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ジ、エクストリーム、スキヤキ
2013年 111分 日本 カラー
監督:前田司郎 脚本:前田司郎
撮影:平野晋吾 音楽:岡田徹
出演:井浦新 窪塚洋介 市川実日子 倉科カナ 黒田大輔 西田麻耶 内田慈 安倍健太郎 高良健吾
あれが、死にきれなかった、という状況ならば、それは結局、“トラックが通り過ぎたら姿が消えていた”という画的な魅力に負けた故の失敗に思えてならない。
いや、これが自殺未遂だと判んなかったのは私だけかもしれない。でもそれがどの時点のことなのか、ハッキリしないと思ったのは、それこそ私だけなのかなあ。
このオープニングの次のカットではもう、彼はノーテンキに大学時代の友人、大川を訪ねている。あまりに様子が違うから、あのオープニングがその後なのか前なのか、判然としない。最初に示していても、実は中盤のクライマックスシーンだという構成は、特に最近の映画にはありがちなんだもの。
それからしばらくは、ノンキな友情回復シーンに費やされ、それなりにほのぼのしているうちに、私のようなアホは冒頭シーンも忘れてしまう。
ていう絶妙なタイミング(まあ確かに、絶妙だった)あたりから、また頻繁に、あの落下の後の続きシーンが断続的に挿入されてくる。
???と思う。時間軸の前と後で、解釈は全く違ってくるし、どっちで解釈してみればいいんだろうと、焦りとコンランに見舞われる。
んでもって、そのノンキな友情回復シークエンスがほのぼのと、それなりに盛り上がって収束に至りそうになるあたりで、洞口は劇痛にうめきながら元の車の位置までたどり着く。
そう、大川や、大川の彼女や、洞口がひそかに好きだった大学時代の友人、京子と行き当たりばったりの海へのドライブ、ショボい旅館で一泊、公園でスキヤキ、に出かけた時代遅れの狭苦しいボロ車で。
キーアイテムの文庫本もこぼれ落ちる。京子が「私が読みかけだった本だ」と驚いて手に取る本。
もう、こうなっちゃうとさ、時間軸がどっちか判らないとさ、どっちでもないのかと、夢オチかと、あるいは彼以外全員死んでるか、彼が実は死んでるか、そーゆーことなのかとか訳判らん!と思って。
しかも話の中に出てくる、大学時代に死んでいるらしい友人、峰村のことも、思わせぶりに写真や話題にちょこちょこと登場させるだけで、その真相もハッキリしないまま終わる。
いや、その点については別にいいのよ。何となく推測はされるし。
でも別にいい、と雰囲気を寛容に受け止められるのは、やはり洞口の行動の謎、時間軸の不明確さがなくてのことだと思う。バカだと笑われてもいいよ、判んないんだもん!!
……うーむ、自分のドンカンさを棚に上げて怒っているだけと言われれば、それまでだが。
でも、それこそ言い訳になりそうだけど、てか言い訳だけど(爆)、どーも舞台出身の作り手とは相性が悪い。
本作の監督さんは今回が映画監督初挑戦だそうで、別に舞台ベッタリという訳ではなくって、小説とかドラマとか、いろんなフィールドで活躍してらっしゃるみたいなのでね。
でも私は、どーもこと映画に関しては、舞台系を持ち込まれると身構えてしまう。
こう言っちゃなんだけど、舞台の人って、映像を軽んじるまでは言わないけど、舞台こそ最高、って言いがちだからさ。んでもって、舞台原作だと舞台くささをそのまま持ち込んでしまう……。
やっぱり舞台は、台詞が勝負だと思う。軽妙な台詞、聞かせる台詞を書く脚本こそが生きる。
それ以外にも色々特性はあるけれど……とにかく、舞台、映画、ドラマ、それぞれにフィールドが違うのよ。演出の仕方や、構成の仕方は違ってきて当然だと思う。
本作は舞台が最初という訳ではないのかな……自身の小説の映画化、ということなんだろうけれど、小説がどうなっているかは未読ながら存じ上げないけど、私のよーなバカな観客も少なからずいるんだから(と他の観客に責任転嫁)、やっぱり構成は大事だよ!
そう、構成は大事……なんか物語の骨子を言わないまま言っちゃってるけど、まあいいさ。さっきちらりと言ったもの。
大学時代の旧友が突然再会して小旅行、当時死んでしまった友人の記憶を介しながら、大人になりきれないままここまで来た30代半ばの青年男女がちょっと早めにいったん人生振り返る、みたいな??
で、そう、構成は大事。本作はね、自身の小説を自ら脚本、監督したんだから、それはそれは、映画としては理想的な形。先述したけど、小説も舞台も映画もドラマも、演出も表現の仕方も文脈も何もかも違うのだから。
昨今、映画だけで成り立つ作品がひどく少なく、有名原作の小説やら漫画やらドラマやらに引きずられてしまう。使うワザが違うのに、そのまんま使ってガッカリすることばかりが続いていた。
そういう意味で言えば、小説というフィルターを通しながらも、それを自分の手で映画にするのならば、最初のアイディアから映画に直結したと言ってもいい訳で、そりゃちょっと、期待しちゃうじゃない。
でもでも……。うー、あのね、本作は、一番、観客が足を運ぶ動機になったのは、ARATA改め井浦新と窪塚洋介の「ピンポン」以来11年ぶりの共演、しかも「ピンポン」同様のがっつり、両主演と言っていいほどの共演、、てことに他ならない訳よ。
この前田氏が人気クリエイターであるということは、相変わらずの無知にして知らんかったが、フツーに単純に映画ファンやってたら、この動機以外にはありえない。
実際、予告編でARATA(この場合、どうしてもその旧名で言いたくなっちゃう)と窪塚君(そう、この場合、今でも君、と言いたい)のツーショット掛け合いは本当にワクワクした。まさか本編でこんなにぐったりさせられるとは思わずに(爆)。
うーん、なんだろ、なんだろなんだろ。とりあえず最初の一点としては、ARATAが居心地悪そう(爆)。こーゆー、行き当たりばったりで、人任せで、オロオロして、自分勝手なキャラが、しっくりこない(爆爆)。
まあでもそれは、後から事情を知ってみれば(うー、判るの、判るの?たいていの人はっ)、彼がムリしてそういうキャラを作り上げてるのかも、と思えないこともないし、実際劇中、大川と京子の何気ない会話の中に、「変わらないようなフリをしているのかも」とドンピシャの指摘も出てくる。
でもそれは、それこそ、あの自殺未遂と時間軸が観客に(ていうか私に(爆))ハッキリと認識されなければ難しいよ……。
確かに、確かに、ARATAと窪塚洋介の共演はワクワクした!ARATAはその後、順調な俳優人生を送り、窪塚氏は人気がありながらも実人生とスキャンダルに群がる外野に、悩まされていたであろうゆえのブランクがあり、その時を経てあの二人が……という魅力は確かにあった。
窪塚氏は、劇中で皆に言われるのを待たずともビックリするほど変わらなくって、重ね着したパーカーのフードをかぶってブラブラ歩く風情なんて、いかにも窪塚君、って感じだった。レトロなカーリーヘアも似合ってた。
窪塚君とARATAは皮膚が薄そうコンビ、なんて勝手に思う。窪塚君の皮膚の薄さは、そのまま年を取ってない雰囲気。
劇中、洞口と京子から、「本当に変わってない、確かになんか、デカイことをしそう。具体的な何かじゃなくて、抽象的な何か」と言われるのはほおんと、窪塚君、ポイんである。
久しぶりに再会した洞口の前で、さしたる明確な目標や、それどころか意欲もないままに、黙々と、と言うといい言い方に聞こえるが、漫然と大きな木片を削っている大川。
弓を作ってるんだと最初は言い、恋人からブーメランだと言われるとあっさり変更する。とても戻ってきそうもなかったのに、海に向かって放った“ブーメラン”はあっさり帰ってくる。
そう思えば、洞口のスケボーは帰ってこなかった、とつい図式に当てはめてしまう。
15年ぶりに大川を訪ねた時から、乗れないスケボーを持ち歩いていた洞口。「秋葉原じゃね?いや、かっぱ橋だよ!」というダラダラ歩きの最中に、立ち寄った仏具屋に忘れてきてしまったのだ。
翌日、遅ればせながら洞口が訪ねても、もうスケボーはなかった。
だからね、つい蒸し返しちゃうけど、このあたりから夢オチ的なことを疑い始めちゃうのだ。洞口がスケボーを取り戻しに行く場面もないし、仏、というのもなんとなく勝手に想像したくなる。
仏具屋になぜ足を止めたのか。ロクな知識がないのに、小さな仏像を買い求めたのはなぜなのか。もう彼が死んでるか、周りが死んでるか、どちらかとか思っちゃう訳!
んでね、この“秋葉原”のシーンで突破口を開いたんだけど、ドキュメントタッチを狙ったのか、会話シーンをカット割らずに撮る、んだよ。
特にこの、かっぱ橋?でのシーンが最初ゆえに特徴的に感じるんだけど、これがなんかもう、見てられないの(爆)ワザとらしすぎて(爆爆)。
なんだろなあ……ARATAだって窪塚君だって、演技バッチリ、ドキュメンタリー風にも対応できるだけの役者の筈。ことにARATAはデビュー時、それを是枝監督に叩き込まれたのだから!(って、古すぎる例えか、スマン)
なのに、なのになのに、仏具屋に至るまのちょっこし長いワンカットがつ、辛かったなあ。
お気楽さ、ダラダラ加減、空気の読めなさ、とにかくヒマであること、そんな二人が、映画用カメラを物色しに秋葉原に訪れた……筈が、ここはかっぱ橋。そんな脱力クスクスもある筈なんだけど、難しいんだよなあ……。
カット割らずの会話の応酬は、後から思えば仏具屋までの距離を測っていたのか知らんけど、なんか二人のテンポがバッチリはまらない。芝居をしながらお互い、あるいは自分に気を使い……みたいな薄い気まずい感を感じちゃう。
こういうところこそ、映画演出の腕なんだと思う。こう言っちゃなんだけど、あらゆる点において机上の空論のように思ってしまう。勿論、映画においてのみのことだけれど、だからこそ、大切にしてほしい。
瞬きするような間さえも、大きく関わってしまう。既に作り上げられている作品を観る映画ファンからも、そんなほころびが見えてしまうことは、結構よくあるんだもの。
そう、窪塚君は、それこそ窪塚君まんま、という感じだった。相変らず赤ちゃんみたいな柔らかそうで、白くて、美しい肌に、明るい色のカーリーヘアー。
いつか映画を撮りたいから、とバイトしてる居酒屋の店長の話を断り続けている。
そして、ずっとずっと疎遠になった同士の、旅行がはじまる。
京子がね、一見、瞬時に打ち解けたように見えて、でもそれが芝居に他ならないよね、と思うのは、全ての女子にとっての歯がゆいポイントだけど、どうなんだろう……。
一見、女は選ばれる特権、セックスにおいてだけだけど……があるのかな、と思う。京子は洞口と付き合っていたのか、峰村となのか、大川も実は京子のことが好きだった、みたいな楓の台詞もあるし、まー、男子が考えそうな、紅一点ヒロイン群像劇。
京子は選ばれる特権と、自ら選ぶ特権も持っている、凡百の女子からすれば憎々しい存在だけど、なんたって自然派市川実日子だから、そうは見えさせない。
そういや、京子の勤める小さな(多分。勤め先での場面は部長の葬式、というところでしか出てこない)で、たった一人の同性の同僚に、「(その煎餅をしょっぱいと言うなんて)あんたやっぱりロハスだね」なんて言われるシーンがあって、なんだそりゃと思ったけど、なんか判るような気もした。
自然派さらりの彼女はきっと、洞口や大川以上に外見的には変わっていなくて……でも変わっているのだろう。
15年間、峰村のことを忘れられずにいる。というか、見た目は後悔しているように見える。
観てる時には彼が自殺したなんてことは判らないけれど、彼女からはそんな忸怩たる思いを感じ取れる。
職場に、恋人なのかそうじゃないのかよく判らないテキトー系の男がいて、勘違いされちゃ困ると、「結婚とか考えてないから」と京子が言うと「え?結婚?僕と?え、いいよ、結婚しようか」とか言いやがるウザイ男。
同僚が言うように、京子は実はこの男のことを好きなのかもしれないが、単に作劇上で面白くさせるだけの存在かもしれん。判らん。
喫茶店の四人掛けで、なぜか向かいに座らず隣に座るとか、こういうところもついつい舞台くさいとか思っちゃう自分がイヤ(爆)。
もう一人の女子、大川の恋人である楓は、メンツ的には男と女二人ずつだけど、ただ一人、この輪の中から外れている。
どんなに苦い思いを抱えていても、15年ぶりに会った三人寄れば、どうしても思い出話に花が咲く。楓をハブにしている訳じゃないんだけれど、どうしてもそんな雰囲気になってしまう。
しかも楓は、「私、友達いないから」と言い、友達になった、とさらりと言う京子に目をむいて驚き、控えめに喜ぶ。
「男友達ならたくさんいるんだけれども」という彼女の台詞に京子はへえ、とこれまた控えめに驚くけれども、この台詞が楓のキャラの何をどうしたいのか正直判然としない。
大川は、楓が先天性の難しい病気で「あいつ、死ぬんだよ」とあっさりと言うし、そのせいでいわゆるフツーの学校生活が送れなくて、友達が出来なかったのかなと思っていたところにこの台詞なので、うーむと思ってしまう。
病気の自分に同性は距離を置き、男は群がってくるということなのだろーか。いやいくらなんでもそれはうがちすぎか、うーむうーむ。
でも、楓を演じる倉科カナ嬢はなかなか面白かった。この、一人ハブにされる独特の雰囲気が良かった。
こういう経験、多かれ少なかれ誰もがあると思う。ここまで決定的じゃなくても、あると思う。
きっと楓は多かれ少なかれ、ずっとずっと、こういう経験ばかりだったんじゃないかと思う。
車中の場面が多いんだけど、隣にいる自分の恋人が居眠りこいてても、運転席と助手席の洞口と京子の思い出話には目を見開いて耳を傾けていたりする。
窓にもたれかかっている楓のぼんやりとした顔が、助手席の隙間から自然と覗いているのが何とも言えないんである。別に聞き耳立ててる訳ではなく、興味本位という訳でもなく、ただ黙って聞いている、一人蚊帳の外の楓が、私には一番印象に残ったなあ。
あ、そうそう、まず目的地の海に着いた時に、「私、海って初めて見る」と言って他の三人に驚かれるシーン。ことに京子に「高校とか大学とかの友達とも遊びに行かなかったの?」という純粋な疑問の言葉は、実はものすごく残酷だったんじゃないかなあ。
「私、友達いないから」の即答だったけど、なんか私は胸が痛んだんだよね。この時ばかりは京子をロハスだなんだと持ち上げる気にもなれなかった。やっぱりあんたのような女には判らないんだよと、思ってしまった。
私が何かとイライラしているのは、結局そこんところもあるのかも(爆)。
恋人の大川はそんな彼女のことを理解しているとは思うけれど、どうなんだろう……。30もとっくに過ぎても、学生時代からのバイト生活を続けてて、店長になれと言われても、えー、でも俺、映画撮りたいし、とか言ってるよくいそうなヤツ(爆)。
しかもそんなこと言いながら、映画撮るカメラって、どこで売ってんだろうとか言って、秋葉原に出た筈がかっぱ橋だったという先述のオチ。映画ファンとしては微妙にイラッとくるんである。
確かにね、何となく印象的な台詞は色々ある。切った筈の縁は会ってつなげるとかね。でも、脱力系の中に忍び込ませてリアルに聞こえさせるみたいに感じて考え直すと、ちょっと出来過ぎな台詞のようにも感じてしまう。
なんていうか……それこそ劇中であった台詞なんだけど、「俺って、センスいいだろ」まんま直球なのよ。これは、峰村が京子に教えたムーンライダーズは、実は洞口が峰村に教えたバンドなんだという車中の思い出話のくだり。そう、後部座席で楓がしっかり聞いている。
俺ってセンスいいだろ、っていうのを峰村がアピールしていたから黙っていたんだと、洞口は京子に言う。
まあそりゃ、ムーンライダーズはセンスいいんだろうけど、それもまた押しつけだ。興味のない人にとってはどーでもいいことだし、年代的にちょっと昔のこういうバンドを知ってるってセンスいいだろ、てな感じも、その年代をかすっているおばちゃん世代としてはなんとなくこっぱずかしいのだよ。なんか、なんか……。
つまり、相性が良くないということなのだ、と困るとすぐそういう結論にしちゃうけど!!
あ、ところでスキヤキは、別に豚でもいいんじゃないの。ラムすきとか鶏すきとかなんでもあるじゃん。何の肉でも、いいじゃん。肉どころか今はかにすきとかもあるしさー。
それにクライマックスと言える公園でのスキヤキシーン、あんまり美味しそうじゃなかった……。てか、卵は?生卵につけて食べることこそがスキヤキだよね??
なんかつけてなかったような……気が……する……。だとしたら、あれはスキヤキじゃないっ!……でも記憶、さだかじゃない(爆)
でもでも、スキヤキは、最後のうどんorおじやまでがスキヤキだもんっ!(とにかくイチャモン)だってだって、美味しくなさそうなんだもん……。★★☆☆☆
こういう議論をする場合、そりゃ当然死んでしまった子供たちが最も哀れむべき存在で、死んでいい理由なんて何一つなくて、それなのに母親を擁護するのか、という方向に行っちゃうもんだから、それを恐れるあまり、言えなくなってしまう。
言えなくなってしまった結果、こんな単純なバッシングになるのか、それとも“なぜそうなってしまったのか”を本当に考えてもいないだけなのか、それすら見えなくなる。
あの事件が起きた時、こうまでまるで変わらない日本の社会、日本の福祉、女性の立場……であれば、そりゃいつかは起こってしまう事件だっただろうと、思った。むしろ、なぜこの異様性に目を向けないんだろうと思った。
彼女はこの罪を隠ぺいすることはいくらだって出来た筈だ。ただ子供を閉じ込めて、ガムテで目張りまでして、何日も帰らずにいたら、そりゃそんな事態になるのは目に見えているんだもの。
結果が見え切っていることをした彼女に、……これは単純な心理分析みたいになっちゃうのかもしれないけど、ただただ、見たくなくて、蓋をして、密封して、見えなくした、んじゃないかと思った。
まるで子供が、汚いものを箱に入れてしまったり、やりたくない宿題を机の奥にしまい込んでしまったりするように。
そんな、いつかは判ることが判り切っていることをやってしまうほどに、追い詰められていたという風には、世間が見なかったことが、本当に不思議だった。だってこんなん、鬼畜というよりバカじゃん、頭悪いじゃん、って。鬼畜ならもっと頭働かすよ、って。
だからそう、今のままの社会では、いつかは起こった事件だったし、その事件から何も学ばぬままであれば、第二、第三の事件は起こるに決まっていて、そしてそのたびに、いまだ日本の社会もマスコミも人々も、それこそバカの一つ覚えのように母親を糾弾する。
私のように、最初から結婚も子供を持つこともノンキに放棄している向きにとっては、なかなか言いづらいところは確かにある。でも、自己弁護みたいでヤだけど、だからそういう女たちもまた増えてるんじゃないかと思う。
子供を産んだら、母親となることを強制される。そりゃ、産んだ子供は可愛いだろうと、想像はするけれども、もしかしたらそうじゃないかもしれない。あるいはこうした過酷な環境が、産んだ子供を愛することさえ難しくするのかもしれない。
大体、なんでその葛藤の中に、男は入ってこないの??もうずいぶん前から思ってた。正直言えば、子供の頃から思ってた(爆)。凄く凄く、不公平だ、って思ってた。
子供を産むことができる女という存在を確かに凄いと思いつつ、その価値観でもってがんじがらめにする、褒め殺しにして縛り付ける、そして男は自由に生きられる、そんな社会に見えてガマンならなかった。
……どうも、自分の文句ばっかりで、作品自体の話になかなか行けないけれども。
で、そう、本作。私は初見の監督さん。若干自虐気味なプロフィールに彼の性格が見えるような気がしたけれど……。しかし、彼??お写真は妙に中性的な雰囲気。確かに柔軟な感性を持っているように見える。
プロダクションノートで、妹がシングルマザーで苦労した様子を見ていたから、あの事件に対する世間の反応に疑問を持ったとあった。なるほどと思う。男性でも、身近にそういう例を見れば、違った考えを持つであろうと思う。
そうだよなー。シングルファザーはもともと少ないし、シングルファザーとなると、じゃあ母親はどうしたの、って必ず言われる。つまり女側にはいつだって証拠が残っちゃうのだ。男の証拠は残らないのにさっ。
……また元に戻っちゃいそうだから軌道修正。でね、そうそう、本作は、あの事件をそのまま再現した訳では、ないんだよね。私そうだと思って見ていたから、この女の子が最終的に力尽きてしまうのを、半ば待っているような状態で見てしまって、それこそキチクなんだけど(爆)。
でも、せめてこの子だけは、この子だけは助かってくれないだろうかと、心のどこかで願っていたから、母親が帰ってきた時、意外ではあったけど、ホッとした。
良かった、良かったねえ、と思ったが……ママ、ママ、とまとわりつく女の子を黙殺、とっくに息絶えてウジが湧いてる息子を淡々と処置し、女の子をお風呂に入れた……と思ったら、見切れた場面で激しい水音。
……殺した、か……。
それにこの息子の死体も、ひょっとしたら洗濯機に入れて回した??なんか見切れ描写で想像を喚起させるようなところが沢山、あるんだよね。
あからさまに見せない“センス”が逆に、観客が気を回し過ぎちゃうような怖さがある。
死んだ子供たちを目の前にして、ずっと編み続けていた赤いマフラー、その糸の先の編み棒を自分の中に突っ込む、突っ込んでいたように見えた、喘ぎ声のようにも聞こえた先には、悲鳴だったと思う。
あれは、子宮を、突き破っていた、の??そんな風に考えるのはそれこそ、観客の気の回し過ぎ??子供を産みだしてしまった自分の子宮をぶち破って終わり、終わらせたということ、というのは、……私ちょっと、見誤ったかなあ……。
と、いきなり結末モードになってしまったのは、良くない良くない。もちろんここに至るまで、壮絶な展開がある。
……といっても、ずっと、ただ、見つめている。淡々と見つめている。しかも舞台はこのマンションの一角だけである。そこから一歩も出ない。
それはきっと、子供たちの視点なんじゃないかと思う。マンションのひと世帯だけでも、子供にとっては充分な社会環境である。
部屋が区切られ、子供たちの入らない部屋になかなか帰ってこないお父さんが一度きり帰って来て、そして永遠に出ていく。
一見優しそうな若いお兄ちゃんがいちごの乗ったケーキを持ってやってくる。ママに覆いかぶさって何かをやっている。
それを幼い弟相手に、無邪気にマネしていると思われる描写が衝撃である。弟の腹を噛んだりして……。
女の子だから、ママの化粧道具やきらびやかな服や靴にも興味を示す。そう、風俗で働くようになったから、服や靴も結構スゴい感じで……。
それをアッケラカンと彼女が笑い飛ばせればよかったのに。そう、そうできる社会なら、良かったのに。
最初のうちはね、すんごくいいママなの。ていうか、絵に描いたようなできたママ。ロールキャベツにオムライス、きちん、きちんと美しく食卓を彩って、子供たちへの対応もザ・ママ、って感じで完璧。
エプロンをして、ナチュラルメイクで、パパ遅いね、なんて言い合って。完璧なママと可愛らしい子供たち。
でも次第次第に様子が違ってくる。まず、彼女たちが全く外に出ないことに気づいてくる。
家に寄り付かない夫とのやりとりはまあ、今の時代ならある描写かな、と思うが、そう簡単に思ってしまう時点で、もう日本人の家庭の価値観は崩壊しているのだ。もうその時点で行き場のない“ママ”は生きる術をなくしてる。
“ママ”は、見事な遠足のお弁当を作る。本当に、見事。日よけの帽子をかぶって、ビニールシートを広げて、……でもそこは、いつものマンションの中なんである。
外に出ていけないのは、いつか“パパ”が帰ってくるかも、と思っているからなのか、それとも外のコミュニティとつながりがないからなのか……。
高校時代の友達が訪ねてきて、判りやすくイケイケな感じの子だっていうのはちょっと笑ってしまうけど、「夜、やればいいじゃん。結構いるよ、子供持ってやってる子」とこの友達はこともなげに言うんである。
確かに女が手っ取り早く稼げる場所。それまでは医療事務の資格の勉強などをしていた彼女は、心揺れる表情をしているけれど、次のシーンでは子供を置いて夜の仕事に繰り出している。
それまでは一日中子供たちといたのが、資格の勉強をし出して、そして仕事に出ていく。つまり……夫は本格的に出て行って、お金も入れなくなったと思われるんである。
……ほんっとうに、男っつーもんは、簡単に責任逃れ出来ていいよねっ、と、だから男はいいと本当に思ってる訳でもないのだが……。
そしてそして、“女なら、いくらでも稼ぐ方法はあるだろ”的なこの視点が、21世紀になった社会にもなお存在することに戦慄するんである。
ホント、いまだに言われるもんね。仕事がない、お金が稼げないとこぼす女性に、この言葉を簡単に投げつける風潮。
甘い考えしてんじゃないよ、とか、自分を捨てればいくらだって生きていけるとか、覚悟がないとか、本当に、簡単に、そう、言うの、女に対しては、言う訳!!
