home!

「そ」


2019年鑑賞作品

空の瞳とカタツムリ
2018年 120分 日本 カラー
監督:斎藤久志 脚本:荒井美早
撮影:石井勲 音楽:阿藤芳史
出演:縄田かのん 中神円 三浦貴大 藤原隆介 内田春菊 クノ真季子 柄本明


2019/4/30/火 劇場(新宿K's cinema)
ものすごく単純かつ安直な連想だったんだけど、ただ単純に男女三人の組み合わせに「はなればなれに」を思い出し、あの三人のうち同性二人をLGBTに設定したように思っちゃったのである。おかしいやね、だって私、「はなればなれに」がどーゆー映画かも覚えてないのに(爆。しかも男女三人に組み合わせも逆だし)。
ただ、男女三人が、友情のようなそうでないような奇妙な結びつきで仲良く一緒にいることと、恋愛感情がねじれた方向性で絡んでいることと、そんな男女三人というのが、実に映画的に画になる、ということが、古今東西、クリエイターが惹かれる題材なのだなぁと思った。

でも正直、この三人が「三位一体」と言われる仲良し三人組のようにはどうしても見えなくて困った。この台詞が吐かれるのは三人がバランスをとるようにボートに乗って「夭折した有名人」を思いつくままに言い合う、という、文芸的な感じにちょっと背中がザワザワする場面でであるから余計そうなのかもしれないが……。
そんな風に言われていたよね、と本人たちに言われても、いきなり提示されても、そ、そうなの??とか思っちゃうばかりで……。
ちょっとフライングして結果的な印象を言っちゃえば、映画的画的に魅力的な三人を配置して、そのうち二人を今ハヤリのLGBTにしてみた、みたいに感じてしまう。そしてそれは当然、そうカンタンにはいかないのだ……深い深い、問題なんだもの。

これが不思議なことにね、それこそついこないだ同じ劇場で数十年ぶりにデジタルリマスター版として復活した「風たちの午後」の方が、当時LGBTなんて言葉もなく、作り手自身、そうした意識もないままに作っていたと思うんだけど、その深い深い問題を、純粋に、透明に感じさせる力が、あったのだ。
この違いって、どこからくるんだろう。正直な印象としては、今の時代にLGBTのなんたるかを掘り下げないまま、形として貼っつけたような感じがしてしまったんだよなぁ。

彼らは、芸大系と思しきの大学時代の友人三人である。もう、卒業している。男の子は貴也。演じるはこの作品で名のある役者二人の内の一人、三浦貴大君である。今は広告代理店で働いている。
女の子二人が、いわばダブル主演である。一方は、大学に残っている訳でもないのだが、教授のところには入り浸りながら、コラージュ制作を続けている夢鹿(むじか)。こーゆー字を当てるのか。見てる時にはムジカ、ラテン語あたりに置ける音楽、ミュージックということなんだろーなと思いながら見ていたが、音楽とは全然関係ないしなぁ……。
そして夢鹿に思いを寄せているのが、超潔癖症が故に、アルバイトも続かないような生活を続けている十百子(ともこ)。これも凄い字当てるなと思う。見てる時には全然判らない。別にいいんだけど、こーゆーこだわりはよく判らないなぁ。

こだわりといえば、この「空と瞳とカタツムリ」というタイトルは、そもそも相米信二監督の遺作「風花」のタイトルとして最終まで残ったものだというのだが、でも本作は全く違う、オリジナルのお話だし、なんでそれが引っ張られるのかなぁという純粋な疑問。
そもそもなぜ「風花」のあのお話でこのタイトルだったのかも不思議だが。本作は純粋に「空と瞳とカタツムリ」というタイトルからインスパイアされて紡ぎ出された物語なのかなとも思うが、カタツムリのところだけじゃない?雌雄同体っていうのは、夢鹿がバイセクシャルということだけではないの??違うかなぁ……。
内容も何も関係ないのに、相米信二を引き合いに出してくるのが、違和感を持ってしまう。勝負どころが、違うんじゃないのと。

でまぁ、脱線したが、十百子は家に帰ってくると、鍵を開けた後、携帯ウェットティッシュでドアノブを拭いて中に入り、石鹸で念入りに手を洗い、服を全部脱ぎ捨てて洗濯機に入れ、洗剤を無造作に箱から振り入れて洗濯機を回し、シャワーを浴びる、と言った次第である。
とにかく手を石鹸で執拗に洗うシーンは何度も出てくる。今時ハンドソープじゃなくて石鹸かぁと思い、それは潔癖症の人のこだわりなのかなと思い、私はアトピー持ちなので、石鹸かぶれにも悩まされているので、これは絶対できない、彼女にとっては私のようなアトピーさんは汚い存在なのかもしれんなぁと思いながら見ていたので、後に本当にアトピー持ちの青年が現れて、「僕のこと、汚いと思っているでしょ」と言うもんだから、ほんっとうに、ビックリする。
いやー、驚いた。心を見透かされているような気がしたが、んな訳ないが(爆)、本当に驚いたなぁ。

それはかなり後の展開になってからなのだが。十百子はそんな具合なので、男性どころか他人に触れることも出来ない。触れることができるのは、夢鹿だけである。つまり彼女のことを愛しているから。
愛している、という意思表示をしている訳ではなかったけれど、その他の表現、触れられるのはあなただけとか、そういった、聞いているだけでほっぺたが赤くなるようなことは散々言っているから、もう判っているようなもんなのだけれど、どうなのだろう。

