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FORMA
2014年 90分 日本 カラー
監督:坂本あゆみ 脚本:仁志原了
撮影:山田真也 音楽:
出演:松岡恵望子 梅野渚 ノゾエ征爾 光石研 仁志原了
でもまあ正直最初は、惹句がクライマックスの長回しだし、合わせてこの長尺だし、腰が引けていたのは確か。二つとも私の苦手な要素(爆)。実際、長回しだけ振りかざして、メッチャつまんない作品に遭遇したことは二度や三度じゃないもの(爆爆)。
確かに本作に関してもクライマックスの長回しに到達するまでに、人物を画面の外に追い出して声だけで長く場面をとらえるとか、小さく人物をとらえて引きの画面でずーーっととらえ続けたり、小さな公園で二人の姿を横移動だけで淡々ととらえて、ブランコに乗ったり座り込んだり。
何をするでもなくて、うーん、なんか私苦手かも、と思ったりしたが、でもその一方では、判っていた。それらのすべてが、その思わせぶりとも言える、丁寧すぎるととも言える、見つめ続ける長いとらえ方が、この作品の緊張感を、心理の在り方を高めてることは。
そしてそれを観客に圧する形でやってのけるこの監督の才能だということは、判っていた。でも判っていたからこそ、新人さんだし、反発したい気持ちがあったのかもしれないオバハンは(爆)。
ここで後から覗いたオフィシャルサイトの感慨なんぞを述べてみる。そこにおいて、シリアスを描く若い才能に、ホンモノかよー、と言いたがるオバハンはあっさりかぶとを脱ぐんである。
塚本組から輩出した才能なのかと!そこでかぶとを脱ぐあたり、後ろ盾を重視するオバハンかよと自嘲気味に思うが、でも、更に、そこでの照明技師でのキャリアという文面に、あれ、聞いたことある、と思う……。
吉田恵輔監督と同じじゃないの!塚本組も、そこでの照明技師も!なんて面白い一致!!
吉田監督が出てきた時に、塚本組、しかも照明出身ってのが、すんごく面白い!と思ったんだよね。塚本作品は確かに照明が作品世界、そしてその心理描写に大きく影響するから。
その同じ道をたどって才能を開花させたもう一人が、その才能の確かさは同じくであっても、こんなにもベクトルが違うことにも更に驚くんである。
しかもフェミニズム野郎の私が渇望してやまない女性監督である。もうもうもう!
本作は言ってしまえば女の物語なんだけど、フェミニズム野郎としては(爆。最近、こればっかり言ってるな……)、ヤハリ女の気持ちは女にしか判らない、という思いがある。どんなに男性作家が上手く女心を描写しても、根底にはそんな気分があるんである。
だから、本作は本当に怖かった。女の怖さ、なんて字面で書いてしまうとホントに陳腐なんだけど、それは本当にこんなに怖いものなんだと言われている気がした。
監督さん自身は見た目、つるりとゆでたまごのような穏やかなお顔立ちの美人さんなのに、その内側にこんな女の怖さを描出するものをひそめているのか。
いや、女はすべて持っているもの、私ですら。だからこそ突きつけられる怖さを感じるんだけれども……。
とか言いながら、ね、本当のところは判らない。ヒロインの一方、父親と二人暮らしの綾子の気持ちは、私だったらと思うと、違う道を進んでいたように思うから……なんて観客の中にシュミレーションさせるところこそが、作品の力なんだろうと思う。
早々にネタバレだけど、ネタやオチが本作の魅力じゃないからまあいいやと思って言っちゃうが(それでなくてもいつも言っちゃうが……)、綾子は父親が同級生とデキていたことを知ってて、それが理由で母親が出て行ったことを知ってて、それでも父親と二人暮らしを続けている。
その同級生、由香里が現れるまでは、まるで平穏に、理想的とも言える父娘暮らしをしていた。
でもそれも、後の綾子の台詞、「ずっと探してきた」というのを聞けば、耐えて、つくろい続けてきた生活だったというのか。
いや、もし私だったらと考えると、もう早々に家を出ちゃうと思うからさ(爆)。でも、判らない。それは単に、こういう状況じゃなくても、社会人になったら家を出ちゃう、それが独り立ちの条件、みたいな自分なりのルールが私の中に、あるいは私を家から出した親の価値観であったからなのかもしれない。
東京に出て来てみると、家から通えるんだからわざわざ出る必要がない、と進学しても就職しても家にい続けるケースは決して珍しくないことに少し驚いた。
そんなケースにうまく説明できない不安を覚えていたのはやはり、大人同士になった親と子は、独立して対峙してこそ上手くいくという、それこそ親が私に課したルールだったと思うんだけど、そういう思いがあったからじゃないかと思う。
一見して、綾子はとてもしっかりしている。それはそう彼女が見せている……つまりにっくき相手の由香里に対してね。
父との二人暮らし、後に父とケンカ、つーか、彼女だけが一方的に当たり散らす場面で、食事だって掃除だって、ちゃんと私、やってる!と、でもそれは、いかにも“やってる”ことを父親に対して見せつけているやり方って感じで、一人になった経験のある女のやり方ではないイタさがある。
でもそのことに多分綾子は気づいてなくて、にっくき相手の由香里は、彼女から見ればカルくて男にだらしない女、雇ってみれば仕事も出来ないし、という貶め方で、なんとも言えずイタいんだよね。
一人暮らしの由香里がどういう生活をしているかをことに詳しく描写する訳ではないんだけど、少なくとも独り立ちしているという時点で、どこか綾子とは違っているように見える。
ただ、その再会の時点で、由香里は工事現場のアルバイトをしていたし、もうすぐ結婚するということで、つまりは綾子からすれば、男に流され、甘えているのは昔から変わらない、ということだったのかもしれない。
これって、ね。どこかラショーモナイズ、なのだ。二人の言い分がどこまで真実なのか、本当は判らない。
綾子の生活はそれなりに見せているし、父親を軽蔑しながら暮らし続けている様は背筋が寒くなるんだけど、幼馴染といってもいいぐらい近くにい続けた二人の、その過去の言い分がどこまで真実か、判らないのだ。
本作のキモになる、由香里と綾子の父親がデキていた、という部分ですら。
最終的に由香里は「あっちから手を出してきた」と認める形にはなるけれども、直前まで否定し続けるし、それはいわば大人の対応だし。
言ってしまえば本当にそれが理由で母親が出て行ったのか、それだって判らない。
綾子と由香里が学生時代どういう関係だったのか、どういう立ち位置、どういう性格だったのかも、クライマックスまでにじりじりと展開される探り合いのようなやりとりと、そしてクライマックスで二人がぶつけ合う、まさに“言い分”でしか推測できない訳。
それはお互いにお互いを「嘘つき」と言う、女の嘘つきさこそ抽出してぶつけ合わせた秀逸さ、とでも言いたい、もう虚飾だらけでさ、本当にゾゾッとするんだよね……。
なんか、なかなか本作の魅力、てか凄さを言い表せない。そんな、底の浅い作品じゃないのだ。何より凄いのは、この重層構造なのであり、まさしくそれこそが私みたいなアホウが最も苦手とする部分なのだが(爆)。
結構早く、クライマックスの場面自体には到達するのよ。あの長回しは最後の最後だけど、その断片は効果的にチラ見させる。
それまでは綾子と由香里の緊張感張りつめた関係性で、そこがキリキリに盛り上がったところに、突然登場する見知らぬ男で、ええっ、と思わせ、そしてフラッシュバック、そうまさにフラッシュバックのように、これまでの経過が、見覚えのある場面を、時にカメラの角度を変えて映し出していくんである。
ク、クヤシイー!!と思う。今まで観客には見えていなかったことを、見えていなかった角度から、見えていなかった条件や要素を含めて提示してくる、この作り手の特権……ってヘンな言い方だな、作品そのものが作り手の特権なんだけど、でもそうとしか言いようがないの。こんな風に、観客に見えていなかった部分を、後から見せていくなんてさ!
由香里に岡惚れしていて、突如現れたように見えるレストランの従業員である修だけれど、実際は一体いつから由香里を見ていたのか。
時間をさかのぼって細切れに描写される中には、工事現場にたたずむ由香里と同じ画角に収まっているショットもあって本当にゾッとする。綾子が由香里をとらえる執念深さで充分にゾッとしてたのに。
そう、綾子は、由香里をずっと探し続けていたと言った。表面上は偶然、工事現場のバイトをしていた由香里を見つけたように見せていたけど。
由香里と再会したことを父親に得々と、思わせぶりに話す綾子。そして、そんなバイトから救い出す形をとって、自分の会社で働かせる綾子。
主任という立場だから、「一応、敬語使ってね」というあたりからどうもアヤしくなる。人手が足りないから来なよ、と言っていたのに、コピー取りだのトイレ掃除だの雑用ばかり。
「もうちょっと使えると思ったんだけどね。あの頃は由香里が部長で私に何でも命令してたのに。立場逆転ってヤツ?」
てな、綾子の勝ち誇った言い様に、そして由香里と再会したと聞いた時からそのことに関して黙りこくるばかりの父親に、この先を見たくないと思っちゃうほどの不穏さに観客は包まれるばかりなんである。
友だちと同じ職場で働いてはいけない。もう、本当に、そう思った。いや、ていうか、友達と同じ生活環境にいてはいけない。
学生時代だけなのだ、あんなに奇跡的に近くにいられるのは。そこで友情をはぐくめるのは、いわば奇跡の出来事なのだ。その奇跡を、大人になってまで続けることは出来ないのだ……。
心のどこかでそう思っていたから、綾子が由香里を自分の職場に誘った時、いやいやいや、それはないでしょ!と思った。事実を知ってしまうと、今度は由香里に対してその思いがわいた。いやいやいや、なんであんた、綾子の誘いに乗ったの!と。
綾子は由香里を計画通りに誘い込んだ訳だから、判る。でも由香里はなんで……。
そこで綾子の台詞が蘇る。「ほんと、昔から変わんないよね」
最初に綾子にゾッとした場面だった。何気ない台詞だったけど、よく聞くような台詞だったけど、で本当にゾッとした。この台詞一発で、綾子の由香里に対する憎悪が、もうダダもれ、って感じがした。
それを綾子が意識して言ったのか、つい出ちゃったのか、どこか判然としないところも怖かった。だって綾子は本当に淡々とコトを進めるんだもの。
由香里の婚約者と会うのも、その婚約者を呼び出して二人きりで会って由香里の過去を吹き込むのも、まるで“悪気のない友達”という顔のまま、仮面のまま、進めるんだもの。
そして由香里を休日の鍋パーティーに誘うのも。それは当然、父親に会わせるためであり、だから他の同級生も誘うから、と言いつつ、「○○ちゃんは番号変わったのか連絡つかなくて。え?××ちゃんは由香里が連絡するって言ってたじゃん」ゾゾー!!!
