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「て」


2001年鑑賞作品

ディスタンス
2001年 132分 日本 カラー
監督:是枝裕和 脚本:是枝裕和
撮影:山崎裕 音楽:
出演:ARATA 伊勢谷友介 寺島進 夏川結衣 浅野忠信 りょう 遠藤憲一 中村梅雀 津田寛治 山下容莉枝 村杉蝉之介


2001/5/29/火 劇場(渋谷シネマライズ)
カルト教団「真理の箱舟」が水道水にウィルスを混入させて無差別殺人事件を図った。その実行犯は教団によって殺され、その後教祖も自殺した。三年が経ったある夏、ラジオは再び結集している教団の動きに警戒を強めるニュースを流している。実行犯の遺族たち、つまり加害者遺族は毎年自分たちの家族の遺灰がまかれたという、山の中の小さな湖に向かう。そして元信者の男、死んだ彼らと直前まで一緒にいて、裏切ったとされる男と出会う。

当然、想起されるのは、オウム真理教によるあのサリン事件。もともとドキュメンタリー作家だったという是枝監督は、前作「ワンダフルライフ」と同様、今作も俳優のオリジナルな感情にゆだねたドキュ・ドラマを作り上げた。糾弾され続けているオウムを、家族を殺されてしまった被害者であると同時に、他人を殺してしまった加害者遺族でもあるという、複雑な罪の意識にさいなまれる立場を通してその感情を見つめるという視点は、確かに新しい。けれど、私は「「A」」を観てしまった時から、オウム真理教と彼らが起こした事件、そしてそれに対する社会や、そうしたさまざまなものをすごく考えてしまって、こうしたテーマの作品をすんなり受け取ることができなくなってしまった。「A」以来、オウム関連のニュースがあると必ず目を止め、つらつらと考えてきた。ひと言ではいえないものがある。考えれば考えるほど。

是枝監督もそのことは充分わかっているのだとは思うけれど、この作品を観ていて、やっぱり難しいな……と思う。役者といっても、教団当事者に対するリサーチとか、信者の置かれた立場や気持ちを本当の意味で表現することの難しさを痛感する。「A」で衝撃を受けたのはまさにそれだったから。ホンモノの信者である彼らが、純粋といったらおかしいのかもしれないけど、むきだしの原石のようで、驚くほどに普通で、そして静かで。しかし本作で役者が演じている、「真理の箱舟」に傾倒していく信者たちは、世間に流布しているイメージ……イッちゃってるという、……に強く影響を受けていて、遠藤憲一扮するきよか(夏川結衣)の夫と、山下容莉枝扮する実(寺島進)の妻は特にそうで(彼女を勧誘したと思しき宮村役の村杉蝉之介など風貌からしてさらにそう。しかし彼、ああ、「グループ魂のでんきまむし」のバイト君ではないか!!)。何だかこの時点で違和感というか、ああこれじゃ、ワイドショー見てるのとおんなじだ、というような感覚を起こってしまう。是枝監督自身は、どういう姿勢で、どういうふうにこの問題を描こうと思ったのだろうか。カルト教団ということではなく、人間の心理や感情を描こうと思ったのだろうか。でももしそうならば、こうした植え付けられたイメージはさらに危険なものなのではないだろうか?

その点、津田寛治扮する勝(伊勢谷友介)の兄や、りょう扮する敦(ARATA)の姉、夕子は、そうした“純粋な普通さ”が巧みである。ことに津田寛治には無防備で正直なゆえに傷ついてしまうという、「A」の荒木氏のような(風貌も含め)感覚を起こさせる。勝はマジメで神経質な兄のことを、ちゃんと考えたことがなかった。仲が悪いというのではないけれど、自分とは違う人間だというふうにみていた。その兄が実行犯となり、そして死んでしまう。警察に問われて、自分が兄のことを何一つ親身に考えたことがなかったことに気づく。家族なのに、たった一人の兄弟なのに。

一方で、敦の、姉に対する距離感は微妙である。彼はとっても、本当にとってもお姉さんと仲が良くて、価値観を共有していて、いつでもいっしょにいた。なぜ彼女が「真理の箱舟」の信者となったのか、その経緯は描かれなくて、だから出家を決断した姉に対して敦がどういう反応をしたのかが、わからないのである。

