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「さ」


2017年鑑賞作品

最低。
2017年 121分 日本 カラー
監督:瀬々敬久 脚本:小川智子 瀬々敬久
撮影:佐々木靖之 音楽:入江陽
出演:森口彩乃 佐々木心音 山田愛奈 忍成修吾 森岡龍 斉藤陽一郎 江口のりこ 渡辺真起子 根岸季衣 高岡早紀


2017/12/10/日 劇場(角川シネマ新宿)
年代も状況も違うAV女優たち(元も含めた)三人の物語は、人気AV女優の同名小説が原作なのだという。あくまでも小説、なのだから、事実がそこに含まれているということまでは判らないが、やはり興味はある。
需要があるからこそ供給が産まれ、AV女優と呼ばれる人たちは有名無名あまたの数がいるが、彼女たちがどうやって、どんな動機で、どんな気持ちで入ったんだろう、っていうのはなかなか想像しにくいものがあったから。「私セックス大好きだから〜」なんていうのを鵜呑みにするバカはいないだろう(いや、いるのだろうか)。

それを、ピンク映画を変えた一人である瀬々監督が手掛けるというのはやはり意味があると思った。いや、ピンク映画と一緒くたにする訳ではない。それこそそんな愚かな単純思考ではない。ピンク映画は映画であり芝居であり、“本番”が前提のAVとはハッキリと違う。
ただ、AVの世界からピンクの女優さんになる人もいるし、芝居がしたい、クリエイティブな人と仕事をしたい、ということが思い切って飛び込めばいわゆるゲーノー界よりも叶いやすいという点では、この二つの世界はかなり近い部分があって、そういうところも凄く興味深いところではあった。
昨今はAV出演強要の問題とか、その論に反発する誇り高きAV女優さんとか、本音の部分がいろいろ見えてきてだから余計に、彼女たちの気持ちを知りたいと思った。

でも、どうなんだろうなあ。個人的には、ポジティブな気持ちで飛び込み、関わり、渡っていく女たちを見たいと思っちゃったのは、結局はオナペットにされるための職業の中で、それぐらいのプライドを持っていてほしい、という願望だったのかもしれない。
実際は、やはり大半の人が、日常の悶々からつい足を踏み入れ、周囲から蔑まれ、その気持ちを理解されず、ああ辛い!!みたいなことなのかもしれない。

でも、後から解説読んでちょっとビックリしたんだけれど、三人のうちの一人は人気AV女優という設定で、この仕事は天職と思っているとか、そんな風には感じられなかったなあ。まさに、そういうキャラクターを求めていたのに、そんな風には見えなかった。
親にバレたら動揺して泣き出し、自分がこの仕事をしている動機も理由も説明できず、「(田舎に)帰れるわけないじゃん!もう戻れないんだよ!!」と母親の胸で号泣するなんて……まるでヤクザに捕まって足抜け出来ない風俗嬢みたいじゃん……。

てな感じで若干、納得できない部分もあるのでついつい先走ってしまいましたけれども(爆)。そう、年代の違う三人の元も含めたAV女優。元、は、高岡早紀。うわー、ぽいー(爆)。
物語の冒頭は、彼女が幼い娘を連れて実家に帰ってくるところから始まる。その幼い娘はあやこ。長じた彼女は絵を描くことが好きな、寡黙な女の子。クラスメイトになじめず、母親がAV女優だという噂(ホントなんだけど)を広められてしまう。

売れっ子バリバリの巨乳AV女優、彩乃は釧路の家族にそのことが知れ、母親と妹が真偽を確かめにやってくるけれど、自分の気持ちを上手く説明することが出来ない。それでなくても自分がみそっこだということにコンプレックスを持っているのだ。
そしていかにも普通な主婦、美穂は、その普通さにこそ苦しめられてきた。余命いくばくもない父親を、姉と交互に見守る日々。ダンナに子供が欲しいと訴えても、無理に作らなくても、このままで充分幸せだよ、とはぐらかされてしまう。
もう34。何も残してない。姉は、美穂の普通さがうらやましい、私もそうできればと言いながら、浮気相手と子供を宿す。それは彼女が立ち会えなかった父親の死の後の話であり……。

うわー、どっから手を付ければいいんだろう(爆)。てかそもそもね、この三人、プラスアルファが、どっかでつながるっつーか、時間軸が違って、この彼女の未来がこの女の子なのかなとか、あやのとあやこ、という似た名前があったりして、当然AV女優なら名前は変えるじゃない??だから、いろいろ勝手に推測して混乱しちゃって、それは私の勝手な妄想だからアレなんだけどさぁ。

誰から行こう。美穂から行こうか。自分に対する周囲の、というか家族の押しつけの価値観、それは死んだ父親からそうであったということもあったのか、ダンナも暖簾に腕押しみたいな感じだし。
……でもそれでAVに行くっていうのは、どーゆー動機なのかよく判らない……。子供が欲しいのに旦那がセックスもしてくれない、今のままで幸せじゃないか、みたいなところ??……うーん、そんな即物的なことは言いたくないけれど。

つまりアレかな、ファザコンだったということなのかな。父親は絵を描くのが好きだった。自分はかなわなかった画家の夢を美穂に託した。でも美穂には画の才能はなかったんだよ、ね??
中盤に至るまでは、この新旧三人のAV女優たちは、結局は交わらないのかなぁと思っていたら、旧AV女優の孝子(高岡早紀)の娘あやこが、美穂の父親の弔問に訪れる。つまり、異母姉妹ということなんである。
そしてあやここそがこの父親の血を引き、マニアックな画家の趣味までソックリという……感動部分なのかもしれないけど、親子で才能を引き継いで、嗜好趣味までソックリとかいうのは、私はあんまり好きじゃない。片親ですら、実子至上主義を言うのかと思っちゃう。それともこーゆー芸術系ではよくある話だから??でも、好きな画家まで一緒かなあ……。

つながっちゃってるからついつい暴走しちゃったが(爆)。そーゆー意味では、彩乃は切り離されてる感が、あるんだよね。「私、鉄マンなんで」とハードな撮影にニッコリする巨乳ちゃんに、ベテラン男優(川瀬陽太。まさにまさに!!)は頼もしいねー、とご満悦。
恋人?いや、ただ寝た相手と思われる男から、「ただ整っている顔は飽きるから。」と、彼にしてみれば、だからお前はカワイイしそそられるんだよ、という褒め言葉なのだろうが、彩乃は微妙な顔で返すんである。

そんな中、たまたまバーで行き会った男性と、本当にエロ無しで意気投合、こんなことってあるの、というその相手、日比野さんが森岡龍、というのがなんか、なんかすっごい絶妙!!
「楽しすぎて」彼女の家に記憶もぶっ飛んで泊まって「……俺たち、ヤッちゃった?」多分、ホントにヤッてないんだろう。そう信じられる。その次に会っても、今度は部屋には寄らず、それは……本気にしたいからということを思わせるのだ。彼女たちの中で、彩乃に物語の最後は任される。「日比野さん、私ね……」判ってくれる、絶対に、彼なら判ってくれる!!

でも、そこまでにも、母親との葛藤はある訳だしなあ。でももうめんどくさくなってきたから、割愛(爆)。
美穂に行こうか。彼女はホントに、なんでAVに行こうと思ったのかなあ。現状打破、あるいは逃避=AVって、かなり飛躍があるような。それを納得させてくれるだけのものは、正直言って、なかったかなぁ。
父親に期待されていた。いい子でいることを強いられた。それは結婚してからも……判るけど、判るけど、AVに踏み出すって、それこそ彩乃の例もあるし、顔ですぐバレるじゃん、フツーの感覚を持っている美穂のような女性がそこまで決意するっていうのは……ここで感じられるような、“漠然とした不安”(芥川じゃないが)ではちょっと説明が出来ないんじゃないの。

いや、それぐらい、周囲に対する抗議を秘めていたということなのかなぁ……あんまりピンとこなかったけどなあ……父親が死んで、その時撮影に臨んでて臨終に立ち会えなくて、抱いてとせがんだダンナに秘密をブチまけて夫婦ケンアク、彼女泣きじゃくる、……めっちゃドラマチックだけど、やっぱり動機が??でしっくりこないんだよね。いや、動機なんて明確なものではないのかもしれんが……。

登録だけして、それだけで反抗、のつもりだったのかもしれない。それなら、判る気がする。そこに、ピンチヒッターとして突然の要請が来て、夫とも上手くいってないところで、つい……みたいなところがあったのか。
美穂が後に異母姉妹のあやこと出会う場面で、だったら孝子が、つまり父親のかつての恋人がAV女優だってこともきっと知っていたんだよね(あやこから話を聞いても驚いてなかったし)と思えば、もっと複雑な心理状態があったのかもしれないと思うが、そーゆーのも感じられなかったのはもったいなかったかなあ。

えーとあと言い足りないのは誰だっけ(爆)。美穂とあやこ(つまり孝子と)がつながっちゃうと、彩乃だけが取り残された感じになるのだが、娘を心配して釧路から出張って来た母親と妹に「言っても判ってもらえないし。仕事だから行くから」と振り切るように出てきた彩乃は、現場で突然倒れてしまう。
そこですれ違うのが美穂の父親の死、泣きながら妹と連絡をとろうとしている江口のりこと行き交うんである。美穂とは同じマネージャーであり、携帯に連絡が来たのを聞きとがめて「……誰か死んだんですか」「それより自分の身体の心配をしろ」うーん、かなりムリヤリな関係作り(爆)。

でもやっぱりここは、言いたいのかもしれない。強要とか昨今のニュースで言われるAV業界だけど、そうじゃないんだと。女優さんたちをひとりひとり大切にしていて、現場スタッフも一人一人が誇りある仕事をしていて、作り上げているのだと。
でもこの時はすっぱに返した彩乃の台詞、AV女優に許されないことなんてないでしょ的な(すみません、詳細な台詞、忘れた(爆))、そこまでの周囲の気持ちも立場もまだまだ判ってないところをさ、きちんと糾弾できる作りになってれば、良かったのになあと思う。結局は、AV女優、私一人苦労してます、みたいな!!

