2016年鑑賞作品
オーバー・フェンス
2016年 112分 日本 カラー
監督:山下敦弘 脚本:高田亮
撮影:近藤龍人 音楽:田中拓人
出演:オダギリジョー 蒼井優 松田翔太 北村有起哉 満島真之介 松澤匠 鈴木常吉 優香 塚本晋也
2016/9/18/日 劇場(楽天地シネマズ錦糸町)
「海炭市叙景」の時には、こんな、三部作と呼ばれるまで気鋭の作家たちによって作り続けられるなんて思ってもみなかったし、その間に、私も知らなかった佐藤泰志という不遇の作家がこれほどまでに取り上げられるということも思ってもみなかった。
函館の作家といえば現代文壇ということも含めて辻仁成が思い浮かぶが、彼は函館にとってはいわば異邦人であり、やはりそこにはなにがしかの甘やかな感興が透けて見える。でもこの佐藤泰志という人は……未読なんでアレなんだけど、映画作品としてのそれを見る限りでは……彼自身を投影するかのような、剥がれ落ちかけている灰色の港町、なのだ。
故郷であるということのアンビバレンツを強烈に感じさせる、愛しているけれど憎んでいるそんな街。それが、三部作と重ねていくうちにどんどん塗り込められていくような息苦しさで。
思えば「海炭市叙景」は三つのオムニバスであったし、まだどこか、珠玉の、小さな、宝石、とでもいったようないとおしさがあった。でも「そこのみにて」と本作と、苦しみ続ける主人公をいやおうなしに見つめるこの連作は、やはり人間というものの生きにくさをひどく感じさせる。
表面上は明るく穏やかに、人付き合いよく。「普通の人」に見えるけれど、信頼できる人だと言ってもらうことさえできるけれど、自分だけは、自分こそが「最低な人間」だと「知って」いる。最低な人間だと思っているんじゃなくて、「知って」いる。
これは、キツイと思う。思っている、っていうんなら、そこに反省や後悔の余地があって、這い上がろうとすることも出来るかも知れない。でも、「知って」いるってことは……もうそれは厳然たる事実であって、動かしようがなくて、だから自分は「最低な人間」以外になれないんだと「知って」いる。だからわざわざ悪ぶることさえ無意味で、人との接触も面倒で無為に過ごしている。そんな感じ。
でも、「知って」いるってことが、主観的感覚なのか客観的事実なのか、誰も知らないそこんところをじわりと暴いていく。そもそもそんなことは、他人にとっちゃどうでもいいことなんだけど。だからこそ人間は苦しみぬくんだけれど。
今回の主人公はオダギリジョー。そしてヒロインは蒼井優。もうこの時点で破滅的な匂いがぷんぷんと漂う。「蟲師」以来の共演??そうだっけ……確かに、こんなのめりこみ系役者が相手役同士じゃ、もう食い合って大変そうだもんなあ……。
オダジョーは、原作者の分身といえそうな役どころ。実際、佐藤氏も作家の夢に挫折しかけた時、故郷で職業訓練校に通っていたという。
オダジョー扮する白岩は殺風景な小さなアパートに段ボールの荷物もとかず、毎日弁当屋で弁当と缶ビール二本を買って帰る。テレビもなく、カーテンすらない部屋で、ただまんじりともせず過ごす。
時々訪ねてくる妹のダンナ(吉岡睦雄!嬉しいなあ)が、お義父さんや自分の奥さんが心配してますよ、と言いつつ、実は彼自身がこのほっとけない義兄を心配しているように見えるのがほほえましい。
でもそんなことにも今白岩は気づけない。かといってとんがっている訳ではなく、表面上は穏やかで人当たりがいいんだけれど、ただ、心のシャッターはぴったりとしめ切られている。
白岩の過去は、モーレツ社員だったがゆえに育児ノイローゼに追い詰められた妻の異変に気付かず、赤ん坊を殺しかけた彼女を許せなかったこと。自分こそが悪かった、と気づいた、というか、本当はモヤモヤした気持ちを抱えつつもそこに結論を見出したといった感じを最初から見透かされていたのか、妻、というより妻の父から「冷酷な男」として絶縁状を突き付けられていた。
白岩は失業保険を伸ばすために、という名目で故郷の職業訓練校に通うが、実際は働くこと、生きるために働くこと、こんな最低な人間が口に糊するために働くことへの傲慢さに嫌気がさしていたのかもしれない、と思う。
職業訓練校は学生という立場。夏休みというものだってある。後々、その夏休みに元妻に会うことになるのだが……とにかく彼は、無為になりたかったんじゃないかと思う。