でもそうやって、ギリギリの選択をして、それでもこういう結果にならざるを得なかった彼女に対して、世間はまた、フーゾクなんてやってる女は、とか言うのよ!!!
……なんかまた脱線しそうだから軌道修正。でね、最初は見事な料理の腕前を披露していた彼女が、段々と出来合いのお惣菜を買ってくるようになる。
でもそんなの、全然いいんだよ。付け合わせの野菜は自分で用意したり、してるんだもの。でもこれって、凄く判りやすい転落の図、なんだよね。最初、何もかも自分でやっちゃってたから余計に、転落しやすい図、なんだよね。
今の世の中、こうした便利な側面を上手く利用しない手はないと思ってる。恥ずかしながら私も、まあ独り身の言い訳で、出来合いのお惣菜にはお世話になってるクチ。それの何がいけないの、と思う。
時々は自分で作って、ああやっぱり自分の味の方がいいなあ、とか自己満足に陥ったり、でもやっぱりプロの味は間違いないなあ、とホクホクお惣菜買ったり、それでいいんだと思う。
冷凍、レトルト、バンザイ!!今、ホントに美味しいよ!企業努力ハンパないもん!!だからこれを転落の材料にしてしまうと、それこそ企業努力が無になる、なんてヘンな言い方??
でもね、でもね……なんか、いまだにお母さんの味礼賛、っていうのって、どうなの、って思う。きちんとやってるお母さんたちホントエライと思うけど、エライ、という価値観をずっとずっと押し付けていっちゃったら、どうなのだろう。
エライと言われたお母さんは、次の世代にもそのエライを求めちゃう。同じ同性として、苦労した筈なのに、なのにそれをまた求めちゃう。同性すら、このゆがんだ社会に加担している。
娘からの再三のオムライスリクエストに、最初はにこやかに答えていたのに、最後の最後に、「……えー……。チャーハンでいい??」とめんどくさそうに返し、娘は明るくいいよ、と答えた。
しかし山盛りのチャーハンを出した後、ママはふっつりと帰らなくなってしまったのだ。
この後の、置き去りにされた後の、幼い息子と娘の描写が、ただただ、示される。ブラックアウトを何度も繰り返して、そのたびに状況は悲惨になっていく。
出ていく前、ママは娘の髪に可愛いピンクのプラスティックボールのついた髪飾りを結っていってくれた。
最後までその髪飾りは彼女の髪についていた。でも、ずっと置き去りにされている間に、かゆさで頭をかきむしって、脂で髪がべったりとなって、伸びた前髪が目の上を覆っていた。
ダイニングから廊下に出るドアがガムテで密閉されてしまっていたから、トイレに行くことも出来ない。おもらししてしまった彼女が、殊勝に下着を取り換え、タオルで床を拭く描写に胸が詰まる。
それ以降はもうどうなっていたのかさえ……。弟だってそのまんまだ。もうどういう状況に陥っていたのか……考えるだにゾッとする。
弟のおむつを替えるなんてことも、幼すぎて彼女には出来ない。しようとする描写もない。そんな考えもきっと出来なかったんだろうと思う。だってまだまだママに甘えたい年頃だもの。
赤ちゃんの弟はしょっちゅうむずかって、泣いて泣いて、そのたびママはかかりきりになっていた。出勤前のママはことに娘にかまってあげられなくて、娘、気を引きたいと思ったのか、わざと朝食のミルクをひっくり返しちゃう、なんて描写もあった。
それが今となっては作劇のほほえましさに思ってしまうぐらい、置き去りにされてからの娘は、あまりにもあまりにもいじらしくって。
おむつを替えることは出来ないまでも、粉ミルクを哺乳瓶に手づかみで入れて水入れてシャカシャカ振って作ったり、弟のゆりかごを彼の求めるまま何度も何度も揺らしてあげたりして、なんか、なんつーか、それこそ母性、彼女に強いられた母性がさあ……。
キャストの苗字が同じだから、彼らは本当の姉弟なんだろう。そうでなければ、とも思うし、それにしても……とも思う。
パイナップルの缶詰が食べたくて、幼い手に包丁を握ってカツンカツンと突き立てる。開かないよ、開かないよそんなんじゃと、苦しくなる。
ついに穴だけは開いたのか、冷蔵庫に入れたその缶詰を、口をつけて上を向いてチュウチュウと吸い、中身を確かめるように耳のそばで振ってみたりする。そのいたいけなしぐさ!
マヨネーズは吸いきった後に水を入れて、もうすっかり容器がきれいになっているあたり、何度も水を入れて、その残り味を求めていたのか。
ハエが飛び交い、もう元が何かわからなくなった食べ物の匂いを嗅いでみて諦めたり、そんな壮絶な状況になって、ようやくようやく、母親が帰ってくる……。
事実を元にしたフィクション、だから、事実の通りではない。ならば、事実の通りにしなかった部分には、作り手の思いというか、決着というか、そうさせてあげたかった、みたいなことがあったのだろうかと思う。
この子だけはなんとか助けてあげたいと観客が思っているところに母親が帰って来て、でも結果的には娘をその手で殺した。
結果的には、であって、閉じ込めて見殺しにしても、その手でハッキリと殺しても、同じことだったのかもしれない。
いや、判らない。現実には逃げ続けていた母親に、本当は帰りたかったのだと、帰るつもりだったのだと、いう決着をなしたのかもしれない。
それは……自分が命を奪ったのだという決着を??……判らない。実際の事件とは違うこの結末が、何をどう付与するものなのか、私には正直、上手く理由付けが出来ない。
先述したように、本当の鬼畜なら、もっと上手くやった。上手く隠ぺいもしただろうと、思った。本作の結末は、それを示しているようにも思えなくもないけれど、なんかそんな風に、それこそ単純には思いたくないのだ。
他人によって、警察の手によって、発見されてしまった変わり果てた我が子たち、ではなく、彼女の手によって始末がつけられた、というのは、救いだったんだろうか……でも、娘は生きていたのに。
娘が生きているうちに母親に帰らせたこのフィクションとしての選択を、どうとらえていいのか……。
弟は幼すぎて言葉もまだない状態だったけど、娘はただただ、ママ、ママ、ママ……だった。パパが帰ってこないことは判っていたけれど、特に頓着することなく、ただただママを愛していた。
それは、もし理想的にパパ、ママがそろっている家庭ならば、パパがヤキモチやいて、なんてほほえましい事態が発生したかもしれない。でも、この状態では……。
ママは、母性は刺激されるだろう、娘を愛しく思うだろう。でも、この状態では……。どんどん、追い詰められる母親を、なぜ責められるの。
もちろん、娘に非がある筈もない。でも、でも、ママ、なのだよね。パパじゃないのだ。
母親って、その意味では素晴らしい存在だけど、でもならばなぜ、こんなにもいつまでたっても、社会的にないがしろにされ続けているの。それは母親ではなくても、シンプルに女性の立場と比例する形でなのだ。いつまでたっても、いつまでたっても!!
娘ちゃんがね、写真の切り抜きをしてるでしょ。愛するママと映った写真、首からどーんと大胆に切り抜く。一回貼った場所から、……弟が死んだ後に、はがして貼り直す。
あの絵は子供ながらの大胆さでまあよく判らなかったんだけど(爆)、なんか、彼女の切なる希望を、描いているように思ったんだ……。
とにかく、この娘ちゃん、土屋希乃ちゃんが本当に素晴らしくて、本当にそこで、幸、そうだ、幸という名前だった……で、生きているとしか、思えなかった。幸、なんて皮肉な名前。幸なんて、何もなかった……。
物語の冒頭が、母親が生理になったのか、血で汚れたショーツを手洗いする場面、そして中盤にトイレに行けなくておもらししてしまった幸ちゃんが下着をはき替えるシーンがあって、そして最後、自分で子宮を突いた母親が、シャワーを浴びながら悶絶して血が流れていく。
あの時、目を見開いた彼女は、何かが見えていたのか。幼い子供二人を、あの時仮想ピクニックで敷いていたビニールシートに包んで、彼女自身、シャワー上がりの産まれたままの姿で、ベランダから日が差し込む中にしゃがみ込んでいた。
なにか、解決を求めているんじゃない。でも、ただ苦しい。どうしてすんなりと、素直に、子供を産み育てることが出来ない今なの。どうして立ち止まり、苦しみ、悩みぬかなければそれが出来ないの。おかしいよ、そんなの。
それをやり遂げた人だけに合格点が出される。それ以外の人は、落第点だ。そんな過酷なテストに挑めないよ。どうして、どうして……。★★★☆☆
なんかね、なんだろう……。バンダナにベストの女の子とめがねを頭にのっけてる男の子がカメラ担当、手持ちならワタシ、横移動ならオレに任せろとか。
カンヌのトロフィーをあしらったTシャツの男の子がリーダー=監督で、不良の中から「日本のブルース・リーだ!」とスカウトして黄色のトラックスーツにヌンチャク持たせたりとか。
あるいは懐かしの映画館、その二階がアジト、映写技師は白髪のミッキー・カーチスで、そんな映画少年たちをあたたかく見つめていて、壁には彼らの写真を切り抜いて貼っている。
そしてチーム名は「ファック・ボンバーズ」!うう、なんて気恥ずかしいのっ。
……だからなんでそれが気恥ずかしいのだろーか。うーん、あ、そうだ、なんか、ちょっとやっぱり、昔っぽいというか、映画愛の示し方が、凄く往年の感じがしたからだろーか。
一応現代の時間軸からさかのぼって考えれば、今の彼らはアラサー。10年前、よりもう少し前のような感じがしたな、なんかノリは高校生というより中学生っぽい……映画館の二階のアジトとかさ。チーム名つけて、俺たちは最強!みたいな感じとかさ……。
でもアラサーの彼らの10年前ならば、高校生だよね。今から10年前の高校生、つまり今アラサーの彼らの10年前、にしては、なんとも懐かしい気がしちゃう。
だって多分、10年前ではもう、8ミリで映画を撮ってる子はほとんど、というか、ほぼいなかったんじゃないだろうかと思われる……。
もちろん彼らの途中経過で、フィルムからビデオカメラに移行し、それで映画なのかよ!と、日本のブルース・リーこと佐々木君が吠えるというシチュエイションもあるけど、それってそれこそ私らの世代か、あるいはさらにもう10年ぐらい前ではないだろーか。と、考えると、まさに園子温監督の世代の話なんだよなあ。
ま、つまり、そーゆーことか……。彼は自分の映画人生を投影した作品を、満を持して、しかもこんなハチャメチャコメディで持ってきたって訳だ。
そう思って見れば、ちょっと懐かしい気がした。まさか園子温監督がこんなにビッグになるとは思わなかった初期も初期、商業映画にさえなかなか乗ってこなかった頃は、確かにこういうハチャメチャさを持っていた。
いや今でも、彼の作品は決してまとまらず、収まらず、こんなに持ち上げられているのが不思議なぐらい、破天荒、という言葉すらほめ言葉になるんじゃないかと思うぐらい、個性的にとっ散らかってる。
個性的、だから、かろうじて作品としていられる、なんて、けなしてるみたいに聞こえるけど、そうじゃないのよ。本当にこんな人は今までいなかったと思う。
まあだからこそ、人によっては好き嫌い、あるいは作品によっての好き嫌いは生じるんだろうけど……。てかホント、以前ならばこういう作品が、フツーに配給の流れに乗って日中のロードショーで観られるなんて、信じられないことだよね。そう、それこそ園子温作品で、しかもこういうタイプならば、絶対、ぜっっったい、単館のレイトショーだわよ。
なんか昼日中の錦糸町でこれを観てるのが、なんとも不思議というか、居心地の悪い……とまでは言わないけど、ムズムズする気持ちがした。そんなことを言っちゃあ、なんか判った風のシネフィルみたいでナマイキだけどさっ。
でもそれも判った上で、仕掛けた感じがしたなあ。今のアラサーにしては懐かしい感じの10年前ということさえ、確信犯的な気がした。
やたら弁ばかりが立つファック・ボンバーズのリーダーであり監督を演じる長谷川博己が、そのお顔で彼だと判っていても、気恥ずかしい時代を経た映画バカそのもので、本当に、園子温監督自身がこんな感じだったんじゃないかとか、勝手に妄想してしまった。
長谷川博己はホント、面白い役者だよね。いわゆるイケメンとかじゃない、なんか顔の筋肉が柔軟で、パペット人形がそのまま人間になったようなユーモラスさがある。
いや、私は彼の出世作のセカンドバージンとか観てないからさ、とにかくそんな、フットワークの軽い、ナニモノか判らないような不可思議さ、な印象なのよ。
で、本作のキャラは年齢さえも不肖な感じ。お顔で長谷川氏だと判ってはいても、それこそ高校生みたいに見えて、途中、行きがかり上みたいに口説く特別出演の成海璃子ちゃんとしっかり同世代に見えちゃって(てか、璃子ちゃんが凄く大人っぽくなった!)、ホントに不思議な人!
……てゆーか、全然本題に行かないんですけど。てかそもそも本題が何かなんて、本作にあるんだろーか。
まあ、このファック・ボンバーズが一つの支流であるとすれば、もう一つの、もちょっと大きな支流があって、その二つが合流したところで大きなメインストリーム、ごうごうと流れる本流となる訳よ。
それはヤクザの抗争。ヤクザか……。まあヤクザは日本映画を語る上で避けて通れない。てか、私だって好きだし(照)。
本作は、ヤクザ映画へのオマージュと言うことも出来るなあ。てか、もういろんなオマージュがあって、私が判る以外にも色々あるんだろうと思うからあえて挙げないけど(爆)、でも基本的にはベタなオマージュだから、“普通の映画ファン”も充分感涙する訳さあ。
冒頭の冒頭、映画が始まったということすらにわかに判じがたかった、歯磨き粉のCMソング。歯ぎしりガガガ、などという歌詞は、園子温監督自身のガガガを投影させているんだろうなと思わせて、彼を追っかけてきた映画ファンとしてはにんまりとしてしまうんである。
この少女が後に成長してヒロインとなる。もうすっかりその監督にからめとられたらしい二階堂ふみ嬢。
いやでも、「ヒミズ」の印象とはしっかり様変わりして、豊かな胸の谷間を見せ、見事なソードアクションも披露して、カッコ良かった。見事にヒロイン、だった。
で、この彼女はヤクザの娘、なんである。もういきなり血みどろ、というか血だまり、いやいや、血が床上浸水状態の修羅場である。
売れっ子子役のこの少女、ミツコが家(豪邸!)に帰ってみると、床一面真紅。あら、随分スタイリッシュなデザインなのねと思ったら、彼女が一歩踏み出してみるとズルリと滑り、それはひたひたと“浸水”していた血の海、まさに血の海!
その血の海の中をアトラクションさながらに、ザザーッ!と滑っていく少女。白いレースのワンピースにレースの靴下。その姿が血に濡れる。
なんて蠱惑的な。そう、この少女はそれに充分耐えうる蠱惑的な少女だった。ただ一人生き残っていた敵方のヤクザの親分をとりこにした。
天使のような純白の姿を血で真っ赤に染めながら、歯磨き粉のCMソングを笑顔で歌い踊った。
映画ファンやなーっ、と思う。血の海、純白の少女=天使、瀕死の男がその天使に救われる。ああ、顔が赤くなるほどの、映画映画な感じ。
ホンット、園監督がこんなにビッグにならなければ、こんなロードショー配給では……いやいや、それを見越しての満を持しての??そうかもしれない。だってムダにビッグネーム揃いなんだもん。いや、ムダは言い過ぎだが(汗)。
まあ、堤真一、國村隼をヤクザ両組のトップに据えるぐらいは、今の園監督なら充分に出来るさあ、全然、問題ない。
でも、國村さん演じる武藤組長の妻、あの血の海の修羅場を作りだした奥さんに友近、武藤組長が歴代の愛人にやらせているスナックの、看板をかけ替える工事夫に板尾創路等々、なんか、芸人さんが映画作る時みたいな、やたらワキゴーカみたいな。
友近さんは重要なキッカケキャストだからそんな風に言うのはアレだけど、彼女が得意な“極妻”キャラをクサいぐらいに生かしてる訳だしさあ。
こういうビッグネーム芸人さんキャスティング、すっごいクサいよね。いやいい意味でだけど(爆)。
園子温、ここまで来たからそれがやれるぜ!てのを、そう言われるのを判っててワザとやってるみたいなアマノジャク感(爆)。
その感覚からは若干薄いけど、でもやっぱり園作品と思えば異色のキャスティングであろう、星野源君は、お気に入りなので嬉しかった(照)。
彼のキャラを裏切らないキャスティング。少年時代にCMの少女に恋をした公次君。
その彼女、ミツコと運命的な出会いをしたと思ったら、ミツコはコワい父親から逃亡中。自分を見捨てた恋人に割ったビール瓶で血だらけキッスをお見舞いし、父親の手下に公次とミツコもろとも捕まってしまう。
そりゃさ、彼は関係ない訳だからさ、逃げようとするのも当然でさ、タスケテー!と叫んでボコボコにぶん殴られたり、情けないんだけど、でも、でも、お気にの星野源だから、や、ヤメテー!と心の中で大絶叫。
てか、ミツコ、自分の都合で勝手に拉致したくせに、我関せずなんだもんー(泣)。
正直、ね、このミツコが公次にどれだけ肩入れしていたか、あるいは映画中映画の中だけの、公次の妄想に過ぎなかったのか、どうも判然としなかったからさあ。
まあそんなことはどうでもいいことではあるんだけど、公次には悪いけど(爆)、本作の魅力は映画中映画、更に入れ込まれたフィクション、どこまでが現実か、しかもそれは映画の中の現実であって、結局はフィクションなんだから……というモザイク極まりないところにあるんであって。
最後に残る、最後まで残る個人の感情は、映画バカ、平田の“歴史に残るたった一本の映画”を撮りたいという、それだけなんだもの。
その感情に、武藤の妻や娘への愛も、敵対するヤクザ、池上のミツコへの偏愛も、仲間であるファック・ボンバーズの映画愛さえも中途半端なそれに見えてしまう結果になるほど、平田のラストシーンで集約されちゃうんだもの。
そう、結局、平田の物語だったんだよな、と改めて思う。ハデな展開はヤクザの敵対、抗争にあったし、双方の組長、國村氏のクールさと、堤氏の天真爛漫さという、対照的なコミカルを堪能できるんだけど、でも、平田の物語であり、きっと平田は、園子温、なのだ。
8ミリから始まり、ビデオに移行したことを“日本のブルース・リー”佐々木に、これが映画なのか、と責められる。
プロモビデオばかりでちっとも本編が取れていないことを、小さなテレビ画面を仲間たちで繰り返し見て悦に入ってることこそが皮肉られているように描かれてはいるけれど、でも実際は、やっぱり、佐々木が糾弾したこと、フィルムじゃなくてビデオじゃないか、ということこそだったんだろうと思うし、特に当時の園子温青年はそんなジレンマがあったんじゃないかとも思うし……。
だって、園子温の最初のイメージはやっぱり、8ミリフィルム、自主製作、オレオレ映画、だもん(爆)。それからずいぶん時が経って、こんな風に、商業映画として、としてはかなりランボーだとは思うけど(爆)、目の前に現れたのは、やっぱり凄いことだよなあ……。
とはいえ、やっぱり奥さん出すのね、とは思ったけど(爆)。まあ、オレオレ映画だから仕方ないか(爆爆)。
いいのいいの、だってクライマックスこそが大事だもん。武藤組長の妻が、夫のために敵のヤクザをぶっ殺しまくって、ブタ箱に入れられて10年。売れっ子子役の座を追われた娘が、女優になって主演映画を撮っている、そのことだけを心の支えに出所の日を待っている。
組長は愛人とチョメチョメやりながらも、この奥さんのことを真に愛しているようで、娘の主演映画を、恐らくヤクザのあらゆる手段を使って製作していたんだけれど、その娘がトンズラ。
で、星野源君演じる公次が、通りすがりでとばっちりで拉致されちゃって、頓挫した映画を、俺たちの手で作るぜ!という、その監督として、娘に抜擢されちゃう。
映画のことなんか何も知らない公次君は、ヤクザのあらゆる手段でかき集めた本格機材の間でマッツァオになって逃走し、当然捕まり、オゲーと吐いたところで(口とゲロがずれてる……)、ファック・ボンバーズのリーダー、平田が願いを込めて投函した、映画を撮らせてください、と記したメモ、ご丁寧に携帯番号を書いたそのメモを見つける。神の救い!!
で、まあそれ以降は、もうなんかもう……。それまではね、なんとなく、気恥ずかしい中でも、それなりには成立していた感じもあったんだけど、これ以降はもう、メチャクチャ!
てか、平田が、映画の神様はやっぱりいた!と歓喜して、ていうか、狂喜して、というか、もうハッキリ狂っちゃって、と言った方がいいような気がする……。
武藤組が敵の池上組に討ち入りにいくのを、ドキュメンタリータッチの、つまり“実録ヤクザ映画”を撮ろう、ってことになり。
あー、もう、もうもうもう、実録ヤクザ映画って、それってつまり、仁義なき戦いだわよ!
