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「こ」


2017年鑑賞作品

恋妻家宮本
2017年 117分 日本 カラー
監督:遊川和彦 脚本:遊川和彦
撮影:浜田毅 音楽:平井真美子
出演:阿部寛 天海祐希 菅野美穂 相武紗季 工藤阿須加 早見あかり 奥貫薫 佐藤二朗 富司純子 入江甚儀 佐津川愛美 浦上晟周 紺野彩夏 豊嶋花 渡辺真起子 関戸将志 柳ゆり菜


2017/2/13/月 劇場(TOHOシネマズ渋谷)
なかなかドラマまでチェックする余裕がないので、売れっ子だというこの脚本家さんについても知らずにごめんなさい。
その彼の、初監督作品なのだという。どちらかというと原作の重松清氏が、映画化作品も多くその多くがハズレが少ないので、そっちの期待の方が大きかったかもしれない。
阿部寛と天海祐希という二人は、どちらも芸達者だが確かにちょっとこのカップリングだとテレビドラマ臭が強いかなという気もし。

という気は、観終わった後にこそさらに強く感じる。そもそも天海さんがこの役というのは、完全にミスキャストだと感じてしまう。
てゆーか、正直この話自体、てゆーか、女性の感覚自体に違和感を感じてしまうというか。これでホントに重松原作なの??と思ったら、やぁーっぱり、かなり原作には大胆に脚色を加えているらしい。

そーいやー、直前に見たトーク番組で遊川監督は得々と、「だって、俺が書いた方が面白くなるもん」的な発言をしていた……のは、この作品のことじゃなくって、AD時代に勝手に脚本を書きなおして採用されてのし上がった自らの成功物語を語っていた時だったのだが。
でもなんかその彼の口調が、観ている時に頭をよぎったなあ。勿論脚本家なんだから、脚色が仕事なんだし、自分の監督作品として作り上げるなら、自分のものにしてナンボなのだろうが、そこにその人の価値観というか、底が見えてしまう気がするのよね。

原作が未読なんだから、推測で勝手なことを言うべきではないのだろう。実際、原作もそれまでの重松テイストとはだいぶ違って評価が分かれているということだし。
でも、ちらりと情報を得た限りでは、料理を通して知り合う二人は、映画では妙齢の女性二人であり、原作での男性二人とは大きく違う。これこそ推測でアレなんだけど、原作ではヤハリ男性側の価値観というか想いに主人公だけではなくこのワキ二人も通して大きく寄り添って展開したんじゃないかなという気がする。
結婚観に対して映画の主人公が、妙齢の女子二人(特に一人は結婚直前でルンルン♪)に意見を聞く、というのが、彼の状況といまいちリンクしてこなくって、……単に人気女優二人を出して華やかにしただけじゃないのという気がしてきちゃう。

……思わず手が滑って妄想チックに余計な先走りをしたが、そう、このタイトル、原作とは違うこのタイトルをつけていることがヤハリ、監督さんの妙にりんりんとした自信であり、自分はこの映画をこう描くぞ、という意思表示だったのだろう。
だからきっと、原作を大きく書きかえた脚本であり、だからこそなんだか……特にフェミニズム女子である私なんぞは……なんかなんか、ムズムズするんである。

原作でも、陽平の妻は、夫が料理を楽しそうにすることで不安になったりしたのかなあ??したのかもしれない、そもそもそれこそが物語のキモなのだから。でもそれが、すっごく、すーっごく、古臭い、女が、日本の女ががんじがらめにされてきた日本的奴隷的価値観だと思わせちゃうのは、陽平の料理仲間を女性二人にしたことがやっぱり大きいんじゃないかとも思うし。
結婚に単純な甘い夢を抱いているアラサー女子が、それが破れたら即現実的に落ち込んだり、それなりに結婚生活を送ってきているアラフォー女子は、料理をけなされることでダンナにイライラしてたり。

そう!この“料理をけなされることでダンナにイライラ”は、一見判るけど、そんなダンナはサイテー!!とか女子の共感をあおりそうだけど、でも違うの。料理の腕が女子の価値を図る、とめちゃめちゃここで、ハッキリ言ってる、いや、無意識に言っていることに、フェミニズム野郎の私はものすっごく、イライラした訳!
本作は料理がとても重要なファクターになっているけれど、それに女性が、日本の女性が長年縛られ、苦しめられてきたことが全然判ってないことに、もーう、イライラするのよ!!!

