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「り」


2017年鑑賞作品

リトル京太の冒険
2016年 82分 日本 カラー
監督:大川五月 脚本:大川五月
撮影:千葉史朗 音楽:HARCO
出演:土屋楓 清水美沙 アンドリュー・ドゥ 木村心結 眞島秀和 ステファニー・トゥワイ フォード・ボールドウィン


2017/4/9/日 劇場(渋谷イメージフォーラム/モーニング)
見始めてからしばらくして、窓にテープで目張りをして娘を家に閉じ込める父親の描写が出てきて思わず、しまった……と思ってしまった。時に悪意さえも感じる描写で数々作られ続けてきている“フクシマ映画”、もう足を運ばないと心に決めていたから。
本作に対しては特に情報を仕入れてなかった。タイトルと宣材写真だけでは、3.11後ジャンルの映画だとは判らなかった。
防災頭巾をかぶった男の子、というのは確かにそんな気もしたけれど、災害の多い日本だし、防災頭巾、というのがどこかノスタルジックな気持ちも起こさせて、冒険、という言葉にもつられて“つい”足を運んだのだった。でもそれはやはり、蛍光色の、現代の防災頭巾、なのだけれど。

しまった、と思ってしまったが、いつまでたってもフクシマとか原発という言葉は聞こえてこない。この山深い田舎町はどうやらフクシマではないらしい。吾妻山、というだけではどこなのかピンとはこない。
最後のクレジットでようやく判明した。桐生市。確かに群馬県は福島には隣接しているけれどほんのちょっとだけだし、内陸だし、……などと思うのは、福島でも内陸であった実家、小学生時代を過ごした場所、が内陸だから、原発からは遠いから、と、同じフクシマと呼ばれることに反発を覚えた自分に跳ね返ってくる気がしてちょっとゾワリとした。

この京太君はひょっとしたらフクシマということさえ、判ってないかもしれない。彼が恐れているのはただただ、あの大きな地震、繰り返し襲ってきた余震、きっと何度も何度も防災頭巾をかぶって机の下にもぐりこんだであろう記憶、なのだろうから。
フクシマの記憶を呼び覚ますのは京太ではなく、彼の友達、詩織である。それはまた後述するけれど。

そもそもこれは、短編作品から始まっているのだという。それを知らずに見て行っても、折々差し挟まれる幼い頃の京太の映像でそれと知れる。
京太が大好きな英語教師ティムも、ほんのちょっとだけ若々しい青年姿である。ほんのちょっと、などと言ってしまうのは、やはりそこは子供の成長の方が大きいに決まっているから。

震災で一時、帰国していたティム先生は、逃げた自分が許せないと思ったこともあって、再びこの町に戻ってきた。防災頭巾をかぶった京太少年はティム先生の後を可愛らしくつける。全然隠れてることにならない、あの蛍光色の防災頭巾の丸見え加減!!
ふっくらとまん丸いほっぺた、つぶらな瞳、オンザ眉毛に切りそろえられたマッシュルームカット、何よりその、ちょっとくちばしのようにさえ見えるつんととがり気味の口元が可愛くて可愛くて、後の回想で京太を後ろから抱きしめるお母さん、その腕の中でぷうと膨らんだほっぺとくちばしのような口元が、ああもう、愛しい!!
君にこの町が大事な故郷だと思えなくさせてしまった震災と、それに伴うあれこれが、憎い。

ティム先生と話すのが大好きな京太。ティム先生は一切日本語を使わない。それは、生徒に対してだけではなく、同僚の教師や町の人々ともそうである。
冒頭、後任教師を迎えに行くために同僚から車を借りようとするティム先生、受ける同僚はまるで彼の言っていることが判らない感じである。わかったわかった、OKOK、と繰り返しばかりでティム先生は、いや、OKじゃなくて……と困惑するんである。
それは教師にも内密の抜き打ちの避難訓練があったからだったんだけど、それ以降教師同士の交流も特に出てこないし、ティム先生は完璧に会話が通じなくても気にせずコミュニケートして来ようとする子供たちや町の人々との関係をこそ、大事にしているようなんである。

