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言えない秘密/不能説的・秘密
2007年 102分 台湾 カラー
監督:ジェイ・チョウ 脚本:ジェイ・チョウ/トー・チーロン
撮影:リー・ピンピン 音楽:テルサック・ヤンパン/ジェイ・チョウ
出演:ジェイ・チョウ/グイ・ルンメイ/アンソニー・ウォン/アリス・ツォン/ユーハオ
そして、まあここにもいたわ、イノッチが。リュ・シウォンに遭遇した時は、うわー、イノッチと思ったが、また出た。日本でも韓国でもそして台湾でも、世の女は皆してイノッチ顔に癒しを求めるのかしらん。
でもなんか、判る気もする。イノッチ顔は女にひたすら安心感を与えるものなあ。優しく、穏やかな気持ちになれる。あったかくて、大きな心で抱きとめてくれる感じがする。
しかもその、台湾のイノッチ君であるジェイ・チョウ、監督、主演である。大いに感心する。
劇中でピアノを弾いているのはマジでジェイ・チョウ自身で、舞台の音楽学校も彼の出身校。もともと作曲家としても売れっ子の彼は、アイドルスターとしてより、音楽家としてのバックグラウンドを持つ人なのだとか。ふーん。
とすると、この主人公のキャラって、ちょっと自慢入ってるが……(笑)でも凄い。
イノッチ君演じるシャンルンが、とある音楽学校に転入するところから始まる。
案内してくる女の子、チンイーもかなりの美少女(奥貫薫を若くしたみたい)で一瞬彼女がヒロインかと思いきやそうではなく(まあ、思いっきり物語を引っかき回す役どころではあるけど)彼がふと聞いたことのない旋律に心惹かれて迷い込んだ部屋に、シャオユーがいたんである。
ドアの陰に、ハシゴに登って高い書架に楽譜をしまっていたシャオユー。驚いた彼は、しかし同時に彼女に恋に落ちた。
その教室には、古いピアノがおいてあった。木目調のクラシックな姿は、まるで名曲を生み出したクラシックの作曲家たちの時代から生きているようにさえ思える佇まいだった。もう鍵盤も黄ばんでいたけれども、そこでシャンルンは何度となくシャオユーと逢瀬を重ねて一緒にピアノを弾いた。
でも、シャオユーは言うんである。あのピアノは弾かないでと。古くて音が悪いでしょと言いつつも、何か理由がありそうだった。
そしてあの時書架にしまっていた楽譜、あの時弾いていた曲、テンポの早さ、「帰る時はこの早さで」という意味不明の彼女の言葉、それが後半、怒涛のように解明されていくのだ。
あのね、中盤ぐらいになると、私、これってシャオユーは幽霊なんじゃないかな、と思ったんだよね。
シャオユーが誰とも話している様子がないのを心配したシャンルンは、友達がいないの?と聞いてみると彼女は、私は嫌われているから、と自嘲気味に言ったけど、それはシャオユーが他の人には見えていない、つまり幽霊なんじゃないかって。
友達と話している様子がないだけでなく、授業で教師に指される様子もなかったし、家に帰っても中には入ろうとせずに外階段で屋上に上がって、そこで彼と初キスをしたり。
で、その予測が描写が重ねられるほどに確信に変わっていって、なあんだー、それってかなり王道のオチじゃん、「ちーちゃんは悠久の向こう」でもそのネタ、あっという間に解明されちゃったもなーとか思って、勝手に不満に思っていたりしたんだけど、違ったのだ。
ああ、私はひたすらそんな不遜に思い込んで、劇場の椅子にそっくり返っていたのをゴメンナサイと謝るしかないのだ。
でも、半分は当たっていたとは言えるのかもしれない。確かにシャオユーは、他の人には見えていなかったのだもの。シャンルンだけに見えていた。
二人で連弾をしていたのを聞きつけて教師がやってきた時、ふいに戸棚に隠れたシャオユーを見つけた教師が舌打ちしたかと思ったのも、そこに落書きされていた先生への悪口に反応しただけだったんだもの。
つーか、この流れだともうネタバレするのかよって予測されるのは必至なんだけど(爆)、そしてそれは当たっているんだけど(爆爆)、シャオユーは幽霊ではない。でもネタが判った時点で彼女がどうしているのか、ちゃんと生きているのかさえ定かではないんだけど。
つまりね、シャオユーは別の次元にいる訳なんだよね。シャンルンに見えているのは、20年前からタイムスリップしてきた彼女。いわば時空の違う存在だから他の人間には見えてないんだけど、何がどうして波長が合っているのか、彼にだけは彼女の姿が見えているんである。