……ああ、フェミニズム野郎のまま、書き進めてしまいそう。許して。でね、監督さんがわざわざ変えたタイトル、妻に恋している夫、という訳ね。でもそれ、感じられた??
最後の最後、妻を迎えに行ってようよう、「過去の自分に言いたい、僕は50になった今でも妻に恋している」とかなんとか口にして、ハッピーエンドを迎えるけれども、それまでそんな風情は全く、なかったじゃない??
むしろ一人息子が自立して急に二人きりになったことに戸惑った、“お父さんとお母さん”同士、だったじゃない??

…………ああ、だからだから、ちょっと落ち着いて整理しなさいってば。そもそもの話よ、そもそもの。
共に50を迎えた夫婦。一人息子が結婚を機に彼らの元を離れていった。始まりがデキ婚、ずっとお父さんとお母さんと呼び合う間柄が急に二人きりになって、“お母さん”の方が、「これからはお互い名前で呼び合いましょう」と言い出すんである。
陽平と美代子。でも陽平の方はそれがなかなか出来ない。いや、美代子だって息子が出て行ったその夜に、ワインを開けて酔った勢いでそう彼に迫ったぐらいだから、やはり照れ臭かったのだろう。でも、彼女の中には夫のあずかり知らぬ大きな葛藤があったのであった。

と、いうのは、まあありていに言えば「夫が料理を習い始めて楽しそう。息子もいなくなったら、私の存在意義はなくなるのではないか」とゆーことである。
陽平はしがない中学校教師で、料理教室に通ったりする余裕もあるし、特に仕事人間という感じではない。だって女子中学生に「先生に向いてない」と暴言を吐かれるぐらいの、なんつーか、よわっちい感じ、生徒と友達感覚、というのも、下に見られている、という感じなんだもの。

で、美代子は、就職活動のタイミングのデキ婚で、陽平が大学院に進むことを断念して就職することで結婚したんだから、つまりずっと専業主婦、なんである。
専業主婦に天海祐希??……というのが、観ている間ずぅーっと感じてた違和感なんであって……。見えない見えない、どーみても、見えない。確かに平凡なフツーの主婦ファッションはしているのだが、天海祐希が着こなしちゃうと、ちょっとしたオトナ女子ファッション雑誌から抜け出たよう。

初めての夫婦二人きりの夜、「名前で呼び合おう」と迫られた陽平がタジタジとなる、つまりはコミカルな場面があるが、寝落ちしてしまった妻を見て「シミがある。シワも隠せない。老けたな」などと嘆息するのはまさに台詞の上でばかり。
天海祐希は天海祐希そのままに、そんな台詞を受け付けないシュッとした美しさで、こらーもう、ミスキャストと言いたくなるの、判るでしょ。

そら女が齢50にもなって、特に専業主婦だったりしたら、外に出る機会もそれほどないから老け込む、それがナヤミなのだから、世のテレビやら雑誌で変身企画なんぞがいまだに横行しているのだろうさ。
でも天海祐希、見えない、見えないよ。それに……それこそ世のテレビやら雑誌のそんな企画にも常々感じてたけれど、専業主婦だから世間から取り残されているとか、老けるとか、そんなん、今時、ないよ。
大体女度を保つこと自体にそれほど意味があるのかと思うし、そもそも女はそんなにバカじゃないと思うし、バカにしてるのはそーゆー世間なのだと思うし!!

……あー、ヤバイ、なんか田嶋陽子先生みたいになってきたような(爆)。
と、とにかく、専業主婦には全然見えないのに、確かに専業主婦という立場で、だからこそ美代子が一体何を思って生活しているのか全然見えてこない、というのが、女としてはイライラする訳。
確かに主人公は陽平なんだから、それはある意味では仕方ない部分はあるのかもしれない。妻のことだけではなく、陽平は問題を抱えた受け持ち生徒のことでも苦悩しているのだから。

それはドンと呼ばれるクラスのムードメーカ的存在、克也。彼の世話を焼いているしっかり者の幼馴染、メイミー(明美)もあいまって、いかにも現代的な家庭の事情……父親は海外赴任、母親は年下の男と不倫中に交通事故、そんな嫁に怒り心頭の厳しい祖母、その中で板挟みにあってるドンとその幼い妹、という図式。
殊更に明るく、自嘲的に明るくふるまって自分をガードしているドン、それをメイミーから指摘されなければただの明るい男の子だとしか思ってなかった陽平。

確かに陽平は最初メイミーに言われたように、教師に向いていないのかもしれない。てか、私は最後までそう思ったけど(爆)。
得意の料理を通してドン、更にはドンと祖母、ドンと母親の絆までつないでいく展開なのだが、そのあまりのベタさに正直胸焼け気味。

「正しさよりも、優しさが大事なのではないでしょうか」とつっかえつっかえ言う陽平に、それまで壁のように厳しかった祖母が心を溶かすのには、えぇーっ!と思う。
しかも、孫から両手を優しく握られ、暖かな夕日が差し込んできて、みたいな。こ、これって、ギャグでやってる訳じゃ、ないんでしょ?本気??これで泣けとかいうの?しんっじられない!!

