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「と」


2003年鑑賞作品

トゥー・ウィークス・ノーティスTWO WEEKS NOTICE
2002年 101分 アメリカ カラー
監督:マーク・ローレンス 脚本:マーク・ローレンス
撮影:ラズロ・コバックス 音楽:ジョン・パウエル
出演:サンドラ・ブロック/ヒュー・グラント/アリシア・ウィット/デイナ・アイビー/ロバート・クライン/ヘザー・バーンズ/デイビッド・ヘイグ/ドリアン・ミシック/ジョナサン・ドクシッツ/イレイダ・ポランコ/シャロン・ウィルキンズ/マイク・ピアッツァ/ドナルド・トランプ/ノラ・ジョーンズ


2003/6/6/金 劇場(有楽町日劇PLEX)
ちょっと忙しくて心も身体もしんどくなってくると、こういうラクそうな映画を観たくなるのである。実際、この手の映画を観るのは久しぶりのような気もする。というより、わりとひと昔前はこの手の映画の傑作が色々と生みだされたけれど、そのあとはどうも二番煎じというか、キャストも雰囲気も似たような映画がぞろぞろと作られるものの、どうも決定打に欠けるというか。いや、ちゃんと観ているわけじゃないから、決定打に欠けそうだなー、と思っているに過ぎないんだけど。

本作も、ヒュー・グラント、サンドラ・ブロック、という時点で、そんな“似たような雰囲気”はアリアリで、よっぽどピンと来なければパスしてしまうんだけど、ま、そんなわけでちょいと疲れていたので……。ヒュー・グラント、ロマコメが似合うのは結構なんだけど、パッケージ的にあまりにも似すぎているのはちょっと問題かな?さしもの彼も少々年が気になってきて、それは前にもましてお目々が垂れ下がってきて、前にもまして笑いじわが顔全面に出てきているあたり、なんだけど……そりゃまあ、いつまでも好青年ではいられないし、実際今回の役柄も、経済界の実力者であり、セレブ。いや、実力者、というのは、違うな。実力者は強いて言えば彼のお兄さんで、弟であるジョージはハンサムな外見を生かして?の広告塔。ジョージが、実力はともあれ女性の顧問弁護士ばかり雇うのは、そんなマジメなお兄さんが女性をイヤがることへの、ささやかな抵抗、である。ま、もちろん男だから、多少(どころか大いに)スケベ心も働いているんだけど、心の底では頼れるパートナーを望んでいたのだ。

ということを彼が気づいたのは、ルーシーと出会ったから。二人は本当に正反対の世界に住んでいて、ことにルーシーの方は、彼のようなお金持ちが財にあかせて非人道的なことをするのと戦う熱血正義感弁護士、だったわけだから、それこそ彼とどうにかなるなんて、いやそれ以前に彼の元で働くなんて、まさしくありえないことだったのだ。だから最初は、このジョージに歴史的建造物を残すよう談判するために押しかけたのであり、それを女性弁護士を募集していたジョージはアッケラカンと勘違い、勘違いが解けた後も、このルーシーがハーバード大卒の弁護士だと知って、強引にスカウトする。君のやりたい慈善事業だって、自分のところにくれば大金を自由に動かして、できるのだと。ルーシーは逡巡するも、自分の理想的な社会をかなえるためにそれもまた一案だと、彼の顧問弁護士になるんだけど、このヘタレセレブときたら、頼りがいのある彼女にいちいちベッタリで、マットレスからネクタイや靴下の種類までお伺いを立て、果ては自分の離婚調停の弁護までやらせる。自分のやりたかったことはこんなことじゃない、とキレたルーシーは「あと二週間後に辞める!(トゥー・ウィークス・ノーティス)」と宣言するんだけど……。

毎回おんなじことを言っている気がするけど、ほっんとに、こういう投げっぱなしの邦題はやめてほしいのよね。「キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン」もヒドかったけど、あれはまだちょっと考えればまあ意味が汲み取れたから。だけど、「トゥー・ウィークス・ノーティス」……劇中の会話で出てきて、あ、そうなんだとは思うけど、本当にこれじゃ、英語が判らんバカな私にはなんのこっちゃ全然判らない。
それにしても本作、「ブリジット・ジョーンズの日記」よりもヒットしたというのはちょっと理解に苦しむ?この物語が逆マイ・フェア・レディと評され、つまりは今まで色んな映画でさんざんあったように、男によって女が洗練されていく、んじゃなくて、強い女によって弱い男が育てられていく、というこのあたりに、アメリカのウーマン・リヴが反応したのかしらん(ウーマン・リヴ、だなんて、もはや死語かしらね)。そう考えれば確かにナットクかも?

