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「せ」


2003年鑑賞作品

セクレタリーSECRETARY
2002年 111分 アメリカ カラー
監督:スティーブン・シャインバーグ 脚本:エリン・クレシダ・ウィルソン
撮影:スティーブン・フィアバーグ 音楽:アンジェロ・バタラメンティ
出演:マギー・ギレンホール/ジェームズ・スペイダー/ジェレミー・デイヴィス/レスリー・アン・ウォーレン/ステファン・マクハティ


2003/8/29/金 劇場(新宿シネマスクエアとうきゅう)
どこかアングラ的なエッチを感じさせる予告編に惹かれていて、最終日ギリギリになってようやく飛び込んで観たのだけれど、これが意外なことに、結構シリアス、というか、人間の弱さとかアイデンティティとか、それが介在する愛のありかとかを問う内容だったのでちょっとビックリ。意外性の嬉しさ。

なんといっても期待はジェームズ・スペイダーのヘンタイ演技なのであった。いや、上記のように書いといてヘンタイ演技、なんて言っちゃダメよね。つまり彼も悩める人間。エリート弁護士でありながら、サドの性癖を隠すことが出来なくて、そんな自分に強烈な自己嫌悪で苦悩している。だから秘書を次々と替えてしまう。恐らく、彼のヘンタイ行為にガマンならなくて出て行った人がほとんどだっただろうけれど、もしかしたら中にはリーのように、彼によって“開拓”された女もいたかもしれない。けれど、彼はとにかく自分に対する自己嫌悪で一人の女をまっすぐに愛することさえ出来なかったのだ……リーと出会うまでは。

そのリーはというと、彼の事務所で働く前は精神病の福祉施設に入っていた女性。精神病、というほど深刻なわけじゃなかったのかもしれないのだけれど、つまり彼女には自傷行為のクセが昔からあって、それをヒステリー気味の母親にたまたま見つかってしまったことで、施設送りになってしまったのであった。アル中の父親とケンカばかりしているこの母親。一応、アル中の父親の方が悪いみたいな感じで、つまりは仕事に差し障りもあるし、だから彼は出て行ってしまうのだけれど、問題は母親の方にこそあったのかもしれない。リーの姉がお嫁に行ってしまったこともあって、母親はリーにベッタリになる。リーがジェームズ・スペイダー扮する弁護士、グレイの事務所に就職し、社会復帰を果たしても、いつまでも心配して就業時間にお迎えに来る。いや、心配して、というのは違う。心配している自分に安心しているだけ。そのことによって自分の安定を図っているこの母親こそが、よっぽど不安定なのだ。

両親のケンカに耳をふさいで逃げ出そうとしていたリーの目に飛び込んできたのが、求人の新聞広告。誰からも必要とされていなかった今までの自分を誘う甘い言葉の数々。その中で彼女の目をとらえたのが秘書募集、だった。「セクレタリー!」とひそやかに発する彼女。これは採用された夜、お風呂の中でやはり同じように、まるで魔法の呪文のように唱え、それはシークレットと似た発音にも思え、そのひそやかさは最初からワクワクする危険性に満ちている。最初からそんな予感が満ち満ちていたのだ。

リーはグレイと出会い、彼に調教(教育というよりよっぽどこっちの方が近い)されることによってどんどん目覚めていく。まずはそのダサい服装から指摘され、秘書っぽい(いや、世間的なイメージでよね)ちょっとエッチ入ったスマートな格好とキャリアっぽいヘアスタイル、ビシッとメイクでキメるようになる。このあたりの変身ぶりはついこの間の「マイ・ビッグ・ファット・ウェディング」を彷彿とさせなくもないのだけれど、明らかにケバメイクで別人になっちゃっていた「マイ……」と違って、リーの内面が、隠されていた女の部分が、グレイの調教によってどんどん現れてくる感じで見ているこっちも快感?

最初こそ普通の雇用関係だったもののグレイが豹変したのは、リーがボーイフレンドとデートしてキスしたりイチャイチャしているのを見てから。採用する最初の段階で、妊娠しているかとかその予定があるかとか結婚はしているのかとか、そんなことをいきなり質問していたグレイは、つまりサド行為を行うにあたり、これらに当てはまるとマズイと思ったから、つまりつまり、一応常識は踏まえている?でもそれまではそういう行為に出なかったのに、彼女に恋人がいると判ってとたんに、というのは、その意味ではちょっと矛盾にも思え、グレイはだから、嫉妬したんだわね。リーに対してはきっと今までの秘書たちとは違って、本当に最初から惹かれていたんだと思う。だから順序が逆になってしまったんだ。

と、いうわけで、エッチな描写は物語も後半になってからなので、かなり待たされるのである。リーを優しくソファの隣に座らせ、「これからは自傷行為は一切やめるんだ」と諭すグレイ。なんか、なんか、何にもしてないのに、すっごい色っぽくってドキドキする!落ち着いた低い声のジェームズ・スペイダー、それはこういう健全な?時でもヤバイ時でもそうなんだけど、なんだかほのかに甘さがあってちょっと陰湿で?たまらんのよね。で、彼女の自傷行為をこうして言葉だけでやめさせるわけではないのだ。つまり、これからは僕がやるから、とそういう意味を含んでいたわけで。記念すべき?最初は、机に両手をつき、突き出したお尻をバシバシ叩かれるリー、彼女は戸惑いで目を白黒させながらも、はっきりと、苦悶の中にも陶酔の表情が読み取れる。家に帰って腫れあがったお尻を鏡に映しながら、自分が自傷行為をしていた時よりも、いやそれとは全く違う満足感を味わうリー。見事にハマっちゃった彼女は自ら“道具”を川に捨て去ってしまう。

リーは自分にマゾの性癖があるなんて気づいていなかった。それが精神的に内向的な方向、神経症的な方向に向かっていて、実に少女時代から自傷行為は繰り返していたけれども、そのための道具は可愛いものを吟味していたりして、その傾向は確かにあったのだ。職場でもその行為をやめることが出来ないリーを物陰からこっそりのぞいているグレイ、こっそりのぞいているジェームズ・スペイダー!ああッ、あなたのその暗さのあるオチャメがたまらなくイイのよー。
彼女をよつんばいにしてニンジンをくわえさせ馬具をつけてみたり、ダンスの養成ギブスみたいな両手をつり上げる器具をつけてみたり、書類をくわえて這って廊下を移動させてみたり。さまざまなSM行為にふける二人。それはリーのタイピングのミスをグレイが赤ペンで指摘し、そのお仕置きに、という図式。大量の赤ペンを用意し、重箱の隅をつつくようにミスを指摘するジェームズ・スペイダーのジメっぽさが素敵すぎるのだ。