確かにそうなのかもしれない。以前、AV業界のドキュメンタリー で、AV男優はいつでも現場かけもち、人気があるというのもあるけどとにかく数が少なく、AV女優は星の数、より多いかもしれないほど、いる。
AV男優のようにAV女優は……こういう言い方は語弊があることは承知で、仕事として、一人の仕事として、成り立っていないのかもしれない、と思う。逃げ道や、通過点や、消したい過去。そういう場所があるのはいい場合もあるけれど、その世界でプロとして張っていく女たちにとっては??どっちにしろ、男社会の弊害なのかなあ(フェミニズム野郎!!)。★★★☆☆


サバイバルファミリー
2017年 117分 日本 カラー
監督:矢口史靖 脚本:矢口史靖
撮影:葛西誉仁 音楽:野村卓史
出演:小日向文世 深津絵里 泉澤祐希 葵わかな 菅原大吉 徳井優 桂雀々 森下能幸 田中要次 有福正志 左時枝 ミッキー・カーチス 時任三郎 藤原紀香 大野拓朗 志尊淳 渡辺えり 宅麻伸 柄本明 大地康雄

2017/2/21/火 劇場(TOHOシネマズ錦糸町)
なんか、いわゆる矢口作品の面白さが今一つ感じられないなあ、と思っちゃったのはなぜかしらん。独創性。そう、矢口監督作品に必ずある、それか!という視点。
本作もいつものように(たまには違うが)彼のオリジナルなんだけど、今まで感じてきた、徹底的な独創性、というよりは、社会派の方に針が振れたように感じたからなのだろうか。
だって、現代社会に電気が亡くなってしまったら??って、凄く思いつきそうというか、たらればで普遍的に語られることじゃない??それこそCMやなんかで、自動ドアひとつ開かなくなる、みたいな描写もあるぐらいだし。勿論、それを徹底的に描くという作品はありそうでなかったのかもしれないんだけれど。

それだけでなくて、この家族もそうした社会派に傾いているような、すんごく記号的なひとりひとりで。
妻の言葉を聞き流しておかわりの茶碗だけ渡す、金さえ運べばいいと思っている会社人間の父親。専業主婦の母親は夫が役立たずだと判っていながら、大事なところは彼に頼ろうとする。スマホを手放せない息子。つけまつげとLineが命の娘。
そして田舎から送られてくる魚や無農薬野菜に迷惑顔……。ああ、何この現代社会の記号化された家族は。今の若い男の子はこう、女の子はこう、中年の男はこう、女はこう、と言われているみたいで、なんかむずむずしてしまう。
いや、だからこその、そんな平凡(とは違う気がするが)な記号化された家族が生身のサバイバルに立ち向かうからこその面白さなのだよね。それは判っているのだけれど。

そもそも、あの可愛くて癒し系の小日向さんが、こんなわからずやの自分勝手の自分評価高しの、役立たず亭主関白ってーのが、ミスキャストな気がして(爆)。
いやもちろん、芸達者な彼、どんな役だってこなせるさ。そんな一面的なイメージを持っちゃうこと自体が、一般ピープルの良くないところなのだろうけれど……なんかもったいない、もったいない気がしちゃうんだよー!!
だって、主演なんだもの。彼主演って、いつ以来??「非・バランス」以来ではないだろーかと思っちゃう!!なんかね、無能なのに家族に厳しいお父さんの小日向さんを見るのは哀しいの(爆)。だってこんなに可愛い人なんだもん。

ま、とりあえず、お話に行く。突然、電気が切れる。電気という電気である。なんと、目覚まし時計や腕時計まで止まっている。つまり乾電池や内蔵電池、蓄電池も軒並み使えなくなってしまうんである。
それはまた、ずいぶんとやりすぎな設定だわねと正直思う。通電する電気が使えなくなるっていうんなら、仕組み的にいろんなことが考えられるし判るけど、内蔵電池までとは……。ただ、それを許しちゃうと確かに、自家発電とかなら使えちゃうとか、何よりラジオとかで情報や政府発表とかが聞けちゃうとか、全きサバイバルではなくなってしまうのだから、それは徹底しなくちゃいけなかったのだろう。
結果的にこの原因が太陽フレアだか彗星の影響だか、なんかいろいろ取りざたされるのだが、結局は解明されずに終わる。そりゃそうだ、だって解明に意味なんてないんだもの。サバイバルすることが、この映画の目的なんだから。

電気どころか水道やガスまで使えなくなる。ええっ、と一瞬思うが、震災の時を思い出すとこれがあながち大げさでもないんである。大元のシステム、制御関係はすべて電気を使っているんだし、家庭の簡単な着火システムですら、何でもかんでも電気、なんだから。
震災の時、石油はあるのにファンヒーターが使えない、ということを後から聞いて驚愕した覚えがあった。コンセントにつないで着火が電気だから。本作の劇中にも暖をとるのに昔ながらの石油ストーブを使っているシーンが出てくる。お湯を沸かすのにカセットコンロというのも震災の時のあるあるであった。んーでも、あれも着火は乾電池使ってなかったっけかなあ。

ひょっとしたら矢口監督は、震災からこのテーマを考えついたのかなあ、とか思ったりする。本作のように2年以上も情報からも閉ざされたまま、というのは極端だが、あの時言われたのは確かに、電気の寸断でマスコミ情報が途絶え、ネットも混雑してつながらなくなって草の根情報も途絶え、被災地が全くの孤立状態に陥ったこと、だったのだ。
電気がなくなる、というと、何か却って原始的な、まあそれなら原始人に戻っていろいろやりなおすか、みたいな発想になる(実際、単純お父さんはそんな意味合いのこと言ってたし)が、最も怖いのは情報が途絶えることなのだ。今何が起こっているのか、それに対して政府はどう対策しているのか、救助は来るのか、この状態がいつまで続くのか。

本作に物足りなさを感じたとすれば、情報の枯渇こそが最も人々の不安を掻き立てると思うのに、そこんところが極めて希薄だった点もあると思う。そりゃ、水や食料の枯渇は大いに問題だけれど、震災の時もそうだったように恐らく、情報の枯渇こそが最大の恐怖だと思うのだけれど。
いや、あえてそれを否定する形を、監督さんはとったのかもしれない。もう、情報なんて生きていく上でもはや必要じゃないと。水、食べ物、ウンコする場所(爆)、それが大事だと。
まるで花火大会か野球の試合か、現地に近づくほどに高騰する、道端で売ってる水や食料の値段、それをいかにして値切るかという主婦、だから、その水を盗まれて、追いかけた息子が赤ちゃんのミルクにそれが使われていたのを見てすごすご引き下がるってーのが、甘い、あまーい!!また記号に戻っちゃったよ!!なんかキワキワのリアリティがないんだよなあ。

ま、そもそも矢口作品はエンタテインメントなんだから、キワキワのリアリティなんてむしろジャマかもしれんが(爆)。
うーむ、でもね、サバイバルでしょ。確かにこの家族はサバイバルしてると思う。みるみる水や食料もなくなり、それを守りながら妻の故郷、鹿児島を目指す。
西、特定して大阪に行けば電気が通じている、というウワサを真に受けた人々が続々と高速道路を歩いている。でもようやっと到着した大阪には電気は通じてなくて、移動した人々のメッセージの貼り紙がはためいている……。

子供たちがキレ、妻までも「仕方ないじゃない、お父さんはこういう(役立たずの口だけの)人なのよ!」と叫び、家族はかなりの危機状態を迎える。のだが、正直、ここまでも、あるいはこれ以降も、彼ら以外の人々がこの絶望的状態に同じく苦しんでいるように、見えないんだよね。
結果的には2年以上にも及んだ無電気状態、だったんでしょう?彼ら一家がたどり着いた、あるいは途中、お世話になったような、ある程度自給自足が可能なところでなければ命がつなげない状態だったのだとしたら……そんなノンキに高速道路をそぞろ歩いているだけじゃ済まないんじゃないの??

人々がキレているのはほんのちょっとだけだったよね。銀行で現金を下ろすために群がったり、レジでカードが使えないと聞いて憤慨したり、もっとも大きいのは、成田まで一生懸命歩いてきたのに、飛行機が飛んでないと聞いた人々が激昂して金網によじ登ったり。
……でも、私は、これらには違和感があったのだ。人間、というか、こと日本人は、こんな初期の段階でそんなすぐに、秩序を乱したりしないんじゃないかって。見栄も少なからず働くだろうけれど、震災の時にも、そうした日本人の秩序は、言われていたじゃない??

人間が、日本人でさえ、本性を現しだすのは、この現状がシャレにならないと実感するだけの時間を経てからであり、本作はその時間経過は充分あったのに、まるで反比例する形で、周囲の人間たちの喧騒は収まってしまった。まるで、この家族だけがこの異常事態に遭遇して難儀しているような、そんな感じに映ってしまった。
2年以上もこの状態、食料の物流が止まってしまうだけで現代人は命取り。はっきり言っちゃえば、ばたばた死んでいく人たちが当然発生したに違いないのに、もう途中から、彼ら家族だけがサバイバルしている、みたいな感じになっちゃうのがなあ。んで、まるで24時間テレビみたいに?田舎でイイ人に出会ったりしちゃってさ。

でも、このイイ人、大地康雄はちょっとグッと来たんであった。養豚場を営み、自給自足できるだけの畑もある。井戸もある。薪で風呂も沸かせる。つまり、こんな事態なんぞ、ヘでもない。
野ブタ(ではなくて、養豚場から逃げたブタだったんだけど)を追いかけて仕留めた鈴木家族を“連行”した大地康雄=田中さんは、でも、電気が通じなくなって家族は出て行ってしまった状態であった。

思いがけず飛び込んできた彼らに「良かったら、このままいてくれないか。一人はキツイから」と独特の土地言葉でさらりと言う。さらりと言う、ってのが、なんとも心に突き刺さるんである。
正直、この展開はもうちょっと丁寧に描いてほしかった気がするが(爆)、まあ、お父さん、ここで家族のことを恐らく初めて真剣に考えて、妻の家族が心配だから、予定通り鹿児島に行こう、と家族をまとめる。見送る田中さんの小さくなる姿には、なんか胸が詰まったなあ。

そういやー、そんなカンドー的とは対照的なのが、ボロボロになりながらチャリンコを駆る彼らと出会う、超余裕のサイクリング家族。
野草も食べられるのよ、生ものは一夜干しするのがベストね、とさわやかに教えて“くれる”のが、藤原紀香!ああ、藤原紀香、って感じ!!こういう事態を楽しまなきゃネ、とかいうのも、藤原紀香、って感じ!!!
これ、彼女、自分のこーゆーイメージ判ってて受けたの??コワッ!!完璧なオシャレサイクリングファッションに身を包んだ彼らと、ボロボロの鈴木家族との対照がすさまじい。後にオフィシャルサイトを覗いたら、この一家の形容詞に軒並み“アウトドア趣味一家で、イケてるけどイケ好かない”とついているのには超爆笑!!

