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空気人形
2009年 116分 日本 カラー
監督:是枝裕和 脚本:是枝裕和
撮影:リー・ピンビン 音楽:World's end girlfriend
出演:ペ・ドゥナ ARATA 板尾創路 高橋昌也 余貴美子 岩松了 星野真里 丸山智己 奈良木未羽 柄本佑 寺島進 オダギリジョー 富司純子
ラブドールの映画といえば今年、「ラースと、その彼女」に出会って、もうこれ以上の作品は出ないと思われたのに、コレである。そのラブドールがラースの中だけで動き出したのと違って、本作は全ての人にとって、勿論ラブドール自身にとって、“心を持って、動き出してしまった”ところが、全ッ然違うんだもの。
でも、やっぱり、人間じゃない。心を持って、そして動き出すことが出来ても、それだけで人間と寸分違わないのに、やっぱり、人間じゃない。
その人間との違いは、言ってみればたわいもない違いなんだけれど。むしろ彼女の方が人らしい心を持っていたと言えるのだけれど。
それにしてもペ・ドゥナである。誰が彼女をこのヒロインに迎えようと考えついたのだろうか。監督自身だろうか。と思ったらやはり監督自身だった。それだけでとても嬉しい。こんなステキなキャスティング、ここ最近じゃちょっと思いつかない。
“心を持って”動き出した当初、空気人形はちょっと言葉もおぼつかない感じである。買われた先のいわば“飼い主”の言葉を断片的には覚えていたのだろうけれど、発音もアクセントもぎこちなく単語を繰り返す。それはまさに、異国の女優として一人孤独に飛び込んだペ・ドゥナ自身さながらなのだ。
しかし彼女は、徐々に言葉をものにしていく。それはペ・ドゥナ自身の努力によるものに違いないんだけど、それが見事に空気人形が人間世界に順応していく様に合致することには舌を巻く。
最終的にはまるで違和感のない流暢さにまで。それは勿論、“韓国女優が日本語をマスターした”んではなく、“空気人形が、人間の女の子に成長した”んである、まさに。
そう、もはやラスト近くのペ・ドゥナ、いや空気人形は完全に人間の女の子、なのだ。
でも、そうなった途端、そう、人間になることを決心した途端、彼女に悲劇が襲う。
それはまるで……そう、王子に恋して人間の足の替わりに声を失った人魚姫のように。いや、それ以上の喪失を彼女は味わうのだ。
彼女が最初に、外の世界に“ふと気付いたように”寝かせられたっきりのベッドから起き上がる鮮烈さは、忘れられない。
寝かせられたっきり……そう、“寝たきり”なのだ。空気人形の彼女は常にハダカのままベッドに寝かせられている。ご主人様が帰ってからメイド服やらなにやら様々なコスプレに着替えさせられて、お食事の(というか愚痴の)お相手をさせられるのだ。そしてその後はご主人様に性のご奉仕。
待っている間は常にハダカの状態の彼女は、人形でなければ監禁されている女の子に等しい。
いや、そんなことを言ってしまったら、いけないよね。ラブドールに心癒されている男たちはあまたいる筈なんだから。だから需要があるんだから。欲求不満から生身の女の子をヒドイ目に遭わせる様な男よりはよっぽどイイと思う。
だからこの設定って、アダルトジャンルに見えながらも、実際は……女の子の方に共感度が高いと思うんだよなあ。
そりゃね、何を話しかけても、ナニを突っ込んでも表情一つ変えないラブドールが動き出して、生身の女の子になって、自分の恋人になってくれたら、恋愛に縁のない男にとってはそれこそ夢のような話だと思うけど……でも本作のように、心を持ったラブドールは、他の男に恋をするのだ。それは現実社会とおんなじ。
好きになった女の子は、大抵他の男に恋をするものなのだもの。しかも初めての恋にセックスはいらないんだもの。
そうなんだよね。空気人形はラブドールだけど、当然ながら人形だから、セックスの喜びなど知りようもない。
空気人形のホストである秀雄(板尾創路)が、一緒にお風呂に入りながら、彼女の“中身”を取り出して入念にせっけんで洗うシーンは衝撃的である。
だってね、それはそうして取り出せちゃうんだよ?しかも中盤、空気人形がアルバイト先の店長に強要されてセックスした後、自らソレを取り出して洗面所で洗うシーンさえ用意されている。
そうか、ラブドールはあんな作りになっているんだ……思ったよりずっと精巧なんだな、などと思ってしまう自分がイヤになってしまう。
でもそういう“取り出せる”っていうのが、彼女にとっての気持ちとセックスとが完全にウラハラであるっていうのを図らずも象徴している気がして、ヘンなんだけど妙にホッとしてしまった。
ていうかね、そう、ペ・ドゥナなのよ。彼女が初めて動き出すシーンなのよ。
ご主人様が仕事に出かけて、彼女は“寝たきり”のベッドから置き出す。空気のつまったビニール特有のキュイキュイ鳴る音を立てて、彼女は窓辺まで行く。
窓の外に、空気がぱんぱんに詰まった手を差し出す。前夜雨が降ったのか、雨の滴が点々と連なっている。ポトリと滴が落ちる。
カメラがパンすると、ひそやかに息づくバストが捉えられる。思わず息を飲む。空気の詰まったビニールなんかじゃない。ホンモノの女の子の、お乳。
そしてまたカメラが移動する。さっきまで五本の指がくっついたままの、空気でパンパンのビニールの手が、しなやかな女の子の手になって、雨だれを受け止めていた。「キ、レ、イ……」それが空気人形が初めて発した言葉。
やっぱりね、女優はこうでなきゃいけないのよ。たかがバストトップを出すことぐらいで大騒ぎして、おっぱい出すだけで体当たり演技とか騒いで、もうそうなるとエロしか道はない、みたいなさ。
こうでなきゃいけない。千鶴嬢がなんてことなくさらりと脱いだジョゼ虎を思い出す。
女は、そして女優は、おっぱいもアソコもあって作られている生き物なのだ。そんなことを武器にしてはいけない。女優ならば最終の武器はあくまで演技である筈なのだから。
もちろん、女優が脱ぐってことは、セックスの匂いを連れてくることは必至である。なんたって彼女が演じているのはラブドールなのだから。
でもね、ラブドールとしての、つまりエロとしてのおっぱいって感じは、全然、ないんだよね。
それこそ女優としてしてやったりだと思う。それは空気人形自身としての身体でしかない。しかしそれが、ペ・ドゥナのひそやかなおっぱいが、とてもポエティックで、心打たれてしまうのだ。
ご主人様がお気に入りの、前夜に着たメイド服にリンゴのハンドバッグをさげて、彼女は初めて外に出た。
まさに“空気人形”が初めて歩き出した、フワフワと地に足がついていない感じが、メイド服にリンゴのバッグを下げた姿にやたら似合ってて、もうそれだけでキューンとなっちゃったぐらいだったのだ。
そう、この変遷が見事なんだよね。言葉もそうなんだけど、歩き方、動き方、全て見事に、彼女が獲得したい人間の女の子へと少しずつ近づいていく。その最初はこんな風にぎこちなくて、表情も戸惑い気味にキョトンとしてて、でもそれがたまらなく可愛いんだもの。
そして彼女がふと迷い込んだレンタルビデオ屋で、運命の出会いを果たすんである。
ペ・ドゥナの相手役となるARATA。是枝監督のジャン・ピエール・レオーとも言うべき彼だけれど、ヒロインにペ・ドゥナを迎えた時にこれ以上の相手役はないと思う。
そう、ペ・ドゥナのキャスティングにも心躍ったけれど、彼女の相手役がARATAだというのも、もうとてつもなくドキドキしたのだ。
だってね、特別出演っぽい形でワキにオダギリジョーなんかも出てるのにさ。でもオダジョーじゃダメなのよ。ペ・ドゥナの、いや、空気人形の相手はARATAじゃなきゃいけない。
彼女が迷い込んだ時、そのコスプレめいた姿にもちっとも臆さず、「何かお探しですか」と声をかけてくれた純一。
そのARATAはまさに、ホントにフツーの青年で、私は彼の顔をちっとも覚えられないんだけど(爆)それぐらい、フツーの青年で。でも何たってARATAだから声はばっつぐんにステキで。ああもう、キャーとなっちゃうのだ。
そして空気人形はこのビデオ店でアルバイトを始める。
映画のことなど勿論何も知らない彼女だけれど、最終的には店長の好きな「仁義なき戦い」のテーマソングを口ずさむまでになる。
ペ・ドゥナがあのテーマソング(しかも、クライマックスのチャララー、チャララー!というメインフレーズじゃなくて、地味にバックに流れる方よ)を口ずさんでいるっていうだけですんごい萌え萌えなんですけど(爆)。いやー、いいもん見せてもらった(聞かせてもらった?)なあ!
最初に空気人形を店内で見かけたサエない青年(こういう役をやらせるとピッタリの柄本佑)は、のぞみを模したメイド姿のフィギュアを製作してカメラでズームアップしては、自慰行為にふける。
ビニール人形ゆえの継ぎ線を気にしている空気人形がファンデで隠せることに感激して、「これで消せますよ」と路上で声をかけるのは、昔風のセクシーなバックの線が印象的なストッキングをはいた女性。
受け付け嬢をしている彼女は、若くて可愛い新人の女の子にばかり客が声をかけることに虚しさを感じている。
空気人形がキレイな空き瓶をあさっているゴミ捨て場にりんごを捨てている女の子、故郷からりんごを大量に送られて、腐らせたままにしている一人暮らしの美希(星野真里)。りんごだけではなく、家の中はまさに片付けられない女状態でジャンクフードを過食気味。いや、それはそんな単なる性質ではなく……彼女がこの都会でもうこれ以上先に進めない無力感がそうさせているのか。
そうした通りすがりの、通りすがりでさえない人々も含めて、空気人形の世界を行き来する。その人たちに共有しているのは、誰かの代わりじゃイヤだ、っていう気持ち。
ハッとした。そのテーマ、つい最近、ホントについこないだ聞いた。山田辰夫最後の主演作「代行のススメ」が、まさにそれをテーマにしていた。
彼女はラブドール。昔風に言えばダッチワイフ。空気人形は再三口にする。「私は空気人形。性欲を満たす、代用品」と。言葉さえもぎこちない彼女が、代用品などという言葉をこそ一番に身にしているのが不思議とも言えるんだけれど、ひょっとしたらそれは……彼女の入れられた箱書きに既に書かれていたからだったのかもしれない。
彼女をいわばレイプする店長だって、お気楽な映画マニアに見えながら、お気楽な一人暮らしを謳歌しているように見えながら、きっと違ったのだ。
最初に示される、玉子かけごはんを美味しそうに頬張る場面が、2度目に示された時には、カメラがふっと引いて、荒れ果てた孤独な部屋を映し出す。しかもそこは決して狭くなくて、彼が恐らく元は一人じゃなかったことを思わせる。
元は一人じゃなかったのに一人になることは、それは、本当に孤独、なのだ。
そのことまでに、空気人形が思い至っていたかどうか。
彼女が初めて得た思いは、純一だけに向けられていたから。
純一は、彼女が空気人形だと知っても、驚かなかった。
いや、驚いたことは驚いた、だろう。彼女がビデオを棚に戻している最中、誤まって突起に腕を引っかけて、脚立から落っこちると同時に、プシューと空気が抜けていってしまったのだから。
見ないで、と空気人形は悲痛な叫び声をあげた。いや、叫び声にさえ、なっていなかった。何が起こったのかを察知した純一は、彼女が空気人形であったことに対する驚きより先に、彼女を助けることを優先した。
本能的にカウンターからセロハンテープをひっつかみ、亀裂の入った彼女の腕の傷に貼り付けた。そして「栓はどこ」と聞き出し、服をめくられるのを恥ずかしがる彼女に頓着せず、お腹の栓に口をぴったりつけて、ふーっ、ふーっと息を吹き入れたのだ。
き、き、キタ……。もう私は萌え死んだことを悟った。
セックスシーンより、エロだと思った。いや……エロではない、エロどころではないほどの、動悸。
恋というのは恐ろしい。エロ以上の、エロさえ届かない、天上のドキドキがあるのだ……。
純一のあたたかい息によって、彼女が満たされてゆく。そう、満たされてゆくのだ。彼が“挿入”する“あたたかいモノ”によって!
