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「お」


2025年鑑賞作品

おいしくて泣くとき
2025年 109分 日本 カラー
監督:横尾初喜 脚本:いとう菜のは
撮影:山崎裕典 音楽:上田壮一
出演:長尾謙杜 當真あみ 水沢林太郎 芋生悠 池田良 田村健太郎 篠原ゆき子 安藤玉恵 尾野真千子 美村里江 安田顕 ディーン・フジオカ


2025/4/21/月 劇場(TOHOシネマズ錦糸町オリナス)
観終わってデータをチェックして、あ、この監督さんの作品、結構追いかけてた、私!と気づいた。いつものことだが時間が合って飛び込んだので、情報を入れていなくて、しかもチケットカウンターで、タイトルなんだっけ、「悲しくて泣くときお願いします!」とか言っちゃって、悲しくて泣く、ってそのまんまやん、と自分にツッコミ入れたりして。

そうかそうか、「こはく」「こん、こん。」の監督さんだった。なんか腑に落ちた。
本作は、結構泣かせに来ているというか、バック音楽がかなり大げさにかかってくるし、イジメシーンがベタだったり、クライマックスの、絶対に破綻するに決まっている二人の逃避行もまたベタベタだし、いつもの私ならケッと言いそうなもんなのだが、なんか不思議に、素直にじんと来てしまって、あぁ、いいなぁ、と思ったのだった。この監督さんと知れば、まさにその感じこそなのだと腑に落ちたのだった。

主演のお若い二人はとても瑞々しく、特に男の子の長尾謙杜君はお芝居の初々しさがドキドキするぐらいなのだが、逆にこうしたお芝居を見せてくれる若い役者さんって、今なかなかお目にかかれない気もする。みんな上手いから。
いや、ヘタというんじゃなく(爆)、この役そのものの、純粋でまっすぐな男の子を体現してくれている。

この物語は30年の時を経ていて、彼の30年後をディーン・フジオカ氏が演じているというのが、イケメントゥイケメン。冒頭はディーン氏演じる心也が切り盛りする、こども食堂を兼ねたカフェのシーンから始まるのだが、かなり衝撃的である。だっていきなり車が突っ込むのだもの。
店中がぐちゃぐちゃになり、テレビ取材がやってきて、心也がインタビューに応える。そのニュースを見て訪ねてくる女性がいる……という頭とお尻を挟んで、30年の月日が描かれる。

オチバレでもないので、この頭とお尻を言っちゃおう。心也は父親から引き継いでこども食堂をやっている。そこに食べに来ていたのが同級生の夕花とその幼い弟。後に明かされるところによればこの弟は再婚した義理の父の連れ子で、酒浸りのこの父親は夕花に当たり散らし暴力をふるう。
冒頭で、30年行方不明の姉が今年も見つからなかった、と訪れる弟がまず現れる。今も、30年前も、この弟はクズ父親と自分のせいで、お姉ちゃんが辛い目に遭ってしまったことを申し訳なく思っているのだ。
その30年前は、本当に幼い、小学校低学年な感じの弟で、僕のせいで、と思い悩み、こども食堂でもおかわりを遠慮するような健気さ。

弟の来訪のシーンから始まったから、最終的にこの弟とも再会させてほしかったなぁと思ったのはあったかなぁと思う。本作にはまぁ色々、そんな具合に言いたいことはあるのだが、でも前述したように、なんかぐっときちゃう、愛おしいと思っちゃうんだよなぁ。

心也は幼い頃、母親を病気で亡くしている。最愛の母。授業参観に来てほしいと指切りげんまんしたのに、それはかなえられなかった。それ以来、心也は軽々しく約束をしない決心をしている。
夕花と出会って、お互いはぐれもの同士心を通わせ、これまたベタに図書館の誰もいない書棚の隙間で距離を詰めて(いや、このベタさがイイのよ)、思いっきりザ・青春の恋物語なのに、それぞれに、親由来のしんどい思いを抱えすぎてる。

心也はその愛ゆえだからまだいいけれど、夕花は、庇護が必要である子供、という立場故に、理不尽に苦しめられる。
子供と言ったってもう、高校生だ。精神も肉体も充分に大人なのに、社会に出ていない、自立生活を出来ていないというだけで、親という名の、大人という名の暴力にさらされる。

ちょっとね、ひやりとしたのだった。性暴力があったらどうしようって。もちろん、肉体的暴力、精神的暴力で充分に追い詰められるのはそうなんだけれど、女の子が義理の父親に暴力をふるわれる、となると、やはりヒヤリとする……。
母親が出てこないのもちょっと気になったんだよね。結果的に夕花が30年も行方不明になった、というのが、血がつながっている母親がいる筈だったら、なかなか理解しがたい状況ではあったから。

子ども食堂、当時はそうした概念が浸透していなかったから、子どもごはん、として提供していたのだが、心也は学校で偽善者とののしられ、店に来ている同級生から、自分が行っていたことをバラしただろうと責められ、暴力、机への心無い落書き、本当にツラいんである。
でも何か……そうね、30年前という設定もあるのかな、先述したように、どこか懐かしくベタなイジメ描写で、店に来ていた同級生と後に照れくさい和解をするあたりまで、これぞエモいっていう感じなんである。

夕花とその弟もまた、店の常連だったのだけれど、二人は会釈をするぐらいの関係性だった。同級生にいじめられるのもあるし、心也は子ども食堂の息子、ということに辛くなってきていたから……。

今や完全に受け入れられている子ども食堂の、その始まりはきっとそうだったんだろうと思う。いや、今だってそうかもしれない。心也の父親を演じるヤスケンが、めちゃくちゃ滋味深くて、散々言っちまった、ベタさや危うさを、彼の滋味深い芝居がすべて拾い上げてまとめ上げてくれる感じがする。
夕花とその弟、自分の貧しさを恥じている同級生、その他、ここに来るすべての子供たちの事情をこのお父ちゃんは詳しく知っていて、でも何も言わずにいくらでも食べていけと笑顔で、看板メニューのバター醤油焼うどんを提供するんである。
この焼うどんこそが30年後、夕花の失ってしまった記憶を呼び覚ます。嗅覚、味覚、店の間取り。帰宅した心也が消えていった階段の先。

おっと、感動のラストにうっかり行ってしまいそうになった。えーとね、心也と夕花は、お互いはぐれもの同士、学級新聞委員を押し付けられるのね。結局、この新聞の完成を見ることは出来ないし、いつの間にか、二人がヒマだからヒマ部、という展開に落ち着いちゃうのだが。
これはちょっともったいなかったなぁ。どこに取材に行くとか、誰かに助っ人を頼むとか、そういう会話も垣間見えていたから、彼らと同じように孤独を抱えているキャラクターと相まみえることも期待できたんだけれど。原作はどうか判らないけれど、映画作品となると難しいということなのかなぁ。

夏休みとなり、ヒマ部の活動として映画に行こうと決死の勇気を振り絞った心也だけれど、私の方から連絡するね、と夕花は言ったきり、音沙汰ナシ。
父親の粋なはからいで、デートに誘いに出かけたら、クズ義父に暴力を振るわれているところに遭遇、先述の同級生に助太刀され(コイツ、男気あるのよ〜)、遠い所へと、海へ向かって一両列車にゆられてゆく。

海とかさ、祖父母のところに遊びに行ったところだとかさ、何の目算もないのに、とにかく遠く遠く逃げればなんとかなると思い詰めるとかさ、今でもそんな、眩しいぐらいなピュアな気持、あるのかなぁ。
乗り合わせた、いかにも喪服な女性、演じるは安藤玉恵氏、凄くイイ。姪の49日なんだと。事故で亡くなったんだと。あなたたちと同じ年ね、と言って。

生きていればいいことがある、そう言った女性に、そうでしょうかと夕花は問い返した。女性は、何か汲んでくれてたのか、そうよ、と断言してくれた。
このシーン、凄く良かった。もちろん、夕花は心也の勇気に背中押されたのだけれど、それが一番だけれど、第三者の大人、自分のことを、自分の事情を何も知らない大人に、生きていればいいことある、とまじりっけなく言ってもらえたことはとてもとても、大きかったに違いない。

こういう場面で、こういうこと言える大人になりたいとメッチャ思う。身内の大人では出来ない力ってあると思うから。
もちろん、本作の、心也の父親、ヤスケンは、息子の背中をメッチャ押してくれる、凄くいい父親。今日は帰れない、その事情は今は言えない。でも自分を信じてほしい、という心也に、このバカ息子と言いつつ、信じてる、と言ってくれたの、凄く良かった。

めちゃくちゃイイんだよね、このお父さん。幼い頃に妻が死んで、やっぱり子供って、お母さんの方が上位、絶対だからさ。それを充分判っていて、だから、妻が先立ってしまって、子供が自分以上にキツいっていうことも判ってる、それがとってもイイんだよね。
心也が、学校でキツい目にあって、子供ごはんはもうやめてほしいと言った時、台風で、もう客が来ないからと店じまいして、明るいうちに飲むビールは最高だとか言って、でも外は台風で暗くて、ヤスケンは、いや、ヤスケン演じる父親はゆっくりと、語ったのだった。

奥さんと約束したこと。それは、自分の意志でやることはやるんだと。外野から言われる偽善だのなんだの、ということには言及しなかった。言い訳は、絶対にしなかった。そして、息子のお前が辛いなら、やめてほしいというなら、俺の意志で辞めるよ、と言ったのだった。

凄く、良かったなぁ、ヤスケンのこの芝居、芝居と言いたくないぐらいに、なんか、間合いというか、台風で外が暗いけど昼間のビールと言って、クッとしみじみ飲み干す感じとか。
結局というか、結果として、心也は30年後になった現在、父親の意志を引き継いで同じ場所で子ども食堂を営んでいる。そしてこの場所で、あの逃避行の末に行方不明になってしまった夕花を待ち続けている。

夕花は、自身で警察に電話をして、自らを保護させた。父親の暴力から逃れた、ということがあったからだろう。それにしても心也ってば、その経過中居眠りして全然起きないっつーのはどうなのよとも思うが、まぁそれは言わない言わない。
それから30年、彼女の行方が知れなかったのは、執拗に追い回す父親によって、殴られて後頭部を打ち、記憶を失ったからなのだと。うわー、久々に見たわ、半世紀前的少女漫画チック展開!

