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「ら」


2001年鑑賞作品

LIES/嘘/LIES
1999年 108分 韓国 カラー
監督:チャン・ソヌ 脚本:チャン・ソヌ
撮影:キム・ウヒョン 音楽:タルパラン
出演:キム・テヨン/イ・サンヒョン


2001/5/15/火 劇場(渋谷シアター・イメージフォーラム)
韓国版「愛のコリーダ」だなんて触れ込みは、全編に渡る、ひたすらの性愛の描写、その行為のみによって高められていく男と女の関係という点について、確かに首肯されるものがある。劇中でもそれを意識した台詞があったし。しかし私が思い出したのは、そんな昔の映画ではなく、最近の邦画、「2/デュオ」と「うつしみ」であった。諏訪敦彦監督の「2/デュオ」は、脚本がないため、主人公二人がいまどういう心情でいるのかを俳優と監督でディスカッションしながら進んでゆく。その俳優の、今演じている気持ちを独白の形式で差し挟みながら展開していった。同じ手法で撮られた諏訪監督の二作目では、しかしその独白形式は撮られておらず、迷いもなく、まさにそこでリアルに生きている俳優たちがいた。それだけに「2/デュオ」での、監督と俳優の手探りの迷いのようなものが印象的だった。本作は、冒頭でヒロインがこうなった成り行きをカメラに向かって説明している。いわば語り部のような趣である。そうかと思うと、今度はそのヒロインが(本作で映画デビューの新人だそうなので)、これから脱ぐ、ということに対しての心情を吐露している。そしてもう一つ、ヒロインが親友に罵倒され、殴られる場面は、カットの声がかかっても画面は切り替わらず、そのまま涙が止まらないヒロインにカメラが迫ってゆく。しかしこの三つは本当に最初の方だけで、それだけに構成上、ちょっといびつな印象を与える。しかし、このヒロインが次第に自身を得て堂々としてゆくことを考えれば、もしかしたら確信犯的なのかもとも思えるのだが。

「うつしみ」は、その内容。双方とも、女子高生がヴァージンを好きな人(本作の場合はファーストインプレッションという感じだけど)に捧げるために自ら行動するという点で一致しており、しかも、その初めての挿入時に、幸福感を口にする点で、驚くほどの共通点を見せる。「うつしみ」のヒロインは、その時、まるで試験に合格した時のように「嬉しい、嬉しい!」を連発し、本作のヒロインは「幸せな気持ち」が口癖のように出てくる。「愛している」の言葉が出てくるのもずいぶんと早い。一方の相手の男性の方はというと、これまた双方ともにそうした感情面に気づくのが遅く、本作のJも「愛している」という言葉が出るのはかなり後である。Jはその最初には罪悪感を感じつつYに会って、その後もしばらくはその快楽のみに溺れていると、本人が思い込んでいる節がなくもない。肉体関係から生まれる愛情の、それゆえの強さ、そして恐ろしさを活写しているのだが、男女のこうしたズレは興味深く、それが軌道を外れた愛を生んでいくとも感じ取れる。セックスは愛情を表現するツールだと考え、それゆえ快楽のみに溺れることに対して罪の意識を感じる男性と、セックスとそれによって得る快楽は愛情そのものだと考えている女性、そんな図式。最終的にはそれぞれの思惑は溶け合い、溶け合っている時点で止まっていればよかったのだが、さらに交錯して逆転していく。男の罪悪感によって生まれる女への愛情とそれゆえの複雑な感情。愛情から始まって肉欲に堕してゆく女のしたたかさ。

もともとヒロインのYは、親友のウリがこの彫刻家であるJのファンであることから、彼女のためにJに電話をかけたのだった。そしてその声に感じ、会い、セックスをする。Yはウリにそれを隠しておくことができず、それ以来ウリには二人のセックスは筒抜けとなる。ウリの、ファンとしての純粋なJへの情熱は、Jを困惑させる。「彼女は愛を難しく考えすぎる」と。確かにここでのYとJの愛情を生み、育み、成熟させたものはズバリ、セックスそのものだ。でもそのことが二人を、というかJを追いつめていったともいえる。彼の言葉に説得力はない。

チラシで見ていたヒロイン、Yの風貌は、その一瞬のどこか投げた視線といい色っぽく、ちょっと山口智子に似ているような感じだったのが、最初に出てきたヒロインのお顔を見て、あれえ、と思った。そこにいるのは、本当に本当にあどけなく、中学生といってもいいような、ちょっと垢抜けない女の子だったからだ。ただ、ふっとカメラが引くと、彼女はすらりと背が高く、腰高で足が驚くほど長い。もうその時点で、彼女が変貌していくスリリングな予感を十分に感じさせた。期待を裏切らず、彼女はその幼さを残しながら、だからこそのコケティッシュな魅力を磨き上げてゆく。ジーンズばかりだったのが、ドレッシーなパンツ姿になり、スカート姿になり、そのどこかボーイッシュな雰囲気はそのままながら、確実に“女”の部分を潤わせてゆく。変な話なんだけどそれを妙に実感したのは、彼女が最初のうち、いかにも幼いソックス姿で、しかもセックスの時、そのソックスだけを脱ぎ忘れたような形で、履いたままでいるのが、とても危険な幼さを感じたのだ。しかし彼女が研ぎ澄まされていくにしたがって、そんなこともなくなってゆく。凄くヘンな部分でなんだけど、本当にそう感じたのだ。