しかもこのあたりから、優柔不断で口下手だった陽平がやけに饒舌になってくるのも気に入らない(爆)。
ドンが作った弁当を彼の母親に代わりに届け、それぞれの料理のありようをご丁寧に説明するのにもうわっと思ったが、そ、それでお約束通り母親ポロリと涙を流すのか!息子の弁当で涙を流す母親!

つまりそれは、息子がお気に入りの母親の料理であり!つまりつまり、また作ってほしい、だって僕はこんなにヘタだからさ、みたいな!
あー、もう許せない、フェミニズム野郎はこーゆーの許せないっ。ヘタでも自分で作って自活しろ、こんなやり方で母親を取り戻そうとするなんて、女を家に閉じ込める男としてサイテーのやり口だぞ(息子だって、男だ!!)。

……なんか、アレやね、フェミニズム論文みたいになってきたような。なんでこんなにイライラするのかなあ。
それは多分、料理のできる男性、というのを単純にプラスに持ってきているんじゃなくて、その男性が弱々しくて頼りなくて、でも実は料理ができるってことで、自立できるんだよね、と恐らく男(この場合作り手である監督さん)が思っていることが透けてみえるからなんだよね。

それをバックボーンにしながら、妻に恋しているからこれからもよろしく、美味しくなくてもお前の味噌汁が飲みたいとか言うから、キーッ!!と思っちゃうのよね
。……これで女がキューンとなると思ってるのだろーか?いや、大体の女はキューンとなるのだろーか……。だったらお前が毎食作れ、美味しい味噌汁作れんだろ、と思っちゃうのはフェミニズム野郎だけなのだろーか??だとしたら哀しすぎるんだけどなあ。

だってそもそも、始まりはファミレスなんだもの。それぞれが好きなものを頼める、つまりはお互いが自立できる場所。それぞれの個性。そういう意味合いだったんじゃないの??
そこで陽平はいつもなかなか決まらなくて、最後の最後、エンディングで妻は、彼が迷っている二つを頼んでシェアしたらいいじゃないか、という提案で落ち着いた。

それは一見、とても円満な解決とこの映画の結論のように思えたけど、ちょいと待った、その場合、妻が食べたいものはどこ行った!と思っちゃうのはフェミニズム野郎の私だけなの?
つーまーりー、彼にはファミレスに来る資格なぞ、ないのだ。冷蔵庫の残り物で楽しく料理出来ているならそれでいいではないか。それを趣味に終わらせて妻を不安にさせるんじゃなくて、専業主夫になれば日本は平和になるわ!

……どーも、間違った方向で行ってしまった気がする。ごめんなさい。
個人的には息子の嫁、佐津川愛美嬢が相変わらず、愛くるしいけどそれだけじゃな終わらないしっかり者、という感じで、良かった。★☆☆☆☆


心に吹く風
2017年 107分 日本 カラー
監督:ユン・ソクホ 脚本:ユン・ソクホ
撮影:高間賢治 音楽:イ・ジス
出演:眞島秀和 真田麻垂美 鈴木仁 駒井蓮 長内美那子 菅原大吉 長谷川朝晴

2017/6/18/日 劇場(新宿武蔵野館)
私にとってすごーく特別な作品、「月とキャベツ」の真田麻垂美嬢の名前を見つけて、まさに飛び上がって観に来たんであった。何、何何何、一体どうして、今までどこにいて何をしていたの!!月キャベの後は数作品しか観た覚えがない(でも意外とドラマとか出てたのね)、この16年(!)の間の活動はどうしていたのか……。
つい最近、派谷恵美の復活に驚いた時のことを思い出したが、その後が続くかどうかは難しいのかもしれない。久しぶりに見た麻垂美嬢は当たり前ながらすっかりミセスになっていて、時の流れをひしひしと感じたのであった。
何せ月キャベの印象と、若くイキイキとしていた感覚しかなかったから、本作の彼女は……特にこれは演技プランというか演出がそうだってことだろうけれど、全編凄く静かに喋るので、本当に違う感覚!
それにしてもこんなにアゴちゃんだったかな(爆)。表情の変化が繊細に動いていくから余計にそう感じるのかも……。