しかしある時からグレイはふっつりと彼女にその行為をやらなくなる。欲求不満に陥った彼女が再三誘いをかけてもダメである。彼はこの頃から彼女のことを本気で好きになってしまったのだ、きっと。だから自己嫌悪に陥ってしまって……「すまない、リー。こんな自分にはヘドが出る」という手紙を書きかけて、しかしそれをシュレッダー(というところがグレイっぽい)にかける彼。こんな自分はイヤに違いない、見捨てられると思いながらも、彼の元に平然と戻ってくるリーが、彼にはどこか信じられなかったのか、自分から彼女を解雇してしまう……前に、グレイは彼女のしかけたワナ、ミミズ入りの手紙に抗えなくなって彼女を自室に呼ぶのだけれど(「ついに……!(ファイナリイ!)」と天を仰ぐリーの嬉しそうな顔!)、彼女の突き出したお尻を叩くのではなく、下着を脱がせてそれを見ながら自分だけで果ててしまう。うわー、小刻みに振動して顔が紅潮していくジェームズ・スペイダーが凄すぎるんだけど!で、今までになかったそのMにリーはもう最高に興奮してしまって彼女もまたお手洗いで自ら果ててしまう。な、何か凄い、愛、なのだわ。でもこのことにグレイはもう自己嫌悪が頂点に達してしまって、リーに解雇を言い渡す。リーは辞めるのはイヤだと凄く凄く抵抗するのだけれど、強硬に言い渡すのだ。

リーは抜け殻のようになって、しかしどうすることも出来ず、ボーイフレンドのプロポーズを何となく受けてしまう。ええー、ちょっとお、リー、そのままでいいの?ホントに?と思っているうちに結婚式当日になってしまう。はた、と何かに気がついたように面をあげたリー、ウェディングドレスの着付けをした、その姿のままグレイの事務所に飛び込んでくる!そしてグレイに「あなたを愛しているの!」と逆プロポーズ!そしてそのままハンスト状態に。グレイに言われたまま、椅子に座って机に手を置いて待ち続けるリー。グレイはいつか彼女があきらめるだろうと思ってそう言い渡したのだけれど、いや、果たしてそうだろうか?これもまた、Sの彼とMの彼女の愛の行為にほかならないのだ。たとえ一緒にいなくても。

婚約者が迎えにきても、リーはガンとしてその姿勢を譲らない。そんな彼女を見て、グレイは窓の外からついつい嬉しそうな笑みをこぼしてしまう。トイレにも行かず、そのまま失禁してしまうリー。次々と現われる面会者たちはさまざまな激励?をリーに言うのだけれど、その中で唯一彼女の心に響いたのは、アル中で家を出ていた父親の言葉だった。「お前の肉体は、魂は、お前だけのものだ」と。それは何かの、小説か何かの言葉だったみたいなんだけれど、リーは「ありがとう、パパ」と、とてもとても嬉しそうな顔をする。思えば、リーは父親似。金髪でハデな感じの姉は母親の方に似ていて、黒髪で少し暗い印象のリーは、しかし思慮深く、深い精神性こそが魅力で、それはきっと父親譲りなのだ。愛情もこんな風に譲らないだけの強さを持っている。

そして三日目、目も落ち窪み、机につっぷさんばかりのリーのところへ、満を持してあの人がやってくる。グレイ。静かに車を事務所に横付け、飲み物を片手に彼女のかたわらに寄りそう。抱き上げ、自分の部屋に連れてゆく。バスタブに湯をはり、彼女をつからせ優しく髪を洗ってやる……。あー、何か、もう、幸せ。ホント、幸せこの感じ。思えばハンストする彼女とそれを見守る彼、というのは、究極のSM愛なのだわね。それが彼にリリカルに響いたんだろうなあ、きっと……。そのあとのこの優しく幸福な愛の行為はSMじゃないけど、いやこの“答え”も含めて彼らのSM愛は完璧に完成されたのだ!

ちょっと暗めがよけいにマニアなエッチを醸し出す、マギー・ギレンホールが、かのスペイダー氏を向こうに回し堂々たるヒロインぶり。いたぶられることに目覚めさせられ、ついには自ら汚辱の恍惚へと飛び込む姿は、ヒロイックなカッコよささえ漂ってしまう。こういう暗さを持つ女優というのは、ハリウッドにおいては実に貴重。だって、皆金髪好きばっかりなんだもん。こういう人が出てくると嬉しいんだよなあ。★★★☆☆


瀬戸はよいとこ 花嫁観光船
1976年 93分 日本 カラー
監督:瀬川昌治 脚本:瀬川昌治 大川久男
撮影:丸山恵司 音楽:いずみたく
出演:フランキー堺 山城新伍 財津一郎 朝丘雪路 日色ともゑ ミヤコ蝶々 春川ますみ 田坂都

2003/11/8/土 劇場(浅草新劇場)
明石・鳴門ルートの橋建設をめぐる男三人の利権争い、地元の環境を守る運動を展開するウーマンリブの女たち、入り乱れての攻防戦、だなんて筋を見てみると、あら何、タイトルにも似合わずカタい映画なの、とか思いそうだけど、ぜえんぜん、ぜえんぜん違うの!タイトル通り、安心して笑わせてくれる良心的なプログラム・ピクチュア。今までなかなか縁がなくて、堪能したいと思っていたフランキー堺の爆笑妙技をたっぷり堪能でき、最後には仲たがいしていた三組が復活ラブラブになる幸せムービー。こういうのを観たいよなあ、ホント、と思う。こういう幸せでラクーな笑いは、古き良き松竹って感じ。寅さんばっかりじゃなかったわけよね。

