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「ひ」


2021年鑑賞作品

美人家政婦 癒しと快楽(ぐしょ濡れ女神は今日もイク!)
2017年 86分 日本 カラー
監督:山内大輔 脚本:山内大輔
撮影:田宮健彦 音楽:Project T&K
出演:朝倉ことみ 涼川絢音 真木今日子 和田光沙 佐倉絆 川瀬陽太 森羅万象 野村貴浩 太三 竹本泰志 山本宗介


2021/5/12/水 録画(チャンネルNECO)
キャストに和田光沙嬢の名前を見つけた時点で怪作の匂いがプンと香ったが、設定も物語展開も、正しきピンク映画という感じで、油断していた。
ラスト10分はこの展開付け足さずともよくない??というアゼン茫然で、マジでこのラスト、最初からついてたの?なんかいきなり違う映画になっちゃってるんですけど!!と思いかけたが、いやいやいや、そもそもあのクリーチャー両親が出てきた時点で、ただ驚いただけで済ませてしまった自分がおかしかったのだ。
和田光沙嬢に大笑いしながら、ところどころに立ち現れる異様さをスルーしていたのだ。なんていうことだ!

正しきピンク映画という設定と物語展開、というのは、厳しい現実に悩む男性に、相手の望む存在となってあらゆるサポートをする、つまり時に妻になり、恋人になり、ありていにいやあ、最終的には性処理のお仕事っつーことである。
デリヘルじゃんと言ってしまえばそれまでだが、それをNPO団体きぼうの輪という、やけにもっともらしい団体として立ち上げられているというあたりも正しきピンク映画って感じなんである。裸エプロンとか、期待に応えすぎだろ!

でも、そこまでなら、である。客となる男性陣は森羅万蔵、川瀬陽太といった安定のベテラン男優たちが配置され、愛する妻を失った悲哀をじっくりと見せ、うっかり涙を落としそうになってしまう場面すら、ある。
正しきピンク映画である。なのになのに、である。本作ははっきりと、オカシイ!何かが狂ってる!

先にも言ったがなんたって和田光沙嬢である。彼女のキャスティングにハズレナシである。作り手たちがこぞって彼女を起用したがるのがめっちゃ判る。
今回の彼女の役どころは、そのNPO団体の代表である。もう登場から爆笑。玄関に可愛らしいミニシーサーが飾られていた時点でこれは……と思ったら、期待にたがわぬトロピカルな格好で現れ、あやしげな沖縄なまりでまくしたて、「サンピン茶。地元から取り寄せたからおいしいよ〜」とニヤリと笑って勧めるそのお茶が毒入りに見える(爆)。

彼女だって全然若いのに、あき竹城みたいにすっかりおばちゃんキャラで、「若い子が出払っててねぇ〜」とお客の元に出かけ、「あらあらあら、見るからに女房に逃げられた男の部屋って感じねぇ〜」と無遠慮に見て回る。
さーさ、やったろかい!とばかりにまごつく彼の足元をさっとはらって押し倒し(爆笑)こりゃゴーカンだよ!!と女の私でさえ思う、ひいひい言う彼に、大丈夫さーと布団の中で抑え込む、その布団の動きだけで爆笑しちゃう。いやー、天才だわ和田光沙嬢。

てか、和田光沙嬢が主役ではないのだ。あまりにもスバラしいのでうっかり筆が滑ってしまった(爆)。
ヒロインは妻子ある上司と不倫の末、女房が妊娠したからとあっさりフラれたユリ子。お前に気がある同僚を紹介するよ、とか無神経なことを言われて失望したのか、仕事さえやめてユリ子は呆然と歩いていた。

そこに行き会ったのが高校時代の同級生、麻里。「仕事も男もうまくいってませんって顔してる」とズバリと言い当てる。麻里は今の仕事が充実していると言い、ウチの代表に会ってみない?と誘いをかけるんである。
そう、その代表っつーのが和田光沙嬢であるのだが、あの代表に会わせてユリ子が陥落すると考えたのかあと思うと、麻里もあんなランボーな手口で入信(後から思えばまさに入信だわ)させられたのかしらん。なかなか考えにくいけど。

だってさ、トロピカルなファッションに白スケスケストッキングをガーターベルトで止めた“代表”が、ぱんぱん、と手を叩いて呼ぶのは、男前と言いたいマニッシュな美貌の、しかしダイナマイトボディ美女で、股間のペニバンはペニスじゃなくてゴーヤー、ってなんだよ!!しかも、「最初からゴーヤー汁を出させるなんて!!!」とユリ子の資質を大絶賛するとか意味わからんし!!
しかしこの、レズビアンセックスの美しさ大爆発の画に見とれながら、そのそばでアンアンコーフンしている和田光沙嬢の可笑しさがたまらず、せっかくの女子同士エロに集中できない(爆)。ああやっぱり、和田光沙嬢にさらわれてしまうのだよなあー。

いやいや、落ち着いて物語に戻らなければ。いわば和田光沙嬢の可笑しさで中和しなければならないほど、この物語は怪異に満ち満ちているのだ。
そもそもは麻里の顧客であった、障害のある両親を介護し続けて、女性経験がないまま45歳にまでなってしまった、という事例が、本作の最もキモとなるところである。

障害のある両親、障害……あれは障害……なのか??どこがどうしてそうなったのか、両親は一度溶けて固まったかのように、奇妙な形で融合している。
ぬるぬるの粘液、大やけどしたかのようなその造形、言葉もしゃべれず、ああうう、とうなり声をあげるそれは、明らかにホラー映画である。ふすまの向こうの一室に閉じ込めているような状態は、介護というより隠蔽と言った方が正しい。
「ご両親に挨拶させてくださいね」と麻里が平然と相対する場面から、ここ、これはオカしいぞ、ヘンだな、正しきピンク映画に見えたのに、と不安に襲われる。

麻里は女性経験のない彼にはりきっちゃって、いきなりディープなテクニックをしかけたもんだから、ショックを受けた彼はブリーフいっちょで逃げ出してしまう。
その後を引き受けたのがユリ子だった。彼女もまた、バケモノ両親に全く臆さず、手料理をふるまい、お母さんにはメイクや髪飾りを施して心をつかむ。
いやその……ぬるぬるのクリーチャーに口紅縫ってウオウウオウうなってるの、めっちゃ怖いんですけど……何なのこれ、ホラーなの、何も気にせずしれっと描写するのが、コワすぎるんですけど!

麻里がいきなり、脱落するんである。脱落、ってゆーか、突然顔中に包帯ぐるぐる、松葉づえ姿で現れるからビックリする。
交通事故にあったんだ、というが、何その突然の展開。いきなりそんな姿で現れるのもコワいわ、これもまたホラーかよ!!なんかようやく、本作に漂うそこはかとない異様さに気づき始めるのだ。

麻里は入院先の医者と恋に落ちて結婚、この仕事を辞めるが、そもそも彼女がきぼうの輪で感じていた充実感が展開の中では全く実感できないまま、いきなり松葉づえで、そして結婚してしまった。

てなわけでエースの役割がユリ子に回ってくる訳だが、そこで再会しちゃうのが、先述の不倫相手である。代表が「若い子が出払っちゃってるから」と先にゴーカンしちゃった彼である。
彼はまさしく、ユリ子のこの仕事をただの娼婦に過ぎないと斬って捨てるし、見てるこっちもまあそう言われてもしょうがないわなあ、と思うのだが、ユリ子はセックスは人を幸せにするもの、なのにあなたとはそうじゃなかったし、奥さんもまた苦しんだのだと、彼に説くんである。

そして、仕事としてだけれど、愛のあるセックスをする。だから彼は、ヨリを戻したいと思っちゃう。その時はユリ子は、これが私の仕事だからときっぱり断るし、そらそうだ!!と観てるこっちもこの男の弱さに唾棄する気持ちなのだが、ユリ子、その後迷っちゃうんだよね、悩んじゃうんだよね。
長年の顧客、源五郎さんに相談したりする。今までひとことだって喋ったことのない源五郎さんが、ユリ子に、今まで男たちのために尽くしてきたのだから、そろそろ自分の幸せのために生きる道を選んでもいいんじゃないのかと言ってくれる。代表も惜しみながらも理解してくれて、ユリ子は彼の胸に飛び込むのだが……。

えーなにー、フェミニズム野郎としては、こんな男に都合のいい展開、納得できないんですけど!!とか思っていたら、予想以上の展開が待っていた。
ユリ子の代わりに源五郎さんの相手になった代表のテクニックが良すぎたのか、源五郎さん、代表の上で腹上死しちまったんである。この場面も、なんたって手練れの役者二人だから、もうさいっこうに可笑しくて爆笑しちゃうのだが、この後の展開がアゼンなんである。

源五郎さんは慎ましく暮らしていたように見えていたのに、やっていた仕事も小さな定食屋だった筈なのに、なぜだか莫大な遺産があって、それを遺言によってきぼうの輪にそっくり残しちゃったのだ。
ユリ子をそれほどまでに信頼し、感謝していたということだろうが、その時点でユリ子は、幸せになる筈だったのにあのクズ男からDVを受けている。

ユリ子を心配して訪ねてきた麻里は、おやおやおやー、結婚するのにきぼうの輪を辞めたハズだったんじゃないの。今や宗教法人!として生まれ変わって、どー見てもアヤしさ満点の新興宗教のモデルタイプってなイメージビデオの中で、私は救われました……と目頭を押さえて、麻里が出演しているんである。
麻里だけじゃない、クリーチャー両親を介護していたあの彼も。彼は、ユリ子の助言で切ない片思いをしていたメイドカフェの女の子に決死の想いで告白し、なんと成就したという幸せをつかんだのに、このあやしさ満点の新興宗教のフロントマンの一人になっているのだ。何、何、この展開!

