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「ふ」


2002年鑑賞作品

フィラメント
2001年 108分 日本 カラー
監督:辻仁成 脚本:辻仁成
撮影:蔦井孝洋 音楽:辻仁成
出演:大沢たかお 井川遥 森村泰昌 銀粉蝶 村上淳 松重豊 不二子


2002/4/3/水 劇場(銀座シネパトス)
キレやすいだとか、リセットできるゲームに慣れてしまって本当のリアルさが判らないとか、そうした現代の若者像、そして個人、個性へのこだわりが崩壊させてしまったとも言えるいびつな家族の形……。そうした“現代の病”とでもいったものが、ことさらに記号的に感じられてしまって、今ひとつ説得力を見出せなかった。

主人公の今日太(大沢たかお)は我慢のきかないキレやすい性格で定職につくことができない。彼がつるんでは遊び歩く仲間の卓爾(村上淳)は、退屈な毎日の中に刺激を求め、その“心が動く現象”を感動だと主張して、昔より無鉄砲さが薄れてしまった今日太に歯がゆさを感じている。卓爾の彼女である林檎(不二子)はその名前のとおりいつでも林檎を持ち歩いている女の子。それはおとぎ話に憧れているような少女の空気を持つ反面、何かに夢中になったりすることのない無表情さで、恋人である卓爾に対する気持ちもまた、どこかアイマイである。今日太の妹である明日美は出戻り娘。母親は10年前に10歳も年の若い男と駆け落ちし、銭湯を写真館にした父親は女装して女優に扮したセルフポートレイトを撮ることが生きがいで、時々その姿で街角に立ったりもしている。

この澤田写真館の人々、今日太と母親はどこか現代の病を語る上での典型的なキャラクターすぎて、かえってリアルさを失っているようなところがある。大沢たかおはその中にも身体から発散するものを見つけ出そうとする役者としての気合を感じさせもしたが、銀粉蝶演じる母親は、娘と変わらないような服装……レースのソックスにロングのフレアースカート、二つに結んだ髪型などが、殆どギャグではないかと思われるぐらいの作りこみキャラで、何だか少々引いてしまうものがあった。もちろん、その外見の一種の滑稽さは、彼女が今まで若い男に捨てられまいと必死にあがいてきた証しのようにも見え、そのスタイルとはまるでそぐわない疲れ気味にたるんだあごや、くずれた身体の線が哀れで、つまりはそのギャップからくるリアルさを狙ったのだろうけれど。

一方、父親(森村泰昌)、娘(井川遥)は、キャラ自体はきっちり設定してあるものの、彼ら自身のパーソナリティで、なかなか面白い造形になっている。あ、この“きっちり設定されたキャラ”というのは、辻仁成監督のクセなのかもしれない。小説家である彼がしっかり書き込むのは当然といえば当然なのだが、正直、「千年旅人」以外の(一作目の「天使のわけまえ」は未見)「ほとけ」も本作も、それが足かせになっているような気がしてならない。なぜ「千年旅人」がそうはならなかったのかということの方に興味がいくのだが……確かにあれもキャラ設定は本当にキッチリしていたから。まあ、これもまた個人的感慨に過ぎないのかもしれないが、「千年旅人」で描かれていたそれぞれの孤独の記号的表現が、画的にとても美しくて、そこからさまざまなものまで溶け込み、波及し……といった効果が現れていたような気がするのだ。だから……文学と映像というのはホントにベツモノだと思うのだけど、ある意味、映像には偶然とか役者の空気とかから得られる奇跡の効果が最大の効果をもたらすことがあり、プログラム・ピクチュアというタイプではない、この人のような作品の場合は、それの有無が非常に重要になってくるのではないか。あるいはその偶然や奇跡すら引き出すことが出来るのが、真の映像作家なのかもしれない。

そういう意味で、だから本作は半々といった感じである。いや、澤田家に関しては半々だけど、今日太の友人の卓爾と林檎はまるで4コマ漫画的にすら感じられるほどあまりに“キャラ”過ぎるので、実際は5:2といったところか。卓爾と林檎のカップルはホントに、その台詞がいちいちまるで、現代の若者の問題とかの新聞記事を読んでいるかのよう。卓爾が今日太とゲームをしながら「飽きてるのに、手が止まらねえよ」と言ったり、ヤクザから奪った銃で酔っ払いのサラリーマンを殺してしまった卓爾に林檎が「ねえ、元に戻らないの。いつもみたいに」と言うのに対し、「バカ!これはいつもやってるゲームじゃねえ、リアル(現実)なんだ!」と卓爾が返したりとか。小説の上の言葉ならば……いや、言葉、紙上の文字であっても、この記号的な台詞に対する違和感は拭えないだろう。彼らはリアルにこだわるあまりに、その台詞が反比例的にリアルから遠のいてしまっている。むしろ、ただただ呆然としていてくれていた方が、よほどリアルに感じられただろう。

