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「ひ」


2003年鑑賞作品

HERO 英雄/英雄
2002年 99分 中国 カラー
監督:チャン・イーモウ 脚本:リー・フェン/チャン・イーモウ/ワン・ビン
撮影:クリストファー・ドイル 音楽:タン・ドゥン
出演:ジェット・リー/トニー・レオン/マギー・チャン/チャン・ツィイー/チャン・ダオミン/ドニー・イェン


2003/8/25/月 劇場(有楽町丸の内ルーブル)
非常に説話的、哲学的な深さを喚起させる作品。衝撃的なまでの色彩の美しさは、刻々と変化する物語に従って主色を変え、その色で画面の隅々までを染め上げる。心を揺さぶる重く響く太鼓の音と流麗な弦の響きが寄りそう。基本はひとつの事実を語っていながらも、段々と真実があぶり出されていくその感覚は、「羅生門」をも思わせ、……そうしたラショーモナイズの映画は本当にたくさんたくさん、生み出されてはいるけれども、その手本がこれほど衝撃をともなうほどの美しい映画に姿を変えたのは観たことがない。思えば「羅生門」だって、仏教説話的な部分を内包していた。その中に禁断の果実が埋もれ、その対照が傑作たらしめていた。一方本作は、真摯で切なく、美しい恋はその中に描かれてはいるものの、驚くほどにプラトニックで説話の殻を破ることは決してない。そういう意味では、説話的映画として実に完璧に機能していながら、その中の恋人たちが本当はお互いに激しく愛し合いたいと、そう深く願っているのが判るから、余計心が震えるのだ。

どうしてこの人は、いつまでたってもこんなにも幽玄なほどに美しいのか、マギー・チャン、そしてその相手は「花様年華」でも彼女と美しすぎるカップルであったトニー・レオン。いや、むしろ、本作ではこの残剣に扮するトニー・レオンの素晴らしさが大きなカギになっていると言うべきか。彼は登場するその最初から、諦念の中に苦しげなまでの死相が表れていて、ああ、彼は死ぬんだ、きっと自ら望んで死んでしまうのだと、不思議に確信してしまうほどなのだ。そして彼を愛しているのに、自らの信念の強さがその気持ちをジャマしてしまう飛雪に扮するマギーが、きっとその彼とともに死んでしまうのだろうというのも、判ってしまうのだ。彼女のその美しさはどこか現実味がないほどで、だから彼女は最初から死んでしまっているような気もし……。対して、残剣の侍女として仕える如月(チャン・ツィイー)は、主人に対する想いが純粋で、一途で、きっと愛してもいたんだろうけれど、でも主人が愛している女性、飛雪のことも尊敬していて……みたいな、そういう、とてもポジティブな、そう、生を感じさせて、本当にマギーと対照的なのだ。相変わらずとても可愛くて、その可愛さはここでは何だかもう憎たらしいほどで、ベテランたちを相手にしっかりと奮闘する彼女にまたしても感嘆してしまう。

それにしても、チャン・イーモウがこんな映画を撮るとはオドロキであった。というのは、アン・リーが「グリーン・デスティニー」を撮った時にも思ったことだけれど。この映画の存在を知った時、それこそ真っ先に頭にのぼったのが「グリーン・デスティニー」であり、両方にチャン・ツィイーが出ていることや、ワイヤーアクションの時代物だとか、映像の美しさとか、何だかこれが本当に、不思議なほどに前情報の印象が似ている。思えばアン・リーも、ずっとこういう映画を撮りたかったと言い、チャン・イーモウも同じことを言っているから、これはチャン・イーモウがリーに触発されたかな?などと楽しい想像をしてしまう。しかし当然といえば当然のごとく、その中身はやはり作家の違いがきちんと出ているのが面白く、色彩が強烈なのは確かにイーモウらしいんだけれども、情念を漂わせながらも生真面目に説話を描写していて、こういうスタイルの映画で意外と、より彼らしさが出ているのかな、などとも思う。官能的なのに禁欲的で、みたいな。秦の始皇帝暗殺、という歴史的事実に材をとり、伝説の一部と前置きながらも、破天荒な部分を多く含む物語を、極力破綻させないように舵取りをするあたりが。