彼に息を吹き込まれるたびに、くん、くん、とあごをあげて満たされてゆく空気人形は、それが空気を満たされているに過ぎないと判っていても、いや、“空気人形”である彼女にとっては、それこそがセックス、いや、それ以上のものに他ならないのだ。
その後、二人は当然のように親密な関係になる。
純一以外に触れられるのを厭ったのか、空気人形は飼い主の秀男から姿を隠す。ご丁寧に空気ポンプまで燃えないゴミに捨てて。
……そりゃあ、あんなあたたかい唇を押し当てらえて、あたたかい空気を挿入されちゃったら、空虚な空気ポンプなぞ当てられたくはないだろう……。
秀男は空気人形がいなくなったことに多少は動揺するけれども、拍子抜けするほどアッサリ新しいドールを導入しちゃうんである。
そう、まさに、彼にとっては、もとから彼女自身が代用品、そしてまた新しい代用品が来ただけ……。
純一と出会ってからも、動かない人形のフリしてラブドールとしての勤めをになってきた彼女は、思わず怒りをぶちまける。最初から判っていた筈なのに、私じゃなくても誰でも良かったんでしょ、などと言ってしまう。
そう、まるで、人間の女の子みたいに……。
“まるで”、という言葉の残酷さをふと感じてしまう。でも、やっぱり、彼女は人間の女の子じゃないんだもの。
秀男は、優しいのか気弱なのか、うろたえながらも「そんなことない」などと言いつくろうのだけれど、でも、彼が次に発した残酷な言葉は……でも無理からぬ言葉ではあった。
「元の人形に戻ってくれんか」
彼女が本当の、ホンモノの人間の女の子なら、そんな台詞は出てくる筈はない。秀男にとって彼女は、何も言わず、ただ黙って入れさせてくれる人形に過ぎなかったから。
そりゃそうだ、だって人形なんだから……のぞみという名前さえ、彼から与えられたのだから。
ある意味、人形としては、これ以上なく慈しまれたとも言えるのだけれど。
でもね、生身の女も彼女のように扱われることだってきっと、あるよ。そんなアンチテーゼがここに含まれていると思う。いや、思いたい。
空気人形は、自分の生まれた場所に向かう。
ドキリとした。生々しい様々な形のおっぱいが息づく、でも頭のない女たち、いや空気人形たちが無造作に置かれた空間。凄惨にも見えそうなのに、不思議とそう見えないのは、一体一体に愛情が込められていることを感じるからだろうか。
彼女が自嘲する「私は型落ち品」と揶揄するような画一的な人形たちではなくて、一人一人が生々しい個性を持つ、頭を差し入れられて誕生を待つばかりの場所。
彼女を見た途端、技術者の青年(オダギリジョー)はおかえり、と言った。たとえ型落ち品の古い作品でも、彼は覚えていたのだ。
今や彼が手がけているのは、ずっともっと進化した、本当に人間の女の子とみまごうばかりのものなのに。彼がメイクを施し、眼球を入れると、本当に今にも動き出しそうなのに。
しかし一方で彼は、ここに戻ってきてしまう人形たちの置き場にも彼女を案内する。そこがまさに死体置き場そのものだった。バラバラになり、汚れ、疲れた表情で置かれた中に、彼女と同じ顔をした……つまり同じ型の人形もあった。彼は、こうして戻ってきてみると一人一人表情が違っている。幸せだったか不幸だったか判る、と言った。
初めて自分の足で戻ってきた空気人形に、彼はその表情に何を感じただろう。
この子たちは残念だけれど、燃えないゴミにしかならないんだ、と彼は言った。一年に一度、まとめて捨てるのだと。
自分たちも死んでしまえば燃えるゴミになるだけだから、大して変わらない、と彼は言い添えた。
彼女は燃えるゴミ、燃えないゴミ……と反芻する。
空気人形にメイクを施してやりながら彼は言った。この世界にいいこともあったかい、と。その質問は、彼女が不幸な目にさらされたことを前提にしていて……彼は、自分たちの作った子供たちがどういう目的で出て行くかを誰よりも知っているから。
でも空気人形はその質問に頷き、そして、あらたな足取りでそこを出て行ったのだ。
行く先は、勿論、純一の場所。
自分が空気人形だと知っても、彼は驚かず、それどころかその後、二人はデートを重ねた。店長が二人付き合っているんでしょ、とからかったぐらい。でも……付き合っていたのだろうか。
純一の好きなようにしていい、と空気人形は言った。私はそのために生まれてきたんだから、と。
そう口にしたのは、彼が隠していた元カノと思われる女の子とのツーショット写真を発見してしまったから。
純一は、君が誰かの代わりなんてことはない、と言ってくれた。でも空気人形の提案に意外な答えを返したのだ。君に頼みたいことがある、という言葉に、彼女は自分にしか出来ないことかと喜んだ。それは確かにそうだったんだけど……。
ここに来る前にね、空気人形は一人のおじいさんの家も訪ねているんである。
いつもベンチにボンヤリ座っている白髪のおじいさん。自分の中身はカラッポだ、と嘆く空気人形に、ここにいる人間だって同じようなもんだ、とおじいさんは言った。彼が眺める先には空虚なビル群が林立している。
粗末な家で、力なく横たわるおじいさんがぽつりぽつりと語りだす。彼がはるか昔、代用教員だったこと。代用、という言葉にのぞみは敏感に反応する。誰かの代わり……。
おじいさんは触ってくれないか、と空気人形に言った。反射的に彼女が布団の裾をめくると、そうじゃなくて、と彼は額を差した。そっと手を乗せる彼女。空気人形の、ビニールの、ひんやりとした感触に彼は気持ち良さそうに目を細める。手が冷たい人は心が温かいっていうんだよ、と。
……このシーン、この台詞、なんかうっかり……泣きそうになっちゃったなあ。
よく言う言葉ではあるけど、空気人形にとっては、ことに今の彼女にとってはどれほどのあたたかい言葉だったろう。
あのね、純一も同じコトを言ったのだよね。自分だって同じだ、と。それは確かにおじいさんと同じニュアンスの台詞ではあったんだけれど、でもやっぱり違った。何が違ったのだろう。それはやはり……空気人形が彼を好きになってしまったから、だろうか。
空気人形はその台詞を聞いた時、本当に自分と同じなんだと思ってしまった、のだ。その場面はとてもチャーミングだっただけに、まさかそれを伏線としてこんな結末が待っているなんて。
純一は、思いがけないことを言ったんである。空気を抜いていいか、って。それって、それって、空気人形にとってはあまりに残酷な言葉じゃないの。
でも、その後急いで付け足すように「大丈夫、僕がまた息を吹き込んであげるから」と。
空気人形は戸惑いながらも、頷いた。
二人は一糸まとわぬ姿になった。そして、ジュンイチは空気人形のおへその栓を抜いた。しゅるしゅると音を立てて平らかになっていく空気人形。
と、純一は彼女のお腹にその温かな唇を押し当て、息を吹き込んだ。満たされる空気人形。そしてまたしゅるしゅると空気を抜く純一。また息を吹き込む。満たされる空気人形……。
何度も何度もそれが繰り返される。それはセックスよりも生々しく官能的なシーンではあるんだけれど、彼がそれを何を思って繰り返しているのか判らなくて……何だか妙に、哀しくて。
もしかして彼は、目に見える形で彼女を満たすことが出来ることに、逆に自分が満たされたかったのだろうか。ということは、彼は過去に愛した女性を満たすことが出来ない悲しい記憶があったのか。
ひとしきり求め合った後に、空気人形は幸せのまどろみの中で、ふと思いついたように純一のお腹を、切った。
!!
そして空気人形は部屋の中を見渡して、おもむろにセロハンテープを手にして戻ってくると、ペタペタと貼り付ける。思うようにつかない。そりゃそうだ。だって血が止まらないよ……。
コトを察した純一が苦しそうにうめく。空気人形は純一、栓はどこ?と無邪気に問うた。栓は?私も純一がしてくれたのと同じように満たしてあげる、って。そうして彼の唇からいとおしげに息を吹き込んだけれども……。
彼は、空気人形の方法では、満たされなかったのだ。
空気人形がそうしたのは、そうしたかったのは、自分が純一にそうされて、幸せだったから、なのだろうか。
だからその幸せを、大好きな 純一にも返してあげたかったのだろうか。
やっぱり空気人形は人形、人間にはなれない。
“人間だって同じようなもんだよ”って言ったって、同じようでも、同じと言っても、決して同じではない。
でも、でも、そんな人間の方が、ウソツキの人間の方が、人間として、ひどい。
ウソを知らない空気人形は、それを信じて……そして、愛する人を燃えるゴミにしてしまった。
動かなくなった純一を、血まみれの純一を、ゴミ袋に入れて、彼女は燃えるゴミとして捨てたのだ……。
空気人形はさまよう。
さまよった先に、燃えないゴミ置き場がある。
大好きだった、色とりどりの空き瓶を並べた場所。
そこに横たわった空気人形に、あの時、純一とデートしたレストランで、誕生日ケーキを運ばれてきていた女の子が抱いていたお人形。
フォークで髪をとかしていたお人形。
そうだ。あの時あの女の子は「アリエルがそうしていた」と言っていて、それは「リトルマーメイド」そう、人魚だった、のだ……。
横たわる空気人形に、女の子はもう用済みになったそのお人形を捨てる。
フォークで髪をとかれて、ボロボロになったお人形を。いや、アリエルを。
王子様に去られて、用済みになった人魚姫たち。
誰も、空気人形が燃えないゴミだと思って気にもしない。まるで女の子がそこで死んでいるように見えるのに。
一人、ゴミ捨て場に故郷からのリンゴを捨てていた、ジャンクフードばかり食べている女の子が、まるで久しぶりのようにカーテンを開け、窓からゴミ捨て場を見下ろした。そこに横たわる空気人形に「キレイ……」と思わず声を漏らした。
そう、空気人形が最初に外の世界に触れた時のあの言葉だ。
まさかそれが、“燃えないゴミ”になった自分に捧げられるなんて、あの時の空気人形は思いもしなかった、だろうに。
そんなラストシーンまで、胸をざわめかせ続けるこの切なくも美しい本作を、どうとらえたらいいのだろう。
空気人形が雨だれに手を伸ばした時、空気人形が目にしたカウンターの中の純一が顔をあげた時、そんなささやかな場面を今思い出してもドキドキする。
それにしてもペ・ドゥナである。いつも驚かせ続けてくれる彼女、童顔の愛らしさは変わらないのに、あのなっがい美脚にも今回改めてビックリ!