てことはさ、ミツコに入れあげてからどっかネジが狂っちゃった池上が、和服組、つまり仁義なきよりはひと世代古い時代であるってことは、もう彼らの負けは同然なのよ。
いや、でも結果的には双方全滅、途中まではこれはある程度フィクション、コメディだからフィクションで、“映画”が完成して、みんなで拍手喝采して大団円、になるのかな、と思っていたからさあ。
それもオマージュものとしてはアリかなと思っていたら、彼らを注視していた警察隊が乗り込んできて、抹殺に次ぐ抹殺!それこそ、こっちの方がフィクション極まりない、連射マシンガンでドドドドド、血みどろどころか、シャワーのような血しぶき!!
それこそこれはフィクションオチだろと思ったら、その地獄の中をなぜか生き延びている平田が、死屍累々の中を、憧れの35ミリフィルム、録音テープを息絶えた仲間たちに頭を下げながら粛々と回収して、地獄絵図、まさに地獄絵図の中を、狂ったように、てか狂った笑いをまき散らしながら、夜の街に飛び出して駈けていく。
それまでが、まさに、撮影所の中の撮影って感じだった。そもそもが、敵方の組に話をつけて、段取りつけて、殺気立ったヤクザたちをカメラワークに従わせるという面白さもあった。
でも“実録”がどこまで実録なのか、観客に、劇中イン劇中イン劇中イン……の入れ子をどこまで信じたらいいのかわからないまま進んで行って。星野源は刀を持った手首をふっとばされ、脳天に刀をめり込んでもズリズリ生きてるし、もう、どこで、別れの涙にカンドーして涙していいものやら!
さすがに、平田の妄想、出来上がった映画に満席の観客がスタオベして、“出演者”の、劇中で壮絶に死んだ彼らたちが、首をズバッと飛ばされた武藤でさえ、大人しく首に包帯巻いた状態で感極まった笑顔を見せているなんて、そ、そ、そらないわ!そりゃま、まさしく映画、映画そのもの、映画のマジックではあるけどさーっ。
生涯にたった一本、映画の歴史に残る映画を撮りたい。くだらない映画ばかり作ってるようなヤツになりたくない、と、平田は言う。
あの、長谷川博己の、柔軟な顔の筋肉で言うから、そんなに深刻にならずに済む部分はあるとは思うけど、結構ヒヤッとする。
これって、ちょこっとでも映画にハマった人なら誰もが、監督さんのみならず、役者さんやスタッフさんにもそうした価値観を持つところでさ。
確かにそんな風に、歴史に残る一本、あるいは数本を残して、さっと消え去った映画人はいるし、逆に多作だけれどなかなか知られていない人もいる。
でも、恐らく最も多いのは、たった一本、あるいは数本しか作品がなくて、さらにそれが評価も知られてもいない人たち、なんだろうと思う。
園監督は、そういう意味では最も幸福な立場にあって、作品数も、評価のされ方も、半々のところにいて、その一方で国際的な評価もされたりしていて、それって最も、強気に言える立場だよね、って。
ちょっと、三池監督を思い起こしたりした。彼もまた、作品数、評価のされ方、そういう似た時期があったから。今はまた、違うステージにいて、それもまた面白いことではあるんだけど。
今って、そういう意味で、本当に千差万別だと思う。特に園監督は、映画が映画であった時代にこだわってる。
本作の宣伝文句が、“ついに封切り”という表現がされていたことに、その思いを強くする。今は封切りって、言わないもんね。
劇中のアラサーたちにとっても、なじみがないと思う。公開、という言葉を使うと思う。
アラフォーの私の時代には、まだその言葉の空気はあった。シネコンなんてなかった時代、地方の学生たちは、それこそ、“たった一本”を求めて映画館に足を運んだ。
数あるゴーカキャストの中で、ゴーカではないかもしれないけど(爆)、やはり心に残るのは、日本のブルース・リー=佐々木を演じた坂口氏であろうと思う。
彼、引退したんだよね。ずっとずっと、日本のアクション俳優として、頑張ってきた。でも、少なくとも日本映画では、アクション俳優どころかアクション映画そのものの需要がなくなってしまって。
それどころか、アクション映画、のみならず、映画らしい映画も、姿を消してしまって、だから彼の引退は、何とも惜別の思いがあった。
アクション俳優がいなくても、それなりに見せてしまえる現代の技術を、寂しく思っていたし、だから彼を、大きくフューチャリングした本作が、その点こそが、一番、グッときたかもしれない。
フィルムじゃなくなった映画を映画じゃない、といういうところから始まって、夢見がちな映画仲間たちを、その中でも弁ばかり立つ平田を、苦々しげに、でもそれこそ身体、アクションでしかバカヤロー!と突き返すことができない。
最終的には平田が映画を撮れることになったことで、バイト先(もんじゃ、お好み焼きと書いてるのに、めっちゃ中華で、店主も中国訛り……芸が細かい……)をやめて、地獄の旅の道連れとなる。男の道連れは、これぞ任侠道さあ!昭和残侠伝!キャー!!
ラスト、フィルムを抱きかかえて、狂ったように、でもやけに楽しそうに笑いながら、爆笑しながら、夜の道を駈けていく平田=長谷川博己。
長い、長いな、辛そうかも、と思い始めた観客の心を見透かすようにカットの声がかかり、スッと笑いを止めた彼は歩道へと見切れていく。
これが映画。まさに映画。映画は真実で、でもどうしようもなくやっぱり嘘なのだ。だから好き、大好き。だから嫌い、大嫌い。本作は……どっちだろう、なあ……。★★★☆☆
でも、バカバカバカ!タナダ監督じゃないの、そして永作博美じゃないの、これが良作でない訳がないのにっ。こういう先入観がなければ、この二人のタッグというだけで心躍っていそいそと足を運んでいただろうに、こんな上映終了間際になって、まあ見とくか……みたいに観に行っただなんて、信じらんないっ。
でもそれが良かったのかもしれない。もう幸せ涙でタオルハンカチぐしょぐしょ。あーもう、幸せ。
幸せ、とか言いつつも、内容は突然亡くなってしまった母の四十九日の物語だし、彼女の娘……母は後妻なので血はつながってないのだけれど……の百合子(永作さん)は、夫の浮気と、その浮気相手の妊娠を知ったばかりという深刻な状況。
当の百合子はずっと子供ができなくて苦しんでいたというのに、なんということ。そして家には寝たきりの姑がいて、こんな時にも「百合子さーん」と呼んでくる。
という、ツカミはOKどころじゃない導入で、正直すっかり心がおもーくなっていたから、まさか最終的にあんなに幸せ涙になるとは思わなかった。
百合子の夫、浩之はね、こんな状況になってもどちらも選べない、という訳。なんとゆー優柔不断な上に、残酷な夫!……とこの時には思っていたんだけれど、最終的にはこの夫をなんだか好きになってしまう。
まあ、浮気は男の生理だし(爆)、子供ができなくてイライラしている妻に、せめてもと思って子犬を連れて帰ったら「子供をあきらめろってことなの?……犬なんかいらない」と涙をこらえた厳しい表情で冷たく言われちゃう。
この子犬は後に、浮気相手の家で成長した姿で現れる。なんか……ちょっと彼に同情しちゃうのだ。
いや、女としては、百合子の気持ちの方が断然判る。凄く判る。でも、やっぱり、男は、夫であっても同じには共有できないじゃない。子供ができないことを、妻一人に抱え込まれちゃってどうしようもなくなってしまった彼のせいいっぱい考えた優しさを、こんな風に反故にされたら……。
うう、だからって、浮気をしていいという訳じゃないんだけど、一番タチの悪い女に引っかかった。
と、いうのは後に知れることなんだけど、結局この女は計画的に妊娠を仕込んだ訳じゃん。避妊は男に責任があるのはそうだけど、女の方がより気を付けるものだもの。
うっかり妊娠、なんて、ワカモンじゃあるまいし、もう子供を一人持っている女のすることじゃないよ。これは完全に計画的!と同性に甘い私でさえも、思っちゃう。
まあ、この浮気相手の描写は、自分で勝手に彼の家のリフォームを計画したり、幼い息子の目の前で「この子が気になるなら、父親に預けるから」と言い放ったり、ちょっと判りやすすぎるほどにヒドい女なんだけど、まあ映画という尺では、仕方ない部分はあるかなあ。
でも、そう、この女は必要悪なの。だって家族がなんたるかということが、本作の大きなテーマなんだもの。
それは血がつながるとかつながらないとか、子供を産むべきとか、あるいは産みたくてもできないとか、子供を産ま(め)ない女がこんな近代社会になっても虐げられてきた現実とか、凄く、あるんだもの。
百合子は子供が欲しかった。努力したけれどもできなかった。夫に浮気されて意気消沈して田舎に帰る。母親はつい先日急死したばかり。
母親といっても後妻で、後に百合子の伯母に当たる、つまり父親の姉が「あんたはオトちゃんにちっともなつかなかったからね」と言うのからも判るように、そのあたりはなかなか難しい親子関係だったかもしれない。
絶妙に差し挟まれる、若き両親と幼い百合子の過去回想、新しいお母さんだよ、と紹介された乙美に顔を背け、手作りのお重をバンとひっくり返した。それでも乙美は申し訳なさそうに笑顔を作った。
乙美お母さんだからオッカと呼んでいたんだ、と百合子は言う。するとイモちゃんが「へー、普通にお母さんでいいじゃん」と軽く返した。百合子は言葉に詰まってしまう……。
で、突然出てきたけれど、イモちゃんというのは、二階堂ふみ嬢が演じる、乙美が働いていた更生施設の卒業生。
ブリブリのロリータファッションで、妻を突然なくして悄然としている父、良平(石橋蓮司)の元にドカーンとやってくる。
オトちゃんに頼まれたから、とあっというまにレシピカードも見つけ出す。このレシピカードが、タイトルどおり、これこそがある意味主人公、なんである。
このレシピカードも予告編にあったんだけど、一見して可愛らしく口当たりの柔らかい印象だからさ、ああ、またありがちの癒し系かと更に思っちゃって、私は遠ざかってしまった訳よ。あー、なんてバカなんでしょう、私は。
このレシピカードがね、本当にイイの、実にイイのよ。レシピカードと言いつつ、料理のレシピだけじゃないの。暮らしの知恵、気の抜き方、入れどころ、本当に可愛らしいタッチの画でシンプルに描かれている。
乙美の四十九日の大宴会にアクセントが欲しい、と言って、「そう言えばあいつ、自分史を書いていた」「いいじゃない、それ。製本して配ろうよ」ということになったのだが、箱の中に積まれた原稿用紙は、一枚目の素描画以降は真っ白け。
「きっと出だしに困ったのよ」と百合子は言うけれども、つまりこれが、乙美のすべてだった。絵心のある乙美が残したレシピカードや、更生施設を卒業していく女の子たちに渡す足跡ノート、言葉よりも絵で愛情を表現したそれこそが、乙美、だったのだ。
なんかそれってね、凄く、うらやましい。絵心があるのが、うらやましい。言葉や文章の力を信じてはいるけれど、それは一見しては判らないし、日本語だと日本人以外には判らない。
過去回想の場面で、良平から見合いを断られた乙美がどうしても諦められなくて、百合子へのプレゼントを携えて会いに来る。
そのプレゼントは、乙美特製の着せ替えシートである。これ、これ、女の子、特にこの年代の、この年頃の女の子(つまり私世代だ(爆))、絶対喜ぶに決まってる!!なんか、子供の頃を思い出して胸ときめいちゃった!!
それこそ子供に対して言葉だのなんだのよりも、ダイレクトに通じるのは絵心であり、絵には人の心が現れるもの。言葉や文章って、やっぱりウソで塗り固められるものだからなあ……(爆)。
で、なんか色々脱線しちゃったけど、そう、イモちゃんである。ふみ嬢が実に、イイの!
彼女は「ヒミズ」の鮮烈さは勿論あったけど、それ以降何で見ても、何とも独特のキュートさでハートをぎゅっとわしづかみなんである。
こんなファッショにべったり厚化粧なのに、なんか色々気のつくし、家事もさっさと手早い。
のは、どちらも乙美先生の仕込みであるということは段々と判ってくるし、乙美先生がきっと早めの自分の死を予感して、イモちゃんを派遣したのは、そんな素直で呑み込みが早い、優しいいい子だってことを、判ってたから、見込んでたから、なんだよね。オトミとイモトのスペルが逆の偶然も運命的な楽しさではあるけれどさ!
何よりこの人懐っこさがたまらず、派手な登場と独特の舌足らずで、最初こそは良平や百合子のみならず腰が引け気味になるんだけれど、「こわーい、最後にニャン、てつけたらこわくないのに」なんてあっけらかんと言っちゃうこの子が、段々可愛くてたまらなくなる。
私、あのシーンが好きだったなあ。夫の浮気で家を飛び出した百合子だけれど、オッカの年表を作るための絵手紙を取りに東京に戻る、という。
心配した父親が、イモを連れていけ、という。子供じゃないんだからいいよ、と百合子は言うけれども、イモはそんな百合子にぷうとほっぺたを膨らませて、顔をぷいとカメラ側にそむけて「トウキョウ」とつぶやく。
あのほっぺたとそっとささやいた「トウキョウ」の響きの可愛さよ!次のシーンでしっかり百合子についていってるのは当然でしょ!!
でも、イモちゃんがいて良かったのだ。いなかったら……。恋人との間の赤ちゃんを妊娠した母親に心無い言葉を浴びせられている、その男の子の心をいち早く察したのはイモちゃんだったし、「子供を産んだからって、いい母親になれるって訳じゃないんです」という彼女の台詞が何より重かった。
この台詞、このシークエンスがあったからこそ、家族って、血がつながってることだけじゃないんだ、という、本作の裏テーマをずばりと示したし、最終的に百合子と浩之が何をどう選択するか、というのが、明確には示さずに終わったけど、きっとそうするだろう、と思ったのだもの。
それは、百合子と姑の間においてもそう。姑は百合子を信頼している。冒頭シーンでは、夫の浮気に傷ついた百合子を容赦なく呼び立てる姑、みたいな図式に見えなくもなかったんだけれど、姑は嫁という立場以上に百合子を信頼してやまないんである。
こんな事態になって百合子が家を去り、しかし先述の事情で一度戻った時、しきりに寂しがる姑に、赤ちゃんが産まれたら、寂しくないですよ、私のことなんか忘れますよ、的な発言をした。
姑はやわらかな態度を崩さないながらも、それに対しては拒否反応を示した、と思う。彼女にとっては孫を産む女よりも、百合子という信頼できる存在の方が大事なのだ。
それは、嫁であることは一つの関係性に過ぎないのかもしれないと思わせるぐらいの思い。いや、でも、嫁であることは大事なのかもしれない。それは、他人であっても家族だから。息子が愛した女性で、自分も信頼できる相手。孫を産む存在じゃない。
乙美の四十九日の大宴会に、何か余興を、と百合子が企画したのが、大年表。人生において何があったか、大きな模造紙に書きこんでいこうというんだけれど、これが埋まらない。
せいぜい良平と出会って結婚して新婚旅行に温泉に行った、ぐらいしか思いつかない。
「子供を産んでいれば……」と百合子はつぶやき、子供を産まない女の人生は空白だらけだと、自嘲も含めて言う。
でも、だからこそ、なんとしてもこの空白は埋めたいと、結婚前の、若い頃の母を知りたいと、勤めていた施設のスタッフに話を聞きに行ったりもするんだけれど、戦争で、一族の中で祖父と乙美だけが生き残ったという境遇、祖父の世話に明け暮れ、その後は施設のスタッフとして残った乙美に、さしたるエピソードも見つからない。
ただ、そのスタッフは言った。その四十九日に、施設の卒業生には声をかけない方がいい、と。私たちはテイクオフボードなんだと。未来に飛び出すための存在でいいんだと。忘れてくれていいんだと。
ここでもまた百合子は、子供を持っていれば……とついつぶやいてしまうけれど、そのスタッフ、車いすに乗った老女は言う。私だっていないわ、と。
こうして書き連ねていくと、本当に、それこそがテーマだったんじゃないかと思う。血のつながりに縛られる日本社会。
私はここで、日本の実子主義に対する嫌悪を再三口にしていたけれど、そのことに対する溜飲をひとつひとつ下げてもらえる気持ちを味わった。
四十九日の大宴会に向けてのヘルプに、日系三世ブラジル人のハルが現れる。正直、演じる岡田君の、いかにもなカタコト日本語にヒヤヒヤして、別にスターでなくていいから、リアルな日系三世ブラジル人をキャスティングしたら良かったのになー、などと思ってしまう。本作に対する、唯一の不満かも(爆)。
まあそれはともかく、彼は日本に出てきて、日本の血も流れているのに職場でいじめにあって、でもそれを救ってくれたのが、その工場で一緒に働いていた乙美だった。
外に出て、いろんな人を見なさい。そう言って、オンボロだった小さな車をメンテして彼にくれた。
いろんな人を見て、イヤな人もいるけれど、面白い、と思った彼。そして立ち直った。
故郷ブラジルの話をしてくれた。三笠山=どらやきが、伝統の味として受け継がれているのだと。遠く離れたブラジルでの日本のコミュニティ、それは、日系というだけで、これまでの論理からすれば、“血はつながっていない”ってことになるんだけど、そういうと途端にしっくりこない。いやいや、日系だもの、日本人の血がつながってるじゃん、と思っちゃう。この不思議。どうしてこんなにも人間は狭量になっていってしまったのだろう。
ハルは最初から、四十九日の大宴会まではいられないと言っていた。突然、去ってしまった。百合子にあのポンコツの小さな車を残して。百合子に、外に出て、いろんな人に会わなきゃ!と言って。
何より寂しそうにしていたのは、父親の良平だった。石橋蓮司。この人はもうすっかりおっちゃんになって、はげちゃびんなのに(爆)、どうしてこうも硬軟自在な人なんだろう。ていうか、柔らかすぎるっ。
四十九日の大宴会はね、そのレシピがある訳じゃなかったのよね。ただ乙美さんが、四十九日は大宴会をしてほしい、と書き残していただけ。
……乙美さんは、突然死んでしまった、という流れだけだったし、死因とか明らかにも去れないんだけど、そんなレシピカードも残していたし、イモちゃんの派遣を準備していたし、なんか病気とか、だったんだろうか。映画では示されないけど……。
良平が妻と最後に交わしたのは、コロッケパンの弁当の、ソースが包みに染みていて、それを怒鳴りつけた、それが最後になっちゃった。
だからレシピカードに可愛くコロッケパンのレシピが載っているのを見つけて、百合子がこれを宴会のメニューにしようかと提案しても、激しく拒否するんである。
だからこそ、そのコロッケパンを自ら作って携えて、更生施設の卒業生の女の子が来てくれた時には、まず涙腺が決壊したなあ!
もうその後はとめどなかったけど、まずこれが最初だった。乙美さんが最後に作った足跡ノートの、乙美さんが送り出した最後の卒業生。
空白だらけの年表に、最初に書き込みしたのはイモちゃんだった。ここにいる意味を教えてくれた、と。
そして、実際に当日張り出されて、最初に書き込みしてくれたのがこの女の子。イモちゃんの書き込みを見て、私も書きたいと言った。
ふいをつかれた百合子だけれど、どうぞどうぞ!とカラーペンを入れたかごを差し出した。
この時点で、どんどんどんどん、どんどんどんどんどんどん書き込まれて、涙ダーダーになるだろうという予感はあったけど、ていうか、その通りだったんだもんっ!
宴会の最初はね、実にシーンとしてたのよ。集まったのは親戚関係プラスアルファ。百合子が出戻ってきた当初からシンラツな“世間の常識”を浴びせる伯母の淡路恵子がキッツい。まさに“つけつけとモノをいう”歯に衣着せぬにもほどがあるだろ、というピシャンと背筋が伸びたバーサンなんである。
若いうちに子供を産んでおけばよかったんだ、子供産まないのか産めないのか知らないけれども、あんたはヘタにかしこいから。
大学に行ってなくてもアケミの産んだ子はもう中学生だよ。愛人なんかでガタガタして。さっさと戻ってしがみつきなさい。
それ以外、あんたの生き残る道はないよ。これが“世間の常識”というものなのだ。
百合子が弱々しくも反論を試みる、「子供のいない人生の喜びと哀しみ」という言葉さえ、「そんなものは知りたくもない」とピシャリとはねつけられる。
もう、私としては、子供どころか結婚もしてない、クサレ女子としては、百合子の辛さが身に染みて可哀想で可哀想で仕方なかった。
んだけど、でも確かにこのおばさんが言うことは、悔しいけれど悲しいけれど納得いかないけれど、日本の社会の“世間の常識”というヤツなのだ。
でもね、それをハッキリと言えるってことは、その常識にそぐえない立場がどれだけ辛いか判ってるってことなんだ、ってことを、恥ずかしくも最後の最後の最後になって、この伯母さんの思いの深さを、認識させられることになる。
だってこの伯母さんが、乙美さんを良平と見合いさせたんだもの。血のつながらない子供である百合子を慈しむことができると思ったに違いないし、それ以前に、乙美自身を、この伯母さんがとっても好きだった。
ってことは、この大宴会の最後に示される。まともな法事も出来ないのか、呆れたよ、と席を蹴っていった伯母さんは、その後、乙美を慕う人々がわんさか現れて大盛況の中、「宴会ってのは、余興が必要なんだよ、判ってないね!」と、なんとなんと、フラダンスチームを組んで現れた!
皆を強引に巻き込んで踊り出すフラは、愛する人を送り出す慈愛に満ちていて、じっくり、丁寧に映し出して、本当に、本当に……胸を打たれた。
ハワイアンだもの、音楽は穏やかだけどメジャーコードの陽気さだし、そんな、泣かせるようなもんじゃない筈。
なのに、なのに、なんでなの。皆が心を込めて、愛しい乙美さんを送り出すために踊る、それもチームの振りを見様見真似で踊ってるのに、なんでこんなに涙があふれるんだよう!
四十九日には大宴会をしてほしい。たったそれだけで、料理レシピも何も残さなかったのに、大成功だった。
空白だらけだった年表はいつのまにか、乙美を慕い、愛する人たちの書き込みで埋め尽くされていた。
……いちいち、わらわらと書きこむシーンのたびにうっと涙が込み上げてしまって、困った。
もう止まらない、止まらない、涙がよおー!……でも、私の年表は、子供を産んでないとか関係なく埋まらないだろうがね……(爆)。
ここまでも充分充足だったのに、ラストシークエンスもまた濃厚!
イモちゃんが「化粧がぐちゃぐちゃになったから」とロリータブリブリファッションはそのままに、すっぴんで現れたのには、百合子と父親の良平のみならず、その素直な可愛さに、ほう、とため息が出る。
百合子が思わず可愛い、と言うの、判る!女の子は、特に若い女の子は(自爆)、すっぴんがいっちばん、可愛いのよ!!
