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「さ」


2005年鑑賞作品

最後の攘夷党
1945年 84分 日本 モノクロ
監督:稲垣浩 脚本:藤木弓(稲垣浩)
撮影:宮川一夫 音楽:西梧郎
出演:嵐寛寿郎 水野浩 南部章三 原聖四郎 寺島貢 市川春代 笠智衆 光岡龍三郎 小池柳星 岬弦太郎 芝田総二 谷讓二 大川原左雁次 櫻春太郎 相馬千恵子 北條みゆき 瀧澤靜子 小林叶江


2005/5/10/火/東京国立近代美術館フィルムセンター(稲垣浩監督特集)
終戦から4ヶ月しか経たないうちの製作で、“GHQ方針にのっとった”というのがよーく判る、判りすぎるほどに判る、ここまで判りやすすぎるのも問題じゃないかと思うぐらいに判る作品。つまりは、神国日本思想を捨てて、西洋国の文明に学べと、まあこういうことで。で、やはり同じくそれまでの“神国日本”が崩れ去り、西洋文明がドーッと入ってきた明治維新の頃に題材をとってるわけ。この、当時の現在、じゃなくてね。なーるほど、などと思っちゃう。いや、わたしゃーそりゃ当時なんて判るべくもないけど、その現在で、ハイこういう風になりなさいといきなり言われたって確かに説得力がないもんなあ。でも昔にも同じような時代はあったんだよと、昔の人に習って君たちも、っていうのは確かに上手い戦略かもしれない。

でも、痛々しいよね、それって。しょうがないことだけど。しかもアラカンなんか持ってきちゃったら更に痛々しい。そらまー、この人だって私にとっては名前と顔は知っていても、そうそう観る機会のあるお人ではないから、この作品で何回目かなって感じだけど、でももう大スターで、数々のチャンバラ映画の主役を張ってきたお人なわけでしょ?それがチャンバラを取り上げられて、サムライという価値を捨てさせられて、いわば西洋の前に屈する形になるっていうのは、そりゃまあ物語上は、このアメリカ人宣教師家族の寛大な心根に目を見開かせられるって形だけど、それがあまりにも“GHQ”なもんだからさー。

アラカン扮する大葉慎吾は、国を挙げての欧化思想に反発し、神国日本を復活せんと決起された神風連のメンバー。でも西洋の武器である鉄砲の前に彼らの刀や槍は封じ込められ、メンバーは次々と死んでいってしまうのね。一緒に闘ってきた仲間が、自分たちの無力を口にすると大葉は怒るんだけど、その彼は、だって目の前で見せられているじゃないか!と苛立つように言い、そしてその言葉を証明するかのように彼もまた鉄砲の前に倒れてしまう……大葉は一人難を逃れるんだけど、かつての使用人に勧められても武士の命であるまげを切ることはどうしても出来ない。しかもお尋ね者である。……そのまま彼は長崎へと流れてゆく。

でね、ここで大葉が遭遇するのが、画家であるという香西でね、これが笠智衆なわけ!私が今まで見た中で一番若い笠智衆!いや彼だって20代の時分から映画に出てるんだから、もっともっと若い笠さんに出会うこともこれからあるんだろうけれど、でもとにかく今までで一番若い笠智衆には感動したなあー。この時にもう40かそこらだけど、それよりも若く見えるような、西洋文明の恩恵を熱く語る青年って感じで、喋ってみればその語り口も声も笠さんなんだけど、ちょっと最初、判らなかったわ。黒々とした髪の、青年画家の笠智衆なんて、ねえ。ラフに着流した着物姿がまた、居酒屋で西洋文化を語る青年のラフさで、んんー、イイんだわ。

ここでの笠智衆の、アラカンに対してとくとくと語り聞かせる西洋文化の素晴らしさと、それに対する日本の無気力さや神国ニッポンの愚かさっていうのは、笠智衆だから妙に説得力があるし聞き入っちゃうんだけど、ものすっごく語っちゃって語っちゃって、こんな尺で語られると、ああー、やっぱりあまりにも“GHQ”なのよね、などと思ってしまったりもする。判るのよ、確かにね。例えば日本は今まで武士階級にしか勉強を許してなかった。庶民はバカだと思われてた。当然図書館なんてものはなく、貴重な書物は武士階級の蔵にほこりをかぶってしまい込まれていると。今まで数多くの才能ある庶民層の人たちが葬り去られていったのだと。このままだと日本はダメになると。だから向学心あふれるこの香西は、西洋の本が読める、この長崎へとわざわざやってきた。何年もかかって西洋の本を読破しているという。
それにまあ……この時香西が語るのは、「確かに西洋国にわが国は侵略された事実はあるけれど……」なーんてことを言うんだけど、この時代には、日本が同じように(というかもっとヒドいやり方で)アジア諸国をそうしたってことは露ほども語られないんだよなあ、などとも思うんだよね……やっぱり時代で語られないことってあるんだよなあ。

大葉はまだこの時には神国日本バンザイであり、西洋なんぞに駆逐されることを吐き気がするほど嫌っているに違いないから、もう香西と大ゲンカしちゃうわけ。でもそこに大葉を追っている秘密警察が入り込んで、このケンカもどこかうやむやになっちゃってね。で大葉は遊女、小菊に拾われる。ひと時の穏やかな時間を過ごすも、そこにおかれた報知新聞(って思いっきり実名新聞だわねー。報知はGHQ方針にのっとってたってことかしらん)によって残った仲間たちが次々と自刃した事実を知り、自分はどうすべきかと思い悩むのね。
しかしだからといってその次の行動はよう判らんけど。小菊のもとを出た大葉は、ふと見つけたアメリカ人宣教師の家に押し入り、刃を向けるんだもん。彼にとってこの日本を侵略しているのは西洋だと、イコール西洋人は悪だと、そういう思想らしくて、最終的にはこの家族たちに諭される時も、アナタハ西洋人ヲ殺シタイノデスネ、みたいな展開なんだけど、ええ?そうじゃないでしょ、そうじゃなかったでしょ?西洋文化を推進する政府を憎んでいたんであって、西洋人を殺すとかそういう方向じゃなかったんじゃないかと思うんだけどさー……このあたりは物語を進めるためのかなりのご都合主義を感じなくもないんだよなー、正直。

大葉はこの宣教師家族の持っていた護身用の華奢なピストルで足を打たれ、昏倒してしまう。でもこの家族は大葉を警察に引き渡そうとはしない。頑として、私たちが怪我をさせたのだから、彼はここで責任をもって治す、と言って聞かない。まあ、“GHQ”的には、彼の間違った思想も直す、ってことになるわけだよな。あ、そういうことなら、前述の、ご都合主義がナルホドと思うわけだ。だって“西洋文化を推進する政府を憎む思想”は言下に間違いだとはなかなか言えないけど、“西洋人を憎む思想”は宣教師だったら、それは間違イデス、と諭すことが出来ちゃうもんね。実際そういう方向で大葉は落とされちゃうんだもん。同じ人間、愛しあうことが必要だと、そう諭されて、大葉はいかにもそうだと、まげを切っちゃうんだもん。

まあ確かにそこまで至るには大葉にはすっごく逡巡があるんだけどね。親切にされればされるほど居心地は悪いし、仲間たちには申し訳ないし、諭されて諭されてそうだとは思いつつも、思い切れずに腹を切ろうとまでする。でもそこで止められて、最後の追撃の諭しを受けて、あなたは一人で生きているんじゃないと、お父さんお母さんによってこの世に生を受けて、周囲の数多くの人たちによって生かされているんだと、これからあなたは生きて働かなきゃいけないんだと諭されて、ついに陥落しちゃうのね。判る、判るんだけど、この陥落しちゃうアラカンがどうにもこうにも痛々しくってさー。日本の恥の文化というか、申し訳ない思想というか、そういう部分をことごとに否定されちゃってるから。そういう部分に大葉が言及すると、聞いてる娘さんのエリザベスなんかは「ワタシ、ヨクワカリマセン」って逃げちゃうし、それを大葉が簡単な言葉で言い換えると判ってくれるんだけど、簡単な言葉で言い換えると、やっぱり日本人の中に複雑に持っているその恥の文化が今ひとつ伝わらない気がするんだなあ。自分が殺そうとした人たちに親切にされることを申し訳なく思う気持ち、っていうのがね。でもその気持ちを味合うことが彼にとって罪をつぐなうことの中に入ってくるんだとは思うんだけど……その日本人ならではの気持ちが全然判ってもらえないまま、諭されちゃうのが、しかもチャンバラなしのアラカンだから、なんかもう……痛々しくって。

それにこの宣教師家族、特に宣教師のハッチンソンさんが、そんな諄々と諭されてしまうような、穏やかな風貌じゃなくって、なんか三日月みたいにとんがってて、そのやぶにらみがちの目はあまり目と目を合わそうとしないし(日本人のアラカンがめちゃめちゃ目を見てるのに)なんつーか、悪魔的でなあんか、コワいんだよねー、正直。いかにも棒読みの日本語もアレだし、そんな……この人の言うこと聞くのお!?みたいな。いや、人を見た目で判断しちゃいけんよねっては判ってますけれドモ……。
ふかふかのベッド、広大なお庭、正時ごとに鳴る精密な掛時計、そしてアラカンが諭され落ちるのはクリスマスイヴであり、クリスマスツリーがきらきらと輝いている。はあ……日本人がずっとこの現代まで憧れ続けてきた“西洋趣味”があふれんばかりなんだよなあ……。そう、クリスマスイヴなのよ。日本の神様を信じきっているアラカンが諭されてしまうのが。別の国の神様に。……ああ、GHQなのよねとは思えど、これはあまりに痛々しくて、しかも次のシーンでのあまりに割り切りすぎる変貌がッ!

そして一年後、大葉は断髪!洋装!そして英語までペラペラと操り!うおおおおー、アラカンの英語!解説で「英語を喋っているアラカンを観ることが出来る」とこの作品のウリはそこなんだって感じで書かれてたけど、そりゃー確かにこりゃケッサクだ!ジャパニーズイングリッシュにも程がある、このカタカナ読みのカクカクした発音の“いんぐりっしゅ”に、笑いをこらえきれんー!うう、これはかなりムリがあると思うんだけど、アラカンさん……そして彼はアメリカ、ボストンへと留学へ出かける。今の日本に必要なことをありったけ学んで、帰ってきて国のために働くんだと。かつて論争を繰り広げた香西は変貌した彼を微笑んで見送り、大葉の想い人である小菊に「待っててやらにゃいかんよ」と告げる。あいつは最後の攘夷党だったけれど、新しい日本で働く最初の男になるかもしれん、と。よよよと泣き崩れる小菊が、彼の乗る船を見送ろうと最初に出会った屋根の上の物干し台に駆け上り、「終」。そうかー、最後は女でシメたかー。ま、この小菊を演じる市川春代がたおやかで可憐な美少女だったから良かったけど。このなで肩に柳腰におちょぼな唇!こういう人じゃなきゃ幸薄い遊女はやれないよねー。今の女優じゃ絶対ムリだな。

ま、日本の映画史にもいろいろと苦闘の跡があったっつーことで……。★★☆☆☆


最後の晩餐
2004年 92分 日本=香港 カラー
監督:福谷修 脚本:福谷修
撮影:岡雅一 音楽:トルステン・ラッシュ
出演:加藤雅也 匠ひびき 原史奈 前田綾花 三輪ひとみ スーキー・リー 小林且弥 神田利則 松田優 松方弘樹

2005/2/13/日 渋谷UPLINK X
カニバリズムっていうのはねー、私はかなり興味があるのです。なーんてこというと、すっごい誤解されそうだけど、あくまでその文化とか心理とかに対してですよー。そんな本をよく読んでた時期もあったりして。もちろんホラー的な要素として魅力的な題材ではあるんだけど、人間の歴史の中で、否定できないこういう事実があったわけだし、ただホラーとして扱うんじゃない深い部分で興味があったんで。
だからこれはちょーっと納得いかないというか、一番中途半端というか、アイマイというか。

カニバリズムには、いくつかの方向性があると思ってるわけです。一つは純粋に(?)人肉食への興味、嗜好。昔中国で新生児が、特に高貴な人の間で高級食材として扱われていた、という歴史の裏にひっそりと隠されたエグイ話。それが美食だったからに他ならない。そこには対人肉に対して人格は求めないのね。そしてもう一つ、これは全く逆に、せっぱつまった状況……遭難とかで仲間の死肉を食べなければ生きながらえなかったという話。これは哀しい歴史の事実として厳然として存在する。そこでは人肉に対する人格はあるけれど、まず、自分が生きながらえなければという、自身の人格の方が先に来る。で、もう一つ。愛する人を自分のものにするという、セックスと同じ意味での人肉食行為。まるでそれは(食べたわけじゃないけど)愛する人の一部を肌身離さず持っていたいと願った阿部定のように。
で、本作では一つめと三つめの方向に人肉食の要素が分かれてて、だから人肉食の恐ろしさも哀しさもどうにも中途半端なんですなあ、これが。
まあ、エンタメである映画なんだから、そんなウルサイこと言ってもしょうがないんだけど、カニバリズムという、禁断の世界に足を踏み入れたんなら、どうしようもない暗い心理の奥深くまで行ってほしかったのね。その場合、一と三両方じゃいけないの。どちらかじゃなきゃ。

カリスマ美容整形外科医、小鳥田が最初に口にしたのは、女性患者から吸引した臀部の脂肪。脂肪というのは実に女性を象徴するものであって、それを先に口にしたということは、彼にとっての異性、女性の肉でなければいけない、ということをまず表わしている。で、そこまでなら一のままいってしまう可能性があって、まあシリアルキラーもの、かな。その場合。それはそれで良かったんだけど。
彼、その女性の肉を食べる時、セックスそのものを夢想してるでしょ。だから豚や牛の肉は食べられなくなる。そういうケダモノと性交しているようなおぞましさがあるから。
別にセックスイコール愛だというつもりはないけど、異性の肉を身体に取り入れることでそれを夢想する、ってことになれば、これはやっぱり三の要素になっちゃうわけ。
でもね、彼は特定の一人を愛しに愛して、だからどうしても彼女を食べたいってわけじゃないんだよね。ぶっちゃけ、女の肉であれば誰でもいいわけ。偶然発見した首吊り死体であろうが、夜の街でナンパした女性であろうが。

まあ、そこんところはセックスに対する男性的感覚が強く顕われているとも思うんだけど……これが女性が主人公の人肉食の話だったら多分そうはならないと思うのね。男は顔の見えない女という存在と、何人とでもセックスすることを夢見ることが出来るから。女はその場合、相手は一人でいいのよ。回数は問わないけど(笑)。だから異性を喰らいたいカニバリズムの場合、肉欲と愛欲がそこにストレートに込められるわけ。女だったら相手の男を血もこぼさないで食い尽くすんじゃないだろうか、なーんて。で、その男を愛して喰らった記憶が忘れられないところから人肉嗜好の話が始まるんじゃないかなー、などと勝手に想像したりする。
だからね、私にとっては、このカニバリズム、なーんか引き裂かれているというか、アイマイな感じがしちゃうのだ。
人肉食そのものがコワイんじゃなくって、やっぱり何が怖いっていったら、その味そのものに魅せられてのめりこんじゃうか、そこに愛の妄執があるか、だと思うんだけど、で本作の場合、前者によりその傾向が強いけど、それもこんな風にセックスの夢想にジャマされて、暗い闇にまでは陥っていかない感じがする。

とか言いつつ、いやー、加藤雅也です。ほっんとにこの人はアナーキーというかアングラな魅力になっちゃったやねー、その出はじめからは考えられない。妖しい&怪しい魅力でこのカリスマ美容整形外科医、小鳥田をクールに怪演なさっており、期待通りであります。この人ってさ、若い時はもっと、なんていうのかな、一般的というか、判りやすいというか、そういうハンサムさんだったと思うのに、今はなんか異形というか、そういうどこかねじれた影があるんだよね……基本的には長身の濃い顔のハンサムなんだけど、そういう影が、彼を一筋縄な役ではおかなくさせる。そのあいた胸元、アクセサリー、ヤラしいくらいに色香がただよい、近寄っては破滅に落ちると判りきっているそのオーラ。冒頭、いきなり彼の手によって美女の首がバッサリと落とされる。いやその前に彼女は彼の甘いささやきによって首から胸元へとゆっくりと愛撫され、彼の「君を食べたい」とまんまな囁きに、「いいよ、食べて」と……ああッ、その食べる意味じゃないのにー!
そうそう、で、このいきなり首を落とされる美女が、いきなり三輪ひとみ姐さんであり。いやー、こういうのはひとみ姐さんじゃないと、うんうん。落とされるというか、飛ばされる。ブワッ!と。いやー、びびりながらも、美しい、ひとみ姐さん。
それにしても、何度もこの美女殺しを続けてきたわりには、アッサリ部屋を血しぶきで汚すよねー。でも死体を風呂場で解体した後、肉を料理して食べる時には部屋はキレイになってるんだよね。そういうことが気になっちゃいけないですかね?まあ、真白い壁に血しぶきドバーはホラー映画の美学ではあるけれど……。

医学生の頃から、引きずる足へのコンプレックスもあって、サエない医者だった小鳥田。しかし人肉を食べるようになってから、彼の感覚は研ぎ澄まされていき、整形技術にも磨きがかかり、いつしかゴッドハンドとまで呼ばれるカリスマ的存在になる。学会に出るために行った香港で、彼は人肉が食べられるという噂を追って怪しげなパーティーに紛れ込み、一人の美女を買い、食う。彼には一応自分への掟があって、自分の作品、つまり自分が整形を手がけた女には手を出さなかった(まあ、この場合食うというよりは、セックスの方だろうと思うけど)。でも、芸能レポーターとして売れ始めた女性タレントにまず言い寄られて彼女を部屋に入れてしまい、そして以前から小鳥田のことを神だと崇めて殆んどストーカーのごとくにつきまとっている病院の受け付け嬢がその場にバッティング、受け付け嬢、頭に血がのぼって(というか、最初から小鳥田と死ぬつもりで持ってきてた)メスで、彼女をメッタ刺しに殺してしまう。女の肉の確保に苦労していた小鳥田、期せずして二人の美女の肉を手に入れる……。
ものすごい勢いと回数でタレントをザクザクと刺し続ける受け付け嬢、いやー、綾花ちゃん、君ってばコワい女優になっちゃったわあ。そんなカワイイ顔してるから、もう尚更。ぽってりとした唇のベビーフェイスがなんとも効果的よね。その一途な瞳で、思いつめる、こういう女の子が一番怖くも、魅力的。
小鳥田は、この受け付け嬢を、キミには興味がないんだと、実に冷たいんだけど、私としてはこの綾花ちゃんが一番カワイイと思ったけどねー。ロリな感じで。
彼が相手にする病院の娘の加奈子(匠ひびき)なんて、一番つまんないタイプの美女だと思うんだけど。やっぱりどこかバランスが崩れているのがエロチックでいい。ひとみ姐さんも、だからイイのよ。

