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家出レスラー
2024年 105分 日本 カラー
監督:ヨリコジュン 脚本:渡部辰城
撮影:音楽:
出演:平井杏 向後桃 レイザーラモンHG 中本大賀 ゆきぽよ 根岸愛 都丸紗也華 小坂井祐莉絵 平嶋夏海 KAIRI 羅月朱里 藤井マリー 有田哲平 古坂大魔王 レイザーラモンRG 浅越ゴエ 竹若元博 天山広吉 竹中直人 石野真子(声の出演)渡瀬結月
(声の出演)立石凛
女の子好きだし、フェミニズム野郎としてはめちゃくちゃ好きなタイプのお話の筈。学校にも家にも行き場がなく、テレビで目にしたプロレスにくぎ付けになって家を飛び出した女の子がスターダムにのしあがる、だなんて。
しかもそこには一緒に頑張る仲間がいる、だなんて。めちゃくちゃ好きなお話に違いないのだけれどなぁ。
私のようなバカにとってもっとものネックは、数人しかいない同期生の顔と名前とキャラが判らないままに過ぎ去ってしまうことであった。岩谷麻優という現在進行形で活躍しているレスラーの半生を描く本作は、その半生だけでも押さえておくポイントが多いんだろうけれど、そのスタートとなる、最初の仲間たちである一期生、プラス何人かの後輩たちは重要な筈なのだけれど……。
さらさらと経歴も紹介はされるけれど、キャラというか性格も今一つ抑えられないまま、あっという間に所属事務所の経済危機が押し寄せて、いなくなってしまう。
でもある程度それはしょうがない。前半部分は、ルームメイト、東子との友情物語がメインに据えられ、知名度のあるゆきぽよ氏がキャスティングされているんだから、そこを見どころにせざるを得ない部分はあるだろうと思う。
本作は基本、試合シーンはかなりカットを割っていて、レスラー役の役者さんたちのリアルファイトという感じはそんなにはない。プロレス自体がショー的要素が少なからずあるのだからそれはそれでいいとは思うけれど、前半部分の、ちょっとした客寄せキャストであるゆきぽよ氏の試合シーンにまずそれを強く感じてしまったのが、やっぱりそうなんだ……と思わせてしまった感は否めないかもしれない。
クライマックスの、マユのライバルとしてヒールレスラーをクールに演じる羅月との試合が、リアルファイトに感じるほどの迫力があっただけに、余計である。羅月を演じる朱里氏が実際のレスラーであると知ると、やはり差はそこにあるのかなぁとも思ったり。
いや、そもそも、マユも東子もまだまだ駆け出しのレスラーで、感情の制御もできなくって、東子はそれで、レスラーを辞めていった。彼女もまたマユと同じように、ここにしか居場所がなかったのに。
という……ペーペーの頃の彼女たちは、試合運びも、いやそもそもメイクやコスチュームも安っぽくて若くて、それは彼女たちを擁してスタートしたばかりのこの団体、スターダムの船出そのものでもあったのだった。
そもそものマユの出だしである。教室で一人、ノートに落書きをしている。一人ではいるけれど、友達がいないとか孤独とかいう感じには見えなかった。
その帰り道に「レイプされかけた」んであった。その描写が描かれることもないし、傷だらけで帰ってきた娘に、またあんたは、みたいに母親が嘆息し、そっからマユは引きこもり生活に入る。
これは……どうとらえればいいんだろう。されかけってのが、されかけなのか、挿入はされなかったってことなのか。イヤな言い方だけど、外出しであったって挿入されてたら検査はしなくちゃと思う。すみません、フェミニズム野郎なもんで……女の子を守りたいもんで……。
そこまで行ってなくても、警察には届けなくちゃいけない。それを、親は絶対にくみ取って、そうしなくちゃいけない。でもこの母親はそうしなかった。レイプされかけたことさえ娘に言わさず、常に優秀なお兄ちゃんを優先する言動をし、蔑み続けるんである。
母子家庭らしいというのは見て取れるし、長男を溺愛する母親というのは世の中で割と聞くから、このケースが特に不思議と思う訳じゃない。だからこそお兄ちゃんが妹にきっかけを与えてくれたと思ったのだから。
なのに最後の最後に、プロレスのチケットを手配したのは母親だったとか言う。それは、マユがテレビのプロレス中継に夢中になっていたのに気づいていたからなのだろうが、だったらなぜ、プロレス団体に飛び込んだ娘に、騙されてるだとか、あんたなんかどうせムリだとか、いつものようにヒドいことを言ったのか。チケットを手配したという事実だけで、この母親を許す流れになるのが意味判んないし、演じる石野真子氏もどう思っていたのかさぁ。
そもそもあの、衝撃のレイプされかけたってことをまるでその後触れずにスルーするのはどういうことなの。それは、ワールドワイドな活動にスカウトしてきた怪しげなアリペイ氏が後をつけてきたところにかつての記憶が読みがえる、てなところだけに紐づけた訳じゃないでしょ。
こんなセンシティヴな要素を惹きに持って来ておいてその後スルーとは、フェミニズム野郎としては、許さんぜよ!!