父親役に異彩を放つ美術家である森村氏を起用したことが、この作品の最大の収穫だった。世間的にも有名な、彼の女優に扮したポートレイトは作品中でもふんだんに使われているが、その女装を作り上げる過程、あるいは逆に落としていく過程がつぶさに見られるだけでも見る価値があるし、肩幅が狭く、背も低いきゃしゃな彼が(だから女装もサマになるんだな)あやつる大阪弁が、写真館の主人としては家族写真を撮りに来る被写体の家族たちを笑わせる武器になり、彼自身の家族の間では、ただ一人の大阪人としての孤独のアイデンティティを放つ哀愁になり、クライマックスでは、愛する子供たちのために「ここが親の出番やないか」というこれ以上にないキメ台詞になり……。正直、先述の説教臭いキャラと台詞にいささか閉口していたので、この父親の弱さと、それがバネのように逆説的になる強さには、森村氏自身の放つ疲弊と香気が、作品中波のように交互に、そして渾然一体となって、彼の存在こそが、この作品を唯一絶対の個性あるものにしていた。

そして、妹の井川遥。世間的に“癒し系”と呼ばれている彼女。私はグラビアアイドルと呼ばれている人たちには大いなる偏見と先入観がどうしても入ってきてしまい、ついつい点が辛くなりがちなのが正直なところ。しかし、彼女が“癒し系”と呼ばれているのも何となく納得できるものがありつつも、そのたっぷりとした唇と、「私もずっとお兄ちゃんが好きだった」と夢遊病の演技をやめて静かに涙を流す場面に、“出戻り娘”というキャラ設定が、騙された純な女というよりも、男の、世間の汚い部分をさんざん知ってしまいながらも、大好きな兄を男として見ることだけはやめられない女の生々しさを感じさせて、ハッとさせる瞬間がいくつもあった。ここはホント、微妙な差なんだけど……同じく“癒し系”と呼ばれた釈由美子とどこが違うかって言ったら、本当に空気感、とかそういう言い方しか出来ないんだけど……。あるいは監督との相性が良かったのかもしれないし。好きだと言えない兄に対して、自分のナマな部分をさらけだす“夢遊病”を演出し続けたというのが、その事実以上に生々しい恋の感情を感じさせるのは、彼女のこうした言葉に出来ない未知の部分、としか言いようがない。実際、ちょっとアラワなシーンを見せるところでも、まあ、設定の差もあるだろうけど、釈由美子よりずっと、内に醸成している女度の差、とでもいったものを感じさせるものがあったのだ。

夢遊病の(演技をしている)彼女を見守ることだけが、こんな自分でも続けられる“仕事”だと、彼女を見つめ続ける今日太。彼は妹である彼女に対する気持ちを押し殺しながら生きている。しかしどうしてもどうしてもそれが隠し切れなくて……それは、多分たった一人の友人であったであろう卓爾を亡くしてしまったこと、そしてその死に初めて彼に対する愛を自覚し、泣き叫ぶ林檎を見たことが多分に影響しているのだろうが……夢遊病の状態である彼女に自分の気持ちを打ち明けると、彼女は演技だったわけだから、その言葉に深い感慨の涙を流す。澤田写真館は銭湯だった造形をそのまま残した作りにしていて、男湯か女湯か、一方だけは水を張って鯉を泳がせ、もう一方はカラのままにしてある。そのカラの浴槽に、微妙な薄い一枚の空気の壁を感じさせながらも、気持ちの通じ合った二人が横たわり、穏やかな眠りに包まれるシーンは、……それこそ、ここから逃げられない鯉を連想させながらも、逃げられないからこそ幸福さを感じさせて……。これ以降は……その前までに感じていた“現代の若者”や“現代の家族”に対する、どこか説教めいた感覚への拒否感もすっかり薄れ、素直に素敵だなと思える。この、銭湯のつくりを残した写真館の造形は本当に絶品で、この映画の影の主人公と言えるぐらいなのだが……いまやすっかり名を馳せている美術監督の種田陽平が三作続けて辻監督のもとについており、少なくとも美術に関してだけは、文句なく成功を収めている。実際、美術が素晴らしければ、30パーセントは成功したといってもいいのだから。

しかし、気持ちが通じ合って幸福を手に入れたと思ったのもつかの間、明日美は元ダンナに無理矢理犯され、傷つききって雨の中、ズブ濡れになって帰ってくる。自分が死ぬことなどいとわない、あいつを殺さなければ気がすまないと、明日美に覚悟の別れをして出て行こうとする今日太を制する父親の澤田。今日太を手錠で写真スタジオにくくりつけ、お前が死んだら、明日美が哀しむだろうと、そうあの子も言っただろうと、ここが親の出番だろう、と言い、いつも以上に入念に化粧をして芸者風の女になりすまし、ふところにドスを忍ばせて、明日美の元ダンナ……リキを待ち伏せる。案の定、声をかけてきたリキに迷わずドスを差込み、しかし、当然のことながら居合わせた子分たちに蜂の巣にされる澤田。タメにタメてドサッと倒れこむ森村氏は、最後までこの映画を食いまくった。

