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「か」


2001年鑑賞作品

かあちゃん
2001年 分 日本 カラー
監督:市川崑 脚本:和田夏十 竹山洋
撮影:五十畑幸勇 音楽:宇崎竜童
出演:岸惠子 原田龍二 うじきつよし 勝野雅奈恵 山崎裕太 飯泉征貴 紺野絋矢 石倉三郎 宇崎竜童 中村梅雀 春風亭柳昇 コロッケ 江戸家小猫 尾藤イサオ 常田富士男 小沢昭一


2001/11/13/火 劇場(渋谷エルミタージュ)
市川崑監督の新作だというのに、何かたいした宣伝もされず、マーケットこそ大きいけど、ひっそりと公開されているという感。……これは作品の地味さを反映しているのかなあ。久々にまっすぐにまっとうな人間ドラマだから、こういう扱いはかなり残念。モダンでバタくさいイメージのはずの岸惠子が、ホラ吹きで、子供たちを、人間を愛する愛しいかあちゃん役にさすがの上手さでのり移り、その子供たちはうじきさんに勝野雅奈恵ちゃんという全くもって善人面ばかりがはせ集まり、そこに忍び込む泥棒まで原田龍二という優しげな顔。長屋の他の住人たちが、「この不景気な世の中に、あの家族ばかりがカネを貯めこんで……」などと陰口を叩いても、観客には一向にこたえない。

長男、市太の大工仲間で、生活に困ってつい帳場の金を盗んでしまった源さんが牢から出てきた時に、新しい仕事で出直してもらおう、とおかつ(岸惠子)とその子供たちは長屋のつき合いもそこそこに幼い末っ子に至るまで働きづめに働いている。ナマケモノの癖にうらやましがる他の長屋の住人、四人衆は、仕事をさぼっちゃ呑み屋に集まって、その家族の金回りの話ばかり。事情を知らない彼らの目には、一家はただの守銭奴にしか映らないんである。

その話を同じ呑み屋でもれ聞いた勇吉(原田龍二)は、やはり食い詰めて、その日すっからかんになんにもないボロ屋に泥棒に入って、何にも取れずに逃げ出してきたばかりだった。彼らの話でおかつの家には金があると知った勇吉は、この日二度目の泥棒に入る。しかし遅くまで針仕事をしていたおかつに見つかってしまう。このお金がどういうお金か話すから、それを聞いても持っていくというなら持っていきなさい、とおかつは源さんの話をする。もともと心根のやさしい勇吉はそんな話を聞いてしまうと、この金を取れるわけがない。すごすごと引き下がろうとする勇吉をおかつは引きとめる。行くところなんてないんだろう。いいからこの家にいなさい、と。子供たちには遠方から来た親戚だと嘘をつき、それを受け入れて勇吉に親身にする子供たち。いたたまれず、長女のおさん(勝野雅奈恵)に自分の身を明かしても、彼女は「かあちゃんがあなたを親戚の勇吉さんと言うんだから」とひるまず、他の子供たちも、おかつの嘘を見抜いているようだけれど、あたたかく受け入れてくれている。

源さんの帰還に勇吉も立会い、その無償の愛情に改めて心を打たれる勇吉。仕事も見つかり、市太たちと一緒に働くことが出来るようになった。「俺は生みの親には捨てられて……こんな風にされたこと、なかった」と感謝の気持ちをもらす彼におかつは「親のことを悪く言うような人間は大嫌いだよ!」と震える声で一喝する。ハッとなる勇吉は、おかつの人間への深い愛情に、本当の意味で気づかされる。かあちゃんは耳にほくろのある男にヨワいんだ、父ちゃんにも耳にほくろがあったからねと三之助(山崎裕太)たちに聞かされて、自分の耳のほくろに手をやる勇吉。暖かな笑いがこぼれる。仕事に行こうとするのを引き返し、お仏壇に手を合わせるおかつを見つめて、勇吉が心の中でつぶやく「かあちゃん……」という言葉がスクリーンに優しく響く。

脱色することによる、モノクロに近い、極力色を抑えた画面は、やはり市川監督の傑作、「鍵」を思い出させる。しかしそこに展開されている物語は、天と地ほども違うというのが面白いのだが。この発色の少ない画面は、不景気の世の中を表現し、過去の時代を表現するとともに、カラーでは出来ない印象的な画面構成や思い切った照明効果が可能で、例えば前者では、おかつの顔のアップに、その背後から二人の息子の顔のアップが上下に切り込んでくるという、普通に考えると、かなり不自然な構図が印象的にとらえられる。勇吉の身元を証明するためにウソの書き付けを調達してきたおかつに、そのことを知っていたよ、と耳打ちするこのシーンは、この親子の信頼関係を一瞬で現す象徴的で秀逸なカット。ほとんど舞台劇さながらに場面は動かないのだが、こうしたさまざまな趣向と遊び心が映画のそこここにきらめきを放ち、平凡な印象を与えない。

そうしたものの一つ、いつも横一線並びが不自然な可笑しさを引き出す、長屋のおしゃべり四人衆が可笑しい。大体、春風亭柳昇、中村梅雀、コロッケ、江戸小猫、というメンツだけで可笑しいのに、このメンツが一斉に同じ方向を向いて、とんちんかんなやりとりをしているんだから更に可笑しい。ことにムツカシイ言葉を使う中村梅雀に、無学なコロッケが、その顔芸を微妙に含んでいちいち反応するのが、双方とも妙にハマっていて笑えるんである。彼らにうとまれている大家の小沢昭一がまたイイ味出しすぎで……。ちょっとマヌケで気のいい、いかにも江戸っ子の大家さんは、私の前住んでいたお部屋の大家さんと実に良く似ているんだよねー。っていうのは別の話だけど。

今の、いろいろとコムズカシイ世の中では、もはや珍しくなってしまったような、真っ当な優しい物語。★★★☆☆


回路
2001年 分 日本 カラー
監督:黒沢清 脚本:黒沢清
撮影:林淳一郎 音楽:羽毛田丈史
出演:加藤晴彦 麻生久美子 小雪 有坂来瞳 松尾政寿 武田真治 哀川翔 風吹ジュン 役所広司

2001/2/12/月 劇場(錦糸町シネマ8楽天地)
チラシもオフィシャルサイトも、もうほんとにヤダッ!って思うこの無気味さ。こええよお、やめてくれよお。ことにサイトは……だってこの話自体がネットの恐怖の話なんだもん、もうそのまんまで、あの映画の中でパソコンディスプレイに映ったあの画面がそのまんまで……あああああ、頼むから、ヤメてくれえ!もうコワくてネットなんて出来ないじゃないかあ!