蒸気機関車は内燃システムだけだから、なるほど脱出できるのか。のどかな雰囲気が感動を後押しするが、あの黒煙はかつて公害の元凶だったけどね。公害、というのさえ、今はノスタルジックなのかね(爆)。
途中、激流の川で行方不明になった父親が死んだかと思ったり、野犬に食べ物を狙われたり、なかなかにシリアスな展開もあるが、主人公がこんなクライマックスで死なないよね、と思ったからまあ再登場を待っちゃったし、野犬と言いつつもともとは飼い犬と思しきメンメンは、特に柴犬ちゃんがめちゃくちゃノンキな風貌で、全然怖くない(爆)。

でもさ、監督さんはひょっとしたら犬がお嫌いなのかもね。犬好きなら、こーゆー場面をそもそも想起しないし、したとしても、きちんとコワそうな犬を用意すると思う。
物語の初盤、電気が通じないこの土地を捨てる人たちの中に、家の中に飼い犬を置き去りにする描写があって、鳴き声だけ、というのもあって、しかもその後、主人公家族がその鳴き声を聞きながらそろりと出奔するという描写もあって、……これで済ましちゃうというのが、ちょっとね。
監督さんはきっと犬がお好きじゃないんでしょう。いや、私も千パーセント猫好きでワンちゃんはどーでもいいけど(爆)なんかね、ちょっと胸につっかえる感じがあった。★★★☆☆


さよならも出来ない
2016年 76分 日本 カラー
監督:松野泉 脚本:松野泉
撮影:宮本杜朗 音楽:光永惟行
出演:野里佳忍 土手理恵子 上野伸弥 日永貴子 長尾寿充 龍見良葉 余部雅子 柳本展明 上西愛理 今井理惠 宮前咲子 篠原松志 田辺泰信 堀田直蔵 辻凪子

2017/9/11/月 劇場(新宿K’scinema)
もう恋人ではないのに、別れているのに、三年も同居を続けている二人。
別れるって、どういうことだろう。恋人って、どういうことだろう。
不思議さと共にはがゆさ哀しさを感じるのは何故だろう。

もう、この設定一発勝負だと思われる。この設定を思いついたら、その着地点がどうなるのか、まるで演じ手も作り手も判らないまま進んでいくようなスリリングがある。
ひどく静かな物語で、そうか、舞台は京都なのか。何かね、京都の映画って、不思議感が強いよねと思う。人間の心の不思議さも、一段階違うみたい。

男の子の名前が香里(かおり)というのが、凄く独特。女の子は環(たまき)。環の叔母が訪ねてきて、まだ会ったことのない香里のことを仕事先にこっそり探している時、その名前を店員に確認して、あれ?誰を探しに来たのかしらん……などと思ったり。
それというのも、そこまでの間に香里と環の間に名前を呼び合うような親密な感じがないからなんだよね。二人は同居している、しかも元恋人なのにひどくよそよそしくて。ていうか、かつての恋人で今同居している事実ってのが、おかしいのだけれど。

おかしいの、だろうか。判らない。周囲は“別れたのにまだ同棲している”という表現をしている。環の友人などは辛辣に「やれるし、食えるし、それで責任を感じなくていいし、三拍子揃っちゃってますけど」と言い放つ。
しかし彼らの生活は、同棲というより完全に同居、である。いや、家内別居と言ってもいいかもしれない。だって部屋の中に緑と黄色のテープでお互いの居住空間(というより、テリトリー)をくっきりと分け、相手が家にいない時でさえ、そこに一歩踏み入れることも自らに禁じているのだから。
「おかしいとは、思っていたけれど……」と言うのは、弟の誕生日に総菜を届けに来た香里のお姉さん。別れているとは思っていなかった、これが現代の若者の距離感の作り方なのだと理解していた、というんである。

そして実際、やれる、食える、という点に関してだけ言っても、二人にそういう匂いは全く、ないんである。
食える、というのは、食事を作ってもらえる、という解釈でいいんだろうか?二人で暮らしていて経費が浮くという意味ではないような……環が香里に食事を作ってやっている風はないし、やれる、どころか、こんな状況だから触れ合うことすら、ない。
だって仕事時間のすれ違いもあるだろうけれど、お互いのコミュニケーションはテーブルに置かれたノート、なんである。今時。メールとかLINEとかですらないのだ。
声を聞く、ということも、リアルタイムの文字のやり取りも、触れ合う感覚に近いのだろうか。まるでそれを二人が、特に環の方が恐れているように見える。

そしてお互い、その日の気分に近い文庫本をディスプレイとして立てかけていく。それは、志賀直哉とか幸田文とか、文学好きって感じのチョイスである。趣味が合うのだろう。それだけでも、二人がぴったりくる感じは、あるのに。
文庫本を開き、静かに音読する静けさが心に響く。でもその声は、お互いに届くことはない。きっと心の中では、相手がその本を開いているところを感じているんだろうけれど。

二人がなぜ別れたのか、その理由は明らかにされない。というか、香里が言うように、ひとことでは言えない、それを説明するには二人のすべての時間を説明しなければならない、ということなのだろう、まさしく。凡百の芸能ニュースのように明確に斬って捨てられるほど、人間同士というのは簡単ではないのだ。
ていうか、正直、そんな凡百の質問が出てくること自体が意外だった。二人が別れているのにそのままでいるのは、見ていると不思議と感じ取れるものがあった。
そしてそこに歯がゆさと哀しさがあったのは、物理的な別れに至れないということは、精神的な別れに至っていないからだということが、やっぱり判るから。そんな風に言葉できっぱり言ってしまうのも、香里の言葉によれば野暮なのだろうけれど。

香里にも環にも、気持ちを寄せてくる人がいる。香里に誕生日プレゼントを渡したりしてくる本屋&カフェの同僚の紀美。でも彼女の場合は、その真意はちょっとふわふわしている感じ。
冗談交じりに嫉妬を口にする店長さんと仲良く帰ってみたり、なかなか食えない女の子である。いかにもそんな感じというか……そんなんじゃないですよぉ、みたいな、私の苦手なタイプの女の子(爆)。

それでいうと、環というのは、実に私のタイプに合っているのだよな。眉もはっきりとみえるぐらいのショートカットは、しかし黒くずっしりとしていて、何とも言えず情感たっぷりな感じを思わせる。
しかし表面上はクールで、香里君がおずおず近寄ろうとしているようにも見える(このあたりが微妙)のに対しても、はっきりと拒否の態度を取り続ける。

そして、彼女に言い寄る男というのが、同僚の妙齢の男子、誘う先はオシャレなレストラン、という時点で、そりゃもう、ベタに本気モードなのがそりゃ判るんだよね。はっきりと、結婚を前提に付き合いたい、と口にする。こんな台詞、現代でもあるのかと思う。なんとなく付き合い始めたその先に、まあこのあたりで結婚すっか、みたいなのが殆どじゃないのと(爆)。
結婚を前提にしなきゃ、セックスはおろか付き合うことも出来ないのかという、なんと純粋な心持(爆爆)。でもこの日、環は本当にこの同僚、浩とセックスしたのだろうか。そう香里には告げたけれど、そんな暗示もなかったし……判らないけれど。

この浩に片思いしている、環は面識のない会社の同僚、という女の子も登場する。正直この設定は、少々古臭い感じはしたかなとは思う。環と浩の談笑を窓から覗き見て、デートもこっそりついていっちゃう、なんて。
彼女の立ち位置は、なんていうか、常識を言い訳にした嫉妬、という感じである。そんな説明がなくっても、環が置かれている不条理な立場は、彼女自身が一番よく判っていることなのだ。
この時彼女に対して環は、同棲しているけれど、もう別れていて恋愛感情はない、と言った。勿論、二人の同棲、いや、同居は、それこそが前提であった。それを判って観ていたのに、環がそれを口にしたとたん、あれ、と思ったのだ。本当にそうなの、本当にあなたはそう思っているの??と。

二人の関係を心配して、環の両親から命じられて様子を見に来る叔母夫婦はちょっとしたコメディリリーフである。そもそもなぜ両親ではなく叔母夫婦なのだろうと思うが、これが両親だったらただの修羅場になるのかなと思う。
島根と言っていただろうか、語尾にごしない、とつく心和む方言。彼らといると環もふと、故郷の言葉に戻るんである。

叔母夫婦、特に叔母に関しては、香里と環の持っている、内省的というか精神的な雰囲気と正反対である。特にそう言っている訳ではないんだけれど、この夫婦の間には子供がいないのかなあ、という気がする。
「姪っ子が可愛いんなら……」などと言って、おどおどしている夫を叱咤する妻、列車のシートは向き合わず、隣同士に座ってゆで卵なぞ食べたりさ。
妻に任せて夫は小さな居酒屋で飲んだくれて、客の女の子に送られてきて路上で倒れ込んだりして、もう情けないったら。何も別に言わないんだけれど、この二人の間には、夫婦という以上の同士のような感じが合って、それは子供のいる夫婦って感じに見えないんだよね。ラブラブなんだけど、何か切ないの。なんだろう……。

叔母も香里の姉も、結局は二人の関係が判った訳ではないだろう、そりゃ。
でも、引き下がるのは、二人に関する信頼と幸せになってほしい気持ちがあるからなのだというのが判る。簡単に愛していると言えたらどんなに楽だろう。

環とお腹の大きい友人(あの辛辣なことを言ったコね)とのシーンが印象的である。この友人の旦那さんはマメで、いわゆるDIYを買ってでている。幸せそうな様子に環も微笑む。
そこに、叔母からの電話がかかってくる。様子を見に来ているんだ、というその電話に応対する環は、お国訛りが出てはいるけれど、ひどく緊張した様子である。
その日は浩との食事の約束の日、そして香里の誕生日、そういうことはあったにしても、それ以上の動揺に思える。明らかにペンキ塗りたての壁に白い手をゆっくりとつく。そして取り乱す。あの時の環は……取り乱したくて、そこに逃げ込みたくてそんなことを、無意識の下の意識的にしたように見えた。だからひどく痛ましかったのだ。

