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「て」


2016年鑑賞作品

ディスタンス
2016年 80分 日本 カラー
監督:岡本まな 脚本:
撮影:岡本まな 音楽:ランタンパレード
出演


2016/7/25/月 劇場(ポレポレ東中野)
映画っつーのは様々な意見があって当然だから、否とすることは悪いことではないのだが、やはりこうしたセルフ・ドキュメンタリー、インディーズフィルム、たった一本に気合を入れた作品、というのが判るだけに、なかなか正直なことを言うのは難しくなる……。
私、結果的に本作に対しては、全般的にクサす、ということになってしまうと思う。否定、批評、なんていうお上品な言葉にはならないと思う。本作を映画として配給状態に載せるということにどうしても首をかしげてしまう。厳しいことを言っちゃうと、作ってもいいけど、家族の中で見てればいいんじゃないの??と思ってしまう。

そう、これは両親の離婚によってバラバラになった家族の物語。厳しい父親をお兄ちゃんは憎み、母親は泣くばかり、妹は幼く事態が把握できないまま。今は別々に暮らす家族に妹がカメラを向ける、という物語。
まあその、設定(などというのもナンだが。ドキュメンタリーなんだから)としては、現代では珍しくもない形。だからこその普遍性も期待できたのかもしれんが。

上映の前に、手持ちのカメラのため、画面に酔う可能性があります……とわざわざ注意喚起があった。そんなことは初めてだった。そして注意喚起されたってムリだ、もう酔いまくってしまって作品を堪能するどころではなく、ひどい頭痛を抱えて劇場を出る羽目になってしまったんであった。
そりゃあこれまでだって、画面に酔った経験はある。ドキュメンタリー作家として最も気を吐いている想田監督の再新作でも私はげろげろに酔ってしまったが、その時だってそんな注意喚起なぞなかった。

なぜならそれは、彼がプロの作家だから、カメラの手ブレは出来る限りの注意を払った以上のことが起こった時に限られていて、そしてそんな出来事が作り手の予想以上に多く起こったことが見ていて判るからなのだ。
しかし本作は、そもそもカメラ技術があまりにもひどく、もうその時点で覚悟を持って自らの家族に迫った、などという持ち上げ方自体に疑問を感じてしまう。
映画愛ゆえにたった一本に臨む、それも心にしこりのある自らの家族にカメラを向けるなら、最低限のカメラ技術ぐらい身に着けてからにしてよ、と思っちゃう。

今は家庭用ビデオカメラで簡単に映像が撮れ、それが“映画”として劇場にかかるチャンスも広がっている時代。映画という垣根はぐっと低くなって、それはそれでとても良いことだと思うんだけれど、時としてこういう意識の低さに出会ってしまうと本気でガッカリしてしまう。
いや、彼女の家族に対する想いを映画にしたいというのは本物なんだろうと思う。でもそれを映画という形にし、他人に見せることを前提として作るならば、これはあまりにも甘い姿勢だと言わざるを得ない。

だってそんなに難しいことではない筈。本作の中には彼女の幼い頃の家族の姿が折々差し挟まれる。つまり彼女は、私の年代とは違って、家族の記録が写真ではなくビデオである時代なのだ。
そしてそれを撮影しているお父さんは、娘よりもそこんところをちゃんと判っている。よっぽどこの古いビデオ映像の方が作品として成立している。生っぽさを手ブレのせいなんかにしない。

生っぽさっていうか……。凄くズームを多用するでしょ。そしてピントを合わせるために何度もガッコガッコとズームの調整をする。これが一番の酔った原因というのがさ……。思いがけない出来事や台詞を追うためにブレてしまう、というんじゃないんだもの。
皮肉にも劇中、それを身内から指摘される場面がある。おばあちゃんが、孫息子(監督にとっての兄)が子供の頃自分にプレゼントしてくれたお手製の粘土細工?を紹介する。
テレビのワキかなんかに置かれているそれを、監督はおばあちゃんのそばから動かず、ズームでとらえる。ズームにすると、それこそ撮影技術がしっかりしてないと、確かに大きくとらえられはするけれど、きちんと固定しては撮れないんだよね。ふるふる揺れちゃう。

