home! |
恋は邪魔者/DOWN WITH LOVE
2003年 101分 アメリカ カラー
監督:ペイトン・リード 脚本:イヴ・アラート/デニス・ドレイク
撮影:ジェフ・クローネンウェス 音楽:マーク・シェイマン
出演:レニー・ゼルウィガー/ユアン・マクレガー/デヴィッド・ハイド・ピアース/サラ・ポールソン/トニー・ランドール/レイチェル・ドラッチ/ジャック・プロトニック/ジェリー・ライアン
田舎で司書をやっていたバーバラ・ノヴァク(レニー・ゼルウィガー)が、女に恋や結婚なんて必要ない!ということを説いた「恋は邪魔者」という本を携えて大都会、ニューヨークへ。このウーマン・リヴな本に出版社内の男は眉をひそめるのだけれど、やり手編集者ヴィッキーはこの本は売れると確信。男性向け雑誌「ノウ」の売れっ子記者、キャッチャー・ブロック(ユアン・マクレガー)にカヴァー・ストーリーを書かせようとするものの、プレイボーイの彼は女の子とのデートを理由にドタキャンを繰り返しバーバラがついにキレて断ってしまう。この本の運命は……と思いきや、時の番組「エド・サリバン・ショー」にジュディ・ガーランドが歌うヒット曲と同タイトルの本ということで紹介され、爆発的ヒットに。すっかり売れっ子となったバーバラがテレビに出演、キャッチャーをヒドいプレイボーイだと名指しで批判したことで今度はキャッチャーが激怒。バーバラを自分にホレさせて復讐しようとたくらむのだけれど……。
レニー&ユアンというのは、完璧に理想のコラボレーションじゃないかしらん。初期のとんがった感じが近年はすっかりカワユイ青年のイメージに定着してしまった感じのするユアンは、確かにその方が似合うのだ。この世界観はそんな彼の魅力を充分に発揮した「ムーラン・ルージュ」と共通するところもあり……ちょこっとだけどミュージカルっぽい部分も本作にあるし。彼は実にスウィートなんだよなあ。実はこのプレイボーイという役柄はあんまり似合わないというか、それこそ「ムーラン・ルージュ」のとっぽい青年の方がドンピシャリだったんだけど、でも本作でもプレイボーイを気取りまくって、最後の最後にバーバラにドカンとひっくり返されるのだから、ある意味とっぽい青年であったことは間違いないのよね。ホレさせるつもりがホレてしまう、そして意外な事実に呆然とするユアンは可愛すぎるのだ、もお。
しかし、なんと言ってもレニーである。レニーの独壇場。もはやロマコメ女優はメグ・ライアンから彼女に完全に移行した!と言っても過言じゃないわよね、と思う。レニーのメグとの違い、そして決定的な武器は、ネガな部分があるところ。レニーは100パーセント“可愛い女優”ではない。そこがイイのだ。勿論スーパーキュートで可愛いんだけど、ブスな女になれるところが凄いし、外見だけじゃなく精神的にも鬱屈したものを抱えている女を、しかしコミカルに見せることが出来る。今回も過去は冴えない女であったことがキーになってて、その作られた過去写真はかなりヤバい。嬉しくなるなあ。これはメグじゃ到底できないのよね。
このレニーのキュートさに、60年代カラフルが本当によく似合う。彼女、ばっちしこの時代のキュートな女性にハマっている。バーバラ・ノヴァクという名前のなんともいえない華やかさ。バーバラがまずいかにも華やかだし、ノヴァクは、劇中ユアン演じるキャッチャーも言っていたけれど、あのファム・ファタル女優、キム・ノヴァクを即座に思い出させる。部屋を取り替えてのデートは「アパートの鍵貸します」みたいなシチュエイションコメディそのもので、まさにあの頃のプログラムピクチュアを凝縮させた魅力。「フライ・ミー・トゥ・ザ・ムーン」をはじめとするボサ・ノヴァが洗練さを際立てる。すべてのディテールに隙がなく、完璧なのだ。
そしてキャッチャーがとっかえひっかえする女は、一見してみんな同じ女性かと見間違うマネキン状態がまた面白いんだけど、自立した女性の花形職業、スチュワーデス。そしてバーバラが恋の相手にと夢見るアストロノーツは、ジップと名乗ったキャッチャーがいつわった職業。空に宇宙に夢を描き始め、それが本当にロマンチックな夢であった時代。
そういう綿菓子みたいな夢を、疑いもなく描ける時代にさかのぼって作るというのは、現代から逃げを売っている気がしないでもないけど、でもこういう、素敵な映画のウソが久しくなくなってしまったよなあ、などと考えると、やっぱり陥落してしまう。ジュディ・ガーランドとエド・サリバン・ショーでの夢の共演だなんて、その最たる素敵な映画のウソ。バーバラとキャッチャーがデートする場面は、バックにキラキラしたミュージカルやバーの看板が次から次へと貼り付けられる。同様に、車中の場面、通り過ぎる車窓の風景は完全にハメコミで、こういうアナクロな“映画的懐かしさ”に本当にくすぐられてしまう。あの頃は、映画に今よりもっとラクーにポップな感覚で無限の可能性を託していたことが判る。そうそう、女側と男側を同時に見せる分割スクリーンも当時っぽい。境界線を自在に変化させ、そのパズルの組み合わせがちょっとエッチになるあたり、なかなか上手くて魅せる。エッチもあくまでキュートであって、いやらしくはならないのは、やはりレニーとユアンだからこそだろうなあ。この描写はやはり過去映画のオマージュであった「オースティン・パワーズ」みたいと思わせるものの、その点で本作の方が好み。
しかしバーバラは本当にダマシたのだろうか?
バーバラはキャッチャーのことを、ジップという名のアストロノーツだと信じてデートを重ねていた。そして恋に落ち、キャッチャーがそれ見たことか、女に恋なんて必要ないと言いながら、自分に恋したじゃないかと喝破しようと思いきや、バーバラが明かした衝撃の事実は、こう。バーバラは実は彼がキャッチャーだということを知っていた。それどころか、以前彼の秘書をやっていて、その時から彼のことが好きだったんだけど、女をとっかえひっかえしているキャッチャーに、そのうちの一人として捨てられるのがいやだったのだと。その頃のバーバラは本当にサエない女だった。いや、バーバラというのも小説を書くための別人格で、私書箱の名前でしかない。本当の名前はナンシー・ブラウン。
……ということを明かす、長台詞のシーンはレニーの見せ場だけれど、そして実はナンシー・ブラウンだったというのは本当なんだけれど、彼の秘書だった、という部分がもしもウソだったら、あの時にすべてを考えたとも言えるんじゃないかしらん、なんてことを想像してしまう。そう、あの長台詞が大バクチだったと考えたらかなり面白いんだけど、それはいくらなんでも深読みしすぎか。どんでん返し、で充分面白いんだから。
ただ、このどんでん返しはでも、ちょっと予測がつかなくもなかったけど。
しかし、眼鏡でデブで褐色の髪のサエない女が、スレンダーなブロンドの美女になって、その美女になった女になら男が恋をする、というのはちょっと危険なプロットでもある。つまり女は外見が第一条件で、それがまずなきゃ男は女を好きにならないのかということで。キャッチャーもバーバラのことを知る前は、こういう本を書く女なんだから、と勝手に先入観でサエない女を想像していたのが、実際はブロンド美女だと知って、うろたえるのだから。「マイ・ビッグ・ファット・ウェディング」では、その点に大いにイカッたものなんだけど、そこのところはさすがレニーとさすがユアンで、ま、いいか、と思わせちゃうというか、レニーが外見から入るものの中身までが可愛いと思わせちゃうというか。うーーーん、これも60年代が舞台という“逃げ”の部分ではあると思うんだけど、しょうがないよなあ、レニーなんだもん。そういやレニー、あの「シカゴ」でも外見を変えて武器にする女だったもんね。それが説得力あるのよね、彼女だと。
