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「い」


2024年鑑賞作品

家出レスラー
2024年 105分 日本 カラー
監督:ヨリコジュン 脚本:渡部辰城
撮影:音楽:
出演:平井杏 向後桃 レイザーラモンHG 中本大賀 ゆきぽよ 根岸愛 都丸紗也華 小坂井祐莉絵 平嶋夏海 KAIRI 羅月朱里 藤井マリー 有田哲平 古坂大魔王 レイザーラモンRG 浅越ゴエ 竹若元博 天山広吉 竹中直人 石野真子(声の出演)渡瀬結月 (声の出演)立石凛


2024/5/18/土 劇場(TOHOシネマズ錦糸町オリナス)
本作はひょっとして、岩谷麻優ファン、プロレスファンじゃない観客を想定してなかったりして……最近はそうしたコアファン向けに作られた作品でも決まったミニシアターだけとは限らず、短期間だったり昼間やレイト一回のみという限定の形ではあってもあちこちのシネコンにかかることがあるから。
それは観客のすそ野を広げるにはとてもいいことだし、まさにそこからあらたなプロレスファンを獲得するチャンスだってあるだろうと思う。だからこそ惜しい、もったいない。私のように、タイトルだけでふっと引っかかって面白そうと思った門外漢を連れて行ってほしい。

女の子好きだし、フェミニズム野郎としてはめちゃくちゃ好きなタイプのお話の筈。学校にも家にも行き場がなく、テレビで目にしたプロレスにくぎ付けになって家を飛び出した女の子がスターダムにのしあがる、だなんて。
しかもそこには一緒に頑張る仲間がいる、だなんて。めちゃくちゃ好きなお話に違いないのだけれどなぁ。

私のようなバカにとってもっとものネックは、数人しかいない同期生の顔と名前とキャラが判らないままに過ぎ去ってしまうことであった。岩谷麻優という現在進行形で活躍しているレスラーの半生を描く本作は、その半生だけでも押さえておくポイントが多いんだろうけれど、そのスタートとなる、最初の仲間たちである一期生、プラス何人かの後輩たちは重要な筈なのだけれど……。
さらさらと経歴も紹介はされるけれど、キャラというか性格も今一つ抑えられないまま、あっという間に所属事務所の経済危機が押し寄せて、いなくなってしまう。

でもある程度それはしょうがない。前半部分は、ルームメイト、東子との友情物語がメインに据えられ、知名度のあるゆきぽよ氏がキャスティングされているんだから、そこを見どころにせざるを得ない部分はあるだろうと思う。
本作は基本、試合シーンはかなりカットを割っていて、レスラー役の役者さんたちのリアルファイトという感じはそんなにはない。プロレス自体がショー的要素が少なからずあるのだからそれはそれでいいとは思うけれど、前半部分の、ちょっとした客寄せキャストであるゆきぽよ氏の試合シーンにまずそれを強く感じてしまったのが、やっぱりそうなんだ……と思わせてしまった感は否めないかもしれない。

クライマックスの、マユのライバルとしてヒールレスラーをクールに演じる羅月との試合が、リアルファイトに感じるほどの迫力があっただけに、余計である。羅月を演じる朱里氏が実際のレスラーであると知ると、やはり差はそこにあるのかなぁとも思ったり。
いや、そもそも、マユも東子もまだまだ駆け出しのレスラーで、感情の制御もできなくって、東子はそれで、レスラーを辞めていった。彼女もまたマユと同じように、ここにしか居場所がなかったのに。
という……ペーペーの頃の彼女たちは、試合運びも、いやそもそもメイクやコスチュームも安っぽくて若くて、それは彼女たちを擁してスタートしたばかりのこの団体、スターダムの船出そのものでもあったのだった。

そもそものマユの出だしである。教室で一人、ノートに落書きをしている。一人ではいるけれど、友達がいないとか孤独とかいう感じには見えなかった。
その帰り道に「レイプされかけた」んであった。その描写が描かれることもないし、傷だらけで帰ってきた娘に、またあんたは、みたいに母親が嘆息し、そっからマユは引きこもり生活に入る。

