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「し」


2016年鑑賞作品

シェル・コレクター
2016年 89分 日本 カラー
監督:坪田義史 脚本:坪田義史 澤井香織
撮影:芦澤明子 音楽:ビリー・マーティン
出演:リリー・フランキー 寺島しのぶ 池松壮亮 橋本愛 普久原明 新垣正弘 ジム・スターク


2016/3/15/火 劇場(テアトル新宿)
舞台を日本の島に置き換えただけでは、外国文学臭さは抜けないように思う。外国文学臭さ、だなんて、初めて言うけれども。でも、なんかそんな風に思っちゃう。
孤独な盲目の貝類学者。潜水艦のような丸い窓の小屋。流れ着く謎の女。素敵だけれども、なんか外国文学臭いと思っちゃう。

どこと特定して言っている訳ではないけど、後半出てくる島の有力者の訛りで判ってしまう沖縄という場所の、冗談みたいに澄んだクリスタルブルーの海も、そんな違和感を感じさせるのかもしれないと思う。
隠遁した日本人が身を隠すには、美しすぎるのだ。沖縄の孤島の美しさが、悪い意味でのフィクション臭さに転じてしまうような気がして。
リリー・フランキー氏は、盲目の貝類学者などという、浮世離れした役を見事に演じているし、謎の女、実は才気あふれる画家を演じる寺島しのぶもこれまたさすがのひとことなんだけど、キャラとして完璧すぎることが更に妙なパッケージ感を感じるというか。なんか舞台として用意されているみたいというか。

それでも、前半のシークエンスは、その外国文学臭さも含めて、神秘的なファンタジーで惹かれるものがあった。
貝の螺旋に魅入られた盲目の学者が、その螺旋の美しさを感じるのは当然その手の触感のみ。アワビ(というかトコブシかしらん)のぐねぐねした身をなぞる指の動きはこれはハッキリとエロティックで、これはもうねぇ、ストレートすぎないかい、と心配になるぐらい(何が?)。
貝の螺旋、神秘、といえばふと「アンモナイトのささやきを聞いた」を思い出す。貝の螺旋は本作の中でも語られているけれども、悠久の昔からずっとずっと変わらずにひそやかに保たれ続けてきた神の領域の形で、その神秘は映画の神秘と実にしっくりと相性がいいのだ。

だからこそ、後半のいきなり社会派的になる展開に、ガクリと来たのかもしれない。貝の螺旋の神秘と謎の女にひっかきまわされるスリリングだけで、美しい映画を完結させてほしかったなどと思うのが、勝手な言い分だというのは判ってる。
でも、それぐらい、リリー氏もしのぶ女史も完璧な神秘の世界を形作っていたし、孤独を愛する葛藤の中での男と女の物語で観たい気が、したんだよね。そうしたらとても美しく、残酷で胸かきむしられる映画になるような気がしたんだよね。
勿論原作ありきなのだから、池松君が登場する後半部分も含めての物語なのだということは判っている。そもそもそれでなければ、しのぶ女史が持ち込んだ奇病の話が帰結しないもの。それは判ってるんだけど……。

つまりね、ただただ孤独を愛してこの島で隠遁生活を送っていた学者が、どういう展開でか知らないけど、波打ち際に女が倒れているのを発見するのね。
女は死ぬつもりだったのか、船が転覆したのかよく判らないけど、右手に生々しい赤いただれが見える。学者がつけるラジオから流れるニュースで、その奇病が報じられている。全身に麻痺が回り、いずれ死に至ると。
そのニュースではアメリカとの軍事演習のニュースも報じられ、軍、とハッキリと表現する。現代日本で軍、という言い方はしない、つまりこれはそういう意味では設定としても全くのフィクションなのだけれど、この時点でふと不安を覚える。あぁ、なんか社会派に行きそう、と。

自衛隊は全き軍である、というある一方での主張は、判る部分もある。それを肯定してしまうといろいろと問題はあるし、必ずしも私はそうとは思わないから肯定はしないけど、でもそう言われてしまうだけの要素はある。
だから、ここで軍、とハッキリ言ってしまったことで、これは神秘的な魅力だけで押すファンタジーじゃないと判ってしまって、なんというか、無粋なネタバレだなあとも思ってしまった訳で。

だからといって、“軍”がどうこうするとかいう明確な描写がある訳じゃない。後半、学者の息子が持ち込む環境破壊が“軍”と関係があるかどうかということは明確じゃない。むしろ明確だったならば、また少し感覚は違ったように思う。
後半登場する学者の息子は、「父さんはボランティアは仕事じゃないというんだろうけれど」と言う。どっかの組織の制服っぽいエンブレムをつけたカッコからして、いかにもなボランティア君、いかにもな理想主義者君である。

いや、そんなことを言ってしまったら、それこそ私がボランティアを否定しているみたいだが。でも、本作自体はどうなんだろうなあ。父親である学者は、息子の言い様を肯定はしなかったけど、でも孤独を愛する彼が人のつながりが必須であるボランティア活動とは確実に隔てられていることは火を見るより明らかなことなのだもの。
それに、池松君のキャラは、そのわざとらしいエンブレムのシャツもあいまって、学者や画家の女以上にキャラ立ちし過ぎていて、彼の崩壊も登場から見えすぎていて、なんかムズムズしちゃうんだよ。

彼は父親をハッキリと否定する。逃げているだけだと。父親が何か言いかけると最後まで言わせずに否定してかかるこの感じ、自分の理想だけが正義だと信じて他人の言葉を聞こうとしない活動家や、議論をさえぎることで自分の主張を通そうとする政治家とひどく似ているのだ。
孤独を愛しているなんていう“アイマイ”な感覚は、この青臭い息子には通用しない。かといって父親である学者はそんな彼に、それがあまりにも一面的なことなのだということを説くことさえ出来ない。

しのぶ女史の登場するミステリアスでエロティックな前半と、池松君が登場する固くて社会派然とした後半と、あまりにぱっくりと分かれていることに戸惑ってしまうんである。
テイストが、違いすぎる。前半の神秘な魅力が後半になるとざっくりと失われてしまう。それが惜しい、惜しすぎると思う。

確かに、この画家が世の中を騒がせている奇病を現実の形で学者のもとに持ち込んだのだから、後半の展開につながるきっかけをつけた訳だし、前半後半でひとつの物語になっているというのは判るんだけど……。
最初に、外国文学臭さ、というのを言ったけれども、これがアメリカ文学だと知ると、アメリカ文学臭さだったのかなあ、と思ったりする。娯楽の中にも“きちんとした”社会派を持ち込みたがるのは、アメリカっぽいような気がする。アメリカ文学は全然無知なので、単なるイメージですいませんなんだけど……。

画家の奇病をウッカリ治してしまうのは、学者が捕獲して水槽の中に活かしておいたイモガイの“毒”なんである。結果的に画家のみならず、島の有力者の娘のそれも治してしまうんだから、特効薬だったんだろう。
それまでの描写では、貝を収集したら貝殻だけをコレクションするからゆでて中身は取り出してしまって、という展開だったのに、このイモガイだけは水槽に生かしておくというのが解せなくて……。

解説を読めば、新種のイモガイだったから、ということになるのだが、劇中でそんなこと言ってた??言ってないよなあ……。
イモガイは人も死なせるような毒を持ってるから、安易に特効薬だとするのは危険だと言うのは判るけど、少なくとも画家と島の有力者の娘の奇病は治ったんだし、そもそも新種だったらそういう突然変異は考えられるだろうし(でも、劇中では新種なんていう言葉はひとことも出てこないけどね!)、さっさと研究機関あたりに渡せばいいじゃんと、金儲けと言われるのがイヤなら、それを拒否すればいいだけの話じゃんとか、なんかいろいろツッコみたくなるんである。なんかさ、仕込みが甘いというか……。

島の有力者の娘、というのが橋本愛。客引きビッグネームのうちの一人。そんな濃い顔つきでもないと思うのだが、病に倒れて眠っている姿から、目覚めて物語に関わってきてしばらくの間まで、沖縄の女の子っぽい、みたいに思って、気づかなかった……なぜなぜ(汗)。
だって彼女は決して沖縄っぽい濃ゆい顔つきの子じゃないのに。でも彼女の独特のインパクトの強さがそうさせたのかなあ。

奇病から生還して、しばらくは彼女は物語にかかわってこない。しかし、学者の息子がイモガイに刺されて死に(このシークエンスもよく判らない。彼はどこからどういう経緯でそれを手に入れたの?それとも偶然??)、学者は悲嘆にくれる。
奇病を治してほしいと集まってきていた人々は、この息子こそが滞在を支えてくれていたから潮が引くようにいなくなってしまう。

いや、つーか、そういう描写もはっきりとはなかったな。なんか学者は最後まで受け身なんだもの。いや、それでいいんだけど。受け身であることを否定する気はない。否定する展開こそを、否定したいのだ。
画家からの話を聞いて、ジャーナリストが訪ねてくるシークエンスもあるが、コアな映画ファンをうならせるために、ジム・スタークを引っ張り出したのを見せつけただけのように思えてならない。

窓から、火山の爆発が見える。小屋が漂流、島の娘と共にどこかしかの場所に漂着する。
真っ赤なワンピースの斜めカットの裾から若々しい足が露出する娘と初老の学者のラストシークエンスは、割とあからさまに楽観的な希望を示しているのだろうか?
いや、だとしたら最初に感じていた、どこか退廃的だからこそ魅力的だった神秘の雰囲気は全否定なんだけど……。

監督さんは、「美代子阿佐ヶ谷気分」のお人なんだね!!神秘の魅力はそこから来ているのだと思うと尚更惜しい気がする。
映画が織りなす神秘の力を、ただ信じ切ってほしかった気がする。今はそれが難しい時代なのかなあ。そういう、感性を押し切る力を感じる作品は、本当に少なくなった。★★☆☆☆


植物図鑑 運命の恋、ひろいました
2016年 112分 日本 カラー
監督:三木康一郎 脚本:渡辺千穂
撮影:板倉陽子 音楽:羽毛田丈史
出演:岩田剛典 高畑充希 阿部丈二 今井華 谷澤恵里香 相島一之 酒井敏也 木下隆行 ダンカン 大和田伸也 宮崎美子

2016/6/13/月 劇場(新宿ピカデリー)
私にしては珍しく、ウレ系の恋愛映画を立て続けに見ている。ティーン系はやはりちょっと臆してしまうが、ヒロインが会社員ならなんとか、といったところか。それでもずぅぅぅーっと彼らは若いけれども……。
本作はスタートダッシュもその後もかなりの動員を得ているらしい。がんちゃん初主演、彼のファンが多数集結しているということであろうけれども、でもファンが集まっての大ヒット、と言うだけでもない気がする。だって私はよく知らないし(爆)。