ああ、そうそう、さらっとここに来ちゃったけど、わざわざロケを敢行して、かなりの尺を割いている香港部分はね、これは必要だったんだろうかなどと思っちゃう。ここがあるためにちょっとまとまらない感じがしないでもない。それにね、ここでの部分が一番、最初に言ってた一と三に引き裂かれる感じを強くするのよ。というのは、ここで彼に食べられる美女というのが、彼に食べられたい、と自ら申し出るから。ここでは美女が高値で取り引きされる。食べられる美女自身にも大金が入る。無論死んでしまう彼女に金を使うことなど出来ないから、彼女たちは貧乏な家族に仕送りするために自らをギセイにするわけね。で、自らをギセイにするぐらいだから、自分の気にいった人に食べられたいと思うわけ。

この香港美女はまず、人肉に興味があるらしい小鳥田を見つけて、誘惑し、彼と寝る。で、この話を持ちかける。自分を買わないかと。本来ならパーティー形式でたくさんの人の前で殺され、その場でさばかれ、その人たちに食われる、という流れなんだけど、彼女は金を払うなら自分を独占して食べていい、と持ちかけるのね。それは、勿論、独占して食べてもらいたい、ということに他ならない。
こういう事情があったりしたことや、彼女と寝てしまったことや、自らの手で彼女の首を切り落とさなければいけないことなどで、小鳥田は単に女性の死肉という以上に、この美女にはある程度の(まあ、彼にとってはある程度、程度なわけだけど)思い入れを感じてしまい、だからこの香港パートで、彼の人肉趣味の意味が、よりアイマイになってしまうわけ。
でもそれで、愛の方向に行けばまだいいんだけど、日本に帰ってきた小鳥田は特にそのことに悩むわけでもなく、まるで何ごともなかったかのように、またフツーに人肉嗜好に戻る。たまーにあの香港美女の妄想は彼の頭をかすめなくもないけど、でも、それが彼を変えたとかそういうことでもないみたい。
それにねー、ここで美女がバラされる包丁がねー、勿論中国の料理人たちがその腕を競うんだけど、何か通販で売ってるみたいな、いかにもステンレスの光り方してて、ちょっと興ざめなの。
せっかく香港まで行って撮ってて、これはないでしょって思っちゃう。

小鳥田の周辺の美女が失踪したことで、さすがに警察の手が伸びてくる。でも、ここで小鳥田の前に登場する刑事は、最初から彼が犯人だという証拠をつかんでいたらしいのね。それはなぜかと言うと……海岸で偶然出会っていた二人、その時美女肉の燻製を作っていた小鳥田、その匂いで刑事は判っちゃった。なぜって、この刑事も人肉に魅せられた男だったから。
強烈、松方弘樹。それにしてもこの人もさー、最近すっかりアングラな匂いを放っちゃってどうしたのかしら。本作出演は加藤雅也への友情出演かなんかかなーなどと思うけど、それにしてもこのヤバい役作り、相当です。彼はね、鑑識に回された死肉をこっそり喰らってて、まあその死体はクスリ保存されてるわけだから、決して美味しいわけじゃない。で、そんな肉食べてるから、彼の顔、何か白い皮膚病みたいになっちゃってるの。これが異様で怪奇。松方弘樹、そりゃやりすぎだよ……。

証拠を握ってるという刑事は、しかし肉を分けてくれるならこのことはバラさないという。しかし小鳥田と争いになって、とっさにつかんだ冷凍庫のドアからこぼれ落ちてくる美女たちの首!その首に驚いた刑事、そして小鳥田はこの美女の頭で刑事の顔面をガンガン殴って殺してしまう。その日は、小鳥田が付き合っていた加奈子の結婚式前夜、妊娠してしまった彼女は、誰の子供かも判らないまま、小鳥田ではなく、同僚の医師との結婚を決めたのだった。そして小鳥田はその結婚式にこのヒミツの肉を提供することを約束してて。
刑事は最後の力をふりしぼって小鳥田に銃弾を放つ。小鳥田はそれを腹に受け、瀕死の体で明日の結婚式の準備に取り掛かる。それは、あの肉のヒミツを知りたがっていた彼女に、おぞましい血みどろの死体のオブジェを送り届けること……。

どーも腑に落ちないのよねー。何たってクールな小鳥田。別に加奈子に裏切られた、って感じじゃなかったのよ。だって小鳥田は美女肉を食べることにだけ執着していたんだもん。そりゃ彼女にもこの肉を食べさせてはいたけれど……。それなのに、なんでこんな復讐めいたことをするのかが判らない。復讐でしょー、あれって。だってあんな瀕死の身体でさ、あまつさえ自分の顔の皮をはいでまでグロテスクなオブジェの演出をするんだぜー?で、彼は顔を包帯でぐるぐる巻きにして逃亡を図るんだけど、生き延びるつもりなら顔の皮をはぐなんてことまでしなきゃよかったのに……別に顔を見られてバレたとかいう話じゃないでしょ?どうも意味不明なのよね。
あ、それにね、この美女の頭を保管してた冷凍庫。彼は美女を食す時、その生首にキレイにメイクを施して目の前に置き、堪能しながら喰らってたわけです。そんなわけで、歴代の美女たちの頭が保管されているんだけど、テレビの取材が来るなんて時にもこの冷凍庫は無防備に置かれてて、そりゃ、開けようとする輩も現われるだろうさ。ちょっといくらなんでも、こんなヒミツが隠されている冷凍庫、こんなフツーに置いとかないでしょ。せめてカギぐらいかけると思うなあ。それにね、この冷凍庫じゃなくて、もうさばいた肉を入れている冷蔵庫、開けても中に明かりがつかないのね。ささいなことではあるし、そういうの他の映画でもよく見かけはするけど、こういうテーマなら冷蔵庫って、重要でしょ。あんな、いかにもコンセントなんか入ってないよ、的な、電気屋に飾ってある冷蔵庫状態には、ガッカリしちゃうんだよなあ。

人体が壊れていく美学、はさすが医者が主人公なだけに追及されていたとは思うけど……あ、それともうひとつ、骨はどうしてたの?うーん、疑問ばっかりじゃ。もう。★★☆☆☆


ザ・インタープリターTHE INTERPRETER
2005年 118分 アメリカ カラー
監督:シドニー・ポラック 脚本:スティーヴン・ザイリアン/スコット・フランク/チャールズ・ランドルフ
撮影:ダリウス・コンジ 音楽:ジェームズ・ニュートン・ハワード
出演:ニコール・キッドマン/ショーン・ペン/キャサリン・キーナー/アール・キャメロン/イヴァン・アタル/ジェスパー・クリステンセン

2005/5/26/木 劇場(有楽町有楽座)
本当はこういう社会派ドラマは苦手なんだけど、ニコールが出ているというだけでやっぱり観に行ってしまう。それに、こういう社会派ドラマでも、観終わった印象はあいかわらず、あー、やっぱりニコール、なんてキレイ……しか思い浮かばない。いや、観終わったどころか、観ている間中、ずーっとそう思ってる。りえ嬢もそうだけど、この人も、年を経るごとに、その今現在が一番キレイだと思う女優さんなのね。国連で働く国際通訳、という知的なイメージがピタリとくる、黒のパンツスーツがクールにきまってる。このスレンダーなスタイルのなんというパーフェクトさ!サラサラ金髪にキラリなメガネがああ、イジメてッ!て感じ(笑)。この映画に関しては、女としての色香は必要なく、それは逆にジャマになるぐらいで、彼女のような冷たい美貌の人には本当にピッタリなのね。それでいて、興奮するとその冷たい青い目にうっすらと赤みがささるのがなんともはや美しく、クールで虚勢を張ってても恐怖で心が揺れ動く時にちょっとだけ弱くなるところが、いつも完璧に美しいだけに、すんごくクラッときちゃうのよねー。

んでもって、彼女がショーン・ペンとの共演だというのも、この作品を激しく観たかったもうひとつの要因である。ショーン・ペンの出演作も、やっぱり観ちゃうもんね。ニコールは、作品選びの上手さはすごく感じる一方で、やはり華やかなハリウッド女優という感じもあるんだけど、ショーン・ペンはそういうところから少し離れていて、やはりアーティストというか、作り上げる人というか、役者やのー、というか、そういう感じ?アメリカ男優の中でホンモノの役者である彼とニコールが共演したらどんな感じになるんだろー?という興味があったから……いやー、いやー!すっごく、ピタリです、お似合いですよー。やっぱりニコールはすごいなー。ショーン・ペンとタイはってこれだけビシッと決まっちゃうんだから!ドキドキするぐらい、もう二人の場面は、いやー、これぞ演技の火花が散っているって感じなんだろうなと思う。引けをとらない。

それにしても、社会派の映画なんである。国連で働く国際通訳のシルヴィア(ニコール)は、ある日偶然、アフリカの小国、マトボ共和国のズワーニ大統領の暗殺計画を聞いてしまう。ヒソヒソ声で話していたそれは、その国の少数民族の言葉で話されていたし、よもやそこにこの言葉が判る人がいるとも思ってなかったんだろう。でも、シルヴィアはその言語を知っているんである。こりゃ大変だと彼女はすぐに通報するんだけど、この“よもやこの言葉が判る人が……”という部分が、彼女を窮地に追い込む。なぜこの言葉を彼女が知っていたかっていうと、そのマトボ共和国の出身だったからなんだけど、ということは彼女はこの国の状態を良く知っているし、しかも彼女の家族がこのズワーニ大統領の恐怖政治によって殺されていて、ということは、彼女はこのズワーニ大統領を憎んでいるに相違なく……つまり、この通報がデッチアゲなんじゃないかと、思われちゃうわけ。ズワーニ大統領はこの独裁政権によるあたりかまわずの人民虐殺を、国際社会から激しく非難されている。でもこの完全に孤立した小国であるという立場を言い訳に、そんなのは噂であると、虐殺なんかしていないんだと、われわれはテロと戦っているんだと、このズワーニ大統領は言っていて、それを今回、国連で演説するために来ているのね。だからシークレット・サービスはこのズワーニ大統領を守るのが大前提で、デッチアゲかもしれないことを言っているシルヴィアを守るよりも彼女のウソを暴こうとするわけ。そのシークレット・サービスであり、彼女の言っていることがウソだと真っ先に疑っているのが、ショーン・ペン扮するケラー。

なあんか、ある特定の国のこととか、ある特定の人物のこととかを、すっごく想起させる設定である。で、それに対するアメリカの立場とか国連とか。そういう独裁政治を強いている国に対して、アメリカだけが、われわれこそが世界のリーダーだッ!とばかりに出張っていって失敗した例が数多くあり、ちょっと前ならアメリカが指揮をとって云々、という映画も作られそうなもんだったけど、さすがに今はそういうこともなく、舞台は国連、なんである。でもそういう、アメリカのリーダーシップ意識、あるいはそれに対する皮肉、はこの作品中にもどことなく見え隠れするような気がする。国連が大前提となってはいても、なんといってもアメリカで演説するのこそがズワーニ大統領にとって効果的であり、そして一方、そんな大統領をアメリカ市民がやいやい抗議活動をしたりする描写も……まあ確かに例えば日本でだったら説得力ない場面だよなと思ったり。

それにしても、やっぱりニコールよね、と思う。アフリカの小国を追われた、平和運動に没頭していた女性、というのが。これは生っ粋のアメリカ女優やイギリス女優には出来ない芸当。オーストラリアから出てきた彼女だからこそ、出来る。ニコールは、得だよね。彼女はヨーロッパや北欧の雰囲気も漂うし、アフリカの小国で戦っていた白人(という立場がまたビミョーだったりするわけね!)と言われればそうかなって気がするんだもん。
白人、だからこそそのアフリカの国の中ではある種のエリート的な空気があったんだろうし、だからこそ一家揃って殺されてしまったんだろうし……。
なんか、思い浮かんじゃうんだよね。細身でキツい表情をして、銃を手に、緊迫したアフリカ小国で戦っている彼女、っていうのがさ。そして彼女は銃を持った少年を、正当防衛とはいえ殺してしまって、銃を持つことに限界を感じ、この国を出てしまう。家族が殺されてしまってはいたけど、たった一人の兄は、生きていた。その兄を残して……。
で、今回、暗殺計画を知ってしまった彼女は、その兄がこの計画に加担しているんじゃないかと危惧する。実際、兄と共に彼女はズワーニ大統領を糾弾する立場にいた。兄のことを誰よりもよく知っているからこそ、そう思いつめるんじゃないかと彼女は想像してしまうわけ。
でもまた、それが、彼女の立場を追い込んじゃうわけで。

彼女はもちろん、いまはそういう立場にはいない。もう銃を持つのはやめた、人を動かすのは銃ではなく、いくら遠回りでも、対話なんだと、それを手助けしたいと、国連での国際通訳をつとめている。でも、そういう過去があった彼女だから、シークレットサービスも、ズワーニ大統領側も、彼女を信じない。
でも、確かに暗殺計画、ではなかったのだ。劇中、ズワーニ大統領の仇敵であるクマン・クマンという人物が出てくる。彼はアメリカに亡命して、外からズワーニ大統領を糾弾している。今回ズワーニ大統領がこのアメリカの地に、いわば自分の立場を守るためにやってくることは、クマン・クマンにとって大統領失脚の最大のチャンス。やいのやいのと“口”撃する彼の言葉の中に、思わず知らず、ズワーニ陣営の思惑が的中するものがあったのだ。
「暗殺されれば、ハクがつくってもんだ」

クマン・クマンにとっては、それは言葉どおり、まんま暗殺されればいい、ここで死ねば彼の汚さも表に出ず、まあ、悲劇の大統領ってことになる、そんな皮肉ったことだったろうとは思うんだけど、ズワーニ陣営、というよりズワーニ大統領自身が思いついたのかもしれないけど、彼らは“大統領暗殺未遂”という計画を、練っていたわけね。暗殺未遂、にさせることで、国際司法の場に引き出されることをまず阻止、あわよくば国際社会からの同情を得て、自分たちの非を責めさせずに、自分たちの政治に口を出させない、そんな思惑があったんだと思われ。
それを、シルヴィアは断片的に聞いてしまったから、暗殺計画だと思ってしまった。国連で暗殺なんかされちゃタマラン、と厳戒態勢がしかれ、シルヴィアは危険人物としてマークされてしまう。

でも、彼女をマークしていくうちに、ケラーとシルヴィアの距離感は不思議と縮まっていく。これがね、そりゃ最終的には二人は惹かれあったってことなんだけど、でも最後までお互いそんなことは言わないし、そういう行為もない。たった一シーン、彼女がバス爆破にあわや巻き込まれた直後に、恐怖に震える彼女がそっと彼に頭をもたれかけ、彼が彼女の頭をかき抱いてやる、というそのシーンだけ。しかしこれが心震える名場面なんだ!イヤー……。
ケラーは彼女の警護につく直前、妻を亡くしている。それも、浮気相手の運転ミスによって二人もろとも死んでしまっている。でも、その時妻は後悔して彼のもとに帰るところだったのだ。そう留守電に入っていた。その彼女を空港まで浮気相手が送っていった途中で起こった事故だった。

シルヴィアの生まれ育ったマトボでは、殺されてしまった人の遺族が、その犯人をまず溺れさせ、その後で見殺しにするか、あるいは助けるかを選べる、という伝統的なやり方があるんだという。許せず、見殺しにしてしまったら、その遺族は一生喪に服す。助けたら、その哀しみから解放される。言うまでもなく後者を奨励しているんであって、シルヴィアは自分は家族を殺されたけれども、哀しみのままに生きてはいない。対話でこの世界を変えられると思っているから、この仕事についたんだ、という。
まだこの哀しみの真っ只中にいるケラーは、今の自分には、もしあの浮気相手が生きていたら、水の中に頭を押さえつけて殺してしまっているだろう、と彼女に言う。
窓越しに24時間彼女の警護をするケラー。それに気づいて警護をしている彼に電話をし、「電話しながら寝てもいい?」と請う彼女。「いいよ」と見守るケラーは、彼女が眠りに落ちたのを確認して「……おやすみ」と言う。距離がありながら、あるからこそグッとくる場面。お互い、愛する人を失った同士であり、ケラーが、シルヴィアの複雑な過去を知るにつけ、シークレット・サービスという立場をこえてシンクロするようになったのは当然なんだけど、これが普通の場所で出会った二人なら、すんなりと恋に落ちるところが、何たってこんな状況だから。

シルヴィアは、クマン・クマンと接触を試みた。彼女の兄と共通の親友であるフィリップが彼女に連絡してきて(これがイヴァン・アタル。ニコールはこういうフランス男優とのツーショットも似合うんだな。やっぱりそういうヨーロッパの雰囲気があるから)、ズワーニ側のワナにはまって、もう一人の相棒が殺されてしまった、と言って来たから。その時彼は、いっしょにいた彼女の兄もまた殺されてしまったことは、言わなかった。言えなかった。そのことを彼女は確かめたくて、クマン・クマンに接触するんだけど、当然彼女をマークしているズワーニ陣営、そして彼女を警護するために乗り込んだシークレット・サービスの二人はこのズワーニ側の人物が紙袋を置いてバスを降りてしまったのを確認し……当然、それは爆発物。その直前、シルヴィアはクマン・クマンに兄の捜索を頼んでバスを降りていた。そして直後、バスは爆発。ケラーの部下の一人が死んでしまった。
だからこそケラーは激しくシルヴィアを責めるんだけど、でも彼女だって心身ともにどうしようもなくもう弱ってしまっているわけで……で、あの、唯一の、名場面、なわけね。

このバス爆破のシーンはこういう社会派サスペンスの真骨頂で、もうとにかくドキドキさせる。シルヴィアが乗ってるバス、彼女が接触を試みる重要人物、その二人をつけて乗ってくる大統領側の人物、シルヴィアの護衛のシークレットサービス、でしょ、で、そのシークレット・サービスの二人がピンマイクみたいな電話でケラーと連絡をとってる。何が起こるか、何が起こっても不思議ではない緊迫した場面、ケラーは部下が人目を気にしながら連絡してくる断片的な言葉で、危機を敏感に察知する、そのこっちとあっちのカットバックのこのスリリングときたら、もう、もう……事態が緊迫してくるにつれて、そのカットバックの間隔もどんどん短くなり……「彼はバスから降りた……」「乗客をバスから全員降ろすんだ!」「紙袋をおいていった……大変だ!」ドカーン!うわあ……。