それだけに、可愛らしいワンピースからその足が無造作にむき出しになったゴミ捨て場のラストシーンが、切なく胸にこみ上げるのだ。 ★★★★★
ただ、この監督の名前に、少々の不安を感じなくはなかった。確かにデビュー作の「腑抜けども、悲しみの愛を見せろ」の衝撃は大きかったけど、あれはヤハリ、本谷有希子の原作のそれが大きく、あるいはサトエリの没頭度もあいまっていたから、なんか監督としての力量が見えにくい気がしていたんだもの。
それに、それこそ本谷有希子の名前の方が大きくクローズアップされているのが、クドカン脚本でやたらと監督デビューしちゃう人たちの真の実力がさっぱり見えてこないのと重なって、こういうのでデビューしちゃうのってどうなのかなあ、と常々思っていた部分も大きかったから……。
まあだからこそ、本作は真価が問われるところではあるのだろうけれど。
原作小説があるとはいえ、実在の人物、世の中を騒がせた結婚詐欺師で、そのエピソードの数々も知っている人は知っている(私は全然知らなかったけど)わけで、結局は監督の裁量と創作でいかようにも料理できちゃう訳で。
でね……なんというか、ひとことで言っちまえば、中途半端だなーって感じ、とでも言うべきだろうか。
まあ、私が予告編やなんかで勝手に期待していた面もあろうが(こういうの良くないけど、でもそれだけ予告編の方がよっぽど面白く出来ていたとも言えるのよ(爆))、なんか、バッカバカしい、ナンセンスな面白さ、を期待していたんだよね。
だって、バカじゃない。カメハメハ大王の子孫だの(これは劇中では言っていなかったと思うが)、母親がエリザベス女王の妹の夫のいとこだの言ってさ。特別任務のために滞在しているのが思いっきり和風旅館で正座し慣れてて、一番アヤしいのはその判り安すぎるカタコトの日本語でさあ。
つまりはこれって……絶対ナンセンス・コメディなんだよね。そりゃ彼に騙されて貢がされて、人生を棒に振った女性たちは大勢いるんだろうけれど、なんでこんな男に騙されるの、ギャグじゃん!って部分なんだと思うんだよね。
もし、万が一、そうした被害者たちの思いに引きずられたのが、ミョーにシリアスな空気感に行っちゃった原因ならば、それは……やっぱり失敗だと思うんだよなあ。
いや、そう思って演出していたかどうかさえ微妙なんすけど(爆)。
少なくとも演じている堺雅人自身は、そうした“安っぽいニセモノのバカバカしさ”を充分意識していたと思う。
そのカタコトはよりアヤシイ感じで、ボロアパートの中で無線ラジオをバックに飛行機に乗っている様を演出したりする侘しい自己陶酔、バレそうになって冷や汗かくあたりの情けなさも、まさに堂に入っていた。
それだけに……このどっちつかずの感じが惜しいというか、観客がどの立ち位置でこの物語を見守ればいいのかが判らなくてさあ。もう思いっきり、この自己陶酔男のバカバカしさを笑い飛ばしたかったんだよなあ。
それを阻害した要素はまあ、いろいろあるんだけど……一番大きいのは、彼のメインのお相手であり、しがない弁当屋の女主人、しのぶを演じる松雪泰子だろうなあ。
彼女はコメディなんてことはまるっきり頭にない様子で、クヒオ大佐を心から愛してしまった女として、実ーに湿っぽく、カンペキに演じてくれちゃうんだよね。
いや、それが間違っているとは思わない。むしろ間違っているのは……その彼女の演技なりキャラをそのまま通しちゃった演出なり構成にあると思う。
だってさあ……彼女を見てたら笑えなくなっちゃうんだもん。なんでこんな男に、こんな手管に騙されちゃうのという“抜けた感じ”がないのが、見ててどうにも居心地が悪くて仕方ないのよ……。
そう、“抜けた感じ”なんだよね。いくら堺雅人がそれを意識して、バカバカしい詐欺師の手管を演じても、それをまんま真剣に受け取られちゃったら、見てる方が興醒めでさ、いや、これをどう受け止めればいいの……みたいなさ。
だってクヒオ大佐は“上空から”弁当屋にカネの無心の電話をしてきたり、まんじゅう屋でみやげを買い込んだり(もちろん、しのぶ持ち)、「衛星で追跡した」と彼女を追って銀行に汗だくで現われたり(しかも、騙し取ろうとした通帳を見て「意外に少ないネ」と落胆する!)、絶妙にオマヌケなことをするんだよ?
それをマジにとらえるしのぶをカメラまでもがマジにとらえちゃったら……観客は笑うこともできないまま、どーすりゃいいのと置き去りにされるしかないじゃん。
ていうか、最初からそういうお涙路線だったのだろーか……だってさ、ラスト近く、クヒオ大佐がしのぶに心中を迫られて自分の生い立ちをぽつぽつ告白する場面、そこに至っても彼は、確かに自分は日本人だけど、おぼっちゃまだった、とウソをつき、でもしのぶはそんな彼のウソをさすがにもう見抜いてて、判ってて聞いている、みたいな趣でさ。
実際のクヒオ大佐は家庭環境に恵まれず、無力な母とともに父親の暴力を受けながら、貧しい家庭で育ってさ、貧しいから同級生が楽しそうに野球に興じてても加われなくてさ……みたいなことを、まー、お涙頂戴的にセピアな回想シーンで流すんだよね。
これはギャグか?というぐらいベタなんだけど……どうやらギャグじゃないらしい、マジらしい、というトコで、ああ……ここでマジだったら、ホントにそういう方向性で作っているんだと思って、なんか今まで居心地悪く、尻をモゾモゾさせながら見ていたのが、アホらしく思っちゃってさあ。
もちろん、女性はしのぶだけじゃない。もう二人、出てくるのね。自然科学館に勤める春と、銀座の売れっ子ホステス、未知子。
春を演じるのは「愛のむきだし」で強い印象を残した、今最も旬と言ってもいいであろう満島ひかり。「愛のむきだし」で共演した安藤サクラが彼女の同僚役として(しかも、彼女の元カレを寝取る)出ているのも面白いトコである。
もしかしたらしのぶは、心のどこかで彼に騙されていると気付きながらも、止められない自分を諦め気味に眺めていたトコがあるのかもしれないけれど、まだ若くてケッペキな春は、自分が騙されていると知るや、「なんで私だったのよ!」と彼に詰め寄るんである。
……いや春だってね、若いとはいえ、ケッペキっぽいところはあるとはいえ、おぼこ娘というわけじゃない。元カレだったシツコイ同僚に悩まされていて、酒に酔っては誰彼かまわず電話したことを翌日になるとスッカリ忘れている、なんて悪癖も持っている。
そんな中で、元カレに復縁をほのめかした電話をしたのも、彼女の中でおもてには出さないそんな弱い心が働いてしまったのかもしれない。でもそんな自分をシラフでは出さないし、とにかく突っ張ってて、そこをクヒオ大佐に突かれてしまったのだ。
最初の出会いで彼は、子供たちを引率していた春に「子供、キライでしょ」と話し掛けたのだ。
後にクヒオ大佐はそんなことを言ってしまったことを謝りに訪れ、そこで「ひと目惚れシマシタ!」と騙しにかかるのだが、春はこの時の彼の言葉がグサリときたのだった。
しかしそれは別に、クヒオ大佐が鋭い観察眼を持っていたわけではなく……まあ恐らく長年の詐欺師人生で培った確率の問題、つーか、単なるあてずっぽう、というか、とりあえず相手の女をドキッとさせる手管だったと思われるのよね。
と、いうのは、登場する三人の女の中で、最初からクヒオ大佐がまがいものだということを見抜いて手玉にとっていた銀座のホステス、未知子、がいるからなんである。
つまりはこの作品、平らかに眺めて見ると、クヒオ大佐は決して凄腕の結婚詐欺師などではなく、全然バレバレの情けないヤツなんだけど……なんか展開はやたら粛々と進められちゃうもんだから、ヘンに笑えないのが困っちゃうのよね。
まあ、それはいいとして未知子……でも彼女もさ、クヒオ大佐がニセモノだっていうことは名刺のスペルが三つも間違っているのを目にして判っていたし、彼からの儲け話(つまりは出資)にも逆に「そんなにお金があるなら、独立するのに貸してほしい」と切り返してさ、いつもの調子ではいかないことに目を白黒させるクヒオ大佐に嫣然と微笑んだりして余裕たっぷりではあるんだけど……。
でもそれも、観客に対する見え方としてはなあんか、中途半端なんだよね。徹底してない。それは彼との出会いの骨董屋でマジに落とされたように見えたせいもあるけど(店から出た彼女を追いかけるのに、見も知らぬ人の車に乗り込んで、さも御付きの者に送らせた、という演出をほどこすのはちょっと面白かった)、他の二人の女性に展開が分断されるせいもあるけど……あるいは更にいろんなせいもあるんだけど……。
うーんとにかく!クヒオ大佐が未知子に手玉に取られた!カブを奪われた!というドーン!というインパクトがないまま、彼女の方がスポンサーの男が逮捕されたことで窮地に立たされたりしてさ、なんかウヤムヤにされちゃって消化不良なんだよなあ。
てなわけで、クヒオ大佐を追い詰めたのは、結局春である。彼を本当に愛しちゃったのはしのぶだろうけれど、だからこそ見て見ぬフリをしてしまったしのぶと違って、まだ本気にまでなる前に……つまりはその前にくだらない男との別れを経験しているからこそ、見る目が養われていた春は、クヒオ大佐がニセモノだってことを突き止めてしまう。
クヒオ大佐とソックリなカッコをしたオッチャンとバスで乗り合わせて、このオッチャンがレプリカ専門店に入っていったのを突き止めたことがキッカケだけど、その前から不信感は抱いていた筈。
まあそれは、やはりちょっとアイマイな描写ではあるんだけれどね……同僚が元カレとエッチしようとしているところに遭遇しちゃって、もう関係ないから、と強がって飛び出した春、なんで怒らないのよ、と憤りながらもあのアメリカ人は止めた方がいい、アヤしいよ、と忠告する同僚に逆ギレした春は(いや、本ギレというべきだろうか……)、クヒオ大佐とほとんど勢いのように寝てしまう。
そしてその甘い雰囲気の中で、この戦争で親を亡くした子供たちのための基金を作る、というクヒオ大佐に、私も貯金は少ないけど……と春はついつい言ってしまうんだけど、恐らくこの時点でアヤしさに気付いていたに違いないのだ。
しっかし、この場面の、お尻までバッチリのバックヌードの堺雅人についついドキドキしちゃうんである。
てか、そう。“この戦争”なのよね。時は湾岸戦争。あの悪名高きブッシュが意気揚揚と進めた湾岸戦争。
同盟国と言う名の奴隷国として、カネだけ搾り取られた日本、という立場に国全体がブーイングしていた時期。軍人姿で現われるクヒオ大佐に春の元カレ(アンジャッシュの児島が絶妙のキモさで上手い!)が罵声を浴びせると、クヒオ大佐は自分の親友が戦死した様をとうとうと語り、君には友達はいないのか!と咆哮する。
……この書き方じゃ、思いっきり受け答えがズレてる気がするけど、まー、そういうトコもあったとは思うけど(爆)、クヒオ大佐は、この時ばかりは本当にクヒオ大佐になりきって、マジで“アメリカ軍人の悲哀”を体現していたのよね。
戦争が悪いのは判っている。しかし私たちは国を守っている。ある程度の犠牲は必要だ。国を守るために戦うこともできない日本人のお前たちに何が判る、……ってね。オメーだってホントは日本人で、戦争になんか行ってないくせに、ていうね。