愛する妹のためにも本気を出して“定職”に真面目に取り組み、“一生懸命にやってるから”と職場の上司にジュースをおごられ(それが“dakara”だというのは、できすぎよね)、働く喜びを初めて感じる今日太。ううッ、これもまた、あまりに記号的過ぎる幸福の描写なのだが……。しかし、ラストシーン。追いつめられた卓爾が、かつての自分のまねをして隣のビルに飛び移ろうとして落下、死んでしまったのを思い起こしながら、卓爾、見てろよ、と言いながら飛び出すシーンでカットアウトなのは……どうとらえたらいいの?……まさか、今日太も死んじゃうわけじゃ……ないよね?

でも、もし、もし今日太も死んじゃうんだとしたら。10年ぶりに家に戻ってきて、今日太に罵倒されながらも、夫である父親に、家族やないかとかばわれて居場所を見つけた母親と、お兄ちゃんがいなければ生きていけないと言いながらも、もし今日太が死んでも、母親のことを思えば死ねないのではないかと……つまりは、生きていけるしたたかさを持っているのではないかと思える明日美がともに、1日の始まりの朝、写真館営業の準備をしているのは、何か苦い味を感じさせるよね。一方ではそうした女の強さを誇りに思いながらも、世間的には弱そうに装えもしながら、実はぜっんぜん強く生きていけちゃうというのは……素直に誇れない気分になるのはどうしてだろう?やはり……弱さこそが人間の美しさだと思う気持ちがどこかであるから?だとしたら、女達は自分たちを無意識に貶めているところがあるのかな……。★★★☆☆


フォーエヴァー・モーツァルトFOR EVER MOZART
1996年 85分 フランス=スイス=ドイツ カラー
監督:ジャン=リュック・ゴダール 脚本:ジャン=リュック・ゴダール
撮影:クリストフ・ポロック 音楽:ケティル・ビョルンスタ/デイヴィッド・ダーリング他
出演:ヴィッキー・メシカ/マドレーヌ・アサス/ガリア・ラクロワ/ベランジェール・アロー/フレデリク・ピエロ/シルヴィー・エルベール/ミシェル・フランチーニ/ヴァレリー・ドラングル

2002/7/23/火 劇場(渋谷ユーロスペース)
やっぱりゴダールは私にはダメだああ。うー、予備知識を得た上で観た方が良かったのかなあ。かつて小津安二郎の良さが今ひとつ判んなくて、後年になって何で判んなかったんだろう?と思うほどに大好きになったように、そう思える日が来るのだろうか……それすらも、アヤしい。ある意味ゴダールが凄いというよりは、ゴダールが好きな方たち、理解できる方たちが凄いと思っちゃうなあ……陳腐すぎる映画もヤだけど、洗練されすぎているのもついていけない。理解しようと思うのが間違っているのかも知れず、一生懸命ただただそのまま受け取ろうと努力したんだけど、頭の中には判んない、判んない、の鐘が鳴るばかり。

劇中でもサラエヴォの言葉は出てきたし、何だか訳の判らないうちに(というより、全編判らないんだけど……)捕えられて死んじゃったりとか、どうやら現代の愚かな紛争、内戦に辛辣に言及しているらしいんだけど、実はそんなこと、後から解説を読んでそうなんだ……と思ったぐらいで。監督がインタビューで懇切丁寧に解説してくださっているんだけど、これまた難しいんだよなあ。演劇、戦争、音楽……といったテーマが順繰りに語られており、一応登場人物に一貫性はあるものの、それぞれにやはり分断されている上に人物もかなり異なってくるし、物語も同様なので、頭の中はかき回されるばかりなのである。監督ってば、それぞれの部分は20分から25分にしかならないので一本の映画には出来ず、それでつなげた、とおっしゃっていらっしゃるんだけど、そ、そうなのかなあ?……充分それぞれ一本に耐えうる濃いテーマだと思うんだけど、このへんがゴダールの凄いところなんだろう。自分の頭の中に浮かんだ以上にテーマを薄めたりなんて考えもしないところが。

