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「ふ」


2009年鑑賞作品

プール
2009年 96分 日本 カラー
監督:大森美香 脚本:大森美香
撮影:谷峰登 音楽:金子隆博
出演:小林聡美 加瀬亮 伽奈 シッテイチャイ・コンピラ もたいまさこ


2009/9/24/木 劇場(シネスイッチ銀座)
なんかあまりにも予想通りに進んでいって、そのまんま終わってしまって、面食らいさえせず、ああ、そうか……などとつぶやき気味に思うばかりであった。
宣伝の段階で、何が起こる訳でもない物語、と再三に渡って言われていたから確かに予想通りと言えばそうなんだけど、その再三に渡って強調していたことが逆に、結果それ以上のものを生み出さないし感じさせないからガッカリしないでね、とでもいう牽制だった気さえした。

映画を前提として描かれた、桜沢エリカ氏の原作漫画は未読だけれど、当て描きかと思われるほど風貌や雰囲気が似ているキャスト陣(もたいさんなんかソックリ)、カットそのままの配置で撮られたカットなどを見るにつけ(宣伝でね)、ひょっとしてひょっとしたら、ホントに原作をまんまなぞるような作り方をしているんじゃなかろうかと思ってしまった。
それがこのつまらなさ(……言ってしまった……)につながっているのかどうかは判らないけど。

「かもめ食堂」「めがね」のスタッフ・キャストが集結、というのが最大のうたい文句でありながら、肝心の監督、脚本の名前が違っていたことにあれっと思っていたんだよね。
それまで正直、作風に苦しんでいたように見えた荻上監督が、まず「かもめ食堂」で一気に花開き、「めがね」もその流れを上手く受け継いだ二作品。
そのブランドをそのまま頂いちゃいましたとでもいうように作られていることが、観る前からちょっと引っかかっていたし(同じ監督さんだったら問題ないんだけどさ)確かに「かもめ食堂」も「めがね」も何が起こるでもない物語ではあるんだけど、でも何かが産まれていたし、何かを感じさせてやまなかったのだ。
なんかね本作は……ちょっと気持ち良さそうなリゾート地に行って、おいしいものをテーブルに並べて、穏やかにゆったり時を過ごせば癒し系の映画が作れる、みたいな安易さを感じずにはいられなかったんだよなあ。

確かに「かもめ食堂」も「めがね」も、いわゆる日常のせわしない生活から離れて、一見ノンキに時を過ごしているように見える。「かもめ食堂」なんて、それこそ本作と同じように日本ですらないんだからさ。
でも決して、日常や、日常の人々から隔絶されていた訳じゃなかったんだよね。そこでずっと暮らしている地元キャストが大きな意味合いを持っていたし、そのコミュニケーションが大きな魅力だった。

本作は、それがありそうに見えて、ないんである。確かにこのゲストハウスで京子(小林聡美)が世話をしている少年、ビーというキャラはいるけれども、彼はここ、タイの地元の生活を匂わせることはない。
母親から捨てられたのか、詳しい事情は語られないけれど、彼の描写は殆どがこの、日本人ばかりのゲストハウスで、学校に行っているという説明もあるものの、そこから「ただいま」と帰ってくるだけなんだもの。
しかも彼は、この空間で暮らしていくうちに覚えたのだろう、カタコトの日本語を器用に操り、タイの言葉などひとつも知らずにこの地に降り立ったさよ(伽奈)との会話も特に不自由する様子はない。
一応さよが「あの子はどこまで日本語を判っているの?私、大人気なくイヤなことを言ってしまったから……」などという台詞が用意されてはいるけれども、それが特にその後の展開に、何かを付与する訳じゃないんだよね。

まー、筋をざっとさらってみますと、筋と言ってもね、先述の様に何が起こる訳じゃないんだけど……とりあえず、設定はね、あるから。
舞台はタイのチェンマイ。京子が切り盛りするゲストハウス。こじんまりとしたプールが併設されていて、キッチンに併設された屋根のある広々としたオープンスペースがあるそこは、いかにものんびりゆったりとした空気が流れている。
ちなみにこのプールで泳ぐ場面なぞは用意されていない。見るからに浅そうで、映画内の描写のように、せいぜい足を浸したり、漂ったりするぐらいが関の山なんじゃないかとも思う。
そこには京子の他に、彼女が世話する少年ビー、オーナー(というのは、映画で語られていただろうか?)の菊子(もたいまさこ)、雑用的な仕事で出入りする市尾君(加瀬亮)などが出入りする。
犬やら猫やら豚やら、あるいは近くには野良牛も闊歩する、まるで一人ぼっちの皆が、それを忘れに、埋め合わせに来ているみたいに。

ある意味、ここでのそんな、何も変わらない日常を引っかき回しに来た、のが、本作の展開ってことなんだろうと思う。
京子の娘、さよ。たった一人の卒業旅行にここを選んだのは、勿論母に会う為であり、ひとことと言わず、言いたいことを言ってやろうぐらいの思いがあったんだろうと思われる。
でも彼女は劇中、それこそひとことしか言えないのだ。普通親は子供と一緒に住むでしょと噛み付き、それでもこの自由気ままな母親が「人間、一緒にいる方がいいとは限らないし」などと言うから、さよは「それでも私は一緒に暮らしたかったの」と搾り出す。
それだけ。小夜が言えたのはそれだけ。しかも母親の京子は「そっか……そうだったのか」と言うだけ。

いや、この返しについては、ヘタに言い訳めいたことや感動強要なことを言われたら興醒めだからそれはそれで良かったんだけど、ただ……結局答えが見えなかったから。
さよがね、お母さんのやりたいことって、おばあちゃんと私を置いていってもいいことなのか、と問い詰めた時も、彼女は何を言うこともなかった。
言うことが出来なかったんじゃなくて、言わずにいた、んだろうけれど。そして、京子のそうした生き方がイヤだというんじゃない、むしろ私は素敵だと思うんだけど。
そう、むしろそう思うだけに、京子にそれを大いに主張してほしい気分があったのかもしれない。

菊子が余命半年と宣告されたのに、もう三年も生きている、という設定もね、正直“それだけ”的に感じたんだよなあ。
確かに彼女がたくさんの捨て犬やら捨て猫を世話して、しまいにはここに捨てれば面倒を見てくれるだろう、みたいにまでなってどんどん増えてさ、その延長線上にビーがいて、いつか来る生の終わりの引き換えのように未来ある生を慈しんでいる、的なニュアンスがあるんだろうけれど……。
後付け的にそんな設定を考えてもなんかあざとい気がしたし、彼女が物語の最後にプールサイドで穏やかに(恐らく)死を迎えているのも、その展開からするとあざとく見えちゃうんだもん。
しかもその直前、空港に送られていくさよが、街中でノンビリお茶している菊子を“見間違えた”なんていう、それこそ“あざとい”前フリさえ用意されていると、余計に。

それで言ったら、加瀬君演じる市尾君のキャラが一番テキトーかも(爆)。
台詞上では一応、30まで実家にいて、だから母親を疎ましく思うこともしょっちゅうだったけど、離れてみるとありがたみが判る、という、あまりにもあまりなまっとうすぎる台詞を吐くので、半ばボーゼンとするぐらいなんである(爆)。
彼も京子さんや菊子さんと同様、さよを諌めたりは勿論、相談に乗ったりなんていうそぶりも見せず、見事なまでに“聞き流す”しさ。
もちろんそれが本作のコンセプトであり、「かもめ食堂」からつながるテーマなのだろうけれど、でも彼はまだ年若い青年で、この地に来るにはかなり強い理由があった筈。
ていうか、そんなこともキャラ付けに考えてないって気さえする。見た目的に癒されればいいや、みたいなさ。

“聞き流す”っていうのもね、少なくとも「かもめ食堂」は皆がオトナで、話さなくても察せられる、誰かがそばにいてくれるだけで安心できる、という雰囲気があったけど、本作の、しかもいわば主人公、いや主人公が京子なら狂言まわしと言ってもいいさよは決してそんな諦観を得た大人じゃなくて、それどころかお母さんとの関係を解決できていない子供な訳で……もうその時点で、「かもめ食堂」や「めがね」と同じようにはいかないのだ。
なんかね、こんなこと言っちゃうとアレなんだけど、心地良い雰囲気の中でのんびりして、親子関係が修復されたように錯覚させられたように思っちゃう。なんか何ひとつスッキリしないんだもの。

