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「す」


2016年鑑賞作品

SCOOP!
2016年 120分 日本 カラー
監督:大根仁 脚本:大根仁
撮影:小林元 音楽:川辺ヒロシ
出演:福山雅治 二階堂ふみ 吉田羊 滝藤賢一 リリー・フランキー 斎藤工 塚本晋也 中村育二 山地まり 澤口奨弥 石川恋 阿部亮平 護あさな 鈴之助 宮嶋茂樹 久保田悠来 寿るい


2016/10/23/日 劇場(新宿バルト9)
なんかやたらと大コケの話がチラホラ。今一番のヒットメーカーと言ってもいいような監督だし、あの福山雅治氏だし、予告編の感触の限りでは充分に面白そうと触手が動いたし、フツーにヒットするかと思われたが、公開時期を迎えた頃、確かに不穏な空気は……。
ちょっとこれまでにも記憶にない、大ヒット映画が二つも、しかもその一つは超記録超え。こうなると、ヒットを狙えそうな作品の方が逆に厳しくなる、小粒な作品ならそれはそれで味わい深くじわじわと行くけれど、本作のようなタイプはチョイスされるのが確かに難しくなる感があるんだよなあ。
映画興行って本当に、難しい。別に結婚したから人気急降下だなんていうくだらない理由じゃないと思うが。それじゃいくらなんでも観客をバカにしすぎだし。

勿論、そんなことは作品自体には全く関係ないのだが、やはり足を運ぶ時の周囲の状況も映画を観るスパイスには大いに関係してくるので、まぁ、なかなか……。
あるいはあれだけ大人の男の色気のある福山氏が、いくら実力派の若手とはいえ、娘ほどに年の離れた女の子とのラブというのが、なんかそれこそ、物語の最初の方で彼が言っていたような、しょんべんくさい感じも否めないのであった。
勿論、劇中彼女はどんどん成長し、彼の唯一無二の相棒になる訳なのだが、まー、この期に及んでも脱がないんだもん。これほど脱ぎそうで脱がない女優というのもなぁ。
凄く脱ぎそうなのに。何でもやります!!みたいなガッツのある女優に見えるのに。ブラしたままセックスするか、アホ!せっかく福山氏なのになぁ。いや、それでいったらせっかく浅野忠信 とゆーこともあったか……。

そーゆー意味では、彼女はおじさまキラーであるのか。しかし今までは多少魔性チックなところがあった彼女が(青春映画系は観てないので、そこんところはスルー)、本作ではまず登場でペロペロキャンディーをなめなめ、キャリーケースをがらがら引きずり、チョコバーを模したスマホを眺めているという徹底ぶりで、う、うぅっ、なんて判りやすい、“若い女の子”なんだろーと思って、ちょっとゾワゾワとしてしまった。そして、ちょ、ちょっと似合わないよ、そーゆーの、ふみ嬢……とか思ったりして(爆)。

それで言えば、ハデな柄シャツに女好き発言連発、俺は一匹オオカミだから的態度をゴリゴリに押してくる、ザ・エンタテインメントな男、“シズカちゃん”を演じる福山氏も、まぁ若干イタい気がしなくもないというか……。
そうか、決して状況だけが大コケの原因じゃなかったのかも。いや、こういう振り切れさが、何の障害もない状態だったらヒットに結び付いたのかもしれないと思うし、こういう振り切れさこそがこの監督の持ち味だとも思うのだが。

そもそも本作は原作映画があるのだという。原作映画、というのも久しぶりに聞く、というか、ほとんど聞かない。監督自身が相当ほれ込んでいるのだろうとぼんやり思っていたが、本当に相当、ほれ込んでいたらしい。原田眞人監督!!「盗写 1/250秒」??えーっ、こんな作品、知らないよ!!なんかクヤしい!!
こうなるとオリジナルが凄く気になる。だってだって、当たり前だけど本作は、大根監督100%印のエンタテインメントなんだもの。公開記念リバイバル上映とかやんないの?やりそうなのに!!

