違和感があったし、それに近所の、恐らく幼なじみであろう青年に対して「亨さん」などとさん付けで呼ぶこともしない、よなあ……。せいぜい君づけか、苗字にさんづけではなかろーか……。
なんかここだけいきなり昭和に戻ったような気がしなくもなかったんだけど。そんな細かいこと思うの、私だけかなあ……。
しかし勿論、蒼井優嬢には萌え萌えだし、なんたって彼女のお相手が加瀬亮だってんだから!
彼が出ていることも、足を運んだ動機の大きなひとつ。確かに彼は、山田監督に好かれそうなタイプの役者さんだよな。朴訥で不器用、そんなイメージは、ちょっと寅さん的イメージもある。いや、寅さんよりずっと真面目な雰囲気だけど(爆)。
そういやあ、本作の冒頭は、母娘が生きた日本の昭和史をなぞるような作りになっていて、そこに寅さんも「へンなヒーロー」として登場する。こんなこと出来るのは確かに山田監督だけだけど、でもちょっと、いくら彼でも手前ミソな気もする(爆。それだけ自身も誇る作品だというのは判るのだが……)。
それになんだか、この昭和史によると、阪神の21年ぶりの優勝の時に小学生と思しき小春とは、蒼井優嬢の年齢はかなり合わない気がするんだけど……別に、今の今、超現代、って訳じゃないと考えれば別にいいのか……。
いやあ、つーか、加瀬亮の登場はかなり遅かったので、私は彼を今か今かと待ちわびていたよ。
小春の結婚相手がまず彼ではないこと、そして小春が離婚して戻ってくるまで、つまり彼女の本当の相手となる彼が登場するまで待たされるんだから。
ていうかそもそもなんで小春はこんな、エリートのクセにセコくて、鼻持ちならないヤツと結婚したのか。
医者ってことはさ、そして小春も薬局では白衣を着て応対してるってことはさ、医学系の大学で勉強していたと思しきで、多分その縁で出会ったと思うんだけど……。
つまり、小春だって実家での勤務経験だけとはいえ、一応はキャリアウーマンと言えなくもないのに、その実家での手伝い程度の場面以外は、結婚生活でも仕事をしていた雰囲気もないし、忙しい夫とのすれ違い生活に「他人と暮らしているみたい」と泣くなんて、やっぱりなんか、古い気がするんだよなあ……。
もうひとり、母娘と一緒に暮らしている人物がいるんだよね。吟子の義母、つまり、亡き夫の母親である。
いわば亡くなった時点で縁が切れているとも言え、それこそ吟子が再婚デモしたら尚更なのだけれど、吟子は亡き夫の面影を片時も忘れないまま、今日まで来ている。小春の名付け親である鉄郎がことあるごとに義兄さんを述懐するのも、その手助けとなっている。
写真でしか登場しない、そのお顔だけでも充分に優しげなこの亡き夫は、ただ一人、ごんたくれの鉄郎の真の理解者であり、出来のいい姉や兄に比べて阻害されていた彼の気持ちを見抜いて、「花を持たせてやりたい」と小春の名付け親に抜擢したんであった。
こうして書いてみると、ひねくれて考えてみれば上から目線のように思えなくもないんだけれど、そこは鶴瓶師匠の講釈と、写真だけの温かな笑顔が説得力充分である。
そして……そのことを夫から言われて以来、吟子はこのどうしようもない弟に負い目のような感情を持っていたんだと言う。
確かに、どうしようもない弟であることは間違いないのよ。蒼井優嬢が「これじゃ確かに小春の結婚は壊れるわ、と思った」という、泥酔の果てにやりたい放題の小春の披露宴、吟子が思わず手で顔を覆わなくったって、ザ・大坂の酒癖の悪いおっちゃんを文字通り体現。
この披露宴にも後輩芸人から借りた(彼は大衆演劇の役者、という肩書きなのね、一応)紋付きのまま列車に飛び乗って駆けつけ、長年会っていない小春の認識もつかず、似ても似つかない小太りの花嫁さんに「小春か!えらい老けたなあ」と呼びかけて、度疲れそうになる有様なんである。
その一張羅で来たもんだから帰りには義兄の服を借り、お姉ちゃんから交通費をすまなそうに受け取るものの、恐らくこんな場面は何度となくあったと思われる。
つまり、確かに彼はお姉ちゃんから金を際限なく借りていることに負い目はあったと思うけど、こうして金を借りることに慣れてしまう性質を彼女が作ってしまったことは否めないのだ。
鉄郎にどうやらイイ人がいるらしいことを会話の端々から勘付いた吟子は喜ぶけれども、その“イイ人”は後に、鉄郎に貸したなけなしの130万円を、彼の失踪に困り果てて、吟子の元に取り立てに来たんであった。
この“イイ人”ひとみを演じるのがキムラ緑子。玄関に脱がれたハデなサンダルに小春が眉をひそめるように、悪趣味なまでにキンキラキンなアクセをジャラジャラさせた、そしてオミズな雰囲気を漂わせるオレンジ(!)のアミタイツを履いたオバチャンなんだけど、そこはさすがキムラ緑子。
汗染みを作ってだらしなく居眠りしたりする場面さえ用意されているのに、彼女が鉄郎を間違いなく愛していたことがひしひしと感じられる。
だからこそそのだらしなさにギリギリまでガマンしながらも、もうどうしようもなくなったこと、この130万円は、恐らく安定した仕事になんてついていないであろう彼女にとって、そう、彼女の言うとおり、老後のためにこつこつ貯めていた虎の子としての金額としてあまりに生々しい。130万、ていうのが、その微妙な中途半端さが、恐らくそのこつこつ、の全財産だっただろうと思われるんだもの。
まさか全額立て替えてもらえるとは思わず、目を見張り、涙で潤ませて、何度も頭を下げて逃げるように去っていく彼女の哀れさがたまらなくてさあ……。
そんなことを知ってか知らずか、いや、知っているに違いない。そんな出来事も忘れかけた頃、鉄郎はふらりと吟子の元にやってくる。
あの女、そんなこと言ったんかいな、と罵倒する鉄郎に吟子は思わず激昂して頬を平手打ちしてしまう。あの可哀想な女の人に対して、なんてこと言うの、と。
この時は吟子の言うことは確かに正しいと思ったし、鉄郎の言い様はあまりに理不尽だと思ったんだけれど……でも、つましくはあるけれども、腕に職をつけて暮らしている吟子たちと、鉄郎、そしてひとみはあまりに違うのだ……。
ある意味鉄郎は、ひとみの立場を判った上で半ば冗談で言った訳だし、彼だって絶対、彼女のことを愛していたに違いないんだもの。それを許さない彼らの状況が悲劇を迎えたにしてもさあ……。
元から母親を苦しめているおじさんを憎く思っていた小春も加勢する形で、彼らは絶縁してしまう。
そしてどれだけの時が経ったのだろう。小春は亨といい関係を続けていて、穏やかな時が流れている。
そこに、鉄郎を発見したという警察からの電話が来る。吟子がこっそり捜索願いを出していたことに小春は憤るけれども、駆けつけた先の鉄郎は、行き倒れの先に福祉施設に収容されて、もはや余命いくばくもない状態なんであった。
この施設、「みどりのいえ」は、実際のモデルがある、と言われなくても即座に判るリアルさである。
このあたりは山田監督の“優等生っぽさ”を感じなくもないんだけれど、確かにこれが、こんな良心的な施設が赤字経営にキュウキュウとしながらも動いていることが、なんとかこうした人たちを救うことになっているということが、つまりそれだけ日本の福祉が遅れに遅れているということが如実に示されるのだから、大きな意味を持っていると言わざるを得ない。
そして、そこに収容された鉄郎はもはや息も絶え絶えながらも、冗談を飛ばし、胃袋に直接つながれた点滴に焼酎を入れるというアラワザで訪ねた吟子を慌てさせる。
もう最後の最後まで、見事にごんたくれの弟で、だからこそ、だからこそ、愛しいのだ。
夜中に起きたら起こせばいいと、手首につながれたピンクのリボン、それは原作通りの展開ということなんだけれど、もはやいいオッチャンになった鉄郎だからこそ、そして苦労の人生を送ってきた吟子だからこそ、その甘やかなピンク色は、逆に胸に切なく迫った。
おじさんが危篤だと聞いて、そばについてくれていた亨が小春を大坂まで送ってくれる。
もはや意識も殆んどなかった鉄郎だけれど、Vサインを送る。良かった、小春が判ったのねと周囲が涙ながらに喜ぶ。
そのVサインが固まったままである。スタッフの女性が、てっちゃん、もう頑張らなくていいんだよ、と耳元で囁くと、そのVサイン、シーツの上にぽとりと落ちた。
ラストシーンは、小春が亨との結婚が決まった、その披露ティーパーティーの前夜である。
見覚えのある構図。小春の一度目の結婚式の前夜、家族三人で集ったご馳走のテーブル。前回はそこで、鉄郎と連絡が取れないことに心底安堵し、「あんたのヘンなおじさん」と嫌悪感をあらわにしていた義母は、「呼んでやったらどうだい。今にして思うと、可哀想なんだよ。除け者にされて……」と意外なことを言うのだ。
ていうか、鉄郎が死んだことは知っている筈なのに。でもこの憎まれ口ばかりを叩くキツい姑はしかし段々と弱々しくなっていって、そして何より、大事な話の席(小春と夫との不仲とか)には外されることを「私はジャマなんですか」とスネていた。
いや、スネていた、などと軽い言い方をしてしまうほど、その描写もまた軽く、そんな問いに「うん」と即座に返す吟子に思わず噴き出してしまうほどだったのだけれど……。
ちゃんと考えてみると、もはや愛する息子もいなくて、母と娘はガッチリ絆固く、つまり自分の真の身内がいないような状態の彼女は、凄く凄く、孤独だったんじゃないかと思ってさ……。
それを彼女自身が、もうボケ気味のこんな時になってようやく自覚、というか、告白する、しかも第三者を媒体にしてっていうのが凄く……切なくて、キツくて。
うーん、やっぱり今の山田作品は、寅さんのようには気楽に観られない!
凄く良かったけど、ラストの幕切れ、鉄郎を呼びましょう、きっと汗びっしょりになって駆けつけますよ、と言って、たまらず台所に立って涙をぬぐった吟子=小百合様には涙したけど……それだけに、辛かった。やっぱり寅さんは良かったよなあ……。 ★★★☆☆
ていうか、こんな作品があること自体知らなかった。ほおんとに異色、だよね?
どういう経緯でこの作品が作られることになったのかは知らないけれども、寅さんこそ海外セールスすべき日本映画だと思っているので、ていうか、これまでそういう努力をしてこなかったことに軽い憤りすら感じているので(リメイク権ばっかりセールスしてどうすんのよお)本作なんてさ、そういう日米の提携そのものじゃないのお。
こういう作品も外に出て行かなかったのかな?十分その魅力は訴えられると思うのだが。
でもさ、goo映画のあらすじと映画のそれとはずいぶん違う。そういうことは結構あって、多分どっかの時点で採られた脚本と最終的に出来上がったそれとが変わってしまったということであろうけれども、本作は脚本にレナード・シュナイダーが参画しているのね。アメリカ人的視点が盛り込まれた当初から、さらりと寅さん的展開へとシフトしていった風もうかがわれるけれども……。
しかしこのレナード・シュナイダーという人は、当時の日本映画の脚本家として2、3名前を聞くだけで、それ以外の消息が全く判らないというのも気になるところ。奥さんが日本人みたいだし、それほどアメリカンなアメリカ人ではなさそうなのだが……。
そうなのよね、恐らく最初にはあったエピソード、さくらを好きになってしまったマイケルさんが寅さんとの道行きでそれを告白するというシークエンスは、出来上がった本編では影も形もない。
それどころか、マイケルさんと寅さんとはかなりギリギリまで犬猿の仲のままだし、打ち解けるのはお互い傷心を抱えてどんちゃん騒ぎをする酒の席でだけ、なのよね。
それは寅さんが英語が判る筈もなく、マイケルさんも日本に行商に来たとはいえカタコトすら出来ないような状態だから、基本的にコミュニケーションがとれないということはあるのだけれど……。
結果的には寅さんとマイケルさんとのエピソードは、別々に存在している印象の方が強い。マイケルさんを下宿させることになるとらやのメンメンとの間に通訳を買って出る存在として、近所に英語教室を経営し始めためぐみ先生(林寛子)と母の圭子(香川京子)という存在があるのだけれど、寅さんがお決まりのごとくに圭子に岡惚れするものの、彼女らを通じて寅さんとマイケルが殊更につながっている風もないのよね。
最初こそ寅さんはマイケルを、というかアメリカを毛嫌いしてて、しかもそれを「黒船が来てからメチャクチャになった、蝶々夫人も(これは後にエピソードが用意されてるのよね)ジャガタラ夫人も(??)そうじゃないか」とマアえらいさかのぼりようで(笑)。
その上、「猛獣(怪獣だったかな)を飼うには保健所に届けなきゃいけない」とまで言い出し、しかしそれに対しておいちゃんが「保健所には私が届けることになってる」ととっさに返すのには爆笑!いやいやいや!届けなくていいんだって!ていうか、寅さんの方がずっと猛獣だって!