……最初は正しきピンク映画の王道の面白さと思っていたのに、ねじくれまくって、意味わからん!!いやー……やっぱ、ピンク映画は奥深い。てか、狂ってる。そーゆーところが、大好きなの!!★★★★☆


Bittersand
2021年 99分 日本 カラー
監督:杉岡知哉 脚本:杉岡知哉
撮影:山崎裕典 音楽:安達練
出演: 井上祐貴 木下彩音 萩原利久 小野花梨 溝口奈菜 遠藤史也 搗宮姫奈 つぶやきシロー 米村亮太朗 柾木玲弥 森田望智

2021/6/27/日 劇場(シネ・リーブル池袋)
学生時代と社会人を同じキャストで同時進行で描けるのは、高校生とその数年後の社会人、この図式はつい最近、「くれなずめ」でも記憶の新しいところである。そしてそこには、記憶というあいまいなもののすれ違い、上書き、上塗り、すり替えが起こるというのも。
本作は高校三年生の夏を起点として、そこから7年後の彼らである。7年後、というのが絶妙である。大学に行った者であれば社会人となって2、3年が経ち、新人の甘えが許されなくなり、本当にこの人生で良かったのか、と立ち止まる時期である。

そしてまさにそのタイミングで、主人公、暁人はかつての同級生、絵莉子と再会するんである。それも、カツアゲされていた暁人が絵莉子に助けられる、という図式によって。
彼らが再会しているのがどこか、イマイチ判然としないのだが、なんとなく、東京っぽい。そして彼らが同級生だった高校のあるふるさとは、これまた明確にはされないが、かなりのどかな田舎の風景である。

つぶやきシロー氏が教師役で出演しているということは、あの北関東の県かしらん……などとも思うが、そこは普遍的な地方都市、ということに収めている。
もっともっと遠い地方からだと、東京に出る、というのは、まさにやってやるぞー!という気合のあるそれなのだが、この絶妙に近い距離は、逃げてくる、という感覚がちらりと頭をかすめる。いやいや、そんなことはないんだろうけれどね。

絵莉子は恐らく最初から暁人だと気づいて助けてくれたんだろうが、本作には、そりゃ東京は面積的には狭いけど、めっちゃ人いるし、こんな偶然の出会いやつながり、いくらなんでもこれはないよ。
というのがその後の展開でもう一つ二つ出てきて、暁人と絵莉子の再会にはまだ目をつむるまでもなあと思ったり。それを見越して、この奇跡は神の采配ぐらいな言い方をして乗り切ろうとしちゃうのが返って言い訳っぽくてさあ。

その“言い訳”をしたのは、暁人の高校時代からの悪友、と公式サイトの解説では書いてあったけど、いや、親友と言ってあげていいであろう。だって暁人はあんな頼みを託すのは信頼している友、だったからに他ならないのだから。

その親友、井葉は映画監督志望だが、まだ一本も撮ったこともなく、口先だけで女の子をナンパして、ホテル代をワリカンしようとしてフラれるというていたらくである。
彼だけが名字で呼ばれる感じなのが、同窓会でも誰??と言われちゃう、決してクライ訳じゃないのに、だからこそなんかイタい男の子ってのが、イイ感じなんである。そんな井葉と暁人が親友同士だってのが、ね!絶妙なのだ。

物語の冒頭は、その二人が井葉の狙っている女の子と三人で飲んでいる場面から始まる。この判りやすくウソっくさい女の子が、まさかその後の展開で重要な役割をかましてくるとは予想できなかった。
暁人はまるで乗り切れず、ろくに言葉も発しないまま二人と別れた。その帰り道で先述したように絵莉子にカツアゲから助けられるんである。

んでもってこのカツアゲの場面、暁人は先に身代わりになっていたデブ君の身代わりになる形なのだが、後々そのデブ君もまたかつての同級生だったことが明らかにされる。
いやいや、いくら何でもそこまでの偶然はないでしょ。本作はそれなりにミステリをきかせていて、青春の闇をシリアスに突いているのに、こーゆー安易な偶然が多すぎて、特に後半はここまで作り込んでおいてそれはないだろ!!と思っちゃう場面が多々あった。作り込んだ部分がうならせるぐらいのものだっただけに、もったいないんだよなあ!!

まあそれはおいといて。そもそもの事件。黒板事件。クラスの仲良し男女グループに見えた者たちの、寝取り寝取られ、裏切り裏切られ、そのハートブレイクで退学にまで追い込まれた女子までいるという。
の相関図が、同衾写真まで添えられた、悪意に満ち満ちた手口で、黒板いっぱいに描かれていたんである。
そしてそれは、その“失恋と友情の裏切りのショックによって退学に追い込まれた”亜紗美の退学の翌日に起こった。

この時点では、いくらなんでもこんな理由で高校を退学するなんて、とそらまあ人の悩みの深さは他人には計り知れないとは思っても、やはり違和感があった。
てゆーか、本作に対する違和感は最初から、暁人がこの黒板事件、書いたのは自分だと噂を広めてほしい、と井葉に依頼したあの場面からずっとくすぶっていたのだ。
訳が判らないまま大人時代に突入して、モヤモヤを抱えながら見ていた。しかしこれが見事に、すべて回収されるんだから恐れ入る。

そういう意味では、良質のミステリなんである。もちろん、こんな悪意ある黒板事件をやらかしたのが暁人である筈もなく、割と予測が容易だった、華やか系女子、彩加であった。
実際の高校時代の描写、謎解きが解明される前の、本当にのどかな高校時代の描写では、華やかで明るい女子、という見え方はしていたものの、彼女自身に特にフォーカスすることもなく、上手い具合に見え隠れしていた。

ただその中で、妙に髪に彩られたシュシュが目立った。他の女の子たちが、北関東の女子高生程度の(爆。ヘンケンだが)、はみ出さない良識を持ち合わせている感じとは、そのシュシュ一発でなんか違う、と思わせたんである。

いつの時代にも、それなりに闇がある高校生活とは思うが、寝取り寝取られかあ、と思う。いや私が知らなかっただけで、私の時代だってそーゆーことはあったのだろうし、そういう作品も確かにあったが、まるでてらいなく、フツーのこととして作劇されることにおばちゃんはついついショックを受けちゃう(爆)。
でもこの前提がなければ、本作はそもそも収束しないのだ。今まで挙げた中以外にも、いじめっ子側や恋愛ドロドロ側に加わるメンバーがいろいろいて、なんか昼ドラかよ!!と思うのだが、そのメンメンの中で最も印象的なのは、先に名前の出ている亜沙美なんである。

演じる小野花梨嬢がまず、印象度抜群である。誤解を恐れずに言えば、整った美少女が揃っている本作キャストの中で、唯一のファニーフェイスである。だからこそ印象に刻み込まれる。
彼女が劇中彼氏にフラれ、ウソを吹き込まれて友情を信じられなくなり、それにも恋愛が絡んでいたりして苦悩する。退学の理由はそれ以上のものがあったのだけれど、だんだんと彼女のこんな事情が判ってくると、どんどんシンクロしていってしまう。

もうオチバレで言っちゃうと、亜沙美はフラれた恋人の赤ちゃんを宿して、産む決意をして退学したんである。
その彼氏はプライド女の彩加によって他の女に目移りするように操作されてあっさり陥落。加えて親友の絵莉子のウラギリこそが彼氏の心変わりだという疑惑も吹き込まれて、苦悩していた。

でも……亜沙美は信じていたんじゃないのかなあ。苦悩しながらも、絵莉子のことは信じていたと思いたい。いや、信じたいけど信じ切れるだけの心の強さがない自分に暗澹としていたという方が判りやすい。