これは……どうとらえればいいんだろう。されかけってのが、されかけなのか、挿入はされなかったってことなのか。イヤな言い方だけど、外出しであったって挿入されてたら検査はしなくちゃと思う。すみません、フェミニズム野郎なもんで……女の子を守りたいもんで……。
そこまで行ってなくても、警察には届けなくちゃいけない。それを、親は絶対にくみ取って、そうしなくちゃいけない。でもこの母親はそうしなかった。レイプされかけたことさえ娘に言わさず、常に優秀なお兄ちゃんを優先する言動をし、蔑み続けるんである。

母子家庭らしいというのは見て取れるし、長男を溺愛する母親というのは世の中で割と聞くから、このケースが特に不思議と思う訳じゃない。だからこそお兄ちゃんが妹にきっかけを与えてくれたと思ったのだから。
なのに最後の最後に、プロレスのチケットを手配したのは母親だったとか言う。それは、マユがテレビのプロレス中継に夢中になっていたのに気づいていたからなのだろうが、だったらなぜ、プロレス団体に飛び込んだ娘に、騙されてるだとか、あんたなんかどうせムリだとか、いつものようにヒドいことを言ったのか。チケットを手配したという事実だけで、この母親を許す流れになるのが意味判んないし、演じる石野真子氏もどう思っていたのかさぁ。

そもそもあの、衝撃のレイプされかけたってことをまるでその後触れずにスルーするのはどういうことなの。それは、ワールドワイドな活動にスカウトしてきた怪しげなアリペイ氏が後をつけてきたところにかつての記憶が読みがえる、てなところだけに紐づけた訳じゃないでしょ。
こんなセンシティヴな要素を惹きに持って来ておいてその後スルーとは、フェミニズム野郎としては、許さんぜよ!!

東子が後輩レスラーに挑発されて相手をボッコボコにし、それが世間で騒がれてしまったことで、スターダムは窮地に陥る。こういうことがなければ、いわばアンダーグラウンドカルチャーであるプロレスは注目されることがないという皮肉を描いたのかもしれないと思う。
一期生たちを鬼の形相で訓練したゼネラルマネージャーの流香は、マユが憧れて入った元レスラーだった。彼女は一期生たちの試合を涙を流しながら見守るのだが、そもそもこの冒頭シークエンスで、そんなにいきなり泣かれても同調できないなぁ……と感じてしまったことが、最初からミソがついたかなと思ったんであった。

かなりの豪華メンバー揃ってるのよ。オーナーは竹中直人、レフェリーにHG、熱狂的ファンにRG、浅越ゴエ、バッファロー吾郎の竹若元博、スターダムのスポンサーに有田哲平、スカウトマンに小坂大魔王。こうして書き連ねてみると、アリペイはじめきっとプロレスファンたちなんだろうなというのが判り、コアファンに向けて上映ならばとも思い、でもだからこそ、先述したように、そうじゃない人たちを取り込むチャンスもあったのに、と思う。
マユが妄想する、東子がからかうところのマユランドはヘタウマなアニメーションで描かれる。ヘタウマなウマさである。このアニメーションに最も力が割かれている印象なんである。可愛いけど、力を割くのならば、訓練シーンであり、試合シーンであったように思う。まぁでもいいのか。羅月とのファイトはカッコ良かったのだから。

でもそれ以外は、という気がしている。そもそもマユの、引きこもりからこの生きるべき場所に導かれたありがたさははたして、感じられたのかなぁと思う。涙ながらに必死のアピールでギリギリプロテストに合格したけれど、正直あれも、東子からのアドバイスで、技術じゃ合格できないんだから、というキャラ勝ちなだけに見えちゃったし、その後は練習嫌いでグッズ販売が得意というポンコツレスラーとして、いわば判官びいきのファンたちから愛さる存在として描かれる。

いくら努力しても、プロレスを愛している先輩には勝てない、と語る羅月とのクライマックスバトルは感動的だけれど、だったらそれを、観客側が納得できたかと言ったらどうかと思う。
プロレスを愛しているから、練習が嫌いでも、ファンに愛されて、引きこもりの生活からも脱することができる、人生諦めちゃダメだよ!!みたいな、めっちゃうっすいメッセージに見えてしまうのが怖い。