それは、舞台がタイであるという特色が、何ひとつ生かされていないというのもそうかもしれいない。結局、癒されそうな場所であるというだけの選択だったように思えてならない。
そりゃね、それなりにタイっぽい要素は入れてはいる。慈悲深い存在感が圧倒的な涅槃仏に触れるところから、さよのタイの生活は始まる。そしてその終わりは、僧たちがしずしずと道を行く中を、さよが空港に向かう車の中から京子と共に「きれいだね」「うん」という場面で締められる。
……というのは確かに象徴的ではあるんだけど、でも結局、それだけなんだよなあ。

まあでも、あの「かもめ食堂」でも、フィンランドの中で日本食にこだわっていたんだけどね。
でも、そう……それこそ“こだわっていた”のだ。あの場所が居心地がいいという前提ながらも、自分が日本人であることに“こだわって”いた。
そういう、核となることが、全然感じられなかったからなのかもしれない、つまらないなどと思ってしまったのは。
わざわざタイまで来てるのに、そこで求めるのはただただ“居心地の良さ”だけなんだもん。本作が“癒し系”とひとことで片付けられちゃっても、そりゃ、仕方ないと思っちゃうよ。

エピソードごとにブラックアウトするのも禁欲的と言えば言えるけど、そのまんまといえば、そのまんま過ぎる。それもまた退屈さを助長させてしまうんだよね。

日本の灯籠を思わせる、手作りの熱気球?など、心惹かれるアイテムはたくさんあるのだが……。 ★★☆☆☆


腐女子彼女。
2009年 97分 日本 カラー
監督:兼重淳 脚本:葛木英
撮影:伊東伸久 音楽:北城浩志 北城かずみ
出演:大東俊介 松本若菜 古川雄大 EMI 奏みずほ 落合恭子 日野聡 福山潤

2009/5/29/金 劇場(シネマート新宿)
腐女子というのはつい最近言われ出した言葉で、その定義はある程度固まっているみたいだけど……恐らくそれを、本作がカタチとして示しているのだろうけれど、腐女子がBL(ボーイズ・ラブ)に萌える女の子というのが第一定義なのだとしたら、これってホンットに、昔っから女子はいつでも腐女子だったよなー、と思う。
だって源氏物語の昔から、女性クリエイターの最古で最大の人物、紫式部は光源氏に少年と関係を結ばせていたし(あったよね、確かそーゆーくだり)BLがBLコミックスに限定されるとしたって、古くは「風と木の歌」や「トーマの心臓」に女子は熱狂し、雑誌「JUNE」が流行した。
そして映画で「モーリス」や「アナザーカントリー」(アナカンと略されていたっけ)が出た時は、美少年同士の禁断の愛の美しさに、女子は鼻血を出さんばかりに萌えまくった。あの時スターになったヒュー・グラントに、女子たちは自分の恋愛対象としてではなく、少年愛の萌えの目で見ていたのは間違いなく、今から思えばかなり変わったスターのあり方だったように思う。つまり女子は昔から、多かれ少なかれ腐女子であるわけなんだよなあ。

……と、大分話がズレてしまったけれど、それにしても昨今の腐女子はやはり、今までの腐女子的女子とはハッキリと隔てられた、ある意味独自の文化を確立したとも思う。つまり今までの腐女子的女子は、やっぱりどこか中途半端だったのだと。
恐らく今までの腐女子的女子は、それはあくまでティーンエイジャー時の一時的な感傷にも似たもので、フツーに恋愛をし、社会人となっていくに従って、その繊細で鋭敏な感覚は失われていってしまったように思う。
そう、これまでの女子は、大人の女になることと引き換えに、あのスバラシイ腐女子の価値を手放してしまったのだ。

でも今の腐女子、というか、腐女子という言葉を生み出した今の女の子たちは、違うんだよね。それは文化であり、確固とした存在であり、フツーの恋愛をしても、社会人になっても、そしてバリバリのキャリアウーマンとして世の目を欺いても、彼女たちは腐女子である自分を失わないし、誇りにさえ思っている。
一方で、そんな女の子が男の子に引かれることも重々承知しているから、確かに恋愛にはオクテになってしまう。でも一番大事なことは強引なまでに譲らない。
これはそんな、腐女子を彼女に持った、男の子の壮絶な闘いの記録である……というのは、彼のモノローグであり、この物語を導入する言葉なんである。

腐女子彼女、ヨリコさんと、彼女の職場でバイトに入った年下彼氏、ヒナタとの恋愛物語。大人な女性のヨリコさんにひと目で恋に落ちたヒナタは、勇気を振り絞って付き合って欲しいと告げたお祭りの夜、彼女から「私、腐女子なんだけど、それでもいいかな」とおずおずと告白される。
「婦女子?そんなのフツーですよ」「ううん、ヒナタ君の思っているようなことじゃなくて……」
彼が最初に連れて行かれたデート場所は、メイド喫茶ならぬ執事喫茶。彼女はイケメンの執事に萌えるのではなく、その執事同士がヒソヒソ喋り合っている様を眺めては、BLな妄想にふけって実に幸せそうなのであった。

しかもそこには彼女と趣味を同じうする友達たち、同人誌を作っているカスミや、人気コスプレイヤーの専業 主婦(主腐)ミルクが待ち構えていて、「ヨリコの彼氏?イイ!従順で、セバスチャンって感じ!」などと始まり、彼には理解不能な腐女子世界の言葉で盛り上がりまくるんである。
その後はスッカリ彼はセバスと呼ばれ、お嬢様に従う従者の形が確立。ヨリコさんはヒナタの家に入り浸って彼のアカウントで“世界に名だたるエロゲー”を買い込んじゃったり、ヒナタの友人コージとヒナタとの関係を、勝手にガンダム的に妄想して萌えまくるんである。

更には腐女子の聖地「乙女ロード」の入り口にそびえたつアニメ・マンガファンの殿堂、アニメイトで買い物しまくって「このために仕事してるのよねー」とキュンキュンしまくり、アニメDVD発売イベントで声優スターにBLな妄想で鼻血を出してぶっ倒れるわ、腐女子街道まっしぐら。
それに全部付き合うヒナタはヨリコさんが好きな一心で必死についていくけれど、時々心が折れそうにもなるんである。そんな奮闘の中、思いがけない形で二人に別れがやってくる……。

前半部分の、腐女子と恋愛する青年の苦悩が面白かっただけに、後半はすっかりフツーの恋愛話になっちゃったのが、もったいない気はしたかなあ。
まあ、最初からこれはフツーの恋愛話だと言ってしまえばそうだったのかもしれない。恋愛話は一つの障害があればそれだけで成立する。それを乗り越える盛り上がりで成立しちゃうから。
本作はその障害が、腐女子である彼女をどう理解するか、どう愛するかという部分だとばかり思ってて、というか、そうあるべきだと思っていたのね。そうでなければ本作を作る必要性はないじゃない。
でも、本作で設定された“障害”は違ったんだよね。彼女が腐女子であることをまだ乗り越えられたとは思えないのに、その前に彼女が海外勤務を命じられることで、否応ナシに二人は引き裂かれてしまうことになるのだ。で、その要素が提示されてからは、すっかりフツーの恋愛話になっちゃって、腐女子の要素なんてどこへやら、なんだよね。

これはホントにもったいなかったと思う……それまで腐女子の生態を微に入り細にうがち描写してきたのに、結局クライマックスは全然そんなこと、カンケーナイことになってしまうなんて。
それまで腐女子な彼女が描写されるだけだったからね、彼女がイギリス勤務が昔から夢だったなんてイキナリ提示されたら、ヒナタじゃなくったって、ええっと思っちゃう訳よね。
いや、確かに、腐女子である部分とフツーの社会人である部分は違うんだと私、言ったけれども、でも前半は彼女が腐女子である自分を、会社でバリバリやっている自分とは隔離している、というか、隠している、としか見えなかったから、彼女がそんな長年温めている夢があったなんて、そんな突然出されても、みたいな感じだったんだよな。

しかもそれ以降は、腐女子要素もすっかりナリを潜めてしまった。クリスマスの夜、ヒナタの方が彼女に合わせてスーツにレースエプロンというツンデレなカッコでクリスマスの夜を演出しても、彼女はスッカリ上の空で、ヒナタの愛蔵書の三国志を風呂の中に落としちゃうぐらいだったのだ。
イギリス勤務を聞いたヒナタは動揺するけれども、でも彼女の夢ならばとヨリコを後押しする決心をする。
しかし、いつ帰って来るかも判らないそれは、彼女との別れを意味する……この2年半、腐女子彼女のアンビリーバボーワールドに必死にくらいついてきて、今ようやく追いつけそうだったのに、また引き離されてしまったのだ。

