home! |
岸辺の旅
2015年 128分 日本 カラー
監督:黒沢清 脚本:宇治田隆史 黒沢清
撮影:芦澤明子 音楽:大友良英 江藤直子
出演:深津絵里 浅野忠信 小松政夫 村岡希美 奥貫薫 赤堀雅秋 千葉哲也 藤野大輝 松本華奈 石井そら 星流 いせゆみこ 高橋洋 深谷美歩 岡本英之 蒼井優 首藤康之 柄本明
私にとっての黒沢作品のファーストインプレッションはピカレスク、あるいはちょっとしたサイコホラー。名前のとおり?どこか黒、漆黒、闇のイメージなのだ。
本作で、浅野忠信が登場するシーン、部屋の暗闇の中にいつのまにかすっと現れている、というところ、うわっと心臓が跳ね上がり、そしてああ、黒沢清!!と思った。
本当にあそこ、いつから浅野忠信はそこにいたのだろう。ふかっちゃんがハッと気づいた時にやっと気づいたけれど、その前からいたのだろうか、気になっちゃう!!!
物語は、三年間失踪していた夫が突然帰ってきて、しかし自分は死んでいるんだと言う。さまよっているうちに方々でいろんな人にお世話になったから、そのお礼の旅へと行くんである。
愛する夫がやっと帰ってきたのだから妻は当然離れたくない、私も行く!となるんである。「今までは歩いてきた」「列車で行くの?大丈夫なの?」そんなやりとりが不思議なユーモラスを醸し出す。
そりゃ幽霊(という言い方もイマイチしっくりこないけれど)なんだから、体力的にどうこうということはなさそうだし、歩いてあちこち行ったんだろうなとは思うが……。瞬間移動とかできそうだよなとか、余計なこと考えたり(爆)。
そんな筋立てだから、いくつかの場所でのエピソードになるので、ちょっとしたオムニバス的な雰囲気。あぁ、私の苦手な(泣)、ひとつひとつ書くのか、めんどい(コラッ)。
一つ目は小松政夫とのエピソード。彼もまた、浅野忠信扮する優介と同じ。ただ本人が死んだことに気づいていない、というところが大きい。
小さな新聞販売所を営む彼は、バイクで配達に回っているんだけれど、それもまたまぼろし、なのだろう。ふかっちゃん扮する瑞希が外で買い物をしている時に声をかけても、彼は気づかず走り去ってしまう。あの小さな販売所の中だけが、現実に生きている彼女が、本来はあの世に属する彼とつながれる唯一の場所なのだ。
いや、最初は配達している島影さんに優介が声をかけて奥さんを紹介したのだから、同じ種類の人間がいることが大事なのかな??そーゆーことをツッコむタイプの作品ではないのだが……。
壊れたアナログな古いパソコンが、年月を物語っている。ブラウン管テレビみたいにかさばったディスプレイ。出っ張った画面に映し出される謎のエラーコード。
結果的に優介にも直せずにスクラップになる。お別れ会をしようという。妙に深刻になる二人に瑞希はたまらず、新しいのを買えばいいじゃないかと言う。
今、こんな古いパソコンをまだ使っていた時点で、もう、“新しい”という未来はないのだ。そうやって島影さんの周囲からはひとつひとつ、お別れしていき、そして何もなくなることを、待っていたのかもしれない。
島影さんは、亡くなった奥さんのことを今も思ってる。彼女の使っていた料理道具なんかを瑞希が使うと、人が変わったように怒ったり。だからこそ、自身が死んだことに気付けていないのかもしれないと思う。
趣味だという、チラシの花の写真の切り抜きは、ベッドルームに鮮やかに貼りだされている。しかし恐らく彼が無事に昇天した時に、慎ましくも息づいていた販売所は廃墟となってほこりが舞い上がり、そのベッドルームも、まくらが頭の形にへこんだまま真っ白なほこりをかぶって、壁一面の切り抜きもすっかり日にさらされて白くなり、はらはらと剥がれ落ちているのだ。
その中で、まだ貼られていなかった一枚だけが、鮮やな色のまま瑞希の手の中にある。
この場面は、瑞希が、夫が属する世界というものを、判ってはいながらも真には判っていなかった、直面させられる残酷さをまざまざと見せつけられる。
その後も彼女は優介と何事もなかったように旅を続けるけれど、この最初の鮮烈な経験を忘れることは出来ない。
次の旅路は、街の古びた中華料理屋さん。夫婦二人で店を営んでいる。優介はそこで、自分は飾り職人だったと無邪気なウソをついて、だから手先が器用なんだと、餃子づくりの担当だったんだという。
瑞希もすっかりそこになじんで、水が合うから手がきれいになるのかしら、なんぞと気に入り、ここに優介と一緒に住みたいな、と言う。
しかしある出来事が起こる。宴会が入ったからと、大きな広間を片付けることになる。
そこに一台のアプライトピアノ。ピアノ教師である瑞希はそこに置いてあった、子供の字で表紙が書かれた楽譜を見つける。「天使の合唱」何気なくピアノの前に座り、その曲を弾き始める。
すると奥さんが血相変えて飛んでくる。そういうの、やめてちょうだいよと。瑞希はそれが、ピアノは持ち主に所属するものだから、それを荒らされたことを怒ったのだと思って慌てて謝るのだけれど、実際はそういうことではなかった。
奥さんの年の離れた妹が、身体が弱くて10歳の頃に死んでしまった。直前に、その「天使の合唱」を気に入っていた妹が何度も何度も弾いていたのがカンに触って、妹をぶってしまった。そしてそのまま仲直りできずに死んでしまった。
そのことを、奥さんはずっと悔やんでいた。ピアノも処分できずに、実家から運んでここに置いていたというんである。