一方のJはというと、特にSM行為でMの側に回ったときから、そして彼女に「愛している」の言葉をいったあたりから、彼女に従属する存在となってゆく。別居中の妻のいるフランスへ行くために、しばらく会えなくなる前、Yが大学の用事で遅刻してセックスができなかったとき、彼はまるで親に約束を保護にされた小学生のようにあからさまにむくれてしまう。そんなJを彼女は女子トイレに強引に引っ張っていって、彼の希望を満たしてやるのである。彼がいない間、欲望に負けたYが大学教授と関係を持ってしまったことを告白し、それにJが激昂する場面もしかりである。Yもそんなこといわなければ判らないのに、Jを翻弄したいのか、しかもタクシーの中で告白するんである。ひょっとしたら事実かどうかも疑わしい。

Yには彼女を溺愛する兄がおり、常に彼女を監視している。二人の関係がこの兄にバレた時、YとJは愛の逃避行とあいなるのである。カードで食いつなぎ、知人に金を無心し、各地を転々としながらセックスだけを繰り返す。しかしその頃にはYはJに対していささかあしらうような態度を見せる。彼の感情が彼女に追いついたとき、彼女の感情はまた別のところに向かっている。そんな、心のズレ。

この時からYは髪の毛をバッサリ刈り込んでいて、まるで男の子みたいになっている。最初に出会った頃の、あのいかにも少女だった頃よりも、さらに退行しているような印象を受けながら、その実、そのユニセックスを身につけた彼女は、少年の透明さを持ちながら女の(少女の、ではなく)残酷さを併せ持つような変貌を見せる。……ああ、これこそが、最後の最後、Yに去られてしまったJが心の中でつぶやいていた、天使というものなのかもしれない。あるいは、スカトロにまでエスカレートし、JはYのウンコを食べてしまうのだが(さすがにそのもののシーンまでは現われない。でもそれも描写してたら良かったかも?)そのときJは、味も匂いも何にもしない、魔女は体臭がないというが……などと考えるのである。魔女と天使、なるほどそれってどこが違うのと思うぐらいに、表裏一体の聖と魔性。

心配というよりは嫉妬に近いYの兄によってJの家は焼かれ、そのYの兄はYの巧妙な誘導によってあえなくバイク事故で命を落としてしまう。それを知ったときの、Jと逃避行中のYは、「やったわ、これで家に帰れる」……逃げてきたはずのY、Jしか頼れる人がいないはずだったYのこのしたたかさに、Jは呆然とする。家も失ってしまった彼は、彼こそがもうYしかいないのだ。

でももしかしたらそれこそが彼の望んだことだったのか。女のために全てを失うことが。最初はS側のように見えていた彼が、Yがふと泣き出した、ただそれだけであっさりとMに回り、それ以降はMであることに溺れきってしまったのだもの。SとMはこんなに簡単に裏返ってしまうのか。支配する者とされる者が。それも女の涙一つで。YがM側の時だって、彼を愛しているから耐えている、という彼女は、それはつまり彼に快楽を与えてやっているという点で、支配者である。最初からYが支配していたのか。

ところでとってもくだらないことなんだけど、男性のモノが、ボカシがかかってるところと全然気にせず映っちゃってるところとあったのが不思議で……まさかとは思うけど、そのモノの状態によってボカシをかけてるわけじゃないよねえ!?

この作品のオフィシャルサイトでの掲示板で、本作が女性に理解してもらえるのか、などと書いていたお人がいたのだけれど、いまだにそういうことをいうかな、という……。あのね、これは男と女の話なわけね。しかも途中から女が主導権を握っていくわけね。それでなんで女に判らないと思うかなあ。それと。これは今の韓国映画の台頭→定着からくる日本での公開なわけだけど、こういう映画が一般的にかけられるんだったら、ああ、それならば日本のピンク映画だって、もっともっと一般的に観られるようにして欲しい。今、旬の韓国映画だから、なせるわざなんでしょ。なんか、悔しい。結局ピンクは最初から最後まで男性のための映画で、だからこそ、そういう発言も出てくるんだろうな、なんて。★★★☆☆


楽園をください/RIDE WITH THE DEVIL
1999年 138分 アメリカ カラー
監督:アン・リー 脚本:ジェームズ・シェイマス
撮影:フレデリック・エルムズ 音楽:マイケル・ダンナ
出演:トビー・マグワイア/ジェフリー・ライト/スキート・ウーリッチ/ジョナサン・リース・マイヤーズ/ジム・カヴィーセル/ジュエル

2001/2/14/水 劇場(シャンテ・シネ)
アン・リー監督の少し前の作品。1999年度作品で主人公のトビー・マグワイアは実際は24、劇中では22と言いながら実は19歳だという青年を演じてる。彼のイノセンスを充分に発揮した役柄で、くわえて童貞だっていうおまけつきである。いや、まあそんなことはどうでもいいんだけど。

