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「と」


2020年鑑賞作品

東京の恋人
2019年 81分 日本 カラー
監督:下社敦郎 脚本:下社敦郎 赤松直明
撮影:金碩柱 音楽:東京60WATTS
出演:森岡龍 川上奈々美 吉岡睦雄 階戸瑠李 木村知貴 西山真来 睡蓮みどり 窪瀬環 辻凪子 秋田ようこ 松本美樹 矢野昌幸 いまおかしんじ 佐藤宏 マメ山田 榎本智至 伊藤清美


2020/7/13/月 劇場(渋谷ユーロスペース/レイト)
ムージックラボ作品だが、国映製作といい、スタッフやキャストにもちらほらと見覚えのある名前やお顔、まんまピンクみたいと思ったが、対外的にはロマンポルノ的なのだという。まあその違い自体判んないけど、ピンク映画というより通りがいいのかな。
ヒロインの女の子、絶対見たことあると思ったらついこないだCSで観た竹洞作品の子、やっぱり!映画館がやってない期間に片っ端から録画して観ていた中に入っていて、とても心に残る作品だったし、そして本作でその彼女と再会するなんて、嬉しい縁のつながり、自粛期間も悪くなかったなあ。

あの作品ではもちょっとおっぱいが大きいような印象があったが(爆)、本作の中の彼女は小柄でスレンダー。そして森岡龍君とがっつりカラミを見せてくれる。
ムージックラボでそーゆー趣向は初めてだったので、そして森岡龍君ががっつりそんな芝居を見せるのも初めて見たので結構ビックリする。そーゆーあたり、この役者はそんなことしないと思い込むヘンケンが私にもまだまだあるんだなあ。

タイトルはクラシカルで、パリの恋人とか、そんなことを思い出させたりもする。それもその筈で森岡君演じる主人公、立夫は大学時代自主映画作りに没頭し、劇中でもストレンジャーザンパラダイスぽいだの、「まだ始まってもいねぇよ」だの、いかにもこの年代の当時の学生が夢中になっていた映画の切れ端が見え隠れする。

そう、切れ端なのだ……彼らは切れ端を手に掴んで、浮き上がれなかった。立夫はまだいい。ぐずぐずはしたけれど、今は就職もして結婚もしてもうすぐ子供も産まれる。
でもそれは、一向に芽が出ない時に出会った、ひまつぶしで女優してたような女の子の元に転がり込み、彼女の父親の会社に結婚を条件に就職させてもらい、夢の東京から微妙に離れているあたりが残酷な“北関東”で生活している。この表現は東京に出てきた時にスナックのママに使う台詞で、なぜグンマと言えないのか、ってあたりが切なすぎるんである。

立夫はまだいい、と言ってしまったのは、上京して再会したサークルの先輩が、見るも無残な状況に陥っていたからなんであった。
自分を好きになってくれた女と結婚している、彼女のおかげで生活できている、という点は確かに同じである。しかしこの先輩は昼から酒をかっくらい、働かず、奥さんはソープで食い扶持を稼いでいる。
「ベテランだから、上手いよ。やってもらえば」と酔いどれ先輩は悪びれなく立夫に言うんである。アイツはオレにホレてるから、と。

この先輩が誘い水のように言うのが、「終わっちまったのかなあ」というあの台詞で、後輩として見れば打てば響くようにカッコつけて、「まだ始まってもいねぇよ」と返しかけるが、言い終わるのをぶったくるように、「終わっちまったんだよ!!!」と絶叫する先輩がたまらないのだ。
そして立夫だってそんなことは判ってる。自分たちは終わってしまった。まだ映画を作ればいいじゃないと、女たちは気軽に言うけれども、確かに物理的に作ることは出来るかも知れないけれど、彼らが目指していたのはただ単にモノを作ることじゃなかったのだ。
そして自分ごときの才能なんて世の中にゴロゴロしているし、食っていけなければ、ただ作ったって、意味はないのだ。

まあそのあたりの見栄はいかにも男子だなとは思うが、あっさりと、「また映画やればいいじゃない」と言っちゃうのもいかにも女子ではある。
それを言っちゃうのが、立夫を東京に呼び出した元カノの満里奈である。出張だとか判りやすいウソをついて立夫は出かけていく。結婚指輪をこっそり外すあたりがコソクである。

自分の写真を撮ってほしい。立夫に撮られた写真が一番素の自分だったから、今の自分を残しておきたい。それが満里奈の呼び出しの理由だったが、あまりにも美しすぎるし、それだけじゃ済まない雰囲気はぷんぷんだった。
だってそもそも再会した彼女が、「いつでもヤレる女と別れて寂しかった?」なんて台詞を口にして、立夫が即答も出来ないような感じだったから、そしてこの時点では彼らの関係性がまだ判らない状態だったから、えっ、何何、セフレ?それともなじみのデリヘル嬢とか??とか、ピンク脳に侵されたことを考えちゃったが(爆)、フツーに大学時代の恋人同士だった、んである。うーむ。

満里奈は立夫と別れた後、ヌードモデルをやっていたこともある、と告白する。「知ってたよ。そういう情報は出回るから」「見たの?」「見た。何度かヌイた」「……サイテー」笑い合う二人は、屈託のないかつての恋人同士の甘美さでしかないように見える。
ただ、写真を撮ってほしいというだけの理由で、元カレにアポイントを取ってきた満里奈の気持ちは、同じ同性としてなかなかはかりきれずに進む。

案の定、撮影場所に選んだロマンチックな海辺のホテルで、ヌードの彼女に勃起しちゃった立夫が笑いに紛れて彼女にダイブし、それ以降はもうガッツリヤリまくりで、そらー彼女はこの事態を予測、というかそれを狙っての逢瀬だったに違いないのだ。
そしてその目的は……これは、やっぱりやっぱり、アレですかい。満里奈は自分は今は結婚していると言い、妊娠がついこないだ判ったと言い、「だから中出ししてもいいよ」と言うんである。危険な香りがぷんぷんである。

二人はセックスの後も、恋人時代の甘美な気持ちを追想するようなデートを夜が明けるまで続けるけれども、朝、立夫を見送る満里奈が、彼からの告白、「俺、結婚したんだ。もうすぐ子供も産まれる」と、満里奈の幸せを確認したからこそ自分も、と言い渡すのに、実に微妙な表情を浮かべるんである。
あれ、やっぱりそうかな、と思っちゃう。満里奈は立夫に、私が持っていても仕方ないから、とフィルムを渡す。ハメ撮りも入ってるよ、と耳元でささやく。立夫は笑う。そう、そんな、他愛ない学生時代のフィルムだと思っていたのだが……。