この職業訓練校には様々な年齢層の男たちがいて、まるで刑務所みたいにやる気なさげに過ごしている。いや、刑務所がどんなんなのか知らないけど(爆)、グレーの作業服にキャップをかぶった有様とか、ソフトボール大会のための練習をダルダルやるとか、なんか「塀の中の男たち」みたいなイメージと妙に重なってしまうんである。
このタイトルである「オーバー・フェンス」も、ラストのソフトボール大会でホームランを放つ白岩の場面に重なっていると、観終われば判るのだけれど、塀まではいかないけれど、フェンスに取り囲まれている彼らが、それがまるで、本当に刑務所の中みたいな息詰まり感で……。でもきっと、そういう意味合いだったのだと思うけれど。
その中で、ちょっとイイ男(なんたって松田翔太だから)の代島は何か毛色が変わっている感がある。最初から彼にはしたたかに外で生きていく術が見えている。白岩には「卒業したら、一緒に店をやりませんか」と声をかける。
店、というのは繁華街にあるいかにもなキャバクラである。そしてそこで運命の女と出会うのも想定内である。ただ、その女、聡(さとし)という、まるで芸者の源氏名のような男名前の彼女とは、そこが初対面ではなかった。
弁当屋から出たところで、同伴の客と言い争いをしている場面を目撃していた。「愛情表現だよ。ちゃんと言わなきゃわからない」そう叫んで、女はダチョウの愛情表現を全身で表現した。高い声音を巧みに使って。
聡を演じるのが蒼井優嬢であって、チャーミングな美少女(という年ではもう、ないんだけど、いつまでたっても奇跡的に可愛いもんだから)なのに激情あふれる女、という、彼女自身が持つ武器をいかんなく発揮してくれるんである。
蒼井優嬢のことを語る時には結構引き合いに出しちゃうんだけど、これは宮崎あおい嬢には出来ないんだよな、と思う。それだけに、バックヌードまで見せといて肝心なところを隠し通したことに、ちょっとガッカリ感は否めないんである。
私もこの点の追及はしつこいが……まあそりゃ、おっぱい出すばかりが価値ではない、芝居こそが大事というのは無論だが、この役であり、そしてヤハリ前作である「そこのみにて光輝く」でちーちゃんが、それまでの経験はあるにしても、当然のごとく(てか、当然だと思う)見せてくれたからこその、失望があるんである。
時代というものも、あるのかなあ。「そこのみにて……」もそうだが、この聡もまたお水な女で、「そこのみにて……」のちーちゃんのように明確に身体を売る女、という定義はされていないにしても、代島からは執拗にヤリマン、ヤレる女、と“営業”される。そのことに白岩は嫌悪感を感じるし、彼女自身も「そんな風に“営業”すれば店がはやると思ってるんだよねー」と困ったもんだ、みたいに笑顔を見せる。
実際は聡のそのけん制とも思える言葉が、白岩への誘い水だったのかもとも思い、それこそが哀しい女とも思えるのだけれど……。とにかく、これは、やはり、時代、なのかなあ。女はオミズで、哀しい境遇で、そして壊れている。狂っている。
なんかね、久々に、女の白痴美、みたいな、古き良き時代?な女像を見たなと思って。だってクスリ(恐らく精神安定剤)まで登場するんだもんね。実際、そういう時代の原作なんだから仕方ないんだけれど、理不尽に怒り、泣きじゃくり、男に当たりまくる女、っていうのが、蒼井優嬢の迫真の演技であったとしても、かなりツラいものがあった。
「こうしないと、身体が腐ってく気がする」と台所に全裸でうずくまって身体をこすりまくるのも、彼女の事情を話してくれないことも相まって、単なるメンドくさい女以上から抜け出なくて……。
女だからそう思うのかもしれんけど、彼女の事情を結局は一切知らせず、結果的にイタイ女のまま、でも俺もそうだから、みたいに受け入れて純愛決着、になるのが、なんだかもどかしかった。
聡は自分のことは話したがらない。ただ、好きになった男のことは知りたがる。暴力的に。だから白岩はすべてを話し、きっとその上で、聡のことも知りたいと思ったはずだが、それはこの物語が終わった先にあるということなのだろうか。
職業訓練校のメンバーたちには様々な男たちがいる。あの暗い目をした青年が、満島真之介だとは気づかなかった。あんなに特徴的な濃い美青年なのに。いやだって、彼って凄く、あっかるい、笑顔のイメージがあるから。