でも、とやっぱり考えてしまう。絵に描いたような楽しげなデートの様子は、音楽にのせて次々と提示されるだけで、彼らがそこで何を話して、どう盛り上がったのかは判らないのだ。キャッチャーがバーバラに恋に落ちるまでの何か、というものがボヤけている。彼女はキャッチャーを自分にホレさせるために頑張った。プレイボーイのキャッチャーをそうさせるためには、外見だけではダメだと、かなりの期間を使ってデートの回数を重ねている。その間、男の欲を満たすようなヤラしいこともせずにだ。ならばそこで彼女は何をしたのか。ただデートに誘われるまま行っただけなら、彼を落とすことは出来ないだろうというのは、彼女自身が最もよく判っていたはずなんだけど、いいとこフィーリング程度でゴマかされている、気もする。
上映が終わったあと、「こういうのを男一人で観に来るって……」と失笑気味で話している女性同士がいたんだけど、えー?男が一人で観にきたっていいじゃないの。むしろ、こういう映画を女が一人で観てる方が悲惨よ(って、私かよ)。だってこれって、女が一人で生きていける、っていうのを最初に賛美しておきながら、やっぱりそれはムリよ!って言っている映画なんだもん。女一人の方が……やっぱ悲惨よね。
ま、でも、両極端な男と女の主張の真ん中を採っているともいえるのかも……。女だって男性と同じようにキャリアとサクセス、と主張していたのがバーバラ、一方、女は運命の男との恋と結婚を求めているとの主張はキャッチャー。で、結末はというと、男性誌「ノウ」に対抗した女性誌「ナウ」をヴィッキーと共に創刊し、キャッチャーを完全に凌駕したバーバラの元に、この編集社の募集に応じてキャッチャーがやってくる。“性別問わず”として彼がやってくるのを待っていたバーバラのワナに、キャッチャーは望んで引っかかったわけ。そしてめでたくハッピー・エンド。そ、社会は完全に男性に有利だから、女が躍進して男が折れないとバランスはとれないわけよ。
バーバラとキャッチャーの恋のさやあての一方で、双方の親友であるヴィッキーとピーターも悪戦苦闘。ピーターは好きだなあ。本当にオクテで、キャッチャーに利用されていることからヴィッキーに彼のことが好きなホモじゃないかと疑われる始末で。彼らも最終的には実にカワイイ同時電話でハッピー・エンドを迎えるんだけど、ヴィッキーはバリバリのやり手で勿論仕事を辞める気なんてない。尻にしかれるんだろうなあ……目に見えるわ。
女はチョコを食べるとセックスと同じ脳内快感を得る、という持論からつくられた、「恋は邪魔者」チョコレート、なんていうアイテムもカワイイ。チョコをほおばるレニーがホント可愛いんだもん。彼女はいい年のとり方をしていると思う。年相応にもちゃんと見えながら、だからキャリア・ウーマンも似合いながら、それでいて可愛いのが嫌味にならない。こういうのって実は意外に凄いよなあ。★★★★☆
この二人は池部良と久慈あさみ。はぁ、もちろん池部良が見たくって足を運んだんですが。本当は、時代劇とか和服姿の池部良が好きなんだけど、素敵、やっぱり素敵だわあー。思いっきりスタイルいいんだもん、彼。背が高くて、肩幅があって、きゅっと締まった腰高のウエストに、ポイントはガタイの良さ。背ばかりヒョロヒョロ長くて華奢な現代男性とは違うのだよッ。あー、見惚れる。大ぶりの長めのコートが実によく似合うんだなあ、これが。そして対する久慈あさみもまた八頭身美人なものだから、もうこの二人が並んでると画になりすぎでクラクラする。完璧なんだもん。久慈あさみもすそが長めの厚手のコートで、これが全然重たくなくってスラリと細く、美しいわあー。ホント、完璧な恋人同士にしか見えないのに、そのことに本人たちが全然気づいていないだなんて。
明日は結婚式という日、「こんな日はかえってヒマなのよ」などと言って、京子は誠一を呼び出す。もう昔っからの仲良しさん同士らしい、というのが電話の軽口を叩く口調でも判り、両親も誠ちゃんとなら、という感じで結婚の前日に娘が男と出かけようってのに全然心配してなくて、あまり遅くならないようにね、とだけ言って娘を送り出す。待ち合わせの喫茶店であっという間に誠一の分のアイスクリームまでたいらげ、映画、「哀愁」を見て涙を流す京子。スケートに出かけ、ヘタッピな京子とクロスで手をつないで一緒にすべってやる誠一。誠一は京子に「ぼんやり!」と言われているようなおっとりとした青年で、「私は明日結婚するの。もう一人前よ。あなたなんてまだチョンガーじゃない」などと京子にからかわれる。久慈あさみはこんなに完璧スタイルの美人なのに、こういう颯爽と明るい、そしてオチャメな可愛さが実に良く似合う。そして彼女に振り回されて、いつでも困ったような顔をしている池部良がたまらんのだよなあー。実際、こういうキャラの彼はあんまり見た記憶がなくて、何かすごおく母性本能みたいな部分を刺激されちゃう。もう、あー素敵。
映画「哀愁」でピッタリと腕をとって観ている時点で、幼なじみとはいえなんだかイイ雰囲気なんだけど(それになんたって「哀愁」だからさあ)そんでスケート行って、天ぷら屋で食事して、普通ならそのあたりで、じゃあ、帰ろか、となるところが、京子が、誠ちゃん、あなた私をこのまま帰すつもり?などと言うんである。幼なじみでなけりゃ、これは完璧に恋人の台詞だけど、いや幼なじみだって、これはそこから恋人への段階を踏んでいく言葉である。でも京子にはこの時点でそんな自覚がぜえんぜん、ない。いや、彼女の奥でめばえていたのかもしれないんだけど、とにかくここでは彼女はまだハッキリとは気づいていない。でも、誠一の方ではもう気づいているのだ。そしてヤバいと思いはじめている。今なら自分の気持ちを封じ込めたまま彼女を送っていってやることが出来るけれども、これ以上いったら……案の定、その次に足を運んだダンスホールで彼は彼女に好きだと告白するんだけれど、「あたしも誠ちゃん好きよ」と交わされて目を白黒。だって二人手に手をとってぴったりとくっついて踊っている、そんな雰囲気満点の時に言っているのに、彼女全然警戒心がないというか、もう安心しきっちゃっているというか、気づけよ!って感じなんだもん。「いや、君の好きとはちょっと違うんだよ……」と二の句がつげなくなる誠一。
でも、彼もさあ、ホント遅すぎるのよ。だって彼女は明日違う男と結婚しちまうのよ。何でそんな段になってさあ……いや、判っている。彼は言うつもりなんてなかったんだってこと。でも彼女が言わずにはいられない状況を仕立て上げてしまった。それなのに彼女自身はそのことにまだ、ここまで来てまでも気づいていない。なぜこれほどまでに帰りたくないのか、彼と別れたくないのか。寄り添いあってダンスしながら、顔を寄せ合いながら、見つめ合う二人(あー、お似合いすぎでドキドキ!)。彼はもちろん、彼女の方の表情もだんだんと切なさを帯びてくる。彼女は言う。「よく判らないけれど、今日が最後の日だって気がするの。そして明日からは違う世界になる」「まるで人身御供に行くみたいだ。君は本当は幸せじゃないんじゃないのかい?」「違うの、そうじゃないの。ただ今日は最後だってこと」彼女の言葉の歯切れはいいんだけど、その言っていることは歯切れが悪い。彼女は確かに子供で、もしかしたら恋を知らないまま来てしまったような子供で、結婚も大人になれる儀式ぐらいにしか思っていなかったような感じ。でも明日が結婚式というギリギリになって、何だか彼女の中で割り切れない想いを感じるようになったのだ。それは彼のことの前に、「他人になる練習をしているみたい」によそよそしくなっていく両親に対する寂しさ。それに耐え切れなくなった彼女は結婚式の前日、こうして誠一を呼び出して独身最後の日を楽しく過ごそうと思ったわけだけど、ならばなぜそれが誠一でなければいけなかったのかということを、彼と過ごしているうちに、ようやく彼女にも気づいてくる。
誠一の方は、もう最初から自覚的だった。彼はこの直前に兵役に行っていて、そこで彼女への想いに気づいた、らしい。「兵役に行っている間も、ずっと君の事を忘れたことはなかった」そんな決定的な言葉を言ってもまだ彼女の方はそれが幼なじみとしての親愛の言葉だと思っているんだから、このドンカン娘!と頭をこづきたくなるんだけど、確かに彼はそういうきっかけがあったからこそ彼女への想いに気づくことが出来たのだ。兄妹みたいに近しい存在。ずっとずっと近すぎて見えなかった想い。そして彼女がそのことに気づくのは、終電に乗り過ごして、深夜二人っきりになってからなんである。遅いッ!