環は会社の人とセックスしたんだと香里に告げる。どちらかに好きな人が出来たら、潔く去るのが約束だと言って、香里は荷物をまとめて家を出る。環は、私は一度もウソなんてついていない、と言う。静かに、なのにひどくせっぱつまった感じで。
香里は歩き続ける。夢のように人がいない道を歩き続ける。いつしか、犬がついてくる。いまどき、野に一人でいる犬なんているだろうか。しかもひどく、人懐っこい犬。
環が、犬を飼わないかと言ったことがあった。香里君はきっと犬が好きだからと。浩との談笑で、彼が犬が苦手だと言っていた直後だった。どうにかして、なんとかして、香里への気持ちをベタな方法でも固めたかったのだろうか。
香里は、誰が世話をするの、と静かに、でも斬って捨てた。だって、二人は同居人だから。恋人ではないから。

でも、犬がいつまでもいつまでもついてくるのだ。尾をふりふり好きだよ、好きだよオーラを振りまきながら。
結局、二人の家に戻ってくる。環は香里に触れる。境界線を越える。触りたい、という。何か聞き覚えのある言葉。「ヴァイブレータ」みたいと思う。でももう15年も前の、あの時代のあの年代の男女の関係と全く違って、セックスは遠く、精神的なつながりを感じる。
環が口にした同僚とのセックスも、まるで現実味がなかったのだもの。その前に、必要なものを手にしていないから、だから私たちはここにさまよっているんだと、声の限り叫んでいるような。

ついてきた可愛い犬が、境界線が壊れた二人の家の中を自由に行き来する。そんなものは、もともとこの世にはないのだと。それが答え、そう思いたい。★★★☆☆


3月のライオン 前編
2017年 138分 日本 カラー
監督:大友啓史 脚本:岩下悠子 渡部亮平 大友啓史
撮影:山本英夫 音楽:菅野祐悟
出演:神木隆之介 有村架純 倉科カナ 染谷将太 清原果耶 佐々木蔵之介 加瀬亮 前田吟 高橋一生 岩松了 斉木しげる 中村倫也 尾上寛之 奥野瑛太 甲本雅裕 新津ちせ 板谷由夏 伊藤英明 豊川悦司

2017/3/24/金 劇場(TOHOシネマズ錦糸町)
めちゃくちゃ有名な原作だし、アニメもやってるし、映画化は二部作だし、それまで全く触れてこなかった私はもー怖気づきまくって全く選択肢に入っていなかったのだが、ねーちゃんからこれは絶対観なさいと言われて(爆)ハイ……と返事をした次第なのである。
アニメはちょっとだけ、島田さんを介抱して対戦に連れていく桐山君、というあたりのくだりを何話か見ただけ。その島田さんが佐々木蔵之介様だというのが凄くピタリで、ちょっとだけ怖気づきが引いていい感触を得る(ビビリ過ぎ……)。

ああでも、神木君なのだもの、これは確かに見ないといけないのだっ。彼の成長をこの目に刻み続けられる、同時代を生きている幸福をここで捨てる訳には確かにいかない。
そして、原作は未読ながら、見えてくるビジュアルと聞こえてくる人物像と感じられる雰囲気が、まさにまさにこの桐山零であり、スクリーンの中の彼の透明な魂に、震え続けるばかりなのであった。

原作者の羽海野チカ氏は超有名で、ああそうだ、ハチクロのと思うが、実際に読んだことはなく……露出している画のビジュアルがかなり甘めの少女漫画タッチで、少々腰が引けた感は確かに、あるかなあ。個人的にはのだめの二ノ宮知子氏とかのカリッとした絵柄や作風が好みだったりするから……。
でもそれは単に絵柄のイメージに過ぎないのだから、読んだこともないのにそんなことを言うべき筈もないのだが、でもちょっと先入観はあった。

ねーちゃんに言われたこともあるが、本作に足を運んだのは、「聖の青春」の存在もあったかもしれないと思われる。なんだかちょっと、偶然にしては不思議な将棋映画の流れである。
私は将棋は全然判んないからあの作品も松ケンでなければ手が出なかったかなあとも思うのだが、それでもヤハリ心のどこかにチクリと刺すものはあったかもしれない。

亡くなったとーちゃんが、将棋好きだったからさ。私のとーちゃんのイメージはNHKの将棋番組を見てるとこ。あ、囲碁も好きだったからちょっとイメージごっちゃになってるけど。あの、テレビに盤面がフラットに現れる感じが、子供の頃のとーちゃんのイメージとセットになっていた。
あーゆー頭脳戦、算術的な感じはホンット私は全然判んないんだけど、判んないから、ちょっとそーゆーところで尊敬していたのかもしれないなあ。今、こんな風に将棋映画の流れがきていることを、とーちゃんが生きてたらどう思うかな。ビデオででも観たかな。一緒に話が出来たかなとか思ったりして……。

なんて個人的な感傷に浸ったり(爆)。本作は前編だから、クライマックスはまだ全然おあずけで、何をどう言うべきなのかなあという気もしているのだが。
私は最初から前後編とか二部作とかホントに苦手で、最初から後編も観ろと言われている感じが凄く苦手で(爆)。「GANTZ」なんて松ケン目当てで見たが、結局後編は観ずに終わった前科があるので(爆爆)。
うーん、でも、これは後編、観るであろう……ちょっと、ヤラれてしまった。それは一番にはやはり、神木君だった。

彼は本当に素晴らしい男の子。役者として以前に、凄く透明な魂を持っているような感じがある。それがこの、桐山零という魂に、奇跡的にガッチリとシンクロして、見ていて震えが起きてくるのだ。
勿論ビジュアルをきっちりと寄せているのはあるんだけれど、コミックス原作の場合そうしてしまうことで、コスプレ感というか、リアリティが失われてしまうことも時々あるのだが、それが、なかった。

そらね、私は原作も未読だしアニメもチラ見だからタイソーなことは言えないんだけれど、それが一番、大きかった気がするんだなあ。
それは彼のみならず、他のすべてのキャストにおいても言えて、私はふと、「ピンポン」なんぞを思い出した。あの時も、すべてのキャストが神がかり的にキャラクターに合致して、“降りてきた”感じが作品を成功に導いていたと思しき感があり、そしてよりキャラ感が強かったあの作品と違って本作は、人間観が強いから……本当に何か、震えがくるんである。

ピンポンがらみでいえば、あの作品で子役として出ていたのが染谷君だったことを思うと、何か感慨にふけってしまう。本作の彼には本当に驚いたのだもの!
てゆーか、情報を入れてなかったので、ぜんっぜん、判らなかった。零の“心友”という重要な役に、誰この見たことない太った子、目力がコワくてやたらインパクトはあるけど誰これ、とほんっきで判らなかった。

実際に太った役者なのか、誰かを太らせたのか……手や足が普通サイズに見えるから、特殊メイクかなあとは思って見てはいたけれど、半信半疑だった。
最近の特殊メイクはホンットに凄いね……ウッチャンの満腹ふとるのようにはならないんだもの(笑)。継ぎ目とか、そんなレベルじゃないのね(アナクロ過ぎる……)。

いやあー……驚いた。腎臓が悪い、命に係わる難病と向き合いながら将棋に打ち込む二階堂というキャラクターは、否が応でも村山聖を思い出させ、それこそつい去年、松ケンがデニーロアプローチでそれを見事に成し遂げていたもんだから、特殊メイクで彼がそれをやるのは幾分、分が悪いかもなあなどと勝手な心配をしたりするが(爆)。
しかし驚いたなあ。染谷君みたいにまつげバチバチが太っておかっぱ頭になると、あんなにキモ系の(失礼!)インパクトになるのか。ああ、ビックリした……。

うっかり染谷君ばかりに気を取られてしまったが(爆)、先述したけど私のお気に入りは、胃の悪い先輩棋士、島田さんを演じる佐々木蔵之介である。
ヤハリ映画という尺の問題もあり、実際は連載も10年を数える原作なのだからかなりのハショり具合であろうことは予想がつくにしても、その中でどれだけキャラクターとしての魅力を刻みつけるかは、俳優のそれにかかっているんである。
人間的魅力に富んだ島田と対比されるのが、“ヤクザのような目”をした後藤であり、伊藤英明が野性味マンマンで演じているのだけれど、そんな強烈キャラに、静かな魅力の島田=佐々木蔵之介が完全に勝ってしまうというのが、これぞ役者道!という気がしてさ……。

ああ、それで言ったら、“神の子”として君臨する、つまりは桐山たちとは個人的な関わり合いの外にいる完全なるレジェンド、宗谷を演じる加瀬亮には打ちのめされてしまった。
こんな彼が見たかったと思うし、加瀬亮だよね??と思いながらも、本当に、レジェンド棋士がそこにいるような静かながらも荘厳なたたずまいに、圧倒されるばかりであったのだ。あの、雨の中、零にふと目を合わせて、ぱさりと和傘をさす一瞬!目もくらむような夢みたいなワンカットで、さあ……。

ああ、こんなことばかり言っていたら、全然判らない。まー、有名な原作なんだからいっかとも思うが(爆)。一応追っていこうと思う。
物語は、幼き零が交通事故で両親と妹を失ったところから始まる。どんな事情があったのか、親戚ではなく父の友人の幸田に零は引き取られる。それは焼き場で幸田がかけた言葉、「将棋は好きか?」に、かすれた小さな声ながら「ハイ」と零が答えたからだった。

零の父親も将棋指しだったけれど、足を洗っていた。足を洗うなんて表現は良くないかもしれないけれど、葬儀場での親戚たちのささやき声は、そんな雰囲気に満ち満ちていた。せっかく将棋を辞めてその矢先にねえ、みたいな。
そしてそれは、本作にしんしんと貫いていく勝負道の世界に他ならないのだ。勝たなければ生き残っていけないヤクザな世界。
零は中学生でプロになって、勝つたびに振り込まれる金額は「俺の月給より高いんじゃないの」と高校の担任にため息をつかれるほど。でもこの担任は無類の将棋好きで、零を後押ししてくれるイイヤツなんだけどね。

