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「き」


2014年鑑賞作品

キューティー&ボクサー/Cutie and the Boxer
2013年 82分 アメリカ カラー
監督:ザカリー・ヘインザーリング 脚本:
撮影:ザカリー・ヘインザーリング 音楽:清水靖晃
出演:篠原有司男 篠原乃り子


2014/2/23/日 劇場(渋谷ユーロスペース/モーニング)
こんな人がいるんだ……とドキュメンタリー作品に接するたびいつも思う。当然、美術界では有名な夫婦なのだろう。
数年前に福山雅治氏とCMでボクシングペインティングしていたと聞けば何となくああ、と思い出すものの、そっからアーティスト個人につながっていかないのが、アートに無縁の素人の悲しいところ。

岡本太郎と同時代に生きたと言われればなるほどと思い、作風の爆発さ加減は共通しているように見え、でもそれも、素人の浅はかな考えなのだろうと思う。
それこそ素人の浅はかな考えで、大衆や商業に認知された岡本太郎と彼とはどう違ったのだろうと考えたりする。
いや、どっちがどうという訳でもないし、このギューチャンこと篠原有司男も大衆や商業に、違うベクトルで認知されているのかもしれないけれど。

そう、なんたって無知だから。劇中に現れる、つまり今彼が製作しているアートしか、接することが出来ない。
御年80になんなんとするまで、作り続けてきた彼の芸術の道を、私は知らないから、そんな風に単純な図式で考えてしまったりする。

そして主人公は彼一人ではなく、彼の妻、乃り子もまた一人のアーティストとして主人公に位置する。そう、まさにタイトルロールの二人、なんである。
劇中、「夫婦でアーティストやっているのはポロックと篠原夫婦ぐらい」という台詞が出てきて、ポロックはかろうじて映画で知っていたので良かった、と(爆)。

夫婦だけれど年は20以上違い、語られるアーティストとしての格は圧倒的にギューチャンの方が上。
でも無知な私が初めて触れる二人は、あくまで同位置からのスタートで。女性だからかもしれないけれど、乃り子の描くキューティードローイングがそれこそとってもキュートで、好きだなあ、と思うんである。

でもそれこそが、映画という、全ての人に開けた芸術ジャンルの強みで、アート界でどれだけ知られていて、どんな位置づけで、というのが関係なくなって、二人はこのスクリーンに対峙した人たちにとって、同じ位置からのスタートになるのだ。
それは本作を作った若き映画人にとって、当然狙っていたところであろうと思う。

若き映画人!そう!これが29歳の監督デビュー作であること、そして日本人ではないことに、嫉妬を感じる(爆)。
日本人が被写体になっているからこそ、こうして日本人である私の目に触れる機会がある訳だけれど、日本人がこれを作れなかったかなあ、という嫉妬。
いや、作れなかった。そりゃ作れない。篠原夫妻はアートの戦場、ニューヨークで40年以上も闘ってきた、そんなことは日本のぬるま湯にゆるゆるとつかってきたワレラにはうかがい知れる訳もないのだもの。
実際、知らなかったんだもの。知らなかったことが、悔しい。

日本でも注目を浴びた、前衛現代美術家であるギューチャンが意気揚々とニューヨークへ飛び出していったことは、当時の懐かしいニュース映像なんかで綴られるんである。
こういうの、日本のドキュメンタリー作品では折々見かけるけれど、外国人作家の作品で取り入れられるというのが、なんとも新鮮である。

60年代、70年代のアートの熱は、それこそ無知な私にも何となく知るところもあり、その中にこの彼がいたんだという熱気を感じる。
そして、そこに忽然と現れる若きミューズ。既にスターだったギューチャンの前にアートに燃える学生として現れた乃り子。
たちまち二人は恋に落ち、アーティストとしても目覚めた乃り子は学校も辞め、仕送りも打ち切られ、二人の過酷な“愛”の数十年がスタートするんである。

愛、というのは、言ってしまえば単純で陳腐で無責任な言葉ではあるけれど、それを使ったのは乃り子だった。
二人の展覧会のタイトルに「LOVE IS……」とつけた。ギューチャンは嫌がったけれど、そんな彼にさらりと言ったものだ。だって私は、そう思ったんだもの。ラブイズウオー!だって、と。いつもギューチャンは否定するけれども、と。
本作は勿論、二人のこれまでの40年間のほんの断片を見せているに過ぎないんだけれど、さすが四年間も密着(!)しているだけあって、こうしたふとした言葉に、ほんの数十分対峙する観客にスッと入り込むものを感じさせるんだよね。

実際、乃り子さんはとてもチャーミングで頭が良くて、いい意味で、常識人の風格がある。
そう言っちゃうとアーティストとして平凡のように聞こえそうだけど、そうじゃなくて、なんていうのかな……。
二人はね、図式としては、日本夫婦の典型的な形なのよ。やりたい放題の夫に、文句言いつつ上手く受け止めてあしらって、自分のやりたいことも実現する妻。
当然子育ても妻に任せっきり。夫は妻に頭が上がらず、妻は夫の外面の良さにイライラしてる、みたいなね。

そう、こうして書いてみると不思議なぐらい、日本の典型的な夫婦像なのに!なのに、なぜ違うんだろう、何が違うんだろう。
いや、アーティストだから違うと言ってしまえばそれまでだけど、でも、子育ての間は乃り子さんがすっかりアートを封印して、せざるを得なくて、イライラして、で、子育てが一段落してから、してからこそ本格的に、才能を開花させた、というのさえも、典型的な気がして!

不思議だなあ、ここはニューヨークで、アーティスト夫婦で、暮らしぶりも何もかも、日本、日本人像と全然違うのに!日本語に英語の単語が混ざる独特の会話とかもカッコ良くて、全然違うのに!

乃り子さんはね……と、やっぱり乃り子さんの方がステキだから彼女にばっかり言及しちゃうけど、最初はね、そんなに彼と年が離れているように思わなかったのだ。年齢差が明かされて、えーっと、驚いたぐらいだった。
それは、ギューチャンがとても80には見えないトンでもないエネルギーを持っていることもそうだったけれど、彼女がすっかりきれいな白髪で、その落ち着きっぷりも手伝って、同年代同士の夫婦のように見えたんだよね。
決して乃り子さんが老けているという訳じゃ、ないんだけど(爆)、ギューチャンが……だってこんな80歳、見たことないもん!!

でもその白髪はつやつやと輝いていて、女学生のようにふたつの三つ編みにして、そしてキューティーのドローイングがとてもチャーミングなこともあって、段々と彼女が劇中で若返っていく、というか、本来の年齢の女性の魅力、チャーミングのみならずセクシーさまでも、を取り戻していく不思議さがあるのだ。
最初のうちは有名アーティストであるギューチャンが、切り込み隊長よろしくフューチャリングされることもあって、そんなダンナに苦労する妻、という図式がなくもなかった。

ビンボー暮らしが活写され、夫が大物の魚を調達してウロコを落としてくれるのはいいけれども、毎日料理を作るのは私、毎日タダで高級レストランでしょ、と妻ならではの皮肉を言う。
キレイに盛り付けたのにぐちゃぐちゃに食べる、なんて不満は女として判り過ぎる。その後、二人の人生が徐々に明らかになる過程で出てくる、妻だけが子育てに拘束される不公平へのいらだちも、女として判り過ぎる。

つまり、こんなアート夫婦もフツーの人間としてのナヤミがあるのだと、少なくとも女性側からは活写している訳で、でもそれが女性側からというのが、まだまだやな、という感じもしなくもないんである。
しかも、撮影しているのは向こうの、若き映画青年なのに。でもだからこそ、明確に、見えてくるものがあるのかもしれないなあ。