心優しいマイケルさんにすっかり心酔しているとらやのメンメンは大いに気をもむのだけれど、美しき未亡人、圭子の存在で寅さんは、あくまで表向きはアッサリとマイケルさんを迎え入れてしまう。
とはいえ、マイケルさんの帰りを待っていたおばちゃんが「なんだ、寅ちゃんか」と思わず言ってしまい彼を怒らせ、「いや、違うんだよ。マイコさんかと思ったからさ、それで寅ちゃんだったから、なんだ寅ちゃんかって……」そのままやん!全然弁解になってないあたり(笑)。
そんな具合にその後、何度も騒動が勃発するのだが……。
マイケルさん、ホントの名前はマイケル・ジョーダン、て、オイ!……と思ったけど、この当時バスケのジョーダンはプロ入団すらしてない16歳の高校生。てことはこのネーミングは単なる偶然?
マイケルというのは至極良くある名前だし、彼が自己紹介する英語発音のままに、マイケルさん、ではなくマイコさん、ととらやのメンメンは呼んでいて、そこから芸者さん、などというジョークも生まれるんである。
で、苗字のジョーダンは当然冗談、につながっていくわけだし……そうかあ、偶然なのかあ。それってスゴイ偶然!
マイケルさん、いや、マイコさんがとらやに迷い込んだのは、帝釈天で行き倒れかけた彼を御前様がとらやに連れ込んだから。
なぜココに連れて来たかというと、さくらに「学校で英語を習っただろう」いやそれだけで英語はさすがに……というあたりは、日本の英語教育への批判を込めているのかも。
そこに居合わせたのが、満男が通っている英語教室の先生、めぐみの母親である圭子。御前様が「この人に喋りなさい。ペラペラペラ……」とジェスチャーとも言えない風でマイコさんに促すのがおかしい。
日本にビタミン剤を売りに来たけれども、お金がなくて泊まるところがない、という彼を、御前様のはからいもあってとらやに下宿させることになる。
勿論とらやのメンメンは誰一人英語なんぞ理解出来ないものの、腰が低く優しいマイコさんに、とらやのメンメンや裏の工場の社長も皆一様に彼を気に入る。
ことにおばちゃんなんて、レディファーストなんていう文化なんてこの世のものとも思われないだろうから(爆)、マイコさんが、彼の文化では当たり前な気遣いを見せることにひどく感動して、「あたしゃ日本人よりアメリカ人の方が好きだよ」とすっかりご心酔。
結構ね、こんな具合に、日本文化、というか、日本の男のダメさ加減が示されていく訳なんだよね。マイコさんが桜に想いを寄せたのも、彼女が夫の博からちゃんと愛されているという感じを受けなかったからだというのも大きいんだもの。
そう、それはめぐみから情報がもたらされるんである。さくらさんは本当に博さんに愛されているのかとマイコさんは私に言うのよ、とめぐみは言う。愛していると言わないし、お茶、と言いつけてお茶を出されてもありがとうも言わない、と。
それが当たり前の日本の風景であるもんだから、男たちは一様に苦笑するしかないんだけれど、女たちは驚きながらもそんな風に女が愛され感謝される世界があるのかと、感にたえない気持ちを隠せないんである。ま、それはおばちゃんが大いにそうなんだけどさ(爆)。
でも当のさくらだってそうだったと思う……いくらなんでもマイコさんに心揺れるまではいかないまでも、そう言われてみれば、それが当たり前のまま来てしまったと。
アメリカで育っためぐみは、アメリカではハッキリものを言わなきゃいけないの、察し合うという文化はないから、好きじゃない相手から告白されたら、インポッシブルと言わなきゃダメなのよ、私も何度も言ったわ、とアッケラカンと告白して座はワッと盛り上がる。
それが、相手に余計な期待を抱かせないことが、真の優しさなのだと。
……ほおんとに、日本の、時に残酷にもなる優しさに、ある意味批判を投じていると思うなあ。
このシークエンスを挟んでマイコさんからアイラブユーと言われたさくらは、インポッシブル、ディスイズインポッシブル、イエス、アイラブヒム!(博のことね)と必死にマイコさんに抗弁するのが切なくてさあ……。
それだけ、表から夫婦の愛が見えていないという日本の家族の問題が浮き彫りになったというかさ。
そりゃあね、決して愛し合っていない訳じゃないんだけど。ただ、愛しているという言葉は、その日本語があまりに生々しいというか、相手を想う言葉として日常的に使うにはこなれていなさすぎるというか……。
めぐみがおばちゃんに「だんなさんに愛していると言わないの?」と問うとおばちゃん「そんなこと言うぐらいなら死んだ方がマシだよ!」と切り返す。
思わず笑っちゃったし、何とも言えない顔をしたおいちゃんがキノドクな気もしたけれど、でもだからといって愛し合っていないわけでは勿論、決してない訳でさあ。そういう言葉ではしっくりこないだけなのよ。
でもそれは、夫婦となった絆より、家族としてのそれの方が今は優先されているということなのかもしれないと思うと、やっぱり日本の家族の愛情のありかたは、なかなか理解されないのかもしれないなあ。
ところでそんな、日本とアメリカ双方の文化を知っているめぐみと圭子夫婦である。その亡くなってしまったダンナが日本人なのかアメリカ人なのか、どういう経過でアメリカに住むことになったのかは判らないけれど、チャキチャキとアメリカナイズされている風のめぐみと、普段から和服をきちんと着こなしてしっとりとした圭子とは母娘とはいえやはり雰囲気が違う。
めぐみを演じる林寛子はすっごいカワイイんだよね。本当にイマドキの(ま、当時とはいえ)女の子って感じ。
彼女は、お母さんが今恋している相手になかなか踏み出せないことに気をもんでいるらしいんだけど、そこにこの年頃特有の反発する気持ちも持たず、ただお母さんの幸せを願っているあたりは、それまでの彼女の苦労の跡を感じもする。
そう、交通事故で夫を亡くした圭子だけれど、石油船の船長である立派な男といい関係を続けている、と明かされるのは……圭子に岡惚れした寅次郎が彼女を足しげく訪ねて、その日も福寿草の鉢植えなんぞ携えた日だったんである。
寅さんはここでもそうだし、ずっと、失恋ばかり繰り返しているじゃない。今回も、圭子に恋していることは周囲にはバレバレで「義兄さん、大丈夫かなあ。またフラれるんだろうけど」と博なんぞも心配している。
圭子がとらやに夕食に来る時なんぞはウキウキで、帝釈天でウロウロして、ちっとも時間が経たない。一時間も待ってるのに、時計を見ると五分しか経ってない、とか言うのぼせっぷり(笑。どーいう時間の数え方よ!)。
けれども、でも今回も、そしてシリーズ通じて一度だって、寅さんはその恋する心のうちを相手にハッキリと伝えることはなかったんだよね。
それをさ、そんなのはダメだと、ハッキリ伝えなければ相手は判りっこないんだと、まあ至極当然といえば当然のことを言ったのは、本作っきりであり(多分)、それはこうしてアメリカ人やアメリカの文化を介在しなければ言えないってあたりが、日本人の特殊性を示したってことなんだろうなあ、と思う。
そう考えると、寅さんこそ海外セールスすべきだと思ったけれど、言葉には出さず、目だけで察し合う日本の文化っていうのは、説明もなく判ってもらうのは確かにムリがあるのかもなあ……。
そう、ここでは寅さんはちゃんと説明するのよね。そういう文化を判り得ないアメリカ人が介在する展開だからこそだけれど、そうして改めて“説明”してみると……そりゃムリだろ、って日本人の私ですら思うもの。
まあ、寅さんだからことさらにギャグっぽくなるにしても、好きだよ、という気持ちも、ムリムリ、と返す気持ちも、そうかい、判った、という気持ちまでも目で語る、だなんて、日本人だってムリだって!
……いやあ、ある意味寅さんはそうしてきちゃったから、自分の気持ちが相手に伝わる前に玉砕してきたということがここで明らかになったのかもしれない(爆爆)。
でもね、アメリカ人のマイコさんだって、充分、不器用よ。ビタミン剤の行商人ということは、生業に関しては寅さんと同じであり、帽子をかぶってトランクを下げた格好はまさしく相似系なんだけれども、それについては誰一人指摘する人がいないってのも……そりゃまあ、雰囲気も何もかも違うけどさあ……。
しかもマイコさんは寅さんに比べて、この商売に向いているとは決して思われない。そりゃまあ異国の地であるというのは大きいにしても、異国の地で打って出るというのなら、もう少し戦略があってもいいようなもんである。
そんな中、いかにも田舎芝居てな興行芝居にマイコさんは行き逢う。つたない英語で彼を招き入れた女の子がマダム・バタフライを演じるというので興を引かれてフラリと入った芝居小屋。
さくらと自分を妄想し、後ろで見ていた殿山泰司をさくらと妄想して抱き寄せ(爆笑!)涙を流してブラボー!と手を叩く。
でもさ、蝶々夫人の物語は、彼女がピンカートンに去られる物語なんだけれども……。
でもつまり、そここそが、まだこの時点ではアメリカと日本の越えられない壁なのかも知れないなあ。
古き良き日本を代表するシリーズ、寅さんでアメリカ人が闖入してくるというのは凄く画期的だとは思うけれども、やっぱりというか、切なく終わっちゃうんだもの。
最終的にはマイコさんがさくらに失恋したことで、寅さんは彼に殊更に親近感を抱き、上野でどんちゃん騒ぎをして、ここから成田に向かう京成線が出るからと、早朝に彼と上野駅で別れる。
寅さんは途中、さくらに電話して、このことは博には言うなよ、と念を押す。さくらは涙を抑えて、判った、と答える。
この電話のシーン、日本人の酔客たちと居酒屋で意気投合して、大声で故郷の歌を歌うマイコさんの声がさくらにも聞こえているに違いなく、彼女が夫と子供を背にしながら判った、と涙をぬぐうのが、凄く……センシティブでもらい泣きしてしまう。
そしてさ、マイコさんは寅さんをワンダフルブラザーと呼ぶ。彼からプレゼントされた良縁のお守りに、ならば寅さんはなぜ結婚出来なかったのか、と別れた横断歩道の向こうから叫ぶけれども、寅さんにその意味が通じる訳も無く、笑顔で手を振り別れを告げるんである。
故郷に向かう飛行機の中でマイコさんは、懐かしい荒川を眼下に眺める。
寅さんの露店シーンは、相変わらず素晴らしく面白い。修学旅行の女子学生に「笑ったな、女学生、退学!」なんて言っちゃう、あの残酷なまでの切れ味!
露店仲間が女房に逃げられ、しかし新しいハデな新妻を迎え、寅さんが苦笑いするところで終わるあたりは、ああ寅さんにも最後の最後の最後には、幸せになってもらいたかったなあ、と思う。
本作でホントに思うのは、寅さんは実はとても女性にモテるに違いないのに、ハッキリ気持ちを伝えないから成就しないんだよねということ。でもそんなこと示せるのは、こんな設定の本作だけだろうなあ。★★★★☆
そう、スピン・オフがあったから……それも「交渉人」も「容疑者」もかなりのクオリティだったもんだから、踊る自体への久しぶり感はあまり感じなかったんだけれど、青島刑事に遭遇するのは、私的にはTHE MOVIEの第一作目以来なので、実に12年ぶり。このサイトを始める前だから、感想文データも残ってない(手書きメモはあるけど(爆))。
そんなお久しぶりの青島刑事を見て最初に思った印象は……というか、観ている間中ずっと思っていた印象は、青島君、てか織田裕二、顔色悪い(爆)。なんか肝臓でも悪くしたような顔色の悪さ(爆爆)。
劇中、青島刑事が健康診断に引っかかって、すわ不治の病で余命いくばくもないか、なんていう設定になっているもんだから、それに合わせたメイクかと思いきや、それは結局誤診だったし、誤診ということが本人にも明らかになった後も、やっぱり顔色は悪いまんまで(爆爆)。
うーーん……これは単に、年をとって若々しい顔色のツヤを失ってしまったということなのだろうか??