まぁ正直、だとしたらピアノはほっとかれた状態だったんだろうから(だって、広間の片づけをする、という時点で、そこは物置状態、手つかずだったんだもん)、調律をしていたとも思えず、そんないきなり正確な音が奏でられること自体にうーんと思うが、ここは親切に、妹のことを悔いているから定期的に調律もしていたと考えてあげるべき??いや、それは親切すぎるような……。
ヘタにアコピのことが判っていたりすると、こーゆーところをついついツッコみたくなる。でもだからといって、電子ピアノじゃ確かに味気ないし……。
そこに現れ出でる、幼きままの妹。事態を察して瑞希はピアノの前に座らせる。素直な音で奏でられる「天使の合唱」。奥さんも瑞希も、はらりと涙をこぼす。
この場面も、暗闇の中から幼い少女が立ち現れる。昼間の筈だったのに、不自然に闇のとばりが降りるんである。感動の場面、なんだけれど、やはりそこにも、黒沢ホラーが漂っている。
正直、私にとってはこのシーンはちょっと怖い。妹が一言も喋らないのも相まってかなり怖い。でもそこが、黒沢作品ぽくて、イイんである。
そして第三の旅。ラストであり、二人の別れが刻まれる、決定的な要素というか、出来事のあるシークエンス。
もんぺをはいて農作業をするような、のどかな山間。二人を喜色満面で出迎えるのは、柄本明。そしてその星谷の義理の娘、つまり彼の息子の嫁に奥貫薫。
嫁の薫はつい最近、夫が失踪先で亡くなり、それ以来ずっと魂が抜けたように暮らしている。しかも優介を旅先から連れてきたというのだから、こんな死者のシステムを知らない星谷ですら、もう嫁は死んでしまっているんじゃないかと思っているんである。
そう思うのにはこの土地にあるパワースポットというかなんというか、死者が通っていくという滝の中の洞窟の存在がある。
そこに足しげく通っているのが彼女の幼い息子であり、妙に聡い雰囲気を醸し出しているもんだから、私のみならず観客サイドは少なからず、彼こそが死者なのではと思ったんじゃないだろうかと思う。
確かに子供には、それが幼ければ幼いほど、ここではない世界に近い、つまりそこから生まれ出て時間がそれほど経っていないから、という感覚が世界的、伝統的に存在し、だから大人の幽霊よりも子供のそれの方が妙に生々しく迫って怖い、という感じがある。
少なくともこの子は、父親がまださまよっているのを知っていたんじゃないかという雰囲気がある。父親が母親、つまり自分の奥さんにまとわりついて、彼女の生気を失わさせている、その場所が、この滝つぼが近くにありそうな、森の中、なんだもの。
森、というほどうっそうとしていない、スカスカな寒々しさが余計に寂寥感を漂わせる。
奥さんだって判ってる。この人が死んでしまっている、もうこれ以上どうしようもないことが。奥さんは死者ではないよ、と瑞希に言った優介は更に言った。ダンナの方だよと。あれはひどい。もうああなっちゃおしまいだ。崩れてしまっていると。
つまり死の先の本当の死も近い、ということで、それは小松政夫の島影さんだってそうだったと思うけれど、彼はその奥さんが死んでしまっているから……いわば、そこに早く行きたいのに、奥さんの死自体を受け止めきれていないから、だから優介は彼に対しては優しかったのかな。それでいえば優介だって、近いのに。覚悟すべき時は近いのに。
それが判っているからこその、お礼参りのような旅行き。わざわざ列車を使うのも、愛する妻を伴うのも。つまり、この星谷夫婦のようにならないようにと、けじめをつける道行だったのかもしれないな……。
星谷夫をようよう説得して送り出した後、二人は更に道行を続ける。美しい場所、そう言って彼は瑞希を連れていく。街が一望できる高台。でもなんてことはない草っ原のような場所。
瑞希が優介の帰還を祈願した祈祷書を、持ってきていた。このままずっと一緒にいよう、一緒に帰ろうよと瑞希は言ったけれども、勿論彼女自身、そんなことが出来ないことは判っている。
ふっとかき消すように優介はいなくなる。突然の空白。まるで最初から、そこには誰もいなかったかのように。
大事なエピソードを落としてしまった(汗)。途中、瑞希と優介は大喧嘩する。てゆーか、瑞希が一人大激怒して、優介がおろおろする、てな感じである。
彼女がお守り、てゆーか、自らを鼓舞するかのように持ち歩いていた一枚のはがきを優介が見つけてしまう。それは、優介のパソコンメールから見つけた不倫相手。泊まったシーツの柄まで書いていた、と憤る瑞希に、そんな本気の相手じゃない、と優介は戸惑いまくっている。
そしてケンカ別れして、一度瑞希は戻ってきて、その不倫相手に対峙するんである。その相手が蒼井優嬢というだけで、“本気じゃない相手”なんてことじゃすまされないことが判る。ふかっちゃんと蒼井優、というだけで、なかなか出会えないスリリングな対峙にドキドキする。
やはり、というか、当然、というべきか、彼女の方は本気度マンマンだったらしく、いでたちは病院の事務職員、といったつつましやかな制服姿なんだけれど、実際見た目の印象もそうなんだけれど、社会人として至極まっとうな会話を交わしていることこそがこの事態の異常さを物語っている。
他の女に取られるぐらいなら、死んでくれていた方が良かったかもとか、私も結婚してますから判りますとか、そういうことをさらりと言って、そしてカメラ目線でよこすらんらんとした眼の光が、その表情はいつものかわゆい蒼井優嬢なだけに本気で怖くて、うっわ、やっぱ蒼井優だ、すげっ!と思ってしまう。
彼女は黒沢監督とは初、だよね??彼女のラストカットの恐ろしさに、黒沢作品の住人、という気が凄くした!
山田監督にはその清純さ、可愛らしさで引き入れられているけれど、それじゃあまりにももったいないのだ。蒼井優はそんなもんで終わる女優じゃないんだから!!