そうそう、ヒナタがごくフツーの何っにも知らない青年だったからさ、ヨリコは彼を教育しようとガゼンやる気になるんだよね。でもね、彼女が「初心者ならまずはマクロスかな、そしてエヴァの綾波レイに萌えてもらって……」とウキウキと計画を立てるのに対してヒナタは、「じゃあ僕はヨリコさんに三次元の良さを教えて上げますよ」とさらりと言っちゃうのが萌えるのよね!!
彼女は「三次元なんて!」みたいな態度をとるんだけど、かといってヒナタとはやっぱりラブラブしたいからさ「そこが乙女心のフクザツなところなのよ」なんて拗ねる。こーゆーところがヒナタをヨリコさんにつなぎとめるトコなんだろうなあ。まさにツンデレ。
しかも彼女が年上で、デキる女だというのもまさにまさにツンデレである。だからこそ二人には別れが待ち受けているんだけれど……。

だからね、イギリス勤務の話が持ち上がってからは、ホントフツーの恋愛映画なんだよね。腐女子な要素は一つも出てこなくなる。まあ、そんな腐女子な彼女でも好きだから耐えてきて、今こういう事態になっても諦めることなんて出来ない!という流れとはいえ、ここからスッパリ雰囲気も展開も変わってきちゃうんだもん。
あのね、ヒナタがヨリコさんとのことを悩んでいた時に、親友のコージに相談するんだよね。彼は進学で上京した時から一緒の彼女と、4年間同棲を続けているという、いわば大ベテラン。
コージが「俺はあいつと趣味も同じで話も合うから……」と長続きの秘訣を披露すると、ヒナタは当然、ガックリと落ち込んでしまう。
当然、ヒナタがヨリコさんと趣味を同じう出来るわけもなく、どこかムリして“教育”されている今の状態に、彼は大いなる不安を更に倍増されてしまうのだ。

ヨリコさんの二次元の趣味と、三次元の関係を結びたいヒナタとは、絶望的な隔絶がある。一時ヒナタはヨリコさんとの決定的な違いばかりを絶望的に思うばかりだったんけど、真に彼女との別れが近づき、彼れは思いを新たにしたのだ。
腐女子であろうとなかろうと、ヨリコさんと一緒にいたい気持ちに変わりはないと。
自分がヨリコさんを好きな気持ちは変わりはないと。
だから行ってほしくない、と彼はヨリコさんに気持ちをぶつけるんだけれど……。

私はね、趣味が同じとか、話が合うとかいうことは、カンケーナイと思ってるのだ。むしろ、そんなもん合わない方が、恋愛関係や、あるいは結婚関係もうまく行くんじゃないかと思ってる。
だって私は、自分の好きなことは、自分だけで完結したいクチなんだもん(爆)正直、パートナーにはジャマされたくないなあ、自分のテリトリーはさ。友達とか、趣味仲間の範囲なら勿論、いいけれども。
そこが恐らく、腐女子のネックだと思うんだよね。だからその世界に入り込ませた彼女はうーん……どうなのかなと個人的には思うけど、最後にはキューンと来ちゃったから、ま、いっかあ。

そもそもね、仕事で遠隔地に行くことになったパートナーとの別れ、というシチュエイションは、今まではやはりそれは男で、で、女が彼を追いかけていくといのが王道パターンだった訳で、そのことに対して女は少なからずイラッとした気分を抱えていた訳でさ、でも今回は逆な訳だ。
ただそれも、女の方が年上で、バリバリのキャリアウーマンで、年下男子はまだ学生で、っていう、思いっきりハンデつけられてるじゃん、っていう状態なのが、やっぱ女はそれぐらい頑張らなきゃ、男女の立場を逆転することも出来ないのか、みたいな思いは、正直あるかなあ。
それでもやっぱり女はカワイイ男の子好き、ツンデレ好きだから、ヒナタがヨリコさんを追いかけて留学を目指してMBAをとって、彼女のイギリスの自宅に突然訪ねてくるラストには、ヤラレちゃう、ヤラレまくっちゃうんだよなあ!
彼女の言うとおり「こんな突然キュンとさせるの、反則だよ!」てわけでさ。

結局メインがさ、腐女子から離れてしまったわけじゃん、つまりはさ。
腐女子についていけるかっていうハズだったのが、そこをいつの間にかクリアして、遠距離についていけるかってテーマがクライマックスに据えられちゃったんだもん。
ただね、その腐女子の難題に耐え続けるヒナタ役の大東君は良かった。まさにセバスって感じの純情で従順な感じだった。笑った時の歯のむきだし加減が若干気になったけど(爆)、ウブで控えめな感じが、実にセバスな感じがしたよなあ。
彼女に伊達メガネをかけさせられて、それなのに「セバス、もてるでしょ。カッコイイし、頭いいし、メガネかけてるし……」って言われるのにはちょっと、笑ったなあ。
イギリス出発の朝、彼女の足の爪を切りながら、「一人で爪を切れるようになってくださいね」と静かに言うシーンが好きだった。つまりヨリコさんは身体が固くて自分で足の爪が切れないのだ……うーん、セバス。

全体にテンションが低めだったのが気になった。腐女子のテンションは高いんだけど、それを見つめる展開が低くて、ちょっと冷めた感じがしちゃったかなあ。★★★☆☆


PLASTIC CITY プラスティック・シティ/PLASTIC CITY
2008年 95分 中国=香港=ブラジル=日本 カラー
監督:ユー・リクウァイ 脚本:ユー・リクワイ/フェルナンド・ボナシ
撮影:ライ・イウファイ 音楽:フェルナンド・ロコナ/半野喜弘
出演:オダギリジョー/アンソニー・ウォン/ホァン・イー/タイナ・ミュレール/ジェフ・チェン/フィリピ・ハーゲンセン/アントーニオ・ペトリン/ミルヘム・コルタス/アレクサンダー・ボージュ/クローディオ・ジャボランディ

2009/3/31/火 劇場(ヒューマントラストシネマ渋谷)
若干集中力を欠いた状態で観始めてしまったのがいけなかったのかもしれない。物語の筋がイマイチ追えなくて???状態。
オダジョー演じるキリンと彼が慕う父親代わりの男、ユダとはそもそもどういうつながりでここまで来たのか、そもそもキリンはアマゾンで両親を殺されたというけれど、なぜ?何のとがで?
途中出てくる台湾エリートやら、かつてのユダの友で今は全く違う、政治家の道を歩んでいる男、コエーリョとはどこで選ぶ道を違え、表面とはウラハラな心理戦を展開するようになったのか。
そもそもユダがやっている裏稼業自体が“ニセモノを作ること”ぐらいしか提示されなくてイマイチよく判んないし、そのことに誇りを持っているらしいキリンの、その矜持がどこからくるのかも更に判らないんである。
んでもって突然アマゾンやら白トラやら奥地の少数民族やらが出てきて疑問符は更に増大し、終わってみれば一体どんな話だったんだろう……などと思ってしまうんであった。

何のつてでかギドク作品に続いて海外進出となっているオダジョー。ギドク作品が日本語であったのに対し(日本人の役でもなかったのに……)、今回は見事なポルトガル語を聞かせてくれる。え?あれは吹き替えじゃ……ないよね?
彼の奇妙な長髪もここではピタリと似合ってて、イレズミメイクもバッチリな彼は、裏稼業で新進気鋭の働きをする若きカリスマ、キリンにハマっている。
彼の、日本人離れした、しかしだからといってどことも知れない不思議な雰囲気は、なあるほど、こういうキャラに活きてくるのかあ、と思う。
過度にセクシーなブラジル美女とのラブシーンも、堂に入ってるしね……確かに彼の風貌は、かの地の美女にもウケるかもしれない。
ただ、脱ぐと案外貧弱だったのがちょっとガックリきたけれども(爆)。スラリとスレンダーな身体は、別に着やせしている訳でもなく、脱いでもそのまんま。
なまっちろい身体は、ちょーっとセクシーには程遠いんだよなあ……彼の顔とキャラがやたら色気たっぷりなだけに、脱いだらコレかあ……などと思ってしまうのであった(爆爆)。