それが、シャオユーの言う「あなたと会えたのは奇蹟」なのであり、二人は互いの想いを育んでいく訳だけど……でもなぜ、彼だけに彼女の姿が見えていたのか。
明確な答えがある訳じゃないし、明確な答えを必要とする訳でもないんだけど、最終的にシャンルンが、絶望してどこかの次元に姿を消してしまったシャオユーを取り戻すために、あの運命の曲を「帰るテンポ」で弾いて、彼女と同様、タイムスリップしたからなのかなと思う。
つまり同じ経験をする運命の者同士だから、お互いの姿が見えている、と。
それはちょっとアイマイな定義ではあるし、シャンルンに出会う前のシャオユーに、カン違いして絶望してどことも知れず飛んでいってしまった彼女の、そのずっと以前の、まだ普通に学生生活を送っていた彼女に彼が会いに行ってしまうと、それこそベタなタイムパラドックスが起きてしまう訳だけど。
ただ、本作に関してタイムパラドックスがそれほど気にならないのは(「サイボーグでも大丈夫」では怒りまくったのに(笑))タイムパラドックスの要素がその一点だけに収まっていることと、当初はフツーに純愛モノかと思わせて、つかず離れずな二人の描写にヤキモキさせながら、ネタを明かすあたりから急展開で、どっかサスペンスタッチとも思えるほどにカラーががらりと変わっていくことが圧倒的なスリリングだからなのだ。
なんかそんなことに突っ込む気もなくしちゃうほどなんだもの。
本当に、戸惑うほどに、前半の甘やかな雰囲気と変えてくるのよ。まあ、私みたいに、単純に幽霊モノと思っていた観客も結構いたんじゃないかと思うし、もしかしたらそれを予測して、そんな単純じゃないんだと突き放す気持ちがあったのかもしれないと思う。
シャオユーは、学校のピアノの下にひっそりと隠されていた古い楽譜を見つけた。そのミステリアスに引きずられるようにして、メロディを紡ぎ始めた。弾いている彼女自身は気づいていないままに、周りの風景が嵐に吹かれるようにあっという間に変わり始めた。
そして着いたところは、同じ音楽学校だったけれど、シャオユーの姿は誰にも見えていなくて、彼女は自分が時間を飛び越えたことに気付いた。
でも、その中で、シャンルンだけが彼女を認識したんである。20年前の世界では食べたことのないアイスクリームを食べたり、自転車を二人乗りしたり、一緒にCDショップに行ったり。青春の甘酸っぱいカレカノの時間。
シャンルンの好きな曲は、昔の歌謡曲で、それはシャオユーもまた好きな曲だった。それを後にシャオユーは嬉しそうに「私の好きな曲を、彼も好きだったの」と教師に告白する。運命を、感じていたに違いない。
でも、シャオユーが見えているのがシャンルンだけだと彼が気づいていないことを、シャオユーが言わなかったのは、そのことでシャンルンが自分から離れることが怖かったからなのかもしれない。
でもそのことで誤解も生じる。シャンルンに思いを寄せているチンイーが、シャオユーへの彼の態度を、彼女の姿が見えないから自分に対してだとカン違いして、ついにはあの特別な音楽室で彼にキスまでしちゃったから。
それに動揺するシャンルンが、なぜチンイーにシャオユーのことを話さないのかは、ストーリー展開のご都合主義を若干感じはしたけどね。実際、ネタが明かされる前ながらも、なんで言わないのよ!とイライラしちゃったし。
そしてこの時からシャオユーは姿を消す。もともと喘息持ちだったから、そのためだとシャンルンは思った。それ以前も、何日も欠席したりしてたし。
そう、“欠席”だと思い込んでいたんだけれど。実家に訪ねてみても、「とっくに退学したよ!」と年老いた母親から追い返されてしまう。
この時にあれ、と思ったんだよね。死んでしまっているのなら、こういう言い方はしない、もう死んでるよ、と言うだろうって。この“とっく”はその通り、もう20年も前のことだったのだ。
そしてその後、シャオユーがシャンルンの前に姿を現わすのは実に半年も後、彼女のために曲を披露すると約束していた卒業式の日、シャンルンは約束どおり、シャオユーの好きなサンサーンスの白鳥を、独自のアレンジで、学生オーケストラをバックに弾いている時だった。
見るからに憔悴したシャオユーが姿を見せた。シャンルンは彼女をひと目見ると、演奏途中なのにステージから降りて彼女を追う。
しかし、教師である父親が追いかけてきて、彼女と抱き合っている彼をいさめ、一度会場に戻らせるのだ。