……でもヘタにこーゆーマジなトコがあるだけに、そこに力を入れちゃうだけに、中途半端になっちゃった訳だよなあ。力の入れどころ、っていうか、シリアス部分に引きずられちゃって、バランスを失っちゃったってトコが真の原因なのかもしれない。
しのぶの弟役、達也として、なんか久しぶりにスクリーンで見た感のある新井浩文が一番印象強烈だったかもしれない。それこそ、主人公の堺雅人よりも(爆)。
彼ってさ、まん丸なお目めだし、鋭角的な風貌では決してないんだけど、なんでこんなにコワいんだろ(爆)。リアルなワルの怖さがあるんだよねー。決して彼自身はそうではないとは思うが……(当たり前だって!)。
クヒオ大佐のインチキを誰よりも早く見抜いて、しかもそれで通報したりはせずに、まずはアネキの騙し取られたカネを取り戻そうとする。
……と言うと姉思いのように見えるけど、つまりは「アネキのものはオレのもの」というジャイアン気質であり、クヒオ大佐から取り返した(というより脅し取った)カネはそっくり自分の懐に入る予定、なのだ。
しかしクヒオ大佐はこのとおり、こんな侘びしい女を騙すぐらいしか能のない男だから、銀座の女にもソデにされて、達也から請求された金をしのぶから騙し取ろうとする情けなさ(てかバカさ)なんである。
てなわけで、彼女に電話をしようと、くだんの安っぽいアリバイ演出で「ハロー、今イラクの上空からだヨ」と電話をしても、出るのはこの弟で「だから相手を確認しろって言っただろ」と冷たく返される始末。
だーかーらーさー。こーゆー部分ももっとコミカルに、笑わせるように出来る筈なのに、劇場内はクスリともしないんだもん。もったいないよなー。つまりは笑わせることって、コメディって、それだけ難しいんだよね。
このクヒオ大佐からの最初の電話に、横須賀の未亡人(だったかな)に仕込まれた、と流暢な英語で応答して、恐らくは英語なんぞしゃべれないクヒオ大佐の目をシロクロさせる弟、新井浩文はカッコ良かったわあ。クヒオ大佐を脅す場面は彼の怖さが堂に入っててホント、コワいんだけどさ(爆)。なんであんな丸い目をしているのに、その視線だけで殺されそうな気がするんだろ(爆爆)。
ラストシークエンスは、春がクヒオ大佐を追いつめて海の中にダイブして死にかけ、そして逃げおおせた大佐がしのぶとの心中未遂、というやっぱり重たさ全開でさあ、
まあラストのラストは、クヒオ大佐がアメリカ軍に救出されたという妄想の中、威勢良く号令をかけたところがパトカーの中で女性警官に冷たく叱られた、ってな具合でさ……そこまでナンセンスで押してたらここで大いに笑えたと思うんだけど……なんかね、ああ、彼はあんな辛い幼少期があったから(その直前に、しのぶとの“最後の晩餐”でその幼少期の回想シーンがあるのよ)、こんな妄想癖があっても仕方ないかなあ、なんてしんみりさせちゃう方にいっちゃうからさあ……。いくらクレイジーケンバンドの陽気なエンディングテーマに突入しても、手遅れ極まりないのよね。
ああ、なんかとにかくとにかく、もったいない気がしてならないのだなあ。堺雅人は「南極料理人」のステキさが記憶に新しかっただけに! ……彼のつけ鼻もビミョーすぎたしなあ……言われなきゃ気付かないぐらいだったよ。 ★★☆☆☆
最初はね、もうホントベタなぐらいのコメディタッチなのよ。というか、ひょっとしたらこの物語自体、改めて筋を思い返してみると、相当陳腐になりかねないと思う。彼はそれが判っているから、前半と後半とでコントラストを為すために、殊更に導入をライトに描いたのか。無論、巧妙に伏線をじわじわと入れ込みながら。
主人公のウォルト・コワルスキーはフォードの修理工を長年勤めあげて引退し、最愛の妻を亡くして一人きりになったところである。
二人の息子とその女房や孫たちは、ウォルトにとってあまりに無理解で、煩わしいばかりの存在。それは、でも、ある意味絵に描いた様な無理解さで、ちょっとソープドラマめいても見える。つまり、ここの描写に彼が力を入れる意味はないってことなんだと思うんだよね。
施設に追いやってヤッカイ払いすることも考えている息子夫婦を拒絶し、ウォルトは一人暮らしを続ける。しかし、なんたって今まで奥さんが何でもしてくれていたであろう生活、彼はビールとビーフジャーキーで生き長らえているような有り様なのだ。
奥さんが心配して相談に乗ってくれるように頼んでいた若い神父に、神学校を出たばかりのマニュアルどおりに説教する童貞に懺悔なんか出来るか、てな態度を崩さないウォルト。
加えてウォルトの家の隣には、もはや彼の理解の範疇を超える中国系大家族が越してきたもんだから、頭が痛いことばかりなのだ。
ウォルトの唯一の趣味と言えば、仕事の延長線上にある車、だった。それは趣味というより誇りと言って良かった。1972年に購入して以来、いつも新品同様にピカピカに磨き上げているグラン・トリノ。
彼にとって息子が乗っているトヨタのランドクルーザーなんてクソなのだ。「ジャップの作った車に乗りやがって。なぜ国産車じゃダメなんだ」という訳なんである。
正直、このジャップという言葉と、明確にメーカー名まで出たことにはヒヤリとした。勿論、作劇上、必要な差別表現ではあるけれど、これがアメリカ人の本音なんじゃないかと思ったから。
車=男、みたいな矜持のあるウォルトは、最小限の工具さえあれば、大抵のものは修理できる、という台詞も出てくるし……それがジャップへの皮肉かなあ。
そして隣の中国系家族にあからさまにイエロー、っていう目線を投げるし。
あのね、なんか悔しかったのだ。なぜこの家族が日本人では出来なかったのかなって。日本はジャップで、トヨタのランドクルーザーである。なんか、凄く悔しかった。
でも確かに、日本人家族じゃ成立しないんだよな。この家族はチャイニーズ系だけど、もっとフクザツなバックグラウンドを持ってる。チャイニーズというより、“私たちはモン族”という言葉が多用され、物語も最後になると、モン族であるからこそのアイデンティティが定着してくる。
ラオスであり、中国であり、ベトナムであるモン族。ベトナム戦争でアメリカに協力したことから、共産主義の攻撃を恐れて多くのモン族がアメリカに移り住んだ。そう、ウォルトを診る医者も、そしてウォルトの最期を検分にくる警官も、モン族なのだ……。
生っ粋のアメリカ人であるウォルトからは、このモン族一家はまるで奇異に映っている。早く出て行かないかと思っている。
でも彼はその名前から推察できるようにポーランド系であり、そもそも“生っ粋のアメリカ人”という言葉自体が意味をなさないんだというのが皮肉というか、上手いこと効いているんである。
ウォルトには理解不能な言葉を機関銃のように発するおばあちゃんを、「オレを嫌ってる」と渋面を作るウォルトだけど、日がないちにち庭先に座って過ごしている老人、という点では二人は奇妙なぐらい似ているし、恐らく二人とも同じようなことを言い合っているんだろうな、と思われるのが可笑しいのだ。
この家の大人しい男の子、タオがこの物語の最大のキーマンになるんである。
彼はね、いかにも大人しげで、しっかり者のお姉ちゃん、スーも心配しているんだよね。だから余計に、女に庇護されている情けないヤツだ、みたいに、タチの悪いチンピラたちに目をつけられている。このチンピラもモン族で、しかも彼らのイトコなんである。
このイトコに半ば脅されるような感じで、タオがウォルト自慢のグラン・トリノを盗もうとしたことから、ウォルトとこの一家の関わりが深まってくるんである。
タオのお姉ちゃん、スーのクレバーさと誇り高さにまず、ウォルトは魅了された。そしてそれは彼女が招待してくれたホームパーティーの、一家の女たちは総じてそうなんだろうと思われた。言葉が判らないウォルトは、この女たちに圧倒されるばかりだったけれど。
やけにオバサマたちに気に入られて、次から次へと料理を持ってこられてなかなかご満悦なウォルトは、なんたってイーストウッドだから可笑しかった。一方でそのパーティーに鎮座まします祈祷師に「あのジイサンはオレをじっと見てる」と気味悪がるのも。
タオやスーをチンピラから救ってくれたことでどうやら一族のヒーローになったらしいウォルトに、花やら食べ物やらを次から次へと持ってくる女たち。最初のうちはこんなゴミを持ってこられても、と苦々しげだったウォルトが、ホームパーティー後は「これはあの鶏団子か、じゃあ頂こう」なんて豹変しちゃうのがやけに可笑しかった。
そう、まるでアットホームだったのだ。だってさ、いわばガンコな愛国心あふれる退役軍人が、それまで興味も関心もなかった異国の民族と和解するなんて感じの展開なんてさ、思いっきりベタなソープオペラじゃん。やけに暖かい雰囲気で、へー、こんなん、イーストウッドが撮るのか、と思いつつ、笑いつつ、確かにどこかで違和感はあったかもしれない。
でも、この地に流れてこざるを得なかったモン族のバックグラウンドもそうだし、完全悪としか見えない、ウォルトの命と引き換えに制裁されるチンピラだってそうだと思うんだけど、そう、彼らには選択の余地はなかった、んだよね。
本当ならば、彼らだってモン族が暮らす故郷で平安に暮らすのが一番幸せだったに違いないんだもの。
でももともと移動民族の彼らだから、この新天地でもたくましく生きて行けるのだろうという希望もあるのだけれど……。
ウォルトがあんなチンピラ、死んだっていいぐらいに思いながら、結局は彼らを殺さなかったことに、なんかそんな意識が働いていたようにも思う。
勿論、彼が朝鮮へ従軍して、彼らと見た目も似ている若者たちを殺してしまったという強烈なトラウマもあったとは思うけれど。
それもさ、ウォルトがタオやスーに肩入れすることにならければ、そんな展開には陥らなかったんだよね……。
最初こそは、ウォルトにとってジャップもモン族も差異はなかった。「イエローは数字が得意なんだろ」の台詞がそれを雄弁に物語ってる。
でも賢く気だてのいいスー、素直で優しいタオという姉弟のキャラが見えてくるに従って、ウォルトの目は次第に開かれる。そして同時に、同じモン族でも醜悪なチンピラであるイトコたちも。
このチンピラたちは本当にサイアクでさ、タオがウォルトの手伝いをしたり、彼の口利きで働き始めるのに因縁をつけて、あからさまなイヤガラセをするのね。
ウォルトはこの善良な青年が、学ぶカネさえあれば正しい道に進めると知って、働き口などないという(それが本当に……深い問題に根ざしているんだけど)タオに仕事を紹介し、タオに思いを寄せる美少女ユア(ウォルトはどうしたってヤムヤムとしか発音できないんだけど(笑))にアタック出来るよう、“男の会話”なる、ランボーな会話を伝授したりして。
そう、ホントにそれは幸せな日々でさ、タオはきっとこのまま、幸せになれると思ってた。
でも、このチンピラたちに捕まってしまう。ついにはタバコの火を顔に押し付けるなんてことまでするから、ウォルトはキレて、一人一人をお礼参りしちゃう。
でもそれが当然マズかったのだ。チンピラたちは強行にも、タオたちの部屋にマシンガンを撃ち込んだ。なんてことを……なんてことを!