いわば、史上最高の作家主義監督だよなあ。大体、この脚本で資金が集まっちゃう、っていうのが凄い。こんなムズカシイのに。彼だから、それだけでお金が出せちゃう監督なんて、そうそういるもんじゃない。ハリウッドだったらまずムリだわね。それが例えあのスピルバーグにしたってさ。あ、でも脚本の段階だったら、それこそ“奇跡のように美しい脚本”かもしれない(この映画の惹句が“奇跡のように美しい映像と……云々”だったのよ。そうかなあ?と思っちゃったけど)。言葉が流れるようで、哲学的で、詩的で。そう、詩を映画にしたらこんな感じかなあ、なんて思った。その中には字幕に出てこない、つまりフランス語以外の言葉も数多く出てくる。それは戦争の中で言葉が通じない苛立ちを表しているのか、あるいは純粋に発音としての美しさや面白さを採用しているのか……でもフランス語圏以外の観客にとっては、それこそ字幕の出るフランス語だってどこまでそれ自体の美しさやニュアンスを伝えているかどうかなんて、実に怪しいところだ。例えば劇中、もともとは“希望”と呼ばれていたものを、“希求”なんだと、その言い換えに固執する男が出てくるのだけれど、希望、希求、それぞれの日本語に転換する前の、実際のフランス語のニュアンスをどこまで伝えられているのだろう。

ひょっとしたらゴダールはそのあたりも計算済みかもしれない。だってそうやって固執する“言葉”を、実に平然と、あるいは残酷なまでにさえぎってくるから。そのさえぎりは客観的に見れば実にくだらないまでに台詞の感じに固執して何人も、あるいは何テイクも犠牲にする演出家のダメ出しだったり、戦争をストレートに表現する爆発音や銃器の音だったりする。轟音にかき消され、台詞が聴こえなくなる。しかしそれならばまだいい。凄いのは、列車の音、波の音などの自然音、盛大な拍手の音などまでがそのさえぎりに使用されていることなのだ。それこそ実に、暴力的に。それをなだめるかのように、美しい音楽がそろそろと流れてくるものの、それすらも気まぐれに何度も寸断される。ドラマティックな気分になりそうなところで、切られてくる。轟音を使った映画は他にも数あれど、こんなシニカルな使い方をしているのには初めてお目にかかった。映画における轟音のマジックに溺れず、その効用を最大限に利用している。コリャ、よっぽど自信がある人じゃなきゃ、できないよな……。

言葉の美しさと、その無意味さと。あるいは人間の営みや生活のそれをも突いてくる。盤のないチェスやボールのないサッカーに興じる人たち。一体この人たち何やってんの、と思いそうになるのだけれど、チェスにしてもサッカーにしても、ゲームは争いであるという点で、戦争の原点であるという意味だったのかもしれない。盤がなく、ボールがなく……つまりはそのゲームをするにあたって得点になるものがないと、ただ無意味で愚かなだけで、戦争は得点などないし、仮にあったとしてもそれは、人命の犠牲という意味において得たとたんに失われてしまう。折り重なるように死んでいる若者たち。その彼らからピックアップしたカップルに映画の衣裳を着せたって、画になるだけで、何の慰めにもならない。

なんてことを考えたりしたのは、映画を観てから二日もたってゴチャゴチャの頭を整理してからようやくであって、見ている間は話が、人物が、展開が全然見えないよう、ととにかく半泣き状態。“映画”の段、つまりこのエピソードを貫く人物である映画監督のヴィッキーが浜辺で映画を撮る段になって、死んだりなんだりして何となく登場人物も減ってきたし(苦笑)、コンランした頭を何とかほぐれさすことが出来るかな、なんて思い始めて。でもその撮影ときたら、「フィルムが入ってませんでした、もう1回」と叫ぶアシスタントのノンビリさにナンダコリャと思い、理想的な「ウィ」を撮る為に600回もテイクを重ねるヴィッキーにナンダコリャコリャと思うような……「ウィ」を言う女優に向けて回されているカメラは、からっぽなんじゃないかって思ってしまうほどで。

あ、でも確かにからっぽには違いない。だって映画中映画の撮影だから、あのカメラはダミーなんだもん。でもそれ以上の意味を、無意味の意味を感じるんだよね。からっぽに感じるカメラ……詩や言葉を至上の美しさとして崇めている感のある監督にとって(それはゴダールが、というより、この劇中監督のヴィッキーが)映画は何ほどのものでもない、少なくとも言葉以上のものではないと言っている気がして。でもそれを本当のカメラからのぞいているゴダールは、それもまた愚かな思想だと投げ返している、シニカルの二重構造。その映画を劇場にかけてカネを稼ごうとする段になると、どんな映画なのか、ヌードはあるのか、と観客は明確なまでに世俗的で、ついには「ターミネーター4」を観に行ってしまうという、苦笑モノの展開に。何もここまでしなくても……。