一人暮らしの誰かの部屋が、それが誰もいなくても、住んでいる人が映ってても、それがディスプレイに荒れた画面で現れるだけでなんでこんなにコワいのか。……それは、一人でいることの孤独と恐怖を知っているからなのかもしれない。なんにせよ、「リング」もそうだったけど、写真やディスプレイやテレビのブラウン管は、とんでもないところとつながっていそうで時々とてつもなく怖い。それに気付いてしまうと、よくそんなモノと一緒に平気で暮らしてるよな、って思う。

あの世とつながってしまったサイト。武田真治扮する大学院生が説明する“ナゼなのか”は観念的でよく判んないけど(そのあたりはそのまんま黒沢清!って感じ。でも今回はここだけだったけど)向こうとこちらがだんだんとシフトしてゆき、魅入られたように生きた人間が取り込まれてゆく。薄暗い部屋、壁に残される黒い影、ふいと現れる死んだはずの友人、ぐらりぐらりと奇妙に傾きながらロボットのようにこちらに歩いてくる黒いワンピースの女……思い出すだけで吐き気がしてくるほどの怖さ。“見てしまった”ことで、急速に生気を失ってゆく人間たちは、あちらの世界に行って、また同じように友人たちをとりこんでいくのだろうか。そうして本当にあっという間に街から人がいなくなる。誰もいない銀座の町を(!!)ひた走る車は海へと向かっている。船に乗り込んだたった三人の生き残りは、わずかな交信をたよりに、南米へと向かう。その三人のうち、見てしまった一人がまた一人と消えてしまう……。

オフィシャルサイトを見てると、CGとかモーチョンキャプチャーとかで映像が作り出された、てのが載ってて、当たり前なんだけど、そーだよ、ツクリモノなんだもん!って妙にホッとしてしまう。しかし、それにしても信じられないのは、ガスタンク?の上からまっさかさまに投身自殺を図った女性のシーンのワンカットで、どう見てもどう見てもどーう見ても、ほんとに飛び降りたとしか思えない!ツクリモノ、だってのは判ってるのに、そのツクリモノの映像がこれほどのリアリティと恐怖を伴って迫ってくるのを見ると、その映像はツクリモノからホンモノへと変わっていくような気がして。

ああ、あのシーンも冗談じゃなくコワかった。主人公の一人、春江(小雪)が、だんだんとその恐怖のサイトに魅せられてって、究極まで来た時、今の自分の後姿がディスプレイに映っているのに気付くというあのシーン!角度からいってわずかに開けられたドアからの視線であるその映像、ドアは飲み込まれるような闇に包まれてて。……もう、ほんとにあそこは、ほんとに吐き気がした。春江はそのドアへと近づいてゆく。ドアを開け放すと、彼女はそこに何かを見て、とてつもなく嬉しそうな顔をするのだ。……一体、なんなんだよお!

物語は二手の方向からつづられていく。ネットビギナーの大学生、川島(加藤晴彦)とこの春江(それにしても、それまで敬語だった彼が、いっきなり彼女のことを呼び捨てにするのにはビックリしたけど。一体なんなの、あの展開は)、そして園芸業者につとめるミチ(麻生久美子)らの側。最初は後者の方から始まってて、所狭しと置かれた観葉植物が目に飛び込んでくる。明るい緑が、なぜだか不穏な空気をもたらす。それは「カリスマ」の中での風吹ジュンの家そのままの雰囲気で、人間のリラクゼーションのために用意されているそれらの植物が、ひどく無気力にしか見えないという、奇妙なコワさがある。ミチの同僚が、自宅での仕事から戻ってこない。連絡もない。訪ねてみると、彼は一見いつもどおりなのだけれど、透明なカーテンの後ろにぼんやりとたたずんでいるその姿(うげげ)からして尋常ではない。そして次の瞬間、彼は首をつっているのである。……あのシーンも死ぬまで二度と見たくない。

彼の自宅から持ち帰ったフロッピー、そこに突如現れる彼の部屋、その中のディスプレイには、その画面と全く同じ画像が映ってて、その脇のもう一つのディスプレイにはぼんやりと、人の顔が……。もう、私この時点で劇場から出たくなっちゃったよ。まだ午前中だったから、外に出れば明るい日の光が私を救ってくれそうな気がしたんだもの。でも、その映画の中も、一応昼間なのに全然明るく感じられなくて、もうこれは、どんなに明るくても、ダメだ、って思ったらほんとに絶望的な気分になって、そのまま座席に縛り付けられたように沈み込んだまま。

後ろを向いたまま、一心にドアに赤いテープで目張りをする女、異様に不気味である。一方でネットにつながっていて、その一方ではこんなアナクロな封印の仕方で、そのギャップが、でも、確かにお互い通じていそうで恐ろしい。この女は顔を見せないけど、同じ行為をする工場作業員?として、哀川翔(キャー!)が出てくる。彼は淡々と、まるでほんとにただの作業をしているかのように、あちこちに赤いテープで目張りをしてゆく。女のほうは後姿だけなのに妙に異様なテンションがあったのに対して、彼はやたら落ち着いている。……ステキだけど、怖い……。

周囲の人をどんどん失っていった川島とミチは、本当に偶然の出会いをする。姿を消した春江を助けようとするが、かなわない。加えて川島は判ってるはずなのに、転がっていったガソリンタンクの蓋を追いかけて赤い目張りをはがされたドアの中へと入っていってしまう。実体のある幽霊の男と対峙する。生気を吸い込まれる。全てを吸い込まれる前に外へと出ることが出来たけど、でも彼はやっと逃げ出せたその船の中で、ミチの見守る中、チリと消えてゆく。最後の友達さえ失ったミチ。

この、最後の最後、出会った二人の関係は、短い間だったんだけど本当に同志、という感じで、それはあまりにも絶望的なそれなのだけど、そして川島は死んでしまうけど、不思議とかすかな、けれど確かな希望を感じさせるものだった。それが救いだった。……それにしても……あー、もう、ほんとにネットなんて出来なくなっちゃうじゃないかあ!怖かったよおおお!!★★★☆☆