その時、シャオユーは二度目の絶望を味わったことを、シャンルンは知らなかった。
チンイーが腕につけていたお守りを、シャンルンがしていたこと。本当は借りただけだったのに。
そしてシャオユーはどこと知れない次元に姿を消してしまう……。
この父親がネックだったんだよね。シャンルンは父親と二人暮し。シャオユーには父親の仕事を「君も秘密があるんだから」と明かしていなかったのもちょっとしたご都合主義に思えなくもないけど、まあムリもない。だって先生が親だなんて知れたら、いろいろとやりづらいもんね。
一人息子に期待し、不良と付き合うなとか何くれとうるさい父親だけど、案外憎めなかった。
シャオユーへの思いで苦悩する息子に陽気なギターで元気付けようとしたり、息子の悩みに答える条件でダンスを一緒に踊ることを強要したり、なんつーか、音楽への愛が奇妙な形で空回りしているような人で、憎めないけどヤッカイな人という印象だった。
でも彼は、過去に決定的なマチガイを犯してしまったのだ。シャオユーが学生だった20年前から彼はこの学校にいた。シャオユーもまた教え子だった。
この気のいい先生に相当の信頼をおいていたと思われる、のは、シャオユーが彼だけに、20年後に行った経験を話したから。
彼は興味深げに聞きながら、この話をクラスの班長に話してしまう。いや、悪気がある訳ではなかった。班長だから、しっかりしてるから、そんな妄想癖のある彼女を支えてやってほしいと頼んだのだ。
でも、“そんな彼女”と思ってる時点で、信じてないどころかキ印扱いなのは明らかだし、メガネでマジメそうに見える班長も結局はフツーの好奇心旺盛な女子高生に過ぎず、この話をあっというまにクラスにもらして、「処女喪失は20年後?」だなんてザンコクなからかい方でシャオユーをヒドくキズつけてしまう。
あんまりかわいそうだ……。
でも、これがファンタジーとして観客であるこっちは見るからであって、実際に、20年後の未来で運命の男の子に出会ったなんて言われたら、この先生か班長か、どちらかのような対応をしてしまうだろう。そう思うと浅はかな人間である自分の不寛容さがイヤになる。
そんな絶望を抱えて、シャオユーは20年後の卒業式の日にやってきたのだ。
なのに……。
クライマックスは、全ての真相を知ったシャンルンが、取り壊される旧校舎にもぐりこんで、彼女に会いに行くべく、運命の曲を弾くシーン。
それ以前に、シャオユーの姿が消えたこと、そして彼女が他の人間には見えていなかったことを知り、シャンルンは驚愕。そしてさまよいこんだ教室の机に、シャオユーが修正ホワイトペンで書き残した彼への思いを、目の当たりにするんである。
目の前で、文字がどんどん浮かんでくるんである。結構これはホラーというか……ホラー映画に行っちゃいそうなぐらいの要素があって。
でもそこまではいかない。彼がなくなりかけた修正ペンで必死にハートマークを描き綴る、のは、次元の違う場所にいる彼女には届いていない、その切なさこそが盛り上がるのだ。
シャオユーの楽譜にはさまれていた彼の似顔絵に、母親は「娘を信じてやればよかった」と意気消沈した。
このお母さんは今でも、そこにいない娘と生活していた。シャンルンが訪ねてきた時も、「あの子、今寝ているの」と言って部屋へ通したし、「あの子、どこに行ったのかしら」と20年もの長き間失踪状態にある娘を思っている。
このお母さん、シャオユーが別次元に行ってて、でも見えないだけでここにいるかもという感覚を、母親の勘的なもので、無意識に認識しているのかもしれない。
そしてシャンルンの父親はシャオユーから預かった、タイムスリップする曲の楽譜に、息子への思いが綴られているのを発見し、全てを悟り、息子の後を追って解体中の旧校舎へと急ぐのだが……。
シャンルンは優秀だったから、あの時たった一度シャオユーが弾きなおしてくれたメロディを完璧に覚えてた。
というのは、学園ドラマよろしく様々に描写されるエピソードのうちのひとつ、「ピアノ王子」と呼ばれる学園スターとのピアノバトルで見せる、驚くべき調音力と演奏力(ついでに、アレンジ力)によっても知れるんである。
この出来事でシャンルンは学内の気のいい不良学生と友達になったりして、この不良君たちは結構オマヌケだったりするので、このめまぐるしい展開の物語の中で、一服の清涼剤の趣さえある。
そして、ガンガン解体される旧校舎の中で、必死にシャオユーの元へ飛び立つためにピアノを引き続けるクライマックス!