南北戦争は、恥ずかしながら私にとってほとんど未知の世界だ。でもそれも仕方ないだろう、いわばアメリカ内だけでの内戦なんだから。アメリカ国民にとっては避けては通れない、いわばアイデンティティにも影響するような出来事だったろうが、でもだからこそ、アメリカ国民では公平に描けないことを、台湾出身のアン・リーならばできるのだ。北軍が勝利したこの戦いを、どちらの視点で描くべきか、どちらかには視点を置かなくてはいけないのだから。今のアメリカを否定するわけにはいかない(ハリウッド映画なんだから)のなら、当然北軍側だが、アン・リーはそうはしなかった。負けてしまう南軍を選び、そちらに感情移入しながらも、ならば自分たちは本当に正しいのかという問いかけをなしたのだ。中でも、南軍に属しながらも実際は北軍派であるべきドイツ移民、ジェイク(トビー・マグワイア)には、生粋の南部男たちよりもその葛藤がはっきりと見えていた。彼は自分が殺した人数が15人だ、としっかり覚えていることからも判るように、こんな状況下でも人を殺すことに対して抵抗感を示していたし、南軍の劣勢が伝えられると、そこには何か原因があるのだ、と客観的に見るだけの冷静さを備えていた。

もう一人、ジェイクと同じような立場でものを見ることのできる人物がいる。この時代ならば本来奴隷としてしか扱われず、北軍が奴隷撤廃を叫ぶ中では南軍にとっては疎ましい存在でしかなかった黒人のホルト(ジェフリー・ライト)。彼は後に“実際は奴隷だったんだ”と述懐する、彼を仲間として守るジョージを第一主義として行動している。そしてジョージがホルトの目の前で死んでしまった時、ホルトは、実はずっと考えていたそうしたアイデンティティの揺れをはっきりととらえてゆく。寡黙で、どこか哲学者のような趣もあるホルト。

ブッシュワッカーと呼ばれる南軍のゲリラ隊である彼らは、冬の間、安全な農家に身を隠すこととなる。そこに住む若き未亡人、スー・リーは、ジェイクの親友、ジャック(スキート・ウーリッチ)と恋に落ちる。ジョージもまたとある女性に熱を上げチームから抜けていて、たびたびジャックとスー・リーに追い出されて、ジェイクとホルトは二人きりで話す機会が多くなる。南軍として戦いながらもドイツ人であるジェイクと、黒人奴隷であるホルト。見た目的には相容れない二人が、しかし不思議なほどにお互いへの信頼を高めてゆく。二人が話す小高い丘は、そんな戦いのさなかとは信じられないほどに静かで、小鳥の声がして、そこだけを切り取ると、これがそんな映画だということを忘れてしまいそうになる。

実際、描かなければいけない戦いの場面が収束し、残されたジェイクとホルトが再び農家に身を寄せてからは、静かな静かな生活が送られるのだ。ああ、アン・リーだなあ、と思う。戦いの場面でも、イタズラにその世界に入り込むのではなく、常に引いた視線を感じていたけれど、その場面が終わると本当に静か。今は亡きジャックの子供を生んだスー・リーが、乳房を赤ちゃんに含ませているのをジェイクが多分内心ドギマギしながら、でも静かに眺めてる、そしてそうしたジェイクをほほえましく見守るホルト、そんな情景が胸にしみるのだ。もちろんそれは戦闘場面があったからこそ、なのだけれど。

そう、結局は二人きり、残されてしまった。北軍との戦いでジャックは右腕に致命傷を負い、切断をためらっているうちに壊死を起こし、息絶えてしまった。ホルトの命であるジョージも、彼の目の前で絶命してしまった。しかもそれは北軍ではなく、南軍の純粋さを信奉していたゆえに、ホルトを擁するジョージやドイツ人のジェイクを目の敵にしていたピット(ジョナサン・リース・マイヤーズ)の仕業。ただでさえ戦いに懐疑的だった二人、しかも正規軍には属さず、暴挙と略奪を繰り返すゲリラ軍、次第に仲間内での抗争も多くなって、本当の正義とは、真実とは、なんなのかと二人のみならず観客にも問い掛けてくる。それは決して南北戦争だからということではなく、あらゆる戦争に言えること。正直言って今のアメリカがそれを判っているとは考えづらい。アメリカは北軍の勝利が今のアメリカの勝利というような、どこか矛盾した部分を抱えていて、アン・リーはそれをジェイクやホルトに代弁させているような気がするのだ。

ジェイクを執拗につけまわすピットもまた、実際は哀しい人物。新天地へ向かおうとしているジェイク&スー・リー夫妻(になったのだ)とホルトの前に、ピットが現れる。走る緊張。隙を見てすかさず銃を向けるジェイクだけれど、撃たない。ピットも本当にジェイクを撃つつもりだったかどうか、判らない。ピットは故郷に帰るという。今や南軍を敵対視しているところに帰るのは自殺行為だとジェイクは言う。でもピットは「あそこしか帰るところはない。帰って、酒を飲むんだ」と身を翻す。……ピットを演じるジョナサン・リース・マイヤーズは、線が細くて妖しい魅力の持ち主、享楽的殺人者のような戦いのさなかでの彼は、身震いするほどの恐ろしさなのだけれど、こうしてその皮がはがれてしまうと、こんな風に消え入るような哀しさが全身を覆う。

中盤で死んでしまうジェイクの親友、ジャックを演じるスキート・ウーリッチ。ヘンな名前だとずっと思ってたけど、よもや芸名だとは知らなかった。本名は妙にフツーなのね。今まではあまりにもジョニー・デップに外見が似すぎてて、ま、いまだに似てるんだけど、でも本作辺りからようやく彼としての魅力を認識できたような気がする。なんにせよ、彼のエキゾチックなチャームはどの作品においても普遍であり、本作における青年期の純粋な友情と恋愛感情が、夭折する役柄ともあいまって美しく昇華する。しかしすごいのは、生き残って、これからある程度はしたたかに生きていかなければいけないジェイク役のトビー・マグワイアが、彼よりはるか以上にそうした純粋さを持ち、多分保ち続けていくだろうと思われる点なのだ。

