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「か」


2016年鑑賞作品

花影
1961年 99分 日本 カラー
監督:川島雄三 脚本:菊島隆三
撮影:岡崎宏三 音楽:池野成
出演:池内淳子 佐野周二 池部良 高島忠夫 有島一郎 三橋達也 山岡久乃 筑波久子 淡島千景 安達国晴 石田茂樹 藤山竜一 松本染 塩沢とき 中曽根公子 小林美也子 高城淳一 中真千子 佐多契子 小西ルミ 野上優子 村松恵子 芝木優子 穂高あさみ 山中良子 宮川澄江 桜井浩子 武内喜恵子


2016/7/28/木 劇場(渋谷シネマヴェーラ)
川島雄三監督ということに飛び上がり、池部良の名前に飛び上がる。今回の二本立ては池内淳子&池部良のカップリング二本だったのだが、こと本作に関しては池部良は佐野周二に主席を譲り、何よりも池内淳子なのであった。
この二本で、私は池内淳子に出会った、出会ってしまった。ああ、知らなかったよ、なぜ知らなかったんだろう。私にとって池内淳子はテレビドラマの重鎮女優という位置づけでしかなかった。映画は一本も観たことがなかった(多分(汗))。
恐ろしく美しく、気品があって、二本とも愚かな女なんだけれど、その哀しさが余計に美しさを際立たせる。その昔、藤純子の奇跡のような美しさに茫然とした時と同じぐらい、その美しさに衝撃を受けた。

劇中、出勤したバーのママに「あら、あんた、今日はきれいね」と言われるシーンがある。そう言われて彼女はかすかにハッとしたような顔をする。何か艶事を言い当てられたような。
実際はそこまでなまめかしい裏事実が明かされるシーンではないのだが、客のツケを肩代わりするような女としての弱さを言い当てられて、それが愚かなんだけど、女の弱さ、つまり艶めかしさに転化するようなハッとする美しさなのだ。
「あんた、飲んでるね。唇をなめるからすぐわかるよ」と老練のママに言われるのも、そんな、弱みを無意識に見せちゃう何とも言えない色っぽさなのだ。

ああ、だから、こんな女だから、結末は見えている、ていうか、もう最初から示されているんだもの。
義理の母(もらわれっ子だから)に遺書をしたためる。封筒にカギを入れて、後始末をよろしくおねがいします、と書き記すシーンから始まる。つまりこの場面に最後は戻ってくることが判っているから、観客側にひどくプレッシャーを与えるんである。彼女が転落していく姿を見せられるのだと。
何度も幸せになりそうな場面があっても、そうならないことが事前に判っている、そりゃそうだ、だってあんた、愚かなんだもん、何にも判ってないんだもん!!と歯噛みしながら見る羽目になる。なんて辛い。

凄い美人だから。長い囲い者生活から夜の街に戻ってきた時に、かつて彼女に岡惚れしていた伝説が行く先々で語られるぐらいだから、華やかなモテ女だったのだ。
でももう、最初に示唆されているのだ。キャイキャイと華やかに笑いさざめく若い同僚たち「女給だなんて、古くさいわね、今はホステスっていうのよ」と鼻高々に言うんである。
現代の感覚から言えば、ホステスという言葉自体にさびれた寂しさを感じるところだから、時代というのは移りゆくものなんだけれど、女給っていうのは確かに、もっともっと、うら寂しい。

いや、そんなことはない。カフェーの女給が最先端のモダンな職業だった時代があり、そんな時代の映画に出会うとそれはそれは心躍るのだから。
でも、葉子は「最後の女給だね」と常連客たちから口を揃えられた。彼らにとってはそれは褒め言葉であったのだろうけれど、これ以上なく彼女のこの先の運命を言い当てていた。

時代から取り残された女だったのだ。もう女が男に人生を託す時代は終わりかけている。したたかな“ホステス”たちがもうそれを示している。
でも三十路を過ぎた“かつての女給”は、そのかつての栄光があまりにもまぶしくて、男たちも岡惚れの姿勢を崩さないので、気づかないのだ。いや、気づいてはいたんだろうけれど……。

最初から最後まで、和服だったものね。とても美人だから、ドレスだって似合っただろうに。そこが、“最後の女給”と言われる端的な要素でもあったけれど、恐らくそれは、彼女が惚れぬいている高島先生の存在があっただろうと思う。
これが、佐野周二である。いい感じに年を重ねた彼を見るのは初めてのような気がする。しかもこれが、ホンットに……くえない男なんだけど、でもそれを上手いこと見せないで粋なダンナって感じに最後まで装っているのが、ホンットに、もうヤラれたっていうか、悔しいっていうか、くそー!!という感じなのだ。
いや、葉子を取り巻く男たち、男たちだけでなくママだって、高島先生のうさん臭さはとっくに気づいてて、再三葉子に忠告するのに、忠告されるほどに葉子は燃え上がり、私だけが先生を判ってあげられるのよ!!みたいになっちゃう。もう、なんでなんで!!

高島先生っていうのは、かつては骨董の目利きの天才と言われたが、今はやり手ママのヒモに成り下がっている。
このママというのが山岡久乃!!ああ、そうだったのか!あのしゃがれた声と手練れの雰囲気!誰にも騙されないようなしっかり、というかちゃっかりママのように見えたが、若いホステスに狙ってた物件をさらわれて、スポンサーまでとられちゃったショックで、それまでの不養生がたたって入院する。
ぞっとするほど老け込んでしまう様がすさまじく、ああ、山岡久乃、さすが……と思うんである。当時から凄い圧である。

それにしても高島先生、佐野周二の凄まじさよ。いや、とっても人あたりのいい好男子いや、好初老男子なのよ。葉子が夢中になるのも判る。
あの人だけが、私を娘かお嬢さんのように扱ってくれるの、と葉子はおぼこ娘のように嬉しそうに言う。つまり、口説かないのだと。それ一点よ、それだけ!!葉子にとってそれこそが、稀有な男の価値観だってのが、彼女がいかにモテ女だということを示してはいるんだけれど……。

でも最初の男、松崎が言うように、「あいつは君にホレているくせに、寝るのが怖いんだ。」というのが、つまりは本当のところだったのだろう。
いいかっこしいで、搾り取れるだけ搾り取る。それも、そう感じさせずに「ちょっと都合出来ないか。あの話がまとまればすぐにでも返せるから」とちょっとした小金を少年のような笑顔で無心する。
ちょっとした小金、笑顔、そしてそれ以外は鷹揚な立ち居振る舞いが、葉子どころか観客の女子(私だ)すら、クラッとさせちゃうのだ。葉子に群がる男どもが高島先生を嫌うのは、そりゃー、そこまでの器じゃないからだ、葉子が高島先生にベッタリなのに焼いてるからだ、と思わせちゃうのだ。

それは確かに本当のところはあるけれども、でも葉子のステディたちにさえ臆面もなく金を無心する高島先生の厚顔無恥を、葉子は最後の最後まで認めようとしなかった。
男たちどころか葉子以外の皆が高島先生のうさん臭さを見抜いていたのに、惚れた弱み、つまり葉子は最も惚れる価値のない男に惚れたために、あんな結末を用意されるハメになってしまったのだ。

そう、高島先生がどんなに価値のない男でも、せめて葉子の気持ちを斟酌していてくれたなら……。
……うーむ、佐野周二にもってかれて、実は色んな男優の花盛りが楽しいのに、話が進まないぜ。

そうよ、だってそもそも最初はマイラブ、池部良なんだから!!確かに彼も葉子の男遍歴の一人に過ぎないが、最初と最後を飾る、それも最後は……おっとっと、ここで言っちゃダメ!とにかく、やはりキーマンではあるのだよね。
彼だけが、純粋な恋愛じゃなかった。家庭のある男。葉子は囲い者。単なる不倫だったら(単なるというのもナンだが)、また話は違ったかもしれない。

関係が切れる時に彼は言う。「これからどうするつもりだ」つまり、彼との関係によって、生活も保障されていたんである。結婚も考えていたが、身体の悪い娘のことがあって……と言い訳がましい彼に自ら別れを突き付けた葉子。
それはカッコ良かったけれど、でもそもそもこれがあったからか、その後、結婚か否か、という選択肢にとらわれることになる。いや、それをわざわざ取り立てて言っていたのは高島先生なのだ。だからズルいのだ。自分じゃ何も出来ないくせに!!