ジェイ・チョウ、自分のカッコ良さをメッチャ見せびらかしまくってるだろー(笑)。
そして彼は、キズだらけになりながら、何も始まっていない時間の、彼女の前に現われた。
そういえば、学校で働いている障害者の事務員にも、シャオユーの姿が見えているみたいなんだけど、あの事務員は、20年前は普通に掃除していた人?違うかなあ。
でもこういう何気ない描写にも、不自由を持ってても、その中の本質はちゃんと見えている、みたいな優しさをするりと織り交ぜている感じがする。
それは、台湾映画独特の瑞々しさに、違和感なく溶け込むのだ。★★★★☆
新藤監督自身の口から語られているのを、聞いた覚えがある、小学校時代の恩師。
日本全国全てが“尋常小学校”だった時代。
でも、この片田舎の、小さな石内尋常高等小学校は、世界でたった一つの学校だった。戦争があって、貧しくても、でもみんな、友達が大好きで、ワイワイ笑ってた。
皆、ちゃんと昔の子供たちの顔してるんだよね。現地の子供たちを採用したんだという。ああ、だからかあ。やっぱり違うんだなあ。この素朴でイキイキとした表情!
その子供たちを、まるで彼自身こそが子供のようなおおらかな純真さで率いていた市川先生。
本当に、こんな先生がいたのかと、なんだかもう、羨ましくてたまらなくなってしまう。演じる柄本明が、ステキ過ぎる。こんな演技、しようったって出来ない。
彼はね、小学校で教鞭を取っていた頃から、亡くなる時までのほぼ半世紀を演じるもんだから、その登場、若い頃は30代と思しき設定で、顔はしわくちゃなのに髪は不自然なまでに黒々もさもさしていて、そりゃー、不自然ったらないんだけど(笑)。
そういう意味でいうとね、どこの年齢に合わせてキャスティングするかでそれぞれ役者がバラバラなのよね。
先生の奥さんになる川上麻衣子は、結婚した時のハツラツとした魅力の頃に照準を合わせてる。運動会のシーンでの、ヨレヨレの市川先生からバトンを引き継いで他の先生をゴボウ抜きにする場面なんか顕著。
だから老け役はかなり厳しく、30年後の教え子たちのリアル年齢には勝てない。
そして、年齢が揃っている筈の30年後の教え子たちも、メインの豊川悦司、大竹しのぶ、六平直政だけを上げてみてもかなりバラバラである。
彼らがどこの時点での人生をピークに迎えているかを、現わしているんじゃないかと思うのね。
つまり、みどりは、恋しい男の子供を得て、でも彼の夢のために、そして何より自分の人生のために、この地に残って未亡人となることを選択する、でもそれから先の人生こそ、彼女にとっての花なのだと。そういう意味で、女はホント、強いんだと。
おっと、またしても話が脱線してしまったけれど。
そう、柄本明なのよ。一見すると、コワそうな先生な訳。黒板を竹の棒でビチビチ叩いて、居眠りしていた三吉(後の六平さん)を叱責して教室の後ろに立たせる。
でもね、その理由が、三吉が家族たちと夜通し稲刈りをしていたこと、米を刈っていたのに食べたのは麦の握り飯だったことを聞いて、彼はクーッと涙をぬぐい、先生が悪かった、とクシャクシャの泣き顔で言うのよね。
なんかね、最初から、子供たちがこの先生を、一見コワそうな先生の授業を笑顔で受けているから、もう、判っちゃうんだよね。子供たちはみんなみんな、この市川先生が大好きなんだなあ、って。
だって、こんな風に、自分の非を認めてくれる先生に、どれだけの子供が出会えるのだろうと思う。
いつだって先生は絶対。いや、この学校でだって基本的にはそうなんだけど、その絶対的存在の先生が非を認める態度を示すからこそ、そうした公平な視点での素直な気持ちの大切さを、子供たちは強烈に印象づけて、学ぶのだし。
私は……そんな先生には出会えなかった気がしてる。いや、恐らく、ほとんどの人がそうだと思う。