夫婦なんだから当然、肉体的にも愛し合いたいということを瑞希が仕掛けてくるシーンもあり、そして最終的に、そう、彼が昇天する直前に、それは叶えられる。
美しい愛のシーンだけに、やっぱりふかっちゃん、おっぱいは死守するのね……と思っちゃう。ああ、ここで何度、いわゆるメジャー女優さんに対してそのガッカリを表明しただろーか。そこまで出したらもう同じだろうと、お前女優だろうと。
川島なお美氏を特に支持していた訳ではないが、彼女が死ぬまで女優ということにこだわり続けて、その中には当然脱ぐことも入っていたことを考えると、ヤハリそういうことだよなあと思っちゃう。
愛する人とセックスする場面なんだもの。ここでは脱いどいた方が女優としても後悔ないよ。と、「悪人」の時にも言っていたような……いい作品であればあるほど、もったいないと思っちゃう!!★★★☆☆
それがあまりにも変わらないままここまで来てしまったことを思っていたから、ただ犯罪者を糾弾するのではない趣であるらしい原作に安どの気持ちは抱いたりする。でもだからといって、やはりそれを声高には言えないのだ。
光を与えるのだとしたら、人間や人間社会もそう捨てたもんじゃない、あたたかく優しい人たちもいるよ、という方向性によってなのだが、正直言うと、……少なくとも映画の中の描写として接する限りでは、ちょっと優しすぎるような気もした。
そういう人に出会えない人が大半だからこそ、そしてあの母親もそうだからこそ、最悪の結末を犯してしまったんじゃないのと。優しい物語に時に物足りなさを感じるのは、リアルという名の残酷さを求めてしまう、人間の醜さなのだろうか??
……などと観念的なことばかりを言っていても仕方がないので、物語に入って行こう。原作の中からピックアップされたエピソードは三つ。新人小学校教師の岡野(高良君)が、問題のある児童たちに翻弄される物語。その中には継父に虐待を受けている児童や、モンスターペアレントなど、いかにも現代社会の事情が盛り込まれる。
そして予告編でもメイン級の扱い、今もっとも実力のある女優と目されているオノマチちゃんがわが子に虐待をしてしまう母親を演じ、予告編の段階からその鬼のような母親像に震え上がらせる。
そしてもう一つ、一人暮らしのおばあちゃんと自閉症の男の子の交流。この男の子は、一つ目のエピソードの岡野が勤務している小学校の特別学級に通っている。
そして二つ目のエピソードでオノマチちゃん演じる雅美のトラウマを救ってくれるママ友、我が愛するちーちゃん演じる陽子の「ほかの子の面倒はよく見るのよ」というダンナが、この特別学級を担当している先生、私的にこの年代では最も実力派と言いたい高橋和也。
そんな風に、原作が連作短編だから、するりするりとリンクしていくが、少なくとも映画作品の中ではそのリンクにこだわる訳ではない。
高良君演じる新人先生はかなり現代的ワカモンで、親御さんにクレームつけられるとぶんむくれて恋人のもとにシケこみ、しかし仕事中の恋人から憮然と追い返され、実家で更にブンむくれて母親の出してくれた食事を食べるなど、まあ甘々で。一体なぜこの職業を選んだのかしらんなどと根本的なことを考えてしまうが、先生という職業に聖性を求めることこそが、悪しき習慣ということなのだろう。
先生というのも、一つの職業に過ぎないのだ。それでもこの劇中では、その聖性に挑むような展開と光ある希望の幕切れを用意しているのだけれど。だからこそなんだか優しいなと思うのだけれど。
継父に虐待されている疑いがあるのに、身体の傷を改めることは学校の先生の立場では“限界がある”から出来ないとか、男女の差別をなくすために男の子に君付けしちゃダメとか、この若い先生が単純に、なんで??という顔をするのが、一般的普通の人々の思いを代弁しているようなのはいいと思うのだけれど、最終的には、彼が決死の思いで虐待されているであろう児童の家を再訪問するところで、映画作品自体が終わっているというのが、人の優しさというより、教師への聖性を強要しているようで、これじゃますます教師のなり手が少なくなるよなあ、と思う。
私は先生は、職業的先生、一つの職業でいいと思う。特に小学校、中学校なんていう、人間としてまだ完成形を見ていない子供たちを、学業を教える先生が同時にその人生も見ろだなんて、ムリなのだ。
私の子供の頃から、それはムリだと思ってた。先生っつーのは、目立つ生徒に目をかけるか振り回されるかして終わり。ムリないよ、数十人の生徒を平等に見るなんて、神様でもなけりゃやれっこない。そりゃ今ならなおさらムリだ。
ケースワーカーとか、そういう専門職が必要なのだ。保健室の先生だけじゃとても足りない。だから、先生に聖性を求めるのはもういい加減ヤメにしてほしいのだ。まあだからこそ、塾というハッキリとした専門職が台頭するのだろうけれど。
でも仕方ないのかな、確かに小学校の先生って、小学生にとって、かなり特別な存在。私みたいに家庭に問題がある訳じゃなく、成績も中程度、手のかからない地味な子供だったヤツにとっても、きっと先生は覚えてないだろうなと思っても、覚えててほしいなと思うもん……。
なんだかいろいろ話が脱線してしまった(爆)。この高良君のエピソードは、授業中におもらししてしまった子供と、それをバリバリからかういかにもガキ大将な男の子、そして虐待を受けてる児童、がメインになり、最終的に、もう崩壊しまくった子供たちに先生が「家族の誰かに抱きしめられてきてください」という宿題を出すのね。