こういう浮気モノだと気になるのは、浮気されてるそれぞれの伴侶のことだが、満里奈の方は言葉だけで出てこないし、どうやらその存在も怪しい。もう言っちまうけど、彼女は立夫のタネが欲しくて呼び出したんじゃないかと、見てる誰しもが思うだろう。
立夫の奥さんは、……判ってたんじゃないかなあ。この浮気旅行から帰ってきた立夫を奥さんのお兄ちゃんが糾弾するシーンは、妹は判ってるってことを言わずにしても、多分妹は、つまり奥さんは、判ってるよね。だって同じ夢を追いかけた場所に、いたんだもの。

立夫の妹が登場するシークエンスが興味深い。立夫が満里奈との逢瀬の最中に、電話をかけてくるんである。誤解を恐れずに言えば、ちんちくりんの妹(爆)で、その恋人の女の子もちんちくりん(爆爆)。
そう、妹はレズビアンで、その恋人と共に母親が切り盛りしている古本屋にデートに出かけている時に、お兄ちゃんに電話をかけているんである。「うちら、ビアンやから、子どもはできひんから。お兄ちゃん、奥さんを大事にせな、あかんよ。」

ちらりと語られるばかりだが、彼ら兄妹の父はクズで、兄妹ともども見放してる、らしい。
ここが、“ちらりと語られるばかり”なのが、若干のもの足りなさは感じる。それが物語や、立夫やその妹の人格形成に決定的に作用する、という経過までが得られず、口頭だけで語られると、意味ないような気がしてしまうのだ。

レズビアンである妹が、自分自身よりも社会的に保守的である父親から理解されなかった、という設定に対しての設定というか。この妹と恋人の造形がとても可愛らしく、こっちの展開こそ見たいなと思わせたから、そのもの足りなさは、感じたかなあ。
だって立夫は家族関係の葛藤とか、全然ないもんね。彼の頭にあるのは映画愛と恋人愛への挫折だけ。安易にレズビアンカップルを持ってきたことのもの足りなさが、でも、彼女たちが魅力的だっただけに、ああ、もったいない、みたいな!!

立夫は満里奈から託されたフィルムを見る。妊婦検診のついでに実家に泊まってくる、という奥さんから、「やらしいビデオを見るチャーンス」と笑いに紛らせて言われたのはあまりに見抜いてて、女子同士、結託していたんじゃないかと疑っちゃう。
満里奈が預けたフィルムの中に描かれていたのは、ハメ撮りなんかじゃない。7年ぶりの逢瀬が目の前で展開しているのかと錯覚するような、同じ海岸で、二人たわむれるフィルムだった。

「まだ懲役10年残ってるんだからね」この再会で満里奈がいたずらっぽく言った台詞に、遠い記憶を立夫は思い返していたけど、そこまで深刻に思っていた訳じゃなかった。
この台詞をさ、わざわざ押し付けるように、証拠のようにフィルムを元カレに渡す彼女の心理は、まあなかなか……現代女性の価値観とはなかなか合致しないかなあという気もする。

満里奈を演じる川上奈々美嬢が、身体つきはスレンダーなれど、あつぼったい唇に熱っぽい目線というねばっこ系女子だから、描き方次第ではちょっと怖い感じもし、結果的に、えっ、これって、満里奈の作戦勝ちってことなの?でもその結果は得られてないし、何何??みたいな。
最後にフィルムを見てカンドーするとか、ニューシネマパラダイス的だけど、これはそーゆーことじゃないよね??ただただ怖いだけのような気がするんですけど!!

女子的個人的意見としては、こんな過去に執着する女子はあんまりいないし、いたとしても、女子世界としては敬遠したいよなー、と思う。でも男子としては、どこか小悪魔的にうっかり関わりたいのかな??バカだねー。 ★★☆☆☆


Daughters
2019年 105分 日本 カラー
監督:津田肇 脚本:津田肇
撮影:高橋裕太 横山マサト 音楽:芳賀仁志
出演:三吉彩花 伊藤祐輝 二見悠 井上翔太 キタキマユ 吉村優花 廣岡聖 平松來馬 三宅妃那 山田帆風 栗並真琴 小牧那凪 松村遼 掛川大輔 栄藤凛 黒谷友香 大方斐紗子 鶴見辰吾 大塚寧々

2020/9/30/水 劇場(ヒューマントラストシネマ渋谷)
長編一作目の作品は出来るだけ観たいと思いつつ、最近はホンット様々なジャンルから監督デビューに参入してくるので、なかなかに追いきれない。
情報も入れないまま飛び込むもんだから、監督デビュー作で、何このキラキラ女子ファッショナブル生活、こんな生活リアルにあんのかと口アングリして後から監督さんのプロフィルを見ると、ファッションイベント演出家、だって!そんな仕事があること自体知らなんだと思うが、まさにこの監督さんのフィールドを存分に発揮した映画だということなのだ。

20代後半、仕事も遊びも充実しまくってる(つまりそれだけ稼げてる)女の子二人。もはやキャリアウーマンという言葉も死語となり、彼女たちは自分たちの才能を当たり前のように発揮してバンバン働いている。
小春は装飾の仕事、と言ったらいいのだろうか。ショウウィンドーの飾りつけを指示している描写がまずインサートされる。彩乃はファッションイベントの企画とか、そんなところだろうか。

つまり二人の仕事内容はかなり重なる部分があり、劇中示されるように彩乃が小春にイベントの装飾部分を「あんまり予算がないんだけど」と仕事を依頼したりもする。この一パターンしか示されなかったけど、きっと逆もあっただろうし、そういう意味では単なる気の合う友達以上に、お互いの仕事と才能を認め合うパートナーと言ってもいい存在だったのだろう。

そうなると私みたいな腐女子のフェミニズム野郎は、おっとちょっとラブなんじゃねーのとか思っちゃうが、そういう雰囲気は一切、ない。これだけキレイでカワイイ女の子二人が、部屋着という名のほとんど下着のようなあらわなカッコでイチャイチャ(腐女子にはそう見える……)しているとゆーのに、二人の間には友情しかないんである。そんなそんな(毒され過ぎ……)。
でもそれこそ、こんな理想の関係はあるだろうか。しかし、腐女子でフェミニズム野郎で、こんなファッショナブル生活、ねえよ!!とか言いそうになるおばちゃんを黙らせる急展開があるんである。