亜沙美の苦悩が示されるのは物語の後半になってから。このミステリが怒涛のように明かされるまでは、正直訳の判らぬドタバタに付き合わされるという感もある。
井葉が執着する、単に出会い系サイトで出会った“彼女”、あっさりソデにされたのに諦めきれず、暁人を巻き込んでストーカーよろしく追跡する中で、暁人の中で、再会した絵莉子から派生する様々な記憶がフラッシュバックする。
井葉の“彼女”の彼氏が同窓会で再会する、イケイケ女子の彩加の彼氏だというのは奇跡というにもあまりに出来すぎているのが、先述のように気になるところだが。

その謎解きの前に、かなり丁寧に、暁人と絵莉子との間で、過去に向き合うべきかどうかのぶつかり合いがある。
ただ、結局最後の謎解きに至らないと、観客側には何がどうなっているのか全く判らないので、なんか結論のないまま絵莉子を追い回す暁人に、彼女の苛立ちとは別に、なんか訳判らんなあ……と思ってしまうんである。
暁人が自分がやってない罪をかぶるように友人に依頼した場面は示されているから、だったら絵莉子からは憎まれていると判ってる筈なのに、それを悩まずにアタックしてるのが判んないなあ……と。

この疑問は結局解決されないんだよな。絵莉子は知ってた。なんか少女漫画の王道みたいに、暁人と井葉のやりとりを、物陰に隠れて聞いていた。それを、ご丁寧にすべてが終わった後、ラストクレジットも終わり、劇場の明かりがつくかと思った後に提示するんだから、うーむ。
その前に出ていっちゃったおじさんいたよ。ラストクレジット後まで残るのは、まあそりゃまあ、映画ファンとしてはそれなりの常識だとは思うけど、これを見ずに出ていっちゃう人はそりゃいるよ。その上であれこれ言われちゃったら……そりゃつらいよなあ。

この時暁人が井葉に言ったのは、誰かがかぶれば収束すること、だったら自分が、ということだった。
当然、黒板が攻撃していたビッチ、絵莉子をその攻撃、中傷から救うためであり、それは成功したし、後に示されたように絵莉子はこのやり取りを聞いていたんだから暁人にウラミを持つ筈もなかった。

でも、そのからくりは本編中には描かれないから、そりゃ当然絵莉子は暁人を恨んでるんだろうという前提で観客は観ているから、もやもやしたままラストを迎えちゃうのさ。
だってさ、暁人だって、絵莉子に恨まれているだろうと思っている筈なのに、再会した後そのことには触れずに、てゆーか、まるで忘れたかのように、大切なのは過去に向き合うべきだ、みたいなスタンスで絵莉子に接するのが、なんで??と思っちゃう。

絵莉子は知ってた、でも暁人は彼女が知ってたことを知らなかった、この大事なカラクリを最後の最後、クレジットの後にわざわざ提示する割には、彼側にその意識が薄すぎて、違和感を産み出しちゃったのはイタかったなあ。

で、なんか脱線したけど、最も印象に残ったのは亜沙美である。そりゃさあ、失恋と友情のウラギリで退学なんて、そりゃないよと思ったが、やっぱり大きな秘密の事実が隠されていた。
フラれた彼氏との間にできた子供を出産するために、退学した。親や周囲のサポートを受けて子育てを頑張り、その後出会った優しいご主人と幸せな結婚生活を営んでいる。

という、もろもろの衝撃の事実をたずさえて、かつての同級生たちの前に現れた亜沙美は……なんか、胸を突かれるほどに、美しかった。高校時代の描写の中で彼女は、端正な顔立ちのクラスメイトの中で同等の振る舞いはしていたけれど、なんだか野暮ったい印象だった。
7年経って、彼女が一番変わった。きちんと人生を生きている美しさを身に着けた、はっとするような輝く女性として現れた。
それは、結婚を控えている亜沙美の元カレとこの当時、まさに亜沙美から奪い取った智恵、プライドまんたんで絵莉子を陥れるために黒板事件を引き起こし、今もセレブ女子を気取っている彩加、そんな、まだまだ本物の人生を歩んでいない同級生たちを、音速で追い抜いた、キラキラだった。

知らない間に父親になってた元カレはただただショックを受けて、現カノに白い目で見られるばかりだけれど、亜沙美のなんという、幸福さだろう!!
ダンナがいるということ以上に、彼女にとっては、自分を肯定してくれたのは赤ちゃんなのだ。そしてそれは、元カレの子供ではあるけれど、アンタにはもう関係ないから、とずっと言い放ちたかったに違いない。
まあ、彼女は優しい女の子だから、この子を産ませてくれてありがとう、という変換をしたけれど、逆に残酷なまでに本音を表現しているよね。生物学的にうっかり関わっちまっただけだから、と。

見た目的にはハデに悪役として立ちまわる彩加役の溝口奈菜嬢が、最も印象的だったと思うけど、意外にソンな役回りだったかも、とも思う。先述したけど、セレブ嗜好の彼女の恋人がエセヤローで、つまんないつまみ食いを重ねた先に、仕事でしくじって、逮捕されちゃう。
学校カースト制のトップに君臨していた女王が、そのプライドを満足させるために好き勝手やって、その慢心がたたって堕ちるという図式。

判りやすいけど、学生時代のカースト制度の圧は社会人になっての、ある意味平等な容赦なさとは全く違うし、いじめっ子女子の彼女を一方的に、コイツを叩いて落ち込んだとこ見て溜飲が下がるでオッケーでしょ!!みたいな感覚とは違うかなあ、と思った。桃太郎侍の容赦ない成敗!!みたいでさ……。★★★☆☆


ヒノマルソウル〜舞台裏の英雄たち〜
2020年 115分 日本 カラー
監督:飯塚健 脚本:鈴木謙一
撮影: 川島周 音楽:海田庄吾
出演:田中圭 土屋太鳳 山田裕貴 眞栄田郷敦 小坂菜緒 落合モトキ 菅原大吉 八十田勇一 濱津隆之 古田新太

2021/6/23/水 劇場(TOHOシネマズ錦糸町楽天地)
今にして思えば日の丸飛行隊っつーのはあまりにもヒドいネーミングだったとは思うが、長野を見ていた同時代の人たちなら本作に涙せずにはいられない、であろう。
つーか、号泣である。ああ原田。何度見てもあの場面を思い出すと泣ける。それは真央ちゃんのソチオリンピックと同等の、思い出しただけで100%どばーである。 実は私はリレハンメル自体はあまり覚えていないのだけれど、リレハンメルから紐づけされた長野であり、原田一本目のジャンプにリレハンメルの悪夢が、というフレーズも当時何度もリフレインされたから、なんかもう、セットなんだよね。
そして……こんないい話、知ってる人は知っていたのかもしれんが、教えといてよ!!とゆー感じ。原田の視線の先には、彼らがいたんだと思うと、あの時の自分に戻って教えてやりたくなる。

原田原田と呼び捨てにしちゃうのも、あの当時見ていたからなんだけれど、本作の主人公は原田ではないのだ。
てか、原田を演じる濱津氏が原田にソックリすぎて、予告編で見た時から戦慄を覚えていたくらいなのでついつい引っ張られてしまう。

もはや「カメラを止めるな!」カメラを止めるな!の彼だという印象がまったくかぶらない、そもそも濱津氏はカメ止めのキャラクターの時も色のついていない感じだったのを改めて思うが、それにしても原田にしか見えない。全編を通してみても、原田にしか見えない!!
あの絶妙に歯並びが悪いあたり(うーん、でも濱津氏は歯並び悪すぎる……大人矯正した方がいいかも)まで似ている。奇跡である。主人公は田中圭演じる西方なんだけど、もう一人の主人公、と言いたいぐらい。

リレハンメルの団体のメンバーだった西方。原田の失敗ジャンプで金メダルは幻となる。後々語られるように、そのことに最も苦しんだのは原田なのは間違いなく、なんとなく想像していたけれど、いやがらせや脅迫までも受けていたという。
それをあの原田は(呼び捨てにするの、許してね。これはもう、あの時代を目撃したすべての人たちの親愛の呼称だから)あの優しさで、優しさという強さで、じっと耐えて、仲間をこそ思って、何も言わずにいたんだと改めて思うと、またまた原田に気持ちが引っ張られてしまう。

いけないいけない。主人公は西方なのだから。リレハンメルの団体メンバーの中で、唯一、長野のメンバーに選ばれなかった。直前に怪我をして、必死にリハビリして選抜直前の試合で見事優勝したけれど、選ばれなかった。
物語の冒頭は、まずオリンピック本番の時間から始まる。メインの展開はそこからさかのぼってじっくりと語られていく。冒頭は、選ばれなかった西方が恨みがましい目とモノローグで、なんで俺じゃなくてお前がオリンピックに出ているんだ、と語るシーンから。西方はその時、テストジャンパーとして長野に参加しているんである。