もちろん、このヒロイン、ルーシーだって、強いばかりじゃない。完璧主義が強すぎて、弱さを見せられない弱さ、とでもいった、屈折したネガを持っている。本当は嫉妬しているのに、本当は泣きたいのに、本当は……そんなものを上手く隠すことさえ出来なくて、そのことに自分で驚いて、友達の元に泣きに駆け込んだりする。全体としてはコメディで、これだけ大人の話でありながら相当にアクティブに弾けている分、そうした落ちる部分がとても対照的に映る。ルーシーに泣きつかれた友達、普段はダンナといつでも行動を共にするラブラブ夫婦なんだけど、この時ばかりは窓から覗き込むダンナに、「あなたに関係ないこともあるのよ!」と突っぱねるところが、女の友情の甘酸っぱさで、いいんだよなあ。

それになんといっても、このルーシーが、つまりはサンドラ・ブロックが、決して美女じゃないところが、いい。美女じゃ……ないよね?ちょっとゴツイ顔してるし。そこが彼女の誰にも譲れない個性なのだ。なるほど、ほこりまみれになって環境活動に奮闘したり、カチッとした格好でオフィスの中を颯爽と歩いたり、その双方が似合うのは、美女ではなくて一生懸命と真面目と男っぽさが似合う彼女のような女なのだ。だってこれを、例えばキャメロン・ディアスでは、ダメでしょ、やっぱり。ま、それはそれなりに可愛いと思うけど。でも嫉妬でついつい食べ過ぎちゃって「あの最後のドッグがいけなかったんだわ」と車の中で悶絶し、ついには渋滞の中、今にもモレそうな彼女をジョージがかついでトレーラーまで走る、なんてことは、やっぱりサンドラ・ブロックだから、どっかついつい想像できちゃうあたりの親近感?しっかしこれ、もうダメ、限界、とか言ってるから吐きたいのかと思ったら、おいおい、下かよ!いくら役者とはいえ?曲がりなりにもハリウッド女優に「どうしよう、止まらない!」(どわッ)ゲ○ピーを演じさせるとはー!いや、これ、サンドラ自身がプロデュースしている作品だから、彼女がやりたいって言ったのかなあ、言いそうだな、確かに、サンドラなら。

二週間でやめる、と言ったルーシーの後釜として、登場したのが若くて美しいジューン。あんなに辞めたがっていたルーシーなんだけど、それこそあんなにルーシーを引き止めていたジョージがこの若い女の子にあっという間に鼻の下をのばすのを見て、ジューンに対して強烈なライバル心を燃やす。なぜか仕事とは関係のないテニスに至ってまで……ミックスダブルスのはずなのに、ルーシーとジューンのシングルス状態に打ち合うあの場面は、ジューンの打ったボールがルーシーのおでこにヒットするオチまで実に笑える。んで、そのあとルーシーはクッキーひと袋にドッグを二本、とヤケ食いして、あのゲ○ピー状態に陥るわけだ。

ルーシーにはグリーンピースの活動に従事していた恋人がいたんだけれど、それもこの騒動の中で破局。もともと、理想を共にする同志としての相手で、ルーシーは今まで本当に恋をしたことなど、なかったのだ。それは、ルーシー自身にも、判っていた。ジョージのクルーズ船でヤケ酒をあおり、カラミまくるルーシーの、いやサンドラの、プレッツェルだのワイルドキャットだのと豪語して身体をくねらせ、セクシー光線を浴びせまくる酒癖の悪さが、イイわ。しかも挙句の果てには大いびき。「蓄膿症らしい」とジョージが呆然と彼女を見下ろす場面に大笑い。

それにしても男というのは本当にアホなものよ。あのぴちぴちジューンに言い寄られてあっさり「ヌードチェス」に興じるジョージのナサケナさ。その場面をルーシーに見られて、でここでルーシーは本格的に動揺して、本格的に……ジョージへの思いに、自分が否定し続けていた気持ちに、否応なく対峙させられることになる。でも、古い公民館を残すために奔走していたのに、それもビッグマネーの下であっさり約束を破られ、好きになってはいけない男を好きになったんだ、と今度は本当の失恋の奈落に沈む。しかも送別会の席でジューンと大ゲンカして、「苦楽を共にしたホチキス」を取り合う醜態をさらす。最後まで踏んだり蹴ったりのルーシーだったんだけど……。

ルーシーの新しい職場にジョージが訪ねてきて、「君にチェックしてほしい」と読み上げる着工式でのスピーチは、ルーシーに出会ったこと、彼女への思い、そしてそんな彼女にうたれて公民館を残すことにした、という感動的なもの。意地っ張りのルーシーは「……仕事に戻るから」とジョージを追い返すのだけれど、涙で鼻を鳴らしながら「……完璧なスピーチだと思わない?」と問うと、彼女のところに相談にきていたお客はもらい泣きし、同僚は「そう思うなら、なぜ追いかけないの?」と、ルーシーは猛然とダッシュ!外に飛び出し、ジョージを見つけて、短距離ランナーのごとく突進し、ガバと抱きつく。キスしようとするルーシーに、「僕はもうお金持ちじゃないんだ。会社をやめた」と告白するも、最初っからお金なんかにキョーミのないルーシーは「私たち、同じ職場にいなければ上手くいくわ」。