シルヴィアはもう二度と銃は持たないと言ったし、ズワーニ大統領は嫌いだけれども、暗殺計画に加担なんかしていない、と言っていた。それは本当だったんだけど、ただこのズワーニ大統領というのは、最初はとても高潔な人物で、何がきっかけでどうなったんだか、途中からこんな暴力政治を行なう人物になってしまっていた。シルヴィアは、いやシルヴィアに限らずこのマトボの国の人たちは、ズワーニ大統領を最初はだからすっごく尊敬していたわけ。だからシルヴィアの中には、ただ憎むだけではあきたらない、とても複雑な感情があるわけで。
フィリップもまた死んでしまって、これはどうやら自殺?シルヴィアにあてた遺書と荷物があったのね。それはシルヴィアの兄のリュック。彼の死を彼女に言えなかったことを謝り、遺品を残した。それをケラーはシルヴィアに届ける。気丈にふるまう彼女に、疑ったことをケラーもまた謝り、「こんな時は一人にしてくれ、と思った」と彼女を一人残して去ってゆく。
兄の遺品の中には、彼女が贈り続けたノートがあった。兄はリストをあげるのが趣味だった。そこに残されていたリストは……ズワーニが殺した数々の人の名前。
そしてシルヴィアは行方をくらましてしまう……。

暗殺計画が、暗殺計画ではなく、暗殺未遂だったと判り、そのことでシルヴィアを利用しようとしていた男をケラーは逮捕し、シルヴィアは、張っていた空港にも現われず……ケラーは直感するのね、彼女がどこにいるかを。
控え室へと避難させていた大統領に後ろから忍び寄って、銃を突きつけていたのだ、シルヴィア。
それを察知して、ケラーは一人その部屋の中に入ってゆく。
彼女の気持ちが判るから、どう言って銃をおろさせたらいいのか……ケラーは必死に、必死に説得するのね。君はマトボの、殺人者をおぼれさせる話をしてくれたじゃないかと。君がここで引き金を引いてしまったら、君もまた死んでしまう。俺をまたひとりにしないでくれと。
ちょっと、ちょっと聞いたー?この最後の台詞ッ!どさくさにまぎれて愛の告白じゃないのよッ!
などと喜んでいる状況ではないんだけど……シルヴィアもそんなことに気づいている状況じゃないし。

これだけ、これだけは言わせてくれとばかりに、シルヴィアは説得するケラーを涙一杯の目で見返しながら、ズワーニ大統領の伝記を、兄の遺品の中に入っていたそれを、大統領に朗読させる。これを書いた時の気持ちを思い出した?と……そりゃこんなことで思い出して、ああ私が悪かった、なんていう単純なことが起こるわけはない、こんな状況にまでこの大統領はしたんだから、そんなことは判ってるけど、でもこの伝記を読んで、当時の大統領を心から崇拝していた彼女は、そのために死んでしまった家族たちのことを思って、これだけはせずにはいられなかったんだ……。
そして彼女は銃をおろす。ズワーニ大統領は司法の場に出されることが決まり、そして次のシーンは彼女を待っていたケラーにシルヴィアが近づいていくラストシーン。

待っていた、それはシルヴィアに対する処罰がどうなるかを。
ケラーは、彼女が危険人物ではないと口添えしていたんだけど、こんなことをしちゃったし、シルヴィアは強制送還が決まってしまった。彼女は「ふるさとに帰るんだもの」と笑顔を作る。……かなりようやくの笑顔に見えるけど。ケラーはそんな彼女をそうか……てな顔で見つめる。
……切ないんだよなー。だって、彼は彼女を失いたくないから、あの時必死に、彼女に銃をおろさせたのに。あーん、こんなんでお別れなんて、イヤ、イヤ!切ないよー!二人、抱き合うこともなく、お互いに対する気持ちを言うこともせず、ただ、同志として握手を交わして別れるしかないなんて……でも、でも、まあ、ケラーは妻を亡くして間もないわけだし、少し経ったら彼女に会いに行けばいいじゃん!シルヴィアだってさ、「アフリカに行ったことある?」って彼に聞いたしさ、彼は「空港に降り立ったことしかない」って……いいところだって、彼女、それっていらっしゃいよってことじゃないの?

ケラーと行動を共にするウッズ捜査官のキャサリーン・キーナーがまたカッコイイんだなあ。彼女は本当に、仕事仲間として彼との信頼関係を確かなものにしている人。それがやっと、こういう女性でもまるで無理ない時代になったかと思うと、感涙だね。彼女はだから、妻を亡くして傷ついているケラー、そしてシルヴィアとの距離感を図りかねている彼を、どこか心配そうに見つめている感じもし、でもちゃんと一番に信頼している、というのを、表情には出さない、ホントクールなんだけど、そういうカッコイイ女なのだッ。
通訳など、言葉遊びでしかない、だからウソをつくんだと言わんばかりだったケラーが、彼女が言葉→対話にこだわっている意味を真の意味で理解し、そしてシルヴィアが彼が仕事で普段使っている、いわゆる銃や力による行使をだからこそ止めることが出来るようになるまでの、じりじりと二人の距離がつまっていく感じが実に見事。いやー、それにしてもニコールの美しさと、ショーン・ペンとの演技の火花のすさまじさに、お腹いっぱいって感じね。★★★☆☆


サマータイムマシン・ブルース
2005年 107分 日本 カラー
監督:本広克行 脚本:上田誠(ヨーロッパ企画)
撮影:川越一成 音楽:HALFBY
出演:瑛太 上野樹里 与座嘉秋 川岡大次郎 ムロツヨシ 永野宗典 本多力 真木よう子 升毅 三上市朗 楠見薫 川下大洋 佐々木蔵之介

2005/9/22/木 劇場(新宿武蔵野館)
えっ?もういきなり、新美君が叫んだのと同じように、「判んない人こっち!」って叫んでいい?もっとも大事な、最後のシメオチがどうしても納得できなかった。昨日の時間から戻れなくて、一日回って翌日まで来ちゃった甲本君だよー。ダメ、ダメ、私もSF弱いんだ……だって一日前にタイムスリップして、戻れなくて、この時確かに同時に二人の甲本君がいたわけでしょ?どの時点で一人になっちゃったの?一日前にタイムスリップした甲本君が翌日まで来たなら、その時に何の事情も判らず裸踊りを強要させられてた甲本君はどこに行っちゃったの?あー!どう考えても判んないー!

と、この部分の謎解きを頭が受け付けないままだったから、この部分からは常にこの疑問が頭を支配しちゃってて、困った。ううう。それでなくてもタイム・パラドックスというのはややこしいけど、それをたった一日前で散々交錯するもんだから、余計判んない。いや、判んなかったのはこの最後のオチだけだったんだけど、もうそれだけで全てが判んなかったような気がするよおー。
まあ、正直、謎解きなんてこの作品に関してはどうでもいいのかもしれないけど……いや確かに物語の面白さの大前提として、そういう凝った構成があるんだろうとは思う。あるいはこれをオリジナルである舞台で観た方が面白いかもしれないと思うのは、大仰なアクションやバチッと話がキマる爽快さが舞台に合っているからなんだろうなと思い、映画にした場合は、別のものを追及するじゃない?

それはね、長い長い夏休みの中のほんの一日二日の、日常のささやかさの中の、大きな冒険、みたいな、真夏の空気感みたいなものだと思うのよ。映像の力っていうのはこういう場合に本当に発揮されるべきだし……クーラーが効かないうだるような暑さや、ドボンと飛び込む銭湯の気持ち良さや、夏休みでみんなどっか行っちゃったのか、人っ子一人歩いていない商店街や、みたいなね。あ、学校も全然人いなかったよね。夏休みでわざわざサークル活動しにきているのなんて彼らぐらい、しかもサークル活動ったって、クーラーのある部室でウダウダして、仲間とくだらないことで盛り上がっているだけであり、それがいかにも大学生のヒマをもてあました感じで、でもそれが何でかとてつもなく楽しくてさ、みたいな空気感、こっちを追及できるのは、やはり映画ならではだと思うんだ。

でも、オリジナルの舞台の面白さが大前提にあるから、ひょっとしたらある種の中途半端さがあるとしたら、そのあたりに原因があるのかな。私としては、その夏休みのうだるような空気の中の、青春の意味のないダラダラ感の楽しさ、みたいな部分に浸っていたい思いがあったのかもしれないと思う。そういうのって、好きなんだよね。
基本的にこの物語の展開はかなりスピード感があるし、そういうのと夏休みの、真夏のダラダラ感というのは時としてちぐはぐに食い違ってしまうから。あ、でも監督はそういうこともネライだったのかなって気もするんだけどね。それは例えば、昨日に行ったっきり戻ってこない仲間達を、時間軸が違うところで待ってるからどう焦っていいか判んない部分があって、“未来から来た後輩”を連れてノンキに町の案内なんてしちゃうところにあらわれているような気がするのね。

この町は、監督の故郷の香川県で、うどん屋ののぼりがひらひらと舞ってて、25年後から来た“未来人”曰く、「ほとんど変わらない」町。それは多分、未来のみならず、過去からずーっと、さして変わらなかったと思われる。だってSF研究会の部室が25年先の未来でもほぼおんなじよーに存在しているというんだもん。未来から来た“後輩”が言うわけ。「SF研究してますか?」「してるわけないじゃーん!」いつの時代もSF研なんて名ばかりで、ただ集まってダベッているだけのお気楽サークル。もともとはカメラクラブの部室だったところを、カメラクラブは暗室においやられてSF研に乗っ取られている春華たちは、25年先もやっぱりSF研の部室なんだと知ってガックリするんだけど、まあ彼らは今も昔もSFの研究なんかしてやしないんだし、ただ仲間同士、まるで中学生のふざけあいみたいに遊んでいたいだけなのだ。

そうなの、とても大学生のサークルには見えないんだよなあ。私、高校生かと思ったもの。川岡の大ちゃんたら、こないだまで研修医なんてやってたくせに、高校生に逆戻りー?なんて思ったぐらいだもの(私はこの映画、大ちゃん目当てよ)。ま、私にとっての彼のイメージはこっちの方だし、だけどなんか精悍になってカッコよくなっちゃってるからそっちとのギャップもあったりして、なかなか楽しくていいんだけどさ。本人自体はそれこそ「救命……」の方に近いような、硬派なキャラらしいんだけどね〜。それにしても彼のデビューがこんな風に、ちょっとの時間を行き来するプチタイムトラベルもの、その名も「タイムリープ」だったことを考えると、何か感慨深いものがあるんだよなあ……かの監督は今や……だけどさ(でも作品はメッチャイイのよ!!!)

時間軸に従って語られるから、全てが起こってしまっている“昨日”の時点では、劇中登場人物にとっては勿論、それをそのまま提示される観客にとっても??な出来事ばかりが起こり、かなりコンランを強いられる。翌日、つまり“今日”になって、タイムマシンが出現し、カルいノリで“昨日”に行ってちょっとしたイタズラを重ねちゃったことから、タイムパラドックスを直すために大騒動が巻き起こって、疑問だらけだった“昨日”がひとつひとつ解明されていく、ああそうか!の爽快&痛快が、この物語の大前提の面白さ。甲本君がなぜ突然裸踊りをするよう囃したてられたのか、なぜ春華は甲本君に彼女がいると思ったのか、なぜ銭湯から新美君のヴィダル・サスーンがなくなったのか、そしてそして、なぜこの町に河童の伝説があるのか!!!

でも、小さなことからいうと、タイムスリップが出来るという設定でのフシギっていっぱい生じるよね。新美君は銭湯でコダワリのシャンプー、ヴィダル・サスーンを盗られたんで、“昨日”にタイムスリップし、銭湯に行く自分たちを尾行して、誰かに盗られるぐらいなら、と自らそれを盗ったわけでしょ。ホント、タマゴが先か、ニワトリが先か、みたいな話になってきちゃうじゃない。彼が“昨日”にタイムスリップしてシャンプーを盗らなければ、「誰かに盗られるぐらいなら」っていう気持ちは起こらなかったわけだしさ。こういうことを考えると、やっぱりタイムマシン研究にすべてをささげた保積センセの言うとおり、タイムマシンなんて存在しえないって考えちゃうんだよね。

ま、だから、こんな話にそんな存在意義の真偽なんてどーでもいいわけだけど。ま、一応、こんな風に意義を唱える人物が出てきて、でもその人こそがすんごくタイムマシンを信じたい人で、全てが終わった時、未来にタイムマシンがあって、その出自が判らなくて、ということは過去のどこかの時点でタイムマシンが作られているはずだ、って考えて、じゃあオレがその作った人間であったっておかしくない、作ってやろう!と考えるのが、ちょっとしたリアルな要素を備えているから、それこそちょっとしたリアリティを感じさせるんだよね。まあ、この保積センセの言うことを生徒の誰も聞いてはくれないんだけど。この保積センセを演じているのは佐々木蔵之介で、クーラーのリモコンひとつ直せないヘッポコ研究者なんだけど、彼がひょっとしたら一番印象深いかもしれない。この物語の主人公はタイムマシンともいえるわけで、そのタイムマシンを昔から愛していたのが彼なんだもの。あきらめきれずにずっと研究していたから時間のシビアさもよーく知ってる。中途半端にかきまわしたら、この世界が消滅しかねないと警告し、このドタバタが繰り広げられるわけだから。でも、物語の最後にカメラクラブの唯が言うように、すべてが最初から決められていたこと、神様によって、ということならば、……なんだろう、時間に対する畏敬の念も、全ての謎も、そこに集約されてしまう気がするけれども……でも、それでいったら、全ての物事がそう言えてしまう訳だし、ま、極論なんだけどさ。ただ時間をモティーフにした、しかもタイムパラドックスをモティーフにした物語だと、やっぱり、全ては神様によって決められていた、という結論に落ち着いちゃう傾向はあるな、と思ったりして。

まあ、ちょっとした淡い恋物語的な展開も用意されているわけ。高校生っぽい(ひょっとしたら中学生?)と思ったのはそのせいもある。甲本君はカメラクラブの春華にホレている。春華もそんな雰囲気がある。でも、双方恋の気持ちゆえのぎこちなさがある。デートに誘うために、映画の券を買って、「ヒマある?」とおずおず尋ねるなんて、今じゃ中学生だってないのかも?いやいや、時代の流れの早さをそのまま当てはめすぎかな、これも年くった証拠かしらん。でも、でもやっぱりこれって大学生って雰囲気じゃ……ないよね。まあ、この懐かしっぽい町ならそれもアリなのかなあ。この映画の券っていうのも、この名画座の館主が「これはつまんないんだよねー(嬉しそう)そこがいんだよねー」と言うようなB級SFであり。

この名画座は、25年後には存在せず、跡地はコンビニになってしまっているという。この町にコンビニひとつないことをブツクサ言っていた彼らだけど(それで大学があるっていうのがスゴいな……)、それを聞いて春華、「……なんかショック」と言う。現時点でのこの町の姿が彼らにとってのアイデンティティであり、25年後の未来から来た“後輩”が、この町はほとんど変わらない、と言うのを、どこかホッとしながら聞いていたのに、でもやっぱりやっぱり、変わってしまうのだ。全く変わらないものなんてない。それは判ってるけど、判ってたはずだけど、変わるわけないんだ、なんてどっかで思ってて、理不尽にショックを受けたりして、それはこの真夏の一日、二日の誰もいない町並みが、時が止まっているように見えるもんだから余計にそうで……何もしていないのに、ここにタイムスリップしているみたいなんだもの。

何かね、フシギなんだけどね、本筋は、タイムパラドックスによる世界の消滅を食い止めるために、先に“昨日”に行って事情を判ってないバカどもに事情を説明しつつ、全てを元に戻す大騒動、やっぱり判ってないバカどもに(まあ、判ってる判ってないに関わらずバカなんだけど(笑))もう見てるこっちもハラハラだし、そういうタイムアクションこそが本筋なんだけど……多分オリジナルの舞台もそうなんだと思うんだけど、映画にした時の、映画ならではの、が多分そのせわしなさと対照的な真夏ののんびり、いやのんびりどころか時間が止まってしまったような感覚のことだったんじゃないかと思うにつけ、そっちの印象ばかり強くなっちゃうんだよね。
それは、この物語の中で最も壮大な、この町の河童伝説に関しても、そう。せっぱつまって99年前に飛ばされた曽我君が、当時その場所は沼で、タイムマシンごと溺れちゃって、その姿がまるで河童だったことから、河童が怒ってると解釈した村人たちによって、河童伝説が生まれた、という、まあ、言ってしまえばギャグなんだけど、このタイムマシン出現のキッカケとなった未来人、田村君が25年後から来たのは別として、ほぼ昨日と今日の行き来に限定される“日常SF”がここだけいきなり伝説にからんじゃってて、それは勿論ギャグ的なオチには間違いないんだけど、そんな壮大な時間がふっと紛れ込むと、その壮大な“のんびり”こそが印象が強くなっちゃうんだよね。昨日今日のせわしなさじゃなくて。

でもメインは昨日今日のせわしなさにあるわけで、そのあたりが、中途半端っぽいもどかしさに感じてしまった要因かもしれない。恐らく舞台版にも出ている個性派舞台人が数多く出ているのは楽しいんだけど。

「まだ壊れていない昨日のクーラーのリモコンを取りに行こう!」といって始まったこのプチトラベラー。昨日今日を行き来するばかりの彼らではなく、そのキッカケとなったリモコンが一番壮大な旅をしてる。彼らの認識では、このリモコンはコーラがかかって壊れてしまった。それをふせぐためにリモコンをビニールで保護し(この時点でタイムパラドックスをちゃんと理解してないのがアリアリ)、しかし“昨日”の自分たちから見つかりそうになってとっさに99年前にタイムスリップ、沼の中にリモコンを落とし、それが99年後の現代になって出てくる。いや、それだけじゃなく、リモコンを99年前の沼に落としてしまったことで生じるであろうタイムパラドックスを恐れた彼ら、未来人の後輩、田村君が、未来からとってくるんなら、歴史に問題はないだろうと。つまり、自分時点の現在で、チョット先の未来の自分からプレゼントする形で……ややこしいなー、つまりは彼は、自分が完結まで導く方法ならば問題ない、というアイディアをここで思いついたんだな。でもこの時点ではあくまで彼の頭の中で計画していたことで、それがちゃんと現実として未来の自分がプレゼントしにきてるって、スッゴイ、けど。

だから、このリモコンは、“昨日”を軸に、まず99年前に行って、“明日”に戻されて25年後まで使われて、“昨日、のちょっと後”にコーラぶっかけられて故障した時、その25年後にまだ使われていたリモコンを持ってきて……あれ?なんかちょっとヘンな気もするけどまあいいか……考えるとまた判んなくなるから。

話を進行するSF研のほかに、カメラクラブの存在が必要なのは、それは決して女の子だからじゃなくて、いや、それもあるけどさ、写真っていうのは、写真という青春を封じ込めるアイテムだから。彼女たち(つっても二人だけど)がテーマとしているのはおバカだけど、なんか切ないっていうか、そういうタッチらしいんだよね。彼女たちは25年後もSF研に部室を占拠されてると知ってガッカリするんだけど、「サマータイムマシン……」と名付けられた、昨日の曽我君が映りこんだヘタな野球をする彼らの写真は、彼女たちが言うように、バカだけど、ちょっと切ない写真、なんだよなあ。

未来から来たダサダサの後輩、田村君は、なんと春華の息子だったことが判明。田村君、ということは、ダンナさんの名前が田村だってことで、甲本君は悄然とするんだけど、ラスト、「苗字って、変えられるのかな」ガンバレ、ガンバレ!神様によってすべて決まってるかもしれないけど、それも自分が動いて変えたことも、“神様が変えたこと”であるかもしれないんだから!