タクシーを拾ってくる、と言う彼を彼女は押しとどめる。泊まってもいいと思っている、と。この時の京子はこれはもうようやく、その言葉が信頼している幼なじみだから大丈夫、という意味ではなく、その意味を知ってて言っていることが判る。彼は彼女のその気持ちに気づいてうろたえる。それはダメだ、と。そりゃね、判るよ。結婚式前日の女なんだし、それにだからこそ相手はどこかセンチメンタルになってそんなことを言うんだとも思っているんだろうし。でもでも、女がここまで決死の覚悟で言っているのに、おまーはどこまで度胸がないんだよッ!と観ているこっちは切なさと歯がゆさでイライラ。判ってる、だからこその誠ちゃんだし、だからこそ彼は素敵なんだけど、でもでもでも……。「映画が終わってからでも、食事が終わってからでも、いくらでも帰れた」と言う誠一に「私だけのせいなの?」とくってかかる京子。「なぜ今日、別れたくないと思ったの。誠ちゃんも同じじゃないの?」とあーもう!そりゃあんたはここになってようやく気づいたんだろうけど、誠一の方は、誠一の方はだなー。そんなこと判ってたから、だから逆に早く帰らなきゃ、と思ってたんだよッ、バカッ!
この地下道でのシーンは、二人のやりきれなさが爆発していて、もてあました気持ちをどうしていいか判らない京子の腕を誠一がとってみたりと……ああとにかく、もう抱きしめるぐらいしろ、キスぐらいしろ!などと思っちゃうぐらいなんだけど……現代だったらそれくらい、したろうなあなどと思いつつ、決して決してこの二人はそんなことはせんのよ。結局は二人腕を組む程度。そして彼女の家への長い長い道のりを二人で歩いていくだけ。「明日になっても同じ言葉を君から聞けたら……」とこれは言ってはいけない台詞。だって、やっぱりダメなんだもん。遅すぎるんだもん。いや、遅すぎはしないのかもしれないけれど、でもやっぱり、あー、なんだ、とにかく、ダメなの、こんなことを言っては!京子は涙を流す、静かに、声も出さずに。そして二人は夜の霧の中、彼女の家までの長い長い道のりを腕を組んで歩いていく。この長い長い道のりの中、二人は何を話したんだろう、いや、もう何も話さなかったかもしれない。ただ二人、これが一緒にいられる最後なんだということを、それだけを噛みしめていたのかもしれない。
冒頭は、京子が結婚してからいくらかの日がたってて、もう京子はいない家に何の用があるわけでもなくフラリと誠一が訪ねてくる。そしてこの最後の一日が誠一の中で回想され、そして最後は日にちが戻り(過ぎ?)京子の家、いや実家で夜まで過ごした誠一が帰ったあと、京子の両親が二人のことを述懐して終わる。誠ちゃんは、今日、京子の思い出を持ってきてくれたのね……誠ちゃんは、京子のことを愛していたのね。京子も誠ちゃんのことを愛していたのね、などと言い合うこの両親。暮らしぶりやこの両親からしてなかなかラブラブなところからも判るけれど、愛している、などという言葉がスラリと出るあたりからしてどこかモダンで。だってダンナの方は妻をママさんとか呼ぶし、この両親は素敵なのよね。この二人はストレートに好きあって結婚したんじゃないかなどとも思ったり……。そして誠一が忘れていったマフラーに二人は気づく。また来るさ、とダンナは言い、ママさんは玄関のフックにそのマフラーをかける。フックには、京子が取り忘れた“京子用”と書かれたシールが貼ってあって、そのマフラーにENDマーク。洒脱で、でもやっぱりやっぱり切なさ大爆発。京子はともかく、誠ちゃんは結構ひきずりそうだよなあ……。
ダンスホールのシーンで出てくる、若すぎの森繁久弥が楽しい。そうだこのダンスホールのシーンで、特別ゲストとして出てくる声楽家の斉田愛子さん、そして彼女の歌うマイ・スウィートホーム、そしてそしてその歌に涙する京子のシーンが思い浮かぶ。かたわらに、そっとハンカチを差し出す誠ちゃんがいて……ああ、やっぱり切ないよー!★★★★☆
関東でいくつもの組をたばねていた連合組織、関東桜田会が解散することになる。あのー、観ている時には何でだかよく判らなかったんだけど、警察の圧力を逃れるための偽装解散だったんだって。でもその中の一つ、大野木組が、長年続いてきた伝統の組を解散するわけにはいかないと、これを突っぱねる。あれ?ということは、連合だけの解散、ではなくて、本当に、ま、表向きだけとはいえ、全部の組がカタギの看板にするということだったのか。
大野木組の組長は確かにマジメ、と言っちゃおかしいのかもしれないけれど、ウソやごまかしが生来ガマン出来ない、というようなある意味誠実さを持つ静謐なお人。でも、静謐なだけにパワフルな行動力というのはもはや失われていて、部下たちがこの組長を慕って色々と奔走するものの、その努力はなかなか報われることがないのだ。そうしたウソやごまかしが平気なほかの組のメンメンによって、いつもいつもあくどい手で裏をかかれてしまう。そう、つまりは組長以下、みんな類友というかやはり似た者が集まってきているんだけれど、彼らはいわゆる古き良きやくざ。昔気質の義理と人情に篤いやくざなどもはや失われ、こんな風にカタギを見せかけにした単なる暴力団に成り下がっていく時代には、生きていけない人たちだったのだ。
やくざ映画というのはその成立時点で既にアナクロであったとは思うけれど、そのアナクロを懐かしむことさえ許されなくなる暴力団な時代になってくるに従って、やくざ映画、いや仁侠映画というのは衰退していったと思う。この作品はそうした部分を雄弁に物語っている。仁侠映画には確かに裏切りはつきものだけれども、こんなに手を変え品を変え、和解のはずの手打ちの場面でさえ裏切り工作が巧妙に仕掛けられているというのは、そう、これは任侠においてはある意味ルール違反であり、ちょっと今までに見た記憶がない。
手打ちの儀式の後、ま、ご祝儀みたいな形で賭博場が設けられるのだけれど、そこで大野木組は大負けを喫せられ、大量の資金を持っていかれるのだ。場が場だから途中でやめるというわけにもいかず、大急ぎで資金を調達に手下たちが出かけるのだけれど、そこにもまたワナが仕掛けられていて、金は二重貸しになり、膨大な利息がつけられてしまう。しかもそれを仕掛けたのはかつて杯を交わした兄弟分。兄弟分がそんなことをするなんて、仁侠映画の常識では考えられなかった。しかも、ソイツはしれっとした顔をして、まるで悪びれなく裏切った相手と相対するのだから、本当に、考えられないのだ。
敵対する側にいながら、良心を持ち合わせている男もいるものの、多勢の合理的悪には抗えず、昔気質のやくざはまるでルール無しに殺されていく。そうして最後に一人残されてしまうのが小林旭。彼はカネを作るために憎からず思っていた女を美人局に使うことまでし、それを女に懇願するために小指まで斬り落とし、傷を負って動けなくなっている時に組長と代貸を殺されてしまう。本当に、悲惨。彼はね、この女にパトロンがいることを知らなかった。でもこの女もやむを得ずパトロンの男と一緒にいるようなところがあって(買われたらしい)、彼のことを憎からず思っていた。美人局を頼まれた時、そんなことを頼むならなぜ、その前に私を抱かないの、と言った彼女。後ろ手に戸を閉めた彼に、彼女のその望みは果たされるのかと思いきや、彼は小指を斬り落としてしまうのだ。バカな男。このバカな男にとって、それが彼女への愛情表現のつもりだったんだろう。違う、違うのに。彼が指を斬り落とした時、バックの障子が赤の照明で真っ赤に染まるのが、その何もかもを端的に物語っている。
でもこのパトロンの男も、汚い裏切りの複合構造の中に巻き込まれ、被害者の側に回ってしまった。一人の女を間に挟んだこの奇妙な連帯関係。でもそれは逆に、女を取り合うことよりも、義理人情を重んじる男社会の、愚かであり、純粋な世界を現していて、女にとってはそれは……またしても、二番手かと思わされるのだけれど。そう、こんな場面もあった。死んでしまった代貸。彼が意を決してドスを手に出かけていく時。彼は女房に何も告げないんだけれど、女房はタンスの中にあったドスがなくなっているのに気付き、彼の決心を知るのだ。彼女が彼の死を知るのは、最後に残った小林旭が、そのことを告げるわけではないんだけど、目線が泳いでしまって、それで彼女は気付いてしまうのだ。女はいつも……腹立たしいくらいに、二番手三番手で、哀しすぎる。