全編実に引用の嵐で、オフィシャルサイトでそれを改めて確認すると呆然とするぐらいなのだけれど、こ、これってキビシイよね。だって原典の意味があるからこその引用なんだもん。映画の中で断片的に振りかざされても、戸惑うばかりだし。それとも、それぞれの引用の出典を全部理解しないと、この映画を理解したことにならない、っていうことなのかなあ。ひぇッ!そ、それって厳しすぎる……。確かに映画って、観客に対してあまりにご親切に過ぎるというところはあるけどさあ……。引用の出典に明るくないこちらとしては、それは言葉の切れ端に過ぎない、というのはそれこそ意味あること、無意味、どちらなんだろう。そういえば劇中、テープ起こしをしている女性が出てきて、そのテープで発せられているのが下品なオフレコ言葉ばかりなんだけど、それもまた言葉の切れ端で、それらは引用の言葉と同じテーブルに載せられてるって気もしてくるのだ。それは言葉として同等だということなのか、あるいはどちらを選ぶのかと選択を迫られているのか、はたまたあるいは言葉という概念としてはどちらも同じで、その中身を知らなければ意味がないということなのか。

しかし何度も言うけど、この脚本でよくもまあ……この脚本、完全に理解しているのってひょっとしたら監督だけなんじゃなかろうか?だ、だって役者が役を咀嚼して演じているようにはどうしても……思えなかったんだもの。ううむ、本当、史上最高の作家主義監督よね。それともゴダールがワカンナイのってやっぱり……映画ファン失格なの?★★☆☆☆


ブレッド&ローズBREAD&ROSES
2000年 110分 イギリス=ドイツ=スペイン カラー
監督:ケン・ローチ 脚本:ポール・ラヴァティ
撮影:バリー・エイクロイド 音楽::ジョージ・フェントン
出演:ピラール・パディージャ/エルピディア・カリージョ/エイドリアン・ブロディ/ジョージ・ロペス/アロンソ・レイノルズ /ビバリー・レイノルズ/ジャック・マッギー/ティム・ロス/ベニシオ・デル・トロ/ロン・パールマン

2002/9/19/木 劇場(有楽町シネ・ラ・セット)
まったくもう、ケン・ローチもしつこいというか素直じゃないというか、せっかくハッピーエンドになりそうで、お、めっずらしいとか思っていたら、やっぱりこれがないとね、とでも言いたげに苦いラストを持ってくるんだから。そう、ケン・ローチ作品には本当に珍しく、クライマックスで弱い立場の労働者が勝利を勝ち取るのだ。のだけれども、その運動の先頭に立っていたエネルギッシュな若い女性、マヤは国外退去となってしまう。その理由もあまりにほろ苦いのだ。

珍しいといえば、イギリスの労働者問題、社会問題にとことんこだわって撮り続けていたケン・ローチが、初めてアメリカに足を踏み入れた。しかもその場所はスターたちが華やかに跋扈するロス。今まではとかくハリウッドの聖地として、せいぜい一般的にフツーに暮らす人々の描写ぐらいしか見せてこなかったこの地で、不法入国、移民、そうした立場の最下層の人たちが、祖国への送金のためそうした立場を利用されて脅されながら、必死になって働いているだなんて、恥ずかしながら確かに予想だにしなかった。しかし彼らの、生きていくためのあまりに生々しいリアリティを突きつけられると、安穏と生活している自分がいかにも恥ずかしく……そう、自分たちは恵まれていると判っていても、その恵まれているというのが恥のような気がしてしまうのだ。生きていない。一生懸命生きていないと。

そういう部分は主人公、マヤのある側面にも現われている。確かにテーマは貧しく、過酷な労働に耐えている移民の人々であり、マヤもその一人ではあるのだけれど、姉と同じビルの清掃員として働き始めたマヤが、経営者側の理不尽さを見せられ、運命的に出会った労働組合活動家であるサムに触発され運動を始める当初は、まだまだこの国の厳しさが本当には判っておらず、氷山の一角である非道を見せられただけで正義漢らしく憤激し、抗議の声を上げるのだ。

もちろん間違っているわけではない。彼女は勇気があるし、その行動力は賞賛に値するものだ。だけれども……彼女の姉であり、少女の頃からアメリカに渡ってマヤたち家族に生活費を送金し続けたローサは、マヤの正当性は判っていながらも、彼女と同じ行動を取れないばかりか、激しく反発する。苦労してきたんだから無理もないと漠然と思いながらも、強固に拒絶し、果ては裏切り行為にまで出るローサに少々イヤ気が差して来た頃、そんな観客側のヤワな心うちをも打ち砕く事実が判明する。ローサは少女の頃から売春をしていたというのだ。そうでもしなければ、祖国の家族を養うことなど出来なかったと。アメリカに行けば姉と同じように金を稼いで家族を助けられると思っていたマヤは愕然とし、観客もまた愕然とする。このローサの前ではマヤの熱さも確かに単なる甘い理想主義だと言われても仕方がないのかもしれない……だなんて。