テストジャンパーというのは聞いたことがある、というのは、この長野にも大きく関わる、今や世界中の誰もがレジェンドだと認める葛西紀明氏の逸話が有名だからである。
シニアの大会にジュニアの彼がテストジャンパーとして参加して、シニアの優勝者よりはるかにいい成績をたたき出したという、これは北海道民なら誰もが知るエピソードだと思われる。

だからテストジャンパーという言葉だけは知っていたんだけれど、テストジャンパーの役割までには思いをはせていなかった。まさかこんな、こんなにも重要な役割だったなんて。
実際の試合が安全に行われるために、まず滑走の道を作り、安全に飛べることを確認するために必要不可欠な工程。当然、しっかりとした技術を持ったジャンパーでなければ務まらないが、テストジャンパーで参加する、ということは、この試合には出ない、いや、出られない、ということが本作のキモであるのだ。

西方はずっとトップジャンパーだったから、テストジャンパーをなめてかかっていた、というか、自分がテストジャンパーなんかできるかと、しかも代表選考から落ちた直後だったから、たたきつけた。
妻の幸枝はすべてを柔らかく受け止める女性。ああしろこうしろなんて絶対言わないが、これだけは、という口調で、あるタイミングを捕まえて、厳しく言葉を発した。楽しく飛んでる仁也君を見ていたい。イヤイヤ飛ぶ仁也君は見たくないのだと。

テストジャンパーに誘われて突っぱねかけたところに、スキー連盟に残って安泰なその後を送りたいなら、とコーチの神崎からカマをかけられたのだ。
西方だって判っていた筈。神崎の言うことは、詭弁に過ぎないってことは。西方のプライドと意気地のなさを、理由付けをするために上手にくすぐって、テストジャンパーを引き受けさせた。

なんかね、かつてのいろんな、映画やドラマや小説や漫画や……あらゆるジャンルで王道の、鼻っ柱の強い、実力はあるからそうなっちゃってるは仕方ない部分はあれど、でもそういう主人公が、本当にその競技が好きな、純粋にその競技を愛してやまない選手たちに、自分のつまらないプライドをへし折られるっていう、なんか久々に見たな、って。
やっぱりこれは、昭和だったんだなと思う。いや平成だったけど、選手たちは昭和生まれ。周囲も全員昭和生まれ。周囲から、ことに地元からの期待は、今だってそうだとは思うけど、今以上に、ずっと昭和時代の人間はえげつないほどキツかったであろうことは想像される。

今はさ、コンプライアンスやら何やら言われる時代だから、金じゃなきゃダメだとかいうことは、表面的には言わないよね。逆に心の中でめっちゃ思っていることがくすぶっている方が怖いかもしれないけれど(爆)。
原田のことを戦犯と、マスメディアさえ旗を振って大衆を洗脳し、脅迫されていたという事実だって、もし当時彼がそれを明かしたって、戦犯だもの、と言われていそうなのだ。
そういう時代だった。それだけ皆がオリンピックという、いわば一つのイベントに過ぎないものに、熱狂していたということなのだけれど……。

で、西方は代表落ちする。表面的にはスキー連盟に恩を売るため、とか言いつつ、後に言うように、彼はジャンプが好きだから、捨てきれなかったからに違いない。ただこの時点ではプライドと、何より悔しさと嫉妬が邪魔して、自分でそれを認められなかった。

同じようなメンバーがいる。新進気鋭の南川(眞栄田郷敦)である。彼もまた怪我によって戦線離脱したものの、西方の前では自分はまだ若い、次があるから、とあっけらかんと言ってのける。
でもそれもまた、西方と同じ強がりだった。そりゃそうだ。出られる時に出たいに違いないし、そして……ケガをしたフラッシュバックが南川を苦しめ続けている。

西方のそれは割とあっさり克服されちゃっていることが、本作の中で唯一、ちょっとあれっと思ったところだったかなあ。
復帰戦で、スタート台でぶるぶる震えていたのが、守るべき存在だか、どういう言い回しだったかなあ、この時の彼にとっては家族だったのだが、なんかふっと、ゾーンに入った感じで飛んで、優勝しちゃった。ケガによるトラウマの描写は西方にはこんな感じで数分で終了、だったのよね。

だから、南川にアドバイスできるとかそんな感じじゃないし、このシークエンスを振り返ると、ちょっと雑だったよなあ、という恨みは正直、残る。南川の苦悩に集中的にシフトしたとも言えるのだけれど……。
西方の苦悩は、仲間への嫉妬、何より原田への葛藤に集約されるから、それを思うと分散の仕方は確かに難しいのかもしれない。

ちょっと先述したけど、葛西の団体落選が本作の中盤の分岐点である。いまやレジェンドとして誰もが認める葛西紀明が味わった、長野の屈辱は多くの人が知るところであるが、当時葛西氏は若く、そして葛西以上に若き才能としてもてはやされていた舟木(細眉毛がそうそう!と思う。懐かしい!!)がいて、そして南川がいて、西方がいて、彼らすべての想いを抱えた原田がいて……という図式にブルブルするのだ。

その上で、西方が今いるのが、雑魚寝状態の誰も顧みないテストジャンパーたちである。西方、南川以外は使命に燃えているし、オリンピックメダリストの西方が参加していることに興奮を隠し切れない。
メンバーの中には様々な人たちがいる。聴覚障碍のある高橋、女子高生である小林がツートップメインである。双方とも実在の選手をモティーフにしていると言うが、当時本当にテストジャンパーとして参加していたかまでは探れなかった。

そんなことは大した問題じゃないのだろう。東京にオリパラがやってきて、ようやくいろんな興味や報道が持たれだした。
パラリンピックがまともに報道されることさえなかったし、女子のスキージャンプは高梨沙羅選手から始まったぐらいに思っていたが、当然だが、正式種目になるずっとずっと以前から、男子をうらやみながら、飛び続けていた女子選手がいたのだ。

作品のラストに、女子種目がこの後10数年後に追加されることが付記される。そんなに後!!てことは、この時描かれた、実際の選手をモティーフにしたという彼女は、まあ実際にどの時代に活躍したかは判らんが、でも、遠い遠い、かなうかも判らない夢の世界、それは劇中で語られていた通りだったに違いない。

代表を争える男子がうらやましい、という彼女の台詞が西方を大きく揺さぶるが、それだけでは彼は決定的には動かないあたりは、やっぱり昭和の男だなーという気もする。
彼の奥さんのたたずまいも、昭和の奥さんって感じアリアリだもんね。「哀愁しんでれら」から続く夫婦役ってのが面白いよね。年恰好はちょっと離れているのに雰囲気というかしっくりくるし、かたや狂気の、かたや信頼し合う夫婦、っていうのが。

テストジャンパーたちに課せられる、こんなことが起こっていたなんて、マジ知らなかった!というクライマックスは、もう私マジで涙止まらんのである。
荒天により二回目のジャンプが中止されるかもしれない、という事態にまで追いつめられた時に、テストジャンパーがすべて安全に、しかも記録も出すジャンプを飛べれば競技再開、というめちゃくちゃ重い事態。
原田がね、ああ原田が、そもそもその前に、西方を訪れていた。アンダーシャツ貸してくれないか、忘れちゃってさ、と言って。

忘れる訳ないじゃん。西方だって判ってた筈なのに、彼の想いを受け止める余裕がこの時なかった。こんな時アンダーシャツ忘れるなよ、と差し出した。
そして……ケンカしてしまった。原田がおずおずと、でもしっかりと差し出した、仲間としての想いを突っぱねた。お前なんかに俺の気持ちが判る訳がない、と。
うわー、地球上で百億回、いやそれ以上発せられた言葉に違いない。そんな凡百の台詞を言われるのは承知だっただろう、でもめっちゃ傷ついた顔をして、でも原田は言ったのだ。それでも俺たちは金メダルを取らなきゃいけないんんだと。

うー、やっぱり、原田が、裏どころか真の主人公だったと思うなあ。西方はほんっとうにギリギリまで情けない男だったのだ。それはきっと、実際の西方氏が、自分は当時こんな具合だったんですよという、謙虚なスタンスで作品作りに参画したのかなあとも思うが、でもある程度はホントだったんだろうなとも思うし。

テストジャンパーに、ホントの意味で命をかけさせて、競技再開をゆだねるという展開は、それこそ現代ならばありえないことに違いない。どちらがどうということは言えないけれど……裏方にそれだけの責任と、存在意義があるということが、少なくとも今から30年近く前の長野オリンピックの時代には、それこそ時代的に考えもしなかった。
でも今なら。あらゆる価値観が認められる今なら。決して東京にオリンピックが来るからということだけじゃないと思う。皮肉ながら、それは崩壊してしまって、公開もズレズレになってしまって、苦戦してるとは思うけれど、この物語はめっちゃ普遍的な価値観を持つものなのだもの。それを、大切に、多くの人に、観てほしいと思う。★★★★★