正直この宿題のくだりはかなり唐突感満載のような気もしたが……その宿題をやってきた、と報告する子供たちのシークエンスは、これはきっと半ドキュメンタリータッチなんじゃないかな、ホントに子供たちに、つまり子役たちにその宿題を出して、やらせてきたんじゃないのかな、という可愛らしいリアリズムで、こここそが本作のキモなんではなかろーかと思った。
ちょっと公共広告機構のCMを思い出さなくもなかったけど(爆)。それに、どうだったと聞き出す高良君は、こういう気持ちだった?と誘導尋問しちゃいがちで、いまいち上手くなかったけど(爆爆)。
そして、オノマチちゃんである。娘に虐待をしてしまう母親。子供だから、そりゃ粗相をする。その粗相に鬼のような形相で暴力をふるう。ママ、ごめんなさい、ごめんなさい、と子供の声が高く大きくなるたびに、母親のイライラも募るように、上げる手がうなるんである。
最終的に、オノマチちゃん演じる雅美も、親から虐待を受けていた過去があることが判明する。聞いたことがある……虐待の経験を持っている人が親になると、同じことを繰り返してしまうと。
対照的に、ちーちゃん演じる陽子は傍若無人な幼い息子に対して、言葉で強い叱責はするけれど、決して手は上げない。印象としては肝っ玉母ちゃん。雅美がソトヅラを作っている他のママ友の、妙な上品さともまた違うんである。
先述したように、このエピソードこそが、原作者が本作を描くきっかけとなったものであると思われる。陽子もまた親から虐待を受けた経験者で、雅美の苦悩を見抜いてぎゅっと抱きしめる、というのがいわゆる救いになるんだけど……良かった良かったと思うし、泣きじゃくるオノマチちゃんにグッとくるんだけど……でもこんな幸福な友情、奇跡だよな、1パーセントもないだろ、と思う。
本当は、もっと合理的というか、確実に救える道がなければいけないのだ。人間同士のこんな奇跡のパーセンテージに頼っていては、虐待はなくならないし、日本は崩壊してしまう。いやそれとも、こんな出会いが期待できるほどに、今の日本は虐待経験者が多いということなのだろうか?まさか……。
人の優しさはとても素敵な可能性だけど、同じ経験をしていなければ気づけないし、救えない、と言っているに等しい描写だから(実際そうだろうし)、ちょっと気になってしまったんであった。
しかも陽子は他のママ友のことを、その上品っぷりをちょっと揶揄するようなことを言うし、まあ判るけど、でもこれを言わせだしちゃうと、ヤバい気がしたなあ。
そして三つめのエピソード、認知症気味のおばあちゃんと、自閉症の少年。どちらの描写も、理解が進まない今の日本社会の視界そのもので、そういう意味ではリアリティはあるけれど、ちょっとヒヤリとする思いもあった。
このおばあちゃん、あきこさんが、自分がボケ始めているかもしれないと危惧している、だなんていう、原作上の設定は正直、映画の中では感じられない。ただ、時々ぼんやりしている風、そして、児童のピンポンダッシュを謝りに来た小学校教諭にこっそり、「あのおばあちゃん、ちょっとボケてるでしょ」という台詞を言わせて、キャラを説明している風。
ちょっとね、ヒヤリとしたんだよね。このあきこさん自身が自分の今の状態をどう思っているのか、自分がボケかけていると思って危惧しているのか、そこまでは感じられなかった。
それこそこの小学校教諭……岡野の先輩の学年主任の女性教諭……が言う台詞そのままの、世間や社会から見たボケかけおばあちゃん、の印象しか与えられなかった。彼女自身の焦燥が見えなかったのが、凄く残念だと思った。
だって、私の未来の姿に見えちゃったんだもん(爆)。このおばあちゃんには家族がいない。いわゆる、自分が作った家族がない。“万引き”をしてしまって(ぼんやり外に出てしまっただけであろう)、ご家族を呼びますかと言われても、いない。ああ、未来の私の姿だと、思ってしまったのだ。
おばあちゃん、と呼ばれるのが違和感がある。だって誰のおばあちゃんでもない。たった一人のまま、生きてきたのだから。ああ、きっと未来の私だと思って、目頭が熱くなってしまった。そしてそういう事例が珍しくなくなった近い将来、年老いただけで、もうおばあちゃんとは呼ばないでもらいたい(爆)。
彼女と交流を持つのが、自閉症の少年、弘也。あきこさんに万引きじゃないのかと声をかけたスーパーの店員、富田靖子演じる和美の息子ちゃんである。礼儀正しくてとてもいい子だとあきこさんに言われ、障害がある息子が、そんな風に褒められたのは初めてだと涙する。そしてその後、特別教室の学芸会に二人そろって見に行くんである。
私自身、知り合いがいる訳でもなく、にわか知識のままエラソーなことを言っているだけだということは重々承知していながらも、でも、やっぱりまだこの程度で止まっているのか、と思う。このエピソードに素直に感動出来ないのは、自閉症、という一括りのイメージがまさに一括りのイメージでしかないこと、その子の性格やキャラクターや個性、という部分まで至る余裕がないこと、つまりそれが、いまだに変わらない日本社会の現状だということ……にガックリとするからである。
自閉症、を描くとこういう感じになるよね、というアリアリな感じ。実際は、あからさまに言っちゃえば知的障害のレベルも様々だし、当たり前だけどキャラも性格も千差万別の筈。でもここで示されるそれって、昔から見てきたイメージの自閉症、なんだよね。固定化されてしまっている。
で、重要視されるのは、彼自身ではなくて、その子供を持って“しまった”親側の方なのだ。あの子は障害があるから……と実際に言う、親御さんがどれほどいるだろうかと思ってしまったりする。だって子供のことは大好きに違いないと、思いたいじゃない!!