風花
2000年 116分 日本 カラー
監督:相米慎二 脚本:森らいみ
撮影:町田博 音楽:大友良英
出演:小泉今日子 浅野忠信 麻生久美子 尾美としのり 小日向文世 鶴見辰吾 椎名桔平 高橋長英 柄本明 香山美子

2001/2/1/木 劇場(シネ・ラ・セット)
それほど本数は観てはいないのだけど、今まで観てきた印象では相米慎二監督はあまり得意な監督ではない。でも本作は惹かれた。小泉今日子、浅野忠信。どちらかといえば、スタイリッシュで華やかなイメージの俳優。それが、なぜこれほどまでに人生に疲れた人間にはまってしまうのか。ああ、でも小泉今日子は、「共犯者」でもそんな疲れた女を演じていた。あの時は共演者である竹中直人の印象が強すぎたけれど、本作では逆に浅野忠信が彼女のそうした魅力を引き立てている。それに、「共犯者」では今ひとつだった演技も、本作ではとてもイイ。監督との相性がいいのかもしれない。浅野忠信は一人で強烈に光を発散するタイプの俳優じゃないけど(だからこれほどまでにスターになったのが不思議なくらい)、こうした役回りがとても上手い。と同時に彼自身の弱さを露呈したエリートの男の情けなさも説得力のあるものにしていく。

桜の木の下、見知らぬ女をひざに乗せて目覚めた男は、昨夜何があったのか、この女が何者なのか、何も覚えていない。彼はスキャンダルを起こして謹慎中の文部省エリート、女は後ほど明らかになるが、旦那を亡くして一人娘を両親に預けて上京、ふるさとに帰らないまま5年が過ぎたピンサロ嬢。男は女の客として出会った。死に場所を探していると言う男に、女は北海道ならばいい死に場所が沢山あると言う。「睡眠薬を飲んで、雪の上に横たわればいいのよ」女のふるさとは北海道だったのだ。そして二人は翌日に北海道に行く約束を交わす。

というこの二人の出会いの顛末は、北海道に着き、荒涼とした一本道を男がピンクのワゴンのハンドルを握って車を走らせている時に、ようやく記憶を掘り起こした男によって断片的に思い出されてゆく。男は言う。「120年もかかって、何も生み出せなかったのか、ここは」女は言う。「あんたたちみたいな人たちが、勝手にこの土地を区分けしたからでしょ」確かに何もない土地、年寄り以外みんな出て行ってしまった土地、さびたトタン、吹きっさらしの寒風が、さみしさ、やるせなさをどうしようもなくかきたてる。男の言葉に、北海道の人間である私もひどく憤るものの、でも一方でそうかもしれない、とも思ってしまう。……だから女、ゆり子は東京に出てくるしかなかったのだ。

男、廉司のふるさとは九州は佐賀。彼がそんな風に憎まれ口を叩くのは、ふるさとをどこか隠している自分に対する防御線のようにも取れる。スキャンダルで新聞に出てしまったことで、ふるさとの身内からは心配する電話がかかってくる。でも彼にはそれが迷惑をこうむったことで彼を責め、ほかならぬ一番つらい自分のことをまるで判ってくれないとしか受け取れない。彼女も彼も、家族を愛するがゆえ、その家族に対するそうしたアンビバレンツに苦しんでいる。

ゆり子は両親に預けていた娘に会わせてもらうことが出来ない。この土地に戻ってきて、娘と暮らすのならと言われるゆり子は、とっさにそれにうなづくことが出来ない。なぜなのか。ゆり子はうなだれて廉司のもとに戻ってくる。二人雪道に迷い、着いたところは忘れられたように雪の中に埋もれている民宿(?)。ピンサロ嬢だということを自分から明かしてしまった彼女は、そこの客から「こいつを男にしてくれ」と頼まれてしまう。しかも廉司は「商売しろよ」と部屋から出て行ってしまう。廉司は母親が死んでから不能になってしまった。それにくわえてこのスキャンダルでエリート志向の恋人(?)からも去られてしまった。二人の深い苦悩。

ゆり子は多分、この客と寝なかったとは思うけれど。廉司が部屋に戻るとゆり子の置手紙と財布が置いてある。……死に場所を探していたのは、ほかならぬゆり子自身だったのだ。雪山を必死に彼女を探して歩き回る廉司。その頃雪の中ゆり子は、線香花火を目の高さにかかげて泣きそうな目で見つめ、睡眠薬をぽりぽりとかじり、オーバーを脱いだノースリーブ姿で雪の上に横たわっていた。……美しかった。まるでおとぎ話みたいに。それまでのゆり子は、イコール小泉今日子は、化粧疲れした荒れた肌で、やせた体も枯れ枝のようで、遠い目をして「あたしなんかいなくても一緒だよ」ってつぶやく声がひんやりと響いて、もうピンサロ嬢にもキツい歳になってきた女の悲哀を感じさせていたから、よけいに、その場面の彼女が美しくて。そう、ほんと驚いたのだ。こんな疲れた小泉今日子。いつもハツラツとしてて、全然歳をとることを感じさせない彼女。この作品のプロモーションで出ていた「笑う犬の冒険」でホリケンのとんでもないパフォーマンスの注文に、テレながらもちゃんとやっちゃう彼女に素晴らしいッ!と喝采し、でもでもこのキュートな彼女があのゆり子を演じている彼女と同じだなんてほんとに信じがたくて。彼女は飾らない。そうした可愛さも飾らないからだし、ゆり子みたいなキャラを演じる時も飾らないから全然臆するところがなくって、こっちがたじろぐほど生身の女を見せてしまう。小泉今日子、彼女はひょっとしたら恐るべき女優なのかもしれない。

彼と彼女はほんとに道行の関係。感情も、肉体も恋愛へと向くことがない。それが、これほどまでに説得力があることに驚いてしまう。お互い全く違う世界の人間でありながらも、人生に後ろ向きになってしまった今の状況がシンクロしてるのに、その傷口をなめあうような、ありきたりの恋愛感情へ向くことがない。廉司が雪の中で死のうとしているゆり子を助けだし、本当に良かったと抱き合っても、それは変わることがない。彼と彼女はそれぞれの人生に向き合っている時なのだ。それは相手の人生に踏み込む余裕がないとも言えるから、もし違った状況なら二人は結ばれたかもしれないな、いや、違った状況なら、こんな風に二人北海道に向かうこともなかっただろう、などといろいろと考えてちょっぴり切なくなってしまう。