敦は、それでなくてもその存在感の不思議な希薄さが逆に強い印象を残す。夕子のことが好きだった、元信者の坂田は、「お姉さんは弟は自殺したっていってたんだけど」というし、敦は自分の家族でもないおじいちゃんをなぜだか毎日見舞っている。彼が回想する姉の想い出は、他の人たちが一様に彼らとの別れのとき、出家すると告げられた戸惑いと衝撃を描いているのに対し、敦だけはただただ幸福な姉との時間を思い出しているのである。……この敦の存在は一体、何なんだろう……人をカテゴライズすることなく、裁くことなく、嘆くことなく、ただ幸せな時間だけをその記憶の中に残している。でも彼の存在は漠としていて、まるでこの世の人間ではないみたいである。花屋さんだというのも何となく刹那的である。血や感情やプライドにがんじがらめにされた、人間の愚かさと哀しさに対するアンチテーゼなのか。

是枝監督のドキュメンタリー作家としての作品のことはわからないけれど、映画のこの3作品に関しては、そこには確かに生と死、喪失と再生、そんなものを描かれてはいるんだけれど、優しくて、穏やかで、だから今回は、何というか、テーマに負けてしまった感じがした。加害者家族という視点は新しいし、その加害者意識にも不条理にさいなまれる複雑な感覚は、今までの一辺倒な世間の報道とは一線を画すものなのだけれど、でも演者と、もしかしたら作り手にも、心にイメージという壁がやっぱりあって、当たらず触らずといった感覚も起こさせた。ぽっかりと、忘れられたようにそこにある湖や、深い森、美しいのだけれど、問題はその美しさや癒されるような感覚ではなく、その湖やその森に、潜っても、分け入っても解明することのできない、その行動をおこさせるまでにいたった強く愚かで純粋な意志と、相反し、矛盾している感情のことなのではないか、なんて……。

関係ないけど、ARATA氏ってこんな顔してたっけ?なんだか「ワンダフルライフ」のときと随分印象が違うなあ……。★★★☆☆


デルフィーヌの場合MAUVAISES FREQUENTATIONS
1998年 98分 フランス カラー
監督:ジャン=ピエール・アメリス 脚本:アラン・ライラック
撮影: 音楽:ヴァレリー・リンドン
出演:モード・フォルジェ/ルー・ドワイヨン/ロバンソン・ステヴナン

2001/3/27/火 劇場(シネマ・カリテ/レイト)
……いくらフランスがアムールの国だからって、こりゃあないんじゃないのお、とついつい思ってしまう。うーむ、前半のガーリーな友情関係のチャームが後半で唐突に吹き飛ばされるのは一体なんなんなんだ。実際に起こった事件を元にしているっていうんだから、まー、しょーがないのかなあ。

私がこの世で一番キライなのは、バカな女とうっとうしい女、なのである。それは翻って言えば、自分がそうなるかもしれないことに対する極度な恐れから来る、んだけど。判ってる、女は恋をするとバカでうっとうしくなるものなのだ。それは年齢を問わずだけど、15歳の女の子、それも初めて恋をおぼえた女の子は、そんな自分がバカともうっとうしいとも思っていない。それはなぜか。彼女、デルフィーヌには無意識下に若さに対する絶対の自信があるから、なんである。しかも彼女は、それこそが愛なんだと、思っているのである。単なる若さに対する過信にしか過ぎないのに(……若さに対する嫉妬心、大いにアリ!?)。いわば、自信過剰を愛と勘違いしているのだ。彼女が愛していると思い込んでいるロランにしても、勿論彼女を愛してなどいない。彼女が何でそんなに最後の最後になって気付くのかとあきれるほど後になって、“恋人にそんなことさせると思う?”という、“そんなこと”を、愛する人にさせる訳が、ないのだ。まあ、たまに大人でも自分の伴侶にヒドいことをさせる男もいるが、そいつもまた愛なんぞを持っているわけではない、ということなんである。しかし、ロランはこれが愛ではないということを判っているだけ、デルフィーヌよりはバカではない。バカではないが、サイテー野郎だ。