少なくとも夢鹿は「私はどんな男とでも寝る女」と言ってはばからず、まず登場は芸大生の前で一糸まとわぬ姿のヌードモデルとして現れ、その後もセックスシーンのみならずぽんぽん脱ぐ。
後半には十百子もまた、苦悩の果ての展開になってぽんぽん脱ぐのだが、双方ともにとてもスレンダーで、十百子に関しては胸も痛々しいほど薄くて、まるでエロい感じはしない。それを狙っていたのか、あるいはただ、脱げる女優に当たったらそうなったのか。

……いやその、ちょっとね、このお二人さんは、あまりピンとこなかったんだよね。脱げる女優さんというのは、とても重要。その身体すべてが役者というもの、求められる作品で脱げないぐらいなら、役者じゃないだろ、とか思っちゃう。だから賞賛すべき、と思うのだが……。
なんか芝居自体があんまりピンとこなかった(爆爆)。いや、そもそも彼女たちのキャラクターというか、想いのありどころがピンとこなかったということなのかなぁ(爆爆)。

十百子の想いは最初から、判りやすい。夢鹿のことが大好き。そして、彼女はきちんと?レズビアンなのだろう。男性とセックスするということ自体が、潔癖症ゆえに他人に触れられない以上に、考えられない。……というこのキモの設定自体が、明確に伝わらないウラミは、あったかなぁ。いや、本当に、まるで女子校で先輩に憧れるような気持ちで、夢鹿のことだけが大好き!!というキャラだったのかなぁ。こんなイイ年こいて??
夢鹿に関してはさらに、あいまいである。バイセクシャルなのだろう……というのは、最終的な推測に過ぎない。結果として、実は十百子のことが好きだった、十百子の夢鹿に対する判りやすい想い以上に、夢鹿こそが十百子のことが好きだった、ということらしいのだが、これが、後半になって突然提示されたという印象が強く、しかもそれが、突然事故死してしまった貴也の幽霊?(夢鹿の妄想だろうか……)からもたらされるという更にの突然感覚で、え、え?そうだったの??という戸惑いばかりを感じてしまう。

いやそりゃぁ、それを示唆するような展開はあったさ。どこか突き放すように十百子に対して貴也と寝ろと言ったり、十百子に思いを寄せるアトピー青年(爆)鏡一(なんかいちいち、名前の字面にこだわるんだなぁ)、と十百子の目の前で寝てみたり、そもそも「私は誰とでも寝る女」と言ってみたり。
しかしてこの台詞自体、うっわ、今時こんな台詞言うのと思ったけどね。それこそ昭和!って感じ。全体的な台詞の展開の感じも、凄く意識的に淡々としていて、なっが!と思ったりして(爆)、なんか昭和のインディーズ映画、みたいな感じがしたなぁ。

今は絶滅寸前となってしまった成人映画館が、十百子のアルバイト先として出てくる。館主が利重さんというのが泣ける。平成どころか昭和の遺跡、もう令和には失われてしまうであろう、この文化。
上映終了後に座席で死んでしまっている老人のエピソードや、その老人の客であった美青年、十百子に見せつけるように客席で男たちに身を任せていた夢鹿。そう、これはもはや平成ですらない、情景なのだ……。

夢鹿は十百子に、潔癖症で男とのセックスなんて考えられない十百子に、「汚いものを見せてあげる」と言って、座席で股を開いて、二人の男に身を任せたのだ。スクリーンでかかっている吉岡睦雄がカラミやってるピンク映画と共に、去りゆく時代の寂寥感をいやおうなしに感じさせる。
もう吉岡氏だって、一般映画でしっかりと活躍している。ピンク映画自体、平成に生き残っていたこと自体が、奇跡のようなものなのだ。

十百子に恋してしまった美青年、鏡一をアトピー持ちの青年にしたのは、どの程度までの覚悟があったのだろうか??
「僕のこと、汚いと思ってるでしょ」という台詞には凄く重みがあったし、さびれた街かどで男たちに身体を売っているという悲壮感を漂わせていたし、個人的には、彼のキャラクターが本作の中で一番、強い印象に残ったけれど、やっぱりちょっと、戸惑いもあった。

これをネット社会の単純さのように、アトピー患者に対する差別とか糾弾するのは簡単なのだが、まぁそういう気持もちょっとなくはないが(爆)。
逆に、もっともっと、その疎外感を、その哀しみをさらけ出し、それを十百子に、彼女自身の苦しみに呼応する形で、受け止めてほしかった、気がする。そういう描写ではあったとは思う。

十百子は鏡一の苦しみを受け止めて、彼自身を全身で受け止めた、とは思う。でも……結局は双方ともに自分自身を受け止めきれないまま終わってしまって。
いや、判ってるさぁ、それこそが今彼らがここまでしか行けない到達点であるのだということぐらいは。でも、わざわざアトピーさんを持ってきて、セクシャルなトラウマのことも判るけど、私はね、私は……凄く、期待しちゃったのだ。

アトピーさんといえば、「ハッシュ!」の脇キャラで、軽くコミカルに描かれたことがあった。決してイヤな気持ちはしなかった、なぜかって言えば、正面から、あっけらかんと、描いてくれたから。
本作は、深く描いてくれただけに、物足りなさが残ってしまった。ことに、十百子の潔癖症との対比があるべきだったから、そこを避けるように、逃げるように、まるで描かなかったことも、悔しかった、そうか、私は、アトピーさんとして、悔しかったんだなあ。

あれ、なんかよく判らないシメになっちゃった。まぁ、そのぅ、わたしゃ百合モノ好きなんで、ちゃんと真摯に向き合う女の子恋愛ものが見たいのさ。男はいらないのさ(爆)。アカデミックも文芸もいらない。そーゆーこと!!★☆☆☆☆


トップに戻る