東子が後輩レスラーに挑発されて相手をボッコボコにし、それが世間で騒がれてしまったことで、スターダムは窮地に陥る。こういうことがなければ、いわばアンダーグラウンドカルチャーであるプロレスは注目されることがないという皮肉を描いたのかもしれないと思う。
一期生たちを鬼の形相で訓練したゼネラルマネージャーの流香は、マユが憧れて入った元レスラーだった。彼女は一期生たちの試合を涙を流しながら見守るのだが、そもそもこの冒頭シークエンスで、そんなにいきなり泣かれても同調できないなぁ……と感じてしまったことが、最初からミソがついたかなと思ったんであった。
かなりの豪華メンバー揃ってるのよ。オーナーは竹中直人、レフェリーにHG、熱狂的ファンにRG、浅越ゴエ、バッファロー吾郎の竹若元博、スターダムのスポンサーに有田哲平、スカウトマンに小坂大魔王。こうして書き連ねてみると、アリペイはじめきっとプロレスファンたちなんだろうなというのが判り、コアファンに向けて上映ならばとも思い、でもだからこそ、先述したように、そうじゃない人たちを取り込むチャンスもあったのに、と思う。
マユが妄想する、東子がからかうところのマユランドはヘタウマなアニメーションで描かれる。ヘタウマなウマさである。このアニメーションに最も力が割かれている印象なんである。可愛いけど、力を割くのならば、訓練シーンであり、試合シーンであったように思う。まぁでもいいのか。羅月とのファイトはカッコ良かったのだから。
でもそれ以外は、という気がしている。そもそもマユの、引きこもりからこの生きるべき場所に導かれたありがたさははたして、感じられたのかなぁと思う。涙ながらに必死のアピールでギリギリプロテストに合格したけれど、正直あれも、東子からのアドバイスで、技術じゃ合格できないんだから、というキャラ勝ちなだけに見えちゃったし、その後は練習嫌いでグッズ販売が得意というポンコツレスラーとして、いわば判官びいきのファンたちから愛さる存在として描かれる。
いくら努力しても、プロレスを愛している先輩には勝てない、と語る羅月とのクライマックスバトルは感動的だけれど、だったらそれを、観客側が納得できたかと言ったらどうかと思う。
プロレスを愛しているから、練習が嫌いでも、ファンに愛されて、引きこもりの生活からも脱することができる、人生諦めちゃダメだよ!!みたいな、めっちゃうっすいメッセージに見えてしまうのが怖い。
だって絶対、本人は、本当の岩谷麻優選手は、めちゃくちゃ苦労してここまでたどり着いた筈なんだから。たどった道筋はなんとなく本作のとおりかもしれないけれど、絶対こんなんじゃないでしょ、と思っちゃうのは外野の勝手な思い込みなのだろうか??
少なくとも、母親との関係性はこれはあまりにテキトーすぎるでしょ、と思った。お兄ちゃんが言う通り、マユの人生を変えたプロレス観戦チケットを母親が用意したにしたって、娘に対する暴言は絶対に許せないんだもの。チケットを取る以前に、娘を愛しているという行動を示せよ!と思っちゃう。
テレビでプロレスに出会った時点で、娘はもう運命に出会っているんだから、実際にプロレスを見させたのは私よだなんていうので証拠をとろうとするだなんて、そっちの方が許せない。
クラッシュギャルズで私の女子プロ記憶は止まってるもんだから(爆)、そりゃぁ今の女子が心ときめくであろうカッコ可愛い、カラフルでセクシーでパワフルなコスチュームに胸躍った。
何度も言うけど、あれだけ罵詈雑言のお母さんを、心配していたんだから、とお兄ちゃんが妹に引き合わせるのは、そりゃないよと思うのは、冷たすぎるかなぁ??★★☆☆☆
原案、なるほど原案なのだった。原作、ではない。結構詳細なエピソードや場面まで踏襲しているけれど、決定的なところが違う。こんな書き出しにしちゃったからもう言っちゃっていいよね、というか言わなきゃ始まらんのだけれど、ヒロインが死んでるか死んでないかの違い。
20年前からのタイムリープはそうなんだけれど、原案の台湾作品の方は、過去というより別次元に飛ばされてしまったという雰囲気。自分の感想文を読み返しても覚えてないもんだから(爆)衝撃だったんだけれど、20年前から来ていた彼女はラストシークエンスの時点ではどの次元にいるのか判らず、それを彼が決死の思いで探しに行くためにピアノを弾く、そしてどうやら、その結末は明確に描かれてなかったのだよね(当時の私の感想文によると(爆))。
17年後に日本で作られた本作は、そのあたりはしっかりと現実的に、今の時間軸で彼女は死んでいる、その事実は曲げられないから、彼が20年前に飛んで行ったって当然、救える訳がない、その場面を苦しく切ないラストシーンに持ってくることで、確かにきっちりと締めたとは思うのだけれど……。
まぁ結局覚えてなかったんだから(爆)、比較して書くべきでもないしな。とか言いながらきっとちょいちょい比較しちゃうんだろうけど、許してくれ(爆)。
物語の始まりは、湊人(京本大我)が留学から帰ってきたところから始まる。ちょっとだけ回想、というよりトラウマ的フラッシュバックで差し挿まれる、高圧的な教師の否定に屈してしまった彼は、もうピアノを辞めようと思っていた。
幼なじみでひそかに彼を愛しているひかり(横田真悠)をよそに、湊人は取り壊される予定の旧校舎から聞こえてくるピアノの調べに心惹かれる。
そこで出会った雪乃(古川琴音)は明るくチャーミングながらどこか謎めいていて、なかなか名前も教えてくれないし、スマホは壊れたままだというし、その時弾いていた曲も、「秘密」と耳元で囁いたり、するのだった。
こう書いてみると、なかなかにファムファタル、女子的には嫌われそうなキャラなのだが、そこは本当にチャーミングな古川琴音氏の魅力でそうはならない。
ならないが、湊人との恋の進展がなんつーか、半世紀前の少女漫画でもなかなかという感じというか、海岸に分け入って水をかけあってはしゃぐ段に至っては、見てるだけでハズかしくて、やめてくれよと思っちまうのは、年老いちまった哀しみに、なのだろうか……??