「滝を見にいく」「恋人たち」「東京ウィンドオーケストラ」とスマッシュヒットをかっ飛ばし続けている松竹ブロードキャスティングの企画だが、今回はうぅむ、これはそのぅ、好みの問題と言ってしまえばそれまでだが(爆)。
冬ソナの監督作品と聞いてなるほどなあとは思ったかなあ。いや、冬ソナは10分見て脱落したクチなので偏見タップリかもしれないんだけど(爆爆)。

高校生の時、出会った二人。混み合う通学バスの中、彼女の髪の毛が彼の制服のボタンにからまった。きっとこの時、彼の方が一目惚れだったに違いない。再会した時、決死の表情で声をかけ、ボタンを示すしぐさをした。
このしぐさは、大人になって再会した二人に即座に通じる秘密の暗号。その後折々挟まれる、気恥ずかしくなっちゃうほどの恋の触れ合いは、満開の桜や、光る川面の石の上を飛んで歩いたり、走って乗り込んだバスの中でそっと手を握り合ったり、もう、なーんか、50年ぐらい前の(爆)少女漫画みたい、とか思っちゃう。

そして、彼が東京へ進学するために二人は離れ、それっきり。彼女がなぜ、彼に連絡を取らなかったのか、「いろいろあったから」、そして彼は「自分一人が生き残ってしまった」どちらも何があったのか、特に明確にはされない。
別にしなくてもいいとは思うが、ちょっと歯がゆい気もする。特に彼女側は、それこそが二人の仲を決定的にさいた要因だったのだし、かなり気になってしまう。んでもって、20代のかなり早い段階で子供を産んでる、つまり結婚しているってことでしょ。そらー気になるのに、全然スルーなんだよなあ。

彼の事情は、ひょっとしたら震災なのかなとも思った。最後の最後にチラリと示されるプロフィールに福島とあったのは見間違い??やっぱりそういうの、映画作家って入れたがる気がするなあ。その度にヒヤリとしちゃう。

で、二人は奇跡の再会を果たす。こんな奇跡の再会は、確率的に一体何万、何百万分の一よ、と思っちゃう。
人が沢山いる東京で、というなら知り合いのツテとかでありそうな気もするが、広大な富良野の大地で、車がエンコした助けを求めるために門をたたいた一軒家に初恋の相手がいるなんて、あ、ありえない。ありえない、と言ったらもうどうしようもないが(爆)。これを運命と言うほど、とても無邪気にはなれない……。

そもそも、こーゆー、いわゆるルール違反の“純愛”はあまり、好きではない。てゆーか、純愛の定義って何かしらと思っちゃう。別に結婚してるから恋をしちゃダメとは言わない。それは言わない。それは全然いいんだけど、それが初恋の相手との再会の、しかもたった2日間、そりゃあロマンチックにもなるわと。
彼女の結婚生活が辛いもので、そこから救い出してくれる運命の再会とかいうのならまだいいが、夫は実に都合よく出張中で、結婚生活がどういうものかは、問われてもあいまいにかわされる程度。

娘のことは溺愛しているけれど……とかいうのと、同居している姑とわっかりやすくケンアクな様子なのが、彼女のフラストレーションを示唆しているのかもしれんが、でも、やっぱりズルいよね!
後半出てくる、えらく年の離れた夫と、彼女が年若くして結婚した経緯も気になるが、実に気の良さそうなこの夫は、まあ確かに無神経そうだけど(爆)、決して悪い人の様には思えないんだもん。

なんか気に入らないと最初から全部トバしてしまうが(爆)。単純に思い浮かんだのは、「マディソン郡の橋」であった。あー、懐かしい。刹那の出会いで燃え上がる大人の男女、いわゆる不倫を純愛と定義すること、一体純愛って、ナニ?……とあの時も思ったことを思い出しちゃう。つまりこれは愛ではなく、恋なのだと言いたげなカマトトっぽい感じがゾワゾワしちゃうのかもしれない。
ただ、本作はマディソン郡ではなく、ある一つの映画作品をモティーフにしていることを明確に示している。彼女が案内してくれた、吸い込まれそうな青の湖。
彼女は、そこになんだか、沈んでみたいと思ったことがある、と、何気なく告白する。まるでそれは、結婚生活が上手くいっていないとかいうことを示唆しているようにも思えるが、特にそういう流れもないので、そんなに重要なオチにつながるとは思わなかった。