フランキー堺はパチンコ屋を営むグータラ亭主。グータラなんだけど、昔夫婦漫才を組んでいた奥さんとはツーカーのラブラブで、自分の立場が悪くなりそうになってもすぐに、アソレ、ソレ、と夫婦漫才のリズムでごまかしてしまう、ズルいんだけど、到底憎めそうもない男。この奥さんは朝丘雪路で、おっとりしたお嬢さんがそのまま調子のいい夫婦漫才に巻き込まれて結婚しちゃった、というのがまんま地のような感じ。彼女の妹はしっかり者で、このウーマンリブ運動の中心的存在。彼女の夫は観光船の船乗りなんだけど、観光船なのにまるでマッカーサー気取りな制服にサングラスでノリノリのお気楽だんな。しかし、運動に忙しい妻のかわりに家事の一切をまかされている、優しい、イイだんなさんなのである。この運動家の彼女の勉強会を教えている、万葉集が専攻のお坊ちゃまお坊ちゃました男が山城新伍。実際にもお坊ちゃまで、防人荘という由緒正しき旅館の息子なのである。彼には弟がいて、こっちは工科大学在学中で兄よりよっぽどしっかり者。彼はフランキー&朝丘雪路の夫婦のこちらもしっかり者の一人娘と恋に落ち、このダメ大人たちを上手く導くんである。

フランキー堺は見た目どおりの遊び人で、それを熱帯魚研究会だの、金魚愛好会だのの集会なんだといってゴマかしているイイカゲンさ。しかしこの言いくるめ方が実に絶妙で、しかもあっさりだまされる朝丘雪路があまりにまんまで、そのやりとりには毎回爆笑モノ。で、フランキー堺が遊びに行ったストリップ小屋に、マジメでウブで通っている“先生”山城新伍も通いつめているんである。彼は、「違う。これは万葉集の研究のためなんだ」とかトンチンカンなことを言って、これまたトンデモナイ言い訳だわねと思うんだけど、その後の展開で、ひょっとしてコイツ本気でそういうつもりだったんじゃないのかと思えるぐらいのトッポさ。つまり、ストリップ小屋の舞台で古代人みたいな格好で踊っていたふくよかなダンサーに万葉集を重ねて本気で恋していた彼は、私服の、ただのデブ女になった彼女に幻滅してしまうのだ。で、見かけによらず、日本文学を勉強しているのだという金髪の留学生ダンサーと意気投合してしまうのである。この“Wデート”をセッティングしたフランキー堺は、チョメチョメできなくなって憮然。しかしチャッカリこの金髪女の半ケツ写真を撮ったりするあたり……(笑)アホやねー、奥さんにこの写真がバレて、エライ目に合わされるのに。

女性運動家&観光船の船頭さんの夫婦が一番好きだなあ。このだんなさんがね、家事もなーんにもせずに運動のためのガリバンを必死に刷ったりしているこの奥さんのことが、でも大好きで仕方ないわけよ。一応は男の面目が、とか言って反論してみたりしたらケンカになっちゃって奥さんが出て行ってしまう。しかも出て行ったあとに、同じように奥さんやガールフレンドとケンカして追い出されて集まってきた男たちに居候を決め込まれちゃう。そうすると彼が一番先に、というか、出て行かれる時点からおどおどしていたくらいだったんだから、奥さんの大切さに気付いて打ちのめされるのよね。フランキー堺から奥さんの容姿をケナされて、「いや、僕は彼女のそのおでこが可愛いと思っているんです」なんて言って、もう愛しいったらないの。トマトジュースを入れるのがコツだという彼の作るカレーライスは絶品らしく、この奥さんもそれを思い出してうっとり。もうホント、ラブラブなんだから。

この居候の男二人があまりにも何もせず、しかもクサーイふんどしまで洗わせるもんだから、この船頭さんついに壊れ、「何で僕が一生懸命作ったカレーライスにまで文句をいわれなきゃいけないんだー!」とキレる。そりゃ、そーだよ、彼は奥さんと別れたいなんてこれっぽっちも思ってなくて、いわばフランキー堺んとこの巻き添えをくったような形なのにさ。そこであの利発な若者カップルが一計を案じるわけ。この三組のバカどもを仲直りさせようと。それは踊る阿呆に見る阿呆の、阿波踊り!

こんな風にくるくるくるくる舞台が変わるのよね。神戸行ったり大阪行ったり鳴門行ったり。そのたびに画面にバン、と地名が出て、結構ロケーションは大がかりでロードムービー風?阿波踊りのシーンもかなりの見ごたえがあって、もうここがクライマックス、仲直りするかと思いきや、違うのよ。もうひと波乱、いや、ひと波乱どころか、すっごいスペクタクルシーンが用意されてんの!贅沢だよなー、黄金期の映画って感じよ、ホント。

それは、女たちが男たちとアッサリ仲直りするのがヤだってことになって(素直じゃないんだから)、帰ろうとするんだけどもう連絡線は終わってて、じゃあ、停泊させてる観光船に乗ろう、ということになるのね。でも何とまあ嵐が襲ってくる。ぐらんぐらん揺れる船の中で絶叫する女たち。しかもつないでいた縄が切れ、彼女らの乗った船は荒れ狂う海に投げ出されてしまう!それを見つけたあのヘボ男たち三人組は、しかし何たってその中にはこの船の持ち主の男がいるんだから、ボートで駆けつけ、船に乗り込み、舵を切って無事彼女らを救出する……この時の船頭さんのカッコいいことときたら!いままでノンビリ旦那しか見たことのなかったデコちゃん奥さんは、大荒れの波に翻弄される小さな船を見事な舵さばきで操縦する夫に呆然と見とれ(私も見とれたよー)、そしてその腕にしっかと食らいつくのだ。あー、何かもう、幸せ。この二人が一番可愛いカップルなのよ。若い女の子にホレられた山城新伍よりも、あのしっかり者の若者カップルよりも、この二人はそれぞれが素直で、猪突猛進で、たまんなく可愛い。オデコ出して眼鏡でやせっぽちの奥さんと、サングラスはずしちゃえばフツーにヤサ男の旦那さん。もー、好きだなあ。

このシーンは勿論実際の荒れ狂う海での撮影なんぞではない、ツクリモノなんだろうけど、それを全然感じさせないぐらい、凄い迫力だったなあ。ま、フランキー堺はやっぱり笑わせてたけど。一番最初に船に乗り込もうとしてズルッとすべり、その頭の上に渡し板を乗せられて、で、誰も助けてくれなくて、タスケテー状態なところをようやく夫婦漫才奥さんが見つけてくれて、二人抱き合ってメデタシ、メデタシ。この人の顔も含めた身体芸は当然ながら絶品。間髪入れないんだもん。この間髪の入れなさ、っていうのは、相手の朝丘雪路もそういう“間”で台詞は言っているんだけど、やっぱり違うんだよなあ。全身から来るこのコンマ1秒のタイミングなんだもん。もー、他にもいろいろいろいろ観たいよ、フランキー!