現在の零を描く最初が、もういきなりそんな厳しい世界を突き付ける。引き取ってくれた幸田、つまり父親に勝ってしまう場面から始まる。演じる豊川悦司の枯れた色気にも圧倒される。この時点で、零が高校生ながら独立して一人で暮らしていること、つまりそれは、幸田の家にいられなくなる事情があったことが示される。
辛すぎる回想が徐々に差し込まれてくる。将棋で勝たなければ居場所がなかった家。義理の兄弟である姉と兄に、疎んじまくられた幼少時代。零が生きていくために必死に強くなっていったことで、この姉と兄は将棋指しとしての人生を断たれてしまう。父に「零にも勝てなければ、この先はない」と奨励会を辞めさせられてしまったから。

将棋の世界の仕組みはよく判んないけど、この父親の決断が正しかったのかどうか、判らないのだ。早く新たな人生を決めさせた方が子供たちのためだと思ったのかどうか知らないが、それを決めるのは子供たち自身であるべきなのだから。
いくら親に先が見えていたとしたって、この冷酷な決断が何をもたらすのか、もうちょっと考えてみても良さそうなものだとは思うが、そんなことを言ったら物語が成立しないからなあ。

しかしとにかく、幼き頃から零を敵視、どころか憎悪しまくって対峙する姉の有村架純が凄い迫力で、彼女は柔らかなアイドル顔からは想像もつかないほどアグレッシブに役を勝ち取っていくなあと毎回感心してしまう。
零とこの姉、香子の関係、というか雰囲気はなんだか微妙というか危うげで、きょうだいとはいえ義理だし、なんていうか……零のことを憎みぬいているのに彼につきまとい、ひどい言葉を浴びせながら自分の弱さを隠そうとしないこの姉に、ねじれた愛情というか、零に対する、彼は絶対に拒絶できないのだからという絶対的甘えを感じて、めちゃめちゃ女で……。
なんかドキドキというかハラハラというか、ゾクゾクというかゾワゾワというか……ああ、零が、てーか神木君が食われないか心配!!だって悪魔のような姉だけど、めちゃめちゃイイ女なんだもん!!

香子は妻子ある棋士、あのヤクザのような目をした後藤と不倫関係にある。それをどこか、零に見せつけるようにしている。零は絶対にそれはダメだと、自分が後藤を倒したら姉と別れてくれと後藤にタンカを切る。
結局その前に島田に破れてしまい、零は目が覚めるのだが、そこまで思わせるこの姉の存在は一体零にとって……。不倫関係というのが、後藤の奥さんは植物状態だとゆーのは、なかなかに甘いなぁと思うのだけれどね。フツーに男は、不倫ぐらいするでしょー。

なんか脇道にそれてばかりで、肝心なところになかなかいけない。零にとって、大事な大事なあたたかな、疑似であっても本物のような家族の存在。
「痩せてガリガリなのは、猫でもなんでも拾ってきちゃう。でもまさか人間を拾ってくるとはね」と妹から笑われた川本家長女のあかり。次女が高校生のひなたで、三女がまだ幼いモモ。母親は亡くなっており、父親はいない。

まさに痩せてガリガリで、無理に飲んで倒れてうめいていた零を心配して連れ帰り、女物のパジャマを着せて(似合う……)、会ったばかりなのに合鍵渡して、家庭料理食わせて……。
「痩せてガリガリをフクフクにせずにはいられない」このあたたかな、和菓子店を営む祖父も含め、何この、夢のような家庭!!まあ、後編ではそんなあたたかな家族にもいろんな事情があることがあらわになっていくらしいのだが。

彼女たちと一緒にいるところに、あの悪魔のような姉と後藤が遭遇するシーンが壮絶である。「得意だもんね、よその家庭に入り込んでぶち壊すのが!!」なんという言い草。零のみならず、観客も凍り付く。
でもそれは、香子のイジワルではなく、彼女の本当の本心なのが判るから、本当に凍りつくのだ……本当に、彼女がそう思っているのが判るから。
じゃあどうすれば良かったのだと、将棋しかねえんだと、零は走って走ってたどり着いた誰もいない夜の闇に向かって叫ぶ。慟哭する。まだ細くやわらかな彼の声が振り絞るようで、雷に打たれたようにただ彼を見つめるしかないのだ……。

原作がコミックスだと、まあ小説でもそうだけれど、必ずぶちあたる、いわゆる心理描写の説明の部分。役者の演技で乗り切るのが理想といえども、原作が緻密であればあるほど、それが物語の根幹にも関わってくるから、それだけでうっちゃる訳にもいかない。
本作はかなり割り切って、零のモノローグに任せている。これがとても良くて。神木君はあのメガヒット「君の名は。」でも改めてその魅力を示したけど、声の繊細な魅力が素晴らしいんだよね。
彼が声変わりした時にはちょっと落胆したけど(爆)、声変わりしても、その優しい柔らかな繊細さはそのままに残っているような。それがモノローグに生きていて本当に素晴らしく、何か、厳粛で清冽な詩をささやいているような雰囲気、作品世界を見事に体現(じゃないな、なんて言ったらいいの、声現?)していた。

同輩や対戦した相手やら、もう色々すっごく魅力的なキャラクター満載だが、とても言い切れない(涙)。
零と新人王を争う、剃髪まつげバチバチの山崎棋士とか凄かったな。厳しい勝負事の世界、零の棋士としての立ち位置を見直させたひとりだった。弱くて愚かな姿を見せる、安井役の甲本氏も良かったし。ああ、言い切れない。さあ、後編観るぞー!★★★★☆


3月のライオン 後編
2017年 139分 日本 カラー
監督:大友啓史 脚本:岩下悠子 渡部亮平 大友啓史
撮影:山本英夫 音楽:菅野祐悟
出演:神木隆之介 有村架純 倉科カナ 染谷将太 清原果耶 佐々木蔵之介 加瀬亮 伊勢谷友介 前田吟 高橋一生 岩松了 斉木しげる 中村倫也 尾上寛之 奥野瑛太 甲本雅裕 新津ちせ 板谷由夏 伊藤英明 豊川悦司

2017/4/26/水 劇場(TOHOシネマズ錦糸町)
本当に、まぁまずないこと。私が二部作に手を出し、そしてちゃんとその後編も観るだなんて。
神木君の素晴らしさにヤラれた。佐々木蔵之介も加瀬亮も素敵すぎる。なんというか……本当にそこにそのままに、桐山零その人が立ち尽くし、震えているとしか思えなかった。

なんか今回の後編の宣材写真は、神木君がやけに修正?されているような感じで、それこそ桐山零じゃないなあと思ったのだが、映画の中の彼は苦しみ、のたうち回り、頭をかきむしり、顔中涙でくしゃくしゃになりながら、喘いでいた。
孤独、孤独、孤独!!なぜ?だって、彼を理解する人はあんなにも沢山いるのに、なぜ彼は圧倒的に孤独なの??でも、判ってくるのだ。この中の誰もが孤独で、それこそ私たち誰もが孤独で、でも、誰かを好きになり、愛し、理解したいと思ったら、一人じゃないのだ。一人一人は絶対的孤独だけど、一人じゃないのだ。ああ、なんて言ったらいいのか!!

もう連載10年を迎えるというのだから、映画はかなりのかいつまみ方はしているに違いない。しかし原作者の羽海野氏から結末を受け取っての着地だというのだから、よくある、「原作とは違う驚きのラスト」などとゆー心配はないのであろう。
でもそれって、先に結末を知ってしまうということなのかしらんとふと気になったが、すべてが収束するラストではなく、これからもあがき、苦しみ、悩み続けるだろうけれど、孤独だけれど、でも一人じゃないことを知ったこの先がある、という、そんなあたたかな光を感じるような、つながっていく点の一つに落ちていくようなラストで、なんだかこの時にはすっかり涙が止まらなくなっているんである。

ああ、なんだかもう、何をどう言っていいのか判らない(爆)。若干人物と設定紹介のような感のあった前編と比して、後編はあらゆるイベント?が目白押しである。
まず、零の心のよりどころ、川本家の次女、ひなたがいじめに巻き込まれてしまう。彼女は持ち前の正義感で突破しようとするのだが、現代のいじめの定石の通りに、彼女自身が標的となってしまうのである。

……もはやいじめは映画においても一ジャンルになっているぐらいの社会問題であり、その残酷さは天井知らずであり、私はここでも何度も言っているけれど……もう逃げるしかない、闘おうと思うな、無駄に傷つき、労力を使う必要はない、というのが持論なので、なかなかにこのエピソードは見ていてグラグラするものがあった。
おじいちゃんは、立ち向かったひなたをまっすぐにほめたたえた。お姉ちゃんのあかりは、妹を心配するがゆえに、逃げてほしいと思ったからその行為を肯定できなかった。

……私は、お姉ちゃんの方の気持ちに近いし、当然だと思うから、凄くもやもやしていたんだけれど、泣きじゃくりながらひなたがそれでも「私は絶対に間違ったことはしていない!!」と叫んだのを聞いて、零は彼が子供の頃を思い出したのだ。
ありえないんだけれど、そこで手を差し伸べてくれたのがひなた、という画が差し込まれて、そして彼はハッとするのだ。時間を超えて、救われることがあるのだと。今、子供の頃の彼は、ひなたに救われたのだと。

このいじめ事件は、見て見ぬふりをしていた担任教師が、限界を超えて発狂し、イジメグループ女子たちにつかみかかるという予想外の展開を迎える。学校全体での調査が始まり、ひなたは無事地獄から脱出、友達とクッキーを焼くの♪なんていう幸福が訪れる。
零は彼女を救うためにお金を貯めて、転校やそのために発生する経費なんかを計算していたんだけれど、担任から笑い飛ばされる。その子がどうしたいか聞いてみたのかと。

逃げることが唯一で最善の方法だという私の気持ちは、正直今でも変わっていないけれど……立ち向かえないその他大勢を単純に責めることは出来ない、と言ったらそれこそ責められるのだろうか??
正直、この展開は奇跡のようなもんだと思う。彼女の強さと優しさが導いたとしても……でも、ドラマティックで感動的で、さすが羽海野氏だと思ってしまう。こういうところにストーリーテリングの才能が出るのだと。

零は、大切な人たちの窮地に何もできないということに悩むのね。彼は判ってないの。ひなたから「私の話を聞いてくれたじゃない」と言われても、それこそがどんなに大事なことか、判ってない。誰かのために何かが出来るなんていう考えこそが不遜なのだということを判ってない。
勿論零は、川本家が大好きだから、力になりたいと考えるんだけれど、ひとりひとり孤独を背負っている人間は、他人によって何かを解決されはしないのだ。事務的なことは解決してもらえるかもしれない。でも心の解決は他人にはなされない。解決する人が必要なんじゃない、理解している人が必要なのだと。