ラストシーンは廉司が娘のもとに戻ることを決心したゆり子を送り届ける場面。北海道ならではの、ソメイヨシノではない、高い幹に濃い色の桜の花が咲いていて、二人の格好も薄着で、ああ、あの時からいくばくかの時間がたっているのだと判る。そのいくばくかの時間がたっていても、彼は彼女とそうした友情めいた関係を続けているんだなということと、あの時解雇を言い渡された彼が、重苦しくも寒そうなスーツ姿から、このカジュアルなカッコに変わってて、何か自分にあった肩の凝らない仕事が見つかったかな、なんても思わせたりして。

自分の尊敬する先輩である、永瀬正敏の奥さんである小泉今日子とのこうしたがっぷりの共演、浅野忠信、ひょっとしたら緊張したりしたのかな?まー、彼に限ってそれはないだろうけど。★★★★☆


神様の愛い奴
2001年 106分 日本 カラー
監督:藤原章 大宮イチ 脚本:――(ドキュメンタリー)
撮影:ギンティ小林 音楽:
出演:奥崎謙三 

2001/4/24/火 劇場(シネマ下北沢/レイト)
この作品を観るにあたって、傑作といわれる原一男監督の「ゆきゆきて、神軍」を観ていない……と思って観ていたんだけれど、後で調べてみたら4年前に観ていた。全然覚えていなかった自分にガクゼンとしつつ、でも、その記憶が抜け落ちていたことが、印象に残っていた場合と全く違う感覚をもたらしたんではなかろうかと考えると、もしかしたら良かったのかも。この奥崎謙三という人。戦争責任を追及し、国家、天皇、あるいは社会全体に抗い続けるアナーキスト。この映画を撮ることになるスタッフたちは、当然だがそうした事実を知っているからこそ、長い長い獄中生活をようやっと終えた(何度も何度も恩赦を断ったから)奥崎謙三にカメラを向けようと思ったのであり、彼らの中には奥崎謙三という人に対する、ある種の崇め奉る気持ちがある。おかしいぐらいに平身低頭し、奥崎の言葉にウケまくり、感心至極で、ただのキマグレとしか思えない彼の短気や豹変ぶりにも、まるでそれが、それこそが純粋な思想を持つ人ゆえの崇高な証拠なのだと思っているような節がある。

正直、愚かである。この奥崎謙三も、そして周りのスタッフも。かつて天皇にパチンコだまを発射した奥崎謙三は、ならば今何ができるのか。そもそも、その過去にやったアナーキーな行為が何かを達成したのか。個人とは、無力だ。しかしその行為によってその存在が絶対化するのも個人ゆえ、なのである。投獄されてから実に10数年たっても、彼のそうした力はこんなふうにこっけいなくらいに生きている。もしかしたらこのスタッフたちは奥崎謙三によって思想とか、そういう面で、人生に多大なる影響を受けたのかもしれない。だからこうしてカメラを向けているのかもしれない。

でも、なんて皮肉なんだろう。そうしたことをまるで知らない、私のような無知な観客の目には、もはやその言葉が届かない奥崎謙三という人は、ひとりの悲しい裸の王様にしか見えない。獄中で神様から血栓溶解方を授かったという。始終絶え間なく身体を揺らし続けて、血栓を溶解させ、健康な身体をつくるのだと、それを神様に授けられたのだと熱弁する彼と、それにしたがって彼の話を聞くときは始終手を貧乏ゆすりのように動かし続けるスタッフたち。そのこっけいな図。彼は自分が獄中にいる時に死んでしまった妻の遺骨を片時も離さず、時にはそれをガリガリと食べてしまったり、彼女がいたからこそ生きてこられたのだ、という言いかたをする。雄弁なその言葉も、響いてこない。それは時代遅れというよりも、それもあるのだけれど、彼が自分自身を自分自身として見つめている気が、どうしてもしないからなのだ。いつでも相対的である。ある意味それは、戦争を体験した世代に共通の感覚なのかもしれない。戦争によって、天皇によって、それが終わればふがいない政治によって、それに疲弊している国民の中のひとりとして、彼は存在しているのだ。そしてさらに、妻いてこそ。

それは逆にこういう言い方もできるけれど。今の時代の私たちが自分自身を見失っているのは、そうした、自らを相対化できるものがないからなのだと。整いすぎた社会の中で、あるいは、自分たちの力の届かない社会の中で、ただ淡々と生きている。そんな感じである。享受しているのは享楽だけ。

それをまた奥崎謙三が痛切に感じさせるのだ。なんと驚くことに、彼はAVに出演するのである。本当に、ホンバンのそれである。これがあってこその、このドキュメンタリーの企画だったのかもしれない。そうすると彼らのあの平身低頭ぶりは奥崎のこうした人間としての愚かしさ、情けなさをあぶり出すためのポーズだったのか、いや……。彼がそこで遭遇するのは、快楽を与えてくれる女たちと、その女たちが自分の思い通りにならないという事実である。ありがとうございます、ありがとうございますと手を合わせながらファックして(というか、騎乗位でされて)、何本も浣腸を打たれて、こちらから希望を申し出ると、猛然と反発される。

奥崎謙三が納得行かずに自分で監督することになり(!)相手の女優になんだかんだと演技をつける。現場は遅々として進まず、ついに奥崎はキれ、周りのスタッフはあいも変わらず平身低頭。その時に彼らを軽蔑しきって言い放つ女優がカッコイイんである。曰く、私には全然凄い人に見えない。あんたたちそんなふうに何でもしたがって、本当に正しいと思ってんの、とか、ちょっと詳細は失念したが、こっちの観客の思っている事をズバリと言ってのけるんである。奥崎はオロオロしたり、激昂したり、しかし女優はまるでひるまず、こんな現場、ヤメてやるわよ!とクールに去ってゆく。奴隷のように付き従う男たちと、面白いくらいに対照的である。そしてSMの女王様も、彼女の×××をナメたい、という申し出を猛然と拒否する。あたしを誰だと思ってるの、女王様なんだよ、と。それは、奥崎側のスタッフの、この人を誰だと思ってるんだ、という弱々しい反駁などなんの力にもならない力強さである。現代に、それを武器に、それを糧に、生きている彼女たちの強さをまざまざと見せつける。確かに現に活躍していた頃の彼だったらば、彼女たちの優位に立てたのかもしれない。いや、でもそれもどうだろう?だって、彼はそれによって生きてはいたけれども、それによって生活はしていなかったのだもの。それこそ妻あってこそ、生かされていた。