私は、駅貼りポスターの好感度に惹かれて足を運んだ。そしてそのポスターで“キラースマイル”(と呼ばれているらしい……)を見せているがんちゃんは確かにとっても魅力的で、作品に対する好感度を期待させるものだった。
彼だけじゃなくヒロインの高畑充希嬢の黒目がちな可愛らしさもバツグンで、やわらかな緑を基調にしたそのポスターは、こういう色合いってちょっと消極的で爆発力がないというか、ヒットするイメージではない感じがしていたのだがとにかくとても、好感が持てたのだ。
胸キュンも期待したけど(照)、何かこう、良識的というか、あたたかな幸せをもらえる感じがした。そしてそれは当たっていたし、このポスターの二人の印象も、いい意味でそのままに裏切らなかったんである。

でも確かに、彼のファンが集結していたんだろうなあ。いや、今は人気スターの映画というだけではなかなかヒットに結び付かない難しい時代ではあるけれど、映画初主演(というか、初出演?)だということと、何より彼らのファンが疑似体験したいと思うようなピュアなラブストーリーだったということが大きな要因だったのだろう。
こーゆー場合、私ら世代だと相手役に嫉妬してカミソリ送ったりするもんだが(いや、私はやってませんよ(汗))、彼女たちは素直に胸キュンし、高畑充希嬢に自分を映して見ていたのであろう。

いや、ね。私、久しぶりに凄く大きなスクリーンで見たのよ。シネコンてさ、たくさんスクリーンあるからスクリーンの大きさも様々で、大きなスクリーン、つまりヒット系、メジャー系、それも公開から間がない時期で、っていうタイミングがあまりなかったせいもあって、うわーっ、こんな大きなスクリーンっていつ以来?まさかET以来じゃないよね!などと……(それは言い過ぎ(爆))。
シーツの中にもぐりこんで充希嬢と微笑み合う、どでかいスクリーンサイズそのままのどアップのがんちゃんには、私ですらどぎまぎしたが、劇場内の女子たちは抑えきれないため息や照れ笑いのようなクスクスで充満してて、いやー、こんな雰囲気は私、初めてだった。

昨今うるさく言われる、劇場マナーなどというものを侵食するという意味じゃないのよ。彼女たちだってそんなことは判ってて、それでもどうしても抑えきれないわけ、そういうざわめきが劇場の中にさざなみのように広がっていって、ただ静かに映画を観るのとは違う臨場感のようなものがあった。
なんか、可愛いなあと思ったし、本来映画というものはこうして、ドキドキワクワクを共有しながら見るものなんじゃないのかなあ、などとも思ったのだ。

しかして、私の目当ては充希嬢である。女優目当てで観に行っても、その前に観たはるか嬢の映画のようにコケることもあるが(爆)、本作に関しては、この一種少女漫画のような信じられない乙女系ファンタジー系ラブストーリーを(けなしてません)、斜に構えず、真摯に、美しく撮ることに徹底していたから、ウッソだぁ、とか思いながらも、心ときめいて見られるのであった。
つまり、成功していることが嬉しかった。高畑充希。こんな可愛い子がいていいのだろうか。彼女の魅力は黒目の美しさである。黒目がち、という言葉があるが、その黒目が黒い碁石のように美しい女優なんていうのはなかなかお目にかかれない。

彼女は不動産会社に勤める新人会社員、さやか。顧客側の問題でのミスでも、わからずやの上司に頭ごなしに怒鳴られたりして不条理な日々。コンビニ弁当で過ごす一人暮らしのわびしい生活。
そんな彼女の前に降ってわいたかのように現れたのががんちゃん演じる謎の青年、樹。「お嬢さん、僕を拾ってくれませんか。噛みません。しつけのいいいい子です」少し酔っていたさやかはふふふとウケてしまい、彼を家に上げ、カップラーメンをごちそうし、帰ろうとするのを引き留めてシャワーまで貸してしまった。

彼女の中では夢の中の出来事と思っていたのに、翌朝いい匂いで目を覚ます。賞味期限ぎりぎりのありあわせ食材で作られた素朴な、しかし美味しい朝食に思わず涙ぽろりのさやか。
行くところがないんならいていいよ、と台詞だけは上から目線だったけれど、そらーこの美青年に一目で恋したからに違いない。

という導入部までに、がんちゃんに演技力不足はかなりあらわで、かなりハラハラする(汗)。いや、そりゃー彼の本業はパフォーマーであり、そこを指摘するのは酷というものかもしれんが、相手となる充希嬢が間違いない実力の持ち主だからこそ、余計に気になっちゃったというのは正直なところである。
「お嬢さん、僕を拾ってくれませんか……」という最初のキメ台詞に劇場内からふとクスクス笑いが漏れたのは、がんちゃんにこんなこと言われたーっという照れ笑いもあっただろうけれど、ちょっと……やっぱり台詞回しにキビしいものがあったから、というのが正直なところだったんじゃないのかなあ(爆)。
なんか、保護者みたいにハラハラしちゃう。さ行がちょっと、不安なのよね(汗汗)。

しかしこれが不思議なことに、中盤に訪れるトラブル、ケンカから言い合いになるようなシーンになってくると、気にならなくなってくる。やっぱり、ただただステキな王子様、というのは難しいんだろうなあという感じがする。
感情の持っていきかたというか……彼が本当は何を抱えて、そもそもなんでここに居るのか、ってことをまるで隠した状態で、好青年として存在するっていうのは、難しいんだろうと思う。お互いの気持ちを認識しあって、お互いにヤキモチを焼き合ってぶつかり合う段になると、芝居の目的がハッキリしてくるからか、なんか、見られるようになってくるのよね(爆。エラそう……)。
そして、キラースマイルはめちゃくちゃ魅力的ながんちゃんだが、真顔になるとこれが案外コワい(汗)。一気にイケメンではなくなる(汗汗)。男、なんだなぁ、と思う。だから二人の気持ちを確かめって、同居人でなくなって、シーツの下で微笑み合うキラースマイルにズキューン!とくるのであろう(照)。

なんかいろいろすっ飛ばしている気がするが(爆)。えーと、拾ってから、いていいよと言われて、で、彼は期限を切ったんだよね。半年、おいてもらえませんか、と。
長いですか、と心配そうに追加して聞いた彼に彼女が口ごもったのは、半年たったら出て行くんだ、という気持ちが既にここで、飛び出してきたからに他ならない。「長いね……いいよ、とりあえず」という言葉が自尊心から出たというのは、自分が先に好きになってしまった、という自負があったからに違いなく。

コンビニでバイトは決めて来たけれど、家事全般彼が受け持ち、これがすこぶる上手い。特に料理がお手の物で、さやかに昼の弁当まで持たせてくれる。これが誤解を読んで、「河野さん、料理上手いんだ」となって、男子社員から好意を寄せられるなんてことにもなっちゃう。
いわゆる女子力的描写にどう決着させるのかと心配になったが、結構イヤミなく、彼は家事が得意、というか好きだからそれを受け持ち、彼女は彼の指示で手伝い、最後には「これはダンナが作ったお弁当なの」と誇らしげに語る。

定期的に野草を“狩り”に自転車で河川敷に連れ立って出かけ、ふき、ふきのとう、つくし、のびるなんかをゲットして、ふきみそやらお浸しやら佃煮やら混ぜご飯やら天ぷらやらの、幸せすぎる食卓が出来上がる。
手付かずボーボーだった庭も、「雑草という草はない、と昭和天皇はおっしゃったそうです」という樹の言葉により、へくそかずらなんていうクサい草さえも残され、夏に可憐な花を咲かせるようになった。

半年、と言ったから、きっと半年で彼は姿を消すのだろうと思っていた。半年目はさやかの誕生日だったけど、その日は電気が暗くなってて一瞬いなくなったかと驚かせたところで、サプライズパーティーで手作りのケーキを用意してくれていた。
さやかは聞けなかったのだ。ずっと一緒にいられるんだよね、と。出会いの時の半年っていうのは、恋人同士になって帳消しになったんだよね、と。
でも苗字さえもバイト先に押しかけて偶然知ったぐらいで、彼のバックグラウンドは何も知らなかった。でもそれは、彼の方もそうだったと思うが、そーゆーことは恋する当事者は案外気づかないものらしい(爆)。
悪い予感が当たって、彼はありがとう、のひとことだけの手紙とさやかを映した花冠の写真、野草のレシピを残して姿を消した。

樹に隠された過去があるんだろうことは予測できたし、特に意味もなさげに、とゆーあたりが意味があることを容易に予測できた(爆)、有名華道家の展覧会の無料券、などとゆーアイテム。それに対して「悪いけど、土に生えてる植物が好きだから」という、具体的な理由で断った樹、もうこれで、オチが簡単に予測出来ちゃった。
そりゃー、こんな風に世を忍んで生活してるってことは有名人、あるいは有名人の子息、苗字を隠すのも同じ理由。バレバレすぎる(爆)。で、樹は名もない草にこそ愛情を注いでいて、その道で生きていきたくて半年間の猶予をもらっていた、と。

突然の別れの後、実に一年間も間が空いて、さやかのもとに“植物図鑑”が届く。写真担当が日下部樹。さやかは慌ててネットで検索すると、まさにその日、出版記念パーティーが行われていることを知り、とるものもとりあえず慌てて家を飛び出すんである。
考えてみれば、名前をネットで検索するっていうことを今までやっていなかったことが、案外ポカだよなあと思う。突然の樹との別れに、さやかは彼がバイトしていたコンビニで同僚の連絡先を聞き出そうとしたり、その同僚をつけたりして、警察のお世話になったりしちゃう。なんとアナクロな(汗)。

そして一年が経ち、出版記念パーティーで成功したきらびやかな樹の姿を目にし、言葉も交わさないままさやかは帰ってきてしまうのだが、どーゆー手段を使ったのか、さやかより先についてる樹(爆)。いや、それだけ傷心のさやかが道草を食ったのかもしれんがそれにしても(爆爆)。
すべてが氷解して、改めてお互いの気持ちを確認し合い、これから一緒に生きていくことを誓い合う二人なのであった。ああ、気持ちよすぎるハッピーエンド。結婚後も美味しい料理は当然樹の担当。なんたって料理とかの女子力を女子に強要しないのが、イイやね。

さやかが酔っぱらってヤケクソみたいに告白するシーン、「俺が必死に気持ちを抑えてきたのに、引き金引いといてそれはないだろ」「引き金二回目」という台詞に最も劇場内の女性ファンから湿度マックスのため息が漏れた。
判るわ、引き金って言葉はヤバいね。彼に引き金を引けるなんて、そら夢だわよね(照)、しかも二回も(照照)。★★★☆☆