で、最後は、この愛らしい船頭さん夫婦が操縦する船に、めでたく華燭の典となった山城“先生”とその教え子で下宿先の娘さん、そしてそれに便乗してあげてなかった結婚式をやっちゃおうというフランキー堺&朝丘雪路。この二組を乗せて船頭さん夫婦も舵を取りながら幸せそうに、この“花嫁観光船”が瀬戸の青い穏やかな海をハッピーに進んでいく、わけよ。幸せじゃないの、このこのこの!

死ぬ前にはこういうハッピーな映画を浴びるほど観ながら死にたいわ。なんてね。★★★★☆


Seventh Anniversary
2003年 76分 日本 カラー
監督:行定勲 脚本:伊藤ちひろ
撮影:福本淳 音楽:MOKU
出演:小山田サユリ 柏原収史 津田寛治 秋本奈緒美 堀江慶 池内博之 武田真治 水橋研二 堀北真希 美波 中島ひろ子 豊原功補

2003/12/20/土 劇場(渋谷シネ・アミューズ/レイト)
実を言うと、行定監督の世界観って、基本的に苦手。今まで何となく言えなかったけど……というより、あんまり自覚的じゃなかったんだけど、本作で、あー、私にはこの監督さんは苦手なんだ、と再認識する。最初に画をパッと観た時に「またこれか……」と思った自分にハッキリそう自覚してしまった。
その画、っていうのは、柔らかい光に満ち溢れる感じの、カラフルで優しい色彩の、行定カラーというべきそれ。確かにキレイ、キレイなんだけど、この人の一貫したカラーではあるんだけれど。そのカラーが……ヒロインがいつもいつもファンタジックというか線が細いというかたおやかというか、それがあまりにも毎回毎回なもんだから、あ、ちょっとダメと思ってしまう。

もちろんそれぞれのヒロインのカラーは全然違うんだけれど、守ってあげたいような感じ、とかファンタジックな感じ、とか、何かやっぱり女を一段ひな壇に乗せているような印象を受ける。過度のロマンティックというか、そういうところにイライラしてしまう。
今回は最後にヒロイン、ルルが刺されて死んでしまうもんだから、それもまた、またか、と思ってしまう。白い骨になって出てくるシーンは「贅沢な骨」で見たばかり。女を骨にするのが好きなのかしらん、この監督は。
死ぬことで美しく見せるっていうのは、一度ぐらいでやめといてほしい。そりゃ印象に残るし、そのヒロインの美しさはそこで永遠に残るけれども、だからこそイヤなのだ。少女のままの永遠の美しさを死で留めようというのが。形態は違っても、こういう描写は色んな映画で何度となく見ていて、そのたびに、程度の違いこそあれ、かなりイヤな気分を受けるのは……私がオバサンを自覚しているからだろうけれども。

ルルは七度目の失恋をしたばかり。彼女は失恋をすると体の中にしこりが出来て、それが数日たつと石となって出てくる。七個目のその石はいつもより大きめでキレイで、彼女はセブンス・アニバーサリーと名付け、指輪にした。
……話の成立から文句をつけてたら、それこそこの映画自体が成立しないんだけれど、この発想自体、あまり好きになれない。本気の恋、純粋な恋だったからキレイな石が生まれるとか、劇中話が進んでくると18歳以下の、処女の石に価値を見出されるとか、いやそれはもちろんシニカルな視点で描かれてはいるんだけれど、基本的な価値観をやっぱりそこに置いてるんだな、と思ってしまって。

冒頭、空になったミネラルウォーターのボトルが無数に部屋に散乱している。淡い水色で光を受けてキラキラしている。確かにセンスはある。画になってる。でも画になりすぎって思ってしまう。水を飲むなら水道水飲めば、ぐらいなイジワルな気持ちになる自分こそが問題かな、ともまあ思うのだけれど……やっぱり女の子がファンタジーすぎて。
ガーリーさは好きだけど、それは生々しさがキュートになってこそのガーリーだから。確かにルルはちゃんと恋愛していて、ベッドで男性と2人横たわるシーンなどもあるんだけれど、それは恋愛のハッピーさを画にしているだけでやっぱりファンタジック。その彼が別のシーンになると、他の女を車の中に連れ込んで激しくヤッちゃったりしてて、その対照はありがちではあるけれど、ルルの恋が純粋、ではなく単純とか、幼稚とか、何かすっごくバカにされている印象が残る。
だって、ルル、可愛いけど可愛すぎるんだもん。女の子女の子し過ぎで。
例えばあのスパゲティの食べ方とか。上を向いて口をあーんと開け、持ち上げてたれ下がったスパゲティを下から口で受け止めもぐもぐやる。可愛いし似合っているんだけど、“女の子”をイメージしすぎてちょっと気持ち悪かったり。

ただただ失恋するヒロイン、失恋だけしている数年間。
というか、恋だけしている数年間。恋と失恋をしてなきゃ生きていられない女の子。
中学時代からこの21、2と思しき年まで。いくらなんでも恋のサイクルが早すぎやしない?
……まあ、人によるんだろうけれど、女の子は恋だけしている、恋をしてなきゃ女の子じゃない、みたいなイメージがどうも……嫌い。
でも確かに女の子にはそういうイメージはあって、男の子とは違う。でも実際は男の子より女の子はずっと複雑で難しいのに。

中学生の時の、初めて石を生んだ時から彼女の恋愛と失恋を追ってゆく。実に七番目のその時まで。オーソドックスなセーラー服をまとい、草原の中での鬼ごっこで恋が破れるルル。中学生のカッコも違和感なく似合ってしまう小山田サユリがまさにそのガーリーを体現してはいるんだけれど……。
サイレント映画みたいなコミカルな伴奏に乗って一番目の失恋、二番目の失恋……と追ってゆく懐古主義的な作りも、可愛いけど可愛いだけに……あまり好きではない。
純粋な恋愛、本気の恋と言いながら、やけにアッサリと引きずらない。勿論、女が、過去の恋に男よりも引きずらない強さを持ってはいると思うのだけれど、こういう描写、石を生み出せば次の恋愛に踏み出せてしまうのは、強さというよりやっぱり幼い恋だったとしか思えないから。
そりゃあ、そうよね、18歳以下の、処女の石が珍重されるというんだから……私もこだわりすぎ?