そう、この時点で、手段のためとはいえ“女は嘘つき”をまんま綾子こそが体現するから、彼女が由香里を憎むのは判っても、本当に由香里に傷つけられ続けていたのか、友達同士、いや、対人間同士としての本質が判らなくて、怖くなっちゃうの!!
そう、女は嘘つき。綾子が言うように、あのクライマックスの場面で突然現れた形になった、由香里に岡惚れしていたレストランの従業員、修に綾子が言うように、由香里はウソばっかりついて、男に色目使って、そんな女だったのかもしれない。
でも、綾子に丸め込まれそうになっていた由香里の婚約者が、綾子から聞いた話を由香里がことごとく否定するように、綾子こそが嘘つき女だったのかもしれない。
あるいは双方が自分を知らずに正当化した結果の、相手をカテゴライズした結果の、思い込みだったのかもしれない。
もうこうなると判らない。だってお互い憎み合っているのに、表面上仲良くしているというこの現状こそが、二人とも嘘つきなんだもの、それこそが女そのものなんだもの!
……あのね、後から事情を知れば余計に、なぜ由香里が綾子の誘いに乗って会社勤めを始めたのか、判らなくなってくるのね。
綾子が言うように、もう結婚が決まってて、相手が家庭に入ってほしいと言っているというのを聞けば余計にさ。
まあ後者の条件は後付けというか、由香里の言い訳のようにも聞こえるけれども、そう、綾子が言うように、「いつも流されている」それこそが、昔から変わらないよね、と言った、あのさっきのゾゾ発言なんだけど、何かちょっと、綾子の気持ち、判っちゃうのだ。
そりゃまあ、人生なんて、流れに乗っていくしかない。その先で選択していくしかない。でも綾子が由香里にイラッとするのは、それが大抵、男の流れに乗っていたからなんであろう。
でも綾子の誘いにも流れで乗っているのを考えると、そうでもない、ホンキでただただ流れに乗ってる女、という訳で、一層イラッとする女ってことなのだろう……。
そう、私はどちらかといえば綾子側にシンクロするんだけど、でも男に流される要素がないだけで(爆)、私だって、てか人間皆、流されるままに生きていると思うし、綾子が流されないでいるとするならば、それはやはり、憎むべきポイントが違っていたんじゃないかと思うし……。
ちらっと先述したけど、なぜ綾子が家から出て行かなかったのか。家庭を壊した由香里に対する憎しみ、勿論、それを招いた父親への憎しみもあるし、父子家庭の生活はそれを充分に感じさせるものだったけど、でもやはり基本、由香里に対してなのであった。
なんかちょっとね、思い出しちゃったんだよ。ちょっと陳腐な例だけどさ、世間の、恋人の浮気に対する憎悪の対象の例よ。
男は、浮気をした恋人その人にウラミを向けるんだって。で、女は、浮気相手の女に対して向ける。罪は等分の筈なのに。
ここでもまさしく、そうなんだよね。恋人じゃないけど、恋人じゃないだけに、生々しく、ゆがんでる。客観的に見たって、この場合責められるのは由香里ではなく、父親であり、更に言えば黙って出て行った母親の方であると思う。
なのに綾子は由香里を責め、憎む。ほおんとに、先の浮気事情の例どおりなんだよね。それがなんか、女のサガみたいに感じてしまってさあ……。
私が怯えまくった長回しだが、作家的クリエイティブが振り回されるそれではなく、綾子が証拠固めのために据えたと思われる固定カメラの映像、というシチュエイションであって、それはまさしく、ドキュメンタリズムの緊張感なのであった。
まだ修の登場がなされない時から、最初の波で効果的に観客を驚かせる。綾子と由香里の不穏な空気を充分に充満させての最初の波で、これがまだ序の口であることに後から気づいて震撼させられるんである。
本当に、ヤだと思った。女同士の憎しみ合いも、それが発露されるケンカはまさにキャットファイトで、女が見たくないみっともないケンカで、本当に見たくない、と思った。
それまでもね、女の子が特に多用する「……ていうかさ……」ていう、要点や主張をぼかして何とか切り抜けようとする言い方が、まさに現代的なんだけど、ああ、ヤだなあ、と思って、でもそれはまさに、女そのもののズルさなんだよな……。
ああ、なんか全然、本作の凄さを伝えきれない!この女のイヤさ加減や、男ののらりくらりのやる気のなさ加減や、空気そのものの不穏さ加減が伝えられない!
綾子役の梅野渚嬢は、その名前に見覚えがあった。見覚えがあったということは、映画を見た後、その名前を知りたくてチェックしたということだ、と思ったら、「ソーローなんてくだらない」の彼女だった!そうか!
由香里役の松岡恵望子嬢も、その、私みたいな女(爆)から嫌われる女、という女くささが、彼女が窮地に立たされてからも、私のよーな不毛女にイラッとさせる素晴らしさ(爆)。
だって彼女は三人の男にかばわれてるんだもんね、ってこーゆーこと思うあたりが、やっぱり私は綾子側(爆)。ああ、殺された綾子が可哀想……そう、殺されちゃうの!あ、もう、終りだからいいよね!!
なげやりな書き方で終わるな(爆)。だってこの巧みな映像表現に、文章でついていこうったって、ムリなんだもの……。
なんかうっかり、メッチャキーマンの綾子の父親のこととか触れてないし。大好きな光石研なのに。あーもう、でもいいや、疲れた(おい!)。
とにかく非凡な才能。それだけは間違いない。だってもう、日本公開の前に世界各国の映画祭でそれが証明されちゃったんだったら、今更何も言うことはないじゃないの。
そうなの。先にハクをつけられるのは、ここで初めて触れる映画ファンとしてはちょっと悔しいの。それもまた、ケチをつけたがる理由?でも嬉しいけどね!!★★★★☆
本作はなんとまあ、海外の映画祭で主演の大島美幸嬢が女優賞、男性役なのに女優賞という不思議な、いやいや快挙を成し遂げたことで、いわばハクをつけての凱旋公開となった趣。海外でも続々と公開が決定しているという嬉しさ!
本作の魅力は彼女の独特の、訛りとも違う、なんともいい味出してるガテン系のおっさん言葉にもあると思うので、その魅力はどこまで海外で伝わるのかなー、とも思うが、それをのぞいても充分に彼女が演じる彼は(ややこしいな)魅力的である!
ていうか、彼女の……彼女っていうとどうも書いてて語弊があるから、もう、彼、と言っちゃう、いや、福ちゃんと言えばいいのか!福ちゃんのその表情や、言い回しが判らなくてもそのエロキューションだけで、きっと判るに違いない、このなんとも魅力的なべらんめえがさ!
そうだそうだ、某書き込みで思い出したが、大島美幸嬢と言えば「ハンサム★スーツ」がすんごく可愛くて、なぜあの可愛い大島美幸をぶスーツにして、実は美人だった、なんてことにするのか、ひどく憤ったのだった!!
あの時点で大島美幸の実力のほどは充分に知れていたのに、あの可愛さが彼女自身の可愛さからも出ていると思ったから(まあ実際、そうだと思うし)、女優としての力量とまでは思わなかったんだよね。ウカツだった!
彼女がボウズ頭でオッサン役に挑んでいるというのは知っていたから、冒頭、昼寝している新入りにまたがって屁をかます先輩がもう、大島美幸嬢だと思っていたら(だって、主演なら最初から出てくると思ったもんだからさ……)、これは荒川良々で、体型といい頭の形といい、実に良く似てるもんだから、時々間違えそうになってしまう(笑)。
監督自身が大人計画とのかかわりが深く、なんたって荒川良々初主演が監督の長編前作「全然大丈夫」なのだから(……と書いてあったが、「恋する幼虫」が初なのでは……え、隠したい作品??)、監督の懐刀、隠し玉、切り札、いやいやもっとなんか言いようがありそうだが上手く思いつかない(爆)、とにかく荒川良々は出張ってしかるべき。
そう考えると、この福ちゃんに大島美幸嬢を抜擢したことに、ついついそんな経過をうがって妄想してしまって楽しいんである。いやホントのところは、大島嬢がオッサンを演じていたコントが始まりだったらしいけどさ。
だってホント、荒川氏とフォルムが似てるんだもん。冒頭があの引きの画面だったことも、ネラいだったように思えてしまう。
しくしく泣き出す新入りに対して謝れと、福ちゃんは荒川氏に静かに叱り、新入りに仕返しさせようとするもののなかなか屁が出ず新入り更に泣き出し、だったら代理戦争だとばかりに荒川良々にまたがる福ちゃん=大島美幸のどすこいスタイルにドーンとかぶさる、ヤクザ映画のような堂々たるタイトル。眉にリキ入ってる様も、まるで親分さんそのもの。
そう、福ちゃんは、親友のシマッチ(荒川良々ね)にだって一目置かれているような男気の持ち主で、塗装工としてベテラン、現場をまとめている。
ずっとボロアパートに住み続けていて、唯一の趣味は凧づくり。つまり絵心があって、目隠ししてイラストを描くなんて言うチャーミングな特技もあり、これがなんともイイ感じで福ちゃんの可愛らしさを引き立ててる。この特技の設定は、実に絶妙で秀逸なんだよなあ。
だってさ、結局福ちゃんは、この特技を気になる女性、千穂の前では披露しなかった訳だしさ。……と、概要も書かずにいきなりすっ飛ばすが、でもそれって、案外重要な要素だったのかもしれないと思う。
だってこの目隠しイラストは凄く魅力的な設定だったからさ、シマッチがまるで自分のことのように得々と自慢するぐらいにさ。でも福ちゃんは、千穂の似顔絵を、その特技で、たった一人で、描いてじっと眺める。それを彼女の前ではやらないんだよね……。
一方で千穂は、福ちゃんの屈託のない笑顔をカメラに収めている。そうして二人は急接近している。絵とか、写真とか、イラストとか、あるいは手作り凧だってそうよ。そういうビジュアルの、そしてクリエイトの要素が気持ちを、心情を盛り立てる要素になっているのが、とっても効果的なのよね、と後から思うんだよね!