その、池部良扮する松崎が、葉子の窓の外から聞こえる小学校の、玉入れ(運動会?)の歓声に眉をひそめ、窓を閉めてくれ、と言うシーンから始まるのがなんとも……。
彼にとっては身体の悪い娘がそうしたことが出来ないという気持ちだったのかもしれない、葉子にとっては彼が自分との関係に子供は介在しない、と感じたかもしれない。お互いの気持ちは推し量るしかないけれど、何とも印象的な始まりなんである。

お互い美男美女だから、秘密の関係性にドキドキするし、別れたくない気持ちを意固地に突っ張り合って、わざとらしく荷物を詰めたり、窓の外から眺めたり、ドアで待ちかまえたりすることにドキドキしてしまう。
葉子は、例え愛人関係でも、松崎と続いていた方が幸せだったんじゃないか、なんて思ってしまうのは、池部良ラブだからかなぁ。

だって、その後の男どもは、さあ……。いや、バツなのは、有島一郎扮する畑だけか。有島一郎!!まさか彼が、こんな絶世の美女を結果的にはソデにする男だなんて!!
勿論?彼にとっては高値の花だったが、押しに押して、ストーカーまがいでモノにした。それなりに羽振りのいい畑のプロポーズにしたたかなママは賛成するけれど、高島先生も、若きテレビプロデューサーの清水も反対する。

結果的には高島先生は相手が誰でも反対、つまりそれは「葉子は結婚には向かないよ。」今は女が一人でも生きていける的な感じで言うけれども、自分を無邪気に尊敬し、小金をくれる女を離したくないだけ。
でも清水は……。もう出てきたとたん、彼が次の男だろうなというのは判ったけど、ちょっと待ってね。

畑は亡き妻の連れ子である幼い娘がいる。この娘が、ケッペキっぽく葉子に反発する。……ちょっとヤバい想像をしてしまう。だってこの子ったら、イラっときたら、たーっと駆けてって、庭をほじくり返してミミズをスコップでダンダン!!おえっ!
血のつながらない父と娘。葉子のことを「パパがお酒を飲みに行くところで働いている人」と認識している娘。「私のママになる気なんでしょ!!」とまなじりを決する娘。ああ、なんか、イヤな想像しちゃう!!
結果的には若いホステスに乗り換え、それだけじゃなく、ちゃっかり新しい物件をさらっちゃう。他の店のツケを葉子に払わせたまま。そしてそれを葉子が指摘すると、こともあろうにぶん殴りやがる!信じられない!!

そして、先述した清水は、年下の男。高島忠夫ー!!うっわ、若くてカワイイ!!私はね、彼でいいと思ったのよ。でいい、というのもアレだが(爆)、年下だけど葉子にたかることもない、つつましく朝食なんぞを一緒して、とても微笑ましかった。ラブラブという言葉は当時はないけれども、まさにそんな感じだった。
高島先生が卑怯なんだもの。「結婚する気はあるのか」なんて、まだ関係が始まったばかりなのに。しかもそのついでみたいに、清水からも小金を無心して、みっともないったら!

それで揺さぶったところへ、次の男が現れる。それは確かに高島先生の知るところではなかったけれども、その次の男が超セレブリティだったから、葉子がつい……このつい、がダメなんだけど。
その、結婚、という要素に揺らいでしまったために、清水の真摯な想いを踏みにじっちゃって、びっくりするぐらい、あっさりと関係が終わっちゃう。それもやっぱりあの、高島先生の「結婚」のキーワードがなければ、そんなことにはならなかったと思うのだ。

そのセレブ男、野方を演じるのは三橋達也。もう次から次へとスター続出(爆)。彼の父の恋人として、ようやく淡島千景が登場。池部良とゲストツートップ扱いでのクレジットだったから、いつ出てくるんだろ、と待ちくたびれたところで。
立場的にも、前職的にも、葉子と重なるところはあるんだから、味方になってくれても良さそうなもんだったけど、自分自身がそうだったからこそ否定にかかる、というのは、なぁんか日本社会の悪しき習慣よね、と思う。

きれいすぎる、男がついてくる、ほら実際、あの高島先生とやらがね、みたいなさ。いやそんなイジワルな感じはないし、詐欺まがいのことまでしでかすロクデナシ本性を現してきた高島先生と縁を切ることを勧めてくれるんだから、真摯に心配してくれているんだろうとは思うけれども……。

常識で考えれば信じられないが、葉子は高島先生の方を選び、野方をフるんである。いくらなんでも高島先生の方も自分の愚かさバレバレよね、と自覚しているとは思うのだが、「いや、アレが売れてれば」とかいまだに言うのよ、それもあのおだやかな笑みをたたえて!!
もう、葉子も判ってたとは思う。その直前にね、松崎と再会するのだ。ああ、池部良。やっぱり彼はクレジット的にも、単なる男の一人ではなかったのだ。
いろいろあって、桜も見てないわ、という葉子を、夜桜に連れていく。本当に、きれいで、葉子も見とれて、松崎は彼女を抱きしめて、今夜は帰らないと言う。でも、今夜は、なのだもの。葉子も「今夜は遊んであげる」とその腕の中で言った。

でも桜が本当に効くのは最後のシークエンスなのだ。野方との終わりを告げに高島先生の元に行く。桜が咲いている。先生、私死にます、と、真剣すぎもせず、冗談めかしもせず、葉子はフラットに言う。
それまでも、若くて美しいうちに死にたいわ、と言っていたからか、先生は特に取り合わず、いつもの穏やかな笑みである。でも、ダメなの、この時だけは、それはやっちゃダメなの。それが判らなかったことで、ようやくようやく、高島先生が価値のない男だと気づいたのなら、遅すぎる。
そしてこの時の桜と来たら……葉子が見上げ、陽光が差し込み、花びらの一枚一枚がその光にさらされるその美しさと来たら……、メッチャカメラ気合入ってます!それだけ、凄く凄く意味を込めた桜。

オープニングに戻ってくる。何かが起きて、死を妨げられるかなと思ったけれど、そうはならない。銭湯で身を清め、下着をそこに残し、浴衣だけの姿。足首と膝を縛り、大量の睡眠薬を飲み、死の床につく。
もらいっ子である自身の経歴を、義理の母である遺書に託すことと、畑の亡き妻の連れ子のエピソードにだけ盛り込んでいたが、大きく作用することがなかったのがもったいない気がした。
でもでも、最後まで、死なないんじゃないかと待っていたけれど、ダメ押しのように、スクリーンが真っ黒に塗りつぶされてのエンド、容赦なさすぎる!!。★★★★★


牡蠣工場
2015年 145分 日本=アメリカ カラー
監督:想田和弘 脚本:
撮影:想田和弘  音楽:
出演:

2016/3/20/日・祝 劇場(渋谷シアター・イメージフォーラム)
想田監督のすべての作品を観ている訳ではないので……特に二部作で大作となった「演劇」はその尺の長さに恐れをなして観ていないので、実は彼の提唱する本質的な表現論のことを実は私は判ってないのかもしれない、と思ったのは、変わらずに「観察映画」と銘打たれた本作が、でも今まで見てきた彼の作品とはすこうし、違うかもしれない、と思ったからなのだった。
確かにただ観察している。インタビューしない、筋書きを作らない、ただカメラを回しているだけ、というスタンスは変わらないのだけれど、それが生み出す最も当たり前の結果がここには現れてる。

つまり、何も起こらない。いや、そう言ってしまったら語弊があるかもしれない。充分いろんなことが起こっているし、起こりそうな予感をはらんで終わってもいる。その起こることを待たずに終わるやり方も上手いと思う。
でも、何も起こらないことに、少々の戸惑いを覚え、そしてだったら今まで、私は想田監督の作品をどういう風に見ていたのかなとうろたえてしまう。

何かが起こっていた訳ではないのだ、今までの作品だって。起こっていたように見えたのは、登場する彼らが饒舌だったからなのだ、ということに気づく。
確かにインタビューしない、ただそこで彼らが喋っていることを映しだすだけというスタンスは変わらない。確かに、変わらない。でも言葉の量が圧倒的に、今までの作品と違った。
実によくしゃべっていたのだ、これまでモティーフにしてきた人物たちは。でも本作の牡蠣工場の人々は……いや、喋らない、訳じゃない。明るく屈託なく普通に喋ってる。でも、それはただの日常会話。

ただの日常会話だからこそ、問題提起されるような言葉になると急に意味合いを強めてくる。そしてその言葉が何か……ずっとずっと至近距離でカメラを構えている想田監督に根負けして言わされているように思えてくる。
インタビューしない、確かにしていない、でも、あれだけカメラが至近距離で構えていたら、ただ黙って仕事を出来るものだろうか。

不思議なのは、女性はそれが、出来るんだよね。屈託なく、なんてことなく、おしゃべりをしていられる。
牡蠣むきのシーンはただシーンとしてやっている。没頭している。「清須会議」が後悔されたころと思しき、三池監督やらよーちゃんやら役所広司といった名前がエンタメニュースがラジオから流れてくるのが妙にリアリティ。
でも、いったん堰を切ると女たちのかしましさは不変である。行商トラック(生鮮品やらパンやら)の買い物にもキャイキャイと楽しそうである。

ある牡蠣工場の若い女将さんは、一対一だからそれも出来なくて、逆に監督にインタビューを仕掛けてくる。どこに住んでるの、ニューヨーク、じゃあ英語ペラペラなんだ、いいよね、日本から出たことない人より視野が広いもん。
ちょっと聞くとここから出られない自分たちを卑下しているようにも聞こえなくもないけれど、そうではない。彼女はただ、この気づまりを打開すべく世間話をしているだけ。
それを面白がって撮っている作り手側に、果たして彼女の、いや、男女の意識の違いは見えているのだろうか……。
いや、見えているからこそ、面白がっているのだろうと思うのだけど。

どうも、上手く論旨がまとまらない。そもそもこの舞台を記しておかないと、本当に始まらない。
ここは岡山県の養殖牡蠣の産地。牡蠣を採取して、むいて、出荷する。そんな水産会社がいくつもある。むき子は地元のおばちゃんたちがほとんどだが、働き手がいなくて今は中国からの出稼ぎを迎えている。
そして主人公は、南三陸で同じ仕事を営んでいた渡辺さん。東日本大震災を受けて、流れ流れてここにやってきた。小さな子供が三人。元気いっぱいの姉妹二人の下に生まれたばかりの赤ちゃんを抱えている夫婦の奮闘。