テレビのニュースを聞いて、女性が訪ねてくる。工務店を経営しているのだと、理由は聞かずに、修復をタダで任せてほしい、交換条件があるのだと言うんである。
冒頭でそれが示された時には、なんか詐欺かなんか?と観客であるこっちも面食らったけれど、物語が進むと、そらまぁ、察しはついてくる。

この女性は、夕花の娘。夕花は心也との逃避行の時、海辺の素敵なバルコニーのついたお家に心奪われた。いつかこんな家に住みたいと言っていた。
その後、記憶を失ってしまったけれど、建築士になりたいという夢は失っておらず、工務店を経営するまでに至った。そして彼女の娘が、あのニュースを見て、もしやと思い訪ねてきたのだった。

なもんで、このラストシーンは、記憶を失った夕花が、娘によって導かれ、30年ごしの記憶を取り戻す感動シークエンス。いろいろ??な部分はあった。義理の父親に殴られて頭打って記憶喪失、その後行方不明、娘も母親の本当の名前を知らなかったとか、なんでそうなるの??とか。夕花の事情を汲んで、身内から遠ざけたとか??でも役所の手続き的なものとかさぁ……。
まぁその、そうした、ヤボなことは考えちゃうけど、考えちゃうんだけど、結果じんわりしちゃったのよ。ラストシークエンス、そりゃさ、ディーン氏、オノマチ氏じゃぁ、そりゃもうそうなっちゃうじゃん。
バター醤油焼うどん、タイムリープしたかのごとくの、30年ごしのカットバック。かつての初恋は、お互い信頼できるパートナー、子供たちを得て、笑顔で迎えられる。最高っす!★★★★★


おーい、応為
2025年 122分 日本 カラー
監督:大森立嗣 脚本:大森立嗣
撮影:辻智彦 音楽:大友良英
出演:長澤まさみ 橋海人 大谷亮平 篠井英介 奥野瑛太 寺島しのぶ 永瀬正敏 和田光沙 吉岡睦雄 早坂柊人 笠久美 一華 小林千里

2025/10/19/日 劇場(TOHOシネマズ錦糸町楽天地)
アニメーションで、この葛飾北斎の娘を描いた映画作品があったっけ、話題になっていたのに観なかったんだよなぁ、と今更ながらちょっと後悔するものの、実際の絵画、というか、もちろんそれを描いているという描写としてだけど、模写ではあるけれど、アニメーションの中の絵じゃなくて、実際の絵として見られるリアリティが、凄く良かった。いや、実際、そのアニメーション作品を観ていないんだから、どんなふうに描かれていたのかも知らんでアレなんだけど。
でも、出演者お三方が語っていた、絵を描く練習のことを耳にするとやっぱり……あの細い筆で、少しの力も惑いも出てしまう、日本筆で描く当時の絵師たちの凄みをこそ、本作は描いたと思うし、観ているこっちもなんだか緊張しながら見てしまう。今、まさにリアタイの大河ドラマで、絵師たちが描いている描写が何度も描かれるので、興味が高まっていたところにドンピシャであった。

そして、そう、北斎の娘、というのを、アニメーション作品で観ていたら触れられていたのだが、そこをスルーしてしまったために、へー、娘がいて、絵師だったんだぐらいの知識が頭の片隅にあるだけだったので、その娘、葛飾応為の実際の作品を劇中で見て、驚いてしまった。
なにこれ、私が知ってるこの時代の絵師たちの絵と、全然違う!!江戸のレンブラント、まさしく!そして劇中、まさにこの絵を、応為が、演じる長澤まさみ氏が、信じられない精緻な筆遣いで描いているシーンに息を飲む。

当時としては珍しい女性の絵師、いや、そもそも応為以外にいたのだろうかと思ってしまう。もし才能があったとしても、時代的、かつ物理的に無理だろうと思う。
それは、もうこの物語の冒頭で示唆されている。応為は嫁ぎ先、絵師の夫に暴言を吐いて離縁となった。つまりは一応、当時の女性として、道義は通したというか、形は踏んだというか、そういうことなのかもしれないと思った。

出戻ってきた娘に北斎は、せっかく片付いたと思ったのに、みたいな台詞を吐くけれど、その後何十年もこの父と娘は、けんつくやりながらも一緒に絵を描き、共に暮らしていったのだから、そうか、北斎こそが、その道筋をつけるために、出戻ってくる道を用意したのかもとさえ思えてしまう。

フェミニズム野郎なので、どうにもそういう方向が気になってしまう。でも絶対、そうだよね。応為を演じる長澤まさみ氏は、そんなフェミニズム野郎の溜飲を下げまくる女性を体現してくれている。
そのすらりとした長身を着流しに包み、素浪人のように低い腰の位置で帯を締め、裾はつんつるてんですねの半分がにょきりと出ている無防備さ。実際はどうだったのかは判らないけど、少なくとも性質は父、北斎と同じようにかまわない性格だったと残されているし、めちゃくちゃありうる、いわば男装、いわゆる、女子の格好をしていないってこと。

女性の絵師がほとんどいない、という当時、そりゃそうだよな、と思う。物理的に、あまりにも無理だから。当時の常識として嫁いでしまえば、女性は朝から晩まで家事に忙殺されてしまう。子供が出来ればなおさらである。仕事は家事と育児。それ以外に割く時間など、あり得ない。
だからあの当時の女性が、才能があって、その道に行きたいと思ったならば、こんな風に、一度はその道に行ってみたけれど、縁がなくて出戻りとなり、お父様のお世話をしながら暮らしているんです、という言い訳が、理由が、きっと必要だったに違いないのだ。

本作の語り口では、応為の男勝り、不器用さ、いわば天衣無縫の魅力がさく裂しているけれど、やっぱりやっぱり、女が収まるところに収まってしまったら、家庭に収まる以外何にもできない、あの時代、から、長く続く苦悩の時代を、描いてくれたということだと思う。

だって、まぁさぁ、長身の長澤まさみ氏が、着流しスタイル、足首から上10センチぐらいまる出しして、しゃがみこんでそばをすすったり、長キセルをふかしたり、髪もばっさばさにひとくくりにしてさ、まーこれはさ、女子校でめっちゃモテる剣道部の先輩、みたいなさ!
記録に残るところから応為自体が、当時の女性の常識、たしなみといったことを、苦手だという言い訳、というか、私はそうなんだ!というもとで、一切やらなかった、ということを、本作の彼女が体現している、ってことなんだろうなぁ。

惚れ惚れしてしまうんだもの。まさしく、男装の麗人。女子にキャーキャー言われちゃう、今なら。でも当時は、奇異の目で見られていたのだろう、こういうカッコをしていたかどうかは判らないけれど、出戻りで、父親と共に絵ばかりを描いていた女の子、というのは。
単純な言い方だけど、武装、だよねと思う。絵師と言えば男、男を模して、武装する。出戻りの、嫁としては機能しない女という烙印を自ら、父親の北斎も加担してつけて、この父と娘は、絵の道に邁進したのかと思ったりする。

ぐっちゃぐちゃの、きったない長屋で、似た者親子の北斎と応為が、かがみこんで、目を極限まで近づけて、一心不乱に絵を描いている。引っ越し魔の北斎に従って、何度も荷車を往復する。そこには、愛犬のさくらが大人しく乗っかっていてほっこりとする。
この父と娘の物語が大メインではあるけれど、三人目のメインとして、応為にとっての幼なじみチックな絵師、英泉=善次郎が登場、橋海人氏演じるこのキャラクターが、絶妙な味付けを施すんである。

最終的に絵師であることすら放棄し、茶屋を営むこの善次郎は、北斎、応為親子が貫いた、絵で生きるということを、彼らを見て、断念した、ということなのか。
この究極的親子の前には、冒頭の、応為が見限った夫の絵師がまず描かれ、イイ男の兄弟子への恋心も、たっぷりと尺を取って描かれたのちに、妹みたいに思っていると言われて撃沈。つまりは女子としてのあらゆる可能性を潰されてから、という風にも見えて、ちょっと気にいらない気持ちにもなるのだが。

でも何より、娘、応為が、父北斎と共に、何十年も共に暮らしたこと、過ごしたこと、時代的に女性がクリエイターとして認められなかったことを、どう応為が飲み込んでいたのかは知る由もないけれど、後の研究で北斎の晩年の仕事は特に、彼女が相当関わっていたことが明らかにされると、なんか、すっごい、いろいろ、考えてしまうのだ。

本作で応為は、現代の女子たちがカッコイイ!と思うような、だらしない宝塚スターみたいな(ヘンな言い方だけど)、いわゆる、男を模倣しながら、男を揶揄するような、姿であった。
豪胆で、自由奔放であったと伝えられる彼女を、映画の主役としてこうしてキャラクターを作り上げた時に、彼女は絵師としての自分を世間に認められたかった、という解釈として描いたんじゃないかと思って。

だとすると、なんというか……ちょっともやもやとしてしまう。でもそれは、仕方ない。事実、史実、なんだから。父、北斎と共にその最期まで過ごした。でもその先、彼女自身のその後の人生は明らかではないという。