一体、なんでこんなことになってしまったのか。始まりは、良かったんだけどなあ。新学期、エキセントリックな転校生、オリビアと出会うデルフィーヌ。二人はまさしくソウル・メイトな共感をお互いに覚えて、常に行動を共にするようになる。この二人の間には、ロランとの間にあるような打算は何もなく、本当に、これこそを愛と呼んでいいのではないか、と思わせるものが、あるのだ。まあ、そんなこと言うと、男女の間に打算のないわけはなく、そうしたら男女の間に愛など存在するわけもない、という結論に落ち着いてしまうので、なかなか難しいところなのだけど。それこそ打算のない関係が友情で、打算のある関係が愛なのかも、などと、ちょっとシニカルな見方もしたくなる。愛はピュアなものなどではないのだと。でもラストに愛もまたピュアなものだよ、と思わせる場面が用意されてはいる。でもそれも、デルフィーヌがヒロインだからこその、ちょっと都合のいい展開なんだよね。

オリビアとのソウル・メイトな関係にも、ちょっとしたシニカルな味付けも隠されている。オリビアには、20歳で自殺した姉がいた。彼女はこの姉を崇拝していて、天才だったと信じている。姉の部屋を再現し、スタイルもコピーしている。オリビアはデルフィーヌが自分の分身だと言う。それは、明らかに姉も含めた自己投影なのだ。姉に対する憧れ、彼女に同一化している自分に対する自己愛、デルフィーヌにはこの二つが融合されている。そうか、そう考えると、ピュアな友情関係、愛情関係、などというのも間違っているのか。オリビアはデルフィーヌに対して回りまわったナルシスティックな感情を抱いているのであり、彼女のために自己犠牲を払うことを、もしかしたら自分自身のために払う自己犠牲だと感じていたかもしれないのだ。

この自己犠牲、というのが、後半の唐突な展開。ロランとその友達でオリビアの恋人、アランはジャマイカに渡って自由な生活を送ることを夢見ており、デルフィーヌとオリビアも連れてゆくから、旅の資金のために彼女たち二人、週5日、一日5人ずつ、7週に渡って、数百人の男たちにフェラをしろ、と言うのである。あああ、アホか!とまったくもってあぜん、ボーゼンである。オリビアは猛然と拒否するが(当たり前だ!)、デルフィーヌは、愛のためなら何でも出来る、と、まさしく愛という宗教に洗脳された完全にすわっている目で、これを承諾しちまうんである。お前なー、この時点で気づけっての、ロランがあんたを愛してないってことくらい!そんで、結局四人は逮捕されちまうんである。

結局は知能犯はロラン一人、だったんだよなー。結局二人を連れて行くつもりもなかったんだもの。利用するだけ利用して。オリビアの恋人であるアランも反発したのに、口八丁なロランに丸め込まれちゃって、彼女相手に勃たなくなっちゃう哀れさ。哀れといえば、あんなにも姉の才能を崇拝していたオリビアが、こんなことをするより涙をのんで姉の絵画を売って金にしたほうがいい、と、デルフィーヌの母親が勤める画廊に絵を持っていき、平凡な絵だと、二束三文にもならないと、告げられる場面の哀れさといったら、ない。人生って……こんな風に自分の理想が崩れていくことに慣れていくことなのかも、知れないな……。

デルフィーヌに片思いしているジュスティンが、愛のピュアさを証明してくれるお人なのだけど、彼が、君がロランを愛しているのは知ってる、僕が好きなのは君だけだ、せめて初めてのキスは好きな人としたい、と彼女に懇願する。デルフィーヌはこの時点ですでに男たちにフェラをやっていたので、私には資格がない、と一旦辞退するのだが、去りかけた彼を呼び止めて走りよって、キスするのである。このキス、彼女とロランが最初にした、そう最初っから舌レロレロのキスと全然違って、唇を不器用に押し付けるだけの、それこそほんとにピュアなキスで。ジュスティンが、この時すでにデルフィーヌが何をしていたかを後に知ってショックを受けるのだけど(実際、デルフィーヌがそれをやり始めてから、実際にその場面までを描くわけじゃないけど、なんか彼女の唇ばかり見ちゃうよなー、想像しちゃって……)でも彼、「俺って結構しつこいだろ」と彼女を、イタリアに発つ別れ際とはいうものの、訪ねたりして、ちょっと今後の展開を予感させなくもないのである。ちょっとご都合主義だけどね。