原案の作品を観たことを忘れ去っているのでアレなんだけど、その原案の作品を観た時も、そして本作も、かなり早い段階で、彼女は幽霊なんじゃないの?と思っていたのだった。
原案作品の方はそうとも言い切れなかったし、本作も幽霊という訳ではなかったけれど、でも、20年前に亡くなっている、ということは事実として示されるから、その点は明確なのだった。
幽霊ではないけれど実は猫だったとか、スマホを持っていなくても会いたいと思っていれば会えるとか、近年のあれこれの映画を思い出すのだが、それ等の作品がことごとく私、あまり好きではなくて(爆)、その好きではない要素が、本作もまた、そうなんだよなぁと思ったりしてしまう。
スマホを持ってなくて連絡が取れない女の子は、大抵死んじゃうのかとか思ってしまったり(すいません、言い過ぎました……)。自分の思うようにならない、アナログな彼女に切ない愛情を募らせる男子という図式は、ひねくれたフェミニズム野郎のおばさんにはちょいと気になるところかも。
そして、家族構成に関してもね……。湊人はカフェを営む父親と二人暮らしだが、単身赴任をしている仕事人間だという母親の存在は示されている。雪乃の方は、今の時間軸では雪乃はもう鬼籍に入っており、母親は娘の菩提を弔いながらの一人暮らし。
……そのどちらも、なんかしっくりこない。まず、湊人の母親が、仕事人間で単身赴任だという設定まで付されているのなら、その母親に対してどういう感情なのか、尊敬しているのか、嫌っているのか、何かある筈なのに、まったく、ないんだよね。父親も、湊人も、妻であり母であるその人が、まるで死んじゃっているかのように、遠く、薄く、認識しているだけ。
父親は趣味の延長線上のような、慎ましいライブが出来るような音楽カフェを営んでいるが、もう見るからに稼げてない雰囲気だし、お金のかかる音大に湊人が通えている、しかも留学まで出来ているのは母親の稼ぎ故だろうに、「母親は音楽に全く関心がなかった」と湊人は言い、でもだからといって、母親に対する確執がある感じでもない。
てゆーか、無関心。湊人側からも、父親側からも。それは愛情のなさというより、キャラクターの書き込み不足としか思えない。父親を演じる尾美としのり氏は、奥さんであり湊人の母親である彼女のことをなんとか降臨させようとする芝居をしてくれるけれど、ストーリー上ほぼ亡き者、湊人を産んだというただそれだけなんだから、ムリがあるのだ。
そして雪乃の方も。母親と二人暮らしだったんだろうが、その経過は全く明らかにされない。いや、今やさ、そんな、家庭の事情とか、片親とか、そんなんヤボっつーか、あらゆるパターンがあるんだからいいんだけれど、でも、今、じゃないんだもんね。20年前。しかも音大生。
それなりに金もかかるし、雪乃は、今の湊人と同じく学内でもピカイチの才能があるピアニストとして嘱望されていた存在だったんだから、家庭の、親の事情をすっ飛ばすのは結構ムリがあるってなもんである。
雪乃の母親を演じているのが西田尚美氏で、いくつになってもキュートな彼女が、わざとらしい白髪まじりのぼさぼさ頭オバサンに封じ込められているのもなんか気に入らないんである。
言っちゃいかんが、そもそもの原案作品、そこでは、娘は、どこかの次元に飛ばされたままの行方不明、意気消沈したまま20年の時を過ごしたぼさぼさのオバサンてのはそれだけの理由があるのさ。だけど本作では、娘は亡くなっている。そこから20年経っている。そりゃショックだったろうけれど、20年間もあんな意気消沈ボサボサオバサンでしかいられないなんて、女をバカにすんなと言いたくなる。
そもそもあんな豪邸に、どこか狂気じみている彼女自身がまともに働いている雰囲気もないし、配偶者もいなくて、娘が亡くなって20年、ずっとボーゼンとしているだなんて、ちょっとなぁと思っちゃう。
で、先述したけど、結構早い段階で、幽霊ちゃうん、と思っていたのであった。原案である台湾作品でもそうだったんだけれど、結果的に、半ば合っていたけれど、半ば外れていた。
雪乃が湊人としかコミュニケーションをとっていないっぽいから、確信はあった。でもひかりと会話したり、音楽教師に見つけられたりした場面があったから、自信が持てずにはいたけれど、それも、きっと謎解きのような形で解決できるんだろうと思ったし、実際そうであった。
日々タイムリープしたタイミングで、雪乃は最初に目が合った人が自分を認識するのだというルールを知り、必ず湊人と目が合うようにと、旧校舎のピアノ室から外に出るまでの108歩を、目を手でふさいで、歩いていく術をあみだしたのだ。
その秘密が示されるのは、最後の最後である。中盤までは、湊人と雪乃の、もうめっちゃ照れちゃう、ほっぺたが赤くなるような、青春の恋物語が紡がれる。せいぜいキスで終わっちゃうような。そんなヤボなことを思っちゃうから私、ダメなんである(爆)。
でもさ、20年前の女の子……だとしても、20年前のこの年頃の女の子は、私より年下だから(爆)、更に、ないわなぁと思っちゃう。そもそも、カップルの女子の方が難病で若くして死んじゃう話が、私キライなのだ。大抵女子じゃん。男子が死ぬ話の割合が圧倒的に少ないのが、納得いかん!美しく可愛い年のうちに女の子は死ぬべきと思ってるんちゃうん!!
……またまたフェミニズム野郎が発動してもうた……。でね、これは読み返して思い出したんだけれど、ピュアラブストーリーに見えて結構ホラーだと。ラストのクライマックスで、湊人が死にゆく雪乃を追って取り壊し寸前の旧校舎に駆けつけ、秘密の曲を弾くシーン、古ぼけた楽譜に雪乃の震える筆跡の字が浮かび上がる、のは、原案作品でもあったんだね。そして、その時も、私、こ、こえー、と思ったんであった。
むしろその前、几帳面に記された雪乃の日記、それこそ死の直前まで綴られた日記の文字が、まるで日ペンの美子ちゃんばりにきっちりしていたのが興ざめだったんだけれど、そことのギャップをはかるためだったのかと思ったり……まぁだとしたらギョッとしたから成功だったのかもしれんけど。