いやだから、そんなことはどーでもいいんだって。しかし、そう、キリンは日系ブラジル人、だったのね?そういうところもイマイチ判然としないんだよなあ。
そりゃあ舞台がブラジルで、彼がいかにもアジア系の風貌なんだから日系ブラジル人、なのかもしれぬが、彼の出自は冒頭、ユダとともにジャングルの中を逃げている描写だけでさ、ひろわれっ子?捨て子?どんな事情かも判らないんだもの……。
まあつまり、かの地ではそういう事情の人が多いのかもしれないし、出自の判らない彼のような人間が、そんなキッカケで闇社会に身を投じるってことなのかもしれない。

でもそれってさ……なんか往年の日本の仁侠映画も思わせる気がする。どこの馬の骨とも判らない男が、ヤクザの親分に拾われて、その仕事が世間から後ろ指差されていると知ってはいても、むしろ若さゆえにそんなことも誇りに思ってて、何より恩義のある親分は絶対で、いつでも彼のために死ぬ覚悟で……みたいなさ。
で、親分の方はというと、自分のために優秀な若者がこんなごくつぶしの世界で潰れていくのが耐えられなくってさ、で、どんどん若くて勢いのある世代にも台頭されるし、かつての友は、友の顔して平気で裏切るしで……つまりは老け込んじゃって、自分の身を処する決意をして、って、これまたまさに王道の極道だよなあ。
観てる時には気づかなかったけど……ホントそうだ。

冒頭、キリンはなんか、高い建物の上から、下々の者へ、現ナマをバラまくんである。「オレが作っているのはニセモノだけど、これはホンモノの金だ」と。それにこそ彼は誇りを持っている。
いや……ホンモノをありがたがる金持ちに対するアンチテーゼなのかもしれない。彼のそんな誇りの持ちようは、だからちょっと、哀しい気持ちも感じてしまう。だってつまり彼は……ホンモノへの誇りを持ったことがないってことなんだもの。
それって、彼自身がどこの誰とも知れないという気持ちからも来ているのかなあ。だからこそ自分を育て上げてくれたユダに対して、崇拝にも似た気分を彼は持っているのだけれど。
でもユダは、キリンが優秀な若者だからこそ、自分を継いでこんな家業を続けていることを負い目に感じているんじゃないかとも思うし……。

正直、ユダの心持ちが判りにくいのが、本作を判りにくくしている一番の原因じゃないかとも思うんだけど。
キリンはね、若いし、単純だし、フーゾク女(いや、単にセクシーダンサー)とカンタンにこの先を約してしまうあたり後先考えないバカな男の見本なんだけど、それだけに、判りやすいんだよね。
向こう見ずにオヤジを信頼してて、時に気恥ずかしいほど自信満々に敵を陥れる(気になっている)。
ユダの幼なじみでコスい政治家になったコエーリョに対して、人食いワニを使って脅しをかけるシーンなんて、そのアイテムからしてあまりにベタで、ちょっとハズかしくなってしまった程。
でも、そのキリンの純粋さが、じわじわと彼を追い詰めていく。牢獄に閉じ込められていたユダ自身は、自分と、彼を含めたそれまでの権威がもう役に立たないことを感じていたけれど、キリンは恐らく……最後まで、それを認めようとしなかったのだ。

ハメられたと言ってもいいユダの逮捕から出所後、事態は一変していた。
ユダの威光はもう全く通用しない。新しい時代に突入していたのだ。そう、まさしく、古い極道ではない時代に。
ユダが所有していた船と貨物が、ウラ金が関わっているという理由で没収されそうになる。
その危機を、一応は救った明らかに下っ端の男までもが、ユダに尊大な態度を取り始める。
もうこの時……ユダは悟ったのだろう。
でもその悟りは……悲しすぎる。

そもそもこの地、そして物語の始まりは、ここで起こったゴールドラッシュが発端となっている。貧しい民が一瞬にして夢の金持ちになれた。
その夢の余韻がこの地にまだ残っているんだけれど……それは“ニセモノ”でカネを手に入れるという方法でなのだ。そりゃ手に入れたカネはホンモノだけど、なにか、奇妙に歪んだ構図を感じずにいられない。
ゴールドラッシュで一気に金持ちになった、かつての貧しい民を、つまりは成り金を、世はニセモノと見たのではないかと。所詮、育ちの卑しいヤツらだと。カネの威光をカサに来たニセモノだと。その気分が根強く残っていたんではないか。

そう考えると、判りにくい脇キャラもその役割が見えてくる。新興台湾エリートの男はしかし、かつてのゴールドラッシュのガツガツした金持ちと違って、颯爽と、手っ取り早く真のセレブな雰囲気を身につけている。
カネに汚い政治家、コエーリョは、カネに対する欲望をヘタに隠さないところが、返ってキリンたち裏稼業の男たちの矜持や誇りを、無意味なものだと斬って捨てる結果となっている。
つまりキリンやユダは……滅びゆく男の美学なのだ。それが証拠に、散り際が大事だとばかり、ユダはかつてキリンと出会ったアマゾンで彼を待ち構え、彼の刃によって自らの人生に幕を下ろすんである(当然、ユダがムリヤリ制裁させたんである)。

……さっきも言ったけど、ほおんと、極道的だな、と思う。ま、アマゾンでの少数民族と現地住民との殺伐とした攻防(によって、酋長が死んでしまい、ユダが後釜に座る)など、掘り下げる要素はあるけど、その掘り下げが逆にうっとうしいというか、判りにくいというか。
そもそも、ゴールドラッシュにニセモノ市場の裏稼業、政治家との裏取り引き、新興金持ち国との攻防等々、挙げてみると実はかなりベタ、なのよね。

そのベタの最高潮は、キリンとオミズなブラジルダンサーとの関係にある訳だけど……。
彼女は何の事情でか、子供を残して働きに出て来ていて、その子供に会いに一緒にここを発とう、と恋人のキリンに誘いをかけてる。
このハキダメから抜け出すのはアンタが最初だと、同僚のダンサーからうらやましがられてた彼女だけど、結局……それはかなわなかった、んだよね。
そもそもその子供ってのは、キリンとの間の子なのか……いや……恐らく、多分、絶対、違うよな、っていう雰囲気なんだよな。

だってキリンは、絶対孤独、なんだもん。恋人はともかく、家族なんて、ありえない。
彼が慕っていた父親は、ニセモノを稼業にするニセモノの父親であって……そりゃあ、血がつながっていることを重視するなんてナンセンスだけど、ナンセンスだと思えるのは、それこそ経済的に余裕のある金持ちだからなのだとも思う。
贅沢な人間は、原始的なことから、より遠ざかることに価値を見い出す。そして、原始的なこと……その最たるもの、血のつながりをナンセンスだと言えることに対して、自分の器の大きさに酔いしれるのだ。
愛こそが、絆こそが大事だとか、言い出すのだ。そりゃ、それは最上の理想だけれども……。それに、土壇場に追いつめたらその価値観もくるりとひるがえすくせに。
キリンとユダとの関係は、その点で非常に危ういバランスの元にあったと思う。お互い血がつながっていなくても親子だと誓い合っていたけれど……でも……決してそうではないということを、お互い判っていたから……。

なんていうか、そう考えていくと、この物語って、ニセモノとホンモノ、それが容易にクルクルと入れ替わるところにテーマがあるのかな、って気がする。
ゴールドも、パチモンも、裏稼業のカリスマとしての地位も(多分、この凋落が一番あっという間だった)、そして親子の絆も、それが血がつながっていようがいまいが、全て幻なのだということを……。

そう思えば、意味が判らんと思った白トラの存在も、何となく判った気持ちになれる気もしてくる。
彼(彼女?)は、ニセモノもホンモノも、血のつながった親子も、キョーミないのだ。
ただ、目の前の一瞬を見極めるだけ。
その白トラの存在感に、ついに人間が勝てなかった、ということかもしれない。

もう使い物にならんユダ(手下たちの間の、失望した雰囲気)を狙った抗争。キリンはこんなユダのために闘うことが、どこかでためらいはなかっただろうか……。
そのシーンはいきなり、意味不明なほどファンタジーに飛んでしまう。な、ナニ?アレは?ぎっしりと無機質な建物が建つ都市をバックに、半月をひっくり返した形のよーわからん高台の上で、キリン率いる軍団と、対決するグループとが、まさに極道映画そのまんまの、血で血を洗う抗争を繰り広げるんである。
最終的にメインの二人だけが残るところまで、往年の任侠モノにソックリ。しかしこのやたら丁寧なシーンが、果たして本筋に寄与したかは疑問だが……無意味にファンタジーな合成カラーだったしなあ。