この渡辺さんの存在こそが、この作品を撮ろうと思ったきっかけになったに違いない。主人公なんだから、まさにそうに違いない。
いや、主人公、という言い方はヘンだ。台本も何も用意しない、観察映画こそが監督のスタンスなんだから。でもハッキリと判る。東日本大震災を受けて“逃げてきた”彼の存在があったからこそ、ここを舞台に撮ろうと思ったに違いないのだ。
いや、なんかどうもつっかかるような言葉になったけど(爆)、想田監督が、大震災が表面化させた原発という問題に積極的に発言し、関わっているのをなんとなく知っていただけに……。

観察映画、というスタンスだけれど、そこにハッキリとした監督の意思を感じると、もはや観察映画ではなくなってしまうような危惧を感じたのだ。
実際、渡辺さんから、原発事故で、住めないでしょ。いや住んでいる人もいるけどさ、考え方は人それぞれで違うから……という言葉さえゲットしてしまえば、みたいな印象を受け取ってしまったのは事実。いやそれはあまりに私がこだわりすぎだからというのは判っているのだけれど(爆)。

でも渡辺さんは決して饒舌な方じゃないし、そうした言葉そのものをゲットするのは見ていても相当大変だったんじゃないかというのは想像に難くないのだ。だからこのハッキリとした、まるで台詞のような言葉を受け取ってしまったら、ちょっとやっぱり、今までの作品とは違うような印象を受けてしまった。
この言葉を、待っていたんじゃないかって。待って、張り付いていたんじゃないかって。
そう、先述したように、今までの饒舌な人たちが織りなす世界が、その言葉の構築の果てに世界が見えていたのとは違う、一つの言葉で決定されてしまう世界に、変わってしまったのだ。

勿論、ここには大きな問題提起がある。その土地を捨てて逃げていく人たちを糾弾するような地元意識や世論に対する大きな危機感だ。裏切り者、みたいな。故郷を捨てるのか、みたいな。
でも、“捨てられる”のは、逃げていく場所があるから、なんだよね。

渡辺さんは最初、妻の地元の東京に逃げ、そして人のつながりを得て岡山で工場を引き継ぐまでになった。いかにも代々受け継がれる稼業なのに、この地でも跡継ぎ不足は深刻だからこそそれが可能になったんであろうという皮肉さがうかがえる。
やり取りの中では地元宮城の牡蠣の生産の話も出てくる。訛りがきつくてなかなか聞き取れないけれど、なかなかに皮肉なスタンスである。
東北の人らしい、精悍で整った顔立ちの渡辺さんは、可愛い盛りの娘たちが何よりの動機で、故郷を“捨てられた”のだろう。
悪いことでは決してない。決してない、のだけど。

そしてもう一方で大きな問題が、中国からの出稼ぎ労働者、である。この地域ではもはや当たり前になっている風で、男女問わず、30代半ばあたりの働き盛りが、研修という名目でシーズン限りの半年間の出稼ぎにやってくる。
たくさんの人たちが来るから、そりゃ問題はない訳じゃない。たった五日で腰痛とホームシックに耐えかねて帰ってしまう人だっている。
「使えなかったから、いいんだけどね」と笑いながら言う若い経営者に、これから初めて中国人を迎える渡辺さんも、そんないい大人が覚悟決めて来たっていうのに、とあきれ顔をこしらえながらも笑っているけれど、なぜ出稼ぎを受け入れようと思ったのか、と聞かれると、「中国人の方が働くでしょ、仕事の質もいいし」とこともなげに答えるのだ。

聞かれると、という言い方はホントじゃないな。インタビューをしないのが想田監督の身上なのだから。話の流れで、今、就職難なんていうけど、ここにこれだけ(雇用の口が)あるのにね、と言い、日本人の働き手は募集しないのか、と言うと、就職難だからこそ、いい人材はもうとられるでしょ、3Kだからね、と最初からあきらめている様子。
でも、いい人材って、なんなのか。それこそ5日でやめてしまうようなコンジョナシは、日本人で“いい人材”と呼ばれるような、若くていい大学を出ているような中にだっていっぱいいる。ウチみたいな小さな会社はそれで悩まされ、振り回されてきたもの。
もちろん、渡辺さんが言っているのはそういう意味でのいい人材ではないんだろうけれど……でも、日本だって、最初に考える条件はせいぜいそのくらいじゃないんだろうか。

中国人たちのことを口さがなくののしっていたのは、あれは牡蠣工場の経営者ではなかった、よね??何か、物流の社長さんみたいな人だった記憶がある。
「ベトナム人も来ていたことがある。ベトナム人の方が人間はいい。ただ南国だから、冬が耐えられなくて帰っちゃう。中国人はダメ。そこにおいてあるものはなんだってもってっちゃう。ホテルとかで調度品を置いてるともってっちゃう。日本人はそういうことしないでしょ?常識がないんだよね。教育の違い、価値観が違うから……」
という、最後の言葉はいかにも、理解ある人間だというとってつけの言葉。彼の言葉は私の周囲でもよく聞くし、残念ながら、今の日本人が持っている一般的な中国人像であると思われる。だからこそ、妙にデジャヴ感というか、こんなハンコのように聞いたような言葉を言う人を持ってくるというか、そういうことを“言わせる”のかぁ、と思う。

それこそ、想田監督の掲げる“観察映画”には似合わない気がしている。勿論監督はグローバルな視点の持ち主だから、この言葉があってこその、渡辺さんの中国人の働き手に対する信頼という驚きがあり、そして更に、渡辺さんが日本人に対してこそ不信感を持っているという現れ、というスパイラルにつながっていく訳で、実によく出来ているんだよね。
でもそれが、東日本大震災という出来事がなかったら、果たして渡辺さんはそう思うに至っただろうか、という気もするんである。中国人労働者を迎え入れるために実に手厚い準備……エアコン、トイレ風呂付のプレハブを実に62万円もの大金を投じて(札束数えまくり!)用意する渡辺さんである。
そのプレハブを見て会話するのだ。仮設住宅は断熱もなくてとても住めない。政治家は結局他人事だとしか思ってないと。全くその通りだが、その通り過ぎて、記号的な台詞に聞こえなくもない……というのが、本作を通した率直な印象なのだ。

果たしてその、中国人労働者がやってくる。むき子のおばちゃんたちがイケメン君たちだわぁ、と色めき立つサワヤカ系の30代二人組。まあ、おばちゃんたちは出稼ぎ組に慣れている風だから、そういう言い様もそんな浮足立っている訳ではない。
何より印象的なのは、古参のおじちゃん(恐らく、渡辺さんにこの工場を受け渡した人……だって、手伝いに来ていた息子はあっさりと、「継ぐ気?ないです」と言っていたから)が、最初が肝心だから、ヘソを曲げられたら困るから、カメラは遠慮してほしい、と言ったことなんである。背中を向けて、ガンとして彼自身こそがカメラを拒否する形で。

無論、作り手側はそんなことで引いたら話にならないから、やんわりとだけど食い下がる。結局、派遣してくる会社側と通訳さんに話を通してカメラを回し続けるけれども、ある意味この地で無遠慮にカメラを回し続けてきた彼らが、決してすべての人に受け入れられて撮影していた訳ではないという雰囲気が一瞬にして伝わる、ちょっと怖い場面。
考えてみれば、先述したあの気さくそうな女将さんだって、ニューヨークに住んで仕事してるとかいう監督さんに対しての言葉は、かなり儀礼的に感じなくもなかった、のだ。にこやかだったけど、きちんと対応していたけれど、だからこそ。

そして、中国人の青年たちは、入ってきたほんの2、3日ほど、だから、慣れる過程までは映し出さず、物語は終了する。日本語もカタコト以下にしか判らず、戸惑い顔を隠すことも出来ず“研修期間”を過ごす彼らたち。カメラが回るのを了承はしたけれど、その意味さえきちんと判っていたのかしらん……なんて。
興味深かったのは、他の工場に先にきている“先輩たち”と母国語で会話しているシーンで、あれ、字幕とか出るのかなと思ったらそんなヤボなことは一切しなくって、ある先輩が、ちょっと、と肩を叩いて離れたとこに呼び出して、アドバイスなのかなんなのか、話して聞かせる場面なんかもあり。何を話しているのか本当に気になるんだけど、一切、明かさない。
その場面でも、女性たちは渡辺さんの赤ちゃんのほっぺをつつくのを中国語でにぎやかに行う、って感じなんだけど、男子たちは明らかに、個人的な話をしてるのよね。それが気になってさあ……。果たしてチョウ君とテイ君はこの後、渡辺さんのところでどう過ごしていくのだろう??