観てる時にはさ、細かい小ネタや個性的なワキ役に気を取られて気づかないんだけど、でも実はそういうトコが実に映画的、なんだよなあ。
で、あまりにすっ飛ばし過ぎたんで、軌道修正を図りたい。この気になる女性、千穂というのがつまりはこれこそがヒロイン、水川あさみ嬢で、福ちゃんとは中学時代の同級生という設定。
いじめられっ子だった福ちゃんを、”ドッキリ”という名のイジメでひどい目に合わせたメンバーの一人で、福ちゃんが自分に思いを寄せていたのを気づいていたのかいないのか……そのあたりがちょこっとアイマイなあたりはアレな気はするが。
ノスタルジックな風情に作ってはいるが、このドッキリの回想シーンはかなりエグいイジメであり、彼女がキッカケをもらわなければそのことを忘れていたというのは、どちらかとゆーとこのネガの方にいたこちとらとしては、なんとも切ない気分には、やはりなっちゃうんである。
占い師のような怪しげな喫茶店の女性から、指摘されたことで思い出すんだけれど、福ちゃんはずっとずっと、心の中に押し込めていたに違いないんだしさ……。
そんな福ちゃんが、同級生のバッグを全部持たされていた福ちゃんがさ、現場監督としてオットコマエで、差配してることを考えるとまたまたぐっときちゃうんだけれどさ……。
で、やっぱりすっ飛ばしたままなんだけど(爆)、水川あさみ嬢が演じる千穂は、カメラマンの卵な訳。登場シーンでは、著名な写真家の名前を冠した賞を受賞し、”神様”とあがめるキテレツなカメラマンとの対面に緊張しまくっている。
……まあ、いろんな写真家、ゲージュツ家のイメージをごちゃまぜにしたようなキャラクターで、演じる北見敏之が、まるで芸人さんのように強烈な個性!
”好みのタイプ”だからホントに受賞させたのかもしれない千穂を、鍛えるという名目でスタジオに連れ込み、スパスパ脱ぎ去って、ゆるゆるの裸体になったのも衝撃だが、君も裸になりなさい、これがセクハラだと思っているのか?と迫る、可笑しいのに恐ろしい緊迫感には、ゾワゾワしながら爆笑!
……まあちょっとだけ、水川あさみの男気を期待したが、さすがに売れっ子の女優さんじゃ、しかもこのシチュエイションじゃ脱がないか(爆)。
自分の甘さに直面し、落ち込んで飲んだくれる彼女の、焼酎の牛乳&トマトジュース割りという、しかも氷も入れないという、メッチャマズそうな酒を、うだうだ飲んでいる様は水川あさみチックで良かったけど、でも基本は、キレイな女優さんの立ち位置がもったいなかったかなあ。
水川あさみと大島美幸、いやさ、千穂と福ちゃんはなかなか遭遇しないんだよね。かなり中盤まで、まるでばっつりと別れた二つのエピソードのように進行していくし、あまりに違う世界……賞を受賞した千穂はしかも、外資系のエリートOLだったりするから、ぜんっぜんリンクしないから、一体これ、どういう展開になっていくの??と思っていた。
しかし、ゲージュツ家カメラマンに危うく侵されそうになって現実の厳しさ、自分の甘さに目覚めた千穂が、ふらふらと入った喫茶店で先述のように彼女の過去の罪を指摘されたことで、まるで違う人生を歩んでいた二人が、再会することになる。
オシャレなマンションに友人と住んでいた千穂が、ボロアパートの福ちゃんを訪ね、過去の罪を土下座して謝る。
過去を思い出したくない福ちゃんは一度は冷たく追い返すけれど、わざわざ自転車で追いかけてきて、「謝ってもらっても意味ないと言ったけど、謝らないよりは謝ってもらった方がいい」とぶっきらぼうに焼き芋を差し出すんである。
千穂のカッコはいかにもオシャレなOLさんだし、ガテン系、塗装工の福ちゃんとは、雲泥の差がある。親友のシマッチが言うように、キャリアがあるのに今でもあんなぼろアパートに住んでる、つまりカネは貯まってるハズだ、というのはそうかもしれない。でもつまり、どういう生き方をするかという、選択が違うということなんだよね。
最後の最後、幸せなエンドで、まあこんなオチバレをここでするのもアレなんだけど(爆)、世界中を旅してきた千穂が選んだラストが、福ちゃんの住んでいるぼろアパートに越してくることだったことを思うと、そういうことだったんじゃないのかなあ、と思うのだ。
そしてオシャレOLと、そういう価値観のある生活の両方を体現できる女優は、確かに水川あさみ嬢に他ならないのだ。
そうか、もったいないとか言ってた私がアホだった!!そう思えば、案外安全な場所にいたがる千穂を押し出す、同居している友人の平岩紙嬢はその橋渡しとしてのバランスがピタリなんだよね!
「今仕事中だから、集中したいから」と飲んだくれる千穂に怒ったりして、確かにパソコンに向かってクリエイティブな作業をしているが、その内容はインチキくさいオカルト記事。上手いんだよね、そういうバランスがさ!
そうした、橋渡し的、奇妙な脇役たちがとにかく出色なんだよね。そういうキャラが続々登場する作品は確かに色々あるけど、本作もそういうカテゴリだと思っていたんだけれど、違ったかもしれない。
凡百の作品ならば、いかにして個性的なキャラクターを出して、そのクリエイティブさを競うか、それを誇っているようなところがあったりするんだけれど、本作に関しては、基本はみんな、優しくて、つまりちょっと弱くて、それは福ちゃんと千穂の双方に共通する部分でさ、みんなみんな、共感と橋渡しの役目を果たしているんだもの。
福ちゃんの住む福福荘の住人、大蛇を飼っている馬淵さんと、それを恐れる神経症気味の野々下さん。外見だけでキョーレツすぎる馬淵さんを演じる芹澤興人氏、彼にすっかりなついているがごとくの、愛のあるねっとりした動きをする、首からかかった大蛇にゾゾゾとしながら爆笑してしまい、ツカミはOKもOKすぎる強烈さ!
野々下さんは草食系気味だが、お遍路マニアになっていく、じわじわとした病んでいく経過が違った恐ろしさを感じさせ、クライマックスで福ちゃんの腹にブスリ!とするキーマンにまで成長!成長……??
そんな結末を迎えても、過程の中で、初めてのピクニックに感動して泣いたり、なんども可愛い展開があって、どうにもこうにも憎めない、というか、愛しちゃうのだ。
千穂と福ちゃんが急接近した……いやまずは、カメラマンと被写体として急接近した、カレー屋でのシーン、マスターの古館寛治氏も最高だったなあ!
彼もまた、異相と異オーラの持ち主だが、激辛なのに強硬に水を出さないカレー屋の主人、という設定が似合いすぎて、しかも置物人形?からやたら湾曲した刀をスラリと抜いて、殺してやるー!!と千穂と福ちゃんを追いかけるのもマジに爆笑でさ!!
このシークエンスは、二人の距離を縮めるという意味合いもあってか、妙に長尺なんだけど、いや絶対あれは、笑わせるための、一番のエピソードだからだよね!と思っちゃう。あまりの辛さに固まったままブルブル震えているあさみ嬢の後姿の可笑しさとかも、最高なんだもの!!
つまるところはさ、この、近づくにはなかなか難しい二人の純愛がいかに成就するか、という物語になってくるんだけど、クリエイターとして被写体の福ちゃんを見出した形の千穂は、過去の負い目もあってか自身の気持ちになかなか気づかないところがあるからさ。
それをシマッチに追及されて、福ちゃんの写真集刊行という成功があって、いろいろはさんでのあのラストだからさ、なんか素直に、純愛成就と受け取れ切れない自分がいるの!!
……でもそれは、もう一つ、どうしても福ちゃん=大島美幸嬢=女性という変換を頭の中でしてしまっているせいもあるかもしれないかなあ……。
海外で賞を獲ってしまうほどに、オッサン役は最高に完璧だったと思うけど、それこそ「ハンサム★スーツ」の可愛い大島美幸がいたから、その肌の雪白さ、柔らかそうなピンクのくちびる、やっぱりやっぱり、女の子なんだもん!と思っちゃうのは、フェミニズム野郎の良くない見方かなあ。
★★★☆☆
いやいや、本作がぬるいのだとしたらそれはヤハリ、吉永小百合主演ということに縛られたが故なのかもしれない。
最近、ピンとこない作品に出会うと特に原作との差異が気になるが、本作も大いに気になる。
原作は、実際にある喫茶店で繰り広げられる様々なエピソードをオムニバス形式に連ねているということだけれども、吉永先生演じるヒロインは、映画のヒロインにそのまま移されているのか、それとも吉永小百合主演、ということで肉付けされた部分があるのか。それはやはり、気になってしまった。
まあ気になっているんなら読みゃいいんだけど(爆)、映画はベツモン!というスタンスのもと、そーゆーズルはしない(いや単に、メンドくさいだけ(爆))。
正直、ね。彼女、いつまで主演にこだわるのかなあ、という思いをずっと感じ続けていたから。それは、彼女と同様な立ち位置として引き合いに出される高倉健に対しても感じているところで。
で、役者さんたちは皆、高倉健や吉永小百合がいるから、その頂点の理想がまだ目の前にいるから、そんな尊敬を持っていることを、口にするんだけど。
それはそうなんだろうけれど、観客側としては、それは役者としての泥臭い野望を尊敬と言う形でさらけ出しているだけのように感じたりもし……。
だって、高倉健氏の「あなたへ」を観た時、いやそれ以前からちょっと感じてはいたけど、「あなたへ」でもうホント、もう、いいでしょ、と思っちゃったからさ(何がというのは、ここでは言わんが……)。
吉永先生に関してはそこまでハッキリとは思っていなかった。うっすらとは、思ってたけど(爆)。「北のカナリアたち」は素晴らしかったし、そこでは彼女の年齢さえも加味した艶っぽさが、へえ、吉永小百合で!と瞠目させられたところがあったし。
でも本作で、ザ・吉永小百合に戻っちゃったなあと思うし、それが自身のプロデュース作品でとなると、やっぱりうーむと思っちゃう。
基本、吉永小百合にセックスは感じないじゃん。でも本作の設定は、年若い甥から思慕を向けられ、亡くなった夫を思い、常連さんとの新たな人生を選択する、かもしれない、というのなら、この年で清純でばかりはいられないじゃない。
でもやっぱり、ザ・清純、吉永小百合のまま、この役を演じてるんだよね……。
高倉健と吉永小百合は、生涯主演であることを義務付けられているのかもしれない、と思うところはある。ワキに回ることを許されず、自らも、主演、スターであることに、誇り高く生きてきた、のであろうと思う。素敵だと思うけれど、正直、ちょっとツラくなってきてる。
本作の吉永先生は、甥っ子からずっと思慕を寄せられている設定である。そう、ここんところが、原作でもそうだったのか、そうであったとしても、年齢設定はどうだったのか、と気になるところなんである。
いや確かに、なくはないと思うさ。叔母と甥の年齢差としても不思議はないし、男の子は年上の女性に憧れを抱くものなのかもしれない。それが、親を失って引き取られた相手ともなれば、刷り込みに近い状態でそうなるのかもしれない。
でもなんたって吉永小百合なんで、やはり主演女優としての彼女として見てしまうと、若干のリアリティの欠如を感じてしまったりする。
それで言えば老いということに関しては、手つかずに老いていっている高倉先生の方が潔いかもしれない(爆)。
彼女がこの悦子さん……阿部寛演じる甥からえっちゃんと呼ばれる叔母さんの、その年齢そのものをリアルに生きているには、髪の毛が黒過ぎる(爆)。
吉永先生は別に不自然に若作りしている訳じゃない、ナチュラルな年の取り方をしているとは思うけれど、やはりそこは女優だからさ、相応の年の役をやると、そのままの黒過ぎる髪の毛が気になっちゃうのさ(爆爆)。
まあそんなことはどうでもいい……とか言いながら、メッチャしゃべくり倒してしまったが(爆)。もういい加減、話に行けっつーの。
でもオムニバス形式、だからね。いくつかのエピソード、いくつかの人物が連なり合いつつ、進行していく。大きく分ければ3つ、いや4つかな?