黒い子猫をいつも抱いている客人の男が印象的。この男に象徴されるような、どこか暗い影が常にさしていて、雨にぬれながら若いモンの死を迎えたり、斬り込みの場面も雨だし、心象風景を鮮やかな原色で描いてみたりとかなり美学に目配りがされている。それはどこかで見たような、という気もかなりするのだけれど……。★★★☆☆
主人公は工場勤めだった男、五十嵐。“だった”。つまり、いきなり工場が閉鎖され、工場長はハラキリし、仲間は怒号と戸惑いに揺れ、そして彼一人だけぽつんとその輪から外れた。
五十嵐はどんどん歩いていく。どんどんと。様々な人に出会う。いや、出会う、ではなく、彼の前を通り過ぎる、と言った方が正解かもしれない。だって彼自身はその人たちとコミュニケーションはとらない。一言も喋らないのだから。
この、“一言も喋らない”というのがこの映画のキーワードであり、そしてネックでもある。
もはや、寡黙、ですらない。断固として、とでも言いたいぐらいに彼は喋らないのだ。
今までは喋りまくっていたSABU作品と比べて明らかに異質。内容やテーマが云々というより、カメラのカッティングが云々というより、走っていたのが今回は歩いているというより、ここが一番違う。“今までは喋りまくっていたから”という点を自覚して押さえ込んだという感じで、そのストイックさは逆に窮屈に感じてしまう。
あるいは、この確信に満ちた寡黙さは、誰かの映画、どこかの映画に似ているような気もする。
今までは、SABU作品が誰かの映画に似ているなんて一度も思ったことはなかったのに。
五十嵐が喋るのは、最後の最後、奥さんに「おかえり」と言われてから。彼はまさしく堰を切ったように喋り出す。
ここの場面に至って、SABU作品、という先入観をあまりに持ち過ぎていたかな、とちょっと後悔する。つまり、主人公が喋らないことに対し、今までとの違いばかりが気になって、それとの比較対照をばかり感じていたから。
つまり、ここでいきなり喋り出すことによって、今まで彼が喋っていなかったことに初めて気づく、ぐらいが良かったのだ。
いや……でもやっぱりそれは無理。SABU作品だという意識がなくても、この枷(に思えるなあ、やっぱり……)がキツすぎてそれに気をとられてしまうから。“枷”とまで思えるくらいに、喋らないから、あ、これはきっと最後に喋るんだな、というのが予想通りにくる、というのもキツイ。
“枷”は構成にも感じる。五十嵐は様々な人に出会って出会って行き着いて、ストンと穴に落ちて気持ちが解放されて何かに気づく。彼は自分がたどった路をきっちり逆走し、冒頭部分の閉鎖された工場さえ通り過ぎて、何かに呼ばれるかのように走って着いた先は彼の家族の待つ我が家である。そしてやっと彼は喋りだす。この構成は確かに上手いことは上手いんだけど、その“構成”があまりにカッチリと見えすぎているのだ。
この、いくらなんでも喋らなすぎ、は、こちらが気持ちとして求めている時に一番ジリジリと感じる。そこまで決め込まなくても良かったんじゃないかとジレる。役者に、身体も含めた表情の演技に全てを託していて、勿論その志向とチャレンジは素晴らしいんだけど、それはあくまでも功を奏した場合で、いくら寺島進でもこれは難しいと思う。で、その表情演技にもの凄く期待して、カメラが欲張って対象に寄りまくったり、もったいつけたスローモーションを使ったりすると、余計に戸惑う。そんなことされても判んないよ、というのが正直な気持ちなのだ。
それを一番感じたのはここ。五十嵐の気持ちの上での最もクライマックスと言える部分。落とし穴のような、不自然な穴にストンと落ちて、見上げると美しい星空。彼はそれを眺めて思わず知らず涙を流す。流れとしてはここでの彼の落涙は充分判るし、気持ちとしてはここで主人公と一緒に泣きたい場面。なのに、あまりに彼が自分の気持ちを語らずにボケッとしているもんだから(ここまで語らないとそれぐらいに思えてしまう)、唐突な印象しか残らない。星空は本当にきれいだし、この場面の意図は本当に判るのに、何だかガラス隔てて遠くから眺めているみたいな気持ち。
つまりは、五十嵐自身が重要だというわけではない、というスタンスか。彼を語っているわけじゃなくて、彼は触媒というか、人生を映す鏡。あくまでも、どこまでも受身であることによって、人々との出会いで彼自身ではなく、もっと普遍的な人生の機微が浮かび上がってくる、ということか。でも、なあ……だって、主人公なんだから。やっぱりそれだけではちょっと納得がいかないのだ。
スーツではなく、作業服姿の寺島進。さすが役者で、もういきなり工場勤めの、それしか出来ない男の風体。着慣れた作業服はヨレて、身体にしっくりとなじんでいる。
でも彼はどこか、他の工場仲間たちと違う。それは工場が閉鎖されたことに対するリアクションが違う、という部分ではなくてそのことによって彼の身体で響く部分が違うというか。
今までどんな人生を送ってきたのかさえ、どんな人間だったのかさえ忘れ果てたように、あてもなくさまよう彼の姿は、最後に家族のもとへとたどり着くまでは、ここにいきなり出現した、“一人の人間”としての象徴の存在、のようにも思う。人々に出会うことによって彼の中に段々と蓄積され、その人間が完成されていくような趣。
ある意味、これだけストイックにそういうものを描いていったから、彼がいかにもな、記号的にさえ思える“家庭”に到着すると、え?と戸惑いを覚えるのも正直なところ。
古ぼけた一軒家に、道端で世間話をしている主婦たち、その中に彼の奥さんはいるんだけど、買い物かごにエプロンにサンダルなんである。で、買い物かごからはカツオの尾っぽがのぞいている。
こ、これはあんまり……いつの時代?
確かに“家庭的”という記号としては判りやすすぎるくらい判るけれども。でもいくら安いといってもまだ小さい子供も含めた家族三人で、カツオ一尾はないだろう、なあ……。マイホームの幻想を具現化しすぎというか。
五十嵐が道中出会う人々は、死んでしまう人や、死にそうな人や、死にたいと思っていた人や、果ては幽霊まで、やたらと死と隣り合わせである。五十嵐自身が自分の中に知らず知らず、そういう願望を抱えていたのかもしれない。
彼はこの時点で大切なものに気付いていない。彼は一人ではないのだ。何のために働いていたのか、幸福を感じていたのはどういう時なのか、ただただ毎日をルーティンで過ごしているうちに、そんな単純で基本的なことを忘れてしまっていた。ルーティンがいきなり失われた時、そのルーティンそのものが彼の人生だったかのようにカン違いをして、彼はあてどもなく歩き出してしまう。
でも行く先々で、彼に示されるのは、死、というよりはその死に直面した時に必ずあぶり出されることである。それは家族の存在。
今まで悪いことばかりしてきたヤクザが一つだけした良いことは、臓器提供。家族ではないけれど、彼は最後の最後に人とのつながりを求めて死んだ。
妻に浮気されて殺人を犯した板前。子供を抱えてキュウキュウになり、死を考えていたシングルマザー。家族離散の末リストラにあって飛び込み自殺をしたサラリーマン。
そして、キーマンとなる病院で出会ったおじいさんの幽霊は、「幸せは一人じゃ味わえないんだよ」と彼に囁く。
おじいさんの幽霊に頼まれて、その連れ合いのおばあさんを訪ねると、宝くじの一等、一億円を当てたことにショック死していた。その宝くじをもらいうけ(おいおい、勝手にもらっちゃっていいの?こういうのって……家族に相続とかされるんじゃないの?)換金し、高そうな車やレストランをのぞいてはみるものの、その一億円を贅沢に使うことが出来ない。彼自身の今までの生活レヴェルをいきなり飛び越えられないのだ。
そうこうしているうちに、あのシングルマザーと再会し、彼女に金を持ち逃げされてしまう。五十嵐に子供を助けてもらったことに感謝する彼女は、自分の境遇を嘆いていたことを反省した、なんて告白をして、そんなしんみりした再会の場面だったのに……。あの必死こいた走り方の彼女!