幸いにも在宅していた家族たちは軽いケガで住んだけれども、親類の家に行っていたはずのスーの行方が判らなくなった。イヤな予感がした……。
スーが戻ってきた時の衝撃は、忘れられない。
憔悴しきった顔が、ボッコボコに腫れていた。まるで壮絶な戦いを終えたボクサーみたいに。それだけでも充分に衝撃だったのに……案の定、スカートから伸びた足からは、幾筋もの血が伝いおちていたのだ。
どんな残虐な殺され方よりも、完膚なきまでに女を殺してしまう、レイプという悪夢の犯罪。
身内に、そして恐らくあの数人のチンピラ全員に輪姦され、しかも抵抗するたびに殴りつけられた、その光景は、想像したくなくてもありありと頭に浮かんでしまった。あんな、顔が倍に腫れ上がるほどに……。
それは、そのものの場面を指し示すより、あまりに、あまりに深く心をえぐった。
聡明なスーを心から信頼し、気に入っていたウォルトの顔色の変わりようは、彼がこの許せない犯罪の決着をつけようとしていることをハッキリと示していた。
しかも彼は恐らく、自分が引き金になったと、自責の念にも駆られている。それだけに、チンピラたちに対する憎悪の気持ちは、当事者のスーや弟のタオよりも強かったかもしれない。
ウォルトは、チンピラたちを殺してしまうと、思った。きっとそうしてしまうと。
でもそれでウォルトが罰せられてしまうことには強い抵抗を感じた。だってもう先行き短い(……)老人なのに、しかも相手は死んだって全然かまわないぐらいのヤツらなのに。彼が罪人として罰せられてしまうのか、と。
……なんてことをアッサリ書いてしまう自分に、半ば戸惑いを覚えている。
若かりし頃の私は、ムジャキに性善説を信じていた。でも今や、そんなことを信じられない時代になってしまった。
それでも、彼らがこんな境遇に身を落とさなければ、なんて思ってしまう。どこかで完全悪な人間などないと、思いたがっている。
でもきっと、イーストウッドもそう思っているんじゃないか、などと夢想する。勧善懲悪にして彼らをぶち殺すのは簡単だし、むしろ、そうしてくれた方が観客的にはスッキリしたんじゃないかとも思った。
でも、そっちの方が、冷徹なのかな、やっぱり。だって、こんなヤツらのために罪人として裁かれるなんて、やっぱり冗談じゃないと思う。死んでもいいから、むしろ人生の最後を飾るために、ウォルトが彼らを利用したんだとも見える。
ウォルトは、丸腰だった。指拳銃でたわむれに威嚇して、おもむろに胸元に手を入れて取り出したのは、ライターだったのだ。
それを拳銃とカン違いして、彼らはウォルトをハチの巣にした。それを、近辺の住人たちが多数目撃していた。ウォルトがたっぷり時間をとって彼らを挑発したから。
それでもやっぱりあの最後の瞬間のウォルトは、天使に見えた。
ウォルトの最期にかけつけたタオは、友達なんだ、と絶叫した。居合わせた警官が同じモン族だと知ると、故郷の言葉で訴えた。
タオの将来を汚さないようにと、ウォルトは彼を地下室に閉じ込めて、一人戦場へと向かったんだよね。その時ウォルトは言ったのだ。お前は成長して、大人になった。だから友達になれた、って。
……深い、深いよなあ。
成長しなきゃ、大人になれなきゃ、友達って称号は与えられないんだよね。それは年齢じゃなくて、勿論出自とかでもないのだ。経験、成長、私はそれを出来ているだろうか。タオのように、スーのように、そしてウォルトのように。
ウォルトは真の友、タオを、そしてスーを得たから、彼の、彼女のために死んだ。
死ねる程の価値のある友を私は持っているだろうか。そしてそれを持てた時に、人生に悔いなしと思えるんだとしたら……ウォルトはとてもとてもとても、幸せだったのだ。……ギリギリセーフだったけど。
ウォルトは恐らく、もう余命いくばくもなかった。血を吐いていたし、診断の結果に厳しい表情を見せてもいた。
……恐らくそのあたりも、いかにもベタなんだろうと思うんだけどね。
そしてある意味、ズルイ描写でもあるのだろうと思うけど、それさえも感じさせずにスピリチュアルな思いを残すラストに持っていくのは凄い。
あ、でもラストもまた、ベタではあるんだよね。だってウォルトの息子家族たちの前で、レアカーのグラン・トリノを友人、タオに譲ると弁護士が宣言するシーンなんだもん。それもくだけた調子の遺言書でさ。
でも……ベタなハズなのに、なんでベタに見えないのかなあ。
いや、前半は確信犯的に、もうベタベタなベタ、イーストウッドの、ガンコ老人を演じる演技も、ハッキリ表情を刻む演技といい、メッチャベタだったのに、ラストに至ると、ベタなハズなのにベタに見えない。
その前の、ウォルトの葬儀にタオとスーが正装である民族衣装を着て教会に現われるのだってメッチャベタなハズなのに、まあ、殊更にストイックに撮っているのもあるけど、ただただ胸を打たれるばかりなんだもの。
それを言ったら、ウォルトに再三教会での懺悔を促していた若い神父なんて、これ以上ないベタだよね。ウォルトによって人生を教えられて、最終的にはウォルトに同調してチンピラたちをぶっ殺したい気持ちを抑えきれないながらも、神父として彼によりそう、なんてさ。
案外今でもイーストウッドをアクション俳優としてのイメージがない人もいたりして、もうアクションはやれないだろうとか、監督ってのもなあ、なんて言われると、えーっと思っちゃう。ある年齢以降の人たちには、ダーティー・ハリーがそれだけインパクトを持っているということなのだろうけれど。
イーストウッドはきっと、監督になるために産まれてきた人なのに!★★★★☆
ちょっと、ちょっとだけ、ジョン・レノンとオノ・ヨーコを思ったりもした。いや、全然違うんだけどね。
80年代には人気を誇ったものの、今やあの人は今的な状態のリーと、彼の妻のエミリー。
復活を信じてレコード会社に売り込む日々、しかしいまだにメジャーの夢を捨て切れないリー、というかエミリーと彼を助けようとする周囲が激突。リーとも大喧嘩してエミリーは家を飛び出し、朝方帰ってみると……警察が取り囲んでいた。
部屋にはもはやこの世の人ではないリーの変わり果てた姿。私は妻だと叫んでエミリーが中に入ろうとしても、逆にクスリの所持で逮捕されてしまう。
リーの指示でエミリーがクスリを受け取りに行っていたんであり、つまりリーは……クスリの過剰摂取によって命を落としたのだった。
後に獄中のエミリーに、リーの復活を手助けしていた友人が問う。あのクスリは君が彼に渡したのかと。
ただひとこと、ノーとつぶやくエミリー。何度かそんなやり取りがあって、彼女はただ、イエスとノーを低くつぶやき続けた。
その友人は言った。弁護士費用もリーの再発売の契約金でまかなう。君は何もしなくてもいい。ただもう僕には連絡しないでくれ、と。
そして半月後、エミリーは出所し、リーの思い出から逃れるように、かつて暮らしたフランスへ渡った。
なぜレノンとヨーコを思ったんだろう。ホント全然違うのに。ピンポイントでね、なんかふっと浮かんだんだよね。
カリスマ的人気を誇った夫の突然の死、彼の受けたダメージや死の原因でさえ、妻と一緒になってからだと、彼女のせいだと糾弾されたこと、そしてその妻は……彼女もまた自らの才能を頼りにその後生きていくしかないってこと、それが彼女の人生なのだということ。
そんな断片的でありながら、最も強い印象を残す要素が妙に符合している気がして。しかも、夫が西洋人で妻がアジア人ってところも。
冒頭、ライヴハウスに出入りして契約の話を詰めている時、ライヴに出ていた若い女の子がエミリーのことを悪し様に言う。リーが凋落したのは彼女と結婚したせいだと、皆がそう思っているらしいことをダイレクトに示す場面。
確かにエミリーは、今でもメジャーレーベルと契約出来るんだと信じていて、しかしその話はいっかな進展しないまま年をとるばかりで、リーは焦っているし、その結果があの残酷な結末だったからムリもないといえばそうなんだけど……。
だけどリー自身、もう才能が枯渇していたのかもしれない、などとヒドイ言い様だとは思うけど思っちゃう。
だってリーは苦悩していた。お粗末な歌しか出てこないんだと。そのうちいいものがまた出来ると口にしながらも、それが彼の本心だったかどうかは……。
そしてエミリーが夜の街を眺めながら車の中でシャブを打っていた時、恐らくリーも同じようにして……そして、死んでしまったのだ。
本作はね、宣伝では、今まで距離があった母親と子供との関係修復、心の触れ合い、的な要素を全面に押し出してるんだよね。
まあ確かにその要素はあるにしても……重要な要素ではあるにしても……作品自体にとって一番のメインであるかどうかはビミョウなところ、なんである。
それはアサイヤス監督であり、彼が夫婦生活を共にしたマギー・チャンとの価値感が生み出したものかもしれないけれど、見え方としてはなんかね、自分の生き方こそをまず大事にしなければならない、という風に見えたのだ。
勿論エミリーは、今やたった一人の家族となった一人息子と一緒に暮らしたいと熱望し、そのためには更生して安定した仕事についてキチンと収入を得て、いつかそれを実現するんだと奮闘するんだけれど、それはこの物語のメインでは、ないんだよね。
しかもそのエミリーの頑張りは、途中で挫折する、とまでは言わないけど、でもやっぱり大きく軌道を外れたことは否めないし、そしてラストには、彼女が息子と一緒に暮らすという目標を達成出来たかどうかも伺えないままに終わるんである。
そこにはエミリーのそうした道筋をいわば手助けする、リーの父親の存在があり、この父親が彼女をそんな風に導くのはやや意外でもあるんだよね。
判りやすいのはリーの母親。そりゃあ、最愛の息子が自分たちの知る彼の姿からはまるで違う形で……クスリの過剰摂取などという理由で死んでしまったんだから、ショックに違いない。
リーはそんな子じゃなかった、という思いが、二人の子供を自分たち老夫婦に預けっぱなしにしている義娘のエミリーに向かうのもムリからぬことではある。