仲間を売った姉、ローサをとがめるマヤに、この驚愕の事実を投げつけて、彼女を打ち砕く場面。お互いの思いをぶつける彼女らの目から、涙がほとばしる。双方の涙が怒りなのか悲しみなのか、あるいはそれらをはるかに超えたどうしようもない憤りなのか判らないほどの辛い涙。本当に凄い場面。こんな涙を流したことがあるだろうか?そりゃ、こんな辛い涙は流したくないけれど、でも、架空の感動話ばかりで涙腺が緩んでいる様な昨今、何だかうらやましいような気さえしてしまうのも事実。

こんなスゴい経験をしたことがあるわけではもちろんないけれど、ローサの気持ちも何だか判るような気がする。ローサは売春という、後ろめたいことをすればするほど、自己嫌悪と自己憐憫の両極にさいなまれる。前者だけならまだ良かったのかも知れないけれど、家族のためなんだからと正当化し、自分を哀れむ気持ちも隠せなくて、だから何も知らず、純粋に不正と戦おうとする理想肌の妹が何だか憎らしくてしょうがない、っていうような……。いつもいつも先を行かされ苦渋を舐めさせられる姉と、そうした点でどうしても甘くなりがちな妹、という図式は妹である自分にとってかなり思い当たる部分があり、結構キツい。でもマヤのように強くは到底なれないけど……。マヤの強さは、世間の汚い部分を知らないからこその強さだったわけだけれど、彼女が凄いのは、それを知った後でも、余計に強くなれたこと。

マヤを取り巻く二人の男性。一人はこの運動を持ちかける活動家のサム(エイドリアン・ブロディ)。彼はその登場でビルの守衛に追いかけられているにもかかわらず、悪人ではないとすぐに判るのだ。なんというか、実にチャーミングで一目で魅せられてしまう。こんな俳優、初めて見たなあ。何でも今年のカンヌのパルムドール作品、それもポランスキー監督作品の主演俳優だって!それ、すっごく楽しみ!ひょろんと長い体躯にボサボサの黒髪、無精ひげ、純粋でイタズラっぽい黒い瞳をつややかに輝かせて犯罪スレスレの活動を楽しそうに展開する彼は、とにかく可愛くって仕方がない。

そしてもう一人は、同じビルの清掃員仲間で大学進学を夢見る青年、ルーベン。演じるアロンソ・チャベス自身、不法入国の経験を持ち、仲間を何人も国境越えさせたというんだから、恐れ入る。ルーベンはマヤに好意を持っており、マヤの方も夢を実現させるルーベンに尊敬の念を抱いているけれども、それはルーベンのマヤに対する気持ちのような、恋ではない。マヤはサムに惹かれているのだ。でも、ルーベンの夢は叶えてあげたいと、マヤは入学金の不足分を得るため、強盗を犯してしまう。デモでつかまった時、指紋から足がついて、せっかく運動で勝利を勝ち取ったのに、マヤは国外退去になってしまう。涙にくれてみんなと別れる彼女の場面でカットアウトという、ああ、やっぱりハッピーエンドのままではいかなかった、と予想通りになった安堵感のような、ヘンな気持ちに包まれながら、でも、マヤはルーベンに、アメリカ一の弁護士になってね、と言ったんだから、きっといつか、彼の尽力でまたマヤがアメリカで皆と再会できるようになれたらいいな、なんて……。
そしてあの時、送還されるバスから手をのばしたマヤにサムが手渡した手紙、何て書いてあったんだろう。

人間の権利。つまりは人権というものが、どんなに大切なものなのかというのは、歴史の中で幾度も証明されているけれども、比較的それが充分に叶えられているこの国に住む私たちには、それを実感できることがとても少ない。それこそ、目に見えるお金、賃金の高い低いにばかり目がいきがちで、お金を稼ぐ人をうらやましがったり、あるいは自分はまだマシとか思いあがったりする。そんな風に思えるというのが、恵まれているからだということに、なかなか気づかない。目に見えないもの、権利、それがこんなに大事だということ。そういえば、感激しながら観た平塚らいてうの記録映画で、彼女は女性の権利の大切さを誰よりもよく判っていて、それを勝ち取ることを生涯の仕事としていた。そして今、私たち日本の女性は、それを感謝することをしているだろうかとふと思う。権利など最初からあるのが当然で、何も実感していない。こんな風に外国の映画を観て気づかされたりしている始末で。

それにしても、ケン・ローチ、よく問題を次から次と見つけてくるよね。というか、プロデューサーとか脚本家も彼の欲しがるものを判っていて、あるいは彼しかそういう問題を扱ってくれる映画監督はいないから、自動的に持ってかれるようになっているっていうことなのかも。本作もまたプロの役者と素人、つまりは実際の清掃員たち、素人どころか清掃員のプロと言ったほうがいいか、そのコラボレーションで、確かにベテランのエラとかベルタのあの醸し出すキャリアの雰囲気は、プロの俳優だって到底出せまい。★★★★☆