で、まあちょいと脱線したけど、そうした、ある意味陳腐な日本の男女格差を経るからこそ、乃り子さんの本来の魅力が現れてくるのかもしれない。
実際、彼らのビンボー生活にはちょっと、ビックリした。そりゃ彼ら、有名アーティストであるギューチャンのことさえ私は知らなかったけど、御年80にもなるアーティストが、ボロアパートの水漏れを定期的に点検し、貯め込んだ家賃や光熱費に頭を悩ませ、膨大に抱え込む作品は売れなければゴミ同様、声をかけられればどこへでも、大きなスーツケースにエアクッションに包んだ作品を詰め込んで、ニューヨークのアブない地下鉄に乗って出かけていくなんて、考えもしなかった。

プロフィール上ではナントカ美術館、ナントカミュージアムに展示多数、なんて書かれていても、そこに買い取ってもらうまでの過程はあまりにも涙ぐましく、なんだか見ていられない(爆)。
そりゃ声をかけてきたのは向こうだけれど、その電話を受けた時のギューチャンの目を見開いた顔ときたら!

ライブでボクシングペインティングを見せ、“美術史的に重要な作品が欲しい”という要求に応えるべく、掲載された雑誌とか探しまくる。
結果的に重要なアート作品と位置づけられるものに、こういう過程があるなんて、正直言ってあんまり知りたくないというか(爆)。

でも、そんな風に感じることこそ、一般ピープルの浅はかさということなのかもしれない。
乃り子さんは、このハチャメチャなダンナとの半生を振り返って、その時々の心境を語りながらも、それをネガティブにとらえることはなかったとさらりと語った。
クリエイティブな時間こそが大事だと、そういう風に語っていたと思う。すいません、うろ覚えで(爆)。

彼女がひとことに“愛”と語る言葉が、私たち一般人や、アーティストであるダンナのギューチャンでさえも、単純さや陳腐さをふと覚えてしまうのに、彼女は確信をもって、このクリエイティブな二人の40年間を、その叫びを、愛だと言うのだ。
愛という言葉、というか概念、というか、本質、真実は、そんな形骸化されたものではないのだと。
実際にそんな、それこそ陳腐な言葉を使って彼女が言った訳ではない。ただ一言、私はそれが愛だと思ったから、そう思ったから、と言うのがとても印象的でね。

ギューチャンの絵を買いに来たアートディレクターに、「他の作家の絵も見ないと、判んないでしょ」と巧みに誘導する乃り子さん。
もしかしたらお義理だったかもしれない彼に、自分の作品の魅力に陥落させてしまうシーンは、自分的には何よりのクライマックス。やっぱり、女だからかなあ、なんか、そう思うと悔しいけど。

でも彼女の描くキューティーが劇中で動かされ、どこかノスタルジックな魅力があるアニメーションとして物語をけん引していくのを見るにつけても、そして劇中で、アーティストとしての成熟を、その経過をリアルタイムのように見られるということでも、意想外にもこれは、彼女が主人公度としてアップしたんじゃないかと思っちゃう。

それは、息子の存在においても、思う。それこそこんなことは子育て母親主義を肯定しちゃいそうで、それはせっかく動き出した今のイクメン情勢に水を差すようでヤなんだけど、まあしょうがない、この時代で、しかも破天荒アーティストだもんな。
乃り子さんは苦労して育てた一人息子が、お酒を飲み過ぎることを案じていたりする。まあ、言ってしまえばそんなシーンぐらいでとどめてはいるし、先述したようにアーティストとしてやる気も野望もマンマンの彼女が、よくある話みたいに息子は恋人、みたいな母親像ではないんだけれど。
そう、乃り子さんはギューチャンを愛していること、ギューチャンと愛し合っていることを、それこそアメリカナイズ的に劇中でも再三表現してくれて、照れちゃうぐらいだからさ……。

でもやっぱり、息子に対しては母親、なんだよね。いやそれは当然なんだけど、ギューチャンは息子に対して父親、じゃないからさ。
息子にとってはどうかしらんけど、ギューチャンにとっては、“息子”という呼び名だけ、って感じがする。
どうかしらんけど、などとテキトーなこと言ってしまったが、この息子はどっちに似たんだ……と思うぐらい“引っ込み思案”なんて言葉を久々に出したくなるような雰囲気。

幼い頃、破天荒な父親の社交場面に否応なく接した場面が映像に残されていて、一人静かにお風呂に入っている姿とか、なんか泣けちゃう訳(爆)。
彼は両親の仕事を手伝っているのかなあ、そんな雰囲気はあるけど、でも彼自身が描いた油絵がなんか、これが、イイ感じなのよ。
いやそれは、母親である乃り子さんが、私は好きよ、と言うから感じるのかもしれないし、何より素人だから、特にこういう前衛的表現は判らない。でも、なんだか感じるものが、あったんだよなあ。
こんな、突っ走るアーティストの両親から生まれ、そのどちらにも似ていないようなセンシティブさは、でもどちらにも似ているんだろうか?
彼の行く末こそが、最も知りたいドラマティックかもしれないと思う。この二人のロマンスの結晶の行く末が。

ロマンス、などと言うのが一番似合わないのかもしれないけど……と、終盤まで、最後の直前まで思っていたけれど。
最後の最後、ラストクレジットの前のシーンで、まあこれはプロモーション的な映像だろう、それは判っているけれど、ギューチャンと乃り子さんが、ボクシングペインティングを、その標的をお互い同士に定めて殴り合う長回し、愛に満ちたスローモーションが、ああ、こんな言い方、本当に陳腐なんだけど、だってそれしか言いようがないもん!それが、素敵だった。とてもとても。

いや、いいのさ。愛と言って、いいと思う。乃り子さんがその定義を明確に証明してくれたもの。
ノースリにフレアースカートの、そしていつも通りのキュートなふたつ三つ編みの乃り子さんがとてもコケティッシュで、やっぱり若いからダンナより優勢で、散々殴り倒して(爆)。
飛び散る絵の具のカラフルさ、ああなんか、上手く言えない、でもなんか、ステキなの。クリエイティブであることを一番の幸福にしているところが。

と、書いてきたところで突然思い出した!書き出したところで、書こうと思いついていたこと。
ギューチャンは有名芸大出身。でもその形骸化されたところから飛び出して、真のアーティストになった。
そーゆー話ってよく聞くよね!とついつい思ってしまうのは、勿論私が無知だからなんだけどさ(爆)。
でもそれこそ無知ついでに言っちゃうと、そーゆー芸大を無事卒業して無事社会に出て行った人たちって、芸術家ではなく、芸術系社会人になって、首尾よく成功した、って感じがあって。

大学ってさ、特に日本の場合は無事社会に送り出すことが指名みたいなところがあるし、芸術家として自分の道を究めた人は、そこからドロップアウトした人がほとんどだよね。
なんか、なんつーか、日本の教育システム、昔から言われ続けてるけど、何とかしろよ!と思っちゃうんだなあ。★★★★☆


KILLERS キラーズ/KILLERS
2013年 138分 アメリカ カラー
監督:モー・ブラザーズ 脚本:ティモ・ジャイアント/牛山拓二
撮影:音楽:Aria Prayogi
出演:北村一輝 オカ・アンタラ 高梨臨 ルナ・マヤ 黒川芽以 でんでん レイ・サヘタピー