秦王の命を狙っていた刺客三人をしとめた、無名と名乗る官吏が秦王に召される。彼の語る物語は回想の形をとり、画面は一面、赤、である。起点となる一人目の長空を倒した話は最後まで変わらないものの、そのあとの展開は、青、白、緑とその主色が変わっていくごとに、めまぐるしく変化する。いや、長空との戦いですら、二番目の青の時点で既にその解釈が大きく変わってしまう。登場人物の感情や信念や結びつきや関係性も、最後に行き着くまで予想がつかないのだ。

実に練られたストーリーテリング。そしてそのくるくると変わる人物像を的確に演じる能力を持つ役者たち。赤の時点では嫉妬に狂う女に仕立て上げられている飛雪が、実は固い信念を持つがゆえに、愛する男と戦うことを選んでしまうほどに真摯な女であること、生気を失ったように情けなく見えていた残剣が、総ての悟りを開いた高潔な男であること……。ことに驚いたのは、赤の時点で歯ぐきをむき出して女の俗性をあらわにしたチャン・ツィイーで、彼女がもともとのイメージどおり可憐で一途な少女であると位置づけられるに至っても、あの時の彼女の顔がどうしても思い浮かんで困ってしまったほど。と、思うとやはりマギーとトニーはさすがなのだ。位置や立場を変えられても、彼らの凛とした根っこは最初から最後まで変わることはない。ことにそれが本当に不変に見えてうならされるのはマギーである。決して表情には出さないのに、内面が透けて見える彼女は本当に出色。そしてたまらなくイイ女。

赤はチャン・イーモウが好んで使う色ではあるけれど、この物語の最初に位置づけられているだけあって、起、として大いに盛り上げてくれる。赤から感じる不安な気持ち、そして嫉妬の情念。鮮やかな黄色に紅葉した葉の舞い散る中、繰り広げられる飛雪と如月の対決は、次第次第に赤く染め上がっていく葉といい本当に計算し尽くされているなと感じるんだけれど、やっぱりやっぱり、その美しさには脱帽してしまう。このシーンのみならず、流麗ななびきを見せる衣裳の美しさは、中国の時代劇はいいなあ、などと思ってしまう。これは並び賞されている「マトリックス」(続編観とらん)では到底出来ないことだ。ワダエミの仕事は実に素晴らしく、アジアの色の繊細さと生地の柔らかさ、線の美しさはまさに芸術品。

そして青。無名の語るこの物語を、それはウソだと秦王が喝破して語るのが次の物語である。赤の邪念に惑わされず、冷たく透明な頭で、正に青の感情で導き出す推理。総てがこのとおりではないにしてもかなりの真実をついていて、この秦王が実に優れた心眼を持っていることが判る。この時点でそれが既に示され、そして彼が死を静かに覚悟していることからも、彼が暴君ではなく、確かに天下を統一するだけの優れた人物であると判るのだ。天下、というのはもっと先、白によって真実が明かされた時に残剣が無名に託した言葉として出てきて、この秦王が天下を収められる人であり、そのことによって平和がやってくるのだ、というくくりなのだけれど……もちろん歴史としてそれは真実なのだろうけれど、そしていつの時代もそれはあるひとつの理想なのだろうけれど……現代ではそういう人は果たしているのだろうか?あるいは私達がそういう人をただただ待ち続け、時には間違った人をそうだと思い込んだりして破滅を招いたりし、とにかく、こういう人物の不在を、そしてそれが招く世界の荒廃を思わずにはいられない。アン・リーやそしてチャン・イーモウがこうした世界を描きたいと思ったのは、やはりそこにそうした希望に満ちた世界があるからではないのか、と。今の世界にはない、希望が。そう思うと、その美しい世界がとたんに哀しい色を帯びて見えてしまう。彼らが死を賭してまで守った世界が、今こんな風になってしまっていること。