おばあちゃんが、「ちゃんと近づいて撮りなさい」と言う。監督は「ズームにしてるから」と、判ってないから教えてあげる、みたいな優しい口調で言う。
……でもその結果がコレであり、全編、彼女のズーム癖でげろげろに酔ってしまう。動きたくないんかな、などと思っちゃう。ドキュメンタリーの撮影者って、カメラではなく自身が動いてナンボなんではないだろーか。

そもそもなんで、あんなに、画面から見切れるほどにお顔をアップにしたがるのかが判らない。会話のシーンもいちいち言葉を発する方向にカメラを振るというこらえ性なさで落ち着かず、結果げろげろである。
思い切って引くとか、メインとなる話し手がどちらかという判断、あるいは設定をして、カメラを据えるというのは、いくらセルフドキュメンタリーとはいえ、基本のことではなかろうかと思う。

つまりね、そういう、作品そのものではない、技術的な稚拙さでまず観客を疲れ果てさせてしまったら、もう先には進めないんだよ。
いまやどこにでもある家庭環境と言ったが、だからこそ訴えることは出来たと思うが、正直そこに突っ込んでいったのかどうかというのも見えてこない。そもそも、どういう家庭環境なのかなかなか見えてこない。

母親を訪ね、祖母を訪ね、兄を訪ね、父親を訪ねる。年齢的に子供が自立しているのは当然だし、父親も歯科医の勤務中を訪ねるから、両親が離婚して別居しているというのが中盤になるまで全く判らないんである。
それは私がバカだからなのかもしれんが(爆)、中盤になって突如、という感じで兄が幼き頃の思い出話を語り始める。印象としては、さすがにこれじゃ判らないかな、という判断の元に兄に語らせたという感じがあって、正直それもおっそ!!という感じなんである。

いつも定位置に座っている祖母と、一緒に暮らしているのは監督にとっての伯母なのか??なんか繰り返し色んな場所を訪ねるからよく判んない(爆)。
このおばあちゃんが父方なのか母方なのかすら。恐らく母方なんだろうとは思うが……夫から逃げ出した母親が身を寄せた場所っぽいし。

監督さんは、父親に対しては兄のように嫌悪感情は持っていない、らしい。そしてそのことを、苦しんだ兄や母に対して罪悪感は持っていない、らしい。
彼女が父親に向けるカメラは確かに愛情に満ちている。娘が向けるカメラにまずおどける父親はとてもチャーミングだし、兄が抱えるトラウマ……厳しく冷たい父親、というのがちょっと信じられないぐらいなんである。

実はそこんところが最後まで暴き切れなかったという歯がゆさも、正直なところなんである。
本作はね、クライマックスに兄の結婚式が据えられているのだ。そしてそこで、予定になかった父親のスピーチが用意されている。そこではそれなりの感動っぽさしか得られなかったのが、ラストのラストに、後に父親は兄に電話をして涙ながらにこれまでのことを謝罪し、兄も涙で受け入れた、てなことがクレジットで示されるのね。

……なあんかね、つまりはこれか、という感じがするのね。そもそも兄の結婚式が一つのピークに来るだろうという目論見で撮っているんだろうというね。
そしてそこに予定のない父親のスピーチというのも……ちょっと疑っちゃうのね。監督さんがそれを画策したんじゃないかと。そうなるとカメラにはおさめられなかった後日談としての電話でのやり取りだって本当にあったのかって、疑いたくなっちゃう。だってあまりにも出来すぎた大団円だもの。
彼女にとってはきっと大好きな父親。でも兄が憎み続けたことも知っている。そのギャップに迫ることが出来れば、良かったんじゃないかと思うのだが、父と兄が長年の心の溝を埋めて手を握り合えばオッケーみたいな、それを画策したような単純さを感じてしまって……。

本作にしつこいぐらいに挿入される幼き頃のビデオ映像が、これが本作の大切な構成要素なんだろうとは思うんだけど、私はキライだった、正直。これなくてもいい、てゆーか、ない方がいいんじゃないの、と思った。
何かこう……ホントに、見たくもない知人の私的ビデオ、私の小さい頃なのー、みたいに見せられているようなうっとうしさを感じてしまった。