川本家に、彼らを捨てた父親が突然やってくる。こーゆーはすっぱな男に失礼ながら伊勢谷友介はピタリである。家族のことを盾にして自分の過去を巧みに隠そうとするコイツに、零は憤る。観客も憤る。川本家だってそうな筈なのに……なんか凄く縮こまって、恐れているようなんだもの……。
零は、今度こそ力になりたいと思う。他に家族を作ったのに、それもまた打ち捨てて彼女たちの前に現れたのは、どうやら金につまったからと知った零は、怒りも任せてひどく緻密な言葉で彼を罵倒する。

ヒヤリとする。零の、川本家に対する愛は本物だ。心配だから、救いたいから、自分の知識とあらゆる手段を使って立ち向かう線の細いメガネ男子の姿は痛々しいほどなんである。でも、その美しいお顔から出る言葉は、相手を罵倒する言葉は、あまりに汚くて、零、そして神木君、そんなことあなたが言わないで、言っちゃダメだよ!!って……。
ひなたがポツリと言った。「零君……。それでも私たちの父親なんだよ」零は、雷に打たれたようになった。そして、あかりから「桐山君、……今日はもう、帰って」と言われて、もう、もう、万事休すだった。零は絶対的孤独に、自分から突き落とすように、落ちてしまうのだ……。

このシークエンスは、本当に、ヒヤリとした。神木君の芝居が素晴らしいだけに冷や汗がタラタラ出た。
汚い言葉を口にするたびにボロボロになっていく気がした。それを言う理由が対極の、純粋な愛情なだけに……矛盾?これは矛盾なの??

川本家から離れて、零は将棋に打ち込む。もう学校も辞めようと思う。理解者の担任がのらりくらりと零を励ましてくれる。その間に、姉の香子の不倫相手の野獣のような棋士、後藤の奥さんが亡くなったり、兄の歩が父親と衝突してケガをさせ、引きこもりになっていたりする。
映画化である本作に関しては、売れっ子女優である有村架純嬢の方に完全に重点が置かれているので、歩君の方はかなりおざなりな印象があれど……。引きこもりの重症度の方が個人的には重いと思うんだけどなあ。

ただ、前編の時にも言ったけれど、多彩なキャラクターの中で本作の一つの色を決めた最大の功労者は、香子役の有村架純嬢だと思われる。そのふっくらとした外見の魅力からは予想外の挑戦を数々し続けてきた彼女の、素晴らしい成果であったと思う。
正直、父親が子供たちの将来を断絶したような印象があったので(まぁ、ハショリの弊害が大きいのだろうが)、お前が自分の力を信じなかったからだとか、これからは大丈夫だとか応援しているとか言われても、うーん、ど、どうなの……と思わざるを得ないのだが(爆)。
ただ、先に鼻水を垂らすぐらい(爆)感情をがっつり入れて、でも静かに涙を流す架純嬢にグッときちゃうんだよなあ。ハッキリ言って、家つきのお嬢様なんだけどさ。

ずっと植物状態だった後藤の奥さんが亡くなって、「これで将棋に集中できる」とか明らかな強がり言う後藤からフラれる香子。いわゆる不倫、だけど単なる恋愛、でも零は不倫だからと思って後藤を戒め、香子に警告する。
前編の時点で、ちょっとモヤモヤしていた部分なので、後編で、一度はフラれた香子が、だけど父親から言われたこともあって自分の意思で彼に突き進み、未来の希望をゲットする展開にはちょっと溜飲が下がるんである。
でもこれって、ちょっと危険な描写、なのかなあ。日本社会、そしてケッペキ女子は不倫にホント、厳しいからなあ。本作の設定は植物状態の奥さんとか、そして死んでしまうとか、その点に関してかなり甘い感じはあるんだけど……。

加瀬亮、である。名人、神の子。宗谷冬司。前編からもうそのキャラの立ち具合に倒れそうになった、そのホンモノ感。
「時々、耳が聞こえないことがある。多分ストレスだろう」と佐々木蔵之介扮する先輩、島田が零に言う。対局した相手でなければ、気づかない秘密だと。神の子と言われるほどの圧倒的な存在の宗谷が。

……正直この部分はヤハリ映画の尺の哀しさで深く掘り下げる訳にはいかないという感じなのだが、でも唯一、宗谷、演じる加瀬亮だけが、そういう、なんていうのかな、私的な感情とかバックグラウンドを出すことを許されていない、んだよね。そうした“秘密”も、まるで神話のように囁かれている。
新人王を獲った零と絶対的王者の宗谷の対決がイベントで組まれることになった時、零は緊張で震えが止まらなかった。そんな彼に、“父”であるトヨエツは「バケモノにするな。相手は人間だ」と、実にまっとうなことを言った。
まさにそれが功を奏した。まるで夢見るような集中力で、負けたけれども、零は対局をこなした、のだ。

相手は人間、一人、孤独、それを抱えているんだと。改めて見てみると、それこそ宗谷ほど強烈な孤独を抱えている人は、いないのだ。
対局の前に零の中にフラッシュバックのように現れる宗谷の過去の実績はどれも圧倒的強さでもぎ取っていった……という言葉さえも野蛮に思えるぐらい、鮮やかな天才ぶりだったのだ。彼と対局した人間は誰もが、例え勝ってさえも、魂を抜き取られたかのようになった。

そしてその間に、川本家の父襲来の事件があり、零は川本家から絶縁したような格好で将棋に没頭する。将棋しかないんだ、前編でも繰り返された血を吐くような台詞を口にして。
宗谷名人に挑戦するためのトーナメントで、宿敵、後藤と対峙する零。この、ここからのシークエンスは、もうね、もうね、……。いろんなフラッシュバックが現れるとしても、対局中に涙をだーだー流すなんてね、そりゃね、ないわねと思うのよ。ビックリもしたし、大丈夫かなあと思ったのよ。

あの事件以来、零は川本家と疎遠になった。てか、自分から断絶した。その間の、もう将棋しかないんだ、それしか生きる道はないんだと、高校さえも辞める決心をした零は、壮絶だった。
ここからラストに向かう零、いや神木君、いや零、……零を生きた神木君は本当に……心に突き刺さった。ああ、私はこの奇跡の男の子と同時代に生きていられることを、本当に嬉しく思うよ。

後藤との死闘に勝ってね、宗谷名人との勝負のカードを得てね、記者会見もぶっちぎって、零は川本家に向かうの。おそるおそる格子戸を叩いてさ!
あの時の、涙でぐしゃぐしゃで緊張した顔!血を吐くように彼女たちを傷つけたことを詫びる彼!涙で温かく迎え入れられてさ、ああ……もう……(涙涙)。

ラストシークエンスはね、宗谷名人との対決に向かう零、なのだ。初めての和服。今まではね、高校生棋士だったから、いつだって制服だった。それが何とも初々しくて萌えてたんだけど(爆)。
色気ダダ漏れトヨエツ父の前で和服の採寸をしているすがすがしい姿(萌萌)、そしてその初々しい和服姿で、憧れの、そして今は同じ土俵で闘う同志の宗谷名人の前に向かう姿!美しき男子二人の美しき和服姿!
駒を盤に積み上げ、まっすぐに前を向く零の、神木君のすがすがしい横顔が倒れそうになるほど美しい。未来につながる素晴らしいラストシークエンス。ああ、ありがとう、神木君!!★★★★★


三度目の殺人
2017年 124分 日本 カラー
監督:是枝裕和 脚本:是枝裕和
撮影:瀧本幹也 音楽:ルドビコ・エイナウディ
出演:福山雅治 役所広司 広瀬すず 満島真之介 市川実日子 松岡依都美 橋爪功 斉藤由貴 吉田鋼太郎

2017/9/29/金 劇場(TOHOシネマズ錦糸町)
本当はどうだったのか、というところには決してたどり着けない、と書き出してみたが、本当なんてものはこの世に存在するのだろうか、などと思ってしまう。事実と真実の違いとか、うがった言い方はいくらでもできる。例えば実際に起こったことが事実で、その人の心にあるのが真実とか。
でもそれは言葉をこねくりまわした屁理屈に過ぎない。そうは思うが、実際に起こったこと、などというのは、誰も証明できない。私が見たと言ったって、その言葉自体がウソかもしれない。
だから事件や事故では物証というものを大事にする。大抵の場合は私たちはそれで納得する。その物証がなければ成立しないのだからと、警察も司法もその成立に血道をあげる。でもそれだって、どこかで誰かが用意したものかもしれないのだから。

本作が、自白だけを重要な証拠として死刑判決にまで至る、というのが、昨今の事件事情、裁判事情からすると無理があるかな、というのが正直なところである。だからこそ余計に、真実にたどり着けないんである。
この場合の“真実”を言葉をこねくり回して屁理屈を唱えるのはやめておく。ごくごく客観的な、何が起こったのか、という意味での、一番近い言葉のニュアンスで言えば、事実である。

二度目の殺人事件を起こした(正確に言えばその容疑の)三隅(役所さーん!)と担当弁護士である重盛(福山雅治)との一騎打ちとも言うべき物語である。
凡百の容疑者と弁護士の物語なら、弁護士は正義感にあふれ、容疑者がどんなに悪人でも、その心の奥の何かを引き出そうとか、なんかそういう物語にでもなりそうだが、そこは是枝監督ですから、そんなことにはならない。そもそも重盛は先輩弁護士の摂津(吉田鋼太郎)からこの案件を丸投げされたような状態である。

というのも、三隅が30年も昔に起こした一度目の殺人事件を裁いた裁判長、つまりは温情ある裁きをしたのが重盛の父親だったから、なんである。
後にひょうひょうと登場するこの父親は、「あの頃は、社会が犯罪を生みだす、という時代だった。だからあの判決を出してしまったが、そのことによってまた人を死なせてしまった」と、自らの決断をあっさりと覆るような発言をする。反省しているというよりは、本当にあっさりと、あいつを死刑にしなかったのは間違っていた、というような口吻である。
演じる橋爪功のからりとした芝居に衝撃を受ける。そう、彼はハッキリと言ったのだ。生まれてくるべきではない人間というのはいるのだと、そう言ったのだ。

息子である重盛はどうなのか。彼はそこまでの腹の割りかたはないというか、いや、充分クールであり、真実よりも裁判に勝つことが大事だ、それが弁護士の仕事だという姿勢は最後まで崩すことはないのだが、でもその信念こそが、底のしれない三隅という男によってかき回されていくのだ。
それこそ最初に単独で担当していた摂津が、接見するたびに言うことが二転三転する三隅に手を焼いたのが始まりだった。30年前の事件を担当した刑事に当たってみると、その時から同じ印象は抱いていた。まるであいつは器なのだと。彼自体に何かを満たすものがある訳じゃない、周囲にいる人間の希望や欲望やそんなものを飲み込んでいくだけの器なのだと、……そういうことなのだろうか??