うーん、うーん……まあそれは、少なからず否めないかもしれない……お決まりのモスグリーンのコートを翻して“子供のように”(すみれさん曰く)駆け出して行くには、いくらその少年のように純粋な魂は永遠だとしても、やっぱり人間それなりに年はとり、立場も変わっていくものなのだもの。
まあ、そのあたりは充分に意識していることは、明確に示されている。何からも自由で、何の足かせもなく無鉄砲に走り出せたヒラの青島刑事が係長に就任。
この劇中こそは湾岸署の新庁舎への引っ越し対策本部長などという、踊るらしい脱力めいた肩書きの方が優先して、捜査会議さながらに引っ越し対策会議を仰々しくやるオープニングから笑わせるものの、節目節目で、あの青島刑事が係長になったということを、本人が嬉しそうに吹聴するのは勿論のこと、折々に感じさせるんである。
それになんたって、あのモスグリーンのコートである。この大規模な引っ越しの最中、不要物の中に紛れ込んでしまって、彼が事件に走り出すまでの長い長いプロローグの間中、それは見つからないんである。
それこそプロローグ的、前哨戦の軽い事件(無論それは、メインの事件の大いなる伏線な訳だが)の時には、窮屈そうに警察官用のパーカー(勿論、こっちがホントの御用達なんだけど)に身を包んでいる。
中盤、彼がいつもの青島スタイルになってからより、こっちの青島刑事の方に妙にリアリティを感じる。むしろ、あのモスグリーンのコートをまといだすと、なんだかやっぱり久しぶりすぎるせいか、大人になって高校の制服を着るみたいに、ヘンに気恥ずかしい気持ちになってしまうのよね。
やっぱりそれが、時間を経てしまうということなのだろうと思う。それこそ金八先生や寅さんみたいに、役と共に年を重ねていくこととは違うのだろうな、と。
スピンオフはあれだけ作られたのに、なぜ青島刑事が登場する本編だけは作られないのだろうと思っていた。やっぱり織田裕二は役者的なこだわりが強い人だから、よっぽどでなければ首を縦に振らないのかな、とか、ひとつの役に縛られたくないのかな、とか……。
でもやっぱり、もったいない気がした。だって当たり役なんて、役者の誰もが手に出来るものじゃないんだもの。そして何年も経って登場すると、こんな風に違和感を感じてしまう。
いやそれは、私が第二作目を飛ばしたから、殊更にそう思うのだろうけれど(爆)。でもそれでなくても、シリーズを熟知していることが、作品を真に楽しめることへの必須条件として求められるこの踊る、本作は更に高いハードルを感じざるを得ないんである。
映画フリークの監督が散りばめる名作映画のオマージュなんていうのは既に、私みたいなテキトーな映画ファンには知る由もない(ダメじゃん)。
テレビドラマシリーズから十数年が経過して、その第一作からのカラクリまでもが用意されているに至っては、さすがにキビしいなあ、と思っちゃう。
勿論それこそが、ファンへの心配りなんだろうけれど、そうやって観客がふるい落とされている感もなきにしもあらず……なんて思うのは、単なるヒガミ?
踊るが劇場版になる前に、再放送でばばっと“予習”した私には、やはりコアなファンに対してめったなことは言えないんだものなあ。
そう、“ばばっと予習”しただけだから、本作のキーマンである圭一を演じているのが、テレビシリーズの第一話で小学生として登場した子だなんてことは、まったく気づく筈もない。
いや、それこそちゃんとしたファンは、いくら成長しているとはいえ(そうだよねえ、小学生から二十歳やそこらの青年に成長しているんだから!)役名でピンとくるのかもしれない。
青島刑事が、捕らえられた彼とすれ違って、どっかで会ったことあったっけ?と首をかしげ、それに対して圭一が不敵な視線を流す場面に、全く覚えてなかった私は、これはラストクレジットあたりで説明してくれるのかと思って期待していたものの、そんなヤボなことは当然、なされなかった。
なーんとなくこの時……なんか、ふらりと立ち寄った系を排除してるなあ、と感じてしまったのだ。まあ単に私が覚えていないだけだったんだけれど(爆)。
でも、そもそも犯人の要求が、今まで青島刑事が逮捕した受刑者を解放せよ、でしょ。サブタイトルにまでなっている。
それこそ熱心なファンは、犯人グループからファクスで送られてきた、粗い画像ゆえに余計に極悪人っぽい白黒写真の一人一人に狂喜したのだろうけれど……覚えてないもん(爆)。
しかも、実際に解放の対象になったのは、既に出所していたり、キリスト教に帰依して出所を拒否したり、精神を病んで事態を飲み込めていなかったりした人々を除いてたった二人。
しかもそのうちの一人はナイナイの岡村君で(こういう出演、ついこの間も見たな……こういう小さな義理を細かく果たすから、疲れちゃったんじゃないのお)コメディリリーフ的立場なだけで早々に退散、メインはもとからそうである一人に絞られる。
THE MOVIE第一作目で強烈な印象を残した、小泉今日子扮する真奈美である。
第二作目を観ていないこともあって、第一作目を観ておいて本当に良かったと思わず安堵する(爆)。確かに彼女は、再登場を願いたくなるようなインパクト大だったもんなあ。
とか言いつつ、物語の筋なんてスッカリ忘れている私は、彼女がテディベアチックなぬいぐるみをかかえて、白っぽいパジャマみたいな風体でニッカリ笑っている画しか思い出せないんだけれど(爆)。
無期懲役の刑を下された彼女はその後、ネットの社会で一部の狂信者に崇め奉られる存在になっていた。
美人であるという彼女の見てくれの良さが、一番に若者たちにヒットしたというのは、確かに現代社会への大いなる皮肉であろうと思う。そして小泉今日子には、そうした皮肉を受け止めてあざ笑い、蹴散らすだけのカリスマ性が確かにある。
まるでお決まりに、彼女を崇拝する信者たちが、現場を取り囲んで、その風体がなんだか見たことのある白づくめで、ひょっとすると安っぽく見える……てか、安っぽいんだけれど、それだけさせる彼女の魅力に頷けちゃうんだよね。
湾岸所にはイマ風の若くてダルい新人も入っていて、興味本位で彼女のファンサイトにアクセスしたりもするんだけれど(しかもそれが捜査の糸口にもなるんだけど!)、そんなテキトーな若者さえもひきつける魔性の魅力が、小泉今日子には確かにあるんだよなあ。
そもそもこの事件は、あの第一作で、湾岸署で死に損ねた日向真奈美が、その望みを今度こそ叶えるために、無期懲役を受けた刑務所から脱獄するところから始まった。
彼女は逃げようと思っていたんじゃなかった。ただ、湾岸署で死ぬという目的を果たせなかったことを悔い、もともとあの時からネットに精通していた彼女は、いともたやすく若く青い若者の心を掴み、あの時以上にもろく、しかし膨れあがったネット社会で、真奈美様と崇められるまでになった。
彼女に誘導された圭一たち実行犯は、湾岸署の引っ越しにスタッフのフリをして、いとも簡単に侵入し、青島やすみれの拳銃を奪って仲間内の裏切り者を殺害した。
新しい庁舎に移ることで、より鉄壁のセキュリティを誇っていた筈の警察署は騒然とする。被害の出ないバスジャックや銀行破り事件はその前触れだったのだ。
全編、大きな引っ越しのゴタゴタが続いていて、この凶悪事件もその合い間に語られるという印象が強い。
しかも現代風にネットのやりとりやその不正使用が展開の大半を占めるもんだから、やたらと専門用語や仲間内用語が早口でやり取りされ、引っ越しの混雑の間にゴタゴタと進んでしまうという印象である。
勿論それが狙いなんであろうし、そうでなければいくらコンピューターに精通していて、いとも簡単に厳重なセキュリティを突破できるとしたって、警察署の拳銃を三丁も盗んじゃうなんてさすがにリアリティに欠けるしさ……。
いや、ていうより、本作で違和感を感じたのは、ネット社会だから、オタクやらフリークが横行しているから、どんな情報もセキュリティも筒抜けで、つまり、“ネット社会なら、全部判っちゃう”っていうのを、いとも簡単に肯定しちゃうことなんだよね。
それが通っちゃうと、ミステリもミステリじゃなくなっちゃう。全てを把握している人が当たり前のように存在してしまったら、どんなに不思議なことや、謎解きが困難なことが起こったって“そんなの、ネットでならちょっと調べればすぐ判っちゃう”になっちゃう。
つまらなすぎるじゃないか……。本作はあらゆる仕掛けが用意されているし、オドロキもいっぱいあるけれど、常に先んじて、ネットをメインとした情報網でそれらを把握している前提が存在しちゃう。それってさ、なんだかひどくツマラナイことのように思うのは私だけだろうか??
シリーズを知らなければ、ということを言ってしまったけれど、やはりシリーズのファンにはたまらないのは、カエル急便でもなく、過去の犯罪者たちの写真だけのゲスト出演でもなく、今は出演のかなわない、青島を育てた男、和久さんの甥っこというキャラが登場することだろう。
和久さんを演じたいかりや長介が逝去してから、何か腫れ物に触るように、スピンオフでも姿を消した原因を言わずにいた和久さんが、現実と同じようにいまや亡き人であること、そしてその遺志を継ぐように甥である伊藤敦史が朴訥として登場してくるのはなんとも感慨深いものがある。
何でも最初は管理補佐官役のおぐりんがこの役の筈だったんだというんだから、面白い。伊藤敦史を推薦したのは織田裕二だってんだから、彼はこだわりすぎるところもあるけれど(爆)、やはりそのあたりはさすがである。
おぐりんの役柄は、まさに今の日本の裁判官制度やら死刑制度やらへの揺れ動きを、ダイレクトに示す役柄。
何人もの人を死なせ、死刑に継ぐ無期懲役に処された日向真奈美、死刑ではないけれど、壁の外に出ることもない“極悪人”。
ハッキング犯による釈放要求に従ったフリをして、どうせ無期を受けた極悪人なんだからと射殺命令が下される。それを提案したのはおぐりん扮する鳥飼補佐官。
結局はそれをくつがえしてしまった青島刑事に、補佐官はぞっとするほど冷たい目で、それを糾弾するのだ。どうせ無期の凶悪犯なのに、と。
それは言外に、死んだって同じなのに、という含みを感じさせ、そしてそれは、それほど私たちの思いと違わないことを感じさせて二重にゾッとさせるんである。
それは警察や検察機構だけではなく、政治機構……つまり、判り切っていることだけれど、何ものからも自由である筈の聖なる筈の場所が、政治に蹂躙されているのだ。
あの、青島刑事のために、いつも“会議室”なれど、必死に闘ってきた室井さんも、青島刑事に「これからの私の仕事は政治だ」と言い残し、それで楽しいのか、と問い返す青島に、難解な東北弁(秋田弁?不覚ながら聞き取れなかった)で返し、ポカンとさせる。
青島の“制服”だったモスグリーンのコートが、日向真奈美確保に際して持っていかれてしまったことも合わせて、青島も、室井も、そして全ての湾岸所の人たちの今が変わってしまったことを痛感する。
なんか、いろいろ大事な部分をすっ飛ばしちゃった気がするけど(爆)。バスジャックが起きたり、銀行破りが起きたり、犯人にダマされて新湾岸所の最強のセキュリティに逆に閉じ込められちゃったりね、いろいろするのよ。
毒ガスと間違えた“特別収容物”のスカンクのおならに閉口したり、なんだか判らない動物の光に怯えたり。
そんなギャグ映画のお決まりのドタバタもあれど、メインはシリアスだった気がするなあ。
関係ないのにやたら出てくるなあ、と思ってたユースケ・サンタマリアが、交渉課をクビになったというからヒマでここに来てるのかと思ったら、まさかの新署の署長就任!
本作では最も踊るらしさを継承し、ギリギリまで青島を余命いくばくもない恐怖にさらした、前署長以下のスリーアミーゴスは一体どうなる!?
これだけ年数が経つと、“諸事情”で登場しなくなるレギュラーたちが凄く残念。個人的には水野美紀にはずっと出続けてもらいたかったなあ。★★★☆☆
私も田舎からの上京組ではあるけれど、だからといって、それで共感したというんでもないような。うーん、でも、そういう気持ちもやっぱりあるのかなあ?
私の両親は幸いにもまだ健在だけど、親元から離れているという気持ちは、特に上京したてはとても強烈にあったからなあ……。
ま、という展開に行くのは、ずっと後半なんだけれど。
私ね、こういう、クスクスでホロリな映画って、めっちゃ弱いんだよなあ、と思ったのね。
でね、前半はクスクスの度合いの方が大きいのだ。そして後半にゆくに従ってホロリの度合いが大きくなる。全体的にそのどちらのエッセンスも散りばめられているんだけれど、後半はお父さんの病気から死が描かれているから、やはりそうならざるを得ないのもあるし。
でも前半のクスクスでガッチリハートを掴んじゃうんだよね。だから、お父さんのエピソードが来ても、単純に泣かせだとかは思わないのだ。お父さんを演じるチチ松村の軽みもメッチャ素敵だったし!