しかし、女でなければ彼にものも言えないのか。あるいは、やっとこの時代になって、女がものを言えるようになったのか。はたまたあるいは、セックスという武器で男を征服する女にしか、その特権はないのか。……などと考えると多少シニカルな気分にもさせられるけれど。ああ、でもこの感覚、口ばかりで役に立たない男に対する女のイライラした感覚は、どこか政治家に対するそれと同じような感じもして。ムツカシイことばかりいってそれを理解する頭がないだろうという感覚で、こちらを見下し煙に巻くアヤツラと。

やはり、こんなことを感じさせるための、確信犯的な意図だったのだろうか?あのスタッフたちのへりくだった態度は……でも、それもまた、なんかイヤな感じだけれど……。★★★☆☆


花様年華花様年華/IN THE MOOD FOR LOVE
2000年 98分 香港 カラー
監督:ウォン・カーウァイ 脚本:ウォン・カーウァイ
撮影:クリストファー・ドイル/リー・ピンビン 音楽:マイケル・ガラッソ
出演:トニー・レオン/マギー・チャン/ライ・チン/レベッカ・パン/スー・ピンラン

2001/4/9/月 劇場(銀座テアトルシネマ)
次の回の上映をロビーで待っている時、出てきた男性二人連れの観客のうち一人が相手に向かって「大体想像通りだった」と話しているのを耳にし、んん?と思ったが、観終わって、なんとなくナットクしてしまった。本作、ただでさえ待ちに待ったウォン・カーウァイの新作だというのに、その傑作の誉れ高い情報ばかりが入ってきて、公開まであまりに待たされに待たされすぎた。その間そうした情報や何度も繰り返し観ることとなる予告編で、頭の中にすっかり予想図が出来上がってしまっていて、で、まあそれだけならどんな映画でも良くあることなんだけれど、それをまったく、驚くほどに裏切らなかったのだ。ある意味ではいいことに違いない。裏切られてガッカリしたんでは勿論ないのだけれど、「そうか、やっぱり」っていうようなちょっと気の抜けた安堵感のようなものを感じてしまったのは否めない。

巷で言われているほどにはそれほどウォン・カーウァイのカラーが固まっていたとも思えないのだけれど、それにしても確かに本作では明らかな変貌が見て取れる。情熱よりはあきらめ、恋よりは愛、躍動感よりも静謐感、とにかくこちらが今までのカーウァイ監督のつもりでかまえていても、カメラは実に落ち着いて腰をすえ、二人を見つめているのだ。二人が近づくことになるキッカケとなる、おたがいの伴侶は、意図してフレームの外からはずされている。あるいは後姿だったり、とにかく声だけは聞こえてくるものの、その顔が紹介されることはない。ひどく、計算ずくである。計算ずくといえば、この映画は全編に渡って完璧に計算されている。話に聞くと、何パターンものストーリーが展開できるほどにカメラを回したのだという。その中から厳選されたカットのコラボレーションが本作であり、それはとても禁欲的で美しく、観客の想像の余地を残しながらも、あまりに隙がないので逆にそれを阻まれてしまっている気すら起こる。完璧な絵画。

マギー・チャンのチャイナドレスの高い襟に隠されたうなじだとか、トニー・レオンがくゆらす煙草の煙が昇ってゆく様子だとか、あるいは手、あるいは足、そうした明らかに想像力を喚起させるはずのショットが、その完璧に美しい絵画のパーツとしてはめこまれてしまっているという感じ。手出しが出来ない。マギー・チャンが次々と着替えてみせるレトロで美しいチャイナドレス、あまりにめまぐるしく変わるそれは、彼女の気持ちの揺れを思わせはするものの、彼女自身があまりに美しく似合ってしまっているので、ただただそれに見とれるばかりなのである。揺れる赤いカーテンも、二人がすれ違う屋台へと通じる路地も、二人閉じ込められることとなる彼の部屋、その部屋の鏡に映る二人の表情も、まるで舞台セットのように完璧なのだ。あるいは時代も。香港の時代事情に詳しくないけれど、少なくとも今よりもずっと“不倫”ということに厳しかったはずの1960年代、彼らの行く先は、最初から決められている。それは、本当に変えようもなく、それをわざわざ冒頭のクレジットで明言しているくらい。その点でも“完璧”なのだ。

この美しい二人を見つめるためだけに、お互いの伴侶を画面から追い出したのだろうか、と思われるほど。二人は心の中に小さな復讐心と、そして小さな好奇心と、自分の伴侶に対する、そして相手の伴侶に対するチクリとした感情を持っているからこそ始まった関係なのに、まるでそんなことあったかしらと思えるくらい。だから正直劇中でトニーが言うほどに「最初は復讐のつもりで……云々」などという台詞も、えー、そうなの?というぐらいにどうもそうした感覚が感じられない。逆に言うとあまりに禁欲的すぎて、二人の感情の高まりすらも、今ひとつつかめない感じである。勿論二人がお互いの立場ゆえに、感情の発露を抑えているのは判るのだけれど……。

トニーは新聞連載小説を二人で作り上げてゆこうと提案する。二人で会うために、アパートの一室を借りる。なにもやましいことはしていない、と言いつつ、二人は、特にマギーの方が周囲の視線にひどく神経質になってゆく。実際、感情ほどやましいものはないから。ここで作り上げられる物語は二人のやましい感情のつみかさねだから。あるいは、ラストに暗示されるように、実は二人が“やましいこと”をしてしまっていて、その結果があの男の子なのかもしれない。画面上の展開を信じていれば、そうしたことはあるはずもないのだけれど、二人が自分の感情にウソをついているから、そしてこの完璧な絵画を完成させるために使われたパーツはその何分の一かにすぎなくて、その裏には彼らの秘密が、もしかしたらこんなに美しくもない形で隠れているかもしれないから。表の物語に手出しが出来ないと、あったかどうかもわからない、捨てられた裏の物語を勝手に夢想してしまうのだ。