まあ、あぶく銭だったからね……それにしても……唖然。
このシングルマザーである篠原涼子は、まあ持ち逃げには唖然としたけど、凄くイイのだ。彼女は本当にスクリーン向きの女優だと確信する。今までスクリーンでの彼女にハズレがない。登場シーン、火事を目の前にへたりこんだ彼女は、このスローモーションばかりは正解だった。美しすぎて見とれてしまった。
家族のもとにたどり着き、家に入る彼を追わずにカメラは引き、俯瞰し、その幸せな古ぼけた一軒家を見下ろす。夕暮れの街に鳴り響く、夕刻を知らせるあの懐かしい鐘の音。そのメロディは「椰子の実」。この椰子の実のように流れ流れて、でも彼がたどり着いたのは、まぎれもない彼のふるさと。
なるほど、“幸福の鐘”ね、と思いつつ、この“ハッピーエンド”もやけにキッチリしているなあという印象。でも思い返すと、今までのSABU作品だって、楽しませるエンタテインメント、という点でキッチリキッチリしていたわけで、でもそれに気付かせないまま、あー、面白かった!で終わってたわけよね。そのキッチリに気付いてしまうというのはいいのか悪いのか。
作家性って、難しいんだなあ……。★★★☆☆
その日舞台挨拶に来ていた監督に、おばちゃんたちの一団が「良かったわよ〜」と声をかけていた。監督も、あ、どうも、と返していて、どうやら知り合いらしい。こういう図はそういえば「いつものように―大分篇―」を観に行った時もあったっけと思い出す。
そしてエレベーターで一緒になったおばちゃんたちは、「いい映画だったわね」「センスがいいのね」と口々に言い、
「けんもちさんの息子さんって感じがしたわよね」「ほんとほんと」と口を揃えた。何か思わず知らず笑みがこぼれてしまって、ああ、この映画を撮った監督さんだなあ、と嬉しくなる。
「いつものように」からけんもち組の常連俳優、高瀬アラタ氏。彼には「いつものように」ですっかりベタボレで、とにかく琴線に触れまくって仕方ないんだけど、その前作では役名と名前が同じこともあって、ついつい同一視しての(って、実際の彼がどうかは知らないけど)それであったのは正直なところ。でも今回の彼、幸は中盤までかなりテンパっており、ちょっと、あ、どうしよ……とばかりにヒヤヒヤする。ずっと厳しい顔をして、頑なで、怒鳴られている邦じゃなくても、怖く感じてしまう。
だけど、この映画のもう一人の主人公、邦君(須田邦祐)と出会い、彼の人となりに触れることで、幸は変わってゆき、私のホレていた高瀬氏が現われてくれてホッとする。彼は本当に笑顔の似合う人。ほかほかした、笑顔。私も一気に緊張がとれて一緒に笑い、その幸せを共有することが出来て、本当に嬉しかった。
高瀬氏が演じるのは、売れない役者の幸。もういい年で、いわゆる演技マニュアルの鬼、みたいなところはあるんだけれど、それにとらわれすぎて、劇団のマネージャー(田中要次)からは、役者なら自分を捨てろと怒られる。そして下の子たちにどんどん抜かれてゆく。
そんな時、彼に“仕事”が舞い込む。離島に住む、芸大入学を目指す役者志望の男の子に、演技を仕込んでほしい、と。「お前、そういうの得意だろ」と言うマネージャーの口調はどこか皮肉めいても聞こえる。
「バイトのシフトを出してしまったから……」と口ごもる幸に、「お前、こっちが本業だろ」と一喝するマネージャー。「……これ、仕事なんですか」とどうもノレない幸。
幸の気持ちは判るけれども、役者になりたいはずが生活のためのバイトが優先してしまうその矛盾もここで露呈する。幸は“仕事先”に行っても、素人同然の邦にイライラし、「俺はプロの俳優なんだよ!」と怒鳴るんだけれど、その時にもこの矛盾を思い出す。そして幸の“プロの俳優”としてのプライドは、柔らかで、しかしまっすぐな邦によってほどかれていくのだ。
住民200人そこそこの、小さな小さな島で、遠洋に出かけている父親の代わりに民宿を一人切り盛りする邦は、どこか女の子みたいな弱ささえ感じる柔らかな態度の、恥ずかしがりやの少年。「口下手ですけど、どうぞよろしくお願いいたします」なんていう言葉を手紙で幸に渡し、彼を困惑させる。
幸は最初のうち、この島にも民宿にも邦にもどうもなじめない。邦の作る料理を向かい合って黙々と食べ、煙草をふかし、窓からぼんやり外を眺めている。彼の不満はアリアリである。
幸得意の演技マニュアルで、邦をビシビシしごくものの、シャイでド素人まるだしの邦にイラ立ちを隠せず、「そんなんで受験に勝てるのかよ、競争だろ!」と怒鳴りつける。
それまでは出来ないながらも、幸の特訓に辛抱強く彼なりの努力を重ねてきた邦が、この言葉だけには反発する。「競争は、しません。争うことはするなって、父親に言われてきました」
「受験は競争だろ。じゃあどうやって勝つんだよ」とますます激昂する幸に、「争いは、しません。自分が頑張るんです」と、小さな声ながらこの点だけは絶対に譲らない邦。そして決心したように「幸さんは、間違ってる」と。
幸にとって演技は競争で、争いで、勝ち抜くことだった。きっと最初はそうじゃなかったのに、いつの間にかそうなっていた。誰にも負けない個性を獲得すること、それが出来ずに幸は苦しんでいた。
でも、邦は、それを“ありのままの自分”と表現している。誰にも負けない、じゃなくて、頑張る自分。演技が好きだから、演技がやりたいから、頑張るんだ、と。
確かに役者になろう、なんていう観点で言えば、邦は甘いのかもしれない。今の時点、幸と邦とでは、身体の柔らかさや声の出し方ひとつとっても、邦は何ひとつ太刀打ち出来はしない。でも、こういう人が、こういう人こそが役者にならなければダメなのだ。
役者になるためのトレーニングで役者になりたい自分を見失っていた幸。邦から思いがけず反発を受け、腹を立ててトレーニングを放棄する。一人小さな町をさまよう幸。
「一同平和」と書かれた木の札がそこここに貼られている。「ここにも」「ここにも」と捜し歩く彼が、それまではテンパっていた分何とはなしにユーモラスで思わず笑みがこぼれる。
「一同平和」邦が口にしていた言葉だ。
島の子供が幸に声をかける。「おじさん、何してんの」
幸は、聞いてみる。「この言葉の意味、知ってる?」
「皆仲良くしなきゃいけないってことでしょ」
…………。
男の子は彼らがやっていた発声練習を真似してみせて、別に楽しくはないけど、と言いながらニコニコし、駆けてゆく。幸はまた島の中を歩き始める。女の子に愛の告白をしている別の男の子がいる。その方法は、何とまあ、島に文化として根付いている相撲だ。体当たりの愛の告白。
「ヘンなの」とつぶやく幸に思わず噴き出しながら、彼がこの島の空気を徐々に吸い始めているのが判る。
その日の夕食は豪華絢爛。「……凄いごちそうだな」と絶句する幸に「……今朝たくさん釣れたけん」と気まずそうに言って辞する邦。幸は一人韓国語放送のテレビを見ながら(笑)その大ごちそうを黙々と食べる。
そこにもう一人、この民宿に泊まっていた女の子が顔を出す。彼女に「これ僕一人分なんですよ」と幸。女の子も「10人分はありますね」とビックリ。
お誕生会もかくやと思われるほどの、10人分ものごちそうが、幸を怒らせてしまった邦の気持ちなのだ。なんだかもう、その気持ちの優しさと可愛いさがたまらない。
そこに島のおじさんが、さざえが獲れたからと届けにくる。「……また食べ物増えちゃいましたね」と苦笑する幸。そのおじさんは邦のお父さんから来たファクスを持ってきてくれている。ただひと言、「俳優サンにヨロシュウ」と書かれたファクスをじっと見つめる幸。
どこからか、発声練習の声が聞こえてくる。
声が出ていないと幸に怒鳴られた邦が、ひとり自主トレをしているのだ。