父と娘なんだから、何の問題もないんだけれど、女子は嫁いでいくのが当たり前の時代、まぁ、婿を取ることもあるにしても、結婚せずに親と、しかも父と二人で、その父を看取るまで暮らしたという物語を、私は他に知らない。
もちろん、これが有名画家親子だから残った話で、一般的にあったのかもしれないけれど、とても、珍しいと思う。

なんとかかんとか多様化が浸透した現代日本であったって、なかなか聞かない話だ。母と娘はある。でも、それ以外の組み合わせはなぜか、途端に難しくなるのは何故だろう。
父と息子、母と息子、そして、本作の父と娘は、一番想像が難しい。それが絵師同士、同じ職業だけれど、まったく違う指向性を持ち、でも娘の応為は、父親からの影響を、照れくさそうにふてくされながら認め、父親もまた、娘の才能に驚かずにはいられないという、この稀有な関係性。

北斎がなんだかんだ、当時としても、今の時代から考えてもメッチャ長生きだったのは有名で、語られるところで、しかも生涯現役で、最期まで描きまくっていたと。
だからこそ、研究や考察が熱を帯び、娘の応為が、彼女自身の作品数が妙に少ないこともあって、手伝っていたり、実際は代理で描いていたんじゃないかという見方もあるのだと。

これはさ、これは………まさしく、フェミニズム野郎としては、解明してよ!タイムマシンに乗って、彼女が全部描いていたのか、一部補助していたのか、著作権を明らかにさせてよ!!とすんごく、思ってしまって……。

北斎の教え子であり、応為とは、幼なじみみたいな雰囲気、酒好き、女好きの善次郎が、今の時代にも通じる、才能があっても、情熱があっても、社会って、そんな上手くいかんすよ、ってことを体現する。
のらりくらりと、応為への恋心、っつーか、欲望も上手に隠しながら、この時代に対応している彼は、どういう理由なのだか(調べれば判るのだろうが)、北斎と応為に見送られる若き死を遂げてしまう。

彼の存在は、本作においての葛飾親子の解釈の、最も大きなものだったと思う。何か、実際に存在したのかと思うような、無邪気ではかなげで、特に応為にとっては気の置けない弟みたいな雰囲気があった。
だからこそ、ちょっとエロなかましを受けた時、彼女も、私たち観客もドキドキとし、そのままスルーされたけれど、あぁ、善次郎は応為が、ずっとずっと好きだったのかなぁと、思ってしまって。

北斎がめっちゃ長生きだというのはなんでだか知っていて、だから演じる永瀬正敏氏は、白髪になり、はげ散らかし、特殊メイクで肌をリアルに老いさせて、もはや永瀬氏ではない状態になる。
一方で、長澤まさみ氏は、白髪まじりがちょこっとぐらい。永瀬氏が特殊メイクまで至っているのと対照されて、正直違和感はややあったが、長生きの北斎と、没年がはっきりしない、つまり女子の詳細が当時は記録に残すほどの興味がないということを示す応為、ということだとフェミニズム野郎は自身を納得させるようにしている。

描写がとてもゆっくり。フィックス場面が多用され、フリーズしてるんちゃう、と、何度も思っちまった。丁寧に描いていると言えばそうなんだけど、あくびをかみ殺しまくり、眠気と闘いつづけたのは正直なところ。
応為の実家、北斎の嫁と盲目の幼い息子のシークエンスは重く、応為自身も深く関わっているが、この場面が特にゆっくりゆっくりだったので、眠気で記憶が薄い…サイアク、ごめんなさい!!★★★☆☆


オオムタアツシの青春
2025年 106分 日本 カラー
監督:瀬木直貴 脚本:松本稔
撮影:宗大介 音楽:田上和由
出演:筧美和子 福山翔大 林田麻里 陣内孝則 SHIGTORA たかお鷹 佐藤正和 西尾聖玄 宮崎恵治 奥野楓 松田メイ 建山史奈 森永晋 森川勝太 小林祐樹 中島裕貴 小野塚勇人 佐藤寛太 芹澤興人

2025/10/13/月 劇場(シネスイッチ銀座)
オオムタアツシ、という人がいつ出てくるのかしらんと、ずっと待ってしまった。普通はタイトルロールが主人公だしなぁ、でも筧美和子氏がヒロインだしなぁ、とか思いながら。
当然、大仁田厚氏にかけているのだと思ったが、実際そうなんだろうとも思うけれど、それには全然言及しないから、アレッと思ったり。大仁田厚かよ!みたいなさ、ひとくさりを待っちゃったが、なかった。

つまりはオオムタアツシというのは、大牟田市で偶然出会った三人、ファーストネームの頭文字をとってアツシ、それを陣内孝則氏演じる静男が始める焼き鳥屋の店名にしようと、三人が出会うきっかけとなる、そういう意味では彼女こそが主人公かもしれない小学生の女の子、日菜子が命名するんである。

タイトルの引きがあるんだから、大仁田厚とかけてるだろ、というところは聞きたかったなぁ。ことさらにシリアスになりがちな展開だったから、余計に。
いや決して、重い物語じゃない。ハートフルだし、クスリとさせてくれる場面が沢山ある。
特に、陣内氏演じる静男と、筧氏演じる亜美は短気で強気なのに人に弱みが見せられないという性格がよく似ているせいか、丁々発止のやり合いがしょっちゅう勃発するんだけれど、周囲が心配するほどには、観客はそうは感じず、仲の良いケンカを微笑ましく見ている気分になり、それが本作にずっと流れている空気感のように思う。

一応筧氏が単独主演という触れ込みではあるけれど、亜美、静男、そして福山翔大氏演じる青年、司、日菜子の四人が同等の主役、という感覚。それぞれに割かれるバックグラウンドの重さや尺に至るまで、四人が同等という印象。
一人一人でも一本作れるぐらいのキャラクターだから、もったいない気もするし、ならば、この四人での化学反応ならば、と思った部分も正直、ある。四人はそれぞれしっかりと関係し合っているけれど、結局は一人一人の物語を持ち寄っているに過ぎない感じがするというか……。

筧氏演じる亜美が、大牟田市で洋菓子店を開こうというところから始まる。同じ製菓学校で一緒だった友人と共同経営する筈だったが、次のシーンでは彼女から、いわば三下り半を突きつけられる。
亜美の自分勝手さ、横暴さ、見下す態度に耐えられないと、電話の向こうでその友人は、たまりにたまった気持ちをようやく吐き出すように、言ったのだった。

そんな亜美がまず出会うのが、下校途中、同級生たちから土手下に突き落とされる日菜子である。足にざっくり怪我をしてしまって、そこに居合わせていた静男と司が加勢し、病院へと運ぶ。日菜子は同級生たちに突き落とされたことを母親に言わないでほしい、自分から言うからと懇願するんである。

日菜子を乗せて病院へと運んでくれるのが、車上生活をしている静男。後に明かされるところによると、地方議員を務めていたんだけれどパワハラで糾弾され、辞職。たった一人の味方だった妻が亡くなった後、放浪の旅を続けている。
そして首にタトゥーが刻まれている青年、司は、悪い仲間たちと傷害事件を起こし、実刑を喰らった後、地元から離れた大牟田に仕事を得るも、その悪い仲間たちが大牟田にあらわれてしまって、あわやその道に引き戻されそうになる。

そして、同級生に突き落とされた日菜子は、ランドセルにヘルプマークをつけている、1型糖尿病を持っていて、幼いい頃から自身で注射をし、血糖値に気をつけながら日々を送っている。
後に母親も言うように、自身で律しているしっかりした女の子なのだし、何も制限する必要などないのだが、その母親が、いわばこれは……母親的承認欲求というか、娘からハッキリ言われるところの、子供のせいにして自分がやりたいことが出来なかったという卑怯さを、あなたのために、というサイアクの言い訳の元に発動している。

こうして書いてみると、それぞれの登場人物に重いバックグラウンドがあるんだけれど、その人以外の人物が関わってきて、その人物と共に解決に至るのは日菜子ちゃんだけで、そういう意味でもやっぱり彼女が真の主人公だった気がする。

司もまた、昔の悪い仲間が登場して、再び彼を悪の道に引きずり込もうとするけれど、つまりその悪い仲間たちは過去の遺物のまま変わっていなくて、言ってしまえばちょっと、マンガチックなまでに取り残されてて、司が改心したなら、彼らだって、彼ら全員とは言わずとも、4、5人もいるのなら、もう一人ぐらいそういう男の子がいたっていいじゃんと思うのだが、めっちゃきっちり、ザ・悪い仲間グループで司の前に現れるもんだから……。

先述したように、一人一人の登場人物で、一本ずつ作品が出来そうと思うのはこういう部分で、例えば司だけを主人公にした物語なら、他の仲間たちが全員、何の反省もなく、一律ワルの道に戻ってきたのなら、司だけが苦悩しているという図式はあまりにも不自然だし、彼の苦悩を共有できる人がいないという点で、物語がもたないと思う。
それを本作では、それぞれに人生の苦悩を持った人たちが寄り集まって彼を支えるのだけれど、司は最終的には彼の抱えた事情を吐露するけれど、他のみんながそれぞれ抱えている事情が重くて、結果的に、とっ散らかっているといったらアレだけど、なんだかあいまいに着地してしまう印象がある。
それこそ、静男が自身の持病を皆に隠していて、司をワル仲間から救った先で、頓死してしまう、みたいに、途切れてしまう。

本作が着地する、というか、決着点として言いたいところは、この大牟田という町が、かつて炭鉱地として栄えた町が、今は少しさびれてしまったけれど、その歴史から、外からの人たち、事情を抱えた人たちも、寛容に受け入れるという風土がある、というところなのだ。
静男が司を救い出すために、町会の会議に出られず、亜美に代理を頼む。そもそも亜美がなぜこの大牟田に店を構えようと思ったのか、最初こそは、いずれ博多に店を出したいけれど、とりあえず、みたいに言っていた亜美が、この会議で話したのは、祖父母がこの町に流れ着いたと。外から来た人たちに寛容であったことを話していたんだと。この町はそういうところじゃないんですかと、静男や司の過去を問題視する町会の人たちに訴えるんである。