彼女を優しく見守る幼なじみの存在、っていうのもダメだった。というか、これが一番ダメ。
いっくらなんでも都合が良すぎ。だって彼、天平がルルのことひそかにずっと思ってたっていうの、判りすぎるくらいに判るし、それなのに、優しく見守っていただけだなんて、ホントいっくらなんでも都合が良すぎるもの。
そのままで過ぎてくれるならまだ良かったけど、何もかもなくしてしまったルルがまたしこりを感じて苦しんで苦しんでいる時に、彼が背中をさすったり何だリ面倒を見てやるでしょ。そうするとルルが「何で優しくするの」「天平には関係ないじゃない」と繰り返し叫び繰り返し突き飛ばす。この時点でこの台詞の一昔前の少女漫画的な甘ったるさに(というか全編そうなんだけど、ここが特に)ゾゾッとしていたんだけれど、その荒れるルルを抱きとめて「関係なくねえよ」とつぶやく天平に、更にゾゾゾッとチキン肌になってしまう。あーあ、言わせちゃったよ、という感じ。っつうか、それなら8番目の石が出来る前に言えよ、遅いわ、それこそこんな“純粋な男の子”自体ありえないって。

尿道を通って出てくる割にはウ○コみたいにキバるのね、とか、尿道結石が女性には珍しい、と言われながらルルがブームを作り出すと次々に石を生み出す女の子が出てくる、とかヘンなことが気になる。で、その中には三輪明日美&猪俣ユキの姿も!何か既に彼女たち2人コンビって感じだよなあ。
ルルが慕っているキャバクラ嬢の先輩、ナナとその彼氏でスカウトマンの潤のカップルがカッコいい。ナナは秋本奈緒美、潤は水橋研二。水橋研二が初めて幼く見えなかった。調子がいいんだけど、大人としてちゃんと女の子を守ってやれる男。恋人のナナを後ろから柔らかく抱きながら、そのナナが落ち込んでいるルルに「こっちおいで」と手招きし、ルルはナナの膝に猫のようにうずくまる……この三人のシーンはそれこそ“生々しさがキュートになっているガーリー”でちょっとドキドキ。

ルルのブームが原因で愛する妻を失ってしまった男に刺されるルル。この男を演じる手塚とおるが凄い迫力。奥さんが死と引き換えに生んだ石は大きく、鈍い色をしていた……。その直前にルルが見た、真っ赤なでっかい月、はルルの悲劇の最期を予感させていた?これもまたちょっと乙女チックな描写だけどさ。月を追いかけてタクシーに乗って、男に電話をかけて「だってすごいんだよ」って、……そんな時代もあったかな。★★☆☆☆


SEMI 鳴かない蝉
2002年 118分 日本 カラー
監督:横井健司 脚本:立石俊二
撮影:下元哲 音楽:Dir en grey
出演:遠藤憲一 鈴木紗理奈 宗丘陸汰 嘉門洋子 志賀勝 山田辰夫 隆大介 哀川翔 平泉成 田島令子 翁華栄 中村愛美

2003/2/28/金 劇場(テアトル池袋)
正直、それほど期待していたわけではなかったのが、意外に良かった。意外に、だなんて失礼な……ちゃんと、良かった。だって思いがけず、泣かされてしまったんだもの。鈴木紗理奈にね、泣かされてしまったのだ。彼女、以前にも映画に出ていたと思うけど、観ている作品では確かチョイだったし、きちんと演技を見るのは初めて。でも、彼女が映画、と知って何かピーンとくるものがあったのだ。あ、これはきっと大丈夫、って。この人はスクリーンで存在感を出せる人だと。このハスキーな声も、映画でこそ生きると。そしてこの相応の女を出せる年になって、エンケンほどの演技者とタイでも負けない人だと。実際は16も離れているエンケンと、しかしとてもいいカップルに見えるのは、彼女がちょっとハデな顔つきであることと、エンケンとタイ張る演技の度胸の良さかもしれない。

そうだ、勿論エンケンも、観にくる気になった理由のひとつ。彼がちゃんと主演で、そしてちゃんと素敵な彼である映画を観たかったのだ。こういうエンケンをこそ、見たいのよ!「ドッグス」でしびれたエンケンはこれなのよ!このヤクザ役はベタだけど、8年服役しても、足を洗っても、自分を唯一判ってくれる女と一緒になっても、どうしてもどうしても、過去のヤクザの自分が追いかけてきてしまう。そして、ヤクザ時代のボスの恩義を捨てられないから、そこから逃げることも出来ない哀しい男。彼がこんなにスタイルがいいというのも意外に初めて知ったような気がする。彼女に助け出される時、その小さな車の中で、すらりと長身の体を折り曲げるようにして靴をはく、ユーモラスながらもちょっとゾクッとするような色気がある。

後半になるまで、あれ?どうなってるのかな?と思わせる……語りの並べ方にズレがあって、彼、石崎の過去を微妙にずらしたりはめ込みなおしたりして語っていく。もどかしいほど、ゆっくりと、少しずつ、明らかになっていく。なぜ石崎が、あんなに哀しそうなのか、それが少しずつ、過去がはがされていく。彼が昔、一度結婚していたこと、息子をタクシー運転手の同僚にひき殺されてしまったこと。石崎はその後、タクシーに乗り込んできた横柄なヤクザをのしてしまったことから自分自身もヤクザとして拾われることになる。……交通刑務所に服役していたこの同僚は、ヤクザがらみの仕事をし、後に服役を終えた石崎との接点を持ってしまう。どこか頭がイカれたようなこの元同僚もまた、トラウマを隠しきれずに、死んでしまうのだ。……哀しく。

彼、石崎と、彼女、涼が出会ったのは、ヤクザになった石崎が敵の組長を撃ち、その手下たちから追い回されている時。寂れた、人気のない海の町に弟分とともに逃げてきた彼は、万引きの少年にてこずっているコンビニ店員の涼を助けたことで出会う。まだ子供だから、とその場を丸く治めようと石崎が差し出した財布には50万円の大金。こんな大金、もらえない、とどこへとも知らずに去った彼を友人とともに彼女は探す。旅館に潜んでいる彼らを見つけ、酒を呑み、弟分の祐次と彼女の友人、夏美は夏美の部屋にシケこんでいい仲になるものの、石崎と涼は、その旅館で朝まで飲み交わし、別々にうたた寝をして、男女の関係を結ぶことはない。「怖い顔して、可愛いトコあんねんな」「テレるとこも可愛いで」そんな彼女に、本当にテレて、無言のまま後姿を見せる石崎。どこか奇跡的なまでにピュアな二人の関係は、この後、最後まで続くことになる……最後まで。