それを見つけた幸は、彼の元へと行き、一緒に練習をし出す。というのは画としては描かれない。真っ暗な島の夜の闇の中、少々大きく聞こえる幸の声と、まだまだ弱い邦の声とが交互に聞こえるだけだ。
もう、何とも言えずほこほこ気分になる。これでこの二人は大丈夫。
さっきの女の子、彼女はこの島に撮影に来たモデルの女の子。冬だというのに水着を着せられ、横柄なカメラマンに閉口している。仕事は終わったんだけれども、このカメラマンから離れて一人になりたくて、もう一泊、とこの民宿にとどまっている。
幸と邦のエピソードよりは少ないけれど、彼女がカメラマンのムチャな注文に、この寒空震えながら応えているのに、「何もハダカになることない」「夏になったら来ればいい」と何度も何度も上着をかけてくれ、人の話を聞いちゃいない優しい優しい漁船のおじさんに胸が熱くならずにはいられない。
彼女は民宿で外から聞こえてくる幸と邦の発声練習に「懐かしい……」と耳を傾ける。こんな仕事をやってはいるけれど、役者志望なのだ。一緒に声を合わせる彼女に、まだ大丈夫、頑張れ、と声をかけたくなる。
すっかり打ち解けた幸と邦。邦の姫島訛りがうつってしまったり、邦の演技指導で「何だよ、お前それ」と言いながらも、彼の素直なアクションがツボに入って爆笑が止まらない幸。実際、この邦のあまりに素直な“演技”は見ているこっちも笑ってしまって。それにこの、ようやく笑ってくれた幸の、その笑顔の素敵さに、見惚れる。ここは絶対素で笑っていると思う。高瀬氏、笑顔がいいんだもの。彼は本当にいい役者。
「僕、受かりませんよね」「自信、ないのかよ」「自信は、ないです。でも幸さんと出会って、演技が好きになった。演技がしたいです」黙ってしまう幸。邦の今のレベルでは、確かに芸大受験は難しい。でも今の幸には判っているのだ。邦の演技へのひたむきさが、本物であること、そしてそれが自分をも目覚めさせてくれたことを。
本当に、こういう人が役者にならなきゃダメだよね、と思う。
邦役の須田邦祐君は、ひたむきさや心根の美しさがそのまま出ている感じながら、“演技が下手な少年”を的確に演じているところがなかなかあなどれない。いい役者、としてはキャリアのある高瀬氏に匹敵するほどかもしれない。
この二人のコラボレーションは、その関係性がとがったものから丸く丸くなっていく過程が実に素敵で、彼ら二人の力をよりいっそう感じさせてくれる。
ラストは突然去る幸(カッコよすぎ!)を追いかけてくる邦、船の上と陸の上から、いつまでも手を振り続ける二人、幸の何とも言えない表情と小さく小さくなっていく邦の姿に、ベタながらも泣き笑いが抑えられない。
そしてここで終わりではない。幸は内地に止めてあったバイクにガソリンを入れ、その料金を払うのに、邦からもらった“ギャラ”の封筒の中の手紙に初めて気づく。そこには、
「ありのままの自分ですけど、よろしくお願いします」
その言葉をじっと見つめ続ける幸。そして彼はバイクにまたがり、「ここに幸あり」を大声で歌いながら去ってゆく。ムヅカシイ顔をしていた冒頭とは全く違って、満面の笑顔で。
すべてが気持ちよく収斂され、顔も心もニコニコが止まらない。「いつものように」よりは明確なストーリー性がありながらも、登場人物たちの気持ちにゆっくりと、そしてそっと寄り添っている。人物たちにちゃんと悩みや痛みがあったからこその、それがとてもゆっくりとではあるけれど、前向きになってゆくこの柔らかな希望の空気。ほこほこ、ふくふく気分で指の先まで満たされている感じ。元気になる映画っていうのは、こういうことなんだってば!★★★★★
市川崑のつややかな演出が、山口百恵のつややかな魅力と見事にコラボレーションする。引き出される、というより、彼女自身の素晴らしさが監督の意図と見事に共鳴している、ぐらいの凄さを感じる。山口百恵がこんなにはんなりとした京言葉や、地味めの和服姿が似合うなんて思わなかった。とても21歳とは思えない(21かよー)落ち着いた物腰と声、そしてほんのりとした色気。しかも本作で彼女は二役を演じており、一方はそうした呉服問屋のおっとりとしたお嬢さんであり、一方は山育ちのどこかおぼこっぽい娘さんで、確かに顔は似ているんだけど(当たり前だ)、前者の千重子(えっと、資料では千恵子となっているんだけど……劇中で「数字の千に、重なるに、子供、どす」と言っていたと思うんだよね……違ったかな)では眉もきちんと切りそろえ、上品な化粧も施されているのに、後者の苗子は眉毛もボッサボサですっぴん(風)で顔もほっそりと見えて幼く、印象が全然違う。劇中の他の人たちが、彼女たち二人を取り間違えるのが不思議なくらい、一見して違うのだ。これにはちょっと驚いてしまった。63年に作られた岩下志麻版も、なんたって岩下志麻だから上手かったに違いないけれど(気になる、観たい)、きっとこの山口百恵は勝るとも劣らないのではないだろうかと思うほどだから千重子と苗子が二人一緒に顔をこちらに見せて映っているシーンは、そりゃ当然合成だというのは判ってはいるものの、本当に千重子と苗子がいる、とまるで違和感なく思う。もはや山口百恵ですら、ないのだ。
しかし一方で、この双子の姉妹は長い間別々に引き裂かれており、お互いが姉妹だと認識するまではどこか不思議な幻影のようにすれ違う、その幽玄さも大きな魅力である。最初に千重子が苗子と遭遇したのは、杉林の中、一緒にいた友達から「あんたにそっくりの娘さんがいる」と言われて、遠くの方にぼんやりと見かけただけだった。次に会ったのはお祭りの夜、ろうそくがゆらゆらと灯る前で偶然行き会い、お互いの顔に驚く二人。そのあとも群衆にまみれ、やはりどこか、幻のような雰囲気である。自分は捨て子だった。身内のことは何も判らないけれど、姉妹がいてもおかしくない。しかもあんなに見るからにソックリの少女なのだから……と千重子は思うものの、やはりどこか信じられず、同じ時に苗子を見かけた秀男は、千重子さんそのものだったのに、僕の見たのは幻だったのか……などと言うものだから、千重子ははっとしたような顔で「幻……」とつぶやく。
しかし二人はまぎれもない双子。お姉さんに会いたかったけれど、身分違いでご迷惑をかけるから……と及び腰の苗子に、今度は千重子の方が積極的になって、お店に遊びにいらっしゃいとか、一緒に住みましょうとか、言う。苗子は捨てられなかった自分が罰を受けるべきと言い、しかし千重子の方は捨てられた自分の方が恵まれた生活をしていることに負い目を感じている。苗子の(つまりは千重子の実の)両親は既になく、だからこそ千重子は苦労してきた苗子に自分の幸せを分けてあげたいと願うのだが、たった一晩泊まりにきた苗子は、一度は「千重子さん」と言っていたのに、翌朝の別れ際「お嬢さん」という呼び方に戻り、もう二度と来ないと言って、早朝の街を去ってゆく。それを見送って母親の胸で泣きじゃくる千重子、でカットアウト。なんて哀しい……。
しかしこのシーンにしてもやはり夜で、苗子は人目について千重子さんに迷惑がかかるといけないから、と帰るのも早朝だし、千重子が苗子の山を訪ねていって、二人が時を過ごすのも薄明かりが差し込むだけの杉林の中である。やはりどこか、非現実の、幻の妖しさがあるのだ。ドッペルゲンガーとまでは言わないけれど、分身が別々の場所で暮らし、二人が会う時は、第三者がいたり、まぶしい昼の陽光のもとではダメだというような……何かそんな、不思議さ。苗子が千重子の店を訪ねて来た時には、確かに千重子の両親が二人一緒の姿をその目に焼きつけたわけだけれど、彼らは姉妹水入らずに気を使い、そうそうに二人を二階の寝床へ送り出した。でもそれも、この両親がソックリの二人を目の前にして何か怖いような感覚にとらわれたようにも思える。自分が慈しんで育ててきた、たった一人の娘であるはずの千重子にソックリな少女である苗子……目が釘付けになり、ぼんやりとただただ見つめるばかりの母親に、特にそんな感覚が見てとれる。それにその晩、ふいに淡雪が窓の外をちらついてきて……(このしっとりとした風情の素晴らしさ!)本当にどこか幻を見ているかのような……それは山口百恵の幽玄な魅力が当然、その感覚を起こさせるのだ。