祖父母の話はここでいきなり、という感じだし、亜美が何度か話す、スマホの向こう側の母親は、彼女にとって束縛の対象でしかない。でもだからこそ日菜子ちゃんの気持ちに寄り添うことが出来て、日菜子ちゃんの母親の頑なな心を解きほぐすことにもなるのは確かにそうなんだけれど……。
こんな具合に、登場人物のバックグラウンドが重たそうなだけに、語り切れない、描き切れない、もどかしさがある。それが、日菜子ちゃんという、持病を患いながらも、同級生や母親の理不尽さと闘っている子供の力強さが大きいだけに、本当に、もどかしく感じてしまう。

亜美が、共同経営しようとしていた友人から突きつけられた彼女自身の傲慢さ、自分勝手さは、同じようなキャラクターを持つ静男とのぶつかり合いで自覚的にはなってくるけれど、それ自体に向き合う場面はないのが気になる。
静男は自身のパワハラが世間に流出していることで、偏見の目を向けられはするけれど、これまたちょっと優しすぎる展開で、救われてしまう。救われてしまう、だなんて言い方はアレだけど、この収束の仕方は、本作が、大牟田市のご当地映画なスタンスを感じるところで、結局はそこなのか、という気持ちがある。

ご当地映画というのは、今とても重要なスタンスで、大抵は東京がほとんどとなる大都市での製作スタイル、それはインディーズであっても大抵そうであるというのこそが大問題で、だから本作はとても意義があるし、当地のスターたちが目白押し出演で素晴らしい。
でも、盛り込みすぎたかなぁという気持ちは否めない。本作の物語として最も押し出すべきところは、かつて炭鉱町として栄え、その後さびれてしまったけれど、その歴史があるからこそ、どこから来る人も、どんなアイデンティティを持っていても、過去に傷ある人でも、寛容に受け入れる町だというところだと思われる。

まずそこがあって、あらゆるバックグラウンドを持つ人たち、というアイディアになったと思うんだけれど、その、あらゆるバックグラウンドを持つ人たち、をすべて詰め込んじゃったら、それぞれうっすい共感しか注げない、と歯がゆく思ってしまう。
すべてのキャラクターに濃い熱い共感を注ぎたいのに、掘り下げ切ってくれなくて、立ち止まってしまう。

静男さんのパワハラ問題なんてさ、まさに現代社会のリアルな話題だし、愚かな過去を顧みて生き直す静男さん、という展開こそが、過去のあやまちを未来永劫叩き続ける勢いのSNS社会の傲慢を明らかにする格好のストーリーだったからさぁ……。本当に、もったいない。
日菜子ちゃんが自身の持病をコントロールしながら、格闘技を習い始めて、試合に挑戦するに至る、静男さんの遺影をかかげて試合を観戦する皆、めちゃ感動するスタンスなのに、こんな具合にあれこれ薄まっちゃってるから、メッチャ、もったいない。

静男さんを死なせちゃうのは、なんだかなぁ。死なせちゃうことなかったのになぁ。司君が準備を手伝っていた静男さんの店を継承する、それ以前に昔の仲間に散々嫌がらせされていたのに、静男さんが亡くなってしまったからなのか、すんなり繁盛している。
洋菓子店をオープンした亜美もまた、気取った店だと言われて傷つきながら、地元の嗜好を考えていなかったことに思い至り、庶民的なメニューを開発する段階で、母親の味などを思い出したりする。そして、今や、アップルパイやマドレーヌが評判を呼んで完売する人気店。

過去に傷持つ人たちが、再生の道を歩む、それを受け入れる町がある、ということだったと思う。個人的には、まぁその、こーゆー、自信満々で高圧的な同級生たちに潰されてきた人生だったから、もちろん更生が大事だというのはそうなんだけれど、なんとももやもやしちゃったなぁ。★★☆☆☆


鬼火
1956年 46分 日本 モノクロ
監督:千葉泰樹 脚本:菊島隆三
撮影:山田一夫 音楽:伊福部昭
出演:加東大介 津島恵子 宮口精二 笈川武夫 中村伸郎 中田康子 堺左千夫 清川玉枝 広瀬正一 佐田豊 中北千枝子 三條利喜江 如月寛多

2025/8/22/金 録画(日本映画専門チャンネル)
たった46分の作品。こんな映画が作られていたなんて知らなかった。東宝でダイヤモンドシリーズと銘打たれて、芸術性の高い原作を用いて作られた作品群なのだという。
加東大介主演というのは確かに珍しいかも。ひょっとして私は初めてかも。ガス会社の集金人の独身男、忠七を演じる彼は、ふくよかな小男、でも若さでぱつんぱつんしていて、いかにも小回りの利く、目端の利く男といった感じ。

彼がやっちまったことは確かに卑怯で許されることではないけれど、妙に愛嬌のあるキャラクターが魅力的で、特に前半は調子のいい彼の様子に時折クスリとさせられる。
お財布を置いたまま買い物に出かけた奥さんに、調子よくしゃべり散らかして機嫌よくガス代を払わせる冒頭は、まるで落語の一節を観ているみたい。
留守に覗くと廊下に子猫がちょこんと座って出迎えて、まるでそのにゃんこに向かってごめんくださいと声をかけているようだったり、置きっぱなしにされているお財布を手にして、懐に入れようかどうかみたいに逡巡した一瞬後、お鍋を上からかぶせて隠してみたり。絶妙な小者感が、やけに人間臭くて、この男、憎めないなぁとつい思わせられてしまうのがヤバいんである。

真夏。モノクロでもぎらぎら照り付ける夏の暑さが伝わる。ほこりっぽい昼日中を、しきりに汗を拭き拭き、扇子をばたばたあおぎながら集金に回る彼は、まずアイスキャンデー屋を呼び止めて一息つき、親戚のおじさんのところに立ち寄って一服し、豆腐売りを呼び止めて買いに来るスリップ姿のしどけない女にくぎ付けになる。
この時代の、赤裸々な市井の人たちが垣間見られるのも本作の魅力の一つ。集金先で、奥さんいぬまに女中とよろしくやっている場面に遭遇したりもし、しかもその後、同僚の男から、上手いこと出くわして、いただけることもあるだなんて吹聴されて、どうやらこの独身男はモヤモヤしちまったらしいんである。

まぁ確かに、ふくよかでぱつんぱつんに若い当時の加東氏は、なんつーか、性欲を持て余しているように見えちゃう(爆)。しかもモテないのに(爆、失礼!)。
下宿先の大家のおばさんからは、モテない男の持ちがちな期待を揶揄されてプンスカするシークエンスも楽しいし、このあたりまでは、モテない男の独りよがりコメディと見えなくもなかったのだ。

そう、見えなくもない……でも違う。その期待をしちゃった、出会った女は、確実に、そんなワールドからは外れていたのだから。
同僚からも、あそこからはとれないよと忠告された家。ぼろぼろの一軒家。本当に、マンガみたいにさびれている。日本家屋は木と紙で出来ていると当時の外国人が驚いたと言うけれど、それはつまり、貧乏をし、手入れが出来なくなると途端に、絵にかいたようなボロ屋敷になるという寸法なんである。

マンガみたい、と言っちまったのは、忠七の世界線……安い給料で暑い中あくせく動き回りながらも、集金先の女たちや、肉体労働の男たちや、ふと出くわした同僚や、銭湯で隣り合うイレズミだらけの寿司屋の大将や………とにかく、生活のリアリティ、エネルギーに満ちているのに対して、ザ・フィクション、怪談話、時代から取り残された世界線にいる、そう、まるでパラレルワールドにいるかのような不幸な夫婦。
そのぼろぼろの一軒家に分け入るには、チクチクする雑草をかき分けていかなければいけない、言ってしまえば結界が張られているようなところなのだ。

カリエスの夫を抱えて、薬を煮ださなければいけないからガスを止められては困る、お願いだからガスを止めないでくださいと懇願する奥さんに、忠七は良くない欲望が膨れ上がってしまう。
彼はこの界隈の集金に派遣されて間もない。自分で言うように、腕があるから、難しい集金地域を任されたのだろう。そうした余裕は確かに感じられる。でも一方で、今まで経験してこなかったような下町の人間の生々しさに当てられた先に、なんだかやたら叙しやすそうな、イイ女が困っているところに遭遇したという形なんであった。

怖い怖い。もう、この哀れな夫婦が登場した時点で、悲劇の結末が見えちゃう。だって、何の救いもないんだもの。この当時の福祉事情は判らないけれど、頼れる何かがあったにしても、きっとこの夫婦はそれが出来なかったに違いない。
忠七が同僚から聞きかじる話からも、そもそもこの時代に一軒家なのだし、いい生活をしていたんだと思われる。なぜ没落したのか、ご主人の病気のせいだけなのか……。

ガリガリになって横たわるご主人=宮口精二の、もう死相が出ている様子が辛い。奥さんが、出かける用事があるけど、帯もないのだから、と行きたくない言い訳のように言うと、自分が巻いている、これもヨレヨレの、正直腰ひもと変わらないようなちりめん帯を渡すのだった。
彼女は夫にこの時何の用事か言わなかったし、帰ってきて、何もなかった、私が愚かだった、そんなことをするぐらいなら、とっくに闇に落ちているのに、と懺悔したけれど、何かあったって、なかったって、こうなってみれば、その有無は大した問題じゃなかったのだろうと思う。

そんな、どうしようもない奥さんを、同僚からそんなうまいイタダキもあるよと言われたにしても、もう見れば、判るやんか。そんな軽い欲望に付き合わせちゃいけない奥さんだってことぐらい。
あぁ、なぜ判らないのか。忠七は彼女を自分の部屋に誘い出し、その日はウキウキと銭湯でひげを当たり、おめーだけの妄想の中でこの奥さんは、いそいそと身支度をととのえ、化粧もし、もう時代遅れなんだけれど、などといって、とっときの帯を締めて彼の元に来るんであった。

バーカバーカバーカ!そんな訳あるかい!!もうどうしようもなくうなだれて、薬草を煮だしていた彼女の姿、ガスだけは止めないでくださいと懇願した彼女から、なぜそんな妄想が浮かぶのかっ。
帯だけは締めてきてくれよ、と、腰ひもだけの彼女に言い放ったぱっつんぱっつんほっぺたの忠七に、キーッ!!と思っちゃう。帯があったら、締めて対応するわ!!