だって絶対、本人は、本当の岩谷麻優選手は、めちゃくちゃ苦労してここまでたどり着いた筈なんだから。たどった道筋はなんとなく本作のとおりかもしれないけれど、絶対こんなんじゃないでしょ、と思っちゃうのは外野の勝手な思い込みなのだろうか??
少なくとも、母親との関係性はこれはあまりにテキトーすぎるでしょ、と思った。お兄ちゃんが言う通り、マユの人生を変えたプロレス観戦チケットを母親が用意したにしたって、娘に対する暴言は絶対に許せないんだもの。チケットを取る以前に、娘を愛しているという行動を示せよ!と思っちゃう。
テレビでプロレスに出会った時点で、娘はもう運命に出会っているんだから、実際にプロレスを見させたのは私よだなんていうので証拠をとろうとするだなんて、そっちの方が許せない。

クラッシュギャルズで私の女子プロ記憶は止まってるもんだから(爆)、そりゃぁ今の女子が心ときめくであろうカッコ可愛い、カラフルでセクシーでパワフルなコスチュームに胸躍った。
何度も言うけど、あれだけ罵詈雑言のお母さんを、心配していたんだから、とお兄ちゃんが妹に引き合わせるのは、そりゃないよと思うのは、冷たすぎるかなぁ??★★☆☆☆


言えない秘密
2024年 114分 日本 カラー
監督:河合勇人 脚本:松田沙也
撮影:足立真仁 音楽:富貴晴美
出演:京本大我 古川琴音 横田真悠 三浦?太 坂口涼太郎 皆川猿時 西田尚美 尾美としのり

2024/7/8/月 劇場(TOHOシネマズ日比谷)
正直これはちょっとないかなぁと思いながら観ていたものの、オリジナルだと思っていたのが実は原案が2007年の台湾映画だと知ると、なかなか言いづらくなる。
台湾映画、それもこの2000年代あたりの台湾映画は私もちょこちょこと観ていた記憶があり、確かにこういう切ないファンタジーラブストーリーがしっくりきそうなのだよな……とか思って、えっ、ちょっと待って、ひょっとして……と思って自分のサイトを見直したら、私、当時、この台湾版観ていた(爆)。
うっわ、ショック。全然思い出さなかった!自分の感想文を読み返しても、こ、こんな映画あったかしらんと(爆)。でもだからこそ、こんな具合に忘れちゃうからこそ、ネタバレオチバレかまわずに書き留めているんだからっ(超言い訳……)。

原案、なるほど原案なのだった。原作、ではない。結構詳細なエピソードや場面まで踏襲しているけれど、決定的なところが違う。こんな書き出しにしちゃったからもう言っちゃっていいよね、というか言わなきゃ始まらんのだけれど、ヒロインが死んでるか死んでないかの違い。
20年前からのタイムリープはそうなんだけれど、原案の台湾作品の方は、過去というより別次元に飛ばされてしまったという雰囲気。自分の感想文を読み返しても覚えてないもんだから(爆)衝撃だったんだけれど、20年前から来ていた彼女はラストシークエンスの時点ではどの次元にいるのか判らず、それを彼が決死の思いで探しに行くためにピアノを弾く、そしてどうやら、その結末は明確に描かれてなかったのだよね(当時の私の感想文によると(爆))。

17年後に日本で作られた本作は、そのあたりはしっかりと現実的に、今の時間軸で彼女は死んでいる、その事実は曲げられないから、彼が20年前に飛んで行ったって当然、救える訳がない、その場面を苦しく切ないラストシーンに持ってくることで、確かにきっちりと締めたとは思うのだけれど……。

まぁ結局覚えてなかったんだから(爆)、比較して書くべきでもないしな。とか言いながらきっとちょいちょい比較しちゃうんだろうけど、許してくれ(爆)。
物語の始まりは、湊人(京本大我)が留学から帰ってきたところから始まる。ちょっとだけ回想、というよりトラウマ的フラッシュバックで差し挿まれる、高圧的な教師の否定に屈してしまった彼は、もうピアノを辞めようと思っていた。

幼なじみでひそかに彼を愛しているひかり(横田真悠)をよそに、湊人は取り壊される予定の旧校舎から聞こえてくるピアノの調べに心惹かれる。
そこで出会った雪乃(古川琴音)は明るくチャーミングながらどこか謎めいていて、なかなか名前も教えてくれないし、スマホは壊れたままだというし、その時弾いていた曲も、「秘密」と耳元で囁いたり、するのだった。

こう書いてみると、なかなかにファムファタル、女子的には嫌われそうなキャラなのだが、そこは本当にチャーミングな古川琴音氏の魅力でそうはならない。
ならないが、湊人との恋の進展がなんつーか、半世紀前の少女漫画でもなかなかという感じというか、海岸に分け入って水をかけあってはしゃぐ段に至っては、見てるだけでハズかしくて、やめてくれよと思っちまうのは、年老いちまった哀しみに、なのだろうか……??