十字架
2015年 122分 日本 カラー
監督:五十嵐匠 脚本:五十嵐匠
撮影:吉沢和晃 音楽:宮本かんな
出演:小出恵介 木村文乃 富田靖子 永瀬正敏 小柴亮太 葉山奨之 高橋努 康すおん 飯島大介 折井あゆみ 笛木優子 榎木孝明

2016/2/21/日 劇場(有楽町スバル座)
原作の重松清といえば、現代の子供事情を描かせたら右に出るものはいないんじゃないかと、つたない読書量の私ですら思う書き手。これまでも映画化された数々の映画たちは、そんなリアルな重さと共に、透明で残酷な子供たちの魅力をも十二分に発揮する佳作ばかりだった。
つまりは、原作の秀逸さがかなりの割合で映画化作品の成功率も保証してくれていた部分があった。本作は過去作品のすべてを観ている訳ではないけれどそれなりに確実性があると思われる監督の手によるものだったし……。

とまぁ、歯切れの悪い言い方をしているっつーのは、それはその通りで、なぜこんな選択をしてしまったんだろう……という思い。
そう、そんな選択。選択さえ誤らなければ、本作は確実に、社会に訴えかける重いけれども重要な作品になった筈なのだ。真摯な原作、真摯な演出、真摯な役者の芝居。ただひとつ誤ってしまったのは、キャスティング。

なぜ、なぜこいでんに中学時代から演じさせるなどとゆー、愚行を犯したのか。
20年にわたる物語である。その十字架を背負うことになる主人公がこいでん……小出恵介氏である。
そりゃ、20年にわたる流れを一人の役者で演じ切りさせたいという気持ちは判るが、しかし果たしてそういう理由だったのか。単純に、こいでんというネームバリューのある役者に通して演じさせることで客を呼びたいだけだったんじゃないのか。

そう思っちゃうよ。だっていくらなんでもムリがある。殺陣も見事に演じる胸板の厚さで、すっかり大人の男の魅力を持つこいでんに、中学生だなんて。
いくら白シャツに黒ズボンをはかせ、アディダスのバッグを斜め掛けにさせたって、ムリがありすぎる。これが明るい物語、コメディとかだったらまだお笑いモードで済まされるが、壮絶なイジメによって自殺してしまう中学生の話に、その“親友”に、胸板厚いアラサー役者じゃシャレにならない。

最初の感触から、ああこれは、現在の時間軸があって、そこから回想して現在に向かっていく物語なんだろうとは思った。だから現在の時間軸の年齢に合うこいでんを持ってきたんだろうとはそりゃ思った。
ということは、きっとその回想部分、少なくともこいでんの登場シーンはほんのさらりで、そのムリさ加減にはちょっと目をつむっていれば、過ぎ去るのだろうと思っていたのだ。
てゆーか、それがフツーでしょと。いや、フツーがいいかどうかは議論の余地のあるところだが、この場合は、圧倒的にフツーがいいに決まってる。

そんな思いに反して、驚くべきことに中学時代の尺が最も長かった。考えてみれば当たり前だ。彼に、そしてもう一人のヒロインに十字架を背負わせる、それをじっくりと描かなければ本作は成立しないのだから。
本作は撮影の舞台となった筑西市とゆかりのある監督、という企画でスタートしたのだという。そして監督は、中学生役を地元の生徒たちをオーディションして採用する、という勇気ある決断をした。それはこの地で映画を作るという活性化もあるだろうけれど、それ以上にリアルさを追求するという理由があった筈。

ならばなぜ、そこまでしてなぜ、こいでんに中学生役なのか……。

この年頃の中学生男子は幼い。いじめられるフジシュンはまさに、そんな華奢な中学生男子を見事に体現している。こんなことを言ってはアレだが、確かにいじめられっ子オーラを発している。
彼をいじめる子たちは、小柄な子もいるけれど、メインの二人はいかにもヤンキーな大人体型の中学生である。
ズルい描写のようにも思うけれど、イジメの加害者と被害者というのは、実はこういう判り易い部分で決定することもままある。フジシュンが華奢なだけでなくどこか優しげで、柔和な感じがするのも、彼らにとっては“キモ”くて、“藤井菌”が感染するのだと。

私見だけれど、もうイジメそのもののリアリティを描くだけでは、作品としては限界があると思ってる。一昔前ならもうそれだけで、イジメの残酷さを描いた社会派、と持ち上げられる向きがあったけど、現実はそれをゆうゆうと飛び越えてしまっているのだもの。
そして、どうしたらイジメをなくせるのか、という議論もまたむなしい。イジメがなぜ起こるのか、集団心理なのか個人の問題なのか年頃の問題なのか現代社会が子供に与える影響なのか、あまりにも複雑すぎるし、イジメが悪いことだと判っていても、イジメをやめなさいといっても、必ず水面下で起こってしまうことなのだ。
ならば、もうイジメはあるものという前提で、被害者をどう逃げさせるか、加害者をどう目覚めさせるか、もうそれしかないんじゃないかという事態に来ているんじゃないかと思う。

と、いうことはあくまで私見で。リアリティを描くだけじゃ限界があるにしても、リアリティを描かなくちゃそこから先に進めないというのも事実。
こいでんが中学生は、ないだろ。フジシュンはこいでん扮するユウちゃんを親友だと書き記して死んだ。そのことが“十字架”となってユウは苦しむ訳だが、なにも中学時代からこいでんに演じさせることはない。せっかく地元でオーディションまでして中学生のリアリティを追求したのに、そこにコスプレみたいなアラサーこいでんじゃ、あんまりである。

この点、ヒロインである木村文乃は割とすんなり中学生に見えちゃうのだが、それはこいでんがあまりにムリがありすぎるから見えちゃうだけだろうと思う。
それに彼女、サユは生徒の中に混じっている描写が少ないしさ……。こいでんはおもっきしサッカー部員の描写もあるし、委員長で人気者で、水をまいて女子たちからキャーとか言われたり、もうおもっきし、おもっきし、中学男子描写なんだもの。あまりにキツいよ。なんちゃってすぎて、見てられない。

せめて、大学生になる直前、東京の大学に受かった!というあたりからで良かったんじゃないの。地元の中学生を採用するぐらいのファイトがあるなら、重要なシークエンスのリアリティを高めるために、それこそ実力あるローティーン役者をオーディションして抜擢するぐらいの気概があるべきだったんじゃないの。
いくら地元中学生を抜擢したって、そこに売れっ子とはいえアラサー役者が同級生にされちゃ、そりゃあんまりだ。だって、だってさ、命を絶ってしまうフジシュン役の子は、地元オーディションってんじゃなくって、ホントに役者としてチョイスされた訳でしょ。だったらなぜそれを、こいでんや木村文乃の役でできないの。

そのことばかりが気になって、肝心の作品世界に入って行けないのがホント、ツラすぎる。
でもね、先述したように、もうイジメ撲滅とか単純に言えるところからは過ぎ去っているのよ。凄惨さの度合いがひどくなるばかりで、私の時代からも、その前からも、ずっとずっと、イジメはなくなっていないんだもの。
フジシュンの両親のみならず、保護者達が学校を糾弾するのももっともだし、実際本作の描き方としても、教師の認識の甘さを批判するようなところがあるけれども、じゃあイジメをやめるよう生徒を指導できるのかと言ったら……出来ないんだもの。

フジシュンの両親を演じるのは永瀬正敏&富田靖子。これ以上ないベテランキャスティングだが、かなりの大振り演技でついていくのがしんどい。
永瀬氏はもともと入り込むタイプだが、どちらかというとツラいのは富田靖子の方、というのが意外で。舞台のような大味演技で抑揚つけまくりの台詞回しに、あれれ……彼女、こんなしんどい芝居する人だったかな、と思う。
20年の時間経過は、永瀬氏にはあまり感じないのだが(むしろずっと黒髪過ぎて不自然なぐらい)、愛息子の突然の死にどんどん弱っていく母親、というのを演じる富田靖子が、めっちゃ判り易く白髪頭になって、パジャマにカーディガンでよたよたとか判り易すぎて、痛ましさを感じるのが難しくなるばかりなのだ……。

母親は、息子のイジメに気づいていた。がばがばにふやけた教科書、不自然に泥だらけのスニーカー。夫に相談するも、一蹴されてしまう。
この場合、一蹴した夫が悪いのか、それだけで引っ込めてしまった妻が悪いのか。悪い、などというのはおかしい。悪いのはいじめた側なのだから。でも先述のように、もういじめをなくすとかいう理想的なことを言っている段階ではないのだ。本人が訴えるべきとかいうのがナンセンスなのも判り切ったことなのだ。

この夫婦の会話の描写で、正直、後の展開というか、少なくとも夫が後悔する場面が出てくることが容易に想像できたのも痛かった。勿論、息子の自殺という過酷すぎる現実の前では、加害者、そして見ているだけで何もしなかった傍観者たちに父親として怒りをぶつけるのだけれど、ずっとそうなんだけれど、何年も何年も経って、連れ合いが死んでから彼はようやく、自分もまた見殺しにしたという事実に向き合う。
充分なインターバルはとれているし、それだけに胸が痛いけれど、あの夫婦の会話シーンがあまりにかっちりしすぎていたから、この後悔を吐露するシーンが想像できちゃうというのが、なんか……。

てな具合に、真のテーマの部分ではなく、脇道ばかりが気になってしまうのが困ってしまうんである。
だってさ、ヒロインのエピソードも過酷なんだよ。木村文乃嬢演じるサユは、フジシュンが首をくくるまさにその日、彼から電話を受けた。誕生日プレゼントを手渡したいというフジシュンにつれない返事をした。
フジシュンはプレゼントをコンビニから宅配便で送り、そのコンビニで買ったなわとびを庭の柿の木に吊るし、首をくくったのだ。

フジシュンの遺書に書かれた好意的な言葉で、母親はユウとサユに息子の思い出をつなぐ。
ユウはフジシュンと幼馴染ではあるけれど親友と言われるほどの付き合いはなかったし、サユに至っては自分の誕生日が命日にされてしまった過酷さ。そしてつれない返事をしたその事実を、当然彼女は言えずに数年が経ち……。

フジシュンには幼い弟がいて、その隠された事実が明かされた時、もう彼はお兄ちゃんの年を超えている。お兄ちゃんの存在の代わりを必死に務めてきた彼にとって、勝手に親友にされたとか、つれない返事をしたとか、そのことがもしかしたら決定的に兄を死に追い詰めたと思ってしまうと、そりゃ猪突猛進、ただ我を忘れて責め立てるしかない。
このシーンが本作の一番のクライマックスであったと思う。こいでんが咆える、自分もサユもフジシュンなんか相手にしていなかった。勝手に親友にされて、誕生日に死なれて、メーワクだったと、イジメ以上に残酷な言葉を発するシーン。