京太だってメッチャカタコト。いわばジャニーさん英語。ホント、イメージするにあれがピッタリ!youがいたからfeel safeだったのに、といった具合である。例としてふと書いたけど、まさにこれが本作のキモとなる京太の切実な言葉なのだ。
新任教師、モリーとも見事、このカタコト英語で乗り切る。お手製の単語帳を何冊も作っている京太は、知識欲旺盛で知らない言葉は次々に増やしていく。その単語力を武器にジャニーさん英語で彼らと見事会話を成立させてみせる京太君に本当に驚嘆するし、これでいいんだと思わせてくれる。
加えて、それに対してティム先生やモリーが返すのはまんまネイティブな英語なのに、京太君は時々聞き返す程度でその意味するところを見事に聞き取ってみせるんだよね。ぐんぐん吸収していく単語の数と毎日聞き続けている耳の慣れはやはり柔軟な若さゆえか。

モリー先生の出現に京太は、ティム先生の恋人だ!!とカン違いする。まーそれもムリはないが、ティム先生が、彼女が後任で自分は国に帰るということを、京太のみならず親密になった町の人々にさえ言えていないことが大きな原因なんである。
加えて彼がアメリカ人だと思われてカラオケでアメリカ国家を歌ってくれちゃったりして、「最初に訂正できなかった。もう今さら言えないんだよ」とティム先生は苦笑した。それに対してモリーはガマンならない。怒って飲み過ぎて、翌日二人そろって二日酔いになっちゃう。

このエピソードは結構深いものがあるんじゃないかなあと思う。今更言えない、信じてくれているんだから、なんていう感覚は、かなり日本的であると思う。ティム先生がこの地に感化されたのか、それともスコットランドも実はそういう間違った優しさを持った国なのか……。
そう、彼の故郷はスコットランド。ティム先生が国に帰ることを決断したのは、国の未来を決定する投票が行われることになり、国民としてその意思決定に参加したいと願ったから。しかしこの事情はあまりに大人過ぎて京太に届くのか。

いや、届いたと思う。もっと早く言ったって、良かったと思う。京太は防災頭巾をかぶり続ける。怖くて怖くて、ここから逃げたいと思う。だからティム先生がお茶の店に勤める京太の母親のキヌコさんと仲良くしているのを見ると「ケッコンするかも!チャンス!!」と喜び、それはつまり、……ティム先生の国に“逃げて”行けると思ったからなのだ。
それを知ってお母さん、怒っちゃう。ここは私の町、京太にとってもそうだよ、と。でもそれだけでは、それだけでは……。怖い、逃げたいと思う気持ちを抑えるのにそのリクツは、いわば大人の見栄なのだもの。
本当は大人だって怖くてたまらない。でも見栄や建前や……それを地元への愛情だと言い切るまでの強さを持った人が、実際はどれだけいただろうか。

京太の友達の詩織ちゃん。モリー先生が来た様子を、京太君と一緒にコッソリ双眼鏡で覗き見たりする共犯者のカワイイカップル。仕事で東京に出ている詩織ちゃんのお父さんからキヌコさんに電話がかかってくる。
出張の間、“お泊り”をお願いしているんだけれど、まだ帰宅していないと知ると「やっぱり今から帰ります!!あと30分経って帰ってこなかったら警察に電話を!!」てな、いかにも娘べったりの心配性のお父さんである。

て、ぐらいにしか、この時には思ってなかった。実はもっと重症であったことが、ここまで作られてきた短編の映像の挿入によって明らかにされてくる。サリンの毒ガスに対応するようなボディスーツで現れる詩織ちゃん。目張りだらけの部屋。
……こーゆーの、先述した“悪意に満ちた”描写の映画で見た覚えがあるから……つまり、震災映画、原発映画なら、そういう赤裸々な描写こそ正義だと無遠慮に斬り込んでくる様が私は耐えられなかったから、このシークエンスが出てきた時に、“しまった……”と思った、のだ。