2014/3/2/日 劇場(ヒューマントラストシネマ渋谷/モーニング)
今現在、外国映画を観るきっかけは、日本人キャストかスタッフの参加となっているあたりがなんとも情けないけど、そのことによって普段は全然チェック出来ていない、世界の映画情勢を知ることができる。
今やハリウッドで世界が成り立っているんじゃないことぐらいは明白だけど、インドネシア映画の才能が席巻しているとは全く知らなかった。もはや日本のホラーや猟奇ブームも過去のことなのね……。
いまだ私小説的世界を引きずっている日本の作家的映画は、世界から置いてきぼりをくらっていくばかりなのかもしれない。

などと暗いことを考えてしまった。まあ、本作も暗いが、突き抜けているという点ではある意味、とんでもなく明るいのかもしれないなどと考える。
でも本作の惹句、少なくとも日本の映画ファンを惹きつけるには充分である惹句の、「冷たい熱帯魚」の戦慄はあくまで、それこそ世界を騒がせている鬼才、園子温の才能によるものだし、「凶悪」は確かにインパクトと才能を感じさせはしたけど、決してヒットという点ではそれほどに結びついていないし……。

ちょっとね、“その世界観”と“スタッフたちの結集”というのが、惹句としては弱いというか、後付けのように感じてしまった。
実際のところは、どういう経緯でこの映画は出来上がったのだろう。それこそ実際のところは、今や世界を席巻するインドネシア映画人、そして監督、という部分が何より大きいのかもしれない。
やはり監督こそが世界観と、全てを掌握していくもの。それこそそれこそ、これを園子温が監督したら違ったのだろうけれど……。

などと思ったのは、やはり、「冷たい熱帯魚」から連想する血も凍るバイオレンスとはちょっと違ったかな、という気がしたからなんである。
いや、そういうとなんか、血に飢えてるみたいだけど(爆)。充分血も凍るバイオレンス、こんなキチク、実際にいたら困るんだけど(爆)、いや、実際にはいないからさあ(爆爆)。

それはやはり、「冷たい……」あるいはもう一つ並べられた「凶悪」に元ネタがあったということと比べてしまうのかもしれないけれど。
いけないいけない。映画はあくまでフィクション、しかもひとつひとつの映画はそれぞれ、まったく関係のないものなんだから。
でもこんな風に思わせぶりに惹句をつけられるとやはり気になるじゃない。

あーでも、それこそそれこそ、インドネシア的には、あるいは世界的には、惹句はあくまでこの新しい映画の才能を生み出す国、インドネシアの側に重きを置かれるのだろう。
なあんとなく私、奥歯に物が挟まったような言い方してるのは、つまりは私自身が全く知らないから(爆)。もっと素直にワクワクできたら良かったんだけどなあ。

でもね、実際、二つの国が手を取って、ではあったんだけど、その融合というよりは分裂の方を感じたから、なのかもしれない。
勿論、判ってる。この物語の構成は、最初からそういうことだし、異なる国の二人がネット、しかもリアルタイムに、文字のみならず、声や動画でつながるというのは現代ならではの趣向。
離れていても、国が違っても、同じ人間ならばまるで直接会っているようにつながれる、というのを、その言葉が生み出すヒューマニズムやロマンティシズムを排除して、バイオレンスに特化して描こうというのは、確かに確かに、新しい試みではあるのだ。

しかもその二人が最後には、実際に出会う。パソコンの画面越しではなく、実際に体温を感じ、返り血を浴び、最後には……おっとっと、そこまで言ってしまっては今はいけない。
そういう構成自体は上手い。言ってしまえば、上手すぎる。ちょっと、想定できちゃうような気がしたんだよね。

だってさ、こういう双方向メディアの発達によって、その時々で必ず映画って作られてきたじゃない。
古くは「ハル」「電車男」……思いつくのが日本映画ばかりで申し訳ないが(爆)、ほら、ハリウッドだって「めぐり逢えたら」とか、「ユー・ガット・メール」とかさ。
それぞれにいい作品ではあるけれど、後から振り返って思うと、やはり少し、時代を感じずにはいられない。

それはもうちょっと前、誰もが映像を撮れるようになった時に現れた、ホームムービー的な映画、代表的な「ブレア・ウィッチ・プロジェクト」とかね、そういうのも含まれるしね。
そうした一連の作品群は、そうじゃなく作られた映画よりも、一足早く古びてしまうような感覚がある。
その手法に映画の王道のバイオレンス、それもてんこ盛りを加えると、ちょっとヒヤリとする気分を感じなくもないのよ。

野村が処刑しようとしている場面をリアルタイムで見せられているバユが、逃げろ!逃げろ!!とはるかかなたからパソコン画面を通して叫んでいる。
……というのが、こうした双方向メディアの驚きに最初に接した時の新鮮さからは既に遠く離れてしまってるしさ。
そう、最初の新鮮さの時に、こんな映画が作られていたらと思うけれど、それも、そんな風に古びてしまうのかなと思ったりすると……。

関係ない私見をぐちゃぐちゃ言っちゃったけど、ネタも尽きたので(爆)、軌道修正。
なんたって本作の見どころは、北村一輝がジャカルタに違和感なさすぎること(笑)。
本作は二人の主人公。東京側が北村一輝で、インドネシア側がオカ・アンタラ氏。
正直なトコを言えば、役者としてやりがいがあるキャラはアンタラ氏の方だと思うし、人物設定、あるいは脚本構成を考えても、やはりこれはインドネシア映画なのだなと思ったりする。

アンタラ氏演じるバユはジャーナリスト。汚職まみれの政治家を追っていて、家庭は崩壊。
妻と娘はまだ彼を愛してくれているみたいだけど、妻の父親が厳格&彼を完全に下に見ていて、要領よく取り入ってきた若い男(という具合に、彼と、観客には思えちゃう)にすっかりご執心。

そんな中、バユはタクシー強盗に遭遇し、相手を死なせてしまったことから、その様子を動画に撮ってしまったことから、しかもそれをネットにUPしてしまったことから……狂気に取りつかれ始める。
そもそも、そんな行動に出ちまったのは、彼が元からこっそりと見ていた殺人動画であり、その作り手であるKこと野村(北村一輝)に同志として見出されちまったことがことの発端だったんであった。

殺人動画、スナッフフィルム。それこそ「ブレアウィッチ」あたりをほうふつとさせる懐かしさを感じる。
スナッフフィルムという言葉が出てきた時は本当に戦慄したけれど、いや今でも、そういうものが本当にあるのかもしれないと思うと本当にゾッとするけれど、不思議なもので、その言葉が出てきて、まるでサブカルチャーみたいに席巻した時のことを思い出すと、本当に懐かしいような気分になっちまうんである。

いやいや、それこそ当時はスナッフ“フィルム”。今ならスナッフ“動画”なのだろう。今はホントに、マジに、そういうものがきっと、あるんだろう。
そういやあ、自己責任がらみの先に起きた拉致事件で、そんな映像が出回ったっていうイヤな話があったっけ……ああ、ヤだ、ヤだ。と、日本ならばその程度で逃げられるのかもしれない、確かに。

日本側の描写、連続殺人鬼の野村の描写は、それまでの殺人鬼の王道を行っている雰囲気。
一見するとイイ人で、イイ男。本作のヒロインにあたる久恵なんて、似た境遇に恋愛に行きそうなシンクロを感じるぐらいなんだから。
そりゃあ北村一輝が演じるんだから、しゅっとしたスタイルの良さも相まってイイ男には違いないが、なんたって「テルマエ・ロマエ」エ俳優、濃くて濃くて、インドネシアサイドが出る前から、インドネシアより濃いよ!と思っちゃう。
実際、もう一人の主人公、バユを演じるアンタラ氏より、インドネシアパートでしっくりきちゃってたもんなあ。