冒頭と最後とで締める、東京に住む陶芸家の父と幼い娘。考えてみれば唯一のヨソモンかもしれない。泥棒さんは、喫茶店の火事のニュースを見たというんだから、近郊の人だと思うし……。
外部の人間からの揺さぶりによってヒロイン(という言い方は吉永先生に向かっては気恥ずかしいな。主人公、ね。)の人生が変わっていくのだから、やはり意味は大きい。
この悦子さんが育てた不肖の甥っ子、ホラ吹きの浩司が阿部寛。かなり説明的に、人情味あふれるが故に前科者になった過去が語られるあたりが、あまり好きになれない(爆)。先述の通り原作は未読だから実際はどうか判らんが、いい年こいてという印象がどうしてもしてしまう。
いや、こういう人はいるだろうとは思うし、美しい叔母に対する不肖の甥の思慕の念に苦しむ、という設定は個人的にはナカナカ好きだナとは思うけれど、せいぜいあと10ずつ若ければなと思っちゃう。人を思う気持ちに年齢は関係ないとは思うけれど、正直、吉永小百合をヒロインにするための年齢設定のように思えちゃう。
叔母への思慕を胸に、彼女を守るために風来坊の生活している、なんつーのは、40過ぎの男ではやはりイタいよなあ……せいぜい30前後がギリだよ……。
竹内結子が“悦子さんの替わりでいい”という立場で現れるならなおさらだよなーっ、と思う。まあしょーもない男に引っかかって出戻ってくるという設定には、彼女も少々トウがたってるかもしれんと思うが……やはりそこは、吉永小百合基準で組み立てられているからなー。
その竹内結子の父親が笹野高史で、病院嫌いの彼が体の不調をほっといた末、出戻ってきた娘に看取られて亡くなる、というのが一つの大きなエピソード。
そして、悦子さんにとって最も大きな別れは、常連さんのタニさんが左遷によってこの地を去ってしまうということ。
タニさんを演じているのはもはや吉永先生にとって無二のコンビとも言える鶴瓶師匠で、なぜこの千葉の岬の喫茶店にネイティブ大阪弁の彼が、何十年もの常連でいるのか、大阪の子会社への出向って、それって地元に帰ることなんじゃないの、という観客の心の中のツッコミをものともせず、この年頃の男女の奇跡の純愛を見せてくれるんである。
まあ、鶴瓶師匠が役柄ででも標準語を喋るなんてことは考えにくいし、そんなヤボは言っちゃいけないんだろうな……。
確かにこのタニさんの、純情素朴なキャラはグッときちゃう。愛の告白をするためにと市場で買った鯛を自分で釣ったとウソついて、大ハリキリでカルパッチョなんぞ作っちゃうのに、結局なんも言えないとか、鶴瓶師匠ピタリで、ズルい!と思うぐらい。
このタニさん=鶴瓶師匠がナチュラルで素敵なだけに、彼をけしかける浩司=阿部寛の、いい年こいての空回り……までは言い過ぎかもしれないけど、正直、ちょっとムリがあったかもと思っちゃう、んだよなあ。
タニさん、浩司、出戻ってきたみどり、その父親の徳さんあたりはエピソードが分かれていても人間関係が連なっているけれど、先述した陶芸家の父とその幼い娘、中盤、人生に絶望して泥棒に入る研ぎ師の男、はハズれている。
この研ぎ師の男のエピソードはちょいと、その後に閑話休題と言いたくなるような、ほっと一息つくヒューマンな感じであり。
泥棒さん、お腹が空いてるのね、こんなお金のない店に入るなんて……と言う吉永先生はユーモラスだが、このシークエンスに、まさにコレが珠玉であった「小原庄助さん」を思い出しちゃったもんだから、うーむやっぱり吉永先生はちょいと優等生かもと思っちゃったんであった。
良くも悪くもやっぱり彼女は優等生、なんだよね。人を笑わせる緩急を持ち合わせているタイプじゃない。それこそ高倉氏もそうだよな……やはりそこんところが、主演のままいくしかない大スターなのかもしれない。
陶芸家を演じるのはA……じゃなかった、井浦新(だってやっぱり、ARATAと言いたいんだもおん)。彼も素敵だが、本作のカギを握るというべきこの幼い娘、そのいたいけなほっぺ、ああ、ただ可愛いというには言葉が浅すぎる。
異世界に近い感覚を持つお年頃、そのセンシティブな感覚で、悦子さんの「ぎゅっと抱きしめるとあたたかくなる」魔法をお父さんにかけて癒しちゃう女の子は、悦子さんの亡くなった旦那さんの伝言を持って現れる。
冒頭、この旦那さんの描いた虹の絵を追って悦子さんと出会った親子、この虹を返してほしい、と言っていたと「この人!」と悦子さんの旦那さんの写真を差して言う。
悦子さんはいつでもこの旦那さんの亡霊……もとい、面影をリアルに感じて暮らしていたんだけれど、甥っ子の自分へのナマな気持ちを知ってしまってから、その面影も消えてしまい、タニさんも去ってしまい、徳さんも死んでしまい、すっかり独りぼっちになってしまって、絵も旅立って、しかも弱り目にたたり目で、火事で店が全焼までしちゃう!
この喫茶店は実在で、火事で焼けてしまったことも、皆の志によって再建したことも、そのもの事実であるらしい。それだけ、愛された喫茶店であるということ。
概要を知りたくてアマゾンなんぞをググったが、映画に猫は、出てこなかったなあ……。
物語の冒頭で、猫と一緒に居眠りしているおまわりさんが、この舞台の穏やかさ、幸福さの象徴のように示されて、子供たちの登下校に「人は右側、車は左側、猫は自由」トラメガで呼びかけるのにもほんわりしちゃったからさあ。
そんで喫茶店、美味しいコーヒーをのんびり飲ませる、こりゃー、かわゆい猫がそこらへんでゴロゴロ、外テーブルなんかでは日向ぼっこしてるに違いない!と思いきや……全然ナシとは何事じゃ!……吉永先生は猫がお嫌いなのかなあ……。
そうそう、泥棒さん以外にも、もっとハッキリコメディリリーフのエピソードがあった。春風亭昇太兄さんと、成島監督お抱え女優と呼びたい、小池栄子嬢の結婚式エピソード。
嫁とりイベントで知り合った、という時点で不穏な空気はあったが、お花畑での結婚式、ばんばさん、堀内さんが参加しているゴーカなフォークバンドの演奏、ここでもひと悶着起こす問題児の浩司、ということを示すための二人なのかな、とも思ったが、やはり、あっさりと離婚。
「堆肥の匂いが耐えられないの!」と東京に帰っていくヨメさんを泣きながら追いかける昇太兄さん、そんな理由で、と呆然とする悦子さん。
……吉永先生はリアルマジにしか見えないからさあ、ホントにこの彼女を糾弾しているように聞こえちゃって、シャレになんないの。
いや確かに、結婚まで決めてこの地に来た彼女がそんな理由で離婚するなんて、というのはあろうが、それこそそんな事例はあるかもしれないけど、わざわざ取り上げて吉永先生のシリアスでドシリアスに落ち込ませると、もう救いようがないじゃん。
ほぼほぼはちゃんと頑張っている人たちだと思う……と思いたいけど。いや、ね、全般が好きになれてたらこんな風に重箱つつきはしなかったと思うんだけれども……。
個人的には、浩司の中学校時代の受け持ちの先生、吉幾三が好き。そもそも、吉幾三が役者として呼ばれるということ自体に、驚きと、いや、確かにこの人は達者だもの、役者としてもっともっと呼ばれるべきだよな!と本作の彼を見て改めて思うんである。
鶴瓶師匠が大阪ことばでのみ生きているのに対して、ここでの吉幾三は津軽弁ではなかった……よね?それが聞きたかったな!青森男に弱いの、私!!!★★★☆☆
でも、漢数字じゃなくて、算用数字なのねということはふと気になったりして。日本映画の、こんなにも文化、宗教的感覚、生命倫理に根差した物語で、算用数字なのねと思ったが、本作にも色濃く反映されているシャーマニスティックな風合いを考えれば、数字というのはそうした世界の神秘の泉、なのかもしれないと思う。
数学は突き詰めていくと、神の領域のような奇跡がある、そんな印象がある。世界の全てが数字で解き明かされるという数学者もいたように思う。それは理詰めの冷たい印象ではなくて、本当に神の領域の。
それでなくたって、河P監督はもともとシャーマニスティックな作風だもの。
そして、あら、舞台を、そのデビュー作からこだわり続けてきた奈良から離れたのね、と思ったら、これまたシャーマニズムあふれる土地、奄美となって、しかも主演の両翼の一人は、ムラジュンとUAの息子さん、村上虹郎君である。
てゆーか、UAソックリ!劇中、彼のバックグラウンドと同じように、離婚して離れて暮らす父親に会いに行くシーンがあり、まさに実父、ムラジュンから「お前、岬(母親)ソックリだな!」と言われるのだが、劇中の母親、岬ではなく、まさにUAソックリ、超ソックリだから、きっとムラジュンの心からの台詞のように思う。
実際、この父子対面のシーンは、恐らくアドリブが多く採用されているんじゃないかというリアル、ライブ感で、ムラジュンの言葉、そして虹郎君の言葉も非常に生々しいリアリティがあるのだ。
地方から出てきて今は東京に暮らす私としては、この父親=ムラジュンが語る、東京にも、東京にこそ感じる人の思い、というくだりはかなりグッとくるものがあった。
ムラジュンが「(酒が飲めるようになるまで)あと4年だな」と言うのも、まあありがちな酒飲みの視点といえばそれまでだけど、離婚したことで離れてしまった息子と、一人の男として向き合うことのできる酒というアイテムまであと4年、という、役を通したムラジュンの気持ちをついつい想像してしまうのだった。
ムラジュンが中野監督の「赤影」に出た時、(それまでハードな役柄が多かったから(今でもだけど))ようやく子供と一緒に見に行ける作品に出られた、と言っていたことを思い出し、それがこの虹郎君だったんだ……と本当についこの間だよな、と感慨にふけってしまうんである。
……この調子で行くと、作品と関係ない方向に突っ走ってしまいそうだが。
でも、UAそっくりの虹郎君、UAもまた凄くシャーマン的シンガー。むしろUAの方がそれは、歌声という明確な武器をもってして、更に色濃いかもしれない。
そして舞台はUAの母親の故郷である奄美大島であり、ということを考えると、本作の成り立ちが妙に気になってしまうんである。
虹郎君と河P直美監督ではなく、そもそもUAと河P直美の出会いだったんではないのか??探ったけどなかなか出てこなかったから諦めちゃったけど(爆)、そんなのは周知の事実なのかもしれない?そうとしか考えられない。あれだけ故郷の奈良にこだわった河P監督が舞台を移したんだもの!!