フロム・ヘルFROM HELL
2001年 124分 アメリカ カラー
監督:ヒューズ・ブラザース 脚本:テリー・ヘイズ/ラファエル・イグレシアス
撮影:ピーター・デミング 音楽:トレヴァー・ジョーンズ
出演:ジョニー・デップ/ヘザー・グラハム/イアン・ホルム/ジェイソン・フレミング/ロビー・コルトレーン/レスリー・シャープ/スーザン・リンチ/テレンス・ハーヴェイ/カトリン・カートリッジ/イアン・リチャードソン/アナベル・アプション/ジョアンナ・ペイジ/マーク・デクスター

2002/2/8/金 劇場(錦糸町シネマ8楽天地)
病み上がり(っつってもただのカゼ)にはやっぱりハンサム鑑賞よねー♪とばかりに久しぶりの映画鑑賞に選んだのはジョニー・デップさまさまのゴシック・ミステリー。うーん、やっぱりこの人にはこういうダークな美しさが似合うわあ、いやいやん、などと思いつつ、こういう色のこういう絵柄の中のこういうジョニー・デップって、何だか幾度か見たことがあるような……?などというデジャヴめいた気持ちにならなくもないというか……。実際、「スリーピー・ホロウ」「ナインスゲート」もどことなくそれっぽい色や雰囲気だったからなあ。彼がそういう雰囲気にはまるからこそ呼ばれるんだろうけど。それに実際美しいしね……。外国俳優において今一番美しいのはジョニー・デップだと私は固く信じており、死ぬ前に何が見たいといったら黒マントひるがえした生ジョニーかなあ、ヤハリ、などと思っている私のよーなよくいるミーハーファンにとってこの手のジョニーはやはり鼻血モノなんだなあ。

ところで、最近ハヤリものなんではないかと思われるぐらいにゾロゾロ出てくる兄弟監督の最新版、本作のヒューズ兄弟はううむ、果たしてナニモノ??ううう、私と同じぐらいの年ではないか、もうそれで若いとか驚くのは当たらなくなってくるのね。私もいいかげん自分の年を自覚しなきゃ。クセモノ監督にかわいがられるタイプのジョニー・デップがこんなに年若い監督と組むなんてひょっとしたら初なんじゃない?何が彼と結びつけたかっていったら、ジョニー・デップが関連本を25冊持ってるほどの切り裂きジャックオタクだからだ、っていうんだから、あまりに信憑性があって笑っちゃうわあ。

本作では切り裂きジャックを追い求める警部役だけど、彼なら、女をその手に堕として殺す美しき切り裂きジャック本人、なんてのもすっごく似合いそうだもんねえ。ジプシーとかスパニッシュとか、そういう役柄が似合う一方でこうした時代物のゴシック・ロマンが匂い立つまでに似合っちゃうこの美しさって一体何なんだろう?私はいまだに忘れられずにいるのは、「ショコラ」で共演したジュディ・デンチが「ジョニーとダンスをすると、心臓が止まりそうなくらいにドキドキする!」とインタビューに答えていたことで、ああいうベテランの、ま、言って見ればお年を召した女性もドキドキさせちゃうジョニーって本当に本物の色男なんじゃないかなあ、って。あまりにひどい惨状の死体に、ウッと口を抑えてダッシュする同僚を尻目に、愛惜と冷徹の目でじっと観察するアバーライン、そして死人の口元にその顔を近づけ匂いを嗅ぐアバーライン……冷静さの中にある闇の官能、これぞジョニー・デップの真骨頂。

切り裂きジャックの話って、私もすごく興味はあるし、何度か映画で観たことがあるような気はするんだけど、実際の事実がどうだったかとか、それに対してどんな説があるかとかはそういえばほとんど知らなかった。本作は被害者や切り裂きジャックを追う実在した警部や、そうした資料に残された“事実”とその時代の“雰囲気”を忠実に追う一方で、一つの、そして有力な説である英国王室陰謀説に乗っ取った展開にし、しかし更にその一方で天才肌のこのアバーライン警部がアヘンを吸ったその幻想で事件の未来を予知できる、というファンタジックな(というよりオカルティックな?)要素を持ち込んで、あくまでも映画の娯楽としての追い求め方になっている。それは独創的ではあるけど、ちょっと逃げを打ったかな?という感じがしなくもないのだが……。