かつては名家であったであろうご婦人が、腰ひもを隠しながら出てこざるを得なかったことに対して、スリップ姿で豆腐を買いに来る女と比して軽々しく言っちゃうコイツに心底腹が立つ。立つけれど……。
スリップ姿の女たちが、そうしたプライドを捨てるまでの葛藤の人生が、この時代にはあったに違いないことを考えると、やっぱりこの悲しき夫婦は、当時、リアルにあったのだろうけれど、これからの時代に取り残された、それこそ怪談噺の中の二人のように思える。

忠七が思い描くような、行きずりの男とちょいとランデブー、寿司をとってくれるとも言っていたしサ、だなんて女性では当然なくって、死にゆく夫との二人暮らしで、自身が働くとかいうことさえ考えも出来ないような、彼女自身が言うように、自分を切り売りすることも当然出来ない人だったのだった。
でもそれが、普通なんであって、こういう時代に、ふてぶてしく生き抜く女性が礼賛され、ドラマ的に描かれてきたことを考えると、大多数はこんな風に切り捨てられてきたんだろうと思う。

この奥さんは最初から、もう幽霊みたいだった。ぼろぼろの一軒家も、怪談噺の舞台そのものだった。夫が病の床について、そうなると何もできなくなる女、という図式は、現代の目から見ると、あほか!!と思うけれど、これもまた時代なのだ。
彼女が言うように、闇の女に身を落とすしか選択肢がない時代、女にまともな仕事などない時代、特にエリートな生活をしていたらしいこの夫婦は、一度没落したら、そういうことなのか。

忠七は、一応は訪れてきた彼女が、せっかくとった寿司も食わず、それどころかヤッちまうことも出来ずに逃げられ、モトをとらねばと、いさんでボロ一軒家に向かう。
その前段で、この悲しき夫婦の、何を取り交わしたわけではなかったけれど、でも……何か、決定的に、二人が、最後を、決めてしまったであろう感覚が、判ってしまう場面だった。

もう息も絶え絶え、ヒゲだらけでげっそりした夫、何もなかったんですよと妻が言ったって、もうさ、つまりは、……言いたかないけど、この時代は特に、女を満足させられない男は、みたいなことなんでしょ!!

元をとるぞといさんで忠七が訪れる。鍋もかけられていない裸火が揺れている。代金も払っていないのに、ヤレると思ってオレが立て替えたのにと憤慨して乗り込むと……モノクロのこともあるけど、この家のシークエンスは特に薄暗くて、見えなくて、不安を掻き立てるのだ。
夫が寝ている。寝ているにしては、気配がなさすぎることに観客の方がまず気づいちゃう。奥に目をやると、……忠七は驚愕の叫び声をあげる。ぶらりとさがった奥さんの首吊り死体、そして夫も、白目をむいて死んでいる。

これは、これは……。どういう経過をたどったのか。奥さんがダンナを殺して、自身も首を吊った、そう思えてならない。そしてそれは、この悲しき夫婦、最後の最後、今まで決して口にしなかった、不幸を哀しむ言葉を発してしまったダンナ、夫婦が決めた決断だったんじゃないのか。

忠七が恐れおののいて、「堪忍!」を繰り返して、逃げ出してのエンドなのだけれど、やっぱりやっぱり、忠七の生きているナマな生活と、この悲しき夫婦の世界線は明らかに違っていて、それが、この時代の、リアルな日本のこの時代の、あったかもしれない分断だったのか。ものすごくギュッと描かれた、この時代の日本人の生活がリアルに垣間見れる一品だった。★★★★☆


親不孝通り
1958年 80分 日本 モノクロ
監督:増村保造 脚本:須崎勝弥
撮影:村井博 音楽:池野成
出演:川口浩 桂木洋子 野添ひとみ 船越英二 小林勝彦 三角八郎 市川和子 原真理子 潮万太郎 水木麗子 小山慶子 松村若代 竹里光子 春本富士夫 竹内哲郎 木村るり子 市田ひろみ 三宅川和子 瀬古佐智子 宮戸美知子 西川紀久子 須藤恒子 此木透

2025/7/28/月 録画(日本映画専門チャンネル)
本作を例えば10年前に鑑賞していたらかなり感想、印象が違ったように思う。この数年でようやく、という感じで、女性、それもパートナーとなる男性に比しての立場や意識が劇的に対等になった印象があるから。
もちろん、時代によって全然それは違ってるのは当然で、本作の作られた昭和33年の時代背景を鑑みて作品に対峙すべきではあるんだけれど。

本作の中の女子学生たち、当時としては数少ない女子で大学生、という彼女たちが、今年も女子の求人はゼロ、生きていくためには結婚するしかない、稼ぎのいい、生きのいいオスを捕まえるしかない、と楽し気に歌うように、それこそすっぱりと割り切っていることこそが、これまでの受け身の女の子たちとは違うんだ、ということなんだろうと思うし、その割り切り加減は確かにカッコいい部分もある。
ただ、この価値観が、つい最近まで当たり前に続いてきたことを改めて思うと、それがようやく払しょくされてきた今の日本の今の時代を思うと、……なかなか本作のような映画を単純に楽しむのは難しい気がする。

だなんて、ぐちゃぐちゃ言ってても仕方ないわさ。てか、メチャキッツい設定のお話で、これをこの尺でサクサク描いちゃうということ自体オドロキというか、当時の映画の描き方だなぁと思う。もし同じ原作を現代で作ったなら、この3倍は尺がかかりそう。
だってさ、だって……二組のカップル、それぞれきょうだい同士なんだけど、妊娠させられて捨てられる、それぞれがよ、しかも一方はあれは完全にレイプだろと思うのに、なぜその後あっさり恋人同士になっちゃうのかと唖然とするし、……おっとっと、また行き過ぎてしまった。

大学生の勝也(川口浩)は、しかし学校に行っている描写は全然ない。語られるところによるとボウリングの六大学チャンピオンでならしていて、外国人とか適当なカモを引っかけては賭けをもちかけ、荒稼ぎをしている。
負けが込むと女友達を賞金として賭けるというクズっぷりで、まぁ最初から最後までクズ男っぷりを遺憾なく発揮するんだけれど、勝也たち、今の日本社会を冷笑的に見ている彼らは、でも結局学生という甘えた立場から好き勝手にしている子供に過ぎないんだよね。

勝也は姉のあき江(桂木洋子)と暮らしていて、後から考えると、つまり彼は重度のシスコンだったっつーことだろうなと思われる。姉がエリート証券マンの恋人に、子供が出来たとたんに中絶を迫られ、結婚する気もないと言われ、あき江からこの男を捨てたのに、勝也は、捨てられたんだと、憤る。
ここの齟齬がまず、本作の重要なところだと思う。実際、あき江はこのクズ男を捨てたのだ。仕事が忙しくて、結婚どころじゃない、んじゃなくて、そもそも結婚をする気がないと知った時には、中絶してしまった後だったことを、あき江は後悔したに違いない。

うーん、でも判らない。この当時の男性作家が書いた物語だから。でも女子的には、今は産むことがかなわないけれど、いずれは、と思って苦渋の決断をしたことを、男があっさりと、ただ恋愛を楽しめばいいじゃないかと、それだけの理由でおめーがこさえた命を葬らせたことに、怒ったんだと当然思うからさ……。
ここんところが、難しい。実際に書き手はどう思っていたのか、映画化となった際に、作り手や演じ手はどこまですり合わせていたのか。

勝也は姉を苦しめた男、修一(船越英二)を同じ目に遭わせてやろうと思い募る。妹がいることを突き止め、偶然にもこの妹、加根子(野添ひとみ)が自分の女友達の大学の友人であることを知る。
山奥へのキャンプのドライバーにちゃっかり任命され、女だらけのキャンプ旅行に一人、ガツガツの男子大学生が紛れ込む、しかも思いっきり思うところありの、というところでハラハラする。ハラハラなんてもんじゃない事態になるもんだから、本気で仰天する。

加根子を、あれはさ、完全に、レイプだよね。すすきの生い茂る中に強引に連れ出し、押し倒し、……そっからカットアウトになるけれど、次に顔を合わせた時、加根子は固い顔で、完全にショックを受けた顔だったんだもの。
なのになぜ、彼女はその感情をあっさりスルーし、勝也と恋人関係になったのか、てかなれたのか……もちろんそこまで含めて彼の計算だったという展開なんだけれど、さすがにないなぁと思ったけどなぁ。

勝也の計算は当然、修一が姉にした仕打ちをそのまんま加根子にして、修一をぎゃふんと言わせてやる、というところにあった。
姉への仕打ちに怒って修一の会社に乗り込んだ時に、単なる不良学生だとあしらわれたことへの怒りもあったのだろう。てか、こっちの方が大きかったんじゃないのか。