うーむ、最後までよく判らなかった。あ、メインキャストのもう一人、ユダの美女愛人、オチョというのもいたんだけど。キリンとちょっとビミョーな仲になるという。
あら?それってオヤジに対する一番の裏切りでは……。ますます判んないなあ、ほんとにもう。★★☆☆☆


ブラック会社に勤めてるんだが、もう俺は限界かもしれない
2009年 104分 日本 カラー
監督:佐藤祐市 脚本:いずみ吉紘
撮影:川村明弘 音楽:菅野祐悟
出演:小池徹平 マイコ 田中圭 品川祐 池田鉄洋 中村靖日 千葉雅子 田辺誠一 須賀貴匡 森本レオ

2009/12/11/金 劇場(ヒューマントラストシネマ有楽町)
思いがけず号泣。いやー、まさか泣くとは思わなかった。いや、後から知るに、この掲示板発信の物語もまた、多くの閲覧者を泣かせてきたということなんだけど、なんせ観る前は、そのタイトルの長さの物珍しさと、数多くの変人キャラが出てくるということで、期待半分不安半分といったところが正直なところだったから。
……個性的キャラというのは、結局はステロタイプに分けられることが多いから、ヘンそうに見えてヘンじゃない、個性的な映画に見えそうで平凡だったりすることが往々にしてあるもんだからさ。
そして監督が佐藤監督だということも、期待半分、不安半分。確かに「シムソンズ」「キサラギ」と快作を飛ばしてはいたけれど、ひょっとしてここらで撃沈だったりして?だってベストセラーの映画化っていうのは一番コケやすいしさ……などと失礼千万なことを思っていたのだが。

そうなんだよなー。考えてみれば、過去二作も横並びにメイン級の登場人物を数多く配して、その采配ぶりは見事だったのに、なんでそんな勝手な不安を覚えていたんだろう。この監督はそういう采配が得意な人なのかもしれない。
本作はもちろん、ブラック会社に勤め始める元ニート、マ男が主人公ではあるし、彼の苦悩を語っていくのだけれど、でも実は、彼の目から見たそれぞれの登場人物たちの物語でもあるんだよね。
むしろマ男は、このブラック会社の実体や勤めている人々の悲喜こもごもをあぶり出す、狂言回しに過ぎないかもしれない、などとさえ思ってしまう。それぐらいきちっと社員たちのキャラが立っていたから。

とはいえ、もちろんマ男に共感しない訳にはいかないんだけどね!そう……まさか彼にどっぷりシンクロしてこんなにおいおい泣くとは(いや……おいおい泣きたかったけど劇場だから……心の中でね)思わなかったよ。
それってヤバいんちゃう、いろんな意味でと自分に突っ込みつつも、でもさ、社会人であるならば、すべての人が多かれ少なかれ彼に共感するんじゃないかなあ。一から十まで理想的でラクな職場なんて絶対、ないもの……そりゃ、こんなにヒドい職場じゃうちはないけどさ(って、言っとかないとね(爆))。

しかしこれ、原作は未読なんだけど、ひどくよく出来てるんだよね。ほおんとに原作通りの展開と登場人物かと思うぐらい、ひとつの物語としてよく出来てるんだよね。
原作を読もうかとも思ったんだけど、原作の方にどっぷりハマりそうなんでやめといた。それでも本屋でちらりと立ち読みした限りでは……オチ(などという言い方は良くないのだけれど)はきっちり同じだったから、かなり沿っているのだろうということにちょっとビックリした。
いや、そんな風に言うのは不遜かなあ。事実は小説より奇なりと言うし、人生は時々、神様の掌の上で回っているような感じは確かにするし。

オリジナルの方は、さすがにあのオチに至るまでは数年という期間を要しているらしいのだけれど、そこは映画なので、印象としてはもっと短い感じ。
しかしそこは、映画ならではの時間のマジックを上手く使って、それなりの時間の経過があるにも関わらず、彼自身に降りかかる出来事があまりにも畳み掛けて起こるので、あっという間に時間が過ぎ去る、といった雰囲気で見せきってしまう。
……てことは、映画そのものも原作同様の3年ぐらいの月日は経っているのかもしれない……印象としては半年かそれぐらいな感じだけど。

でもね、その前段階があるから……彼がこのブラック会社に勤めるまでの前段階。それがあるからこそ、彼はここまで苦悩する訳なんだけど……。
高校でイジメにあってニートになった彼は、数年の洞窟生活を経てこの会社に就職した。
直前の母親の死がきっかけになった、のかもしれない。いや、母親から親はいつまでもいないのよと言われて、母さんが死ぬ前には働くよ!と叫んだ彼は、実際、それこそがきっかけだったのかもしれないが、母親は彼のスーツを買いに行ったその帰り道、交通事故に遭って命を落としてしまうのだ。

実はまずここが、あらー、出来すぎじゃないのと思った一点なのだが、実際事実なのなら申し訳ない(爆)。
それと劇中、彼の父親がリストラに遭い、しかしそのことを頑張っている息子に言えず、更に胃がんで倒れてしまうのだけれど、これもまたあらー、なんか作りすぎと思ってしまったのだが、これまた事実だったら申し訳ない(爆爆)。
でも、こうした出来事が実際起こらなくても、一人っ子であろう(特に言及はしなかったけど、あの描写はそうだよね)彼が感じている、家付きの親に依存している自分への焦りって、相当なもんだと思うんだよね。
もちろん親は、自分の味方になってくれてるってことは判ってる。でも、いじめにあってニートになっちゃったってことは、学生時代上手く友達も作れなかったってことで……(これ、ちょっと気持ち判る)それで兄弟もいないとなると、同年輩の“味方”が誰もいないってことになる訳でさ、……これってかなりキツイと思うんだよなあ。

とはいうものの、これはあくまで前段階である。彼がウッカリ、ブラック会社に就職してしまったところから本チャンは始まるんである。
いや……ここで彼を採ってくれたってことが、実にラストクレジット後にまで引っ張る諸悪の根源だったってことが、そう、ブラック会社がブラック会社たる所以だったってこと、なんだよね。
「ラストクレジット後にも映像がございます」という案内があった時は、また某映画みたいな、あってもなくてもいいようなテキトーな感じなんでしょと(某映画が何かは言えない……)思ったけれど、そう、これはあの!佐藤監督なのである。そんな訳がないのだ。きっちりとそこまで計算して、マ男がトンでもないところに就職してしまったことをきっちり示し、彼の勇気とやる気をたたえながらも、や、やっぱりここはヤメた方がいいのでは……と思うんである。

そう、なぜこの会社がマ男を、中卒でキャリアもないマ男を採ってくれたかっていうのは……だからこそ使い倒せると思ったからなんだよね。
これってキツいんだけれど……マ男は、面接するとこするとこ、その学歴とキャリアのなさで落とされる。今まで何してたの、とあからさまに呆れた態度をとられる。そう言われたら……何も言うことは出来ない。決死の覚悟で立ち上がっても、世間はひどく傲慢で高飛車なのだ。
そこで救ってくれたこの会社を、彼が救世主だと思ったのはムリはない。
しかし、なぜ救ってくれたかを考えれば……それはこの会社がマトモじゃないからなんである。
それは……マ男がクライマックスで、もうガマンも体力も限界になった時に吠える台詞に見事にリンクするのだ。
「オレはマトモになりたかったんだよ!」と。
そして、そこで、思わず知らず共感して、涙ゴーになるのだ。

……おっと、またしても思いっきり先走ってしまったけれども。そう。この物語はとにかくマ男がこの社会常識が通用しないブラック会社で苦しむっていう話なのよね。
そもそもマ男というのは掲示板上のHNではあるんだけれど、なぜそう呼ばれるようになったかっていうと、社長が社員に通達したメールで、真男というところがマ男と間違っていたことで、すっかり定着してしまったんである。
マ男って……音的にもかなりヤバイ感じだし、しかしもはやフツーにそう呼ばれちゃうのよね。

「雰囲気が良さそうだ」などと思ったのは、社長から社員に紹介されたほんの数秒。社長が去ると一変する。
いや、一変したのは……彼をよろしく頼むネと言われた、“リーダー”であった。
このリーダーを演じる品川氏がキョーレツ。もう前半は彼が「ブワァーカ!!」と何度も吐き捨てるように言うのだけで、マ男ならず観客までもへこんでしまうぐらいの威力。よく関西の人が東京のバカは凄く強い感じに聞こえて傷つくと言うけれど、なんかそれをひどく実感した気がしたなあ。彼がバカ!と吐き捨てるたびに胸がヒヤッとして……キツかった。