彩乃が妊娠するんである。その経過は観客にはバッチリ示されるが、実は小春も知っている。その時小春は酔いつぶれて熟睡していた。と、彩乃は思っていた。正体のない小春を送ってきてくれた、旧知の友人の男の子が、彩乃と意味ありげな視線を交わした。そして……。

とにかく全編、めくるめく(これも昭和的死語かもしれない……)色彩と音楽の渦に巻き込まれるような、時間や空間や平衡感覚がぐるぐるなっちゃうような編集だから、なんかもう、判んなくなっちゃうような感じなんだけど、でもとにかく、小春は気配に目を覚まし、でもそのまま気づかないフリをしていた。
その出来事にそれなりのショックは受けたとは思うけど、まさかそれで妊娠し、彩乃が生む決断をするとは思わなかったのだ。だって、単なる友人の男の子だったのだもの。

彩乃から妊娠を告げられ、しかも産む決意を固めていることに小春は混乱し、一般的常識的にムリでしょ、と言う。小春はでも、そんなことは百も承知で、自分に告げるまで悩みまくった彩乃のことを想像できなかった訳ではなかったと思うのだけれど、そんな、近所のおばちゃんみたいなこと、やっぱり言っちゃう。
やっぱり、現代の、令和の(爆)フレキシブルなファッショナブル女子でもそんな昭和的な感覚の反応するんだ……と思い、いやこれは、監督さんがギリ昭和だからかなとか思ったり……。

結果的にいろいろ衝突しながらも小春は彩乃の選択を受け入れ、一緒に子育てすることを選ぶのだけれど、これはね、私めっちゃ理想なの。こーゆー選択肢が普通になるべきだとホント、思ってる。子供を産むには結婚してなきゃいけない、父親が判ってなきゃいけない、シングルマザーを選択するなら外に助けを求めず一人で育てなくてはならない……エトセトラエトセトラを、本作はまさに一点突破、してくれた。

ほんっとうにね、これらのあれこれが、なんてくだらないんだと、ほんっとうにね、思っていたから。そんなことに拘泥していながら少子化を嘆き、シングルマザーを糾弾し、救済せず、今だ家父長制度に基本を置いて男を優遇する。バッカじゃないの!!と昭和腐女子フェミニズム野郎おばちゃんは常々思っていたからさ。
ああ、素晴らしい。こーゆー選択肢が普通になってほしい!!と思ったからさ……。

でもそこには、女性側の意識改革こそが必要なんである。意外にそれが、こんな新しい、ファッショナブルな女子にもなかなか浸透していないんである。やっぱりそこは、日本的かな、という気がする。
子供を持たないままババアになっちまってる私に何も言う資格はないかもしれないけれど、日本は子供を産み育てることを殊更に重くしがちで、それが産む側の女性にすんごい負担をかけていると思っちゃう。

劇中、逆子の可能性があるから帝王切開になるかも、というくだりがあって、彩乃は顔を曇らせる。まるで、普通分娩でなければラクしているように思われるんじゃないかとか、いう顔つき。
それを即座に主治医(大塚寧々氏。めっちゃピッタリ)は見て取って、今は普通のことなのよ、と言ってくれる。しかしそこで、海外ではより普通である、ということを付け加えるのを忘れないのは、ヤハリ日本は、出産の神秘とか感動とか、そーゆーことまで女に押し付けるマッチョな思想がはびこっているのだ、ということを示してくれていると、腐女子フェミニズム野郎の私は思ったのだけど(爆)間違ってる??

今まではホントに気の合う親友同士と思っていたのが、彩乃がこの決断をしたことで、二人の価値観の違いが浮き彫りになってくる。いや……というよりは、彩乃が母性に目覚め、彩乃の本来持っていたんだけど表に出ていなかった、神経質で気にしいな性分が、妊婦生活で如実にあらわれるようになってくる。
小春の方は彼女の決断を受け止め、自身も覚悟を固めているとはいえ、なんたって当事者じゃないし、お酒も飲んで、遊んで帰っても来るんだけど、そのことに彩乃が神経とがらせてくるのが、彼女の気持ちも判るけど、でも……というイラ付きで、何度も衝突するんである。

私は赤ちゃん産むんだから!!という彩乃に、知らねえよ!!というぐらいの小春、……当然独女の私は小春の気持ちにシンクロしちゃうが、でも女性しか赤ちゃんは産めないし、産む機会のないままババアになっちまったこちとらとしては、赤ちゃんバンバン産んでほしい、そのサポートが出来るならしたい気持ちがすんごい、あって。
だからこーゆー設定めちゃ、理想なのだ。いや、理想だと、気づかされた。こういう選択肢もあっていいんだと。

「トーチソング・トリロジー」とか、「ハッシュ!」とかで、同性愛者カップルで子供を得る、得たいという設定の映画はあった。それは当然。愛する人と共に子供を育てたいけれど、それが物理的に無理な場合どうするか、というのは、まず一度、通り過ぎる道であった。
今現在、決してその問題も解決はされていないけれど、そもそも子供は結婚してる親の元に産まれるべきとか、パートナー同士で育てるべきとか、いうところから抜けるべきだと思っていたから、すんごく、快哉をあげたい気持ちだったのだ。
シングルマザーに頑張ることばかりを強いるくせに、それがくじけると糾弾する社会にウンザリしてた。それなのに少子化少子化言って、産めるのは女性だけなのにさ!!

……どうしてもフェミニズム野郎が顔を出してしまう。でも本当にね、彩乃の選択が、素晴らしいと思ったのだ。本当に、ついつい酔った勢いでヤッちゃったにすぎないのだ。単なる友人、全然、彼に対してどうこう言う気持はない。なのに、妊娠したと判って、中絶という選択肢が彼女の中には一切わいてこなかった。

……それが当然だという社会になってほしいと、フェミニズム野郎は思うんである。これはね、レイプで妊娠したっていう例になると難しくなるんだけど、授かった赤ちゃんはまさに命であり、なんかこういうこというと共産主義みたいになっちゃうけど(爆)、みんなの命であり、それ以前に、その命は彼or彼女自身の命なのだ。どんな形で成されたにせよ、生まれ出て、生きて行く権利があると、私は思ってるから……。
そのために両親がいるとか、片親だけでもいるとか、思わない。ただそういう社会制度が、全然出来てないだけで。