いや、それこそが、ノンキな一般人が陥りがちなワナなのだろーか。そうだ、そういえばね、虐待を受ける子供に関してね、どんな目にあっても、子供は親が大好きなんだと、そういう論調で、だからこそ親は親でなくてはならない、それこそ教師にも求める聖性を親に求める論調が、浪花節好きな日本にありがちでさ。
私はね、誤解を恐れずに言えば、私は……そうかなあ、と思うのだ。いや、私だって親は大好きだが、親が大好きじゃない子供だっているんじゃないかと思うのだ。虐待を受けたら、大嫌いになる子供だって、いるんじゃないかと思うのだ……。
オノマチちゃんとその娘の関係は、“どんな目にあっても、子供は親が大好き”の伝説を踏襲する形だった。ママ友であるちーちゃんがからかいで「ウチの子になる?」と言っても、イヤ!!とママの胸に顔をうずめた。
ママであるオノマチちゃんは、そんな娘に戸惑っちゃう訳。あんなに虐待されてもママが好き、そういうスタンスでの描写。それはそれであるのかもしれない。刷り込みってのもあるだろうし(爆)。
でも私は、それこそ社会が押し付けがちな聖性イメージだと思う。特に母親に。父親にはあまり課せられないじゃない。本作でだって、継母よりも継父のイメージに厳しさを与えてたしさ。
優しさに希望を感じるよりも、若干の甘さや違和感を感じてしまうのは、子供に対して、所詮子供だから、判ってないから、という視線をちょっと、ほんのちょっと感じてしまうからかもしれない。どんな子供だって親が好き、なんていう前提は、子供は所詮子供だ、という視線を感じてしまう。アイデンティティなんてまだ育ってないのだと。
個人的には監督の前作で体当たりの演技を披露して(ちーちゃんにとっては、フツーになんてことないことだけど!!)高い評価を得た(ようやく!!)ちーちゃんが、本作ではがらりとイメージを変えた肝っ玉ガハハ系かーちゃんを、実にイイ感じで演じていることが嬉しかった。
そう、そうそうそう、あまり判ってもらってないけれど、ちーちゃんは女優ながらデ・ニーロばりのカメレオン系役者なのだよ!!★★★☆☆
まあ、そんなことはどうでもいい。そのチャンスを逃し続けていて急に遭遇したら、まあ凄い意欲的な作品にトライしていて、ああ、逃し続けていた私はバカだと思った。
原作はその衝撃的な内容からタブー視され、刊行もままならなかったという問題作、ということである。それに対して真正面、ど正面から堂々と対峙している。
結果的には、久々に男の美学の映画を観た、というどっしりとした満足感を得られた。本当に、久々に。
でも、どこらへんがタブー、だったのだろうか??四肢のない男、というビジュアル的な衝撃なのだとしたら、相変わらず日本はダメな国だと思う。
乙武さんがさわやかに世に出てきた時には別の意味での衝撃だったが、彼は特別な存在と位置付けられ、それが一般的価値観になることがなかったあたりが、日本のダメな部分だと思う。
障害、という言葉もあまり好きじゃないが、あえて言えば障害には千差万別、本当に無数のそれがあり、言ってしまえば欠損というのは判り易い、というのが語弊があるとすれば、理解しやすい障害の状態である筈。それが、タブー視されるということ自体が本気で問題だと思う。
それともそれ以外に、本作にそんなにもタブー視される部分があっただろうか??それ以外は、本当に、久々の男の美学、オールドファッションと言いたいぐらいの極道美学にあふれていて、なんだか懐かしいと思えるぐらいだった。
ヤクザが現代しょぼくれている、という価値観での作劇さえ、軽くふた昔は前から使われているスタンスなんだもの。
だから、ただただその美学にこそ、打たれたんであった。てゆーか、当たり前だけどエンケンさんは四肢があるお方だから、その特殊映像とゆーやつに、思わず目をこらしたりするんであった。
つまり、そうなっちゃう。実際に四肢のない俳優さんが残念ながらいないから。いや、そう言い切っちゃうのはおかしい。いるかもしれないんだから。
でも、スターさんとなると難しい。やはりエンケンさんぐらいの人を、主役に持ってきたい。それでなくてもビックリするぐらい観客がいないんだから(爆。もったいない……)。
でもつまり、四肢のないビジュアルの衝撃は、そういう意味ではまず根本から失われてしまう。だってこの人四肢あるもん、と思っちゃうから、特殊映像として見てしまう。
前半のある程度の展開ではそれを存分に見せて、度肝を抜かせる作戦だが、度肝を抜かれているのは借金の取り立てに来られている劇中の人々で、観客ではない、という、まさしく根本的な部分がどうしても否めない気持ちはある。
でも監督自身はそのことは充分に承知の上なんじゃないかと思う。それが証拠にその後は、明らかに四肢がない状態をリアルに見せることに頓着していない。いわば、撮り用によっていくらでもごまかせる画作りに落ち着いている。
正直、そこんところは少し心配だった部分で、欠損の衝撃にばかりこだわりつづけていたら、これをタブーだと本気で思ってるイタいヤツだよな、と思うところだった。
そうじゃない、そうじゃないんだ。彼、勝浦が四肢を失ったのは、若手のウラギリに遭ったから。彼を助けるつもりで、逆に味方の術中にはまった。
そう、若手が裏切ったんじゃなく、同輩が裏切った。若手はコマに使われただけで、哀れ消された。裏切り者として。
勝浦はそれ以前はブイブイ言わせていたヤクザだったのだが、四肢を失うという地獄を見てからは、すっかりおとなしくなってしまった。今は、その裏切った同輩の指示で、若いモンに面倒を見られている。
その仕事は、借金の取り立て。イモムシのような姿で這いずり回り、俺の面倒みてや、と迫り、相手を怯えさせることで、これが効果てきめんなんである。
あの、手足がスラリと長くて、そして孤高の雰囲気を漂わせる姿に、最初にその魅力に出会った時「SEMI 鳴かない蝉」のことが忘れられない遠藤憲一である。だからこそ、この手足が失われるという設定にこそ、衝撃を受けるんである。
世間的にはコワモテだけど不思議に親しみやすい、という、チャーミングな魅力で受け入れられている感あれど、私にとってはあの「鳴かない蝉」のカッコ良さがいまだにこびりついているんである。
長い手足を、女の子が乗る小さな車の中で窮屈そうに折りたたんでいたエンケンさんが忘れられない。だからこそ、それが半分からバッサリ切り捨てられたビジュアルが、だからこそ、衝撃なのだ。
それを補うのが、勝浦の世話をする青年ヤクザ、坂本。演じるは三浦誠己。本作においての驚きと収穫は、彼に尽きるのであった。