でも……あくまで“二人の子供”であり、この子供、ジェイを育てられずに預けたのはあくまで“二人の責任”な筈なのに、こういう場合、母親の責任ばかりが問われるのはいまだ時代が変わっていないのを感じる。
ましてや、そんな“女が子供を育てるべき”という価値感の中に育ったリーの母親がそう思うのは当然なんだけど……それにこそ自分が縛られて苦しんでいたことを、次の世代に味合わせたくないというよりは、だからこそ次の世代も味わうべきだと強いるのが、まさに社会の悪循環と思えてならない。
しかもエミリーが中国系、つまりそういう家父長制度に、舞台となるカナダやフランスやイギリスよりもずっと苦しめられている、というのも何とも複雑な意味合いを感じさせるのだ。
でね、それを思いがけずにリーの父親が突破するのは……つまり彼は身内とはいえ、そうしたがんじがらめにされた女たちとは違って、むしろジェイの子育ても老妻にまかせっぱなしのところがあったから、だからこそ、客観的に見られるところがあったのだと思う。
しかもリーの母親は、既に余命いくばくもない状態。彼女はエミリーのことは断固として認めない。ジェイにも、エミリーがあなたのお父さんを殺したのよ、と言ってきかせているぐらいだから根が深いのだ。
そりゃあ息子がエミリーと共にやっていたクスリで死んでしまったことは、父親にとっても重い出来事だったけれど、でも彼は、女にしか母親にしか出来ない仕事を、彼女たちが縛られている価値感とは違う観点で理解していて、だからエミリーの思いを叶えたいと思った。
その代わりをしてきた愛妻が、もう命の灯が消えそうだから……。
エミリー自身も音楽をやってきたし、かつてはケーブルテレビでちょっと知られた存在だった。どうやら相当キワどい衣装で登場していたらしく、出所した後あちこちでそのことを言われたりもする。
一度は身内に頼って中華料理店に勤めたりもしてみたものの、シャブではないものの治療薬漬けみたいになっていた彼女は、結局続けられなかった。
かつて世話になったエンタメ界の女のつながりも冷たいもので、待たされまくった上に、ソデにされる。
しかもそこでのレズビアンの匂いはひどく蠱惑的で、しかもしかもエミリーもまたそんな経験があったことが示唆されるんである。
刑務所の中で作ったデモテープが、一度は仲間内で却下されたもんで、もう堅気の世界に身を埋めると覚悟したエミリー。それが息子と一緒に暮らす方法なのだと言い聞かせた。
エミリーは英語もフランス語も中国語も出来たから(つまり、マギー・チャンがそれだけ出来るということ!)その点を重宝されて、観光客の多いデパートの婦人服売り場を任されることが決まっていたのだけれど……。
そんな中、リーの父親の計らいで、息子のジェイと会うことが叶うんである。
ジェイはおばあちゃんからの刷り込みでエミリーに対しては拒否反応を示しているものの……案外アッサリ、打ち解けちゃうんだよね。
まあ、打ち解ける、間では行ってないにしてもね。エミリーが連れて行った動物園には、ダサい動物園だね、とタイクツの色を隠さないし。
でも、スクーターに二人乗りするなんて初めてのことだったに違いないし、エミリーが友人宅に居候している先で、何でも見ていいわよ、と探し出したDVDがめっちゃヤバ系だったりした、のは、やっぱり祖母のところでは味わえないスリリングだったんだろうなあ。
そして、エミリーのもとへ、先述のデモテープのレコーディングの話が舞い込んでくる。もうそんな上手い話には乗せられない、息子と暮らすチャンスをここで逃がしたら、もう二度と叶わない、とエミリーはぐっとこらえるんだけれど……。
まず、息子のジェイがその留守電を聞いて、行かないのか、と言った。エミリーは即答出来なかった。話をそらした。
レコーディング先のサンフランシスコは、ジェイの産まれた町。行ってみたいという息子の言葉に後押しされたと言うべきか、言い訳にしたと言うべきか……。
リーの父親と、帰りの飛行機の時間までに返すと約束した。だからその目を逃れるように、ジェイにパスポートを取りに行かせたけれど、見つかってしまう。
「ママと話があるから」とジェイを遠ざけたリーの父親から叱責されるかと思いきや、彼は意外な提案をした。
君はサンフランシスコに行くべきだ、と。
ただ、そこにジェイは連れて行ってくれるな、と。
それは……リーの母親がもう余命いくばくもなくて、彼女が溺愛したジェイとの時間を過ごささせてやりたいことと、そして何より……エミリーがジェイに縛られることで、自分の人生を生きられなくなることを考慮した結果だった。
ジョン&ヨーコが最初に頭に浮かびつつ、最終的に頭に浮かんだのは、なんとまあ、太宰治だった。
「子供より、親が大事」
リーの父親は、エミリーの才能の可能性を大事にしてくれた。もはや死んでしまった息子。その息子の活躍した時代の音源が次々に再発売され、戸惑いつつも喜ぶ一方で、ライナーノーツに書かれた破滅的な彼の人生に妻が嘆息するのをなだめたりもしていた。
確かに息子の死を多くの人が悼んでくれて、こんな風に仰々しく再発売やらコンピレーションやら、してくれちゃったりするけれども、でもそれはもう……まさにライナーノーツに文句も言えないほどに、人々の勝手なイメージを世に出されることであり、ただの、商品なのだ。
決して、生きてはいない。
エミリーは確かに、褒められた母親じゃないかもしれない。でも彼女には成功できるかもしれない才能があって、人間は、まず自分のために生きるべきなのだ。
それで愛する家族を失うことになっても、アンタのために夢を諦めた、などと子供にグチるよりよっぽどいい。その時どんな時代の子供も間違いなく、自分が頼んだわけじゃない、と言うだろう……。
エミリーは、レコーディングに向かう。淡々と作業が進められる。スタッフはエミリーの歌声をとても気に入って、どうやら先行きは明るそうである。
しかし彼女は、一息入れてお茶を口にすると、ふとこみ上げた涙を抑えきれない。
ひと言では説明しきれない、あらゆる彼女の思いを感じて辛かったけど、ただそこで終わらなかったのが良かった。
エミリーは一息入れて、バルコニーに出る。そこにはのどかな丘陵が広がっていて、彼女はひと時、癒されたような笑顔を見せるのだ。
なんかね、この彼女の笑顔のラストが、全てを解決してくれたように思った。
エミリーとリーは実は結婚してなくて、つまり事実婚で、だからこそエミリーはここまでの不利益を受けるとも言えるんだけど、その描写はいかにもフランスであり、そして……何より現代的であると思う。
いやいや、やはり、何より何より「子供より親が大事」なんだよ。つまりね、親が元気じゃなきゃ、伝えていく世代が元気になれっこないってこと! ★★★☆☆
実は、クローン、という言葉自体にある種の懐かしさ、お伽噺のような雰囲気を感じるんだよね。それは私ぐらい以下の世代の人なら、あるいは共通して持っている感覚じゃないだろうか。
私が即座に思い出したのは、子供の頃、某少女マンガ誌に連載されていた話。作者もタイトルも思い出せないんだけど、クローンという言葉を最初に知ったこと、そしてそのクローン人間がちりとなって消えていく様があまりにショックで、その後私にとってしばらくの間、クローン人間という言葉はトラウマ的な恐怖になっていたほど。
そして二番目は、新井素子の傑作、「今はもういない私へ」。私ぐらい以下の世代の人、がクローンというものにある種の懐かしさを覚えるんじゃないかという一つのキーワードは、新井素子の出現だったように思う。
勿論、星新一や小松左京といったSF界の大家は存在していたけれど、当時の若い世代にダイレクトに影響を与えたのが新井素子であり、さまざまなSF的モティーフを身近に感じさせもした。
本作は「今はもう……」で描かれたクローン人間のアイデンティティ、というテーマがダイレクトに共通している。むしろその相似系に驚いたぐらい。
自分がオリジナルを元にしたクローン人間なら、自分という存在は何なのか。今こうして何かを考えている自分は、それは自分の意志ではないのか。
本作ではクローンとして再生されることを本人が選択しているというのが大きな特徴であり、新井作品に見られたような苦悩まではないのだけれど、クローン人間ということを考えた時にどうしても考えてしまうこのアイデンティティの問題は、非常に色濃く影を落としている。
それを“霊魂”というモノに置き換えるのはちょっと……その言葉の突然のアナクロニズムに正直鼻白む思いもしなくもなかったんだけど、でも、判らなくもないように思う。
オリジナルとクローン人間がまったく同じデータから生まれ、過去の記憶も何もかも同じうする、“複数の同一人物”なのだとしたら、全く同じ霊魂も存在するのか、と……それこそもし、クローン人間などというものが実現したら、そんな議論も宗教学上、出てきそうだもの。
しかもそれを、双子の兄弟というモティーフに絡めたのは、なるほど、アイディアだったと思う。
双子で生まれていない人たちには、双子の感覚というものが当然判らないし、とても興味がある。ことに一卵性双生児とは、もとは一人に生まれる筈だったのに、二人になった。それは……こんなランボーな言い方をしては決していけないんだけれども、この、SF的なクローン人間を頭によぎらせてしまう人は多いんではないだろうか。
もともと一人の人間として生まれる筈だった双子の、その片割れが死んでしまったら、もう一人はどうなるのか。
そういえば……かつての名作マンガ「サイファ」で(私、マンガばっかりだな)、「双子って、片方が死ぬとどうなるんだろう」とロイがつぶやく場面があった。それは兄のジェイの危機を身体で感じた直後で。双子のかたわれが死んだら、その運命を共にするんじゃないか……自分の分身への愛情と戸惑い(憎しみとまではいかない)を直截に示した言葉だった。
昔々の日本では双子は忌み嫌われて、片方は亡き者にされたなんていう話もあるし、そしてドッペルゲンガーというイメージもあるし……。