ああ、可愛かった、イモちゃん。ふみ嬢、最高だった。良平の地声の大きさに、ふざけて足をO脚にひろげて、怖いよ!と遠ざかりながら言う様がまた、可愛かった。
そう、地声の大きさ、だ……。良平の怒鳴り声のような声の大きさは、出戻った百合子に「そんな怒鳴られたら、何も言えないじゃない……」と困惑させたし、見合いを断られた乙美が良平を訪ねたシーンでも、彼女をびっくりさせた。
でも、「オトちゃん、見合いでダーリンに初めて会ったんじゃないんだよ」とイモちゃんが明かす甘酸っぱいエピソード。
真夏のイベントの出店で、売れない豚まんを買ってくれた良平が、その地声の大きさでウマイ!と叫び、もう一つ買ってくれて、その後、客がひっきりなしだったこと。そのことを、ずっとずっと、乙美は夫に言わずにいたこと……。
「そのことと、ありがとう、ってセットで言いたくてとっておいたんじゃない」とイモちゃん。「ウカツだな。言わずに逝っちまうなんて」と良平。
「ちっともうかつじゃないよ。だって、私がちゃんと聞いてるよ」……泣けるなあ。
確かに他人から聞いた方が効果絶大……じゃなくて!そういうことじゃなくて!!こんな甘酸っぱいエピソード、宝物だもの。とっておくよ。それぐらい、大好きだったんだ、彼のことがさ!!
四十九日が終わって、埋まった年表に涙して、母親に会いに行くというすっぴんのイモちゃんを見送って、そして……浩之が現れた。のこのこと。
お義母さんに手を合わせたかったけれど、入れなかった、そう言った後、がばと彼は土下座した。戻ってきてほしいと。百合子と一緒に年をとりたいんだと。
ズルい、と思ったけど、このキメ台詞があまりにも決め手だった。
更にもう一つのキメ台詞、「子供のことは第一に考えたい。どうしたらいいか、一緒に考えてくれないか」ものすごくズルい台詞、妊娠できなかった百合子に対してこれ以上ない残酷な台詞、と思うけれど、ここまでの経過で、そうではない、これこそが誠実で真摯な思いだと観客に感じさせるのが、凄い、凄すぎる!!
血のつながりがなんなのということ、一緒に年をとりたいという言葉の重さ。
浮気相手と対峙したシーンで、ないがしろにされた幼い息子にシンパシイを覚えて、一緒に遊んで、アメリカンドッグをあげた、とたん、母親が飛んできて「小さい子に串つきの食べ物を与えるなんて!」
そんな知識などなかった百合子はただうなだれてその場を去るばかりだったんだけれど、それは何か……パワハラに思えて……。
幼い子供を持つ親としての常識なんだろう、それも愛の一つなんだろう。でも肝心の愛そのものを与えていないのに、そんなことも知らないのかと罵倒することが愛なのか。……まあ私も知らないから言えるんだろうけれど……。
ハルが残した小さな車に乗って、百合子は夫と帰る決断をした。
後押しをしたのは父親だった。きっと父親は、姑が百合子を信頼していたように、彼のことを信頼していたのだろうと思う。
だから、愛人に子供まで作ったと聞いても、頭を下げてきた彼に“大事に育てた娘”(なのだと、彼に言った)を再度、託したのだろう。だって泰造がイイんだもの!!
乙美が残したレシピは、百合子と良平、それぞれの分があった。ピンクと水色で縁どられていた。
百合子用のものの最後のカードは、動物園での家族三人。百合子がお重をひっくり返したあの時の、その後のシーン。
ほら、ゆりちゃん見て、と乙美が指さした先のキリン、良平が娘を肩車し、幼い百合子は、無意識にか無邪気に乙美に手を差し出した。手をつないだ。肩車と手つなぎ、家族が皆つながった。
母親に邪険にされていた、浮気相手の息子が、赤の他人の百合子にさらりと手を差し出してつないだシーンがよみがえる。
いつでも子供は信頼できる、心配してくれる庇護者をかぎつける。成長するにつけ、その必要はなくなっていくにしても、その土台としての庇護者は必要なのだ。
血なんてそんなに重要?あの埋められた年表に、本作の答えがある。身内が誰も埋められなかった年表を、“赤の他人”が埋めたのだ。人間同士を、信頼したくなる。家族も、家族以外も。★★★★★
てゆーか、そういうのって、結構ある……特に脚本に自信のある人がすごくやりがち(爆)。
そりゃクドカンだし、上手いに決まってるけど、彼の上手さ、というか面白さはそーゆーところじゃないじゃないー。そういう、腕のほどを見せたがる脚本家がやるようなところじゃないじゃないー。
実際、今回でこの脚本、監督、主演は阿部サダヲというトリオは三作目だけど、個人的にはなんかすっごい、盛り下がってしまったような。
面白くない訳じゃないけど、若干面白くない(爆)。特に、クライマックス、一番面白くなきゃいけない筈の、架空の国、マンタン王国でのくだりが面白くない(爆)。
うーん、なんでだろう。なんかこういう、架空の、発展途上の国をコメディで描くってこと自体があんまり好きじゃないのかも。
コントぐらいならそれこそいいけれども……本作の中でも、このマンタン王国で撮影された「ビルマの竪琴をものすっごく薄めたような超駄作」な映画の存在なんてのがあって、ウッチャンがビルマの竪琴コントはやってたなあ、なんて思い出しちゃったもん。
でも映画とまでなると……いくらコメディでも、日本人が顔を土色に塗って開発途上国民を演じるなんて、悪ノリにしてもセンスが悪いというか、なんか古い気がしちゃう。
何度も繰り返される、同じ場所だけでのマンタン王国の安さに、どんどん冷めていっちゃって、クライマックスなのに、盛り上がっていけない、致命的。
でもそんなのはあくまで私だけの感覚だし、最初からクライマックスの話をしても仕方ないので、めんどくさいけどチャプターごとに行く。
大体がこの東京謝罪センターなる組織、その所長の阿部サダヲだが、彼以外メンバーはいないし、事務所の場所さえない。依頼人と打ち合わせする喫茶店が、名刺に刷られた場所。
最初の依頼人が、その事件解決の後に所長のアシスタントとなって、あらゆる謝罪をこなしていく。
で、そのアシスタントが井上真央嬢。彼女が今、人気、実力ともに備えているからキャスティングしたという感じで、彼女である必要はあまり感じなかったけど、たださすがその辺は、しっかりこのキャラになりきってなかなか面白い。
ていうか、なんか見た目深キョンみたい。某ドラマのセレブ刑事やってた深キョンのイメージからの短絡的発想。でも、そう、真央ちゃんの演じるキャラではないよな、という。
かといってそれが意外性の面白さというよりは、彼女は役者としてすんなりなりきっちゃうので、その面白さがあんまりなかったのはもったいなかったかなあ。
ヤクザの車に追突しちゃって、でも帰国子女で「謝ったら負け」である環境に育った彼女は、真顔のまま修羅場まで連れて行かれちゃって、子分が指を詰められるという段に至って「……なんか、スイマセン」。
この話を聞いて所長即座に、「なんかは絶対、ダメ!」それ以前に謝罪が遅すぎることももちろんなのだけど。
この“なんか”というのは後にも結構効いてくるワードで、あらゆる謝罪ベタな人たちを正していく中でも、これはリアルに、脚本家、クドカンが指摘したかったことなんではなかろーかとも思われる。
もともとすぐ謝っちゃう日本人、すいません、が謝罪の意味を通り越して会話のアクセントになるぐらいの日本人、そんな日本人の謝罪文化を、一方では持ち上げつつ、その本質的な欠陥にも食いついていく。
なあんてまで言っちゃったら、良く解釈しすぎかな??
でも、そうそう、NHKBSの「クールジャパン」でさ、謝罪文化を取り上げててさ、謝罪がコミュニケーションを円滑にする、人間関係をも円滑にする、という日本独特の、恐らく世界唯一の文化である、てのをね、紹介してて。
自分は日本人なのに、そしてその謝罪の効果もそうそう、と思いつつも、でも一方で、やっぱりヘンな文化、ヘンな国民だよな、とも思ったりもした訳で……。
本作は、それを揶揄する部分は勿論あると思う。それこそあの番組で追及した謝罪文化のプラスとマイナスを、ハチャメチャコメディの中に上手に織り込んでいる感じはする。曲論的に言えば謝罪は愛、みたいなね。
でもそれを伝えきれたかどうかは……マンタン王国まで行っちゃうとね、難しいじゃない。竹野内豊にとどめておけばよかったのに。
うっ、また脱線してしまった。だから真央ちゃん扮する倉持典子がアシスタントに入って、次の案件は岡田将生とオノマチちゃんのセクハラ事件。
岡田将生がノリの軽いセクハラ男というのは、どうも彼の誠実で弟分的なキャラが頭にのぼっちゃって、充分上手く演じているとは思うんだけど、なんかピンと来ない。
とはいえ彼、今までだって充分に、いろんな役を、時には悪役も巧みに演じてはきているんだけどね、コメディとなるとやっぱりなかなか難しくなるとは思う。
その点ではオノマチちゃんは、メガネのせいもあるけどちょっと、彼女と判るまで時間がかかった。
お堅い、というまではないけれども、キャリアウーマンとして突っ張ってる可愛さが、今までにありそうでなかったオノマチちゃんの可愛らしさだった。
本社側のオノマチちゃんと、子会社の岡田君、その力関係の絶妙さ。
「誰のケツでも良かった訳じゃなかった、それを判ってほしい!」と岡田君、セクハラの申し開きを言うに事欠いてという感じでするが、もちろんそれにオノマチちゃんは怒る訳だが、これがラブに替わっていく感じを、もっと丁寧に観たかったと思う。
だって「誰のケツでも良かった訳じゃない」んでしょ。シークエンスのラストにはそんな予感も感じさせるが、なんたってオムニバス形式だからさあ。
“セクハラで訴えられた男が自殺した”というネタを使うことで、所長が岡田君のさまよえる幽霊に変身、そのために作った顔ソックリマスクが、別のチャプター、実に重要なチャプター、典子の父親で、世界を股にかけて活躍する弁護士、竹野内豊のエピソードにつながっていく訳だが、いくらコメディでも、正直これは難しいよなーっ、と思ったりする。
竹野内豊がとっさに被った岡田君マスクで、典子があら来てたの、なんてアッサリ騙されるなんて、あ、ありえない。
あのマスクでオノマチちゃんを騙せたのは、彼女が通常の心理状態じゃなかったからであり、だからといって、このマスクに騙される真央ちゃん、というのをコミカルに扱うという訳じゃないんだもの。
……これはないよなーっ。こういう細部のツメが甘いと、コメディとしてはやっぱり、難しくなっちゃうよ。
……うーむ、チャプターごとに言っていこうと思ったが、難しい、崩れまくりだな。
えーと、とりあえずチャプター3。大物俳優(元)夫婦の息子が傷害事件を起こし、まず父親による謝罪会見、それが大コケ。その後の母親による謝罪会見も総スカン。
日本における、親に謝罪を求める文化のおかしさや、“世間をお騒がせして”というのが謝罪の理由になるおかしさ。
そこから、「本当に謝罪しなければならない相手」の被害者と接触することで、本当の謝罪の意味と深さを浮き彫りにしていく。
こうして書いてみるとマンタン王国のクライマックスより、ずっとずっと、このチャプターこそが、謝罪の本質、本作の本質を伝えているんじゃないかと思っちゃうんである。
本作の中には、外見は柔和なクドカンだけれど、実はシンラツにズバッと言いたいことがいくつも隠れている。
“世間をお騒がせした”直接的には関係ない親に反省を求める文化や、二世はイコール甘いおぼっちゃんであるという先入観、それによって一般大衆が優越感を覚える仕組み、みたいなことをかなりズバズバ切り込んでいるんじゃないかと思う。
高橋克実のハゲネタや、それにかなり負ける形だけど、やたら舞台の宣伝をしながら息子のことを謝罪する(つまりチケットが売れてないってことだよな……)母親の松雪泰子の描写にウェイトを置きつつ、本当に言いたかった部分はかなりシンラツに感じられる。
でもやっぱり、高橋克実&松雪泰子の大物コミカルにつぶされちゃっているもったいなさはあるんだけど……。
一般人に暴行を加えた咎で収監されたこの二世君、しかし「本当に謝罪しなければならないのは被害者」であるという発想にたどり着いて段取りしてみると、酒によってタチ悪く絡んだこの被害者から逆に、心から謝罪された。
二世君は、我慢強く紳士的に対応していたのに、親のことを悪く言われて、ついに堪忍袋の緒が切れた、というのが真相。
「いい息子さんですね」と被害者の男性。土下座しながら。大物俳優同士の両親も、素直に土下座し、土下座しあったこのシーンは、不思議な美しさがあった。
土下座、それは日本の文化なのに、これが謝罪の最大級だと信じて所長はやってきたし、日本人である観客もそう思っていたからさ。謝罪の意味や価値を先のチャプターでしんしんと示したことは、なるほど、上手かったんだな。
オノマチちゃんのチャプターで登場した敏腕弁護士、竹野内豊が逆に頭を下げる形で所長に依頼にやってくる。
その昔、幼い娘に手を上げたことを謝りたいと。ちなみにこの娘というのが後に明らかになるところの真央嬢演じる典子であって、うー、竹野内氏は私と同じぐらいの年だし、そうなると真央ちゃん位の娘がいるのかーっ、と、そこで止まってどうする(爆)。
正直、竹野内氏は重要なキャラである割にははっちゃけ度が薄く、宣伝では何度も阿部サダヲと“腋毛ボーボー自由の女神”ダンス踊っていたけれど、あのワンシーンだけだよね?
それだけ、竹野内氏がそんなダンスを踊ることが衝撃的だっていうことなんだけど、本編の中では彼のはっちゃけはまさにそこだけ。
それ以外はあの、うっとうしいほどに重い竹野内豊であり、コメディの中にあっても、それが崩れることもなく、コメディの中のマジだから笑える、という基本さえも満たしておらず、こ、こ、これはキビしい(爆)。
あの岡田将生マスクくだりもさ、そりゃねーだろ!と笑えれば良かったんだけど、竹野内氏、大マジだから。
シリアスとコミカルのギャップというのも、コミカルに橋渡しする感覚があればこそだからさあ、やっぱり難しいよね、コメディは……。
ところでその、腋毛ボーボー自由の女神ダンス、これが一番、チャプターをまたがって示されていた重要要素。
時間軸も物語も全部解きほぐして検討してみると、そもそもは高橋克実演じる大物俳優が、マンタン王国で撮影された壮大な感動ドラマでキメた台詞、「私は国王として心から謝罪します」とかなんとか、まあそういう意味な訳。
そもそものトラブルの発端は、お忍びで日本に来ていた皇太子をエキストラ扱いして、肖像権の侵害プラスその他もろもろ、厳しい戒律に触れまくり、もう、懲役数十年、銃殺必至、てな事態に陥ってしまったからなんであった。
見るからにオタク青年、アイドルの握手会に足を運び、エヴァのフィギュアに大熱狂。国内では厳しく禁止されている串刺しの肉もアッサリクリア。
マンタン王国でのシーンではその国の習慣に準じて神妙な顔してるけど、彼が糸口になったマンタン王国との確執は、ザ・土着民族とのギャップってだけに見えて、なんというか凄く……下に見てる感じがイヤだと思う。
この皇太子が、自分の国での立ち回り、お忍びで日本に来た時の開放感、そのギャップでかき回してくれたら面白かったかもなあ、と思う。
国際問題が生じて、政治家だ、国際俳優(それが高橋克実!)だと訪れて、一時的に友好的な顔を見せても、はじかれてしまう。
皇太子は映画撮影に巻き込まれた部分がピークで、それ以降は誰が訪ねて行っても、一歩下がってニコニコしてるだけ、ってのが、なんか、なんだか、もったいないんだよなあ!
で、まあかなり脱線したけど(爆)、世界的弁護士、竹野内氏が若かりし頃、幼い娘のしつこい“腋毛ボーボー自由の女神!”に悩まされる。
寝坊してしまった司法試験の受験当日まで、クローゼットの中に隠れた娘が腋毛ボーボーやったもんだから、思わず竹野内氏、娘の頬を打った。
そのことをずっと、後悔している。幼かったから覚えてないかもしれない、そう言われても、だからか余計に辛いんだと、自分を居戒める。
“腋毛ボーボー自由の女神”なんて台詞が出てくる映画って、どういう映画ですか、と、所長である阿部サダヲが竹野内氏に気軽に聞いている時点では、それこそ、まだまだ最初の部分だったし、もっともな質問に思わず噴き出したりもした。
でも娘の頬を思わず打ったことを、その話を聞いた所長が、「それは、悪いのは娘さんの方じゃないですか」と言ったのには、心の底からビックリした。
いや、いや、いやいやいやいや!……これ、“悪いのが娘さん”って言う?マジすか??
「それでも娘に手を上げるなんて最低だ」とか竹野内氏が頭を抱えたとしても、阿部サダヲにこんなこと言わせる時点でダメでしょ!!
……なんかクライマックス行く前で力尽きてきた……。クライマックスの話は先にしてるからもうカンベンしてもらっていいかな。
あ、どーしよーもない政治家を演じた小野武彦はちょっと面白かった。実際そーゆー政治家がいちゃうんだから日本はワンダホーな国である。
マンタン王国の通訳役の濱田君は、上手い人ではあるけど、このキャラはさすがにワザとらしかったかなあ。ホントヘタなコントを見てるみたいで。
個人的にはラストチャプターの、なぜ所長が謝罪師になったのか、そのきっかけを作った、ラーメン屋の店主、EXILEマツ氏が最も良かった。
「本当に謝ってほしい人に謝ってほしいだけ」なのに、本人を差し置いて、どんどん偉い人が出てきて、やたら頭を下げて金だの出してきて、見当違いの処置ばかりして、しまいには所長がクレームを付けたラーメン屋はつぶれてしまう。
そんなつもりじゃなかった、ただあの人に謝ってほしいだけだったのに、というこのくだり。
行列のできる店にありがちな、客に店のやり方を押し付ける強引さとか、うわー、判る判る!ときっと誰もが思うであろう。
でもそんな文化を創り出したのもまた、日本という国であり、きっとこんな文化もまた、日本以外にはないんだろうなとも思い……。
阿部サダヲが弾けまくってて爆笑必至に見えながらも、なんか今一歩のところでピンと来てくれなかったのは、こんなところにも要因があったかな……。
遅刻してきたくせに、忙しげに携帯で電話しながら入ってくる映画プロデューサーに所長がどつく場面とか、一般ピープルが溜飲が下がる場面もあるが、もうなんか疲れた。なんか中途半端なところでもう力尽きた。
これ以上書く気力がない。やっぱりオムニバス形式が苦手だもん!あー、……いろいろつながる人間関係も、後から考えるとムリヤリ場面でつないでるところもあるし、あんまり好きじゃない気がしてきた!(適当……)
★★☆☆☆
いや、確かに方向性は違う。この設定って、ヘタするとかなりSFチックになる気がする。女性の胸に花を寄生させる。その花は画期的な新薬の開発につながる。
それを育てる女性たちのカッコは白を基調とした一体型のユニフォームで、それを覆うのがつるつるとした塩ビ樹脂チックで。
なのに胸から生えている花を守る小窓は、滑り止めのギザギザがついた手動のキャップというあたりも、何か“往年のSF”という感じがする。それこそ萩尾望都あたりが描いていそうな……。
でも今は“往年のSF”の時代に追いついてしまった時代なのだ。画期的な新薬という言葉自体がどこか近未来だった時代を抜けて、信じられないような技術が可能になった時代。それこそips細胞なんて、“往年のSF”のようなものが現実になる時代。
大きな研究所、いくつもの遮断が無菌性を高め、その奥で行われているひそやかな実験は、人間の未来になるという名目の元。
リスクを充分に説明し、協力するだけで巨額の謝礼が動く、そこに送り込まれる女性たちは、たった一人孤独だったり、内気な一人娘だったり、精神が不安定だったり。
それほど明確にバックグラウンドが描写される人は少なく、というか皆無で、ただここに、ハイリスクに対する巨額の謝礼と引き換えにやってきている。
そんな事情なのに彼女たちはまるで、ヨガ教室に通ってきているかのように穏やかである。奇妙な平和が漂っている。そしてそれが……SFではない、近未来ではない、ありそうな、現代の、ある一コマなんである。
つまりね、つまり……新興宗教チックなのよ。すべてが白を基調として統一されているのは、ここが研究所だからなんだけど。それこそ新薬なんだから、医学の匂いもしているんだから白を基調で当たり前なんだけど、協力を仰ぐ女性たちに、一様に同じ白い奇妙なカッコをさせているというのが、そんな感じなのよ。
女性たちだけ、というのが、いけにえの気分を否応にも高めるし……。でもね、決して、新興宗教のイメージのような、違和感や居心地の悪さではなくて、本当に、穏やかで平和な雰囲気に見えて、だからこそますます怖くなる。
そんな風に感じて、人々は何かを信じてしまうのかもしれないって。ここが天国だと思ってしまうんじゃないかって。
ちょっと先走って言ってしまうと……この作品の結末に突っ込んだ、ヒロインのセラピストである響子はまさに、その幸福をダイレクトに感じて、信じて、突き進んで、破滅を迎えた。
破滅を迎えたと、はたから見ればそう思うし、彼女を愛する所員の賢治だってそう思った。彼女は冷静じゃない、と。でもこの場面では冷静じゃなかったのは明らかに彼の方だったし……。
おっとっと。
という具合に進めちゃうとワケ判んなくなっちゃうんだってば。
で、ちょっと話を戻すと……。新興宗教チックなのは、シャニダールと言う言葉そのものも、なんだよね。なんかこういう、ワケ判んないカタカナ使いたがるじゃん、新興宗教って(爆)。
……そこを突っ込んでいくとドツボにはまりそうなので回避するが……まあつまり、私はシャニダールなんて言葉は知らなかった訳で。
本作のキモとなる、遺跡の名前。ネアンデルタール人の遺跡に花の化石も同時に見つかり、墓に花を供えた最初の遺跡、つまり人の証である心を持った証である遺跡、であるんだという。
ここから先の解説は、寄生花が彼らを滅ぼしたとか、実は恐竜が絶滅したのも花が生き残るためにつけた力のせいだとか、真偽、というか、実際にそうした議論がなされているのかどうかも素人には判断しかねる展開が次々出てきて、かなり戸惑うのが事実。
バカな私なんて、ぜーんぶ信じちゃいそうでコワい(爆)。そういう作劇って、確かに作り手としては面白いんだろうけど、なんか……ちょっと危険な感じがするんだよなあ。
ていうか結果的に、ちょっと安っぽい印象も与えるというか……。この花の危険性をすべて知っていた所長が真実はコレだ!とばかりに披露する、シャニダール遺跡の“真実”、花に寄生され、死に絶えたネアンデルタール人の集落、すべてが花の化石で覆われていたということをさも恐怖譚よろしく語る段になると、それまでは“往年のSFに追いついた現代科学技術の恐怖”だったのが、なんか急激に、往年どころかそれ以前の少年少女科学ファンタジーに引き戻されてしまった感があって……。
本作のクライマックス、というかラストは、まるで夢の中のような、荒涼とした一本道に、まず最初にヒロインの響子が迷い込み、そこに彼女を追い求めて賢治もやってきて、「私たちは目覚めた」とか言って。
その先に、まず二人それぞれを宿した花から始まり、その“シャニダールの花”の群れが、が地平線までびっしりと、広がっている訳。
……ここで驚愕とか、カタルシスとか、感動とか覚えられたら良かったんだろうけど、それまでに徐々に感じ始めていた後退感が決定づけられた感じがしちゃって……。二人の芝居が逆にどんどん緊密になっていっただけ余計に……。
いや、芝居が緊密になっていったのは、二人だけじゃない。ていうか、この主演二人はとても素敵で、清涼なエロとでもいった、独特の興奮を与えてくれた。
綾野君は朝ドラブレイクという直球をものともせず、彼の中にある暗渋さといったものを失わずに突き進み、この賢治としても、ちょっとほっぺたが赤くなっちゃうような彼女への愛ゆえの乱れっぷりを見せてくれて、号泣までしちゃってくれて、女子ファンは彼女に胸かきむしられるほどの嫉妬を覚えたことだろうさ。
んでもってその当の黒木華嬢は、絶賛の声は耳にするも、がっつり見たのは今回が初めてで、その独特のふわりとした容貌は蒼井優嬢を思わせるなと思いつつ、つつ、というか、最後までその感覚が抜けなかった、いい意味で。
肌の質感、唇の柔らかな感じ、まなざしの雰囲気、どうにもどうにも蒼井優嬢を思い起こさせて仕方がない彼女は、だからこそ今後が怖い逸材!