この不思議な曲、古ぼけた、手書きの楽譜。弾くスピードによって時間を旅する曲、その楽譜こそが、本作の主人公であったように思う。
音楽大学が舞台の本作は、学生同士のピアノバトルとか、クリスマスパーティーでのバンド演奏やダンスパーティー、学内のピアノコンクールなどなど、音大ならではの青春イベントが盛りだくさんで、そのすべてに、二人の思い出と、そして、雪乃が誰にも見えていない哀しいミステリがあって。
正直、それこそさ、2000年代ならと思わせるような、学生のワチャワチャ感やファッションも微妙で、原案作品を引きずっているのかなぁとか思ったり。
正直、一番キツかったのは、甘美な音楽が流れっぱなし、言ってしまえば垂れ流し、なことだった。音楽をテーマにした作品なんだから、音楽が鳴り響くのは判ってる。湊人と雪乃がクリエイティブな連弾をするシーンはワクワクしたし。
でも、もう感動しろと言わんばかりの、一秒も鳴りやまない甘美な音楽流れっぱなしには、年のせいかもしれんが、疲れちゃって。自分の感覚で物語を受け止めさせてと思ってしまった。それこそ音楽の誘導の圧がなければ、素直に泣けたかもなぁと思う場面もあったり、したかなぁ。★★☆☆☆
槙生は朝の母親である自分の姉が大嫌いだという。そのせいで、姪っ子ともほぼ初対面。姉とは疎遠だけれど母親とは不思議とコンタクトをとっている。
ラストシークエンスで、仲の悪い自分の子供たちを、その間に立って見守ってきた母親の、おだやかながら肝が据わったどーんとしたオーラを見せつけられていろんな感情が渦巻いた。
ああ、母親って凄いな、と思い、だったら朝の母親であった槙生の姉はどうだったんだろう、こんなにまでも妹に嫌われている彼女は、と思う。
見えない部分がすんごく多くて、それが本作の特徴であり、観客それぞれの中に違った物語が産まれるのだろうと思う。原作であるコミックスはどうなのか気になる。
当然、映画の尺に比べて描かれる要素は多いだろうけれど、その中から何をどうチョイスするかによって、映画となった本作の、つまり脚本も担った監督さんの一つの答えがあるんだろうと思う。
槙生がなぜそんなにまで姉を嫌っていたのかは、朝から問いただされても槙生は決して口を割らないんだけれど、次第に、ラストシークエンスではほんのちょっと、自分を完全否定していた姉の言動を漏らすことにはなる。
ただそれが、絶縁状態になるまでに、絶対に許せないまでに、死んでもその気持ちはみじんも揺るがないまでに、観客側に納得させるまでのことは……回想シーンがある訳でもなく、なんたって槙生が語りたがらないのだから、なかなか難しいのだ。
一方の、朝である。普通に、両親に愛されて育った娘ちゃんだったのだろうと、思っていたし、最終的にはその感覚はそれほど変わらない。ただ、高校に進学して軽音部に入るとか、音楽を製作できる高いパソコンを買うとかいうことが、お母さんだったら反対しただろうから、ということが見え隠れして、そこには槙生がくらっていた種類と同じ、自分の思い通り、自分の支配下に起きたがる高圧さを感じなくもないのだ。
でも、なんたってもう死んでしまったし、やはり回想シーンがある訳ではない。朝が何度もお母さんの幻影を見るのは、大好きなお母さんに会いたいに違いないからだとは思う。それは確実にそうは思うんだけれど……。
そして、お父さんの影が皆無なのも気になる。冒頭のシーン、ショッピングモールで家族三人で買い物に来ていたとおぼしき駐車場、楽し気な朝の表情から、仲の良い家族に見えた。なのにその後、朝が思い出すのはお母さんのことばかり。それは勿論、槙生との関係があるからなんだけれど……。
ごくごく平凡な、現代日本の家族に見えたのが、籍を入れず、夫婦別姓で事実婚だったことが、凄く凄く意味があったと思うのに、少なくとも映画では明らかにされず、しかもお父さんの影は皆無なもんだから、何何何―!!と思ってしまう。
葬式の席で口さがない親戚たちは、姉妹揃って自由気まま、だなどとささやく。一方はただ事実婚、一方はただ、独身なだけ。それぞれしっかりと人生を営んでいたのに、ああでも、確かにまだにこの日本はそうなのだった。
でも、やっぱり、気になるなぁ、お父さんの影のなさすぎが、なんかむしろちょっとホラーな気までしちゃって。
まぁそれはおいとこう。そんな親戚連中の口さがなさにイラついて、勢いで朝を引き取ることにした槙生である。少女小説家という肩書は、コバルト文庫で育った世代には妙に懐かしい。
これまた勢いで買ったマンションの中はぐっちゃらこんで、大人はみんな片付けられるんだと思った……と呆然とする朝に何も言えない槙生である。
朝にとって槙生は、いい意味で、不完全な大人、なのだった。そりゃそうだ、確かに朝の年頃、中学生から高校生なるぐらいの年頃にとっての相対する大人は、親と、学校や塾の先生しかいなかった。
大人の友達同士のじゃれ合いを見て目を丸くする朝。これもまた、自身のその年代の頃を考えたら、判るなぁ。その年代の頃は、私はそうした大人たちに出会えなかったから、今はそこの垣根は低くなっている感じはあるけど、でも、やっぱり基本的には、大人は大人、なんだよね。
高校生の朝にとって、親世代の大人たち、でも自分の親でもなく教師でもない槙生やその友人、元カレとの関係が、興味津々なのはそりゃそうだって!
加えて朝は、特に高校に進学してから、様々な価値観に出会っていく。中学までは、まぁ卒業式だけしか描かれなかったし、その卒業式は……事故のことが教師のジコマンによって知れ渡ってしまってサイアクだった。
朝の気持ちは判るけれど、ジコマンであったとしたって、でも朝のことを心配していたのは本当なのだと、大人になっちまったから大人を弁護しちまうのはそうなんだけれど、でも、大人になれば、判るのだもの。
そのネタばらしの発端となった親友を許せなくて、ずっと謝ってきていたのに無視し続けて、でもそれが気になって仕方なくて、っていうのを槙生が見て取って、ちょっと挑発するように煽りつつ、本当に気の合う友達を失うの?ってことを、さ。