娘を閉じ込めて自由を奪う詩織ちゃんの父親に、京太の母親は激怒するんだけど、詩織ちゃんに連れられて“脱走”の共犯者となった京太は、むしろ詩織ちゃんの父親を尊敬するんである。
僕はもう、怖さに慣れてしまった。ここまでやるなんて凄い。だから詩織ちゃんを怖がらせているんでしょ、と……。この最後の台詞が詩織ちゃんの父親の心臓を撃ち抜く結果となり、詩織ちゃんは自由の身となるんだけれど、京太自身はその想いからいまだ抜け出せていない。今も防災頭巾を手放せない。クラスで一人、いつでもかぶっている。暑い夏に汗だくになっても。

怖さに慣れる、ことがいけないのだ。キヌコさんはようやくそのことに気づいた。口では京太の心をバックアップすると言いながら、……それが短編におけるシメであったのだろうに、京太は、勿論お母さんのことは大好きだろうけれど、でも、安心をそこには見いだせなかったのだ。
異邦人であるティム先生やモリーさんがこの地にいてくれることこそが、いわば客観材料として京太に安心を与えていたというこの皮肉。つまり京太は子供の本能的直感で、母親、のみならず教師や町の大人たちが、本当は心の底に京太と同じ怖さを抱えていながら、それを隠して、地元であるここにいるしかないんだと思って、暮らしていることを、見抜いていたんだ。

でも一度は国に“逃げた”ティム先生が帰ってきて、ならばここは安全なんだと京太は思った。feel safeになった。しかもモリーさんまで来た。ティム先生の恋人だと思ったから、余計に安心した。
ここは恋人たちがずっとずっと住んでも大丈夫なところなんだと。ずっとずっといてよと。絵本みたいな妄想をしながら。

モリーさんはティム先生の恋人ではなく、ティム先生は国に帰ってしまう。そのことが知れてしまうクライマックス、京太は追うティム先生にかまわず、ひたすら山を登る。登り続ける。
grateなviewを見せたいんだと。だからいつまでもここにいてよと。youはneedなんだと。

短編の時の、オンザ眉毛のマッシュルームカットの京太ではなく、伸びた髪が目元にかかって大人びた京太。僕は諦めないから、詩織ちゃんのお父さんみたいに諦めないから!!という台詞が、ひどく痛い。
つまり、詩織ちゃんのお父さんがいわばキヌコさんのケンマクと娘の想いに折れる形で、あの目張り部屋と防護服を解いたと京太は未だに思っているのかと。自分がfeel safeになるために、ティム先生を帰らせない、そう一途に思い込んで、思い込んで……。

山の中で一時行方不明になる騒動を起こした息子を、キヌコさんは激しく叱る。大人の事情があるということを、判らせようとする。でもそこで、京太にとってのfeel safeに自分がなれないんだということを悟る。打ちのめされる。
でも、ティム先生が帰っていく理由も、自分たちがここにとどまる理由も、共にこの地がアイデンティティだから、それはもはや議論の余地のない本能的な愛情だから。
それをまだまだ幼い京太にどうしたらわかってもらえるのか、feel safeを与えてやれるのか。いや、feel safeはどんな子供でも、自分自身でつかみ取っていくしかないのだよね。

ラスト、ついに防災頭巾を脱ぎ捨ててティム先生を見送りに行く京太の涙は、子供の涙ではなかったと思う。彼はちゃんと、判ったのだ。そう思う。★★★☆☆


THE LIMIT OF SLEEPING BEAUTY リミット・オブ・スリーピング ビューティ
2017年 89分 日本 カラー
監督:二宮健 脚本:二宮健
撮影:相馬大輔 音楽:原田智英
出演:桜井ユキ 古畑新之 佐々木一平 新川將人 阿部純子 信太昌之 木村知貴 川面千晶 飛麿 武藤心平 若松俐歩 小篠恵奈 重松隆志 岩崎未来 成田凌 山谷初男 満島真之介 高橋一生