エアコンが壊れちゃって、暑さに死にそうになっちゃってさ、もしやと思ってゴミ置き場に扇風機を探しに行っても、使えるものはゼロで、動かしてみるとブン!と羽根が空高くトン出ちゃったり、動くけど風が来ないなー、とか思ったら、羽根ほとんど割れてなくなっちゃってたり、動くけど、赤い、あったかい……おいおいハロゲンヒーターだよって、もうとうに判ってるのに、クスクス笑いながら「ハロゲンヒーター……」っていうまで当たっちゃったりとかっていう、スピーディーとノンビリの間が絶妙なんだよなあ!ふ、ふふふ……と笑い出すまで、大ちゃんと、あと誰か一人(忘れた)がハロゲンを見つめ続け、「……ハロゲンヒーター……」と言い出すまでの間の長さ加減が絶妙なの!

突如出現したキテレツな機械がタイムマシンだと判った時、じゃあどこに行って見ようかと協議して、未来に行って先を見るのも、ちょっと怖い。自分が死んでたりしたら泣きそうになるから、と言い合うのもちょっと好きだったなあ。田村君が過去に来たのも、多分同じ理由だったもんね。彼から聞く、未来のSF研たちがタイムマシンを目の前にして示すリアクション、今の彼らとおんなじなんだもん!
薬局からマスコット人形を運んできたり、その他にもしょーもないガラクタがたんまり、それらすべては部員の石松が集めてきたもので、石松以降の未来にも、こんな風にしょーもないモノを集めてるヤツがSF研には代々いるんだろうなあ……。このタイムスリップの騒動で、石松は、時間差で薬局のマスコット、ギンギンを持ってきて、「あ・うんみたいにするんだ」とはしゃぐ。もちろんそんなこと出来るわけもないのだが……。

それにしても最近は、舞台の映画版が多いやねー。あらゆるところから原作を持ってきて、映画オリジナルが減っているのが気になる……。★★★☆☆


サマリアSAMARIA/
2004年 95分 韓国 カラー
監督:キム・ギドク 脚本:キム・ギドク
撮影:ソン・サンジェ 音楽:パク・ジウン
出演:イ・オル/クァク・チミン/ソ・ミンジョン(ハン・ヨルム)/クォン・ヒョンミン/オ・ヨン/イム・ギュノ/チョン・ユンソ/イ・ジョンギル/シン・テッキ/パク・チョンギ/キム・グィソン/ソ・スンウォン

2005/7/6/水 劇場(飯田橋ギンレイホール)
なんということだ、心から敬愛するキム・ギドク作品が普通に公開されていたというのに、私はアッサリ観逃すところだったのだ!ギンレイホールでかけてくれてホントに良かった……。

キム・ギドクが少女を描くと、こうなるんだ。正直、キム・ギドクが少女を描くなんて、思いもしなかった。日本には既に数多くあるエンコウ映画で、秀作もいっぱいあるけれど、今まで観たどのエンコウ映画よりも、衝撃的で、突き刺さった。
少女は、一人ではない。そして大勢でもない。たった二人、この世の中でたった二人だけで存在しているような錯覚に陥りそうな親友同士の二人だ。それが、何よりもこれまでのエンコウ映画と違った。今まで観てきたそれでは、少女は少女という孤独に一人戦っているか、エンコウというくくりの中でも不思議な連帯感を結んだ仲間たちの中で進行していたから。
でもこの親友同士、お互い同士を見つめ続けているわけではない。そこには小さな小さなズレがあり、そのズレにお互いが気づいていて、そして片方の少女が、そのことに心を痛めている。

韓国の仲良しの女の子たちは、皆こんな風にまるで恋人同士のような雰囲気さえあるみたいだから、こんなことを思うのは日本人だからなんだろうけれど(実際、監督もキャストの二人も、そんな意図はまるでないと言っていた)、この二人には、どうしても淡い恋愛感情を感じずにいられないのだ。
二人、というか、ヨジンの方にである。チェヨンをエンコウに送り出す、連絡係で処女の、少女。
チェヨンはいつもニコニコと笑っていて、楽しそうで、まるで天使のような天衣無縫さで、ヨジンはそんな彼女をいつもハラハラと見守っていた。この可愛い親友の美しい身体が汚い男たちに触られるのだけでもとてもイヤだった。コトが終わるたびに彼女はいつも、銭湯?で親友の身体を丁寧に洗う。「こんなキレイな身体を汚い男たちに……」そう、つぶやいて。
一糸まとわぬ姿でお互いを洗い、ひそやかな口づけさえ交わすこの少女たちの美しさに、どうして淡い思いを感じずにはいられないだろう。

ヨジンはこのエンコウの連絡係である。チェヨンにメイクを施してあげるのも彼女。美少女が美少女に口紅を塗るシーンは、かなりビリッとくるものがある。なぜ自分を連絡係にするのかと問うヨジンにチェヨンは言う。「あなたがいないと何も出来ないの」
チェヨンは誰からも愛される存在だった。まるで天使のようにみんなに幸せを分け与えていた。自分もそのうちの一人に過ぎないことが、ヨジンにとってはたまらなかったのか。そして自分は友達で、女だからチェヨンを満たすことが出来ないことを。
いや、確かに、恋愛感情までには至っていないのかもしれない。彼女たちはまだ痛々しいほどに華奢な手足を頼りなげにさらけだしている少女であり、二人の感情には友情の愛情も、恋愛の愛情も矛盾なく溶け合っている、そんな気がする。
でも二人のそんな溶け合う思いは、パーセンテージは決して同じじゃない。ヨジンのチェヨンに対する心配も含めた思いはやはり彼女に向けた思いであり、チェヨンはそれを判っていて、「傷つけてごめんね」とやはりあのキュートな笑みをたたえたまま、ヨジンをそっと抱きしめるのだ。「もう、ヨジンを傷つけたりしない」自分が男を好きになったことでヨジンが傷つくのを知っているチェヨン。

なぜ、傷つけるのかって、それはチェヨンがお金のために短い時間で会っている男たちに、簡単に心を許してしまうからなんである。時には、ハッキリと好きになっちゃった、なんてことまで言う。
そんなチェヨンの言葉にイラだちを隠せないヨジンに謝り、そっと抱き寄せるチェヨンは、ベビーフェイスで突拍子もない子供っぽさがありながら、ひょっとしたら大人びたヨジンよりも大人なのではと思わせるのだ。
チェヨンが憧れていたのは、インドの娼婦バスミルダ。彼女と寝た男が皆仏教徒になったという伝説の娼婦である。チェヨンは言う。「セックスをしている時の男って、子供みたいだから、母性本能を刺激されるんじゃない?」
チェヨンは、確かに天使だったのかもしれない。彼女がホレっぽいんじゃなくて、彼女と寝た男たちは皆幸せをもらって、彼女を好きになっちゃったのかもしれない。
と、いうことを、ヨジンは後に知ることになるんである……。

なぜ二人がエンコウなぞしているのか。それは二人で行くヨーロッパ旅行への資金を貯めているんである。
何か、胸が痛くなるほど、可愛くって、そして現実離れした理由だ。まるでお伽噺みたい……この世でたった二人だけの親友同士で行く楽しいヨーロッパ旅行を夢見て、男に身を任せている、だなんて。
だって、二人とも本当に可愛いんだもの。キム・ギドクの映画に出てくる俳優は皆キンキラリンのスターではないけれど、そこで生々しい生を息づかせている。そして少女の生々しさというのは、こんなにも可愛いものなんだ……その生々しい可愛さというのは、彼女たちの中での、こんな現実離れした揺らぎから来ているのか。
でも、天衣無縫のように見えるチェヨンの方がその揺らぎはほとんど感じられず、とても完成されているように思える。彼女はまるで突拍子もなく……死んでしまうのだけれど、それさえも、彼女の中で最初から決まっていたことのように、思えるのだ。

チェヨンが死んでしまったのは、エンコウ現場を警察に押さえられて、逃げ遅れて、下着姿で窓から飛び降りてしまったから。
いつもならそんなことがあっても、ヨジンがきっちり見張っていて、間一髪のところで非常階段から逃げ出していた。チェヨンはそんなスリルも大好きだった。
でもこの時、ヨジンはほんの少し油断をしてしまっていた。ぼんやりチェヨンのことを考えていて……道行く男の視線に苛立って言い合いになっている間に……踏み込まれてしまった、のだ。
でもチェヨンは、刑事に踏み込まれてホテルの窓枠に下着姿で立っている時さえ、いつものようにニコニコと楽しげだった。窓の下で「やめて!やめて!」と悲痛に叫ぶヨジンにもいつもの笑顔で返し、まるで「今、行くよ」とでも言いたげに、躊躇もなく、ふわりと飛び降りてしまったのだ。

地面に打ちつけた頭から赤黒い血が流れる。悲鳴をあげるヨジン。チェヨンはうっすらと目を開き、「連れていって」と言う。彼女をおんぶして走り出し、病院に駆け込むヨジン。
意識は時々戻るけれど、もう見込みはない。医者は彼女の家族に連絡しなさいと言う。なのに、ヨジンは連絡先を知らないのだ。
そんな、いわゆる陳腐な、社会的なつながりめいたことなど、ヨジンとチェヨンにとっては意味のないことだったのかもしれない。そんなこと必要ないほど、いつだって一緒だったんだから。でも、そのことが、こんなにも悲劇的なのだ。こんなにも……。
愛するチェヨンのために、何もしてあげられないというのが。
意識を取り戻したチェヨンは、家族の連絡先は言わず、客の中の一人、彼女がホレた音楽家の青年を連れてきてほしい、という。
なんだか、ふと、思ってしまった。家族への連絡先を言わないというのが、余計にチェヨンの天使性を増してる気がして。このごちゃごちゃした街に暮らしているナマな少女ではなく、男たちに幸せを与える天使。
でも、天使もふと本当に恋してしまうことがあって、それがその青年なんだったんじゃないかって。

ヨジンはその青年の元に走る。必死に頼み込む。でも、コイツ、チェヨンの見込んだような男じゃなかったのだ。今作曲活動で忙しいんだ、なんて、鳴らしているシンセの音はマヌケな合成音で、コイツのくだらなさをそのまま現わしているみたいだ。
お願いだから、と涙をこらえながら必死に頼むヨジンに、「早く済ませればそれだけ早く行ける」と、このサイテーな男は、ヨジンを抱くことを条件にするんである。
ヨジンは、初めてだった。チェヨンの願いを聞き入れるために、このくだらない男に破瓜の痛みをこらえた。「初めてだったんだろ。友情も大事だけどさ……」などと陳腐な気遣いを見せるコイツを無視して、「いいから早く病院に行って!」と絶叫するヨジンがあまりに辛い。
この、クダラナイ男に時間を割いたせいで、その間にチェヨンは死んでしまっていた。ストレッチャーに乗せられて運ばれるチェヨンに行き合って、呆然とかけられた布を外すと……いつものように、チェヨンはあの笑顔のまま……。
声もなく涙を落とすしかないヨジンに、気まずげなクダラナイ男は、かかってきた携帯電話に「知り合いが死んだんだ。ただの知り合いだよ」などと答えるんである。本当に、クダラナイ男。
でも、チェヨンがただ一人、死に際に会いたいと言った男だったのだ……。

ヨジンは、「少しでも罪滅ぼしがしたいの」と、ある決心をする。ここからが、第二章の始まりである。
本作は三つのタイトル立てに分かれているんだけれど、印象としては前半のチェヨンとヨジンの物語、後半のヨジンとその父の物語、そして全体を通して、ヨジンとその父のそれぞれの物語、といった趣なんである。
ヨジンは母を亡くして父と二人暮しである。父は刑事。妻の忘れ形見である一人娘のヨジンは、目の中に入れても痛くないほどの可愛い存在なのだろう。寝起きの悪い娘にサティの「ジムノペディ」をヘッドフォンでそっと聞かせてやって起こす場面など、もう……言いようのない愛情を感じる。
ヨジンはチェヨンの足取りをたどる決心をした。いや、大好きだったチェヨンになりたいと思った。いやそれも……違うかもしれない。チェヨンを元のキレイな彼女に戻したいと思ったのかもしれない。チェヨンが寝た男たちを改めて自分が引き受けて、お金を返せばそうなれるような気がした。あの時のチェヨンのように、始終笑いながら。

チェヨンが相手をした“客”たちを、順繰りに訪ね、寝る。チェヨンと同じように常に笑いながら過ごすと、客は幸せをもらった、と彼女に感謝する。チェヨンが男たちに幸せを与えていたのだと、ヨジンはここで思い至ったんだと思う。そしてチェヨンが死んだことを告げると、男たちは大体、痛ましい顔をしてくれるのだ。
少女だったヨジンが、チェヨンの姿を借りて、どこかムリヤリなところが痛ましいながらも、大人になっていくのが見える。そしてヨジンにだけ見えるチェヨンの姿も……。
刑事としてエンコウ少女の殺人現場に来ていたヨジンの父親は、向かいのモーテルに娘と男の姿を目撃してしまうんである。
その時、ヨジンが相手にしていたのは、ボンボン風の男で、ヨジンがひたすら笑っていることに「何が可笑しいんだ」と苛立ちを隠せなかった。その次の場面でカットが切り替わって、殺された血まみれの少女、になるもんだから、ヨジンがこのボンボンに殺されたのかと思ってギョッとするんだけど……このおとーちゃんの中には確かにそんな図式が存在しちゃってるから、余計にショックだったんだろうと思う。

でも、おとーちゃんってば、娘に聞けないんだもの。そりゃ、聞きづらいことだとは思うけど……でも、聞いてくれれば、幼い考えながらも、ヨジンのチェヨンへの精一杯の思いを判ってあげられたと思う。
刑事なんて仕事をしてて、しかもこんな事件を捜査したりしてるから、おとーちゃんの中では娘に対する憤りよりも、相手の男に対するそれの方が増幅してしまった。そして、娘の後をつけていっては、相手の男をボコボコにし、反撃に出られると殺してしまったり……、その男の家族団らんの中に入り込んでいって秘密をバラして、自殺に追い込んだりしてしまう。
そりゃ、確かに、この男たちのしていることは、責められる以外ないことなんだけど……あのクダラナイ音楽家の青年なぞのことを思い出したりするとね。でも、チェヨンが自分を求める男たちを癒し、幸せを与えたことを、ヨジンが彼女への償いへの“旅”で、発見していっていることを思うとね、このお父ちゃんの行為、娘への愛だからってこと、判るけど、判るけど……娘の愚かだけど必死の行動を、最悪の形で潰してる、んだよね……。
お父ちゃん、何で聞けないの。こんなに愛している娘なのに。それは何か……愛していても、目の中に入れても痛くないほどでも、そうだからこそ、一個の人格として見ていないのかな、って気も、しちゃうんだよね……。
彼が思わず知らずとった末のこの結果は、もしかしたらヨジンのはじめての人格形成の行為を片っ端から潰しているのかもしれない、とも思い……。

あの時、ヨジンが血だらけのチェヨンを背負った後に、いつも二人で行っていた銭湯で、着衣のまま、泣きながら彼女の血を洗い流していたように、ヨジンの父親も、彼女とエンコウした男を殺してしまった後、同じように血だらけの自身を呆然とシャワーで洗い流してる。
季節は秋。一貫して秋。急速に近づいてくる冬の気配を充分に感じさせる秋である。ヨジンの父親が、娘のエンコウ相手を責め立てた後に呆然と車の中にいる間に、その車を覆い隠さんばかりに、紅葉の葉が降り積もる。太陽の光がまるで感じられなくて、曇り空ばかりの寒々しい冬の気配を、すぐそこまで感じずにはいられない。
父親は、娘を母親の墓参りに誘う。えらく、突然に。ヨジンが「今から?」と驚くほど。
父お手製ののりまき(母親の好物だったんだろうか……それにしても巻きすの使い方が、日本と違うのか、使えてないのか)を持って、車に長いこと揺られて着いたのはすっごい山の中、である。墓、といっても、土が盛られただけの粗末なところである。のりまきを供え、一緒に食べよう、とヨジンと共に食べる父親は、続けざまに口の中に入れて、案の定つまらせ、娘に背中をさすられながら、ゴホゴホとリバースする。

この場面とか、帰り道、荒れ道にとられてしまったタイヤを、投げ出してしまった父親に替わって詰まっている石を取り除いたりとか、ヨジンはいなくなった母親の、そして妻の役割りを充分に果たしていて、父親はそんな娘を黙って見ているんだけど……何かは思ったに違いない。
二人、小さな空き家に泊まる。隣の家のお爺さんが差し入れてくれたサツマイモをむいてやるヨジンの姿も、妻や母親の姿そのものである。子供だと思っていたからこそ、あんなにも激怒して、男たちを葬り去っていた父親……。
夜中、起き出したヨジンは、外で一人、泣いている。その姿を父親はじっと、見つめている……。

次の日、帰り道。助手席で眠りこけるヨジンをそのままにして、川に半分入り込んだ車から出る父親。その時ヨジンは夢を見ている。
私……ビックリしちゃった。色合いがブルーに変わったから夢かなとは思ったけど、川に半分入り込んだ車っていうのが生々しかったし、ひょっとしたらホントのことなのかなって……それは、父親がヨジンの首をしめて殺し、河原に掘った穴に埋め、いつものように、サティの「ジムノペディ」をヘッドフォンで優しく聞かせる、という……そこで彼女、ハッと目を覚ます。車から出てみると、父親が石をペンキで塗りつけて、自動車学校みたいな道を作ってる。
教えてやるから、運転してみな、と娘に即席自動車学校である。しり込みしていたヨジンも、次第に楽しくなってきて、ハンドルさばきに夢中である。そんな娘を見守りながら……父親は呼んでいた同僚の車に乗り込む。自首、したんである。
父親が去ったことに気づいて、ヨジンは覚えたての運転で後を追う。だけど、この荒れた道にタイヤをとられて立ち往生してしまう。
水墨画のような静かな山水の風景の中を、淡々と走り去って行くワゴンを、動けなくなった車から降りたヨジンが呆然とながめているのを俯瞰で見て、カットアウト。静かで美しいことに気をとられて、それがとても哀しい幕切れだということに気づくのに時間がかかった……のがよけいに切ない。

容貌はチェヨン役ハン・ヨルムの方がベビーフェイスなんだけど、実際の年齢がハン・ヨルムの方が上だという(ビックリ!)のもナルホド納得で、チェヨンはやはりヨジンの中で完成されたチェヨンとして、まったく揺らぐことがなく、完璧なんだもの。ロングヘアーがけだるげにまとわりつき、一見大人っぽく見えるヨジンは、そのけだるさは実際は少女特有の揺らぎに他ならなくって、逆にその危なっかしさがやはり少女にしかない色香。チェヨンの足跡を追ってゆくに従って艶っぽく女になってゆく、その猫目がちの瞳がたまらなく、少女。★★★★★