「お兄ちゃん、やっぱりヤクザやねんな」涼は、うすうす気づいていた……それというのも、彼女の兄もヤクザで、そして死んでしまったから。石崎を助けて逃げながらも、「もう私の周りで人が死ぬのはイヤやねん」と泣く。そして、「お願い、自首して」と。石崎はためらいながらもうなづき、「約束しよう。自分からは決して死なないって」と。そして再会は8年後となる。

8年も後なのに。そして彼女は確かに、あの時のちょっときかん気のねーちゃんといった風貌からしっかり大人の女に成長しているし、彼も、ギラギラしたヤクザから服役の疲れを見せる、枯れた色気の男になっている。それでも。おずおずと訪ね、彼女がそれに気づくまで自分から声をかけることも出来ない彼と、彼を見つけて、ハッとする彼女と。彼女は彼をずっと待っていた。彼の親分で今はカタギになった工藤からの連絡で心底喜んだ彼女は、彼に会える日をずっとずっと待っていた。8年も後なのに。その間、世間での暮らしを送っていた彼女の方は特に、いろいろとあったと考える方が普通なのに。それでも、この8年の時を二人がずっとずっと待っていたと素直に思えるのは、やはりこの二人の演技力のなせるワザだろうと思う。

お互いに思いあっているのは、しっかり判るのに、特にテレ屋の石崎の方は、なかなかそれを口にすることなど出来ない。「お兄ちゃん、私のこと、どう思ってる?」テレてなかなか言えない石崎に、涼は大阪流ボケツッコミの要領で、彼の気持ちを確かめる。この場面、夕景の中、シッカリモノの彼女のリードにちょっと嬉しそうに押され気味な石崎、という図が微笑ましくて。彼女は石崎のことを、お兄ちゃん、お兄ちゃん、と呼ぶ。それは出会った時から変わらない。途中、彼女に心配ばかりかける彼に対して、まるで息子に対するように名前で呼ぶことに切り替えるのだけれど、それは……彼女のおなかに彼の子供が宿ったからに他ならない。お兄ちゃん、と呼んでいたのは、それはきっと彼女の死んでしまったお兄ちゃんにこの不器用な石崎を重ね合わせていたに違いないのだ。それはやはり、石崎の悲劇の最期を暗示していたように思えてならない。

石崎は足を洗おうと、職を探して歩き回るけれど、元ヤクザで殺人の前科のある彼には、そうおいそれと仕事が見つかるはずもない。荒れる石崎に涼は一度は逃げるように部屋を出て行ってしまうものの、彼の元に戻ってきて、「私だけはお兄ちゃんの気持ち、判ってるから」とつぶやく。過去、やはりこんな風に、自暴自棄になった彼に愛想をつかして出て行った妻を思い出し、自己嫌悪に陥っていた石崎は、戻ってきた涼をしっかりと抱き寄せる。抱き寄せてはいるものの、このとき大きな包容力で彼を抱きしめているのは、無論涼の方なのだ。彼女は石崎がつかまった8年前、追っ手による銃撃で膝に怪我を負い、今でも足を引きずる後遺症を持っている。それを石崎はずっと気にしている。でも彼女は、その負い目をさえ彼女自身の包容力に変えて、彼を支えている。無鉄砲な彼に「一人にしないでよ」と泣き崩れるものの、それは一人になった石崎の方にこそ、心を痛めているに違いないのだ。

本当に、鈴木紗理奈はとてもいいと思う。ネイティブの大阪弁が生き生きと、ハスキーボイスが時には痛々しく、時には頼もしく響く。根っからの明るさを持ちながらも、暗い影がその中に見てとれるようなところが、映画向きだと思う。石崎はその義侠心の強さゆえに、結局死んでしまうのだけれど、そして彼女は死にゆく彼に「自分からは死なないって約束したやんか!」とすがって号泣するのだけれど、彼を追って死ぬようなことはよもやあるまい、と思う。もはや虫の息の彼が「誕生日プレゼントや。100万円もしたんやで……んなわけないやろ」と、彼女が教えたテレ隠しのボケツッコミでくれたネックレス、一生いえることのないであろう膝の傷、そして何より……彼が残してくれた次の命が、彼女を死なすわけはないから。ラストシーン、「あんなカッコイイ車に乗りたい」と彼女が言った、ハデな赤いコンパチブルに乗って、海辺に着き、ややおなかのふくらみ始めた彼女を守るように後ろから抱きしめる彼。それは幻想のシーンに他ならないんだけれど、どっちの見た夢だったんだろう。

でも、この石崎が死んでしまう場面では……彼は、死を覚悟で仇討ちするのだけれど、かつては逆の立場であった哀川翔扮する斎藤が、石崎が撃った二人だけを病院に運ばせて彼だけはそのままにしてしまうのはなぜなの?石崎が撃った二人より意識があったように思うのに。そりゃ敵だけれど、斎藤は、石崎はもう狙うべき相手ではないと、そして彼のことをうらやましいと言っていたのに……なあ。思わず、おいおい、石崎さんも運んでやれよ!と、妙にハスに構えた哀川翔に(かっちょいいけどさー)向かってツッコミを入れたくなっちまうんだもん。

何か人気バンドのメンバーが出ているらしくて、そのバンドがラストテーマを歌っていたりする。うーむ、、そういうのは興味ナシ。でも最近、そういう風にして客寄せするの、多いな……そうなると、オフィシャルサイトのBBSとか、そのファンたちの寄り集まりみたいになって、どうも面白くない。鈴木紗理奈であり、エンケンである部分でちゃんと宣伝展開してほしい。あ、ところで、ご・あきうえには思わず驚いちゃったなあ。まずキャストクレジットの最後の方で名前を見て(って、何の役だった?)え?と思ったら、彼が衣裳を担当していたとはね。涼が石崎のために選んでやる、今いち似合わないカジュアルなカッコとか、確かにご・あきうえ風?なんてね。★★★☆☆