2017/11/19/日 劇場(新宿武蔵野館)
情報を入れていなかったのが良かったのか悪かったのか、最終的に、これって全部彼女の妄想ー??と思ったら、ちょっとガクッとなってしまった。どんなに映像が斬新でも、めくるめくカメラワークでも、すべてが妄想と言われたら、それだったらなんでもアリになっちゃうからなぁ……と思っちゃう訳。
それでもどこかで、いや違うのかも、きらびやかな成功を勝ち取ったアキの人生もひょっとしたら、本当にあったことなのかも……と普段からの自分の理解力への自信のなさからつらつらと思ったりもしたが、後からオフィシャルサイトを覗いてみると、うーん、やっぱり、彼女の人生には何も起こっていなくて、やっぱりやっぱりあれはぜーんぶ妄想だったのか。うーん、そうか。私的にはそれはちょっとルール違反という気持がしちゃうなぁ。

カラフルで排他的、トップレスのお姉ちゃんたちも散見されるマスカレード、ミラーボールにフラッシュ効果のやかましいパーティールーム。こうした“斬新”さも、“挑戦的”“体当たり”として、既視感はかなり、あるんである。なんつーか、ミュージックビデオみたいなさ。
まぁそれは、好みの問題ということもあろうから……。妄想となると物語を追うのもなかなかめんどくさいものがあるのだが(爆)。主人公はアキ。冒頭で示される、そのマスカレードパーティーの場面に後から戻ってくる。この時のアキはもう、充分に年をとっている。30手前。もう“限界”だということは、後で知れる。

時間が巻き戻される。アキが心から愛したぐっと年上の男性、カイトとの出会い。アキは見るからに判りやすい家出娘で、それでなんであんな入りにくそうなバーに入ったんだか判らんが、そこは運命ということにしておこうか……。
そこにいたのが、山谷初男扮する渋いマスター言うところの「有名な写真家」カイトであり、彼が経営するサーカス小屋にアキは転がり込むことになる。まさかそこでうつうつと10年も過ごすとは思わずに。

てか、そもそもカイトだって、妄想だったんじゃないだろうか?高橋一生演じるこのやたら前髪がうっとうしげに色男感を出してくるカイトは、まるで現実味がなかった。
サーカス一味もあまり現実味はなかったけど……でもわっかりやすく、若い娘にイヤミをぶつけてくるオールドミス団員とか(これもかなりの既視感)いたりして、まぁ、リアルなのかなとも思ったり。でもお客さんの顔が全然見えないんだよね。影のように後ろ姿ぐらいは見えていただろうか。それもネライなのかな、アキの妄想の人生の。

とゆー訳で、カイトはオーナーという立場で現場には出張らないし、んでもって、そんな具合にムダにイイ男だし、なんとも現実感がない。アキと愛し合うようになる場面も、なんていうか、ひどく、出来すぎている。
アキは、周囲への意地も手伝ってのカイトへのアプローチだったのかもしれないとも思うような感じだが、カイト自身の人となりというか、現実味がまるで見えてこない。なんていうか、理想の男、理想の恋人をホログラムで作り上げたような頼りなさなのだ。

だから、カイトも妄想だったんじゃないかって、思ってしまう。雑な感じがカッコ良さげな電飾やらごちゃごちゃした廃品?であふれた屋上にしつらえた乙女チックなベッドでのメイクラブ(寒そう……)、そして突然、愛し合った朝に笑顔のまま、ベランダのフェンスをダンスするように歩いて、ふっと飛び降りてしまう。
あぁ……こうして書いてみると、高橋一生にやらせたかったというのは、なんとなくわかるような気もしちゃう。でも、彼を目当てに来た女子にとっては(本作は、その観客が圧倒的だろう……)物足りなかろう。だって全然、判んないんだもの、カイトがどういう意味でこの物語に介在しているのか。