なもんで、オリジナルが気になりながらも、本作だけを語るしかない。いやそれでいい。でも気になる(爆)。
この写真週刊誌というのは確かに、今よりもそれが出始めた、フォーカス、フライデー、フラッシュ時代が最も盛り上がっていた気持ちがあるので、その頃のリアルな感覚だったのか、いやだから、本作を語るしかないんだってば(爆)。

でもそういう意味では、かつての栄光を語って盛り上がる編集部、しかし今は雑誌自体が厳しい時代、オリジナルも気になるが、今の雑誌事情、スキャンダルスクープ事情を少々湿っぽく語るあたりは現代的である。スキャンダルなんていう言葉さえ、ちょっとしょっぱい懐かしさである。
すっぱ抜くのは雑誌さんが頑張っても、結局その記事をネットで拾い読みしてオワリの今の時代には、確かに確かに本作はすこぅし……昔日感があるのかもしれない。

だから、福山氏のキャラ、かつてのスターカメラマン、今は一匹狼のパパラッチで、自分のクソ写真を一番高く買ってくれるというスタンス自体が、何か昭和の香りを漂わせるのかもしれない。
私は凄く、好きよ。この、雑誌という媒体の力を信じている感じ。写真も勿論だけど、記事、つまりそれを書く記者をこそ、重きを置いて描いているでしょ。まぁ、取材と言ってもその現場で突撃しているだけの感はあれど、でも記事があっての雑誌であって、活字力、文章の力を信じている感じが、好きだなと思うけど、やはりそれは、昭和だなという感じがするのだ。
哀しいが、どんなに雑誌でいい記事書いても、ネットに写真転載して、文章はつまんで拾って、それでオワリじゃない。

劇中、この雑誌、SCOOPに載せられないなら文春に売ろうかな、なんていう台詞は、撮影時期を考えれば本当に偶然だったのだろうが、芸能関係者の間では、それだけセンテンススプリングは危ないということだったのだろう。
でもフシギね、文春的な週刊誌って、写真はモノクロだし、それこそ記事で読ませる雑誌なのに、汚い手は使うし、“関係者”を連発して、信ぴょう性のない記事を書きまくるところも、あるじゃない??でも、読者は活字を信じちゃうんだよね……。

文春という重い歴史のある背景と活字、それと対照的な写真週刊誌の世界を本作は描いていて、でも一方で、報道写真、報道記事に対する未練っていうか、それこそがスター道、花道だと思ってる。
福山氏扮する今は落ちぶれカメラマン、静ちゃんをその道に戻してあげたいと、敏腕副編集長(後に編集長に昇格)の元妻、カッコ良すぎるヨー・ヨシダは画策する訳なんである。でも彼は自嘲しまくって、俺はこんなゲスな道が似合ってるよ、と言い募るばかり。

確かに、かつての写真週刊誌は、芸能人スキャンダルもあったけれど、事件の生々しい写真とか、その真実に迫ったり、凄くとんがった印象はあった。本作のかなりキモのエピソードである、少年時代に連続レイプ殺人事件を犯した少年の今の顔を撮影して掲載する、なんていう、よく言えば市民感覚に沿った過激な報道もあった、確かにあったなぁと思う。
その是非は、本作の中でも激しく議論される。それは、確かに重要なことである。滝藤賢一を持ってきたのははまりすぎるほどのはまりである。結果的に負けることになっても、少年犯罪の成人した顔をスッパ抜いたり、クスリでイッちゃった連続殺人犯が拳銃ぶっ放してカメラマンの頭を撃ち抜いた瞬間を載せたりすることは、絶対にダメなんだ!!!と激しく抵抗する。
こういう人がいなければ、ダメなのだ。でもいても……突破されちゃうんだけれど。でもいなければ、ただの断罪社会になってしまう。

でも、見ている限りでは難しいところだなあ。その断罪にこそ、花を持たせ、エンタテインメントに仕立て上げているのだから。しょうがないんだけれど。
しかしその、拳銃で撃ちぬかれたカメラマンってのが、主人公である静ちゃん。つまり、福山氏!!主人公が死んでしまうという衝撃の展開。

そして彼を撃ち抜いたのは、親友と言ってもいい、時に現場の手引きも買って出てくれる、まあいわゆる、そーゆーオミズな場所に通じているチャラ源と呼ばれる男。これがリリー・フランキー氏なのだから、一筋縄ではいかないのは丸わかり。
一見、人当たりよく、人懐っこいが、クスリをやってる時点で危なく、クスリをやりだすと、テンションも高めになり、そしてどうやらボクシングの達人らしくふみ嬢演じる野火の輪姦危機にも楽しげに現れてボッコボコにする。
これは周囲が心配しているという伏線なくとも、トンでもない事態に、まあなるわな、という予感たっぷり。そりゃリリー氏なら、ただの親友、腐れ縁、仲良しさんで終わる訳がないんだもの。