ここでキスしてハッピーエンド、なんだけど、クレジットの後に粋なオマケが付け加えられている。今までは贅沢なホテル暮らしだったジョージが、ルーシーの家を訪れ、そのあまりの狭さに「端から端まで6歩で歩ける」と廊下を行ったり来たり。そんなジョージに苦笑しながらルーシー、いつもの中華のデリバリーを、今度は二人分、注文するのだ。今まではメニューの番号と、ひとり分、それが本当に孤独を感じさせたんだけど、それが二人分になっただけで、そして「端から端まで6歩」が加えられただけで、二人の距離がぐっと縮まったのを感じさせるのだ。豪華なホテルの部屋は確かに素敵だけれど、その広い空間では、親密な空気も薄まってしまうものね。

意外に……こんなに高い声だったっけ?サンドラ・ブロック。何かハスキーボイスを出しそうな外見だから、これが意外に可愛らしいのよね。離婚調停の場面で「トンデモナイ」なんて日本語が飛び出したり、チェスよりもっと好きなものがある、と言うジューンにジョージが真顔で「ポケモン?」と尋ねたり。今までハリウッド映画の中に織り込まれる日本の描写には大抵??だったけど、本作では結構絶妙なのも、マル。★★★☆☆


東京ゴッドファーザーズ
2003年 90分 日本 カラー
監督:今敏 脚本:信本敬子 今敏
撮影:音楽:鈴木慶一/ムーンライダース
声の出演:江守徹 梅垣義明 岡本綾 飯塚昭三 加藤精三 石丸博也 槐柳二 屋良有作 寺瀬今日子 大塚明夫 小山力也 こおろぎさとみ 柴田理恵 矢原加奈子 犬山犬子

2003/11/11/火 劇場(シネセゾン渋谷)
街の看板やトラックの車体にオープニングクレジットを記していくというシャレた滑り出しから既に、大人のための世界だな、と思う。今監督はいつでもそうだけれど、アニメが子供のためのもの、という日本(だけじゃないか)の悪しき伝統をきれいに取り払ってくれる。これは、大人のためのアニメーション。今回は、特に。前作、前々作は確かにアニメーションならではの壊れ系、とでもいう世界だったけれど、今回はドラマである。SFでもなくファンタジーでもない、真っ向勝負の現代ドラマ。

でもそれでいて、もちろんアニメーションならではのことを忘れることはない。恐ろしいほどのリアリティが際立つのは、その“ならでは”があってこそなのだ。それはアニメーションが出来る表現というだけではなくて、今回は特に展開の部分についてである。次々と起こる偶然、めぐり合わせ。キヨコという同じ名前がいろんな人についてくる。車の下敷きになっていたおっさんを助けたら、行った先の結婚式の新郎がギンちゃんの仇相手。ギンちゃんがケガをして運び込まれる店に、彼を探していたハナさんが飛び込んでくる。赤ちゃんの親探しをしている時にミユキが見つけた新聞の束の一番上に、自分を探している親の広告が載っている。……エトセトラ、エトセトラ。どんどんつながっていく“ご都合主義”も、アニメだと不思議にリアリティになるのだ。そして美しい。偶然って、美しいものだったのだな、と思う。

極彩色のアニメばかりを見せられてきたから、この暗い色合いは戸惑うけれども、次第にこれこそが落ち着いて見られることが判ってくる。そして何より、登場人物たちがちゃんと日本人の顔をしている。時々コワイほどに。もしかしたら、華やかな実写のスター映画よりも日本人の顔をしているんじゃないかって思う。
しかし一方でものすごく表情が伸びやか。ここは勿論アニメーションの独壇場だ。こういうバランスの良さがいいのだ。ここにまでリアリティを追求していたら、作品全体が硬くなってしまっていたと思う。今監督にとってのアニメーションとは、単にアニメーションではなく、無限の可能性のあるツールなのだ。
汚い裏路地までを細密に映し出す東京世界。確かに、東京って一つのワールドだ。冷たいし、暖かいし、暗いし、明るい。明るさはウソくさくて、ネガが多いんだけど、ちょっとだけ、本当がある。そのちょっとだけが、奇跡というヤツなのかもしれない。

第一、ホームレスが主人公の映画なんて、そうない。実写だってアニメだって考えられない。冬を舞台にすると清潔感が生まれて、ホームレス云々ということが不思議と気にならなくなるんだけれど、それでも劇中では彼らが街の人たちから煙たがられる様子をきちんと描く。きちんと……むしろ残酷なほどに。ホームレス狩りとも言うべき若者のゲーム感覚の暴力は、現代で折々聞く事件そのままで目を覆いたくなり、しかし不思議ともっと心にグサリとくるのは、彼らに浴びせられる冷たい、あるいは慇懃無礼な言葉の方なのだ。相手にしていない。自分たちはお前らとは違うのだという色がありありと映る冷たい言葉。しかしこれもまた伏線で、赤ちゃんの親探しに奔走するハナさんが倒れてしまい、担ぎこまれた病院でギンちゃんが医者から言われる言葉は、一見突き放して冷たく思えるんだけれど、違うのだ。何が違うのか……同じ人間同士として話をしているということ。医者としてやることしか出来ないことをシビアに告げる医者。出来ないことは言わない。うわべだけの同情も言わない。医者としてベストを尽くし、患者さん側もベストを尽くすしかないんだと。この医者はギンちゃんの娘さんであるキヨコの結婚相手、である。ここにも美しい偶然がある。