唯一、ビデオ映像の中に映る彼女の母親はハッとするほど美しく、それこそ女優さんみたいで、女優さんみたいに彼女の夫は被写体として映し、それは使える、って気がしたのだが、執拗に幼い彼女を見せられても、ねえ。
お兄ちゃんより監督さん自身の映像の方が多かったような気がするのが、なんかナルシズムっぽくて、ハズかしくなっちゃう。

だってそもそも、宣材写真となっている吹雪にまみれた彼女自身のアップ、そして海岸で吹雪の中舞うように歩き回るショットとか、ナレーションで生い立ちをかぶせるためのシークエンスだけど、……これは作品になんか関係のある場面づくりなのかしらん??イメージショットのようにしか見えなくて照れくさいしさ。
劇中、お顔をぺたんと横倒しにした監督さん自身の可愛らしいアップを挿入したり、テーブルの上でのタップダンスを披露したり、……うーん、これはなんだろう、何か自分をアプローチしたいとか??

後からプロフィルを見るとそもそも女優志望だということを知ってちょっと納得だが、それを知ると更にイタいというか。
そういやー、母親へのインタビューシーンもライトをつけたり消したり、台詞もまったく聞き取れないし、ところどころにそういう……なんていうのかな、スタイリッシュ演出したい、みたいな雰囲気があって、なんかいたたまれないのよね。

音楽への造詣とかも……オシャレ家族みたいな?お兄ちゃんのマーヴィン・ゲイの知識披露からそれが父親への哀惜につながるとか、みたいな??いやその……それ自体は案外良かったんだけど、監督さん自身のイメージアップ作戦があると、その流れに見えてしまうツラさがある。
もったいなかったんだよなあ。お兄ちゃんに関しては、がごめ昆布のゆるキャラに扮してのPR撮影風景などがふと心を和ませるが、じゃあ彼は一体どんな仕事をしていてこの映像なの、という疑問も浮かび、ただ単にちょっと面白く物語を彩れるから、と挿入したように思えちゃう。なんか、なんとも、ピリッと観客を納得させられないのよ。★☆☆☆☆


ディストラクション・ベイビーズ
2016年 108分 日本 カラー
監督:真利子哲也 脚本:真利子哲也 喜安浩平
撮影:佐々木靖之 音楽:向井秀徳
出演: 柳楽優弥 菅田将暉 小松菜奈 村上虹郎 池松壮亮 北村匠海 岩瀬亮 キャンディ・ワン テイ龍進 岡山天音 吉村界人 三浦誠己 でんでん

2016/5/29/日 劇場(テアトル新宿)
商業映画に行っても、豪華キャストを得ても、真利子監督は自らを“修正”しようなどとはちっとも思わないのかという戦慄とたまらない嬉しさを感じる。修正、だなんておかしないい方かもしれないけれど、それ以外に言葉が見つからない。
誤解を恐れずに言えば、観客の存在など考えていないかのような。本当はそういう価値観は私自身は苦手とするところなんだけれど、いやいやこの監督さんはそんな風に考えている訳でもないんだろうけれど……。

自分の中にある確かな世界を信じて、手の内にしている。世間的に思われているような“映画”という形に流れる弱さがない、それは商業映画だろうが豪華キャストだろうが、そんなことは条件のひとつにもならないということがたまらなく素敵。
だからこそ今後、どうなっていくのか……。でもそういう作家さんはごくまれに現れる。塚本監督とかね。観客が振り落とされそうになるのを必死にしがみつくような、そんな作り手を、私たち映画ファンもマゾ的に待ち望んでいたのだ。

そして柳楽優弥という存在。いやあ彼は……まさに奇跡の復活という名にふさわしいであろう。こんな風に世間的に披瀝されているような復活物語をここで物知り顔に記すのもナンだが、でも本当に。
あれだけドーン!と名前を聞かなくなって、私生活だけがぽつぽつ聞こえてくる程度だったのに、しかし今は順風満帆な若手売れっ子俳優たちと何食わぬ顔でゴールデンタイムのドラマなんぞに名を連ねているのだから。