ただ、静ちゃんがチャラ源に負っている借りというのがどういうことだったのか、明快にはされなかった、よね??チャラ源が一人罪をかぶって……ぐらいなことは言っていたかなあ。でもそのことが原因なのか、ただ単にチャラ源が原因なのか判らないけれど静ちゃんには多額の借金があって、だからこんなパパラッチに身を落としている訳で。
元嫁の副編集長がチャンスを向けても、俺はゲスがお似合いさ、としらばくれる。副編集長がしょんべんくさいガキの野火を差し向けたのは、後に語るようにまるで当時の自分みたいという青臭さを感じていたのと同時に、だからこそ、静ちゃんに愛されることも、まあ予期していたんだろうなあと思われる。
別れた今でもエロチューも見せるし、セックスもしていると思わせる雰囲気のある大人の二人。野火と元夫の関係を察知しても、一瞬だけで特に顔色も変えないヨーさんがひどくカッコいい。別に年を隠さなくてもいいのになあ。

アイドル、力士、政治家、数々の有名人の痴態をカメラに収めるテンポ良いカッティングにドキドキワクワク。
静ちゃんと野火がコンビの結束を固める、数々のスキャンダル写真を撮り、同時に突撃インタビューも敢行し、逃げ、追いかけられ、時に「ハリウッド映画以上」のカーチェイスも!いやー、エンタテインメント映画だよなあ。

中でもスター格のゲストは斎藤工であろう。将来有望なイケメン政治家が、売れっ子爆乳アナウンサーとホテルで密会している、その、二人でいるところを撮影するという難題を、「絶対に、彼女が冷えた白ワインを飲みたいと言ってルームサービスを頼む筈だ」という、なんか女の媚びた生々しさを感じさせ、そこを狙って、窓の外に注意を払わせるための家庭用打ち上げ花火!!
斎藤氏のファンが悶絶しそうな、ガウンからチラリと見えたラな上半身に黒がセクシーなショーツ、隣にはべるアナウンサー“桃ちゃん”は、脱いでこそいないものの、脱ぐよりエロい、巨乳をボンテージランジェリーに包み、わざわざ見せつけるようにブラの位置をゆさゆさとズリおろして調整するエロさ。こーゆーのが大事なのよっ。

静ちゃんの最期の瞬間を激写したのは、野火だった。「最後に愛した女に、記事を書いてほしいんじゃない」との副編集長の言葉に、見開いた目からだーだーと涙を流しながら、それでも見開いた目をそのままに、涙をぬぐうこともせず記事を書く野火=ふみ嬢に胸が熱くなる。このシーンは良かった。
処女かどうかをカケしてて、負けた賭け金を元嫁に渡すようにと野火に託してそのまま帰らぬ人になった静ちゃん。処女じゃないっつーんなら、ブラのままセックスはしないと思うけどねえ(まだ言う!)。★★★☆☆


Start Line
2016年 112分 日本 カラー
監督:今村彩子 脚本:
撮影:今村彩子 堀田哲生 音楽:やとみまたはち
出演:今村彩子 堀田哲生 

2016/9/5/月 劇場(新宿K’scinema)
いやぁー、面白かったねぇ。本当に、映画として面白かった。映画として、だなんて。私は映画を観に来ているのに。
ただ、この今村監督に関して数々の映像作品を発表していることは判っていても、映画ファンとしてはヤハリ映画になったものに触れる機会しかなかなかないもんだから、そうなると、やはりどうしても、ろうの映画監督、ろうをテーマとした作品作り、ということが、偏見というつもりはなくても(つもりはなくてもあるかもなんだけど)、どうしても前提として出てきてしまう。そうすると、そうじゃない映画と同じように無心でいられず、つい、“理解しよう”と務める心が産まれてしまう。

なぁんて、彼女の作品、あとは「珈琲とエンピツ」しか観てないくせに(爆)。
でもね、本作はそれが一切、なかったのだ。正直なことを言うと、足を運んだ理由も、シートに身体を沈めた時にも、その気持ちはあった(汗)。でもそれが本当に、あっという間に、きれいさっぱり、なくなったんだなあ。面白かった。映画の神様が宿ったと思った。