最初の事件の刑期を終えて、三隅は小さな工場で働き始め、そこで二度目の事件を起こした。恩ある筈の社長を殺した。金に渋い社長だということを聞き込んで、怨恨の線で死刑ではなく無期懲役に何とか落とそうという戦術で重盛たちは動き始める。
しかしそこに予想だにしない動き。ただでさえ言うことが一定しなかった三隅が、殺人は社長の奥さんから依頼されたと週刊誌のインタビューに答えてしまったのだ。

この奥さんというのが斉藤由貴。ちょっとこの頃世間を騒がすことになってしまったが、まるでそれがこの映画の宣伝になってしまうかのような、年相応を備えた上の何とも言えぬまどわす雰囲気を持つ、ザ・女である。
作劇上は、彼女は三隅と関係があった訳ではなかったのだろう、と思われるが、この作品はとにかく本当のこと、は、見えないものだから……。

一応“客観的事実”として信じられそうな、工場の食品偽装、安く使える前科持ちの社員たちからの搾取、そして中盤に明かされる衝撃の事実、社長が娘に性的虐待(つーか、レイプ!)していたということで、三隅と社長の奥さんの愛人関係というのは週刊誌ネタでしかないようには思われるのだが。
ただ、斉藤由貴のあの湿度、ワイドショー映像に出てくる夫を殺された妻の姿、週刊誌に答える時にもモヘアのセーターに真っ白なデコルテを見せつけるようなその女度、食事の支度をする娘に後ろから抱き着き、「咲江ちゃんが大学で北海道に行ってしまったら、寂しくて死んじゃうかも」などと恋人のように耳元でささやくその姿、やっべぇ、斉藤由貴、まじやっべぇよ!と思う。
一番最初に言ったけれども、本作における本当のことなど、何一つ明らかになることはない。それこそ、決死の覚悟で告白した咲江の、父親からのレイプの話だって、それに同情したとされる三隅はそんなことは聞いていないと否定するし、何も、何も判らないのだもの!!

その娘も大事なキーパーソンである。是枝監督にまたしても呼ばれた、こりゃー相当気に入られちゃったな、と思しき広瀬すずちゃんである。それにしても彼女、こんなに唇あつぼったかったかな、と思う(爆)。
足が悪く、どこか内省的に見える役柄で、後半衝撃の事実を告白するシーン以降は特にどアップでシリアス顔を見せる場面が多く、うわー、なんか石原さとみ!とか思っちゃうんである。
天真爛漫な笑顔の印象が強いだけに、肌も浅黒い感じの本作の彼女は、かなり違う印象を受ける。ちょっと怖いような、そして母親のフェロモンを引き継いでいるような、……こんなことを言っては絶対にいけないのだが、父親を惑わしちゃったのも判るような……。ああ、そんなこと言っては絶対に、ダメ!!もしそれがホントなら、父親がクズだったの!!!

それにしてもホント、本作はすごーく人物に対してのクロースショットが多いのよね、かなり疲れちゃう。特に三隅と重盛が拘置所(刑務所?)の面会室で対峙する、アクリル板を挟んだシーンは、そこに映り込んだぼやけて重なった顔のクロースショットまでも含めて、まさに息が詰まってしまう。
三隅、つまり役所さんの表情というか、人格の豹変にくぎ付けになってしまう。基本、役所さんて穏やかでいい人みたいなイメージじゃない??色んな役をやってはいるけど、基本、その印象は揺るがないというか。

だから最初は、その印象を引き継いだように穏やかに登場する三隅に、何か事情があったんじゃないかしらん、などと思っちゃうのよ。でもどんどん言うことが変わって……で、咲江ちゃんが三隅に救われたような風で、彼を救うために父親のレイプを告発しようとすると、ああやっぱり役所さんだもん、イイ人よねとか思っちゃって。
でも三隅が急に自分は殺してないと言い出すもんだから、ええ?咲江ちゃんのために殺したんじゃないの??と混乱して……。これは、これは何なのと。是枝監督、ひょっとして宮部みゆきばりのミステリを用意してきたんじゃないでしょうね??と。

最後の最後に何もかもが明らかになるなら、そうだったのだろうが、そうではなかったから。
重盛にも娘がいる。咲江ちゃんと一瞬見間違えるような同じボブカットの女の子。ここは当然、確信犯的だろうと思う。まだ離婚は成立していないけれども、もはや「今んとこは父親だけどね」と言われるぐらいの関係に下がっている。
父親の仕事を利用して万引きの情状酌量に呼び出すようなしたたかなこの娘は、涙ぐらいウソで簡単に流せるよ、と実践してみせるんである。
物語も序盤で提示してくるこのエピソードが全般に与える影響は大きいと思う。涙が簡単に流せるくらいなんだから、言葉で嘘八百をペラペラと、しかも真実味を相手に与えて喋ることぐらい、役者じゃない人間だってお手のものなのだと。

重盛が部下の川島(満島真之介君。純真〜)を伴って、裁判に証言してもらうために三隅の娘に会いに行くシークエンス、実際に娘には会えず、「父親なんて死んでしまえばいいと言っていましたよ」と同僚から吐き捨てるように言われるんである。
かなりお決まりのシークエンスのように思うが、三隅と同じ北海道を故郷に持つ重盛は、わざわざここに足を運んだこと自体が、クールに見える彼自身の中にある、いい意味でも悪い意味でも甘さのようなものを持っていたのだろうかと思う。

このあたりになってくると、実際なのか夢なのか妄想なのかよく判らない描写が出てくる。重盛と三隅と咲江ちゃんが三人して、一面雪景色の中、雪をぶつけ合ってはしゃいでいる場面がその最たるもので、そしてそれが最初なものだから、本作のテーマであろう、本当のこと、真実、事実、ということに対してひどく混乱をきたすんである。
咲江ちゃんこそが父親を殴り殺したのだということをばっちりと映像で回想シーンのように示す場面さえ現れ、後に三隅が自分の犯行を否定するなんてことになるから、これは間違いない、真実が、いやさ事実が明らかにされるんだ、とドキドキしながら待っているのに、そうはならないのだ。

この法廷は犯人性を今更問う場ではないから、とおざなりに続行され、そこは検察も弁護側もナァナァで了解し合い、三隅が突然自白を覆した無実の訴えは、単なる責任逃れにされてしまう。
でも、三隅も重盛だって、そのことは充分予測の上であり、予測の上でそんな暴挙に出た三隅の真意を、重盛は咲江ちゃんのためにそうしたんじゃないかと疑うのだ。でも、何一つ、何も何も、明らかにはされない。

タイトルの三度目の殺人、見ている間中、それが行われるのかとずっと待ってしまった。でも行われない。あの意味は??と凄く考えて……それはやはり、死刑判決ということなのだろう、か。
日本が世界に死刑制度を糾弾されているのは周知の事実。本作の弁護士たちはそれを承知で、というか、それ以外の判決を取れれば勝ちだという意識で動いている。ただそれだけのこととして。
でも三隅は死刑になり、二度目の殺人ももしかしたら三隅によるものじゃないのだとしたら……三度目は、三度目という意味はやっぱり、そういうことなのか。★★★☆☆


散歩する侵略者
2017年 129分 日本 カラー
監督:黒沢清 脚本:田中幸子 黒沢清
撮影:芦澤明子 音楽:林祐介
出演:長澤まさみ 松田龍平 高杉真宙 恒松祐里 長谷川博己 前田敦子 満島真之介 児嶋一哉 光石研 東出昌大 小泉今日子 笹野高史

2017/9/13/水 劇場(TOHOシネマズ錦糸町)
落ち着いて考えてみればめちゃくちゃSFなんだけど、だって宇宙人なんだから。でも宇宙船も出てこないし、目から光線も放たれない。そう、まさに劇中、まさみ嬢扮する鳴海がそう言った。少しは宇宙人らしくしなさいよと。
彼らの星が何なのかは知らないが、その姿は地球人には見えない(そういう材質?魂のようなものなのか)のだという。そして地球人の身体を借りて、というか乗っ取って、地球人とはどういうものなのかをリサーチして、侵略に及ぶ。
言ってみれば物語のキモは、地球人とは、つまり人間とはどういうものなのか。何を思って、何を大切にして、何をよりどころにして生きているのか、それを語る物語なのだろうと思う。だから全然SFなんかじゃないのだ。

でもそこは、黒沢清だから。彼は夫婦の愛の物語を描いても、その闇の空間から立ち上る独自の恐怖にゾッとさせられる唯一無二の作家だから。
松田龍平君が黒沢監督と初顔合わせというのはかなり意外。宇宙人に乗っ取られて、その宇宙人がなるほど、なるほど言いながら地球人を咀嚼していく、どこかすっとぼけていて、でも無機質さが漂うコワ可笑しい感じは、まさに松田龍平そのものなんだもの。
彼の奥さんとなるまさみ嬢がそんな夫に苛立つさまを実にエモーショナルに演じてくれるから、更にそれが際立つんである。

他の二人の侵略者たちは若くて、侵略に対する迷いがないので、余計に龍平君演じる真治とは違う感じがする。若い、といっても乗っ取った肉体が若いだけであって、あきら(が乗っ取った肉体)は最初、元の身体の彼女がすくい取った金魚を乗っ取っちゃって、家にいる家族に乗っ取って内蔵とかとり出して調べてたら死にかけて、その様子にビックリした家族をぶっ殺して、もう最初からバラバラ殺人事件のただ一人の生き残りであり重要参考人。
血まみれになって道路に迷い出て、まるでよけない(肉体が損傷されたら死ぬという意識がない)もんだからトラックがクラッシュして炎上、それをバックに血まみれで笑いながら歩きゆく冒頭シークエンスのインパクトに茫然とする。