彼がその時、ふと思い出したように語ったのが、「髪結いの亭主」であった。タイトルをそうだと明確に言った訳じゃなく、髪結いの亭主の話で……と言っただけであった。
愛を交わした後に、その愛を永遠にしたくて身を投げた女の話。つまり、髪結いの女主人。あれ、そんな話だったかしらん、と調べてみたら、確かにそうであった。

で、早々にオチバレになってアレですけど(爆)、本作はそれが男女逆になる、ということなんである。初恋時代の回想シーンで、二人でオーロラの写真に見入る場面がある。いつか二人で見ようと約束したから、ロンドン留学中も見なかったよ、と彼は言う。
なんつーか、終始彼の方は積極的なんである。まるで彼女が結婚していることを忘れているかのように。本作にはところどころに感じるんだけど、この要素が一番、日本ぽくないなあ、と思うんである。この運命の再会に、何の疑問もなく没頭している。んー、でも、再会してしばらくは敬語のままだったし、最初は一応そういう遠慮はあったのかもしらんが。

で、脱線したが、その約束を彼は守って、見る機会があったのにオーロラは見ていないという。それを聞かされた彼女は、だったらもうその約束は反故にして、日高君が見た時、私も一緒に見たってことにして、と言う。
まさかこの台詞が、そんなに重要なことになるなんて、思ってもみなかった。彼は、オーロラを撮影中に死んだ。体調は悪かったらしいが、発見されたのは極寒の湖の上だったという。

それを彼女に告げる彼の友人は、事故だったのかもという口ぶりだが、彼女には当然判る。髪結いの亭主と同じ、二人の愛が最高潮になった時、それを永遠にしたいと、身を投げたマチルドと同じ。
でもそれがセックスではなく、実際はここにはいない彼女と一緒にオーロラを見ているという、いわばエア状態ってのが、現代的なのか、いや、冬ソナ的なのか(爆)。

で、なんか言いそびれまくってるけど、彼の方は映像作家でね、というより、ビデオアーティストと言った方がいいのか。まだ彼の死を知らない彼女が、展覧会の知らせを受け取って、観に行く。そこには、あの奇跡の二日間に撮られた、様々な美しく叙情的な情景が描かれている。

本作の魅力は、一番はまさにここであり、舞台となった富良野であることは間違いない。判りやすく富良野っぽい広大な風景はそれなりに描写されるけれど、二人の奇跡の二日間として描写されるのは、朽ちかけた廃屋の壁がさびていく文様の偶然の美しさであり(これは本当に、抽象画の油絵の様で、驚く!)、そこにひたひたと落とされる雨のしずくが染みていく様も驚きの美しさ。
そしてタイトルにもなっている、風を視覚化、音響化していく、キラキラと風の音を反映する風鈴?木漏れ日と風が揺らす葉をスキンシップと名づけてみたり。まあ若干甘やかすぎる気もして気恥ずかしいんだけどさっ。

そういう甘やかさは、やっぱり韓国と日本の違いかなあという気がする。根本的なことを言ってしまえば、彼女が結婚してて子供もいて、という状況を認識している日本男子が、あーゆー態度には出ないと思う。なぜなら、日本男子、いやさ日本人は後のことをまず考えちゃうから。
寂しいことなのかもしれないと思う……。不思議と女子側の引き気味の態度は、ちゃんと日本人っぽいんだよね。そこは男性作家が作っているから、自分自身の投影はしちゃうってとこなのかなあ。

映像作家である彼は音楽の素養もあり、高校生の時彼女に作った歌がある、なんていうシークエンスもある。なぜか都合よくグランドピアノがある喫茶店で聞かせちゃったりして。あー、ハズい(爆)。
彼女がかつて抱いていた絵本作家の夢を、今からでもいいじゃないか、オバサンになってからだって、と後押しするのはかなりハズかしい感じもしたけど、まさかホントにそうするとは。で、麻垂美嬢自身が童話を出版したことがあるって??オドロキ!!

私は日本人だからかなあ、あの冴えなそうなおっちゃんの夫、妻とはさぞかし年が離れていそうな夫がきっととってもいい人で、いや、まあ、姑となる自分の母親が妻を苦しめているということには鈍感なのかもしれないということはあっても、妻をちゃんと愛してくれている……それが日本人的感覚のそれであっても……ことを、信じたいのだ。
だって、日高君を演じる眞島氏と夫の菅原氏とじゃ、ハードルがありすぎる(爆)。なんて言ったらそらー菅原氏に失礼だが(爆爆)。男子は見た目じゃないのだ、むしろ女子よりもね!!★★☆☆☆