おっと、またひたすら先走ってしまいそう。抑えて抑えて。そう、もうね、前半、というか、最初のシークエンスでめっちゃハートわしづかみなのだ。
4コマ漫画の連載がひとつ決まったことをきっかけに、それまで実家暮らしを続けていた29歳の主人公、カラスヤサトシこと片桐聡が上京してくる。
上京っつっても、何せ予算のない彼は、手始めにまずヒドイ物件から紹介されていく。「片桐さん、予算2万5千円ですよねえ?それならこれくらいは、ねえ……」と不動産屋さんのお姉さん(江口のりこ最高!)にしたり顔で紹介されたのは、どう考えても血が、それも大量に壁に飛び散っている物件。
さすがにそこは、と違う不動産屋さんに当たってみると、これがなかなか良さげな物件。「気に入りました。景色もいいし……あ、銭湯が見えるんですね」と彼が窓際に座って鉄柵に肘をかけたとたん「あぁ〜」!!
鉄柵が外れてまっさかさまに落ちていく、その足だけが見切れて、声が次第にフェイドアウトしていくのには爆笑!もう、かんっぺきにここで、ハート掴んじゃったんだよなあ!
このどうにも冴えない三十路手前の漫画家……この時点では未満、って程度の主人公を演じるのは、ミュージカル界のプリンスと呼ばれているという井上芳雄。
すいません、私はその方面とんと無知なので彼を観るのは初めてだけど、そりゃそれもムリない、映画は初出演(で初主演!)だってんだから。
でも、彼の名前はなんとなく聞いたことがあり、声楽科を卒業してミュージカルスターになってるっていう、もうバリバリのエリートコースの彼が、一体どういう経緯でこの役に抜擢されたのか大いに興味を引かれるところだけれど、しかしこれが、すんごくイイんだよね。
確かに彼は、背も高く、八頭身で、顔立ちも端正、なのだろう。でも、ダサダサのメガネにつるしの安物のシャツによれたGパンで、見事に冴えない漫画家青年に見えるんだから、このあたりはやはり、畑が違うといえども役者ってことかなあ。
実際の彼は九州人で、苦労したというゆっくり喋る大阪弁も、このゆったりとした物語の中では心地良く、それこそ、ゆったりとした父親、チチ松村の息子って感じ、とも思う。
“先輩”こと野島さんのチャキチャキと早い大阪弁との対照もいいしさ。
そう、その“先輩”とのエピソードが、この物語にうるおいを与える。大坂の専門学校を卒業して、カメラマンを目指して先に上京していた野島さんは、「カメラマンやって3年」と言うけれども、見栄っ張りで嘘つきだと知っている聡は、最初から話を割り引いて聞いている。
野島さんから来た年賀状で、ちょうど彼女のことを思い出している時に電話がかかってきて、彼女の機関銃のような喋りにもうろたえ、思わずパチリと携帯を閉じてしまって「ああ!」と更にうろたえ、なぜかその電話を頭に乗せてみたりしてうろたえまくる聡=井上芳雄がメッチャ可愛く、この時に既に彼にスッカリほれ込んでいる自分を感じてしまったなあ(爆)。
そうなの、なんかいちいち、可愛いんだよね。野島さんにも「全然、おもんない(この言いっぷりは、大阪!って感じでいいなあ)」って言われてそれなりに落ち込み、とりあえず自分で面白いと思うことをやってみよう!とダンボールでロボット作って、部屋の中でガシャコンガシャコン歩いて、ムーンウォークなぞしたりして、しかし「……あかん、全然おもんない」と肩を落とすロボット君が可愛すぎる!
しかもそれだけじゃなく、ふと窓の外に気配を感じると、一階に住んでいるロシア人男性が、ものっすごいニラミをきかせてこっちを凝視してる!
カメラが切り替わって、ロシア人男性の背後からのアングルになると、二階の窓際で呆然と突っ立っているダンボールロボットの聡があまりに間抜けで可愛くて、しかもこの画自体がシュールで、もう爆笑してしまうのよね!
映画オリジナルだというこのロシア人男性(役名忘れた……)とのエピソードは、映画オリジナルの面白さを見事に伝えている。
そもそも、引っ越し祝いのお返しにと彼が、聡の読めないロシア語のメッセージつきでドアの前に置いてあったのが活けの毛ガニで、まあそこまではそんなに驚くこともないかなと思うけど、こともあろうに聡はその毛ガニを食べずに飼い始めるという(笑)。
野島さんにも笑われたけれど、飼っている様子を見ていると、次第にこっちもなんだか、毛ガニに愛着がわいてきちゃってさ、だから聡がもうあまりにお腹がすいちゃって、どうしようもなくなって、とうとうこの毛ガニを鍋で煮てしまうカットに切り替わった時に、うわーっ!とショックを起こしちゃってさ(爆)。
しかも食べ終わった後、恐らくそのカラだけを埋めて「カニの墓」とするのもなんとも(爆爆)。
このエピソードの後、編集者にカニを食べに行こうと誘われて、いや、肉がいいですと言う聡、そのエピソードも実に伏線が効いててサイコーなのよね!
その編集者のエピソードもメチャメチャ最高なので、ここで続けざまに言いたいところなのだが……やはりロシア人の彼のことを言っておかなくては。
その編集者に関しては、映画では存分にふくらませてはいても、一応は原作にも登場している(台詞だけだけど)キャラ。でも、ロシア人の彼は映画完全オリジナルだから、やはりここで手腕が問われるところだと思うんである。
しかしこれが、これが……もー最高!なんだもん!
そもそもね、彼の隣でいつもひっそりと付き従っている、恋人と思しき日本人女性がね、彼女が彼の言葉をいつも翻訳して伝えるんだけど、これがいつもミョーに冷静でさ。
段ボールロボット姿の聡は彼のライブにスカウトされてパフォーマンスするんだけど、大体客なんかいたのか?
俺はレニングラード生まれ、レーニンが何人いてもレニングラード、みたいな(多分全然違う、ゴメン!)この時点で、共産主義バリバリなのが丸判り。
ライブ終了後、彼女がメンバーに二千円札を1枚ずつ手渡すのも妙に気になる。なぜ二千円札、そして、たった二千円……。
サトシのパフォーマンス、マジ最高だった、来月も頼むぜ、と冷静な彼女の通訳で伝えられた聡は、ライブ中彼に突き飛ばされて鼻血を出してちり紙を鼻の穴に突っ込んでいる状態で「いやそれは……通訳してくださいよ」と彼女に言っても、彼女も黙って手を重ねてウンウンと頷くだけ。
聡が彼らに自分の漫画を読んでもらう場面も最高に可笑しかったな!
コマの台詞をいちいち通訳して彼に伝える彼女。そして……「全然面白くないそうです」冷静に言い放ち、ガラリと窓を閉める。
その窓が曇りガラスでさ、窓の向こう側で二人が、特にあの冷静な彼女が相変わらず顔を向けたままなのが、ぼんやりとした彼女の白い顔が曇りガラスの向こうで微動だにしないのが、妙に怖くてさあ(爆)。
しかしそれが、まさかあのスウィートで切ない“先輩”との“ラブシーン”(!!)につながっていくとは、この時には思いもしなかったのだ!
と、いう、野島さんとのエピソードの前に。やっぱコレだな。私が本作で一番お気に入りだった、テキトー編集者の八嶋智人。
もうサイコー!
この時点で聡とは、まだ仕事関係にまでは全然行っていないのだ。単なる、持ち込みしている売れない漫画家と、それを受ける編集者、という立場である。
いつも会う喫茶店でコーヒーを頼む聡に対して「じゃ、俺、逆にビール」逆に、ってなんだよ!
そんな具合にいつもいつも昼日中から生ビールを片手に聡の原稿に目を通し「ぜんっぜん、面白くないね」とシンラツ極まりないこの編集者の小野さんは、しかし律儀に彼に会ってくれて、なんか、ヒマつぶしか、ビールを飲みたいだけのような気もだんだんしてくるんだけど(爆)。
でもね、彼は毎回言うのだ。「カラスヤ君はね、これからドンドン忙しくなると思うよ」最初の頃こそはその言葉に、すわ仕事の依頼があるのかと思って色めきたった聡だけれど「いや、全然ない」
そして、「何の根拠もないけどさ、なんとなくそう思うんだよね」こういうテキトーなこと言わせると、本当に八嶋智人はサイコーだ!
最初は、はぁ、と憮然とするばかりだった聡だけれど、もう最後には思わず笑い出してしまう。それにつられて、え、何?と言いながら、小野さんも笑い出してしまう。
しかもそれも、ちゃんと伏線である。ラストクレジットの後のエピソードで、ちゃんとその答えが出てる。これもまた、じんとするんだよなあ!
しかもね、いかにもそのテキトーさは東京人っぽいと聡が感じていたのに、「これ持ってく?同窓会で行った長崎のお菓子のザビエル」めっちゃ地方人じゃねえかよ!
でもそれが、東京なんだよね、本当にそれが、東京、なんだよなあ……。実はこんな風に“東京っぽい”人ほど実はそうじゃないのは、ある程度東京に住んでみれば判る。
古くから東京にいる人ほど、もっと肩の力が抜けていたりするんだよね。“東京っぽい”人っていうのは、それだけ鎧をまとって、闘っているってことなんだよなあ。
聡は他にも営業活動をしている。編集者のロビーで原稿を見てくれて、しかし「ハイ、判りました」と言うだけの若い編集者。どう見ても脈はなさそうなんだけど、とりあえず原稿を見てくれるということで通っていたんだろうか。
最終的には、明らかに穴埋めの急な仕事とはいえ、聡に仕事を依頼してくれるんだけれど、聡と対峙する時の感じは、ほんっとに小野さんとは対照的なんだよね。
小野さんは……あーもう、言っちゃう!本編中は聡と仕事の話をすることなどなかったんだけど、ラストクレジット後にきちんと打ち合わせの日程あわせの電話をしているのだ。
「いつもの場所で」っていうのはあのいつもの喫茶店だろうし、あいかわらず生ビールをかっくらうのかもしれないけど(爆)、でもそれでも、きちんとそういう関係になるんだなあ、っていうのがなんかグッと来てさあ!
聡がその、穴埋め的な仕事をこなしたのも知ってて、「ちゃんと営業活動してたんだ。そこに描いたの面白かったの?ならうちにも面白いの描いてよ!」
んでもって、「カラスヤ君てさ、なんで漫画家になろうと思ったの?今は全然面白くないじゃん」
憮然とした聡が「俺、いつもおもろいと思って描いてますよ」と決死の反論をすると「なら、ならさ!もっと頑張んなきゃ!それって、凄い大事、凄い大事だよ!」
このシーンさ……カニが食べたいと言った小野さんに聡は肉を所望したっていう、ちょっとした笑いはあるんだけどさ、でも、この小野さんの台詞はすんごい、すんごい、いいよね!
小野さんはこの時点では、聡の父親がそういう事態になっているってことは知らないんだけど、だけどさ、聡が猛然と肉をかっこみごはんをかっこみだすと、「いいねえ!それでなくちゃ!」と自ら次の肉を焼き出してくれる。
……なあんか、さ。小野さん、ちょっと聡の異変に気付いてくれていたんじゃないかとも思ってさあ。ホントにホントに、八嶋智人は、彼のこずるそうなキャラを充分に使いつつ、ホロリとさせちゃうんだもん!!