先述した、朝が遭遇する大人の友達、槙生にあれこれ相談に乗ってくれる奈々(夏帆)はまさに中学時代以来の親友であり、槙生はだからこそ、朝に大事な存在を失ってほしくなかったのだと思う。こんなにも、諦めずに、真摯に連絡をとってきてくれるえみりが、自分にとっての奈々のような存在なのだろうと、確信したのだろうと思う。
えみりは高校に入ってから、ちょっと朝によそよそしい態度をとる場面があったりするので、観客側もヒヤリとするのだけれど、その種明かしは、彼女は同性愛者であり、女の子と付き合っていることを、体育館に朝を呼び出して告白することで明らかになるんである。
朝が、槙生に対するように、あっけらかんとコイバナを要求した時、えみりがとった言動に対して、そうか、そうだったのかと、答え合わせが出来るのだった。だったら自分に対しての感情は、と朝が躊躇するのにえみりが、サイアク!!と怒るのも、すんごく腑に落ちた。
私たち昭和世代にはなかった、なかった、というか、きっと言えずにいたいろいろが、こんな風に、少しずつ、構築されている。
新入生の中に、肌の色が濃い女の子がいて、少しも不自然なこともなく笑い合い、部活はどれに入るかと検討しあう。そしてその子は、いち早くカレカノ状態になり、朝をキャーッ!と興奮させるのだ。
ようやく、こんな当たり前のことが、当たり前に映画という創作物の中にも描かれるようになった。むしろそれよりも、セクシャルマイノリティの方が、こんな若い子たちにも、フィルターがかかっているっていうのが、この日本という国なのかなぁ、って。
朝を引き取るに当たり、養子縁組ではなく、後見人としての手続きをとる、というあたりも新鮮である。槙生はあくまで、朝に対して、姪と叔母ではあるけれど、他人同士であるというスタンスを大事にする。
それは、冷たいというんじゃなくて、むしろ逆。違う人間なんだから、というのが、槙生の大切な価値観なのだ。むしろ彼女はこの価値観によって、なんとか自分を支えてこれていたんじゃないかとさえ、思う。
死んでもなお許せないぐらい大嫌いな姉。でも違う人間なんだから、嫌いとしてしまえば、関係ない人間だとして済ませられる。血のつながりが、あらゆる悪夢を引き寄せる。
姉に対して槙生は、その悪夢は断ち切れなかったし、違う人間なんだから、そう断じてしまえば、良かったのだ。関係を断ってしまえばよかったんだから。なのに、姉は娘の朝に、妹のことを槙生ちゃん、と、小説家なのだと、語っていたのだった。
凡百の浪花節ベタ話ならば、実はお姉ちゃんは妹のことが自慢で、娘に語って聞かせていたのだと、いうことになるんだろう。そういう解釈で引っ張ることもできただろう。朝の方はそうした認識でいたのかもしれないと思う。
でも、槙生がその事実に驚きながらも、姉への憎悪が一ミリもゆるがないことで、観客側も、お姉ちゃん、そんな単純に妹の憎しみは揺るがないのに、娘に対してはええかっこしいしたかったんじゃないの……とか意識が変換してしまうことに、ちょっと怖気づいてしまうんである。
誰の、どの時点の、どの感情に視点を置くかで、まったく価値観も、物語も、変わってしまう。本作は、オープニングで死んじゃって、回想シーンも全くなく、槙生と朝、少しだけ槙生のお母さん側の視点から語られるお姉ちゃん像は、まったく焦点を結ばない。
ラショーモナイズにさえならない、だってつまり、それはそこまで重要じゃないから、なのか。槙生と朝がつむぐ関係性の、いわばきっかけになるに過ぎない、二人の関係は、二人だけのもの、ということなのか。
朝が来なければ、つまり、言ってしまえば朝の両親が亡くならなければ、朝と槙生は一緒に生活するどころか、顔を合わすこともなかったかもしれない。
いわゆる社会人としてのきっちりしたことが苦手な槙生は、朝を迎え入れるにあたって、元カレに連絡をとることになり、好き合っていたのに別れてしまった彼と、イイ感じになってきたりする。
そして、第三者としての後見監督人の弁護士を入れることによって、充分に大人として、自立して生活してきた槙生が、また違うフィールドに足を踏み入れる。弁護士におカネの動きを確認されるだなんて。お金の動きによって、朝の行動心理が判るだなんて、そんなことは、これまで、槙生の、……姉に対する憎悪はあったにしても、自由だけれどいわば幼稚な人生の中にはなかったことだろう。
私だって独身女だし、子供を育てている親御さんたちに無条件に尊敬の念である。そういう意味では、槙生側ではあるんだけれど、私は姉を尊敬しているし、幼い頃から姪っ子を溺愛しているし、全然、この条件には当てはまらない、んだけど、だけど、……判る気がする部分は、ある、気がする。
姪っ子にとって当然ながら親が絶対的存在で、私は親戚であり、その中でも近しい叔母ではあるけど、もっとくだけた、なんていうのかな……公式に頼れる立場ではあるけれど、カジュアルっつーか、言ってしまえばテキトーな、遊びに行ける、おごってもらえる、端的にいえば、小鳥がちょっとひと休み、エサも出るし、巣ごもりできるような、そんな場所なのかなって。
その超絶理想形が本作の中にあって。……こういう感覚ってさ、ひと昔、いや、ふた昔、それ以上前だな、その時には、なかったと、思う。やっぱりやっぱり、家族形態が絶対だったから。凄くそれに苦しめられている人たちが大勢いたから。
クラスメイトの優秀な女子が、いまだ立ちはだかる男子優先の悲劇に打ちのめされ、彼女に朝が寄り添ったり、軽音部のこれまたカリスマ女子が朝をツインボーカルに抜擢し、校内ライブを開催したりする。なんなのと思うぐらい、エモエモな高校生活。
歌が好きで、歌いたかったけど、言い出せずにいて悶々としていた朝が、ついに思い切って、ステージに立つ。それをえみりの中継で槙生はライブで見守るんである。優秀女子も見守ってる。朝は気づいて、彼女にピースサインを送る。彼女もまた送り返す。めっちゃ、イイ!!