この世界の片隅に
2016年 126分 日本 カラー
監督:片渕須直 脚本:片渕須直
撮影:音楽:コトリンゴ
声の出演:のん 細谷佳正 尾身美詞 稲葉菜月 牛山茂 新谷真弓 小野大輔 岩井七世 潘めぐみ 小山剛志 津田真澄 京田尚子 佐々木望 塩田朋子 瀬田ひろ美 たちばなことね 世弥きくよ 澁谷天外

2017/2/7/火 劇場(丸の内TOEIA)
ヘンな話だけれど、あの「君の名は。」のおばけヒットがなかったら、本作もここまでじりじりと評価と興行を伸ばすことはなかったんじゃないだろうかと思ったりする。今年のアニメを評価すべきなのはこっちの方だ、と言ったような応援の気持ちが、片方があまりにメガヒットだったからこそどんどん伸びていったようなそんな気がする。
奇しくも私は年度中にその二作とも観ていなくて、結果的に年が改まって続けざまに観ることになったから、余計にその感覚を強く持ったのだった。なるほど、確かに作品として評価されるという意味ならばこちらかもしれない、と。

でも正直、本作の方は私は観る気があんまりなかった。というのも、戦争モノというのを苦手としているから。正確に言うと、今作られる、かつての戦争を描いた映画、と言うべきだろうか。
一体なぜ、こんなに毎年宿題のように、この国は特に夏になると、あの大戦下を描いた映画が作られるのだろうと思う。まるで、義務のように。そして当然のことながらその時から時代を経るごとに、解釈や人物造形が現代のフィルターを通して描かれ、ナマさが失われてしまうのだ。
よりその時代に近かった数十年前の戦争映画の生々しさを見るにつけ、その感を強くしていたので、もう、現代に作られる戦争映画は観ない、と決めていたぐらいだった。平和が一番、戦争が悪、そんな意味だけで作られるなら、それこそ意味がない。

でも、これだけ評価されるとやはりついつい気になるアマノジャク。足を運んでみると、確かに戦争、終戦へと刻々と迫っていくほどに暗く重くなっていく作品の色調に、戦争モノという感じはまさにするんだけれど、ヒロイン、すずさんのまろやかなキャラクター造形、当てる声ののん嬢(この名前、いつになったら慣れるのか……能年ちゃんと呼びたい!)の素晴らしさとあいまって、彼女が、ただ変わらず、日常を愛しく紡いでいく様こそが心を打つということに、驚嘆を感じるのであった。
時折挟まれる、テヘッと笑うすずさん=のん嬢の描写が本当に可愛くてさ……。どんなに辛く、貧しくても、日々の生活をいとおしく感じているのが伝わってきてさ。
正直、だから彼女が終戦を迎えて、まだ死んでない、死ぬまで闘うんだ、と号泣するのが意外で、突然“戦争映画”に引き戻された感じがして、正直真意を測りかねたのだが……って、それはもうラストの話だろー、飛びすぎ!

本当に、絵の丸っこくやわっこい感じがなんとも、イイの。物語はすずさんの少女期から始まるのだが、結婚話が持ち上がる18になっても、すずさんの少女っぽさは変わらない感じ。え?結婚?まだ子供じゃん!え?あれで18??みたいな!!
海外に本作を持っていったら、オーノー!と言われそう。……でもそれこそ、それを骨格も顔立ちも違う現代の俳優が実写でやったら、ダメなのだ。すずさんのみならず、当時の、特に地方の少年少女たちの10代の感じって、きっとそんなものだったのだろう。

どこかで見初められて嫁に行く。恋の経験さえ未満のまま、“いい話”だからと嫁に行く。当時なら珍しくもない話だが、これを現代で描くなら、やはりそこには仕掛けが必要なのだ。
すずさんにはお互い悪からぬ想いを抱いている幼馴染がいて、見合いの話が持ち上がった時も、ひょっとして相手は彼かしらと思ったりする。結婚後も海軍に従軍した彼が訪ねてきて、ちょっと危ない雰囲気になったりする。
これは現代だからできた描写のように思う。後に、運命的な出会いをしていたことが明らかになるにしたって、男側からの一方的なヨメトリがそのまま女の人生を決定してしまうのは、やはり明らかなんだもの。

なーんて、ついついいつものよーにフェミニズム野郎になってしまうが、二人の“運命の出会い”は、恥ずかしくも私、最後の最後になるまで気づかなかった。あれはすずさんの妄想だと思い込んでいたから、頭の中から排除したままであった。
お使いに出た先で、“人さらい”のバケモノの籠に放り込まれた者同士。あの男の子!いや、このマジックにヤラれたのは私だけではない筈。だって上映終了後、後ろのカップルもそう言っていたもんっ。