動物ではもう実現している今の技術が進めば、遠からぬ未来、クローン人間も本当に可能になるのかもしれない、いや、ひょっとしたらこんな風に密かに実現されているのかもしれないと思えば、それは決してお伽噺でもファンタジーでもないんだけど、何か、懐かしく、悲しく、切ないのだ。
それは、クローン人間の存在意義というのが、オリジナルの喪失によって得られるものだから。オリジナルと同じといっても、でもやっぱりコピーに過ぎない、自分は替わりに過ぎない、オリジナルが死ななければ、自分はここにいることはなかったのだ。
それがオリジナルと記憶も何もかも同じ、同一人物と言えるものであっても、今ここにいる自分が最初から必要とされていたんじゃないんだ……というのは、とてつもない、想像もつかない、絶望だ。
自分に万一のことがあったら、クローン人間として再生することを選択した主人公の高原耕平は、優秀なアストロノーツである。
物語の冒頭、高原の同僚が宇宙空間での作業中、事故に遭って死んだ。そのために彼のミッションが遅れることが危ぶまれたのだけれど、それよりも何よりも、上層部たちはこれ以上優秀なアストロノーツが失われることを危ぶんだ。
そのために、もしものことがあった時にと、高原にクローン再生への了承を約させる。クローン技術が医療上、高度に役立っているこの近未来の時代、あくまで医療の延長線上だと上司は訴えた。実はその裏に大きな問題を抱えていることを知らせずに……。
人間のクローン技術は、完璧に確立されていた訳ではなかったのだ。それを成し遂げた老科学者は、自身の病死した孫を遺法に再生させ、追放をくらっていた。しかもその再生した孫娘は実体の解明のためにと取り上げた技術者たちによっていじくられまくった後に、死んでしまった。
老科学者を追放したおごった上層部は、自分たちでクローン人間を作り出せると思っていたのだけれど……。人間の脳の記憶は思った以上に複雑で、最初の高原のクローン体は少年期のトラウマが色濃く出た状態から抜け出せず、上層部たちによって抹殺計画が実行され、瀕死の身体で行方不明になった先でそのクローン体は死んでしまうんである。
それは……本当にそれこそ、クローン人間はオリジナルではない、コピーに過ぎないという、アイデンティティの喪失という絶望感を残酷に示していて、言葉もない。
しかも、……これはちょっとズルいと思うんだけど、この二番目のクローン体は、そんなことさえ認識できずに……傷ついた少年の心のまま、死んでしまうのだもの。
あんまりだ。
一体目のクローン体が向かったのは、自分が少年時代を過ごした故郷だった。二体目のクローンとして今度は完璧に再生された高原が、老科学者から、君なら一体目のクローンがどこに行ったのか判るだろうと言われ、迷いもなくそこを目指す。
途中行き遭った農夫に、あんた、あの時の……あの時は様子がおかしかったから心配したけど、元気そうだと言われ、咄嗟に彼は、あれは双子の弟なんです、と言った……のは、高原の中に、クローン再生の話があった時から、いやずっとあの幼い時から、死んだ弟のことを忘れたことなどなかったから、なんだよね。
朽ち果てた懐かしい我が家で、腐りかけたクローン一号を見つけた時の彼の表情は……それは……どう考えても、死んでしまった弟に対するそれとしか思えなかった。ガクリとひざをついて、絶望のため息をもらす。自分の分身を、自分の片翼をもがれた天使。
そう、思った時に、ふと思い当たった。私たちは、見えている、実在している分身がいる、打てば響く共鳴体である双子という存在を、うらやましいと思っているんではないのか。
そういえば、共鳴といえば……あの老科学者が、オリジナルの霊魂とクローンが共鳴するんだと、それがクローン人間を作る難しさなんだと言った。
それはまさしく、オリジナルの亡霊的記憶に苦しめられる新井素子的世界で、懐かしさ、ファンタジックさを感じてしまうんだけど……つまりはこれが、倫理観、というものなのかもしれない、と思う。霊魂だの、亡霊だのってものすごくアナログ的発想だけど、それこそが、人間が人間たる所以なんだもの。
二体目のクローンである高原は、クローン一号が果てていた、朽ち果てた我が家に、自分が着ていた筈の宇宙服を見つける。彼は「なぜこれがこんなところに……」と驚く。
クローン一号は、懐かしくそして悲しい記憶のある、故郷の川岸に赴いてそれを見つけたのだった。頭部のシールドを開けると、自分とソックリの顔が目を瞑っていて……少年期の記憶しか取り戻せていない彼は、それが、自分のせいで死んでしまった双子の弟だと思い込み、“彼”を背負って歩き出す。
その画は、ひどく印象的である。予告編で目にした時、ぐっと心に突き刺さった。湿り気のあるブルーグレイ、のどかな田舎の風景、地震にあったかのような、屋根が粉々に崩れた朽ち果てた家屋のある道を、だらりと垂れ下がった宇宙服の“オリジナル”を背負って歩いていく。なんかそれは……そう、姥捨て山のような残酷な悲哀さえ感じたのだもの。
それこそ、そう、こんなことを言ってはいけない、絶対にいけないんだけど……分身は、コピーは、この世に同じものは、二つはいらない、って。そして……それを彼が双子の弟に重ねているのが(そんなこと絶対にない、絶対にないんだけど!)絶望的に悲しくて。
高原は、弟に対して贖罪の気持ちを持ちながら、ひょっとして、もしかしたら、万が一にも……自分がオリジナルだという気持ちがどこかにあったんじゃないかって。
気弱で、優しくて、母親に愛されて、だからどこか……疎ましかったかもしれない弟。
そこまでの気持ちは本作の中では描かれてないけれど、双子なのに、顔はソックリなのに、全然違ったんだもの。母親は彼らが入れ替わって演じたって、絶対に騙されたりしなかった。
その時には、それがどれだけ尊いことか、判っていなかったのだ。
優しくて兄思いの弟が、母親に愛されているという、たただた疎ましい存在としてだけ認識していた、その愚かさを、彼はあの悲惨な事故以来、ずっと思い知らされてきたのだろう。
入っちゃいけないと言い含められていた川に入り込んで、流れにのまれてしまった。兄を助けようとして飛び込んだ弟の方が、死んでしまった。
あの時の、母親の悲痛な姿。決して二人を見間違えることのなかった母親が、彼を見て「帰ってきたの」と声をうわずらせた、あの哀しさ。
僕の方が死んでいれば。そう口走って、母親に頬を張られた。すぐに後悔して自分を抱きしめて泣いた母親の胸の中で存分に涙を流した彼が、その時の記憶をずっと抱きながら生きてきたことは、想像に難くない。
物語の最初、高原の、もう老いた母親が、病なのか死の淵にいるんである。
彼は、母親の手を握り締める。幼い頃の思い出話をする。二人を決して間違えなかった母のこと。
間違えるもんですか、とベッドに寝たままの彼女は弱々しげに微笑んだけれど、恐らく彼の中では、たった一度間違えたあの記憶が甦っていたのではないだろうか。
前半は、かなり時間軸が交錯している。高原が母親を看病していたと思ったら、もう次のミッションも通り過ぎて、彼が死んでクローン人間として再生されている。そのパズルのような組み合わせは、まるで夢の中の出来事のようである。
実際、ここで展開されるクローン人間たちの苦悩は、“近未来SF”だってこともあって、決してリアルではなく、ぼんやりとした夢のような雰囲気なんだよね。このブルーグレイは最初こそメタリックな印象を与えたけれど、次第に現実離れという印象の方を色濃くする。そう、まさに……お伽噺なのだ。
夫からクローン再生のことを聞かされていなかった妻は、上層部たちと相対した場面で苦悩し、怒り、涙する。
この場面の、殆んどカットなしの永作博美の演技は、息をするのさえはばかれるほどの素晴らしさ。泣きの演技、なんて単純に言いたくない。
蒼白になりながらも冷静な表情を必死に保ち、組織の非道を追及する彼女の目から、だけど涙だけはどうしようもなくこぼれ落ち続ける震えるほどの緊迫感。しかし「(クローン人間の了承を得られないなら)私たちは本当にお悔やみを申し上げなければなりません」と聞かされた時の、悔しそうに歪んだ顔を、手で覆った悲痛さ……。
この一連の場面だけが予告編の彼女紹介に使われ、主人公のミッチーよりも誰よりも重い印象を残した(石田えりよりも!)のは凄い。
実際の登場場面はホント少ないんだけど(だからクレジットの順番も後なんだけど)ひょっとしたら彼女の緊迫感溢れる演技が、最も印象に残ったかもしれない。
そして、二体目のクローンとなった彼は妻に言ったのだ。「僕は生き続けなきゃならないんだ」と。
一体目を埋葬し、彼はカラッポの宇宙服を背負って歩き始める。
ただただ、歩いてゆく。
生き続ける、と、彼は言ったよね。
正直霊魂という言葉が出てきた時には、この完璧な世界を作り上げといて、なんとヤボな、と思った。それだけが惜しい、とさえ思ったのだけど。
でもそれこそが、この物語世界を支え、そして私たち人間を支えているものなのかもしれない。★★★★☆
ただ、息を呑むほど美しい青い青い海、ふわりと風が揺らすカーテンの中から聞こえてくるピアノの音、何より清楚なワンピースが似合い過ぎるまさみちゃんの可憐さ、と、もう雰囲気だけで引きずり込まれるのは確かなんだけどさ。
あ、勿論、苦悩の父親、佐々木蔵之介がステキなのは言うまでもないのだが。
しかし彼の酒量が増えていくキッカケがアイマイなのは、ちょっと気になったかなー。例えば妻が死んだ時、とか、娘の恋人が死んだ時、とかいうんじゃないんだよね。
まあ、妻が死んだあたりから酒量が増えていったのかもしれないけど……なーんか、じーわじわ、酒飲みオヤジになっていくってのが、このポイントは重要だと思うだけに、もったいなかった気がする。無論、娘はそんな父親を心配して見守っているわけだし……。
なんて、まあ気になるところを先につらつらと言っててもしょーがないので……しかしさ、まさみちゃんはこれで沖縄を舞台にした映画は二本目だよね。しかも双方、どっぷり沖縄。縁があるのかなあ。