これまでもドキュメンタリータッチ、というか、ドキュメント要素を巧みに取り入れてきた河P監督だし、実際ドキュメンタリーの秀作も多く作っているお人だから当然と言えば当然だが、本作は特に、その秀逸さを感じるんである。
先の実際の親子、ムラジュンと虹郎君のシーンもそうだが、まあそれはいわゆるアドリブのドキュメント効果という、他作品でだって見られると言えば見られるものではあるけれど、やっぱり河P作品となるとちょっと違うんだよね、と思う。
虹郎君の起用、そして勿論、両翼のもう片方、ヒロインの吉永淳嬢も当然そうではあるんだけど、監督がこだわり続けた、経験の有無ではなく、その作品を生きられるかどうか、ということ。
それは後にオノマチちゃんがまさにそうであったことを、彼女自身が実力を積み重ねた結果ブレイクした時に、彼女の出自をさかのぼった時にしっかりと明確に示した訳なんだけれど。
あの時は、まさに監督自身が長編デビューであったあの時は、地元の子であるオノマチちゃんをヒロインにしたあの時は、その後の彼女の役者人生など考えてなかったに違いなく、それが証拠にオノマチちゃんが女優を目指して上京してきたことにうろたえまくった、という話も聞くし。
虹郎君に関しても、ビッグネームの両親というバックグラウンドはあれど、経験のなさ、そして見ていてもハラハラするほどのぎこちなさは、当時のオノマチちゃんと同等レベルであると思われるのね。
でも、オノマチちゃんに対する時とは、きっと河P監督は違うと思う。この作品を生きる存在、という基本はありながら、やはりその先の、役者として生きていく虹郎君を意識してのキャスティングだと思う。そう思う。
そのスタンスの違いが、時を重ねた河P作品の豊穣を物語っているように思う。作品を組み立てるちょうどいいコマではなく、あたたかく見つめているのだ。
本当はそれほど河P作品は得意な方じゃなくって(爆)、でもドキュメンタリー「玄牝 -げんぴん-」で、彼女の持つドキュメンタリー作家としての魅力が、凄く、繊細なのに先鋭的で、文学的で、素敵だなあと思ったんであった。
その思いがあったから、苦手意識を持ちながらも、ドキュメント要素の方に心惹かれて、本作も見てしまうのかもしれない、と思う。
本作はお話としては充分にドラマチックで、ストーリー映画としての魅力に満ち満ちている。
だって冒頭が、背中一面にあざやかな龍が彫られた溺死体の発見から始まり、それが母親の恋人であること(は、本当にそうだったんだろうか……)で界人(虹郎君)はショックを受ける。
ヒロイン、杏子の母親イサは島の神様と呼ばれる、いわゆる口寄せと言っていいんだろうか、そういう存在で、今まさに死にゆく時である。
そんな界人と杏子は、幼いながらも気持ちを確かめ合う仲。積極的な杏子に界人が及び腰、という図式は、女の子の方が早く成長する10代の頃には珍しくないことではあるけど、実年齢も4つも違うことを後に知って、そうかあ、と思う。
ラストに美しい水中シーンで一糸まとわぬ姿で手を取り合い、人魚のように泳いでいく二人を思えば、一糸まとわぬ、というのが、女の子の場合実年齢の16歳とかでは難しいのかも……などと現実的なことを思ったり(爆)。
たしか、18歳未満はNGなんだよね?でも男の子はいいのかなあ。うーむ、それは女の子をセクシャルから守るように見えて、男女差別??
……どーでもいいことが気になってしまった。いや!どーでもいいことではないかも!!
界人と杏子の交際は、少なくとも杏子の両親はピン!と感づいていて、どこまで行ったんだ!などとからかったりする。この台詞自体、なかなかに強力である。
界人の方は、母子家庭で、その母親に恋人の影が見え隠れすることに、年頃の男の子らしく憤慨する訳でさ。
そのあたりの、セックスと生命と親子関係と、生と死という問題が、本作のテーマ(なんて言ってしまったら陳腐になっちゃうけど)であり、それを杏子側の両親は、さすが神様の母親を持ち、そんな風土の中で育った杏子だから、感覚的に判っている。
16歳同士の恋愛、セックスが、いかに自然なものかということが、判ってる。
本作の中の、ひとつのエポックメイキングなシークエンスでね、やぎをしめる(つまり食べるために殺す)シーンがあるのね。
四つの足を縛って逆さに釣るし、カミソリで首元を割いて、バケツに血を受ける。死ぬまでに結構な時間がかかって、その間、やぎは切なげな哀しげな苦しげな声を漏らし続け、ぱっくりとあいた鮮やかな真紅の傷口からは、ねっとりとした血がしたたり落ちる。
やぎの目は、“やさしいやぎさん”なイメージの、〇に線を引いたような目で、苦しげに鳴き続け、そしてついに命が尽きた時、瞳孔が開いて、真ん丸な目が真っ黒になる。
命をいただく、その本当の意味は、知らないところでさばかれて肉になったものを食べるのでは判らない。そういう意識の元、そして当地ではそれが当然のことであるのだろう、このシーンは。
近年、そうしたテーマの映画は数多く見受けられたけれど、それがこんなにも接近戦で、最初から最後までのフルサイズで、っていうのはなかった。
それも、そういう、正確な倫理観の元ではなく、本作に流れ続けるシャーマン的な中でというのが、その中でのこのフルサイズというのが、ひどく印象的なんであった。
母親の故郷とはいえ、東京生まれの界人は苦しみ続けるやぎのうめきに「これ、いつまで続くの」とまゆをひそめるけれど、杏子はじっと、やぎの様子を見守り続けている。
そしてある瞬間に言うのだ。「今、魂が離れた」と。彼女の母親は神様。特に劇中でそう言及することはなかったけれど、ひょっとしたら杏子の中にも、そうした血は流れているのかもしれない。
杏子の母親、神様であるイサを演じる大好きな松田美由紀。透けるような白い肌は、死にゆく病という設定もあるけれども、神様の声を聞ける存在、そして本当に……先述のやぎじゃないけど、魂が徐々に天上の神様、彼女も神様だけど、神様の上の神様に徐々に召されていく感じがあって、胸が詰まるんである。
彼女の夫役の杉本哲太がまたすんごく良くってさ。神様の妻を持つけれど、彼自身は普通のお父さん。界人にとっては、杏子の父親という以上に、頼りになる島の男だ。
カフェを経営しているんだけど、料理しているフライパンのシーンはおいしそうなのに、なぜ出来上がったパスタは映してくれないんだろう(爆)。
そんでもってこの親子三人は三人がラブラブと言えるほどメッチャ仲が良くて、ある意味死ぬために帰宅した母親と三人、猫のように膝に頭を預け合いながら庭のがじゅまるを見上げるシーンが幸福でたまらない。
彼には、妻ががじゅまるの木の上に見上げる何かは見えない。娘の杏子にも見えない。
河P監督は、見えないものを映したいと言い、それは監督のデビュー時からの感覚であって、本作はそれを、成し遂げた、かもしれない、と思う。
演じる松田美由紀氏にそれが見えていたかどうかは判らないけど、彼女を通したイサには確かに見えていたと思う、少なくともそう観客に感じさせるものがあった。
イサが死ぬシーンはね、近所の人々、これは絶対に、ホントの地元の人たち、が、集まってくるのね。そして、イサの望むとおりに三味を弾き、歌を歌う。
一見、楽しげな宴にも見えるような不思議なシーン。このシーンは本作で最も、ドキュメント要素が素晴らしく昇華した美しいシーンで、そしてこの長さがまた、素晴らしいんである。
イサは途中、目を閉じて動かなくなったりして、ああもう、こときれたか、と杏子が涙をためて手を握ったり、夫が目を伏せたりするんだけど、三味の音色や歌声に、またぱっちりと目を見開く。天上の神様を見ているみたいに。一筋の涙をゆっくりと流して。
そのシーンに、あのやぎを重ね合わせたら、いけないだろうか、間違っているだろうか。いやきっと同じだとと思う。だからこその、あのやぎのシーンがあったのだと思う。
死ぬまでに存外の時間がかかって、その死の意味を、あるいは生の意味を、見守る人たちと共有しながら死んでいく。「今、魂が離れた」瞬間まで。
この時にも界人は同席しているけれど、やはりまだまだ、そんな達観からは遠いところにいるのだ。
この後、母親にキツくあたる。恋人と電話しているのを見てしまったから。この間に東京に暮らす父親に会いに行くシークエンスが挟まれていて、運命の相手だから結婚したのにどうして、と問いかける界人に父親は、運命は長い目で見た結果を見てほしい、そんな言い方で言っていたように思う。
この時の界人にはその言わんとしていることがイマイチ判らなかっただろうし、スクリーンのこちら側の観客にもしっかりとは受け止めかねる部分があった。ムラジュンの気持ちは何となく推し量られるけれども……みたいな。
でも物語が進んで、杏子が母親の死を経て大人になり、セックスという、愛と生命と生死と、もっと思い切って言ってしまえば、生きていくために必要なエネルギー、そんな道筋に避けて通れないことを、女の生理感覚をまっすぐに通して界人に投げかける段に至って、少なくとも観客側はなんか、納得させられてしまう。
女くさい母親を演じる渡辺真起子は、まさに彼女っぽい。女手一つで息子を育てる男らしい面も勿論ありながらも、恋人との電話に甘い声を出す。
そして何より、冒頭の、恐ろしく波の高い、荒れまくっている海に向かって、その波間に消えていく恋人に叫ぶ、一糸まとわぬ渡辺真起子、40過ぎた女のリアルな肉体、いや充分スリムだけれど、支えようもなく柔らかく落ちていくおっぱいの筋力が何より物語る、リアルなヌードが素晴らしいんである。
母親である前に女でなければ、子供を産み落とすことなど出来ないのに、産み落とした後は母親である以外を認めようとしないのが子供の生理であり、もっと言ってしまえば日本の社会の生理。
男に対しては甲斐性などと言って(まあ最近はさすがに言わんかもしれんが)やたら寛容なのに、女がそれを踏み越えると途端にインラン扱い。
インランというのも時代的な言葉だけれど、今の時代のワカモンである界人もそんな言葉を口にする、のは、まさに日本社会の生理に毒されている証拠なんである。
母親であることと女であることは矛盾なく両立するということを日本の社会自体が認めないのは、これぞ悪しき男社会だと言うのは、フェミニズム野郎のみっともないふるまいなのだろうか??