そう、インドネシアパートに、最終的には登場する北村一輝。私ね、そこには行かないと思っていたのだ。東京とジャカルタ、二つの都市で、完全に分断された二人の男の物語として進むのかと思っていた。
実際、そうやって進んで来ていたし、確かにネットでつながってはいたけれど、野村が主張するほどバユに殺人の嗜好は感じられなかったし。
実際、直接会ったバユに野村が「ガッカリだな」というぐらいなんだし、やはり二人は殺人を嗜好するかどうかという点で、原点で、まったく違っただろうと思う。

最初からそういうキャラ設定だから、二人の男の物語を見せられている気しか、しないんだよね。
で、片方は完全に個人嗜好の男。一応、辛い家庭環境とお姉さんへの偏愛を語られるけれども、豊かな大都市東京のハンサムガイとして描かれるから、やっぱりありがちなサイコキラーなんである。
いやいや、ホントに彼が語る境遇はつらいものがあるし、彼が出会ったこれまた薄幸な姉弟に自分自身をシンクロしたがために起こるクライマックスは戦慄するものではあるんだけど、やはりインドネシアパート、バユと比べるとねえ……。

国家、社会、政治情勢、それがもたらす自分たち庶民の生活。バユは能力のある記者だし、決して貧民ではないけれど、彼の妻は、その父親はセレブチックで、そしてその上に、更に金満な政治家がいる。
ビルが立ち並ぶ都会でも、タクシー強盗に遭遇するような社会は、まだまだ富裕と貧民の差が大きい。
それでもこの強盗事件は、バユの殺人嗜好をいざなう事件として置かれた感は強いし、やはり実際に、自然な形で目に触れるのは、野村がジャカルタに乗り込んでから、なんである。

それも露骨に示されるんじゃない。子供たちが、映し出される、ただそれだけ。
なんかいろいろすっ飛ばして言っちゃうけど、クライマックス、バユと野村が高層マンションから落下する。下に止めてあった車に墜落する。
バユは野村に撃たれたことで既に死んでいる。野村はしつこく生きている。でも息も絶え絶えである。
口からごふごふ血を吐き出してしっかと目を見開いている野村を、スマホで動画を撮っている子供。

スマホを持っているんだから貧民て訳じゃない。でもなんだかね、やはりバユたちとは違うんだよ。高層マンションも塗装が剥げかけているし、そこで遊んでいる子供たちがここに住んでいる子たちとも限らない。
バユのお嬢さんがいかにもセレブ学校の制服、オシャレする時にはピンクのフレアードレスに真珠のネックレス。ここでハーパンでサッカーしている子供たちとは、ぜえんぜん、違うんだもの。そら、拉致もされるでしょ!

……って、本作では、結構な感じで拉致シーンがあり、それに気づかなきゃいけない当事者が手前に示されてるケースが結構あるのよ。
それこそバユが愛する娘を学校に送り届け、妻に電話しているその背後で、政治家チームに拉致されている場面。
野村がコールガール(という言い方も古いが、娼婦というのはさらに古いしなあ)の用心棒(これも古い(爆))をぶっ殺し、コールガールを連れ出してぶん殴って、車のトランクに入れようとしているのを、手前の刑事たちがちっとも気づかずに会話している場面。

このシーンなんて、悲鳴を上げてる彼女の声が聞こえそうなもんだけどね!ギャグかよと思うぐらいだったなあ、この場面は……。
でもその後、クライマックスもクライマックスで、バユの娘が拉致される場面でも同じ手法使ったから、あれま、これはギャグじゃないのか、と……。うーむ、認識の違いは、難しいなあ!!

なんか基本的なこと、重要なことを言い落しまくっている気がする(爆)。少なくとも、観る動機となった日本側のことぐらいは言わなくては(汗)。
日本側、野村が心を奪われる花屋の娘、という表現こそが、何か古い、というか、懐かしさ、というか、それだけで薄幸さを思わせるというのは、それこそそれこそ、古い発想なのだろうが、とにかくそんな、ヒロインである。
高梨臨。その見開いた瞳になんだか見覚えがあると思ったら、「ライク・サムワン・イン・ラブ」の彼女であった。すいません、ドラマとか見ないんで、ご活躍は知りませんで。

自閉症の弟と共に暮らす彼女、その切羽詰まった場面……弟を殺そうとしたのか、あるいは彼女の言うように共に死のうとしたのか、横断歩道で泣きながら押し問答している場面に野村は遭遇した。
野村の家庭環境は彼の口からざっくりと語られるだけで、それはあまりにざっくりで、彼自身の家族への愛情度……母親のことは何とも思ってなかった。父親は大嫌いだった。姉だけを愛していた、ということだけが、判るだけだった。
セーラー服姿の姉の回想シーンが思わせぶりに示されるだけというのは、ムダな想像をさせちゃいそうだな、などと思うのは、勝手な心配だろうか。
でも結果的には、これってまんま、「サイコ」じゃん!!ミイラ化したお姉さんが見つかる場面、丁寧に着せているカーディガンとか、まんま、まんま「サイコ」じゃん!!
そう思って見ると、あたりが柔らかいハンサム、彫りが深くて、一瞬見せる思いつめた目にゾッと背筋が寒くなるあたりとか、うわっ、北村一輝、アンソニー・パーキンスまんまじゃん!!
いや、私、アンソニー・パーキンス大好きなんですけどね!!キャー!こういうのって、なんかコワ嬉しい!!

……で、なんか脱線したけれども、ヒロインと弟の話、だったっけ。
……あんまりねえ、私は気に入らない。「軽い自閉症みたいなもの」みたいな、あいまいな表現が気に入らないし、それが、いくら常軌を逸したシリアルキラーによってでも「死んだ方がまし」などと言われるのは、いくらなんでも許容できないよ!!

……まあ、そりゃまあ、私もまた、安いヒューマニズムで言っているのかもしれない。でもさでもさ、私なんかより頭が良く、世の中がよく判ってる作り手ならばさ。
いや、もっとシンプルに、今の、現代の世の中とゆーものは、それこそそんな世の中じゃないでしょ!もしそうだとしたら、日本の現代がそうなんだとしたら、いまだにそうなんだとしたら、……いまだに本作が、それを糾弾する意味で示してきたんだとしたら、今まで日本は何をしてきたの、と言いたくなるじゃない!!

それを言えばね……何か、日本側のゲスト的出演、それこそ「冷たい熱帯魚」関連のゲスト、みたいなでんでん氏の登場は、それ以上の、何か意味的なものを感じたりもするのよ。
明示してはいなかったけど、あれは日本人なら誰もが判っちゃう自殺の名所、樹海。もう死んでしまった娘を膝に抱きながら、髪を手で梳いている彼は、悟りの表情を浮かべている。
彼のシチュエイションだけなら、まだ良かった。弱い人民、弱い社会を端的に示しているというだけにとどまっていた。
樹海は残酷で美しい、独特の価値を持つ場所だし。日本の知られていない場所を世界に示す意味でも魅力的な場所だ。

でも彼を含めて明確な弱者、障害者という弱者をからめてしまっては、コトは大きな意味を持ってしまう。
それがイヤだと思う。嫌悪感がある。簡単にからめとることへの嫌悪感と、その簡単さに気づいてもいないことに更にぞっとしてしまうのだ。