原案の作品を観たことを忘れ去っているのでアレなんだけど、その原案の作品を観た時も、そして本作も、かなり早い段階で、彼女は幽霊なんじゃないの?と思っていたのだった。
原案作品の方はそうとも言い切れなかったし、本作も幽霊という訳ではなかったけれど、でも、20年前に亡くなっている、ということは事実として示されるから、その点は明確なのだった。

幽霊ではないけれど実は猫だったとか、スマホを持っていなくても会いたいと思っていれば会えるとか、近年のあれこれの映画を思い出すのだが、それ等の作品がことごとく私、あまり好きではなくて(爆)、その好きではない要素が、本作もまた、そうなんだよなぁと思ったりしてしまう。
スマホを持ってなくて連絡が取れない女の子は、大抵死んじゃうのかとか思ってしまったり(すいません、言い過ぎました……)。自分の思うようにならない、アナログな彼女に切ない愛情を募らせる男子という図式は、ひねくれたフェミニズム野郎のおばさんにはちょいと気になるところかも。

そして、家族構成に関してもね……。湊人はカフェを営む父親と二人暮らしだが、単身赴任をしている仕事人間だという母親の存在は示されている。雪乃の方は、今の時間軸では雪乃はもう鬼籍に入っており、母親は娘の菩提を弔いながらの一人暮らし。
……そのどちらも、なんかしっくりこない。まず、湊人の母親が、仕事人間で単身赴任だという設定まで付されているのなら、その母親に対してどういう感情なのか、尊敬しているのか、嫌っているのか、何かある筈なのに、まったく、ないんだよね。父親も、湊人も、妻であり母であるその人が、まるで死んじゃっているかのように、遠く、薄く、認識しているだけ。

父親は趣味の延長線上のような、慎ましいライブが出来るような音楽カフェを営んでいるが、もう見るからに稼げてない雰囲気だし、お金のかかる音大に湊人が通えている、しかも留学まで出来ているのは母親の稼ぎ故だろうに、「母親は音楽に全く関心がなかった」と湊人は言い、でもだからといって、母親に対する確執がある感じでもない。
てゆーか、無関心。湊人側からも、父親側からも。それは愛情のなさというより、キャラクターの書き込み不足としか思えない。父親を演じる尾美としのり氏は、奥さんであり湊人の母親である彼女のことをなんとか降臨させようとする芝居をしてくれるけれど、ストーリー上ほぼ亡き者、湊人を産んだというただそれだけなんだから、ムリがあるのだ。

そして雪乃の方も。母親と二人暮らしだったんだろうが、その経過は全く明らかにされない。いや、今やさ、そんな、家庭の事情とか、片親とか、そんなんヤボっつーか、あらゆるパターンがあるんだからいいんだけれど、でも、今、じゃないんだもんね。20年前。しかも音大生。
それなりに金もかかるし、雪乃は、今の湊人と同じく学内でもピカイチの才能があるピアニストとして嘱望されていた存在だったんだから、家庭の、親の事情をすっ飛ばすのは結構ムリがあるってなもんである。

雪乃の母親を演じているのが西田尚美氏で、いくつになってもキュートな彼女が、わざとらしい白髪まじりのぼさぼさ頭オバサンに封じ込められているのもなんか気に入らないんである。
言っちゃいかんが、そもそもの原案作品、そこでは、娘は、どこかの次元に飛ばされたままの行方不明、意気消沈したまま20年の時を過ごしたぼさぼさのオバサンてのはそれだけの理由があるのさ。だけど本作では、娘は亡くなっている。そこから20年経っている。そりゃショックだったろうけれど、20年間もあんな意気消沈ボサボサオバサンでしかいられないなんて、女をバカにすんなと言いたくなる。
そもそもあんな豪邸に、どこか狂気じみている彼女自身がまともに働いている雰囲気もないし、配偶者もいなくて、娘が亡くなって20年、ずっとボーゼンとしているだなんて、ちょっとなぁと思っちゃう。