「大学は卒業してません」「そうか、中途半端なんだな、何事も」訓練校の教官からも、中卒から仕事を続けているという自負のあるヤンキー兄ちゃんからもバカにされ、最後にソフトボールのメンバーに選ばれなかったことでついに爆発するという、青年の鬱屈した哀しさが、ひどく心に刺さる。
彼、森君にも白岩は「一番マシ」な人、という判断により、それなりの信頼が寄せられている。でも結局、白岩は森君の気持ちを汲み取るどころか、その最後の事件が起こるまで、彼の鬱屈を想像さえ出来なかったんである。
それは勿論、他の生徒たちもそうだけれど、「一番マシな人」と言ってくれた彼に対しては最大限のウラギリであったように思う。
最年長の勝間田さんは、行動を起こす訳ではなかったけれど、でもエラそうな教官に対してくぎを刺したり、何気なしに森君の存在を示したりと、やっぱり、優しさがあったんだよね。ざっくばらんな性格で、若い生徒たちとも屈託なく話す一方、なんとなく一目置かれているこの勝間田さんが何とも素敵なんである。
最後のソフトボール大会に、孫息子を連れてくる。「勝間田さんは、絶対天涯孤独だと思ってた。孤独死間違いないと」とからかわれると、照れくさそうな笑顔を見せるカところが、素敵なんだよなあ。
もう一人、白岩に近い年齢で、落ち着いた印象の原さんもいい。演じる北村有起哉の、白岩とは違う影と穏やかさ。
飲み会で荒れた白岩を自宅に連れていき、朝目覚めると、ちゃきちゃきした奥さん(安藤玉枝、素敵!)と屈託ない息子と共にする、幸せな朝食が待っている。
「魚、見る?」と幼い息子がめくりあげた原の背中には、見事な彫り物が。魚って、と思わず噴き出したが、この、世にも幸せそうな家庭環境の裏に、どれだけの苦悩があったことかと、思わせる。
そう考えれば、聡の過去を何も明かさないことも、“思わせる”ことなのかもなァとも思えなくもないんだけれど……。ただ聡が、今まさに苦悩の真っただ中にいて、バイトしている動物公園の、動物たちを軒並み逃がしちゃうとかいう暴挙に出たり、本当に“壊れて”いるからさ……。
聡は白岩が元ヨメと会う場面にも、こっそり覗いている。慟哭している白岩を遠くから見て、走り去る。そのことにこそ、激しい嫉妬を感じたのか、後に白岩に当たりまくるのだ。家族だった、と。どんなに白岩がそれは違うといっても、家族なんだよ、と吠えまくって。自分には、ないものだと言って。
あの森君も、老母との買い物シーンが後に挿入されたり、つまりは、家族への想いのアンビバレンツがこの作品のテーマだったのかもしれない、と思ったりする。家族が作れなかったこと、家族と上手くいかなかったこと、それが人間の基礎だと思うからこその自分自身への失望、喪失感。
ということならば、実は今の時代ならばそれは……そりゃなくはないし、なければいけないことでもあるんだけれど、なくてもいいよ、という価値観を、一生懸命育てている最中であるようにも、思うのよね。
男が男であり、女が女であること以外に許されなかった時代とは、今違うように思う。だから、なんとなく、今の映画として作られているからこそ、少し物足りなさというか……そんなんだけじゃないよ、と感じる部分があるのかもしれないと思う。
特に女の部分に。まぁ女の社会的立ち位置は、価値観が変わっても大して変わらないからなあ。★★★☆☆
お父さんと伊藤さん
2016年 119分 日本 カラー
監督:タナダユキ 脚本:黒沢久子
撮影:大塚亮 音楽:世武裕子
出演:上野樹里 リリー・フランキー 藤竜也 長谷川朝晴 安藤聖 渡辺えり
2016/10/9/日 劇場(楽天地シネマズ錦糸町)
タナダユキ監督ということでも当然足を運んだとは思うが、ああそうか、タナダ監督だったのねと、ラストクレジットの後、思った。役者としてかなり好きな三人、というのが何よりだし、三人ともオフビートの出し方を本能的に知っている、という部分がどう化学反応を示すのかがとても楽しみだった。
樹里ちゃんは売れまくっていた時から大河ドラマで頂点に達し、しかしその評価が作品とも彼女自身ともどもなんか思わしくなく、その後姿を見せなくなったら消えたとか言われ、勝手なことを言うなと腹立たしい気持ちになっていたところに少しずつ姿を現し始めて……今は寡作と言ってもいいスタンスなんだけど、むしろその方が実は真摯で役者道な彼女に似合っている気がして、嬉しいんである。