この教室は、一見ホノボノと見えながら、奇蹟の一角だったのだ。そしてその中に、敬愛する新藤監督がいたのだなあ。
その先生が突然、「ケッコンする」と教壇で報告する場面が好き過ぎる(笑)。だってそれをわざわざ子供たちに、しかもやたら嬉しそうに宣言するんだもん。
先生のお嫁さんを紹介する、と言うと、子供たちはヒソヒソと予測し合う。大方の予想が的中して、先生のお嫁さんは同僚の美人先生、道子。何度もアタックしてくる市川先生に根負けしたんだという彼女のほっぺたに、ブチュッと市川先生がキッスする(キッスって感じなんだよなー)のに仰天。
「なんてハレンチな!」と彼の頬をバチンと張って教室を出て行く彼女に「立派な嫁さんじゃろう!」と更に嬉しそうな市川先生に、子供たちも大喜び。もー、なんてなんて、愛しい場面なの!
その後の結婚式、自習している子供たちを心配して抜け出してきたのは市川先生じゃなくて道子先生の方だったりとか(たすきをかけて自転車を駆ってくる姿が勇ましすぎ!)修学旅行で活動写真の撮影にジャマに入って、市川先生が殴られちゃって逆上して、横柄なスタッフに食ってかかったりとか、もうとにかくこの奥さんは強くて美しくて、最高なんだよなあ。
なんかね、いわばいい意味で家庭を仕事(学校)に持ち込むこの夫婦は、ホント、子供たちにとって人生の教師であったと思う。
そういうのって、ある程度は教育において大事なんじゃないかと思う。まあそれは、こんな風に夫婦信頼しあった家庭を持っているからこそ出来るんだけれども。
そして、そんな先生を尊敬と親愛を持って見つめ続けている、語り部であり監督の若き日の姿である良人少年の、淡い初恋も描かれる。
といっても、一緒に自転車の二人乗りをする程度なんだけどね。でも、みどりはいつも、彼のことを気にかけていた。
良人は班長を任され、先生からの信頼も厚かったけど、家は貧しくて、中学への進級が出来なかった。
優秀な彼を惜しんだ先生が、この学校の高等部でしっかり勉強すれば大丈夫だと母親に受け合うと、逆に母親は自分の情けなさを憂える顔をした。
なんかその時にイヤな予感はしたんだけど……母親はね、橋の上から川をじっと見つめてて。
その次のシーンで教室にボンヤリ座っていた良人は、教室を閉めに来た先生にこう言うのだ。「母は昨日、死にました」
その時先生の後ろにはみどりもいて、思わず口元を両手で覆った。
枯れ野の中を行く、哀しすぎる葬列。母親は、まさかまさかまさか、自ら命を断ったのだろうか……。
そのあたりのことは、明確には示されない。
高等部も終わった良人は、兄のいる広島へ身を寄せる。みどりが自分の思いを伝えに、彼の家を訪ねた時にはもう、旅立った後だった。
そこから、いきなり30年の時が経過するんである。いきなりだから、結構ビックリする。この潔さがまた、イイんだよなー、と思いつつ、ここからがまた、濃い人生が待っているのだった。
あの居眠りの三吉が、役所の収入役になってるのね。居眠りをしているのは上座に座っている村長の方でさ、彼はその村長の目を盗みながら、役所の電話で同窓会収集の連絡をつけている。
東京でしがないシナリオライターをしている良人の元にも連絡が入る。
あの市川先生が定年になったのを記念して、皆に収集をかけているのだと聞いた彼は、実に30年ぶりに帰郷するんである。
そこは、かつての初恋の相手、みどりが女将として切り盛りする料亭だった。
すっかり白髪頭になって、でも泰然とした雰囲気は変わらない先生の前で、どちらかというとこっちの方が年をとったってな雰囲気の教え子たちが、近況、というより、これまでの辛酸をなめた人生を披露する。