うっかり海に落ちてしまったおじさんを助け出すドラマティックな場面なんて、ことを収めちゃうあたりの運の強さは、凄い。
全編通して半ノラと思しき“シロちゃん”なる白猫が闊歩し、家に入り込んで監督の奥さんを困らせるのだが、彼(彼女?)の行く先を追いかけると、住みかと思しき家はブルーシートがかけられた廃屋っぽくて、「家に帰りなさい!」という奥さんの言葉は、それを知らずに言っているのだろうけれど……。
シロちゃん(本当はミルク)には帰る場所がないのだ。どこか別の場所を見つけなければいけない。渡辺さんみたいに。ああ、なんて上手くできているの、クソッ。

それにしても、体調のせいもあるとは思うが、人々の表情を追いかけるためにカメラが揺れ続け、ピントを合わせるためにボケたりぎゅーっとしたり、しかも漁船上のシーンも数多く、すっかり酔って気持ち悪くなってしまって、145分は結構長くてツラかったんである(爆)。 ★★★☆☆


花芯
2016年 95分 日本 カラー
監督:安藤尋 脚本:黒沢久子
撮影:鈴木一博 音楽:
出演:村川絵梨 林遣都 安藤政信 藤本泉 落合モトキ 奥野瑛太 毬谷友子

2016/8/30/火 劇場(テアトル新宿)
近い記憶で「夏の終り」 があるので、瀬戸内寂聴氏の鮮烈な女の価値観には驚かな……くもない、やはり。
すいません、なかなか読む機会がなく無知なのだけれど、「夏の終り」が自伝的小説だと知った時、そして本作に触れた時、彼女の女としての主張や価値観が、今の時代でさえ追いつけないほど強い、“女”そのものであることに驚愕するんである。

ひとことで言ってしまえば、母性を否定した女。愛という言葉や概念はむしろなくて、身体ひとつで一人の男を求める女。
母だからとか妻だからという“常識”が両立など出来ないことを、そんなことはホントは皆判っているのに言えないことを、高らかに宣言する女。

不思議なことに、と言ったらアレだが、女性は母になると途端に母になってしまう。妻も女さえも捨て去ってしまう。そう思うのは、どれにもなる機会がなかった客観的女の視線だからそう思うんであって、偏見この上ないのかもしれないが、この保守的な感覚は今の日本にも根強く残っている。
瀬戸内寂聴という人は、それを実に何十年も前に捨て去ったのであった。彼女がいるから、母性伝説が社会から押し付けられたものではないかと……そのことに女たちが気づいていないんじゃないかと……思ったりするのであった。危険な考え方かもしれないけれど。

ところでこのヒロインに、私は見おぼえがないなと思ったら、あらら、朝ドラヒロインだということで失礼しました。
確かに私は朝ドラどころかドラマ自体がなかなかチェックできないが、失礼を承知で申し上げると、朝ドラ後に苦労するタイプの女優さんだったのかな、という気がする。確かにキレイで、どこか松たか子を思わせるようなシックな美貌だが、彼女で客を呼ぶにはちょっとツラい気がするんである。

寂聴氏が、「どの映画化の時も、小説と映画は明らかに違う芸術だと信じていて、原作者としての文句は一度も言ったことはない。映画としての成功をひたすら祈るばかりである」との言葉を残しているのを見てヒヤリとした。「夏の終り」の時には確かに好意的な感想を残している記憶があったが、本作に関してはハダカの体当たりに関してお褒めの言葉を残しているにとどまっている。
確かに女優さんが脱げるのは重要だが、むしろそれは当たり前に思いたいところがある。そこだけでホメられると、それはそれで違うなァという気がするんである。

彼女が演じる園子は、もともと現実的で冷めた女。ロマンチックに愛ある結婚を夢想する妹を冷笑するような。と、いうトーンが結局は最後まで続いていたような気がする。
夫も幼い息子も家族も何もかも捨てるような情熱的な恋をするのに、演技も表情もそのクールなトーンが変わらない。それは演出上の計算だったのかもしれないんだけれど、それだとどうしても、ハダカもキレイだけどそれだけ、って気がしてしまうのだ。
それじゃ、ダメなんだよねー。だって愛というものがあるならば、それは子宮に通じる愛、愛欲の愛、性欲の愛、情欲の愛、なのだもの。確かにそう、台詞では言うんだけれど……。

あまり観念的な感想ばかり言ってても仕方ないので、概略を行く。舞台は戦前戦後。学徒出陣を避けて工学部に移籍した婚約者に冷ややかな目を向ける園子。
もうこの時点で、愛というものなどなかった。しかしその婚約者である雨宮は真実、園子を愛している。君のためにきれいな身体のまま、僕は童貞だよ、と初夜の日にささやく。能面のような顔の園子。

まあ、彼女は当然、処女なぞではあるまい。出征する元カレと思しき軍服の男となまめかしくイチャイチャしている。一応この男も「君を汚したくない。君は純潔なんだ」と言って最後まではいかないが、しかしレロチュー&おっぱいもみもみである。
純潔って何かしらと思いたくなる。そして園子が、他で純潔なぞとっくに失っているんじゃないかという疑いも頭をもたげる。
そのあたりはどうだったのだろう、判らない。本当に処女だったのかもしれないけれど、それこそ愛のない夫との初夜は気乗りがせずスルー、彼とのセックスはいつも、ただ受け入れるのみ、という感じだった。

子供が産まれ、京都へと転勤になる。どうやら義兄に恋しているらしい妹の、姉の子供に対する愛情深い視線が予感をかきたてる。クールビューティーな園子と比して、明らかに対照的な、砂糖菓子のような風貌の妹は、社会的常識を鎧にして、姉を責め立てる。
でも園子はとっくに見破っていたのだ。その鎧の下で、妹が夫に恋してることを。でも、何とも思わなかった。だって愛していないから。愛ということ自体、信じていなかったから。

この夫を演じるのが、林遣都君ということに衝撃を受ける。いやいや今さらそんな。そりゃ彼だってそーゆー年だろうさ。しかし彼のライバルとなるのが、安藤政信だと知ると、ああこりゃあ、勝ち目ねえなあ、と思う。
役者としての仕事欲がないというあたりが、安藤氏に独特の強みを与えている。久方ぶりに見るたびに、イイ感じにイイ男になっているんだもの。

遣都君がいくら腰を振っても、安藤政信にひと振りされたらもう負けるだろうな(爆)。
いや、彼と彼女が出会って想いを確かめ合うまでは、純愛といってもいいぐらいだった。園子が決死の思いで越智(安藤政信)への想いを夫に告白するまでは、いやその後もしばらく、想いを確かめ合うことさえできてないんだもの。
いや、でも出来ていた。その目線のまぜあいですっかりお互い確信は持っていたんだろうけれど……。

その前に、園子はちょっとした浮気をする。音大に行きたかったのに落ちて医大に行ったというややこしい設定の青年である。いつもアコーディオンを弾いている。
年下の男の子をからかうような軽い気持ちだったのか、彼の誘いに応じてデッサンのモデルになる。しかし彼は一向描く気もなく、「ずっと好きだったんです。一度でいいから」と懇願する。
事後、園子がケラケラと笑いだしたのは、後に述懐するところによれば、「愛がなくてもセックスは気持ちいい」ということに気づいたからだ。その上で、「愛があるなら、どうなっちゃうのかしら」とこともあろうにそんなことを夫に言ってしまうものだから。

ふたつのことを、示唆しているように思う。女が愛のあるセックスでこそ感じるというロマンチックな生き物ではないことと、でもその開き直りに気づかなければやはり愛のないセックスは感じないということと、そして……やはり惚れた男とのセックスには、感情よりも子宮が反応する、ということ。
かつてその言葉の連発で子宮作家と罵倒されたという話だが、今の時代から考えれば、子宮、という言葉はおおざっぱというか、むしろ、大人しい方な気がする。もっとありていに、というか感覚的な正確さをもって表現するなら、膣でありヴァギナである(同じか)。
でも子宮、と表現するあたりに、やはり子供を産むことを宿命づけられる感覚を、……もしかしたら原作者さえ無意識に……植え付けられていたのかもしれない。

忘れてはいけない人物がいる。園子たち夫婦が下宿する大家である、北林という妖しい魅力の未亡人である。演じる毬谷友子が圧倒的で、彼女の存在感のせいもあって、同じトーンのまま演じきってしまったヒロインがより一層かすんでしまうというウラミがある。
北林はもともとは東京出身だといい、京都に嫁に来て夫を亡くしたのはもう大昔だが、「戻ってもよかったんだけれど、ズルズル来てしまった」という。
子供はいるとは言うけれども、とっくに独立したのだろう、いや、それ以外の大きな理由も想像されるような雰囲気もあり、たった一人、この京都という排他的な伝統都市にこっそりツバを吐いて生きている感じなんである。

この北林未亡人と越智は、腐れ縁的な愛人関係にある。20離れているという以上の、化け猫的な妖しさが毬谷氏からは匂い立つ。それを受けて立つ安藤氏の枯れた色気もただならぬのだけれど。
実際に“そういう”場面はただ一か所、園子が夫とのセックスに耐え切れず抜け出して、恋する男の元に忍んでいったところが……北林夫人のフェラを受けている真っ最中、だったんである。
北林夫人と目が合う。ニヤリと勝ち誇った笑みを浮かべ、彼女はしんねりと越智の上にまたがる。越智ものけぞるピストン運動。園子はたまらず目を背けて立ち去ってしまう。

そういやー、園子はその前もその後も、そういうお互い奉仕する感じというか、業務的なセックスの手続きを経る場面がなかった。恋を知って以降もクールなトーンを崩さなかったからうっかり気づかずに来たけれど、前半の園子なら、夫をいなすためにフェラの一つもやったって良かったような気がする。そして恋を知っちゃうと、余計にやらなくなる。愛を子宮で感じちゃうと、それに甘んじちゃうのかなあと思う。
越智との関係を優先して、園子はすべてを捨てる決意をする。ひとりひっそりとつましい一間で暮らしている。だけど、越智は北林夫人との関係を捨てないし、それを達観したような園子に一方的にガッカリして、「愛がないのなら」と札びらを叩きつけて帰っていく。それなのに「また来るよ」と。

