home!

「り」


2015年鑑賞作品

LISTEN リッスン
2016年 58分 日本 カラー
監督:牧原依里 脚本:
撮影:牧原依里 雫境 音楽:
出演:米内山明宏 横尾友美 佐沢静枝 野崎誠 今井彰人 岡本彩 矢代卓樹 雫境 佐野和海 佐野美保 本間智恵美 小泉文子 山本のぞみ 池田華凜 池田大輔


2016/5/30/月 劇場(渋谷UPLINK X)
ろうの当事者が関わった実験的ドキュメンタリーというと、それだけで称賛の方向に向きそうな感覚もあるのだけれど、正直すこし難しい気がしている。
ろう者に“見えている”音楽。音のない世界に生きている人たちにとっての音楽というもの。確かにとても興味深い題材ではあったのだが……。

後から色んな情報を耳に入れればなるほどと思う部分もあるのだけれど、作品はあくまでそれ自体として受け取るものであるから、やはり難しいのだ。
ものすごくありていに言ってしまえば、彼らがただリズムで踊っているようにしか、見えないというか……。ろう者の感じる音楽というものを、これが音楽だということを本作だけで感じ取るのはひどく難しい。もう少し言葉が欲しかった、と言ったら、それこそ受け手の弱腰を露呈するようなものだのだが……。

確かに最小限のインタビューははさまれている。恐らくそれは、作り手側にとって、これ以上の情報はいらない、というストイックなものだったと思う。
本当は、彼らにとっての音楽をスクリーンに刻むだけにしたかったんじゃないかなとも思う。だって、後から監督さんの“音楽体験”を聞いてみれば確かになるほどと思うんだもの。
「無音で鑑賞するミュージカル映画のダンス、オーケストラの指揮者や演奏者の表情、身体の動きなどから視覚的に「音楽」を感じ、魅せられてきた」と。

それをこそ聞かせてほしかったと思うけれど、それはとても判り易すぎて、そのとたん、健聴者の耳には彼らに聞こえているのではない音楽、そのミュージカルの音楽、そのオーケストラの音楽が聞こえてきちゃうだろうから、やはりそれはこの作品に刻むわけにはいかないのだ。
でも、だったら、音楽って、いったい、なんなんだろう……。

確かに音楽というのはあらゆる芸術の中で一番捕まえることのできない、その存在さえ確かに出来ない唯一のものだ。映画だって一応はそうだけど、スチール写真という禁じ手でその一瞬をとどめることは出来る。
文学も絵画も、活字や絵の具として物質的にそこにある。音楽だけが、空間をさまよい、その聞こえているものが本当に同じものとして共有できているのか証明できないものなのだ。

だから、ろう者にとっての音楽というものが存在しているというのは確かにその通りだと思ったし、興味深いテーマだと思ったのだけれど、ストイックすぎて、彼らがリズムで踊っているだけのように思えてしまって、何かその、美しいアート映画でとどまってしまったような気がして、凄くもったいない気がしてしまった。
すべて無音という試みも、ろう者の世界を表現するというよりは、ストイック表現にこだわりすぎてしまったような気がして……。

ろう者とひと口に言っても、様々な人がいる筈。難聴者の程度も含めて、全くの無音の世界ではないんじゃないかと……勝手な推測だけど。むしろ全くの無音にしてしまうことで、ろう者の世界はこんな全くのサイレンスだとしてしまっているような危険を感じなくもないんである。
そうなるとますます、そうではない観客にとって、音楽とは何かという興味深い議論が狭まってしまう。音という一般的概念を全く排除してしまうと、本当にリズムで踊っているだけにしか見えてこないのだ。彼らに“見えている音”いや、彼らに“聞こえている音”がどういうものなのかこそが、知りたいのに。

全く違うことを言っちゃうかもしれないけれど、ゴメン。ふとね、「ショーシャンクの空に」を思い出したのだった。ろう者の話ではないけれども、彼が愛していた音楽から全く閉ざされた世界でも、彼は自分の中で音楽を聞いていた。何の不都合もなかった、と。
それは、彼が健聴者で、かつて聞いて蓄積していた音楽がその中で鳴り響いていたということだから違うんだけれど、いや、違うのだろうか、とも思ったのだ。
途中失聴者ならそういうのもアリかもだが、そうでなくても、実際に、音楽というものを聴いたことがなくても、彼らの中にも私たちと同じように、いや、同じじゃないかもしれない音楽が流れているんじゃないかって。

それは、確かめようもないこと。でも、ファンタジーではないような気がしたのだ。そしてそれは、決して、音楽が“見える”という表現ではないと思ったし、こうやって身体表現として表出するのとも違うような気がした。
いや、単なる私の妄想に過ぎないのかもしれない。でも、一般的に言われる“音楽”だって、整備された音階、平均律ってやつで固められてしまっていて、自由な表現、自由な芸術では決してないのだ。
だったら、彼らの中で聞こえている音楽が、そんなつまらないことからも解放された音が鳴り響いているのかもしれないじゃない??