だけどその一本目の「涙そうそう」では軽い沖縄なまりがカワイかっただけに、フツーに標準語喋ってるのが、なんかそれだけでもったいないよなー、って気がしちゃうんだよな。
まあそりゃー、どっぷり沖縄言葉喋られたら全然判んないんだろうけど(爆)、でも地方を舞台にした映画を観る時、ホントよく思うのよ。なんでわざわざココを舞台にしているのに標準語なのよ、って。
特に沖縄なんて特殊な言葉を喋っているのが広く有名なんだから、標準語で展開されていくと、沖縄じゃない人間にとってだって逆に違和感というか……。
そういやあさ、尾道で映画を撮り続けていた大林監督が、初期の頃はそれでも標準語だったんだけど、新三部作の最後に、尾道弁で作劇したんだよなー……全国のマーケットに乗せるには、誰もに通じる言葉が必要なんだろうけど、でも言葉はそこで生きている人を何よりも表わす、アイデンティティだからさあ……。
まあ、とにかく、物語を追ってみる。これ、第一章から第三章まで分かれてるんだよね。正直、その時点でちょっとうっとうしいんだけど(爆。苦手なんだよね。こういうもったいつけた構成)。
第一章は、父親の物語。身体を病み、そして心も疲れて島にやってきた有名ピアニストと、島で細々と暮らす海人(うみんちゅ)の恋。
というかね、最初は彼の方が彼女に一方的に恋をして……というか、彼女のピアノに感動して「芸術ってのはイイもんだな」などと行きつけのバーのオヤジさん(海に面した、というか、海に開放された超ラグジュアリーなバー)にとろける目で言ってみたりして、もうほんと、中学生かってな純粋な恋、なんだよね。
だけど彼女は不治の病に冒された自分に自暴自棄になってて、彼の思いに応えられない。
彼は、彼女のために女性の身体を守り、病気にならなくなると言い伝えられるサンゴを海中深く潜ってとってくる。実に数日間、行方不明になって、島の仲間にも心配をかけて。
そして二人は(というか彼女の方がようやく)恋に落ち、結婚し、一粒種のリョウコが産まれた。
ほどなくして、彼女は病気が再発して天国へと旅立つ。後に回想される場面、いかにも幸せそうな家族三人、だけれども、赤ちゃんを愛しげに眺めながら、彼女は言った。「ごめんね。これから一番大変な時に……」そのまま言葉がつまる。彼は黙って愛する妻の言葉を受け止めるしかなかった。
そして第二章、娘は成長している。同じ年に生まれた二人の男の子たちとムジャキに遊んでいる。
この島で三人だけが子供同士。この年頃は女の子の方が成長が早く、頭一つ大きい。バスケ遊びで難なく勝ってしまう彼女に一也はむくれてしまう。そんな二人の間にはさまれて右往左往しているのが大介。
まあこの時点で、三人の関係性は一発で判っちゃう。勿論二人の男子とも、涼子のことが好きなのは明らかだけど、それを根っからの海人らしい無骨さでぶっきらぼうにしか表現できない一也と、涼子に思いを寄せながらも、幼なじみで親友である一也への義理と、何より彼女の思いを尊重して一歩を踏み出せない大介。
しかし、一也と涼子が思いを確かめ合って、大介が決定的に失恋したと思いきや、思いがけない展開が待っているんである……。
まあね、確かにこれは「グラン・ブルー」なのかもしれないわ。だってキャスティングからしてまず、まさみちゃんの相手になる青年は、大介を演じる福士君よりは、キャラ的にもキャリア的にも落ちるんだもん。まあ、あの「グラン・ブルー」も当時はそういう役者の格差はあったかもしれないけど、その後はジャン・レノは大ブレイクしちゃったしなあ……まあ、そんなことはどーでもいいんだけどさ。
ま、つまりだから、まさみちゃん、もとい涼子が進学のために島から離れるにあたり、一也からの愛の歌を受け、そしてその歌に彼女も応えて声を重ねた時(……これは……地元民謡だからこそ、成立する場面だよね(照))、そしてそして、夜這い(だよなー、あれは……)した一也をぐいと引き入れた時、え?この役者さん(一也が、ではなくて、なんだよね……すいません)とまさみちゃんが?と思っちゃったんだよね……ついつい。で、だからこそ、その後の展開がちょっと見えちゃったのだった。
ところで、この“ぐいと引き寄せ”ってあたりが、“官能ドラマ”ってことなのだろうか……てゆーか、ここしかそんなニュアンスを感じさせるトコってないんだけど……。
しかし一也は、若い二人の結婚を認めたくない涼子の父親の抵抗にあい、ならば龍二さん(父親ね)が奥さんに獲って来たサンゴより大きなものをとってくれば認めざるを得ないだろ、と一也は意気込むんである。
この時点でイヤーな予感は充満してて、それを涼子こそが一番感じ取っている。
思いつめる二人を危惧した父親は、そんなことが一人前の海人だってことの証明にはならない。むしろ逆だ。家族を守るためにそんなバカなことしないのが海人なんだ、そうヤツに言ってやれ、と娘に説く。ありがとう、お父さんと彼女は安堵したような表情を見せたけれど、時既に遅し、その言葉を彼に伝える前に、一也は海に飲まれて死んでしまった……。
そして次の章に移る。うーむやはりちょっと……うっとうしい。この章は、物語の冒頭で既に示されている。もはや心を失ってしまった涼子が、ぼんやりと海岸に佇んでいる、その姿を見ているのが福士君演じる大介な訳で、もう映画の最初で、大介が残ってるってのが示されちゃってるんである。……ていうのも、どうなのかなあ。
後半以降、まさみちゃんはずーーーっと心を失った、うつろなままである。
まさみちゃんは不思議とそんな役柄が多く、「ロボコン」の底抜けに明るい笑顔の彼女に心奪われたこっちとしては、どうにも納得出来ない気持ちもあるんだけれども、ここ最近、急速に大人っぽく、美しくなった彼女を見るにつけ、ああ確かに、ちょっと“官能”かもなあ、などと思ったりするんである。
で、そこに、ずっと姿を見せないままだった大介が島に帰ってくるんである……。那覇の芸大に合格した彼は、島を上げて祝福され、両親共に大都会に移り住んだものの、“島の伝統の焼き物を復活させたい”という思いで、島に帰って来た。
勿論、その理由が第一ではあっただろうけれど……彼は、一也が死んだという報を受け取った時から、ならば自分が涼子を……という思いでいっぱいになっていた。
そしてそれを自覚しているからこそ……「僕で出来ることなら何でもするから」などと薄っぺらい台詞を吐いた彼に、涼子からそんな下心を見抜かれるように「だったら一也を連れてきてよ」と言われた時、彼は打ちのめされる。
そしてまるで一也の後を辿るように、サンゴを求めて海に潜り、行方不明になってしまうのだ。
もうね、このあたりからは、まさみちゃんはすっかり憂いムードなんである。うーん、私的にはまさみちゃんは、太陽のように明るいイメージなんだけどなあ。案外そういう作品は少ないし、そういう作品の成功例がないのよね……ホントに「ロボコン」以外、ない気がするんだよなあ。
それでも前半は、そういう雰囲気があった。小麦色に日焼けしたまさみちゃんは、確かに海人の妻になる雰囲気満点だった。
そのために看護師になる夢を一時中断するってのは正直、解せなかったし(ちゃんと、島のためになりたいって理由があっただけに)、その後、一也が死んで後もその夢が復活する片鱗がちらともなかったのが、かなーり不満に思えたのだが……。
一也と結婚したいという意志を彼女が伝えた時「(看護師になりたいっていう)夢を諦めた訳じゃないよ」という台詞をわざわざ付け加えていたのが、それ以降に伏線を張った訳じゃなくて、その台詞一発で解決させちゃおうということだったんだとしたら、ずいぶんじゃんと思ってさあ。
でもそれを言ったら、彼女の母親であるピアニストの由起子だって、そういう傾向はあったんだよね。彼女は登場してから、自分がピアニストであること、ピアノでメシを食い、っていうのがあからさまなら、ピアノこそが自分を生かしているんだという意識をあまりにも感じさせなさ過ぎだったように思う。
言っちゃえば、雰囲気だけで、ピアニストのロマンティックさ、なんだよね。勿論、演じている田中美里は全身全霊であり、そんなこと言うの超失礼なのは判ってるんだけど……だからこそ、もったいない気がしてさあ……。
父親の龍二もまた沈み込んでいる。一也が死んだのだって、自分の責任が大きく作用していた。母子家庭で一人息子の一也を溺愛していた彼の母親から、当然の非難を浴びて以来、いやそれよりも、愛娘の涼子が心を閉ざしてしまったことで、龍二は孤独な日々を送るようになる。
そこに、大介が島に戻ってくる。
涼子に思いを寄せる彼は、何とか彼女の力になりたいと思う。しかしそれだけに、彼女の深い思いを知るほどに、自分の欲望に直面して愕然としてしまうのだ……。
結局ね、大介が涼子のために生き残るにしても、彼は最後まで彼女のための存在とはならない訳よ。回復の兆しは見せるけれども、大介が伝えた一也の言葉(海で死にかけた時に、一也に遭遇したのだ)、「責めるな、自分を責めるな」を聞いた涼子は、何ともいえない表情でゆっくりと天をあおぐけれども、それだけ。むしろ周囲の大人たちの方がグッと来て涙を落としているぐらいでさ、涼子は最後まで……大介は目に入ってないんだよね。
それに……この泣き所と思われる一也の言葉も、、触媒として伝えるワンクッションがあると余計に、正直……陳腐だよね。ええっ、こんな言葉を大介に言わせるの、と思っちゃったもん。
そしてこれでラストだけに余計にさあ……。
ワンピースが日本一似合うのはのだめの樹里ちゃんだと思っていたが、180度違う雰囲気で、まさみちゃんもまた日本一ワンピースが似合う可憐な女優。「官能ドラマ」じゃなかったもんさ。やはりまさみちゃんは清楚で可憐なイメージを崩さなかった。
そのイメージを娘役の彼女に伝えたのが、彼女の母親役、若くして死んでしまった由起子。演じる田中美里は、明るい風貌の中に隠しようのないかげを感じさせる稀有な女優。
佐々木蔵之介も決して明るいイメージのある役者じゃないから、二人の運命の恋は、切なく哀しい別れをその出会いの当初から予感させる。やはり、若い役者には出せないものがあるよな、と思う。★★★☆☆