結果的には、園子は、一人になったということなのだろう。母の葬儀に久しぶりに実家に顔を出す。これはどれぐらい時間が経っているのだろう。廊下で一人遊びをしている男の子は息子がまるで成長していないように見えたが、二人目ということではないんだろうか。
その前に、園子と夫の結婚の時、園子の父は腹上死……ではなく、死んではない、そのまま寝たきりになってしまった。そんな淫蕩の血を受け継いだのだと母から言われた園子はかすかに笑ったものだった。
「だって、子供が夫に似ていることが悲しむべきことだなんて」そして母も死に、現代的なワンピースの喪服で訪れた姉の背中に妹が問いかける。「一人で大丈夫なの」振り返ってニッカリと笑う園子。

これがすべての答えなのだ。妹には早く籍を入れなさいよ、と言った。ずっと自分の、愛していない夫に恋していた妹に。恋することを知ってから、妹にも優しい気持ちになっていたんだろうと思う。まぁ正直表面上は判んないけど(爆)。
実際、越智への思いを夫に告白して修羅場になった時、あんなに冷たくしていた妹に「あんたならわかるでしょ」と、それまでの園子では考えられない助けを求めたんだもの。

でも、何度も言うように、惜しむらくべきは、そういう園子の変遷がハッキリと感じられないことなのよね。確かに涙し、子供にすらそんな心情を見抜かれてなつかれず、呆然としたまま帰っていく母親と妹と我が子を見送る。
でも……なんか根本的なところで彼女自身の感情の起伏がイマイチ薄い気がするのは終始否めず、それが本作の決定的な問題点になった気がして、仕方なかった。

やっぱり、脱ぐだけじゃダメなのよ。そういうタイプの女優さんは、脱ぐだけで満足しちゃう。なんつーか、身体が清潔のままというか。そういう状態だとさ、毬谷女史なんてタイプが出たらもうあっという間に押し寄せられちゃう。
ハダカに愛欲というエロを映しだすっていうのは……ハダカになるだけで目的達成しちゃったと思ってる女優さんには、きっと決して出来ないことなのよ。★★☆☆☆


風に濡れた女
2016年 78分 日本 カラー
監督:塩田明彦 脚本:塩田明彦
撮影:四宮秀俊 音楽:きだしゅんすけ
出演:間宮夕貴 永岡佑 テイ龍進 鈴木美智子 中谷仁美 加藤貴宏 赤木悠真 谷戸亮太 池村匡紀 前田峻輔 大西輝卓

2016/12/20/火 劇場(新宿武蔵野館)
現代でロマンポルノを撮るという今回の企画。勿論ロマンポルノは様々な作品があったが、やはりあの当時の、ということがとても大きかったので、現代で撮られているだけで、ああ違うな、ロマンポルノとは違うな、という気はする。
ただ、とても面白い企画であることは確かだし、おっぱい出すだけで大騒ぎされる女優事情を軽々と越えられるという点では、やはりロマンポルノなのだ。
そこがヤハリ、ピンク映画とはちょっと違う。自由度とか似てる部分はあるけれど、成人映画ではなく、あくまで一般映画の中でのエロ、そこでどこまで勝負できるか、っていう。

主演二人の名前に見覚えはあったけれど、よりヒロインの名前の見覚えの方にアンテナが働いた。とにかく覚えが悪いので、あの時のあの子、と思い出しはしないんだけれど、はっきりと、この名前はハズしちゃいけない子だ、ということは覚えていた。
間宮夕貴。「甘い鞭」の鮮烈なあの子!あの修羅場映画に比したら、“体当たりの濡れ場”で注目された門脇麦嬢さえとてもとても及ぶもんじゃないんである。その後もエロ系映画で見かけたが、「甘い鞭」の凄まじさはとても超えられないってなもんで、でも今回、あの時の熱さといったものを、彼女の中に見出すことが出来た。

「甘い鞭」でもその形のいいおっぱいには目を見張ったが、あの時はとにかく凌辱される少女役、正視に堪えないレイプの連続だったので、今回の彼女に接しても、あの時のあの子、と思い出すことは出来なかったのだ。だって、真逆だもの。言ってしまえば男をレイプするぐらいの勢いの“野良犬”。
驚きのオチは、彼女が逃げ出したベンガルトラだった、ということだったんだから犬ではなく、やはり猫系ではあるのだが。「あたしはあなたをロックオンしたの。絶対に逃げられないんだから」と厚めのたっぷり唇で言い放つファムファタール!うーん、この言葉、久々に使ったなー。

白シャツ黒ボトムという、いかにも世間から隠遁しているシンプル男、といった雰囲気の主人公、高介。リヤカーを引いて打ち捨てられた椅子なんか回収したりして、山奥のバラックで世捨て人みたいな生活をしている。
後に明らかになるところによると、劇団主宰、脚本も手掛けた才人だったらしい……というのはそこに所属していた女たちが口にすることで、小さな所帯で地方を回る彼らが、演劇界でどの程度のスタンスだったのかはすこぶる怪しいのだが。
とにかく彼は、「女は卒業した」ってことで、この山奥で隠遁しているらしい。更に後に明らかになるところによると、彼の「身体に惚れた」カフェの奥さんがいて、離婚にまで発展しちゃったらしい。高介は「本当に奥さんとは何もなかった」というが、本当かねえ、と思うんである。

その高介と、ファムファタル、汐里の出会い、冒頭の場面は鮮烈。海へと傾斜している道を自転車で爆走して突っ込んでくる汐里。呆然と見ている高介。
こともなげに上がってきた汐里は、こともなげにずぶぬれのTシャツを脱ぐと、下はまっ裸。気にする風もなくTシャツをジャーッと絞る。その時から、ひどく美しい形のおっぱいにくぎ付けになるのは、観客ばかりではあるまい。

そして彼女は高介につきまといまくる。泊めてくれない、私が払うんじゃないわよ、5000円でいいよ。ヤリたいんでしょ。そういうの、判るの。傍若無人な彼女を、冷たくあしらいながらも、時に路肩に突き飛ばしさえしても、この時から何か、突き放しきれない感じは確かに、あった。
とんでもない野良犬と思ったが、次に再会した時にはカフェの店員としてしおらしい表情を見せたから、あの時の野良犬、と一瞬判らないぐらいだった。

しかしその一方でカフェのマスターをすっかりくわえこんでいて、サーフィンに来ている男の子たちを順番につまんでいって、嫉妬したマスターが高介のところにお門違いに怒鳴り込む、みたいな。
コミカルなんだろうけど、高介なりマスターなりといった男子陣がかなりシリアスな芝居を見せるので、あらこれは笑っちゃいけないのかしらんと思っちゃう。

好きな脇役さんがいる。高介のところに燃料を運んできてくれる青年である。彼はいつか運命の恋人に出会うことを夢見ている。つなぎの作業着にオールバックといった田舎のあんちゃんなのだが、「新作聞いてくれますか」といってメモ帳に書き綴ったポエムを読み上げるといった、信じられない乙女男子なんである。
汐里と顔を合わせて「結構、可愛いッスね」と言った時には、彼が彼女に毒されるのか……と心配したが、彼は本当に運命の人を待つ純情青年。最後には見事、その人をゲットするのだが、それはまた後述。

汐里と高介のぶつかり合いは、まるでプロレスみたいだ。高介は迫る汐里をしきりにかわすのだが、それだって、プロレスを指導している指導者みたいだ。
だってね、高介のところにかつての劇団仲間がやってくる。てゆーか、かつての恋人(てゆーか、あの雰囲気だとヤリ仲間とゆーか)が引き連れてきた、ぼんくら新人青年たちだけど。

その流れで、高介は汐里に演技指導を施すことになる。そりゃ判る。あのぼんくら新人たちのぼんくら稽古を見ていたら、私も女優になれると思ったってムリないもの。
でも、汐里の素質は本物だった。むちゃぶりエチュードに高介のかつての恋人はうっかり喘ぎの声を出しそうになる始末。それだけじゃなく、高介がつける稽古で、的確で明確なニュアンスで芝居を演じ分ける彼女にちょっと本気で驚嘆する。勿論脱げるだけで瞠目した訳じゃないけれど、彼女は本当にデキる女優なのだ!!

で、その指導合戦もそうなのだけれど、本当に身体と身体のぶつかり合い。高介はマスターが言うように、女の本能を刺激せずにはおれない、セクシーな身体を持っている。自分自身もそれを自覚しているだろうと思われる。かつての恋人から迫られると、あれだけ自身の決意を口にしていたくせに、「脱ぐだけ、キスするだけ、入れるだけ」という彼女に(それがセックスとゆーものだろー)、そのまま受けちゃう。
そこへ、あの野良犬、もとい、汐里がやってくる。あわや3P状態になる。彼もやる気になるも、汐里は高介を蹴っ飛ばして、彼女とヤリ始めるんである。ボーゼンとする高介。つまりこれは……彼のプライドをぶっ潰したということだろう。
そして女同士の絡み合いは、その甘やかなイメージからはかなーり違う、こちらも挑むような獣のセックス!いや、挑んでいるのは汐里だけで、その手管にすっかり彼女はヤラれているんだけれど!