火花
2017年 121分 日本 カラー
監督:板尾創路 脚本:板尾創路 豊田利晃
撮影: 福本淳 音楽:石塚徹
出演:菅田将暉 桐谷健太 木村文乃 川谷修士 三浦誠己 加藤諒 高橋努 日野陽仁 山崎樹範

2021/7/18/日 録画(チャンネルNECO)
先にドラマにもなってたし、映画化になった本作もどうしようかなあと思いつつ、逃してしまった。
原作は読んでいた。あれだけ話題になったらなんか手を出しにくいなと思いつつ手を出してしまった。一気呵成、あれよあれよと押し流されるような迫力に圧倒されて、なるほどこれはすごい!と思って、CSに入ったご縁を期に本作を思い切って観てみたら、これがまた、不思議なぐらいに内容を覚えていなかった。

私って相変わらずだなとも思ったが、これが原作と映画は別物ということなんだろうと思った。内容じゃなくて、ストーリーじゃなくて、あのギュウギュウに熱のこもった文章こそが話題にもなり数々の賞を取り、芥川賞にまでのぼりつめた。
その熱だけが私の内側に取り込まれていたという感じだった。映画となり、生身の人間が彼らを生きだした。そうなると途端に立体的になり、物語が見えてくる。それは小説とは全く違う意味なのだと思った。

板尾創路氏が監督。これも最良の選択。実際に芸人である又吉氏が血を吐くように自身の生きる現場を泳いだ原作に立ち向かうのには、いくら才能のある職人監督でもやはり、やはり描き切れない、そんな気がする。
主演の徳永を演じる菅田君はホンットに多忙ながら、一本もハズすことなく常に100%以上、その役を生きて見せることに本当に脱帽する。
徳永が憧れてやまない先輩芸人、神谷に桐谷健太氏。これまた絶妙中の絶妙。彼自身のキャラのなかに、芸人にもなれそうなユニークな感性を持っていながら、その実狂気をはらんでて、常識を逸脱しているようなものを内包している感じ、ぴったり中のぴったりである。

そしてなにより私の心を深く打ったのは、徳永の相棒、山下である。演じるは実際にコンビ芸人である川谷修士氏であり、彼がほんっとうに素晴らしいのだ。
実際に芸人であるリアリティ、と言ってしまえばそれまでなんだけれど、自分が誘ってしまった芸人の世界、売れそうで売れない、一時的な人気の下降の速さ、微妙に年を取ってしまって若さの一気呵成が出来なくなる感じ、すべてがキリキリと切なくて。

そして相方は、かつての同級生で、親友で、芸人になってからも友達としての仲良しが抜けなかった徳永。その彼が、自分以外の、天才型芸人神谷に心酔していくのを、じわじわと、真綿で首を絞められるように、どうにも手出しできずに眺めている、みたいなさ。
なんかこう……山下自身の視点から特段描かれる訳じゃない。あくまで徳永と神谷の関係性を軸に、売れそで売れない芸人としてうろうろする徳永や周辺の芸人の世界を描くわけなのだから。

でもふと、山下の視点を時々、思い出すというか、徳永の相方なんだから重要な筈なのに、確信的に外に置かれている相方という立場の彼の気持ちを、時々うわっと思っちゃうのだ。
その時いつも彼は、芸人としての焦燥、相方とのコミュニケーション、恋人との未来、実にまっとうに人生について悩んでいることに気づき、徳永は、……その一切からいわば解放されていることに気づく。神谷と出会っちまったからである。

徳永は、なんたって菅田君が演じている美青年なのに、なんか引っ込み思案で、恋愛どころか合コンでまともに口さえきけないんである。
神谷はというと、女の元に転がり込んでいるが、ヒモではなく、あくまで居候なんだと言っている。実際は、女の子の方は神谷にホレている、神谷はまんざらでもない、ぐらいの関係性だったんだろうと思われる。

表面上はただただニコニコと感じの良い、茶髪の見た目はギャルっぽい真樹(木村文乃)の、彼女の隠し持っていた気持ちもまた、折に触れて突きつけられるんである。
彼女もまた決して、その気持ちをあらわにすることもなく、恋人ができたことで神谷に出て行ってもらうという、文字上にすれば問答無用の別れの場面に際してさえ、長年の友人の別れのように、滋味あふれる笑みをたたえるばかりなんである。

徳永と神谷が、それぞれ違うコンビの芸人として、一握りの、それも実力があるとは限らない芸人が売れていくという、この非情な世界を、彼らを通して見せていくという展開であり、二人の苦悩は明らかに、鮮明に判りやすく提出される。
でも、ふと気づくと、二人の周辺の、相方であり、恋人未満の彼女であり、といった人物たちにこそ、描かれこそしないからこそ、観客の想像を喚起する、苦しさがよりリアルに迫ってくる。

メインの二人を触媒にし、狂言回しにさえ思わせるという、この感じさせ方に気づいた時、本当にすごいと思った。誤解を恐れずに言えば、この二人はなあんにも判ってないのだ。苦しいだろう、辛いだろう。でも徳永と神谷は、なんか運命的な出会いの気の合い方で、二人で会っている時、電話で話している時でさえ、現実問題から離れていられるのだ。
いや、二人は芸人としての深い話をめっちゃする。迫力のある議論に圧倒される。こびない芸に一目ぼれしたからこそ徳永は神谷に弟子入りした訳だし、漫才とはなんたるものか、という哲学を教えてくれる、議論できる、先生であり、同志だったのだ。

神谷は徳永に、相方は友達でも家族でもない。だから食事も遊びも一緒にしないのだ、ということを最初に教える。徳永はその時点で相方と友達の延長線上で遊んだりなんだりしていたから、そもそもそのことに衝撃を受ける。
……このことが、徳永にとってはどうだったのかな、と考える。これは芸人的リアリティなのだろうと思うけれど、芸人、コンビ、相方とはそういうものだ、といかにも神谷が玄人めいて示唆したことが、芸人としてのつまらないプライドに捕まっちゃってる気がしているように感じたから。

本作の舞台は今から10数年前で、おそらく原作者の又吉氏がリアルに感じていた当時の芸人、芸能界、テレビ界、ライブやイベント、営業や舞台、なのだろうと思う。
徳永が持っている二つ折りガラケーがそれを象徴的に示している。たった10数年前、芸人として売れるとか、食べていけるとか、生き残っていけるためには、テレビで売れることが必須だった。それこそテレビが登場してからの数十年、その常識は絶対だったのが、ここからたった10年数年で、事態はがらりと変わったのだ。

発信する場が無限となり、テレビはもはや、絶対の場ではないどころか、どこか古びたメディアとなり果てた。
こんな時代がくるなんて、誰が予想しただろう。テレビに出て、売れなければ、芸人として生きていくことさえできない。そのために、世間に向けての芸なのか、玄人受けだけで満足してるのか、なんて、今ならしなくてもいい価値観で、相方とケンカをしちゃう。

又吉氏が原作小説を書いたのは数年前だから、どうだろうとは思うけれど、もうすでにスマホ時代だし、ユーチューブでの発信が普通になっていたのだから、まったく意識になかった訳ではあるまいと思う。
今の芸人さんたちは、表面上だけかもしれないけれど、屈託なく仲良さそうに見える。まあ、一握りで売れた仲間意識ってだけかもしれない。

そらそうかもしれないんだけれど、本作の舞台になっている、2000年初頭、他人が用意するチャンスを、数少ないパイを奪い合う、そのためにさんざん人格否定をされ、貧乏生活を強いられる世界だったのだ。
21世紀に入っているのに!!なにか、昭和を見るような気持で彼らの闘いを見守ってしまう。本当に時代は変わった。闘わなくてもよくなったし、チャンスは格段に増えたし、いい時代になったとは思うのだけれど……。

徳永と山下は、じりじりと下降線をたどり、コンビ解散を言い出したのは、山下が彼女との間に子供が出来て、結婚を決意したタイミングだった。
あくまで、単なるきっかけに過ぎなかったであろうことは、それまでの二人の、仲良しなのは変わらない、笑いに対する価値観も変わらない、でも……みたいな、まるで恋人のすれ違いみたいなじわじわとした部分にはらはらしていたから、ああやっぱり、そうなっちゃうよな、と思った。