のだめのイメージが強いせいもあるけど、実はスレンダーで手足が長くて頭がちっちゃい、美しい女の子であり、そんな樹里嬢も久しぶりに見た気がして見とれてしまったし、ちょっとぶっきらぼうでガンコな女の子というのも、実は彼女自身の中にあるんじゃないかと思うような新鮮な魅力であった。
次に好きなのは藤竜也。この人は一体いつから、こんなチャームをたたえるようになったんだろう。あんなにセクシーガイだったのに(爆)。
私の記憶では、作品はイマイチだったけど(爆)、石井竜也監督の「ACRI」で、牛乳にむせておひげを白くさせてたあの時から、キュンキュンきていたのであった。
今回は樹里ちゃん扮する彩のお父さん。しかも、劇中の年齢差を考えれば40歳の時の子供ということになり、お父さんというにはすこうしお年がいっていて、親に感じる頼りがいや強さというよりは、もうなんか弱ってきちゃって、でもガンコでイラっとくるような……それは娘の彩にソックリだっていうことなんだけど。
そして、この二人をやんわりとつなぎとめる役割である、彩の恋人、伊藤さんを演じるリリー・フランキー。柔らかな役から極悪な役まで柔軟にこなせる彼だが、ヤハリこういう優しい役が良く似合う。しかしその裏には闇というか、謎がある感じがいかにもリリー氏である。タナダ監督が彼しか思い浮かばなかったというのが、原作が未読であっても妙に判る判る、と思うんである。
そういう意味では彩も、彩のお父さんも裏表がなくって、だからこそガチャンと衝突する。ひたすら伊藤さんが優しげなのは、自分はこうはなれないからと、彼らに対して愛しい気持ちになるからなのかなあと思ったり。
彩と伊藤さんのなれそめは、コンビニのバイト仲間。いかにもドンくさく、年若い店長からガミガミ言われてもうっすらと微笑むばかりの彼を遠くの人のように眺めていた彩だが、「流れで飲みに行くことになり」「また飲みに行くことになり」「またまた飲みに行くことになり」、もう物語の冒頭には、そのナレーションを跳び越す形で、小さなテーブルをはさんで食事を一緒しているんである。
このナレーションは樹里ちゃんで、確かに女の子の感じなんだけど甘くもなく、放り投げるようだけれどドライでもない、あの独特の発声が、いかにも二人の関係性を描写しているんである。
彼らは全然、イチャイチャというかラブラブといった雰囲気を出さないんだよね。このナレーションが示すキッカケからしてなりゆきです!という感じだし、手をつなぐでもない。隣には寝てるし「お父さんが来て困るでしょ」というぐらいだからセックスは当然しているんだろうけれど、それを示唆する描写もない。
いや、樹里ちゃんならその辺はやれといわれればあっさりとやるだろうと思うから、これはあくまでこの原作なり、彼らのキャラクターがそういうことなんだろうと思う。お父さんが転がり込んで、その訳を彩が「性犯罪とかやったんじゃないか。理々子さん(長男の嫁)に手を出したんじゃないか」と心配する様を、笑い転げて空気を柔らかくさせる。
彼にはなんとなく推測できていたんだろうなあ。何が起こっていたかが。後半、どうやら伊藤さんが警察関係というか、そういう方面にツテがあって、それもかなりディープな感じで、行方不明になったお父さんの居所を突き止めるというシークエンスがあるが、彩が「伊藤さんて、一体何者なの」と問うても、「第一小学校の、給食のおじさん」とにっこりするだけで、結局は明かされない。
明かされない、っていうのは、本作に一貫して通底するテーマで、必ずしもすべてを知ることがカタルシスでもなく、何より幸せでもない、ってことだと言っているようでね。
まあなんか、かなり流れで書き綴ってますけど、そもそもはね、物語が動き出すのは、長男家族と同居していたお父さんが突然、彩と伊藤さんの暮らす小さなアパートに転がり込んできたところから話は始まるのね。
お兄ちゃんによれば、子供たちの中学受験に端を発して、いやそもそも根本的なことだったのかも……嫁と舅の折り合いが最悪になり、嫁はすっかりノイローゼ、劇中何度か登場するんだけれど、私が悪かったんですぅー!!!と泣き伏し、舅の姿を見ただけでオゲー!と吐くという危機的状況。