この辺で、先輩こと野島さんの話をちゃんとしとかなくては。
おのぼりさん状態の聡に「せっかくだからつきあおっか」などと言って動揺させ「ウソや。そんな訳ないやろ。これが東京やで」と、“むこうみずで夢見がち”な聡にクギをさした頼もしき“先輩”(ホントは同級生だっての)。
でも、この時の台詞はあながち冗談じゃなかったんじゃないかなあ。オクテな聡が思わずアワアワしちゃったから、思わずかわしたんじゃないのかなあ。
野島さんは、カメラマンとして成功なんぞしてない。生来の不器用な性格が災いしてか、いい年していまだアシスタントであり、しかもしかも、失敗ばかりして現在もまたクビになったばかりである。
聡を“ヒマしてるだろうから”と仲間たちとのピクニックに誘う場面は、非常にキツイものがある。なんたって行き帰りのバンの中の彼らは、皆して並んで座って、会話をすることもなくただ前を向いて、まんじりともせず、みたいな感じで、しかし現地についたらまるで演技をつけられたように楽しげにボール遊びなどしてさ。
これ、キッツイなあ、と思った。こういうの、ありそうと思ったから……。現地ではしゃいで遊べば、とりあえずオッケーみたいな、その行き帰りが死んだようになっているってのが、それこそ東京の縮図かもしれない、なんて思ってさあ……。
その時に、野島さんの仲間たちが話していたのを聞いて、聡は……多分薄々気付いていたんだろうけれど、彼女がカメラマンなぞではなくいまだにアシスタントで、芽が出ていないことを知る。
「センスが古い」ていうのは、聡も聞き覚えがある台詞でさ。それでなくても東京にい続けることに焦燥を感じていた彼は、野島さんにその思いをぶつけるのだ。
このシーンはホント、グッときたなあ……。本当にカメラマンで成功してます?とついに切り込んだ聡。ぐだぐだと自分の悩みをつらねる彼に野島さんは、だったら大阪帰ればいいやん、とツッコミ続けた。
それが、彼女自身への言葉だというのは、その後、野島さんカメラマンを“辞めて”(実際は、諦めて、だろう……)大阪に帰ることを告げた時に明らかになったけど、でも聡も、そして観客も、それは薄々感じてた。
だから野島さんが必要以上に激昂して、聡とのどつきあいの果てにゴミ捨て場の山に頭から突っ込んだりして(こういう絶妙な笑いが、何ともズルいんだよなあ!)「東京に出てきているんだから、ウソでも頑張るって言え!一緒に頑張ろうって言え!」とふりしぼるのが、もう、もう……たまらなかった。
前者の言葉も凄く染みるけど、彼女にとっては後者の言葉こそ……絶対に、絶対に、言って欲しかったに違いなくてさ。
でも、聡もそうだけど、誰も彼女に、“一緒に頑張ろう”って言ってくれた人はきっと、いなかったんだよね。悔しいけど、女にとってはそれは、とても欲しかった言葉だったんだと思う。
聡よりずっと早く東京に出てきて、女にとっての三十路は男のそれよりずっとキツいんだもん。聡もまた、不用意なことを言ってしまったことを「ごめん」と謝るしかなくってさ……。
男のそれより、と言ってしまったけれど、勿論聡だってせっぱ詰まっている。せっかく入居できて、最初は東京タワーとカン違いした、田無タワーが一望できる西東京のアパート。
私、東伏見と彼が言った時点で、いやいやそれ、東京……まあ一応東京?と心の中で軽いツッコミ。だって、そこから東京タワーが見える訳、ないやん!
東伏見は、私アイスショーを観に行ったことがあって、歌舞伎町の西新宿から西武線に乗ったんだけど、あまりの遠さにビックリしたという(爆)だから強烈に覚えているんだよね。
管理人の息子だという男が現われて、このアパートを近々取り壊したいと言うんである。演じるのは“愛情出演”哀川翔。愛情出演て……ヤハリ、黒沢清の助監督を務めていたという監督だからだろうか?
亡くなった母親が切り盛りしていたというこのアパートを、その記憶を振り切りたくて取り壊したいんだという。
あまりに急な話で、住人たちが対策を話し合うも、あのロシア人が「お前たちは資本主義のブタだ!」と言い放ち、通訳の彼女が彼に随って「ブタ!ブタ!」冷静に指差すのも可笑しく、まあつまり、こんなのはコミカルなフリで、取り壊しは決まってしまうんである。
そんな中、聡の父親が末期ガンだということが母親から知らされる。驚き、駆けつける聡。
チチ松村がねえ、本当にいいのだ。そういえば上京する冒頭、聡を送ってくれたのが彼だった。「なんだかんだ言って、お前に勤め人が出来ないことは判っていた」そう言って、駅前のうどん屋で、きつねうどんのおあげを「餞別や、とっとき」と聡のどんぶりに入れてくれた。と、とっとけない(笑)。
そんな風に、登場からなんとものほほんとしたおとんだった。看護婦さんからの聞き取りに「今?35歳だったかな。この人?(おかんを指差されて)えらいべっぴんさんやなあ」などとボケて見せて、おかんは照れくさそうながらも嬉しそうだった。
このおかんを演じるキムラ緑子もすんごいいいの。もう本当に、おかん、って感じでさあ、二人の夫婦の雰囲気もすんごい、いいんだよなあ。
おとんの病室に泊まりこんだ聡が、早朝、おとんに誘われて屋上へと散歩に行く。
この大変な最中に思いがけず仕事をもらった聡は、悩んでる、と正直に言うと、おとんはゆるやかな口調ながらきっぱりと言った。「何を悩んどんねん。お前、何のために東京に行ったんや」と。
大きな手術を控えていて、しかもその手術をしても、ほんの少し生き延びられるだけのおとん。
手術頑張ってな、と聡が言うと「頑張んのは医者や。わしは寝てるだけや」どこまでものんびりとしたおとん。その口調に思わず微笑んでしまうけれど、その時がもうすぐ近づいてきているのは聡じゃなくても、判った。
おとんがベッドに横たわって、天井を見上げたまま、まるでひとり言のように「大丈夫や。もう30なんやから、一人なんなと食って行けるやろ。大丈夫や」と繰り返すのも凄く印象的なんだよね。
30だから、なんて、何の根拠もない。そんなことしかよりどころがないことが情けない、と聡は思わず涙を流すんだけど、そんな聡に気付いているのかいないのか、大丈夫や、大丈夫と繰り返すおとん。
思えばこの“根拠のなさ”って、あの「これからカラスヤ君は、どんどん忙しくなると思うよ。いや、なんの根拠もないんだけどさ、なんとなくそう思うんだよね」という、小野さんのテキトーな台詞を思い出させ、実は非常にうまくつながっているなあと思わせるのだ。
確かに全然根拠はないんだけど、二人とも彼への愛を感じるし、しかも、根拠がないのに確信に近いほどのしっかりとしたものを感じるというか……なんともじーんとしてしまうのだ。
思えばあの看護婦さんの聞き取りの場面もまた、ちゃんと伏線になっていた。
手術が終わって、仕事のためにいったん東京に戻っていた聡も急ぎ戻ってきて、頭に包帯を巻いたおとんに対峙した時だった。他の質問には聞こえているのかいないのかも判らないまま、まんじりとしていたおとんが、聡が部屋に入ってきた途端、はっきりと目を見開いて言うのだ。「カラスヤサトシ。漫画家ですねん、うちの息子」
あれは、あの台詞はすんごい突き刺さったなあ……もはやおかんのことも、べっぴんさん、などとギャグをかますことさえ出来なかったのに、ずっと心配していた聡のことをさ……。そしてそれがやっぱり、最後だったのだ。
葬儀会場に、あの「これからカラスヤ君はどんどん忙しくなると思うよ」が口癖のテキトー編集さんが贈ってくれたんであろう、その出版社から大きな花が届いているのがまた泣かせるんだよね。
仕事を頼まれたところじゃない。カットの仕事をちょっと回してもらっているにすぎない編集部なのにさあ。
聡はその花の前で、折り目正しく腰を折る。思えば何度も、聡がきっちりとお辞儀をする場面が用意されている。これもなんとも胸に染みいるんである。
結局ね、野島さんは大阪に帰ることになって、そのことを聡の自転車に2人乗りした、その後ろから、彼の目を見ないで、告げた。ごめんな、とつぶやいて。
二人はとことん、しこたま、飲み明かした。もう聡の方がべろべろになって、野島さんは彼の部屋に聡を担ぎこんできた。
あら、ちょっと色っぽい展開?と思ったらさにあらず、もう聡はすっかり正体をなくしてしまってるんだもの。
野島さんは聡を台所に置いたまま部屋に上がりこむ。「ええ部屋やん」座り込む。漫画の作業台の小さなテーブルの下に、飲み切りサイズの紙パックの日本酒が転がっている。
聡はもうホント酒好きで、紙パックの安酒を常にかっくらってて、母親からも「また大酒飲んどると違うの」と心配する留守電が入っているぐらいなのだ……その一方で「あんたの好きなもん送るから。シーチキンとか」などと入っているのがカワイイんだけどね。
おっと、脱線した。でね、その小さな紙パックの日本酒を拾い上げた野島さんは、作業台の上のマジックを拝借して、キュキュキュと何かを書いている。そしてうん、とひとつ頷くと、立ち上がり、曇りガラスの向こうで微動だにしない聡の真正面に座り込んだ。
この一連のカット、聡をかついで部屋に入ってきた時から、低い場所に据えられたアングルがひとときも動くことなく、あれってワンカットだった?ひょっとして。
野島さんが部屋に座り込んで聡へのメッセージを書いている時も、彼女の胸から上は見切れていて見えないのだ。なんともストイック。
そして、曇りガラス、そう、曇りガラス!あのロシア人とそのカノジョにガラガラと閉められた曇りガラスを想起させる、こんなところで効いてくるとは!
野島さんはね、すっかり寝入ってしまった聡に、カメラを向けるのだ。そう言えば彼女はいつも肌身離さずカメラを持っているのに、そのシャッターを押す場面はそれまで一度もなかった。それどころか、聡が何度写真を見せてと頼んでも、イヤや、と笑い飛ばしていたのに。
カシャリ、とシャッターを切った後、彼女は聡の顔を覗き込むようにして……いや、いやいやいや!曇りガラスの、チューではないか!なんて可愛く、なんて切ないのだ!
「ありがとうな」野島さんはそうつぶやいて、すっかり明けた朝の街を帰っていった。目覚めた聡は、あの紙パックの「がんばれ、カラスヤサトシ!!!!」の文字を眺め、ストローをさし、チューッと飲み干した。
もう少し東京で頑張ってみる。新しい部屋に引っ越しが決まって、おかんが手伝いに来てくれる。もう取り壊すんだからと言っても、お世話になった部屋なんやからと畳を丁寧に雑巾がけする、おかんやなーって思う。
家に一人で置いておくのはかわいそうだから、とおとんの遺影を持参したおかんは、新幹線でも窓の外をこうやって見せてきたんやで!と言って、アパートの窓の外に遺影を掲げる。
「あ、ホラ!おとうちゃん、東京タワーや!」思わず笑い出す聡。おかんのおとんへの愛情を凄く感じて、すんごくいい。カメラが切り替わって、窓の外からおとんの遺影を掲げてるおかんと聡を映し出すカットも良かったなあ。あの、“おもんない”ロボットを見上げたのとおんなじアングルで。
ラスト前、小野さんがまたあのいつもの台詞「カラスヤ君はこれから……」とお気楽に口にしている。聡はそのテキトーさに、思わずぐふふと笑い出す。え、何?と小野さんも聞き返しながらつられて笑い出す、しまいには二人で大口開けて笑いあう。
そこでエンディングに突入するのがなんかすっごい、完璧な感じ!しかも、しかもね、先述もしたけど、ラストクレジットの後には小野さんと打ち合わせの電話をしてて、引っ越した先の聡の部屋も、何となくもちょっとまともな漫画家の部屋風になっててさ。
そして、部屋のドアポケットにカタリと郵便が届けられるのだ。それは、それは……あの、野島さんが、カシャリと映した聡の寝顔、なのだ!!!
あーもう……なんとまあ、じんわり温かなことだろう!
聡が一時アシスタントをする売れっ子漫画家、チャンス山崎のキョーレツさも面白かった。
原作コミックまで買っちゃって、ああもう、私ダメかも(爆)。こういう優しくて可愛くてあったかいのって、本当、メッチャ弱いんだもん!!★★★★★
そう、たこつぼの名器を持つ美しき母娘三人の物語、って、こんなん、書くだけでハズかしいわ。しかもクライマックスには名竿を鍛錬している三人の男たちとセックス三番勝負に挑むっつーんだから。
あー、書いてるだけでハズかしい。だってホントに竿を鍛えてるんだもん、氷風呂とかで……いやだから、いいっつーの、もう。こんなん、バカバカしいんだから。いや、バカバカしいエロは大好きだけどさー。
ていうか、いきなりオチを言うな。そもそもねー、たこつぼってのがね。彼女たちの祖先はたこつぼ漁を確立して村に富をもたらしたエラーイお方。その功績をたたえ、たこつぼ型のお墓まで建立されている。
これがまたえらい凝りようで、たこつぼからたこの足がにょろりと出ている形が、その曲線がやけにリアルである。
たこつぼ漁の発明だの、なんか説明のモノローグがやけにリアルなので、これって実在の人物?このたこつぼ墓は実際に当地にあるの?などと最初思ってしまったが、観進めるうちにそのあまりのバカバカしさに(いやだから、そこがいいんだけどね)やあっぱそんな訳ないよなー、とも思う。
だって、あの墓石のたこの足のにょろり加減はリアル過ぎて、逆にインチキくさいもん(笑)。
たこに執着したご先祖から連なる女たちが、みんなたこつぼの名器を持ってるっていうのもね(笑)。タイトルはみみずなのに、みみずなんて全然出てこなくてひたすらたこつぼ。うーんなぜこのタイトルなんだろう……別にいいけど。
ラストには「私たちたこつぼの女は神様なのよ。一人の男に一人の女じゃなければいけないなんて誰が決めたの」とばかりに、娘の妊娠中には巨根のダンナを替わりに引き受けるわよ、とそれが優しさのように言い、それをホントに娘が「お母さん、優しい!」てな具合に受け止めるという口アングリな大団円!?
てか、この次女は最初、しおらしくセーラー服なんぞ来て、性欲のかたまりみたいな母親をケーベツしてたじゃないの!