もうそう言っちゃうと、人間ひとりひとり、心底では理解し合えあないなんていうゼツボー的な結論になっちゃうんだけど……。
いや、興味があるから、彼らの中に鳴り響いている音楽というものを知りたいから、この作品に足を運んだ人たちはそういう気持ちだったと思うのだ。だから、ただ踊り続ける様を見せられても、って。

確かにその舞踊は様々で、ずっと楽しくおしゃべりしているように手話と思しき手の動きをにぎやかに取り入れたダンスあり、悠久を感じる大自然の中で、その風と対話するかのようにゆっくりと動いてみたり、カメラがぐるぐると回転するのを楽しそうに追いかけまわすようにしてみたり。
草原での友達の対話のようなダンス、ビルの屋上での前衛的なダンス、窓枠の中で朗読のように見せたり。
一番好きだなって思ったのは、夫婦と思しき二人が食卓に向かい合ったまま、目線と手を絡み合わせるダンス。めっちゃラブラブでほっぺたが赤くなっちゃう素敵さだった。そう、そんな具合に本当に様々なんだけど……ダンス、なんだよね。ダンスにしか見えないの。

確かにダンスには音楽がつきものだが、言ってしまえば、音楽がなくてもダンスになるのね、などという感想が出てきかねないのだ。タップダンスの例もあるように、リズムさえあればダンスは成立するし、それこそ無音の中の舞踊もそもそもあるもんだから……。
ろう者にとっての音楽をダンスという形で表現、というか説明してしまうと、かえってその価値が、意味が、そもそも本来どうなのかっていう部分も含めて、狭められてしまう気がするのだ。

本当に、彼らに聞こえている音楽って、どういうものなの?“見えている”という表現に落とし込んでしまうと、それこそ狭められてしまうように思う。
絶対に、聞こえていると思う。それは健聴者にとっての聞こえ方ではない、彼らにとっての感覚がある筈だと思う。そうでなければ、このテーマはそもそも成立しないのだから。
それを知ることが出来たなら、そもそも曖昧模糊とした音楽という実態をつかめるかもしれないのだ。その切り札になるかもしれないのだ。だから、惜しい。

風の音とか、そういうことを言いだしてしまうと、もう終わっちゃうんだよ。そういうのこそ、健聴者が言いだしかねないイメージ戦略なんだもの。
映画は総合芸術で、当然そこには音楽も含まれている。音楽を語る映画という形にして、健聴者にとっての音楽(というか、音、か)を排除するというぐらい挑戦的に出たのならば、徹底的な掘り下げをしてほしかったと思う、のは確かに単なる願望に過ぎないのだけれど。

総合芸術ならば、それこそ言葉を尽くすのだって大いにアリなのだ。音という、音楽という、それでなくてもつかめないものを、異なる身体条件の間で語るのなら、惜しむことはしてほしくない。
見た目イイ感じのアートドキュメンタリーにするだけでは、伝わらないことばかりなのだもの。伝えて伝えて、伝えまくってほしい。音って、音楽って、どういう風に聞こえて、見えて、感じているの?って。本作に足を運んだ人たちは、絶対にそれを知りたくて来ている筈なのだから。★★☆☆☆


リップヴァンウィンクルの花嫁
2016年 180分 日本 カラー
監督:岩井俊二 脚本:岩井俊二
撮影:神戸千木 音楽:桑原まこ
出演:黒木華 綾野剛 Cocco 原日出子 地曵豪 和田聰宏 毬谷友子 佐生有語 夏目ナナ 金田明夫 りりィ 野間口徹

2016/4/3/日 劇場(新宿バルト9)
なんという不思議な物語だろう。これは、この出来事があの過程がそうなってああなって、この人はこうなりましたというものがハッキリと明示されることが当然の前提だと思われているようないわゆるひとつの商業映画(あるいは、娯楽映画というべきか)の中ではまるで成立しない、ふんわりしているように見えて、ひどく攻撃的なんではないかと思われる不思議さ。
岩井俊二という人は、確かに女性映画のマエストロだし、ご本人もアーティスティックな風貌で、画の見え方はとてもロマンティックにも見えるのだけれど、この“攻撃的な不思議さ”を押し通すというのは、やはりやはり、ただならぬクリエイターなのだ。