ちょっと、勇み足してしまった。まずは基本のキャラと展開を書かなくちゃ。三人のホームレスがいる。もこもこ重ね着した真冬のホームレス。ギンちゃんと呼ばれる老けて見えるけれどどうやら40そこそこらしい男性。彼よりはもうちょっと年上なのかな?まあいわゆるオカマさんであるハナさん。この二人はホームレスのベテラン。そしてここに新入りみたいな形でミユキという少女。つい最近、家出をしてきて二人に世話してもらっている。おんぶにだっこの状態なのに、態度はでかくていつもブータレている少女。
この三人の声はそれぞれに印象的なのだけれど、その中でもミユキを演じる岡本綾はオッと思わせる上手さ。ブータレた女の子を声で演じる、ということは、地味で平坦なトーンになりそうなものなのに、“生き生きとしたブータレ”を表現していて、実にイイ。彼女は意外にヤルかも。「あずみ」でも上戸彩より良かったしな、などと思う。

ゴミ捨て場に捨てられていた赤ちゃんを、ハナさんは自分たちで育てよう、と言う。女になれないハナさんにとって、母親になることは長年の夢だったのだ。ギンちゃんは「ホームレスが親になんてなれるわけないだろ」とつっぱね、ミユキは赤ちゃんの泣き声にウンザリ気味。
クリスマスの晩に見出されたこの赤ちゃんにハナさんはキヨコ、という名前をつける。きよしこの夜、のキヨコ。ならばこの赤ちゃんの親を探し出そうという展開に、三人それぞれの事情が絡まりあってゆく。過去が洗い出され、後ろ向きになっていた未来を連れてくる。
赤ちゃんは、赤ちゃんってだけで存在価値があるんじゃないかなと思う。
彼らは親探しをしているけれど、でも、親の存在なんてこの時点ではどうでもいいのだ。
赤ちゃんであるだけで奇跡。
人間は時間をのみこむほどに、家族の、血のつながりを欲する寂しい人間になっていく、のかもしれない、などと思う。

でも、寂しさという感情もまた、美しいものだと思う。寂しさは愛を連れてくる。つまりは愛も欲なのだけれど、人間の持つどうしようもない欲なのだけれど、でもそれはなぜこんな風に胸を締めつけられるのだろう。
親が自分のことを見てくれないイラ立ちに、父親を刺してしまったミユキ。彼女は家を飛び出す。
父親の職業は警察官。自分が犯罪者になったこと、それを捕まえる立場である父親。家族から拒絶されることが、家族でなくなることがミユキは怖かったのだ。親なんか、家族なんかと言いながら、本当の家族でも愛されない子供だっている、などと言いながら、本当に愛されていないのかもしれないことを確かめることが怖かったのだ。
でも、愛されていないはずなんてない。
ハナさんの言うように、子供を思わない親なんていない。そして子供もまたしかり。ミユキはああ言いながらどうしようもなく家族を愛しているのだから。
自分を探す新聞広告を見つけて、家に電話するミユキ。でも呼吸困難みたいになって何も言えずに、電話を切ってしまうミユキ。
でも大丈夫、最後には幸せな結末が待っているのだ。

父親を刺してしまった回想場面では、ミユキってばちょっとデブチン。しかしこのホームレス生活でフツウの女の子程度に体型を回復している。何だか皮肉なダイエット。しかしデブでブータレがただのブータレになって、そしてこの数日間の奇跡で、彼女は人の痛みが判る大人へと成長してゆく。そうするとだんだんと彼女、可愛くなってくるのだ。
なんというか……やっぱりただただ与えられた、恵まれた生活をしていると、本当は元からあったものに気付かないのかもしれない。ミユキには最初からちゃんと愛は与えられていた。でもそれが見えなかっただけ。

ハナさんには家族が語られることはない。赤ちゃんを欲しがり、一番家族の愛を語る彼女は、天涯孤独なのか……困って飛び込む先は、自分が元勤めていたオカマバー。そこのマダムをママ、と呼ぶけれど、当然本当の母親であるわけがない。
でも、このゴツイママは(ハナさんよりはゴツくないけど)本当の母親みたいにハナさんを心配する。いつでも戻っておいでと言い、旅立つ彼女に“ちょっと早いお年玉”をくれる。号泣するハナさんにもらい泣きしてしまう。
血のつながりも大事だけれど、こんな風に擬似家族といえる関係にも、ホンモノに負けない愛があふれている。
そこが人間の、数少ない素晴らしいところなのだ。