正直言えばさ、子供が出来たから。結婚するから。それを理由に芸人を辞める、というのは、いかにも家父長制度的、女子供を食わせるためにマトモな人生を選ぶてゆー、女子供を言い訳にする男の逃げにイラッとするわけで。
実際、今なら、本作の時代設定から10年経っていたなら、女子供側から、勝手なこと言ってんじゃねーよ!!ぐらいの鉄槌をかまされるのは、むしろ当然のことのようにも思われるのだ。

そういえば、芸人仲間にほとんど女性がいなかった。今だって比率はほとんどが男性だけれど、売れてる比率で言えば、女性は高いんじゃないかと思われる。なんかね、本作の彼らのような議論を、女の子はあんまりしないんじゃないかというような気がする。
いや、判んない、単なる推測(爆)。なんかね、男の子は、ホントそれこそ、生きる道として、これで生きられなきゃもうダメとか思ってて、思想、哲学、そういうところにとらわれる傾向にあるというかさ。
今読んでる、昭和20、30年代ぐらいの、社会主義、共産主義に没頭した男子と、そのとらわれ加減がめっちゃ似てると思っちゃうんだもの。

山下が、彼女との結婚を決めることで、徳永とのコンビを解消することになる。最後のライブが、もう本当に、圧倒的。何度も繰り返し見てしまった。
本当のことを言っても伝わらない。宣言をしたうえで、すべて反対のことを言うことによって、伝わるんじゃないか、という一見訳の分からない徳永の提案の元、全力で反対の表現をすることによって、めちゃくちゃストレートに愛を伝える、涙涙の漫才!!頭の中でいちいち変換しながら、つまりは表面上はめっちゃ罵倒しているのが、めっちゃ愛の言葉だという、何これ!!ていう……。

観客に対して発する言葉も同様だから、笑うどころか、もう、シーンとして、観客は泣いちゃうのだ。自分たちを否定した、スパークスは最低だと人格否定した、それはそのまま反対の表現で、徳永が鬼の形相で、ファンたちに、ああもう、なにこれ、ズルい、泣いちゃう!!
菅田君はさ、役者だからアレだけれど、この舞台上で、演技なのは判ってるけど、相方の山下役の川谷氏が、もう、めっちゃいい顔して、泣きそうで、でも踏みとどまって、なんとかプロとしてのツッコミをして、ああもう!!この漫才を見られるだけで、本作を見る価値があるぐらいに思っちゃう!!

もうひとくだりあるんである。コンビ解散して、徳永もフツーの社会人やっている。そこに、ひさっしぶりに神谷から連絡がある。ギリギリ芸人を続けている神谷は、自己破産して再出発を目指しているタイミングで徳永に連絡を取ってきた。
彼にしては自信満々の“ネタミセ”であった。しかしてそれは……このブランク前に二人が決別した全く同じ理由で、徳永は神谷に絶望するんである。

決別したのは、神谷が徳永を模倣していたことが原因だった。銀色の髪の色、ファッション、かっこええと思ったから、と子供のようにうなだれた神谷を、師と尊敬していたからなのか、ひどくひどく叱責した徳永。
それから相当年数が経ち、徳永は社会人となり、久しぶりの神谷との再会、神谷は芸人としての再出発に意欲満々で、その証拠として見せつけるのが、シリコン入れた巨乳、徳永は唖然とする。徳永はいまや社会人だから。世間を知っているから。ジェンダーやら何やら判っちゃってるから。そして今や、今の時代では、破天荒は通用しないから。

でも、芸人として、徳永にとっての神であり、芸人仲間たちにもその破天荒ぶりが支持されていた神谷の天才的な面白さが、そうした無責任な無邪気さにダメ出しされることによって失われるのかと思うと、どうしたらいいんだろうと、思う。
つまりは、いわゆるマイノリティーとのコミュニケーションの圧倒的不足感である。本作ではっきり、ジェンダーという言葉も発せられているのだから、社会的の影響力があるこうした作品をきっかけに、議論されることが、意義あることと思うんである。★★★★☆


ひらいて
2021年 121分 日本 カラー
監督:首藤凜 脚本:首藤凜
撮影:岩永洋 音楽:岩代太郎
出演:山田杏奈 作間龍斗 芋生悠 山本浩司 河井青葉 木下あかり 板谷由夏 田中美佐子 萩原聖人

2021/10/25/月 劇場(渋谷HUMAXシネマ)
鑑賞後に気になって原作を読むことはあるものの、基本未読派、映画と原作は別物というのは単なるめんどくさがりの言い訳かも知れんが、実質そう思っているので、映画作品は映画作品として対峙するのがスタンスなのだけれど。
めっずらしく、先に原作を読んでいた。ものすごいインパクトを覚えていたので、この衝撃を再び映画で、とそれまでさんざん、映画と原作は別、ガッカリしたことだってあったのにそう思っていたのに、すっかりそんなスタンスさえ忘れて足を運んだのは、それぐらい原作の衝撃が深かったからに違いない。

映画に際して、あれ男の子の父親の話なんてあったっけな、などと思って、後から原作をざっと確認したら、あるわ。そらあるわ。あるどころかめっちゃ重要なファクターだったのにそんなことが記憶から抜け落ちていた自分にボーゼンとする。
つまり私は原作を読んだ時の、愛と美雪のセックスにショックに近いぐらいのインパクトを受けたのだ。女の子同士の性愛なんて今までだってさんざん触れて来たのに(むしろこっちから好んで(爆))、全然違ったから。

赤裸々さもそうだが、美雪に仕掛ける愛が、どうしようもない生理的嫌悪感に吐きそうになりながら、それでも美雪を抱き、美雪の方はそれとも知らずめくるめく性愛に我を忘れ、あんなにも嫌悪を持ちながら彼女を抱いていた愛さえも、即物的な快楽に頭がはじけて真っ白になってしまう。
単なる女の子同士のラブにキャーキャー言っていたそれまでの自分に、ガツンと食らわせられた衝撃が忘れられなかった。

つまり、ハズかしいんだけど、私はそこんとこばっかりが頭に残っていたのだ。改めて映画になった作品を振り返ると、原作を裏切ることなく、繊細に、痛ましく、隅々まで、若い役者たちもそれにしっかりと応えて素晴らしいし、見事である。
ここに、文学と映画という表現の、受け取り手に対する全き違いを改めて思い知らされて、今更ながら驚くんである。もちろん、どちらも受け取り方は千差万別であろうことは間違いないんだけれど……。
今そこにまさしく見えている役者の演技のゆるぎなさと、文章から嗅ぎ分ける個々人の感性の違いによって、あるシークエンスさえ記憶から抜け落ちてしまう文学というものは、やはり……最強の芸術作品かもと思ってしまうのだ。

私が、原作小説の、美雪が愛によって圧倒的に得てしまった性愛というものによって、彼女自身の潔癖な考え方が変わるのはもちろん、性愛の、愛というものに純粋にコミットするっていうのが、思い出してもドキドキする二人のセックス描写にあったと思う。
なのにそれを仕掛けたワガママ女、愛の方は、自分自身も快楽に陥りながらも、同性の身体に嫌悪感を持ちながら落ちるところまで落ちて、だからこそ標的である男の子に近づいていくというキチク感が圧倒的だったんだよなあ。
そう思うのは、あくまで私が女の子同士のセックス描写に目を奪われたせいで(爆)、映画となった本作のそれがひどくマイルド描写なことに、ガッカリーとか思うことこそキチクなのかもしれない。

まあ、このあたりで原作と映画の話はよしにしよう。単に私がキチクなだけだから(爆)。
美雪を演じる女の子、ぜえったい見たことあるんだけど!!とか思いながら、鑑賞中はついに思い出せなかった。あまりにも役柄が違うからというのもあるが、だからこそその才能を改めて感じさせた。
そうか、「ソワレ」の。土着的とでも言いたい素朴な強靭さが印象的な彼女は、本作でも、弱々しいとさえいえる優しさの下に隠れる芯の強さは、まさにこの独特の土臭い魅力に存分に発揮されている。

そしてなんたって愛である。自分の欲望のためには手段を選ばない。プライドも高いし、イケてる女の子だって自覚もある。成績もいい。男の子に言い寄られることもしょっちゅうというタイプ。
なまっちろいエロな生足を、無防備という名の自覚タップリにウエストをつめた制服のプリーツスカートからぶりぶりのぞかせ、一見さらりとした風貌ながら、しっかりヘアアイロンで髪を整え、教師に気づかれない程度の薄いピンクのマニュキュア。

完全に計算高い女子だけれど、彼女はそれを、何か義務のようにやっているというか。学校生活は楽しくなさそう。恋する男子はいるけれど、こんな自信マンマンなのに三年生になるまでまともに声さえかけられない。
テキトーにあしらってる男子は、カンタンに友達とラブホに行く。友達……?軽くつるんでいる、こちらは明らかに女子力を磨いているのがアリアリ(髪のカール、男の子へのお弁当……判りやすい)な彼女と愛は、果たして友達だったのか。いや、彼女の方はそう思っていてすべてを打ち明けていたのに、愛は、嘘ばかりつく女なんだもの。