二番目にクレジットが出ていながら、なっかなか出てこない三浦友和サマにイライラしてしまい、あまりに出てこないから、あの、どー見ても違うニヤけた男がそうなのかあ!?などと不安になり、しかし後半になってやっとやっと出てきてくれて心底ホッとしてしまった。苗子のそばに寄りそう、気持ちの発露の不器用な木こりである清作。山の男って感じが、実にカッコよくてホレるわーと思うんだけど、しかし出番は決して多くない……二番目でありながら、男性キャストは皆似たような出番で、つまりはこれは山口百恵の映画であり(なんたって引退記念映画だもんね)、男性陣は刺身のツマなのだ、まさしく。しかし三浦友和、やはり素敵。彼は年をとってからの枯れた色気(色気が枯れているんじゃなくて、よ)の方が断然イイと思ってたんだけど、この若い頃の友和さんは、今の色気を充分に予期させる。意外に骨太なガタイや、骨ばった手の色気にグッとくるのだ。思ったより甘々じゃない。うーん、素敵。
そして彼だけじゃなく、山口百恵をとり巻く男性キャストは皆なかなか素敵である。千重子の幼なじみでずっと仲良くしてきた真一(北詰友樹)は、自分の兄、竜助が千重子に思いを寄せていることを知って、二人を引き合わせ「僕は最後までお稚児さんですよ」と笑顔で言って去るのだ。うー、やっぱり彼も千重子のこと、好きだったんだろうなあ。でも自分は年下だし、兄の方がお似合いだと思って、身を引いたのか、ちくしょう、切ないヤツだ!そしてその竜助(沖雅也。最後の作品、だね……)は、口がやたら達者で誤解を招きそうなタイプのヤツで、でもとても気持ちのまっすぐなアツいタイプ。千重子に恋する自分の気持ちを知った父親が先走って、彼女の父親に話をつけたことにアセって、自分の口から言いたい、と千重子にアタックする。「うちの父親が言ったこと、あれ、違うんですよ」などと、焦るあまりに言葉足らずなことを言い、その話にまんざらでもなかった千重子を「えッ!?」と驚かせるんだけど、それに更に焦りまくって自分の気持ちをまくしたてるところが、カワイイんだよなあ。見た目はシッカリモノの大人の男なのに。
そして、最初は千重子に言いよりまくっていた秀男(石田信之)。帯職人の彼は、しかしあのお祭りの夜、千重子と間違えて苗子に話しかけた時から、苗子を想うようになる。でも苗子は「千重子さんの身代わりなんて……」と……そりゃそうだ、と思うんだけど、秀男はもうとりすがるような、必死な目をして「千重子さんの身代わりじゃなくて、苗子さんとしてだけ、考えてます」と、「また会ってもらえませんか」とすっかり恋する男、なのである。苗子はここでもまた、私は山で暮らす女だから……と断るんだけど、彼女が好きなのは清作だから、なんだろう、当然。うう、報われない男、秀男!最初お調子者みたいな感じだったから、余計に彼の必死さ、哀しい目がたまらなくて、ぎゅっときてしまう。
彼らをとり巻くひと世代上の大人達がまたイイのだ。先述した、先走った竜助の父親。話を持ちかけられた千重子の父親が、実はあの子は捨て子で……と口ごもるのもすっ飛ばし、そんなことどうでもよろし、みたいな豪快さ。しかも竜助は彼の長男だというのに、長男が跡取だなんてこだわらなくても、子供はいくらでもいるさかいに、みたいな感じで、どうでっしゃろ、どうでっしゃろと押せ押せ。何かもう、この人大好きだわ。子供の幸せのために行け行けゴーゴー!ってな感じがたまらなく好き。でもそれで言ったら、性格の違いはあれど、千重子の両親だってやっぱりそうで、この二人が千重子のことを心配するあまり、いつも二人でアタフタとささやかな喧嘩を繰り広げているのが可笑しくて、その仲の良さが可愛くて、仕方ない。
他にも思いっきりコメディリリーフの、千重子の店(家)に住み込みで働いている小僧さんたちの子供らしいナマイキな無邪気さもハズせない。一度はご馳走さましたのに、遠慮しなくていいと言われたらニッコリおかわりをいただいたり、夜更かしを叱られて飛び上がり、超スピードで布団を敷きだしたり、もう、可愛くて笑っちゃう。このしっとりとした物語を、飽きさせないようにとでもいうのか(飽きることなんて絶対、ないけど)、時々クスリとさせるのが実に絶妙。上手いなー、やっぱり。
それにしてもそれにしても山口百恵、なのである。こんな映画女優を知らずに過ごしていたとは!★★★★☆
結局は、正直な気持ちで言えば、見るのが辛いから、怖いから。本物ならば逃げようがないと、それを直視するしかないと、それが現実に起こっていることなのだから、などと思ったり、フィクションの映画でまで辛い現実を見せられるのかとか。いや、心の病を持つ人々が、フツウに物語を紡ぐということに抵抗を感じる、なんていうヒドイ偏見や先入観を自分が持っていることに気づきたくなかった。真実だからと観に行くドキュメンタリーが、それは何故観ることが出来るのか、あるいは観たいと思うのかっていうのは、つまりはそれは、それが自分ではないから、違う物語がそこにあるから、そんな風にやっぱり壁を作っていたのだ。判ったフリをして、理解しているフリをして、結局自分は普通なんだと、ああ良かったと、安心している自分に気づいてゾッとする。そうだ、この映画は、登場人物は確かに心を病んでいるという設定だけれど、ただそれだけで、フツウに物語を紡いでいるのだ。いわゆる健常者が持つ障壁……例えば仕事とかライヴァルとか、そういうものが、心の病、というものに置き換えられているだけで。
でも、その置き換えは尋常ではなく辛い障壁。正直、私には判らない。判らないから、戸惑う。いつでも自分の判る範囲で映画を、そして世界を見て来た。共感、というのは、それが可能な部分だけの、極めて狭い世界だということなのだ。でも、と思う。もし、こうして心の病で苦しんでいる彼らを、私達が愛する立場の人間だったら、と。そうやって自分の狭い世界の中から、一生懸命に“共感”を探し出す。こんな風に一人一人違う人間だということに、それが極めて狭い範囲内でのことなら、「同じ人間だよね」などとカン違いの解釈に押し込めて、理解したつもりで見ないフリが出来たのが、こんな風に、自分の手の届かない振り幅に行ってしまった人には、それさえ出来ない。いや、逆に、気づかないフリが出来ないからこそ、ゼロか百しかないのだ。狭い世界の中からようやく探し出す“共感”が、彼らとの接点。そしてそれは、違う人間でも、人間という点では同じという一点。カン違いではない、“同じ人間”の境地。
そのゼロと百の双方に大きく揺れ動き、共感を感じさせてくれるのが、パニック障害によってひきこもりになっている娘、千鶴に戸惑う彼女の母親。自分の娘がそんな状態になったのを、彼女は受け入れられない。病院で、「病気なんですか」「治るんですか」と執拗に問う娘は、そのことに対する母親の救いが欲しかったのだ。医者の「大丈夫ですよ」なんて言葉は、何の救いにもならない。そして“薬で治す”ということが、娘、母親双方ともを打ちのめした。