ギンちゃんが最初のうち語っている美談は実はホラである。才能のある競輪選手だったというのも、難病の子供を亡くしたというのも、そのあと妻があとを追うように死んでしまったというのも、全てホラ。実際は単にギャンブルで身を持ち崩した男なのだ。彼は、怖かった。家族に会うのが。ただただ迷惑をかけただけだから。会ったら拒絶されると、家族であることを否定されると思っていたに違いない。彼もまたミユキとまるで同じなのだ。ミユキのことを聞き分けのないガキのように言いながら、自分はもっともっと、何年も家族から逃げ続けていた。
しかし成長し、看護婦となった娘と偶然ギンちゃんは再会する。とても聡明な美しい娘になっている。娘のキヨコはそんな父親でも会いたかったと、母親とずいぶん探したと言う。感動の再会に、借金を押し付けて逃げたヒドイ男だと、悪口雑言をワザとけしかけるようにハナさんはぶちまけ、プイとその場を去ってしまう。何でそんなひどいことを言うの、と追ってきたミユキに言われたハナさんは、ニッコリと笑ってこう言うのだ。「それでも離れないなら、ホンモノでしょ」ハナさんが大好きだという赤鬼の話。親友の青鬼が赤鬼のために憎まれ役になった、あの哀しい話だ。私も大好き、あの話。哀しいけど、とてつもなく哀しいけど、とても美しい話だから。ハナさんは、青鬼になるのが夢だったのだ。それにギンちゃんのことが好きだから……胸がつまる。

「ろくでなし」を歌う歌姫だったハナさん。赤ちゃんを欲しがったハナさん。お母さんになりたかったハナさん。
子供を持つことを許されない→家族を持つことを許されない→人間であることを許されない。ホームレスにオカマさんの価値観が重なり合う。

ついに赤ちゃんの親を見つけた、と思いきや、それはニセの母親。子供を流産したことで錯乱した女が、赤ちゃんを連れ去ったのだ。そしてその女の夫が赤ちゃんを、捨てた。このニセの母親に赤ちゃんを渡してしまったことに気付いた三人は猛然とそのあとを追う。すさまじい追っかけっこ。すさまじいカーチェイス。このあたりはさすがアニメーションの独壇場で、しかしアニメーション風の逸脱をすることが意外にもない。逸脱しそうな場面なのに。そういうところが生々しくリアル。
“逸脱”しているのは次の場面である。飛び降りようとした女を三人が次々連なって助ける不可能アクション。
なるほど、“逸脱”はここでなきゃ、いけないんである。だってここは、“奇跡”なのだもの。クリスマスが生み出す美しい奇跡。投げ出された赤ちゃんを救おうと飛び込むハナさんが、風にあおられた垂れ幕をつかんで天使のようにキラキラと舞う。赤ちゃんを抱いて。ハナさん、お母さんだよ、マリアさまみたい。「マリア様だって処女懐胎したんだから」と奇跡を主張していたハナさん。確かに奇跡。このスローモーションが感動的。

助けてくれた三人に赤ちゃんの名付け親になってほしい、という本物の方の赤ちゃんの両親。まず間違いなく、キヨコの名前を進呈するだろう。ハナさんにとっては夢の名付け“親”。本当にちゃんと、親になれたじゃないって、本当に思う。

クリスマス。雪。一面の雪に初めてつける足跡。光のペイジェント。別にクリスチャンじゃないけれど、神様を信じたくなる。キッチュな日本語の第九で彩られるエンディングに笑いながら幸せにひたる。大当たりの宝くじに、彼らはいつ気付くのかな。
「34丁目の奇跡」を思い出すような後味。暗い色の中だからこそ、暖かな幸せがキラキラと光るのだ。★★★★☆


トーク・トゥ・ハーTALK TO HER
2002年 113分 スペイン カラー
監督:ペドロ・アルモドバル 脚本:ペドロ・アルモドバル
撮影:ハビエル・アギーレサロベ 音楽:アルベルト・イグレシアス
出演:レオノール・ワトリング/ハビエル・カマラ/ダリオ・グランディネッティ/ロサリオ・フローレス/フェラルディン・チャップリン/パス・ベガ/ピナ・バウシュ.カエターノ・ヴェローゾ

2003/8/7/木 劇場(銀座テアトルシネマ)
これは、手ごわい、と思った。いい映画だとか、感動するとか、そんなこと簡単に言えない。おすぎさんがあんなに泣く、泣く、と言っていたので泣きの映画なんだと思っていたところが、そんなものではなかった。いや、そんなレヴェルではなかった。アルモドバル作品を観ると、愛の難しさにいつも引き戻される。愛は、そんな単純なものではないと判っていても、通常それは結婚とかセックスとか彼と彼女とか、まあもうちょっと広げてせいぜい親子とか、そんな程度にしかとらえていない、そのある意味無責任さに、引きずり落とされるのだ、彼の映画を観ると。私は何ひとつ愛など知ってはいないではないかと。

題材も、ストーリーもまるで違うのだけれど、前作「オール・アバウト・マイ・マザー」で感じたひとつの答え、根源的なことが同じだったことに気づく。すべての男は母親の息子であるということ。それが「オール……」では女の側から語られていたのが、今回は男の側からの物語である。女は強く、男はもろい。やはり彼の視点はそこなのだな、と感じる。その意味で、「オール……」と本作は二つで一つのセットのような、合わせ鏡のような作品のように感じる。本当に、全く違う映画なのだけれど。