界人に扮する虹郎君は先述したようにハラハラするほどのぎこちなさで、母親に対するそんな毒された生理で反発する。でも、台風で連絡の取れなくなった母親を凄く凄く心配して……。心配どころか、自分自身が壊れてしまいそうなぐらいで……。
虹郎君はね、あるいは監督自身が造形した、この難しい年頃の界人という男の子そのものなのかもしれないけれど、自分の考えを、心を、感情を、全然出せないの。ていうか、それ自体、自身で正確に把握できないでいるの。
だから母親を心配して心配してどうしようもなくなっている時も、いざその母親が無事に見つかった時も、何も言えなくて、ただその身を、心をもてあまして、ぶつかるしかできないの。
杏子の父親に諭されて、びしょ濡れの頭をタオルでゴシゴシこすりながらうなだれるしかなかった時も、無事だった母親に、母親ソックリの(この場合はUA)長いまつげがまぶしそうに覆わんばかりの目にいっぱいの涙をためて、ただただ母親に抱きしめられるばかりだった時も、確かに本当にぎこちない、芝居なんか出来てないのに、でも、確かに界人だったし、界人を生きた虹郎君を見ることが出来るだけでも、映画ファンとして本作に出会えてよかったと思う。
マングローブの林が隙間なく広がる中、界人と杏子は結ばれる。背中痛そうとか、興ざめなこと言っちゃダメ(爆)。
実年齢とほぼ同じの虹郎君が彼女とかわすキスは意外に濃厚で、こんな年頃の息子を持つ母親(つまりUA?)はハラハラしちゃうんだろうかなどと夢想する。
二人の若い肉体が重なる部分は林に上手に隠されて、ほっとしたのもつかの間、思わず口をあんぐりと開けてしまうほどに衝撃的に美しい、一糸まとわぬ二人が奄美の豊かな海の中奥深く、手を取り合って潜っていくシーン!!
彼女の若いおしりの筋肉がバタ足するたびに見事に躍動して、その奥の繁みが自然に生命力あふれる感じで見え隠れして、なんかもう、ボーゼンとしてしまった。
こーゆー場合はヤハリ女の子に目が行ってしまう。それまでは虹郎、虹郎、って言ってたくせに!映画には数々の名ラストシーンがあったけど、その中に加えたい出色の衝撃!★★★☆☆
でもそう思って見てみると、画面に文字を羅列していく手法ってのは既に「鳥を見て!」でも使われてて、あの時には本当に、ほんっとうに意味不明で(爆。うう、だって、だってさ……)もうどうしたらいいか判らなかったんだけどさ、本作ではその意味合いはかなり印象付けられている感はある。
と言っても本編の内容自体に使われる訳じゃなくって、ラストもラスト、クレジットにかぶせての、まさにタイトル通りの「フタリデツクル」その台詞の羅列。
脚本のページをどんどんスクロールしていくかのような。重なり合い、とても全てを追うことは出来ない。つまりは画面デザインのような趣で、つぎつぎと、シャワーのように流れていく。
ちょっと、皮肉な気がする。だってその中にはきっと読ませたい言葉、聞かせたい台詞があるだろうに、ちっとも読めない、聞こえない、頭に入んないんだもん。
で、奇しくもそれは、本作の印象そのままでもあった、のは、先述のように、単に私がこの監督さんの作品にチャンネルを合わせることが出来ないからなのだろうけれど……。
でもね、この日、隣に外国人のカップルさんが座ってたのよ。で、もうかなり最初の頃から、彼氏の方がモゾモゾしだした。私もかなり最初の頃からモゾモゾしたい気持ちだったので、なんともハラハラしてしまった。
その彼のモゾモゾが、単に椅子の座り心地が良くなかったのか、日本語が判らなかったからなのか(ここは世界一小さな映画館だそうだから、観光で訪れたのかもしれないじゃない?)、あるいは私と同じ理由なのかは判らないけど、隣の彼女にしきりにコソコソ話したり、腕時計を眺めたりするのがどうにも、私と同じ理由に思えて仕方なくて、関係ないのに申し訳ない気分になっちゃったんだよう。
うっ、だって、こういう劇場の、こういう上映形態にありがちだけど、客層ちょっと、身内っぽかったんだもん(爆)。
んでもって、物語の最初から、共同で脚本を書き進めている男の子と女の子の会話が、かなり聞いてられない(だから、私はね)ものがあるというか……。
男の子の方。シリアスものが得意。人は不幸を見たがるもの。好きな映画は「東京物語」そして「フタリデツクル」知らない?いい映画だよ、なんて、まさかの自画自賛。
うっ、こういうの一番苦手。え、もしかして本当にそういう同名タイトルの映画がある、って訳じゃないよね?とりあえず私は知らないし、こう聞きゃあ、自画自賛にしか聞こえないじゃないの。
こーゆーの、やっぱり新進監督さんの映画であったなあ、と思い出したら、この男の子の方が主演してた映画だった。うぅむぅ、こういうのもリンクするものなのかしらん。
女の子の方はとにかくハッピーエンドが好きだという。好きな映画は探偵学入門とバックトゥザフューチャー。
こういう、ザ・ヒロイン的な女の子にも一応、シネフィル的な作品を滑り込ませるのが妙に気恥ずかしい。バックトゥザフューチャーだけでいいじゃんと思ってしまう。
でもこのキャラづけ、女の子にありがちな、とにかくハッピーエンド、ちょっと泣けてクスリと笑える映画が好き、っていうのがね、まあ私だって一応女子なんで気持ちは判るけど、この時点で既にステロタイプの匂いがプンプンとする。
大体、彼らがプロの脚本家で、プロデューサーから「なんでもいいからとにかく面白い脚本を」というざっくりとしたリクエストにしても、仕事を依頼される、というのが、なんともピンと来ないんである。
まあ、ありていに言えば、プロの脚本家には、とても見えない。いやいや、プロの脚本家が外見的にどういうものかは知らんし、それこそ私も先入観があるんだろうが、ノースリのブリブリワンピースをひらひらさせて、打ち合わせ(にしては内容がなさすぎるが……)していた喫茶店から出たと思ったら、かげに隠れて男の子をわっとおどかす、なんて、大学生でもやらんわ……高校生でも……中学生……うー、なんか恥ずかしいんだよう。
彼と彼女は恋人同士、なんだろうか。彼女の妹が彼と秘密の贈り物のやりとりとかしてる場面が出てきたり、三人で浴衣姿でお祭りに行く場面が出てきたり。
またその場面の、好きな台詞を言い合うっつーシークエンスが、もう舌噛み切って死にたくなるほど恥ずかしい訳なんだけど、まあ後半につながってくる部分だから仕方ないか……。
とにかく、微妙な三角関係??この描写がなんとも、どうも。
先述のようにこの彼女、えーと名前を言っとかないとメンドクサイわね、涼子はやけに女の子女の子していて、妹の寝床にもぐりこんでも、「怖いから電気消すのはヤだ」とかそういうタイプ。
男の子、佑介の方は……と書いてみてはたと気づいた。彼の描写って、あんまり記憶にないな……なんか突然、涼子に丸投げして旅に出ちゃうし。
てゆーか、なんか途中から夢か妄想かパラレルワールドか、みたいな世界観になってくるから、どこまでがホントなのか、よく判らない。
そうなの、なんか途中から涼子は寝たきり、眠ったきり、植物状態で病院のベッドにいる。んでもってその彼女を、佑介と妹のゆき子が見舞っている。
佑介と涼子はね、そこまでに至るまで、結構お互いの脚本のアイディアを言い合ったり、実際にどういう映像になるか、シュミレーションしたものが出てきたりする訳。
これがまた……それはそれは……恥ずかしい訳。うー、そう思っちゃうのはそれこそ私だけなのかなあ??