……大きく意味を取り過ぎたかなあ。本当はもっと大きく楽しめると思ったんだけど、ジャカルタ側が意想外に社会派だったから深く考え過ぎてしまったのかもしれない。
実際は人がバンバン死ぬ、娯楽的スプラッター映画なんだもん。あ、でも、彼らが撮影するカメラの中のみならず外でも、「(殺されたバユの奥さんが)案外強かったよ」なんて野村に言わせて想像させる残酷さとか、やっぱりやっぱり、そうそうアッケラカンとエンタメと思えないゾゾっと感に満ちていたもんなあ!!★★☆☆☆


禁忌
2014年 73分 日本 カラー
監督:和島香太郎 脚本:和島香太郎
撮影:古屋幸一 音楽監督:富森星元
出演:杉野希妃 太賀 佐野史郎 山本剛史 藤村聖子 森岡龍二 月船さらら 山内健司 兵藤公美 高嶋宏行 松崎颯

2014/12/9/火 劇場(新宿武蔵野館/レイト)
後からオフィシャルサイトの解説なぞ読めば、ああやっぱりそうなのか、とは思う。そういうつもりで作ってはいたのか、と。
少年への欲情、そしてレイプ。少年が性に目覚めることへの失望。少年であり続けるためのあの結末、と。
いや、やっぱり、などと言うのは不遜かもしれない。正確な感想としては、そうだったのか、全然そんな風には見えなかったけど……といったところかしらん。

一番の問題は、この”少年”がぜんっぜん少年に見えないこと、なんである。
監督の”ステートメント”では、ペドフィリア(13歳以下を対象とした性愛)と明確に位置付けられているし、劇中、ボーイソプラノで歌っていた望人が声変わりをする描写があるんだから当然、その設定に他ならないのだが、見えない見えない、ぜんっぜん、見えない。

だって太賀君だよ。実年齢だってフツーにハタチ超えてるし、まあ童顔と言えないことはないが、体格はしっかり年相応の男の子だし、一体なぜ彼を起用したのかがまるで判らない。
キャラクターや演技力でなのか??でもこればかりは演技力云々ではいかんともしがたいものがあるじゃない。

そりゃあホントに13歳以下の子を杉野希妃嬢のレイプ相手にする訳にもいかない……いかない、かなあ?女の子と違って、男の子はヌード的にはそれほど聖域はないじゃない。いや、相手が女の子だとしたって、演出の手法でいくらでも切り抜けられる……そしてその中で、いくらでもセンセーショナルな描写には出来る、じゃない?
それだけの演技ができる子役がいる時代なんだもの。いわんや男の子ならば、であると思うんだけどなあ。

少年に見えないとなると、この大人の女、クールビューティーな女教師が欲情するのが、”父親から受け継いだ少年愛の血”とか、”異常性愛”には更に見えないことなんである……。
せいぜいが、どこの誰ともしれず監禁していた男の子を自分のトコに連れて来て、欲情しちゃって迫ってまたがった、ぐらいにしか見えない。

いや、充分それでもセンセーショナルだが、この場合おおっ、と思うのは、少年をレイプする女教師、ではなく、杉野希妃嬢のおっぱいを拝めたこと、などとゆー、俗っぽい理由なんだから哀しいものがある……。
いくら太賀君が哀しげな獣のような声をあげても、彼の体格でなぜ突き飛ばせないのかとか思っちゃう。
いや、こういうのは心理的なものが働くということは判っちゃいるけれど、太賀君は今までそれなりに活躍しているから、”少年”じゃないことは判っちゃってるんだもの……。

だってつまりはこれは、杉野希妃の映画、なんだよね。勿論、プロデューサーなんだからそうなんだけど、ことにそういう押し出され方をしている。
もう一本、彼女の監督作として初公開になる「欲動」とカンペキに抱き合わせでの宣伝、公開、配給となっているんだからなおさらなんである。

杉野希妃嬢が、日本のみならず、世界的に見ても珍しい、”自分の出たい映画を自分で製作するプロデューサー、しかも美人”という、それだけで宣伝材料になるお人で、そりゃ仕方ないとは思うが、本作に関してはデビュー作になる監督さんは完全に置き去りにされている印象がある。
これは杉野希妃の企画でとしてしか、世に出ていないのだもの。

確かに彼女の美しさは、これまでの作品でも発揮されてはいたけれど、段違いにくっきりと描写されている。
絶妙な膝上のスカート丈は、なんともフェミニン&禁欲的なセクシーを醸し出し、それがこの、ひそやかな性癖を隠し持っているクールな美人女子校教師にピッタリはまるんである。
彼女の美しいひざとその下にすんなりと伸びるおみ足は、上品さとみだらさを不思議に共存していて、なんともゾクゾクさせるんである。

考えてみれば、完全な単独主演は初ではなかろうかと思われる。華やかな美人だけれど、笑顔よりも真顔が似合うタイプの、いわゆるクールビューティー。
そらー、女子校の教師なんかになったら、こんな風に女生徒に慕われまくり、その中のステディも作るだろうと思われる。

個人的な感覚では、女生徒とのそーゆー関係、そーゆー場面がかなりソフトタッチなまま終わったのが不満足である。おっぱいは女の子相手にこそ出してほしかったと思う(爆)。
でもまあ、仕方ない。結局はこの時点では彼女、女教師サラは、自分の性癖を自覚していなかったのだから。
普通に異性の恋人はいたけれども、セックスの後にごしごし身体を洗う描写でそれと知れたが、それで女生徒との関係なのだから、レズビアンなのだと思っていた。
んでもって、あの少年にはとても見えない太賀君をレイプでしょ。なんかピンとこないままでさあ……。

ちょっと概略が判らなすぎるままだから(爆)。まあでも、ここまでで大体出ちゃったけれども(爆爆)。
杉野希妃嬢演じるサラは、クールな美貌で生徒から人気のある女子高校の教師。ピアノの才能のある生徒と肉体的関係にも陥っている。この生徒を巡っては、養護教諭とバトルが繰り広げられたりもする。

本作はこの生徒のピアノを弾く場面から始まって、全編モーツァルトで彩られており、神童から成長することなく夭折してしまった彼の音楽が実に皮肉に、美しく流れるんである。
そういう言い方をしてしまうのは、最初にこの女生徒が、駄作ばかりなのに持ち上げられるモーツァルトはキライ、と発言するからなんである。でも最後に名作を書いた、と弾くそれは、先生への愛の表現だったのだろうか……。

で、突然警察から呼び出される。家族を捨てて20年以上も会っていない父親が暴行事件にあい、入院することになって、その身元引受人的立場として父親が娘の存在を口にしたからである。
「どうして私が」とこれまたクールにつぶやく娘、確かにその理由は別にあった。父親がひそかに囲っていた少年をかくまってほしかったから。
……というのは、見てるこっちの正直な感覚としては、サラが勝手にそう解釈したように思えるんだよね。

確かに、被害者ではあるけれど加害者の少年から買春の疑惑を暴露され、窮地に陥っている父親が、最も隠したい”証拠”ではあるけれど、見ている限りではサラがわざわざ別カギを使って、誰も立ち入りそうにない部屋を開けた、という風にしか見えなくって、これって指示されなければ気づかずにスルーしちゃうんじゃないの?
いやまあ、生家ではあるけれど、父親の性癖のことは知らなかったんでしょ?と思い……。それとも、知っていたの?そういう伏線も感じられなかったんだよなあ。知っていたんなら、秘密の部屋を探索するってのも判るんだけど……。

本作は、こういう感じの、ピンとこない部分が、沢山あるんだよね。父親が少年愛者であったことも、警察の追及によって明らかにされるだけだしさ。
せっかく佐野史郎を使っているのに!!佐野史郎が少年を犯す場面を作らないとは!!佐野史郎が演るのならば、相手が少年とは見えない太賀君でも、希妃嬢がヤるより、ずっとセンセーショナルだよ!!