昏睡する二人の女性。その女性をそれぞれ愛している二人の男。看護士として4年の長き間愛する彼女、アリシアを世話している看護士、ベニグノと、牛の角に貫かれた女闘牛士リディアの恋人であるマルコ。マルコに関しては、この恋人、という地位は早々に追われることになる。彼女の元恋人が、事故の直前にヨリを戻していたと聞いたから。マルコは昏睡状態に陥ってからのリディアに触れることが出来なかった。一方、ベニグノはアリシアの恋人ではない。彼は彼女に片想いしていて、はっきりとその想いを告げる前に彼女は事故にあってしまった。ベニグノはまるで信頼し合っている恋人同士のようにアリシアを献身的に介護する。ある事件が起こるまで……。

私達が普段一般的に認識している“愛”というのは、双方向性の愛だ。自分の持っている愛という感情が相手に届いていて、相手も同程度の愛を返してくれて、初めて愛が成立する、と思っている。でもそれはひと握りの、とても幸せな人たちにとっての愛だ。まず、お互い同程度の愛なんて存在するかどうか確かめようもないし、実際ないのではないかとさえ思うし、自分の抱えている愛は行き場を失っていて、それは外から見れば愛とは呼ばれないもの、なのだとしたら、愛を持てない人たちで、世界はあふれているのだ。でも、と思う。愛は単体で充分愛なのではないか。単体でも愛を持っているだけで、人は幸せなのではないかと。

マルコはごく一般的常識に生きる人間。双方向でなければ愛ではないと思っている。だからリディアが事故にあって植物状態になった時、彼の愛は行き場を失い、愛を失ったと思い込む。そして彼女の元恋人から彼女が自分を捨てたことを聞かされ、彼の愛は存在価値さえ失ってしまうのだ。しかし、ベニグノは違う。彼は自分が愛していれば、それだけで愛なのだと思っている。いや、それが愛だと判っている。意識のないアリシアへの想いがつのり、彼女と結婚したいと願う。それをマルコは、一方的な想いなど愛ではないと諭しにかかる。植物に話し掛けるのは自由だけれど、結婚しようだなんて、異様だと。そしてそれは、私たち“一般的常識人”は大抵マルコのように思っているのだけれど、果たしてそうなのだろうか。

ベニグノのアリシアへの、こんな風に見返りを求めない無償の愛は本当に純粋で、こんな風に愛されたらと思うけれど、彼が彼女を本当に女性として愛していたのかと思うと、マルコとは全く違う方向での疑問や不安が生じてくる。確かに、ベニグノはアリシアを愛していたに違いない。そして罪を犯した。意識のないアリシアをレイプし、彼女を妊娠させてしまった。その事実はあまりにショックで、女にとってはとても、どうしても許せないことなのだけれど、彼のその行為が、彼女に対しての性的欲望とはなぜか、どうも思えないのだ。彼はその行為に及ぶ前に、一本のサイレント映画を観ている。「縮みゆく男」というその作品は、身体が縮んでゆくクスリを飲んでしまった男が、その恋人である女の膣から中に入っていく、という奇想天外な物語。ふっくらとした乳房によじのぼったり、ヘアにふちどられぱっくりと割れている局部に身体全体を差し込んだりと、コミカルとエロティックが強烈なオリジナル劇中映画。ベニグノはその映画に非常に心を動かされた、と眠り続けるアリシアに語りかける。そしてその後、アリシアの妊娠が発覚するのだ。

アリシアと出会う前、“怠惰な”母親の看護を長年続けてきたベニグノ。アリシアの父親は精神科医で、彼女に会いたいがために受診した彼は、母親との関係をこの医者に語っている。そしてアリシアの世話をするようになってから、このアリシアの父から“性的嗜好”を聞かれ、男性に惹かれる、と“ウソ”を言う。しかし本当にウソだったのだろうかと思う。冒頭、ピナ・バウシュの感動的な前衛舞踊を観にきていたベニグノ、隣に座って涙を流していたマルコを目に止め、アリシアに「ハンサムな男性がいた」と真っ先に報告している。母親の看護をしていた時、窓からアリシアを見つめ続けていたベニグノだけれども、ベティちゃんのTシャツを着ていたりするのが何となく気になる。それに、マルコと結ぶ友情は深く……愛情と言い換えないのが不自然なほどに深い。見ているだけで、胸が熱くなってしまうほど。そして、ベニグノの風貌は、こういうことを言うとマズいのかもしれないけれど……一見してゲイを感じさせる。ということを判ってて、アルモドバル監督はキャスティングしたに違いない、と思うのだけれど。

ならば、ベニグノのアリシアへの想いは何だったのか。確かに女性への思慕の念もあったとは思うのだけれど、そこにはやはり母親の影が見え隠れしているような気がして仕方ないのだ。家族を捨てて出て行ってしまった父親への反発、看護士や美容、ネイルケアの勉強もすべて母親のために身につけ、外の世界をまるで知らずに育った彼が、その母親を失ってしまった。母親が生き続けていればあるいは、アリシアを普通に女性として愛せていたのかもしれない。でも母親が死に、アリシアをかつての母親のように看護するチャンスを与えられた彼が、彼女に母親の影を重ねなかったとはどうしても思えない。