で、二人の素敵さはもちろんだが、やはりこの舞台設定だと、花を供する女子たちこそが重要で。
山下リオ、伊藤歩、刈谷友衣子のそれぞれ少しずつ世代の違う女子たちがそれぞれ素晴らしく、なんたってこういうシチュエイションの女子だからなんともフェティシズムあふれるというか、なんとも萌えるんだよね!!
リオ嬢と友衣子嬢は特に、お互い孤独の魂を響かせ合うという点で決定的だし、まあそこにやたら芸術的な絵とか、どうしてもあなたが描きたいとか、それはそのフェティシズムをあまりにも判りやすく形にしている感があって、萌えながらもちょっと不満足なんだけど(爆)。
でもまだまだ少女の友衣子嬢と、大人へと押し出されて戸惑いと不安の年頃のリオ嬢という、ほんの数歳の年の差が醸し出す女の子二人の交わりが、なんともなんとも、萌えるのよ!!
まあつまり、二人ともが美しい女の子で、少女の方は不安げで頼りなく見えて芯が強く、年上の女の子はクールで強く見えて、実は誰よりも孤独を感じて助けを求めているという、このギャップがいいのよ、いいのよー!!
そしてこの囚われの身のようなコスチュームと胸に咲く花は、精神バランスによって不安定にゆらめく。ああ、たまらん。
物語的に一番のクライマックスである、リオ嬢演じるミクが、自分が上手く花を咲かせることが出来なかったことから、ここを追い出されることから、平和に花を日光浴させているメンメンの胸から無造作に花をブチブチと摘み取っていくシーン。
響子と賢治、主人公の二人のその後の道行きも確かにドラマティックだったし、本作の要を示していたけど、ミクの狂乱のこのシーンが一番の見せ所だったのは否定できない。
だってそこで友衣子嬢演じるハルカが、見事に咲いている自分の花を彼女のためにぶちりとちぎって差し出すなんていう、最高萌えシーンが用意されてるんだもの!!
男女の間の犠牲精神より、この少女の、いや、片方は完全少女、片方は少女から押し出されてしまった片翼少女、それがたまらなく萌えるのよ!!
たった数歳の差なのに、この差が用意されてしまう残酷さ、その先輩後輩的な萌え萌えさ!!
……かなり寄り道興奮してしまった。でもね、実際は、年いった女子としては、伊藤歩の切なさこそがジンと来るわけよ。
花の経過を診察に来る賢治にホレてしまったユリエ。新鮮な食材に触れているとリラックスできるからと、彼の診察の時間を見計らってランチを作って待ち構えている。
手料理というよりは、カフェめしといった風情のオシャレ加減が気になるところだが、それは私が単に年食ってるからかもしれない(爆)。
花が順調に育ち、採取時になってユリエは取り乱し、花を自らぶち切ろうとし、賢治に取り押さえられ、施設中をゆるがす騒動になる。
その彼女を最終的になだめて花の採取(つまり施設退所=賢治との別れ)をうながすのが響子なんだけど、ちょっとこの経過は納得できないような。
まあたしかに、それをユリエが納得して、恋した男が幸せになることを願って、響子に心を開き、幸せになってね、と言うのは美しい展開だけど、ホントに恋して、それも孤独な境遇の彼女が得た恋心は久しぶりの筈で(この場合は、バックグラウンドが示されないのは、あえてと言うよりは、ちょっとズルく感じる……)、そう簡単に納得出来ないはずだよなあ。
と思うのはリアル老け女子(爆)がマジ過ぎ??そりゃ伊藤歩嬢は私なんかより全然若いけど、でもリオ嬢、友衣子嬢の萌えコンビに比べればキャリア女子だしさ、彼女がたどってきた尋常じゃない女優キャリアを思えば余計に、そう簡単に処してほしくない気持ちが……。
うう、だってだって、彼女、死んじゃう訳じゃん!つまりこれは、この花の危険性を示すためだけの要員て訳で。それは判ってるけど、でもこれは、ないわさ!!
もちろん、キーパーソンではある。この花が寄生した(させられた)女性から摘み取られた時、生命の糸を断ち切られるように死んでしまうことを示す。
この女性連の中では年かさである伊藤歩が、しかも失恋して花に命を取られてしまうのが、老け女子観客たちにはことさらにこたえるんである。
その後、ヒロインの響子が花そのものの魔力にとらわれたようになって、それも含めて賢治との恋愛が燃え上がるあたりがまたズルいと思うんだけど(爆。まあ好きだけどねっ)、伊藤歩のこの悲哀が老け女子に強印象過ぎるんで、華嬢のインパクトが弱くなっちゃうんだよなあ……。
大体さ、この響子、家族が揃い死に(身もふたもない言い方だが……)。しかもそれが、飲酒運転の巻き添えという、彼らには何の咎もないという用意周到さで、用意周到はさらに、“用事があって途中で降りたことで助かった”という偶然で更に強固のものになる。
……ここまで整える必要があったんだろうか。てか、整えちゃったからこそ、後半特に、どんどん白けてしまう気持ちがあるというか……。
それでなくても登場人物たちのバックグラウンドは見えない、のが、響子だけ用意されたこのわざとらしいバックグラウンドがなければ気にならなかったのに、彼女のわざとらしいバックグラウンドが、他の登場人物たちの殊更に用意されていないバックグラウンドが反動的に雑に感じてしまっちゃったり、するんだもの。
まあ確かに響子、演じる華嬢セットで美しい。彼女の意志の強さも、花に準じてしまう昏睡状態も美しい。
でもね……それこそこれは、ファンタジーさ。眠れる森の美女か、白雪姫さ。毒を宿して仮死状態になってしまったていう点では白雪姫が近いかなあ。
研究所が舞台になっていた時にはSF、近未来の匂いや少女萌えといった硬質なフィクション性が、現代でもありそうなていうあたりの絡み合いが魅力だったけど、後半になると、マスコミだのなんだのといった世俗まみれの中にすべてが崩壊して放り込まれてしまって、今までギリギリの美しさで均衡を保っていたありそうなリアリズムも崩壊してしまって、夢妄想の中の、荒野の中に咲き乱れるシャニダールの花の群れ、になってしまう訳。
そりゃないよな……と正直思う。ここまで、施設やコスチュームや、心理学的考察や、なんかリアリズムをそれなりに追求してきたのに、その硬質な美しさ、静寂のストイックが素敵だったのに、どんどん俗まみれになっちゃってさ。
まあそれは、それまでがリアルな世界じゃなかった、どんどん堕ちていくという展開なのかもしれないとは思う。でも、ラストがあれじゃ……そりゃ何度も提示されていた風景だけど、でもその時は、彼女だけが孤独に立ちすくんでる荒野で、夢の中の、フィクション的な風景でも、美しかったのさ。
でもそこに、彼女が目覚めることを懇願していた彼が入り込み、「私とあなたの花」と指示した二輪の花から始まって、地平線までびっしりと花が続いていくラストは、……うー、CGくさっ、と思っちゃう。
それまでは、花そのものだって作り物だって判ってたけど、リアルさを求めて作っていたから、違和感はなかった。
でもこのシーンはそもそもが夢妄想ベースだし、で、このシーンで終わるとなると、ますます妄想感が強いしさ。
てか、このラストシーンで感動……したがるのは日本人の悪しき癖として、少なくとも衝撃もカタルシスも得られないよ、なあ……。
この花を知り、この花を育てたいと言った華嬢は孤高の美しさだったけど、でもその意味するところを深く掘り下げられるだけのものが本作自体にあっただろうかと思ってしまうと、立ち止まってしまう。
花の由来、シャニダール遺跡、その発端のアイディアは面白いと思ったけれど、定説になることない自説のままに作劇したことが、観客にあいまいなまま伝わってしまったことが最後まで響いた気がしてしまう。
戸惑っているうちにリアリズムとわざとらしさがぐちゃぐちゃになって、であのラストじゃあ……咀嚼しきれないもの。
石井聰亙が突然石井岳龍になった第一作は戸惑うばかりで、どうなってしまったんだか訳が分からなかったんだけど、本作はともかく……訳は判った、気がするけれど、でも……。
なんだろう、どこかで立ち止まったまま、その時点の前と後で渾然としたまま置き去りにされてしまっているような、戸惑いと違和感を感じる。好きになりそうなのに、好きになり切れないような……。★★☆☆☆
鏡でアソコを映して見ている女の子というインパクトのある構図と、何より監督の名前に目を見開いたっ。「惑星のかけら」で素敵素敵と思った吉田良子監督っ。次に目にすることがあったら、絶対に足を運ぼうと思っていた監督っ。
もうこれを最後にするしかないと、上司の茶碗を洗うのもぶっとばして時間を作ったのだっ。
本作の原作は直木賞候補作だということに、まずぶっとぶ。こんなトンデモアイディアの話がよくもまあとも思うが、まあでも直木賞ってーのは、読者をぐいぐい読ませる力こそが重要だから、確かにうなづけるかもしれん、とも思う。
でも一方で、未読だけれども、映画となった作品を見ると、なんともクールなユーモアが漂う。
そりゃあアソコに人面層ができる(!)というだけでユーモアどころではないんだけれど、ヒロインがそれをネガティブを基本にしてポジティブに受け止めていて(ヘンな言い方だが、そんな具合にしか言い様がない)、クラいんだけどひょうひょうとしているような、不思議なユーモアの雰囲気、なのよね。
でもそれは、勿論監督自身の雰囲気づくりとうまいこと化学反応をおこした、ということなのかもしれない。それに勿論、ヒロインとも。
グラドル出身の岩佐真悠子嬢は、名前は何となく聞いたことあれど、実際に遭遇するのは初。久々に女の子のヌードに純粋にときめいた。
そんなにバンバン見せる訳じゃなくて、見せ所で、見せる。大いに、見せる。これこそが望まれる女優の脱ぎ方よっ。「惑星のかけら」で大いに感銘を受けた、女の子の気持ちのこもったハダカよ。
男女云々は言いたくないけど、やっぱりこういうところに差は出ると思う。若さゆえのつんと上向いたおっぱいは勿論素晴らしいけれど、そういうことじゃなくって、なんていうのかな……女の子の目で見る女の子の身体は、その身体自体が恋をしていて、心を充満させて、ぱつんぱつんに心で満たして、そこにいるの、そんな感じなの!
彼女はきっとグラドル時代にはそれなりに整ったポーズや角度で見せていたんだろうけれど、ここではもっと生々しいというか、うーん、違うな、うん、やっぱり、女の子が感じる女の子のカラダ、なんだよね。
好きな男の子に処女をささげちゃって、その彼を全裸で全力疾走で追いかける、なんて刺激的なシーンでさえも、リアルに動力に従って全力に揺れるおっぱいはエロじゃなくて必死の恋心だし、お尻の形とかも普通の女の子のリアルな肉感があって、グッと心に迫るものがあったのよね。
でもそれは、ひょっとしたら男子的にはあまりグッとこないのかもしれないなあ、なんても思う。
真悠子嬢はとても可愛くて、人面層に言われるような、ダメで誰からもセックスしたいと思われないような女の子な訳はない、と思う。
そう、いつもの私なら、そんなことある訳ないじゃん、ケッ、と思うのだが、やはりそのへんは、見せ方が上手いのかなあ、男が付き合いたい、ヤリたい、と思う女ってのは、そういう女度の高い女、あるいは扱いやすい女、真悠子嬢演じるフランチェス子のような、修道院育ちのおカタい女の子ではないのだ、というのを上手く見せていく。
それもソソるんじゃないかと外野はついつい思ってしまうが(爆)、そこは端正な顔立ちの真悠子嬢が、上手い具合のぎこちなさ加減を見せて上手く見せてしまう。
このセリフ回しのぎこちなさ加減はきっと、原作による部分もあるんだろうとは思うが、なんせ彼女を見るのは初見なもんで、初々しい気持ちで彼女を見てしまう。
こんな熟れ熟れ美少女が処女な訳もないと思いつつ、雪白の肌に長い黒髪、垢抜けないズルダレなファッション、薄幸、というか不幸マンマンな雰囲気を実にうまく出しているもんだから、そうかもそうかも、と思ってしまう。
そうなの、上手いんだよね、実際は外見的に言えばとても美少女、彼女の周りを取り囲む同世代の女の子たちに比べたって全然引けを取らない筈なのに、フランチェス子が所属していたモデルの世界の女の子たちは華やかで、女子度が高くて、常に男の子とベタベタしてて、見事に対照をなしているんだもの。
それにしても“フランチェス子”よ。その名前がすべてを著わしてる。神聖さ、まじめさ、正反対のアホらしさ、オフビートさ、そしてなぜか愛おしさと希望のような気持ち……。この名前一発で、なんだか彼女のことを好きになってしまう。
666人の男に(オーメンか!))「私と目が合った時、ヤリたいと思いましたか?」と直球で聞き、「いや、全然」と直球で返されてしまいう経験をもって、女として失格だと自ら烙印を押したフランチェス子。
そんな彼女のオマタに人面瘡が取りつき、お前はとにかくダメな女だ、女である資格がないと罵倒しまくり、フランチェス子はそんな人面瘡の言い様に落ち込むどころか、「そうですよね」と自我を見出していくんである。
それにしても人面瘡である。このアイディアの凄さと、これを映像化しちまう勇気である。
人面瘡と聞けばまずは怪談めいた話で、そんでもってその中には、その人自身のアイデンティティ、さらに言えば弱みとか本音とか、とにかく見たくないけどそこに真実が詰まってるとか、なんかそういう、イメージがある。
もっと広げていえばアンビバレンツというものも含まれるかもしれない。
ことに女のあそこはじゅくじゅくしてて、内蔵チックで、しかもそこが本能を持って待っているみたいな、イヤなイメージを女自身も持っている部分がある、よね。クサレマンコなんて言う言葉につい、うーん、言い得て妙とか思うかもしれないみたいな(爆)。
でもそれだけ、繊細で傷つきやすい、まさに女のオトメな部分を映す部分で、ここが人面瘡になって、しかもそれが男の人面瘡で、彼女を罵倒するなんて、なんという!と思ったんだよね。
でも何か……マゾ的だけど、ちょっと、い、いいかも……と思った。まさにこれは、女性作家の思いつくことだと思った。女のアソコが男の顔になって女を罵倒するなんて、こんな究極のキモチイイSMはないもの!
最終的に純愛チックになるのも、女の願望な気がしたしね……というのはまあオチだからおいといて(爆)。
フランチェス子はモデルの仕事をしていた時に好きな男の子がいたんだけれど、勇気を出して「あなたとセックスしたい!」と言ったものの周囲に笑われて玉砕、モデルも辞めて、一人さびれた一軒家を借りて人生をやり直すことにするのね。
この、好きだった男の子というのが、いかにも内気な感じの、いつもハンディカメラを携えているクス君で、イケイケな感じのモデル男子、マルと「同じ顔」だと劇中で言われるまでは、同一人物だと気づかなかったマヌケモノ(爆)。
まあそれだけ渕上君が演じ分けていたということなんだろうけれど、この意味合いはきっと原作ではもっと濃厚にあったんだろうなあ。やっぱ映画では、尺的な問題もあるだろうけれど、なかなかそこんところは難しかった。
フランチェス子とアソコが象徴するアイデンティティと、キャラが対照的なソックリ男子というのは確かに実に興味深いぶつかり合いなんだけれど……。
実はフランチェス子のことが好きかもしれなかったマル君と、実際好きだっただろうにお互いにシャイ過ぎて近寄り合えなかったクス君というのは、フランチェス子自身の中にある女子のモヤモヤをもてあましているトコと絶妙にマッチングするんだよね。
そこに至るまでには、フランチェス子は様々な経験をする。勿論人面瘡、古賀さんとの登場が最大のこと。
古賀さん、と命名したのは勿論フランチェス子。名前を付けたヤツなんて初めてだと彼は戸惑う。そう、まあ、彼、な訳。
劇中、フランチェス子は右手で男子に触れると男性機能を失わせてしまう(直截に言っちゃえば、ムスコがポッキリ)という特殊能力を身に着けてしまうのだが、恐らく男性である筈の古賀さんに触れても、何も起こらない。
まあ、古賀さんはフランチェスコのアソコ、つまり女性自身なのだから(爆)。
それを解説して言うに、「お前は女として価値のない存在、俺も同じだ」とかまあ、そんなことを言うんだけど、その時点では、なんかテキトーなこと言ってるな、と思ってたのね。まさかあんな純愛大オチがあると思わなかったからさあ。
そうそう、それで言えば、人面瘡、と聞いて、まさかあんなハッキリした人間の顔、つまり俳優キャスティングするのか!と思ったのさ。
“純愛大オチ”を思えばそりゃそうかとも思うんだけど、人面瘡といえば、人間の顔に見えなくもない、なんとなく気持ち悪い痣であり、それが喋るから本当に気持ち悪い、訳で、まんま人間の顔してたらまあなんつーか、ギャグっつーか(爆)。
アソコのひだひだがせいぜい一重ぐらいで鼻のあたりを通ってる程度じゃ、女の大切なアソコを繊細に表現できないよ!などと、どうも見当違いのトコで怒ってどうする(爆爆)。
んー、でもきっと、原作だと、そういう部分はまさに想像に任される訳だから、やっぱりぼんやりしてたから良かったんじゃないかなあ、という思いはある。やっぱりやっぱり、文学と映像じゃ、表現手段が違うからさあ。
でもでも、人面瘡君、古賀さんが、人間として現れて、愛のセックスをするラストには素直にじーんとした。……って!それじゃ早まり過ぎだって!!
一度古賀さんは、フランチェス子の元を離れる。てか、かなり早まった(爆)。
フランチェス子がね、新事業を始めるのよ。古賀さんに散々、男と女のセックスの何たるかを勉強せいとせっつかれて、カーセックスをのぞき見したら強姦魔を“悪魔の右手”でインポにしてつかまえちゃったりして。
と、とにかく、ラブホとも違う……“ヤッてる間、三時間ほど散歩してくる”部屋レンタルを始める訳。
さびれた部屋壁をきれいに白く塗って、レースのカーテン、ベッドメイクもスウィートに整えて。
若いカップル、年の差ワケアリそうなカップル、ゲイカップル、3P、様々重宝されて、ついには望む相手をあっせんする事業にまで展開しちゃう。
そんなフランチェス子に、古賀さんは苦々し気というか、いらだたしげなのね。で、彼女が片思いしていたクス君の彼女、かつての同僚の女の子がウワサを聞きつけて相談に訪れると一計を案じちゃう訳。
いや、古賀さんが一計を案じたのか、勝手にクス君がカン違いしたのか、この中では真相は判らない……。
でも、クス君は予約の一日前に酔っぱらって現れて、彼女は処女で暴れちゃうからという前情報で、相手がまさかフランチェス子と思わずをさるぐつわ&両手縛り上げて、レイプギリギリって感じでやっちゃった。
可愛らしい字幕で、予約は明日ですよ、クス君!とモゴモゴ叫ぶフランチェス子の、でも好きな男子だし、でも怖いし、というせめぎあいと、生々しくむき出されるおっぱいがなんとも赤裸々で、ああ、これはやはり、男性作家では出来ない描写だと、思った。切なくて、でもちょっと甘くて、苦くて、胸が痛かった。
フランチェス子は、友達に悪いと思いながらも、勿論縛られてはいるけれども、ひょっとしたらもっと本気出したら、本当に拒むことは出来たかもしれない……と、女子だからこそ思ってしまう。
そう思わせるクスくんの絶妙な酔っぱらい加減と、彼自身の性質がにじみ出るやさしさとソフトさがあったんだもの。それはちょっとズルイと思うけれども……。
だって、フランチェス子は処女だったのだから。クス君との恋愛相談に訪れたモデル時代の友人は、自分が二度中絶を経験していて、ハズミでヤッてしまったプロデューサーから、ユルいと言われたと、涙ながらに告白。
それはフランチェス子にとって想像の枠外の話だった筈だけれど、その友人のナヤミを埋める形でのこの処女喪失……いや、この場合、好きな相手だったんだから、処女をめでたく卒業というべきか。
そういや、処女は喪失なのに、童貞は卒業なのは、男女差別だとかまるで女はレイプ前提だとか、ここで言い出すとまたややこしくなるからヤメとして(爆)、とにかく、そういうことだった訳。
こ、これってすんごくキツいというか、切ないというか、女子同士大きな葛藤がありつつ、納得しあい、友情を確認しあったんだから、もうこれは、縛られるほどの強固な友情になる訳だが、問題は男子だ。
何か、クス君はちょっと、気づいてるっぽい気がする。なんとなく。
結婚式にフランチェス子がそっと訪れ(ちょっと気を使った普段着、そしてペッタンコ靴という気の使いようが泣かせる!)、二人に慎ましくおめでとうを言う。
その時、クス君はフランチェス子に、まるでデートのように撮ったフランチェス子のインタビューDVDと、「君に似ていると思って」と、ギリシャ彫刻の写真をプレゼントするんである。
そんで、あの時、好きです、セックスしていただけませんかと決死の覚悟でフランチェス子が言ったことを、その台詞は反復せずに、嬉しかったよ、と言う。
く、く、くくー!!その台詞を反復しない、ってあたりがある意味テクニシャン!こいつ、純情そうな顔して、実はすっかり判ってるんじゃないの!
ピュアであったかいクス君に騙されているのは、劇中の女子のみならず、観客の女子もそうだったんじゃないの!そうかもしれない。あーくやしい!!
でもだからこそ、ファンタジック、乙女チック、ハッピーエンディングにもほどがあるオチにときめいちゃうんだよね。
えーっ、これって「幸福な王子」が幸せになったバージョンじゃないの!!