時は戦争を挟んでいる。女性たちは揃って夫に死に別れてる。嫁いだ先の兄も再婚した弟もそんな目にあって、自分の咎じゃないかと苦悩したりする者もいる。
手近な都会である広島に出た者たちは、あの忌まわしきピカドンにあって、生々しいケロイドを頬に貼り付けた者もいる。もちろん戦争中に命を落とした者もたくさんいて……だからここに集っているのは、かつてのやっと半数。
新藤監督のもうひとつの自伝と言える、他の監督に託した前作「陸に上がった軍艦」で語られた、戦地に行けなかったことでどこかに感じていた負い目を、良人はここで感じることになるんである。
しかし、かつての班長である彼は、同級生を代表して挨拶を送る。
そしてここから、止まっていた故郷での時間が動き出した。
そういう意味ではね、みどりと焼けぼっくいに火がついた(まあ、もともと焼けるところまでいっていた訳じゃないんだけど……)のは、お互い、他の同級生ほど戦争に苦しめられてはいない負い目があったのかもしれない、なんて勝手な想像をしてしまう。
みどりは初恋の相手、良人からの連絡を待ち続けて、10年待って諦めて、料亭の女将に収まった。つまり他の同級生たちのように、夫の出征や戦死といった過酷な運命にはさらされていないんである。
ただ、現在進行形で夫はウワキしている。修行という名目で渡った大阪に女を囲っているんである。
それもまた過酷な運命ではあるんだけど、時代に翻弄された同級生たちの悲運に比べれば屁みたいなものだと言われても仕方ないところもあって、彼女がどこか引いた表情なのは、だからなのかな、と思う。
そしてそれは、勿論、ドンピシャ、現在独り者で丙種合格だった良人=新藤監督も同じなのだ。
良人はみどりに誘われる形で、真夜中の砂浜の更衣室で関係に及んでしまう。そして恐らく、そこで出来たと思われる娘を産んだみどり。
運命のいたずらなのか、時を同じくしてみどりの夫は大阪でヤクザに刺されて死んでしまう。
みどりが自分と結婚したがっていることを知って、更に子供がどうやら自分の子供らしいことを思って、良人は苦悩し、ついには彼女との結婚を決意するまでになるのだが……。
その一方で、市川先生もまた、いろいろあるのね。
先生は定年後、大好きな小学校の近くに一軒家を求めて、子供たちの声を聞いて暮らすのを至上の幸福としていた。
良人たちが訪ねると、上機嫌で、自分には子供たちの声はちっとも騒がしくない、美しい調べに聞こえる、と言ったものだ。本当に、その表情は幸福そうだった。
この時の柄本明は、若い登場シーンの、どっかキテレツだった雰囲気も残しながらも、子供たちを愛してやまない気持ちを変わらずに持ち続けておじいちゃんになった、そんな幸福な気分を漂わせていた。
漢詩のような詩吟のような、独特な言い回しもそんな気分を感じさせて、縁側や、庭に出したテーブルでのコーヒータイムや、庭仕事に鍬を振るう実践や、そんなほほえましい穏やかさが、なんかもう、とても気持ちを落ち着かせるのだ。
ここが、終の棲家の筈だったのに。
ここで、幸せに人生を終える筈だったのに。
先生は、脳卒中に倒れてしまう。言語が不自由になり、身体も今までのようには動き回れなくなる。
子供たちが大好きだったのに、その声を聞きたくて校庭に入り込んだら、止められてしまった。
かつての先生だったことは知っている。敬意は表している。でも、体の不自由な老人が入ってくると、授業のジャマになる。……それは、不審者侵入に殊更に神経質になっている現代の学校事情を思い起こさせもする。
いや、ここでは全然違う。かつての先生なのだと、尊敬すべき先達なのだと、子供たちに説明すればいいだけの話なのだけれど、やはりここには、監督自身の現代へのアンチテーゼを感じてしまう。
そんなこともあって、娘さん夫婦の元に引っ越すことを決意した奥さん。訪ねてきた良人たちにそう報告する。