戦場のピアニストTHE PIANIST
2002年 148分 ポーランド=フランス カラー
監督:ロマン・ポランスキー  脚本:ロナルド・ハーウッド
撮影:パヴェル・エデルマン 音楽:ヴォイチェフ・キラール
出演:エイドリアン・ブロディ/トーマス・クレッチマン/フランク・フィンレイ/モーリーン・リップマン/エミリア・フォックス

2003/2/18/火 劇場(渋東シネタワー)
映画を鑑賞後に、予告編を数多く見る機会があった。予告編ではほとんどない残酷シーン、本編ではほとんどないピアノ演奏シーン。まるで、違う映画の予告編を見ているようだった。タイトルでもある、ピアニストである彼、シュピルマンは、冒頭、早々に演奏する機会を失われてから、途中ちょっとだけレストランで弾くものの、あとはとにかく逃げ惑う生活。命からがらの毎日。ピアノを弾くだなんていう、幸せな時間はまるで与えられないのだ。そして次に彼がピアノを弾く時、それはまさに彼の命を救うことになるし、あるいはそれまでも、著名なピアニストだということが、彼の才能を惜しむ人たちによって彼の命を救い続けることになるのだけれど、ピアノを弾くこと、ピアニストであるということが、この容赦ない戦場でまるで意味をなさないということを、もしかしたら、くだらないことであるとさえ……まざまざと見せつけられる。あるいは、人間であるということそのものが。

本当に、どうしてこんなことが起こってしまうのだろう。教科書で知っていた歴史ではある。でもそれを、実際にその場で体験した人が、それがどんな風に行われたのかを冷徹に再現されると、言葉も出ない。塀を設けた狭い居住区にユダヤ人たちを閉じ込める。彼らが質問をしただけで、撃ちぬかれる。車椅子の人間をそのまま上階から放り出す。まるで意味もなく無作為に半数の人間を選んで伏せさせ、順繰りに頭を撃つ。大量虐殺。教科書では知っていた。言葉では知っていた。だけど、何一つ、判っていなかったことに慄然とする。そう、なぜ、こんなことが起こりうるのか、本当に、理解できないのだ。同じ人間なのに。同じ人間のはずなのに。

センセーショナルな話題ばかりを振り撒いてきたポランスキー監督が、ポーランド人だったということに、今更ながら気づく。そして、驚く。あの彼が、と。でもやはり、ポーランド人である彼でなければ、描けないんだ。いままで数あったアウシュビッツ映画がことごとに打ち砕かれるのが、よく判るのだ。彼がいつか、いつかこのことを映画にしなければいけないと、映画人としてポーランド人として思い続けていたのがあまりにもよく判るのだ。戦争映画は、被害者の側から描かれなければいけない、と思う。被害者の記憶には、その事実とともに、想像を絶する哀しさと悔しさが溢れているから。それはイコール、もうこんな思いをするのは、二度と、絶対に、イヤだという気持ちだから。ここでの被害者の記憶……つまりは、この主人公である実在のピアニストの記憶は、驚くほどにこと細かで冷静なのだけれど、やはりそこには、そういう気持ちをくみ取らずにはいられないのだ。これを観てしまえば、あの「シンドラーのリスト」などが、やはりいかに偽善に満ちたものかよく判る。彼らには、戦争の(その被害者になることの)本当の悲惨さがまるで判っていないのだ。あるいは残酷描写では拮抗するかもしれない「プライベート・ライアン」にしたって、その描写に戦争の真の恐ろしさをどちらが込められているか、絶対にこんなことを繰り返しちゃいけないというメッセージがどちらに込められているか。リアルな残酷さを追究するのではなくて、いかに無意味かということを、いかに理不尽かということを示さなければダメなんだ。

そして、こうして、被害者側から描かれた映画を、加害者側は観なければいけない。この歴史的事実における加害者であるドイツは、それを戦後、ずっと目をそらさずに続けてきたという印象がある。でも日本は……被害者としてそうした映画を作る一方で、加害者としてのその責任を怠っているんではないか?憤りをアメリカに対して感じるより先に、戒めなければならないことなんではないか、と。

劇中で、ユダヤ人たちが、“ユダヤ人を多く抱えるアメリカが何もしてくれない”と、たったひと言だったけど、言った言葉、やはり入れずにはいられない言葉だったんだと、思う。時遅しとはいえ、周りの列国は手を差しのべてくれたのに、という本音だと思う。これが今のイラク危機で強硬姿勢に出ているアメリカに、そっくりそのまま当てはまるこの皮肉。アメリカにはイラク系の人たちだって多く住んでいるはずなのだから。誰でも寛容に受け入れて、それがアメリカの良さだったのに、くるりと翻ると、生粋アメリカ人しか、助けてはくれない。こんなことを人間は体験しているのに、まだ戦争をしようとしている。学習能力がないにもほどがある。これを観ても、まだ戦争をしようと思えるの?と、思わせるために、そのために戦争映画は作られているはず。アメリカは違うのか……。

くるりと翻ると、というと、迫害され続けてきたユダヤ人とドイツ兵の立場が、最後の最後でくるりと翻る。戦犯者として、鉄条網の中にぎっしりと座らされているドイツ兵たちに、奇跡的に命を助かった数少ないユダヤ人たちは、ツバを吐きかけ、罵倒する。無理ない、とは思いつつも、また同じことが立場を変えて繰り返されるのでは、とヒヤリとする一場面を、今までのアウシュビッツ映画では見られなかったそれを、ポランスキー監督はしっかりと組み込んできた。そして年月が経ち、このユダヤ人が、そうした自分を恥じる場面も。そしてその時には、助けられたかもしれないドイツ兵が、もはや助けられなくなっていたことも。