彩乃はこんなキラキラ女子だけど、片田舎の実家とは疎遠になったままである。でも、というか、片田舎のプライドというか、黙って勝手をするのはしたくない性分なんだろうな、と思う。
シングルマザーで産み育てるよ、という決意を報告しに行く。そこで待っているのは父と、父方の祖母。なんかね……事情ありげな雰囲気。父を演じるのは鶴見辰吾。白髪が逆にセクシー。でも父だけ。父とその父方の祖母であるおばあちゃんとの切れ切れの会話からは、ここにはいない母親との複雑な関係が見え隠れする。

デキ婚だったのか、そういう場合は責任を取るのが当たり前だろ、みたいな言い方をする父親は、恐らくその後、その責任が幸せには結びつかなかったのだろう。明確には語らないところが、良かった。でもそういうことなのだと。
子供が出来たから結婚する。それが責任。でもそれが子供にとって幸せとは限らない。本作はね、そういうところは全然突っ込んで描かないんだよね。ちょっと不安になるぐらい。でもそこを突っ込んで描いたら、まさに昭和の古びたドラマになってしまうのかもしれない。それを周到に避けている、気がした。

逆子かもしれない、帝王切開か否か、という展開を出してきたから、いや、そうじゃなくても、当然出産シーンを感動的に展開して、号泣必至!!と思っていたら、通常分娩か帝王切開かさえ示されず、もうすっかり出産して落ち着いて、小春がミルクを手慣れた様子で作って彩乃と携帯で連絡を取っているなんて描写で、うわー、なんとストイックな。
出産シーンなんて、もうこれだけで観客の涙振り絞れるのに、飛ばしちゃうんだ!!と思って、かなりビックリしたが、でも考えてみれば、本作が語りたいところはそこじゃ無いんだもんな、と思ったらスゴイ納得しちゃうというか。

個人的には、彩乃のおばあちゃんが、素敵すぎた。一番、人生のキャリアがあるのに、一番、新しい感覚を持ってる。一巡、二巡、三巡、してる感じ。
息子はまさに、昭和の感覚なのだ。でも息子の母親、彩乃にとってのおばあちゃんからは、女性としての解放を望む感覚と、昭和の時代に女性というだけで虐げられた記憶、そして孫が自分の気持ちを代弁してくれている嬉しさを感じる。
今、現代のリアルタイムはまだまだだと思うけれど、その経過を見ていけるのが、とてもエキサイティングで、嬉しいなあと思う。★★★☆☆


渡世人
1967年 89分 日本 カラー
監督:佐伯清 脚本:棚田吾郎
撮影:飯村雅彦 音楽:木下忠司
出演:梅宮辰夫 市川和子 斎藤信也 水島道太郎 石山健二郎 名和宏 藤山寛美 佐藤昂也 柳永二郎 城野ゆき 北川恵一 金子信雄 南原宏治 若山富三郎 穂積隆信 沢彰謙 御木本伸介 八名信夫 関野耕作 植田灯孝 土山登志幸 山内修 小林稔侍 日高孝司 真木亜沙子 須賀良 田川恒夫 滝島孝二 相馬剛三 久保一 沢田浩二 大木史朗 関山耕司 秋山敏 桐島好夫 小塚十紀雄 河合絃司 城卓矢 鶴田浩二

2020/8/14/金 録画(東映チャンネル)
戦時中の、満州の利益のためにヤクザ者どもが利権を争う、というネタは、ここんとこ東映チャンネルでよく聞く話である。大抵鶴田浩二がキャストで絡んでいるのは偶然だろうか。当地の馬賊が正義を貫くまっすぐなキャラとして印象的に登場するのもしかり。
そして、これは任侠映画ではまっとうなネタそのものではあるのだけれど、任侠道とは何ぞやと、侠客とヤクザと暴力団は違うのだと、その男気心意気を描くことに血肉を注いでいることであり。

これも満州ネタのいくつかの任侠映画でよく聞いたのだが、この新しい時代、縄張り争いをしていたって仕方がない。日本人の力を満州に貸して力を合わせましょうや、とかいう、妙に近代日本民主主義みたいな、まことしやかな理屈である。その実、その満州の利権を争って、つまり金儲けのネタのためにまさに縄張り争いを繰り広げる訳で。
それは日本の地図上における組同士の縄張り争いのような、その土地へのプライドなんかじゃなく、まさに欲得ずくの、そして日本人じゃない満州人なんかどーでもよろしという、侠客の矜持を持っている本物の男なら眉をひそめずにはおかないことなんである。

だから、あの鶴田浩二がそんな欲得ずくの考えの藤井という親分に指図されて、満州から出張ってきた馬賊の頭目とまっとうな考えをしている正宗一家、塚本という親分さんを暗殺する、というスタートに、えーっ、鶴田浩二こそ侠客道を体現してきたお人なのにっ、と思うものの、その意外の感を見抜いたかのように、彼はまさに命を削って、この間違いを自ら正していくんである。

鶴田浩二は主人公ではなく、特別出演という形の大物ゲストだけれど、結果的には梅宮辰夫とダブル主演ぐらいの趣である。梅宮氏扮する大泉新次郎はまさに売り出し中の塚本組の若いモンで、その風格は若いながら塚本の跡を継ぐんじゃないかと噂されていた。
それが面白くなかったのが、その面構えから既にコソクなヤツという感じがにじみ出ている(爆)正宗一家の代貸、児玉である。本来なら年功序列的に言って自分こそが次の跡目と思っていたところに、彗星のように現れた若い新次郎にわっかりやすく嫉妬し、こともあろうに自分の親分の塚本の命を奪うために、満州の利権を狙っている上毛組組長の藤井と手を組んだのだ。

塚本の親分さんは、実にまっとうな考えの持ち主だった。つまりは彼は、本物の侠客だった。正宗一家の実情を探るため賭場に入り込んだ三上(鶴田浩二)と成瀬(若山富三郎)は、塚本親分が「満州に権益があっても、その領土は日本人の者ではない、満州人のものだ」という考えを持っていることを知るんである。
もうこの時点で、三上はかなり塚本親分に気持ちが傾いていたんじゃないかとも思うが、なんたって三上は流れ者、わらじを脱いだ先の恩は果たさなくてはならない。だから、馬賊の頭目と塚本をやるしかなかったのだけれど……。