後に、サユへの想いはともかくとして、なぜ単なる幼馴染の自分を親友と書き記したのか、自分自身の子供を持つようになって、ユウが悟るラストシークエンスは感動的だが、でもそれはヤハリ、中学時代はリアルティーンエイジャー役者に演じさせてこそ、であったと思う。
いくら華奢なフジシュンだから勉強もスポーツも出来るスターのユウに憧れていた、だから親友と言いたかった、と言ったって、華奢なフジシュンがアラサー男子に憧れる訳ではないだろー、と言いたい訳。
テーマが重くて、フジシュンを演じる小柴君がすりきれるほどの芝居を見せてくれたからこそ、本当に惜しいと思ってしまう。

遺書に名前を書かれた二人が負わされた十字架だけれど、本当は集団心理に乗せられ、はやし立て、見殺しにしたその他大勢のクラスメイトたちも当然、負っている十字架。
メインキャストじゃないとそこらへんを描き切るのは難しいけど、それを感じさせる手掛かりぐらいは欲しかった。正直言って、主犯格の男子をネットにさらさせて、マスコミたちに追わせた上に、不慮の交通事故で死なせるなんていう“罰”を与えてしまうと却って、その他大勢たちが抱えた罪の意識が薄れてしまう気がした。まあ原作がその通りだと言われたらそれまでなんだけど……。

自分の子供を持ったユウはきっと、彼がイジメの加害者、あるいは被害者になることを恐れて、その交友関係を探ったのだと思う。その結果、フジシュンが自分のことを憧れて親友だと書き記したんだと思い至った、という道筋になるのだが、ちょっと、弱いかな。
イジメの当事者にさせるまでに至らなくても、その教えを子供に施すぐらいの展開は欲しかった気がする。イジメはなくせない、確かにそうだけれど、何か手立ては欲しいじゃん。
この場合、原作がどうとかじゃなくって、映画という、より社会に訴え出られる媒体だからこそ、そんな勝手な希望を描いてしまうのだ。映画が好きだから、信じてるから、さ。★★☆☆☆


純情濡らし、愛情暮らし
2016年 70分 日本 カラー
監督:竹洞哲也 脚本:当方ボーカル
撮影:創優和 音楽:與語一平
出演:通野未帆 加藤ツバキ 森星いまり 世志男 ダーリン石川 森羅万象 山本宗介 佐々木麻由子 和田光沙

2016/8/22/月 劇場(テアトル新宿/レイト)
ブルーフォレストフィルムのロゴに、ああ、そうそう、竹洞監督だよね、青森だよね!と嬉しくなる。
なかなか観る機会に巡り合えない現代ピンク映画の、以前の機会に新進気鋭の実力派といえばの竹洞監督であり、こうした商業映画へのクロスオーバー企画に橋渡しをしていける実力派なのだと思う。

アダルティーだから女子高校生役だって勿論その通りの子たちではない訳なのだが、これまでの成人映画のそれが、とてもとてもティーンには見えないよねーっ、という感じであったのが、本作の二人の女の子とも、それなりに高校生に見える。
いや、ヒロインの子はやっぱりちょっとアダルティーだけど(爆)、その友達の、彼氏からDV受けてるコはリアルに女子高校生って感じである。そのロリさが、痛々しくて。

ヒロインは高校三年生の友美。父親と二人暮らし。ヒロインと言ってしまったが、ピンク映画だから当然、女優さんがトップに立つけれども、主人公という意味で言えば間違いなくこの父親の方。
いかにもうだつのあがらぬ、といった中年男を体現する世志男氏が素晴らしく、彼が後に盲目の女性とまるで中学生のような純粋な恋に落ちるのが、とてもグッとくるんである。

と、いうのは後の話。こんな感じでワキエピソードも様々に濃ゆく、ちょっと盛り込み過ぎじゃないかしらんと思うぐらい。
まあ、順番に行く。この父親、大山は定職にはついてないのね。清掃員やチラシのポスティングなどのバイトをかけもちしている。
清掃員の同僚である草壁は正社員を探しており、自分よりは時間などの制約がなく働けそうな大山に、なぜそれを探さないのかと問う。それは、そんな父親のことを恥ずかしく思っている娘と後に勃発するバトルでも繰り返される問いである。

大山は、自分はバカだからと言うが……つまり学歴がないこととかが正社員の道を阻んでいるということなのかなと思うが、まあそういう学歴社会が今の日本でもあるとは思うが、でもやっぱりちょっと、ムリがあるかな、とは思う。
いくらでもいるよ、この程度の自称バカで正社員でふんぞり返っているヤツ(爆)。自称ですらない本気のバカも(爆爆)。
バイトの方が掛け持ちできるし、効率よく稼げるということなのかなあとも思うが、娘のための料理や洗濯なんぞもこなし、そんなにきりきり舞いに働いているようには見えないので、少し設定としては弱い気がする。彼の自嘲めいた気持ちがもう少しリアルに見えたら良かったかなあ。

それはきっと、先述したけれど色んな濃いエピソードが盛り込まれていてそこまで丁寧になれなかったのかな、という気がしている。
先述した、正社員を探しているという同僚の草壁は、若年性痴ほう症の妻を抱えている。子供もおらず、リストラ後はバイト暮らしで貯蓄もなく、施設どころかヘルパーさんを呼ぶのもおぼつかないような状態なんである。
日本の福祉社会のおそまつさをつく描写と言えるが、それだけにこうした濃いエピソードが点景のようにてんこ盛りなのがとてももったいない気がする。このエピソードはね、それこそ一本で見たいよ。

まさかの脱がない佐々木麻由子(R18版ではお風呂のシーンとかで見せていたのかもしれんが)の痴呆妻の無邪気さがとても哀れで素晴らしく、これだけで女優賞献上!と言いたいぐらいなんだもの。
だって、キッチンのダイニングテーブルの場面だけなんだよ、夫婦の描写が。いや、……彼がしてはいけない決心をして二人、温泉旅行を模した、温泉の元を溶かし込んだ狭い風呂場に二人して入る、その場面もあるけれども、その二か所だけだから、余計に、風呂場のシーンに移行した時に、結末が判ってしまった。哀しい結末が。

その、他に身寄りのない二人の遺骨を引き取ったのが大山。なんかいろいろすっ飛ばしているけれども(爆)、子供のいない草壁と、妻を亡くした大山は、バイトでしか生計を立てられないしがない中年男、という部分も相まって、シンパシィを感じ合っていた。
大山は、娘の友美がまだ赤ちゃんの頃に、妻を交通事故で亡くした。思春期の友美は、父親の作った料理にも手を付けず、洗濯ものは別に洗ってくれと言う。

いかにもな女子高校生にも思えるけれど、バイトを禁じられていることに反発するあたり、「自分のものを自分のお金で買いたいの」と確かにもっともらしいことは言うけれども……母親がいないことを、父親だけがその身に一心に受け止めて娘である自分に何の負荷もなされないことが、悔しかったのかもしれないと思う。
大山は、娘には苦労させたくないという、妻の思いをいわば言い訳にするような形でバイトさえも禁じ、大学まで出す覚悟で塾にも通わせているけれども、そのあたりの娘との話し合いは一切、ナシ。

ということを、彼自身が全く理解しないまま、娘の自殺未遂にまで到達することに、若干の違和感を感じる。結果的に娘は父親の想いを受け止める形で涙を流し、和解するけれども、じゃあ父親は娘の想いをちゃんと受け止めたのかしらんという疑問はちょっと、残るのだ。
だって彼女の気持ち、判るんだもの。一人前になりたい、母親が死んで苦しいのは自分もなのに、父親がそれを独り占めして自分に苦労させないようにしていることへの反発とかさ、それが正直解消する前に、お父さんゴメンネ、みたいな展開になった気がして……。

友美は、塾の講師と関係を持っている。この関係は肉体関係、というだけじゃなくて、恋愛関係と言ってあげた方がいいのかもしれない。よくある感じで不倫ということではないし……(バツ男だから)。
この妙にイイ男は友美のことを、確かに生徒としてちょっと子ども扱いする部分はあるけれども、どこか疑似父親のような包容力のある恋愛関係にある。実際、友美が友達の瑠理に問われて「年上の男が好きだから」というのは、彼女自身は父親に反発しているけれど、父親が自分を愛しているのは判っているし、実は自分だってそうなのだということも判っていることの……裏返しなのだ。

対照的に友達の瑠理は、なんでこんな男と、というクズと別れられない。大学に落ちたのは親が医学部しか受けさせなかったから、と言い、塾に通う彼女を蔑んだ目で見ている。ゲーム機を手から離さず、フェラさせながらもゲームしている。
別れたら殺すと脅し、ゲームの課金も彼女から脅し取っているクズ。ついには友達の友美まで塾講師との関係をネタに脅しにかかるクズ中のクズ。それを友美は、普段反発しまくっている父親に当然言えず、これまでの思いが募った形で発作的に自殺未遂してしまうんである……。

いかにも切れなさそうな、ファンシーなハサミで手首を切って倒れる友美を、慌てふためいて抱き起す父親の大山。
うーむ、自殺未遂までさせるのは若干やりすぎのような気もしないでもないなあと思ったり。やっぱりこの尺の中でここまでエピソードてんこ盛りにするのは、ムリがあるし、もったいない。とても、もったいない。
DV男に苦しめられる瑠理ちゃんも、演じる森星いまり嬢がとてもリリカルで素敵だっただけに、も、もったいない!!という感タップリなんであった。
今度こんなことやったら脅すぞ!!と大山がこのDV男をいてこますのは感動的だが、単純が故の真剣な怖さ、というのもエピソードを散らしているとやはり薄まってしまう感は否めないのだ。

今度こそ素直になった娘が、いつものように食事の準備をしている父親に涙ぐむ場面も、この親子に深く切り込んでこそ感動できるんだと思う。
だってお父さん、この事実を知ったということはつまり、娘と塾講師の関係を知ったということでしょ。娘を信じているから、といえばそのまま通っちゃうけど、彼自身も今、恋に落ちているんだし、この親子の恋愛をお互い認め合う、という深さを見たかったなあ。そう、それぞれが一本の映画になっちゃうぐらい、なぜこれ全部盛り込んじゃったの……。

大山と盲目の女性との恋物語は、ほぉんとに、これで一本作ってほしかったと、思う。手作りのおにぎりの匂い、何より大山自身の匂いに気づいて距離を縮めていくラブストーリーにドキドキとする。
今、こうしたバリアの物語を単なる恋ネタの要素にしかしないというのも、それこそ社会的にNGだという思いもあるし。そう、今も昔も、障害者と健常者の恋物語は、こんな風に甘やかな感動の中でしかない。

そうしたバリアを乗り越えることを通常の恋愛と同じくエンタテインメントとしてとらえることが、先鋭的なピンク映画ですら、まだできていない。現実には、障害者と健常者の“普通の”恋愛は、特異なものなのだ。
それをこそ、ピンク映画ならば乗り越えてほしいと思う。楽しく、笑い飛ばしてほしいと思う。この点に関しては、一昔もふた昔も昔に巻き戻ってしまったと思う。いや、現代の商業映画でも、それは出来ていないんだけれども。★★★☆☆☆