そのリーダーに腰ぎんちゃくよろしくくっついているのが井出。彼が一番キョーレツ!何たって池田鉄洋なんだもん!ガンダムオタクというのが彼自身の個性には弱すぎると思うぐらいだってのが(爆)。
とにかくその時強い立場にいる人物にサッとくらがえする身の早さは、秒単位なんだから!
しかもしかも、底辺ながらも一応IT会社にいて、プログラマーという職についていながら、基本的なことからひとっつも判らない使えなさ!いや、その使えなさは、それこそ使えない私にとっては身も縮こまる思いですが(爆)。まあだからこそ、なんか憎みきれない気持ちがあったのかなあ。

憎みきれないっていえば、それこそリーダーがそうなんだよね。ホント、あのバカの連チャンと高圧的な態度は見てるだけでツライものがあったんだけど……。
でも彼が実はメッチャ単純な男だというのが後々明らかになっていくんだもの。ちょっと持ち上げ、頼りにすれば、あ、そう?てなぐあいで気持ちよく動いてくれちゃう。だからこそスキルもなにもない井出が彼を持ち上げまくって、会社での居所を作っていたんだろうけれど。

そう考えると、井出のそんな存在のあり方も同情が出来るというか……。
マ男がリーダーに抜擢されればアッサリ鞍替えし、しかしその彼を攻撃しようとリーダーが動けばアッサリ元に戻る変わり身の早さは、この会社しか自分を置いてくれないという思いがあるからと考えれば、なんか身につまされる思いも感じるんである。ま、もちろん観ている限りはサイアクなヤツには違いないのだが……。

社長の愛人で、「営業でもないのに、外での経費が落ちる訳ないでしょ!」と憎々しげに言い放つ瀬古女史もキョーレツである。
領収書にガムを吐き捨てて投げ捨てたり、あげくの果てにはシュレッダーにかけさえする。ほおんとに、こんな女にはなりたくないという感じなのだが……。
彼女もね、デスマ(納期に間に合わせるための徹夜の作業、デスマーチ)にはちゃんと参加してお抱えの壺ガムをおすそ分けしたりするしさ、な、なんか、何気にイイ人なんだよなあ。

そう、こんな風にここに残るしかない人々は、つまりはお人よしってことかもしれないんである。
その最たる人物は、マ男が絶大の信頼を寄せる藤田さん。窮地に陥るマ男を細やかな気遣いで励まし、助け舟を出してくれる、まさに奇蹟の人である。
彼が新人に優しくするのは、実はホモだからだと耳打ちされて、それはリーダーと井出の仕掛けたウソだったのだけれど、思わずマ男は「藤田さんになら抱かれても……」と思ってしまう。
演じる田辺誠一は、彼自身のいい人キャラのオーラを存分に発揮するステキさ。しっかし彼、一昔前はその端正な美形っぷりで私クラクラ来ていたのにさあ、今やすっかり癒し系になっちゃってさあ。いや、別にいいけど。そんな彼もステキだけどっ。

そういえば、ここまで書いてきてて忘れてたけど(爆)、これって掲示板発信の物語で、一応マ男が掲示板に書き込む描写も示されてはいるけれど……その書き込みはほとんど反映されてないんだよね。
いや、そう思うのは、そういう映画のさきがけだった「電車男」があったからであり、「電車男」はまさしく、書き込みのアドバイスや励ましに後押しされて展開してた物語だったからさ。
でもこれは……発信が掲示板だったってだけで、一応、劇中マ男が書き込みしたり、展開に反応する書き込みが示されたりはするけれど、極めて最小限で、なくてもいいぐらいでさ、一人の青年の物語としてきちっと存在していることが印象的だったんだよね。

そう……それこそ「電車男」は、ひょっとしたら書き込みの存在がなければ、一つの物語として見れば、映画にするにはキビしいぐらいの、なんてことない物語だったのかもしれないのだ。
それを考えると……それを踏まえていたのかもしれない。これは、一つの映画として成立するのだからという思いが、あえて“書き込みに励まされる”という要素を極力排除したのかもしれないと思うのだ。
それこそ「電車男」では、書き込みしたパソコンの外側の人々を役者に演じさせさえしたけれど、本作はほんのちょっと書き込みの文字が画面に現われるだけ。
しかもそれは「ここが限界なのか?」とか、「藤田さん、カッコイイ!抱かれてえ!」とか、当りさわりなく、つまりスクリーンの外側の観客も思っている言葉に過ぎない。
マ男はそれに応える形で述懐していくけれども、つまりここで語る時には既に終わっている出来事であって、励ましやアドバイスが彼の進路を変えるという訳ではないのだ。
いや、それはもちろん、映画上の話で、実際の掲示板では違ったのかもしれないけれども……。

唯一のヒロインとして、派遣社員として登場した中西さん、演じるマイコ氏が予想を裏切らないキテレツさ!彼女がこの映画に参画すると知った時から、コリャハズレはないだろうとワクワクしてたもの!
顔立ちは端整な美人、スタイルもバツグン。だからこそリーダーや井出はすっかり舞い上がってしまう始末。しかし思いがけず藤田さんに恋してしまった中西さんは、ストレートにアタックした末にフラれ、“精神的ショックで”と松葉杖をついて現われる!
「中西さんは、常識の皮をかぶった非常識な人だった」というマ男のモノローグに、若干の笑えなさを感じるのはナゼだろう……(爆)。うーむ、昨今はこーゆー人が決して珍しくはないからだろうか……。

この物語が“事実にしては出来すぎ”などと思わず感じてしまうのは、田中圭扮する木村の登場があるからだろうか。いやそれこそが事実は小説より奇なり、というところなんだろうけれど。
中盤になってから新入社員として現われる彼は、何たって田中圭だから(ちょっとお気に入り♪)さわやかでカワイイ風を存分にまとって現われる。
しかし彼は大手ITからの転職であり、「大手にいたからって気にせずにどんどん使ってください」と笑顔で言う。それに対して間髪いれずリーダーが「さわやかにイヤミを言う」と言ったのは確かにドンピシャで、彼は羊の皮をかぶったオオカミだったんである。実際は単純なリーダーを手玉に取るのもお手のものなんだもの。
ウラの顔をもつ田中圭なんて初めてで、なんだか私は彼のツンデレを見たような気がしてドキドキしちゃうんである。

しかしひょっとしたら彼もまた、単純で憎めないというキャラの一人だったのかもしれないなあ。だって彼は、まさかマ男が「入社2週間でプロジェクトリーダーを任された」張本人などとは思わずに、そう、マ男は使える駒ぐらいに思って「それって藤田さんかな。僕と同じタイプかもしれない。気に入らないんだよね」みたいに、アッサリとオオカミの本質をさらけだしちゃうんだもの。
そう、起業を目指す野心家の彼は、この会社をのっとるつもりで現われたんである!!

しかしそう、何たって2週間でリーダーを任されたのはマ男だったのだから……しかし早稲田大学出身と皆に思われていたマ男は、しかしそれは誤解で、ただ単に早稲田の地の出身なだけで、それが暴露されてからマ男の居心地はガクリと悪くなってしまうんである。
中卒という言葉がマ男にグラリとのしかかる。……それまでの、単純にキツイ仕事に追い込まれていた時よりも、リーダーの罵声におののいていた時よりも、ずっとずっと辛い、皆のさげすみの目。
……いや、ひょっとしたらそれは、マ男が殊更にそう感じていただけで、皆が皆そんな目で見ていたわけではなかったのかもしれない。実際「藤田さんまで」とマ男が感じていたのはカン違いで、藤田さんはこういう時に声をかけない方がいいと思ってくれていたのだから……。
しかしあの“常識の皮をかぶった非常識な人”中西さんが「マ男さんのずぶとさがうらやましいです」などと言うもんだからマ男はもう針の筵で……てか、それはオメーだ!と叫びたいわ、中西さんよ!