彩の家に転がり込んできた父といえば、いかにもかつての教育者!という風情で、朝からこってりした朝食をとる様に顔をしかめ、正社員につかずにバイト暮らしをしている娘を心配というテイで難色を示し、とんかつには“ウースターソース”とんかつソースは悪魔のソース!!と言い放つ。まぁやりづらいったらありゃしないんである。
母親は、それ以前に亡くなっているのね。彩がさらりと提案した「お父さんに一人暮らししてもらえばいい」というのが、やはりこの時代の男性、女房に先立たれる形の男にはそれほどまでにムリなのかなと思う。逆なら全然問題ないのに。
今でもそれは社会問題なのかなと思う。子供が薄情とかそういうことではなくて、子供が面倒見なければ高齢者が生きていけない社会、それが常識として白い目で見られる社会、いまだに、ということに戦慄するんである。
最終的にはお父さんは有料老人ホームを自ら選択するけれども、自ら選択するということこそが勿論大事なことなのだが、そのために「子供たちに財産を残せなくなるのが申し訳ない」という、これまた実に日本的考え方で、そうか、こうしたことが二重三重にがんじがらめになっているのが、今現代社会で表面化しているのか、と暗澹たる気持ちになるんである。
あー、良かった。私の両親はもうずっと昔っから、子供たちには何も残さないから、と言ってくれていたんだよね。はーい、とぼんやり受け止めていたけれど、こういうことなんだろうなあ、と思って。
子供たちが持て余したお父さんを、伊藤さんはまるで、ちょっと年の離れた先輩、ぐらいなやわらかなもてなしをする。
彩が時に反発し、時に過剰に遊びに連れ出そうとするのをやんわりとけん制しながら、ホームセンターやら園芸店やらに連れて行っては……勿論それは、自分の趣味ではあるんだけれど、男子(それこそ女子もそうだが、いくつになってもね!)は誰もが好きな工具や機械、お父さんが子供の頃には庭に無造作に生えていたであろう実をつける木の苗木やらに、お父さんは目を輝かせるんだよね。
伊藤さんがどこまでお父さんに、いわゆる“心を開いていた”のかは、彼自身が謎の男だから、判らない部分はある。実際、すっかり伊藤さんになじんだお父さんは、生まれ故郷のボロい実家で「ここで私と一緒に暮らさないか」というほどホレこんだのに、伊藤さんは、それまでの柔らかな基調は崩さず、「なぜ家族でもない僕がお父さんと一緒に暮らさなきゃいけないんですか。他人に甘えるのもいい加減にしてくださいよ」と、言葉だけ聞けばヒヤリとするキツい言葉を投げかけるんだよね。
一体、伊藤さんにこれだけのことを言わせる過去はどんなものがあったのか……凄く気になるんだけど、明かされないの。
彩はお父さんから「バツイチなら子供がいるのかどうかとか、付き合っているのに聞いてないのか」と責められ「関係ない。それでも幸せだから」と反発する。
いや、幸せだった、と言ったんだよね。つまり、お父さんが来るまでは、というニュアンスが痛烈に含まれていたんだと思う。逆に言えば、判っていたのに知らないフリをしていたのに、お父さんにほじくり出された、ということも含まれていたのかもしれない。
伊藤さんは、子供はいないよ、いたら面白かったけどね、と彩をなだめるように言うけれども、それ以外はほんっとうに判らないんだよね。今なぜバイト生活をしているのか。後に、電源を切ったお父さんの携帯のありかを探し出すだけの過去の経験を持っているのに。
彩がそれを聞き出さないのは、優しさではなく、今の自分が伊藤さんといたいだけ、もっと言っちゃえば、知ることによって傷つきたくないからとも思え……それがいいのか悪いのかは、劇中では明らかにされない。それは……私にも答えは出せない。
長男夫婦、彩と伊藤さんの間で行き場をなくし、お父さんは姿を消す。お父さんが常習の万引犯だったということも、彩を衝撃に陥れる。小さなスプーンとフォークばかりを万引きして、小さな段ボール箱に大事にため込んでいたお父さん。
見た目はいまだガンコなかつての教育者で、ボケているようには見えなかったけれど、一体その意図するところはなんだったのか……。原作でも明かされていないというこの謎が、気になるけれどどうしようもない。
ただひとつ、ヨーグルトを食べる彩に「スプーンをねぶるのはやめなさい。まったく、悪い癖だ。今も治らない」と叱責したあの場面がよみがえるんである。お父さんの大事な実家が、落雷で思い出の柿の木がまず燃え上がり、倒れた枝で家にも飛び火、全焼してしまうというクライマックス、必死に取りに戻ったあの箱から、無数のスプーンとフォークが舞う。