いなくてもいいぐらい、ぐらいな……。それぐらい、つまりアキの、女優になりたかったけれどなれなかった妄想と現実のユラユラに、カイトが介在する訳ではない。それともカイトが死ぬ間際にアキにささやいた、「アキはいつ女優さんになるの??」という言葉が、口ばかりでやる気もなかった(ように思う……)アキの妄想を引き出したということなのだろうか。
上京したての頃は、女優さんになりたい、と頬を染めて言っていたような、ウブなアキであった。笑われるかもしれないけど、と告白したカイトが、優しく受け止めてくれたことが、アキにとっては良かったのか悪かったのか。てか、そんなカイトはそもそも現実にいたのか(しつこいけど)。

アキはオーディションによってオフィーリアを勝ち取る。そのオーディション会場で「フリーの女優をオーディションに通してくれるって、凄いと思いませんか」と隣に座ったマリアという女が声をかけて来た。もうこの時点で、あぁ、この子が勝ち取るか、あるいはアキから奪い取るか、そういうことだな、と見えてしまう。ちょっと、ベタだと思う。
アキがオフィーリアに抜擢され、やたらノリのいい、アメリカのバラエティーショーみたいなテレビ番組に呼ばれる。ゲスト出演的満島真之介君が演じるわざとらしいMCが、めちゃくちゃ似合っている。
案の定、その後妄想の世界にさまよいだしたアキが(てか、オーディション、抜擢云々から既に妄想な訳だけど)隣に座っていたマリアがまるで同じように出演しているのを見て驚愕するんである。

かなり、この展開は読める。その間に、シンデレラガールとなったアキを妬むかのように、彼女には覚えのないヤクザとのショットがすっぱ抜かれたりする。アキはそんな記憶がなく、段々錯乱してくる。
ヤクザとの関係、黒い金での映画製作、その見返りに親分さん、新進女優にバックで突っ込む。うーん、なんつーか、クラシカルだわー。いや、そらーこちとら素人なんで、映画製作のリアルなんてのは知らん、そーゆーこともあるのかもしれない。でも……ちょっと、昭和だよね。でも日本映画にヤクザは欠かせないかな??

アキに亡霊のようについてくる、ピエロのようなメイクが逆に気味の悪い男がいる。どうやらアキにしか見えないらしい。このブッチという男がハッキリと物語に絡んでくるようになってから、あぁ、これを現実の物語としてとらえてはいけないんだな……と判ってちょっとした失望を覚えるんである。
そもそもアキが迷い込んだのがサーカス団という時点で、かなりの現実味のなさはあった。確かにサーカスというのは魅力的だ。オーナーであるカイトが瞳を輝かせて語るように、サーカスという異次元の世界と生活に、ドキドキワクワクした子供時代は思い出せる。

ただそれは、旅から旅へと去っていく存在だから、だったのだ。このオーロラという大都会の真ん中に存在し続けるサーカス小屋は、その時点で既に、ドキドキワクワクしたサーカス小屋ではない。
アキがうっかり10年もそこにいて、すっかり情熱を失ってしまうのは、そのせいではないのか。それは、地方から出てきたアキにとって、思い切って出てきたアキにとって、どこかにとどまるということの進歩のない恐怖を、突き付けられたからではないのか。

このサーカス小屋(てか、サーカスビル)、オーロラが取り壊される、それもアキがスターになってから(というのも結局妄想だったにしても)というのは、やっぱりニューシネマパラダイスかなぁ、などと思ったりする。既視感を感じる割には他にはそうしたオマージュを感じた訳じゃないんだけど。
ただ単に、いつものように私が気づかないだけかもしれない……。いやでも、サーカス、というのはクラシックな気がする。フェリーニ的??あんま観てないから判んないけど(知ったかぶりするな!!)。あ、スターになりたい妄想っていう点では「ブラック・スワン」か。

で、ニューシネマパラダイスに話を戻すが、でも期待、というか予期したように、オーロラが感傷的に崩れ落ちる場面は現れない。
まるで夢のように現れた死んだ筈のカイトが、オーロラの爆破スイッチをアキに託す。現実を生きろとか、それ的なことを言ったかな、そろそろ疲れてきたからよく覚えてない(爆)。いや、そんな台詞を言ったのは、アキの分身であるブッチだったかもしれない。