二人別れてから相当の年月が経ち、それぞれのその後が描かれるのだが、二人の伴侶は相変わらず画面に出てこない。今度はチラリとも出てこない。だからといって、別れたという説明すらもない。少なくともマギーの方は会話から察するに一応別れてはいないらしい。しかしそれもまた、ただ台詞だけのことである。あの男の子がトニーとの子供なのだとしたら、余計に怪しい話である。トニーはカンボジアの圧倒される石の遺跡、その小さな穴に、王様の耳はロバの耳、のごとく、秘密を打ち明ける。それを高いところから地元の男の子が見つめている。彼は囁き終わった後、そこに枯れ草をつめる。何を言ったのか、明かされることはない。……こんなところまで、完璧に美学である。

キャスト、美術、取捨選択の妙、官能の音楽、確かにその全てが傑作の名にふさわしい、完璧な出来なのだということは、判るのだけれど。映画の魅力のひとつは多分、どこか隙間に、揺れに、自分の心が不思議に共鳴する部分ではないかと私なぞは思っていて……いや、でも、ただウォン・カーウァイの新作というだけで、唐突に出会えたら良かったのかもしれない、とも思うし……。映画との出会いは難しい。★★★☆☆


カルテット
2000年 分 日本 カラー
監督:久石譲 脚本:久石譲 長谷川康夫
撮影:阪本善尚 音楽:久石譲
出演:袴田吉彦 桜井幸子 大森南朋 久木田薫 草村礼子 升毅 石丸謙二郎 藤村俊二 三浦友和

2001/10/11/木 劇場(丸の内シャンゼリゼ)
「日本初の本格的な音楽映画」という根拠がどこから来るのかは知らないが……そういう意気込みでやっている割には、随分と“音楽の何たるか”を言葉で説明させているなあ、という印象。しかもその言葉が、自身音楽家である久石譲監督から出てきているにしては、あまりにもナイーブすぎるというか、説得力がなさ過ぎるというか、文学的過ぎて力を感じさせないというか……。言葉の重みに頼っている割には言葉に重みがないというのは、昨今の映画に多いような気がする。というのに気づいたのは、「ダンボールハウスガール」においてだったけど……。ひょっとして映画音楽なんていうのをやっていくうちに、久石譲は映画=言葉を音楽にする、あるいは音楽を言葉にするクセがついてしまったのだろうか。音楽は音楽であるだけでいいのに。

一ヶ月の特訓の末取り組んだという、弦楽器初挑戦の三人(一人は現役音大生で、もう半プロのチェリスト)は、せめて三ヶ月、いや、半年ぐらいやってからにしてほしかったなあ、という印象。いや、これはひょっとしたら演技力の問題?やはりトランペット初心者だった真田広之が(しかし彼がどれぐらいの期間特訓したかは知らないが……)まさしくプロの、たたずまいだけでミュージシャンの色気のある演奏を披露したのとは、明らかにレベルが違うんだもん。確かに、弾けている様に一見見えはするのだが、ああ、そう、一人だけ出来ている人がいるのが、マズいんだなあ。チェロ担当の久木田薫嬢。彼女はお嬢様で演奏における力強さや熱情に欠けるという設定なのだが、まあ、確かにおっとりとした雰囲気でそのイメージに似合ってはいるのだけれど、何といっても彼女が、彼女だけが弾けているのが一見して判ってしまうので、劇中設定では最も実力のある、傲慢で強引な第一バイオリン、相葉(袴田吉彦)が彼女を叱咤する場面などでは、思わず…………と考え込んでしまうんである。

久石監督は役者の顔、表情に接近することで、弾けているように見せているつもりなのかもしれないが、やはり弦を抑える左手の動き、それにふと気づいてしまうと、顔ではなく左手ばかりに目が行ってしまう。しかし話に聞くところによると、二人羽織の手法で左手をプロの人にやらせているという話も聞くのだけど(それは、「連弾」でとても成功している手法ね)でも、それはどの場面で?久木田薫嬢が見せるビブラートのきいた左手の動き、まさに音楽に、メロディに合わせて歌っている左手は、ああ、やはり弾く人の手だなあ、と思うのだけど、それに比すると本当にあとの三人は左手が、弦を抑える以外は全く動いていなくって、左手に音楽の表情が全然読み取れないんだもん。弦楽器の演奏を見る時に、あの左手の動きって、凄く目を奪われるから、その部分はやはり譲れず、どうしても気になっちゃうのだ。

自らのテクニックに絶対の自信を持ち、そしてそのことによって自分を捨てた父親を乗り越えようとあがく相葉。彼がその自分を乗り越えることが出来るのは、今四人で取り組んでいるカルテット用の未完成の曲が、父親が自分のために作った曲だと知り、父親のことをよく知る元同僚の楽団員、藤岡(藤村俊二)に父親のこと、そして音楽、音楽家のことを聞くに及んでなのである。つまり、この場面は最大重要事項であり、説得力、かつ感動をもたらす場面でなければならないのだが、……先述の、言葉の説得力のなさが、この場面において最も弱点をさらしている。それは大、大ベテランの藤村俊二にすらどうしようもない力のない言葉で、音楽が音楽でありさえすればいいという、その音楽の魅力すらどこへやらといってしまいそうな空虚さ。

まるでロードムービーのような趣で、風光明媚な田舎を演奏して歩くくだりは、ロケ地めぐりをさせようとしているのかと思うぐらいに、確かに魅力的である。牛舎で練習するというのも面白いし……。でも、いくら練習場所がないからといったって、海、それも殆ど海の中でというのは、あまりにも画的な美しさだけを狙ったという感じでアレだったけど。弦楽器のことはよく知らないけど、やっぱり湿気とか水気には弱いんでしょ?しかも加えて、海じゃあ、塩気もあるぞ……。楽器を殺しちゃうようなもんなんじゃないのかなあ……。これがミュージシャンのプロモーションビデオとかいうならば確かにありそうな映像ではあるけど、これはあくまでストーリーを伴った、そこに彼らの人生が確かにあると思わせなければいけない映画というものなんだから、ねえ。