悲劇を受けた子供が、それでも、その悲劇だけに打ちのめされないで、日々を送る描写にいつも、「マイライフ・アズ・ア・ドッグ」を思い出してしまう。目の前で親が死んでしまって、めちゃくちゃ傷ついているけれど、でも、若い魂は一方で、並行して、矛盾なくキラキラ生きていく。
まさに、朝が、そうだった。槙生はそんなキラキラを目の当たりにして、封印してきた思いをその掌に取り出すことで、愛せるかどうか不安だった朝を、そんなことじゃなくて、おなじ世界線で生きている同士として、とらえ直したのかもしれない。★★★★☆
オープニングクレジット、葉月螢 川瀬陽太 in 「一週間 愛欲日記」と始まる、まさか本当に二人っきりとは思わなかった。そしてきっと、このスター役者inの感じは、名作映画へのオマージュがあるんだろうな……すみません、無知というか、何もかも忘れてしまうので、そんな映画がきっとあったような気がするし、知っていたような気もするんだけれど(爆)。
とにかく、このオープニングからしびれる。そしてこの二人なんだもの。ピンク映画に出会って衝撃を受けた、あの時の、というか、あの時からのスター二人。その二人のぴかぴかに若き日の姿は、なんだか自分自身の遠い夏の日を見るようで、照れくさく、愛おしく、懐かしくなる。そしてやっぱりこの二人は、バツグンなのだ。
で、そう……何もかも忘れてしまう私でも、これは「愛のコリーダ」だと、それはさすがに思い浮かんだ、というか、絶対にそうだと思った。
最終的には男女逆というか、女が男を殺すのではなく、男が女を殺してしまうのだが、でもそれさえも、望みを叶えたのは女の方、というのは一緒な気がした。
一週間、愛欲日記というタイトルは、でも、愛欲日記の文字の方は小さくクレジットされているということは、ピンク的タイトルの付加であって、タイトルはただ、一週間、なのだよね。黒バックに白字のタイトルがシンプルに現れた時に凄くすんなり入ってきた。それは、本当にシンプルに一週間。二人の一週間。
確かにセックスし通しの、サブタイトル通りの愛欲生活と言えば言えなくもないけれど、愛欲、という言葉が、セックスそのものに溺れていくニュアンスであることを考えると、二人は、一見してそうも見えなくもないけれど、段々と……セックスがなければこの時間を、この関係を、つなげていけないんじゃないかっていう不安を、特に、女の子の方に感じて、その意味合いがじわじわと変わってゆく。
女の子、だなんて言ってしまったが、でも、そう言いたい雰囲気がある。セックスをするたびにどんどんお前のことが好きになっていく、だなんて、極甘な言葉を彼がつい言ってしまうような、自分の腕の中に溶け込んでいくようなはかなさ。
これぞ葉月螢氏の真骨頂であり、恋の、そしてセックスの当初は、そんな甘い恋の気持ちが確かにあったのだけれど……。
いや、そんな言い方をしてしまったら、まるで彼女だけが変わってしまったようだ。違う、そんなんじゃない。
そもそも二人は、まさかこんな、どっぷり一週間もセックスし続けることになるなんて思ってなかったし、どうやらお互い、あぶれ同士だったらしい。会話から、飲みの席で出会って、お互いのツレに気があったんじゃないかと牽制しあうのは、確かにそうだったんじゃないかと思う。
彼の部屋に訪ねた時の、彼女の服装、生真面目な黒のスーツは、そのとおりの、真面目な会社員に見えたし、きっとそうだったんだろう。
行きずりの男と一週間セックスし続ける、とこう書いてみると、彼女が彼に、私は淫乱なんだろうかと問いかけたくなる気持もちょっと判るけれど、それに対して彼が応える台詞がメチャいいのだ。淫乱なんかじゃない、君は普通の女の子、スーツが似合う普通の女の子だよ、と。
沢山名セリフがあったけれど、これが一番グッときたなぁ。普通の女の子と普通の男の子同士で、一週間裸の付き合い(とゆーと、なんか意味合いが違うような気もするが)の無邪気さは、やってることはセックスなのに、俺たちずっと服着てないな、だなんて笑い合ったり、食事は大量に茹でてミートソースをまぶしたスパゲッティだったり、本当に子供みたいで。
キャストも二人っきりだけど、舞台も彼の部屋オンリー。途中、二回だけ外に出るシークエンスがある。いや、実際に外に出たのは一回だったんじゃないかという気がする。
一回は、確かに出た。コンドームと下着を万引きしたと、彼女が言っていたから。でも二回目、彼女のキャッシュカードでお金をおろして外食しよう、と話が盛り上がった時、そこからカットアウトして相変わらずハダカで向き合って、唇をむさぼり合い、甘いセックスをした。外食は、しなかったんじゃないかなぁ。そのあたりから……二人のベクトルがだんだんとずれていった気がする。
コンドームを買ったと言ったのに、中に出しちゃってごめんとか、そんな台詞が聞こえてきたことに、気になっていた。彼女もまた、気にしていないように見えた。その一点に対する、彼の思惑と、彼女の思惑は、確実に、違っている気はしていた。
二人とも、仕事を休み続けている。彼女の方は会社員で、明らかな仮病を会社に電話連絡している。彼はバイト生活なのだけれど、休む連絡をしないもんだから、彼女は次第にそれにいら立つようになる。結果、彼はバイトをクビになってしまうのだけれど……。
段々と、彼女の方は、明らかに、破滅が見えていて、死を意識していて、彼の部屋から現実へと戻る気はない決心を次第に固めて行っているように見えた。
それは、どうしてだったんだろう。二人がこの外の社会でどういう生活をしていたのか、何一つ判らないけれど、彼女が彼との、一見甘やかな会話の中で、時々気になることがあった。一生分のセックスをした、もうこんなことは死ぬまでない、と言う彼女に、彼の方は、俺はどうかな、と口ごもった。ほんのざれごとのような会話にも聞こえたけれど、実はあれが決定的だった気もした。
彼女が、執拗に、してよ、入れてよと、言い出し始め、物理的に男子は難しくなってくるから、彼は困惑し始める。俺たち服着てないな、と言って笑い合っていた二人の状態は、その全裸状態は、次第にちっともエロティックじゃなくなっていく。
大きく円を描くボカシも、愛のコリーダへのオマージュか、マエバリを隠すためかという感じで、二人のセックスは、確かに見た目には激しくアクロバティックになってくるけれど、して、入れての繰り返しに彼が困惑する図式がどんどん、痛々しくなる。