バーの恋人にイチャモンつけるコワモテ兄ちゃん、そのバトルが外で繰り広げられる。サイレント時代みたいなコマ落としの映像に、ご丁寧にもモノクロ映像。チャップリン的というにも設定が使い古されすぎて、オマージュとも言いにくいものがある……。
しかもそこに脚本のアイディアを練るための彼本人がまぎれこんで、アクションを避けながらメモを取る。う、うわっ、はっ、恥ずかしい!!と思っちゃうのは(私だけじゃない……と思う……)。
涼子の方は、子供たちの物語……なんだけど、観念的な台詞を彼らに喋らせる……てのがプロデューサーに却下され、それはそれで確かに文学少女が作りそうな気恥ずかしさはあったんだけれど、どー考えてもむっちゃ恥ずかしいのは彼が考えてる方だ。
しかも彼が得意なのはシリアス系、人間は不幸が好きなんだとニヒリスティックなことを言っていたんじゃなかったの??
つーか、本当にこの二人の共作、二人の脚本家の共作が、本作まんまということなんだろーか。主人公二人の役名がそのまま、脚本としてクレジットされてる。えーっ、と思う。それって失敗じゃないのと(爆)。
うっ、ゴメンなさい。だって先述したラストクレジットの数々の脚本タイトル、その中の台詞、文字のシャワーを見るにつけ、二人が実際に書いたと思われる様々な脚本を、特に融合を考えることもないままブチこんで、空中分解しただけじゃないのかと思っちゃう。
しかもそれぞれの話が面白くないし(うー、ゴメン!断片的にしか見えないから判りっこないけど、そうとしか思えん!)。
それに“融合”がラストシークエンスにあるというのなら、それこそメッチャハズかしかったよ……。
佑介のサイレント風活劇あたりからモゾモゾが激しくなった隣のお兄ちゃんは、天使と悪魔が出てきたあたりでクライマックスだったよ。物語的にもクライマックスだったんだろうが……。
そーいやー、うっかり言い忘れてたけど、本作の冒頭は、彼らが書いていた脚本を映像化した、テスト映像のようなシークエンスなんであった。
そんでもってこれがまた超絶ハズかしい(爆)。ビルの屋上から飛び降り自殺しようとしている女の子。それを止めようとしている男の子。女の子はともかく、男の子のお顔が奇妙に濃いのがまたモゾモゾさせるんである(ここまで言っちゃうといくらなんでも勝手な言い草だな……)。
んでもってこの女の子が言うに、結婚してくれるなら死ぬのをやめる、あれ違ったかな、飛び降りてほしくなかったら結婚してくれる?だったかな、まあとにかく、今の時代に信じられない古臭いこという訳。
まあ、いつの時代も女の子は古臭いことを言うのかもしれないけども、「嘘でもいいから結婚するって言ってくれればいいじゃない」とまで言われると、まあ確かにその通りだが、この価値観でこの映画は始まるのか……と思って、かなりのウンザリ感を覚えたのは事実。
んでもって、確かにその価値観をある意味貫き通した、わね。思わず忘れたくなるほどの冒頭シーンだったが、涼子が植物状態になる後半のシークエンスに、この冒頭の決着をどうつけるかをまた蒸し返す。
……蒸し返すなどと言ってはいけない、彼らにとって最重要事項だったらしいんだから……訳で、だとしたら、やっぱりやっぱり私は、私にとっては、ダメだなあと思っちゃう!!
つまりこの冒頭で示した話が、それだけが、二人が真に共作したということになるのかな……。
人は不幸を見るのが好きだからと佑介は彼女を死なせることを主張し、涼子はそれに反対する。この、架空撮影やりとりみたいな冒頭から、モゾモゾは始まったのだった。あうう。
で、先述したようにラストシークエンスは、涼子がなんでかしらんが植物状態になってて、佑介が夢の中で天使に恋した悪魔に出会う。
これまた超絶恥ずかしい展開で……こういう展開をマトモに受け取れるのは、漫画の世界だけだと個人的に思う。
それは漫画の世界をバカにしてるんじゃなくて、今の時代の表現の中では、漫画しか、そんなスピリチュアルな世界を具現化できないと思うから。
もっともっと昔なら、絵画ならばより理想的に表現できる世界だったと思うけれど。
今は小説でもムリがある。映像だともう、ギャグになっちゃう。これをマジに神聖には描けないよ。
てゆーか、そもそも神聖に表現する気があったかどうかすらアヤしい。眠ったっきりの天使を起こすために、永の眠りから何万年後かに目覚めた涼子が半ばヤケになって起こしにかかるのだが、なんか突然歌い出し、佑介も歌い出し、悪魔も歌い出す。悪魔って言っても、単なるヒゲヅラのおっさんだけど。
そのテキトー歌合戦シーンは、あまりにテキトー過ぎて、それはワザとで笑わせようとしているのか、ただテキトーなだけなのか、あるいは実はマジなのか、本当に判らなくて困る……。
実際、笑っちゃいけない空気が妙に充満してて、客席がモヤモヤ、シーンとしてて、本当に逃げ出したくなっちゃったよ……。
本作に感じる雰囲気は、つまりはこんな感じに尽きていて、なんかなんとも、たまらないの(爆)。
んでもって、そこに至るまでには、何年後とか、10年後とか、思わせぶりな文字クレジットが差し挟まれるんだけど、そうした時間の深遠さは感じられないし、そもそもこういう、チャプター形式の場面転換が多すぎて、どこが重要なのか判んないまま過ぎていく感じも辛い。
佑介が遭遇する、ブリブリ女子に演技つけてる青年のシークエンスとか、一体何の意味があったんだかさっぱり判らない(爆)。……年を取ったということなのかなあ、私……。
一番ツラかったのは、流れ続ける音楽が、う、うるさい(爆)。監督さんは音楽に造詣があるんだろうか、ある意味逆に(爆)。
映画の音楽が聞こえなさすぎるのに意義があるとか??ピアノオンリーの優雅な音楽なのに、ビックリするぐらい流れっぱなしで、重要かもしれない台詞も聞き取れなくなる。まあ、重要じゃないかもしれないけど(爆)。
なんであんなに、コンサートかってぐらい音楽メインみたいに流すんだろ……映画を、人物の会話を、展開を、見せたいんじゃないのかなあ。
これはピアニストのミュージックビデオかと思っちゃうぐらい、垂れ流しだよ。うっ、垂れ流しなどという言い方はしたくないが、そう言いたくなるぐらい、ちょっと意味ないぐらいの流しよう。
時々止まるけど、それもあまり意味を感じない。まあちょっと、ここの台詞は聞いてほしいぐらいな感じだけで、ここぞという感じがなくて、ここまで流して止めてるのに印象度が薄いから、結果、せっかく止めて聞かせてる台詞も残らない。
ピアノ、好きだからさ、なんか哀しかった。こんな風に使われるぐらいなら、一切聴かせない方がいいと思うぐらい、
ここまででも充分、うーんと思ったけど、一番うわっと思ったのは、女の子は皆お姫様になりたいとか、王子様を待ってるとか、そういう台詞があったトコで、ああこの価値観なら、確かに私、ダメと思ったわ……。
冒頭のビルの屋上のシーンでのやりとりは、まさにそれを象徴していて、助けてくれる王子様を待ってる女の子で、もうだったら、私はダメなんだ。
でも駆けつけた彼は結婚できない、ウソはつけないと言ったんだから、つまりはその後の新たな、新しい時代の展開を期待も出来た筈なのに、そうはならなかった。
なぜ?あそこまで伏線張ったのに、何万年後(十万年後だか、百万年後だか)にもそれは叶えられないの?何を描きたいのか、判らないよーっ。★☆☆☆☆
ぜえんぜん、違った。それこそちらりと、を三回ぐらいしてれば、どういうタイプの映画かぐらい判ったのに。判ったら、足を運ばなかったような気がする(爆爆)。
これはつまり、そんな心理劇でも何でもなく、サスペンスアクション、と言ったら大げさすぎるかな、ほめ過ぎかな、いやいや(汗)。だってなんか、なんかもう、ツッコミどころが満載なんだもん。
その“青田買い”した監督さんは、ガンエフェクトスタッフとしてキャリアのあるお人で、そういう方向からの監督参入というのは、私の知る限りでは初めて。面白い方向性だとは思うけど、そう知ってしまうと、この底の浅さはそのせいか……などとヒドいことを思っちゃう(爆)。
いやでも、そもそもこれは監督自身の脚本ではない訳で、んでもって原作がある訳でもない、ということは、この脚本家さんのオリジナル作品?それとも監督自身にアイディアがあって、この脚本家さんに託したの??