もう一人は男の子である天野。あらら、見たことある。「ぼんとリンちゃん」の、「逆光の頃」のあの子だ。そうか、黒沢清と出会っちゃうと、こうなるのか。凄い。このまろやかに整ったお顔立ちが冷酷、というかやはりここは無機質、というべきだろう、になると、宇宙人、というのが簡単に信じられてしまう。
大体、地球人、てゆーか、普通の人間の感覚に対して、宇宙人なんだ、とあっさり告白してしまうあたりが、妙にリアリティがあるんである。地球人をリサーチするためにガイドが必要、といって、そのガイドには自分が宇宙人であることも、そして地球を侵略することになることも馬鹿正直に言っちゃうあたりが、宇宙人だなぁという気がする。

この若い侵略者たちに密着するジャーナリスト、桜井が、最終的には自分に乗っ取らせるほどになぜだか彼らに加担してしまうのは、このあたりの感覚なのだろうかと思ったりする。昔漫画かなにかで、登場してきた宇宙人に嘘という概念がなくて、地球人の虚勢や駆け引きをそのまま信じて、なんて恐ろしい生物なんだと恐れおののいて退散する、という物語があった。
そこまで優しくはないけど、どっかそんな雰囲気を感じるんだよね。どうせ侵略するんだから、という、自分たちの優位さを信じて疑わないからかもしれないけれど、ガイドからは何も奪わないという律義さとかさ、まるで武士道みたいだし。

そう、奪う。概念が奪われてしまう。瞠目する。まさに人間というのは、概念によって形作られているのだと思う。概念という、目に見えないものによって、それを信じて、それにすがって、生きているのだと。
彼ら宇宙人にとっては理解できない、家族、所有、仕事、自分と他者、他人への悪意……そうか、すべてが概念なのだ。目に見えない、これこれこういうことだと説明するしか術のないこと。

しかも宇宙人たる彼らは、「地球人は言葉で説明したがるけれど、それは本当のことだと限らないでしょ」きれいごとじゃない、頭の中に浮かんだ彼らのイメージ、覗かれたくない心の内を「それ、もらうよ」と奪っていく。
……彼らは最初、ただリサーチするだけで、“もらう”ことが永遠に彼等からその概念を奪うなんてことは、予想外だった。だからガイドからは奪わない、という律義なルールも定めた。でも彼らが一様に口にするのは、「でも奪われたら、幸せそうじゃない?」

“地球人”の目からは、ただ呆けたようになってしまった奪われた人たちを、そう表現する。なんてことを、と思うのだが、真治が所有という概念を奪った満島真之介君演じる丸尾は、所有欲こそが世界の平和を乱しているのだと悟り、引きこもりだったのが街に出て、ひどく幸せそうに、陽気になるのだ。
自分という概念、他人への悪意という概念を奪われた児島氏、笹野氏が共に呆けたような描写になるのとははっきりと違って、丸尾君は、これが正解だったように思えて、ちょっとゾクリとしてしまうのだ。

桜井は最初はジャーナリスト魂であきらと天野にくっついていくのだが、特にあきらが無鉄砲なふるまい……どころじゃない、ちょっと気に入らないとすぐ殺しちゃうみたいな(爆)なもんで、巻き込まれた形の共犯者として追い詰められていく。
政府や自衛隊を巻き込んだ騒動になっていることをいち早く察知して、最初はジャーナリストとしての気持ちで追いかけていたのが、いつから反転したのだろうか……。

こんな奴らと関わっていたら、ただ自分がヤバい目に遭うだけ。天野から宇宙人なのだと告げられた最初は当然、信じてなんぞいなかったし。でも二人に請われるまま、通信機械を作るための部品を調達したり、厚生省から協力を要請されても彼らの側につき続けたのは……しまいには、自分の身体まで差し出したのは……一体、何だったんだろう。
荒唐無稽な心理状態とは思うけれど、天野君のドライなのに桜井のことをなぜかまっすぐ信じちゃってるそのギャップとか、侵略が彼らの命を賭けた仕事だということを、桜井自身は地球人だという立場を忘れた訳じゃないにしても、何かシンクロしちゃっている感じとか……なんかだんだんこっちもそんな心理に追い詰められてきちゃうのはなぜだろう。

“地球人”側が、自衛隊とか、なんか怪しいヤクザみたいな部隊とか、ヤボな攻撃を仕掛けてくるからかもしれない。桜井と接触した厚生省のお役人、笹野氏演じる品川は、どういう闘いになるのか見当もつかないと言ったが、結局はそういう闘いしか出来ない。
宇宙人たちはいざとなれば人間に乗っ取って生き延びられるんだから、こんな不毛な闘いはないのだが、あきらも天野君も、もう充分やったからいいヨ、とそれをあっさり放棄してしまうのだ。なぜ、なぜ。それこそまるで日本人的浪花節じゃないの。そう思うから、天野君に身体を差し出す桜井の気持ちが判らなくはないというか……。

そんなタイプじゃなかったんだけどね、桜井は。演じる長谷川博己の、うさんくさいサングラスにうさんくさいよれよれスーツ(ですらないのか?)姿が、うっわ、こーゆーマスコミっていそう!知らないけど!!みたいなナマ感で、いい、いいのよねー。
彼ら三人と、加瀬夫妻とは完全に分離しての描写になっていて、いわば二つの物語が進行している感じ。桜井と二人の侵略者の側は、SFアクション的な感覚もあるが、加瀬夫妻側は、完全に、夫婦の物語、なんだよね。全然違うのだ。

だって、おかしいんだもの。人間を乗っ取ったら、乗っ取られた人間はもう死んでしまったも同然。あきらからも天野からも、そういう感覚をハッキリととれた。もう元の人格は失われていると。宇宙人としての彼らしかそこにはいないと。
でも真治は、元の真治の人格を残している。記憶も残している。そもそも、乗っ取った本人が、なんかいまいち今の状況を判っていない感じというか、本当に記憶をなくして戸惑っている真治、みたいになっている。
夫が完全に別の人になってしまったと思って戸惑いまくりの鳴海も、思いがけないことを夫が記憶していたりするもんだから、宇宙人だと告白されても、不仲がずっと続いていたとしても、彼を思い切れないのだ。

真治は、てか真治ではないんだけど、でも彼は、自分が侵略者だと自覚するに至っても、元の真治と溶け合って、どちらがどちらか判らない、鳴海と夫婦であり、夫としてダメな真治なんだとしたら、最初から作り直して、鳴海の望む真治になりたいと願い、努力する。
鳴海から贈られた、気に入らなかったというシャツを着たいと探しまくり、嫌いだった筈のおかずを「なんでだろう、こんなに美味しいのに」と頬張る。真治の浮気も二人の不仲の原因だったが、当然今の真治はそんなことは知らないんである。

……凄く、難しいな。これは夫婦再生の物語ではなく、新しく出会った二人の物語なんじゃないのだろうか、やはり。二人とも、夫婦であること、ゼロからやり直すことを口にはしているけれど、本当の、本物の真治なら、きっと鳴海はもう、やり直すことは出来なかった、だろう。
いやでも、これは、真治自身もそうなりたかった姿なのか、判らない。でも真治ではないもの。譲歩しまくって、半分だもの。でも、そうか、真治は鳴海から愛をもらって、完成された。愛をもらって本当の真治になれたということなのだろうか。

愛をもらう。比喩的な意味じゃなくて、概念を奪っていく、侵略者の能力、というか、避けられない物理的副作用として。それが忘れられないクライマックスのシークエンスだが、その前に大きな伏線、というか、こここそがクライマックスかもしれない、重要な場面がある。
もうこの時にはすっかり真治は追われているし、鳴海に事実も告げているし、事態が彼らに把握されている。真治とは不仲だったのだし、彼女はイラストレーターとして忙しく仕事に追われている自立した女なのだし、こんな事態になって仕事も辞めちゃった夫なんて、捨てちゃったって全然よかったのに、そうしなかった。
彼女の妹としてイケイケで登場する前田敦子嬢が若干クサみがあって、ちょっとなあと思ったりする(爆)。家族という概念を奪われるという重要な役どころなのだが。

ちょいと脱線したが、愛とは何か、という掲示に真治は惹かれ、鳴海は結婚式の時の讃美歌に惹かれて、協会へと入っていく。牧師に似合いまくる東出君。彼から愛とは何かと聞き出そうとしたが……説明も難しく、奪うことも出来ない真治は、やっぱり他の二人とは違うのだ。愛とは何か。それが知りたいと思う心理も、やはり違うのだ。
そんなもの、奪えるわけないじゃない。鳴海がその時そう言ったのは、漠然としすぎているからという一般的な解釈以上に、彼女の中に真治への愛が、取り戻せていなかったから。それが取り戻せた時、もう侵略は目の前だった。だから彼女はそれを、夫に差し出したのだ。

正直言えば、侵略が結局行われなかったというラストは、やっぱ地球人って、人類ってそれだけの価値があるもんネみたいな、傲慢……は言い過ぎでも、優越みたいな意識を感じなくもなかったのだが。
あらゆる概念が奪われまくって意識障害を起こしまくっている人たちを、病院が必死に受け入れまくっている。真治はその手伝いをしている。ゲスト出演の感が色濃いキョンキョンが、治療法は見つからないが、なぜだか少しずつ快方に向かっている、と言う。

それまた人間の、人類の優越を感じなくもない。やっぱ人間ってすごいよね、みたいな。でも鳴海だけは……愛を失った鳴海だけは……なにがしかのアクションのある他の被害者たちとは違うのだ。自我を失っている。生ける屍。
それを夫に受け渡した時は「こんなもの……なぁんだ」なんて言って普通に見えたのに。一方で愛を得た真治は、それまで人から奪った時と逆に自分の方が腰砕けになってよろめき、「え……なんなんだこれ」と、龍平君のあの無機質な喋りそのままで、衝撃をストレートに表現していた。
そう、今までと逆なのだ。奪われた相手が、がくりと全ての関節が外れたようになっていたのが。でもでも鳴海は、何も変わらないように見えていた鳴海は……愛を失った鳴海は、その自我そのものを失ってしまった。

もはや侵略者ではない真治、あと二人の侵略者は地球人の肉体に損傷を得て死んでしまったし。
真治は愛する妻の元に寄り添い続けることを誓う。そしてエンド。かなり“地球人”に甘い感じはするけれど、まったきSFが現実に起こるかもしれないというリアリティ、老若のキャストが素晴らしい化学変化を起こし、素晴らしくスリリングだった。★★★☆☆


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