……ううむ、ううむ。ヘンタイはどっちなの、と言われそうな気がしてきた……。
いや、ヘンタイじゃないのよ。少年愛がヘンタイと言われたら、性的嗜好の問題は語れなくなってしまう。
ただ、どうしても法律というものがあり、性的嗜好の相手となる存在が、それを受け入れがたいであろうことが大概である、と考えられると、やはり異常性愛ということになってしまう。

でも性の対象としてどんな嗜好があるかなんて、本能の部分であるし、日本でもようやくまともな議論がそれなりにされているセクシャルマイノリティに通じる部分でもある。
”監督のステートメント”にもそれはハッキリと示されていたから、そこんところは凄く共感したんだよね。

でも、その部分がこれだけ明確なところからスタートしているのなら、”父親から受け継いだ少年愛嗜好の血”の、そのスタートの父親の描写が説明だけで終わってしまうのは、やはり解せないのよ。
しかも佐野史郎だもん!!(まだ言うかっ)。少年には見えない太賀君と希妃嬢の”レイプ”シーンは、ただ、女の方が先に積極的になっちゃった、としか見えない。

異性の男性に違和感を持ち、女生徒ともキスとペッティングぐらい、相手が生理だと顔をしかめて「血の匂いは苦手なの」と言い放ち、いたいけな女の子を傷つける、
そこまでの描写を経ていてさえ、少年愛には見えないこの辛さ。少年愛には見えないから、「腕の毛を剃ろうか」と言っても、それが体毛が目立ってきたなんて描写には思わないし、声変わりをした描写があっても、それを経て性欲を獲得した”元”少年に組み伏せられて、つまりはお返しのレイプまがいのセックスに至っても、少年、とどうしても結びつかないんだよー!!

これは、アレかね、私が萩尾望都とか竹宮恵子とか、もっと言っちゃえばパタリロ世代だからかな(爆)。
少年はホンットに、少年なんだよ。勃起なんかしないだろと思うぐらいの少年の身体。映像作品でそれを作るのは確かに難しいだろうけれど、やってやれないことはないと思う。

正直、これは、ナイよ。これは少年愛ではない。全然、禁忌じゃないもの。まあ私は確かにドンカンだけれども、もしホントにいたいけな少年で、あのラストを迎えたならば、その意味を正しく理解したと思う。
そう、最初に判ったようなコトを言ったけれども、あのラスト、全然ピンときてなかった、のだ。

つまり、少年、望人が、サラから捨てられる事実に直面、それは自分が少年ではなくなったからだと理解し、彼女と一緒にいたい、その愛の証明のために、少年であり続けるために、その性器を割れたガラス瓶でメッタ刺しにする、と。

……こうして説明してみたけれども、先述したようにサラが少年愛に目覚めたこともピンとこないし、声変わりをし、男としての性欲を成長過程として得た望人に失望した、というのは更にピンとこないどころではない、見ている限りでは全然、判らなかった。推測すら、出来なかった。
父親の性癖からくる犯罪を暴露すると脅してまで望人を手元に残した彼女が、何キッカケでそれを撤回して父親に戻しに行ったのか、ホントに判らなかったんだもの……。

どこか世間的体裁のように付き合っていた元カレから、腹いせ気味にレイプされる場面、縛られているから彼女を助けることも出来ない望人、というシークエンスがその途中に挟まれているんだけれど、それは望人側には心理的影響を与えたことが推測されるけれど、彼女がそれを経て、望人を父親に返還しに行くってのが、なんかピンとこないんだよね……。いやつまり、ずっとピンと来てないんだけど……。

男は女を欲し、女は男を欲す。そんなことが無邪気に信じられる時代は終わった。やはりせいぜい、80年代〜90年代初頭までに、終わったと思う。
美しい女であることも、カネのある男であることも、それだけで価値を持てた時代は終わった。つまりそれは、真の男女、いや、人間平等の世界のスタート地点に立ったと思う。

やはりバブルの終焉も関係していると思う。オカマだのオネエだのタカラヅカみたいだのと、キャラクターとして面白がられたりする時代は過ぎ去ったのだ。
男、女、その中でも幼年、ローティーン、ハイティーン、そこから何刻みにもされる年代に対する嗜好。女の身体を持つ男、男の身体を持つ女、女の身体で女を愛する女、男の身体で男を愛する男。

性愛という言葉があり、純愛という言葉があり、それらは混じり合い、乖離し、妥協し、共存し、併走していく。
美しいラブストーリー、センセーショナルな性愛物語、そのどれもが、そう簡単に描けない時代、つまり、それだけようやくまともに一人一人のアイデンティティを見つめる時代になったのだ。ようやく。

性的嗜好自体はアイデンティティであるのなら、それを満たすことのできない人がどう生きていけばいいのか。その葛藤は、凄く見たかったと思う。理解するために。そして、言ってしまえば、俗な興味としてでも。

どちらにしても、それが満たされることはなかったのだ。 ★★☆☆☆


銀の匙 Silver Spoon
2013年 111分 日本 カラー
監督:吉田恵輔 脚本:吉田恵輔 高田亮
撮影:志田貴之 音楽:羽毛田丈史
出演:中島健人 広瀬アリス 市川知宏 黒木華 上島竜兵 吹石一恵 西田尚美 吹越満 哀川翔 竹内力 石橋蓮司 中村獅童

2014/4/2/水 劇場(TOHOシネマズ錦糸町)
なんとまあ、今年はもはや三本目、怒涛のごとくの吉田監督。この監督さんが好きだから、足を運んだ以上の理由は、実はなかった。
前々作だったかな、観た時に、そろそろザ・商業映画に呼ばれたりするのかもしれない……なあんて書いたら、本当にその通りになってて(爆)。

いや、ホントに知らなかったのよ。そういう情報はホントに入れないんだもの。
それは売れっ子監督になった、認められたということだとは判っていても、ちょっと寂しく、ちょっと不安な気持ちも正直抱えて足を運んだのであった。
だって主演のジャニーズの子は、ドラマ見ない私にとってはなじみのない子だったし、ジャニーズぅ?とか思うトシヨリだし(爆)。

そーいやー、その前々作、「ばしゃ馬さんとビッグマウス」でも、そのジャニーズの子を上手く使っての演出だったことを思い出したが、なんたってあちらさんは関ジャニさんでございますから何かと芸達者よね、などとこれもまた何となくヘンケン??
知らないということと、若いということもあって、かなり身構えて見始める。

正直、彼も含めてワカモンたちは、台詞回しとか立ってる時の所在なさげな手の位置とか、なんか色々、中盤までかなりぎこちない印象。そーれ見ろ、大丈夫かよ、と思ったのも正直なところ。
でもすべてが終わって考えてみたら、それは監督の演出意図だったのかもしれないとさえ思う。こういうドラマ、ワカモンたちに“上手い芝居”などつけない方がいい、そういう意図だったのかもしれない、と思えてきた。
この作品の中で、フィクションではありながらも農業高校の生徒として生活していく中で、必ず自然と見えてくる、変化してくる、成長していくものがある。それを監督が信じたんじゃないか、って気がしたんだ……。

例えばワキ役あたり、同(おな)中で今は別の高校に通うお嬢様、黒木華嬢なんかはそこからは外れていて、いかにもフィクションの面白さだよね。ばんえい馬の飼育、調教をしている哀川翔も、華嬢よりはリアリティがあるけれど、やっぱりそうだと思う。
あるいはヒロイン、御影アキの父親が竹内力というのは、ぜえったい、哀川翔と絡ませたいという意図アリアリだよね!!実際二人がアキの雄姿に二人抱き合って喜ぶシーンはファン垂涎だし!……おっと、また先走りそうになったが。