一度フランチェス子のオマ×コ(そう、劇中はずっとこのピー言葉で言ってるのよね。アソコだったら何とか文字に出来るんだけど(爆))から離れた古賀さん、だけど、彼女の純な気持ちに応える形で戻ってくる。
んでもって、また一度離れたと思ったら、実は自分はかつての王子、その業績で銅像にまでされたけれども、後の世に偽善者だと叩かれ、まとっていた宝石はすべて持ち去られ、さびついた銅像として寂しく立ち続けている。その怨念が人面瘡として人に取りつくようになった、と、“本来の姿”の銅像でフランチェス子の前に現れる。
……いやー、さすがにこの銅像バーンはギャグかと思いそうになった……実際ギリギリギャグな感じもしたが、彼女の思いに涙を流すトコにもうーん、ギャグかも……と思ったが(爆)
結果人間の姿を取り戻して、ヒゲモジャの古賀さん、いやさ王子と、心たっぷり満たされたセックスをするシーン、真悠子嬢の思いをたたえたおっぱいがもみしだかれる肉加減に、女子的にはリアルにじーん、キュンキュンしたんである。
そのひげもじゃ古賀さんを抱きしめながら、男の人に抱かれることが、ハッピーなだけじゃない、切なさや痛さや辛さといったネガな方が先に来たりもするんだけど、それを凌駕するあたたかく幸せな気持ちがある、と締めくくって、愛しい人の肩越しに穏やかな笑顔を見せる、それがとても美しかった。
まあ若干、最終的にカメラ目線なのは気になったけど、でもそれは、この、ちょっとファンタジックでコミカルでシュールな作品の、しめくくりという意味合いだったかなあ。
イソギンチャクとカズノコが出来ちゃったと古賀さんがすまなそうに告白して、心底打ちのめされるフランチェス子、というシークエンスは面白かった。しかもフランチェス子、その後積極的にソレ、食べさせてるし(食べさせれば出来るものなのか……?)。★★★☆☆
水俣やイタイイタイが体の奇形という、どこかホラー映画的な、根源的な恐怖であり、それが工場排水という企業の横暴によって作られたものであることが、より社会的なものとして印象付けられていた。
一方で、皮膚症状ってのは、確かに写真で見たインパクトは強くて、ああ、気の毒ぐらいには思うんだけど、そう、それこそ劇中で何度も何度も語られているように、それが治ればいいんじゃないの、とどこかで思ってたのかもしれない。
つまり、カネミ油症って、すごく有名なのに、食用油の公害、症状は皮膚疾患としか思ってなくて、それ以上のこと、全然知らなかったんだよね。
なんか異物が混入して、うっかりかぶれたぐらいに思ってた。そんな筈ないのに。こんな大事件になったってのなら、そんな筈ないのに。
ダイオキシンがダイレクトに混入していたと聞けばうへえと思うし、それこそ水俣の問題と何ら変わりない。変わりないどころか、まさにダイレクトにお口の中である。比較するといろいろと語弊があるけれども、ひょっとしたら水俣より深刻かもしれない、と思う。
本作はそうして世間から置き去りにされた被害者を丁寧に活写することを第一としているから、そもそもなぜそんなことが起きたのかとか、企業の姿勢とかは判らないんだけれども、ここにも高度経済成長の中で起きた企業の横暴があったんだろうか、それとも……。
そう、正直そこんところがイマイチ判らないのは、ちょっとしたウラミが残らなくもない。ただ、それを追及しちゃうと、これはやはり別の物語になってしまうのだろう。
最も大切なのは、カネミ油症とは、単なる皮膚症状で終わるような公害ではなかったことを明らかにすること。臓器に大きく損傷を与え、婦人科系のそれは特に深刻で、世代を引き継いでしまったこと。
しかも「健康と美容にいい」と謳われて起こった、つまりは健康食品が起こした事件。
料理用オイルという前提だからそう思われにくいけど、劇中、「そのまま飲んでもいい」とさえ言われていたんだというんだから、食用油での事件というよりも、健康食品での事件と言うべきなんだと思う。
そういう観点から見れば、現代の、健康食品、美容食品てんこもりの世情に大きな一石を投じるべき遺恨、だよね。
効果どころかどんな副作用、が将来待っているかわからない、この健康、美容、サプリメントがあふれる今に警鐘を鳴らすべき事件の筈なのに。
私も抱いていたつまらない思い込みのまま止まっている、だなんて。これって、これって、コワすぎるじゃないの!
事件は四十年前。つまりその時生まれた子供たちは、私と同世代なのだ。唇がびらびらに裂けて生まれてきたという青年などまさしく同じ年頃。その痕跡をリアルに刻む彼はしかし、治療のために子供のころから一人行き来した飛行機に魅せられ、航空写真に熱中する現在である。
油症のために化学物質過敏症に一家で悩まされ、材料を厳選したお菓子を製造、販売する家族。
五島の女島で取れるサルノコシカケがもたらす奇跡的なガン治療効果に熱中して工場まで建てた元気なおじいちゃん。
国からの患者としての認定もいまだ受けられない人々が、そこには数多く存在する。
カネミ油症なんて事件は、そりゃ確かになければ良かった。起こるべきものではなかった。
でも人生とは、現実とは不思議で、その人にもたらす幸せは、そんな不幸を経て与えられたりする。
……相変わらず先走りすぎだけれども。でも本作の魅力はまさしくそういうことだと、思うのね。カネミ油症はこうだ、こんなに恐ろしい事件で、糾弾されなければならぬとか、そういう方針では一切、ないのよ。
驚くべきことに実に10年以上にも渡って密着取材を続け、本作が完成した後に、ずっと以前から明らかにされていた原因物質をようやく認定されて、被害者認定の大きな転換がなされた。
それでなくても皮膚症状のインパクトが強く、あれもこれも油症のせいだと主張したら後ろ指をさされると、日本の地方には今も根強く残るムラ社会の思想が被害者を苦しめてきた、こんな最近になって、だなんて、本当に驚いてしまって。
皮膚症状なんて、と言ってしまったけれど、それ以上の疾患こそが重要なんだけれど、でも、ここに登場する重要人物に女性が多いせいもあるけれど、やはりそれも、すごく重要だと、思った。
小さなことだけれど、アトピー持ちの当方としては、皮膚疾患を持つ女子が持つ辛い気持ちって、すごくシンパシイがあるからさ。ここでは何度も言及したけど、太宰の「皮膚と心」を思い出しちゃうからさ。
んでもって、婦人科疾患、つまり子供ができにくい、できても障害があったり、する訳でしょ。妊娠した女性が医師から、なんでカネミ油症被害者だと言わなかったのか、もうここまで来たら堕ろせないじゃないかと言われたエピソードは衝撃だった。
まさにそこで産まれた赤ちゃんが先述の、私とほぼ同じ年齢、治療の行き来で飛行機に魅せられた青年で、つまり彼は、一歩間違えれば、お母さんのお腹から出られなかったかもしれない。
しかしその後、彼女が再び妊娠した時、医師は全く逆のことを言った。あの子にきょうだいを作ってやらなくちゃいけない、さずかった命を殺すなんてとんでもない、と。このお医者さんは先に言った台詞を覚えていたのだろうか。
このエピソードもそうだし、もう一人の女性、肉の塊が排出されるなと思ったら、実は妊娠していて死産だったという、これがまたもう……衝撃的すぎるだろ!というのもそうなんだけど、その時にはすんごく辛かったに違いないのに、ものすごく、さらりとしているのね。
それはとてもたくましくって、素敵だなと思う反面、そんな感じでスルー……してる訳じゃないけど、それでいいの……と思う気持ちも、女としては正直、あった、かなあ。
確かに女は強い。こんなソーゼツがあったって、乗り越えてゆける。死産の赤ちゃんを目の前にしたトイレを案内し、淡々と、どころかにこやかにさえ語る彼女にボーゼンとするぐらいである。
外にいた旦那さんに来てもらって、ハサミをライターであぶって消毒してへその緒を切ったとか、さらりと言うんだもの。
彼女は今や語り部の先頭に立ち、こんな目にあったけれども、こうしてそれを伝える役目を果たすことを幸せに思う、と語る。
それはホントに、先述した、あってはならない事件だったけど、それで人生を不幸にしかしない人間の強さだと思う。
でも、でもでも、ね。やっぱり、本当はもっともっと苦しかったであろう女性の実態を刻んでほしかったなどと思うのは、まあ、女だから、なんだろうなあ……。女が強いと描写してくれるのは嬉しいんだけど。
あ、そうか、その点では、そうかそうか、あったなあ。本作の強い女性の一番の最先端、矢野トヨ子さん。
カネミ事件の前に炭鉱で組合運動に没頭、その時からそうした力量はしっかり芽生えていた彼女。
落盤事故で夫を亡くし、子供を抱えて路頭に迷いそうになった彼女を救ったのが今の夫だったけど、その夫にして、彼女はわが師であると語らせるカネミ油症被害者運動の象徴的存在。
彼女の著書に心動かされ、運動に参加することになった、当時OLさんだった女性がまた、印象的である。
この著書、トヨ子さんの書いた「カネミが地獄を連れてきた」というタイトルからして凄いけれど、それを読んで衝撃を受け、逡巡し、実に半年も後にトヨ子さんに連絡をとったというこの女性が、細身のとても端正な美しい人で、つまりかよわそうにも見えるんだけど、実は私は、彼女が一番印象に残ったかもしれない、と思うんである。
本当に、女性、女性、なんだよね。女の強さを感じるなあ、と思う。彼女は当時、社食で使われていたカネミ油で被害にあった。
嫁入り前の娘が認定してくれろと保健所なんかに駆け込んだら、世間様から何を言われるかわからない、大体、認定されるかも判らない、やめとけと父親に言われて従った。
世間“様”なんである。当時は充分もう、先進国家だったと思うけれど、地方文化は……いや、日本はいまだ、そういう部分を根強く残してる。
でもそれは、父親の言うこと。やはり男社会、だよね。母親だったらどう言っただろうかと思う。こうして力強く運動を続けている彼女らを見ると、そう思う。
彼女は写真が趣味で、趣味以上の技術で数々のコンクールに入賞、トヨ子さんに出会って、その傷の残る裸体を写真に撮ることになる。
さすがに躊躇する彼女にトヨ子さんは、あなたにしかできないことなんだから、と身体をさらした。
「気迫を感じた」というポーズをとったその裸体は、左の乳房が、最初からなかったかのように平たく失われ、中央にまっすぐ太く赤い傷跡が残されていた。
そういえばさ、どういう病気をやったとか、そういうことは特に明示されないんだよね。トヨ子さんに関しては、まさにこの写真一発。
集会で豪快に話し、皆を爆笑の渦に巻き込むトヨ子さんは、ほかの語り部のように深くインタビューされる映像ではなく、象徴としての存在でドーンと君臨している。
先述した、死産を経験し、今は自然材料のお菓子の製造、販売や、無農薬農業を子供たちに体験させたりしている重本加名代さん。
そう、本作は彼女が活動している、子供たちへの農業体験から始まり、それに終わる感がある。自らの口に入るものは、自分たちで作るんだ、と。
化学物質過敏症である彼女は、農薬の味が判るという。とげがあるんだと。無農薬で作ってほしいと夫に頼んだ米、口にして、あのとげは農薬の味だったんだと判ったという。……あっさり言われるけど、ゾッとする証言である。
私らは、そのトゲの違いさえ判らず、それを口にするしかない訳でさ。そうした“不幸”にかからなければ、毒を口にし続けても判らないってことなのか、なんかそれって、すごい問題提起のような気がする!!
今の健康、美容、サプリメントてんこもり時代が、将来どんな副作用をもたらすか判らない、と言ったけれど、実はそういうことを各企業は充分判ってて、今は、あるいはしばらくは判らない程度の副作用、適度の効果、で商売してるんじゃないかって、ふと思って、ゾッとしちゃった。
いやそれは、シロートの勝手な推測にすぎない、すぎないけど、なんか、なんか、そういうことが、しれっと行われてるんじゃないかって!
当時は裁判を起こしても、行政や国に敗ける情勢が強く、和解に甘んじる。その悔しさを、淡々とだけれど内に秘めた苦々しさをこめて語る、漁師のおじいちゃん。
その当時、油症が身体のすべてをむしばんでいたとは気づかず……だって、いまだに私らがそう思ってたように、そういう認識だったから……。
裁判なんて本当にいい加減だと、淡々と、しかしきっとその胸の内は、その当時を思って煮えくり返っているであろうことを思うと、民を、正義を守る筈の弁護士も、そのためにある法律も、結局は時代の傾きに過ぎないことを思うと、いったい、正義って、法律って、弁護士って、なんなんだろうって、思ってしまう、よなあ……。
被害者たちへの新たな施策の法律が定まったのがほんの2年前。ほかの公害事件もそうなのかもしれないけど、私たちはあまりに知らなさすぎる。知らないままに、きっと差別、区別、排除してる。
日本って、そういう国だ。それを自覚しないまま、そんな愚かな民になっているのが、たまらなくイヤだ。★★★☆☆
映画というスウィートな世界に囲まれて手を出せなかった、その囲いが、時代と共に、技術や道具が簡便になり、安価になり、いわば誰でも映画を撮れる時代になった。
もちろんその弊害はあるけれど……でも、あるテーマがあって、その道のプロである人が、映画監督という別畑のプロに任せてしまって失敗、失望、だから娯楽というヤツは、という悲劇を防げるようになった、のが、本作に明確な例だろうと思う。
だって、実話だというのは、それはこの監督自身の実話ではないの??と思っちゃうんだもの。
そのあたりのことは、つまびらかにされない。というか、実話とされている割には、どこが出所とか、全然判らない(いや、私はオフィシャルサイトをざっと見ただけなんで、ちょっと探れば出てくるのかもしれんが……)。
でも、それでいいんだと思う。だってきっと出所を探れば、そっちに重点が置かれて、本作で言いたいことが薄れてしまうんだろうと思うもの。
それこそ“本作の言いたいこと”を言葉にしてしまえば、メッチャベタベタになる危惧もあるし、見ている間中、それは割とハラハラしていた。
まあ、私はベタに、命の尊厳とか、命を粗末にするなとか、そういうテーマを頭に浮かべていたけれど、監督さん自身は違ったかもしれないけれど、でもそれが、ベタベタに提示されそうな気がして、ずっとハラハラしていた。
それこそこれが、本作中で作られるテレビドキュメンタリーならば、それでOKなのだろう。実際は、センセーショナルな映像を撮ってホクホクして、これで視聴率がとれると思いながら、映像に乗せるのは、命を粗末にするな、生きていればいいことがきっとある、というお決まりのナレーション。
でも実際現場で取材していくディレクターたちは、生々しい現実とテレビの世界の乖離に、次第に疲弊していく。
と、いう、ディレクターたち。フリーランスで仕事をしていて、出来高制で、時代の流行り廃りで仕事が回ってこなくなってキュウキュウとしている。
仕事がない時は宅配便のバイトで超人的な働きを見せ、正社員に熱望されるぐらいの竹内哲と、彼に誘われて樹海のドキュメンタリーに足を運ぶことになる、阿部弘。
インパルスの二人の主演で、前者が板倉氏で、後者が堤下氏である。確かに二人の主演なんだけど、特に後半は板倉氏のウェイトが大きくなるし、それでなくても板倉氏がなんか、何ともいえず素敵なので、目を奪われてしまう。
芝居的なことでも、彼が圧倒している。……と言ったら堤下氏に悪いけど(爆)、そうなんだから仕方がない(爆爆)。
だから堤下氏の方にナレーションを任せてウェイトのバランスをとっているんじゃないかと思ってしまう……ゴメン!だって、板倉さん、素敵なんだものーっ。
いや、双方、とても芝居巧者で、ちょっとビックリするぐらい。私はテレビドラマをあんまり見ないせいもあって、ホント、知らなかった。
あ、そういえば板倉氏は「エリートヤンキー三郎」で見てたっけと思い出したが、あれはめちゃくちゃオーバーアクションコメディだったもんなあ。
本作の板倉氏は、まずその細くて美しい指に結婚指輪がキラリと似合ってて(役柄を認識する前に、ついついそっちに目が行ってしまうあたりが、独女だよなーっ)、不安定な仕事を抱えるお父さんと子供たちの関わり具合が実にすんなりとしていて、なんかホレてしまった(爆)。
彼女の奥さん役となるエンクミちゃん(なんだね!なんかすっかりしっとりしちゃって、判んなかった!)も素晴らしく、後に彼らがたどってきた壮絶な過去が、フラッシュバックのような回想として挿入されるんだけど、それがなくったって、一目見ただけで、その空気感で、なんかそういう経過が感じられちゃう。
長男が、自閉症なんだよね。というのを、メインを語る前に言っちゃうとなんか違う方向のような気がする……と思うほど、これは重いテーマだから、それが提示された時にはえーっ、とも思ったのね。樹海に死にに来る人たちを追うメインに併走するには、重すぎるんじゃないかと。
でもそう思うことが、ヘンケンなのかもしれないと、こうして書いてみて思った。もちろん重いテーマだし、後の回想で、この可愛い奥さんが一家心中を仕掛けるぐらい追い詰められたことだってあった。
だけど……これまた文字にして書いちゃうとめっちゃベタなんだけどさ、堤下氏扮する阿部が、この長男君の描いた絵に対峙して思わず涙を流して、人はそれぞれ役割があって生まれてきたんだと、それが判ったと、モノローグした時に、メインストリームで語ってきた樹海における人の生き死にと見事にリンクして、なんか……じわーっと感動してしまったんだよなあ。
……だから、それは傍流なんだってば。これが傍流になれるということが、希望だと思える構成は、ちょっと凄いと思う。深く複雑である。
樹海に死にに来る人たちのエピソードは、ほんの数例に過ぎない。後から思えば本当に死ぬ気があるのかアヤしい、きたろう扮する八木さんが、彼らが最初に取材に成功した人物であるのもあいまって、最もインパクト大である。
樹海で迷ってしまった二人を親切に外まで案内し、しかもそのココロが「鳥がえさを取りに飛んでいく方向」だと見定めている頭の良さ。
病身の母親を、入院させる金がなく、苦しませるだけならと殺してきたと語って二人をギョッとさせるけれど、死ぬ前にウナギが食べたいという彼は酒もガンガンあおり、二人が通報した警官に連れていかれ、裏切り者!と咆哮。
後味悪く思っていたところにテレビ局に連絡が入って、今度は生命保険金目当てに暴力団に追われているという。
お前たちのせいだ、生きていればいいことがあるなんて言いやがったクセに、と毒づく。
八木さん本人は巧みに食料や金を無心しているつもりなんだろうけれど、それに二人も乗せられた形で提供しているんだけど、結果、見事にトンズラされた時、二人とも予測していた顔をした……。
「お前、八木さんにいくら都合したんだ」「20万」「俺が大バカなら、お前は小バカだな」
自分が大バカだと自嘲したのは、堤下氏演じる阿部。簡易宿泊施設の、胸の谷間熟女に入れ込んで、誘われちゃったもんだからもうどうしようもない泥沼なんである。
いや……見た目的には案外普通の恋愛に見えなくもなかった。彼女が詐欺容疑で捕まるまでは、阿部が彼女に金を融通したなんてことは明らかにされなかったからさ。
阿部は、なんたって堤下氏が演じるから何とも純朴な雰囲気を醸し出し、その点、家庭を持ち、その苦悩の渦中にいる竹内=板倉氏とはなんかもう、レベル、ステージが違う、って感じなんである。
この熟女を演じる烏丸せつこ氏がまた素晴らしく、そう、確かに彼女、堤下氏より大分年上だよなと思うし、別に年相応に見えなくはない、見えるんだけど、阿部が「結婚も考えてた」と言うほど、彼を取り込んでしまう女っぷり!なんかねえ、なんかねえ、烏丸せつこ、スゲーッて感じ!