一方の新次郎はこともあろうに女のところにしけこんでいた最中に、親愛なる塚本親分を殺られてしまうという体たらくである。駆けつけたところに逃げていく三上と成瀬の顔を見たが、後に自首してきた男を面通しされるも見も知らぬ顔。
この時から新次郎にとって親愛なる親分の仇を探し続けることになるんだけれど、三上と成瀬の顔を見られたことを知った藤井側は、新次郎を刑務所に送り込むために、病んだ父親を持つ不幸な男と刺し違えさせよう、てゆーか、この男は死んでもいいから新次郎に殺人の罪を着せよう、ということだったのだろう。
どうせ死んでしまうからとでも思ったか、この不幸な男に半金しか払っていないケチな所業に三上は怒り、そもそも客人として仕事を果たしたけれど、あまりにアコギな上毛組のやり方にこの時点ではすっかり疑念を抱いているんである。

だったら最初から、よく考えて行動すれば良かったのに(爆)とか、いまだに任侠映画の男気スタイルがよく理解できない永遠の女子(爆)は思ったりするが。義理を果たす、というのが、結局相手の考え方が受け入れられないことで反旗を翻すなら、義理を果たしたことにならないんじゃないのかなあ(爆)。
とにかく、ナントカ一家のナントカ組、とかいう、いくつもにも入り組んだ侠客絵図が、バカな女子にはマジ判らんし、コワモテの男たちはなんか似たような顔してるし(爆)、もー、何度も巻きなおして確認しちゃったよ(爆)。

で、まあとにかく、新次郎の、あのねちっこい、ちょっとイラッとする恋人(……すんません……フェミニズム野郎だけど、だからこそ自分で立てない女はキライなのだ……)お登喜は新次郎が投獄された時には彼の子を身ごもっている。三上が自分の正体を明かさないまま、お登喜の面倒を見ることになったのは、塚本組を継いだ児玉が新次郎を陥れて敵に売り、親分を殺し、新次郎の女であるお登喜に横恋慕して囲い込もうとしているのを見かねたからなんであった。
この時点で、バカな私の頭はフル回転。塚本親分を殺したのは三上なのに、塚本親分に心酔する新次郎の女のお登喜を助けてる……あ、そうか、塚本親分を殺させるために手引きをしたのが児玉で、今は親分が殺されてタイヘン、新次郎にご苦労さま、お登喜のことは任せろと言ってるのか、児玉が手引きになって三上に塚本親分を殺させて、今、味方みたいな顔して児玉と三上がお登喜のそばにいる……あーもう、ややこしい!!

ムショに入れられて面会に行った時、新次郎が「普通の身体じゃないんだから」と言ったから、身ごもっていることをもう知っているんだと思っていたら、そもそもお登喜さんは身体が弱くてそれを心配していただけだったらしいんである。
胸が悪い、つまりこの当時大流行の肺結核であろう。肺結核患者がぞろぞろ登場するんである。新次郎がムショの中で再会する、塚本親分を殺った人物を知っている男は最小限のヒントを言い残して死ぬ。お登喜さん、そしてなんとまあ、三上もまた、肺を患っているんである。

お登喜さんの方が、いつ私死んでもおかしくないから、みたいな雰囲気なのに、彼女はなんか段々元気になっていき、三上の方が顔色が悪くなっていき、咳き込むようになっていく。
その中で、お登喜さん、お登喜さんの老父、そして彼女が産み落とした新次郎の子供、みんな三上を頼りにするようになる。困ったことに老父はバクチにはまってしまって、それは多分、児玉が陥れたことだろうけれど、三上は大枚はたいてお登喜さん一家を児玉の魔の手から足抜けさせ、上州に逃がすんである。

新次郎が出所する。勤勉な彼は、早い仮出所を果たしたんである。ムショの中で仇の名を知った彼は、上毛組を目指す。
そもそも出迎えにお登喜がいなかったことが、彼の心を暗くする。てゆーか、彼女からまるで便りがないことを、不審にも思わずにうっちゃっておいてること自体が信じられないが。

上州にたどり着いた新次郎は、土地の侠客、立花組にわらじを脱ぐ。ここにいるのが、キャストに名前を見た時から心躍らせていた藤山寛美である!どういう事情なのか……とにかく身寄りがなかった彼を引き受けたのが立花親分であったらしく、ちょっと頭が足りてないと思われてるポカンとしたこの男を、今じゃなかなかこういう表現は難しいと思うんだけど、藤山寛美の圧倒的なチャーミングさで押し切っちゃう。
本当にザ・脇役なんだけど、彼こそが、立花の親分さんの恩義を誰よりも感じている存在で、本当にちょっとした場面ばかりなんだけど、なんとも、とても、象徴的なんだよね。
この親分さんもまた、悪徳上毛組に殺されてしまう。絶対報復にくるのが判り切ってるのにさあ、毎回、こーゆー判り切った悪事を働く悪役側が、あったま悪いよね、って思っちゃう。そこんところのツッコミはしちゃいけないんだろうか……。

でも、この立花の親分さんが殺される場面、祭の日である。にぎやかな街の中である。新次郎の息子は祭りに行きたがっている。いまだ新次郎より三上になついている。敵味方である二人は一触即発ながらも、互いの事情が判っているから、不思議な休戦状態である。
立花の親分さんが自分が相手と話をつけると出かける。祭りのおどけた面をつけた二人の男が船に同乗する。一気に、ドローンかと思うぐらい、引きの画になる。豆粒のような目を凝らさねば判らないような船の上での攻防で、立花の親分さんは川に叩き込まれる。

本当に悔しく、哀しい、許せない一件だけれど、これがなければ新次郎と三上は共通の敵として手を組む訳には、行かなかったのだ。
その前に三上は、藤井に命じられて馬賊の頭目と塚本の親分さんを共に殺しに行った成瀬と対決し、成瀬が倒れた。決して、望むことではなかった。

三上が倒したのは馬賊の頭目であり、塚本の親分さんを倒したのは成瀬だということを、新次郎に藤井の情報をリークする若いもんが告げ、新次郎は心揺れるが、無論、三上はそんな些末なことで自分を言い訳したりする男ではない。
ただ……この時点になってくると、新次郎も、本当の悪人、正義のありかがだんだん判ってくるんである。三上も成瀬も、そして新次郎も、結局操られたに過ぎない哀しさであり、敵と相打ちになったとしたって、正義が生き延びられないんじゃ、意味がない。

いや、新次郎は、生き延びる。そもそも三上は胸の病気で死を待っているような状態の、最後のご奉公だった。先も言ったが、この時代だからだろうが、胸を患ってるキャラが次から次へと出てくる。しかし女はなぜか、元気になって立ち直る。うーむ、生命力の差だろうか……。
新次郎にしなだれかかっていた恋人時代は、あー、うっとうしい女!!と思うようなお登喜さんだったのに、今は、再びお縄になる夫を、前とは違う、たくましい気持ちで見送っている。三上=鶴田浩二サマは死んでしまったのにっ。キーッ!!