母親は娘の苦しみから目をそむけ、それを敏感に感じ取った娘は、母親を遠ざけ、二人は直接会話することさえ出来なくなる。心も熱もない、メモだけの会話。母親だってただの、弱い人間だから、責めることなんて決して出来ないんだけれど、それによって深く傷つく千鶴の辛さが、とてつもなく、あまりにも、痛い。彼女は母親と顔をあわせないようにしている。それは、それは母親が嫌いになったからじゃないのだ。嫌いになりたくないから。彼女は自分の目に触れるものすべてがニセモノに見えてしまうことに苦しんでいる。母親までもが、ニセモノに見えてしまうことを極度に恐れているのだ。一緒に病院に行こうと言う母親を、冷たい言葉で拒絶する彼女が、実はそんな風に思っていたということが判るクライマックス、出られないはずの外にさまよい出て、「お母さん、お母さん」と叫び続け「ごめんなさい、ごめんなさい」と振り絞るように繰り返す彼女に、ようやく涙がこぼれた。ようやく、なんてヘンな言い方だけど、ようやく彼女と“共感”を共に出来たから。
「ごめんなさい」ってこんなにいろんな感情を、哀しさと切なさと相手を思いやる気持ちと優しさと……そんなウェットな感情をいっぱいに含んだ言葉だったのだ。千鶴のごめんなさい、そして母親のごめんなさい。思い出すだけで、涙が、こぼれる。やっぱり母親のごめんなさいが、効いた。病気にかかってしまった娘を受け入れられなかったこと、そして失踪した娘を見つけられなかったこと……彼女は自力で戻ってきたから。でもそのことで、母親の庇護のもとにあった千鶴と母親は対等になれたのだ。人間として。「ごめんなさい」はそのためのマジックだったのだ。「お父さんの夢を見ました」「どんな夢だったのか、お母さんに教えてください」このメモの会話に、たまらず泣けてしまう。
千鶴を演じる岡元夕紀子のテンションが凄い。目を真っ赤にして、鼻を真っ赤にして、自室の狭い空間を抑えきれない感情で満たす。形から入るならば、むしろこういう演技は、静かな演技よりもやりやすいのかもしれないけれども、彼女の身体に苦しみがそのまま宿っているのが見えて、先述のように、“本物”と“演技”のことを考えて悩んでしまうほどに……。「私は異常なんかじゃないんだよう!」と引き裂くように叫ぶ彼女に、普通の人間でいることに安心している私はギクリと胸を刺し貫かれてしまう。
初見の「バウンスkoGALS」の時から比べれば随分キレイにはなったけれど、やはりどこかに残るヤボったさが岡元夕紀子の強みだと思う。もう一人のヒロイン、目黒真希はさすがモデル出身だけあってスラリとした肢体と整った顔立ちに目がいくけれど、岡元夕紀子はいきなりそのエネルギーから爆発させてくる。いつも濡れているような瞳と、厚めの唇が、痛々しさと生々しさを醸す。
彼女を想い、思いつめて拉致にまで至る少年、ゆたかが、最も悲しい人間なのかもしれない。やはりここにも、私は“共感”を見い出してしまう。彼が、心の病を抱える千鶴を想いながらも彼自身の中に拒否反応を隠せないから。暴力まで使って彼女を自分のもとに置こうとする彼は確かにサイテーだけれど、でも“普通の人間”の私達が、こっそり心の奥で思っていることを口に出してしまえるほどの正直さが痛い彼に、そしてそれを返り討ちされてしまう彼に、自分が受けたような傷を感じるのだ。だって彼は、本当に千鶴が好きだったに違いないのだもの。でも理解できなくて、拒絶されて、“普通の女の子”を探そうとするけれど、世間の薄っぺらい、ナンパな関係しか築けずにいる。暗い部屋で一人、出会い系サイトで何人もの女の子に電話し、いくつもの人格を使い分ける彼が、辛くてたまらない。彼のような人が“健常者”だというのなら、やっぱり普通じゃないし、そして世の中はそんな、“普通じゃない普通の人”であふれているのだ。
もう一組のエピソードがある。強迫神経症の高と、パニック障害のあかね。症状としては高の方がひどくて、彼は仕事も得られない。あかねはレイプされた過去からパニック障害を持ってはいるものの、現時点ではそれほどでもなく、仕事もしている。
仕事。
あかねが高とつきあいだした時、彼に仕事は何をしているのか、と聞いた。確かにそれはごくごく当然の会話に過ぎなかったのではあるけれど……口ごもる高。そして彼と彼女の関係が深まってきて、あかねが高と結婚したいと口にするようになると、高は弱々しく焦りの色を見せる。バイトの面接に行った、とか言ってみる。
やはりここにも、“一般”の“普通”の“常識”というヤツにがんじがらめにされている人間たちがいる。いわゆる“普通の人間”でさえも苦しむことが、それ以上の苦しみにさらされている優しい人たちにまで、容赦なくふりかかる。それは男性にも女性にも侮辱になること。そして、それ以上のことを抱えている彼らにとっては、それをも超えて、人間としての彼らに侮辱になること。
どうして世界って、頑張っても頑張っても、頑固なまでに、変わらないんだろう。
高が苦しめられるのは、妄想。彼は何度も何度も、愛するあかねを殺してしまう夢を見る。彼女の上で上下運動をしながら、首をしめる妄想。ひどくエロティックな妄想。しかし彼女の青白い、半目の“死に顔”までも脳裏に現れ(これは、ギョッとする)彼は苦しむ。手を洗い続けたり、引き出しを開け閉めしたりの反復運動が止まらなくなる。
一方のあかねは過去のフラッシュバック。一階の部屋からいきなり男が侵入してきて、彼女を殴り倒し強姦する回想シーンはどこか淡々としているだけに、衝撃的。そう、ドラマチック(という言い方もおかしいけれど)じゃないから、あまりにリアルで。彼女は過呼吸に苦しむ。運び込まれた病院で出会ったのが、テレくさそうな笑顔を持つ高だった。
このボーイ・ミーツ・ガールは場所と状況こそ変わっているけれど、「大丈夫ですか」という高の台詞も、「もう少し話しませんか」というあかねの台詞も、不思議なまでに普遍的なラブロマンス。でも、でも、と思う。だから、何度も言ってしまうけれど、この心の病のことを結局は根本的に理解することの出来ない私は、高とあかねのカップル、そして決裂してしまった千鶴とゆたかのカップルのことを考え、傷ついている人を愛せるのは同じように傷ついている人しかないのか、などと少し暗い気分になってしまう。千鶴の母親は、だって母親だし、それにやっぱり彼女も娘が苦しんでいることで傷ついているわけで……やっぱり世界は、狭い世界で区切られているのかな。“共感”の戸口は、あまりに狭い。
レイプされたあかねは違うけれども、高や千鶴にハッキリとしたきっかけや理由がないことが、でもなぜか納得できるものを感じてしまう。突きつめれば、原因は作ることは出来なくもないのだろうと思う。でもそれは、きっと誰にでもあることで……「home」でも感じたけれど、やっぱり誰にでも起こりうることなんだと思う。まるでそれは……“ぼんやりとした不安”という言葉を残して死んだ、芥川龍之介のように、何となく判るとは思いつつ、境界線を見つけてしまうかどうかという点にあるように。その境界線は、もしかしたら、きっとより人間的な人こそが、見えてしまうものなのだ。
監督自身の体験から作られた作品なのだという。それでいて、溺れることなくきっちりと物語っているのが凄い。若者たちが暮らす、適度にボロい部屋が妙にリアルで、懐かしさを覚えたりするのは、大人になってしまった私が、あの頃より無機質な世界で生きてしまっているせいなのかもしれない。デジタルビデオのざらついた現実感(ホームビデオみたいな)にちょっと違和感を感じながらも、こうした症状を持つ人たちが実際に見ている、混乱し、ブレまくった世界が、何だかひどく映画的だったりする。人間だけが、かかる心の病。人間だけが創りだす映画の世界と、“共通点”があるのかもしれない。★★★☆☆