後半は、自身の妄想に気づかず暴走してしまうアキが精神病院にブチ込まれ、そこからの脱出の大暴れのクライマックスに行くのだが、そこでブッチは名誉の戦死??そもそも精神病院での手荒な治療(というか、ほぼリンチ)も、これぞ妄想だろうと思われるので、もう訳が分からない。
この地獄を突破するのもカラフルな煙が炸裂するというファンタジーなマシンガンであり、いくらエモーショナルにその戦闘が展開されても、これにはかなり心萎えてしまう。
血が見たいという訳じゃないけど……でも見たいかなあ。ここまでは妄想と判ってもセクシャルにしてもドラッグにしてもしっかりハードな描写で来ていたから、あれーって感じは正直、あったかなぁ。

中盤までは、セクシーながらもスリップ姿でとどまっていたアキ=桜井ユキ嬢だったから、トップレスお姉ちゃんたちが周りを取り囲んでいただけに、これはガッカリ体当たりかな……と思ったが、ナマなおっぱいもお尻も見せてくれてその点は大満足。これは重要!
加えて言えば、キスは舌入れてくれたらもっと良かったけどねー。セックスする男女で口先チューはないでしょ。あ、でもヤクザさんにはガッツリ入れられてたか!それとの差かなー。でも旬男子、高橋一生とのレロレロを見たいでしょ、当然。★☆☆☆☆


リングサイド・ストーリー
2017年 104分 日本 カラー
監督:武正晴 脚本:横幕智裕 李鳳宇
撮影:西村博光 音楽:李東峻
出演:佐藤江梨子 瑛太 有薗芳記 田中要次 伊藤俊輔 奈緒 村上和成 高橋和也 峯村リエ 武藤敬司 武尊 黒潮“イケメン”二郎 菅原大吉 小宮孝泰 前野朋哉 角替和枝 近藤芳正 余貴美子

2017/11/8/水 劇場(新宿武蔵野館)
「百円の恋」で脚本家と監督としての間柄だった、その脚本を担当した足立氏の実話を基にした、ということを後から知ると、俄然感慨が変わるもんである。そーかそーか、そのこと最初に知ってれば良かったなあ。
売れない役者、の売れない、という部分だったのだろうか。売れない脚本家としての彼だったのだろうか。成功すればこそのこうした形に昇華できる体験だが、劇中の売れない役者、ヒデオが今後売れるとはどーしても思えず、この場合は、うーん、どうなんだろうとも思うけれど。

売れない役者、というが、現時点でのヒデオは売れないどころの騒ぎではなく、何年もオーディションに落ち続け、劇団に籍を置くなんてこともなく、つまりは彼は役者とは言えないんじゃないだろうか……とふと禁句を思ってしまう。そういやー本作は“自称”役者割引とゆー、なかなかに笑えないサービスがあったが、自分は役者と言ってしまえば、例えば私みたいな魚屋さんでも役者になれちゃうのかもしれない恐ろしさ。
ヒデオはもう10年も前に出た大河ドラマの栄光にすがってここまで来ている。自分作成というのが切なすぎるプロモーションDVDに映る映像はほんの十数秒で、確かに台詞はあるしマジ演技だけど、エキストラに毛が生えたような役どころだったと思われる。
「あの西田敏行に」泣きの演技を褒められたことも、膨張しすぎたプライドを支えているのだ。そらー西田さんは優しいから、小さなところも見つけて褒めてくれるに違いないさっ。

てなわけで、ムダなプライドばかり高いから、いつでも仕事が来たら準備万端にしたいからと、バイトすらしてない。それは売れてる役者がすることである(爆)。てか、物語が進んでいくと、コイツのあまりのヘタレぶりに、ただ単に働きたくないだけなのではないか、イヤそうに違いない、と確信すら抱いてしまう。
そんなヤツが一人で生きていける訳もなく、同棲している彼女が生活を支えている。物語の冒頭は、その彼女、カナコが弁当屋のバイトをクビになったところから始まる。いい年してんのに弁当屋のバイトなのかぁと思ったが、ヒデオと出会ったのは彼女も芝居をしていた劇団時代だったのだから、就職し損ねたのかもしれない。
あ、それを考えれば、ヒデオも一応、劇団時代もあったということか。今はすっかりカン違い自称役者のテング君なのだけれど。