悔しくなった高介が、自分に好意を寄せてくれている劇団の新人脚本家を押し倒すも、さっさとコトを終えた汐里が出てきて今度はぼんくら新人たちを相手に、順番にバンの中でガタガタセックスしだす、という展開。
この新人たちは登場からおそ松さんみたいに正しく行列つくって握手を求める、みたいな描写で、コミカル担当だというのがうかがえる。一人一人の顔もいい意味で、見えない。
汐里の様子が気になって、ちらちら視線を送りながら新人脚本家の女の子を組み倒している高介。かなりカワイイ感じの女の子で、すっかり高介に心酔している様子なので、これは女としてはかなり……この状況はさ、ヒドイよね、屈辱よねと思うが、それをいっちゃあ、コメディにならないんだろうし、まあ彼女も運命の人にその後出会えるんだから、いいんだろうけどさあ。

そう、運命の人は、あのつなぎの青年!てゆーか、結局高介は、自身は運命の人どころかまた一人になって、周りの運命の縁をつないだだけの可哀想な人、だったんじゃないかしらん。
あのマスターは汐里と高介の仲も焼いてケンカ売って来たけど、サーファーたちにボコボコにされて入院したら、「奥さんとよりを戻したいから、カフェに泊まって電話を待ってくれないか」としおらしく頼むという!
そしてつなぎの青年は、高介にフラれた脚本家の女の子と、山の中でお互い運命の一目惚れをし、次のシーンでは車の中でポエムを口ずさみながら愛らしいセックスをしているという……うーん、これは純愛、なのか、そうなんだろうな!エロだけどちょっと可愛かったもん。

幸せなセックス、ということなのだろうと思う。本当に彼と彼女は、運命の人と愛し合うセックスをする幸せなセックス、だった。
この中には様々なセックスがあって、かつての恋人の迫られてのセックスは、仕方なく受ける優越感のセックスであり、このかつての恋人が汐里とするセックスはその優越を思わぬ人物から喰らう、屈辱ながらも本能を探り当てられたセックスであり、彼女がぼんくら新人君たちとするセックスはその悔しさを紛らわし、そしてそして、何より大事な、高介と汐里のセックスは……なんだったんだろう。

ようやくたどり着いた、という感じだった。汐里は最初から高介とする!と決めていたし、高介の方は表面上はうっとうしがっていたけれど、最初から彼女とするであろうことは、見えていた。オスとメスの本能のセックス、そんな感じだった。
ついにその時が来た、という感じで、かぶりつくように絡み合う。激しさもそうだけれど、長さも尋常じゃない。その長さの間、激しさが持続し続けることに驚嘆する。てゆーか、高介の持続力がむしろファンタジーだろ!と、イかないまま持続し続ける高介はむしろ地獄じゃないかと(爆)妙な心配をしたりする。
してる間にお腹もすいたのか、まじわりながら冷蔵庫を開け、トマトだのチーズだのを物色してかぶりつきながらセックスを継続。まさに本能だ……。

そのセックスの最中、マスターの奥さんから電話がかかってくる。ことづかっていたマスターの愛の言葉を伝言するも、明らかにセックス最中の息遣いである(笑)。
そういえば、そういう描写があったあった。汐里が高介を誘惑する手管で、サーファーとのセックス最中に電話をかけて来たんであった。イラついた高介は、汐里が置いていったそのスマホを森の中にぶん投げたんであった……。

まさに汐里の手中にはまったともいえるし、今は正直、ちょっと失われてしまった、まさに本能を呼び覚まされたということなのかなあ。
そしてそこには愛は……愛はセックスとともにある訳じゃないけど、出来ればあってほしい。愛が産まれた先にセックスがあってもいいし、その逆でもいい。その逆だったかもしれないけど、目覚めた時には汐里はいない。まあそうだろうなと思ったけど、まさか逃げたベンガルトラとは、どーゆーオチさ!

でもそうか、そうだな。猫ではなくトラだった、確かに。3年を経て、間宮夕貴という女優の凄さに、改めて感じ入った。彼女にはブレイクしてほしいなあ。★★★☆☆


葛城事件
2016年 120分 日本 カラー
監督:赤堀雅秋 脚本:赤堀雅秋
撮影:月永雄太 音楽:窪田ミナ
出演:三浦友和 南果歩 新井浩文 若葉竜也 田中麗奈

2016/6/24/金 劇場(楽天地シネマズ錦糸町)
三浦友和の凄い演技、が宣伝かなんかで……動画で出回った時からちょっとドキドキしながら待っていた。観ている間緊張で身体が固まったままで……。三浦氏は当然として南果歩氏も、こりゃあ賞レース間違いなくノミネートだなと、妙な確信から感想をスタートさせたりして。
でも一発目の印象はまさにそうだった。三浦氏と南氏はノミネート当確。意外な役柄へのアプローチという点では新井浩文もかも。そして圧倒的な力を持つ新人として若葉竜也君も……って、彼のプロフィル見たら俳優として出まくりで新人なんかじゃないんだけど……映画で決定的な印象を与える役柄を得た時に、新人賞って出るもんだからさ。

てな、年度末のノミネート予想にばかり頭がいってしまうのは、本作が事件そのものではなく、家族の、つまりは家族の一員、というカテゴリに縛られてしまった人間ひとりひとりの、凄まじさ、哀しさ、にこれでもかと……本当に死闘(という言葉は、監督さんのインタビューに出てきてた)したからだと思う。
元になった舞台ではモデルとなった事件があったらしいが、多分そこに拘泥してしまうと、事件を通して人間を描くという形にはなっても、事件そのものの残虐性に人間の姿、言ってしまえば役者そのものが負けてしまうことになりかねないから。
こんなことを言うとプロフェッショナルの役者さんに対してとても失礼なんだけれど、それだけ現実の事件はとても正視できないほどの残虐性に満ち満ちているから。ちらりと、なんとかいう事件がもともとモデルになって……などと言う情報が目に入ったが、見ないようにした。だって、事件そのものを描こうとしていないもの、本作は。

ざっと概略を示すと、こう……。最終的に無差別殺人事件を起こしてしまう次男。最終的に、奥さんと幼い二人の子供を残して自殺してしまう長男。父親はさびれた金物屋を継いだ男。母親はその男の妻である専業主婦。最終的に起こってしまうこと以外は、とりたてて珍しいところもない四人の家族。
父親は、息子たちが幼い頃に一念発起して建てた、“一国一城”に、事件後、たった一人になっても住み続ける。物語はそこから……壁中に書かれた、人殺しやらなんやらといった、心無い落書きを淡々とペンキで塗りつぶしているシーンから始まる。
必要以上に立ち入らない(立ち入れない)ビジネスライクな外国人家政婦さんに、言葉を荒げて指示をしている。そこへ、死刑判決が出た次男の“妻”、死刑制度反対を掲げる女性が訪ねてくる……。

さっくりと、心無い落書き、と書いてしまったが、実はここがこの作品を語る上での案外と重要なポイントになるような気がするんである。残虐な事件が起きると私たちは当然ショックを受け、心を痛め、その犯人に対してまるで当事者のような激しい憎悪を覚える。
そう、まるで当事者のように。そして当事者のように正当な権利を得ているかのように、糾弾するんである。しかも当事者本人が関わる全ての事象に。そしてその全てが……正義のもとに行われていると本気で信じているんである。

劇中、父親が何度も吠える。私が何をしたんだと。息子の命は捧げます。国が裁くことです。あなたたちが裁くことじゃない。息子の血肉を提供して生きながらえる人がいるならば、息子の存在する意味もあったというものです。これで勘弁してもらえませんか、と。
これまでは仲良く近所付き合いをしていた初老の男たちがあの事件以来、彼を疎ましく思っていることに爆発して、罵倒のような大声と土下座という、まるで正反対のパフォーマンスをするのだ。

この父親の造形はとても高圧的で抑圧的で、確かに家族がおかしくなってしまうのも無理はないかもしれない……というあたりはでも、巧妙なトラップなのだ。
それがエクスキューズになって殺人から自殺からすべてのことを説明してしまうのなら、ならばそれを、解決するための糸口を見つけなければいけない。こんな家庭だったから仕方ないとか、あるいは、この程度の家庭ならいくらもある、お前たちが弱かったからだとか、そうしてしまっては意味がないのだ。繰り返されてしまうのだ。
心無いんじゃなくて、心有るから糾弾するのだが、糾弾することが正義だというところにとどまっているから、その矛先も曲がるし、解決も出来ない。そしてそれは……劇中のキーパーソンである、次男と獄中結婚をした星野は本当に判っていたのだろうか。

日本には死刑制度があること、それが国際社会から糾弾されていること、それも本作の重要なポイントになる。星野が信奉するのはまさにそれである。絶望を生み出すだけだと。そこからは何も生まれないと。
次男の父親が、まるで胡散臭い、新興宗教かというのはまさにその部分で……。人間そのものの可能性を信じるのなら、その個人の心を開くことではなく、それを教訓にしてこれからの人間に希望を見出さなくちゃいけないと。
キツいことを言うようだが、罪を犯してしまった人間は、教訓が生かされなかった、いやそれ以前に教訓を成り立たせなかった社会の被害者なのだということは言えるのかもしれない。でも……彼ら個人を救済しても、それは確かに偽善者と言われても仕方のないことなのだ……。

作り手自身がどう考えているのかは判らない。これはあくまで、私個人の意見。罪を憎んで人を憎まず。その精神は私も理解できるしそうだと思う。でもそれが、死刑制度を議論することへの直結にはならないと思う。
死刑制度がない国ではしかし、事件の全容を明らかにするという意識に欠ける部分がある。殺人者を簡単に射殺してしまう。動機も何も、判らなくなってしまう。
死刑制度が成立するのは、生かされた人間がどうして事件を起こす経緯に至ったかを明らかにして、つまり社会に警告を鳴らして、それには、死にゆくことへの恐怖と懺悔が必要なのだ。