このジュスティンがクラシック映画オタクだというのも、イイよなあ。反面、このデルフィーヌは映画を理解する頭もないらしく、ロランと一緒ならヴァン・ダムの映画でもかまわない、という始末。いや、ジャン=クロード・ヴァン・ダムに恨みはないけど(笑)。彼女、恋をすればするほど嘘つきになっていく。手始めは先生、そして両親、警察にも嘘をつく。少女の愚かさであり、女のしたたかさである。娘を心配するあまり手を上げてしまう父親も、同じ女として娘を理解してあげようとする母親も、この微妙な狭間にいる彼女の中に入れない。

デルフィーヌ役のモード・フォルジュは、意志的な黒く太い眉(ちょっとアンバランスに片眉が欠けているところもポイント)や黒い瞳に黒い髪、ちょっとやぼったいロリな顔立ちとやはりロリな肢体がゾクゾクさせる。ま、でも少女女優の登場として同時期で言えば、「倦怠」のソフィー・ギルマンの強烈さには負けるけどね。左側からの斜め横顔が、時々ドキッとするほど大人っぽく色っぽくて(バスの場面など)、そうしたアンバランスさもヨイのだ。これがオリビア役のルー・ドワイヨン(ホント、双方の血を感じるわな)の、完全にオンナオンナした感じとホント対照的で。少女は少女であるというだけで、充分すぎる価値がある。そしてそれこそ私が好きな少女像で、それはとりもなおさず、女が女であるだけでいいという伏線でもある。だからこそこの彼女の愚かさにはイライラさせられるのだが、しかしそれは、結局女は誰かに、男に、寄りかからずにはいられないということなのだろうか。ああ、ヤだヤだ!★★★☆☆


テルミンTHEREMIN AN ELECTRONIC ODYSSEY
1993年 83分 アメリカ カラー
監督:スティーヴン・M・マーティン 脚本:スティーヴン・M・マーティン
撮影:エド・ラクマン 音楽:ハル・ウィルナー
出演:レオン・テルミン/クララ・ロックモア/ロバート・モーグ/リディア・カヴィナ/ビーチ・ボーイズ&ブライアン・ウィルソン/トッド・ラングレン/レーニン

2001/8/22/水 劇場(恵比寿ガーデンシネマ)
テルミンというかわいらしい響きにまず惹かれてしまう。というか、この楽器、記憶のどこかに刻み込まれている……。本当にかすかな記憶の中に。どこで見知ったのか、思い出せないくらい記憶のかなたなのだけれど、この奇妙な形とテルミンという名前の響き、そして何よりすべらかでうねるようなこの音階の音色。……どこに記憶を置き忘れてしまったのだろう?という、私の感覚は、このテルミン博士という天才が人々の記憶から忘れさせられてしまっていたことと奇妙に符合する気がする。時代と国の犠牲者であるテルミン博士は、驚くべき数奇な運命を辿り、しかしこれまた奇妙なまでに長生きして、また人々の前にひょっこりあらわれて、そして消えてしまった。

幼い頃、エレクトーンなぞというヤマハの商標楽器を習っていた私は、しかしこの楽器もまた電子楽器の進歩を思いっきりダイレクトに反映させる楽器で、次々と新しい機種が出て、どんな楽器の音もこの一台で出せるとか、奇妙な効果音(それこそテルミンもどきな)までもこなせるようになっていったのだが、しかしそうして音数が増えれば増えるほど、その音の深みがどんどん消えてしまって、最後には驚くほど薄っぺらい音になってしまった(加えて作りもどんどんきゃしゃになっていって、私は3度くらいフットベースを踏み折ってしまった……)。どんな楽器の音も出せるといいつつ、それぞれの楽器の音に似ているようでまるで違う、薄い金属板のような音。私は一番最初に触った、古いタイプの機種が好きだった。ボタンではなくレバー式の操作法も好きだったし、数えるほどの種類しか音は出なかったけれど、まるっこくて深い、優しい音色を立てた。テルミンの音色を聞いているとそれを思い起こさせた。そしこのテルミンが、もっとずっと、殆ど無限大にも思えるほどに表現力を表せる楽器だと知って、驚いた。