……なんか話があっちゃこっちゃ行って、全然収拾つかなくてスミマセン(爆)。えーと、だからね、この性欲のかたまりのふとっちょお母さんよ。まあでも、フランス印象派の時代には彼女のような女性こそセックスシンボルであったんだからなどとムリヤリ思う(爆)。
でも確かにもう、色気ムンムンなのよ。ただそれが男を惹きつけるというよりは、男が欲しくて仕方ない、という方向に向いてるんだけど(爆)。
次々に男をくわえこむ母親に眉をひそめる娘に対して「どんなおエライ人だってヤッてるんだ。それがなければ世の中つまんないよ」と言い放って(まあそりゃあそうとも言えるけれど)悪びれない。
まあでも、それだけならいいんだけど、彼女は散々男に騙されて、しかも若いツバメに騙されることが多くて、家宝のたこつぼ(こっちはホントのたこつぼ、って……言わんでもいいって)に蓄えていたお金を何度も持ち逃げされてしまう。
ほおんとにね、劇中一体何度やられてんの。その度に「もう騙されない」と彼女は言うんだけれど、騙されないっつーか、進んで飛び込んでるじゃん(爆)。あれじゃあダメだわ……。
ていうかあれでよく娘がアイソを尽かさないわねって方が感心しちゃうっていうか、そっちこそ呆れるぐらいなんだもの。そりゃスゴイ怒るんだけど、結局「もう騙されない」の言葉にうなづいちゃって、仲良し母娘に戻っちゃう。返ってこのお母さんの方がしたたかだよなあ。
てなわけで、かのご先祖のお墓までが抵当に入ってしまって、猶予は半年しかない、長女の圭子は東京に働きに出ることを決意。
都会ならば稼げる仕事があるだろうと、この時点で彼女が何をするつもりなのか、ナニをするつもりなのか??察しはついた通りの、トルコである(判りやすすぎ……)。
しかも圭子、最初の顔合わせからもう超絶テクを披露しちゃって、あっという間にナンバーワン、ついにはインポの社長を昇天、いや、ホントに、マジの意味で昇天させてしまう。腹上死っすよ、まったくもう。
ストップモーションした画に、乾いた読経に霊柩車が走る画面にからりと変わる。おいおいおいおい!しかも彼女は社長の弟でまむしドリンク会社の社長の、またしてもインポの男に同じことを繰り返すんだから。
ていうか、トルコとまむしドリンクで兄弟で、二人揃って腹上死ってナンだよ!!!
また先走っちゃった……このまむし弟は第二地でのご登場なんだっけ。トルコで順調に稼いでいたのに、圭子は母親から呼び出されるんである。
場所は土肥温泉。事業を持ちかけられてカネを持ち逃げされ、更に旅館でドンちゃん騒ぎをした金まで踏み倒された母親が電報を送ってきたんであった。
自分の不始末で娘を“保健衛生の仕事(圭子談)”に送り出した上に、飛んで火にいる夏の虫がごとくまたしても男に騙された母親に、圭子もさすがにおかんむりで警察に突き出そうとするんだけれど、そこに声をかけて来たのが、圭子が上京する時に列車で一緒になった板前の男。
彼が立て替えると言うのに母親はすがりつくんだけれど、圭子はそれを振り切って、そんなことをして頂く訳にはいかない、私がここで働いて返します!とタンカを切る。……警察に突き出すって言ったのに、なんかこれじゃノセられたみたい。
てか圭子は、あるいは次女の幸子もそうだけど、どんなに母親に呆れても突き放せないんだよね。たこつぼ母娘としての絆、みたいなオバカなつながりとして描かれるけれど、母娘の、女家族の、女同士の強靭なつながりを否応なく見せ付けられる気もするんだよなあ。
そうそう、この板前の男、なのよね。小池朝雄扮する馬場。戦争の後遺症で、ていうか、アメリカ女性のヒモとして渡り歩いたせいで?超巨根になってしまい、セックスできる女性がいないという設定もスゴいが、それ以前に、彼ってこんな……スゴい顔だっけ?もう顔だけでヤラれるぐらいインパクト大なんすけど……。
この馬場の友人として登場するのが、アヤしすぎる芸術家?広瀬で、演じるのが山城新伍。山城新伍って時点で超アヤしいけど(爆)。
彼は女性性器の鋳型を作っては、それが芸術だと悦に入っている。その一方で「これは世界中で売れますよ!」と(売れねー、売れねー!)、芸術家ぶってる割には商売っ気もアリアリで、しかもその方向性ははなはだしくピントがズレてる(爆)。
そりゃー、女性用の男性器型グッズはあれど、あれも私はどうかと思うんだけどさ(爆)、女性器だけをリアルに作ってテンションあがるもんなのかしら……いや、マジに考えてどうするって(爆)。
いやだってさ、女性はおっぱいこそがまずスバラシイと思うんだけどなあ……(爆爆。だからもういいって)。オ×コだけ、それも内部形状だけじゃ、内臓も同じじゃん(だからもういいっての!)。
大体彼が言ったのよ。馬場のアメリカ時代の話を「金髪の女のヒモ、ゴールデンロープだな」って。バ、バカ丸出し……。
しっかしそういう珍妙な芸術家?山城新伍は実にサイコーだったのよね!彼はね、友人の巨根を治すための器具を開発してくれてるんである。「これをホットドッグみたいに挟んで」という説明からしてあまりにもバカバカしくて可笑しすぎる。
それを部屋でカーテンや引き戸を締め切って一人きり試す馬場の、顔だけをアップにしたバイブレーションっぷりがあまりにも切な過ぎる(と言いながら観てる時は爆笑してる(爆))。
そんな彼の元に「私も同じ悩みを持っているの。太平洋ってバカにされているの」と想いを寄せる同僚の芸者がやってくる。すわこれが運命の相手かと挑む彼だが「やだ、そんなところに膝なんか押し付けて」「いや、膝はここだよ。これがね……」「ウソ!?」「大丈夫だよ。だって君だって太平洋なんだろう?」
……大丈夫じゃなかった。驚愕と恐怖に目を見開いた彼女、次のシーンで手術室。「なんてことをしてくれたんだよ!もう使い物にならないよ。器物損壊で訴えるよ!」き、きぶつそんかいて……。ここまでくると、女性蔑視だとか怒る気力も失せてつい笑っちゃう。
しかし馬場はもう途方もなく落ち込む。しかも広瀬が「使っちゃったのか?一年はトレーニングが必要だってパンフレットに書いてあっただろう!」と、だ、脱力……。ぜえったい、あんなホットドッグサンドマシンで巨根が縮まるなんてことないっつーの!てか、こんなハズかしいこと、言わせないで!!!
ひたすら落ち込む馬場。気分転換をしようとしたのか、釣りに出た彼の前に、生まれたての姿で砂浜に横たわる圭子の姿があった。入り組んだ岩場とはいえ、いくらなんでもの大胆行為。
思わず抱きついた彼に「何するの!どうしたの、馬場さん!」と言える立場じゃないと思うんすけど……。圭子への想いを口にし、もうオレはダメなんだ……と砂浜に顔を突っ伏す馬場に圭子は心を動かされた。
さすがたこつぼの女、誰も受け入れることが出来ない馬場の超巨根を、彼女は見事に受け入れる。そして二人は愛を誓い合うんであった。もう離さないよ!と……あー、もう、どうせいっつーの、書いててひたすらハズかしいんですけど!
しっかし池令子、あお向けに寝ていてもおっぱいがつんと上向きで崩れず、素晴らしすぎる。なんかね、乳首の形状とかも(爆)、アメリカのプレイガールみたいでハードなセクシーなんだよなあ。
母親役の松井康子は日本的なふくよかさを持っているのと対照的。このお母さんこそがヒロインじゃないかというぐらい、メッチャかき回してサイコーだったけどさ。
散々騙され続けて、しかし最後につかまえた山城新伍は多分同等にアホだから、彼女を運命だと思っちゃう。てか、そもそもは圭子の奇跡の名器の鋳型をとることが彼の目的だったんだけど、もうお約束どおりアッサリおかあちゃんのワナに引っかかって、しかも骨抜きにされちゃう(爆爆)。
多額の借金を圭子の名義で作ってトンズラしたのは、しかし今までの男たちとは違ってなんか幼稚で憎めなくて、しかもお母さんのことマジ愛してるしさ、山城新伍、アホなんだけど、愛しかったなあ。
彼がマジで作ってる鋳型、女性用もあったらしく「これなら最高裁判所のハイミスもヒーヒー言いますよ」て台詞がサイコー可笑しかった。いや、ここにウケるのもどうかなとは思うが(爆)。
だ、だって、最高裁判所っていう絞り方もコアだし、オールドミスじゃなくてハイミスって言い方がなんともそそられるのよね(爆)。
後半は温泉街を荒らして芸者たちを引き抜いていく竿師たちとのバトルになるんだけれど、もうここらあたりになるとそこまでのあまりの展開に疲れ果てて眠くなっちゃって(汗)。
ふんどし姿で竿鍛錬を行なう男三人は可笑しかったし、「どんなに抵抗されても、中出しー!!」とか唱和するのには(ちょっと言い回し違ったかな)オイオイと困惑笑いしたりもしちゃって。
これは確かに展開的にもクライマックスだったんだけど、キャラ的にはそれまで出てきた人たちでもうお腹いっぱいだったんで、眠くなっちゃったのだった(爆)。
最終決戦は圭子と竿師の師範代で、海岸にまで移動し、くんずほぐれつ、水中にまで及び(圭子は海沿いで育ったから潜りは得意なのだ)そして師範代は力尽きて波間に漂うのであった。
……彼が漂っている海面が狭い範囲で白く濁っているのは偶然?まさか……精液っていう意味では……(ヤだー!だからこんなこと言いたくないんだって!)。
うーん、うーん、みみずじゃなかったけど(だから、いいって)、なんか色々凄かったからいいのかなあ。
鋳型マニアの山城新伍(思えば彼のキャラ造形は、リアルなたこ足の墓石からの流れだったかも?)が最終的には一番印象が強かったかも?
あ、そうそう、いわゆる芸者遊び、それも恐らく……一番オゲレツ、一番エッチなそれを見ることが出来たのも良かったかも。
素股(恐らく)でお馬さんごっこよろしく四つんばいの男性の背中をまたいだり、お股にビール瓶をはさんで抱き合う形で男性に受け渡したりさ。こーいうのが“お座敷芸”なのね。いや、違うか!? ★★★☆☆
と、いうラストを最初から言ってどうする(いつものことか)。でも、主人公である男性が早々にギプス姿になって動けない状態、っていうのも、そんな映画があったようなないような。
いや、気のせいか?雨の中子猫を拾うとか、この“幸福のデジャヴ”がなんとも、ね。
それともギプスで動けないって、エリン・ブロコビッチでも思い出してる?それこそぜえんぜん関係ないではないか(爆)。
それにしてもこの主人公がヒロシというのがね。彼を役者として見い出したのは大林監督だけれど、その「22才の別れ」の時には本名での出演だったから、いわば役者・ヒロシを見るのは初めてであり、しかも主演である。
彼ってさ、今やCSの釣り番組でしか見ない気がするけど……(しかも、冠番組だが)、なんか彼の場合、自分から華やかな舞台を遠ざけている雰囲気があるというかさ。いや、あるいはそんな話をどこかで聞いたんだったかな?
彼ってなんか、いかにも繊細だし、確かに芸人には向いていない気はしてた。しかし役者としても、「22才の別れ」で今後の展開が期待されたものの、目にする機会もなかった。
でも本作での彼を見て、やっぱ彼、役者としての才があるじゃんと思った。この内向的とさえ言ってしまえるような押し出しの弱い青年というのが、彼自身のパーソナリティにしっくりくるというのもあるのかもしれないけど。
こんな巨乳の子相手にしっかりカラミも見せるしさ、しかもまあまあ見られる顔(失礼な言い方……)に見られる体だから、カラミシーンもなかなかに美しいのだよね。
あのおっぱいは実に持ち重りがするだろうなあ、という感触を感じさせるあたりがヨイよね♪
いやいや、まずはどんな話かだわ(汗)。
冒頭、雨の中、濡れたダンボールが映し出される。横を通り過ぎる革靴。ミューミューとか細い声が聞こえる。戻ってくる革靴。箱の中から首輪をされた白い子猫が抱き上げられる。
と、まさにその時、車から突き落とされた女の子がゴロゴロゴロッ!と転がり落ちる。驚いて声をかける革靴の男。
雨にすっかり濡れた顔を向けて、女の子は「大丈夫」と言ったけれど、ちっとも大丈夫そうじゃなかった。
この冒頭シーン、いきなりツカミはオッケーなんである。ま、猫キチにとっては猫が出てくるだけでツカミはオッケーなんであるが、車から突き落とされる女の子、という不意打ちと(これも、「ケンタとジュンとカヨちゃんの国」とか、「悪人」とか……インパクトを与えるための、一つの王道手段なのかも)振り仰いだ彼女の顔が、びしょ濡れの黒髪と妙にぽってりとした唇がやけにエロティックで、この時点では彼女が巨乳かどうかなんてことは判らないんだけど(爆)、なんか既に、やけに蠱惑的なんである。
後に彼女が、男の入院患者たちにピカイチの人気者である巨乳ナースであることが明らかになるんだけど、巨乳じゃなくても、お顔からして十分エロティック。
こんなこと言うとアレなんだけど、正直特に可愛らしいお顔立ちって訳じゃ、ないのね(爆)。顔立ちとしてはアンバランスだと思う。正直、目ははれぼったい感じで、ぽってりと言った唇もはれぼったいという言い方も出来るかも(爆)。
でもそのアンバランスこそが、魅力的、なんだよなあ。ヘップバーンがファニーフェイスと言われたことを思い出す、なんていうのは、言いすぎかな?