その意味で、この映画は少々、危険をはらんでいる。主君を待ち望む映画、とも映りかねない。そして現代では主君はほぼ確実に暴君になる、哀しい時代なのだ。それに本作は、確かに単純な勧善懲悪などではない、深い精神世界に根差したものだけれども、でも秦王を深く理解し、お互いに心を深めていても、それでも命を狙った者として、無名が暗殺を見送ったにも関わらず、秦王は彼を殺さなければならないのだ。そして残剣と飛雪も、この秦王の天下の是非を問い合い、お互いの愛を取り戻すために命を落としてしまう。

真実の物語として語られる白は、しかし真実を得れば死ぬしかない白、死に装束の白でもある。飛雪に自分を信じてほしくて彼女の剣に自らを貫かせた残剣、そしてその剣で彼と共に自分も貫いた飛雪。二人の純白の姿は、まさに覚悟の白で、こんな美しい死の場面は近年見たことがないぐらい、本当に、呆然と、見とれる。彼らの死に泣き叫ぶ如月、チャン・ツィイーはやはり年若く、生のエネルギーに満ちていて、彼女の恋焦がれる気持ちは本当に判るのだけれど、二人とは確実に違う世界に生きているのだ。いつか判る日がくるとしても。だって二人はきっとこの時、そしてこれ以降永遠に、幸福に違いないのだから。

秦王を殺すなという残剣が、どうしても理解できなかった無名。でもその本人の秦王と対峙し、彼にも判ってくる。この人を殺してはいけないのだと。しかしその決断は、確実に、自分の死を意味するのだ。いや、どっちにしても死は待っていたのかもしれないけれども……。そして、無名を殺したくないけれども、殺さなくてはならない秦王の苦悩、そしてそして無名めがけてまっすぐに飛んでくる無数の矢……こんな画も今まで見たことがなく、無名の形そのままを残して数え切れないほどの矢が後ろの戸口に突き刺さる壮絶さともども、言葉を失ってしまう。数え切れないほどの矢、のシーンは赤のところであったけれども、最初に語られる、つまりはウソのそのエピソードでは、雨アラレの矢の中で落ち着いて書をしたためていたりするのがどこかギャグ的にも映り、あれれれ、と思ったものだった。しかしそれはこの場面のための伏線に過ぎなかったのだ。この場面を本物にするための。

そういえば、赤の場面でやはり少々ギャグ的と映ったのは、雨の中でのデッカイ碁のシーンから始まるのが印象的な、無名と長空との頭の中での対決だったのだけれど……などと感じてしまう自分がヤだなとは思ったのだけれど。でもその赤の場面がウソだと見破られた後、同じく頭の中での対決、として青のシーンで無名と残剣のそれがあった。飛雪の弔い、として描写されるそれは、しかしそれもまた、飛雪はその時点で死んでいなかったわけだから事実ではないんだけれど、さすが秦王が語るだけあって、無名が語るそれより、ずっとずっと真実味を帯び、思想的な美しい場面となっている。こういうところにも人物描写、人物定義の的確さにさすがと思わせられる。

無数の矢に射抜かれる無名。演じるジェット・リーは、それまでは真面目で一途な感じは出ていたけれども、正直アクションの上手いお兄ちゃん、という印象だった。しかしこの場面に至って、彼の顔にもトニー・レオンに出ていたような諦念の死相が出てくる。しかも穏やかで優しいそれで、あ、こいつってばやりやがる、と心が騒ぐ。うっすらと笑みを浮かべながら死んでいく彼に、心から哀悼の感情が湧きあがる。こんな風に美しく死ねたらと思うけれど、99.9パーセント、人間は醜くあがきながら死んでいくのだ。

白が真実、それで終わりのはずがもうひとつの色が用意されている。真実よりも深まる深淵。緑。最初から死を見据えていた残剣の目線とも思えるこの世界は、何だか哀しいほどに穏やかな色だ。彼が夢見た平和は、きっとこの色の世界の中にあったのではないかと思える世界。

平和を望むことは簡単だけれど、そのために自分の命を投げ出したり、あるいは信頼できる相手を殺さなければならないこと。今の世界はそこまでの過酷さがないにもかかわらず、なぜ平和になれないのだろう?★★★★☆