そう言われてみれば、と思わず膝を打ちたくなるようなSF映画、恐怖映画の効果音としてのテルミン。このテルミンの音色がそうした想像力をかきたてることによって、効果音の発展に貢献したとさえも思われるのだが(一方で、ジェリー・ルイス(!)が演奏するコミカルなテルミンも楽しかった)、テルミンはそんなところに留まっているだけの楽器ではないのだ。電子楽器の始祖と言いながら、テルミンは“電子楽器”という範疇を完全に越えて、一個の楽器としての確かな存在意義を持っているのだ。

右手で音階やビブラートを表現し、左手でボリュームやリズムを司る。その音色は、音から音への移動がスライドするような感じで、時折、奇妙な印象を与える感じがあったのだが、これまた天才と呼ばれるクララ・ロックモアの演奏を聴いて(見て)度肝を抜かれる。彼女の演奏はこうしたテルミンの特徴であり難しい点でもある部分を双方向でクリアしていて、右手の超人的な微妙な握りの変化によって、明確な音階を奏で、そのテルミンの特色であるスライドする音色によって、優雅さを際立たせる。左手が表現する、音の大小だけではない自在なうねりの変化にも感嘆した。彼女の演奏は聴くだけではなく、観る価値の充分ある、ジャズのフリーさにも通ずるような素晴らしさがある。

彼女は若い頃、銀幕のヒロインかと思われるようなまばゆい美貌の乙女だった。奇跡的に残っているホームビデオには、この若き日のクララと、やはりちょっと驚くほどの細面の美男子だったテルミン博士の仲むつまじい様子が映っている。それはクラシック映画の一場面のように思われるぐらいの、ロマンティックな画で、テルミン博士が忽然と姿を消してしまったことで、より現実感を無くしてしまっているかのようである。アメリカ、ニューヨークという刺激的な土地で出会った、同郷の同志。お互いに恋愛の感情もあっただろうが(特にテルミン博士の方は確実にあったらしい)、結婚することはなかった。テルミン博士はこの頃には今よりももっと想像もつかないぐらい大変なことだった、黒人女性との結婚をし、そしてその妻を残して突然姿を消してしまう。クララの目の前で、連れ去られてしまったのである。それ以来、何十年もの間消息は杳として知れず、死亡説がまことしやかに囁かれる。

この同郷、とは、かつてのソ連。個人を自由勝手に操ることのできる超大国は、彼の存在を西側から消し去ることなど造作もないことだった。時はスターリンによる粛清の時代。もともとは国によって外国にテルミンを広めんと遣わされていたのが、反体制分子と目されて収容所にとらえられ、強制労働に科せられるという、あまりにもあまりの理不尽な仕打ち。その天才的な電気技術力を買われて、軍事機密の技術工作……盗聴器や軍事レーダー……の開発に従事し、やっとこれが本意の、音楽学校での指導者に落ち着くが、アメリカの新聞記者によるテルミン生存のスクープが知れ渡り、この職も解雇。そしてそれから何十年もの間、不老不死の研究の成果か?長生きを続け、ゴルバチョフの登場で西側の友人たちと再会するまで生き続ける。そして本作の完成を見届けるかのようにして、一世紀を目前にした97歳でこの世を去った。

94歳のテルミン博士が、撮影クルーたちの前に姿をあらわす。その優雅で紳士な物腰に、監督ならずも、観客である私たちも一目惚れである。この過酷な人生を生き続けてきた人物は、それを怒りの腫瘍に変えることなく、テルミンの美しい音色のように、そこにいた。研究、発明は終生絶えることがなかった。彼が不幸であったことは、彼の人生の双璧であった音楽と科学が融合した発明、テルミンが、つまりは、彼の中での最高傑作が、人生のまだ始まりに過ぎない部分で生み出されてしまったことで、それによって彼は自由への道を断たれてしまった。