久石譲でなければ出来ない、数々の映画に使われた音楽が、そこここで披露される。どこの演奏会場でも、彼らの音楽に興味を持って耳を傾けようなんていう観客はいないのだが、唯一、彼ら、正確に言うと子供たちの耳をそばだてさせるのは、「となりのトトロ」のテーマソングだという……。彼らの演奏にかける熱意が伝わったとかそんなんじゃなくて、そのメロディが聞こえてきてはじめてお客が振り向いてくれるというというあたりが狙ったのかどうなのか、妙にシニカルであるのだが。だってそれは、音楽自体の魅力っていうわけではないからねえ。

この場面では猛烈な花火に合わせて「HANA−BI」が演奏されたりという、ニヤリどころか思わず苦笑してしまうほどの、あからさまな仕掛けもあったりする。古い木造校舎の学校で高校生を相手に演奏する場面では、絵に描いた様な今風のコギャルが退屈そうに斜に見ているのも、あまりにもあからさまだなあ、と思ったけど……。なんつーか、ひどくベタなのね。思わず恥ずかしくなるほどに。この場面に限らず、というか、この場面が象徴しているという感じだな、このベタさは。考えてみれば、先述の言葉の問題にしても、ベタという言葉を持ってくると実にしっくりくる。

しかし、そんな中でもただ一人、大森南朋は、私の心をくすぐりまくってくれた。最近では一番に注目&お気に入りの俳優。思えば、あれはいつだったかなあ、深夜番組で、つげ義春の役をやっていた彼を見て、すっごく気になって、読み方すらも判らない彼の名前を慌ててメモに書きとめていたのを思い出す。それまでにも気がつかなかっただけで、おりおり映画の中で出会っていたんだけど……。彼は見ているだけで、なあんかもう、切ないんだなあ。本作の、コーラスの仕事をしている妊娠中で太目の可愛らしい奥さんに、自分がクビになったことをなかなか言えない気弱なビオラ奏者がなんとも似合う。「実力ではお前には叶わないけど、音楽で人を感動させたいという気持ちは俺にだってある!」と相葉に勇気を振り絞って?言う場面が、ああん、もう、ステキッ!

でも音楽は人を感動させたいと思ってやるもんじゃないと思うけどね……。音楽は自分の内面が欲し、発するもので、人を感動させたいと思って感動させるんじゃないんじゃないかなあ……なあんて、判りもしないのに言うなって感じだが。でも、最近映画音楽、引いては映画自体、音楽自体に対して思うのは本当にそのあたりで、感動させよう、させようとするのがミエミエなものほど、感動する気も薄れてしまう、っていう……。ちょっと思っちゃうのは、ひょっとして、ひょーっとして久石譲氏もその轍に足を突っ込んでる??今回のテーマ音楽であるカルテットの曲は、これまで私たちが聴いてきた久石テイスト、久石エキスが濃厚なまでに投入されてて、一聴しただけで、あ、久石譲だ、って判るメロディ。そう思っただけで、何故だかゲンナリしちゃうのって、私だけ?前はそんなことなかったのに、最近はことにこういう濃厚エキスな傾向が強い気がして。それともやっぱり、久石譲の音楽を聴き慣れちゃったせいなのかなあ……。

クライマックス、新東京管弦楽団のコンサートマスターに勧誘されていた相葉が、同じ日に行われるアンサンブルコンクールとのせめぎあい、そしてタイムアクションで滑り込むくだりは、ちょ、ちょっと、あまりに予想どおり過ぎー、予想どおり過ぎて、予想できなかったぐらい?ううッベタベタの極致だよう。加えて、演奏中に愛のチェロの弦が切れ、チェロを貸そうと駆け寄ったライバルの響子に、大丈夫、このまま続けますという表情で、弦を外し、かなり間のあいた後に演奏を続けるというあたりも、それこそこの曲が無事演奏終了するに至っては、もちょっと感動できにゃあかんのではと思うんだけど、ダメ、感動できないよう。

相葉が調達してきた金の出所、あのギャラリーの夫人はおかーさんであろうと推察されるが、あんなに意味ありげにしといて全然そこに触れないのも、解せない……。★★☆☆☆


完全なる飼育 愛の40日
2001年 89分 日本 カラー
監督:西山洋市 脚本:島田元
撮影:丸池納 音楽:遠藤浩二
出演:深海理絵 緋田康人 竹中直人 野田よしこ 徳井優 伊藤恵 山内恵美子 藤本佐織 石原誠 ユキオヤマト 鈴木規依示

2001/7/18/水 劇場(新宿シネマ・カリテ/レイト)
感情というよりは欲望を前面に出して、それをパロディにしてしまった和田勉監督版、欲望というよりは感情を前面に出してシリアス劇にしてしまった本作。設定的にはアルモドバルの「アタメ」を感じさせながらも、ここまで両極端の二つの映画を生み出してしまう原作に興味がわき、読んでみた。実際の事件を元にしたといういわばノンフィクション・ノベルの原作「女子高校生誘拐飼育事件」(松田美智子。松田優作の最初の奥さんだと初めて知った。)は、それが半年近くに渡った事件だというのにまず驚き、その執拗なセックスの描写に驚く。男は少女の肉体の美しさを徹底的に愛で、その描写はまるで谷崎のフェティシズムばりである。誘拐した処女である少女を、手ほどきからじっくり教えていく。少女も女に目覚めていく。……つまりセックスが濃密になればなるほど二人が感情的にも結ばれていくという、どこか嗜虐的な展開がまるで「愛のコリーダ」をすら思わせ、いつかは必ず終わってしまうことが判っている故の強烈な切なさを突きつけ、実際、唐突に、本当に唐突に終焉を迎えてしまう、その終焉は2人別々のところにいて会うことすらできないという哀しさに胸を突かれた。だから和田監督版も、40日という時間に絞った(この40日目は、原作では2人が初めて結ばれた日に当たる)本作もやはり物足りなさは感じてしまう。過激さがエスカレートすることは承知で、それによるリスクも承知で、三度目の正直の映画化を望みたい。