最も端的に判り易いのは、綾野剛がイイ人なのか悪い人なのか、味方なのか敵なのか判らないところ。
でもそんな定義の仕方こそがヤボなのだと、“攻撃”しているのだ。彼はひどく誠実に仕事をしているという意味で、これ以上ない誠実な人なのかもしれないと思えてくるのが恐ろしくも魅力的なのだ。

ああ、何から言ったらいいんだろう。とにかく最初はこの三時間の尺に怖気づきまくっていた。なんか最近は長い映画が多すぎる!!って。……でも岩井監督は時々こんな長尺をそういえば作るんだよな、と思い……。
その長尺の代表だった「リリイ・シュシュのすべて」のような重苦しさはなく、とても軽やかに三時間が過ぎ去ってしまった。
なんでだろう。だって中身を思い返すと、タネが明かされない不気味さや、裏切りや死や、ヒロインはしんどいことに囲まれまくっているのに。

そう、ヒロイン。黒木華。彼女を初めて見た時、やたらと蒼井優嬢とかぶって見えてしまって、それこそ不思議な気がした。
確かに似ている。でも全然似ていない。何が似ているんだろう。肌の柔らかな乳白色の感じ?髪のウェービーな柔らかな感じ?
肌は凄く、似てると思った。上気すると桃色に染まるような、清楚の中の艶のようなものが。
蒼井優嬢が実力派ではありながらもその可愛さを称賛されるのと対照的に、最初から黒木華嬢はその玄人肌ばかりを言われて、時に地味とか昭和顔とか割烹着が似合うとか言われて、私が最初に受けた蒼井優嬢とのカブりは違うのかなあ、と思い始めていたところだった。

でもやっぱり、そうだ。岩井俊二が切り取る蒼井優と黒木華は、相似形のようだ。
それは単に似ている、という、個性を否定するということではなくて、黒木華も蒼井優嬢のようにその柔らかな可愛らしさが悠久さえも思わせる女の子のチャームを放っていて、それは後半のCocco女史とのちょいレズな関係でも萌え萌えに発揮されてドキドキしてしまうのだ。
ああなぜ、こんな女の子の素晴らしさを、実力派女優という名の中に閉じ込められてきたのだろう!!

でも、本作は彼女をオーディションで見出してから、実に4年の歳月がかけられているんだという。つまり、当て書き。へーっと思う。だってその間にもうすっかり有名になっちゃったじゃないの、と。
舞台で抜擢されたんだからこの企画がデビューという訳ではないけれど、その“経過”はやっぱりなんだかもったいない気がする。だってこれじゃあ、売れっ子女優の黒木華を迎えて、みたいに見えちゃうんだもの。

ああ、何を言っているんだろう。その作品がそのまま立っていれば何も問題はないのに。
そう、そうそうそう、彼女と綾野剛のカップリングも、そうだ「シャニダールの花」以来だと思ったのは観終わってからで、まあそれもあってのしっくり感だったのかもしれないけれども、綾野君は売れっ子ながらも着実に挑戦を続けていて、本作ではまさに、飛ぶ鳥を落とす勢いの“実力派女優”黒木華との化学反応が見事なのであった。

何が見事って、二人が恋仲にならないこと。彼はあくまで便利屋(というにはブキミすぎるが)として彼女の支えになるだけで、それどころか彼は自分の仕事をまず第一に優先しているから、その裏側がちょいちょい見える観客としては、彼が彼女を陥れているようにしか見えなかったり、死なせるように見えたり、本当にハラハラする。
なのに、それが一切見えていない彼女にとっては誰よりも頼りになる人であり、実際すべてを乗り越えてさっぱりとした顔をした彼女は、明らかにこれから幸福になるようにしか見えないんだもの!!