逃げ惑うシュピルマン。もはや家族も友人も散り散りで、多分皆殺されてしまっていて、どこに行っても容赦なくユダヤ人を殺すドイツ兵がいる。食べ物を探して徘徊し、ボウボウのヒゲにボロボロの衣服の彼を、一人のドイツ兵が見つける。その時のシュピルマン……こぼれたわずかな穀物を手づかみで口にし、缶詰を見つけるも、缶切りがなくて工具みたいなもので必死にトンテンカンやったり、あの優雅なピアノを弾いていた彼とはとても思えない姿(このとにかく飢えに飢えている描写も、意外に今までの戦争映画ではとりこぼしていた気がする)。だから問い詰められてピアニストだと答えるシュピルマンに、このドイツ兵がどう反応するのかヒヤリとするのだけれど、ドイツ兵が弾いてみろ、とシュピルマンに指し示したのは、彼があんなにも弾きたくて弾きたくてたまらなかったグランドピアノ。彼がかつてかくまわれた部屋に小さなアプライトピアノはあったりしたけれど、当然、弾くことなどかなわなかった。鍵盤に触れずに、その上の方で空気を弾いた。それが、今は、目の前に、グランドピアノがある。シュピルマンはためらうように鍵盤に指を落とし、段々と、熱を入れ、何かがとりついたように弾き続ける。吸い付けられる様に、まるで微動だにせず、シュピルマンのピアノに耳を傾けるドイツ兵。観ているこちらも鳥肌が立つ。

ドイツ兵はこのピアノに惹かれたこともあるけれど、多分もともと善人で……いや、もともと全ての人、とは言わないまでも、殆どの人が善人だと私は思っていたいのだ。たった一握りの人が不幸にも独裁者だったり、あるいはそこまで悪人ではなくても、心の弱い人だったりしたために、多くの人がその大きな流れに巻き込まれて悪い心に支配されてしまったと思いたいのだ。だから、その大きな流れをもう二度と作ってはならないと。で、だから、このドイツ兵はこの流れの中でドイツ兵にしかなることは出来なくて、日々の任務を粛々とこなして(書類を次々見ながらサインをする、という、何か重役みたいな仕事)、多くのユダヤ人を助けるとか、そんな大きなことをしでかすことは別に考えてもいないし出来ない、一人のドイツ兵にしか過ぎないんだけど、でもシュピルマンのピアノを聴いて、彼を助けたいと、純粋にそう思った。そして彼がその場所を去らなければならなくなった時まで食糧を運び、去り際には、その温かいコートまでをシュピルマンに差し出す(それがシュピルマンをちょっとした微笑ましい?命の危機にさらしたりするんだけど……)。

でもそのドイツ兵、彼はまさにシュピルマンにとって英雄だけれど、彼自身が逆の立場に立たされた時、あの鉄条網の囲いの中に座らされて、戦犯収容所に送られる直前で、いつどうなるかも判らないと……まさに、立場が逆転した時、彼を罵倒した通りがかりのユダヤ人がミュージシャンだと知って「シュピルマンを知っているか、僕は彼を助けたんだ……僕を助けてほしいと彼に頼んでくれないか」と必死に乞う彼を、哀れだと思うのは……間違っているのだろうか。何か見てはいけないものを見てしまった感じ。でもそう思うのは、この豊かな時代に生きている傲慢なんだということも、逆に思い知らされる。

そうだ、シュピルマンが、言ってしまえば家族や仲間を出し抜く形で生き残っていった時にも、何か、何とも言えない気分を味わったのだ。仲間同士が仲間意識で道連れになるのか、逃げたいと思って仲間にそう正直に告げ、逃げるのか。シュピルマンが生き延びたのはまさに奇跡。しかし、家族はガス室行きの列車に乗る中(死にに行くのに、我先に、とでも見えるようにギュウギュウに乗り込んでいるのが……本当に吐き気がする)彼一人だけが仲間に助けられたあの場面は本当に忘れられないのだ。一人の奇跡の生と、まるでゴミクズのようにあちこちに転がっている死体。奇跡は特別の生なのかと、そんなことがあっていいのかと、やはり思わずにはいられないのだ。死体が累積しているのが日常だなんて……でも、家族と生き別れて、ゲットーに戻ったシュピルマンが、散逸した荷物と死体の山の中を絶望的な表情でさ迷い歩く姿に、生き残った彼が背負わされたものの想像を絶する重さを感じる。それは本当に、あまりにも凄い画で……ポランスキー監督は幼い頃、こんな凄絶な風景の中にいたというのか。

それにしても、シュピルマンが次々に助けられて生き延びていくのは、本当に奇跡に値するものがある。中にはちょっとこずるい人もいるけれど、みんなみんな、正義感の強い、本当にいい人たちばかり。でも、いい人たちばかりだからこそ、シュピルマンが生きて、その人生をまっとうする責任の重さが大きくなる。人間はそれだけの覚悟を持って生きなければならないということを、そういった普遍的なことをも教えてくれる。

あの、ドイツ兵は、“奇跡の生”には、なり得なかった。シュピルマンの友人でこのドイツ兵を罵倒したミュージシャンは後悔し、シュピルマンにそのことを告げ、彼は手を尽くしたのだけれど。誰が生き、誰が死ぬのか。あの時、シュピルマンがこのドイツ兵に、なぜ助けてくれるのか、と問うた時、彼はこう答えた。「それは全て、神の思し召しだ」 ユダヤ人とドイツ人。信仰する神は違うけれども、この言葉は共通した悟りのような響きを持っている。でもその言葉をシュピルマンに告げた彼の方は、“神の思し召し”で死んでしまったのかと思うと……いや、神の思し召しなんかではない。戦争が、戦争さえなければ。

あの、焼きに焼き尽くされた廃墟の街が凄かった。シュピルマンが身を隠していた病院が焼き討ちにあって、慌てて彼は裏の窓から逃げ出し、塀をよじのぼり、難を逃れるのだけれど、しかし彼の目の前に広がった風景は……地の果てまで続くモノクロームの、廃墟の街。まるで信じがたい光景で、CGだということは判ってはいるんだけど、声を失ってしまう。いや、CGというのは、こうやって使うべきなんだと、ヤな使い方をしているいろんな映画を思い浮かべたりしてしまう。殺戮の場面がなくても、この場面だけでも、全てを語れるぐらいの、衝撃。

シュピルマン役のエイドリアン・ブロディ。私は彼は「ブレッド&ローズ」が初見で、他に全然観ていないので、あのサム役のフットワークのいいキュートな彼が!?と驚いてしまうのだ。何かこう、久しぶりに若手で名優肌というか役者バカ!?というか、嬉しくなってしまう。いろんな国籍を演じられそうな、エキゾチックなところもいい。この戦争に、この殺戮に、怒りではなくてひたすら哀しみで全身を包んだ、そこに何よりも強く強く、訴えるものがあった。怒りは繰り返されてしまう恐れをはらんでいる。哀しみは二度とそれを味わいたくない、繰り返さないと願う希望の感情だから。だから、お願い、本当に、もう二度と……。★★★★☆


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