ヤクザなんだから、結局末路は同じ。最後に赤い着物を着るか白い着物を着るかだと言って、新次郎の腕の中で三上は果てた。三上は赤い着物を着て、つまり現場で、仲間の手の中で死んだということだろう。
床の上で“白い着物で”死ぬことができる方が幸せなのかどうかは……女の私には一生判らない。★★★☆☆


友達やめた。
2020年 84分 日本 カラー
監督:今村彩子 脚本:
撮影:今村彩子 音楽:やとみまたはち
出演:

2020/9/27/日 劇場(新宿K's cinema)
「珈琲とエンピツ」から才気を見せていたけれど、前作の「Start Line」で自分の弱さ愚かさを真正面からさらしているのに本当にビックリし、そしてそれがまごうことないエンタテインメントとして非常に面白かったのがとにかく印象的だった。
たとえドキュメンタリーだとしても、映画作品としてかけられる以上、エンタテインメントであるべきだと私は、思っている。しかしそれが時折、演出操作ややらせのような誘惑に傾くクリエイターも少なからずいる。それが素人目にもバレちゃっているような場合さえある。
でも彼女は、その点非常に信頼できると思ったんだなあ。そしてそれがエンタテインメントに着地できるのは、無論そこに至るまでの執念というか、答えなり着地点を見つけ出すまでの信念なのかなあと感じる。

今回、監督さんが挑むのは、友達のまあちゃんである。それこそ「Start Line」の上映に来てくれたことがきっかけで意気投合、友達であり、仕事を手伝ってくれる仲間でもある。
まあちゃんとは手話を交えて会話する。しかしまあちゃんは監督と同じろう者ではない。全く逆で、聴覚過敏のために時折耳栓をしていたりする。そのためにコミュニケーションツールとして身につけたのが手話であり、「ろう者に間違われることはよくある」と言う。
メカに弱い監督さんの編集作業を、もちろん聞こえるということで音楽のタイミングを指示するし、手話ができるから手話通訳として同行することもある。まさに、仕事仲間として最高のパートナー、なんである。

聴覚過敏で手話を身につける、というのは初めて聞いたから、凄く面白いなあと思った。聴覚過敏というのもまだまだ社会的に認知されていないハンディキャップのひとつで、耳栓をしていることで失礼に思われたり、見た目では判断できない苦労があると聞いたことがある。
逆手にとって、じゃないけど、耳からの情報をシャットダウンして手話をその代わりのツールにする、とはなんとクレバーな発想だろうと膝を打ちたくなる。手話は世界でも共通する部分が多いというし、まさにグローバルな言語、コミュニケーションツールなのだと思うし。

まあちゃんは10年ほど前にうつを発症、その診察の過程でアスペルガー症候群であることが判明する。
本作は主にこの“アスペ”なまあちゃんに対して、監督さんが友達としてどうあるべきなのか、そもそも友達って何なのか、判り合うなんてきれいごとじゃないのか、いい人でいなければいけないのか……と葛藤する物語、なんである。

誤解を恐れずに言えば、凄く興味がわいた。アスペと略称されることが耳慣れるようになっているほど、認知が進みつつある発達障害の中でも、アスペルガーに門外漢の私たちが何故か惹かれるのは……そこに才能という得たくても得られないものをかぎつけるから、なんである。
こだわりが強い、集中力ゆえなのか、特化した才能を持つ、というのは、まあちゃんのメカの強さや、聴覚過敏=手話を身につけるといった、発想の転換と吸収力の早さに、見て取れる。

それだけじゃなく、彼女は非常に弁が立つ。おしゃべり好き、といえばそうなんだけど、彼女の自己分析は的を射ていて、聞き入ってしまう。「今日はあやちゃん(監督)の話を聞きに来たはずなのに!!」と言うまあちゃんに監督さんも笑ってしまうのは、そうだけど、聞き入らせてしまうだけのトーク力、説得力があるということなのだ。
ただ……確かに自分の話、ばかりである。それが次第次第に、監督さんとの“友情”に亀裂が産まれることになる。

言い訳、に聞こえてきちゃうんである、監督さんには。まあちゃんにしてみれば、“説明”ということなのかもしれないと、後から落ち着いて考えれば思う。
なぜそこに齟齬が生じるかというと、監督さんが後に述懐するように、“イイ人”になろうとしちゃったからなんである。まあちゃんはそんなこと望んでなかった、というか、考えもしなかったに違いない。“イイ人”は誰のためになるのか。誰がジャッジするためになるのか。

アスペルガーだからしょうがない。こんな言葉は、別のハンディキャッパーである監督さんは、心底言いたくない言葉だったに違いないのに、結果的に、そっちに傾いていっちゃう。
まあちゃんは自分がうつになり、アスペと診断されて、それに関する本をものすごく読んでいる。凄まじい量である。彼女自身がイマイチピンときてなくて、自分自身を説明したいがためなのかな、と思ったりする。

そしてその外側にいる監督さんに対しても、上手く説明できないから、本を読んでよ、とまあちゃんは言うんである。なかなか衝撃である。だっていわば、他人の、冷たい分析がああそうだねと思って、それを読んでくれれば私のことが判るよ、と言っているってこと、だよね??
まあちゃんは……だから徹頭徹尾冷静だったのだ。監督さんの方が、やきもきして、我慢して、爆発してしまった。

監督さんが、自分はろう者で、まあちゃんはアスペで、同じマイノリティーとして判り合えると思っていた。でも違った。という中盤の吐露がもんのすごく、刺さるんである。
こうやって思い返して書き起こしてみても、監督さんはマイノリティー同志として判り合えるよね!と接しているんだけれど、まあちゃんは全然、一ミリもそう思ってないよね。まあちゃんはあやちゃんを友達として、仕事のパートナーとして、ただただ100%それだけでいただけ。

判り合える、というのが、そういう、なんていうのかな、ぼんやりした美徳的なことではないんだということを、もう見てられない、ぶつかり合いを映し出していくんである。
ドキュメンタリーっていうのは、撮影者と被写体の信頼関係が強固でなければ本物、傑作は生まれないと常々思っているんだけれど、本作(前作もそうか)は、撮影者が被写体でもあり、信頼関係を得るために血を吐くような体当たりをしている。