でも、彼がテルミンで得た青春と、過酷な運命にさらされながらも最後までこの楽器を愛し続けたことは、やはり幸せなことだったと思いたい。まさにハリウッドスターさながらの夢のような青年時代。美しい同志と、情熱的な恋の末に結婚した妻、そしてたくさんの友達。テルミン博士が数十年ぶりに訪れるニューヨークで、懐かしそうに目を細め、ちょっと疲れた様子で車の中で小さく目を閉じるのには、言葉を差し挟む余地のない、まさに人生の美しさがあった。想像を絶する怒りがあったはずなのに、いや、それを怒りにしないような人間が奇跡的にいるのだ、と思えて、泣きたいような気分にさせられるような。

ピアノとよく似合う、(電子楽器なのに)無欲な音色のテルミンは、(電子楽器なのに)クラシックにとても良く似合う。優雅で、洗練されていて、それはまさしくテルミン博士そのものだ。こういうものも生みの親に似るっていうことがあるのかなあ、なんて。写真でしか出てこなかったけれど、テルミンの合奏というのはぜひぜひ聴きたかった。合奏といっても、その場面では少しずつずらして一人の人間が弾いているように聴かせるというものだったらしいけれど、本当の意味でのアンサンブルだったら、これはさぞかし壮観&今まで聴いたことのない豪華な調べではないだろうか。

事実は小説より奇なり、という言葉が本当に切実に感じられる秀作ドキュメンタリー。最近本当に思うけれど、ドキュメンタリー映画って、殆どハズれがない。劇映画のヒット的中率に比したら驚異的な確率で面白い。やはり神の創作には人間は叶うわけはないのだな、というのを、思わず天を仰いで、痛感。★★★★☆


天国から来た男たち
2001年 114分 日本 カラー
監督:三池崇史 脚本:橋本以蔵 江良至
撮影:山本英夫 音楽:吉川晃司
出演:吉川晃司 大塚寧々 山崎努 遠藤憲一 水橋研二 翁華栄 北見敏之 及川麻衣 金山一彦 及川光博 竹中直人

2001/6/19/火 劇場(渋谷シネパレス)
心酔し続けているはずの三池監督の作品にこんな点数をつけることを心苦しく感じながらも、やっぱりおもしろがれない自分にうそはつけない。この感覚は実は「漂流街」のときも感じていたもので、いや、もしかしたらこの最近の三池監督に感じはじめていたことなのかもしれなくて。どこがだめなんだろう、おもしろいと感じられないんだろう?とつらつら考え、でも観ている間、途中に、ああ、退屈だ、なんて思ったりして、こんなことを三池監督の作品に対して思うなんて本当にイヤなんだけど。三池監督作品が何で好きだったかっていうと、切羽詰まった感じ、そこから派生する刹那の美しい感じ、にあって、それは「黒社会」三部作がもっとも顕著だったと思う。三池監督の、ムチャクチャさを強引にねじ伏せる感じも魅力のひとつとしてあって、それが近年の急激な三池発見?のムーブメントになっている感じがあったんだけど、でもそれはその二つの感覚があってくれればこその付加価値だったのだ、私にとっては。だからそればかりがクローズアップされて、でもそれもおもしろかったんだけど、しかしそれもまた収束に向かってしまい、「漂流街」にしても本作にしても、ムチャクチャに見えそうで実は妙に落ち着いた演出になっている、ムチャクチャを演出するという慣れが(随分矛盾したいい方だけど)全体をまとめさせている、という感じがしてしまって、なんだかつまんなかったのだ。確かに私のこういう感覚は勝手なんだろうとは思う。1人の作家を勝手なイメージの中に閉じ込めて、そこからはみ出ると文句をいうなんて。