無論、充分にキャリアがあり、いわば見慣れた俳優さんである。でもこれが、意外に、こんなにがっつり見る機会がなかった。つまり、今までは、それなりのワキである彼しか、不勉強ながら私は見たことがなかったんである。
一番ガッツリに印象に残っているのは、「海炭市叙景」かなぁ。そう思い起こしてみると、気鋭の監督さんたちにきっちり起用されているのが判るのだ。
でも、メイン級に遭遇することがなかなかなかった。てか、そもそも彼が注目されたという「きょうのできごと」を私、観てない(爆)。監督さんにちょっと苦手意識があって、あの時迷いに迷って結局足を運ばなかったことを、これまでに結構何度も後悔している(爆爆)。
と、とにかく。三浦氏の素敵さに、本当に瞠目させられたんであった。ええっ、この人って、こんなに手足長い細マッチョでカッコ良かったっけ、こんなになんかもう素敵だったっけ、こんなになんかもうもうイイ男だったっけ、と、最初のうちはエンケンさんに気を取られながらも、次第に三浦氏の繊細な魅力に心奪われちまうんであった。
凋落したとはいえ、見栄を重んじるヤクザ世界である。身に着けるスーツは極上の品であることが素人でも判る。それが実に、すんなりと手足の長い身体になじむ。
色白で肌もするりとキレイな、今までは気づかなかったけど端正な顔立ちに、男を意識してムリにひげを生やしているようなところが女子的にキュンキュンくる(爆爆)。
彼は、オヤジと呼ぶ自分の親分さんを敬愛している。基本、価値観はそれのみである。そーゆーあたりが、懐かしいような極道美学、なんである。
ちなみにその親分さんとゆーのが、キム兄である。つまり、エンケンさんを裏切ったのが、彼なんである。結果的にエンケンさん……もとい、勝浦は古澤(キム兄)が裏切ったことを知っていた、という、まあかなりお約束なオチがあるのだが、そんなドラマチックをキム兄はちょっと受け止めきれなかったかなあ、というウラミがある。知ってたんかい、みたいな、凄いベタな芝居だった(爆)。
エンケンさんはもとより、三浦氏の繊細な芝居があまりにも素敵だったがゆえに、キム兄、一人キビしい……と思ってしまったんであった。
彼らの間には、現代ヤクザの典型って感じの、つまり、借金している父親の娘をえげつないフーゾクに売り飛ばしたり、えげつないマルチ商法に駆り出したりといった金内という男がおり、これを演じているのが、最近ミョーにブレイクしているほうかさん。
そのブレイクのイメージそのままに、センス皆無の派手なシャツとネクタイで、あのねちっこいイヤな口調で上(キム兄)と下(エンケン&三浦氏)をこちょぐりたおすんである。
で、そう、ほうかさんはそのワザとらしいキャラ、というか、コミカルというか、まあいわば箸休め的な役柄を肩の力を抜いて演じているので、彼のワザとらしさと、キム兄のワザとらしさは、根本的に質が違うのよねえ。
つまりまぁ、達者な役者の中にキム兄だけが紛れ込み、しかも役柄的にトップに君臨しているもんだから、ムズムズするのよね。
やっぱりこーゆーところで、プロの役者とそうでない人の違いがどうしても出る気がする……。いや、肩書は芸人さんでも、しっかりプロの役者の人たちはたくさんいるけれども!!てゆーか、その三浦氏が元芸人さんだということは衝撃の事実!
勝浦が脅しをかける先。寺島進扮する、実姉と禁断の関係になっている新井宅。とゆーことは、この娘は姉弟の間の娘なのだろーか??娘役の武田梨奈嬢はさすがにセーラー服姿がキビしい、ちょっとコスプレに見えてしまう。
冒頭の、つまりツカミのエピソード。イモムシのようにズリズリのみならず、この娘をナメまくり、スカートの中に頭を突っ込み、しまいにはおしっこ漏らし、ウンコまでもらす勝浦。
自分では何も出来んのやー!!とパンツの中ウンコまみれのおケツを突き出してバタバタする、という展開は確かに衝撃。
二組目は、聾の娘を持つ、ぐーたら父親。この娘は勝浦を裏切ったワカモンヤクザの恋人で、彼の死をうすうす気づきながらも、待ち続けている。
父親の借金を返すために、マルチ商法に才能を発揮する。つまり、頭のいい娘。こんな父親がいなければ、ってことだ……。
娘にメーワクかけてまでもどこまでもクズなこの父親に勝浦が脅しをかけると、このサイテー父親は逆ギレして勝浦を殺しかける。
その一件があったからこそ、勝浦の裏切り事件が徐々に明らかになるのだが、このシークエンスは勝浦と坂本の距離をぐっと縮めることこそが、重要な要因であったような気もする。
その勝浦の世話を、敬愛するオヤジに命令されて担っているのが坂本。大人用紙おむつやら除菌ウェットティッシュやらを大量に用意。一緒にふろに入ってウンコまみれの尻をゴシゴシ洗う。
坂本は勝浦の世話を本気で嫌がっている。この役目から解放してほしいと、あからさまに言う。本人の前では言っていないけれど、勝浦だって充分に判っている。
しおしおのフライが無造作につまった弁当を犬食いする勝浦は、時にそのストレスが爆発してちゃぶ台返ししたりする。坂本はだまって始末する。
そんな毎日が繰り返されるうちに、裏切りの事態が発覚しだす。勝浦も坂本も共にため込んだものを爆発させる。いや、爆発したのは坂本の方だけだ。あんなに従順だったのに、急に悪酔いして、勝浦の前で愚痴まくり、目覚めてみたらゲロだらけ。
このシークエンスはまさしく三浦氏の見せ場で、一人芝居なぐらいの台詞と尺の長さ。カットバックでエンケンのリアクション表情が挿入されるだけで、本当に三浦氏に任された場面なのだ。
酔っぱらいの繰り言、というのが少々舞台くさい気もしたけど、彼の繊細な魅力がこの場面が最も最大限に出てて、なんかもう、ホントに恋に落ちてしまった(照)。
心を許し始めた勝浦を、敬愛するオヤジが裏切ったことが判って、信じられないからこそ確かめたくて、勝浦をムリヤリ連れてオヤジのもとに乗り込む坂本。
このシーンの三浦氏の、信じたくないことを聞きます、どうかそうじゃないと言ってください!!と、それまでのケンマクはどこへやらの、子供のような弱気な強気、とでもいったようなジレンマ、アンビバレンツに、本当に心がきゅーんと刺し貫かれる。
殺せもしないのに銃をキリキリ向けるのにもキュンキュンする。もうこうなるとキム兄自身がその銃をバッと奪ってバーン!!と自害しても、そのショックに泣き伏す坂本、いやさ三浦氏の少年のような泣きっぷりにこそきゅきゅきゅきゅーん!となるんである。