あれ、なんかいつの間にか死刑制度論議になってしまった(爆)。いや、そんな思考に陥ってしまったのは、獄中結婚をする女性として登場する星野、演じる田中麗奈嬢が、あまりに薄っぺらだったからなんである(爆)。彼女だけはノミネート外だと思う(爆爆)。
いや、ゴメン……これは作り手側の思惑なのかもしれないとも思う。彼女は次男の心を開こうと思う。開けると信じている。何回も面会に行く。差し入れもする。しかし……当然のことながらそんなことは果たされない。
そりゃそうだ。結婚していると言いながら彼女は最後まで彼に対して敬語で、あなたと家族になりたいとか叫ぶだけでは、そりゃあ心なんて開けっこない。田中麗奈嬢自体がちょっとピンと来なかったこともあったので、これは彼女の責任かしらんとも思ったが(爆)、意図的だったんじゃないかなあ、とも思う。

彼と獄中結婚をすることによって、実際の家族も失いました、と星野は言う。彼女自身の家族環境はあまりうかがえなくって、恵まれてなかったのかな、という推測が出来なくもないけれども、それはちょっと親切すぎる推測かなとも思う。
正直、彼女は最後までうさん臭く薄っぺらいのだ……それが、残念ながら、この星野というキャラというよりは、田中麗奈という女優が強力過ぎる芝居巧者たちに勝てなかった、というように見えてしまう。果たして彼女の存在は必要だったのかなあと。

劇中、家族たちはいわゆる手料理というものを全く食べない。最初のシーンで既に、「昨日残ったピザ。お父さんとじゃ食べきれないから、食べてよ」と母親が言う。
引きこもり状態の次男がコンビニ弁当、というのはこれまでその手の映画で散々見てきたから珍しくもないが、主婦である筈の母親も常にコンビニ弁当をつまらなそうに頬張り、高圧的な夫から逃れて次男と二人暮らしをしているそまつなアパートの先ですら、コンビニで買ったナポリタンを頬張っている。
そして訪ねてきた長男には「お腹すいてる?出前でもとろうか。カップめんあるわよ」と、いそいそと立ち上がる。「稔(次男)がナポリタンを食べたいっていうから……私もカップめんにすれば良かった」とすら、言う。

いや別に、主婦だから作らなきゃいけないなんて言うつもりはない。フェミニズム野郎の私がそんなこと、言う訳がない。夫が作れ、と言うわさ。それこそあんなヒマそうな金物屋に座ってるだけならさ。主婦を女、と置き換えたら更に言う筈もない。
……それこそ次男が自分で作っていたら、彼の人生は変わっていたかも。でもそういう行動も、それこそ家庭環境から出るものであろう。つまりあの描写は、あの家庭の崩壊そのものを表しているのだ。

こんなことをフェミニズム野郎の私が言うのはヤなんだけど、家族を愛していたら、あの食事にはならない、んじゃないかと。実際、コンビニ弁当ばかりを見ていると胸がムカムカしてくるのだ。
ああ、これじゃ生きられない。誰かが食べてくれなくてもいい。自分で食べるから自分で作ったほうがいい。それでなければ耐えられないと思っちゃうのは、日本人の感覚なのだろうか。料理は愛する誰かのため、それが自分でもいいじゃん、殊更に家族家族と、確かに日本は言いすぎだから。

いや、彼女が愛していなかったのは、夫だけだったのか。劇中、夫からのしかかられて悲鳴を上げて抵抗し、「私、あなたのこと大嫌い!!……なぜここまで来ちゃったんだろう……」と泣き出すシーンがある。夫茫然の興ざめである。
そう、なぜここまで来ちゃったのか、それは女が……残念ながらこの年頃の女の無力さ、あるいは一番最大の理由は、無力な女が一人で生きていける社会ではないということ、が理由なのだろう。

いやいやそんなことはない。彼女は家を出た。しかも最愛の息子を連れて。ここもまた問題であって……。一人で出ていけない。とゆーか、こんな荒れ放題にまで放置してしまった息子を一人で置いておけない、と思ってしまう傲慢さがあった、ということなのだろうと思う。
そして居所を突き止められると、確かに夫は包丁なんて持ち出してコワいけれど、でもそれで、アッサリ、帰りますから、と言ってしまう。一体彼女が可愛いのは自分自身なのか息子なのか。

このイラっとくる感満載の母親を演じる南果歩嬢が素晴らしくて、本当に圧倒されてしまうのだ。
この家庭環境と自身のリストラに息詰まりまくって、長男が自殺してしまう。その通夜の場面でもまるで無邪気につまらない笑い話を繰り返す。悲しみに暮れる長男の嫁が牙をむいても、「なぜ気づかなかったの?夫婦でしょ?あなたが保(長男)を殺したのよ」と言い放つ。
嫁から多少の反駁は喰らうにしても、この場面の母親の自覚のなさには本当に戦慄したし、それを体現する果歩嬢には舌を巻いた。ちょっと「家族X」で彼女が演じたヨワヨワ主婦も頭をかすめて、こーゆー役がまた来たなとか思わないのかなとか、ステロタイプな主婦な感じも感じたけれど。
弱さ、というのは時に暴力だ。それを盾にし出した時、人間は本当にダメになる、と思う。この父親が家族にとっての脅威だったとしても一概に責められないのは、彼がそれこそ涙ひとつこぼさずに戦い続けたからなんじゃないかな……と思うのだ。

新井浩文が舞台版では次男を演じていたというのは非常に納得であって、それこそ目に浮かぶぐらいで。気を使いまくり、リストラされたことも家族に言えず、金物屋を継ごうかな、とうも父親に却下されて苦笑する。そして自殺してしまうなんて優しい長男、だなんてさ!
劇中、中華料理店で父親が理不尽なことでキレて店員に怒鳴り散らし、しかし一方でここの水餃子は美味しいんですからと勧める、先述した、ちょっと話題になった予告動画、このシーンでの、もういいから……と困惑しきりの感じとか、留守番していた母親が目を離していて子供が次男に殴られて大けがしていた場面での困惑から激怒の行きつ戻りつとか、まさに板挟みの苦しさが伝わってきて、素晴らしかった。素晴らしかっただけに、自殺の場面で、ああそうか……と納得出来てしまって……。

兄の自殺を受けて、弟である次男は、ダッサイ死に方しやがって、とつぶやいた。俺はもっとでっかいことをやる、と。
死にたい、ということは、前々から言っていた。母親と一緒に潜伏していた安アパートに父親に乗り込まれて首を絞められた時、でも母親が間に入って止めて、「せっかく死ねると思ったのに」とつぶやいた。
それなら自分で勝手に死ねと、観客の誰もが思ったに違いない。つまり彼は自分では死ねない人間だった。自殺がダサイということは、言い訳に過ぎない、ということにすら、気づけないほどに。他人に公に華々しく殺される手段のために、彼は無差別殺人を選んだ。それが一番弱くダサイということにも気づけずに。

父親はラスト、みかんの木に掃除機のコードを巻き付けて自殺を図ろうとするけれど、見るからに細い枝が折れてしまうのは必至で、死ねない。そしてコンビニで買ったと思しきネバネバ系そばを、自殺の前に食べかけだったそれを、食べ続ける。
そう簡単には死ねないのだ、人間は。他人に殺されることを希望するほどに、簡単では、ないのだ。みかんの木は、息子が生まれた時に苗木を植えた。今では立派な実もつけるようになったのに、首吊りも出来ないほどに、華奢な枝なのだ。

生きることが尊いとか、誰か愛している人がいるからとか、そんなことをストッパーにしていたら、らちが明かない時代になってきたのだ。
本作は葛城事件。事件の名前にはその場所の名前が付く。次男が起こした殺人事件の名前ではないというのが、実に端的に示している。本作は家族の“事件”なのだ。★★★☆☆


眼球の夢
2016年 102分 日本 カラー
監督:佐藤寿保 脚本:佐藤寿保 夢野史郎
撮影:御木茂則 音楽:田所大輔 田辺裕己彦
出演:万里紗 桜木梨奈 中野剛 PANTA 小林竜樹 佐川一政 シャイリー波輝 川瀬陽太 和女

2016/8/9/火 劇場(渋谷イメージフォーラム/レイト)
そうか、佐藤寿保監督の魅力はこういうビザールさだったのか。ピンク四天王の内でもなかなか遭遇する機会がなくて、つまみ食いのように見ていたからあまりピンときてなかった。
このタイトルが漂わせる、それこそビザールさに心惹かれて足を運んだから、佐藤監督だとかいう感覚もあまり、なかった。なんとなく勝手に、夢想的で幻惑的なロマンティックシネマのようなことを予想していたが、血みどろスプラッタの狂気にいい方向で裏切られる。

ぴったり吸い付く革のボンテージファッションなのに、人を寄せ付けない貞操の固ささえ漂わせる美女と、同じボンテージでもこちらはめちゃめちゃエロさ、セックスするぜ!アピールを猛烈に発揮してくるゴシックボンテージアヴァンギャルド美女。
この二人がレズビアンのカラミを濃厚に、喘ぎ声じゃなく咆哮になるほど、うるさいほどにかましてくるところなんか、私はもー、ノックダウンである。
時に男女のカラミより、女同士のそれの方がよほどエロいと感じるのは、私がフェミニズム野郎だからなのだろーか。