就職がままらない厳しい状況の勝也たち大学最終年度、社会人としてバリバリ働いている修一のような大人が妬ましいからこそ、愛する姉をひどい目に遭わせたということは口実に過ぎず、嫉妬を掻き立てられたからに過ぎないんじゃないのか。
姉のためにと実行した愚かな行為が、その姉を激怒させ(当然だが)、あんたみたいなキチガイとは一緒に暮らせない、出て行けと言われた時の、……泥酔していたからハッキリしなかったけど、心酔していたご主人様に裏切られたみたいな、まさにザ・子供でさ。

そう、なぜそんなに泥酔しちまったかというと、自分でそこまでやり切って、修一をぎゃふんと言わせ、結婚しようとしていた加根子を捨てて、すべてを暴露してしてやったりだった筈なのに、なんか勝手に傷ついちゃって、なれ合いの仲間たちのいるバーにふらふらでなだれ込んでさ、「ガキを産みてぇなんて30過ぎのオールドミスが言うこった」だなんてうそぶく訳。
うーわー、この台詞、いかにも当時っぽいけど、なんか今の時代でも、通っちゃうというか……。これを、男子が言っちゃぜぇったいにダメなのよ、いつの時代もさ。女子が自嘲気味に言うのだって、私は許せない。女としての自分を下げることは、私たち女たちを下げることだ。

それぞれ、妊娠させられた女たち、あき江は修一の言う通り堕胎してしまった。でもそれは、いずれ彼と結婚すれば、また子度をも成すことができると思ったからだった。加
根子が妊娠したのは、勝也の復讐の計画のためだったから、結婚まで行くことを信じて疑わず、兄に紹介して、修羅場となった。

それぞれ違うシチュエイションだけれど、どちらも、恋人との結婚が前提にあって、それを男子側があまりにも軽んじて捨て去る、という経過がある。
この経過事態、ぜぇったいに女子的には許せない、というのは現代の解釈かもしれないのだが、別にそれはそれでいい。それこそ、こんなことはいつの時代だってあるのだから。

許せないのは、結局男たちが女の強さに折れる形で、結婚するという結論に至ることなんである。
先述したように、経済力を与えられない女たちが、しかも子供を得て、子供を産むことが女性にしか出来ないにも関わらず、社会に出ることを完全に阻まれている当時、確かにそれしか方法はないのかもしれない。

でも、あき江も加根子も、女一人生きていく選択肢の方に傾いていたじゃないか。あき江はきっぱりとクズ恋人に別れを告げて、女一人生きていくことに、悲壮感ではなくワクワクした未来を見てバリバリ働いていた。加根子はくだらない復讐劇を繰り広げていた兄と恋人をばっさり捨てて、親戚を頼って子供を産む決意をし、勝也に、子供に会いたくなったらいつでも来てねと笑顔で別れを告げた。
二人ともメッチャカッコ良かったのに、女一人生きていけたのに、まるでそれが、女一人生きていくのが間違いだとでもいうように、あき江は修一に再びモーションをかけて結婚を決意させ、勝也は大阪へと旅立つ加根子を追って、ギリギリ列車に乗り込み、彼女の隣の席に滑り込む。

これを、素直に、それぞれハッピーエンドと言えた時代も確かにあったとは思うが、長らく家父長制度に苦しめられてきた時代から、ようやくこの数年で抜け出せた感がある令和の今では、この時代だからとは判っちゃいるが、とついつい思っちゃう。
もう少し抜け出せば、あの時代と今は違うのだと思えるのかもしれない、今が一番、もやもやとするのかもしれない。

時代背景がいろいろ見られる楽しさはすっごくある。警職法に抗う革命的学生たち、それに比して、遊び惚けているニヒリスト学生である勝也たち。卒業後の就職が全然決まらず、就職試験に出かけた先で、今年の募集が中止になったと言われるような不景気の社会。
その中で、それでも社会に出るのは、女を、家庭を養うのは男だと信じられていたこの時代に、男たちの意識、女たちの意識がそれぞれにねじれて、交わらないのは当然だということなのだろうと思う。
今は、現代は、男と女という単純なくくりもとっぱらわれているからこそ、こうして、当時闘っていた女たちを、映画というフィクションの世界とはいえ見ることになると、いろんな感情が湧き上がる。

あぁ、良くないな。フェミニズム野郎が最も良くない形で爆発してしまった。当時の時代背景がうかがえる映画はとてもとても興味深く面白いものなのに、つまんないところから突っ込んでしまった。難しい。
やっぱりね、その当時、リアルタイムの今を描けることが、映画の醍醐味だと思う。私が見当違いの憤りを覚えるのも、当時を当時のまま描いているからだと思う。

夏になると毎年毎年、戦争映画が製作される時に、すっごく思うんだけれど、その当時から離れれば離れるほど、現代の価値観のもと解釈され、つまり感動を強要され、当時の現実味が失われていくことを、めちゃくちゃ感じていた。戦後に近ければ近いほど、鳥肌が立つほど強烈で残酷なリアルを刻印する戦争映画が産み出されていたから。

それを思えば、本作に怒りを覚えるのは、それだけ今が、少しではあるけれど、女子の立場が前進出来ているのかな、って。もちろん、当時の女の子たちのリアリティ、めちゃくちゃイキイキしていて、ブルマー姿でバレーボールしてるのとか、目に眩しすぎて(爆)。
勝也をドライバーに雇って山小屋にキャンプに出かけるのも、ぎゅうぎゅうの車中、フニクリフニクラ合唱したり、先述した、就職先がない中、生きていくための男の品定めをしたり。
その時に女の子たちがせいいっぱい出来ることを、泣き言を言わず、凜として立ち向かっていく姿は確かにあって、私は文句言いすぎたかなぁと思った。

ボウリング、色っぽいダンサーがパフォーマンスする店、学生たちがたむろする飲み屋街、賭けや貸し借りが軽々と横行し、彼らに幻想の大人の紋章を与える夜の街。
いつか、振り返って、あんな頃もあったのだろうと思うのだろうけれど、それが手遅れになる人たちも少なからずいる、きっといつの時代にも。★★★☆☆


愚か者の身分
2025年 分 日本 カラー
監督:永田琴 脚本:向井康介
撮影:江ア朋生 音楽:出羽良彰
出演:北村匠海 林裕太 山下美月 矢本悠馬 木南晴夏 田邊和也 嶺豪一 加治将樹 松浦祐也 綾野剛

2025/11/3/月 劇場(TOHOシネマズ錦糸町オリナス)
最初に情報に接した時に、若者たちの……と言っていたような気がして、でもメインビジュアルの三人のうち、綾野剛氏はもう若者っていうのとも違うような……と思った答えは、きちんと出されていた。やっぱり彼は、若者たち、には入っていなかったし、まだまだお若い北村匠海氏も、そうではなかったと思う。
北村氏主演と言いつつ実際は、この三人主演という趣の物語だけれど、ヤハリ最後の場面を任された、一人きりだけれど確実に未来に向かって歩んでいく、最も若い、確実に若者である林裕太氏演じるマモルがやはりそうなのだと。

メインビジュアルはしっかりお三人、一緒の空間で笑い合っている写真だけれど、これは現実じゃない。劇中、この三人一緒の場面はない、というか、ある筈もない。
真ん中のタクヤ(北村匠海)が双方ともに絡むのだが、梶谷(綾野剛)はタクヤから依頼されて偽造免許証を作った、その写真でしかマモルを知らないし、マモルに至っては梶谷の存在すら知らぬまま、きっとこのまま、生きていくんだろうと思われる。

この物語はすさまじい。今やすっかり社会問題として周知されている闇バイト、というか、もはや組織だった中で定職がごとく、従業員というよりも強い束縛の中に彼らはいる。いや、その束縛(というより、結果的には監禁に近い)に彼ら自身が気づいているのかどうかすら危うい……などと思っていたのは、甘かった。
確かに彼らは、この非道な生業に手を染めていながら、無邪気にわちゃわちゃと、まるで部活の延長線上みたいにはしゃいで、いわばイチャついているもんだから、一瞬、そんな気になったけれど、そんな訳がないんであった。

いや、最初のうちは、そんな、希望的妄想を抱かせるようなところがあった。彼ら、と言ってしまったけれど、わちゃわちゃイチャついているのはタクヤとその弟分のマモルなんであった。
梶谷は残り三分の一のシークエンスになってようやくの登場である。本作は、マモル、タクヤ、梶谷のシークエンスを、それぞれに章立ててオムニバスのように描いていくが、それぞれに絶妙に交錯して、一本の大きな、この闇社会を描いていく手法で、その構成の巧みさにうなるんである。

本作で描かれる闇仕事は戸籍売買。女の子の名前を貼った沢山のスマホに次々とLINEの着信が来る。女の子のフリしてやりとりし、人生に絶望して生き直したいと思っている孤独な男性を釣るんである。
本作は、その組織の非情さ、ぬけられなさ、騙し合い、なすり付け合い、絶望がめちゃくちゃリアルに描かれてて、……いや、知らないのにリアルと思うのもヘンだけど、ゾッとするほどの冷酷さで、これは一体……どこまで取材が出来るものなのか、ある程度事件として表ざたにされつつあるから、描ける部分もあるのかもしれないけれど……一度入ったら抜けられない感、それがもう本能的に絶対にダメだと思わされる感覚がハンパなくて。

戸籍を売るということがどういうことなのか。どれほどヤバいことなのか。戸籍謄本をとるということが日常生活でほぼないから、彼らの言葉巧みさにうっかり乗ってしまうのが、リアリティありすぎる。
この三人の中でも中心人物であるタクヤが、戸籍を売ってこの世界に入ったのだった。それは……あまり詳細には語られないけれど、病身の弟の手術代だったらしかった。でもそれは葬式代になってしまったのだった。

この時、タクヤが頼った梶谷は当然、戸籍を売るということがどういうことなのか判っていたから、可愛い弟分だから、その意思を慎重に確かめたけれど、もちろん真剣ではあったけれど、タクヤはその真の意味を、弟が死んでしまって、目的を失ってやっと知ることになったのだと思う。