トビー・マグワイアという役者はほんとにスゴくて、その純粋な魅力が「ワンダー・ボーイズ」なんかではくるんと翻って気味の悪さになったりもするんだけど、その純粋さが大切な本作のような作品では、100%ウラもオモテも純粋な青年であり、それが未来永劫続いていくと思わせてしまうのだから。なんといっても、実際は19歳だった、などという設定がまるで違和感ないあたりが不気味なほどである。似合わないなーと思っていた長髪とひげ面(でも後半は結構サマになってたけど)がきれいさっぱり消え去っていつものこざっぱりとしたトビーに戻ると、ちょっとドキッとするほどさらにさらにイノセントなんだよねー。これってすでに演技力以前の部分ではなかろうかなどとも思え……。それにしても「アイス・ストーム」といい、アン・リー監督とは鉄壁のコンビ!今後もこのコンビ作は見てみたい。

戦争の残虐さ、激しさがスペクタクルとなって暴れる不可欠な要素はもちろんあるものの、結局残るのはとても静かな、静かな穏やかさ。母親を探しに行くというホルトとの別離の、友情と信頼が結晶化するラストシーンといい、戦争映画をしっかり感情映画にしてしまう手腕はさすがにアン・リー。やっぱ好きだわー。★★★☆☆


RUSH!
2001年 110分 日本 カラー
監督:瀬々敬久 脚本:瀬々敬久 井土紀州
撮影:林淳一郎 音楽:安川午朗
出演:哀川翔 キム・ユンジン 柳葉敏郎 大杉漣 阿部寛 千原浩史 ハニホー・ヘニハー 麻生久美子 青田典子

2001/7/10/火 劇場(渋谷シネ・アミューズ)
うー、哀川翔の出番が思ったより少ないではないか!と途中までは思い、あ、そうでもないか、と思ったり……。つまりは、5000万円という大金をめぐって、登場人物がいくつかのグループにわかれ、その中でも相互に入り組みながら展開していく流れ。分断しているようでいて、交差しており、一度片付いた問題がまた元に戻ってくる。時間が閉じた中での物語なのかと思ったら、最後にはもう1つの、つまりハッピーエンドが用意されている。オープニングが1つのエンディングであり、エンディングが二人にとってのオープニングなのだ。こうした、ゲーム的、やり直しがきくという展開って、ああもはや、1つのジャンルになりつつある?すでにほかの例を引いてくるのもヤボだと思うぐらい、やたらとあるのね。

「焼肉革命」のキャッチフレーズでのし上がった孫(峰岸徹)。その娘ソヨン(キム・ユンジン)は自分と母親を裏切ったこの父親を憎悪している。と、いうよりは愛憎というべきだろうけどね。彼女が自分の父親の死体を見た後に流す涙を見ればさ……いくらなんでも嬉し泣きじゃなかろう!?ああ、それにしても、このキム・ユンジンのうらやましいこと。そう、ここの場面でも、バイクの後ろに乗って哀川翔の背中に顔を押し当てて泣きじゃくり、哀川翔からキスされ、哀川翔から「お前が好きだ」といわれ(本人は理解してない)……あああ、くっそう、うらやましいではないかあ!

仕事人間で優柔不断な性格が災いして、妻から愛想をつかされてしまう島崎。演じる柳葉敏郎は、表情も豊かだし、体全体のアクションもいい人なので、もっと映画に出てほしいところ。寝取られたホスト、千原浩史にヘコヘコしちゃう様子や、決死の覚悟のバンジージャンプはお見事。妻役の青田典子は「DEAD OR ALIVE2 逃亡者」つながりで哀川翔が引っ張ってきたんだろうけど、この人がなかなかいいのね。しっかり美人だし、意外に演技も落ち着いてて安心する。このクセモノの二人の男を手玉に取るというのが納得って感じ。私はプロレスは全然わからんから、ミル・マスカラスねたがどうもピンとこないけど、ハニホー・ヘニハーのみょーに気のいい流れ者賭博人(と書くと、ほとんど任侠物?なんてこの人に似合わない……)も楽しい。異色の中でもこの人が一番異色で、物語のくさびになっている感じ。トラックいっぱいに積んだキャベツに埋もれている様が愛しいんだなあ。

と、こう書いてくると、一体何なんだ、この話は!?って感じだなあ。とはいうものの、投入するだけ投入した登場人物で描かれる物語は、しかし実に判りやすい。翻っていうと、登場人物が多い割にはいささか単純?でも明らかにハメコミ合成だろ、っていうような画面を多用したり、瀬々監督の、そうしたいい意味でのチープさを狙ったノリが楽しいっちゃ楽しいんだけど。しかし瀬々監督のカラー(といえるほど観てるわけではない……失礼)の艶っぽさがそれこそぜっんぜんないのは……いやいや、こんな話にそういう部分はいるはずもなく、監督がそれを排除しているんだろうとは思うんだけど。でも、瀬々&哀川翔でそれを期待していた向きには、やっぱりちょっと残念。