てか、そんなことは、本作の一つのスパイスに過ぎない。ヒロインはこの、貞操美女(いや、結果的には180度どころか、宇宙の果てまで飛んでっちゃうような狂気美女、なのだが)、カメラマンの麻耶。
カメラマンといっても彼女が撮る被写体は人間の眼球のドアップばかり。劇中、通行人を片っ端から捕まえて眼球接写を繰り返すのだが、最初の内は常識的に声をかけて、断られたら次の人に声をかけて……という感じだったのが、まるで突然殴りかかるように暴力的にムリヤリカメラを眼球に押し付け、眼球をぐいと見開かせてシャッターを切る。

はあはあを息をあらげながら、まるで相手をレイプするみたいに!!……というのは後の展開なのでここで勇み足したら、いけないいけない!!
ただ、本当に最初は、ストイックで、人を寄せ付けない感じの、クール貞操美女に見えたから、どんどん変貌していく彼女に圧倒され続けるのだ。多少芝居が大きい気もしたけど(爆)ミュージカル女優というのはその点、納得かなあ……。

その彼女の写真展に足を踏み入れるのが、脳神経外科医の佐多。彼は一方でドキュメンタリー映画作家でもあり、麻耶の「私の片目は眼球で、盗まれたもの。今もその眼球を探し続けている」という発言に興味を持つ。
どう考えても彼女は両目とも自身の持つもの……色っぽい、濡れた瞳だからだ。麻耶のこの発言もだんだんと、失われた眼球は額にあった第三の目だとか言いだすから、どうも一貫性はないのだけれど。

佐多が興味を持ったのは、医者としてなのか、映画作家としてなのか。彼は見た目的にも穏やかで常識的な男性だし、医者として麻耶を見る時も、被写体にしたいと申し出て彼女を撮る時も、麻耶が逸脱していく様にも動じずに対応しているから、彼こそが狂気だなんて思わなかったんだけれど。
おっと、いきなりオチバレだけれど。ちょっとしたどんでん返しの趣もあるんだよね。

その前に、まだまだメインキャストがいるもんですから。麻耶はトラウマの記憶に苦しめられている。少女の頃、車のトランクに押し込められた。そしてどうやら……正当防衛とはいえ、誰かを傷つけた。そのために、後にマスコミに追いかけまわされ、アイデンティティを失い続けてきた。
と、いうのも明確な記憶として語られるのはだいぶ後になってからである。再三繰り返されるどアップの眼球に飛び散った血がねっとりと流れるショット、それをぬめっとした舌がなめとるショット。……目を舌でなめたりして、雑菌が入って結膜炎にならないんだろうかなどとヤボな心配してしまう。
いや、私が粘膜ヨワヨワ女で結膜炎にはかなりデリケートなもんですから(爆)。昔、吉川ひなの嬢が武田真治に眼球なめられてる映画があったなあ、と思いだしたり。

いやだから、メインキャストよ、メインキャスト。彼こそが麻耶のトラウマの相手よ。黒づくめに、透過できない真っ黒なサングラスの初老の男。
彼は麻耶の写真展にやってきて、この写真が欲しい、と言った。麻耶は彼の眼球も撮ろうと思ったが、サングラスを外すことを拒否される。このサングラスこそが私の目なのだと。

そこに映り込む自分に対してシャッターを切ることになってしまったあたりから、麻耶の様子は明らかにおかしくなる。それはうがって見れば、今までは他人の眼球にこそ興味を持っていたのが、でもそれは、自身の失われた眼球を探す旅だったのに、そのことに気づかず、自分の眼球はここにこそあるのだと、自分自身はそこに映し出されているのだと、指摘されたからなのだろうかとも思う。
いや、判らない。そもそも当然ながら失われた眼球などない。彼女が彼の眼球を失わせたのだ。そのねじれが、彼女自身に幻影肢現象となって表れているのに。

幻影肢、というのこそ、本作のキーワードである。本来持っていた欠損部分に対して、未だあるように感じる症状、なのだという。事故や病気で失われた手や足、と言ったら判りやすい。
佐多はそれが、麻耶に現れた症状だと考える。でも実際には彼女は眼を失ってなどいない。そう思い込んでいるだけで、ありもしない第三の目の喪失を訴え続けているのだ……むしろ、逆幻影肢、とでもいうような。本来ないものがあったものだと感じ、それが失われたことこそを感じている、というような……。
最初の内は彼女が、自分の片目こそが失われたんだとか言いだすからどうもコンランするんだけど、結局はそういうことだと考えれば落ち着く。でも、本当にそうだったんだろうか??

この黒づくめ男にレイプされる麻耶。レイプなのか……途中から麻耶は明らかに、自ら求めていたから。こーゆー展開というか描写はフェミニズム野郎としてはなかなか受け入れがたいところだが(爆)、まぁ仕方ない。
彼は義眼を外す。ぬめぬめしたそれを彼女の唇にはわせ、含ませ、乳首をぐるぐると愛撫し、ついには大切なところに挿入する。声をあげる麻耶。

そして最も重要なのは、この男がもったいぶって見せる、冷凍庫の中の眼球コレクション。小さな円筒状の容器の中に氷詰めにされたその中の一つを、目を見開いて麻耶は取り出す。
私の失われた眼球だと言わんばかりに……それをなめ、乳房にはわせ、ついにあの場所に挿入する。歓喜の声をあげる麻耶を、黒づくめの男はじっと見つめている……。

義眼が出てきた時に、ああこれでぬめぬめ愛撫するよね、と思って、その通りになっちまったことに若干のがっかり感を感じたりもし(爆)、想像以上にエロ場面が多いんだけど、それがちょっと、ピンク作家だから、みたいな雰囲気にも感じたのはちょっと残念だった、気もする。
佐多は麻耶の告白を聞いても、それは妄想だろうと取り合わず、クスリまで処方してくる。「合法麻薬だけれど、医療用だから」その台詞でもう、危ない気持ちはプンプンしているが、佐多はあくまで医者の顔を崩さないから、なかなか観客側は彼の意図を突っ込みきれないんである。
作り手として麻耶に貼りつくようになってから多少は動物的な本能も見せ始めるけれど、その前に麻耶の方がそれを獲得してしまって、はぁはぁと息を荒げながら佐多に挑みかかる。

このシーンは鮮烈で、格闘技みたいなのだ、まるでトラのように、何度も何度も佐多につかみかかる麻耶。必死に払いのける佐多。これが、女が男をレイプする様なのか……と思ってしまう。
その間、まさに猛獣のような声を上げ続ける麻耶に戦慄を感じる。相棒のボンテージ娘、リエに対しては、同じような咆哮ではあるけれど、やはりそこには呼応する信頼があったけれど、完全に攻撃、挑みかかる闘い、なんだもの。

あくまで医者と患者、あるいは被写体であった麻耶に、レイプの形とはいえ応じてしまった佐多は、どういうことだったんだろう……。いやそもそも、彼こそが狂気だったんだと考えれば、全ては解決するんだけれども。
先述した、ちょっとどんでん返しでビックリした、というのは、ドキュメンタリーとして追いかけて撮っていた筈の展開が、ドキュメンタリーとドラマの融合をもくろんで、つまりは彼女も彼女自身を演じて、というスタンスで撮られていた、と明かされるラスト前の、ネタばらしのような部分なんである。

しかしこれは、なかなかに微妙ではある。完全なドキュメンタリーではなかった、彼女ならこうするだろうというシナリオの元に、それを彼女自身が演じていた、ということなのだろうが、カメラを向けた時点で人が完全な素にはなれないことを考えると、彼女自身を演じる彼女、というのが、目論まれたものではなかったということに、どれほどの差異があるのだろうか??と考えてしまう。
しかも重要な部分はそこではなく、ドラマとして演じていた彼女が現実の自分に食い込んでいき、ついには眼球をえぐりとるという実際の殺人鬼と化してしまった、そしてそれを、佐多は止めもせずにカメラを回し続けたというところなんである。

あなたは医者なのか、監督なのか、と麻耶は問う。わざと飛び降り自殺を図るように見せかけて、止めさせて、その彼に彼女は問うんである。つまりはさ、後から思えば、被写体が死ぬのは止めるけど、被写体が誰かを殺すのは止めないのかと、そういう皮肉だったのかもしれない、なんてさ。
後半はとにかく、銀色に光る眼球えぐり取りバサミをカチャカチャ言わせながら、カメラではなくこのハサミをカチャカチャ言わせながら、まるでセックスの途中みたいなハァハァ息を上げながら、街を疾走し、えぐり取りまくる。
ついには佐多も、しかも両目、悲鳴を上げ続ける彼に、ぐりぐりとハサミを突っ込む。あふれだす血がたまった眼窩。……もうすっかりスプラッタ映画。何が言いたかったのかしらんとか、どうでもよくなる、もはや。

そういや、樹海のシーンなぞも、あったのよね。あの世とこの世の境目で監視している老人、とか魅力的なキャラクターもあったが。個人的には佐多のアシスタントの妙にイケメン君、そうか、「こっぱみじん」のあのイイヤツ!
本作では、したたかというか、ちょっと冷めてるワカモンがイイ感じ。草食系にも見えるのに、麻耶を追う師匠のカメラのそのまた後ろに控えてカメラを回していくうちに、何か欲望を得たのか、肉食リエにガンガンツッコみまくる。
そのカラミが、本作の中では意外に少ない男女カラミ(爆)の中で、一番生命力と欲望と傲慢さにあふれてて、素敵だった(爆)。ピストン運動に伴ってへこむ、お尻のえくぼがね(爆爆)。★★★☆☆


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