で、先述したけど、結構早い段階で、幽霊ちゃうん、と思っていたのであった。原案である台湾作品でもそうだったんだけれど、結果的に、半ば合っていたけれど、半ば外れていた。
雪乃が湊人としかコミュニケーションをとっていないっぽいから、確信はあった。でもひかりと会話したり、音楽教師に見つけられたりした場面があったから、自信が持てずにはいたけれど、それも、きっと謎解きのような形で解決できるんだろうと思ったし、実際そうであった。
日々タイムリープしたタイミングで、雪乃は最初に目が合った人が自分を認識するのだというルールを知り、必ず湊人と目が合うようにと、旧校舎のピアノ室から外に出るまでの108歩を、目を手でふさいで、歩いていく術をあみだしたのだ。

その秘密が示されるのは、最後の最後である。中盤までは、湊人と雪乃の、もうめっちゃ照れちゃう、ほっぺたが赤くなるような、青春の恋物語が紡がれる。せいぜいキスで終わっちゃうような。そんなヤボなことを思っちゃうから私、ダメなんである(爆)。
でもさ、20年前の女の子……だとしても、20年前のこの年頃の女の子は、私より年下だから(爆)、更に、ないわなぁと思っちゃう。そもそも、カップルの女子の方が難病で若くして死んじゃう話が、私キライなのだ。大抵女子じゃん。男子が死ぬ話の割合が圧倒的に少ないのが、納得いかん!美しく可愛い年のうちに女の子は死ぬべきと思ってるんちゃうん!!

……またまたフェミニズム野郎が発動してもうた……。でね、これは読み返して思い出したんだけれど、ピュアラブストーリーに見えて結構ホラーだと。ラストのクライマックスで、湊人が死にゆく雪乃を追って取り壊し寸前の旧校舎に駆けつけ、秘密の曲を弾くシーン、古ぼけた楽譜に雪乃の震える筆跡の字が浮かび上がる、のは、原案作品でもあったんだね。そして、その時も、私、こ、こえー、と思ったんであった。
むしろその前、几帳面に記された雪乃の日記、それこそ死の直前まで綴られた日記の文字が、まるで日ペンの美子ちゃんばりにきっちりしていたのが興ざめだったんだけれど、そことのギャップをはかるためだったのかと思ったり……まぁだとしたらギョッとしたから成功だったのかもしれんけど。

この不思議な曲、古ぼけた、手書きの楽譜。弾くスピードによって時間を旅する曲、その楽譜こそが、本作の主人公であったように思う。
音楽大学が舞台の本作は、学生同士のピアノバトルとか、クリスマスパーティーでのバンド演奏やダンスパーティー、学内のピアノコンクールなどなど、音大ならではの青春イベントが盛りだくさんで、そのすべてに、二人の思い出と、そして、雪乃が誰にも見えていない哀しいミステリがあって。
正直、それこそさ、2000年代ならと思わせるような、学生のワチャワチャ感やファッションも微妙で、原案作品を引きずっているのかなぁとか思ったり。

正直、一番キツかったのは、甘美な音楽が流れっぱなし、言ってしまえば垂れ流し、なことだった。音楽をテーマにした作品なんだから、音楽が鳴り響くのは判ってる。湊人と雪乃がクリエイティブな連弾をするシーンはワクワクしたし。
でも、もう感動しろと言わんばかりの、一秒も鳴りやまない甘美な音楽流れっぱなしには、年のせいかもしれんが、疲れちゃって。自分の感覚で物語を受け止めさせてと思ってしまった。それこそ音楽の誘導の圧がなければ、素直に泣けたかもなぁと思う場面もあったり、したかなぁ。★★☆☆☆


違国日記
2024年 139分 日本 カラー
監督:瀬田なつき 脚本:瀬田なつき
撮影:四宮秀俊 音楽:高木正勝
出演:新垣結衣 早瀬憩 夏帆 小宮山莉渚 中村優子 伊礼姫奈 滝澤エリカ 染谷将 銀粉 瀬戸康史