そう、すずさんは、そんな不思議体験をする、本人言うところの「ぼーっとしている」女の子なんであった。でもあの体験が本物であったのだとしたら、いかにもマジメで現実的な青年に見えるダンナの周作だってそんな感性の持ち主だったということになる。それはなんて素敵な運命の糸だろう!
忘れちゃいけない重要なファクターは、すずさんが絵を描くことを愛していることなんである。そんな“妄想”の物語もマンガのように記して、幼い妹や小姑の娘を夢中にさせる。

そして、それこそ“妄想”のように出会う、遊郭の遊女に、スイカやキャラメルの絵を子供のように喜ばれるんである。この遊女のエピソードもとても素敵、というか、切な哀しいものだった。
少女時代、祖父母の家に遊びに行った時に出会った、“座敷わらし”は、実際はしのんできた貧しい少女だったのか、あるいは遊女になって再会したリンもまた、遊郭の世界がそうであるように、そこにあるのにないとされるような、まやかしの存在だったのか。

戦争モノということもあったけど、でも、広島であっても呉が舞台、というのが、ちょっとオッと思わせるものはあったのだった。広島、ヒロシマはもうあまりにも世界的に有名、この舞台で作品を作れば、社会派決定、評価されること決定、みたいな。
勿論忘れてはいけない場所と出来事だけれど、でも、毎年の戦争モノに対する違和感と同じことを、“ヒロシマ”にも感じていたのは事実で。ヒロシマを忘れちゃいけないけど、商業的に題材にされまくるのは違う気がして。

でも、本作は、確かにすずさんは広島の女の子だけど、呉にお嫁に行って、その決定的瞬間は広島にはいないし、その後もしばらくの間、“新型爆弾”の惨劇は描かれないんだよね。それどころか、呉こそが「空襲が沢山あって可哀相だね。すずちゃん、広島に帰ってきなよ」と妹から言われるほどなんである。
呉。その昔から軍港として名をはせた港町。すずさんの小姑の娘、晴美ちゃんは無邪気に海兵さんや軍艦に憧れを持ち、その詳しい知識ですずさんを驚かせる。
そう、そんな呉の街は確かに大きく栄えているけれども、すずさんが育った広島の、瀬戸内海に白兎のような波の立つ、陽光まぶしい田舎町とはまるで違うのだ。だからすずさんの妹、すみさんも、まるで何も疑わず、広島は何もない、すずさん、空襲や家のことで大変ならば、帰ってきなよと、親身な気持ちで、言えたのだ。

その時、そう声をかけられるだけの状況がすずさんには、あった。あれだけ絵が好きだったすずさんの、その命の右手が失われていた。その右手につながれた晴美ちゃんが、空襲で落とされた“時限爆弾”でもろとも吹っ飛ばされたのだ。
……正直、確かにここまで刻々と色調は暗くなっていたし、戦争の感覚、にはなっていっていたけれども、危ない目にあっても、一時舅が重傷のまま行方不明になっても彼らの誰一人死んでいなかったし、なんか、タカをくくっていた部分があったのだ。

なのに、なのに、一番幼く無邪気で可愛い晴美ちゃんが死んでしまった。彼女は、自分の母親が厳しい人で、ムラッ気があることも承知してて、それでもお母さん大好き、離れることになったお兄ちゃんも大好き、そんな実に、胸が締め付けられるほどにイイ子だったのだ。
すずさんが、厳しい小姑、径子にそれほど叩きのめされずにいられたのは、まあすずさんのぼんやりピントのハズれたキャラが大きいにしても、この晴美ちゃんの存在が大きかったはずなのだ。

それなのに、なんでこんな、残酷な展開を用意するの。

でも、よーく考えてみれば、ひどく緻密で、私のようなフェミニズム野郎をうならせる設定なのよね、と思う。
径子は好き合った相手に死なれた。その忘れ形見が晴美ちゃんで、相手の家に取られた息子にも心を残している。すずさんはただ流されるまま嫁に来て、でもその夫を愛した。ただ、子供は出来ぬまま。
すわ出来たか、という勇み足の描写を用意するぐらいなのだから、その問題をスルーしていた訳ではなかっただろう。こんなことを言ったらそれこそ問題だが、あれだけちゃんと仲が良い夫婦ならば、むしろ出来ない方が不思議なのではと思ったりする。
その理由に言及するような野暮はない。でも、あんなラブラブのすずさんと周作さんの間に子供を設けない展開は(だって、嫁入りの時にわざわざばーちゃんが初夜の“暗号”を指南した位なんだから!)、やはり意味があると、思うんだよね。