ただ……長年母親を看護していたベニグノが、美容やネイルに至るまで母親のために修得していた、というのは、家族における母親としてだけ考えるにはどうしても不自然で、ベニグノの中では母親と女性というのはイコールだったのでは、と思う。全く違和感なく、その二つが溶け込んでいたのではないかと。男女間の愛と、親子の愛、どっちを優先するかなどとモメている社会の現実において、ベニグノのこうした境界線のない、そして打算のない愛はある意味理想的ではある。あくまで、ある意味。こうした限られた条件においてのみ、だけれども。

彼の、アリシアと結婚したいという思いは、彼女と家族になりたいという、そちらの愛だったのではないか。あの映画を語っていた時、ベニグノは「彼は彼女の中に入るんだ」と言った。あの描写は確かにエロティックではあったけれど、男の身体そのものが彼女の中に入っていくというのは、セックス以上にダイレクトに、女が相手の男の分身としての子供を孕むイメージを与えた。あのサイレント映画から彼が得たのは性的欲望ではなく、彼女の中に入っていくことこそが、つまり彼女の息子になることが彼の願いだったのではないか。だから、彼女がその子供を死産したと知った時彼は「最悪だ」と絶望した。自分が拒絶されたのと同じだから。その子供の死は自分の死だから。でも、「アリシアが無事だったのは良かった」と言ったベニグノは、自分の命の代わりにアリシアが生きたと、だからもう充分だと思ったのではないのか。

マルコは、アリシアが目覚めたことをベニグノに告げなかった。ウソはつくな、と信頼してくれているベニグノにあれほど言われたのに。マルコはきっとそのことを生涯後悔するだろうと思うけれど、でもこんな風に考えると、確かにベニグノはアリシアが目覚めたことを知っているはずはないんだけれども、でも自分が命を与えたと、だから彼女がよみがえることをどこかで察知していたんじゃないかと、だから死を選べたんじゃないかとも思う。でも一方で、彼が本当に死ぬ気だったのか、彼女と同じ世界に行く、と書き残した彼は、彼女と同じように昏睡状態に陥ろうと、そしてその世界で彼女に会いたいと思っていたのか、とも思う。でも、とにかく、彼が彼女に命を与えたのだ、と思った時点で、いや思ったというより、それは確かに事実なのだから、もうここで双方向の愛は成立しているのだ。目覚めたアリシアがたとえ何ひとつ教えられることがなくても。彼女が生きているという事実こそが、双方向の愛を示しているのだ。単体の愛だけではなく、双方向の愛を得て、ベニグノは死んだ。幸せな死だったと、思いたい。

でも、一方で、女の強さと男のもろさを感じるのもここ。子供を死産して、アリシアは生き返った。そしてベニグノは死んだ。女は一人でも生きていけるけれど、男は……などと思ってしまう。死産したとはいえ、母親になって、目覚めたアリシア→女の強さを思う。母親に死なれ、母親(アリシア)に殺され、そして(二人の)母親を変わらずに愛したまま死んだベニグノを思う。
でも、ベニグノは本当にアリシアをレイプしたのだろうか、などと、この期に及んで思ったりもする。ベニグノのサイレント映画から得たイメージは観念的に昇華していて、具体的で肉体的な“レイプ”がどうもイメージできないのだ。確かにアリシアは非常に美しくて、ベニグノが隅々まで、これはハッキリ愛撫である丁寧なマッサージを行うその身体は、寝ていてもふっくらと形よく盛り上がった乳房や、なめらかなウェストライン、すべすべとした太もも、ベニグノによって美しく施されたヘアメイクに至るまで、完璧に、まさに目を見張る“眠れる美女”だ。でも、院長(?)が「君がアリシアを傷つけるわけがない」と言ったことや、マルコがベニグノを“無実だ”と言ったこともそんな風に思わせる原因ではあるのだけれど……。どこかファンタジックな色のある本作、ベニグノの、そんな念が、アリシアの中に入っていった、なんて考えるのは、それはあまりに“おとぎばなし”に過ぎるのだろうか。

マルコは、どうだろうか。彼のリディアに対する思いは、彼女から真相を聞かないまま空回りし、リディアはそのまま何も語らずに死んでしまった。マルコはリディアの気持ちをくんでやることが出来なかった。自分の思い込みで彼女の言葉をさえぎってばかりいた。本当にリディアを愛していたのか。あるいはリディアは本当に元彼とヨリを戻していたのか。彼女のあの時の涙は……今となっては判らない。私はでも、元彼がああ言っていても、彼女は本当はマルコを愛していて、彼の気持ちをはっきりと確かめたいと思っていたんじゃないかと、そう思いたくて仕方がないのだ。昏睡状態に陥って、マルコが自分に触れてくれなくて、そして自分のことを信じてくれなくて、そして絶望して死んでしまった、だなんて考えるのは、それこそ“おとぎばなし”に過ぎるのだろうけれど……。