そしてタクヤの弟分のマモル。その出会いが、今でもこんなところがあるのか……タコ部屋というのはこういうところか。生活保護申請をサポートするというが、タクヤがマモルに警告するところによると、その上前をハネられるからやめろと。俺はカネを貯めてここを出ていく、その時に一緒に来ないかと誘うんである。

腐女子がキャーキャー思うような関係性、冒頭から繰り広げられるわちゃわちゃ感は、決してウソではなかったけれど、なにかこう……ひとときの、奇跡的時間であったように思う。
タクヤを真ん中として語られる、兄貴分、弟分の三人、いわば三世代の物語。兄貴、弟分、と今でも言うんだ、任侠映画の世界から変わんないじゃん、これにこそ腐女子がキャーキャー思うのは今でも変わらんのね、と思う一方、それにこそ縛られ、それこそ任侠映画の時代は、兄貴分も、弟分も、共に美しく散りゆく、のであった。
だから、死んじゃうんだと。それは避けられないと。その哀しい死を悼むことを待ち構えている気持ちは正直、あった。

だから、あ、逃げきれるんだ、死なないんだ、わぁ……良かった……だなどと、アホみたいなことを思ってしまったりして。でもこれって、この結末に導かれることって、とてもとても重要だと思う。
任侠映画は、フィクションだったのだ。確かにそういう世界はあったけれど、少し昔にあったその世界、それを踏まえた上でのフィクション。様式美。兄貴と弟分に酔いしれたのは、舞台の上に立っている役者だったからなのだ。
本作は、今、まさに起こっていること、貧しく、他に行き場のない若者たちが巻き込まれてしまう世界、抜け出そうとするだけで殺されてしまう社会を描いている。

一度入ったら抜け出せない。容赦ない、鬼のように悪魔のように恐ろしい上層部。戸籍だけじゃなく、角膜、腎臓売買も描かれ、これがクライマックスとなる。加えて他組織へ移籍する裏切り、預けられた大金の持ち逃げ(いわゆるタタキ)が絡まり合う。
タクヤは、つまりはさ、マモルをこの世界から抜け出させるために、危ない橋を渡ったのだ。死ぬかもしれないことも判ってて。それでも、マモルと共に逃げ出せるかもしれない未来を夢見て、ただ一人信頼できる梶谷さんに、免許証の偽造を依頼したんであった。

マジで、腐女子の心を熱くする展開だよ……それも、タクヤとマモルだけではなく、タクヤと梶谷さんの関係性もまた、そうなんだもの。一番の大物である綾野氏がなかなか登場しないもんだからハラハラしたが、残り三分の一、まさに彼が持って行ったんであった。
とてもやわらかで優しい物腰。なぜこんな世界に足を突っ込んでしまったのか。でもタクヤと出会ったのはボクシングジム。解説では梶谷さんはアンダーグラウンドでファイトマネーを稼いでいたといい、まさにその経歴がクライマックスで追手と攻防戦に生かされるのだが、そんなこと、劇中で言っていたかなぁ……聞き逃したかな?

つーか、その、攻防戦、つまりは、梶谷さんのチャプターに入ってからのクライマックスが凄まじすぎて、観客側としてはなかなかのダメージを受けた。てゆーか、正直、死んでしまうと思った、殺されると思った。
大抵の、こうした、ヤクザ、暴力団、闇社会を描いた映画は、一縷の希望を抱いて飛び出した主人公たちは、その願いを叶えられないこと百パーセントだったから。

でも、まさかの逃げきれた、死ななかった。ハッピーエンドというにはキビしすぎるけれど。マモルをこの世界から抜け出させるために、自身は殺されてしまうかもしれないと思いながら決死の覚悟でタクヤは、先輩の横領を横取りするものの、足がつき、角膜を欲しがっている中国人夫婦に提供されるために、両目をえぐられてしまう。
こ、これは……えぐられる描写が描かれる訳じゃない。でも、描かれるよりもっと怖い。それが、予測されてしまうから。

逃亡を察知されて、餌食になるシークエンス。マンションの、閉じられた扉の奥で不穏な音が立てられることで予感される残酷な所業。運び屋としてその現場に訪れた梶谷の驚愕。
だって、だって、だって!!!死んでるのかと思ったし、両目が見えない、両目が血だらけ、そしてガクリと頭が落ちると、ジャーッとばかりに血が滴る。やだやだやだ、もうやだ、これはないよ、ないよ!!

全然意識がなかったし、こんなん、死んじゃってると思ったし、先述したように、それしかラストはないと思った。でも、腎臓も、という強欲さがいわば、救ったのだろうか。
あんなヒドい目にあったタクヤが息を吹き返し、梶谷さんが手持ちの鎮痛薬を飲ませたりしながら、最悪の結末を予測するからこそ、それを避けたい、生きたいというラストシークエンス。

パパ活をしている女子に取り込まれて、戸籍を売ってしまったおっさんが、ラストシークエンスで刑事として登場、だよね?もう記憶力が自信ないんだけれど……。

パパ活をしながら、タクヤたちに協力していた希沙良(山下美月)は結局、どうなったのだろう。最後の最後、タクヤの指示でこの世界から抜け出すマモル、もうホントに危機一髪、タクシーに乗り込み、追手を振り切って、まさにラストシーンで一人生き抜いていく覚悟を見せるけれど。希沙良はどこか……危うかった。この最後の場面でも、マモルを逃がすために警告を出したメッセージ、その後のことは判らなかったから……。

梶谷さんの彼女、ホステスをしている木南晴夏氏がとても良くて。梶谷さんの心のよりどころ。天真爛漫なんだけれど、このキッツい状況にしっかり対応できるだけの強さを持っている。
先述したけれど、ぜぇったいに、死んじまうと思っていたから、殺されると思っていたから、あ、死なないんだ……良かった……と思って。それを助けたのはまさに、梶谷さんの彼女なのだった。

あっけらかんとしているけれど、彼氏である梶谷氏の真剣さに即座に対応し、母親の協力もすんなり取り付けるあたり、親子の関係も良好。
最後の最後、彼女の実家で梶谷氏と共にお世話になっている、盲目になってしまったタクヤのシークエンスに心打たれるのだ。

ニュースでは、彼らが苦しめられた半グレ組織の逮捕が報じられている。つまり、もう彼らは、追っ手を怖がらなくていいんである。
梶谷さんの彼女さんの実家、スナックの二階で、二人は、まったりとしている。タクヤが指南するアジの煮つけを梶谷氏が作ってる。タクヤは塩にぎりを作ってる。ウマイウマイと二人は食べて、……タクヤは上手く食べられないから、梶谷さんに食べさせてもらって、マモルに食べさせたいなぁと言うのだ。泣ける……。

マモルに再会できることを、現実に三人で笑い合うことを願うけれど、それは叶うのかな。マモルは一人、新天地を求めてる。タクヤがメッセージを残した。この世界は都会でしか成り立たない。だから東京を出ろと。この金があれば中卒のお前でも何か商売できるだろうと。

都会でしか成り立たない、でもそれは、これから先もそうだろうかという不安がちらりとかすめるけれど、でもこの三人がいつか、いつか、一堂に会してほしいと切に思った。原作は続編があるそうで……気になる!!★★★★☆


女教師 濡れて教えて (したがる先生 濡れて教えて)
2002年 63分 日本 カラー
監督:今岡信治 脚本:今岡信治 星川運送
撮影:鈴木一博 音楽:gaou
出演:高野まりえ 吉岡睦雄 米倉あや 小倉あずさ 松島圭二朗 土橋大輔 イッペイ 羅門中

2025/8/20/水 録画(日本映画専門チャンネル)
吉岡睦雄氏のデビュー作だという作品を観ることが出来るのは嬉しい。しかも、今岡監督だったんだ。
ピンクの黄金期の代表的男優の一人として、その後出まくりに出まくる彼のデビュー作が今岡作品で、本作の2年後に一つのエポックメイキング的作品、「たまもの」もまた今岡作品であったことを後から思うと、なんかすごいなぁ。

しかもなんつーか……年下の頼りない、つかみきれない、それは彼本人がまだ全然自己確立していないような、流されっぱなしの、という男の子像が、デビューである本作でまず遺憾なく発揮されてて、「たまもの」ではそれが、許せないほどに昇華されていた印象がある。改めて吉岡睦雄という役者の、根源的オリジナリティな魅力はここにあったんだと思う。
もちろん出まくりまくりなんだから様々なキャラクターを観させてもらってきたけれど、なんか万年年下の男の子的な、頼りなさやいい加減さが、なんだかツボに入っちゃうようなところは、常にあって、それが魅力なのだと改めて思う。

女教師モノっつーのはまぁテッパンだしとは思うが、ヒロインの紀子、そして同僚の智美は、ちぃっとも教師に見えない。これはネライなんじゃないかと思うぐらい。二人ともパツパツのミニスカートだし、紀子に至ってはそれに革のロングブーツといういで立ちは教師というよりSMの女王様を想起させるほど。
そしてそのカッコで冒頭いきなり、学校の校庭をヨーイドン!で走り出すのだ。走る、というのはクライマックスになって、彼女にとっての重要な要素なのだということが判るのだが、この時点では、なんつーか、イメージビデオかしらんというほどの、教師とは思えない違和感ではある。

授業シーンどころか、生徒が登場するのはたった一人(あ、校庭シーンでちらりと、二人ぐらいバックに映されていたかな)、この物語の精神的パートを一気に引っ張る、坊主に眼鏡姿の男子、中村君のみである。
一体今は冬休み中でもあるのかと思うぐらい、がらんとした校舎にひとけもなく、紀子と智美は職員室のストーブで餅を焼いたり、がらんとした体育館でバスケゴールにボールを入れてみたり、そんなことばかり。