知らない、ふたり
2016年 106分 日本 カラー
監督:今泉力哉 脚本:今泉力哉
撮影:岩永洋 音楽:石塚周太 木下美紗都
出演:レン 青柳文子 韓英恵 ミンヒョン JR 芹澤興人 木南晴夏

2016/1/14/木 劇場(新宿武蔵野館)
日本のホン・サンスと呼ばれているなんてことは知らなかったが、なるほどとも思うが、いや、たった一人の今泉監督だもん!!と言いたいのだ。
だって「終わってる」から大好きだもん!!(デビュー作からと言えないのが悔しい)ホン・サンスなんてカンケーなしに、今泉力哉監督だからこそ素晴らしいのだッ。
んー、相変わらず監督のお写真のそのビジュアルも素晴らしい。この個性的な何ともチャーミングなビジュアルから、なんでこんなにウィットダダ漏れまくりの、洒落た、でも慈しみたくなる可愛らしい映画が生まれるのかっ。

でも今回はちょっと、ビックリした。メインキャストのほとんどが韓国の役者さんなんだもの。韓英恵嬢は、この人は何でこんなにネイティブな日本語なのだろう……と思ったらそうか、韓英恵かと思い、韓国語話せるのか、そうか考えてみれば当たり前かも……とか、日本人やら韓国人やらなんかいろいろ、楽しいんである。
今泉監督にこんな素敵な企画が来たことも嬉しいが、それをすんなりこなしたゆえの、ホン・サンス呼ばわり(呼ばわりて(爆))なのかなぁ、と思う。

まるで日本社会には半分韓国の人たちがいるのが当たり前みたいな風に描くのが、素敵だと思う。韓国人!!外国人の中の、特別な意味を持つ韓国人!!とゆーよーな、日本社会にありがちな描き方がすっぱりとそぎ落とされている。
「私の好きな人も韓国人なんだよ」という台詞がさらりと流れる。飲み過ぎて目が覚めて、目の前に現れた男の子に母国語で喋りかけてそのまま会話が成立しても、特に驚かない。
事故に遭った時のことを思い出して、レオン君、きれいだったよね、見とれちゃってさ、と夫婦でうなづき合う。韓国人、という価値観がいい意味でうっすらうすらいでいるんである。

なぁんて思うのは日本特有のことなのかもしれない。外国人自体が珍しく(今はそうでもないけど)、韓国とは微妙な関係にある日本特有のことなのかも。
つまりこの雰囲気、この世界はとても好ましく、理想なのだ。ハッキリと韓国コミュニティを持つ彼らが、なぜこの日本にいるのか、在日なのか、留学なのか、仕事で来ているのか、特にそれが明かされない、ただここで生活している一人の人間に過ぎない、という目線がいいのだ。
靴屋で働くレオン君は、確かに韓国人の男の子という認識はあるにしても、ただ、そこで、働いている、靴職人でしかないのだもの。

という、レオン君から始まる物語は、今泉監督が注目された前作、「サッドティー」をほうふつとさせる、複数の男女の関係が実に洒脱に絡み合っていく物語、なんだけど、それこそ「サッドティー」あるいはその他の今泉作品からついつい期待してしまうような、唸るような会話の洪水、がない、ないんである。
うそお、意外!!と、韓国メインキャスト以上に驚いてしまった。それは別に、韓国キャストが多いからという訳ではないと思う。喋る場面では字幕を駆使して今泉イズムなちょっと噴き出してしまうような、照れ隠しのような、軽い押し問答が愛情や友情の裏返しのような、素敵な会話場面が沢山、あるんだもの。

でも基本、とても静かなんだよね。それは一番の主人公、キレイに染めた銀髪がオシャレというよりも、孤独な仙人のような印象を与えるレオン君が抱える過去と、その過去に縛られて彼が今生きているから、という大前提があるからだと思う。
信号無視をして渡ったレオン君につられて渡った男性が、車にはねられた。レオン君はただ、目撃者として聴取を受けた。その男性も、男性の彼女も一言もレオン君を責めることはなかった。
その過去は、回想などとゆーヤボな方法ではなく、死んだような生活の繰り返しをしているレオン君の、そのぼんやりと目覚めたワンルームに静かにクレジットされるのみ、なんである。

回想がヤボだなどと思ったことはないのだけれど、こういう方法を持ってこられると、回想ってヤボなのかも……と思ってしまうんである。
あくまで今の時間軸で物語は動く……いや、そう言いかけて、違った、と思う。本作はいったんある程度語って、一度数日間を戻ってくる。その手法もここ最近確かによく見かけるものだけれど、やはり一味違う、と思う。

レオン君はいつも店の仲間たちから離れて、さびれたベンチに座って昼をとる。それも家で握ってきた素朴なおにぎりである。
“善意のイス 疲れたら一休みしてください”と記されているのがふと笑いを誘うが、レオン君があまりに孤独なので、うっかり笑えないんである。

しかしある日、そのベンチで横になって眠っている女性がいる。ふんわりウェーブなロングヘアがきれいな結構な美人さんである。
「私が見える?」そう、彼女は韓国語で言った。レオン君も韓国語で返事をした。
お互いを一瞬で同胞だと認識した、などとゆーナショナリズムではなくって、とっさの母国語、とっさの返し、という感じに見えるのが良くって、それが最後まで徹底しているんである。

このロングヘアの美女が韓英恵嬢演じるソナで、この時ボキリと折ってしまったヒールがレオン君の修理工房に持ち込まれてくるんである。
その住所をこっそり訪れてみると、出てきたのは男性。これは彼氏に違いない、と誰もが思うが、展開していくとそうじゃない。でもレオン君はそう思い込んでいる……と観客に思い込ませてそれもそうじゃない、という、ガーン!という感じではないんだけどふわっとした意外感が、実に洒脱なんだよなあ。

ソナとレオン君はお互いに一目ぼれ同士だったんだから、最後の最後に再会を果たして結ばれるとばかり思っていたのだが、そぉんな単純な話に、この才人、今泉力哉がする訳、ないんである!(ほれ込み過ぎ!)
まあラストの余韻はそうした予感もさせなくもないけれども、そこに至るまでに糸が絡みに絡み合っているからなあ。

まず、ソナには彼氏がいる。彼氏はまず、日本語学校の加奈子先生が好きになってしまった、とソナに告白する。でもまだ、ソナのことも好きだと。
ソナは当然怒るけれど、同時に彼女も同じ事態に陥っている訳である。気になる人がいる、あなたの知らない人。とソナも告白する。
そして彼女も、あなたのことがまだ好きだから……と揺れる心を正直に言いながらも、別れを切り出すんである。

それでも、レオン君との再会の前に、二人はヨリを戻してしまう。お互い半々ずつ好きなのだし……ということが理由であるってあたりが凄いと思う。
斬新。いや、これは確かにあると思うよ。その半分の想い、っていうのが、長年つきあってきたゆえの親愛の情とか、ただ単純に切れない蓄積の絆、みたいなものであったとしたって、それも充分、愛情と換算されるんだもの。
好きな人、気になる人が登場しても、いきなり百パーセントにはなれないというリアルさが、生々しさではない洒脱さの中に描かれるのが、斬新だと思うんだよなあ。

この加奈子先生というのが木南晴夏嬢。流暢な韓国語でビックリする。こんな隠し技を持っていたとはっ。
彼女が、レオン君が抱えている過去、交通事故にあって車いすになった彼氏を持つ彼女、である。
実はそれが、浮気相手のところに行く途中の事故だった、というのが、このカップルに試練を与えている。今一緒にいるのは、この怪我のせいで、相手を縛っているんじゃないか、お互いにそう思っているんである。

彼氏が芹澤興人氏とゆーのが意外すぎるとゆーか。いや、何がって、シリアスなんだもん(爆)。彼はその特異過ぎるビジュアルでコメディ王道を突っ走ってきたが、まさかのシリアス。いやこれが、素晴らしいんだ!!
当たり前だが、一人の男(当たり前だ!!)浮気相手に会いに行く途中で事故に遭い、その事情と、この怪我とで恋人との結婚に踏み切れないまま今に至る。

彼女の両親に結婚を反対されている、というのはベタな理由だが、それ以上にベタな理由……”車いすの彼が彼女の負担になる”という世間一般の価値観が、お互いがお互いを縛り付けていると思い合っているという、めっちゃ愛やんか!!とゆー。
……ベタベタなんだけど、二人の芝居がしんみりと凄く泣けて、そしてその中に、「じゃあ、結婚しよう、って何よ」「じゃあ、もう一度君の親に挨拶に……。このじゃあ、はいいだろ」なんていう、ああ、これぞ今泉力哉!!てゆー、会話のやりとりがいいんだなあ。

まあそれはかなりクライマックスなので、もっともっと、絡み合っているんである。
ソナの靴をレオン君の勤める靴屋に持って行ったのは、ソナとその彼氏の友人で、ソナのバイト仲間であるサンス。その受付の女の子に一目ぼれしてしまって、加奈子先生にラブレターを添削してもらう。
この女の子、秋子を演じるのが青柳文子嬢。よく見る!!と思うのは、どうやら今泉作品の常連だからかららしい。

でもホント、彼女が凄く可愛くて、良かった。多くの韓国人キャストの中で、一人挑んでいく形の日本人の女の子。レオン君に恋していて、だからサンス君に告白されてもゴメンナサイ。
でも凄く仲良くなるの。断りのためのデートを設け、しかしそこで、自分の好きな人も好きな人がいる。その人も韓国人なんだよ、というところから話が発展、レオン君の後をつけた、という秋子にサンス君は、ちょっと怖いデスネ、というと秋子はきょとんと、そう??と返す。

このあたりからちょっと面白くて。そうだ、今の時間なら……と、そのレオン君がつけていた女性のアパートに繰り出し、その女性がソナであったこと、レオン君に一目ぼれしたソナが泥酔し、送ってきたサンスにキスをしたこと、きっとそのことが、レオン君が彼女の様子を見届けるのをやめた理由だ、と突き止める。
その後秋子とサンス君が、最初のデートでの気取ったすし屋から一変、おもいっきりダラ飲み系の居酒屋でクダ巻いているのが、ホント、なんか思いっきり仲良くなっちゃうのが、可愛くてさあ。
「(ソナにキスされたこと)まだ言いますか。しつこい女ですネ」とサンス君がウンザリ気味に言うのが、可笑しくて、可愛くてさあ。

でももちろん、ソナが一目ぼれした相手がこのレオン君だなどとゆーのは、まだ、判らない訳。結局それは最後の最後までとっておかれて……。
秋子とソナとサンス君が連れ立って、近在の公園を探して回るシークエンス。ソナもサンスも日本語は喋れるけど、二人で言い合いになるから、その間秋子は手持無沙汰な感じ。
でも特に気にせず、滑車で滑り降りる遊具に画面の左から右に観切れていく様が、こ、子供かよ!!というのが青柳嬢っぽいのよねえ。

その間に、加奈子先生と彼氏との結婚が決まり、「僕の分まで二人分、歩いてもらわなくちゃいけない」とオーダーシューズをプレゼントされて、思いがけず二人はレオン君と再会した。
レオン君は涙をこぼして二人が幸せになったことを喜び、今まで封印してきた、自分が幸せになること、を解くことにする。彼はもう、知っているのだ。ソナと思い合っていることを!なぜって、それは後述!