いや、案外コレが、監督さん自身がしたたかで、神様が降りてきたことに気づいて、途中から方向転換をして、上手く神様を利用したのかもしれない。だって監督としては充分にキャリアのある人なのだから。
いやいや、とてもそんな風には見えない。ただただ必死で、ひたすら怒られてヘコみまくって、途方に暮れる様子がリアルで痛々しくて見てられないぐらいなんだから、そんな風に思うのはイジワルに違いない。
でも。それぐらいのことが出来なければ面白い映画なんて作れないのだ。降りてきた神様の足をひっつかんで引きずり下ろすことぐらい、やんないと。

そしてその取引として差し出されたのが、監督さんが自分の情けなさふがいなさをカメラの前で存分にさらけ出すということだったのだと思う。
カメラの前でキレて泣きじゃくる、なんて、本当にマジ切れしているか、プロの女優かしか出来ない。そして彼女はどちらだった?なんて思うのは……そう思っちゃうほど、そのシーンが分岐点であり、不器用マックスな彼女がとてもチャーミングだったからなのよね。

んなことばかり言い散らしていても訳判んないから、とにかく概要。ろうの映画監督である今村彩子氏、母を亡くして悄然としていたところで、自転車による日本縦断の旅を思いつく。映画ではさらりと触れるぐらいだったが、母と、そして祖父も立て続けになくした彼女は死のうと思うぐらい追い詰められていたという。
生まれながらのろうである今村監督に、口話を教え込んだのが母。だから彼女はろう者の中では健聴者ともコミュニケーションを取りやすい方だと思うが、むしろそれが、彼女のろう者としてのアイデンティティを複雑に彩ることになる。

それは、今村彩子という表現者を知った時から思っていたことだった。健聴者とコミュニケーションをとる術としてはこれ以上ない武器だけれど、それはもしかしたら、ろう者というアイデンティティを否定することになるのかもしれない、って。こんなこと言っちゃアレだけれど、裏切り者みたいに思われる場面もあるのかな、って。
そう思うのは、手話というコミュニケーション&表現手段を持つ彼らが、そのことにとても誇りを持っているということを、ことあるごとに感じていたから。

口話も操る彼女を、私はどこか、誤解していたようにも思う。なんたってドキュメンタリー作家なのだから、どんどん外へ出て行って、どんどん話を聞いて、コミュニケーション能力の高い人なのだばかリ思っていた。そうでなければ、ドキュメンタリー作家なんて務まらないと。
でもそれはあくまで仕事としてであって、個人としてのコミュニケーション能力は違う。そう言われるとハタと膝を打つ思いがある。

うぅ、だって私もまさにそうなんだもの。仕事だとメッチャアイソよく出来るのに。あれは何か、演じている感じ。仕事じゃなくて知らない人と積極的にコミュニケーションとるなんて、必要ないし、苦痛なだけ。ただただ黙ってたい(爆)。
いや、仲いい人となら喋りたいけど、それでいいじゃんと思っちゃう。コミュニケーション能力が高い必要って、人生であるの??って。

でもそれは、それこそ健聴者の論理なのか。いわゆる“健聴者の世界”に属していられるから。あぁ、こんな言い方も不遜だけれど。
今村監督は、ろうも健聴者も平等な社会で、平等なコミュニケーションをとるために、飛び込んだのだと思う。いや、そんなことは劇中では言ってないさ。

旅先でろう者の知り合いに出会えば、ほっと息をつき手話べりまくる(しゃべりまくる、のシャレ♪)。口話が出来て、相手の唇を読み取ることが出来たって、初対面だったり読み取りづらい相手だったり、あさっての方向を向いてたりすると読み取れないし、健聴者同士で喋り出すと中に入れなかったり。
そうした様々な、そうか、確かに!!という事件を織り交ぜながら旅は進んでいく。こういう、ろう者への理解を深める小さな事件のちりばめの上手さが、映画の神様の足をひっつかんだ、計画犯罪(笑)なんじゃないのと、思っちゃうゆえんである。そしてそうでなければ、クリエイターは務まらないもの。

口話が出来るろう者、そこから産まれてしまう健聴者との誤解。それは今年の映画界の事件と言いたい、「FAKE」で明確に描かれていた視点なので、作り手自身が“口話が出来るろう者”であるということで、裏付けのようなものがとれた感覚がしている。
ろう者という存在が、誤解を恐れずに言えば障害者の中では“見た目が良い”つまり障害が判りづらいので、特殊な偏見や差別が生まれやすいのだろうと思う。