サヨナラCOLOR
2004年 119分 日本 カラー
監督:竹中直人 脚本:馬場当 竹中直人
撮影:佐々木原保志 音楽:ハナレグミ クラムボン ナタリー・ワイズ
出演:竹中直人 原田知世 段田安則 雅子 中島唱子 水田芙美子 内村光良 中島みゆき

2005/8/22/月 劇場(渋谷ユーロスペース)
確信犯的にお伽噺チックな雰囲気もありながら、人の気持ちにとても真実を突いていて……何かものすごく、心打たれてしまう。うん、心打たれる、という表現がピッタリだな。いい映画、美しい映画というのは簡単だけど、それよりも、とても心打たれてしまう、って感じ。
だって、こんなお医者さんトンでもないしちょっとありえないし。彼女ぐらいの病状で(確かにとても悪い病状だったけれど、見た目にはそれほど悪そうには見えない)あんな個室を与えられるというのもあまり現実的じゃないのかもしれない。他の病室もそれなりには出てくるし、印象的な患者さんもいるんだけれど、彼女の病室と、彼の医務室と、それぐらいが単体で存在している感じで、病院としてのリアリティを追及しているという感じはない。
それにこの病院、海辺に建っているんである。彼女の部屋からはきらきらと輝く水面(みなも)が見える。屋上に登ると、はるか向こうに海が展望できる。
この海で、彼は彼女と色ガラスを拾ったり、二人で用を足したり(!くせになりそう、と言う彼女に、「くせにならないほうがいいのでは……」とマジに心配する彼が可笑しい!)、そして、あのあたたかな涙が流れる優しい優しいラストシーンもこの穏やかに寄せては返す海辺なんである。

このお医者さんである彼は佐々木。演じるは監督の竹中直人で、高校時代はササキンなんていうあだ名で呼ばれ、まあなんとなくつまはじきにされていた青春、なんである。キン、はもちろん菌のキンである。それを聞いた雅夫が「子供ってザンコクだな」と笑うんだけど、あんただって、納豆菌を思い出したって言ってたじゃーん(こっちの方が言い得て妙で大笑い)。
雅夫っていうのはヒロイン、未知子の恋人でスタイリストの鈴木雅夫である。演じるのは段田安則。段田安則が有名なスタイリスト役なんてええー!?って感じなんだけど、そのベタなギャップが、この物語の、シリアスになるのをスレスレのところでかわしているような、マジになるのを照れているような、まさに竹中直人そのものの世界を上手く上手く体現して、固そうになる雰囲気をやわらげている。コイツも浮気者のトンでもないヤツなんだけど、愛人のあき子が「あなたの困った顔が好き」というように、なーんとなく憎めないところがあるんだよね……竹中作品にでてくる登場人物はみんなそうだけど。彼の人の良さというか、優しさをホント感じるんだよな……。

そう、そして、この物語のヒロイン!ある一定以上の年齢の人たちにとって憧れの映画女優、原田知世である。彼女がヒロインを演じるのは大きな意味があるんだよね。角川映画全盛時代、制服のスターだった彼女。だからこそ、“高校時代、憧れていた人”に彼女以上のキャスティングはないんだもの。
高校時代の回想シーンで彼女役に使われている女の子が、何となくあの頃の素朴な原田知世をほうふつとさせる感じなのもイイんだよね。
で、佐々木は高校時代、この彼女、未知子一色だった。彼女を好きな自分で一色だった。彼はクラス全員に、特に女の子には決して近づかれなかったタイプの、まあちょっとキモチワルイ系のコ。勿論それは、今の佐々木にもつながっている部分で、キモチワルイ男を演じさせたら竹中直人は天下一品ですから!そう、だから彼のキャラクターは、そんな青春の映画女優に憧れながら、サエない青春時代を送っていたオトコノコたちに夢を与えるんだよね。ササキンほどに極端じゃなくても、今も昔もオクテに悩んでて、好きな気持ちだけいっぱい抱えて悶々としているオトコノコは沢山いるはずだもの。

佐々木は未知子のことを、最初で最後の恋だったという。今の彼には居酒屋のふとっちょ女将、聖子が愛人だったり、エンコウ少女、まなみに声をかけられてつきあったりしてるけど(まあ、まなみとは寝てないだろうけど)心の中ではずっと高校時代好きだった未知子を忘れられずにいたというのだ。
そんな極端な、と思いそうになる一方で、でもそれは当然のことじゃないかとも思ったりする。ふとっちょ女将だって美少女まなみだってササキンはそれぞれに愛しく思っているし、彼女たちの方だってササキンを愛しく思ってるし、この年になるまでそれなりに恋愛めいたこともあったかもしれない。でも、青春時代の思いっていうのはそれ以降の、いわゆる大人になってからの思いと確実に違う種類のものなんだもの。その憧れの人と再会して、そっと大切に閉まっていた気持ちが押し込められたフタがパン!と開いたようにふくれあがった時、最初で最後の恋が、彼の人生をずっと貫いていたっていうの、そりゃそうだって思う。

ましてや、彼女は彼の患者として入院してきたんだもの。
その前に、街に帰ってきた未知子をササキンは見かけている。何度も声をかけようと思った。ついていった彼を不審がって、あからさまに走って逃げられたりもした。「先生の外見じゃあねえ……」などと言う後輩医師の前田。オイオイ!これがウッチャンなんだよ!「恋人はスナイパー」で仲良くなったんだろうなあ、ウッチャンを竹中作品に使ってもらえるなんて感激!ウッチャンと竹中直人のシーンは結構多くて、シリアスもギャグも秀逸なんだよね。「そんなことしたら、お前の舌を噛み切ってやる!」「……(言葉に詰まって)どうやって」一瞬の間、「こうやってだよ!」とウッチャンの顔をひっつかんでぎゅうぎゅうと迫りまくる竹中直人!そこにふっともう一人の医師、大森南朋が。うおー、竹中&ウッチャン&大森南朋のスリーショット!思いもしないスリーショットだ……しびれるー!思わぬところを見られて口を両手で抑えてびくびくと下を向くウッチャンがいいんだわあー、もう。

話が脱線しました……だからね、未知子の方はササキンのことを忘れちゃっていたのだ。ササキンはそりゃあもう執拗に、「僕のこと、覚えてませんか」「思い出してくれましたか、僕のこと」と病室に日参して彼女に問う。でも彼女はどうしても思い出せず……でも突然ふっと、思い出す。それは屋上からぶらさがって落ちそうになっているササキンをクラスメイトが窓から鈴なりになって騒いでいる回想である。「思い出した!ササキンだ!」でも彼女がそれをササキンに言わなかったのは、自分が思いを寄せられていたのも思い出したから。
深刻な病気だし、恋人は友達と浮気しているみたいだし、寂しくて不安で、未知子は日参するササキンをうっとうしく感じもして、イヤミったらしく筆談で話したりもするんだけど、誤字を指摘されたりなんぞして、そんなやりとりを繰り返しているうちに、ふっと彼女の心もほぐれてくる。両親はとうに死んでしまっているし、恋人も冷たくなってしまって、今の彼女にはいわばササキンだけが彼女の病気も、彼女自身も心配してくれる人なんである。
未知子はランプ職人。色ガラスの破片で作るアルコールランプは素朴な美しさで暖かく、でも……壊れやすい。ササキンが未知子からもらったランプを「キレイ……」とながめていたまなみ、飛んできたサッカーボールが当たった拍子に手から離れて壊れてしまう。私その時は、これは未知子の行く末なのかと思ったりした。でも違ったんだ。それは……ササキンだったんだね。

ササキンは欠席届を出していた同窓会に、「一緒に行ってほしい」と未知子に請われ、共に連れ立って出かける。そうそうこの時、「僕、欠席にマルしちゃいました」と手でマルを作ってちょっと困った顔を見せるササキンがか、カワイイ……。ギターを弾きつつ司会を務める忌野清志郎!うひゃー!で、未知子はクラスのマドンナとして紹介される。担任の先生に、「先生のことが好きでした」と告白すると、「俺も好きだったよ」と未知子の肩を抱く不良先生、久世光彦がカチョイー!
その帰り道で、「本当に先生のこと好きだったの」なんぞと聞くササキンがッ(笑)。「不良っぽいところと、性的な魅力かな」「性的な魅力だなんて、あなたからそんなことを聞くとは思わなかったな」そりゃあそうだろう……ササキンにとって彼女は青春の大切な思い出だったんだもん。彼女が思いを寄せていた先生のこと、「僕はキライだな」などと言うササキンの正直さがカワイくも可笑しい。
唐突に、未知子、「今夜7時、耳を済ませてみてください。僕の声が聞こえるはずです」と言う。それはその若き日、ササキンが彼女にあてた手紙だった。その夜、ササキンは街中に響き渡る大声で、「及川さあーん!好きだー!大好きだー!」と叫び続けた……は、ハズかしい……彼女、覚えてたんだ。だからこそ、悪いと思って思い出せないフリをしていたんだけど、覚えていたことを明かしたということは……。
もうこの時点でササキンへの気持ちは確定していたんだなあ。

手術も出来ないような状態だった未知子なんだけど、ササキンの判断での化学療法が効いて、手術可能な程度にまで回復する。本当は自分で執刀したかったササキン、だけどより確実な方法をと、腕利きの女医、厳岳先生を呼ぶ……で、これがなんと中島みゆき御大で、すっごく似合ってるの。本当に腕利きのベテランの女医さんって感じでカッコイイのなんの。患部のレントゲンを見ながら「30〜40パーセントってとこですね」と言いつつ、真剣なササキンを見て、「10パーセントあげとこう!」と言って去ってゆく……カッコイイ……。手術終了後、ふー……とため息をつきながら手術室を出てきて、ダメだったのかと思いきや、「成功しました」と手でマルを作るところもみゆきさん、カッコよすぎ……こんなにお医者さんが似合うとは思わなかったなあー。みゆきさんてば、女優さんしてても成功したかも……。

未知子が恋人の雅夫に別れを告げる時、彼女自らがササキンにプロポーズしたことを告白した時なんだけど、「あのしつこさが私を救ってくれたと思う」と言うのが、いいんだよね……。
雅夫とは、もうムリだって未知子は言うじゃない。雅夫はいかにも業界風を吹かしているスタイリストで、共通の友人あき子と平気で浮気をしているわけで。まあそういうことは別にいいとしても(良くないけど)この雅夫に対しては、未知子も一般的な恋人と同じように、独占欲で、相手からも愛していてほしいと思っていたんだろうけれど、それは若い頃からの恋の延長線上だったのかもしれないと、思う。
未知子はササキンからは愛を受けて、愛が生まれた。そんなササキンに対する気持ちとの違いを考えると……やっぱり、ね。
でも、ササキンはやっぱり“若い頃からの恋の延長線上”ではあるんだけど、そこが男と女の違いってヤツかもしれないなあ。

結局雅夫はあき子にも振られてしまう。あき子は雅夫の子を宿していたし、「未知子には出来なかったけど、私には出来たの」などとちょっと誇らしげに言っていたりもしたんだけど、「子供を産むかどうかは私が決めるの」と言って彼を残してパリに帰ってしまう。彼女の好きな、困った顔の雅夫を残して。未知子の病気にさして心配そうな顔も見せず、それどころか彼女の死を想定して雅夫の後釜を考えていたようなあき子だけど、彼女もまた憎めないというか、あまりにさっそうとカッコよくて、よくぞ雅夫を捨ててくれた!とか思っちゃうのね(笑)。

ふとっちょ女将の聖子も、エンコウ少女のまなみも、ササキンのこと、愛しく思ってて、いわば未知子はそれに加わる形とも言えるんだと思う。未知子がササキンに「私、先生がいないと生きていけなくなりました。これからの人生、一緒に生きてくれますか」とプロポーズした時、ササキンはあまりのことに言葉を失って、自分はそんなことを言ってもらえる資格はない、愛人もいるしエンコウしてるし、看護婦さんのお尻は触るし、そんなだらしない男だと言うんだけれど、未知子はそんなこと気にしない、と言うからさあ……。独占したいんじゃなくて、この人が好き、この人がいなければ生きていけない、この人の側で生きていきたい、という気持ちだけが大事だから。そして、聖子やまなみとは同じ人を愛しく思う者同士の不思議な連帯感があったりするのだ。
それは、ササキンが死んでしまった病室での聖子との邂逅と、それをじっと見守っているまなみという場面で感じられる。
聖子は彼にいつもそうしてやったようにマッサージをしてやる。こんな風にしてやっていたのよ、と未知子に見せつけているとも言えるけど、でもそれはささやかな、意地で、ササキンが未知子のことをずっと思っていたこと知っていたし、いつも話を聞かされていたから、その後を彼女にそっと譲ってやるのね。
ふとっちょ女将の中島唱子がすっごくカワイイんだよね。この女将にササキンは心癒されていたんだなあと思う。未知子のことだって何だって相談できる懐の深さとあったかさがあって。

未知子の手術の成功に、嬉しさのあまり、まなみの前でバレエを踊るササキン。頭に白鳥の湖っぽく巻いて、ランニング姿でクルクルと踊りまくる竹中直人はそりゃもう最高におっかしいんだけど、笑いながらも不思議に感動的なのは、その厳かなクラシックの音楽が、神聖さを醸し出しているからなのかなあ……その時撮った写真を、まなみは死んでしまったササキンの病室にそっと貼って去って行く……これもまた、聖子が指圧をしたような、自分だけが知っているササキン、という少々の意地だったのかもしれないと思う。二人とも未知子にはかなわない、未知子が持ってるササキンが大事に大事にしてきた高校時代の思い出にはかなわないことを知りながらも、自分だけが知っている彼もいるんだってことで……そっとそっと、哀しさをまぎらわしていたのかもしれない。
ササキンの最後の言葉は、「やつでのはっぱ」だった。高校時代のある日、未知子をつけて自宅まで行ってしまったササキン、こともあろうかもよおしちゃって、お手洗いを借りた。出てきた母親に「(未知子を)呼ばないでください!」と必死に連呼して、お手洗いから見えるやつでのはっぱを眺めながら、「未知子さんもこうしてやつでの葉を見ながら……いや、彼女は立ってしないんだ」なんて言ってた……。

ちょっと話を急ぎすぎてしまった。ササキンが未知子からプロポーズを受けながらもこんな結末を迎えてしまったのは、自分の病気をほったらかしにしてしまったからなのだ。
「今の自分にとって及川未知子がすべてなんだ」と、心配する後輩医師、前田の心配も聞かずに、治療を受けようとしない。
自分の病気が進行しているのを知っていながら……見ないフリをしていたんじゃなくて、充分に判っていたからこそ、彼女に命を与えるつもりでいたんじゃないかって、思う。
及川未知子は最初で最後の恋の相手だから。彼女からプロポーズを受けるなんて思ってもいなかったから。自分の中でそれを完結するためには、自分の命を散らしても、彼女を助けなければならなかった。それは、恋愛と結婚は違うというものだったのかもしれない。だから二人は結ばれずに彼は死んでしまったのかもしれないんだけど、たとえこの後、未知子が他の誰かと結婚しても、きっとそのだんなさんにササキンの話をして、彼女の中では特別の位置を占め続けるんだろう。そして、ササキンはその特別の位置を維持したいがために彼女に命を与えて死んでいったのかもしれないと思うと、それはある意味ズルいとも言えるんだけど……。
だってやっぱり、一生一緒にいる方が愛の形としては尊いと思うし、そして難しいことだって、思うから。

ただそれにも素敵なオチがついていて、未知子がササキンのことを思いながら海辺に佇んでいると、死んだはずのササキンがいつもの白衣姿で立ってるのね。「僕はあなたにいつまでもこだわるんだ」あの満面の笑顔で未知子に語りかけるササキン。「しつこいのね、ササキン。好きよ」そう笑顔で返す未知子。でもふっと顔をあげて、見るとね、彼はもういないのだ。それがね、あの暖かな涙が流れるラストシーンなの。ササキンの存在を感じながら海辺に佇む未知子をとらえながら、ずーっとカメラが引いていく……ずっとその引きのショットで、エンディングの「サヨナラCOLOR」が流れて、ラストクレジットになる。「サヨナラからはじまることがたくさんあるんだよ」脚本を読んだ時、この曲がまず頭に浮かんだという竹中監督。ササキンは、ササキンなりの形で、ササキンらしいやり方で、ずっと未知子にこだわって、ずっと彼女の側にい続けると、言えるんだろうなあと思って……彼女が誰をこの先愛そうと、そんなこともどうでもいいのだ、きっと。そうか、だったらやはり彼にとってもいつのまにか、未知子への思いは恋から愛に変わっていたんだなあ。

もう、ホントに、心打たれて、涙が出る。★★★★☆


さよなら、さよならハリウッドHOLLYWOOD ENDING
2002年 113分 アメリカ カラー
監督:ウディ・アレン 脚本:ウディ・アレン
撮影:ウェディゴ・フォン・シュルツェンドーフ 音楽:
出演:ウディ・アレン/ティア・レオーニ/トリート・ウィリアムズ/マーク・ライデル/デブラ・メッシング

2005/7/3/日 劇場(恵比寿ガーデンシネマ)
ハリウッド・エンディングかあ。いやー、なんかウディ・アレンらしいタイトルやね。邦題も秀逸。いや、むしろらしくないのかな?ハリウッド映画とは一線を画しているところで、ある意味無視する形で淡々と映画を作り続けている彼だけれど、作品を作るたんびに高評価で、大がかりなハリウッド映画と比較されて褒めちぎられて、みたいな位置にいるから、評価なんぞ観ていないだろう彼にとってもそれがどこかうっとうしいのかなとか、くすぐったいのかなとか、何かそんな風に考えちゃったりもする。だからこんな、ちょっとおちょくったようなタイトルにして、内容は更におちょくっちゃったりしたのかも、なんて。だってこんなチャップリンみたいなドタバタ、小粋なアレンが作ったなんてちょっとビックリ。いや、彼もずっと年若い頃の作品にはこんなテイストもあったような気もし……いやそのあたりは、あんまりフォローしてないけどさ、私。あ、でもなんか、ぐっと力が抜けたような気がする。