ソナの働くコンビニにまっすぐに出かける。これは始まりの一歩。また来ます、と彼は言う。
差し入れのアイスを買って帰って、工房の皆にふるまうもんだから、ビックリする。今まで、昼ごはんさえ、かたくなに一人、食べていたのに。

アイスを受け取った秋子は驚いてどうしたの、と聞く。「恋をしました」そうレオン君は言うのだ。その気持ちさえも閉じ込めていたレオン君が!
ところで、レオン君がソナを見届けるのをやめた理由、サンスとのキスシーンを見た訳じゃなかったんだよね。
だってその後、酔いつぶれたソナとレオン君は話をしている。ソナがサンスと話したと勘違いしている長い長い打ち明け話。そしてそこでレオン君はソナと一目ぼれ同士だということに気づいているんだもの。

気づいて、距離を置いた。どうしてかなと一瞬思って、それはもう最初から、秋子が言っていたじゃない!と思い出した。
幸せになるべきじゃない。自分は幸せになるべきじゃないと、レオン君は思ってて、それが目の前に見えてしまったから、踵を返したんだ!
加奈子先生の足を測りながらこぼした涙は、彼女たちが幸せになってくれたことへの安堵だけではなかった。自分も幸せになってもいいと思えた安堵だったのかもしれないと。

結局、加奈子先生たち以外、がっちりと決まったカップルが誕生した訳じゃない。すべては振出しに戻った感があるけれど、ただひとつ。誰もが誰かに恋をしていて、その思いがとても大事なもので。
だから、何も決まらないラストは、全てが始まった幸福でいっぱい。大事な気持ちで満ち満ちてすべてが開かれていく、そんな幸福でいっぱい! ★★★★☆


続・深夜食堂
2016年 108分 日本 カラー
監督:松岡錠司 脚本:松岡錠司 真辺克彦 小嶋健作
撮影:槇憲治 音楽:鈴木常吉 福原希己江 日南京佐 スーマー
出演:小林薫 河井青葉 佐藤浩市 池松壮亮 キムラ緑子 小島聖 渡辺美佐子 井川比佐志 多部未華子 余貴美子 オダギリジョー 不破万作 綾田俊樹 松重豊 光石研 安藤玉恵 須藤理彩 小林麻子 吉本菜穂子 中山祐一朗 山中崇 宇野祥平 金子清文 平田薫 篠原ゆき子 片岡礼子 谷村美月

2016/11/13/日 劇場(丸の内TOEIA)
いつもは続編はほとんど手を出さないし、オムニバスと判ってたら確実に手を出さない私が、深夜食堂だけは、ああこれだけは、足を運んでしまった。
まぁ、ちょうど時間が合った(本当にちょうど。歩いていて見上げたら出くわした)というのもあるけれど、やっぱりこれは観たいと思っていたから。

何かなぁ、こういう、小粒に見えるけれどじんわり来る良作が、やはり映画っていう気がするんだなあ。無論その前にテレビドラマがあり、原作コミックスがあってというのも知っての上よ。
現代の映画といえば漫画原作だと、どこか嘆息気味に言われるのだって、判ってる。でも時にそれが、こんな風に小さな奇跡を起こすのなら、それでもいいじゃなかと思ってしまう。

ドラマ化だって、誰もが知ってる大ヒットドラマという訳でもない。でも触れたら誰もが、マスターを、めしやを、常連さんたちを、一見さんたちをも、愛してしまうんじゃないだろうかと思う。そしてこの、深夜という不思議な時間、夢の中で起こっているような、でも何とも言えず人情がじわりとにじむ、この世界を。

前作がアジア各国でもヒットを記録したというのを聞くと意外なような気もするけれど、嬉しい。ハイテクやアニメも日本だけれど、これも間違いなく日本であり、その優しい価値観が確かにアジアに通底するものであるかもしれないと思うと、こういうところでつながっていたいと思っちゃう。
松岡監督はあんまり新作聞かないのが寂しいけど……でも、こんな素敵な企画に、映画化にまで関わってくれて、まさにその映画が映画!!なのが嬉しいんである。

オムニバスなので、一つ一つ行く。第一話は、「焼肉定食」。ヒロインは河井青葉。脱げる女優として信頼が置ける彼女だが、もう一つ、妙齢の女性のリアリティを演じられるという点でも、昨今まず頭に浮かぶ隠れた旬の女優(隠れたなんて、失礼かな)。
そこそこの年齢になり、キャリアも出来、キャリアだけじゃなく、仕事に対する誇りもある。でもいまだ……そういまだ、女は、日本社会においてこーゆー扱いなんである。

彼女は有能な編集者。でものぼせあがった若手作家や、頭の固いベテラン作家から「女が口出すな」と言われてしまう。つまり男は老若問わず、バカだっつーことである(怒)。
彼女はそのストレスの発散に、喪服を着て街をさまよい、そのシメがめしやでマスターにたっぷり愚痴を聞いてもらった上での、ガッツリ焼肉定食、なんである。

物語の冒頭、あちこちの葬儀場、火葬場から喪服のメンメンが集ってきて、そのカブりっぷりに絶妙に笑わせてくれる。お清めの塩をゆで卵に使ってよ、なんてね(笑)。
そこに現れるエセ喪服女に、まぁ、確かに美人で喪服も似合っててそそられるもんだから、常連客達は……微妙な盛り上がりを見せるんである。まあつまり、男はそそられちゃってるもんだからね。

本当の葬儀で佐藤浩市扮するイイ男と出会い、同業者であるという彼に頑張りを認めてもらって、すっかりいい感じになり、彼女の憑きは落ちたと思ったところが……まさかの詐欺師、香典泥棒!!ま、まさか、佐藤浩市にそんな役柄を振るとは!!
エピソードの最後に捕まり、腰ひもをつけられても調子よくしゃべって刑事にどつかれる佐藤浩市は妙に楽しそうだが、そこまではちゃんといつもの、渋くてイイ男の佐藤浩市だったのに!!

またエセ喪服女に戻り、ひと悶着起こしてレギュラー人物、おまわりさんのオダジョーに保護されて、駆けつけたマスターの前で泣き崩れる彼女は、突然の身内の不幸の連絡によって田舎に帰っていく……ところで運命の出会いをゲット、お坊さんと恋に落ち、ラブラブでめしやを訪れて、二人して焼肉定食を食べるんである!!

焼肉定食、利いてるんだよなあ。そうよね、そりゃあ佐藤浩市とならば、二人の仲を考えれば、その後のエネルギーになったるわ、みたいな(爆)。
恋愛にも、肉の要素が満ち満ちる。だからこそ失恋した彼女が起こした悶着が、ラブホ前の大喧嘩だったんだから。

でもお坊さんを連れてきて、おんなじメニューを食べてるのに、その意味合いは大きく違って感じられる。まず、今までエセ喪服と本物の喪服、どちらにしろ黒一色だった彼女が、白っぽいパステルカラー。
お坊さんも同じ色合いで、やっぱりお坊さんといえば肉はダメなイメージだが、まぁ現代ではそんなことはないことぐらいは判ってるけど、ラブラブな彼女と目と目を合わせて幸せそうに焼き肉を頬張る。

それは……なんつーか、まるで初恋を始めたばかりのように初々しく、それでもお互い大人同士だからそりゃ色々判ってるってのもあって、肉!!だった佐藤浩市との関係性とはやっぱりやっぱり、全然違うのだよなあ。

第二話。もう最近出まくりまくりの池松君。しかしお相手はおっとビックリ、作劇上では15歳年上、実際にもそれぐらいだと思われる小島聖なんである。
小島聖というのも、私的にはかなりお久しぶりな感じである。でも個人的にかなり好きな女優さん。割とエロい感じが好き(爆)。

でもここでは、たばこをすぱすぱやってる、もうトウが経った感じのOLのリアリティ。OLという言葉は好きじゃないけど、日本社会でそういうカテゴリに押し込められるタイプの、中小の中でも小さめの企業でうずくまっているベテラン“OL”という感じが、ああ、なんかたまらなくシンパシィ。
いや、こんな美人にシンパシィなんて言っちゃダメダメ、でも、こういう感じ、なんだもん、日本社会!

池松君は、ダルダルの青年、に、一見見える。それは周囲からもそうだが、特に母親からそう見えている。母親役はキムラ緑子。正直この二話は、ドリさんの独壇場、一人芝居と言ったっていいぐらいなんである。
冒頭、ダンナの十七回忌を終わってあー疲れた!!とばかりに飛び込んでくる。これまた喪服流れを一話目から引き継いでいる。

隣に座っているオカマバーのママからビールをふるまわれ、冷酒と板わさですっかり落ち着く。
更年期なのよ、あー暑い、とせわしなく扇子をあおぎ、客やマスターと自然と息子の話になる。ダンナとソックリなのは顔だけ。ピンポンばっかりやって、何考えてんだか。ぱきぱき言い募る彼女が、息子ベッタリの母親とは思わなかったのだが。

でもやっぱり、母親は息子が大好きなもんなのかなあ。やっぱりそうなのかなあ。
彼女にとっての姑が入院していて、いわゆる嫁姑のカクシツがあるかと思いきや、この姑はやわらかく理解がある人なのね。
勿論孫可愛さということもあるだろうが、ドリさん演じる義理の娘が、息子ラブで子離れできていない、それを「あっちが親離れできていない」と信じて疑わないことを、いや、向き合おうとしてないってことを、判ってて、ウフフと柔らかく受け止めるのが、イイんだよね。

だって結局、お互いで解決するしかない。姑は孫の味方であり、彼の言い分が正しい、というか、それが大人になったということ、というのが判っているからさあ……。
病室でのちょっとの場面なのに、姑の登場シーンが大きく意味を持つ。だって、結局おばあちゃんは明確に孫に加担する言動をする訳じゃないのよ。でもドリさんが折れたのは、自覚に至ったのは、やっぱりこの姑の存在があったから、なんだよね。

正式に紹介される前に(つーか、それを拒否ってた訳だけど)、めしやで偶然意気投合していた二人。さおりに対しては年下彼との恋愛を後押しする発言で盛り上がっていたのに、自分の息子のこととなると百パーセント真逆の矛盾を言ってることにまるで気づいていない。
この三人が鉢合わせる場面でのドリさんのはっちゃけぶりと言ったらもう……さすが名舞台女優!!と言ってしまえばそれまでというか、確かにそういう独壇場的な舞台っぽい大げさ芝居が面白いんだけれど。リアルシリアス芝居の若手二人がいてこその面白さなんだけど、もう、劇場中から大笑いが沸き起こる。今回、三話の中でも最もエポックメイキングなキャラクターだったんじゃないかなあ!