友達、……友達にこんな、体当たり、私したことない。出来ない。でもそれが出来なければ友達なんかじゃないと言われているような気がして、身がすくむ。
だって監督さんはそのために、まあちゃんの友達をやめた、とまで覚悟をくくるんだもの。判り合えるという言葉だけの美辞麗句は、本当の意味の凄まじさを突破するには、そこまでの覚悟が必要なのだ。
うわ、うわあ……やっば、私そしたら……友達だと言える相手、いないよ。だってきっと、忖度しまくって付き合ってるんだもの。

監督さんは自身がろう者というマイノリティーだからアスペというマイノリティーであるまあちゃんと判り合えると思った。それと同じで、特段ハンディキャップのない健常者同士なら判り合えると思う、というのも思い込みなのだ。ダメだ、と思った時に、相性が合わなかっただけだと思いがちだけど、そういうことじゃないんだ。
とことんぶつかって、何がすれ違っているのか確認して、監督さんとまあちゃんは二人の常識を見出した。それ、やってない。こうして開示されればいわば当たり前かもと思われる、お互いを判り合うために一つ一つ確認することさえ、やってないじゃん!!と思って、雷に打たれたような感じがした。

監督さんが、まあちゃんに対してイラッと来るたびに、アスペの特性なのかまあちゃんの性格なのか、アスペだから仕方ないと思うのはどうなのか、そこを仕方ないとしちゃうのはいい人になりたいだけなんじゃないかと葛藤する描写が凄まじい。
本当に、じっくりと、じっさいのまあちゃんの言動や、二人が綴った日記、そのナマな字で記していく。アスペルガーの特性なのか、自身の性格なのか。すべてがアスペだと斬って捨てて、しょうがないよね、とか、あるいは、特性が凄いよね、とかカンタンに言っちゃいがちである。まあなんとなく“健常者”の側としては。

監督さんはずっと、自身がマイノリティーであるという自覚の元に生活もし、作品作りも続けて来たけれど、まあちゃんとの出会いで、“同じマイノリティーだから判り合える”という思いがおごりか甘えか、そんな風に直面したことでこの作品が産まれた。
そしてそれは、そうしたカテゴライズを、マジョリティー、マイノリティー、いやもはや単なる老若男女、どんな立場の人たちもついついしがちであることに気づかせてくれる。

まあちゃんは本を読む。自分のことを理解したいがため。上手く自分の歯がゆさを説明できなくて、あやちゃん、本を読んでよ、と言ったりもする。監督さんは言うとおり本を読み、ある程度はまあちゃんの特性を理解する。
でもあくまである程度である。まあちゃんはたった一人のまあちゃんであり、アスペだから仕方ない、理解してあげようね、てな茫漠としたキャラじゃないのだ。

すっかり気まずいケンカのあと、どれぐらい経ったのだろうか。監督さんは、お互いの常識をすり合わせてみようと思う、と提案して、まあちゃんを自宅に招く。
お互いの普通、常識、監督さんがアゼンとするまあちゃんの行動には、まあちゃん自身、判っちゃいるけどどうしようもない現象がゆえってのがあって、聞いてみればナルホドなんであり、一つ一つ解明していって納得!!と監督さんも笑顔。

ラスト、タイトルである「友達やめた。」がまあちゃんの笑顔の上に乗っかりつつも、矢印ひいて「でも友達」というのが、ジーンときた。友達やめた、って言うのは、監督さんがいい人でいることの苦しさから解放されるために、友達という世の中の価値観、お互い判り合って、信頼し合って、みたいなことからの解放、なんだよね。友達やめた、と思って、ラクになって、イチから腹を割って、友達じゃん!!って。
そもそも友達って何?という葛藤は、ホンット普遍的というか、いまだに悩ましいというか、友達って言っていいの?といまだに思うもんね……私が友達と思ってても、相手がそう思ってなかったらどうしよう、親友なんて絶対言えない!!みたいなさ。それはこれだけぶつかり合ってないからなのかもしれない。そうかもしれない……。

監督さんはスタイルよく、シュッとした女子力高めの印象で、ちょっとゆるい体形のまあちゃんの方が、……なんか私、まあちゃんの方に似てるなあと思っちゃう。女子的外見にこだわらないというか、むしろそれを避けてる感じとか、ヘンな服着たりとか、なんか私みたい(爆)。
女子力高めの友人に対する、その友人から常識を説かれてショックを受ける感じが、なんかちょっと……デジャブ感が(爆)。★★★★★


ドロステのはてで僕ら
2020年 70分 日本 カラー
監督:山口淳太 脚本:上田誠
撮影:山口淳太 音楽:滝本晃司
出演:土佐和成 朝倉あき 藤谷理子 石田剛太 酒井善史 諏訪雅 角田貴志 中川晴樹 永野宗典 本多力

2020/7/27/月 劇場(TOHOシネマズ日比谷)
うーわぁ、難しっ!何これ!!70分あまりだと思って油断してた!もう頭フル回転してもその原理についていけなーい!
いや、ついていかなくていいのだわ。頭のいい人の緻密に考えた構成をよってたかって(爆)入れ代わり立ち代わりの達者な役者たちがかぶせかぶせしていったら、ついていける訳ない、もうこれは楽しむしかない!!

これはちっちゃなちっちゃなSF。でもものすごーーく深―く掘っていくSF。まずはたった二分の未来と過去がつながるところから始まる。モニターがそれをつなげる。モニターのあっちとこっちが二分を隔てるんである。
カフェのマスター、カトウが閉店処理をバイトの女の子に任せ、二階の自室に戻ってくると、パソコンの奥から呼びかけるのは、……なんと自分!しかも、今いた一階の店にいる自分!!
自分が言うことには、ここはそっちから見て二分後の未来。お前が探しているギターのピックはラグの下にあり、めんどくさい来客がこれから来るからそろそろ下に降りてこいという。来れば判るから、と。

この、“来れば判るから”がクセモノで、最初ウッカリそうかと流してしまうが、そもそもなぜ“来れば判る”が始まったのか。それ以降はそりゃ未来からのアドバイスを聞いてりゃその通りになるんだからほとんど流れ作業のようなモンで、小さなところではスクラッチシートが当たり、大きなところ(で、トラブル発生の元)では捨てられていた札束が見つかる。
そういった具合にどんどん“未来だから何でもわかってる”ことを実現していく訳なんだけれど、でもその一つ一つも落ち着いて考えると、うーむ、スクラッチは一度はがさなきゃ判らない訳だし、札束のありかも、ただ未来だから判るというのは解せないと思うのだが、もうどんどん二分後、二分後、と進んでっちゃうから、そんな疑念を挟み込むスキを持たせないの!