突然スターダムに駆け上がったローティーンの彼は、今世間でしたり顔で言われているほどには、凄い演技、とまでは私は思わなかった。エラそうでゴメン(爆)。
ただ孤独な少年、というオーラがものすごかった。だから、彼はこの年齢だけで過ぎて行ってしまうのかと正直思っていた。それこそ、是枝監督の手腕での奇跡だったのだと。その後の出演作も正直パッとしないように思えたし。
だから、「ゆるせない、逢いたい」で突然雷のように再会して、本当に感電した思いだったのだ。なんだこれ!!みたいな。
そしてあの、彼自身につきまとっていた「誰も知らない」を本作は完全に吹き飛ばしただろうと思う。確かにこれは、宣伝文句じゃなく、彼の新たな代表作として語り継がれるに違いないのだ。

劇中、彼の台詞はほんの数えるほどしかない。最後まで喋らないのかと思ったほどである。喋らないまま終わったほうが劇的だったような気もするが、そうした姑息なことはしないということなのかもしれない。
彼には一応役名はついているようだけれども、殆どそれが機能しないまま進んでいくし、意味もないような気がする。彼は名前を持つ一人の人間ではない、モンスターなのだ。
いや、そう言ってしまったら、それは間違いなのかもしれない。人間だからこそ、怖いのかもしれない。でも、周囲には、勿論観客にも、彼のことは理解できない。モンスターにしか見えない。
演じている柳楽君はどうやってアプローチしたのだろうかと思う。アプローチなどという言葉さえぬるく聞こえる。生きるしかないのか、このモンスターを。

彼は、とにかくケンカに明け暮れるのだ。いや、ケンカというのも何か、当たらない。ケンカをするには理由が必要だが、彼にはそれすらない。ただドーン!と殴りかかり、殴られても殴られてもゾンビのように立ち上がり、相手を完全にのすまで、やめない。
あんなにボッコボコにされても、顔中がエレファントマンみたいに腫れ上がっても、骨折すらせずにさっくり立ち上がる彼は、一歩間違えればギャグみたいな不死身である。でもそれを、すさまじさと恐ろしさに感じさせるところに、監督と、そして監督が全幅の信頼を寄せたであろう柳楽君の途方もない力量がある。

そう、まさにゾンビだ、ゾンビの恐ろしさなのだ。不死身なところも、なぜ襲うのか理由のないところも。さびれた造船の町からふらりといなくなり、手近な中都市で無差別に相手をボコボコにぶったおす。一度はやられて顔中血だらけになるのに、その行方を追いかけてまでぶちのめす。
その執念は妙に乾いていて、だから恐ろしい。ぶちのめすだけで、金を奪ったりということはない。腹がすけば公園でゴミ箱をあさり、スーパーで万引きとさえ言えない、どうどうと売り物を頬張るんである。
これをモンスターと言わずなんと言うのか。思わず言ってはいけない言葉まで思い浮かぶ“白痴”ではないのかと……。

造船の町に弟と二人、親無しで育った。親がいなくなった事情は、死別と出奔、そう多くは語られない。そんなところに湿っぽい理由を持たせるのは不要なのだろう。親が存在するとなると途端に余計なドラマが生まれてしまう。こうしたティーンの物語となると避けては通れないところだから。
かといって、こんな片田舎で動物のように育ったという訳にはいかない。面倒を見てくれた造船所のおじさんはいる。でも見るからに、ただメシを食わせていたぐらいな雰囲気である。
しかし弟君の方は比較的マトモに育っている。演じるのは村上虹郎君である。彼はかつての柳楽君をほうふつとさせるような、彼自身が持っている独特のオーラで今、役者道を歩み始めている。今後どうなるんだろうという、期待と不安がある。