2024/6/12/水 劇場(TOHOシネマズ錦糸町オリナス)
「正欲」に続いて、重く抑えた難しいキャラクターを任される新垣結衣氏、彼女のチャーミングな笑顔が封印されるのはもったいない気がどうしてもしてしまうけれど、キャリアを重ねてきた俳優として、そういう年代に突入したということなのだろう。
本作はダブル主演、でいいんだよね。姪っ子、朝役の早瀬憩氏との。目の前で両親を事故で亡くしたという超絶重たいオープニングを任される朝だけれど、もちろんその記憶を重たく抱えてはいるものの、槙生との同居、新しい高校生活、その中で見つけていく友人や様々な価値観が、彼女の天真爛漫さがまさにキラキラ輝くようで、暗く引きこもっていた槙生を眩しく照らしていく。

槙生は朝の母親である自分の姉が大嫌いだという。そのせいで、姪っ子ともほぼ初対面。姉とは疎遠だけれど母親とは不思議とコンタクトをとっている。
ラストシークエンスで、仲の悪い自分の子供たちを、その間に立って見守ってきた母親の、おだやかながら肝が据わったどーんとしたオーラを見せつけられていろんな感情が渦巻いた。
ああ、母親って凄いな、と思い、だったら朝の母親であった槙生の姉はどうだったんだろう、こんなにまでも妹に嫌われている彼女は、と思う。

見えない部分がすんごく多くて、それが本作の特徴であり、観客それぞれの中に違った物語が産まれるのだろうと思う。原作であるコミックスはどうなのか気になる。
当然、映画の尺に比べて描かれる要素は多いだろうけれど、その中から何をどうチョイスするかによって、映画となった本作の、つまり脚本も担った監督さんの一つの答えがあるんだろうと思う。

槙生がなぜそんなにまで姉を嫌っていたのかは、朝から問いただされても槙生は決して口を割らないんだけれど、次第に、ラストシークエンスではほんのちょっと、自分を完全否定していた姉の言動を漏らすことにはなる。
ただそれが、絶縁状態になるまでに、絶対に許せないまでに、死んでもその気持ちはみじんも揺るがないまでに、観客側に納得させるまでのことは……回想シーンがある訳でもなく、なんたって槙生が語りたがらないのだから、なかなか難しいのだ。

一方の、朝である。普通に、両親に愛されて育った娘ちゃんだったのだろうと、思っていたし、最終的にはその感覚はそれほど変わらない。ただ、高校に進学して軽音部に入るとか、音楽を製作できる高いパソコンを買うとかいうことが、お母さんだったら反対しただろうから、ということが見え隠れして、そこには槙生がくらっていた種類と同じ、自分の思い通り、自分の支配下に起きたがる高圧さを感じなくもないのだ。
でも、なんたってもう死んでしまったし、やはり回想シーンがある訳ではない。朝が何度もお母さんの幻影を見るのは、大好きなお母さんに会いたいに違いないからだとは思う。それは確実にそうは思うんだけれど……。

そして、お父さんの影が皆無なのも気になる。冒頭のシーン、ショッピングモールで家族三人で買い物に来ていたとおぼしき駐車場、楽し気な朝の表情から、仲の良い家族に見えた。なのにその後、朝が思い出すのはお母さんのことばかり。それは勿論、槙生との関係があるからなんだけれど……。
ごくごく平凡な、現代日本の家族に見えたのが、籍を入れず、夫婦別姓で事実婚だったことが、凄く凄く意味があったと思うのに、少なくとも映画では明らかにされず、しかもお父さんの影は皆無なもんだから、何何何―!!と思ってしまう。
葬式の席で口さがない親戚たちは、姉妹揃って自由気まま、だなどとささやく。一方はただ事実婚、一方はただ、独身なだけ。それぞれしっかりと人生を営んでいたのに、ああでも、確かにまだにこの日本はそうなのだった。

でも、やっぱり、気になるなぁ、お父さんの影のなさすぎが、なんかむしろちょっとホラーな気までしちゃって。
まぁそれはおいとこう。そんな親戚連中の口さがなさにイラついて、勢いで朝を引き取ることにした槙生である。少女小説家という肩書は、コバルト文庫で育った世代には妙に懐かしい。