一体、一体なぜ、お父さんはそんなにもスプーンとフォークに執着したのか。それは、娘の“悪癖”に関係するのか。
家が焼失してしまったショックで、お父さんはすっかりふぬけたようになってしまったが、かつての教え子が見舞いに訪ねてきて、楽しげに談笑した後、急に息を吹き返した。
この時、「娘さんがそばにいてくれて幸せね」とかつての教え子の、今はすっかり年配のおばさんが声をかけた時、思わず彩は涙をこらえきれなくなったのだ。それは……色んな推測は思いつくけれども、なんかね、一言では言えないよね。
伊藤さんはお父さんのために、郊外の一軒家に引っ越そうと提案してくれるが、彩は素直にウンと首を振れない。「伊藤さんは本当にそれでいいの。私、イヤだよ。お父さんと伊藤さん、どちらかを選べなんて言われたら」柔らかに微笑む伊藤さん。
その後、教え子との邂逅ですっかり意気を吹き返したお父さんは、さっさと有料老人ホームを見つけ、彼らに別れを告げるんでる。あっけにとられた伊藤さんが「……やられたな。先手を取られた。彩さんのお父さんって……彩さんの、お父さんだよなあ」とつぶやくのにはなんだか泣き笑いしてしまう。
年を取っての先行き、結婚もしてなくて当然子供もいない私なんかは、ほんっとうに考えること。
ウッカリ血がつながってる甥っ子や姪っ子に迷惑をかけることになるんだろうと思うと、ほんっとうに考えてしまう。それまでに、日本の福祉がもっと頼りあるものになってくれると、いいんだけど。
大おばさん、の渡辺えりが強烈な印象。でも、お父さんのことを「お父さん」という彼女はどういう立場?お父さんの妹なのかなとも思ったが……。
若い人たちを心配しているようでいて、実は一番残酷に他人であり、好き勝手に口を出すだけという立ち位置は、私ら日本社会のあらゆる人、あるいは自分を想像させる人物で、凄く面白いし魅力的なんだけど、なかなかに皮肉だったよなあと思う。★★★☆☆
女が眠る時
2016年 103分 日本 カラー
監督:ウェイン・ワン 脚本:マイケル・レイ シンホ・リー 砂田麻美
撮影:鍋島淳裕 音楽:ヤマモトユウキ
出演:ビートたけし 西島秀俊 忽那汐里 小山田サユリ リリー・フランキー 新井浩文 渡辺真起子
2016/3/14/月 劇場(渋谷TOEIA)
結局なんだったの??と言ってしまったらダメなんだろうなあ。結局なんだったのかしらん、というミステリアスの余韻を残して終わる、ということなんだろうから。
いや、そうなのだろうか。解説を見ると過去を知って驚愕とか、狂気に進んでいくとか言ってるからさ、私が汲み取れない衝撃の展開が隠れてしたのかしらんとも思ったり……。
いや、言ってしまえばこれって、何も起きていないんではないかとも思われるのだもの。何も起きていないのに、さも何かが起きているかのようにかき回しているところがミソなのだろうかと。
訳アリカップルに秘密の匂いを嗅ぎつけた主人公の小説家が、妄想の中で作り上げただけの狂気の物語、と言ってしまったって、成立するんじゃないかと思うんだもの。
一応さらりと概略を記すと、有名な文学賞をとった処女作以来、スランプに陥っている小説家、健二(西島秀俊)と、編集者である妻、綾(小山田サユリ)がリゾートホテルに滞在。そこで遭遇した初老の男と若い女の二人連れ。
二人に魅入られた小説家は、彼らの様子を覗き見ることに熱中。初老の男、佐原(ビートたけし)は連れの美樹(忽那汐里)の写真や動画を膨大に撮っている。「あの子の最後の日を記録したいと思って」という言葉に危険をかぎつける健二。
覗き見はストーカー行為のようにエスカレート、部屋に忍び込んだり、動画を盗み見たり。妻にも近づく佐原に恐怖を感じる健二。
やがて美樹は行方をくらまし、覗き見行為が防犯カメラに映っていた健二が職務質問される。
そんでいきなり時間が飛んで、健二はあの出来事から創作意欲を得たと思われる(劇中、妻との約束をブッチして書きまくる)小説の刊行が決まり、妻は大きなおなかを抱えて幸せそうである。
そのお祝いの食事会のレストランで、佐原を見かける健二。慌てて追いかけて肩を叩くも、にやり、と意味ありげな笑顔を残しただけで去っていく佐原……。
で、何かが起きたんだろうか、これで??