弟君が、突然いなくなったお兄ちゃんのことを心配している。心配しているのは、彼ただ一人である。世話をしてくれたおじさんも、昔から手を付けられない子だった、と苦い顔で言うばかりだから。
弟君にとってはいいお兄ちゃんだったんだろうか。そのあたりは判らない。でも、兄ちゃん、兄ちゃん、と常に心配している。マトモに育ったとはいえ、この小さな島の中で、あの兄貴を持っている弟、という目線がある彼は、やはり孤独だったのかもしれないと思う。
なんにせよ、確かに彼の弟は虹郎君でなければいけないのだろうと思う。多分彼だけが、リアルな年齢の今を生きている。

というのは、ヤハリ柳楽君や、彼にホレこんで共犯者となる菅田君はリアルな年齢ではないから。まあ今はそういうのが難しくなってきているのは判るし、そう見えれば問題はないのだから……問題は確かにないのだけれど、彼らに相対する都会の黒社会の男たち、池松君あたりが彼らと同年齢あたりだということを考えるとふっと気になったりもしちゃうんである。
しっかし池松君、めちゃくちゃ素敵だったな。スリムな黒スーツととんがった革靴が似合ってて、それまでも彼の男としての成長ぶりには目を見張っていたけれど、彼のことをカッコイイと思う日が来るなんて正直、思ってなかった(爆)。いやその(爆爆)。
実際は、街で噂のモンスターの目の前にしておじけづきまくるチキンハートなんだけどね(笑)。しっかし彼の色気ダダ漏れ具合には毎回本当に驚く!!

色気ダダ漏れといやー、「木屋町DARUMA」で急に心臓を撃ち抜かれてしまった三浦誠己氏がっ。彼は池松君の先輩格の黒社会男なんだが、自信満々モンスター少年に立ち向かうのに、ボコボコにやられてしまうというちょっと情けない役どころなんだけど、うぅ、やっぱりそのすらりとしたスーツの着こなしがメッチャ素敵!!
彼らがモンスター少年と遭遇する場面、止めた車のフロントガラスに血だらけの男がドーン!!と乗り上げてきて慌てて走り去るとか、ボコボコにされちゃうくだりもそうだし、これだけ非情な暴力描写に満ち満ちているのに、ふと笑っちゃうようなところがあって、でもその笑ったことを次の瞬間には後悔するようなどう猛さで……ああ、映画じゃないか、これぞ映画じゃないか。映画という形じゃないみたいなことさっき言ったのは、撤回!!

ところでさ、ベイビーズ、なんだよね。ディストラクション・ベイビーズ。破壊、破滅。そこまでは判るが、ボーイズでもキッズでもなく、ベイビーズ、なんだと思って……。さっきふっと頭にのぼった“白痴”という言葉がまたしてもかすめてしまう。
彼とつるんでならでっかいことがやれる、と暴力旅に同行する菅田君は一見してフツーの男子高校生に見えるが、まずこの思想からしてベイビーなところを感じる。でもそれは、モンスターまで進化してしまっている彼とはレベルが全く違うのだ……。
でっかいことというのが単なる犯罪、というか自己満足のカタルシスを満たすことでしかなく、その先に何が待っているのかを考えていないベイビーレベルとは違ってて、彼には自己満足もカタルシスもないのだ、多分。
そう決めてる、と彼は言う。上手く聞き取れなかった。急に喋り出すから。三回やるんだと決めてる、とか、そういう風に聞こえた。

柳楽君は、いやさ、彼が演じる、生きているこの彼は、モンスターは、殴り合っている時でも、闘志もアドレナリンも感じさせないのだ。かといって無表情と言うんでもない。楽しそうに笑ってる。それも狂気的に笑ってるんじゃなくて、まるでお年寄りに席を譲っているかのような、優しい微笑みを浮かべてる。口角が自然に上がっている感じ。それが、何より恐ろしいのだ。
衝動ではないのだ。異常性格者でもないのだ。信念を持ってやっているんでも無論、ない。まるでそれを、親に教えられたように。無邪気とすら、言っていいぐらいに。
最初は仲間をボコボコにされて怖気づきまくっていた菅田君、彼自身は全然、このモンスターに立ち向かえなかったくせに、虎の威を借る狐とはよく言ったもので、彼を盾に暴れまくる旅に出る。
しかも卑怯千万なことに、この狐が狙うのは女たちなのだ。「一度女を殴ってみたかったんだよ!」と意気揚々と女子高生や買い物途中の中年女性に殴り掛かり、髪をつかんで引きずり回すキチク。