氷海の伝説/ATANARJUAT, THE FAST RUNNER
2001年 172分 カナダ カラー
監督:ザカリアス・クヌク 脚本:ポール・アパク・アンギリック/ノーマン・コーン/ザカリアス・クヌク/ヘヴェ・パニアック/ポールシー・コリタリク
撮影:ノーマン・コーン 音楽:クリス・リリー
出演:ナタール・ウンガラーック/シルヴィア・イヴァル/ピーター・ヘンリー・アグナティアック/ルーシー・トゥルガグユク/マデリーン・イヴァル/ポールシー・コリタリク/ユージーン・イプカグナク/パカク・インヌクスク/アブラハム・ウラユルルク/アパヤタ・コチエク/ルーク・タッカウガック/アレクス・ウッタク/ステファン・クルヌッヌト

2003/9/5/金 劇場(神保町岩波ホール)
途中休憩あるほどの長尺ということに相当ビビリつつも、あの東京一?座り心地の悪い岩波ホールの椅子に今回からクッションが備わっていてホッ。最後まで長さを感じることなく観ることが出来た。いやー、あの椅子でこの長尺じゃ、またお尻が痛くなって仕方ないもの。「ホセ・リサール」のプチ拷問は半ばは椅子も問題あったから(半ばは中身の問題だけどッ)。

しかし、上映後、ロビーに貼ってある登場人物たちの系図に群がる人たちの一番前に、私がいたのであった。この作品に関してはあるつてで先にプログラムをいただいていたので、それを先に見とけばよかった、とかなり後悔。つまりその渡してくれた人も、先にそれを見ておかないと判りづらいから、という意味だったに違いなく……。もうホントに登場人物たちのつながりがめんどくさいの!ロシア文学より難しいわ。名前は長くって難しいし、男性の顔の見分けつかなくて、父の世代と息子とがごっちゃになっちゃうし。女の子は見分けがつく、というあたりが私っぽいんだけどさ。でも実は、その判んなさは、途中ふと寝入ってしまったせいがあるんだけど。ごめんなさい。抗えなかった……。目が覚めてからは全然そんなことなかったんだけど、最初何が起こっているのか、どう展開しているのか全然読めなくて、ついつい睡魔に襲われちゃったんだもん。で、寝ている間にかなり重要な展開があったらしく、目が覚めてから一体何がどうなっているのやら、しばらくパニクってしまう始末。主人公のアタナグユアト(ほら、名前めんどくさいでしょ)の妻はアートゥワのはずなのに、何でもうひとり妻を名乗る女がいるのか、と……。つまりそのプーヤが第二夫人におさまるくだりを寝ていたらしく、後で歯噛みをしたのであった。

極北の民族、イヌイットたちの、何千年も語り継がれる神話をスクリーンに刻みつけようというこの壮大なプロジェクトは、三時間という上映時間をフルに使って、その奇跡の仕事を成し遂げた。彼らは別に今もこんな生活をしているわけではなく、あくまで神話に基づいたお話なのだけれど、そう誤解してしまいそうになるのは、神話といいつつかなり普遍的な人間のドロドロを描いているからなのだ。女を取り合い、不倫騒動があり、嫉妬からの殺人などなど、昼メロもマッサオな盛り上がりである。正直、ミステリアスな神話の部分とそういう部分とでなんだか中途半端な気もする……などとも観ている時には思ったのだけれど、後で思い直す。つまりは、このイヌイットの神話の中に既にこうした人間ドラマが含まれているということなのだ。生活も、狩猟する動物と人間の関係も、自然環境も、彼らの伝説や文化の中では等しく同等で、崇め奉る神話と人間の醜い感情を分けたりしていない。なるほど、これを分けてしまうから人間がウソで塗り固められてしまうのだ。この、イヌイットたちの中には少なくともこのウソというものはまるでないのだ。