ああ、もう、だから何を言っているんだってば!何かね、本当に不思議な物語なんだもの。
そもそもこのタイトルとなっているリップヴァンウィンクル、って聞いたことあるけど何かな、と思った。でも後でその出自を確認しても、Cocco女史演じる真白のアカウント名としてだけしか機能していないように思える。いや、うがてばいくらでも意味はつけられそうだけれど、それはむしろ意味がないようにも思えた。

黒木華嬢演じる七海の使っているアカウントは最初、クラムボン。そしてカムパネルラ。一発で判る宮沢賢治。実家が岩手だという設定と、監督自身の東北出身がなんとなく重なる。
ネットで知り合った彼氏と結婚にまで至るけれど、あっさりと破たんする。あっさりと、というのは、彼女自身がネット上でつぶやいた表現である。
「ネットショッピングをするようにあっさりと、ワンクリックで彼氏が出来た」

物語はそんな始まり。その彼氏、後に夫となる男が、そのアカウントのつぶやきを見つけたとか、七海のものじゃないかとか疑ったとか、そういうことが実はすべて、便利屋の安室が仕掛けたものだったんじゃないかとか、とにかく前半戦は夫と姑と夫の浮気相手の彼氏とやらのまぜこぜで展開していく。
でも実はこの浮気相手の彼氏ってのがニセモンで、それを仕組んでいたのが安室で……とかいう、七海同様観客も混乱に陥れられるので、安室の正体や彼の目的が明かされることを、フツーの映画が目指すように当然のように待ち続けるのだが、岩井俊二の映画は、そんなことを目的にしてはいないのだ。

夫が尋常じゃないマザコンだったから、別れて正解、という結末に導くまでに、七海はぼろぼろになってしまった。
やたらしっかりとした結納を交わす場面で予測されたように、ネットで出会った、などという経緯とは対照的に、体面と息子へのベタベタ愛情にまみれた姑の策略(多分。何一つ明快に解明はされないのだ……)で、七海は身一つで放り出されてしまう。

この前半部分は、ハメられていく感なので、サスペンスのようでかなり怖い。ただ一方で、七海自身の危うさもじわじわと浮き彫りになる。
実は離婚している両親のことを夫にさえ言っていなかったり、親戚づきあいがないから結婚式の体面が保てないと、レンタル親族を雇ってしまったりする。
後から考えればもうこの時点で夫側(あるいは姑)の契約が先んじる形で七海はハメられたのだとも考えられるんだけれども、とにかく安室の立ち位置は不思議で、本当に七海のことを心配しているように見えたりするからさ……。

このキャラクター造形は凄いと思う。結果的には彼は、仕事に忠実なこと=誠実さを成り立たせているという、よーく考えればすっごく怖いお人なのだ。
結果的にはそれが七海を立ち直らせることになったとしても、いや、つまりそれは、誰かを信じて、百パーセント信じていれば、実は素直にそこには幸福が待っている、ということなのだろうか??

マザコン夫は母親の言うことをそのまんま信じて、妻を放り出す。行くところがない、どころか、ここがどこだか判らない、どこに行けばいいのか、とスマホの向こうの安室に向かって泣きじゃくる七海=華嬢が圧巻である。
本作は彼女の号泣シーンは数多くあり、どれも素晴らしいのだが、このシーンの、自分の居場所を見つけられないどころか、自分が立っている場所さえ判らない不気味なほどの不安さはもう、本当に……。

レンタル家族、というのは特に目新しい題材でもなく、私も決して親戚づきあいを密にしているタイプではないので、なんだか七海の気持ちは判るような気がするんである。
無論、七海は離婚した両親、その理由は奔放な母親(これはちょっと、ステロタイプかな)という事情はあるにせよ、あのしっかりしすぎの結納シーンでゾッとしてしまったから。ネットで知り合った、というところからのギャップもある、などと言ってしまったらそれこそ、そういう出会いを否定することになるんだけれど、それを否定する気はないんだけれど……。
ああ、でも、監督自身はそういう気持ちはあるのかなあ。いや、そんなことはないよね。だって真白さんは、さぁ……。

これまでも女性ミュージシャンを、ここに生きている女優として見事な起用を見せた岩井監督だけれど、今回も唖然とするほど素敵だった。きっと彼女は、この後女優として活躍する、って訳ではないだろう。ここでだけ、真白としてだけ、彼女は生きているのだ。
夫から放り出されて、ビジネスホテルに泊まりながらそこで働き始めた七海を「住み込みのメイド、月100万」という、“虫が良すぎるバイト”を安室はあっせんした。
その前に、自らが使ったレンタル親族のバイトも経験した七海。そこで出会った、芝居としての家族たちとすっかり意気投合、その中でも姉役の真白と飲み直し、ラインのアカウントを交換した。そして再会したのが、このメイドの同僚として、だったんである。

前半はまだどこか、社会派の匂いも隠していたし、七海が可哀相で可哀相で、という感じだったのが、この自由奔放、“女優”の真白との共同生活で、なんか一気に萌え萌えになるんである。
実は友だちになってくれる人を探していた、いや、一緒に死んでくれる人を探していた、というひどくヘビーな展開になるんだけれど、つまり安室は一緒に死んでくれる人、として七海を差し出した訳なんだけど、そう考えると、安室が言う「真白さんは怖い人ですよ」というのもうなづけるし、それ以上にアンタが怖いわ!とも思うんだけど……。
なぜそれが、結果的に、なんだかひどく、幸福に思えちゃうの!!