というのは、いくらかなり過去の話とはいえ、推理本とかではなく影響力の大きい映像作品で英国王室陰謀を断じるような描き方をすることに対してちょっと腰が引けたような気もしたから。まあ、でもこれは結構有名な説だと言うんだから、それもまたうがちすぎかな。それに夜も昼のように明るく、人工的な光の下に全てをさらけ出されてしまう現代と違って、この時代はまだまだ本物の闇がこうした都会にも存在していたであろう時代で(しかも工業化のあおりで空気もすすけている)、しかも切り裂きジャックは常に夜に暗躍し、闇の中でその天才的解剖技術によって芸術的なまでの殺戮を繰り広げていた。その闇や夜の中にはアバーラインがアヘンによって見る幻想も切り裂きジャックの“芸術”と同じぐらいの信憑性も感じられなくもないもんね。そうそう、「陰陽師」だって、今いたらただのヘンな詐欺師ぐらいにしか思わないけど、あの時代には確かに本物で、やっぱりそういう時代やその空気が生み出す真実というものはあるんだと思うんだなあ。そう考えると、大抵の夢は全て暴かれてしまった現代って、ちょっとやっぱり……つまらないよね。ぶどうがすごい貴重品だったというのも、一つの小さな夢であるわけで、そうしたものがミステリのキーワードになるという粋さも、現代じゃ有り得ないだろうから……。

近代的医療が着々と進歩していた時代、フィクショナルとはいえ、エレファントマンが医師に公開されるなどというエピソードなども挿入され、前頭葉をイジって廃人にしてしまう、などという身の毛もよだつ展開が重要なキーワードになったりする。人間の生死が人間自身の手にゆだねられるようになって世の中はおかしくなってしまった、という含みのようにも思えてしまう。だって、この映画の中での切り裂きジャックの存在理由だって、不義の世継ぎを誕生させてしまった不祥の王子と結婚した娼婦、その事実を目撃したその娼婦仲間を消すことにあるのであって、そしてその切り裂きジャックが医者であったという点においても、やはりそうした皮肉めいた視線を感じてしまう。医学の発達によって人間はホントに幸せになったのだろうか?生まれることも死ぬことも一人で出来なくなって、本当に幸せなのだろうか?

アバーラインは生まれる時は知らないけれども、少なくとも死ぬ時は、自分の望むとおりに死に、演出を施した。彼は捜査中、狙われている娼婦グループの一人、メアリと恋におちる。女に興味がないと思われていた、ってぐらいの彼が、だからもしかしたら最初の恋かもしれないと思うぐらいの、恋。人には見えないものまで見えてしまうアバーラインには、彼女はここでこんなことをやってはいるけれど、彼女自身が夢だと語るように、田舎の雄大な自然に抱かれながら、お母さんになるのが見える。それが似合う、そうした生き方こそが運命の女性なのだ。そしてその時から彼には見えていたに違いない。そこには自分はいないこと、いることが出来ないことを。実際、彼女がお母さんになるのは彼女自身の子供ではなく、この悲劇によって娼婦だった母を奪われてしまった女の子の、なのだけれど。彼女の身代わりに一人の新入り娼婦が殺され、彼らはその新入りの顔も何もかもぐちゃぐちゃに切り刻んだからそのことに気づかず、メアリは何とか逃げおおせることが出来る。そしてアバーラインはもちろん彼女のもとに行きたいのだけれど、そうしたら彼女が生きていることがバレてしまって、彼らによって絶対に殺されてしまう。それが判っているから、アバーラインは動くことが出来ないのだ。そして彼女を永遠に守るためのように、そして彼女を永遠に振り切るためのように、ほどなくしてアバーラインはアヘンに耽溺したまま静かに息を引き取る。その手には天国への船賃の銅貨がしっかりと握られていて、アバーラインの相棒、ゴッドレイはそれをつむらせた彼の目の上にのせてやる。その銅貨が大写しになる。ああ、英国女王の浮き彫りだ……なんと言う皮肉!

このアバーラインの相棒がすっごくヨイ。始終仏頂面で何考えてんのかわかんないようなアバーラインの心を唯一読み取ることが出来るような、ふとっちょの部下。アヘンで前後不覚になっているアバーラインを起こすのはいつも彼の役目で、彼だからこそ、アバーラインを往復ビンタしても許されるのだ。彼女の元に行かなくていいんですか、行きたいと思っているんでしょう?なんてアバーラインに聞けるのも、彼のみ。そしてその彼にだけ、アバーラインも彼女への思いを正直に吐露することが出来る。愛しているからこそ、行けない、と……。

原題そのままのタイトルが邦題としてはちょっとヨワいかなあ。もちろん、内容の重要なキーワードではあるんだけど。ミステリファンは、タイムマシンがあったなら、きっと切り裂きジャックは誰なのか、真相は何なのかを絶対、それによって確かめたいと思うんだろうな。だって、これって完全犯罪だものね。完全犯罪はありえないっていうけれど、こんな風にタイムマシンがあったなら、と思うような完全犯罪って、世界にきっといくらだってあるんだもの……。 ★★★☆☆


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