フィリピンの、日本とは全く違うという刑務所内での囚人のありさまを、そしてそこから逃げ出しきれずにもがいているありさまを、亜熱帯の見るからに脳みそ沸騰しそうなだるい暑苦しさの中に描き出す。まあ、三池監督はほんとにアジアがお好きな方だが、そのアジアという混沌とした価値観の中で、さらに自分のアイデンティティが見えない男の切なさが美しかったのに、本作ではとにかく日本人、日本人、日本人であることにしがみついていて、ま、そりゃ仕方ない、そういう話なんだから、とは思うんだけど、……だから根本的にあまりノレないのは、仕方ないのかな。確かにラストには、そうした“日本人”であることをぶっ飛ばす結末が用意されているけれど、でも一緒にいる三人ともまだくっついててやっぱり日本人してるし、どうも期待するほどのカタルシスを感じないというのか、あ、やっと終わったよ、という感覚すら起こしてしまう。

キャストはこれでもかという人が揃っているのに、なんだかだるさがつきまとう。主人公の吉川晃司は、この人ならばもっとエッジが効いても良さそうなものだが、彼のヤバさがどうも出ていない。「漂流街」のときのそれがないのだ。遠藤憲一、彼は三池監督作品だとヤバい役ばかり振られてしまうのか。三池監督の切羽詰まった刹那の美しさこそエンケンに似合うのに(ああ、「ドッグス」よ!)、それがない作品での、なんだかアブないにーちゃんでしかないエンケンに、ああ、と嘆息してしまう。でも確かに自分がほれ込んだフィリピン人の女房に裏切られて、そこから見せる彼の自己破壊の切なさはすごいものがあったんだけど……。山崎努。この作品のキーパーソン。刑務所の中で警察と手を組んで押収された麻薬を売りさばき、利益をむさぼっている男。彼は登場こそ女物のワンピースなぞ着て強烈だったけれど、それ以降は特にそういうヤバさは感じなくなってゆく。作品全体のまとめに呼応した感じでもある。ロリコンの医者(翁華栄)やシャブ中でもはや自分の名前も判らないフィリピン太郎(水橋研二)などは相当ヤバいキャラなのだが、作品全体がそのヤバい感覚で妙に静かにまとまっていると、あるいは設定や展開がヤバいせいでそこに埋もれてしまうのか、破天荒さを感じることができない。

まあ、最も眠たかったのは大塚寧々だけど。もともと三池監督作品に女性の魅力なんぞ期待してないけど、それにしても彼女は眠たかったなあ。もともと眠たい女優だとは思ってたけど……。あの収容所の中で、まさしくはきだめに鶴、といった感じの彼女だが、実は結構したたかで……っていう、“実は”以降がすごくとってつけた感じ。全身から出るものが何もない、のだ。なんかただセリフをしゃべってるって感じなんだよなあ……。

マスターベーションネタ、精液ネタを一度ならず二度までも出してくるのはちょっとカンベンだった。そんなこというほどお上品なわけじゃないけど、あれを画面で見るのだけはどうしても生理的にダメなんだよなあ。それも二度もなんだもん。そんなにおもしろいのか?そのネタは。私はおもしろくないとおもうんだけどなあ。それに、二度目はいらないような気がするんだけど。

それぞれのキャラは、その人物設定から即座に想起させるモデルがいるのだという。とはいうものの、もっぱらそういう社会的なことに疎い私には全然思い浮かばないのだが。もしかしたらそういうのを判ることができればおもしろかったのかもしれないなあ。特に大塚寧々が演じた三島奈美恵なんて、女の視点から見たら、ものすっごく興味深い人物じゃない?でもその興味深いはずの人物が、ここではなぜこうまで徹底して興味深く感じられないんだろ……。ああ、でもそれは、そのキャラの成り立ちを、すべての原因が男から発生しているという点にのみ注視して造形しているせいなのかなあ。私が最も忌み嫌う女のキャラ。まあ、確かに彼女はだからこそここにいるのであり、だからこそ彼らと行動をともにしているわけだから、そりゃそうなんだけど。ああ、そんなこといったら、私は“女の視点から見たら興味深い人物”だなんていったことと矛盾するんだけど。でもたとえ出発点が男でも、そのことによってここまでの行動を起こしてしまった女の底力にこそ惹かれるものがある気がするんだけど、そういうことは全然感じられなかったなあ。

なんかだんだん三池作品を観ていく自信がなくなった、私……。★★☆☆☆


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