追い打ちをかけるように、マ男の父親が倒れてしまう。なんと胃がんだというんである。「夢で母さんに会ったよ。でも追い返された。お前が一人前になるまではこっちにきちゃダメだって」ううう、このあたりから、私の涙腺はぶっ壊れ始めるんである。
そして、更にマ男に一番の打撃を与えたのは、彼の心の支えであった藤田さんが辞めるという衝撃の事実!
木村君が自分の存在を誇示するためにムチャな納期の(それまでだって充分ムチャだったのに)仕事を引き受けてしまって、会社がケンアクムードになっていた時で、しかも藤田さんが辞めるなんてまで言うもんだから、もうマ男は真の限界に達して「辞めてやるよ、こんな会社!」と叫ぶんである。

……この場面はね、マ男が皆に向かってモノローグをするんだけど……これはほおんと、小池君はこの役さあ、好演というより熱演だと思ったなあ。
いつか藤田さんに聞かれましたよね、「なぜ君は働くの?」って。その答えは……「マトモになりたかったんだよ!」そうマ男が叫んだ時、泣きながら叫んだ時、こっちの涙腺も修復不可能なぐらいに大破壊。
こ、こんな切実な理由ってあるだろうか。でもさでもさ、今、どんなにやる気があったって、マ男のように中卒だとそれだけで嘲るように門前払いで……でも彼が中卒になってしまったのは彼のせいじゃないのに。
そうやってマ男を貶めたヤツらは、知らない顔して高校卒業して大学卒業して、それこそブラック会社なんかじゃないマトモな会社で働いているのに。
それでも、そんなこともう今更言わない、ただひとつの望みが「マトモになりたかったんだ」っていうのが凄いグサリときて、もう涙が止まらなかったのだ。

「辞めてやるよこんな会社!」と叫んだマ男を迎えに来たのがあの中西さんで、そして彼女は藤田さんの秘密を彼に教えてくれるのだ。
なぜあの出来る藤田さんがこんな会社に勤めているのか……。それは、弁護士を目指していた彼を支えてくれていた藤田さんの恋人が、過酷なプログラマーの仕事で追いつめられて発作的に自殺してしまったから。
ずっと彼女に寄りかかっていた藤田さんは罪滅ぼしのために弁護士を諦め、自らがプログラマーとなって働き始めた。そして今、その恋人の親御さんの会社から声をかけられているのだという……。

そして納期は既に明日に迫っている。「辞めるにしても中途半端は良くないんじゃないですか。行きましょ、会社」と中西さんに笑顔で言われても、その時はマ男はまだ、行けなかった。
一日中街をフラフラして、でも……いつもいつも自分を追いかけるように見守っていたそれまでの自分、パソコンの中に作られた、ボサボサ頭にダラダラしたカッコの、ペラペラの、切り抜きみたいな自分が「もう限界だろ、戻ってこいよ。この居心地のいい場所に」と誘う。
うつろな目をしたそれも確かに小池君なのに、ゾッとするほど違って、そして……今のマトモになりたいマ男は叫ぶのだ。「ココにいる時、もう俺は限界だったんだよ!」そしてようやくようやく、走り出すのだ。

深夜の会社、明日の納期を目指して、皆がデスマの真っ最中。マ男が駆け込むと、「おせーよ!」「マ男さんの分を分担してやってましたから」皆が何事もなかったように迎える。
そして……まさに地獄のようなデスマの中だからこそ、リーダーも木村君も、そしてあのお局様である瀬古さんですら、他人のことを思いやれるようになっているのが泣かせるんだよなあ!
だってリーダーがいつも奴隷のようにこきつかっていた上原さん(中村靖日、最高!)の仕事をこっちに回せと言うなんて、信じられないしさ!そしてそして……ありえないと思っていた納期に無事間に合ってしまうのだ!

でね、今二人に辞められたら困る、という空気になってね、藤田さんはマ男を慮って「じゃあ僕の方が代わりの人が来るまで辞めないよ」と言ってくれるんだけれど、そんな藤田さんをマ男は屋上に引っ張っていくのね。
いつも藤田さんが優しく声をかけてくれた場所。ひとときのランチタイムだった場所。藤田さんは行ってください、とマ男は言った。藤田さんがいたから頑張れた。これからは僕一人で頑張れると思うと。

……この時点で私はダーダーに号泣なのだが、更に藤田さんが言う台詞でもうダメなんである。
マ男の告白にふっとまじめな顔になって、判った、僕は辞めるよ。と言った藤田さん。「必死に頑張っている後輩がいたから頑張れた。その後輩は今僕と話している」
!!!マ男と一緒にこっちも号泣ダー!深々と頭を下げるマ男。うう、こーゆーあたりが日本人っていうか浪花節。
そしてそしてね、タイトルクレジットと同じように書き込みそのままのあの文字で、「ブラック会社に勤めてるんだが、俺はまだ頑張れるかもしれない」出来すぎっと思いつつ大号泣。頑張れ、マ男!

マ男、こんな会社、辞めちまえと心のどこかで思う一方、ノイローゼ気味の上原さんが言うように「僕はこれしか出来ない」と、ここにしか居場所がないっていうのもあるし、そして……サイアクだと思われた人間関係もね、人間ってマイナス部分を殊更に大きくして見るところがあるから……いいところを見つけてしまうと、どんどんいい部分が見えてくる。それもまた人間のいいトコなんだ!救いが見えたし、ああ頑張らなきゃと思ったなあ。

テンション高めに突っ走って、それこそかなりなブラックユーモアもあれど、最後にはまるでスポコンものを見終わった後のようなさわやかな感動が訪れるんだから、もうこれでいいかげん、佐藤監督に対する期待値は不動のものになったってことだ!★★★★★


ブルーフィルムの女
1969年 80分 日本 カラー
監督:向井寛 脚本:宗豊
撮影:浜野誠之 音楽:
出演:橋本実紀 小柳リカ 大杉久美 藤井貢 曽根秀介 河東啓介 水森レオ 古岡一郎 内田高子

2009/3/2/月 劇場(渋谷シアター・イメージフォーラム/WE ARE THE PINK SCHOOL!)
ヒロインの女の子が、最後の最後の最後までカラミを見せないっていうのが凄い。それでなくても当時のピンクはカラミはぐっとゆるくって、結構安心して見られるのに、この美人の女の子が「体を売るような安っぽいことはしたくない」と言うんだもの。ものすごーくお金に困っているのに。体を売っちゃえば、もうイッパツなのに。それこそピンクの女の子たちはみんな、そうしてきたのに。
この、ちょっと信じられないぐらいの潔癖さが、しかし後半一気に崩れ、彼女は自分の体がいかにカネになるかということに目覚めると、女としての資質がどんどん噴出し、最後には悲劇を迎えるのだが……。

この向井寛監督の作品は初めて観る、と思う。昨今は滝田洋二郎監督の師匠として、よく名前を取沙汰されるお方。
80分という尺は今のピンクに比べたらずいぶん長めで、普通の映画のボリュームぐらいな感じがするんだけど、それにしたって物語がぎゅぎゅっと詰め込まれている。そう、この清楚で潔癖な女の子が、その信念を中盤まで保てるぐらいの展開がぎゅうぎゅうに押し込まれている。
彼女がそこまで潔癖にこだわるのはもちろん、彼女の目の前で母親がカネのために陵辱されたから。
その屈辱の気持ちを自分だけで抱えたまま、母親は死んでしまった。一瞬でもそれを、お父さんのせいよ!となじってしまったのは、彼女自身も女であったからに他ならない。

彼女のお父さんはね、それまでは自信満々の、強気の買いで知られる相場師だった訳なんだよね。でも物語の冒頭でいきなり株が大暴落。
東京証券取引所、証券会社のビルがあおり気味の画角でとらえられ、かかってきた電話に彼は苦悩の声をあげる。
あかん、もうあかん、もう死ぬしかない……。彼はこの月末までに、2千万円という大金を悪辣な金貸しに返さなきゃいけなかったのに、この絶望的な結果である。
どうやらそれまで相当イケイケだった彼は、どんなに駆けずり回っても金を融通してくれる人はいないらしい。そりゃそんな人がいれば、こんな見るからに悪者顔している金貸しから金を借りたりしないだろうさ……。

しかし当然のことながら、妻子は必死で止める。死ぬ気になればなんだって出来るだろうと。そこにつけこんでこの金貸しは言ったのだ……ならば奥さんをちょいとお借りしたい、と。
年相応にしっとりとした和服美人の奥さんを見て、いやらしい笑いを浮かべる。もちろん夫は拒絶するんだけど、奥さんの方が決心してしまった。
半年に期限を延ばしてもらって、さらにその先に連れて行かれた場所がマズかった。半年の無利子、三年の期限順延の言葉につられて、この金貸しのキ印の息子の相手をウッカリ引き受けてしまったのだ。
土蔵の中に押し込められながらも父親の溺愛を受けている息子の、赤い長襦袢を身にまとい、口からよだれをたらした様はゾッとするばかりで、これならまだ、父親の方のエロジジイの方がソノ気になるってもんで。
ヘビやネズミがうろちょろする、暗くて湿っぽい土蔵でキ印息子にのしかかられ、呆然としたまま帰路につく途中、彼女は車にはねられて死んでしまったのだ。
それでなくても妻を陵辱されたことにショックをうけていた父親は、痙攣を起こして半身不随の身になってしまった。