ワケアリげな彼女をとりあえず自分の部屋に招き、シャワーを浴びさせる代作、てのは、ヒロシが演じる主人公ね。
グレーのスウェットの上下を着た彼女は、確かにこの時から巨乳のヘンリンは見え隠れしているんだけれど、なんたって男物を着ているから、やはりまだ判然としないんだよね。
大体グレーのスウェットというダサさ加減が、何とも萌えるんである。男物を着ているからダルダルな感じが実にイイ。後に彼がこのスウェットを自身で着ているシーンもあったりするもんだから、余計に、ねえ。
この時にも十分色っぽい雰囲気になりそうな予感はあったけど、なんたって代作は見るからにオクテそうだったし、拾ってきたばかりの子猫もいて、この子猫の為の牛乳を買いに出かけている間に、彼女は姿を消していた、のだ。
次に代作がどこで彼女に会うんだろう……と思って見ていると、就職面接を受けている彼、前職の退職理由を一身上の都合で……と濁したところに、あの会社ならリストラでしょ?と突っ込まれてしまう。
結果は×。とぼとぼ歩いているところに、ふいに彼の姿が画面からかき消される。カットが切り替わると、ぽかんと開いたマンホールを、工事人夫があれまと覗いている。
なんともとぼけていて、ふと吹き出してしまう間が絶妙。そんでもって、そういうのがヒロシもまた、似合うんだよな!
担ぎ込まれた病院で思いがけず再会したのが、あの雨にそぼぬれていた巨乳の女の子、春菜だったんであった。昨日の今日の、ありえないほどの偶然だが、これはなんたって映画的偶然なんだから目をつぶらなくては。
そう、昨日の今日で、子猫を迎えてまだ一日、いきなり数日間の入院を言い渡されて、子猫の世話が出来なくなることを危惧する代作に、春菜は「お礼に私が」と申し出る。
アッサリとカギを貸してくださいというもんだから、代作もアッサリと渡してしまう。これって、彼女が病院の看護師ということを考えると特に、病院のマニュアルの禁忌事項に一番に触れることだよな。まあ、直前に二人の間にそういう事態があったにしても……。
後に春菜が、口説かれや押し切られに極端に弱い、つまりイヤと言えない、客観的に見るとヤリマン女にさえ映る女の子だということが判明すると、この彼女の申し出って、妙に納得出来るというか……。
最終的には彼女は、自身でも押しに弱い自分をイヤだと思ってて、結局相手に本当に惚れられている訳ではなくて男はヤリたいだけで口説いたんだということに傷ついて……つまり傷だらけの女の子、なんだよね。
そうしたガードの弱さが、彼女にとって何度目の正直?って感じで本物の男をゲット出来た理由ならば……良かったのかなあ。でもそれって、同性から見ると、メッチャイヤなタイプだけど(爆)。
何人もの男と付き合っているという情報を得ても、代作は春菜への思いを募らせていく。そりゃそうだよな……あんな、一番弱い、一番無防備な場面を見ちゃったんだから。
いや、無防備という点では、この後に更に用意されている。めでたく退院した代作の元に、預かっていた子猫のゴローを携えて、誕生日のお祝いに春菜がやってくる。「カルテで見ちゃいました」というあたりが、実に無防備である。
コンビニにこれしかなかったとロールケーキを差し出すあたりも、ねえ。一緒にケーキを食べ、電車がなくなり、泊まっていけば、とおどおどと申し出る代作。
ソファで無邪気に眠る彼女の寝顔を写メで撮るだけの筈が、気付いた彼女についその気になってしまった代作は拒否られてムチウチの首がイテテテテ、と(爆)。
出来心を恥じた彼に、しかし春菜はスエットを脱ぎ、その豊かなお乳をあらわにする。いや、いいんだ、本当にゴメン、と恐縮する彼だけれど、ただ、一緒に寝てくれないか、と、最低限のリクエストをする。
そして二人は、何もせず、ただ肌を合わせて眠ったんであった。
春菜に言い寄っている病院に出入りしている業者が、患者たちの間で“ヤリチン”と呼ばれている、誰彼となく寝ているケーハクな男でね。それでも春菜は「一番好きなのはキミだよ」と、人間が文明を築いてから一体何度この台詞が世の中に吐き出されたんだろうと思われるほどに陳腐な台詞に流されてしまって、コイツと一度関係を持っちゃうんだよね。
確かにコトに及ぶまでのコイツの手管は、憎たらしいほど上手い。それもまた陳腐ではあるけど(爆)、それを上手く使いこなしてる。
酒をいい具合に使い、女の子の弱いところをくすぐり、すんなりホテルに連れ込んじゃう。
必要なところをだけを出して(……あー、こういうの、ホント、ヤだ)、性急にセックス。しかもその後、おっぱいだけがあらわになってベッドの上でぐったりしている彼女を残して「俺、明日早いから帰らなきゃ。シャワー先に使っていい?」前半も後半も、しんっじられない、どーしても許せない台詞だッ。
もちろん本気で付き合うつもりなどないからなんだけど、女の子を口説いてヤッて、この前半の台詞も後半の台詞も、絶対絶対、100パーNGワードでしょ!
見た目は結構、そう、イケメンの部類に入るヤツでさ、それなりにいいカッコして、つまり自分に自信があるのがアリアリで、ほんっとにムカつく!無造作に使われた彼女の見事な巨乳がもったいなさすぎる……。
ピンク映画っぽく、カラミ要員なども登場して、このヤリチン男の面目躍如?なシーンは別にも用意されている。ご丁寧にも、ナース姿のままのファックをご要望あそばされてさ(ケッ)。
春菜の悪い噂を聞いても、どうしても彼女を忘れられない代作は、指輪を用意して春菜の仕事終わりを待ち伏せる。
仕事も決まったんだ、春菜のおかげだ、と言って、指輪を差し出す。しかし春菜は、見合いをして婚約してしまったんだ、と言い、彼の前から姿を消してしまうのだ……。
あのね、その前にさ、あの子猫、春菜がゴローと名付けた子猫が姿を消すのよ。せっかく就職も決まったのに、窓が開いてて、逃げ出したのか……。
その後、代作が春菜にプロポーズし、更に言うと彼女が花嫁姿で逃げ出してくるまで、彼は、そして彼女も、ゴローが姿を消したことに大して頓着していないんだよね。
あれだけのシークエンスを挟んでいるなら、数日、いや、一週間か二週間は経っているんじゃないかと思われるほどなのによ。
だって、就職が決まって、彼女を呼び出してプロポーズし、フラれて、それなりに仕事の歯車が回り始めて、で、その彼の元にウェディングドレス姿で駆けてくる春菜、まで、ゴローは姿を消したっきりなのよ!
正直、春菜が代作の部屋でプロポーズされる場面で、彼女がゴローの姿が見えないことにひとことも言及しないことも解せないし、春菜にフラれた代作がヤケ酒し、往来でスッ転んで指輪をどこかに吹っ飛ばしてしまった、その指輪の行方はすんごく気にするのにさあ……。
最終的に、ウェディングドレス姿の春菜と一戦交えん、とあのボロアパートの一室の狭いベッドに彼女を押し倒して、何層ものレースをもどかしげにまさぐっていたその時、どこからかミューというゴローの鳴き声がする。
二人が探すと、ベッドの下に、何事もなかったかのようにゴローがいる。白猫のゴローがきれいな白いままで、それってまるでここにずーっといたんだよと言ってるみたいだけど……。
うーむ、そんなことにこだわるのはおかしいのか??やっぱり猫に関しては、ついつい過敏になってしまうなあ……。
しかも、その尻尾に、散々探し続けてきた指輪がしっかとはまっているんである!……うー、なんかこれって、メッチャ少女マンガチック!うーむ、素直に酔ってしまえばいいのかなあ。
確かに指輪を探していて、側溝までもさらっていた代作がふと振り返ると、ウェディング姿の彼女が駆けてくるのが、その振り返る前の一瞬に観客に豆粒ほどの彼女の姿が示されるドキドキとか、ステキだし。
なんたってウェディングドレス姿で愛する人とベッドに倒れこむのは、ひょっとしたら、これは女の子の夢かも、などと(恥)。
言い忘れてたけど、春菜はトラウマ的な家庭環境にあってね、厳格な医者である父に気に入られようとして、看護師を目指したという経緯があったんだよね。
それが、愛されたがりで、誘いを断わることが出来ない、それが結局は自分も相手も傷つけてしまう結果に陥らせてしまう。
そう、春菜は、いわばヤリマンである自分を自覚していて、「優しくされると、誰とでも寝る。そういう女なんだよ!」と自虐的になり、「だから、私は誰でも好きになれるから」と母親の勧めるままの相手と婚約してしまった、というのが、先述の経緯だったんだよね。
そんな彼女のことを先輩看護師も心配していて、春菜が看護師を辞めた後に訪ねてきた代作に、あなたは違うかもしれない、と彼女の行方を教えてくれるんである。
だから……だから代作は春菜に、自分をごまかすなよ、と責めても、この時点で代作には彼女を引き止めるだけの材料も、自分自身の自信もないというのが切なくてさ。
だから、だから、ある程度時間が経って、つまりはそれって、もう春菜としてはにっちもさっちも行かなくなっている筈なんだけど(爆)、それでも花嫁姿でショボいアパートへの道を駆けてくる。ちょっとクスリともするし、ゴローも現われてくれるし、幸福なラストなのだ!
いや、私だってね、このゴローが春菜を象徴しているってことぐらい、判ってるさあ。春菜と共に現われて、春菜が彼から離れると消えて、ってね。それでも猫にはどうしても、特別な思いを抱いちゃうんだもの!
それにしてもヒロシは、ちょいと素敵だった。彼が捨て猫に対して「こういうの、ほっとけないんだよね。実家では27匹飼ってたし」と言うのが春菜の目を丸くさせるとともに観客にも噴き出させ、ひょっとしたら彼は猫に関しては結構なプレイボーイかも??なんてね!