で、なんとなく言い忘れてたけど(爆)、彼女が守っているのは蕎麦屋で、ダンナが亡くなり、姑が倒れた今は女手一つで切り盛りしてて。
息子に手伝わせてる、という感覚しかなかったんだろうなあ。彼は恋人の存在があったせいもあるけれど、蕎麦屋を継ぐことをちゃんと考えていたのに、母親が自分を半端ものとしか見てない……それはつまり、いつまでも自分の手元に置いておきたい、いつまでも自分の可愛い息子、いや、どんどんダンナに似てくるという意味ではもっとやこしい意味合いであって。
で、タイトルは「焼うどん」。蕎麦屋の息子だけど、うどんが好きなのね、みたいな。

これというきっかけがあった訳じゃない。確かにマスターが、息子が打った、まだまだ未熟なマズいそばを彼女に食べさせるという判りやすいエピソードはあれど、彼女はその前から徐々に……判っていたに違いない。
のは、自分がダンナに惚れきっていた、最後の最後までそうだったことを、思い出したから。「さおりちゃんも、そうなのかな」ということに思い至ったから。

このそばはきっとさ、最後の最後、全てのエピソードが終わって、めしやが大晦日を迎え、常連客達が実においしそうにすするあの年越しそばが、きっとそうなんだろうと思わせる幸せがあるのだ。そして更に、そこに持ち込まれる、待ってました!!と拍手喝さいされるおせち。

それを持ってくるのが、前回の映画化第一弾で、今回と同じように複数あるエピソードの中でも一番の印象を残したタベちゃんである。彼女が前回から続けて名を連ねているのも、足を運ばせるだけの重要なポイントなんである。
彼女、みちるを自ら経営する割烹料理屋にスカウトした女将、マスターと訳ありげなイイ仲っぽい余貴美子の再登場もまた、しかりである。

みちるが関わるのは、“来て来て詐欺”に引っかかったおばあちゃん。息子を装った電話で“来て来て”と懇願され、息子の同僚と自称する男になんとまあ、200万円を渡してしまったおばあちゃん。
それだけ見れば、単純に、今ハヤリの詐欺に引っかかった高齢者、お気の毒、というだけの話なのだが、ことはそんなに簡単じゃなかった。そしてきっとそれは、こうした詐欺話のどれもが、千差万別の、簡単じゃない話であるのだろうと思わせる。

息子は、確かにいる。でも連絡先どころか、勤め先だって知らないのだ、このおばあちゃんは。だから詐欺じゃないかと指摘されても、本当に息子さんでしたかと言われても、それを確かめるすべさえ持たないのだ。
それはなぜか。彼女が運命の恋をして、夫と幼い息子を捨てたから。会えるわけがない、そのまま年をとり、この詐欺に出くわした時、でも息子はいるのだから、自分の息子はいるのだから、彼女は引っかかってしまった。いや、引っかかったのだろうか。

最初から彼女は、判ってたんじゃないのかという気もする。いやいや、そんなことはないか。義理の弟に告白するシーンで、おまわりさん(オダジョー)に聞かれた時に、ああ、騙されたんだと気づいたと言うんだから、それまでは判ってなかったのだろうとは思うけれど……でもやっぱり、捨てた息子が自分を頼る訳がないってことは、判ってたんじゃないのか。

こういう話は今じゃ珍しくもないんだろうけれど、自分にとってのおばあちゃん世代が、いかにもなおばあちゃんの姿で演じると、やはりドキッとするものがあるのは、やはりやはり心のどこかに、お年寄りというカテゴリー、それとセックスが結び付けられない偏見があるからだろうと思う。若い頃は、と必死に言い換えたくなるような。
二話目のドリさんが旦那さんのことを「最後まで惚れてた」というように、人は一人ひとり、人間として愛も恋も抱えてる筈なのに、ついついおじいちゃん、おばあちゃんと考えてしまい、お父さん、お母さんと考えてしまうから……許せないのだろう。

最後の最後、彼女は遠くから息子の姿を見る。すっかりパパになった姿、幸せな家庭を築いている姿を。それを実現したのはおばあちゃん子であったみちるの頑固さと心配と、何よりマスターの愛情であった。
みちると疑似祖母孫娘みたいな雰囲気を築き、みちるの故郷の新潟のお酒や、手作りの栗蒸しようかんでハートフルな絆を深めるのが、救いという以上の温かさ。

これは続編。第一作では、映画ファンにとっては初お目見えということもあって、マスターは極力狂言回し。それは本作でもそうだけれど、自分にとっての原点である豚汁定食が第三話目のタイトルとなり、彼自身にこれまでを顧みさせること、そして前作以上に余貴美子演じる女将とのもどかしい関係を、殊更にコミカルに装いながらも見せてくれるのには胸キュン。
詐欺犯人を追っている刑事と頼もしい若手の部下女子の張り込みエピソード、そこに登場するおいしそうなすき焼き、いや、全ての料理がおいしそうではあるんだけれど!

私の大好物は、オダジョー扮するおまわりさんが大好きでたまらない中華屋の出前娘。なぜ彼女だけがキャスト紹介に載ってないのだ、納得できん!めっちゃカワイイ、彼女が一番可愛いのにっ。雪とか積もっちゃってさ!!★★★★☆


シン・ゴジラ
2016年 119分 日本 カラー
監督:庵野秀明 樋口真嗣 尾上克郎 脚本:庵野秀明
撮影:山田康介 音楽:鷺巣詩郎 伊福部昭
出演:長谷川博己 竹野内豊 石原さとみ 高良健吾 大杉漣 柄本明 余貴美子 市川実日子 國村隼 平泉成 松尾諭 渡辺哲 中村育二 矢島健一 津田寛治 塚本晋也 高橋一生 光石研 古田新太 松尾スズキ 鶴見辰吾 ピエール瀧 片桐はいり 小出恵介 斎藤工 前田敦子 浜田晃 手塚とおる 野間口徹 黒田大輔 吉田ウーロン太 橋本じゅん 小林隆 諏訪太朗 藤木孝 嶋田久作 神尾佑 三浦貴大 モロ師岡 犬童一心 原一男 緒方明 KREVA 石垣佑磨 森廉 岡本喜八 野村萬斎

2016/9/15/木 劇場(楽天地シネマズ錦糸町)
そうです、私は、「ゴジラかぁ」と思っていたのです。庵野秀明監督だということは判っていても、予告編でちょっとざわりとしたものを感じていたとしても、やっぱりそう思っていたのです。それを、大ヒットしているからといって、あれれと思って観に行くなんてそりゃー、今更もろ手を挙げて大賞賛している自分がハズかしいさ。
一体皆はなぜ、「ゴジラかぁ」と思わなかったのか??公開一週目から既に第一位発進となったのは、「ゴジラかぁ」と思わずに駆けつけた人たちがそれだけ多かったということでしょ?なんでなんでなんで?皆どうやって本作がトンでもない作品であることを知っていたの?試写会とかの口コミなんて生やさしいことでは追いつかないような気がする。

でも確かに、今更な言い訳だけど、確かに確かに予告編でざわり、とは来ていたんだよなあ。それはゴジラの造形なんかではなかった。ゴジラはきっと、その誕生の時にはどれほどに日本中を騒然とさせたかは想像に余りあるのだが、その後はお子様映画の一途をたどって行った気がしてならない。いや、観てないんだから無責任なことは言えないけど。
そして単なる恐竜に成り下がったハリウッド版を経て、更にもう一度今度はゴジラらしいハリウッド版が作り直されるという、その間、誕生の国日本では手をこまぬいていた感は否めなかった。

後からのウィキ探りで申し訳ないんだけれど(だって、本作のオフィシャルサイトのストイックさと来たら、やる気がないのかと思うぐらい!クレジットだけとは!!信じられない!!!ウィキ頼りですよ!!!!それだけ自信があるということなのか……)、東宝としてゴジラの収束を図ったファイナルでは、本当の新しいゴジラ映画は今の技術では作れない、という結論からそうではないアプローチで作られたんだという。
本当の新しいゴジラ映画というのがどういうコンセプトだったのか、それをハリウッド映画が実現してしまったのか、そのあたりは定かではないが、それから一回りの年月が経って、実現したのだ、などと安直に言うことも確かにできる。それも言いたい言葉だけれど……でもそんなことじゃ追いつかないこの魅力は、ゴジラ映画であってゴジラ映画ではない、からなんじゃないのかなぁ、などとなんか判ったような平凡極まりないことを思ったり。

でも傑作が生まれる時って、きっとそういうことだと思う。ざわりとしたのはゴジラではなく、端的に言えば長谷川博己であった。実際の作品を観れば、彼をトップとした役者陣全員、と言うことが出来るのだが、同列に並べられたキャストが328人!という、豪華さ(個人的には川瀬陽太氏のドアップに感激!)で、本当に一人ひとり語りつくしたいぐらい素晴らしいのだが、長谷川博己の素晴らしさにはもう……。
でその素晴らしさを実に端的に示してくれた秀逸な予告編で、よだれがだらりと垂れるほど、彼の一瞬のスローモーションにざわりとしたのだ。一体彼がどういう役どころで、どういうストーリーかすら判らないまま。

なんかねー、最近ですら、こんなに技術が発展した最近ですら、あのディズニー映画ですら、「少年以外全員CG!」とか宣伝で使うじゃない?さすがに今、CGの凄さで観客を惹きつける時代じゃないんじゃないかと思うんだけど、CGにふんだんに費用をつぎ込むとそういうことを言いたくなるのかなーなどと思う。そしてそれがどんなにヤボなことかということを、それこそ特撮の代名詞であるゴジラ映画の“最新作”が示してくれているのが何より嬉しいのだ。
いや、そんなことを言うと特撮技術に見劣りしているようだが、とんでもない。日本の誇る特技監督、樋口監督が特技監督としてではなく、監督の一人として名を連ねているほどの力の入れようなのだから。