ヒデオが瑛太君で、カナコが佐藤江梨子嬢。ちょこっと、サトエリちゃんのキャンキャン声の芝居が気になる。うーん、今まで感じたことなかったのに。割と彼女の独特のふるまいの芝居は好きだったのだが、このカナコは、始終ヒデオに対して怒っているからかなあ。そもそも男の夢を女が支えるという図式がキライだし(爆)。
いや、本作に関してそんなベタな不満を持つわけじゃないのよ。彼女は自分自身が夢中になれる仕事を見つける訳だしさ。でも結果的にはカナコの稼ぎがヒデオを支え続ける訳だし、ヒデオのバカさ加減で何度もカナコは失職の危機に遭う訳だし、やーっぱり、こーゆーのが日本のカップルとか夫婦の図式なのかなあ、と思って。
だって逆の例って想像しにくいよね。男、女に甘えすぎだから!いや、それだけ男がアホだということかなあ(爆)。

友情出演、で居酒屋シーンに岩井俊二監督が出てくることに飛び上がる。友情って、誰の誰の!ヒデオたち売れない役者仲間からとびぬけた人気役者として前野朋哉が登場、彼が引き連れてくるのが岩井俊二。な、なんかまえ前野朋哉の立ち位置がリアリティあるし、ありそうな感じでドキドキする。
ヒデオと同席していたかつての劇団仲間は、突然現れたスター監督に素直にキャーキャー言うのだが、ヒデオはプライドオバケのヘタレ男だから、「……何が岩井俊二だよ」てな具合な訳。そらーだめだ、そらー、あんた、売れないわ。いやこの場合、そういう闘志を燃やしていた方がいいのか??……ヒデオの場合、闘志というより卑屈、だからなぁ。

てゆーか、本作のウリというかメインというか、タイトルからもこれ!!とゆーのは、格闘技、なんである!!え??ここも実話部分なのかなぁ??「百円の恋」の流れもあって、格闘技が好きなのは足立氏なのか、監督の武氏なのか。今更ながら「イン・ザ・ヒーロー」が武監督だと知り、やっぱりアクションが好きなのかなぁ、などと思う。
ヒデオがカナコの就職先として推したのが、プロレス団体。プロレス愛全開の手紙をヒデオが勝手に出して採用されちゃったんである。とーぜんカナコはプロレスなんてなーんにも知らない。ヒデオは結構なプロレスファンらしく、カナコが採用されるとタダで試合観れるかも、とか無責任にウキウキ。
困惑しつつもいつの間にやら汗くさい男たちの熱血世界に巻き込まれて、トリコになっていくカナコ。ヒデオはあっという間に取り残されて行っちゃう。

と、いう過程があーんまり、ピンとこないのも、ツラいかもしれない。カナコが未知の世界であるプロレスという、男臭く汗臭いところに投げ込まれ、でもなんか夢中になっちゃう!!て具合が、なーんとなくな感じなのが凄く残念!!やっぱりさ、そこはうわーっ!!って感じで熱狂してほしい。
ヒデオのアホな行動でこのプロレス団体を去り、K−1の世界に飛び込むのだが、ちょっとそれも、盛り込みすぎかなと思っちゃう。プロレスとK−1、テイスト全然違うじゃない。プロレスのイロモンだけどアツい感じが素敵だったから、カナコはそこにこだわっていてほしかった。

彼氏のアホ行動で辞職して移籍、というにはムリがあるほどのステップアップ、と言ったらプロレス側に怒られるだろうか??でも、K−1て売れセンってゆーか、凄く華やかな世界じゃない??
カナコもプロレス団体にいた時とは比べ物にならない、プロレス時代は汗臭さとジャージとドサ回りって感じだったからさ(爆)、それがスター選手のプレスについたり、カッコもシャキッとしたスーツに関係者のネックストラップつけてさ、めちゃくちゃカッコイイんだもの。