そう、この「冷血の罠」以降の哀川翔と瀬々敬久監督のタッグは、哀川翔が企画にも名を連ねているという。キャスト陣を見ると、それが実によーく判るんだよなー。この二人が引っ張ってきたっていうのがさ。特別出演の竹内力なんてその最たるもの。竹内力に指を切られたと思いきや、グーに握っていた哀川翔、というギャグ?には、「DEAD OR ALIVE」2作の二人の関係を思い出してニヤニヤ。みんなかなり楽しいんだけど、この人は役者だけでも生きていけるんじゃないかと思わせる千原浩史、二枚目という枷を軽々と超えることに成功して以降、今度はそういうキレた役しかこない?阿部寛あたりがよろしい。千原浩史は、「ポルノスター」、「HYSTERIC」と、シリアスな役で見せてきたのが、ここで彼本来?のカルいノリのにーちゃんを、肩の力が抜けた感じで演じていて、すんごくイイ。阿部寛はねー、ほんとにこの人はこういう役がハマるようになっちゃってねー。顔なんて四方八方にゆがんじゃってんじゃないの?というスゴさで。拍手もんである。相棒役の大杉漣、あの大杉漣を食っちゃってるんだから。

日本語とハングル語で全然通じてない日本人と韓国人のドタバタが描かれる。来年のサッカーワールドカップネタをからめているあたりはなかなか面白いし、通じなくても通じちゃってるのよね、というハッピーな感覚はなお楽し。ここは哀川翔とキム・ユンジンの上手さで、双方共に言葉が通じていないながら、実は場面、場面で相手がどういうことを言っているのかというのを察知し、だからこそ次第に心が通じていくというのが無理なく感じられる。しかし、キム・ユンジンの方は英語もバッチリだし(いやはや、カッコいいやね。というより日本人ぐらいか、英語もしゃべれないのは)、日本に韓国焼肉のチェーン店でのし上がった孫は日本語もしゃべれるし(しかしここはやはり韓国人のキャストの方が良かったんでは?)、うーむ、日本人はもうちょっと努力した方がいいかもしれない?

でも、なんだか嬉しくなっちゃう。ちょっと前まではこんなふうにアジア同士の国境を越えて映画が作られるなんていうことはなかった。あったとしても、こういう軽いエンタテインメントにおいてというのは、なかった。そうだよー。ハリウッド映画なんかは、もうガチガチの自国映画で、外国の才能をやたら取り込むくせに、その才能をもまたハリウッドに染めちゃうという徹底ぶりで、その点日本はアジアの才能といくらでも交われるのだ。ヨーロッパでは結構相互交流があるけど、それでもまだまだ、自国映画へのプライドやコダワリが逆効果となっている部分もある。翻ってみれば、日本映画、あるいは日本人に限っていえば、そういうコダワリはいい意味でも悪い意味でもあまりないし(外国映画にヨワすぎ)、今はまだぎこちない感じだけど。こういうのが普通になるぐらいどんどん交流していってほしい。

ところで。寿司は銀座でも大阪でも浅草でもなくって、築地でしょう?ねえ。★★★☆☆


LOVE SONG
2001年 100分 日本 カラー
監督:佐藤信介 脚本:佐藤信介
撮影:河津太郎 音楽:(プロデューサー)須藤晃
出演:伊藤英明 仲間由紀恵 一条俊 原沙知絵 津田寛治 坂本真 三輪明日美 石堂夏央 奥貫薫 ジョビジョバ(長谷川朝晴 六角慎司 石倉力 マギー 木下秋水 坂田聡)

2001/5/8/火 劇場(渋谷東急3)
80年代復活のムーブメントは、なるほど、尾崎豊がキーワードのひとつだったのか。彼が死んだ時から途切れることなく続いていた彼へのオマージュが、ついに懐古という言葉に変わりつつあるのかと考えると、彼の全盛期に青春時代を迎えていた世代としては、かなり感傷的な気分になってしまう。と、考えるとこの時代を青春時代として捕らえた映画って、初めてで、ひょっとしたらと思ったらやっぱりこの佐藤信介監督、ほぼ私と同世代ではないか。結構名前を見た覚えのある人だったので意外だったが、市川準監督作品の脚本家として何度か、そしてああ、「正門前行」の監督さんかあ!と思い出す。4年前中野で、インディーズ作品としてほかの監督の作品と抱き合わせでひっそりと公開されていたこの中篇が私はかなり好きだった。登場人物たちが奇妙で味わい深くて、憎めなくて愛しくて。本作はそうしたインディーズの持つねじくれた感覚はもはや既になく、驚くほどの直球勝負で青春映画を挑んでくる。キャストもみんな正統派である。心配されたテレビドラマ臭さもなく、過ぎた懐古主義もなく、青春時代と、それを少し過ぎた人生の苦さを知ることになる、若い世代の痛さと切なさを心地よく感じさせてくれる。

小さなレコード店からその物語は始まる。時代は1985年。ああそうか、まさしくレコード時代の末期なのだ。私は最後までしつこく抵抗してレコードを買っていたけれど、そんな抵抗はもちろん空しく、あっという間にCDに席巻されたことを思い出す。そしてこの舞台、会話から北海道であるらしい。で、あとでオフィシャルサイトをのぞいてみたら、なんと旭川なんだという(なぜ“何と”かは、私の自己紹介コーナー参照ぢゃ)。……うーむ、当時の旭川で、膝上のスカートの制服にこんな今風に紺のハイソックスだなんてないと思うんだが……ついでに言うと、2年後の夏休みに、ヒロインである彰子と友人の会話で、家に帰るのがイヤなのはクーラーがないからか、だなんて言っているけれど、旭川でクーラーのある家庭なんて、まずないでしょう。だって去年あたりの猛暑で急激にクーラーが売れて、もともとそんなに置いてない電気屋さんが在庫切れになったっていうくらいなんだよ。学校にだってないはず。うーん、でもお金のある私立にはあるのかなあ。でも今ならいざ知らず、当時は必要なかったと思うんだけど。