これまた勢いで買ったマンションの中はぐっちゃらこんで、大人はみんな片付けられるんだと思った……と呆然とする朝に何も言えない槙生である。
朝にとって槙生は、いい意味で、不完全な大人、なのだった。そりゃそうだ、確かに朝の年頃、中学生から高校生なるぐらいの年頃にとっての相対する大人は、親と、学校や塾の先生しかいなかった。

大人の友達同士のじゃれ合いを見て目を丸くする朝。これもまた、自身のその年代の頃を考えたら、判るなぁ。その年代の頃は、私はそうした大人たちに出会えなかったから、今はそこの垣根は低くなっている感じはあるけど、でも、やっぱり基本的には、大人は大人、なんだよね。
高校生の朝にとって、親世代の大人たち、でも自分の親でもなく教師でもない槙生やその友人、元カレとの関係が、興味津々なのはそりゃそうだって!

加えて朝は、特に高校に進学してから、様々な価値観に出会っていく。中学までは、まぁ卒業式だけしか描かれなかったし、その卒業式は……事故のことが教師のジコマンによって知れ渡ってしまってサイアクだった。
朝の気持ちは判るけれど、ジコマンであったとしたって、でも朝のことを心配していたのは本当なのだと、大人になっちまったから大人を弁護しちまうのはそうなんだけれど、でも、大人になれば、判るのだもの。

そのネタばらしの発端となった親友を許せなくて、ずっと謝ってきていたのに無視し続けて、でもそれが気になって仕方なくて、っていうのを槙生が見て取って、ちょっと挑発するように煽りつつ、本当に気の合う友達を失うの?ってことを、さ。
先述した、朝が遭遇する大人の友達、槙生にあれこれ相談に乗ってくれる奈々(夏帆)はまさに中学時代以来の親友であり、槙生はだからこそ、朝に大事な存在を失ってほしくなかったのだと思う。こんなにも、諦めずに、真摯に連絡をとってきてくれるえみりが、自分にとっての奈々のような存在なのだろうと、確信したのだろうと思う。

えみりは高校に入ってから、ちょっと朝によそよそしい態度をとる場面があったりするので、観客側もヒヤリとするのだけれど、その種明かしは、彼女は同性愛者であり、女の子と付き合っていることを、体育館に朝を呼び出して告白することで明らかになるんである。
朝が、槙生に対するように、あっけらかんとコイバナを要求した時、えみりがとった言動に対して、そうか、そうだったのかと、答え合わせが出来るのだった。だったら自分に対しての感情は、と朝が躊躇するのにえみりが、サイアク!!と怒るのも、すんごく腑に落ちた。

私たち昭和世代にはなかった、なかった、というか、きっと言えずにいたいろいろが、こんな風に、少しずつ、構築されている。
新入生の中に、肌の色が濃い女の子がいて、少しも不自然なこともなく笑い合い、部活はどれに入るかと検討しあう。そしてその子は、いち早くカレカノ状態になり、朝をキャーッ!と興奮させるのだ。
ようやく、こんな当たり前のことが、当たり前に映画という創作物の中にも描かれるようになった。むしろそれよりも、セクシャルマイノリティの方が、こんな若い子たちにも、フィルターがかかっているっていうのが、この日本という国なのかなぁ、って。

朝を引き取るに当たり、養子縁組ではなく、後見人としての手続きをとる、というあたりも新鮮である。槙生はあくまで、朝に対して、姪と叔母ではあるけれど、他人同士であるというスタンスを大事にする。
それは、冷たいというんじゃなくて、むしろ逆。違う人間なんだから、というのが、槙生の大切な価値観なのだ。むしろ彼女はこの価値観によって、なんとか自分を支えてこれていたんじゃないかとさえ、思う。

死んでもなお許せないぐらい大嫌いな姉。でも違う人間なんだから、嫌いとしてしまえば、関係ない人間だとして済ませられる。血のつながりが、あらゆる悪夢を引き寄せる。
姉に対して槙生は、その悪夢は断ち切れなかったし、違う人間なんだから、そう断じてしまえば、良かったのだ。関係を断ってしまえばよかったんだから。なのに、姉は娘の朝に、妹のことを槙生ちゃん、と、小説家なのだと、語っていたのだった。