しかも、極め付けがラストである。こんな出来事までがあって心を通わせまくった勝浦と坂本、ずっと勝浦さんの世話をさせてください、となごなごしたところで、まさかの刺客。
いや、一人目はジャブだった。予測がついた新井(寺島進)。なんたって、福祉詐欺を働くために、耳まで潰されたんだから。……思えばこのシーン、坂本が彼の耳をキリでぶっ潰すシーンこそが、めちゃくちゃ衝撃だった……。
で、まあ、新井の攻撃はなんなくかわした。しかしその次に襲ってきたのは、坂本が不憫がったゆえに勝浦が手をまわして救い出したはずの、彼の娘。ドラッグ漬けにされ、えげつないフーゾクやらされていた娘。
救えない。人間一人、そう簡単に救えないのだ。二人は串刺しにされる。つまり、お互いに救おうとした二人が、ゆえに重なり合ったために、串刺しにされる。
マンガみたいな包丁で、こんな細いといえど筋肉マッチョな二人が、女の子に包丁で串刺しにされるなんてアリだろうか。まあ、武田梨奈ならとも思うが、役柄的にはそーゆー設定じゃないからさ……。
でも、このラストシーンこそが萌え萌えだった。あぁ、こういうバディ萌え、久々だった。バディ、じゃなくて、しっかと先輩後輩、しかし立場的には逆転してる、でも価値観的には再逆転してる、みたいな、この萌えっきりな関係性が、完璧すぎる形で終焉を迎えたことに、この悲劇に胸を押さえながらも、まるで、まるで愛の終焉に、動悸が収まらなかった。
血だらけの男二人、美しすぎる!!!なんかさぁ、昭和残侠伝を思い出しちゃったぐらい。私にとっての最高の萌え度評価だよ!!
もう、このラストだけでいい、っていうぐらい。だって心中じゃん!愛の道行じゃん!!
これ以上の愛の結末があるのだろうか。いい年したイイ男が、特に特定の女の存在も劇中に登場しないまま、こんな愛の形で抱き合って死んでいくなんて、出来すぎだよ、ヤバすぎだよ、もうもう!!!!!★★★★☆
理解レベルは相当に高いが、当時熱狂的に受け入れられたのは判る気がする。80年代がアイドル映画で彩られた時代なら、90年代はインディペンデント映画がサブカルとしてにぎわした時代だったように思う。そして今はすべてが混とんとして、これだというものがつかめない時代のような……。
そんな、とんがった90年代サブカル映画の中に颯爽と現れたであろう、本作の前作、「きらい・じゃないよ」はきっと、未見だけれど、相当に当時の大学生あたりの心を揺さぶったのであろう。てゆーか、私だってそのあたりは大学生あたりだった筈なんだけどね(爆)。遭遇する機会がなかったのか……。
今回、2の方が取り上げられたのは、なぜだろう。1が劇場公開とはいえ8ミリ作品であるということで、ひょっとしたらフィルムセンターほどの場所でも所蔵していなかったのか、いやまさか……。
8ミリ映画が劇場公開されるというのがいかにも90年代、映画がサブカルとしてキラキラしていた時代、という気がする。つまり2は、しっかりと商業ベースに乗った作品、ということなのだろう。少なくとも解説上では、“1”からはすっかり独立した別物語ということらしいし。
でも出てくる登場人物は同じだし、データベースで見る限りでは、なんとなく設定も引き継いでいる。やはり“1”を支持したファンを意識した作りになっているんだろうと思われる。
それにしても、伊藤猛はピンクの男優さんだけれど、その前に、サブカルの伝説だったんだなあ。そもそもピンク自体がそういう意味合いを、特にこの90年代、四天王が出てきたあたりから持ってきたけれども、俳優側にもそういうスタンスはあったんだね。ピンクの花である女優さんだけではなくて。
商業映画、と断定するのにはなかなか勇気が必要な、まるて哲学のような、“映画=エンタテインメント”つまりそれなりに万人に向けられた娯楽だということを全く無視したこの作品。商業作品としての体裁が整っている本作がこれでは、さぞかし“1”は凄いことになっているんではなかろーかと思われる。
監督さんはこれがデビュー作。てゆーか、そもそも映画監督としての肩書より、脚本家、あるいは小説家としてのネームバリューの方が大きいお人。それでか、お名前を見た覚えはあるが、監督作品……と言われるとピンと来なかったのは。
小説家だと言われれば、なんだかたちまち納得してしまうんである。この作品世界は完全に、純文学の世界だもの。心理を文章に置き換えるか、映像に置き換えるかの違いで、映像に置き換えるのはかなりの至難の業。
少女の名前に“七月”と名付けるあたりが、そうした詩的感覚を深く感じさせる。なんか他の作品でも、この年代の何かの映画でも、そういう名前の女の子が出てきたのがあった気がするなあ……。
本作の中で、7月、17月、27月……とつぶやく彼女、そして兄と妹の近親相姦。兄と妹の近親相姦といえば「三月のライオン」。あれもまた、同時期の、何度も繰り返し上映された伝説のサブカル映画。やはりあの時は、そんな時代だったのだ。
で、なかなか内容に行けないけれども……そもそも内容が、私自身全然、理解できず、頭に入ってきてくれないんだから、今、困ってこんな風に遠回りしているんである(爆)。
それこそ、あの当時のリアルタイムの大学生である私なら、その柔らかな感性で熱狂できたかもしれないと思うと、年はとりたくないと思う(爆)。
でもよくあることだけれど、“1”で熱狂したであろう当時のワカモンたちが、この2で同じように熱狂したのだろうかということは、ちょっと知りたくなるところなんだけれど……。
このタイトルからこういう作品っていうのは、ほんっとうに、全く想像していなかった。かんっぜんに、斉藤由貴とか菊池桃子とか、そのあたりの青春アイドル映画だと思ってた(爆)。つまりそれだけタイトルのネームバリューはあったということだよね、観てはいなかったけど、このタイトルに見覚えがあるんだもの……。
伊藤猛の若さにも驚くが、その演技の青臭さ、もっとハッキリ言ってしまえばヘタさ(爆)にも大いに驚く。なんつーか、劇団だけがすべての、劇団芝居っつーか(爆爆)。伊藤氏にもこんな時代があったのね、などと……。
例えば本作に、田口トモロヲ氏がかなりのメインキャストで出ていたりするのにも大いに驚くんだけど、彼はこの当時からもう、今の田口トモロヲ、なんだよな。
確かに彼は、サブカル映画、インディペンデント役者の先駆けだ。そして、私が知った頃から、今の彼って、変わってない。そう考えると、実は上手い役者さんなんだなあと思う。
いや、伊藤氏がヘタだと言ってるんじゃなくて(爆爆)、年相応に若さと青臭さがあったんだなあ、って。園子温も出てる!!ほんっとうにサブカルの伝説映画だな!!