なんていう無意味なツッコミはこの辺にしといて。でもこれに限らず、本作は当時の感じを映し出すことにそれほど、というかほとんど執着していない。まあ携帯電話がないとか、基本的な時代考証は当然押えてはいるものの、それ以外では現代の物語といったって差し支えないほどである。もう15年も前の話になるというのに、とは思ったが、さっきも言ったように尾崎豊への評価が最近突如としてあらわれたものではなく、生前から、そして死後からの盛り上がりから、そして今に定着するにいたるまで、まさしく普遍的に続いてきたからなのだ、ということ。そして、決して尾崎は古びた異物ではなく、と同時に当時思い抱いていた青春や人生の第一段階の挫折の味わいが、懐かし印の話ではなく、普遍的なものなのだと主張しているように思えるのだ。

その冒頭、レコード店すずらん堂で音楽好きの店員、松岡(伊藤英明)と高校1年生の彰子(仲間由紀恵)が出会うところから話は始まる。おすすめで店内にかけていた尾崎豊のデビューアルバム「17歳の地図」は松岡の持ち物であり、彰子はそのレコードを彼から借りることになる。彼の家で5000枚ものレコードコレクションを見せてもらう彰子。レコード店を作る夢を話す松岡。心が通じた、と思ったのもつかの間、彰子がレコードを返しにすずらん堂へ赴くと、彼は東京へ引っ越してしまったのだという。ぷっつりと切れてしまう、青春の初恋。

しかし2年後、その糸が急に手繰り寄せられる。久しぶりに訪れたすずらん堂に飾られていた松岡からの絵葉書、彼が店の名前につけたいといっていたシーラカンスを模した看板の下で、仲間たちと一緒に並んで映って笑顔を見せている。夢をかなえたんだ。彰子はいてもたってもいられず、その葉書を手がかりに、高校生最後の夏休み、東京へと松岡を探す旅に出る。彰子にホレている哲矢をお供にしたがえて。

彰子が松岡を探すとともに、彼の挫折した過去があぶり出されてゆく。それと同時に現在の松岡の姿が描かれ、彼は親友と、そして新たに出会う強い女性との関係性の中で徐々に自分を取り戻してゆく。最初のうちは、彰子がめでたく松岡と再会し、いい感じになるのかな、と思わなくもないのだが、だんだんと、いやそうではない、きっとこの二人は出会わずに終わってしまう、その方がいいんだ、と予測がついてくる。そしてその予測は当たり、しかし最後の一瞬の邂逅が、その時声をかけなかった彰子の思いが、ラストもラスト、尾崎豊のコンサートで涙を流す彼女の姿で、はっきり言葉で説明するのは難しいのだけど、こう漠たる気分として、ああそうか、と納得させられるものがあるのだ。

その尾崎豊のコンサートチケットを手に入れたのが、彰子にホレてる哲矢。彰子はちょっとズルくって、自分にホレてる彼ならば、ワガママ聞いてくれる、って思っている節がある。で、まあ実際そうで、決定的なケンカ別れをしたかと思いきや、松岡が来るかもしれないという尾崎の久しぶりのコンサート会場、巨大な有明コロシアムで、ダフ屋からチケットを一枚買った哲矢がぼんやりと彰子を待っているのだ。たった一枚。哲矢はそれを彰子に託し、入ってこいよ、と促す。何か、キューンとしてしまったなあ。男の子が好きな女の子のために、彼女の好きな男と会えるかもしれない、そのライバルの男がファンであるアーティストのコンサートチケットを大枚はたいて手に入れる。たった一枚を。そうして彼女を見送る彼が。何かね、この時思ったんだ。ああ、この子だよって。彼女に必要なのは、って。彰子と松岡は生きる場所が違うのだ。それはこういう背伸びした、アコガレの恋は実らないとかいう、悲観的な意味でじゃなくって、人には幸せになれる場所があって、幸せになれる相手がいて、それは彰子にとっては哲矢のような男の子であり、松岡にとっては夜の警備員の仕事をしている時に出会った、強くまっすぐな女性、千枝なのだ。

千枝が強くてまっすぐなのは、彼女がそれだけ過去に傷ついているから。彼女は他人の話として語るけれど、あれは彼女自身のことに違いない。傷ついた過去があるのは松岡も同じだけれど、彼はまだ乗り越えられない。乗り越えられるきっかけって、なんだろう。千枝の場合は時間だったかもしれない。松岡の場合は千枝と出会ったこと。そして、かつての夢を託した店を再び訪れ、ほこりだらけの店内で涙を流したこと。そして松岡は彼女との会話を手がかりに見事ミラクルな再会を果たす。彰子と松岡が(厳密な意味で)再会できなかったことと比較して、やはり出会うべき人であるのだと強く感じさせる。窓の外に広がる草原は、千枝がディスプレイしたその草原そのままにピュアに輝いていて、あまりにもファンタスティックなのだけれど、心地よく、甘やか。