いや、それこそ主人公のカトウは、最初にその事態……未来の自分に話しかけられるという事態に遭遇しているのに意外と冷静、というか、むしろ引き気味である。それは集ってきた仲間たちがこの“タイムテレビ”(どうやらSF好きであれば、常識的なワードらしいが……)にすっかり盛り上がって、不安を覚えて来たカトウがいくら止めても、もうちょっと、もうちょっとだけと、事態をどんどん進めて、進めるどころか複雑化させ、混乱させていくのと実に対照的である。
つまり、観客側の意識はむしろ、このどこか弱気なカトウにシンクロしているのであり、だからこそ、最初からあった疑問……未来には希望ばかりがあるのか、未来から教えてもらえるのは得なことばかりなのか、それ前提っておかしくないか、というちらりと芽生えていた違和感を、彼自身がまず浴びることになるんである。

二分後の自分は、ひそかに想いを寄せていた隣の理容院の女子、メグミに、自分のライブに誘ってOKをもらい、狂喜乱舞していた筈だった。しかしてそもそもカトウはそんな大それたことをするつもりもなかったのに、二分後にOKもらってるんだから!!と仲間たちに鼓舞されて意を決して誘いに行くも無残に断られる。
つまり、二分後の狂喜乱舞は、過去の自分に合わせてウソを言った訳であり、この時初めて、未来と過去を合わせなければつじつまが合わなくなってしまう、という意識が芽生えての行動が産まれたんである。

それは、この事態を最初から目撃していた、つまりはこの騒ぎを周囲に広げた張本人である店員のアヤがそうした訳なんだけれど、それまでも不思議なぐらいに、ちゃんと二分後の自分たちを、台詞からしぐさからきっちり完璧に、操られるようになぞっていたことが、どう説明がつくんだろう……と怖くなってくる。
早々にオチバレだけど、最後の最後にカトウとメグミはこれから来ると決まっている二分後の未来の映像を見せられてもそれに抗い、未来を変えてしまう訳なのだが、それに慌てるのは時間警察の二人だけで、特に何も問題なく収束してしまうのだ。
おーっと、早々にオチバレしすぎだろ(爆)。しかし時間警察というのは懐かしいワードだ……。タイムテレビは判らなかったが、タイムパラドックスを引き起こすような人たちを取り締まる時間警察というのは、もう懐かしのSFモノでは散々描かれてきているものね!!

いや、その前にいっちゃん重要なファクターがあったんであった。タイトルにもなっているドロステである。私、初めて聞いたワードで、タイトルうろ覚えでチケット窓口に行って、えーと、ドロ、ドロ……とか口ごもりまくってしまったよ(爆)。
いわゆる入れ子構造のことで、劇中でも由来となったココアのパッケージが示されるが、私のイメージはコンデンスミルクの女の子が持っている缶の中にまた女の子がいて……ていうのがぱっと思い出した。その繰り返しの無限を想像してひどく怖かった幼少期をまさに、思い出したのだった。

単なる絵だし、そんな無限に描き込めるわけじゃない。あくまで理論上ということは判っているのだが、本作で、その理論上を実践しちゃおうぜ!という展開になった時には、事の重大さに、うわっ!!!と思った。
実際の展開は、判りやすくヤクザさんが出てきて時間警察が出てきて、いい感じに断ち切られるのだが、無限に時空の中に閉じ込められて出てこれなくなる、幼少期の想像を思い出して、ダメダメダメー!!!と思っちゃったのよ。トラウマね(爆)。

つまり、合わせ鏡状態にして、延々と未来と過去で通信し続けられるというドロステシステム、こう書いてみても頭の悪い私にはまだよく判っていないが(爆)。モニターがいくつも洞窟のように連ねられたとおーくの方から、ガチャガチャでレアアイテムをゲットしたから、即向かうように!!とちょこっと未来から言われて、まじでー!!と飛び出していくなんていういわばアホらしさが、まさかそれが現時点になった時に、ヤクザの金を横取りした事態になって、殺されかけるなんていう展開になっているなんてそらあ思いも浮かばず!!
まあでも、結構親切に、チラ見せでヤクザさんとか時間警察(だとは、チラ見せでは判らなかったけど、明らかに異質な二人)を画面のすみっこに見切れさせているので、あの時見切れたあの人たちが、どうやって出てくるんだろう……というドキドキも抱えつつ、ドロステの目まぐるしい展開に必死についていく感じなんで!!

でもやっぱり、カトウだけがこの無限ループからなんとか抜け出そうとしている。未来の自分に騙されたことがものすごく大きく、それが、失恋という痛手につながっているから余計なんである。
メグミがカトウのライブの誘いを断ったのは、ご近所さんなんだからやんわりと濁すことも出来たのに、ハッキリと断ったことになんかあるなとは思っていたから……結局は無価値のアホだった元カレがバンドマンで、その記憶が苦々しく残っていたからだったんであった。

その流れで置きっぱなしになっていたシンバルを、バンドをやっているんなら、とカトウの元に持ってくることでメグミはこの混乱に巻き込まれる訳だが、結果的にヤクザの魔の手からカトウがメグミを救う(それには仲間たちと未来からの指示が素晴らしかった訳で)。
そして、時間警察の横暴な押し付けを二人して見事に交わし、つまり、決められた未来も変えることができるんだと。そして、フラれたはずが、実はSFや漫画の趣味もバッチリ合ってめっちゃもりあがっちゃってる、仲間たちは時間警察に眠らされている中、二人だけ、コーヒー飲みながらもはやラブラブ!!ホントに眠らされているだけかなあ、死んでない??心配!!

時間を超えてるモニターを一階、二階、三階、と移動させるが、そんなにケーブルそもそも長いだろうか……と思っちゃう。モニターだからワイファイという訳にも行かず、しっかり長々したケーブルが見えてて、それはさすがに現実的じゃないかなあとは思った。
ケチャップやシンバル、ガチャガチャに入っていた巨大ダンゴムシフィギュア、廃墟展のポスター、モニターにかぶせたひざ掛け……ちょっとした小道具をこれ以上ない重要なアイテムとして展開していくのは、さすが人気劇団と思わせる。
だからこそというか……やっぱり映画というより舞台、舞台でかかる感じ、ていうのは思わせるのは……なんの違いだろう。シチュエイションこそを大事にし、人間を掘り下げることはあんまりしない感じだからかな。 ★★☆☆☆


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