それは、本当に物理的に、入れるためには勃たなきゃいけない男子の肉体的精神的追い詰められと、濡れてなくても、気持ちよくなくても、セックスは出来ちゃう女子の、つまりは最悪のアイデンティティの放棄。
お互いそのことを判り合う余裕などある訳もなく、ただただ裸で、裸がエロではなく、むき身の人間の辛さになっていく。どんどん好きになっていった筈なのに。一緒にいたくなっていった筈なのに。
彼が彼女に言ったように、スーツの似合う普通の女の子だった。葉月氏が演じる彼女は、平凡な黒いスーツ姿の中の下着も平凡で、優等生の中学生がつけているような、白の上下。
下腹部にふっくらとついた脂肪といい、男子の手のひらに収まるサイズのおっぱいといい、本当に、普通の女の子のリアルさが、胸に迫ったのだった。
冒頭、連れ込んだ彼、連れ込まれた彼女、という図式の時、彼女が言った、こんな風にいつも女を連れ込んでるんでしょ、と問うと、彼は、そうでもないよ、と言った。そうでもない、ということは、初めてじゃない、ということであり、こんなことキミが初めてだよ、と言うよりは正直だとは思った。
けれど、彼女の方がそれに対して素直に嬉しい反応を示したことが、後々までずっと、気になっていた。だって最終的に彼女は、彼を最後の男として次第次第に取り込んで、自分を手にかけさせるまで行ったのだから。最初からそのつもりはなかったにしても、どこかで、最初の彼のこの言動に、この男だと、見つけたと、ジャッジする気持ちがあったんじゃないかと、思ってしまう。
そんなことは、後からつらつら考えてしまっただけだ。飲みの席で出会って、うっかり連れ込み、連れ込まれして、なんだか相性が合っちゃって一週間もヤリまくりだと、ただそう言っちゃったっていいぐらいなのだ。
殺風景な一人暮らしの男の部屋で、色気のない白の下着の彼女、ふんだんなセックスシーンはあれど、成人映画としてはあれこれ言われるかもしれない。巨乳でもないし、セクシーな下着もつけてないし、男を喜ばせるフェラシーンも一瞬だし、女子がグッとくる描写の方が断然多い気がするのよ。
彼女が、私の身体どう?と聞き、最高だよ、と彼が応える。それはさ、確かに愛撫の最中の答え合わせでそれしかないといえばそうなんだけれど、それが、リアルな女の子の肉体を持っている彼女を、本当に愛し気に愛撫する彼、という描写だからめちゃくちゃグッとくるんだよなぁ……。
その当時、実際にリアルで彼らを観ていた時は、実際に私もそんなぐらいの年齢だったから、本作をリアタイで観ていたらまた違った気持ちだったと思うんだけれど、なぁんか、先述したように、若かりし自分を懐かしく切なく見守るような、そんな感覚に陥ってしまう。
お互い見つめ合って、キスを繰り返し、相手に伸ばした腕に唇が近づいている影絵が映っているとか、美しい仕掛けに胸がキュンキュン高鳴ってしまう。ずっと裸でいる二人なのに、セックスばっかしてるのに、ピュアしかない。だから、破滅が待っているんだけれど……。
彼の部屋だけが舞台になっていて、そして彼は、バイトを無断欠勤、この部屋は無駄に高い家賃であることに、彼女が驚いているところから始まるのだから、分不相応な暮らしが破綻するのは目に見えている。
でも、なぜ彼は、こんな高い部屋に住んでいたのだろうか。彼女が、ここは仕事場?と聞いた部屋はCDがぎっしりラックに詰め込まれていた。
ごまかすように、照れたように、単なるバイト人間だと濁した彼は、その後彼女に何も語ることはなかった、その機会もなかったけれど、仕事場と聞かれて、思うところがあった気がした。バイト生活なのに9万円もの部屋を借りている何か理由が、きっとあったのだった。
それを、語り合うまでの時間は、ピンクとしての尺でも、二人の関係性でも、いや、そもそもの、いつの時代の社会でも人間関係でも、ありはしないということなんだろうと思う。ちょっと何か問題を感じてしまうと、はしゃぎ合って、愛しあって、解決しようとしちゃう。
シャワーを浴びてさっぱりしたり、いかにもマズそうな(ミートソースとのバランスが悪すぎる)スパゲッティをほおばったり、まぁ、セックスしたり、事態を変えようとはするんだけれど、やっぱりダメなのだ。
それを、外の、社会との関係性が築けてないからだと言うのは簡単だし、それはそれでそうだと思うんだけれど……あまりにも、あまりにも、この60分あまりの尺を頭から最後まで、濃厚に、でもまるで初恋みたいに、初めてセックスする相手同士みたいに、今しかないと思い詰める若い二人の、皮膚の上気した温度が伝わってくるような、すがすがしい生々しさが、これはさ、この時、この瞬間しかマジでないと思って。
一週間を一日目、二日目、と、生真面目に切り取っていくんだけれど、二人こそが全然、曜日が判らなくなってるし、観客もまたそうだし、っていうのが、一緒に道行きに連れてかれている感じ。
一生に一度は、こんな恋がしてみたい。★★★★☆
あ、そうか、牡丹灯籠はその彼女が実は死んでいるとは知らず、余命いくばくもないと聞かされての関係だったけれど、本作は最初から彼女のことが幽霊だと知っている。しかも青年を演じるのはどちらも岡田智宏氏。
2000年近辺のピンク作品をここのところ数多く放映してくれるこのチャンネルだけれど、そこらへんの目配せはやっぱりあるんじゃないのかなぁ。もちろん、里見瑤子氏の出演作品もたっぷりあるあたりは、可憐な彼女のファンが大勢いるという層に向けての、というのは当然あるけれども。
マトモに受け取っちゃ、そりゃ女としてはいただけない。これを怒っちゃいけない。喜劇喜劇。判っちゃいるがヒドい男子のキャラ設定。
まず冒頭、太市は同僚の瑞穂とよろしくやっている。俺のスペシャルとか言って目隠しをさせ、バイブでいじめまくるとかやりたい放題。
その瑞穂から落ちていた女もののアクセサリーを突きつけられて激怒されてもお前とは遊びだろ?としれりとし、女子高生だのスッチーだのナースだのとの合コンにウキウキしている、おめーホントに仕事してんのか、と言いたいお気楽サラリーマン。
一応オフィスの様子も出てくるが、これがなんとも懐かしいというか……ピンクに限らずどんな作品でもそうだけれど、やっぱりピンクはほとんどがその時の現代を舞台にしていて、よりリアルにその時代の空気を映し出すように思う。まだまだ仕事に導入されて出回り始めたという時代のパソコン、それでグラフとかの資料作りの、その何とも言えないアナログなデジタルさ。こういうのがたまらんのだよなぁ。