個人的に凄くイイなあ、と思ったのは、松岡の高校時代からの親友である石川。演じる津田寛治は伊藤英明と同級生というには少々ムリがあるが……いや、失礼。彼、あらゆる映画で名前は何度となく見てるし、でも彼ほど名前と顔の一致しない人もいなかったんだけど(再度失礼)。今回でやっとバッチリ覚えました。彼が一番、普遍的な社会人の悲哀を、とっても共感できる形で描いてて。それでいて、夢に生き、夢に挫折した松岡に嫉妬して、だからこそ理解してて……。彼が、高校時代からやるべきことがまっすぐに見えていた松岡をずっとうらやましいと思っていたこと、自分は会社に入って自分が必要とされて、初めて本気になったことを語るんだけど、これがね、ものすごーくしみるんだ。あまりにも判りすぎて。

仕事というものに対する人間の感情って一筋縄じゃいかないっていうか、好きなことを仕事にしてる人、全く未知の世界に飛び込んだ人、いろいろいると思うんだけど、何ていうのかなあ……学生の時とかって、やっぱり好きなことを仕事にしたいって思うし、ただ仕事として働くのって空しい気がするし、でも好きなことを仕事にできないなら、じゃあどんな仕事がしたいのかっていうと悩んじゃうし……。でも仕事って、そんな好きとか嫌いとか単純なものじゃなくって、もしかしたらそれ以上のレベルにあるもの、やりがいとか生きがいって言っちゃうのは簡単だけど、そんなことだけじゃなくて、自分が必要とされている喜びとか、うん、そう、その辺の機微が、この石川にすごーく出てたんだよね。で、彼、不治の病を抱える奥さんがいて、海外転勤を言い渡されちゃって悩むんだけど、奥さんの後押しもあって、転勤を決意するのだ。これもね、きっと学生の頃だったら、えー、奥さんのそばにいなよお!って思ったと思うんだけど、画面には出てこないけど、奥さんが行って来て、って言った気持ちが、やっぱりこういうことを判ってるからこそそう言ったんだろうし、なんか、この石川の、そう、もちろん平凡な一人の社会人に過ぎないんだろうけれど、その気持ちが、凄く凄く、伝わるんだよね。

彰子が借りていた尾崎のレコードを松岡と会わずにドアの前に置いてきて、そして何だか不思議と満足そうな顔で北海道へと列車に揺られて帰っていく、その表情とコンサートで尾崎の歌声を聞きながら涙を流す彼女の顔が前後して映し出されて、ああ、彼女は何か一つ乗り越えたんだ、って、思った。ま、もともと仲間由紀恵に16歳からの高校生をやらせるのはちとキツいかな、と思ったけど、この時の大人びた表情に、ああ、彼女でよかったんだ、と思った。……沖縄出身の彼女に北海道の女の子という設定かあ、と思わなくもなかったけど、ね。★★★☆☆


ラブハンター 熱い肌
1972年 67分 日本 カラー
監督:小沼勝 脚本:萩冬彦
撮影: 音楽:
出演:田中真理 相川圭子 吉沢健

2001/2/6/火 劇場(ユーロスペース:小沼勝監督特集)
いわゆる一般映画を撮っていない監督に関して、本当に無知だということを今更ながらに思い知らされてしまうのである。この小沼監督は、今年一般商業映画「NAGISA なぎさ」を撮ったけど、上映劇場が遠すぎて(よりにもよって、何で吉祥寺のみなの!)観ずじまいだった。評価が高かったこともあるけど、今回このロマンポルノ時代の作品を観て、「NAGISA なぎさ」を観なかったことをかなり後悔。ロマンポルノのみならず、現在のピンク映画にいたるまで、いわゆる成人映画は実験的試みや作家的表現が野放しなほどに許される場であり、とんでもない作家やとんでもない傑作が生まれる場所だけれど、その監督が一般映画を撮らなければ、きちんと評価される機会はあまりにも少ない。これは本当に理不尽なことだ(現在ならば、佐野和宏!)。

とまれ、本作である。70年代という時代を両極端に表現している女二人に目が行く。一人は裕福な企業グループの妻、もう一人は、彼女にヒッチハイクで拾ってもらった男二人を交えた三人組のうちの一人である根無し草のような女。裕福な妻は、自らが起こした事故によって夫が不能になり、自分の性的欲望のはけ口のなさと、夫に対する罪悪感と義務感で倦怠する日々を送っている。一方の根無し草女は二人の男と(そのうちの一人は一応恋人(夫?)であるらしい)3Pを繰り広げるような、性の自由を謳歌する女。そのことが最後に彼女の命取りになるのだが。

根無し草女の恋人ではない方の男、彼、この人妻に目を奪われる。そのヒッチハイク中、恋人同士である残り二人は欲望のままに後ろのシートで交わり始めるのだが、彼らによってかきたてられたか、あるいは負けじとしたのか、はたまた本当に純粋にこの人妻に対する欲望なのかはわからないが、とにかく、人妻に愛撫を仕掛ける男。人妻は抵抗しつつも、自らの欲求不満を隠すことが出来ない。

豪邸で、彼女は男を思い出し、自慰行為にふけようとする。と、夫はそれに気付いて彼女を抱こうとするのだが、彼女は「……やめましょう」と夫を拒絶する。ここで彼が不能だということが判るのである。この辺りからアヴァンギャルドな描写が頻発してくる。大体、寝ている時にこの羽のようなゴージャスなストールをまとっているのもスゴいし。彼女が夫婦生活を告白するモノローグで、いきなり全裸になり、真っ白な背景で、バスタブに腰掛けたりしてさまざまにポーズをとり、その真っ白な体に黒い手のあとや、海藻のようなものを実に隠微にその体にほどこしたりするんである。唐突なのもあいまって、かなりの衝撃度。美しいが、どこか可笑しく、しかしとてつもなく新鮮。