ただ、それこそ日本の特技=ファンタジー=お子様映画的な単純な変換を……そのジャンルをあまり好んで見ない向きもあって……やっちゃう輩からすれば、この樋口監督の名前も若干足を遠のかせている原因だったんだけどね!だなんて偏見極まりないんだけどね!!
とにかく、後述するけど(多分(汗))、決して精巧なCGばかりではない、日本で生まれ育った特技撮影の素晴らしさも圧巻で客を惹きつける要素には違いないのだが、やはり本作が人々を熱狂させたのは、これがゴジラ映画でありながらゴジラ映画ではない、日本の、日本人の、人間の、生臭くもやたらカッコイイ彼らの物語であったからであって、それを予告編から色気ダダ漏れの長谷川博己が端的に示していたんであった。

つまりさ、ゴジラという“巨大不明生物”と対峙する人間たち、いや、もっと絞って官僚たちの物語、なのよ。官僚たちの物語にこんなにもワクワクするなんて思ってもみなかった。いやいや、その、現在築地に勤める人間としては、官僚や政治家に苦しめられ、憎むことばかりで(爆)、こんな風に自分たちの命運を託す相手として信頼してないからさ(爆)。
勿論、そうした生臭さや歯がゆい部分も充分に表現されている。だからこその、長谷川博己という、年齢的にトップにはつけないまでも、内情がよく見えていて幹部たちの動きの鈍さに苛立つ、という絶妙のキャラクター設定である。

そして彼よりちょっとだけ年上で先輩の竹野内豊の、彼と同等の正義感も持ちながらそれよりはちょっとだけ老獪、といったスタンスも、この年齢までならギリギリ、色気として承認?出来るんである。
私たちが目にするトップの人たちははげちゃびんなおっさんばかりだけれど、実はこんな、精力絶倫、じゃない、でもなんかそう言いたくなるような男たちに支えられてるのかもと思うと、なんか胸がぎゅーっとするんである。

でもね、全然、台詞が聞き取れないんだけどね(爆)。私、ふと思い出したのよ。こういう、台詞を観客に充分理解させることを最初から放棄、というか、それこそを作品としてのスリリングの作戦にしている映画、あったあった、「クライマーズ・ハイ」がそうだったなあ、と思って。
いわゆる“業界内”ストーリー、違う業界だけど、業界ということで(?)その中での了解事項で、早口だろうが専門用語だろうがどんどん、ずんずん進んじゃう。で、全然聞き取れなくて、時には先の展開も読めないぐらいなのにめちゃめちゃ興奮する。
それはつまり、物語ありきとか、観客に親切(こびている、と言い換えることもできる)であることを放棄して、そこで生きて動いている物語が、もう尻尾もつかめないほど待ったなしなんだということを、凄く凄く感じさせて、なんかもう、胸が熱くなるどころか沸騰するばかりなんだということ、なのよね。

「クライマーズ・ハイ」の時も、その台詞をちゃんと判りたくて、追いかけたくて、作品自体に熱狂したこともあるけれど、リピーターした記憶がある。
「シン・ゴジラ」の大ヒットも、そうした背景があるんじゃなかろうかと思う。だって私だって、観終わった時どころか、観てる時からここ、これは、もう一度観るべきではなかろーか!とムズムズしたもん。

本当にね、観てる時には長谷川博己の役名さえ追いきれないぐらいなのよ。そうかそうか、確かに最後の方では矢口、という名前よね、となんとか判ったぐらい。
内閣官房副長官、そ、そんなに凄いポストだったのか。でも日本の政治システムは、庶民にはよく判らんからなあ。長くて仰々しいけど、実際はどこまでの力を持っているのか……。

劇中、専門用語が早口で飛び交う中でも、将来のナニナニなるポストを約束してくれればいいから、とか凄いやりとりされるし、実際は能無し政治家(総理までも!)とその黒幕とかいろいろ出てくるみたい(みたいって言ってるあたり(爆))だし、すんごく政治の実際の生々しい感じがこの非常事態の中でもやり取りされるスリリングがある。
のだが、なんせ普段無知で関心薄く、大臣の肩書とかほとんど判んないもんだから(爆)。映画観終わってから、矢口が二世だったことを知ったぐらい(爆爆)。そういえばそんなことを米国特使の女性もそうだとか言っていたような気も(爆爆爆)。

この米国特使というのが石原さとみで、官僚、政治家リアリティを追求している中で彼女は……追及してはいるのだろうが、英語発音妙に流暢カタコトな感じの唇分厚い美人、というのが、イイ感じのわざとらしさというか、マンガチック美女で、ちょっとホッとしちゃう感じ。
彼女を見ると私は吾妻ひでおが彼女を描いたイラストを思い出すのよ。あのぽってり唇が吾妻ひでお的美少女にめっちゃマッチして、今回のこのフィクショナルな美女がもうそんな風に見えて仕方なくて。

とか言いつつ、実は本作に足を運んだ直接的な理由は、石原さとみではなく違う女優、市川実日子嬢の存在なのであった。彼女の演じたオタっぽい専門家(というか、彼女も環境省の中の役人ではあるんだけれど)が評判を呼んでいる、という記事を見たから。
そらー、彼女のことを映画の中でずっと見続けてきたこちとらとしては、そういうちょっとぶっきらぼうなチャームこそが魅力であることは今さら感があるのだが、なんかちょっと嬉しくなってしまったもんだからさ。

で、彼女目的に足を運ぶと、それこそ石原さとみや、やたらきっぱりカッコイイ防衛大臣役の余貴美子(こういう女性政治家が理想って感じまるまる!)とか、数少ないながらも、少ないながらもピリリと魅力的な女性たちに嬉しくなっちゃうんだけどさ!
あ、徹夜続きの彼らに手作りの差し入れをする、食堂のおばちゃんみたいな片桐はいり氏も、ああ彼女!!って感じがして癒されまくったしなあ。
もうね、そんな具合でキャストのことを言いだしたらキリがないのよ。すべての人を言いたくなるが、結構疲れてきたので(爆)。

それでなくてもキッパリしなくて、周りからの圧で決断を決めていた総理の大杉漣氏も面白かったが、ヘリで脱出するところでゴジラの光線にやられて側近もろとも死亡!
代理で指名された平泉成の、彼のキャラクターがそのまま出たような(爆)、むりやり押し出された頼りない政治家の感じとかサイコーで。でも彼は自ら捨て駒になったのだよね。それが明らかになるラストで、しかも特に姿を見せずに、ってとこがカッコよすぎる。平泉成のくせにっ。

で、そう……キャストのことを言いだしたら、キリがないので。かといってゴジラを倒す展開を言ってももうそれは、圧倒的な緊迫感の描写を文字で表現なんてできっこないし……。
ただ、そう、庵野監督なんだもの。私、エヴァ熱狂時代もあったし(すみません、最初だけだったんだけど(爆))、彼の実写映画作品は、まあこれまで本作含めてたった四作だけだけど(爆)どれももれなく大大、大好きなのよ。
特に「式日」にはハマりまくって、「明日が私の誕生日なの」とつぶやきまくった過去があり……。そうそう、「キューティーハニー」の市川実日子嬢がキューティーハニー以上に超キュートで、萌えまくったことを思い出した!!庵野監督、市川嬢主演で何か撮ってくれないだろうか。

で、だから、これは言い落す訳にはいかない、エヴァの存在。エヴァファンじゃなくったって当時席巻したエヴァワールド、あの腹に響く、そしてシンプルな旋律のドラムビートが、本作の中にも実にくすぐる感じで配置されており、ああ、エヴァエヴァ!!とグッときまくり。
それでなくても人物の名前や肩書、会議の名称、経過等々をあの白字明朝体でバッ!と示してくる感じ、もうエヴァそのもので、ここ、これは、知ってる人を喜ばせるだけで、い、いいのか??と心配になるぐらい。いや、そんなことは関係なく充分カッコイイんだからいいんだろうが!

でもこの明朝体クレジットもそうだし、専門用語でやたら早口の台詞もそうだけど、海外展開する時どうするのかなあと思って……。この漢字クレジットの感じも、聞き取れないぐらいの専門語早口も、すべて合わせての本作の魅力なんだもの。それこそハリウッドに送り込むときに(一応、限定ながらも上映があるみたいだし)どうするのか……。
そしてもちろん、あのオリジナルの伊福部昭大天才によるゴジラテーマも。そもそも最初から、今の東宝キラキラマークから、少し色調の落ちたレトロな、あの頃の東宝マークに切り替わり、まさに往時を思い出させるタイトルクレジットの肌合いというか、もうなんとも、これはさ、日本人しか判らない感覚かもしれないけど(それも、それなりの年齢の日本人がさ(汗))、なんかもう、この涙が出るオマージュ感が、もうもうもう!

エヴァなんだよねと思えば、あの日本的乗り込み一体型ロボットの、巨大さといい自分の意思でどうにもならないところといい、だからこその魅力といい、手の付けられない存在となっていくゴジラが、エヴァに思えて仕方なかった。
劇中、「ただ、歩くだけなんですよね」とゴジラの行動予測に困惑するのも。攻撃してくる悪の相手とかじゃなくて、人間が生み出した放射能というものが生み出したのかもしれない存在、という社会派要素は、ゴジラが生み出された半世紀以上前に確かにあったことなのだもの。

ただ歩くだけのゴジラに攻撃を仕掛けると、彼?は身を守るため?に攻撃(と彼?は思ってないだろうけれど)を本能的に発する。
あまりに巨大で、歩くだけでなぎ倒していくこの巨大不明生物を駆逐するしかない、そのために核兵器使用という難題が持ち上がり、国際的な駆け引きがおこる。この神の化身(石原さとみ扮する米国特使が言うところの)の出現によって。

一番驚いたのは、ゴジラが登場というか、陸に上がってくる最初のシーン、え?これがゴジラ??なんか可愛くないし?這いまわってるし、安っぽいんですけど!という、造形の違いだった。
可愛くないとか思うのは、先述のようにゴジラがシリーズを経てマスコット化していったことによるのだろうけれど、登場の、ガラス玉の目を埋め込んだような、それこそ日本伝統の特撮技術の怪獣!!みたいな表情の這いまわるゴジラ幼少期にショックを受け、これじゃ海外に出した時にナメられるんじゃないかと思ったのだが……。
成熟?したゴジラはまさしくゴジラであり、しかも、半世紀前のデビュー時を思わせるまがまがしき、神の化身と思わせるそれであって、ここまでの進化を見せるせいだったんだろうとは思うが……。ちょっと、ビックリしたなあ。

ゴジラは死んだ訳ではない。凍結させただけ。核兵器による攻撃を阻止するために矢口達プロジェクトチームが決死に編み出した、ゴジラの血液を凝固させる作戦。ゴジラはまるで冷凍状態のように固まり、そのまま動かなくなった。その尾っぽには人の形をした分裂化した生物が生じかけている。
これは……こんな凄い作品を作り出したのに、この後をもくろんだ結末なのか。でもこれは、この後は、相当ハードル高いぞ! ★★★★★


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