生活にしてもなんにしても、こういう純粋な人たちが残っていてほしい、などと思いつつ、それは近代的生活を甘受しているこっちのワガママなんだよな、とも思う。だってミセモノじゃないんだし。でも、彼らは原始的とかそんなわけでは決してない。それが一番よく判るのは、争いをいさめるやり方によって。すべてが平等だから、権力の存在もない。それが唯一、彼らの生活を継続させるのに難しい部分である。ケンカもできない。もうまわり皆が止めに入っちゃうから。解決の仕方がひどく平和的。遊びが入ってて、見守る人たちが拍手喝采したりして、ちょっと笑ってしまうぐらい。一応殴りあいで決着させるやりかたもあるんだけど、取っ組み合いにするわけじゃなくて、きちんと交互に殴っていって先に倒れた方が負け、というやたら紳士的な殴り合いなのだから驚いてしまう。

でも、そんな風に権力が存在しないから、その解決でも不満を持つものは、相手を殺すしかなく、殺人者を取り締まることも出来ないのだ。しかし権力がない、と言い切るのは少々間違っているのかもしれない。殺人を犯すのはオキという鬼畜な男。その男はこの集団のリーダーの息子であり、彼は自分を重用しない父親にイラだって父親をも殺し、自分がリーダーにおさまってしまう。そして彼は自分の思い通りにならないアートゥワを力づくで犯す。その時、彼女の夫であるアタナグユアトはここにはいない……このオキに襲われ命からがら逃げ、遠くの集落に身を潜めているから。アートゥワは頼るべき人もおらず、泣き寝入りすることしか出来ないという悲惨さなのだ。その後も何食わぬ顔をしてオキの元に出入りしなければならない……。でもこれは、近代の社会でも大して変わらないかもしれないあたりが怖いところで、権力者がどうこうというより、男自体が権力者だということを、このオキが語ってあまりあるのだ。

それにしても、この二人の男の間で取り合いになるアートゥワは、それだけ“美しい女”として語られているのだけれど、ええ?そおかあ?彼女より、ワガママでナマイキで、アートゥワ家族を引っかきまわす“魔女”プーヤの方がハッキリ、可愛いと思うんだけどなあ。実際、このプーヤには最初から目をひきつけられてしまう。とてもキュートでコケティッシュで。ま、だからこそ、この“魔女”という役をおおせつかったわけだろうけれど。
妻が身重の場合、男は猟には別の女を身の回りの世話係として連れてゆく。その時にプーヤはアタナグユアトを誘惑して、第二夫人に収まってしまった(というくだりをまんま見逃したんである。くそう)。でも彼女はそうやって“家族”となってからも、家事とか全然手伝わず、寝てるか散歩しているかのどっちか。「あなたにこんなことを言うのはイヤだけど……」とプーヤへの不満を口にするアートゥワ。夫を挟んだ微妙な妻の間の葛藤がコワい。

しかも、プーヤはアタナグユアトの兄、アマグアックまでも誘惑してしまう。というより……これはやはり男の側のあさましさで、同じテント内に寝ていながら、つまりアートゥワもアタナグユアトもアマグアックの妻もいる中で、背後からプーヤを抱こうとするアマグアックの方がマズいと思うんだけど!なんか皆ハダカで寝てるしさあ。このシーンは解放的過ぎてエッチで凄い。
だからプーヤは何となく、どことなく……かわいそうなんだよな。彼女が糾弾されるのは、男が彼女の魅力に参ってしまうことと、妻としての役目を果たさない、という点であり、第二夫人とはいうものの、彼女には愛のありかがないのだもの。まあ、確かに彼女は性格的に問題もあるし、アタナグユアトがいなくなるとアッサリ鬼畜兄の元に身を寄せちゃうしたたかさなんだけど、でも、彼女一人が誰かを愛したり愛されたりというところから切り離されていて、庇護者を常に探している、という感じなのがやっぱりなんだか、かわいそうに思えてしまう。オキは男性における罪人でプーヤは女性における罪人の位置づけであり、プーヤの犯した罪っていうのは、先述のようにまあ大したことではないというか、いわゆる近代社会ではむしろそれって女性蔑視じゃないかと思うような部分であるものだから、やっぱり女は常に虐げられてきたんだよなあ……とプーヤを通して思ってしまったりもする。