大豪邸なの、真白さんが住んでいるのは。最初は同僚のメイドだと思っていた。ずらりと吊るされているメイド服の中から、照れながらも着ちゃう七海=華嬢が可愛かった。凄く、似合っていた。なんか「空気人形」のドゥナ嬢を思い出しちゃった。女性を魅力的に描くといえば、是枝監督もまた、そうだもんなあ。
散らかり放題の大豪邸を七海は必死に掃除した。猛毒を持つ水生生物ばかりを飼っているスポンサーを、変わった大富豪と思い込んでいた。でもそれは、真白さんが、いつでも死ねるように用意していたものだったんだ……。

末期の乳がんだった真白さん。売れない女優、と言いながら、実は売れっ子であったであろう、AV女優だった真白さん。
母親と絶縁していて、後に遺骨を持っていくと、ポルノ女優なんかになって、と吐き捨てるように、言った。
その後の母親の展開があるにしても、うーん、やっぱり、世の中は、そういう認識なのかあ、と思う。

ポルノ女優、っていう言い方、久しぶりに聞いたが(ポルノっていう言葉自体、若干死語だよな……)、母親役のりりィさん世代だったらそうなのかなあと思う。
でもでも、夏目ナナはじめ、著名なAV女優さんたちを揃えたってことが、岩井監督の高い意識を感じさせるのだ。
手術をすれば、助かった。死んでしまったら、何にもならない。でも、AV女優として命をかけている、乳房の手術をしてしまったら、プロとしての仕事は出来なくなる。

……真白さんのマネージャー?いや、所属先の社長と言った雰囲気もある恒吉女史を演じるのが、夏目ナナなんだもの。いまだになかなか一般女優に進出していけない中で、それを切り開いていっている人。
とても、カッコ良かった。芝居も達者で、さすがスケジュールも経済的にも厳しい現場で身体を張り続けて、名前を挙げた人だと思った。

本作で何より、本当に何より魅力的なのは、七海と真白さんの魂の響きあいである。結局七海は、友達になってほしいという依頼、と安室に騙された訳だけれど、一緒に死んでくれる?と戯れながらも、酔っぱらいながらも問われて、酔っぱらってるでしょ、と言われながらもうん、と答えた気持ちはウソじゃなかった、と思うもの。
フレンチながらもキスの連続は、上気する華嬢のさらさらの乳白色肌もあいまって、ひどくドキドキした。だってだって、その時二人は、偶然立ち寄ったブライダルショップで試着したまま買っちゃったウェディングドレス姿だったんだもの。記念写真をバシャバシャ撮るシークエンスもまるで夢のように素敵で。

死んでしまえば。酔っぱらっての戯れでも死んでしまえば、ひょっとしたら七海も……ううん、そんなこと、言っちゃいけない。だって真白さんはその言葉だけで充分、って、思って、七海を巻き込まなかったに違いないんだもの。一緒に死んでもいいと、言われて、その幸福で、満たされたから。
ああ、そうか、ここに、幸せがあった。ずっと、どこにあるのかと思っていた。この作品の惹句。この世界は幸せだらけ、なんて、どこにあるのか、って。
真白さんは、七海に出会って、一緒に暮らそうと言われて、結婚しちゃおうと言われて、愛してるよと言われて、幸せ、だったんだ。
だから、幸せを、これから生きていく幸せを七海に与えたんだ。

不思議ね、イモガイって、こないだ観た「シェル・コレクター」でキーポイントだったからさ。こんなマイナーアイテムが近距離で出てくることもあるのねぇ、なんて。
それにしても、ウェディングドレス姿で二人じゃれあいまくって、ベッドに横たわってクスクス笑いながらキスを交わし合う場面は……ほんっと、岩井監督は実は女の子なんじゃないの??
こーゆーのを、オンナってのは常に求めているのよ、腐女子、じゃないか、翻っての腐女子??信じられるのは同志だけ、なのに、その同志はこんな風に死んだり、男のもとに行ってしまうのよ!!★★★★☆


トップに戻る