いや、竹内力だって、牧場経営の厳格な父、だけど根はいい人、ってのはハマってるのよ。でもなんたって竹内力だからさー、やっぱりフィクションの面白さな訳。
そうしたワキキャラのアンチリアリティを楽しみながら、ぎこちなさから始まるワカモンたちの成長物語だから、最後には素直に胸が熱くなっちゃったんじゃないかなあ、と思ったんだ……。

実際、結構エピソードてんこもりで、それほど一個一個に濃く味付けしていけないという面もあるかもしれない。さらりとさせるのは、そうした計算も働いているかもしれない。
漫画原作というのはとかくそういう部分があって、テレビアニメならその部分もクリアできるんだけど、劇場用映画となるとほんとに難しいと思う。
原作もアニメも未見だけど、本作はその点も凄く上手くクリアしていると思う。そういう意味ではストイックだと思う。

主人公の八軒君は元はエリート進学校の生徒。だけどその中で生き残れなくて、付属の高校に上がれなくて、この農業高校にやってきた。
中学時代の回想シーンに、彼と同じように落ちこぼれて発狂寸前になっている、またしてもこの年齢で学生やってる前野朋哉(爆)。しかも中学生(爆爆)。全くなんだってこの人は、こーゆー年相応じゃない役が似合ってしまうんだろう(笑)。

厳格な父親は、もうお前には期待しない、と冷たく突き放した。そんな父親からも逃げたい一心で選んだ全寮制だった。
しかしここは未来の酪農家を目指す、代々の責任をその身に背負ってやってきた、違う意味でのエリートたちの集団。その志の高さに、落ちこぼれてやってきた八軒君はまたしても落ちこぼれな状態。

可愛い仔豚に心奪われ、「経済動物に名前なんか付けて、情が移っても、いずれは豚丼かなんかになるんだから」「だったら豚丼ってつければいいだろ」
このシークエンスから、彼がいずれ可愛い豚丼の行く末で苦しむことは予想できたけど、その展開は、まさに彼の成長そのもの、そして観客である私たちも、成長させてくれるものだったのだっ。

と、いうのはかなりクライマックスだからおいといて。だってもういろいろ盛りだくさんなのよー。
酪農素人の八軒君にとってはすべてが初体験だけど、同級生たちは既にプロフェッショナルだからさ、全てにおいて先述のような調子な訳。
そうそう、“経済動物”という言葉も、あの震災の時に私は初めて知ったのだ……恥ずかしながら。それこそその言葉を盾にして、いずれは人間のために殺される動物のことを可哀想がるのかとか、判ったような言い方で酪農家の人たちを貶めるネットの書き込みとかに、お前らホントに、以前から“経済動物”って言葉を知ってたのかよ……と思ったりした。いや単に、私が知らないだけだったんだけど(爆)。

もちろん、サラリーマン家庭に育った八軒君は、可愛い仔豚にペット感覚で最初はいただろうよ。何とか生き延びれないですかね、と言えば厳しい女性教師にざっくり却下されて、「ですよね……」とうなだれる。
その時点ではまだまだ、八軒君は、パックの肉しか知らない、現実を知らない、つまり私たち観客サイドの人間だった。だからこそ、彼の成長は、私たちの成長にもなるのよ!!

この厳しい女性教師、アーミーパンツに編み上げブーツ、胸の大きくあいたぴったりフィットするTシャツ、サングラスもばっちり決まったセクシーなセンセーがフッキーだとはもう、驚き!
今までのキャラじゃなかったよね、でも似合う、似合−う!!まさか彼女がこんなに色っぽくカッコいいとは……驚き!!こんな魅力まで引き出すとは、吉田監督恐るべき!!
豚丼が出荷される時、買いたいんだと、いや豚丼をペットとして買い取るんじゃなくて、肉になった豚丼を買いたいんだとこの女性教師に申し出た八軒君、そのあたりからかなり涙腺がヤバくなった。

その前にね、と畜の場面もあるのよ。ラストクレジット後に、そのシーンは実際の授業の場面を撮影させてもらったと断り書きしていた。見つめるキャストたちの表情はだから、本当に真剣だった。
このシーン、生徒たちに強制はしないのよ。意志のあるものだけが見学しなさいと先生は言う。でも誰ひとり残らず立ち上がる。
凡百のドラマなら、このあたりでひとドラマを作ることだって可能だったと思う。あるいは原作ならあったのかもしれないけれど。
でも彼らは皆、もう、判っているのだもの。だからこそ、ただそれを、真摯に見つめるのだ。

と、いうあたりが前半あたりまでの盛り上がり。八軒君は出荷される豚丼を見送り、その肉が段ボール箱で届いてくると「小さくなったな」「(金額が)そんなもんなんだ……」と受け取る。
食品科学部(だったかな)にいる馬術部の先輩に教えを乞うて、全てを丁寧にベーコンにする。

燻煙室から立ち上るいい匂いに同級生たちが近寄ってくる。セクシー女教師も「私にも食べさせろ」と寄ってくる。
八軒君が最初に食べなきゃ、と御影さんにうながされて口にした八軒君、彼、泣くかと思った……でも泣かない。笑顔で、美味しい、と本当に嬉しそうな笑顔で!!見てる観客である私の方が泣いちゃうの!!
そしてみんなが美味しそうに食べる、別課の生徒たちが、米だの野菜だのを次々持ってきてくれる。厚切りベーコンステーキ、混ぜご飯、もうすべてが超絶おいしそうなの!みんな笑顔で、笑顔で食べてる。

感謝して食べる、っていうのは確かに判りやすいテーマだった。命を与えられている。命をいただいているんだって。でもそれを、酪農をテーマにして考えちゃうと悲壮になっちゃう危険性があった。
ここではみんな、豚丼を食べて笑顔になってる、幸せになってる。ここで食べていることは、食べなければ飢えちゃうとか死んじゃうとかじゃない訳じゃない。それこそ先進国のおごり、だよね??それがあるから、こういうテーマっていかに描くかっていうの、難しいと思ってたんだけど……見事!!
八軒君の豚丼への愛があったればこそ。そりゃね、周りのみんなは経済動物なんだからと彼をいさめたけれど、彼等だって、というか、彼等だからこそ判っている筈。と、いうのが、後半ステージでふんだんに取り上げられるのだっ。

そもそも、豚丼を買いあげた“バイト代”は、同級生の御影さんちで夏休み、アルバイトをして稼いだものだった。判りやすく失敗もし、学校内ではいがみあっていた彼女の幼馴染、母子家庭で頑張る、牧場をいずれついで母さんを楽にしたい、という目標を持っている駒場君とも判り合った。
正直、この駒場君との友情関係は、やはりさすがに尺の短さのウラミを感じるところではある。男子の友情物語と、ヒロインとの淡いながらも恋愛的やりとりを天秤にかければ、いかに淡いながらでも、実際は無きに等しくても(爆)、ヒロインとの恋愛ぽさの方を選択するしかないだろうしさ。
まあヒロインの広瀬アリス嬢は、先述したようなぎこちなさはあったにしても、それも含めてなかなかに良かったからいいんだけど。

酪農家の一人娘だから継ぐ覚悟は出来ているんだけれど、彼女は馬が好きで、ばんえい競馬に夢中で、ばんえい馬に関わっている叔父さん(哀川翔!)と仲良しで、そこに連れていかれた八軒君は、ばんえい競馬の迫力と奥深さに一目で見せられてしまう。
恥ずかしながら北海道にそれなりに血縁がある割にばんえい競馬をほとんど知らなかった私は、それこそ映画の「雪に願うこと」で教わったぐらいなんであった。あー、良かった、とりあえずその知識だけはあって(爆)。そーいやー、そこで女性騎手を演じていたのはフッキーだったっけ!!