というわけで、本作である。同じ原作を元にしたものが先にあることもあって、しかも同タイトルで挑んできたことでかなり興味をそそられる。期待と予測はしていたものの、ここまで違うものになるとは、と驚く。まあ、和田勉監督のそれは、最初っから確信犯的にドタバタコメディで、セックスの描写は今回の作品よりも過激だったものの、それもまたドタバタのうちに織り込まれているが故の過激さであった。しかし本作の、そのものではありながらもどこか抑えたエロティシズムは、不思議にそれよりもずっと官能的なものを感じる。もちろんそれはキャストの問題もあって、お前、女子高生でも処女でもないだろー、というのがこれまた確信犯的キャスティングだった前作の小島聖と違い、ちゃんと女子高生の年齢で、実際は知らんけど、その初々しいリアクションが確かに純潔を感じさせる本作のヒロイン、晴香を演じる深海理絵が、最初はぎこちないながらも段々と感じてくるさまを見せてくれるのだ。

先述したとおり、実際の事件は半年近く二人が同棲していたということを今更ながら知り、驚く。本作では40日と短く絞って、それでも晴香の感情の変化をちゃんと感じることができるのだが、半年間、それもこういう状況だったらいくらでも逃げられたはずが逃げなかった実際の事件のその女の子は、本当にこの“パパ”と感情で結ばれていたのだ。それがどこまで本当の愛情だったのか、愛されることに応えたいと思うが故の、自分のために、自分のためだけに何でもしてくれる男へのその気持ちを短絡的に愛と決められるかというとそれは難しいところなのだが、しかし愛以外の何だといわれれば、それもまた……。

あの忌まわしい新潟の少女監禁事件などを思い浮かべると……ああ、でもあの事件が明るみに出た当初、私はこんな風な状況だったんじゃないかなどと夢想したのだが、とんでもなかった。この“女子高校生誘拐飼育事件”はやはり特異であるということなのか。そしてこれはもう何十年も前の話なのだという。同じ少女誘拐事件で、こういう事件が現代では出てこないだろうと思うのは、やはり短絡的に考えすぎだろうか。でも、確かに同じ犯罪でも、女の子をセックスの対象や自分の意のままにできる人形としてだけ、最後までそれで終わってしまう現代の事件と、この事件とではやはり雲泥の差を感じてしまう。……これは時代のせいではないのか?

でも、極端な話、こういう状況って、女性は結構夢想してしまうんじゃないだろうか?この男の愛情の示し方は確かに間違っている。しかし、こんな方法でしか愛情を示せないことと、そうまでして愛されることに対するアコガレのようなものが確かにあって……実際に起きたらイヤだけど……でもそれもまた、孤独な心のゆがんだ願望なのだけれど。こんな目にあってしまう本作のヒロイン、晴香が、早くに父親を亡くし、母親は仕事で忙しく、兄弟もいなくて、いつも一人ぼっちでご飯を食べている。1人なんだから隠すこともないんだけど、机の中に隠してあるレディースコミックを開きながら下着の中に手を入れる。そんな描写で。果てしなく1人、果てしなく孤独。それによって彼女にファザー・コンプレックスの気味があるから、という想定をさせてしまうのはいささか安易なような気もするのだが、それはあくまで判りやすくするための物語の操作方法なのだろう。ある種のファザー・コンプレックスは女性は確かに持っているものだし。本当の友達がいないと思い悩むのも、この時期の女の子、あるいは人間全般における普遍的な感情だ。一見過激な状況、展開に見えながらも、こうした人間の普遍性をついてくることで、彼女の変化にシンパシィを感じていくことになる。

恋愛だけじゃなくて、例えば就職先が見つからないとか、仕事が上手くいかないとか、そういう時、あるいはふと1人でいるときに、誰か1人だけでいい、自分だけを必要としてくれる人がいたら、と願う痛切な気持ち。それは逆にいえば、自分がだれからも必要とされていないという強烈な孤独感。この晴香がどこまでその自分の感情に自覚的だったかは判らない。あるいは、自覚的じゃなかったのが、この誘拐犯、住川によって気づかされたのかもしれない。もしかしたら、そんなにはっきりと知りたくなかったこと、そしてそのツボをつかれて芽生えてくる住川への愛情ともなんともつかない感情。彼女は自分の体が“開発”されていくにしたがって、その彼への感情も育てていく。彼を訪ねてきた女性の同僚に嫉妬したりする。彼を喜ばせたくてフェラチオをしたりする。でも、それは健全な感情なのか?彼女が事件から数年たってもまだ、心の傷を抱えているのは、彼が捕まってしまったからなのか、それとも……。

住川は晴香にわざとハサミを持たせたりして、彼女を試したりする。晴香は住川がこれが運命なんだという言葉に反発しながらも、確かに自分で自分の運命を決定していることに戸惑う。ある意味人生の究極的なテーマが象徴されているともいえる表現である。自分には本当にチャンスがなかったのか、チャンスを待っていただけだったのか、運命を決定できる立場にあったのに、それを生かすことができなかったのはほかならぬ自分なのではないか、という、人生の大命題。そしてここでの晴香の選択は、果たして正しかったのか。いくら愛されているといっても、自由を奪われ、男の望む女になっていくことが?それともやはり、愛されるという条件の方が先なのだろうか……。

この監禁(同棲?)生活も、時と共にやはり追いつめられ、逃げ場がなくなってしまう。住川はかつて母親と二人で住んでいたという空家に晴香をつれていく。……住川もまた、ある種のマザー・コンプレックスを抱いた男だったのだ。ファザコンの女とマザコンの男が、お互いの空虚を埋めるように愛し合っているのだとしたら……いや、それこそ世の男と女が持っているものをより増幅した形でしかないのかもしれないが、でもそう考えると、何だか無性に空しさというか、寂しさのようなものを感じてしまう。愛の意味を計りかねてしまう。しかしその空家でお互いを求め合う住川と晴香の姿には、刹那の美しさがある。それに……ここにつれてきたということが、住川の、もう逃げられないという観念の気持ちを……それは刑事が捕まえに来たときの彼の表情でそう思ったのだが……感じてしまって。

この難しい役柄の住川を、充分に説得力ある人間として演じている緋田康人は、ああ確かに結構映画で見る顔だけど、元ビシバシステムとは知らなかった。驚く。お笑いから俳優に転じる人の中からは時々とんでもない怪優が生まれるものだが。

原作は殆ど90パーセントが犯人である男側の視点、和田監督版はどっちつかず、そして本作は完全に女の子の視点だった。これらすべてを網羅した、より“完全なる映画”をやはり望みたいところ。★★★☆☆


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