凡百の浪花節ベタ話ならば、実はお姉ちゃんは妹のことが自慢で、娘に語って聞かせていたのだと、いうことになるんだろう。そういう解釈で引っ張ることもできただろう。朝の方はそうした認識でいたのかもしれないと思う。
でも、槙生がその事実に驚きながらも、姉への憎悪が一ミリもゆるがないことで、観客側も、お姉ちゃん、そんな単純に妹の憎しみは揺るがないのに、娘に対してはええかっこしいしたかったんじゃないの……とか意識が変換してしまうことに、ちょっと怖気づいてしまうんである。

誰の、どの時点の、どの感情に視点を置くかで、まったく価値観も、物語も、変わってしまう。本作は、オープニングで死んじゃって、回想シーンも全くなく、槙生と朝、少しだけ槙生のお母さん側の視点から語られるお姉ちゃん像は、まったく焦点を結ばない。
ラショーモナイズにさえならない、だってつまり、それはそこまで重要じゃないから、なのか。槙生と朝がつむぐ関係性の、いわばきっかけになるに過ぎない、二人の関係は、二人だけのもの、ということなのか。

朝が来なければ、つまり、言ってしまえば朝の両親が亡くならなければ、朝と槙生は一緒に生活するどころか、顔を合わすこともなかったかもしれない。
いわゆる社会人としてのきっちりしたことが苦手な槙生は、朝を迎え入れるにあたって、元カレに連絡をとることになり、好き合っていたのに別れてしまった彼と、イイ感じになってきたりする。
そして、第三者としての後見監督人の弁護士を入れることによって、充分に大人として、自立して生活してきた槙生が、また違うフィールドに足を踏み入れる。弁護士におカネの動きを確認されるだなんて。お金の動きによって、朝の行動心理が判るだなんて、そんなことは、これまで、槙生の、……姉に対する憎悪はあったにしても、自由だけれどいわば幼稚な人生の中にはなかったことだろう。

私だって独身女だし、子供を育てている親御さんたちに無条件に尊敬の念である。そういう意味では、槙生側ではあるんだけれど、私は姉を尊敬しているし、幼い頃から姪っ子を溺愛しているし、全然、この条件には当てはまらない、んだけど、だけど、……判る気がする部分は、ある、気がする。
姪っ子にとって当然ながら親が絶対的存在で、私は親戚であり、その中でも近しい叔母ではあるけど、もっとくだけた、なんていうのかな……公式に頼れる立場ではあるけれど、カジュアルっつーか、言ってしまえばテキトーな、遊びに行ける、おごってもらえる、端的にいえば、小鳥がちょっとひと休み、エサも出るし、巣ごもりできるような、そんな場所なのかなって。
その超絶理想形が本作の中にあって。……こういう感覚ってさ、ひと昔、いや、ふた昔、それ以上前だな、その時には、なかったと、思う。やっぱりやっぱり、家族形態が絶対だったから。凄くそれに苦しめられている人たちが大勢いたから。

クラスメイトの優秀な女子が、いまだ立ちはだかる男子優先の悲劇に打ちのめされ、彼女に朝が寄り添ったり、軽音部のこれまたカリスマ女子が朝をツインボーカルに抜擢し、校内ライブを開催したりする。なんなのと思うぐらい、エモエモな高校生活。
歌が好きで、歌いたかったけど、言い出せずにいて悶々としていた朝が、ついに思い切って、ステージに立つ。それをえみりの中継で槙生はライブで見守るんである。優秀女子も見守ってる。朝は気づいて、彼女にピースサインを送る。彼女もまた送り返す。めっちゃ、イイ!!

悲劇を受けた子供が、それでも、その悲劇だけに打ちのめされないで、日々を送る描写にいつも、「マイライフ・アズ・ア・ドッグ」を思い出してしまう。目の前で親が死んでしまって、めちゃくちゃ傷ついているけれど、でも、若い魂は一方で、並行して、矛盾なくキラキラ生きていく。
まさに、朝が、そうだった。槙生はそんなキラキラを目の当たりにして、封印してきた思いをその掌に取り出すことで、愛せるかどうか不安だった朝を、そんなことじゃなくて、おなじ世界線で生きている同士として、とらえ直したのかもしれない。★★★★☆


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