そこんところが判んないと、うっかりクサすのも難しいんだよなあ(とか言いながらクサすくせにっ)。
でもこの脚本家さん、「休暇」や「アブラクラスの祭」 といった、かなり記憶に残る作品を手掛けているし、決して決して、彼自身の力不足という訳では……いやいや言葉に気を付けろ……。
うーん、でも、その二作品も原作ありきだったからなあ、オリジナルだよね、これ、いや確かに“二転三転する衝撃の(かどうかはアレだが)脚本”ではあるのだが……。
オチバレも含めてざっと概要を記すとね、あるファッション雑誌の読者モデルオーディション。失格者が編集長によって次々と射殺されてゆく。
編集長曰く、「誓約書にちゃんと書いてあったでしょ」失格したものは当社の規定の処遇に従ってもらう、みたいな曖昧な表現。
編集長曰く、美というものは表面なのだと。見えないものは美ではないのだと。肉体だと。
そして我々は永遠の美を求めるのだと、小指を立てて紅茶を飲みながら言うんである。「白いカップに入れる紅茶は、味も香りも違う。不思議だと思いませんか」と。
この編集長がねー、彼の芝居がかなりヤッツケな印象なのが一番ガッカリ度が大きかったかも。
フィルモグラフィーを見る限りかなり見ているし、実際、覚えのあるお顔だが、名前と顔が一致したのは初めてだと思う。でもそれがコレでは(爆)。
表面上の美にだけ価値を置き、それ以外は死んで当然と、楽しそうに射殺していくいわばサイコキラーなのだから、まあこういう演技プランは正解なのかもしれないが、ヤハリ作品世界の底が浅いから(爆)なのかなあ。
彼のマンガチック芝居が、それ以上に拍車をかけてハズかしさばかりに転化してしまう。
若手たちの中で唯一のキャリア役者、キャリアを生かしての遊び心のある芝居のなのかもしれんが、正直見てられない(爆爆)。
それはでも、やはりやはり、若手たちが、やっぱりちょっと、インパクトに欠けるせいもあるのかもしれないなあ。
編集長に比して言えば、皆真摯に一生懸命やっている(そんなことを言ったら、ホント編集長に失礼なのだが……)。でも、おっ、と思う子がいないんだよね。
これだけ人数、男女ともに揃えれば、一人ぐらいちょっとしたヒネりのある子がいるもんなんだけど、どうにもピンとこない。
改めてキャストの経歴を見てみると、こういうお話だからなのか、やたらモデルさんたちを揃えていて、このインパクトのなさは、芝居の深さ加減なのかなあ、などと思ってしまう。
いやさ、勝手な言い草だけど(爆)。そうだよね、芝居の経験なんかなくても、インパクトがある子はあるもんなんだもの。
でもやっぱりそれは、物語なり、役柄なりの問題だったのかなあ。先述したけど、ツッコミどころ満載なんだもん(爆)。
主人公のケイがこのオーディションに応募したのは、この雑誌のモデルであった兄が失踪したから。大オチを言っちゃうと、審査員として参加していた専属モデルの玲司がその兄であった訳で、オーディションに集められて次々殺されるのは、新鮮な皮膚を集めるため。
……というあたりにも曖昧さがある。ケイが玲司の弟であることを知った編集長は当然、即座に彼を合格にすることを決め、つまり彼の皮膚があればいい訳で、他の落選者を次々殺す必要はないよねと思うんだよね。
だってオーディションのたびに殺しちゃったら、フツーに考えて、突然姿を消した彼や彼女の親戚知人友人たちが、足取りを追えばどこが怪しいかなんて判っちゃうじゃん。
劇中、このオーディションのことを口外していいのかと聞く参加者に、宣伝になるからどんどんどうぞ、とにこやかに言うのは、結局殺しちゃうんだから意味ないからね、というウラがある訳だが、そんなウラを用意しちゃうとこんな具合にツッコミどころを余計にもうけちゃう浅はかさを露呈する……としか思えないんだけど、私、何か見落してるかなあ??
ちらりとも解説をも見なかったから、確かに最初の一人がいきなり射殺されたのにはビックリした、確かにね。でもだからこそ、それ以降は予想の範囲内だったかなあ……。
一番のキモの、顔かたちは違うけれど実はケイのお兄さんが玲司、というのも、かなり予想があたった感じだった。ミステリにあっさり騙される私が予想しちゃうんだから程度が知れる(爆)。
うーんでもねえ、だからこそ、ホントにそのオチかよ、とも思ったんだよね。そもそもなんでこの二人(もう一人、女性のモデルさん)を審査員としてこの場に立ち合わせたのか。皮膚移植を繰り返して定着させるために薬漬けで、ブルブル震えていつ倒れるか判らないような彼らを同席させる意味が判らん。
いや、彼らの新しい皮膚を得るためのオーディションなのだから、彼らの意見を、ということなのだろう、後から考えれば、まっとうに。
でも“後から考えれば”である。考えてみれば、であり、見てる限りでは彼らの存在は、このオーディションの怪しさを参加者にヒントとして与えるだけの存在としか思えない。
だって女性側のモデル、リンに関しては、「最近あまり見ないから……」と彼女のファンだと言って握手を求めたユイに言われちゃう訳でさ、それってその後明かされるこの編集部のやり方を考えると、使い捨てされてオワリのモデルの一人としか思えないじゃん。
玲司に関しては編集長が個人的にご執心で、彼のために新しい皮膚をという説明は一応つくけれども、「最近見てなかった」というリンに新しい皮膚を探して与えるというリスクを経てまで生きながらえさせる理由が判らない。しかもこれ見よがしにオーディション参加者の前に出させてまで。
そもそもなあ、皮膚を移植しただけで、そんな簡単に他人になれるかよ、こーゆーの、ひと昔ふた昔どころか、半世紀以上前の発想じゃないの??
いや、もっとかもしれない。だって日本には天才、手塚治虫がいて、かの「ブラックジャック」で形成技術も描かれているけれど、当然彼は医学者だったから、決して決して、他人の顔面移植してそのまんまその顔になるなんて幼稚な発想、描く訳ない!
そう、マンガチックなどと先述しちゃったけれど、それは芝居においてはまだいいけれど、こーゆー、根本的なところで、手塚治虫のいた日本人にこんなこと、通じないよ!!
それにさ、編集長は一体、どの時点の玲司を愛していたの。愛していたというぐらいだから、顔で愛していた訳じゃないとは思うけど、でも彼は、「君にとっては玲司じゃないのか」とケイに断り、とにかく玲司、玲司と愛しげに呼んでいたしなあ。
もし首尾よくケイの表皮をゲットすることになったら、今度はケイ、と呼ぶようになっていたんだろうか。でもそれじゃあ、それじゃあさあ……。
そこまでうがって考えてしまえば、「永遠の美なんかいらない」と自ら銃弾を胸に打ち込んだケイのその皮膚を、自らに施した編集長の、深い愛、というか、偏愛というか、と思えなくもないんだけれど、それは持ち上げすぎだよなあ。
正直、そこには相互の違和感、なんだよね。ケイが自らの心臓に銃弾を撃ち込んだ時、編集長は、あのキモい芝居(ゴメン!)の延長線上で、愛する玲司が死んだ哀しみも忘れた感じで、死にゆくケイの様子に「美しい……」と目を奪われつぶやいた。
……うーむ、こーゆー台詞を吐かせる展開じゃあ、そりゃまあこーゆーイタい芝居をするしかないかもしれない(爆爆)。まあそれはおいといても、美しいケイに自分自身がなりたくなっちゃったのかな、などと思うのはあまりに親切なうがちすぎかな。
でもフツーに考えて、あれだけ表面上の美を追求していた編集長が、自らはずっとそのまま年相応のフォルムのままだったのはおかしいかもしれん。
でもその理由ならば、ケイの皮膚を自らに施した以前の彼の主張は、それで他人を殺すかよ!という矛盾があるよね。てな具合にツッコミどころ満載だが、こーゆーのをマジになって追及すること自体がヤボなのだろーか。
こーゆー展開の物語だと、当然仕掛け人的な人物がいて、これまた超絶セオリー通りなので結構ビックリする。
面接会場に最初から出張っていて、私なんか合格する訳ないと卑下しまくって、自信マンマンの他の参加者たちにいそいそとお茶をすすめたり、灰皿代わりの紙コップを差し出したり、一人ひとり接触するのね。
いくらなんでもアヤしすぎる、と思っていたら、いきなり一人目が射殺された時点で参加者たちも疑いの目を彼女に向けるから、それじゃいくらなんでもセオリー通り過ぎるから、違うのかな、と思ったら、ほんとーにまんまだった。おいおい。
いやでもそれは別にいいの。一番怪しそうというのは、だからこそまさかねとハズされる人物でもあって、一時はちゃんと外れてる。
彼女が抵抗する応募者を冷徹に射殺する場面にはそれなりにビックリする。だからまあ、私みたいなアホな観客を騙すには成功していると言えば言える。
でも、そんなことも冷徹に遂行するほどの、つまりこの狂った編集部、いや狂った編集長に従属している彼女がさ、弟をかばった玲司をうっかり撃ってしまって、狂乱する編集長には「申し訳ありません……」と殊勝さは見せるけれども、兄を殺されたケイに対しては相変わらずの居丈高&小バカにした態度。これさあ、編集長の立場としてはどう思うの……。
そりゃ、そういう方向性で部下を育ててきたんだとは思うよ。でも大前提としては、編集長の愛する玲司をうっかりとはいえ撃ってしまうなんて、一番の大失態じゃない。それなのに、殊勝さは一瞬。
……こーゆーとこがね、気になるの。まあそれが気になるのは、恋だの愛だの、甘ったるいものが大好きな女子だからなのかもしれない。
編集長の芝居は確かにウザいけど、玲司への愛が本物だというリアリティを見せてくれたら、また全然、違ったと思うのよ。
編集長がナルシストだというのは、それまでの経過で判ってたから、玲司にかぶせるはずのケイの皮膚を自らかぶったという大オチは判らなくもない。
でもそこには玲司への愛はなくて、ナルシス愛のみだよね。それも引くけど、それもまたよーく考えると、ナルシスなら玲司だのなんだの、相手方に美を求めるんじゃなくて、自分自身で求めてる筈だよね。
そういうことになると、それがなされず死んでしまった玲司への愛をより深く感じて、うるうる来そうなもんだけど、おっかしいな、編集長自身の若く美しい男になったナルシス願望しか感じない(爆)。
んな具合に、結構ワカモン総出演だったんだけど、なかなか言及するまでのものがなかった(爆)。
最初に携帯に着信があった人が失格、というスリリングな場面で、ケンカしていたカノジョと会話する男の子の初々しさはなかなか良かったけど、それは本作で求められているものではなかったし、まあこの一つのクライマックスを盛り上げるための展開とキャラでしかなかった。
難しいね、惜しいね、彼にとってはチャンスだったと思うけれど、タイミングと作品に恵まれなければ、やっぱ難しいよ。
てゆーか、主人公の男の子がね……。これだけ暗く重いバックグラウンドを持っていながら、ただ単に無造作ヘアに小作り顔の男の子にしか見えなかったあたりが(爆)。
冒頭、道行く女の子とドカーンとぶつかる場面、彼女も参加者か、あるいは恋が芽生える相手かと思ったら、ケイとお兄ちゃんの幼い頃の写真を観客に示すだけのシークエンスだった。そりゃないだろ(爆)。割と可愛い、ファッションもフェミニンでキメキメの女の子用意していながら、そりゃないだろ(爆爆)。
うーん、やっぱりさあ、映画は、いやそれに限らず一つの作品は、用意周到さが大事よ。そればかりにとらわれるのもアレだけど、基本だもの。基本にザツ過ぎると、もうそこで終わっちゃうもの。★☆☆☆☆