行方をくらましたまま、その後見つかったのか判らない美樹、ということを思うと、佐原が殺して隠ぺいしたとかいう展開もまあなくはないのだが、健二の妄想の中だけで膨らんだ佐原の恐ろしさなので、どうもピンとこない。
そう、健二はスランプによる神経衰弱にでも陥っていたのか、なんか一人、ミステリの中に分け入っているような感じなんである。
言っちゃえば、西島秀俊一人がバタバタしているような印象なんである。彼一人が、ドシリアスにはまっているような。汗かいて、やたらいい身体見せて、メガネをかけたり外したり。
美樹の写真や動画を見る時には改めて眼鏡をかけるしぐさは、セクシーというよりは単なるエロおやじのようで、イイ男西島秀俊が台無しって感じ。
てゆーか、彼はなぜそこまでこのカップルに魅入られたのか。いや、流れとしては判る。訳アリだし、若く美しい女の子だし。
でも、映画は流れではなく、ビジュアルでそれを納得させられなければダメなんだよね。西島秀俊のイイ身体との対比で、初老の男をお腹の突き出たフォルムで体現するたけし氏は、そうね、この人は監督より俳優業の方がいい(爆)。
何をして生計を立てているのか判らないアヤしさ、若い女の子に日焼け止めクリームを丹念に塗ったり、首筋の産毛をそったり、何より写真や動画を撮ったりするという、いかにも粘着質な行為を、まるで水でも飲むようにさらさら淡々と行う、という、それが却って不気味さを醸し出すという上手さが際立つ。
西島秀俊は大好きだけど、この不気味さに彼のどシリアスな必死演技がクサく映っちゃうというか……。
ちょっとイイ身体すぎなんだよね。最初はおおっと思ったけど、このマッチョはなんかいろいろ、ジャマなのよね(爆)。だってスランプの小説家が、ここまで体を鍛えているのって、ちょっとヘンじゃないの(爆爆)。
それよりなにより……女優陣が気になるんである。女が眠る時、というタイトル、まさにタイトルロールであるという意味では真の主人公とも言える美樹を演じる忽那汐里嬢。なんか、解説では国際派女優との期待とか銘打たれているが、単にネイティブイングリッシュを喋れるだけではないの……と思ってしまう。本作ではその要素はまるで関係ないしさ。
彼女は確かに超絶美少女だが、本作に限っていえば、この役が彼女である必然性を感じなかったというのが正直なところ。端的に言えば、あの西島秀俊を惹きつけるミステリアスが感じられない。もっと正直に言えば、脱げないぐらいならこの役をやらないでほしい(爆)。
いや、美しい若い女というだけで充分すぎるほどだし、制作側にも見せる意図はなかったのかも、むしろ見せないことでのミステリアスだったのかもとも思うが、若くて美しく、眠っている彼女の白い下着の股間ショットを映すぐらいできわどいと思わせるぐらいなら、触れないからこそ美しい身体を見せてナンボなんじゃないの、と思ってしまう。
部屋に忍び込んだ健二が、ベッドの下に隠れて美樹が下着を脱ぎ捨てるのを、その足元に落ちたブラやショーツで確認するっていうのが、うわぁ、めっちゃ往年の表現やわ……と思ってしまう。
一方で、健二の妻役の小山田サユリは脱ぎまくる。もはや、忽那汐里嬢が脱がないから、脱ぎ要員で呼ばれたんじゃないかと思われるぐらいである。
実際、彼女が脱げる女優なのは周知の事実だし(でも「オー・ド・ヴィ」の時に、ツラかったって言ってたけど、今はどうなんだろう)、脱げもしない女優は女優じゃないと思ってるぐらいだけど(爆)、脱ぎ要員だなあ、と思ってしまう。
だって彼女、凄く久しぶりに名前を聞いた。いや、私がチェック不足なせいかもしれないけど(爆)、でも知らないうちにニューヨーク拠点とかにしてるし(それで女優業でやっていけるのか……?)、今回いきなりメインキャストで名前を見たんで、正直ビックリした。
ショートカットがキュートな雰囲気は変わらないし、芝居も確実だけど、脱がない若手人気女優、忽那汐里を引き立たせるためな立ち位置って感じをどうしても感じてしまう。
カイショのないダンナの尻を叩き、子供が出来ても生活は私の仕事で、みたいな描き方がイヤである。んでもって、ラストシークエンスでは幸せそうに突き出たお腹をさすってるんでしょ。イヤ、もう!