……だから、メインストリームから離れっぱなしなんだってば。
でもこんな風に後から思い出すと、傍流である筈のエピソードが際立つのは、そこに生々しい生があるからで、樹海の中に見つける死に対しての生々しさで。
でも樹海の中に見つける死も、生があるからこその死で、だってここに死にに来た上での死で、これ以上ないぐらい、生と隣り合わせ、なんだもの。
一番センセーショナルな画、ウエディングドレスとタキシード姿の白骨化死体を発見したシークエンスは、こんなに大きな出来事なのに、そしてそれによって視聴率も稼いだのに、後から思えば前半の、判りやすいイロドリに過ぎないことに気づいて、かなり衝撃的である。
恐らくこのあたりが、実話に即したエピソードだったりするんだろう。実際そうした“画になる”遺体を見つけ、それが「男性59歳、女性72歳」という衝撃の年齢と年齢差、しかもしかも長年の不倫を苦にしての自殺という、もうこりゃあ、民放の毒々しい興味本位ドキュメンタリーにはピッタリの(すみません……)、そりゃ視聴率とれるでしょ、ってな画。
でも、後から考えたら、樹海で遭遇する死の中で、実際に死んでいる……というか、もう白骨になっているんだからこれ以上死にようもないんだけど(爆)、とにかく最初から死にきってる(……どうにもヘンな言い方だな……)のはこのエピソードだけなんだよね。
そのウェディングドレスが特注品で、身元がすぐ割れたとか、何よりこの遺体に多額の現金が、使ってくださいというメッセージ付きで残されていたりとか、ドラマとして盛り上がる要素が満載なんである。
この現金をどうするかで二人の間で意見が分かれて、竹内はクールに、金を拾った時、どうするか考えておいた方がいいと聞いてたけど、考えてなかったな、と妙に冷静に分析。
阿部は迷った末に置いていき、次の日何者かに持ち去られていることを知って地団太を踏む。生々しく、生臭いシークエンスなんである。
と、いうのが彼らの最初の大きな“収穫”だったんで、この調子で行くのかと思いきや、その後は本当に死ぬ気の人、狂言に過ぎない人、と、生の方にウェイトが置かれた樹海への旅になっていく。
狂言で姿を消して、泣きながら奥さんが駆けつけるも、竹内らテレビマンの前で、ぬけぬけと二台の携帯の両手打ち(浮気相手へだろうなー)してて、もうちょっと待ってよと言い放つ男は、竹内が激怒するのもおかまいなしに、泣きじゃくる奥さんと痴態を繰り広げる。
まーつまり、二人とも、SでMでヘンタイな訳だ。奥さんだって、きっとこれが狂言だと判ってるに違いない。ともあれその様をテープに収めて、いつもより早く引き上げられるぞと思っていたら……。
その次に出会ってしまったのが、本当の自殺志願者であり、遂げてしまった。
樹海に入っていった彼女を追ってみたらノグソしてて、慌てちゃって、激怒した彼女にビデオカメラの中の不倫ネタのテープも持ってかれちゃって、失敗したー、と思っていた。
しかし夜半、突如として竹内が思い出すのだ。「あの女、二日前からここに来てる」駅のロッカーで見つけたのだ。
「そういえば、首を吊る人はその前に用を足すって聞いたことがある……」と阿部もハッとしたようにつぶやいた。
そうだ、首を吊ると、粗相をしてしまうから、だから、その前に出しておこうという女心。
夜の樹海を探し回り、まだあたたかく息がしてそうな彼女の死体を発見。そう、もう死体……。
竹内が必死に心臓マッサージをしても、人工呼吸をしても。阿部が救急車を呼ぼうとしても、樹海内は圏外、道路に出てみても圏外。
「助けられたのに!!」竹内は悔やみ、吠える。
阿部に、俺たちのやっていることはなんなんだ、人の不幸に付け込んで、それで食ってると言われると、竹内は別に怒る風でもなく言った。その通りだ、それ以上でも以下でもない、と。
でも竹内の中では、考えが、というか、少なくとも取材の方向性が明らかに変わっていった。もう死んでしまったしゃれこうべを収めて、その過去を追い求める……あばく、んじゃなくて、生きてく人、その生命を、と。
それは、集団自殺サイトで出会った仲間たちから取り残されて(つまり彼らもまた、死ぬ気はなかったってことか……)、テントの中でボーゼンとしていた青年との出会いによって顕著である。
それこそ彼との邂逅では、ベタな展開になるのかと思った。だってこの青年、竹内氏に妙になついて、これから生きていくためのよすがになる座右の銘が欲しいとか言いだすしさ。
別れ際に握手まで求めて、彼、死んじゃうのかと思った……。だって、集団自殺に裏切られて、呆然としている状態、ってことはさ……。
でもそこは、竹内が言うように、自殺ならどこでも出来る。実際、統計的には自宅かその周辺が圧倒的に多い。わざわざ樹海まで足を運ぶのは、まだ迷ってる、誰かに止めてほしいからなんだ。だから俺は止めるんだ、と……。
自殺問題を扱えば、本当に根は深いし、そんな単純に言いきれるものではないのだろうと思う。樹海に来る人は誰かに止められるのを待ってる、とかさ。
でも、そこんところを上手く、竹内氏の、自閉症を持つ長男君に反映させてるんだよね。
長男君はうずまきに心奪われ、洋式トイレのうずまき水流に心奪われるもんだから、弟妹達がトイレに入れなくて困ってるんである。
学校へと送る道すがら、子供たちにその不満をぶつけられ、「お兄ちゃん、いつまでいるの(つまり、どうして学園に帰らないの)」てなことを言うもんだから、父親である竹内=板倉さんも苦慮するんである。
ここには、ヒューマンドラマにありがちな、わだかまりなく遊ぶきょうだいに目を細める両親、なんて構図はない。ひとり異端児である長男君は、弟妹達にうとんじられていることを知っているんだろうな……。
でもね、最後の最後、ラストシークエンスで、長男君の展覧会が開かれている会場で、おしゃまな妹がおしゃれして受付しててさ、単に受付してるだけかもしんないけど、やっぱり今までの経過があるから……。
「くちづけ」みたいに、理解ある家族ばかりじゃないよ。理解あると、そんな風に見せてると、それこそこんな風に死を選んじゃうかも、しれない。
長男君の存在は、ちょっとズルいというか、ホント微妙だけど……これから、を感じさせた、と思う。
いつでも笑って、前向きでいよう、そう言ってくれたじゃないと、妻はやんわりと責め、夫は、忘れた訳じゃないよ、と返す。
後に、集団自殺から取り残された青年に座右の銘を聞かれて、てっきりこの言葉を言うのかと思ったら、「出たとこ勝負、なるようになる」だと竹内氏は言った。青年は、そのテキトーさに笑った。
だから、それで良かったのかも。竹内は、きっとその言葉だって頭に浮かんだ筈。でもそれが、どんなに大変で、笑顔さえも作るのが難しいんだと、その枷があるからこそ、追い詰められるんだと……。
「大変な時は、いないのよね」と、ロケに出かける夫を軽くなじった妻の言葉が、ここまでの意味を持っていただなんて、驚いた。そしてそれを、板倉氏もエンクミちゃんも、見事にさらりと見せてくれるんだ。
なんか、結果的に、私の心のウェイトは、傍流ばっかじゃんと(爆)。
センセーショナルな樹海レポートからはあっという間に離れて行って、途中、竹内のエネルギーについていけなくなった阿部も脱落、チャラい新パートナーをぶっ飛ばしたりして、竹内は樹海に執着する気持ちがありながら、番組制作から外れだしてしまう。
そんな板倉氏は素敵だし、洗濯機のうずから、樹海の蜘蛛の巣へと興味を移した息子を、外へと連れだし、死の樹海に生を見つけ出すラストは画としてもとても素敵で、良かった良かったとは思うものの……。
上手く見せられちゃった感あれど、樹海のまま、そのテーマだけをストイックに見せてほしかった気持ちもあるかなあ。
音楽が関口知宏氏ってのが興味深い。音楽やってるのは知ってたけど、こんな本格的なのは初めて聴いた。彼自身も役者として出てはいるけど、音楽の仕事の方がイイ感じだぞ!★★★☆☆
でも、映画館に足を運ぶ観客にとっての印象は、結構内容にも影響すると思うし、何よりこれにはやっぱり原因があると思わざるを得ない。観る前にもそう思っていたし、観終ったら更にその思いを深くしたこの感覚。
実はこの作品に足を運ぶ気は、あんまりなかった。本当に、タイミングがあうのがコレしかなかった、という言い方はそれこそあんまりだが、そうとしか言いようがなかった。
本作の作品情報を知った時に感じた、「またか……」という思いは、観終った後にさらに印象を深くしてしまった。そうまでして本作を作る意味が、見いだせなかった。
作品の解説にも見える、「女の子ものがたり」「毎日かあさん」に続く西原理恵子作品という惹句は、なぜそこまで続けて映画化する必要があるんだろう……という思いを引き起こす。
本作の監督さんは「女の子ものがたり」と同じだから、西原作品に対する思い入れが深いのかもしれないけれど、正直印象度は薄い。
やたらと映画化される西原作品、一時は同じテーマの「酔いがさめたら、うちに帰ろう。」「毎日かあさん」が、公開時期までもがニアミスという状態で、その時点でかなり食傷気味な感はあったが、そのニアミス二作は完成度としても、役者の詰め方としても一つの到達点があったので、もういいやという気持ちは正直、あったように思う。
「女の子ものがたり」はそれ以前だったけれど、その二作の完成度もあって、ちょっと忘れていたぐらい。そんでもって本作、となると、またか……の思いが強くなっちゃうんだよね。
勿論、普遍的な魅力はあると思う。田舎から出ていた夢を追う女の子、菜都美の物語。でも、その普遍性を追えたかどうかには疑問が残る。
結局は成功してしまう西原理恵子がチラついてしまったのかもしれないけど、彼女が本当に苦労しているようには正直、見えない。
超貧乏とか言ってる割に、案外いい部屋に住んでるしさ。家賃光熱費四万五千円というのを聞いてもさ……。苦労している様を見せる物語というんじゃないにしても、そのあたりの中途半端感は否めなかった。
最初のうちは何となくそんな感じもある。みんなの使い残りの絵の具をゴミ箱の中から漁ったりね。そんな菜都美を見かねて同じ美大の子が「いい時給のバイト」であるキャバクラを紹介してくれる訳だし。
でも美大で同じく夢を目指しているなら、そういう境遇の子はそれなりに多いんじゃないかと思うんだけど、単に西原氏が付き合ってる中にいなかったのか、なんかおっとりと夢を語って、着てる服もオシャレで、現実的なことを言う菜都美に冷たい視線を送る、だなんてね、なんかピンとこない。
それに……本作の中にはばっちりスカイツリーが登場するんだけど、それってつまり、西原氏の原作を元にしながら、現代の物語として描いているということなの?なんでわざわざ?そうするだけの意味もあんまり感じなかったなあ……。
菜都美を演じるのは北野きい嬢。別に嫌いな女優さんではないけど、どうもここではしっくりこない。
なんだろう……彼女の酒焼けしたような(いや、酒呑みがこんなこと言っちゃイカンよな(汗))ハスキーボイスが、フツーの女の子の外見にミスマッチな違和感をざらざらと残す。
まあ西原氏を演じるんだから、酒焼け声でもいいんだが(爆。更にヘンケンだよなーっ)、なんかね、この時点では違うんじゃないか、って思うんだよね。
何と言ってもセーラー服の女子校生から彼女は演じる訳だし……。きいちゃんって、元からこんな声だったっけ?妙に気になるこの酒焼け声(しつこいっ)。
この声で、キャバクラのホステスになじめず、店長のセクハラもあいまって顔面神経痛になる、っていうのがしっくりこないんだよなー。いや、この声だからというのは言い過ぎか(汗)。
この顔面神経痛のくだりはあまりにもさらりとスルーされたもんで、彼女がホントにそれに悩んでいたかどうかさえ、あいまい過ぎで伝わらない。顔面ピクピクの描写さえ、ほんの一瞬だったしさ。
こういう、なんかポイントを抑えてくれそうなところで抑えてくれないもどかしさが、そこここにあったように思う。そういうのってヤボったいのかもしれないけど、やぼったく見えてもいいから欲しい時は欲しいと思うところがあった。
それは、彼女の恋人となる良介とのエピソードでもそうかなあ。カメラが夢だという彼は、つまりその後、西原氏を語る上で欠かせないパートナー、鴨志田穣氏かと思われたが、出会い方が違うからなあ。
でもあえてそう思わせる人物として描くということは、つまりつまり、最初の恋人が最後までのパートナーとなったという雰囲気にさせたかったのかな。
でもそういったことは勿論、ここまで見させられてきた(ヤな言い方だが)観客にとっての知識に過ぎない。
菜都美がバイトするキャバクラで働いていた良介は、ホステスたちから金を借りまくってドロン、奈津美もなけなしの一万円を彼に貸していた。
その後、なぜ彼が、そのホステスたちの中でも奈津美の前に現れ、そのまま転がり込んだのか、あるいは渡り歩いた最後だったのか、彼の再登場は唐突で、ただ疑問だけが残る。
でもこの時点ではそんなことを気にしてた訳じゃない。だんだんと、そんな、観客との意識のかけ違いが気になりだす最初だったような気はしているけれど。
菜都美は彼と恋人になった。恐らく、初体験であったろうと思われた。
この映画の冒頭で、大人になったらきれいなお姉さんになれると思った、だけど……みたいなモノローグがあり、自分はとにかく冴えない女の子であることを強調するために、微妙にヘン顔をするのね。
で、このヘン顔が何度か示される、そのうちの一つが良介とのこのシーンで披露されるんだけど、あ、あまりにも微妙過ぎる(爆)。
ヘン顔としてもそうだし、ここ一番ブスになっちゃうというインパクトとしても微妙だし。
確かに、真上からとらえたこの時のきいちゃんはかなりブサイクだったけど(爆)、微妙……これがリアルということなのかもしれんが、最初のうちは何となくこだわっていたように見えたこのヘン顔が、ほんの数回でそれきり触れなくなる。なんかとにかく、中途半端なのっ。
良介を演じる池松君は、良かったんだけどね……。最近は子役から上手くシフトしていく役者さんが多くなったけど、彼もその一人。
顔の造作は変わんないんだけど、だからこそ口ひげを生やしてるのがなんだか似合わなくて、それがこの良介という、優しいだけの男、でも優しいからついほだされちゃう男、にとてもマッチしてた。
いつのまにやらそれなりの筋骨を得た彼が、菜都美とじゃれあいからキスして覆いかぶさるシーン、そして背中を見せて眠りこけるシーンにはオバサン、ドキドキしちゃいました(爆)。
菜都美はその彼の背中に、油性マジックで猫の絵を落書きする。何気に色っぽいシーンなのだが、まあお決まりにきいちゃんはしっかりと胸を寝具でおさえてるからなー。まあここでおっぱい出せとは言わないけどさあ。
猫、そう、猫。猫の取り扱い方?は、本作で数少なく(爆)印象に残ったものかもしれない。
良介が子猫を拾ってくる。菜都美もその可愛さにまんざらでもないんだけれど、積極的に可愛がる描写はない。
やっととった雑誌連載の仕事をしている間、この猫とひたすら遊んでいる良介、というシーンは特に意味がある。
この子猫の口を借りる形で良介が辛辣なことを言う。結構いいことを言う。しかし忘れた(爆)。しかし菜都美にはずんとくる。何言ってたんだか忘れたけど(爆爆)。
この猫ちゃんが伝染病にかかっていることが判って、治療代に何万もの金がかかり、「命の方が大事だろ。給料前借するとかさ」と良介があっさり言い放ち、菜都美はキレてしまう。
それは、良介が全然働こうとしないっていうことがあったんだけど、なんかね、それを菜都美はそれほど強く糾弾してもいなかったし、なんかしっくりこないんだよなあ。
まあ私が猫好きだから、良介の言う言葉の方にウンウンと思っちゃったから余計いけないんだけどさ(爆)。
その後、良介と別れ、一人で生きていくことになる菜都美が、道端にメリーチョコレートのダンボールに入れて捨てられている子猫を見つける(このメリーチョコレートには何か意味があったんだろうか……実際その通りだったということなのだろうか……こういう意味づけって、ムダに気になって困る)。
笑顔を見せるも、菜都美は拾い上げることなく、その笑顔のまま通り過ぎる。
このシークエンスは猫好きとしてはうぅっ、と思ったけど、菜都美、そして西原氏としてのスタンスがそういうことだということを示しているのだろう。
そもそもあの子猫を良介が拾ってきた時から、外で生きることと、人間に飼われることのどちらが猫として幸福なのか、そんな議論があったし、それは猫飼いとしては常に直面するテーマでもあるから、重く受け止めて見ていた。
子猫は結局死んでしまい、厳かに川のたもとに埋葬されるシーンも丁寧に描写される。死んでようやく、外に出られたんだと、いう見方も出来る。
だからこそ菜都美は捨てられた子猫を、この子猫の幸せのために、拾い上げることをしないのだろう。猫飼いとしてはツラいシークエンスだけど、本作の中で意味あることとして受け止められた数少ない(爆)シーンであった。
本作のメインは、キャバクラの先輩ホステスとのエピソードだと思われる。この先輩、吹雪を演じるのが瀬戸朝香。幼い娘が谷花音。
花音ちゃんは、キビしかったなー……。売れっ子子役だというのは知っていたが、こんなゾワゾワする子役芝居をする子だとは知らなかった(爆)。
まあ、やけに上手い芝居を披露する子役も気持ち悪いけど(結局子役アレルギーなのか、私……)、まさかこんなにも売れっ子子役の子が、伝統のハキハキ&コビコビ芝居をするとは思ってもみなかった……。
母親の吹雪が、「あんたの絵を見るまで、あまり笑わない子だった」などと言っても、そんな影ある風情は残念ながらまるっきり感じないっす(爆)。
てゆーか、彼女ら母子が菜都美の絵のファンになる、っていうのが全然実感できなくて、はぁ?って感じだったからさあ……。
まあこの際、子供はいいよ、子供だもん(ヒドいこと言ってるなあ、私……)でも、吹雪が「ファン第二号にさせて」と言ってくるのが、その前に、娘が友達とコミュニケーションとれるようになった、という説明があったにしても、あまりの唐突感で、それ以降も、彼女たち母子が菜都美の絵にホントにシンパシイを向けているのか、っていう実感がまるでわかないのさ。
私だけなのかなあ……確かにね、色々用意されてはいる。最終的にこの吹雪さんは病を得て死んでしまうという、もう超強力なお涙エピソードが用意されていて、吹雪さんは菜都美の、最初の連載作品を大事に見て、笑って、最期に菜都美にあてた手紙には、それを感謝する文章がつづられている。
そして何より大きいのは、吹雪の幼い娘、沙希(花音ちゃんね)が、お母さんの遺骨が納められた骨壺に、お母さんの絵を描いて、と頼むことであり、きいちゃんは会得した西原タッチで瀬戸朝香の笑顔を描き込むんである。
フォーマルバッグに油性ペンが忍ばせてあるのかとか、そもそもここは焼き場であって葬儀場ではなく、ここまでついてきてバスに一緒に乗り込まないのねとか、なんか細かいことが気になっちゃって(爆)。
ここで吹雪のお姉さんから手渡された菜都美への手紙が最大の落涙ポイントになる筈なんだけど、こんな具合だからさあ……。
吹雪のお姉さんは黒沢あすか。ムダに上手いから(爆)、彼女の芝居で泣かされそうになってしまう。いや、泣けよ、別に(爆)。
吹雪はこのお姉さんが余計なことを言うのを恐れている。その通り、彼女は菜都美に、「もう退院することはないのよ。寿命を待つしか……」と実に自然に漏らしてしまう。
吹雪にしてはこれ、耐えられないことだと思うんだけど、そのあたりは特に強調されない、よね。まあ、死んじゃったら抗議も出来ないから、ってヒドい言い方!
でもね、それをね、そうしてほしくないってことをしちゃう、しかも身内がっていうことはね、現代において本当に、重要なことになっていると思うし、それをこんな風に、さらりと流しちゃうのって、実は凄く、問題なんじゃないかって気がするんだよなあ……。
しがない青年誌のエロカットから始まり、それが評判を呼んで漫画誌の連載を勝ち取るも、途中打ち切りになる。
先輩が私の漫画を楽しみにしてるんです!と編集者に泣きついているところに、人気漫画家が通りかかり、叱咤激励する。
友情出演のクレジットがなされている小沢真珠、確かにさっそうとカッコイイけど、その大作家に慰められてカンドーする菜都美にシンクロはなかなか出来ない。そもそもこの小沢真珠自体が、ラストクレジットを見ずしてもいかにも特別な出演て感じだし。
ヘタだヘタだと言われ続けても、そのヘタさが個性を生み出して連載を勝ち取る菜都美、ていうのはさ、苦労している描写をしてはいるんだけど、結構順風満帆じゃん、と見えてしまう。
大体、美大に行けるなんてかなりだよ。奔放な父親が彼女の学費をバクチに使い果たす、なんて説明的なシークエンスもあり、彼女は学費を自身で稼いで頑張っている、というのもさらりと描かれはするけれど、
ホステス仲間で女優を目指している子に、あんな下品な漫画描いて、それがあんたの夢だったの、と糾弾された時、菜都美が言葉に詰まったままならまだ共感できたけど、先輩の吹雪が「夢がそんなに大事なワケ」とか、判ったように見えつつ実はよく判らない反駁を、でも先輩だからなんか説得力があるように聞こえてさ、でそのまま吹雪は倒れて入院でしょ。
あの時、菜都美を糾弾した女優志望の子は、確かに青臭かったけど、でも彼女の言いたいこと、よく判ったんだよね。だからこそ、菜都美の答えが欲しかったのに、吹雪が割って入って、そのまま倒れちゃったことで、なあなあになっちゃって。
単にこの女優志望のコが、若いが故の誹謗中傷浴びせただけで、特に重要でもないシークエンスみたいな扱いになっちゃった気がして……。
凄く、重要だったと思う。この時の、この子の叫びは。
結局はこの子は女優にはなれなかったのかもしれない。負け犬の遠吠えかもしれない。でもこうして、今の時間で見返してみると、こうした市井の声を、ここで刻んでほしかったと思う。
成功した西原理恵子。処女出版本のサイン会になかなか人が集まらないなんていう描写も、身内的な、大学の同級生やら、吹雪の娘と姉やら、が集まってくることで和やかになる。
一般の人はただ一人、その青年は名前のザイゼンをゼンザイと書き間違えられるためにだけ用意された感。
そして別れた彼氏がウィンドーの外でカメラを構えていて、菜都美は矢も楯もたまらず飛び出し、東京の雑踏をさまよう。結局見つけられず、でも笑顔をたたえてラストクレジット。
結局、彼女は、菜都美は、この時点では市井の声をとらえているとは思えないからさ。ずっとずっと、乖離し続けているとしか見えないからさ。
西原作品の映画は、女優にとってのチャレンジの場、こぞって挑戦したがるし、その成功例も少なからずあった。
森岡監督が手掛けた「女の子ものがたり」そして本作、少女女優が大人になるステップとして、西原作品は格好の場所と言える。
でも少なくとも本作は、それが成功していたかどうかは……。あまりにも西原作品が続いてしまったことで、女優が出たがる西原作品、という鼻につく感じが正直、出てしまった気がする。
なんかね、新鮮味に欠けるのだ。客足が遠のいたのも、そのあたりが影響したと思うなあ。★★☆☆☆
ちょっとね、戦争映画は避けているところがある。自分でもズルいと思うけど、正直、苦手。まあ歴史モノが苦手だという一つのラインにもあるんだけど、特に今の時代はストレートに受け取るのが難しいということもあると思う。
8月の、夏休みとなると、日本映画界は必ず戦争映画を製作、公開してきた。若い頃は割とそれを素直に見て、素直に衝撃を受けたり、涙を流したり、考えを深めたり出来ていたんだけど、それが段々と出来なくなってきた。
それは……日本が作る戦争映画、は、様々なテーマから試みられてはいるものの、やはり一面的な部分があると思うようになってきたから。
つまり、敗者側の側面であり、戦争の無意味さを訴えるには敗者となった無力さは語りやすく、勝者は結局は戦争の悲惨さを判っていない、と訴えることが単純に出来る。
それがアメリカという大国に向かってならなおさらであり、本作もそういう一面的な部分はやはりあって、そしてそれは、この原作が刊行された10数年前にはまだ、どこか無邪気に言えていたところでもあったと思う。
でもネット社会に突入し、良かれ悪かれ世界中の声が耳に入るようになると、そうもいかなくなるというか。
もちろんね、大手の映画ではそうした一面性を保ってはいても、意欲的な独立系などは日本の負の部分も紹介してはきている。でもそれが目に触れるのはやはり圧倒的少数で……。
私、今でも思い出すのだ。「等待黎明」で初めて、戦争の敗者としてウツクシク戦争の悲惨さを訴えるというんではない、それ以外の日本の醜い側面があったということを。
何も知らされず、外から入ってきた、しかも娯楽という名の映画でそれを知ったことが本当にショックで本当に恥ずかしかった。
……あまりこの方向で進めると、こんな小さなサイトでもネトウヨさんは怖いのでこの辺にしておくけど(爆)、「はだしのゲン」の規制報道もあったりしたし、なんか……考えてしまったんだよね。いまだに8月になると“こういう戦争映画”が作られる。それでいいのかな……って。
そんなことを考えずに観たかったとは思う。戦時下をクライマックスに挟んでいるとはいえ、それだけではない、この家族の魅力こそが、本作の、というか、原作そのものの魅力だと思うから。
でもこれが、狙いすましたように8月の夏休み公開となると、やはり意味づけを考えてしまう訳。リアルな、これ以上なくリアルな、もうメッチャリキ入ってる大空襲、焼け野原、黒焦げの死体……なんてシーンが用意されているし。
ムダに前提が長くなったけど、とにかく行こう。あまり戦争には触れたくないが、触れずにはいられないからちょっとだけ覚悟して挑もう。
あれだけベストセラーになった妹尾氏の原作は読んでないんだけど、当時、妹尾氏のファンの友人にいくつかエッセイ本などを借りて読んでたりはしたので、何となく親近感はあった。
劇中、少年時代の妹尾氏、つまりHと呼ばれた頃の彼が、“うどん屋の兄ちゃん”(アカで捕まってしまう……)が口ずさんでいたオペラ、その元ネタのレコードを聞かせてくれる。日本が誇るオペラ歌手のパイオニア、藤原義江。
妹尾氏が若かりし頃に藤原氏の家に居候していたというエピソードをエッセイで読んでいて、藤原氏の写真のダンディさにうっとりとホレこんでいたりして。後に藤原氏の凱旋帰国を自身の主演でドキュメンタリー風に製作した映画なんぞを観る機会があったりもしたので、おお!と思ったんである。
でも彼が後に妹尾氏とこんな深い関わり合いをするなんてことは、映画としての中ではおくびにも出されない。なんかもったいない。原作に出てきているかどうかは判らないけど、知る人ぞ知る、という扱いなのかなあ。
何と言っても本作の大きな話題は、主人公の少年H=肇少年の両親を水谷豊&伊藤蘭夫妻が演じていることに他ならない。
この話題を聞いた時には即座に、「大阪物語」の沢田研二&田中裕子を思い出し、彼らを超えられんのー??などとナマイキなことを思ったりしたが(爆。だって「大阪物語」大好きなんだもん!!)これがなかなかステキなんである。実際の(上手くいってる(爆))夫婦が夫婦を演じるというのは、予測以上にいい結果を生み出すものなのかもしれないと思う。
小学生〜中学生の肇と、妹は当然更に幼くて、その両親役としてはかなりトウが経っているとも思ったが、劇中、お父さんには赤紙が来ないであろうという理由として「身体が小さいし(というあたりも、水谷豊、なのがね!