先生は、言葉はすぐには出てこないけど、でもゆっくりとなら、喋れるのだ。
良人脚本のテレビ番組も欠かさず見ていると、ゆっくりと一音ずつくりだす先生の言葉に耳を傾け、次第に涙がこぼれてくる良人たち。それにつられる前に、こっちも涙がこぼれてくる。
あんなに表情が豊かな先生だったのに、でも一方で、口を真一文字に引き結んで全てを受け止める表情も印象的だった先生。
今は表情を作ることはとても難しくて、頭の中に浮かんだ言葉を一音一音出すのももどかしいだろうに、でもだからこそ、ひとつもこぼすまいと思って……。
急いで、言葉を先読みしたりしないのだ。それも出来るだろうに。言いたいこと、言いそうなことを、こうなのねと先読みすることも出来るだろうに、奥さんも、教え子の良人たちも、絶対に、それはしない。
先生がこの地を去る時、声のボリュームが出ない先生に替わって、一音一音の言葉を聞き取りながら、街のみんなに“通訳”する場面は、もう号泣。
先生が校内に入ることをいさめた用務員や校長も、勿論かつての教え子も、道端で農作業をしていたオバチャンたちも、トラックの荷台に泰然と座ってこの地を去って行く先生に、深々と頭を下げるのだ。
もうそれが、それが、それが……人生って、こうあるべきなんだなあ、なんて思っちゃったりして。
結局先生は、娘夫婦の元で最期を迎えるんだけど、その前に先生を訪ねた良人、その最後の時間がまた、すごく素敵だったのだ。
先生は、良人に足をさすってもらって気持ちいい、と相好を崩し、そして、海に行きたい、と請う。
歩けない先生をおぶって砂浜を歩く。先生は、歩きたいと言う。良人は一瞬躊躇したけれど、先生をおろし、両手をとって歩くのをサポートする。
そろそろと一歩一歩を差し出しながら、歩けたぞ、歩けたぞ!と嬉しそうな先生。心配して遠くから見守っていた奥さんの顔が見る見るうちにくしゃくしゃになる。
寄せては返す白波。足元を横切るカニ。なぜカニは横歩きなのだろうとふと問う先生に、良人は笑顔で「生き物は皆、それぞれですね」
そうだ、身体が不自由になった先生も、泣かず飛ばずの脚本家の良人も、村長にまでのぼりつめたら昔の居眠り癖が復活した三吉も(というより、居眠りは前村長からの引き継ぎ?)、女手ひとつで娘を育てていくみどりも。
カニはなぜ横歩きなのだろうと、先生がかつての教え子に躊躇なく問うほがらかさも、そのままそこに通じてる。
そんな価値観は、子供の頃、きっと先生が教えてくれていた。
監督の人生の経過も知っているから、その中で切り取られたこの物語に、当然感慨を感じざるを得なくてさ。
大竹しのぶや六平さん、田口トモロヲは、「ふくろう」の強烈さを思い起こしちゃう。いい意味での軽さ、ユーモアを託せられる人たち。その信頼関係。
劇中描かれる、少年時代の良人がチャンバラ映画の撮影隊と遭遇する場面なんか、その後に監督が映画業界に関わることを考えると、どっぷりとした愛を感じるんだよなあ。
サイレント風な演出も効いてたし、映画監督役の原田大二郎が、そういう大仰な時代っぽさに、ピッタリなんだもの!やはりそれは……「蒲田行進曲」を想起しちゃうから?いやいや、彼は、新藤作品に出てるんだもん!あー、未見なのが悔しい!
でもやっぱり、柄本明なんだよね。彼が素晴らしすぎて。
きっと本当に、こんな先生だったんだろうと思う。きっちり、役を演出したんだろうと思う。恩義のあるこの先生を自分の作品にきちんと残さなければ、そんな監督の気持ちが強く伝わってくる。
市川先生には、新藤監督自身の純粋さ、奔放さ、真摯さも、感じる。こういう人になりたいと思う先生だったのだと思う。だからそれは、要素として子供の彼の中に、存在していたのだ。★★★★☆