翌日、人妻は訪ねてきた男と再会する。自分の心と裏腹に男を拒絶しようとする彼女に、男は言う。「関係ないわ、って言う、唇の動きが可愛いぜ」男が去った後、彼女は鏡に向かって「関係ないわ」と何度も、さまざまに口調を変えて言ってみる。ちょっと不ぞろいな小さな歯、左右で大きさが違う瞳、彼女のどこか不安定な美しさが、こうしたさまざまなパーツの微妙なアンバランスさにあると気付く。

彼女は自分に思いを寄せるいとこの男を連れて、男のいる店に行く。男は二人に釘付けになり、出て行った彼らを仲間の二人と共につけてゆく。三人が覗いていることも気付かずにセックスにふける二人。三人のちょっとしたイタズラで、その車ががけから転落してしまう!車の元に急ぐ男。陶酔の最中にいきなり突き落とされた全裸の男女は流血に体を染めている。その禁断の妖しさ。いとこの男はすでに息がなく、人妻も気を失ったままである。男はゆすりのネタにしようとカメラのシャッターを切る。自堕落なその日暮らしをしている彼らにとって当然の行為ではあるのだろうけれど、男の人妻に対する気持ちを知っているから、それはまるでその時の彼女の美しさに目を奪われた故の行為であるように見える。あるいは、自分の気持ちを知っていながら、こんなアテツケをした彼女に対する復讐のようにも。

病院に駆けつけた彼女の夫、ここから今度はSMの世界に突入するんである。その導入はあまりにも予想をこえている。夫がケガで動けない彼女の胸をあらわにし、突如取り出した、針のように細長いナイフ、それを見て、おびえる妻、しかし次に聞こえてくるのは彼女の悲鳴ではなく、ショリショリとりんごをむく音なのである!赤い皮が螺旋を描いて、彼女の白い肌に貼り付いて幾何学模様を作る。な、なんなんだ!?大体、あれはどー見たって果物ナイフじゃなかろうに!?この夫、かなり濃い顔立ちで、それだけに情や嫉妬もどす黒そうで、黒い皮の手袋なんかしちゃって、かなり、コワイ。退院した彼女を、お決まりの亀甲縛りで(しかし、それもまた黒い皮ひもでだ。うー、マニアック)痛めつけ、ロウソクを取り出したから、これもまたお決まりのロウたらしかと思いきや、その異様に太いロウソクを彼女の口に突っ込むのだ。苦痛の表情から陶酔の表情に変わっていき、我知らず愛撫してしまう妻。それを見て恍惚の表情を浮かべる夫。

不毛なんだけど、なんだかここで急にこの夫が可哀想になってしまう。この後、あの根無し草女に不能をさんざん笑われて(なんという残酷!)ついにはこの女を殺してしまう、なんてことになってしまうし。あ、違った。実際殺したのは、この妻をフェチっぽく崇拝している使用人である初老の男で、二人同時にこの女を刺したと思った画のあとに、実は刺しているのはこの使用人だけで、夫の方は彼女に血の色をしたワインを浴びせている(!?なんじゃそりゃ!)だけなのだ。しかし、ここで血とワインで一糸まとわぬ姿を真っ赤に染めた女を、そっと床に横たえる夫、そばには暖炉、それを俯瞰でとらえてて、……なんという画になるショット!

死んだいとこの墓参りに訪れた人妻を男が待ち伏せている。「100万(で例の写真を売った)だなんて、ずいぶん安くあたしを売ったのね」と冷たく言い放つ彼女に、男は力づくで唇を奪う。最初は抵抗していた彼女は、しかし次第にその力が抜けてゆく。それはまるで、純粋な恋愛映画のように美しい場面。墓場で、女は喪服で、シチュエイションもバッチリである。あわやこんなところでファックかと思いきや「ここじゃ、いや」……一応分別はあるのね。かくしてホテルへと場所を移してベッドで、バスルームでと情熱的に肌を合わせる二人。この後彼女は夫と決別するけれど、それはこの男と一緒になるのではなく、このセックスが最初で最後。彼女は一人で生きてゆくんである。男との別れの場面は、夕暮れで、海を見てて、二人のシルエットがあかね色の中に浮かび上がって、クラシックな美しさ。女の気持ちをくんで「あんた、良かったよ」と言う男も、その粗野さが彼女によって浄化されたように、カッコイイんである。

夫に別れを告げた彼女が、かばん一つで出てゆく。乗り込んだタクシーの運ちゃんに「子供いる?」と聞く彼女。「子供がいなきゃ、こんな商売やってないですよ」と返す運ちゃんの言葉に、感慨深げな表情を浮かべる彼女。夫からそういう幸せを奪ってしまったことを思っているのか、それともこれから始まる自分の人生の中での選択肢を考えているのか。なんにせよ、ロマンポルノという作品の枠の中で、最終的に女の自立を謳いあげるこのラストがステキである。

ほんっとに、カルチャーショックだったなあ。画になる、この一言につきるのね。画になるといえば、この夫婦の豪邸に飾られてる、なんか猟奇的なオソロシゲな絵画、土色した人間が怒声をあげているような絵が、SM場面や殺しの場面でカットバックされて、それも鮮烈だった。★★★★☆


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