劇中、通りすがりのおっちゃんたちと飲みかわす場面が出てくる。おっちゃんは監督に対して一定の理解を示す。それは、おっちゃん自身が障害を持つ身内がいるから。
おっちゃんは控えめながら明確に言う。「途中失明者の方が、障害のレベルは重いから」……もちろん、このことに対して、当事者でもなければ専門家でもない私がウンという訳にはいかない。レベルの軽さ重さなんて、そういうことこそ差別だとか、もっともらしいことを言って逃げるしかない。
でも、今村監督はそう言われて黙り込んだのだ。だってきっと、彼女はデフであることに障害だの重いだの、思ってない。社会生活の中で、いろいろやりづらい点はあるにしても。
そんなことを言いきってしまえばいけないとも思うが、そんな風に考えてしまうこともよくないと思ったり。ああでもその辺は映画に対峙する映画観客の立場だから!!

で、まぁ、脱線したけど、人とのコミュニケーション能力を鍛えようとこの旅を決意した監督だけれども、全然、ぜっんぜん、上手くいかないのね。まず、最初の内は走ることにだけ没頭してしまう。そのことで、ただただ疲れてしまう。交通ルールもアイマイにスルーしてしまったりする。
この旅には伴走者がいて、スタートからゴールまでひと時も離れない。ジテンシャデポなる、監督御用達の自転車専門店のスタッフさん。
哲さんというその男性は、一瞬頭に浮かんでしまったロマンチックな間柄なんてことは一切なく、ひたすら今村監督を叱り倒すんである。それは、自転車の専門家という自負からくる、交通ルールを守るとかそういう単純なところはもちろん、人間として正しいことを、今村監督が出来ていないことに、こんこんと諭すんである。

時にカメラを投げ出してまで。自転車をバーン!と投げ倒し、横倒しになったカメラが哲さんの厳しすぎる叱責と、それに弱々しく反駁する今村監督の様子を見切れながらも音を拾った映像は、震え上がったなあ……。
でもそれこそ、見事なエンタテインメントと言えるじゃない?監督は倒れたカメラの位置を直すことも、こんなところを撮られたくないとスイッチを切ることもしなかった。
勿論、そんな余裕などなかったというのが、“正解”なんだろう。実際、ただただ哲さんは怖いんだもの。そんな余裕、ないよ!!でもこういうところが、映画の神様が降りてきたと思えたし、監督自身のしたたかさというか、ドキュメンタリーといえどもクリエイターとしての矜持を感じた部分だった。

健聴者との飲み席で、ただただ置いてきぼりにされた監督が泣いて文句を訴えてさえ、あなたが甘えているから、と突き放した場面も壮絶だった。
聞こえていないことを言い訳にしているんだと、斬って捨てる哲さんには観客であるこちら側でさえ、そりゃないよと思ったが、でもそう思うことは、それこそが、差別意識を持っていることだということが、観終わった今なら判るし、監督もそうだと思うのだ。

ただ、こうして羅列して考えれば、確かに哲さんは事件の場面には必ず居合わせるし、今村監督の弱点……上手いこと自分自身の問題から逃げる、話題をすり替える、ってこともよーく判ってて、イラッとしているんだよね。
膨大な尺を回された本作は、チョイスはほんのちょっとだけれど、そういう点では絶妙に、イイ部分を残して取り上げているなあ、って気がしている。

個人的に、自転車ロードムービー、もっと言っちゃえば自転車ドキュメンタリーはハズれがないように思っている。それはヤハリ、あの平野監督の傑作シリーズが頭に浮かぶというのもある。
でも自転車ロードムービーっていうのは……ドキュメンタリーっていうのは、最初の内は何も起こらないんじゃないか、とふと怖くなるんだけれど、絶対に、ドラマが起きるんだよね。

今村監督はこれを、自分が苦手としてきた人との(正確に言えば、健聴者との)コミュニケーションを成長させるための映画、と位置付けていた。でも引っ込み思案の監督さんは、哲さんがきっかけを作ってくれてもそれを生かすことが出来ず、それに対する言い訳を繰り出しては哲さんを怒らせる始末で。
当然と言えば当然だが、ろう者の知人友人とは問題なく盛り上がることが出来、それがまた哲さんにため息をつかせることにもなる。知人友人は言う。「伴走者とのコミュニケーションの映画だね」と。監督も苦笑交じりにそれにうなづく。