まあ、とか言いつつ、オキもプーヤも悪霊に支配されていたがためのかわいそうな人たちという位置付け、になるのが神話の神話たるところなのだけれど。これだけ人間関係でドロドロさせてて、こういう風に落ち着いてしまうのがかなり凄いというか。プーヤはともかくオキなんて何人殺したか判んないぐらいなのに、オキもプーヤも追放だけで済んでしまうんだもん。ただその前にオキが、逃亡していたアタナグユアトが身を寄せていたシャーマンのコリタリクが使わしたウサギを食べたことによってすっかり大人しくなってしまう、というくだりがあって、それまでドロドロした人間ドラマにすっかり浸っていたこっちとしては、つまり神話だということを全く忘れ去っていて、この突然のファンタジックに驚かされるんだけど、でもそんな風に急に穏やかになってしまうオキがやたらと可笑しく、こんなにヒドいヤツなのに許せる気分になってしまうこのマジック。

それにしても凄いのは、やはりオキに襲われたアタナグユアトが果てしない真っ白な氷海を、全裸で失踪する場面である。いつもモコモコの毛皮を着て、それでもヒゲは凍り尽くし赤ちゃんは鼻の下をいつもテカテカ光らせてるし、マイナス何十度というこの世界、そんなムチャなこと絶対したらあかんで!ってことぐらい判っているのに、凄い、これ、まんま実写。この作品、プリミティブでありつつも、精霊が出てきたりなんだりして、まあそれなりに映像加工は行っているんだけど、こんな死にそうな場面でまんま実写なんだから、お前らアホか!と思うぐらい凄いのだ。ラストクレジットでその撮影の様子が描かれているんだけど……ホントにハダカで走ってやがる!バカヤロウ!てな感じで。確かに真冬と言う訳じゃない。ツルツルに凍ってはいなくて、ところどころ氷が溶けて穴があいており、つまりそこは海の上なわけだから、そこに足をはまらせたりすると……ひええええ、見ているだけで心臓発作で死にそうなんである。

しかしこのシーン、別にヤラしくもなんともないんだから、こんな場面でボカシを入れるのはちょっと粋じゃないなあ……今はそんなにうるさくなくって、「NOVO」なんかでも丸見えだったんだから別にいいのに。そんなことが気になってこの空前絶後のシーンが何となく気がそがれてしまうのが実に残念、なのだ。
しかしアタナグユアトがこの過酷な試練から戻ってきた時、愛するアートゥワに素敵な刺繍入りの防寒着をプレゼントする場面が好きなんである。「なんて素敵」と喜ぶアートゥワ。正直こちらの目からはその防寒着も決してハデじゃないし、あんまり変わんないように見えるんだけど(笑)でも、男が女にプレゼントする場面なんてそこだけだから、そうか、ラブストーリーでもあるんだよなあ、と思い出させ、ちょっとニコニコである。

雪の板をレンガのように小さく切って、ひとつひとつ積み上げて作るドーム型の集会所には感嘆した。この厳寒の地では、こんな家も夏になろうと崩れはしないのだ。はかない印象がありながらも堅牢で、そして光を通すそのドームはどこか宗教的な美しさ。
皮のなめし、動物の解体、何ひとつ無駄にしない彼らの文化が、今どれだけ残っているのかは判らないけれども……でも、この物語にしても、それまではあくまで口承文学だったものを、こうして形に残す努力をしている。口承文学が伝わらなくなる社会、というのは淋しいけれども、でも残していこうと思っている人たちがいる限りはまだ大丈夫である。日本は、口承文学の文化ではないけれど、そのためにどこか安穏として、自分たちの文化を取りこぼしてはいないだろうか、などとも思う。

アートゥワを自分のお母さんの生まれ変わり、そして彼女の息子を自分の夫の生まれ変わりだと思っている、シャーマンであるオキのおばあさんが印象的。彼女は最後に大きな決断をする……集団の秩序のために孫たちを追放する、しかしその厳しさは限りなく、慈愛に満ちている。彼らの文化の、これが基本なのだ、きっと。★★★☆☆


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