いや、女子供を標的にするのがキチクで、男ならOKという訳では決してない。そういう思考に観客を陥らせてハッとさせる巧妙さにも、うえっと思っちゃう。
だってモンスター少年は、それをとがめることもない。だって彼にとって他人なんて全然、関係ないんだもの。勝手に共犯者を気取ってるコイツが、女子供を標的にしようが、金を奪おうが、まるで関係ない。
だから次第に、自称共犯者はイライラしだす。だって、相手はホンモノだから。警察やマスコミに捕まるとヤバいなんてことも考えない。相手が死ぬぐらいボコボコにする。まるで仏のような微笑みを浮かべて。

ストリートファイト、なんて解説されていたけれど、違うよね、と思う。ファイトになってないんだもの。突然現れた猛獣に必死に対抗しているような感じ、運の悪い交通事故のようなものだもの。
そして、登場するヒロインが二人の“ストリートファイター”に紛れ込む。しれっと万引きをし、田舎者高校生を自らが働くキャバクラに招いて(まあ、その万引きをネタにゆすられたからなんだけど)、後輩の中国人ホステスに咎を擦り付けたりするイヤな女で。
だから二人に拉致された時にはちょっといい気味ぐらいに思わせるあたりがちょっとズルいなって、思わせちゃう。観客の心理を見事言い当ててる。

最終的に共犯者少年がモンスター少年を持て余してキレ出して、この女の子に手を出すことも出来ないチキンで、途中田舎道でおじいちゃんを死なせることまでしちゃって、もうぐちゃぐちゃなんだけど、結果的に生き残った彼女は、見事悲劇のヒロインを演じ、とっても怖かったんです……と涙をぬぐう。
指先の凝ったネイルが何かを感じさせるとしたら、それは私のような昭和世代の古い感覚であって、そんなことに彼女のハスッパさを受け取るなんてと、現代ならば笑われるのだろう。
でもそんな普遍的なところにもふと上手さを感じるというあたりは、ヤハリ一筋縄ではいかない作り手ということなのかもしれない。

最後、また彼だけが行方をくらます。いつ現れるのかと、まさに殺人鬼映画のようにドキドキする。
彼の故郷では、少年が男になる印となるみこしを担ぐ祭りが始まっている。つまり、彼は、それを認められずに出奔したんである。
事件はすっかり広まっていて、海辺で倒れている人と、たたずむフードの少年を見つけ、振り返ったその顔に、お前は……と息をのむ。カットバックの形で、祭りを見物に出かけていく弟君が映る。兄とそっくりのフード姿で、一瞬、息をのむ。
それはどういうことなのだ。彼もまたモンスターになるという意味なのか。銃声が聞こえ、兄が死んだと思いきや、警官が倒れている。不敵な顔すら浮かべず、あの穏やかな口角の上がった顔でスクリーンのこちら側に歩いてくる。この後、小さな町がどうなるのか、その恐怖をたっぷり予感させて。

柳楽君がね、ちょっと太っているんだよね。てゆーか、それこそ「ゆるせない、逢いたい」で再見した時に凄くシャープになってて、うっわ、大人になった!と思ったのだが、本作では頬がふっくらとしていて、目つきは彼の鋭さで、端正な感じも相まって恐ろしいんだけれど、そのふっくらとした顔つきがストイックなんてところから遠くて、だからこそ怖くて、研ぎ澄まされていない怖さ、だから、やっぱりストリートファイターなんかじゃないのだ。生(き)の怖さなのだ。
彼は少年で、何に怒ってるというんでもない。菩薩のような微笑みとふっくらとした頬で、自分がやるべきことを定めている、のだ。……それが凄く怖くて、とんでもない造形と、役者と、作り手だと思った。同年代の役者が相当コメント寄せてて、相当羨んでる、どころか、嫉妬しているみたい、判る、本当に、よく判る!!★★★★☆


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