アレン自身が演じる主人公は、かつてはヒットを飛ばし、オスカーにも縁があり、巨匠と呼ばれた輝かしい栄光を持つ映画監督なれど、年をとるごとにどんどん難解な映画ばかり撮る上に、注文が多く、しかも勝手にナーバスになって仕事を放棄したり、あるいはクビにされたりってことで、どんどんお声がかからなくなってしまって、今や防虫剤やら大人用紙オムツのCMのクチぐらいしかないんである。ううう、なんとゆー、皮肉な役の設定。いや、アレンはそういう位置とはぜんぜん違って、自分自身で自由に作品を作れるという稀有な存在だけど、ハリウッドから離れていることは確かだし、こういう異様なまでの神経症的キャラクターは、ひょっとしたらホントに地なんじゃないかと思うぐらい、昔っからアレンお得意の持ちキャラだしさ。何か、ミョーにリンクする気持ちがあるんだよね。
そんな彼に久しぶりにお声がかかる。かつての名作映画のリメイク。このあたりもかなりビミョーにハリウッド事情を感じさせてシニカルにクスリとさせる。だって、ネタに困って久しいハリウッド、まずオリジナルシナリオを作ることに力尽きてベストセラーを食い荒らし、その次にはまだ世に出ない小説をどこから情報を仕入れたんだか青田刈りしまくり、ヨーロッパ映画のヒット作のリメイクに手をつけ……そして次あたりだったよね、こんな風に名作のリメイクが量産されたの。「王様と私」だの、「サイコ」だの、「太陽がいっぱい」だの、「ダイヤルMを回せ!」だの、「麗しのサブリナ」だの……秀作もあったけど、頼むからかつての名作を汚してくれるな、っていうよーなのもあったよね。んで、今はアジア映画のヒット作をリメイク、あるいはリメイク権をとりあえずといった形で金をチラつかせて奪いまくり、荒らしまくっている現状。いつもオリジナル作品で挑み、そりゃ途中にはおなじよーな作品が続いたことはあったけど、いつでも彼の今を気負いなく注ぎ込んできたアレン映画だからこそ、皮肉たっぷりにこういう題材を扱えるんだよなあ。

今のアジア映画リメイクの嵐にアレンがどう思っているかは知らないけど……この作品の中でチラ見えするアジアの影は結構キッツかったりするよね。中国は、まだいいよ。「繊細な画を撮るから」、とアレン扮するヴァルが指名するのが中国人カメラマンなんだから。ただ、このカメラマン、外国人から見た中国人(同じアジアでも、日本人から見ても確かに中国人ってこんな感じ……)そのままで、中国語を怒ったように、いやまんま怒ってダダダダーッてしゃべりまくって、そう、自分の主張だけを押し通して、怒ったらもうその怒りを引っ込めることがなくって、みたいなね。ヴァルの味方となる、このカメラマンの通訳の中国人にしても、「僕以上にこの役をこなせる人はいませんよ」みたいに自信たっぷりなあたりが中国人っぽいし。でも、何たってカメラマンとしての腕を買われてたり、通訳でビジネスライクなところを買われてたりするところは、中国人は、まだいいんだよな、この中では。何かね、アレンは日本がキライなんじゃないのかと思ったりしたりして……「スシを食べてゲロした」とか、失明した原因に「トウフを食べたからじゃないだろ」とか言ったりするのに、思わずビクッとしちゃうのよね……。

そうそう!もー、私は話を先走るんだから!この話のキモを何の前触れもなくいきなり言っちゃったよ!そう、アレン扮するヴァルはいきなりの大チャンスにプレッシャーが重ーくのしかかって、神経性の失明を起こしてしまうの!アレン、いつも以上に喋くりだなー。目が見えなくなってしまったという不安が彼をやたらと喋らせる。あっと、その大チャンスのプレッシャーにはそれ以前にいろいろともっと重いものがあったのよ。この話を持ち込んできたプロデューサーというのがヴァルの元妻、エリーであり、その会社のトップが、ヴァルからエリーを奪った男だというのだから。エージェントから(このエージェントがアレンと同じくユダヤ人であり、ユダヤ教の行事をきっちりこなしている描写を入れてくるのも面白い)これを逃がしたらもう二度とこんな話はないぞと言われ、実際に自分にもまだまだ栄光への欲があるから(一緒に暮らしている自称シェークスピア女優のイタリア娘に、ことあるごとに過去を自慢しているらしい雰囲気)、逡巡しながらも、この話をOKするヴァル。

彼は本当に才能のある人、と推薦したエリーは、実際ずっと彼を愛していたのかもしれない……自分では気づかずに。というのは、ラストになってから思うことだけど。ヴァルはね、この、見るからにアホな恋人(イタリア=明るい=アホ、っていうイメージの連想も、ヤバいよね……でも考えてみれば、ハリウッドも含めて、そういうイメージの皮肉さは確信犯的だけどさ)と暮らしながらも、すっとエリーに未練たっぷりなの。多分このフクザツな性格が彼女との結婚生活を終焉に追い込んだんだろうとは想像に難くないんだけど、とにかくあのハリウッド男(この彼に対してはとにかく、いかにもハリウッドに住んでる、太陽の光り礼賛、プールにビーチにだだっ広い大豪邸、みたいなステロタイプを確信犯的に持って来てて、アレンの皮肉な視線が何とも可笑しいのよね)が愛する妻を寝取ったんだ、ってアタマなのよね。その割には彼女に会うと愚痴の大爆発で、とにかくプロジェクトがまとまった、打ち合わせをかねて軽く呑みましょう、って時に、打ち合わせだって言ってるのに、過去をむし返してキレまくって、かと思ったらコロリと映画のアイディアを色々と披露して見せたりして、それにエリーが同意しかけると、またいきなりキレるという、そのスイッチのオン・オフが今までの小粋なニューヨーカーシネマのアレンには見られないナンセンスな可笑しさで、もおー、最高に可笑しい!何の前触れもきっかけもなく、そのオン・オフを流れるように体現するアレンに、ああ、この人は生っ粋の、そしてベテランのコメディアンなんだもんなあ、と今更ながら思う。

しかも、ストレスでいきなり失明するなんていうんだから!実際、この“持ちキャラ”のアレンなら(あまりにハマりすぎの持ちキャラだから、ホント、地なんじゃないかと思っちゃう……)なりそうだよなーと思っちゃうんである。だって、アレンて、眼鏡がトレードマークでしょ。その眼鏡に気をとられて、彼の“目”の表情のことって、そういえばあまり注目したことなかったんだよね。目こそが表情のはずなのに、アレン自身があんな具合に飄々としているもんだからさあ。で、改めて“目の見えない”(演技をする)アレン、を見てみると……これが、これがね。
目が死んでて、コワい……。
コワいけど、コワ面白い……。
のよね……。
アレンは“目の見えない演技”をそれほどコテコテにやるわけじゃなくて、コケたり慌てたり、といったドタバタの面白さに集中しているんだけどさ、普段、気にしてなかっただけに、改めてアレンの動かない目を見ていると、それはベッタリと黒くて、何かホントに死んでて、結構コワいわけ。
何でいきなり目が見えなくなったのか、ってことを彼はエージェントに伴なわれて病院に調べに行くんだけど、検査のために眼鏡を外すと、アレンってばいきなり老人!うわ、ビックリ!やっぱり、ウディ・アレンという“キャラクター”を、ひとつはあのアナクロな眼鏡でとらえてたんだなー、と再確認。改めて見てみるとこの眼鏡、ほんっとに、昔っからまるで変わらない、こんな眼鏡、もうないでしょう!っていうアナクロなセルロイドの黒縁なのよね。

目が見えなくなって映画監督なんかできっこない、んだけど、なんたってもう崖っぷち監督であるヴァル、エージェントにもそう説得されて、神経症の一時的な失明なんだから、いつかは見えるようになるはず、それまで何とかごまかして撮り続けるんだ、と決心するのね。
でも、プレッシャーがどんどん増してくる現場で、神経症の失明、が治るわけもない。確かに映像はカメラマンが撮るものだけど、監督の意図や、大仰な役者の演技もそのまま、色々な角度からの撮りおきのカットなどが不足する中、クズ同然のフィルムばかりが積み重ねられてゆく……。

いやー、シニカルだよねー。確かに最近って、あるいは最近のアジア映画あたりにって、“繊細でアーティスティックな映像”ありきみたいな風潮ってあったじゃない。カメラマンの美的感覚オンリーみたいなさ(クリストファー・ドイル!?そういやあ、彼、あのナゲヤリ名作リメイクの「サイコ」のカメラマンだったよね!)。それって、まるで、監督はそんなに必要ないって感覚にも思えてた。スタートとカットさえ言えばいいみたいな。現場でのヴァルは、衣装や小道具のディテールどころか、役者の演技がいいのか悪いのか、カメラの角度はどうなのかさえ、判らないのだ。
これにはね、そんなんでもこんな超大作のハリウッド映画作れちゃうよ、みたいなシニカルを感じるのよ。「ベートーベンは耳が聞こえなくても、作曲をした」というヴァルに対して、「お前はベートーベンか?」という返しなんか、そのことを痛烈に揶揄してるしさ。そんな雲の上の大天才と比べるだけの才能があるのか、ということと、やはり映画は共同作業の、総合芸術だということを言っているのかもしれないし。エージェントはヴァルのチャンスを潰すまいとして、そしてエリーももうここまで来たら後には引けない、という思いで、それはどちらもせっぱ詰まった思いには違いないんだけど、映画という形になってしまったら、これから半永久的に残ってしまうものなのに。

それでも、こんな状態で撮られた映画がヒドイってことで、視力を取り戻したヴァルが、ラッシュを観て顔をしかめ、「安楽死の準備をしてくれ」(爆笑!)と言うのには、監督の力への確信、を感じることが出来たけど。
いや、そりゃそーだよね。アレンはずっと映画監督をしてきたんだもん。ここで彼がそれを言わなかったら、シャレにならん。
でも、その映画、アメリカ国内では当然大酷評を浴びる。ヒドイ作品だと知りながら、それでも宣伝次第だと公開に踏み切っちゃうあたりが……こういうのはアメリカに限ったことじゃないんだろうけど、本当にいい映画、いい作品、が生み出されることの奇蹟、を感じて、暗澹たる気分になっちゃう。でもね、それ以上にワルい冗談なのが、「この映画がフランスで大絶賛!」で、フランスからラブストーリーを撮る話が舞い込み、ヴァルはエリーとパリに住みたかったというかつての夢を思いがけず叶えられることとなるんである。
このドタバタの期間、二人はお互いの気持ちを再確認したりなぞ、したのね。エリーは確かに自ら浮気してヴァルと別れた。今回この話をヴァルに振ったのは、純粋に彼の才能にピッタリだと思ったんだけど、軒並み反対する周りを押し切ってまでの推薦は、ヤハリ彼を忘れられないってコトがあったからなのだ。そしてヴァルもずっとエリーを忘れられずに来た。同棲している恋人はいる。でもそのイタリア娘は、いかにもアタマ足りなさそうだし、ヴァルとの関係にもあんまり思い入れなさそうで、ヴァルが失明のことをバレないためにとっさにエリーとヨリを戻したというウソをついても、さしてショックを受けたという風でもなく。アッサリ出てっちゃうし、次に会う時に早くも(単純にイケメンな)恋人を伴っているんである。……ある意味、ヴァル、一人相撲でちょっとイタいよな……。

でもねー、でもねー!この、「フランスでは大ウケ」ってのも、中国や日本へのギャグ的な視点より、もっとヒドいと思わない!?いや、これはそれ以上にギャグ的オチだけど……。フランスが、こーいう、まあいわば、アヴァンギャルドだったり、エキゾチック趣味だったり、することに、かなりアグレッシブに寛容だということを実際以上にシニカルにとらえちゃってる気がするなあ……実際は、こんな見る目がないわけじゃないと思うけど……あるいは、案外本当に前衛的に先鋭的な作品が出来ちゃってて、ハリウッド、アメリカに見る目がないんだというオチとか!?でもその場合は、ラッシュを見て絶望的な顔をしていたヴァルもエリーも、そして寝取り男も見る目がなかったんだっていうこととか?むしろそっちの結論の方が案外、シニカルなアレンらしいのかも。

目が見えないままに寝取り男と会談に臨んで、ソファとソファの間のスタンドに座ろうとするわ、ソファの膝掛けから足をまたごうとするわ、椅子のないところに座ろうとして倒れるわ、ベタなんだけどアレンみたいにそんなことやりそうもない人がやるからやたらと可笑しい。そう、そんなことやりそうもない人、だから相手も、疲れてるんだな、ぐらいに流すのが更に可笑しい。ヴァルはとにかく変人で通ってるから、目を見ないで喋ることぐらいじゃ、皆、不審に思わないんだよね。でもそれにも限度ってモンがあるでしょ!?目をそらす、どころか、まるで違う方向に、ソファの座面を凝視しながら喋るアレンは、テレ屋ってんじゃ済まされない異様さよ!その異様さが、それこそ異様に可笑しいわけなんだけど……。

フランス映画からお声がかかって、酷評されたアメリカから脱出するヴァル、そして彼と共に行くエリー。なんか、アメリカとフランスと、どちらにアレンはシニカルな視線を向けているのか、微妙なトコなんだけど、彼にとっては国とかハリウッドとかアンチとかヨーロッパとかアーティスティックとか、多分全然関係ないんだろうなあ……。★★★★☆


さよならみどりちゃん
2004年 98分 日本 カラー
監督:古厩智之 脚本:渡辺千穂
撮影:池内義浩 音楽:遠藤浩二
出演:星野真里 西島秀俊 松尾敏伸 岩佐真悠子 藤沢大悟 中村愛美 千葉哲也 小山田サユリ 佐々木すみ江

2005/9/3/土 劇場(歌舞伎町新宿トーア)
いつのまにか古厩監督の新作が作られているのを知って、慌てて足を運ぶとあら嬉しや、西島秀俊じゃないのッ。いやー、彼も随分精力的に映画に出てるね。ちょっと働きすぎじゃないかと思うぐらい。彼が沢山見られるのは実に嬉しいけどさ。
それにしても、古厩監督が、恋愛映画だなんて。中学生や、高校生の痛みや青春をリリカルに描いてきた古厩監督が。いや確かにPFFデビューの「この窓は……」は恋の匂いはあったけど、まだまだ幼い、まるで初恋みたいな恋だった。描かれる年齢はそう大して変わらないんだけど……この作品が原作モノであるということも大きく影響しているんだろう。だって、古厩監督にとって原作モノも初めてじゃない。しかも、レディースコミックとは。

でもやっぱり、古厩監督は優しい人だと思う。ちょっと原作が気になって読んだんだけど、原作のヒロインは映画よりドライというか、現代的に無気力っぽさというか、そんな感じがあるんだよね。不器用ということなのかもしれない。監督はその不器用、という部分を優しくすくい取って、よりそれが切なく見えるようにしている感じがするのだ。
映画はまずヒロインがホレて寝た相手、ユタカに「あ、ダメ。俺彼女いるから」と振られるところから始まる。時間軸に沿っていけば、確かにこの場面が最初にくるのは当然なんだけど、原作では二人がセックスだけの関係であることをある程度見せてからこの場面が出てくるのだ。この順序の違いはかなり大きいと思う。原作のドライさよりも、映画は湿っぽい切なさを思わせる。ユタカの言葉に「え……」と戸惑いの表情を見せながら、嫌われるのがコワくて、そしらぬフリをして話を合わせるゆうこが、なんかそんな、原作ほど男慣れしてなくって、切なくて。本当に、そのまま彼とこんな関係を続けていっていいの?と、他人事ながら心配になって……そうやって観客を味方につけていくのだ。

このヒロインのゆうこを演じるのは星野真里。ドラマを観ない私は、「死に花」で見たぐらいなので、彼女にあまりなじみがないんだけど、こういう役にキャスティングされるのは意外な感じがする。なんていうのかな……優等生的な感じがする女優さんだから。ただ、それは後から原作を読んだからそう思ったんであって、それを知らずに映画を観ている時には、あ、彼女、意外にイイな、と思う。何より、そういう優等生的なイメージの彼女が、セックスシーンを何度となくこなし、サラリと脱いでくれたのも嬉しかった。ちっちゃなおっぱいだから余計に。なあんてね。でもちっちゃなおっぱいというのは、なんか生々しさというか、リアリティがあるのよ。ただ、おっぱい出したのはラストにさしかかってからで、セックスシーンの時には執拗に見せなかったのが、どうせ出すなら同じなのになー、とか思って違和感だったけど(やはりそういうシーンで見せるのと、ただ見せるのとでは、イメージの損失とか違うのだろーか)。それにホレてる男にホレてもらえず、好きだとも言えずにずるずると付き合い続けている女の子、が、おっぱいの小さな、華奢な女の子っていうのが、余計に切なくてね。このあたりのイメージも、原作とはかなり違う。原作と同様に劇中でも彼女、美人とかイイ女とか言われるけど、正直美女ってわけじゃないしね……別にブスじゃないけど。身体の大きなユタカにふいに抱きしめられるシーンとか、彼女の体がすっぽり隠れちゃって、何かそれだけで、キューンときてしまうのだ。

その、ユタカである。西島秀俊。いやー、これも、正直、意外。原作を先に読んでたら、この役に西島秀俊なんかありえない!と思ったであろう。でも何にも知らずに観たから、相変わらずいかにも作りこむことをしないけど、相変わらず西島秀俊ではあるんだけど、でも、でも、これは本当に意外というか、初めて見る!西島秀俊。やっぱり彼は自然体に見えながら、ほおんと、役者なんだなあ……。正直こんな男はサイアクだし、ごめんこうむるけど、でも、それがどうしてこんなに素敵なのか……(いや、つまり、私は西島秀俊が何やっても素敵って言うんだけどさ)。アイロンなんかかけたことがないであろうよれよれのシャツをタンクトップの上に無造作にはおって、これまた洗いざらしではけるブカブカのボトムからは今風にパンツがはみ出してて、いやー……こんな今風?の(というかだらしない)ファッションを西島秀俊が着てハマッちゃうというのも意外だったし、髪も、これは原作に合わせたんだろうなあ、こんなボサボサに伸びてる髪の西島秀俊、初めて見る。でもそういうのもぜーんぶひっくるめて、このだらしない、ちゃらんぽらんの、女好きの男が、何でこんなに素敵なんだッ!いやさこれはね、私が西島秀俊好きだからってだけじゃないよ。何でこんな男がモテてしまうのか、何でこんな男に女はホレてしまうのか、っていうのがこの物語の大前提なんだもん。母性本能を刺激されるとかいうのともまた違うというか……あー、もう、西島秀俊なんだもん!