後半の盛り上がりは、駒場君ちの牧場の倒産、駒場君の退学、そこから連なる、保証人になっていた御影さんちも危うくなり、彼女が可愛がっていた馬を売らなければいけなくなるというシリアス極まりない展開。
大切な友達が窮地に立っているのに何もできないことに苛立つ八軒君は、同級生たちから大人な対応されて更に苛立つ。
事態がリアルに判ってしまう同級生たちにとっては、八軒君のいらだちは確かにいかにも子供なのだろう。
結果的には何を変えることが出来た訳ではないのかもしれない。でも、八軒君の決心、それ一発が、子どもなのに既に大人である同級生、のみならず上級生たちも巻き込んでしまうのだったっ。

その舞台は、学園祭である。あー、もう、口に出しただけで涙がこぼれそうな必須イベントっ。
ばんえい競馬やればいいじゃん、と気軽に口に出したのは駒場君だったのだ。でも彼は先述のような事情で退学し、御影さんの馬、いつかばんえい馬にと夢見て大切に育てていたキングも売らなければいけなくなった。
その先、キングがどうなるかなんて、判らない。二人のためになにも出来ないことに苛立つ八軒君は、でも担任教師である中島先生に言われるのだ。
あいつにも開拓民の血が流れている。何度でも立ち上がる。大丈夫だ、と。

これも漫画ならではのいかにもな台詞だけど、中村獅童に頭にタオル巻かれて(?)言われるとジーンときてしまうのだ。
ああこういうドラマが成立するのは、やはり北海道でしかありえないであろう。中途半端にしか北海道に関わっていない自分が、なんか恥ずかしい気持ちでいっぱい(恥)。

ばんえい競馬を催すためのレース場作りの大変さ。重いそりを引いたばんえい馬が、力をためて小山をのぼる場面こそがばんえい競馬の醍醐味。
雑草ボーボーの空き地を、馬術部のメンメンからヒーコラ言われながら整地し始める。もういくらなんでもムリ、と限界を感じ始めた頃、八軒君のためにと立ち上がった、ベーコンを美味しくいただいた仲間たちが集まるのにのには、ベタ中のベタだが、だからこそ待っていたベタ、待ってました!とやんやの喝さいを送りたいぐらいなんである。

八軒君にクールに当たりまくる、ガタイがガッチリデカい女の子が、だからこそ彼が本気に、本音で考えるきっかけをその都度与えてくれる存在でさ、彼がそうして自分の気持ちを素直に吐露することによって、彼女もまた、プロとして育ってきた彼女もまた、成長できたってことでさあ……。
そーゆーのも、めっちゃベタなんだけど、彼女の存在、ホントデカくて、ガタイもデカいけどそれ以上に(爆)。
ばんえい競馬のレース場を作り上げる助っ人に先頭切って駈けつけたのが彼女だし。「ベーコンの借りを返しに来た!」泣けるじゃないの!!

レース展開はね、それこそベタよ。馬の鼻先じゃなくてそりが全部入るまで勝負が判らない面白さがばんえい競馬。それをバッチリ使っての歓喜のゴール。
まあでも、このレースシーンはそこんところは少し弱かったかもしれないな。イタ車ならぬイタそりのデザインとか、友人のお嬢のキラキラデザインのそりとか、そーゆー笑わせポイントもいまいち微妙だったし……。
華嬢のセレブリティあふれる乗馬ファッションはメッチャ素敵だったけどね!

この学園祭の場に八軒君の両親が来ている。八軒君はためらっていたけれど、御影さんに後押しされて送ったベーコンが効いたと思われる。
でも二人は、てか父親の方が冷たさ、というかプライドの仮面を外さず、ここまで来たくせに息子には会わずに帰る。
そんな夫を、最初から息子を信じて送り出したに違いない母親は、含み笑いをして追いかける。いや、父親だって、ああは言ったけど信じていた、……かどうかはあの時点では判らないけど、豚丼のベーコンには打たれたに違いないのだ。
てーかあのベーコンに打たれないヤツは人間じゃない!!いやその……そういう経過を親たちに知らせたかどうかが判んないところがアレですけれど(爆)。
うーむ、そーゆーあたりが、尺が限られる映画の難しく、悔しいところだが、でもそれを判っての、演出であり構成であったと思うからさ!!

それで言ったら、「本当の気持ちを親にぶつけてみるから、御影さんも、馬の仕事をしたいって言いなよ」とゆー、一番のキモぐらいはとは思うが……。
まあでも、その場面、馬を売りに出される場面から親たちを排除して、八軒君の胸で泣きじゃくる御影さん、という画をキチンと用意してるからま、いっか!!

御影さんは見事ばんえい競馬のジョッキーとしてスタートを切り、それを八軒君と駒場君が見に来ている。八軒君がこれからどんな道に進むのか。先生に紹介してもらった仕事に一家住み込みで従事している駒場君もまた……。
全くの無力だった八軒君が、成長の末に、学園祭でばんえい競馬を実現するまでになったことを聞き、「何でもできる気がする」言った駒場君に、それまで涙を流していた母親の西田尚美は「私は幸せだわ」と笑顔を見せる。
ああ、西田尚美。近年はすっかり母親だが、それがまー、素敵だこと!!こんないい息子に恵まれちゃー、そりゃいいよね!!
てか、妹の双子がソックリすぎて(そりゃ双子だから)だって、動きとか表情もソックリで、シャイニングを思わせてコワイーッ!……年バレ過ぎ??

正直、ね、最初はテレビスポットで牛のお尻に腕を突っ込む場面とか、「動物のお医者さん」じゃーん、とか思う部分もあったのね。そりゃ動物を相手にするんだから重なる部分も色々あるんだけど、やっぱり……。
「経済動物」を相手にすること、家業、生活、ひいては日本の農業、酪農事情、という世界になる訳で、凄く深くて……。
でもあくまで本作は(原作がどこまで進んでるのかは知らんが)、導入部。だからこそ純粋で、いろんな思いに立ち返る。

校長先生役の上島竜兵が予想外に良くてね!なんたってタイトルの意味を主人公に授ける役でもあるんだもの。民が飢えることのないようにと、食堂の外に飾られた銀の匙。
でもそれ以上に彼の重要な意味は、何の夢も目的もなく入学してきたことに、同級生たちに比して落ち込んでいる八軒君に「夢がない、それはいいですね」とまるで屈託なく返したこと。
八軒君自身が、夢がなければ、何にでもなれるからと、駒場君を激励しに行く場面で自分なりの解釈をするけれど、本当に校長先生自身がそう思っていたのかどうかは、明らかにされないから判らない。
でもあの時、そう投げかけられた担任=中村獅童が笑みを浮かべて深く頷いたところを見ると、八軒君のそうした覚醒が、遠くないことを先生たちは気づいてて、待っていたのかもしれない。……!!!なんと!こんな先生に巡り合いたかった……。

コミックスは未読だが、主人公の八軒君=中島健人君含め、ビジュアルだけでもコミックス(てかオフィシャルサイトに示されてるイラスト)とソックリ。
ビックリなのはワイルド&セクシー&クールなフッキーまでもがソックリ。フッキーはもう一人いるが……八軒君のお父さん役のフッキーは、オフィシャルサイトにイラスト出てないから判んない(爆)。★★★★☆


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