もちろん、予算上とか、とりあえず女教師を持ってきとけば客寄せになるとかはあるんだろうけれど、ここまで徹底的に、とても教師には見えない女子のキャラを持ってくるのは、意味づけがあったんじゃないかという気もしてくる。意味ない深読みする悪い癖かもしれんけれど。
紀子が年下の彼氏、耕一と、彼の遊びがバレるまではきっとラブラブ仲良く出来ていたのは、教師というキャリアのある女子としての余裕があったのはきっと間違いない。

女教師というエロな視点が耕一からは感じられなかったのが重要なところのように思う。あくまで女教師という設定は、ピンク映画の観客に向けての需要であり、だからこそのパツパツのミニスカートにロングブーツであったと思う。
だからそれは、耕一が紀子に対する魅力としてのカウントにはなっていないのだよね。

そんな風に思って観ていたから、教師、という要素、つまり、対生徒というそれが、本作においての最も大きなファクターになるとは、思ってもみなかったので、かなり不意を突かれたというか……。まぁそれはちょっと置いといて。

紀子と年下彼氏の耕一との関係は、序盤はとても微笑ましい。耕一が紀子を迎えに行ったのに、帰るの早いよ、と自転車で追いかけて来る。寒い寒いと二人で言い合い、紀子のアパートになだれ込む。
寒いからしようよ、という耕一にまだ昼だよ、と言いながらも服を脱いでお布団の中二人抱き合って、焦ってコンドームをつける耕一をからかったりして、とても微笑ましく可愛らしい恋人同士だった。
なのに、彼の足の裏に、浮気した女が書き残したメッセージと携帯番号を見つけちゃって、紀子は激高しちまうんである。

耕一はその後、紀子とのケンカのあとに出会った、ずぶぬれになっちゃってコインランドリーでハダカになってたところで出会うなんていう、衝撃的な出会いだったのに、出会った彼女、孝子はウフフとほほ笑んで、自分の洗濯物の中からタイトスカートを彼に貸し与えたのであった。
そっか、タイトスカート……紀子がぴたぴたにはいていたミニスカートを想起させるものを、この時耕一は、次のカノジョとなる孝子からあっさり貸与されて、履いちゃったんだなぁ。

同僚の智美が言うように、そして智美の恋人(これまた耕一のバイト先の同僚)が言うように、男は簡単に許しちゃダメとか、なめられてる、このままじゃ女に主導権を握られるばかりだとか、そうなんだろうか?もし、この時、紀子、そして耕一も、それぞれの友人のアドバイスを受け入れなかったら、意外とあっさり仲直りしてしまっていたんじゃないのか。
いや、どちらが良かったのかは判らない。それぞれに友人にアドバイスをした智美たちは、毎日ヤッてるからたたないとか、つまらない痴話げんかをするぐらいで、平和なラブラブカップルである。
その二人がうっかりアドバイスをしちゃった紀子と耕一は、お互いなんだか離れがたい気持ちは持っているのに、耕一側が行きずりの浪人生の女の子にやすやすと引っかかっちゃったこともあって、すれ違い続けてしまう。

ここがね、まさにね、吉岡氏のキャラ全開、頼りなさ、よるべなさ、好きになっちゃうことに流されちゃう、大人になれない永遠少年。
紀子が二人の決定的な浮気現場に遭遇しちゃうなんていう場面さえ用意されているのに、そのセックス場面で耕一は、好きになっちゃった、と言って孝子を抱いたというのに、そこに踏み込んだ紀子を、息をのみ、ムリに笑顔を作って踵を返した紀子を、追いかけちゃう。バカ!追いかけて何を言うつもりなのか。あんな、決定的場面に踏み込まれたというのに!!

この場面で、耕一をハンドバッグで殴りまくる紀子は咳が止まらなくなって、吸入器を使うに至って、彼女が喘息もちだったことが知れる。
最後の最後、本当に耕一との別れとなる時に紀子は、耕一を好きになった理由が、足が速いこと、其れで好きになったと、バカみたいでしょ、と言うのだった。なんだかとても原始的な恋の気持ちで、原始的に過ぎて、不思議に誌的ですらあるのだった。

誌的、といえば、この幼いような恋のやり取りの中で、異物とさえ言えるような、誌的シークエンスがある。たった一人登場する生徒、坊主頭にメガネの中村君である。
冒頭、校庭を走る先生を教室の窓から見下ろして、明らかにオナニーしていた彼は、その有様を隠そうともせず、ズボンをおろした、まぁご丁寧に手描きボカシも入っている状態で、紀子を迎える。

たまには日光浴をさせなければダメなんですよ、とにこりともせずに言う。この台詞……江口のりこ氏がほぼ同意義なこと言ってたなぁ。
性別が違えど性器を天から干し、中村君のしんねりさと、からりとした江口氏とはまるで違うんだけれど、セックスに不可欠な性器を天から干しにすること、自分の、性欲に限らずじめじめとした色々をからりと干すという感じが共通しているように感じたんであった。
そして、女子は確かに、あっけらかんと記憶を上書き出来るところがあるけれど、中村君は、しかも若い、10代の(全然見えないけど)中村君は、そうではなかったんであった。

思い返せばこの中村君のキャラ、そしてシークエンスは、紀子と耕一、同僚カップル、そこに入り込んでくる“ヤリマン”孝子の物語がある程度まとまっているからこそ、際立って異質なのだ。
先生をオカズにオナるとか、絵のモデルを頼んで自室に呼び込んで、着替えを盗撮するとか、ピンク的必要要素はあるけれど、中村君が紀子とカラむ訳でもないし、二人のシーンは(リアリティはないまでも(爆))、シンプルに、純粋に、先生と生徒なのであった。

中村君の部屋は異様だった。窓が新聞紙でふさがれていた。眩しいからだと彼は言ったけれど、その後語られる、地元を追われて親からは仕送りだけされてほっぽらかされているという彼の精神状態は、シンプルに医学的に救うべきものでだった。
中村君の鉛筆スケッチを見つけた紀子、その解説が、忘れられない。ヒバリだという。そしてその肩の上方にはしずく形のものが浮かんでる。「魂です。ヒバリは、死んだ人間の魂を肩に乗せ地上に運んで来るのです。この目の見えないヒバリは、地上に未練を残した人間の魂が痛ましくてなりません」

何、何それ!!突然何かを射抜かれたように思った。目の見えないヒバリ、絵のヒバリはそう……白く抜かれた目をしていた。後に、突然、本当に突然、ワンカット、見逃がしそうなぐらい一瞬で、中村君がドアノブに首を吊っているカットが映し出され、次のシーンでは、のどかにさえ見える田園、もう稲が刈り取られた冬の前の風景の中、喪服姿の紀子と智美が歩いている。
中村君の事情を智美が語る。地元の高校で教師へのストーカー行為で問題になり、この地に厄介払いされてきたことを。

私服ではぱつぱつのミニスカートだった二人が、田園のあぜ道を歩く喪服のスカートの長さ、それは当然なんだけれど、それにしても規格よりも裾が長くて、サイズが合っていないぐらいに見えて、それはミニスカート姿との対比でそう見えただけなのか、どうなのか……。でも絶対、普段姿との対比はあったよね。

帰宅した紀子が手にしたのは、ドアポケットに届けられていたビデオテープ。隠し撮りされたトイレでの着替えシーン。あらあら、贖罪のつもりで死ぬ前に送ってきたのかと、それはそれなりに切ない思いにはなったけれど、まさかの、これだけでは終わらなかった。

その後紀子が再び見返してみたら、それは彼が幼い頃、まだ物心がつく前なくらいの幼子の頃、両親に慈しまれているビデオだったんであった。その上から、盗撮を録画し、ぷつりと切れた先に示されるその幸福な記憶に絶句してしまう。
家族から見放された彼が、その幸せな記憶を手元に大切に置いて、でもその上から先生の着替えを上書きしかけていた、そして死んでしまった彼は、一体何を思っていたのか。

紀子の教え子が亡くなったことを知り、耕一が彼女の元に来るんである。何か出来ることがないかと思って、だなんて、あーあもう、この男は、マジ許せない。本気でそう思って、優しい気持ちでそう思って来ちゃってることが判るだけに、本当に許せない。
本当に紀子のことを思って、力になりたいと思うのなら、彼女のこと以外の全てを、セックスできる女の子も全てを、捨ててこなければいけないのだ。でもそれが出来ないことを、彼自身が自覚していないし、彼が自覚できないことを、紀子もまた判っている。なんて切ないの。許せないのに、愛しい、でも許せない。こんなん成立させるなんて、男を甘やかすばかりだよ!!

それでも耕一とセックスするんだけれど、これが決定的な別れになるのが、そこまで徹底的にさせるのが残酷だけど、でもそうでもしなければ、悪縁は断ち切れないのか……。
甘やかなセックス。よりを戻せそうにさえ思うぐらい。でも、紀子は、彼の顔を覗き込みながら言った。私、遊びだから、そっちもでしょ、と。まだ、イッてない、途中のこのやり取りは、あまりに切なかった。
上に重なってピストン運動していた耕一が、動きを止めて、何も、何も返せないのが、あんまり辛かった。そんなことない、好きだ、愛してる、と言ってほしかったけど、でも、違うんだから、そんなこと言える筈がない。

この仲間がみんな行きつけにしているバーのマスターが、紀子がたわむれに言った、私と付き合う?という台詞に、いいですよ、紀子さんのファンですから、と返したのが、何か、救いだった。
その後の予感を示す訳でもない。マスターはいつも、静かにカウンターの奥にいて、はっきりお顔が映される訳でさえない。客を、紀子を、優しく見守っているだけ。それがたまらなく、救いだと思った。★★★☆☆


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