それはやっぱり、やっぱりやっぱり、呉ではなく、広島、ヒロシマなのであろう。
その瞬間の、リアルタイムの描写は描かれない。すずさんはただただ、不安を抱えたまま呉にいる。失った右手、一緒に失われた可愛い晴美ちゃん、自分はここに居るべきじゃないと、家事はまともにできない、大好きな絵も描けない、なにより晴美ちゃんを亡くした径子に対する自責の念に押しつぶされそうで。
径子は出戻り小姑で、キャリアウーマンで、大恋愛の相手を失って、子供も得て、なにもかもすずさんと正反対だったから、衝突もしていたから。

でも、そんな俗っぽいことなんて、二人の間には、少なくともすずさんにはほとんど関係なかったのだ。
すずさんが径子に対する無条件の親愛というものは、キャラが全然違うとはいえ、決して悪い人ではない径子の心に否応なく届いていて、この哀しい事件が二人を引き裂きかけても、でも二人とも、それが誰かを責めることではないと、判っているんだもの。

でも、それが、ただ戦争のせいだと言うのは、今だから言えることで、さ……。すずさんは、終戦が決まった時、号泣する。ちょっと、意外だった。そんなことは関係ない、日々の生活を家族と共に乗り越えていくことに心血を注いでいたのかと思った。
でも、やはり、右手と共に晴美ちゃんを失ったことで変わったのか。「最後の一人が死ぬまで闘うんじゃなかったのか」と。
むしろ、他の家族たちは、どこか淡々と、やれやれみたいな雰囲気だったから、余計に何か……異様な感じがした。正直、本作の中でここだけが、えっ、と戸惑い、消化できなかった部分だった。すずさんが急に、軍国主義になった感じで……。

そしてすずさんは、故郷を訪ねる。その前に印象的な……というか、重苦しいエピソードがある。
“新型爆弾”が落とされ、ある程度近隣である呉にも様々な遺物が降り注ぐ。飛んできた障子にすずさんは思いをはせる。人も流れてくる。ただでさえグレーの呉の街に、殊更にすすけた、顔も判らぬまま座り込む人物。
広島からたどり着いたらしい、顔もベロベロで判らなかったというその“男”が、「私の息子だったんだよ。」と配給担当仲間のおばちゃんがあっさりと言うことに衝撃を受けるんである。お母さんのところにたどりついたのに、顔がべろべろで、息子だと判らなかったのだ。この衝撃。すずさんの経験した衝撃と分かち合うというのが、あまりに辛い。

そしてすずさんが故郷に帰ってみると、もう肉親の生き死にが判らないなんてことは当たり前になっちゃってて、双子のように仲が良かった一つ下の妹は、“ホーシャノー”の影響で体調を崩している。
「私、元に戻れるのかな」と弱々しく笑って差し出した腕には紫色の斑点。その器量よしですずさんの自慢の妹だったすみちゃんが、……恐らく、当時の日本社会では「まともな子供の産めない女」とされる描写に違いなかった。

だからこそ、すずさん夫婦に子供が授からなかったこと、惨状の広島で、お母さんを亡くした幼い女の子が、すずさんにお母さんの面影を映し、くっついてくる、という展開に重い意味を感じるんである。
この女の子が最後まで手をつないでいたお母さん、原爆に身を焼かれたお母さんは、すずさんと同じ、片腕を焼き尽くされ、ガラスの破片が無数に突き刺さり、娘の手を握ったまま座り込み、息絶えた。
ハエがたかり、娘はそのハエを追い払ったけれど、蛆がぼとぼとと落ち始めると、まるで虚無のようにさまよいだした。そして……お母さんと同じ、片腕のないすずに出会った。その腕にまつわったまま、離れなかったのだ。

実子至上主義、子供を産めなければ女が認められない、それが今の世の中でもないとは言えない中で、あまりにも哀しい状況といえど、でもこういうことだよねッと、溜飲をさげたのであった。
私はこの結末に日本の未来を感じたし、ひそやかなラストクレジットで、この名もなき女の子が縁あった家族と幸せに暮らしていくのを(特に径子さんと!!)点描するのが、本当に嬉しかったのだ。

そしてラストは、ラストのラストは、右手が振られる。それはすずさんの右手に他ならない。ちょっとゾクッとしたりする。
もちろんそこには、その右手と共に跡形もなく吹っ飛ばされてしまった晴美ちゃん、そしてその右手がちびた鉛筆やそまつな絵筆と絵の具を使って綴ってきた、懐かしくも愛しい風景たちが刻まれているのだろう。★★★★★


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