あー、もう、こんな序盤から、既にお腹いっぱいじゃないの。しかしここからがどんどんスゴいんだけど……。
なんかね、画はすんごい和風に、しっとりとしているんだよね。山水画を思わせるようなグレイッシュな画面に、寂しい枯れ枝がすっと伸び、ぽとりと落ちそうなぐらいに熟れたオレンジ色の柿がぽつりぽつりと枝に残っている、みたいな。それ越しに、奥さんの体を借りるおぞましい交渉などがなされたりして。
そして彼女が悲劇の死を遂げてしまうと、火葬場から高く伸びた煙突に競うように、巨木の枝ぶりが幾何学的に曇り空を覆い、その隙間から夕方の光が差し込んでる、みたいな。なんかやけに美しい画に、ウッカリピンク映画だということを忘れてしまいそうになる。
それにカラミのシーンは確かに、序盤、中盤、後半とそれぞれ濃い展開の中にちゃんと散見はされるんだけど、几帳面なまでに物語に必要とされるソレだし、すごくソフトでアーティスティック。ヒロインを居候として住まわせるフーゾク嬢のソレでさえ、そうなんだから。やはりこの“ピンク創世記”は手探りの状態だったんだろうなあ。

カネをためて、金貸しのウチヤマに叩き返す。母親のカタキを討ってやる。その一心でヒロインは、父親を介護しながら働き始める。
彼女の仕事が観ている時にはどーにもよく判らなかったんだけど……激しく点滅するライトの中で踊りまくり、更衣室で着替えてサヨナラ、ってだけだから……あれはゴーゴークラブってことらしいのね。
彼女はなんたってイイ女だから、店のマネージャーから目をつけられて襲われそうになったりもする……しかしそこは、彼を最初に喰っていた同僚から「ドロボウ猫!」と言われて追い払われるのだけど(懐かしいセリフだ……)。
そんなこともあり、父親が娘に負担をかけないようにと自ら命を絶ってしまったこともあり、彼女はフーゾク嬢の身の回りの世話を条件に住み込んで、地道な内職にいそしむ。
その時にフーゾク嬢に、「男と寝ればいいのよ。1時間もアーン、ウーン言ってれば、5千円もらえるんだから」と言われ、「そこまで自分を安売りしたくないんです」とおずおずながらも彼女は言ったのね。当然そのフーゾク情は「安くて悪うござんしたね」とご立腹だったんだけど、ヒロインがそこから自分の身体を売り物にするまでには、そう時間はかからなかった。

そりゃあ身体を売ったら最後だとは思うけど、2千万の借金を、叩っ返してやる、と意気込んでいる彼女が、一本5円の造花のアルバイトなぞを大人しく続けているのは、確かに覚悟が足らない気はしたんだよなあ。
彼女のお母さんは、女の覚悟がそこにあるって判っていたからこそ、地獄に飛び込むつもりで決断したんだしさ。まあ、ホントに地獄に飛び込んじゃった訳だけど……。

しかし、あるパーティーに出席するだけで、10万のカネがもらえると聞き、彼女は承諾する。金持ちの男たちの前でハダカで踊るそのバイトは、裸身にエロティックなスライドが映し出されて、金持ちのエロジジイたちは舌なめずりする勢いで、はちきれんばかりの美しいヌードを見ている。
その趣向もアーティスティック、なのよね。ストリップダンスのようにエロに見せるんじゃなく、後姿でお尻を揺らしているだけ。
もちろん、セックスをする訳でもない、ほの暗いスペースで、ほの暗い裸身を見せる女の子たちを、男たちが固唾を呑んで見つめている。エロティックなんだけど、妙にアーティスティックで。

そのパーティーの次の場面からは、もう彼女は自分の身体をウリにしているんである。「この身体が30万か」と、エロジジイはほくそえむ。
彼女のモノローグがつぶやく。お父さん、ごめんなさい。でも、金を稼ぐには処女なんてジャマなの。だから処女を高く売ってやったのよ、と……。
この時代の一晩30万は(先の、フーゾク嬢の5千円を考えても)相当な高値の処女相場であろうと思われる。そりゃあこんな美しい処女を“突破”できるのなら、金持ちにとっては決して高い買い物ではないのかもしれない。しかし彼女にとっては……。
彼女はね、後半のシークエンスに至るまで、恋愛というものには無縁だったんだよね。そりゃそうだ、こんなキビシイ状況におかれていたらさ。
恋愛も知らないうちに母親の陵辱を見せ付けられ、そして処女を高く売り……。悦楽の演技をすることは、女だから造作もなかった。それはきっと本能的なものだったと思う。でもホントに恋愛の幸福と、そのセックスの喜びを知ったのは……最後の最後の最後、ほんの一瞬だったのだ。

ていうラストの前に、こここそがタイトルとようやくリンクする場面が現れる。ウチヤマに叩き返す金を作る切り札、金持ち連中に自分とのセックスを撮影したフィルムで脅して、カネを巻き上げようという計画。
金持ち男たちと、まったく同じ展開でセックスまでに至る描写、実に5回繰り返される。
アパートのドアに迎えるネグリジェ姿の彼女。レコードに針を落とすと、ムードたっぷりの音楽が流れ出す。男とチークダンスを踊る。その二人をカーテン越しに覗くようなショットまで、カメラアングルも全て同じである。
ただ、ちょっとずつ変化するのがベッドインまでの経緯で、最初は恥ずかしげにネグリジェを胸元で止めるしぐさも見せ、セックスも受身だった彼女が、積極的に歓喜の声をあげるようになるのね。
そんなに女のカラダは単純に開発されるものでもないと思うけど(特に、同じ相手じゃないんだしさあ)。でも、処女から他人にゆだねてきた彼女の経緯を思うと、なんかやけに生々しいんである。

この計画を練ったのが、彼女が最初で最後愛してしまった男。でも実際はクズ男だった。彼女が騙した中にはエロジジイだけじゃなく、結構ハンサムな金持ち息子もいたのに、彼女はそれ以上カネをしぼることも考えず、アッサリとそれを売ってしまったのだ。
ウラの世界を知り尽くしていると思しき彼は、そのフィルムは燃やしてしまう約束だったじゃないか、と焦りの色を見せる。それが原因だったのか何なのか……。
人気のない郊外に乗り付けた二人、カーセックスをしている二人の車に静かに近づく一台の白い車。その車から出てくる男の姿を見た途端、甘美なセックスから我に返ったように彼は彼女の首を絞めるのだ……なぜ?なぜ!?彼女も、そして観客もワケが判らないまま、車の窓から空しく断末魔の手を突き上げる彼女……一体、なんでよ!

最初から最後まで、悪役の一番手である金貸しのウチヤマ、娘一人になったヒロインにも執拗に返済を迫り、その催促をしに現れた喫茶店の払いも彼女に押し付けるようなシブチンで、ヤラしい顔してるし、ホンットムカつくんだけど……。
でもなぜか、最終的には彼は、所詮小悪党に過ぎなくて憎めないわ、などと思っちゃうのは、彼がキ印の息子のことをホントに心配して、愛しているから、なんだよね。
高校までは優秀なコだった、つまり、大人の男の身体になってから気が触れてしまった息子が、女を欲しているのを不憫に思ってあてがったのが、ピチピチの娘の方じゃなくて、経験のある母親の方だったっていうのもね……。まあこのウチヤマ自身は、娘に手を出す気持ちがかなりありそうだったけどさ。
そろそろ発情しそうな身体をもてあましている息子に「女を連れてきてやるからな」と話しかけるってことは、そんな風にいつも、無体な方法で女を都合してるってことなのか……。
しかし、この時点では息子はもうガマンの限界だったらしく、なんとこの父親相手に挑みかかってしまうというのが!!!「違う、違うって」と焦りまくりながら若い男の力を跳ね返せずに、ついにバックでぶちこまれてしまって、情けない声を出すウチヤマには、なんか少々の哀れみを覚えつつも爆笑!

考えてみれば、悪役の筈の彼の哀切極まりないとはいえコメディリリーフが、救いになっていたのかもしれない。
彼女の非業の最期が、なんで!?と思いつつ、ただ、途中まではすごく理性的だった彼女が、女の身体がこんなに高値になるんだと知った途端の変貌も悲しかったからさ……。★★★★☆


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