ああ、まさにそうなのだ。映画の神様は、期待通りの“健聴者とのコミュニケーション映画”が撮れずに苦しんでいた監督に、……哲さんだって健聴者には違いないから、そんな答えを与えてくれたような気がしてならない。
そしてそれは、言ってしまえばちょっと生ぬるく予想していた、旅の行く先々で友達100人!みたいなことよりずっと意味があり、彼女自身を成長させ、そして映画を面白くしてくれたのだもの。

そもそもこの物語は、ゴールの宗谷岬まであと1キロという、目前の状態の場面をまず映しだす。監督は「私はまだ、何も乗り越えられていない」とつぶやきながら自転車を走らせる。まぁ、謙虚ね、などとこれから起こることが当然何一つ判っていない観客であるこちら側は思う。
そして、哲さんとの壮絶バトルが繰り返される本編にドキドキしながら、今度は展開通りにこの場面までたどり着くと、……そうか、そういう気持ちで彼女はいたのか……と感慨を覚えずにはいられない。

そしてこの時には、哲さん以外にもう一人、旅を共にしている人物がいる。オーストラリア人のウィルもまた耳が聞こえない。とても明るく、人懐こいウィル。こんな奇跡の出会いがあるなんてと思う。さらりと登場するけれど、ホントに映画の神様の存在を考えずにはいられない。
だって彼は、ろう者である前に外国人で日本語なんて判らないのに、地元の人たちに積極的に語りかけ、監督が出来なかった、路上で困っている人に声をかける、ってことも容易にできてしまうのだもの。

それを、監督が耳のせいやらなんやらにして、哲さんに厳しく叱られた、っていう経過があったから……まぁ、なんて上手くできているんだろう!なんて言うのはちょっと違うけど(笑)。
でもさ、この監督さんの人見知りっていうか、どんどん声をかけてなんていけない、っていうの、私自身の性格に似てるから(まぁ私は仲いい人とだってあんな激しくケンカは出来ないけど(爆))、凄く胸が痛いんだよね。凄く判るというか……。

宗谷岬まで1キロの場面で監督の愚痴のようなあのつぶやきがあって、しかし最後の最後、監督は「自分としては最も避けたいところ」人が多く集まる宿泊所、ライダーズハウスを最後の宿泊所に選ぶ。
哲さんが言っていた。筆談するとか、彩子さんが思うほど皆迷惑になんて思ってないよと。あなたが出来ないと思い込んでいるだけ、役に立たないと思い込んでいるだけ。それはあなたじゃなくて、相手が決めることだから、と。

最後の最後、そう言ってくれた哲さんは、それまでの厳しい口調じゃなくて、いや、やっぱりちょっと厳しかったけど(爆)、とても優しかった。
監督は、それまでも散々泣いてきたけど、この時流した涙は、自分が自分を否定していたことと、皆が受け入れていたことに気づかずにそうしていたことを哲さんが教えてくれて、そのことに気づいたが故の涙で、ここは本当に見てるこっちも胸が熱くなって一緒に泣いてしまうんである。

だからこその、最後のライダーズハウスの場面である。若いバイク乗りたちが集うここで、彼らは、哲さんの言うとおり筆談にめんどくさそうな様子など見せず、むしろ人見知りの照れ屋さんはみんな監督に似ていてさ、口話と身振りと筆談で照れくさそうに会話を進めるのよね。
凄く、イイのよね。旅を通してコミュニケーション能力を成長させる、と監督自身が思い描いていたのは、それこそ絵に描いたような地元民たちとの触れ合い、優しき人々との交流、だったのだろうけれど、24時間テレビじゃあるまいし(爆)、そんな風に上手くはいかない。
自分から飛び込んでいかなければいけないというのもあるけれど、それはそんな、滝つぼに飛び込むような勇気が必要な訳じゃない。だって知らない人と話す、ということは、相手だっておんなじだから。おんなじ努力をお互いにしていると判れば、怖いけど、違うじゃない?

ああ、面白かった。最後、この旅でかかった様々な数値が出てきて、叱られた回数500回、褒められたのは2回、などという数字にも思わず泣き笑いしちゃうけど、この旅での体重の増減、哲さんはマイナス12kg、監督はプラス0.5kg、というのには思わず噴き出してしまった。
て、哲さん……なんてすばらしいパートナー、あなたって最高よ!途中も口にしてたけど、旅が終わって彼が最後の最後言う、ここはまだスタートライン。ああ、まさしくタイトルまで神様が降りて来たんだなあ!★★★★★


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