伊藤氏を主役に据えた経緯とか知りたいところだが、どこかに記されているんだろうか。恐らくインディーズとしての公開だった“1”から2が製作されても、伊藤氏の起用は変わらなかったことが、監督さんの思い入れの深さをひしひしと感じるんである。奇妙な哲学映画だけど、きっと監督の分身であろうと感じられるから。
物語、といっても、物語ってあるんだろうかと思っちゃう(爆)。少なくとも私にはちんぷんかんぷんで、正直中盤あたりまでは本気で帰ろうかと思っちゃった(爆爆)。
中高年層がコアを占めるこの場所では、そうした緊張感が漂い続け、あからさまにタイクツのあくびを声に出して連発するおじさまもいらっしゃった(爆)。
データベースに頼りますと(汗)、『モノクロの“百年まち”にふと迷い込んだクー(伊藤猛)。そこでクーは、すぐ裸になるねり(伊藤清美)に出会い、2人は奇妙な恋愛関係になる。死者であるのに、この百年まちで生きている自分に気づいたクーは、このままでは本当に死んでしまうことを恐れ、生まれるきっかけをつかもうと焦り出す。そして、やっと出会えた妹の7月(藤本あや乃)を連れ、百年まちを出ようと彷徨う。』(まんまコピペ(爆)なんだそうなんである。
いやー、判んない、判んない。百年まち、なんていうのも劇中で明示されている訳じゃないし。入れ代わり立ち代わり、奇妙で訳ありな女子が出てくるもんだから、そしてこの当時のお顔立ちでいまいち判別がつかず(爆爆)、最後まで、ねりと七月と、えーとそれから……などと悩んでしまうんである。
そもそも、物語の始まりから奇妙さに満ちている。伊藤猛扮するクーは、ワケアリ度満点な廃墟にやってくる。足元は割れたガラスでジャリジャリ、突然、首にかけていたマフラーが頭上からひょいと取り去られる。
これまたワケアリそうな女、ねりから「百年待っていた」と言われ、奇妙過ぎる街での探索スタート。探索、って感じなんだよね。てゆーか、夢の中、と言った方がしっくりくるかもしれない。起こることはすべてが奇妙で理不尽なことばかりなんだもの。
古い旅館のようなところに入ったのにクーは、「ここは喫茶店じゃないのかよ」と憤る。憤るのは、手づかみでうどんを食う奇妙な男がいて、ねりは当然のように彼とカラみだすからなんである。
七月と名乗る女の子は、クーの妹である、というのは、なんとなくお互い了承な済みな雰囲気。かざぐるまで遊ぶ少女は、私はまだ生まれていないという。
このあたりから、どうやらここが、死後の世界、というか、死者の世界であるらしいことがなんとなく判ってくる。
老人たちがゆるゆるとダンスしていたり、目覚めると別の場所にワープしていたり、理容室で田口トモロヲが一人芝居でキレていたり、なんだかとにかくヘンであることは間違いない!と、クー=伊藤猛は、こんな世界は出なくちゃいけないと言うのに、妹の七月は物憂げに横たわるばかり。私は妹だけど、私は女なのよ。そんな言い方をする七月にストレートな返事が出来ずに、ただこの街を出ようと言うばかりのクー。
と、こんな風に書き出してみると、それなりにストーリーがありそうに見えるんだけど、実際は、なんかただたださまよっているだけなので、結構見ているのがキツいワケ。んでもって時々、どの女の子かわからん女の子が、よく意味は判らんけど、何か重要そうなこと言ってる、あー、どーしよー!!って感じなんです(爆爆)。
でも、中盤になってそれなりに設定が判りかけてきたあたりで登場したガラスの拳銃は、もうその設定だけで、心躍らせるセンシティブがあった。
まったく動じない妹に向けて引き金を引いたのに、彼の両掌の中にバラバラとおはじきみたいに砕け散ってしまう、ガラスのはかなさと美しさ、その美しさのしたたかさ、というものを感じさせて、胸が高鳴っちゃうんである。
“1”でクーは、そのガラスの拳銃で何をしようとしたんだろう……。この死者世界の中で、ただ一人、生きたいがためにもがいて抜け出そうとしている伊藤氏が、その当時の年齢のままに若くて、なんともドキドキしてしまう。
築地人間としては、築地の超有名うなぎの店、はいばらが協力クレジットされているのにおおーっ!と思った。
まあつまりそれは、“生のウナギが食べられるところがある”という、これまたハードな設定会話の中に挿入される、うなぎがぬるぬる動いているあのワンショットだけなんであろう。しかも割とどーでもいいエピソードだし(爆爆)。いやー、なんかもう、この当時の映画は凄すぎるなーっ!!★★☆☆☆