ゆうこは雑用係のOLをいかにもつまんなく勤めてる。ユタカは彼女が短大生時代バイトしていたカフェの従業員(店長?)。この店の近くのスナックでアルバイトをしないかとユタカは彼女に持ちかける。お前の仕事なら残業もないし、ヨユーだろ、と。
原作ではまあ普通の(ゆうこに言わせれば本格的な……ママが着物着てて、ブランデーだけが置いてあるという)スナックという趣なんだけど、本作では、この映画のテーマ曲ともなる「14番目の月」をフューチャーする向きもあり、ママがカラオケに力を入れているというのを前面に押し出している。有楽、YOU LARKという店名(これも映画オリジナル)は、ラークはひばり、歌うことを楽しんでほしいのだ、と。スピーカーはボウズなのよ、と誇らしげに言うほど。
ゆうこは歌は苦手だからと、歌うことをとにかく拒否してる。そして、最後、お店を辞める時に彼女は初めて歌う。それがユーミンの「14番目の月」なのだ。

♪あなたの気持ちが、読みきれないもどかしさ。だからときめくの。
愛の告白をしたら最後、その途端終わりが見える……。

本当に、ちょっとビックリするほど本作にピッタリくる歌なのだ……。

ユタカの話と違って、あまりにちゃんとしたスナックだということを彼に抗議するゆうこ。でも彼は、「頑張ってみな」と、とゆうこのおでこにごちん、と自分のそれを軽くぶつける。
ちくしょー、こういうのって女はすんごくキュンときちゃうのよ。その後キスに流れていくのも、もう当然、こうされちゃうと、抗えない。
レディコミが原作なだけに(まああるいは、ユタカとゆうこがこういう関係だから)セックスシーンはしょっちゅう出てくるんだけど、基本的にこういうあたりは少女漫画的胸キュンを引きずっている。直截に肉体的なことよりも、やっぱり女は精神的なツボを押されると、弱いのだ……。

ホントに、こんな男にどうしてホレてしまうのか。彼のバイト先の後輩で、ゆうこに思いを寄せている年下の男の子、たろう君の方が、けなげだし、カワイイし、よっぽどいいに決まってるんだけど、ゆうこもたろう君の気持ちにほだされて(というか、ユタカとのことに疲れて)彼と寝ちゃったり、するんだけど、「かわいいけど……」やっぱりユタカのことが好きな気持ちを変えられないのだ。
でも、その気持ちさえ、ゆうこはユタカに言えない。言おうとしたらさえぎられた最初のセックスから、言ったら別れになる気がして、言えなくなってしまった。

ユタカは沖縄に彼女がいる。でもここではフリーだとばかりにゆうことこんな関係を続けながらも、彼に思いを寄せるバイトの女の子の真希や、突然訪ねてきた元カノと問題を起こす。そのすべてをゆうこに言ってくる。ゆうこは、真希とは“まだ”やってねーよ、と言われては、「そんないいわけするなよ」と思ってみたり、不倫で悩んでいる元カノに拒否されたことを、不倫のオヤジの後にやるのもキタネーかな、と言うユタカに、「つまんない話しないでよ」とキレたりする。彼女じゃない、つきあってない。でもユタカはそういう話をする時、いつでもゆうこの胸をかき乱すコトをしているのだ。たろう君に「好きです」とキスを迫られているところを、ぐいと引っぱられて、「たろうなんかにフラフラしてんじゃねーよ」と言われたり、元カノとヤリそこねた朝、突然ゆうこのアパートに訪ねてきて、ドアを開けしないきなり抱きついて押し倒したり。「お前、胸でかくなったんじゃねーの」なんて台詞をサラリと言ってその大きな身体で華奢なゆうこを抱きしめるユタカ、いや西島秀俊に、もおー、ドキドキしてしまう。「あー、何か俺、興奮してきちゃった」なんて言って。ズルいんだから、もう!
そんなユタカをゆうこはどん、と突き飛ばしてしまうのだ。「つまんない話しないでよ」と。「つまんなくねーよ、面白いよ」「面白くない!」ユタカは憮然として、出て行ってしまう。

「たろうなんかにフラフラしてんなよ」と言われた時、「何であんたはよくて、私はダメなの?」とゆうこは思わず問い返した。ホントだよな……と思いつつ、それを言われたことがゆうこは嬉しかったのも事実なんだよね。だから、立場が完全に違うんだ。ゆうこは最終的にたろうと寝てしまう。そんな事実がある前から、ゆうこにホレているたろうを見ていたユタカは、「たろうと寝てるんだろ」とゆうこに言っていた。その時点ではそんな事実はなかったのに、まるでそんなユタカの言葉に従うかのように、ゆうこはたろうの誘いに応じてしまった、のだ。
たろう君は、ゆうこにホレきっている。弟みたいでカワイイたろう君のこと、ゆうこだって憎からず思ってはいるんだけど……。
たろう君の家でセックスした時、彼はおずおずと言った。
「今度ゆうこさんち行ってもいいですか?」
一瞬の間、ゆうこは「あたしが行くよ」とニッコリと笑った。予期していたような失望の苦笑いを浮かべるたろう君。やっぱり、ゆうこは、ユタカ以外はダメなんだ……。

ユタカは、「俺、お前が実は俺の妹だったって夢を見た」とゆうこに言う。フクザツな家庭環境に育った彼には、まだ見たことのない妹がいるんだという。それを踏まえてのことなんだけど、この台詞はかなりキツい。だって、それって、ゆうこがあからさまに二番手だってことを言ってるに他ならないんだもの。
職場の仕事は雑用で、終業時間を待って時計と睨めっこしたり、遅刻したりしても、そう厳しくとがめられることもない。スナックでのバイトはあくまでつなぎのヘルバーで、銀座のクラブでナンバーワンだったという女の子が来ると、とたんにゆうこはママにないがしろにされてしまうのだ。
この物語のキツさ、10代の女の子のように若さだけを武器にできず、働き始めたばかり、しかも雑用オンリーのOLでキャリアもなく、恋愛経験もそう豊富じゃなくって、今のオトコはつきあっているんじゃなくて、セックスだけの関係。女はそれなりに年をとってしまえば、ずうずうしさという強さを身につけるけど、こういう状況の女は実は一番、キツいのかもしれない、と思う。年をとるにつけ女はそれなりにずうずうしくなって、自分が満足して生きていければそれでいいと思えるようになるフシがあるけど(私も年取ったなー……)ゆうこの年ぐらいではまだまだ、男に対してとか、仕事に対してとか、もっと大きく他人に対してとか、必要とされることを渇望している。そのことに、案外自分で気づいていなくて、二番手にされたとたんに、鼻白んでしまう。一番だったはずなのに、って。自分はいなくても、世の中平気で進んでいってるんじゃん、って。

真希が、ユタカに彼女がいるのを知っていながら、そしてゆうこがユタカとそういう関係ながら好きだと言うことも知ってて、「私、ユタカさんの彼女になっていいですか」と宣戦布告するのは、やはり真希の若さがそう言わせているんだろう。
真希はライバルであるはずのゆうこを先輩、と呼んで妙になついてて、家にあがりこんでハンバーグを作ったりする。「ユタカさんが好きだって言うから、最近覚えたんですよ」と彼女は言う。「ゆうこさんも、ユタカさんに作ってあげたりするんでしょ」「私はしないよ」「ええ?どうして?好きな人にはいろんなことしてあげたくなるんじゃないですか」ゆうこは虚をつかれたように一瞬間を置き、「……人によるんじゃないの」と返す。
人による、というのも無論あるけれど(私は多分にこの理由の方が大きいな……)ゆうこがそうしないのは、やはりうっとうしく思われることへの恐怖があるからだろうな、と思ったりする。料理って、思いと手間が入ってる分、結構イタいし……。
ユタカがゆうこに対して、セックスの欲望しかないから、彼女はそうするしかない。

ゆうこのバイトするスナックに、以前ギンザのクラブでナンバーワンだったという女の子が入ってくる。その名はなんと、みどりちゃん。かなり場慣れしている彼女に、ゆうこは気後れ気味で、ママは使える女の子が入ってきたことで上機嫌である。
ある日、このみどりちゃんが、ゆうこと恋愛談義をしていた時、「私、男運悪くてさあ、この間の男にもボコボコに殴られちゃって。ゆうこちゃん、男に殴られたことある?」 「ないけど……」
勝ち誇ったような顔で来客の相手をするみどり。どういう意味なのかと、来合わせていた常連客にゆうこは問うてみる。「本気で男に愛されたことがないってことじゃないですか」とその常連客は返答する……。
この論理はいくらなんでも飛躍しすぎだとは思うけど、愛されることから、あるいは愛している男から愛されるようになる努力を怠っているゆうこに、チクリと針をさしたのは、事実。

ユタカってば、ゆうこに、「お前、ソープで働かない?」なんてこと言う。さしものゆうこも呆然。コイツ、一歩間違えりゃヒモだな……。たろう君が怒るのもムリない。怒ってくれる人がいるのに、好いてくれる人がいるのに、ゆうこはやっぱりユタカが好きなのだ。激怒するたろう君に「なんでお前が怒るの」とユタカは相変わらずヘラヘラ笑いながら、「こえー」とまぜっかえし、「逃げよー、ゆうこ」と彼女の手を引いて走り出す。
どうしても、手を振りほどけない。どうして。こんなヒドい男なのに。

ユタカのもとに、ついにあの沖縄の彼女、みどりちゃんがやってきた。ヤラしい客に迫られながらも、振り切って(店でじっとガマンしていたゆうこに「ゆうこちゃんは、触られるのが好きなのかしら」というママ……あんまりだよ……)、タクシー乗り込む二人を必死に追いかけるゆうこ。結局追いつけなくて、ボロボロの格好でアパートにたどり着く。……階段に座って待っているユタカが!!
「なんで入らないの。カギ知ってるでしょ」「いや、なんか悪いかと思ってさ」とニコニコと笑ってるユタカ。いっつもニコニコ笑ってるんだ。だから、騙されちゃうんだ。西島秀俊の素敵さに、もー、あー!ヤラれる。
「お前、どうしたの。ボロボロじゃん」どーしたのじゃないよ。あんたとみどりちゃんを追って走ってったんじゃない。でもそんなことはおくびにも出さず、「ねえ、ヤリたくない?」と挑むゆうこ。

“その日のユタカはいつもよりごつごつしていて、セックスは、とても良かった”

みどりと別れた時でさえ、なぜか必ず戻ってくるところがゆうこのところ。そりゃ期待しちゃうよ。
ユタカはゆうこに、沖縄にいる彼女が彼の子供を二回も堕ろした、なんて話までする。金払え、なんて言われた、と。
「お前にはなんでも話しちゃうんだよな」と言われることを、ゆうこは嬉しく感じたに違いないけど、でも、その意味は、ゆうこのことが好きだから、という意味ではないことも、判っていたはず。
でも、じゃあ、どういう意味だったんだろう。ユタカの心が見えない。
後輩の真希と寝たことでさえ、ユタカはあっけらかんと話すのだ。
「あいつ、処女だったんだよ。そう知ってればもっといいとこでヤッたのに、そこらのラブホでやっちゃったよ」
「お前もたろうと寝てるんだろ?いいよな、こういう関係も」
何がいいの。「なんで私にそんな言い訳みたいなこと、言うの」そうゆうこは思う。
束縛は、わずらわしいこともある。友達を積極的に作らないゆうこにはそれは判ってる。だからユタカに何言えないのかもしれない。でも、ユタカは沖縄の彼女には縛られてた。自ら、積極的に縛られてた。そして“こういう関係”が出来るゆうこは、束縛されない関係だから、いつもそこに戻ってきてた。
でも、でも、それだって束縛じゃん。“こういう関係”を束縛してるんじゃん。
ユタカが、ユタカこそが不器用な人なんだ。女にだらしなくて、イイカゲンな奴なのは、本気の一人に束縛されちゃうからなんだ。彼の心が見えない。それは見せないからなんだ。見せないほどに、そんな風に勝手に想像してどんどん好きになっちゃう。でも、ずるい、ずるい、ずるい。そんな自分に惚れさすなんて、ズルイよ。

封印していた告白の言葉を、ついにゆうこは口にしてしまう。
「ユタカが好きなの。メチャクチャ好きなの。だから私のことも好きになってよ」
でも、ユタカは何も応えない。沈黙の後ろ姿にゆうこはしゃくりあげて泣き出してしまう。ハダカから服を身につけたユタカ、振り向いて、ゆうこの顔を無表情で覗き込み、「ほんじゃあな」と言って、ドアから出て行ってしまう。
原作では、ゆうこの決死の告白に決して振り向かない。ユタカに拒絶されたことを感じたゆうこが引っ越してしまうその後をワンカット載せるだけである。ここだけは、映画の方がザンコクかもしれない。
いや、その後、スナックを辞めることを決めたゆうこが、「14番目の月」を明るく歌ってラスト、なのだから、古厩監督の優しさが、彼女への展望を与えたのかもしれない、と思う。
「ユタカ、私、あの店辞めたいの」そうゆうこが言った時、「ふーん、いいんじゃない?」ユタカは特に考える間もなくアッサリと言った。そしてママに告げた時にもアッサリといいわよ、と言われた。ゆうこはどこまで行っても二番手だった。でも、一番手になれる人生なんて、そんなにあるわけじゃない。皆誰かの一番手になりたくて、一生懸命、あがく。

いつか、誰かの一番手になれることを信じて。★★★★☆


サラ いつわりの祈りTHE HEART IS DECEITFUL ABOVE ALL THINGS
2004年 96分 アメリカ カラー
監督:アーシア・アルジェント 脚本:アーシア・アルジェント/アレッサンドロ・マガニア
撮影:エリック・エドワーズ 音楽:マルコ・カストルディ/ソニック・ユース/ティム・アームストロング
出演:アーシア・アルジェント/ジミー・ベネット/ピーター・フォンダ/ベン・フォスター/オルネラ・ムーティ/キップ・パルデュー/マイケル・ピット/ジェイミー・レナー

2005/6/2/木 劇場(渋谷シネマライズ)
アーシア・ダルジェントという才能、なんである。いわずもがな、ダルシア・アージェントの娘(私は、彼の作品、ロクに観てないけど)。でもこの人は……観ただけで、才能ある人だ、と判る、というか、感じさせるタイプの人。今回が初見なんだけど、見逃してしまっていた、父親が彼女をヒロインとして起用した映画だったか、彼女の監督第一作だったか、のチラシに使われている彼女の顔を観た時、そういうファーストインプレッションを痛烈に感じて、それをずっと忘れられずにいたのだ。なんだろう……面構え、というんだろうか。来日した写真などの素の彼女は、エキゾチックながらも、とても感じのいい落ち着いた美人、という感じなんだけど、フィルムというフィルターを通すと、とたんにそのただものではないオーラをビンビンと発散させ始める。

まだ驚くほど若い原作者、J.T.リロイの自伝的小説を映画化した本作は、この原作者自身がぜひにと望んだアーシアが、その期待に十二分に応える結果を出している。それにしても本当に衝撃的な内容で……ヤク中で娼婦の母親の、未熟で自身でももてあましぎみな愛情を、子供だから理解するとかそんなんじゃなくて、ただただ必死に受け止めるしかなかった彼の幼き時代が赤裸々に活写されている。この母親は交際している男性を使ったり、あるいは自身イライラとして何度となく彼に暴力をふるっているし、くるくると替わる、この母親の交際相手にやはり何度となく彼は犯され、ついには(この物語ではそこまでは至ってないけど)男娼として母親と共に働くようになるんである。

ドラッグに溺れているような感覚なのだろうか、時間軸が急速に進んだり、ある一定時間の描写を、スライドショーのように静止画面だけで描いたりもする。かといってそれが過度に使って前衛的になるわけではない。そうなることの欲求を押さえているかのようでもあって、作家として若いのに案外と禁欲的である。でもだからこそ、それを使っている場所が、際立つように思う。
最もそれを感じたのは、この母親、サラと、息子、ジェレマイアがお互いの距離を縮めていく、最も重要なシーンであるはずの過程を静止画面の連続で描いているところなのだ。ええ?ここをその手法でやるの?と驚いたりしたんだけれど……それまでの二人の関係はとにかく最悪だったから。まあ……その後も最悪なんだけど。ジェレマイアはそれまで、裕福な里親のもとで幸せに暮らしていた。サラは年若くして、しかも分別なしに彼を産んだので、監督能力ナシと見なされて、引き離されていたのだ。“引き離されていた”と主張しているのは、サラ。ようやく取り戻せた、と彼女は言うんだけれど、里親のいっぱいの愛情を注がれて、何不自由なく暮らしていたジェレマイアにとって、みすぼらしいアパートと、このはすっぱでハデな“母親”は青天の霹靂に他ならなく、ずっと彼女を拒絶し続け、果ては家出まで試みる。彼を引き取りに来たサラは、ほとんど脅しだろってやり方で(地獄に落ちる、なんてことは、子供に対してはアッサリ効いてしまう)、彼を手元に置き続けることに成功する。

里親という存在。子供にとって二組の親が存在し、里親は、第一の親で、ニワトリのヒヨコみたいな刷り込みがあるんだとしたら、彼にとってリアルに実感できる親である。でも実親にとっては自分の子供をとってしまった存在であり、だからなつかない実子にイライラとしてしまう。
里親の悲しみは想像できるけど、ある意味いいとこどりなのは間違いない存在なんである。そう考えると、里親もまた、かなり切ないんだけど……。
そんな具合だったのに、その後、二人の距離が縮まったんであろうと推測される、この静止画面の連続、つまりは二人がとても楽しそうに日々を送っている写真の数々が提示されるのが、ええ?これでいいの?と驚いてしまうのだ。
でも、最終的に考えると、この壮絶すぎる、愛と言う言葉さえそこには追いつかない親子の関係の物語に、こんな世間的な信頼関係を築いた、みたいな描写を丁寧に描いていたら、それこそ陳腐になっていたんだろうと思う。描きたいところを、バッサリと切り捨てたアーシアの決断力とセンスはやはり、鋭いものだったのだ。

サラは、いい母親なんかではない。当然。子供相手に我慢をおさえられないし、ドラッグはやらせるし、恋人には虐待させるし、でも、……サラをかばいだてするつもりはない、彼女は確かにヒドい母親なんだけど、でも、やはり言いたいのは、どうして母親ばかり、そう、女ばかりが、親としての資質をこうまで理想的に求められなきゃいけないんだろう、って、そんなの不公平じゃないかって、いうことなんである。
そんなことを言ったら、もう総攻撃、親になる資格なんてない!みたいなことになるんだろうけれど……いや、でも今は大分そのあたりの風潮も変わってきた。以前なら確かにそうだった。そしてこんな映画は、いくら挑発的といえど、作れなかっただろうと思う。
やっぱり、いつだって、親としての責任や世間的なプレッシャーは、母親にほとんどが向けられている。
男親が一人で育ててたら讃えられるけど、女じゃ、結婚もしないで子供生んで、みたいな視線がまずあって、その上で親としての責務をまっとうできなければ、犬畜生みたいに責められる。
男親が一人で育ててたら、そこにはいない女親のことを、人間じゃないぐらいに言われるけど、逆の場合は、男親のことなんててんで取りざたされない……自分でヤッて、自分で勝手に産んだんだろう、な視線が女に向けられ、この上で男に認知を求めたりしたら、ヘタすると、この男の方に同情が集まったりするんである。

一体、これのどこが、男女平等な社会だっていうんだろう。
そして、なぜ社会は、これほどまでに母性を執拗に強要するのだろう。
でも……女に誇れるものがあるとしたら、確かに、この否定しがたい母性というものなのかもしれないと思う。社会に生きていく上で時々ジャマにさえなるこの母性という感覚に、イラ立つことも正直あるんだけれども。
到底親として合格点とは思えないサラが、息子の父親のことなど一切言わずに(まあ、こんな感じの人だから……父親が誰かさえ判ってなかったのかもしれないけど)彼を引き取ることに必死になったりすることに、そんな思いを感じる。
その一方で、彼女は女としてバリバリの自分もまるで隠そうとせず、何度となく、いや常にと言っていいぐらい、ジェレマイアを置き去りにするんである。
ただ、サラがそんな風にまるでとりつくろわないから、ジェレマイアに対して全く隠しごとということをしないから、つまりはジェレマイアのことを、確かに子供だし、このクソガキ、みたいには言うけれども、彼女にとって唯一の、親身になってくれる人間だから、たかが子供、とバカにしたり、安く見たり、ってことは、それだけは、絶対に、しないんだよね。
それ以外のことは、いろいろ、いろいろ、ヒドいんだけど……。