綾は健二と違って佐原に、なんでも見抜いてしまう凄い人、というポジティブな目線を持っていて、佐原に危険を感じている健二は更に恐怖を味わわされるのだけれど、それが、妻が凌辱されるかもしれない、あるいは妻が殺されるかもしれない、というハッキリとした恐怖までに表現されなかったのは少々不満である。
だってあれだけ脱ぎ要員なのに、西島秀俊とのカラミだってほんのちょっとでさ、あれだけ強烈なキャラである佐原、しかもたけしさんだよ??妄想の中だけでもいいから、小山田サユリとのなにがしかはあってしかるべきじゃないの!!
……いやいや、それは単に、私がエロ好きなだけ(爆)。
ところで、健二が妄想をエスカレートさせるのは、この謎めいた二人が立ち寄った小さな店(解説では居酒屋になってたけど、とてもそうは見えない……単なる雑貨屋?)に貼られていた写真。まだ幼い頃の美樹とその両親と、佐原が映っている写真。
店主はリリー・フランキー。彼もまたムダに謎めいた雰囲気をバリバリ放つ。しかもなんか、よく判らないたとえ話を持ち出して、健二をコンランに陥れるんである。
……この店主役はもうけ役だけど、なんかズルいというか、結局お前はなんなんだよ!!と言いたくなるというか……。でもそれって、この作品全般に言えることなんだけどさ(爆)。
だって、この店主は一体何を知っていたの。結局は何も知らなかったんじゃないの。佐原と美樹の散策を付け回す形でジョギングしていた健二が、もう本気走りで、汗びっちょりでこの店を訪れる。店主、汗びっちょりの健二に笑いながら、その辺においてあるタオルをちょっとかいで、大丈夫か、とつぶやいて差し出す。
そういうキャラ付けからもう怪しさ満点で、二階に寝たきりだという母親が胡散臭げに顔をのぞかせるのも妙にオカルトチックで、そういう見せ方は凄く上手い人だなとは思うけど、上手いだけにちょっとうっとうしいなあ、という感じもしちゃう。
だってここで何か衝撃的な事実が明かされた訳じゃないんだもの。いや、あれが衝撃的な事実なの?
だって二人が親子じゃないのは、最初から健二と綾は判ってたじゃない。そういう雰囲気の二人じゃなかった。かといって愛人という風でもない……というあたりを、明確に示すのが難しかったというのは一つの難点かもしれないけれども。
だから、ちょっとガードの固い忽那汐里嬢を抜擢したのかもしれないが、やっぱりガードが固すぎたし、佐原がなぜ彼女に執着するのか、二人の間の約束というのは何なのか、そもそも美樹はなぜ両親の元を飛び出して佐原と駆け落ちのような形で一緒にいるのか、全てが判らないんで、ちょっと困っちゃうんである。
いや、流れから言えばね、これは愛よ。禁断の愛よ。佐原が彼女を慈しむ様に愛している。美樹は思春期と反抗期が入り混じった風に、佐原に拒絶反応尾を示すこともある。
何より、恐らく彼女は恋をしていて、露出度高めな、しかし清楚な白のワンピースにセクシーなヒールのサンダルを履いて、豪雨の中誰かに会いに行く。なのに、やっぱり彼女は佐原のもとに帰ってくる……。
こーゆーね、やむにやまれぬ、言うに言われぬ関係を、忽那汐里嬢がキリキリ表現してくれればねえ。たけし氏とギリギリのせめぎ合いをしてくれればねえ。
そらま、それをプラトニック……表面上は……の中で、監視する側される側、という状況で表出するのは相当なテクニックが必要だとは思うけれど、それが出来なければ本作を作る意味もなかったんじゃないの??と思っちゃう。
大体、写真は上書き保存で「あの子の最後の日」を待ち続けているといいながら、「いいものはとっておいてある」と膨大に保存してあるというイタい矛盾はどうかと思う。
そもそも、原作はスペイン作家の短編で、休暇をリゾートホテルでゆっくり、とかいう時点でムリがある。確かに外国に来ているかと錯覚するような豪華なホテルだが、一歩外に出れば、この観光業におんぶにだっこと思われるようなさびれた田舎町で、リリー氏の台詞にそんな片鱗がちょこっと示されはするものの、日本人はやらないだろう、的な違和感をそこここに感じるんである。
原作が外国でもいいのよ、要するに変換の仕方が大事。世界的な巨匠、ウェイン・ワンのメガホンというのは興味深かったけど、だからってそこをクリアできないのは違うような気がした。そのまま日本で撮影したというだけじゃん、みたいな。
翻訳の際の、台詞のニュアンスの繊細さだけに心を砕いても、やっぱりそれだけじゃ、ダメなんだよなあ。★★☆☆☆