そんな太市が遭遇する可愛すぎる幽霊、みくにである。名前からしてもう、アイドルチックである。タイトルのアパート、というよりコーポとか文化住宅とか言いたくなる壁のうっすい長屋的賃貸。
その隣、っつーか、鍵型に曲がったはす向かいのお隣さんに、でかでかと貼られた忌中の貼紙。ずっと寝たきりの妹さんが亡くなったという。
うーんと、現代事情では、亡くなるまでのご病気で自宅で看取るというのはほぼ現実的じゃないよなぁ。ヤボは言いたかないが、気になっちゃう。
しかも兄と二人暮らしのご様子だし、そうなると看護というか、介護、というか、とにかく難しいというか非現実的で、いくらお気楽な喜劇と見るべきだと思っても、さすがに気になってしまう。ご両親は?とか、なぜお兄ちゃんと二人暮らし?とか。……そこらへん、ツッコまれる前提はないんだろうなぁ……。
その妹さんが美人さんだったと聞きつけて、気まぐれに弔問に訪れた太市。遺影の写真に、確かに美人、彼女なら本命にしてもいいな、なんて心の中でほざく。
心の中、である。それを、つまり、幽霊となったみくにに聞かれていた訳なんだけれど……。この遺影が、今時モノクロで撮るかね、と思ってしまうのもいけないかなぁ。昭和じゃないんだし。
そんなこんなで太市の元に幽霊となって、薄い壁を通り抜けてやってくるみくにちゃん。一回だけだと懇願されて彼女を抱く太市だけれど、その翌日も彼女は現れる。四十九日のうちはこの世にいなきゃいけないみたい、だなんて、エヘッ、みたいに笑うこんな美少女に騙されちゃいけない。
つまりは四十九日のうち、太市はみくにと連日セックスを強いられるんである。もう死にそうである。目の下に判りやすくクマ作るんである。そう、これが、あの牡丹灯籠、若旦那が幽霊とのセックスに生気を吸い取られて目に下にクマを作っていた、まさにおなじ図式。違うのは、本人がそのことを自覚していることで、これは結構、重要な違いだよねと思う。
つまり、恋に溺れて事態の危うさに気づいていない牡丹灯籠の若旦那と、幽霊と連日セックスすることで自身の命の危険をリアルに感じている太市と、大きな違い。そう思うと、太市は、美人で生きていたら本命の彼女にしたかったかも、というスタンスで見ているみくにのことを、つまりは最初から最後まで恋の対象ではなかったのかもと思うと、なんだか切なくなる。
まぁ、みくに側はさらに割り切っていて、太市によって知った女の喜び(この言い方書いてみるとめっちゃ古臭いな)を四十九日フルフルに堪能しようとしか考えていない感じだから、まぁ、いいのかなぁ。
そのあたりはでもちょっと微妙というか、みくには太市に対して、恋人か、いや、もうそれ以上、奥さん、いや、それ以上、契約でしばりつけた男というぐらいに、幽霊パワーを発揮して会社に電話もかけまくるし、パソコンの画面にご登場さえするし、太市を震え上がらせる。
だから、太市は恐れおののきながらも家に帰ってきてみくにとセックスするしかなく、それどころか彼女は成仏できずにさまよっている“友人”を太市に紹介してくるんである。
なるほどなぁ。四十九日束縛されて、毎日みくにとセックスしなければいけないというのなら、いやまぁ、それがあのかわゆい里見瑤子ならそれでもいいかもとちょっと思っちゃうが(爆)、そこに持ってくるのがまったく、まぁったく違うタイプの、可憐な里見瑤子に対して、まぁったくちがう、180度どころじゃなく宇宙線以上に違う、ザ・大人の女、その色気だけで出来上がっている佐々木麻由子大先っつーのが、大正解!!
かわゆい里見瑤子氏が、常に純白、キャミソールやワンピースや、ちょっとセクシーなデザインでもやっぱり純白で、時にそのふわふわしたスカートで太市をたわむれに覆いこんで、ごろごろプロレスみたいにたわむれるのが可愛くて可愛くて。
だからもう、真逆なのよ、里見瑤子氏と佐々木麻由子氏は。でも、その佐々木麻由子氏を,大人の女を、助けたいと思って太市の元に連れてきたみくにちゃん、という図式が、本作に、ちょっとスパイス、というか、私みたいなフェミニズムオバサンが振り上げかけた拳を下ろさせる作用があるんだよなぁ。
佐々木麻由子氏が演じる女性は、みくにちゃんが解説するところによると、夫の不倫で苦しんできたんだという。自分も不倫をして復讐したいと思っていたけれど、首をくくってしまった。その悔いがゆえに成仏できずにいるっつー、重すぎる難問を解くミッション。
これはキツい。でも……本当にね、佐々木麻由子姐さんが、本作をいわば助けてくれたと思うんだよなぁ。確かに里見瑤子氏はメチャクチャ可愛いし、彼女を堪能するだけで本作が成立するところは確かにあると思う。
そして、成人映画というものは、男性観客をターゲットにしているものだから、クソ女である私は発言を躊躇してしまうんだけれど……でもさでもさ、やっぱり、どんなに喜劇であると飲み込もうとしても、この男子のヒドいキャラ設定にずっとモヤモヤしながら見ていたから。
彼がセックスするのが、幽霊というハードルがあったとしても結局はアイドル並みに可愛い里見瑤子氏なのかぁとも思ったから、佐々木麻由子先生が登場して、いわば彼のセックス伝道師としての鼻っ柱を、優しく修正してくれたのが、ちょっとホッとしたというか。
それでも、同僚の瑞穂に対してはあんまりじゃんとは思ったけどね……。妊娠したというウソで太市に結婚を迫り、うっとうしげにあしらっていた太市だけれど、みくににとり込まれそうになっていた恐怖から瑞穂にすがるように結婚しようと言い、でもみくにの恐怖攻撃で瑞穂は撃退されてしまい……。
この瑞穂の立場に立つと、これはキツいわ。しかも物語のラストで、瑞穂は退社してしまうんだもの。妊娠のウソを持ちかけたということは、太市はそれぐらいのテキトーさだったということでしょ。あー、ありえん。喜劇だと言って捨て置けん。それを言っちゃぁ、おしまいだというのは判っちゃいるが……。
ダメね、私。これはお気楽、ちょっと怖い、お色気ムービーであり、その点では百点満点なのだから!最後に連れてきた「30年間処女」なのが当時で言うところのいわゆるオネエだというオチはそれこそ今じゃ使えないが、お尻はやめてー!という太市の悲鳴で笑わせちゃうほどお気楽な時代ではあった。
里見瑤子という存在は本当に唯一無二。こんなにかわゆく、可憐で、エロをいい意味で感じさせないアイドル的女優は他に思いつかない。もうそれだけでいいのだ。余計なことは言うまい!★★★☆☆