サラは、ジェレマイアを必死に取り戻したんだ、という話をする一方で、彼が産まれた時、そのままトイレに流そうと思った、なんてことまで明かしてしまうんである。
どちらの気持ちも、サラの中で本当なんだろう。女というのは哀しく、複雑な性を持っている……。それを正直に子供に言える正直さこそが、彼女の財産。
彼がお腹の中にいた時、手品みたいに消してしまいたかった、と。そう言う一方で、やっと23になって、彼を取り戻す権利を得たんだと。
この不思議なギャップの間に、そんな女の哀しい性が見え隠れしている。

年若かったサラは、子供なんて欲しくなかったはず。出来てしまったとしか思わなかったはず。
見殺しにしようとした赤ちゃんを助けたのは彼女の父親だったけど、それだけで、それ以降はなんら彼女に手助けをしてくれなかった。
そして、監督能力ナシということで福祉事務所に“取り上げられた”ジェレマイアを、あんなにいらないと思っていたはずのサラは、孤軍奮闘、戦い抜いて、やっと自分の手元に取り戻すんである。
正直、こんな外見の、社会不適合者の烙印を押されているような彼女が、こんな行為をすることはなかなか信じがたい。しかも、そんな描写は描かれないし、もういきなり、ジェレマイアの前に、レースのミニエプロンというフリフリなカッコにウサギのぬいぐるみを抱え、真っ赤なルージュがひときわ鮮やかな厚化粧をした彼女が現われるトコから始まるんである。
でも、やっぱり、“そんな描写”をしないことが、前述のようにアーシアのストイックで適切なセンスを感じさせるし、そのフリフリなカッコが、サラの中の精一杯の理想の母親像だったんだということを後に思い知って、彼女の死に物狂いの努力を痛切に感じて、胸が痛いのだ。

サラは、家庭に恵まれていなかった。これはヘンだろ、ってぐらいの、厳格なカソリックの家庭に生まれ育った。この家庭は、後にサラがまたしても監督能力を否定されてジェレマイアを祖父母のもとに取り上げられた5年間、彼が実際に体験するんである。
一切表情を崩さない祖母。演じるオルネラ・ムーティがコワい……病院のベッドで目を覚ますジェレマイアのかたわらにひかえている、というシーンが二度あるんだけど、慈悲の表情など一切見せずに、このバカ娘の産んだアホ孫が、ぐらいにしか思っていないこの冷たい表情に背筋が寒くなる。そして祖父はピーター・フォンダ。子供たちも、そしてこのたった一人の孫も、愛しい存在だなどとは思っていない様子で、カソリックに基づいた規律をきっちりと守らせ、股間をタワシでごしごしこすられるし!?(なんか、ストイックすぎて、こんな風にどーもヘンな感じがこの家にはつきまとっているのだ)、5年後、またジェレマイアを手元に戻す権利を手に入れたサラが、まるで拉致のごとく“救出”した時、ジェレマイアは街頭に立って、大声でキリストの偉大さをがなり、チラシを配っているんである。

……どう考えても尋常ではない家庭環境。サラの下に結構兄弟たちがいて、ここから唯一逃げ出したサラはそう考えればかなりマトモに思えるんだけれど、サラは言わずもがな、鬼っ子なんである。あるいは、みんなこの家はヘンだと思っていたのかもしれないけど、それを妥協して受け止めて、ちょっとしたズルをして、気持ちの抜きどころを作っていたのかもしれない。ジェレマイアが、そのズルを祖父に告発する場面がある。そのことで、サラの兄弟が祖父に口の中が切れるほど殴られてしまう。涙と鼻水がズルズルと流れ出る。それを見て、ショックの表情のジェレマイア……。やっぱり、ジェレマイアはサラの息子なんだよね。妥協することが出来ない。ズルをすることが出来ない。まっすぐに、反発してしまう。そして、傷つく。
サラが、自分でイラついてジェレマイアに体罰を加えるのはヒドいとしても、この人は最後の恋人かもしれない、父親にもなってくれるかもしれない、と思った恋人に(なんでそう思うのか判んないぐらい、見るからにつまんない男だったりするんだけど……)ジェレマイアに仕打ちをさせるのは、こんな家庭で育ったことに原因があると思わざるを得ない。

彼女自身は、そんな家族をそりゃ憎んでいたに違いないんだけど、それを否定しきれるほど、自分に人間としての自身もなかったんだろうっていうのが、ね。この若さで必死にがんばっている彼女を思うと……。
そしてこんな家庭に締めつけられてきたサラが生きている世界も、また両極端であり。
まだ幼くて、選択の余地のないジェレマイアが、預けられ、取り戻されするのが、このあまりにも両極端などちらかなのか、というのがあまりに厳しすぎて。
そう考えると私たちは、実に平凡な世界で生きているんだな、とも思う。特に何事もない、退屈な家庭環境や社会環境が平和なんだな、と思うのはどうなんだろうか。いや、幸せなんだろうとは思うけど……サラやジェレマイアはそのことで、人の傷つく痛みを、これ以上なく身に染みて感じているんだろうから。

サラにメイクを施され、「キレイだ……」と鏡の中の自分にうっとりとするジェレマイア。最初にサラに引き取られた子役から(この子役もミラクルだったけど!)バトンタッチして、もうショタコンがよだれ流して大喜びしそうな、ほのかな色香を感じさせる少年時代に突入してて、タラリとかかる前髪が、もうかなり鼻血モノなんである。
そしてこの状態で、サラのお気に入りのランジェリーを身にまとい、ぶかぶかの赤いハイヒールをはいたりなんぞして、ノリノリでサラの恋人に迫っちゃったりなんかして(素顔のマリリン・マンソン!)、男はつい、誘惑に負けて、ジェレマイアを犯してしまう。
このシーンは、笑いながら拒絶している恋人に迫っているのは実際、サラであって、さすがに実際少年のジェレマイアに欲情しちゃったっていう描写はシャレにならないのかな、と思う一方で、いや違う、これはやっぱりサラとジェレマイアが一心同体になったことを示しているんだよね、と思う。
お前にソックリだったんだよ、と言い訳する恋人にキレるサラ、ジェレマイアが必死に手洗いしているのは血の付いたショーツで、ほら、シミも消えたよ!と、全然消えてないんだけど……うっわ、これはキッツいわ……と思ってしまう。

こんな風に、恋人と別れてはまた新しい恋人が出来、その恋人は例外なく皆どっかキョーレツで、母子二人でそこから逃げ出す、の繰り返しなんである。ジェレマイアにとっては、気の合う友達もいた、サラの最後の恋人の家から逃げ出した時はあまりにキョーレツだった。この恋人が家の中に隠し持っていた石炭が爆発し、この恋人も、ジェレマイアの友達も、巻き込まれて黒焦げになって悶えているのを見ながら必死に車に乗って逃げる二人。
そこから、確実に、何かが、狂い始めた。

金髪ではバレるからと、公衆トイレで黒髪に染める。不自然なぐらい真っ黒な髪に染め上がった二人、下に何もつけていない状態で真っ黒なコートとブーツのいでたちのサラ、そしてジェレマイアは彼女が壁にぶつからないように見張る係、なんだという。??なんだか、二人の言動が明らかにおかしくなってくる。飢えに負けてゴミから盗み食いするジェレマイア。「誘惑に負けたわね。あんたは毒を食べたのよ」とキツく言い放つサラに、必死に許しを請うジェレマイア。解毒剤だと言って、ジェレマイアがくれくれと欲しているのは、あれは明らかにキョーレツな酒かなんかだと思うんだけど……。「僕がいなくなったら、誰が壁を見張る?」「あんたがいなくなったら困るとでも思ってるの?私はずっと我慢してきたのよ」そりゃ、母親としてはサイテーの言葉だし、何だよそりゃ!この子供の辛さに比べて、何を我慢してたって言うんだよ!と思ったりもするんだけど……それは部外者の、言ってしまえば二人に何もしない、ジェレマイアの父親や、サラの両親や兄弟や、歴代の恋人や、あるいは大きく社会に向けての言葉なのかな、と思うのだ。なぜこんなに強いられなくてはいけないの。どこまで頑張ればいいの。……ここまで子供の身で辛い目にあっているジェレマイアが、サラを憎むとかいうことをまったく感じさせず、二人が運命共同体であるのを、納得いく形で見せて、世間的にはヒドい母親であるサラを、観客がジェレマイアと同様に慈悲深く見つめるようになるのは、スゴいと思うんだ……。「愛してるよ、サラ」今や彼女を愛しているのはジェレマイアだけ……。

誰かに愛されることが、人生の最大目標なのかもしれないと思ったり、その誰かというのが誰か一人でいいんだけど、家族にさえ愛されないのが不幸だと思ったり、誰か一人に愛されていることさえ、なんだか今ひとつ、実感出来ていなかったり。
人間って、よくばりな生き物なんだな……多分。
でも、ジェレマイアにはまだそんな感覚もない。ジェレマイアは一時も休まずに傷ついている。心身ともに。でもそれをマイナスと換算する前に、彼は自分が(どんなに複雑な存在だったとしても)愛している人間を必死に愛し、その相手から何とか愛を得ようと必死になっているのだ。
子供は、悲しみと同時に幸福の感覚も同時に感じられる能力を持っている。大人にはそれは出来ない。哀しい出来事があったら、それだけに没頭してしまう。でも子供は、悲しい時でもごはんは美味しいし、ワクワクすることに熱中できたりする。心の成長と体の成長が分離しているから出来る芸当なんじゃないかと思う。
そんな柔軟な少年だから、こんな小さな体でサラを支え続けることが出来たんだろうと思う。

サラは、気がふれてしまう。サラに飲まされた“解毒剤”でフラフラになって、レストラン(ドライブイン?)で意識を失ってしまったジェレマイアが入院している最中、サラは全裸のまま道路に走り出し、つかまってしまう。それを相変わらずコワい顔でジェレマイアのベッドの横で控えている祖母、オルネラ・ムーティがそう告げる。意識朧のまま目を閉じるジェレマイアを、同じ病院に入院しているサラが、夜半、フラフラと迎えに来る……。

そして母子二人、入院着のまま車に乗り込んで逃げ出す場面で終わる。その後の原作者のことを思えば、それはまた辛く苦しい旅の始まりなんだけれども……愛?愛というものは、こんなにも過酷なものだったのか。
最初は、これじゃただの幼児虐待だなー、とか思いつつ観てたんだけど、最後に彼女が気が狂ってしまった時に救われる思いがしてしまって、人間っていうのは(というか、私がか?)ヒドい生き物だよな、と思ったりもする。
お尻がブリブリにはみ出してる超ミニスカート、そこからオドロキの長さで伸びる驚異の美脚のフェロモン、ぼってりと下唇の厚い唇が濃厚な女を十二分に感じさせながら、その一方でスッピンの寂しさに心打たれる。それが、同性の共感を呼ぶアーシア・アルジェントの、監督と女優の双方の才能を強烈に印象付ける。
この、ずっと旅をしている感覚。いや、旅をさせられている感覚。誰かを捨て、誰かから捨てられる。漂泊の人生というものを、とても痛烈に、感じさせられた。★★★☆☆


三匹の侍
1964年 94分 日本 白黒
監督:五社英雄 脚本:阿部桂一 柴英三郎 五社英雄
撮影:酒井忠 音楽:津島利章
出演:丹波哲郎 平幹二朗 長門勇 桑野みゆき 香山美子 葵京子

2005/2/23/水 劇場(浅草新劇場)
何たって若い頃の丹波先生を見たいなー、などと思ったわけだけど、あ、でもこの時既に40歳なのね。へ?ということは丹波先生ってば今いくつよ!あの人もまっこと妖怪だわねー。というより先にこれ、五社監督のデビュー作なんだね。いやー、知らなかった。というより、この人はテレビが先だったのね。いやー、知らなかった。うーん、私ってば知らなさすぎ。これがテレビシリーズだってことは何となく聞いたことがあるような気はするけれど……。

で、既にこの時40歳といえど、勿論若い丹波先生。若い頃の丹波哲郎の映画でのイメージって、どっちかっていうとスーツをビシッと着て、バタくさいというかアメリカ臭いというか、だってこの人って進駐軍との通訳とかもしてたんでしょー?なんてことも聞きつつ、丹波先生の英語って聞いたことないなあ。アメリカ映画にも出てるっていうし、聞いてみたいけど……なんてことはここでは別に関係なかった。だから、そんなイメージの若い頃の丹波先生がサムライ役、もとい浪人役というのから意外というか新鮮というか。似合いそうで似合ってないような、似合ってなさそうで似合っているような……うーん、ビミョウなバランスが良いところ?でも、何より色っぽいんだよねー、そこはかとなく。

その色っぽさの一番は、あの場面よ。彼がね、百姓たちの身の安全とこの悪状況の改善を代官たちに約束させる代わりに、自分が百叩きの刑を受ける、と自らの身を差し出す、あの場面なのさ。まー、そんなことで代官たちが約束を守ると思うあたりが確かにこの浪人、左近の甘さなのだけど(ってのは、仲間の浪人、鋭之助に言われるんだけどね)でも、それが彼の魅力となっており、そして代官の娘の亜矢の心を動かすことにもなってる。もともとこの亜矢が百姓たちにとらわれているところに彼が遭遇し、百姓たちは凶作と重税にあえいでこんな暴挙に出たんだけど、あまりにも無謀で素人臭いそのやり方に左近が指南して、とらわれている亜矢にも、何不自由ない生活をしているあんたには判らんだろうが……などと説教したりするのね。この時点では何たって人質の身なんだから彼女はぷいと横を向くばかりなんだけど、彼女が城に戻り、そこにこう申し出た左近がやってきて刑を受けているのを、許してやってと父親に懇願し、なぜあの人はそこまでするのかと、そして彼をこっそり助けるんだけど……。

あー、何で丹波先生がこの場面で色っぽいかというのに、ここまで説明せにゃならんかったこの歯がゆさ(笑)。えっとですね、この場面で、ゴーモンにあってもう体中傷だらけでフラフラの左近、半裸状態の彼をこの華奢なお姫様(ってわけじゃないけど、めんどくさいからお姫様と呼んじゃう)が救い出すわけです。半裸……うーん、なんというイイ体。今の役者と厚みが違うのよね。筋肉だけというわけでもなく、いい感じに脂の乗ってるイイ体なわけ。白黒で見ると、それがやけにセクシーに見えるのだわ。それだけでもかなりの鼻血ものなのだけど、彼はこのイイ体でフラフラなもんだから、このお姫様が必死に支えながら彼を救い出すでしょ。もう、ムリなわけよ。こんな細い身体でさ。その半裸の彼が華奢なお姫様につかまりながら、お姫様は折れそうになりながら、ズルズルと歩いていくというあの場面がね、あー、イヤー、色っぽい。何ともイイ。お姫様はこの左近にホレちゃってるし、左近もまたまんざらでもないんだけど、身分も違うしこの状況だし、何がどうなるというわけでもない。でもこの場面は、どんなラブシーンより色っぽくってグッときちゃうんだなー。亜矢に扮する桑野みゆきの可憐な可愛さもきゅんとくる。
あ、でも、この彼女が左近を裏木戸から逃がす場面で、必死の告白をした彼女と木戸ごしになんか……しているような気もしたけど。口づけを?違ったかなあ、よく見えなかった。いやー、それにしてもイイ場面ですよ。丹波先生、色っぽいんだもん、もう。

それにしても、この話って、そう、こんな風に困っている百姓を助けるために浪人たちが奮闘する物語って、「七人の侍」に似てるよーな気もするけれど。あ、違うか、あれは百姓たちが自ら浪人を雇ったんだっけ?ここでは浪人たちの方から百姓たちに同情して加担するんだもんね。で、最初はこの左近しか百姓側にはいないわけ。後から加わることになる二人の浪人はもともと代官側に雇われてたんだけど、百姓に対する代官の非情さに反発して、左近と協力関係になるわけね。それぞれにかなり個性が違って面白い。左近は先述のように、豪快ながらも甘さというか、純粋な心の持ち主。ちょっとコメディリリーフ入っている京十郎は、自分が斬り殺した百姓のおかみさんにホレちまって、彼女にもホレられちまって、その弱点を卑怯な代官側につかれて彼は一旦、寝返ってしまったりなど、なかなか泣かせる展開を見せる。それでも義を通そうと彼は泣く泣くこのおかみさんと別れを告げるのだが……。演じる長門勇のちょっと情けない感じの入った人間味のある京十郎がすっごく、イイ。三番目の浪人、鋭之助は、最後まで代官側にいて、現実主義者というか、抜け目ないというか、ドライなんだけど、その対照的なところで左近と妙にウマがあって、お互いの信頼関係を深める……一般的なイイ男度で言ったら、この鋭之助が最もそうかもしれない。平幹二朗って、こんなイイ男だったっけ。

それにしてもね、結構ラストというかクライマックスはホロ苦いものがあるんだよね。亜矢との交換条件にと連れてこられた百姓の五作の娘を、彼らの前でレイプせんとばかりになぶりものにし(もう……ヒドいのよ。見てられない)、それに半狂乱になった五作が飛び出していくも、この娘は自分のために百姓たちの必死の革命が台無しになってしまうのを阻止しようと、自ら舌を噛み切って死んじゃう。それを皮切りに、もともとこの運動を引っぱってきた百姓が殺されちゃって、その後にも次々と百姓たちが殺されちゃって、これはまあしょうがないことなんだけど、百姓たちはだんだん戦意喪失してしまって。領主に強訴する絶好のチャンスに、いくら左近がうながしても、百姓たちはすっかり萎縮してしまって、ただ居すくまるばかりなの。ここまで頑張ってきたのは何のためだったんだ、死んだ百姓たちは犬死にじゃないかと左近はやりきれない思いを爆発させ……そもそもの諸悪の根源である、卑怯な代官のもとに乗り込んでいって、容赦なく斬り殺す。そこにはあの、左近にホレているお姫様がいて、でも彼女は自分の父親だから、どんなに卑怯な男でも父親だから必死にかばおうとして……左近が彼女にはさすがに刀を振り下ろせないところなんか、泣かせるのよね。でも結局、娘の必死のかばいだてをいいことに、みっともなく逃れようとしたこの代官には結局、左近の怒りの鉄槌が振り下ろされるのだけど……。

ラストは三人の浪人が、あれだけ助けた百姓たちに見送られることもなく、あてどなく、しかしどこか明るい表情で去ってゆく。決して爽快感ではなく、切ない味を残しているあたりがイイやね。何といっても半裸体セクシーな丹波先生にちょいとヤラれちまいました。★★★☆☆


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