捨て猫をほっとけない、捨てられた女もほっとけない、だなんて、つまりは最初から彼の方がウワテだったのかも、と思うと、これってほおんと理想のファンタジーかもと思う。
とか言いつつもやはりやたら生々しく、今思い返しても、彼女の巨乳にはドキドキし、あのぽってりとした唇にキスする感触もドキドキとするのだっ。★★★★☆
で、田中絹代監督作品、な訳で。今まで数作しか観ていないけれど、とにかくハズレがない。
本作なんて相当重いテーマなんだけれど、きっちり笑わせる部分を作っているところもさすがだと思う。映画がエンタメの完成形だということを、映画黄金期に活躍した彼女は判っているんだと思う。
そう、リンチの場面なんて現代の目から見ても相当切実に撮っていて、正視出来ないぐらいなんだけど、それもまたエンタメの要素なのだと判っているからこそ、手を抜かないのだと思う。そういや、脚本家も女性なんだよなあ。
これはね、赤線が廃止された時代を描いているのね。まさに当時、リアルタイムでの話であるから、この更生院や施設は当時きっと、実際にあったものなのだろうと思う。
売春が禁止されても、そこからハイ!といきなり夜の女が消え去る訳でもない。それで生活の糧を得てきた彼女たちは、のらりくらりと法の網をかいくぐる。
でもやはり、捕まってしまう。更生施設に入れられ、規律ある生活を送り、まともな職につけるよう努力するものの、やはり世間は冷たく……それを、一人のヒロイン、邦子を通して見つめるんである。
彼女が外に出るまでには、施設の中での女たちの生活は、結構笑わせたりもするんだよね。
遊郭の時代から夜に生きてきた最年長の亀寿さん。男に虐げられる生活をしてきたから女が好きなのか、それとも元々女が好きなのか、あるいはこのよしみチャンだから好きなのか。
不自然に黒い髪をおさげにして、シワクチャの顔の亀寿さんは、さながら一人芝居でOLをやるイッセー尾形のような、お局様のオソロしさ(爆)。
亀寿さん、仮病を使って作業を抜け出しては、同じようにサボってゴロゴロしているよしみにのしかかって顔じゅうチューチューやり、言えないところに手をやり、同衾をかましてくるなんていうシーンから始まるんだから、もう呆然とあいた口がふさがらないんである。
ま、まさにこれが、つかみはオッケーってヤツかも(爆)。だって、このシーンだけでかなーり生々しくて、見てられない(爆爆)。
これは男性監督じゃ、こうはいかないんじゃないかと思う。田中絹代は相当のツワモン。まさに観客をまずとらえて離さない。
でも、亀寿さんに関しては、つまりはコメディリリーフなんだよね。このよしみという女は逃亡癖があって、それってつまり、この亀寿さんから逃げたいからなんじゃないかと思うんだけど(爆)。
塀を軽々と乗り越える若いよしみを追いかけて、老いさらばえた亀寿が哀しく叫び、逃げたのはよしみなのに、哀しみのあまり暴れまくる亀寿の方が個室に押し込められちゃうという、笑っていいのかどうなのか、微妙な場面さえある。
亀寿さんの関西弁がまた、何とも悲哀と可笑しみを感じさせて、ほんっと、怪演だなと思う。
しかも彼女は、何度めかのよしみの逃亡にさすがに絶望したのか、自ら命を断ってしまうなんていうオチまで用意されているんだもの……。
しかし、そう、あくまでこの施設内での女たちの出来事は、あくまで前座に過ぎないのだ。
その中でも優等生である邦子が、他のみんなへの励みにもなるだろうと、率先して職を斡旋されるんだけど、ことごとく世間の冷たい視線にはねかえされるのが、メインの展開なのだ。
ただ……そうだ、亀寿さんのエピソードが冒頭ではなかったのだ。最初はね、いかにもセレブな奥様たちが、この施設をご見学遊ばしている場面から始まるんである。
指にダイヤや翡翠をキラキラさせている奥様たちに抜け目ない亀寿さんはすり寄り、お菓子なんぞをゲットする。
この奥様たちが、外面は彼女たちの境遇を哀れみながらも、性病を持っているかもしれない女たちにあからさまに引いたり、つまりは上から目線だなんてことは、施設の女たちはとうにお見通しなのだ。
口では、カイショない男のせいで身体を売るハメになった女たちに同情しても、結局は軽蔑していることなど、ミエミエなのだ。
でも、その中で、真に慈悲のまなざしで彼女たちを見つめている人がいる。それが、邦子の三番目の引き取り手である、バラ園を営む志摩夫人だった。
彼女と彼女の夫、そしてそこで働く早川は、確かに邦子に愛情を注いだけれど、ある意味彼らが一番、邦子に現実の厳しさを教えたのかもしれないと思うと、何とも心が痛いんである。
と、いうところまで行くには、まだまだ先がある。邦子はね、彼女が可愛がっている妹分的存在、チエ子の言うように、この施設内に集まった女たちの中でも、春をひさいでいたようには見えない、さっぱりとした気性である。
つまりそれって、いかにもそう見えるような女たちは邦子以上に外に出られないと言っているような気もしなくもないんだけれど……でも実際、そうかもしれないなあ。
亀寿さんは特別としても(爆)、施設内でぺちゃくちゃ喋っているハスッパな女たちは、早く男とヤリたいワ、などと臆面もなく言っちゃうような、なんつーか、ナチュラルボーン娼婦、みたいなさ。
でもそれも、ある意味、彼女たちの誇りだったのかもしれない……。
などと思うのは、どんなにマジメに働いても、どんなに自分を正直にさらけだしても、その前進ゆえに非情に弾かれてしまう邦子が、ボロボロになって施設に逃げ帰った時に言った台詞に胸をつかれたから。
「どうして身体を売ってはいけないんですか。自分の技術を売っているんだから、立派な商売だわ。それしか出来ない女たちもいるんです」と。
邦子自身は、決してそうではない、クレバーで、まじめで、きちんと生きていける資質を持った女性なのは、三番目の勤め先のバラ園で、理解ある人たちに囲まれて生活を立て直す場面で充分判る。
でも、こういう価値観っていうのは、この時代にはまだまだ生きていて、そう、娼婦もいわば技術を持った職人のようなもんだと、立派な職業なんだという価値観。
ただ、やはり……狭間だったと思う。それこそ亀寿さんが現役だった遊郭やなんぞは、そんな誇りもあったかもしれないと思う。もちろん、蔑まれる視線はあったにしても。
でも、アメリカ的価値観がどっと流れてきているこの頃は、娼婦という意味が、それまで日本で培われてきた遊郭の女のような、まだ雅やかな雰囲気を持ったものとはぜぇんぜん、違うのだもの。
ひょっとしたら一番違うのは、貧しい親に売り飛ばされて、せめて気位の高い吉原の女でいようというんじゃなくて、自らの貧しさ、あるいは伴侶の理不尽ゆえに、進んで身を落とすという哀れさにあるんじゃないかと思う。
邦子は悪い恋人に引っかかり、その道に進んでしまった。ラストはその恋人が出所して来て彼女を脅し、愛した人との結婚も彼の親に当然のように反対されてしまう。
一緒に暮らしながら更生を誓う仲良しのチエコに、「私たち、どうしてあんな道を選んでしまったんだろうねえ」と搾り出す場面はひどく切実である。
仮にたった一度でも、ほんの短い間でも、赤線の女だったという過去が執拗に彼女たちを追いつめる。
これがはじめての外勤めのチエコは、学生食堂で気のいい学生たち相手にアッケラカンと仕事をしているから、それまでヒドイ目にばかり遭ってきた邦子とはだいぶ違う雰囲気だし、実際チエコは、私たちはこれからいくらでも幸せになるんだ、言ってはばからない。
実際彼女なら、そのアッケラカンとした雰囲気そのままに幸せになってしまいそうなんだけれど……。
邦子が最初に勤めた、住み込みの食料品店は、もう最初っからカンの強そうな奥さんがゾッとさせるんである。
気の弱そうな主人、達吉(桂小金治がメチャクチャ体現してて、サイコー!)は邦子を気遣ってくれるものの、結局は「もう少し辛抱してくれよ」てな言葉だけで、具体的に助けてくれる訳じゃないんである。
噂というのはあっという間で、邦子が赤線出身だというのはもう初日からバレてしまい、奥さんはまるでゴキブリを見るように、邦子を侮蔑する。
「知っていたら、雇いませんでしたよ」と、シンジラレナイ、てな雰囲気アリアリで吐き捨てるように夫を責め立てているのを、邦子が聞いているのだって、絶対判ってて声高に言ってたに違いない。
適当に口実をつけて、ヒマを出しますよ、とまで言う。そして、奴隷のようにこき使う。
そんな奥さんを尻目に、弱気ながらも邦子をかばう主人や、そもそも邦子の出自を軽々しくバラした出入りの商人たちは、つまり、邦子がソウイウ出身だから、あわよくば、という気持ちがアリアリなんである。
いや、それを最初っからあからさまにして、デートに誘うヤツはまだいい。
奥さんのイヤミに絶えかねて、辞める決心をしてから邦子が主人を誘惑すると、こいつったらオドオドしながらもアッサリ乗っちゃって、奥さんにバレるとオドオドするばかりで、ズルいことこの上ないんだよね。
演じる桂小金治の気の弱さがあまりに上手いから、ウッカリ彼の方に同情しそうになるんだけれど、とおんでもない!
結局は彼もまた、普通の女として再出発したいと思っていた邦子の気持ちをまるで汲んでなかったんだもの。
自分から飛び出して、懐かしい街に舞い戻り、客をとろうとしてすぐに刑事に捕まってしまい、施設に送り返された邦子。
彼女に次に用意されたのは、女工だった。工場内で淡々と働く仕事なら、口さがない街のうわさからも無縁に思えた、のは、甘かった。
ヘタに自分の過去を隠して失敗した前回の教訓を生かそうと、気さくそうな仲間達を見込んで、赤線だったことを打ち明けたのがマチガイだった。
門限や恋愛をあけすけに語って、ちょっと不良を気取っている彼女たちだからこそ打ち明けたのに、邦子の告白にいきなりシーンとなる。
そして、早速「頼まれちゃったのよ。私の顔を潰さないでよ」と邦子に“仕事”を持ち込む始末なんである。
しかも、彼女たちだって恋人や彼氏のフリして似たようなことやってるくせに、「だって、あんたの方が専門じゃない」と、まるで邪気もなく言うんである。
辞めたと言っても、生き直すんだと言っても、どうせ辞められないんだろ、と追いかけ、嘲笑する顔、顔、顔……。
たまらない。こんなの、ヒドい。ヒド過ぎる。
邦子はあえて敵のワナに飛び込み、やっすいカネで彼女と寝ようとする男どもに、お安く見てんじゃないよ!とタンカを切る。
有り金全部出せよ、ホラホラ、最初はどいつからだよ!と、土管の中で股をおっぴろげて凄む。<p>
このシーン、膝を立てて座り込み、股間で大見得切る彼女の後ろからカメラが映し、この画だけでもすんごいインパクトあり、怖じ気づいた男たちが逃げ出すのは爽快だけれど、でも……。
結局そこまで堕ちなきゃいけない自分を恥じてむせび泣く邦子があまりに哀れでさあ……。
しかも、自分たちのメンツを潰されたと、男を紹介した女工たちに邦子がリンチされるシーンはさっきも言ったけど……見てられないんである。
もうそんなこと、出来ないようにしてやる、と、自分からけしかけたのに、私の彼氏をナニした、みたいに因縁つけて、邦子を押さえつけ、足を広げさせ、大事なところに火をつけて溶かした蝋燭のロウを……やだやだやだやだ!!!
ボロボロになった邦子は、ほうほうのていで、施設に舞い戻る。
あまりの事態に警察に訴えることも検討する施設だけれど、結局は世間体の名の元にウヤムヤにされちゃうんである。
この工場でのエピソードがあまりにキツかったから、次のバラ園でどんなに優しくされても、充実した日々を送れても、もう信じないぞ!という気持ちがあったのに。
だけど、ずっと気にかけて受け入れてくれた奥さんも、エリートぽいだんなさんも、そして何より邦子にストイックに仕事を教え込んでくれた早川青年も、みんなみんな、今までまず色眼鏡で見てきた人たちと、明らかに違ったからさあ……。
ことに早川青年は、まっすぐに邦子の誠実さを評価し、愛するようになる。彼女に真摯にプロポーズする。
私みたいな赤線出の女が、結婚なんて出来る訳ない、と尻込みする彼女を説き伏せる。
実際、これまでの経験で、彼女の見通しの方が、哀しいけど正しいことは、観客にも重々判っている。でも、うっかり信じちゃうのだ。
だって、この早川青年を演じる夏木陽介が、あまりにもあまりにも、ストイックで、正しいことなら頑張れば判ってもらえると、本気で信じているのが、そんな彼を信じたいと思うほどの、まぶしいほどのまっすぐさなんだもの。
実家が古い家柄の跡取りだと判っていたのに、それでも親を説得できると思っているあたりがあまりに青くて。
彼の母親から達筆の巻き手紙で丁重に、しかし非道に、赤線上がりの女を拒否してくるシーンは、痛すぎる。
志摩夫人や旦那さんが、あなたたちはとてもいい人だし、出来るだけ力になってあげたいけど、結婚となると……と言葉を濁すのが、確かにあまりに判り過ぎるだけに、この場面ばかりは、彼らを冷酷などとは責められなくてさ……。
でも、それでも、そこまで加担する覚悟がなければ、彼女たちを救い、社会を変えることなど出来ない、という、厳しい鎖が存在するのなら、優しい気持ちを持つことさえ、残酷なんだと言われてしまうのなら、一体どうすればいいのだろうか……。
今までとは違って、皆が自分の過去を受け入れてくれていた。バラ園の夫婦と早川さんのみならず、部屋を貸してくれたお寺さんも。
それでも、ここから離れなければならない。どこに行けば安住の地があるのか。
邦子と姉妹のように仲がいいチエコは、荷物を置いているんだし、きっと帰ってくるよ、と言うけれども、本作のラストは、逃れ逃れた邦子が、どこかの猟師町で海女さんになって、しわくちゃのオバチャンたちとイキイキと海辺から引き上げてくるところだった。
なんとなく、ここならば、邦子を受け入れてくれそうな予感を観客も感じるけれど……とにかく、とにかく、裏切られ続けてきたから……。
リンチを受けてはいずるように施設にたどりついた邦子の姿と、その後の悔し涙が忘れられない。
女って、なんてソンなんだろうと思う一方で、その苦しみを想像出来るのに、こんな仕打ちが出来ちゃう女もいる、のは、現在進行形でも確かにそうだから……。 ★★★★☆