私は格闘技関係、全然知らないのでアレなんだけど(なんとなく見たことあるのは武藤氏ぐらい……)これはきっと、プロレスファン、K−1ファンが見たら、垂涎ものなんだろうなあ。ラストのキャストクレジットに亀田大毅氏の名前があったが、どこで出ていたのかよく判らなかったぐらいダメな私(爆)。
一番イイ役だったのは、ヒデオが嫉妬の炎を燃やす若きK―1ファイター、カズキ。演じる武尊氏のリアルファイターのナマな肉体の美しさと強さ、芝居あんがい出来ちゃう萌え萌えさ、そしてそのファイト姿、つまり美しい筋肉の上半身ハダカでサトエリちゃんをふと抱きしめちゃうのにキャー!!と思っちゃうアラフィフ女はもうダメだ(落)。
……こうして書いていくと、ヒデオは取り残されっぱなしなんだよな。格闘技世界の面白さと華やかさがインパクト大だから、ヒデオはもうただダメなばかりだから。

こんなダメ男なのに、カナコの母親はなんか妙に彼を気に入っているんである。シャッター商店街で、もうじき閉めることを決めている小さな美容室を経営している彼女は、「夢を見せてくれる男は貴重よ。」と娘のカナコに言う。
彼女の夫は、売れないフォークシンガー、夢を諦めたとたんに死んでしまった。これもまた、なーんとなく男子に都合のいい作劇に思えちゃうが(爆)。だって、夢を見せてくれたって、それが結局実現しなければ、夢を見たことにはならない。白日夢ですらない(爆)。夢は一人で勝手に見ろと言いたくなる私は、もうこの映画を観る資格はないのかもしれない……。

屈強でオトコマエで、それこそ夢を見せてくれる男たちに囲まれて自分をかまってくれないカナコにヒデオはすねちゃう。けなげなマネージャーがせっかくとってきてくれた仕事もナンクセつけて蹴っちゃうヒデオにはイライラしどうしでさ。再現ドラマを芝居じゃないとクサしたり、そもそもエロものをバカにしている時点で、コイツにはどーしても共感できないわ、って思って。
で、スターK−1選手をナンクセつけて、女社長を怒らせちゃう。彼女はカナコのことを考えてくれているのだ、こんなヘタレ男とは別れるべきだって。そのためにトンでもないイベントもうけてくれちゃう。カズキ選手とヒデオをエキシビションマッチで闘わせ、15秒でももったら勝ち。その賭けに負けたらカナコとはきっぱり別れる。この挑発にバカなヒデオは乗っちゃう訳。

なんたって「100円の恋」を作ったチームだから、瑛太君がバリバリ鍛えちゃうのかしらと思ったら、そんなことはない。トレーニングもダメダメで、皆に呆れられちゃう。その中でトレーナーが必殺技を見つけてくれるのが、学生時代卓球部だった(しかし万年補欠)ヒデオの右フック。こ、これは同時期公開の「ミックス。」を狙ったんじゃないのーっ!てぐらいバッチリのタイミング!劇場内からも笑いがこぼれる。
でも、全然、一発も当たらないのだ。それどころか、試合の直前逃げ出すとゆー、最悪のヘタレぶりで、もう別れちゃいなよ、別れて正解!!と観客としては思うのだが、同時に観客としては、まぁ、作劇として、別れないだろうな……と思っちゃうのがなんとも言えないところなんである。

ほぼほぼ90%以上の女性が、こんなヤツとは別れる、と思うと思う。つまり……こんな男を愛しいと思う女は既にダメな女であり、ここに女への夢を託す男は正直……ダメダメなのだよ。
成功すれば、そりゃいいが、でもそれでも私はあまり好きじゃない。徹底的にダメ男に徹した瑛太君、そしてこの作劇は潔いが、でもいまや、現実的じゃないよね。感動もしないしさ。

きっとプロレス好き、K−1好きだったら、あるいは前予習してたら……楽しく観れたかなあ、私やっぱ、フェミニズム野郎すぎ??★★★☆☆


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