それを、大好きなたとえや、たとえの彼女である美雪にも、最終的に、看破されてしまう。

いや、愛は、その自覚さえないというか。愛という女の子は主人公だし、原作だって一人称で書かれているのに、その一人称の彼女が自分が一体何を考えているのか、何をしようとしているのかわっかんなくなっちゃってて。
そらー読者(映画だからこの場合は観客)も混乱して、でもプライドは捨てられない、だからもう、自暴自棄っつーか、ただただ落ちていく、んであって。

原作の性愛描写にショックを受けたから、それに引きずられちゃう形で(爆)、マイルドな描写に落とし込められている映画を見ても、美雪は愛に対して、初めての男(女だけど)的な、どうしたって捨て置けない存在としているんだろうなと思ってしまう。
愛がたとえに対して言った、一緒にわかったような世界にいるだけだというような台詞(テキト―な記憶でゴメン)は、たとえに振り向いてもらえない愛の自分勝手な言い様なのは確かにそうなんだけれど、言い得て妙とも思ったんだもの。

確かにたとえと美雪は、プラトニックラブを貫いてて、まじめに将来を考え合っているけれど、美雪が抱えていた、性愛への欲望をたとえ君は絶対に判っていた筈なのに見て見ぬふりをした。
それは自分自身にだってあった筈なのにそれにもふたをし、つまり純愛というかりそめの絆で結ばれているんだとお互い言い聞かせていたんだと思うもの。

それを愛がぶち壊した。

どうなんだろう。愛がいなければ、二人がどうなっていたかは。なんたってたとえの、ザ・昭和的縛り付け父親という存在があるから。その圧倒的な因縁に対して、愛ほどの変化球がなければ、この古風な二人は太刀打ちできなかったのかもしれないのか。
でもそのためには、一見して世間ずれ、恋愛ずれしているように見ている愛が、単なる一地方都市の中途半端にうぬぼれてる女子に過ぎず、そのうぬぼれに直面せずにはいられなかったのか。

愛、美雪、それぞれのお母さんが印象的である。それぞれ、お父さんの姿は見えない。愛の方は単身赴任している模様で、お母さんはしょっちゅう手作りお菓子を発送する段取りをしている。そのたんびに、娘にメッセージカードに一筆、と言ってくる。
一度も姿を見せないのにおっそろしいぐらいラブラブな夫婦像が透けて見えるが、姿が見えないだけに、妄想じゃねーの?なんて考えさえもたげる。だって手作りお菓子って!ホールのシフォンケーキやら、マドレーヌにクッキー。あるかそんなん!!愛のお母さんはブーたれた娘に対してもさして気にせず、信頼している、というよりは、友達みたいに仲良くしてるんだから大丈夫、と無邪気に信じているような感じ。

一方で美雪の母親、こちらの父親は仕事が忙しくて夕食に間に合わない、という一シーンが示されるのみだが、鍋を用意していたのに、というところにチクリと感じるところがある。
ハイティーンの娘を持っているにしては、ちょっと年いった感のある田中美佐子、娘に遠慮しているだけでなく、娘からの告白に、「お父さんに相談してみましょうね」と、夫にも遠慮している風。

どちらも決して悪い母親ではない、どちらも娘を愛していることは伝わってくるんだけれど……。ああでも、でもでも結局、家族と言えども、それぞれ、個人という意味では、他人、なんだもの。
母親が、父親に対して、つまり夫に対して隷属している価値観がいまだ色濃く残っている日本という国は、子供世代がそこから抜け出さなければ、何も変われないという恐ろしさなのだ。

原作でも衝撃を受けたように、やはり女の子二人の化学反応こそが、メインであるように思われる。
たとえ君は、古い価値観の暴力的父親に縛られている、という判りやすさもあって、愛に対してぐっさりと突き刺さる台詞を投げつけるにしても、基本的には、いや、徹頭徹尾優しい男の子であり、美雪とのいつくしむような五年間が、愛の登場によってかき乱されなかったら、結果的には成就しなかったかもと思われる頼りなさなのだ。

愛は必要悪。必要悪にしては悪過ぎるけど(爆)。相手が好きだから、欲しいと思う気持ち、セックスしたいという気持ちを、愛は自覚する前に計算で使ってしまった。
使ってしまってから、そうしたいと思っていた相手に告白して身をさらしたって、そりゃあ撃沈するに決まってる。なんて悲しいの。こんなイケイケ女子なのに、そんなところはまるで頭が悪いじゃないの。

愛が美雪に施した性愛の素晴らしさは、それ自体は決して悪いことじゃなかった、と思う。たとえ君が美雪の想いをくみ取らずに、彼女の慎ましさに甘える形で、気持ちでつなぎとめると思いこんでいたことこそが罪だったと思う。
原作で得た衝撃は、そう思うしかできないほどのそれだったし、だからこそ、愛の嫌悪感が二人に対するそれになって、いろいろ曲折して爆発するのが見ていられなかったのだ。

彼らは、三人は、どうなっていくんだろう。思い出す。高校卒業、進学、就職が、どんな意味を持つか。地元から出るのか、出られないのか。
親の手前地元の大学を受けて、こっそり上京の計画や、恋人との駆け落ち的なことを考えるのは、ちょっと懐かしい考えっぽいなあと思うのは、原作発表からたった10年ほどで、世界の価値観がそれだけ変わったということなんだろうと思う。

距離で離れることが、それほど重要じゃなくなった。てゆーか、コロナで、それが普通になった。でもそれは、やはり最近のことだ。
舞台が地方にとられ、郊外のショッピングモールや、ボーリングやらカラオケを擁する広大な遊興施設。都会と同じように無邪気に遊びながらも、広大なのに閉じ込められている地方都市にいる彼ら彼女らが、逃げ出すことを考えている画とのギャップ。コロナ前はやっぱりやっぱり、とにかく都会に出なければままならなかったのだ。 ★★★★☆


ピンクとグレー
2016年 119分 日本 カラー/モノクロ
監督:行定勲 脚本:行定勲 蓬莱竜太
撮影: 今井孝博 音楽:半野喜弘
出演:中島裕翔 菅田将暉 夏帆 岸井ゆきの 柳楽優弥 小林涼子 千葉哲也 マキタスポーツ 篠原ゆき子 矢柴俊博 宮崎美子 入江甚儀 橋本じゅん 松永玲子 白石和彌 三浦誠己 岡本あずさ 伊藤さとり

2021/5/21/金 録画(日本映画専門チャンネル)
加藤シゲアキ氏の原作は未読なのだけれど、“原作を大胆にアレンジして再構成し、小説では描かれなかったエピソードも描く”という解説を読んで、えー、そうなの……なんかそういうのってあんまり好きじゃないな、とも思ったが、こちとらひとつの映画作品として対峙するしかないから。
私は素直に驚いてしまった。中盤でガツンと入れ替わる。そこまでの物語はなんとなく予測できたというか、それでもこういう痛く切ない青春物語というだけでも、充分に魅力的だと思った。ごっち、りばちゃん、サリーの男二人、女一人の微妙な友情関係が、心に刺さった。

しかしなんということだ。駆け上がるように売れっ子役者になったごっちの突然の自殺、まず冒頭で描かれ、その場面に戻っていく形という、いわば定番の構成であるのだが、その場面に戻ってきたらいきなりカット!がかかる。そして世界がモノクロになる。
えっえっえっ、どういうこと、さっきまでごっちだった彼がりばちゃんと呼ばれてる。りばちゃんだった彼は、りばちゃん役として参加している若手俳優である。

ちょっと待ってちょっと待ってどういうこと??混乱する頭を抱えながら見進めていくと……映画内映画、だったというのだ。この中盤までが!!えーっ!!そんなことってアリ!?めっちゃ心震わせて見てたのにそんなそんな!!
でもその映画内映画はいわば事実を描いたものであり、ごっちの死を発見したりばちゃんが彼らの青春を書いた小説がベストセラーになり、映画化され、りばちゃんはごっちと入れ替わるようにスターになり、今ここにいるのだ、という展開がようやく飲み込める。

映画なんだから。映画内映画も映画なんだから。でも生きた彼らと思って信頼して観てきたことに対する突然のウラギリのような構成に、さざめく心を抱きながら観ることになる。
まんまとやられたのだ。真実など、どこにもない。本当の真実など、知り得ない。りばちゃんはごっちを親友だと思っていたけれど、実際は彼の何も知らなかったことを思い知らされる。