)、年をとってるから」と母親が言うのが、それは……実際にそうだったのかなあ、って。
敬虔なクリスチャン一家(特に母親)である妹尾一家は、戦時下迫害を経験することになるんだけれど、これがこの神戸ではなく、それこそ東京や、他の地方ならば、恐らくもっともっと、ひどい状況であったと思われる……。
いや、この神戸という地だからこそ、クリスチャンのコミュニティがしっかり機能していたとも言えるのだけれど。
母親の方がクリスチャンの教えにまっすぐ傾倒していて、父親の方は、外と関わっているということもあるんだろうけれど、無駄に波風を立てるべきではないというスタンスである。
そんな夫に「見損なった」と妻がため息をつく場面さえ用意されるほどに、戦局は庶民の生活にまで暗い影を落とす。
このお父さんが、紳士服の仕立て職人だというのが、この物語の魅力を決定づけている部分だと思われる。神戸という土地柄、そして彼の職業が、外国人の顧客と広く深い付き合いをすることになり、お父さんの目はグローバルに見開かれる。
だからこそ少年H=肇は、お父さんの言うことの正しさ、正直さ、戦争の無意味さを、その当時から感じ取ることができる。でなければ、こんな小説は残されない訳なんである。
お父さんは外国語が喋れるわけじゃないのに、各国の顧客ときちんとコミュニケーションをとる。お父さんの御用聞きに嬉々としてついていく肇が不思議に思って聞いてみると、「人間同士だから」とカッコ良すぎる答えが返ってくる。
この台詞こそが、本作における戦争の無意味さを見事に言い当てている部分なんだけど、なんたってこんな風にカッコ良すぎるもんだから、それを理想的に受け入れるまでにはなかなか行かなかったりするんである……。
それでも、本当に戦局が激しくなるまでは、お父さんは肇にしっかりと教え込んだ。まだ身体も小さな、小学生から中学生なんていう子供である肇を、一人の男と見込んで教え込んだ。
グローバルな目を持っていれば、勝ち目などないことが判り切っている戦争をなぜ日本がやるのか、あるいは、何からもしがらみを受けてはいけないはずの報道機関が、政府に都合の悪い情報は報道しないことなどさえも。
しかもお父さんは「それは、お父さんにも判らない」という、教え育てる子供に言うとは信じられない……それこそこの時代なら更に信じられない正直ささえ持っているんである。
このお父さんに導かれ育てられた肇は当然、この戦争の理不尽さ、無意味さをお父さんにぶつける訳で、その時に苛立つように判らないと返すお父さんの正直さは、尊大な家父長制度を綿々と続けてきた日本の家庭においては、かなり驚くべきこと、だろうと思われる。
だって今の日本社会でだってさ、ムダに父親の威厳をひけらかす向きはあるもの。このお父さんは自分の知ってることはすべて息子に注ぎ、知らないことは知らないと正直に言った。
そしてそれは、息子にだから、なんだよなと思うと、若干の苦い思いは残る。このお父さん、そして演じる水谷豊は素敵だけど、やはり女が取り残されている感はある。
実際は、女の方が直感的にも見えていた部分はあったんじゃないかと思ったりもするけれど……幼い女の子ということで田舎に疎開させられる妹の好子はもちろん、かたくななまでのクリスチャンである母親も、守られるべき存在として、こうして父親と長男から遠ざけられているんだよね。
それを、苦々しく描いている訳じゃないというのが、女としては何とも、ね。それこそが感動的とされるのは、……まあ仕方ないのかな……。
ちらっと先述したように、アカとして捕まったうどん屋の兄ちゃん=小栗旬やら、赤紙が来て華々しく出征したものの、逃げ出して追われて、首つり死体で発見される“オトコ姉ちゃん”=早乙女太一やら、若手も実力派をじっくり揃えている。
オトコ姉ちゃんはあまりに太一君にぴったりなので、映画のオリジナルかと思うぐらいだけれど、そうではないのかな……。
共産主義も、クリスチャンも、“オトコ姉ちゃん”も、一人ひとり考え方、生き方が違うのは当然、とまあ実にお父さんは正しく言う訳だが、そしてそれは、まさに今の、現代ならばマッチする訳で、だからこそこのお父さんは凄い、ということになるんだろうけれど、ここまでに至ってくると、現代においての都合が良すぎるかなあ、という気もする。神戸という先進的な地だし、彼の職業柄グローバルな視点を獲得しているというのも判るけど、ちょっとね、超聖人、ていうか(爆)。
その後、神戸が空襲で焼け野原になり、終戦を迎え、今までの価値観をゼロにされて、お父さん、虚無感に襲われ、すっかり腑抜け、という場面が用意されてはいるんだけど、それはきっと原作、そして事実通りなんだろうけれど、ちょっと、ズルい感じはしたのね。
この素晴らしいお父さんの元に育った肇少年は、戦争を挟んだあらゆる時間と場面で理不尽に遭遇、思い悩む。暴力的な教官(いや、中学校なんだから、教師?……でも教官、にしか見えないな……)に殴り倒されて悔しい思いをした。
戦争が終わると途端に、この教官は手のひらを返したように、教え子であり、まだまだ子供である肇少年にへこへこ商人の腰の低さを示すもんだから、肇少年はガクゼンとするんである。
その鬼教官から救ってくれた穏やかな教官でさえも、戦争が終わればあっさりと米兵が跋扈する市場に時計修理の露店を出したりするんである。
……でもそんなこと、当然で。鬼教官(タイゾー、なりきってるわー)も元の稼業に戻って、そうなると客になるかもしれない肇にヘコヘコした。
肇はそのギャップが許せないと思ったけれど、そして私が彼と同じ年頃だったら、確かにそう思っただろうと思うけれど、……違うんだよね。
その時に与えられた立場は職業であり、それ以上にアイデンティティである。それが戦争の恐ろしさであると言えばそうなんだけど、終戦を迎えればあっさりと翻ることができるのは、自分の身を守ることを知っているから。
鬼教官であることが身を守ること。戦争が終われば、商人になってお客様は神様になるのが、身を守ること。
肇はそんな風潮に違和感と嫌悪感を示したし、本作の展開の雰囲気としては、観客にもそう思わせたいのかな、という気持ちも感じる。
でも、判りやすい鬼教官の原田泰造と対比させる形で、フレキシブルで生徒たちからも慕われている佐々木蔵之介を配することが、まさしくそうだよね、と。
でも、キャスティングのイメージだけではちょっと、弱いかなあ。だってそれじゃ、後年へ、あるいは他国への影響は及ぼさないもの。
こういうあたり、やっぱり難しいと思う。再三言っていた、8月に配給される、日本の戦争映画の形である。
ただ、本作は国際映画祭で高い評価を得たというし。……うう、でも、こういうウリは国内においては重要なんだろうけれど……国際映画祭って、近年は特に、招聘される著名な映画人による審査がモノをいうし、“著名な映画人”って偏った考え……いやいやもとい、コダワリのある人が多いし。
正直、映画の正確な指針として参考にする気になれないんだよな……。一般的には認知度も高いし、それで指標にされちゃって、なんかヘンな雰囲気、うっかりけなせない雰囲気が出来ちゃって結構、困っちゃったりすることもある訳。
クリスチャンから、洋風の生活様式に傾倒、というか単純な憧れ、母国に帰国する宣教師との別れを惜しみながらも、譲り受けた洋食器にこそ夢中。
肇がフォークの曲がりを直そうとして欠損しちゃって、「(櫛の一本が折れても)刺せるわ」という言葉に、その時は噴き出しちゃったけど、後に焼け野原の中からこの櫛欠けフォークを発見、……妙に意味合いを深く感じちゃって。でも作り手(この場合、映画の作り手ということ)はそれをそこまで意識してるのかなあ、という気持ちも起こり……。
正直な気持ちとしては、空襲シーンのリアルさは凄かったけど、その後の父親の虚無感から始まる戦争が与えた虚無感、やりきれなさ、それこそこれは戦後の今の時代だから語れる、踊らされた感などは、あんまり感じることが出来なかった、というのが正直なところ。
それはもう……この時代になっても一面的な戦争映画、という、最初に感じていた違和感をそのまま引きずった感じもあって、戦争認識という点で、それが未来へ波及する点においても、日本がアナクロニズムに取り残されている気がして、怖くて……。
単純に。兄妹を演じた二人は、本当に当時の素朴な男の子女の子、といった可愛らしさで、これは素直にキュンと心つかまされてしまった。お名前は今風キラキラネーム(特に妹ちゃん)だけど、昭和に生きてる!
二人とも朝ドラ「カーネーション」に出てるというのが、まあ同じ関西ということもあれど、納得!だってお父ちゃんは紳士服なんだもん。
やはり当時は当地が洋風の最前線を行っていて、そしてだからこそ、見えてしまうさまざまがあったのか……。家の中にまで標準語を強制し、味噌汁までも洋風皿でスプーンで、というお母ちゃん“グローバル”に思わず笑っちゃいつつ、お父ちゃんの言う、せめて味噌汁はお椀でお箸で、という言葉に、想像以上の重い意味が込められていたのかもしれない、と思う。★★★☆☆
30分つめてしまえばいい作品になりそうなのに、などとひでぇシロート考えが心の中に浮かび、打ち消そうとしても、どうしてもその思いが消えない。
そう、シロート考えだけど、いい作品になりそうなのに、もったいない気がしてしまう。いや、きっとクロートさんはこれをいい作品だというのだろう(自嘲)。でも途中、長いなー……と何度も思ったし、主演の若い二人が、女の子が男の子の後ろから抱きつきながら泣き続ける場面を延々と映し出す長回しに眠くなっちゃって、目を閉じて開いてもまだおんなじ画面だなあ、などと思っちゃったら、もう私はダメだ、ダメダメだ。
監督さんは言ってた。何より俳優さんが皆素晴らしいと。イキイキしていると。そうかなあと思う(爆)。それって、謙遜しているように聞こえるけれど、実際は自分のホンを演じている役者さんを、イキイキと役を生きていると言ってる訳で、実際は結構自信満々な心が見え隠れしている、などと言ったらホントイジワルな見方かもしれないが、なんかそう思っちゃう。
だってこのクライマックスを延々と映し出す理由って、そうとしか思えないもの。皆暗いし、ぼそぼそ喋ってあんま聞き取れないし、“イキイキと”はあんまり感じられなかったなあ。
……すんません、私、オープニングクレジットで示された、東京芸大てなアカデミックにも最初から及び腰だったからさ(爆)。どーも、ダメなの、こういうエリートクリエイト学科の若い人が作ったものって、相性が悪いの(爆爆)。
でも、この監督さんの経歴はそれまで色々変遷があって、決してエリート一直線ではなさそうだけど、でも、なんか……はっぴいえんどの名曲からインスピレーションとかいう時点で、若いのになんだかなあとか思ってちょっとくじけちゃうのはあまりにもヘンケン、だよなあ、私……。
若い若いと言うが、私が年を食ってしまっただけで、別に彼が殊更に若いという訳でもないのだろうが、どうも若手のクリエイターがこういう、人間はなんたるかみたいな、人生哲学的なことを作りたがるのが、あんまり好きじゃない部分もあるんだよなあ……。
いや、若くても色々経験、苦労している人はいるだろうけれど、結構こういう傾向が、ある気がして、なんかオバチャンとしては、そんな大風呂敷広げないでよと思っちゃう昨今なんである。
あー、ヤだヤだ、こーゆーこと言い出したらホント、オバチャンだな。もうそういうヘンケンはいい加減置いといて、言いたいこと言ったらどうだ。
そうそう、主役の若い二人と言ってしまったけど、ここに集う擬似家族は誰に対しても、主人公的役割が展開ごとに用意されている感がある。その中でも最も尺が割かれていて、印象的にも監督が最も思い入れが強いのは、テキヤのオヤジである佐野和宏氏であるように思う。
それとも私が、佐野氏だ!ワー!!!と盛り上がって、彼に執着しながら見ていたからかもしれない。もう、佐野氏、はげ散らかしちゃって(爆)、恐らく実際の年よりかなり老けて見えるんだよね。その目の下の岸部一徳的なたるみもあいまってさ。でもそれが、でもそれが、なんとも、哀しい、悲哀、なんだよなあ。
彼はね、この擬似家族の若いメンメンに慕われているのだ。いや、あんまりそれも判りづらいんだけど(爆)、テキヤ稼業の彼は行くところがないワカモンたちを、自分だって甲斐性ないくせに、引き取って面倒見ちゃう。
彼が暮らしているのは立ち退き警告の立て看板が毎日立てられているような、ピサの斜塔並みに傾きかけてるおんぼろな家。冒頭、その立て看板を燃やしている朋之、画面の遠く、豆粒のようなサイズから、彼に話しかけながら近づいてくるユキ。
このオープニングのシーン一発で、うー、映画エリートと思って、もうこの時点で身構えてしまったかも(爆)。だってこれも何気に長回し、アラビアのロレンスまで持ち出すのは身構えすぎかもしれんが、そーゆー、もう、最初から画面構成凝ってまっせ、みたいな牽制を感じちゃったんだもん。……私ヒクツ過ぎるか……??
だんだんと判ることだけれど、朋之も、ユキも、家族がいない。オープニングの時点ではユキはたった一人の家族の認知症のおばあさんが行方不明になって、天涯孤独になって、住み込みで働ける場所を探して、スナックのホステスとして明日デビューする運び、その衣装を彼に見せにきたんである。
後に、客であるおまわりさんにあっさり高校生であることがバレてしまい、住み込みだった筈が行く当てもなく、芳男(佐野和宏)の家に転がり込むことになった。
古株の裕也にユキがホレていることが、最初の段階で明らかにされるのは、後々どの程度影響、というか、展開を及ぼしたのか正直微妙なところ。朋之はユキを意識してるけど、恋だの好きだのいうことが明確になる前に、どんどんいろんな人が参入してきて展開が進んじゃうし……。
そう、これは擬似家族、そしてロードムービーの物語。まあ私、ロードムービーもちょいと苦手だから(爆。あーもー、我ながらメンドクサイ)。テキヤが祭りから締め出され、家も失われ、地方で稼ごうと軽トラを調達するんである。そこに同道したのが、同じく行くところのないメンメン。裕也のカノジョである明美もこっそりと加わった。
途中、母親から売春を強要され続けた青春時代を過ごし、今も町の男たちからサセ子と嘲笑されては弄ばれ、心身ともにボロボロになってしまった日向もユキから救い出される形で同道する。
そんな具合に、行き場のない若者たちが、芳男の寛大さの前に集うんである。……実際は芳男こそが、彼の住む街のみならずテキヤはどこからも排除され、行く場所なんてないのに。行き場のない若い人たちを受け入れることで、彼は自分の居場所を作っていたのか。
芳男は皆にオヤジと呼ばれていたし、最初のうち、裕也か朋之は本当の息子なのかと思うぐらいだった。でも、違った。
芳男は実の息子に焦がれ続けてた。5歳の時の写真を大事に携帯して、いつか一緒に酒を飲む約束をしたんだと、それを酒を飲み続ける言い訳にした。旅に出たのだって、息子に会いたいからだったに違いなかったことは、朋之も裕也も判ってた。
結局、息子に会いに行く勇気も出ず、かつて家族で暮らしていた廃屋に入り込んで、残っていた酒をかっくらって、それがなくなったら工業用アルコールをあおって、急性アルコール中毒で、死んでしまう。
…………と、ちょっと先走りすぎたが。あのね、でも、この段に至って、やっぱりやっぱり監督は、佐野氏こそに思い入れがあって、彼こそを描きたかったんじゃないかと、確信に近い思いを抱くのね。
擬似家族というのは、映画的だし、魅力的だと思う。芳男のように、家族を焦がれている男の元に集う擬似家族ってのは、更にである。
でも、結局は佐野氏に思い入れがあり、擬似家族というファクターが彼の悲哀を形容するものでしかなかったことが、破綻……とまで言ってしまうのはアレかもしれんが、まあそれに近いものがあったんじゃないかと、思うんだよなあ。
ひとことで言ってしまえば、欲張りすぎと言うか。あのね、特に芳男がかつて家族で住んだ家の、あるひと部屋から出てこなくなってから、なんだか時間軸がおかしいのよ。
出てこなくなる彼を時々は誰かが心配してドアを叩くんだけど、時々なの。どういうタイミングなのかなと思うし、本当に心配なら、最初の段階でこじ開けるなり何なりすると思う。
でもその描写の間にいろんなことが起こる。明美の妊娠が発覚して裕也とケンカ別れ、裕也が日向とデキていることが判明してユキがショックを受ける、芳男の息子の勤め先の水族館にユキと朋之とで会いに行く、その時には会う勇気がなく、その後ユキ一人で会いに行き、「行くところないの?」と家に誘われアッサリヤラれてしまう……いろんなこと、起こりすぎだろ。
ていうかさ、それまでも、この旅の途中、誰かに、あるいは何人かに起こる事件にスポットが当たるたび、あれ?その間、あの人、あるいはあの人とあの人はどうしてるの?と思うことがたびたびあったのよね。
単に私の時間計算が頭の中で上手くいってなかっただけかもしれないけど(爆)、でも単純に、屋台出してる時に店にいないメンメン、芳男とか明美とかは何してるのかなあ、とか。チンピラに絡まれたりなんだりの、展開にジャマだからよけといたように見えてしまって、なだかなあとか(爆爆)。
擬似家族っていうのは、ロードムービー、テキヤの保証のない旅っていうのも含めてさ、すんごい魅力的だし、その中の報われない恋とか、愛されない命とか、まあ単純にベタに、血がつながっているだけが家族じゃないとか、収斂されれば、観客の中に落としどころをつけてもらえれば、すんごい良かったと思うのよ。
いや、ね、観客はバカなのよ、私だけかもしれんが(爆)。なんか本作に関してはね、彼らの悩みや焦燥を明確に言わないことこそが、その人物を見つめてもらって、その中の喪失感とか悲哀を見出してもらうっていうコンセプトみたいなんだけど、わっかんないよ、少なくとも私、バカだもん(爆)。
もちろん役者さんたちは、声なき芝居、行間のある芝居をしたと思う。でもそれだけに頼ったら映画じゃないじゃん……。
それでなくてもシリアス場面はやたら暗くて、ていうか、昼日中の明るい場面はやけに明るく、室内の暗い場面はやたら暗く、映像自体はクリアーなのがどちらにしてもデジタルバカみたいに思って(爆。ひでー言い方だなー)、こんなのメリハリじゃないよ、情緒も何もないじゃんと思っちゃう。
なんか、私がこんなに怒っているのは、擬似家族の中に、洞口依子が入ってこないからかもしれない。洞口依子を配するなら、彼女は大きな役どころじゃないの。
そりゃそうだ、監督が思い入れタップリ(としか思えない)の、佐野氏演じる芳男の長年のパートナーなのだから。長年のパートナーだけど、結婚はしていない。芳男の頭の中は、5歳の時から止まっている実の愛息でいっぱいなのだから、子供を授かることもない、その気もない彼女なんて、ヘのカッパなのかもしれない。
……こういう言い方、女の良くない感じだけど、でもさ、藍子(洞口依子)は、前半こそは芳男の、そして彼が面倒を見る行き場のない若者たちの良き理解者で、何たってユキを引っ張ってきたのは彼女なんだから、それに芳男の腐れ縁なんだからもっと物語に関わってくると思っていたら、冒頭だけ、言ってしまえば、メッチャ都合のいい女で、終わるんだよね。
ちょっと、ビックリした。いや、ていうか、かなり怒り心頭に達した(爆)。ウチら世代の女性観客なら、そこは絶対、見逃さないと思うよ!!
ぱっと見では、腐れ縁だからね、という軽さに抑えているけれど、それを女側こそが協調して言ってる、ってことは、彼女はそれを防御にして、彼に本気なのだから!
そうでなきゃ、腐れ縁なんてツマンナイ理由でいつまでもくっついてないし、少なくとも返ってくるあてなんてないに決まってる金を貸したりしないっつの!
芳男が最期の旅だと、どこかで覚悟してたから、さらりと渡したんでしょ。まさかそれを意識しないでこのシークエンスを書いた訳じゃ、ないでしょ。
芳男が危篤の場面に彼女が呼ばれてないのは、だからかなりえーっ!!!と思ったけど、それは芳男が、息子といつか酒を飲みたいと言っていたこと、それを臨終の席で擬似子供の彼らが叶えてやるってことでまあ仕方ない、ここに彼女を呼んだらそれが崩れてしまうものな、とようよう納得したけど、その後、芳男が骨になっても全然出てくる気配ナシ!
いや、ラストクレジット後、赤ちゃんを産んだ明美が、彼らが旅の出発で別れを交わした喫茶店に戻ってくるシーンはあれど、藍子は出てこないし、この描写だと藍子のことを考えて描写しているかどうかも微妙だし。
もう、もう、ここに至って、私はダメよ。ハッキリ言って、大人の女を敵に回したからね、ホントに!!
映画的理想は、ホント感じるのさ。テキヤ稼業のロードムービー、なんか旅芸人的な、ヨーロッパ映画の名作なんか思い浮かんだりしたしさ。
でも現代の日本、そして男と女、厳しさにさらされている若者、なのよ……。正直、サセ子だと囃される描写、それに憤る裕也や朋之がボコボコにされる展開もちょっと古い気がしたし、芳男が酒が切れて工業用アルコールをあおるのもちょっと、ねえ。
それまでの、いきなりキレたような酒の飲み方も酒飲みとしては、そんなのやらねーよ、ハリウッドじゃあるまいし、と思ってたけど、工業用アルコールのブリキタンクをあおるに至ってはないないない、と。酒飲みをバカにすんな、と。
それとも彼は自殺を図った、ってことなのかなあ。まあ確かにそれまでは展望もないまでも前に進んでたけど、会う勇気もない息子と暮らした記憶のある廃屋にとどまったから、そう考えも出来るか……説明しないのは観客を信頼してるってこともあるけど、これは放棄……いやいや……私がバカなだけなのっ??
三輪子ちゃんは「恋に至る病」で衝撃的に恋にブチ落ちちゃったかわいこちゃんだが、やたら明るい昼間と、やたら暗い夜や部屋の闇、コダワリの長回しやら、やたら前髪で顔を隠すシーン(わざとらしんだよなー。彼女の暗部や悲哀を示してるの?)やら、彼女のチャーミングな表情がなかなか拝めずに、もったいない、もったいなさすぎる!
芳男の息子にヤラれちゃった朝の、目にまぶしい純白のブラ&ショーツの場面ですら、なんか、サラサラとカメラが避けながら終わっちゃう。せっかく見せてるのに、もったいなーい!!!★★☆☆☆