私たち観客が痛い青春、悲しくも美しい友情物語として観てきた前半部分が、ほんの表層の、画になるところだけをすくい取っていたんだと突きつけられて呆然とするのだ。
りばちゃんは渋谷でごっちと一緒にスカウトされた時は、小学生の頃からずっと一緒につるんできたし、同列でスタートだと思っていた。でも後から考えてみれば、ギターや作曲の才能だってごっちはいつも抜きんでていたし、女の子にもてていたのもごっちの方だった。判っていた筈なのにりばちゃんは気づいていなかったのだろうか。

つまりりばちゃんがごっちに置いてかれる歯がゆさ悔しさを、うんうんそうだよねとあっさり共感して観てきてしまった観客側に、りばちゃん同様お前らもうすっぺらだな!と突然の転換で突きつけられたも同様で、ショックが大きいのだ。
ごっちはどう思っていたのか。そもそもこの芸能界にひょんなことから身を置くことになり、ひょんなことから瞬く間に売れっ子になってしまったごっちは、どんどんヒガミの目になっていくりばちゃんのことをどう思っていたのか。なんてことを、なんとまあ、観客もついついりばちゃん側に加担して、ちっとも考えていなかったのだ。

サリーという一人女子の存在はこうした三角関係には当然大きいと思ったが、これまた予想に反して、実はそれほどでもなかった、それは強い意味を持ってそうなのだということが、ごっちという青年のことを改めて洗いなおすように考える過程で浮き彫りにされ、呆然としてしまうんである。
ああそうだ、これってラショーモナイズだよねと思う。様々に形を変えて、映画作品に使われる永遠のテーマであるラショーモナイズ。見る人によって真実が違う、ウソを言っているのか、はたまたすべての人が自分自身の真実を語っていて、客観的事実などというものは本来存在するものなのか、などという禅問答のようなこのテーマ。

データを見た時、前半部分の、つまりは映画内映画の三人にのみキャスト名が付されただけなのに思わず納得がいく。
それさえも、ちょっと違うような気がしちゃうのだもの。だって現実世界のごっち、りばちゃん、サリーを演じているのは、中島君、菅田君、夏帆ちゃんではなく、柳楽君、中島君、ゆきの嬢なんだもの。

りばちゃんだった筈の菅田君は現実世界でりばちゃん役から脱すると、ひどく意地悪な、ゲーノー界、いや、そもそもの人間の汚さを嬉しそうにりばちゃんに教えてくる人物となる。
サリー役として可憐な姿を見せていた夏帆ちゃんは、現実世界ではハデなメイクと露出気味のファッションで、りばちゃんをくわえこんじゃう妖婦である。そのことで、現実のサリーとの仲が決裂してしまうに至る……。

正直言って、このあたりまでも、呆然としたまま見進めていた。りばちゃんが見ていたごっちの真実、ごっちだと思って観ていた観客の目に、そのごっちが実はりばちゃんだったことをようよう飲み込んだあたりで、ちらちらと、現実のごっちが見え隠れしだす。
それが柳楽優弥君であり、なんとまあ……インパクト大も大で、モノクロームの中にわざわざカラーにしなくてもいいぐらいに、重量感のある存在感で現れる。

サリーはごっちとりばちゃんとは高校生の時に、その土地から引っ越していってしばしの別れがあった。その後偶然出会い、旧交を温めるがごとく、以前のような仲良しに戻った、ように見えた。
りばちゃんは高校時代からサリーにホレていた。サリーはごっちに想いを寄せていた。あるねー、という三角関係だが、ごっちのそうした、恋心っつーか、恋愛関係っつーか、そうしたことに、そうだ、全然触れられてなかったし、サリーとりばちゃんのあれこれも、あたたかく見守っている感じに終始していたことを、今更ながら思い出すのだ。

りばちゃんの視点で描かれてきたから、ちっとも気づかなかった。人ってなんて、残酷なんだろう。等分に見ているつもりだった。
でも実際は、りばちゃん側の価値観でしか見ていなかった。ごっちはスターになっていった人。置いてかれる卑屈さに溺れてしまっていた。

りばちゃんが、映画内映画ではごっちであったりばちゃんが、再び自分の才能のなさを突きつけられるという、考えてみれば地獄の展開である。
映画内映画、つまりごっちが自殺するまでの展開の中で、ごっちがスターになっていくこと、ごっちのバーターの仕事すらこなせないこと、どんどん卑屈になっていくりばちゃんを、まるで救い出すようなごっちの台詞だった。

久しぶりの再会。それは同窓会で、かつてのクラスメイトからキャーキャー囲まれるごっちは、りばちゃんと最初こそ固い挨拶を交わすものの、飲みなおすうちに、たちまち昔の親密さを取り戻す。
しかしそこでごっちは言ったのだった。「りばちゃん、有名になりたい?明日にでも有名になれるよ」約束する、とまで彼は言った。そしてそれは本当だった。
スター、白木蓮吾の自殺の発見者として、りばちゃんはカメラにさらされ、小説を出版し、映画化され、そのごっち役を彼自身が演じるまでに駆け上がったのだ。

その図式が、ようやく見えてくると、混乱し、どーゆーことなのか判らないままさざめいている時にはちっとも見えていなかったことが見えてくると、なんかもう、いろいろと、いろいろと、残酷なのだ。
ごっちが死ぬ前も死んだ後も、りばちゃんはごっちのバーターでしかない。事務所の社長はコトが起こるまではわざわざそんなことは言わなかった。悪魔のようにその耳にささやいたのは、かつての自分、いやそう思うのは観客側だけなのか、つまり映画内映画でりばちゃんを演じていて、現実世界では実力派若手役者の菅田君である。

当たり前だけどどちらも全力芝居なので、この映画の中では前半部分がフィクションなのだと、いやでも、結局はフィクションなんだけど!!と入れ子構造に頭を悩ませてしまう。
そしてそれはとりもなおさず、人間の真実など、客観的に判りようがないというダメ押しを突きつけられている。この若手俳優、「クッソみたいな青春映画ですよね、当たるでしょうけど!!」みたいな毒舌で近づいてきて、「ホントはこんなきれいごとじゃないんでしょ?教えてくださいよ」と悪魔のような笑みでささやいた。

ここ、これが、きれいごと?その時点では充分にイタい青春友情物語だと思っていたから、菅田君の悪魔の笑みにムッとさえしたが、でも確かにそうなのだ。リばちゃん側の卑屈な劣等感でしか描かれてない。
幸運にもその元凶が死んで、自分は代役を手に入れた。その皮肉な愚かしさにりばちゃんが気づいていないということを、ニヤニヤしながらこの役者は教えたったのだ。

そもそもごっちとりばちゃんがスカウトされた時、芸名を考えるように言われたあの場面から、示唆されていたような気がした。別人になれと言われたのだ。本名で勝負するほどの可能性があるかどうかも判らないんだからということなのだ。
芸名をつけることがゲーノー人になることみたいな気がして、二人ははしゃいでいた。ごっちが芸名をつけたとたんに彼は駆け上がった。リばちゃんやサリーにとってのごっちと、スター白木蓮吾は、完全に違う存在だった。あの時死んだのは、ごっちだったのか、白木蓮吾だったのか、判らない。

まるで初恋のように高校時代ごっちに恋していたサリーが描いた、彼の肖像画。映画内映画から現実の展開になると、当然それが中島君から柳楽君に替わっていて、なんかそれがゾッとする感じがした。
心を込めて描いた絵が、真実として観ていた観客にそれが映画内映画だと突然言い渡され、その絵も、違う人物のそれとして差し出される。タッチが同じだけに、余計に怖かった。

そしてその,本当は柳楽君だった(この言い方もヘンだが)ごっちは、その死の真相は、愛する姉の命日に、死ぬと決めていたのだと、言うのだ。劇中ではそれほど尺を割かれないものの、鮮烈なモダンダンスを披露するお姉ちゃんである。
この姉と弟が、禁断の関係にあったのだというのは、りばちゃんがごっちのお母さんから託されたビデオテープの彼らのやり取りから推測するにすぎず、それもまた危険な推量である。
そうであるかもしれないし、そうでないかもしれない。りばちゃんが見るごっちの幻影も、そりゃ死んじゃったんだから決して現実ではないのだ。当然、幻影のごっちが語ることだって、なにひとつ、なにひとつ!!

もうこうなると、ホント原作との相違が気になるわ。“大胆なアレンジの再構成”に加藤氏はイラッとこなかったのかしらんとか思っちゃったりして。原作があるなら、大胆なアレンジとか原作にないエピソードはやっちゃいけないよねー、というのが私自身は思うところなのだが……。
だってそれってさ、だったらオリジナルでやれよってことじゃん。人気者の話題作を、商業的に成功させるために、玄人が作り替えるぐらい当たり前だろ、とかいう感じに思えて、ちょっとなあ……。★★★☆☆


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