天才舞踊家、ピナ・バウシュのステージが、非常に内省的に感情をいっぱいにはらんで、印象的にいろどってゆく。冒頭の、マルコが涙を流したステージ、もう老女と言える年齢の二人の女性ダンサーが、体の線がハッキリ見えるスリップ姿で、夢遊状態で、しかし激しく踊り続け、何かそれは、壮絶なまでの“女”を感じさせ、このダンサーの動きに必死にくらいつきながら障害物の椅子をどけていく男性とともに、まさにこの後展開される女と男の関係性そのものだ、と思う。老いた女のダンス。老いていても女なのだ。ベニグノと彼の母親の関係を思う。何かあったのでは、などと。ベニグノが本当にアリシアをレイプしてしまったのだとしたら、彼がその行為を、家族の愛のそれだと思っていたのかも……などと。

この季節に、癒しの音楽としてゆったりと流れるボサノヴァが、壮絶な命を表現する側面も持っているのだと気づかされる。そして劇中、泣きたいほど美しい演奏を聴かせるカエターノ・ヴェローゾが本当に素晴らしい。バウシュのダンスとともに、映画が総合芸術だということを、その融合の幸福を最大限に味あわせてくれた。★★★★☆


ドッペルゲンガー
2002年 107分 日本 カラー
監督:黒沢清 脚本:黒沢清 吉澤健
撮影:水口智之 音楽:林祐介
出演:役所広司 永作博美 ユースケ・サンタマリア 柄本明 ダンカン 戸田昌宏 佐藤仁美 鈴木英介

2003/10/28/火 劇場(渋谷シネ・アミューズ)
最近の黒沢映画はどうにもこうにも苦手で、だから本作も相当に二の足を踏んだのだけれど、ドッペルゲンガーというテーマにどうしても抗えないものを感じたのと、NHK「トップランナー」に黒沢監督が出ていたのを見て、あ、大丈夫そう、かも、と思ったのであった。それは、黒沢監督が「役所広司が二人いたら、可笑しいと思わないですか」とさも可笑しそうに、というか嬉しそうに言っていた感じ……なるほど、この人の感覚ってこうなんだ。そう思うと、何か黒沢ワールドのワケワカラナサも素直に楽しめるような気がしてきた。確かにちょっと変わっているというか、まっすぐ王道な感じじゃないんだけど、でもそれを彼自身はとても純粋に、本当に面白いと思っている。そういうプレーンな感覚とねじれの融合が、黒沢監督の面白さだと思えば、何だか、あ、大丈夫、と思えたのだ。

で、大丈夫だった。というよりも、本作はここ最近の作品よりずっと判りやすかったという気もする。確かにこれはホラーなどではない。まず、見せ方に怖がらせようという技術をまるで使っていないし、ドッペルゲンガーという現象自体も、いわゆる本来流布している恐ろしいイメージとは違う解釈をしているから。少なくとも私にとってのドッペルゲンガーのイメージは、こういう生身な感じではない。かといって映像だけ(幻覚)というわけでもないんだけれど、とにかくそれは喋ったりなどは決してせず、ただただ目にして恐ろしい感じ、なのだ。だから、この作品のドッペルはドッペルというよりは、やはり分身(分身とドッペルは激しく違うと思う)、重層した人格のひとつが実体化したような感覚である。分離した、あるいは客観視できるジキルとハイドというか。

ここでのドッペル君は、思いっきり実体化であり、しかも本体とめちゃめちゃ対話もする。つかみ合いもするし、何より人間くさく、全く怖くない。
最初こそこのドッペル君を目にした本体の早崎(ややこしいのでこっちをAとする)は、うろたえ、それは何といってもドッペルゲンガーを目にしたら死ぬと聞いていたから、背を向け、見えないフリをし、自分に言い聞かせるものの、そのうちこのドッペル君(同B)を苦々しく思いながらもパートナーとして共に行動するようになる。
Bに特に異様さを感じる二人の役所さんは結構コワいけど、でも確かにやっぱりどこかこっけいな感じだ。Aが子供のように小さくなっておびえるさまや、AがBに消えろ!と必死に念じるのも全然効果がないところなんか、ちょっと笑ってしまったりもする。
画面を分割して少しずつずらす、独特の方法を使っているのが面白い。絵心があるというか、パズルのような面白さがあり、スタイリッシュ。無理に画面にAとBを存在させようとしないから、合成などということが気にならず、本当にAとBがいるような気分になってくる。もちろん役所さんの演技が上手いからなんだけど。

早崎は医療機器メーカーに勤める技術者。10年前に作った血圧計がヒットを飛ばし、次の作品に期待がかかっているものの、とりかかっている人工人体の開発が思うようにいかず、イライラとした日々を送っている。
この人工人体というのは半身不随になってしまった人のためのもので、車椅子の形状になっており首にとりつけたセンサーから人の意思を汲み取って、両手に見立てたアームを自在に動かすというものだ。
このロボット自体、ドッペルゲンガーの暗示のようである。もう一人の自分、理想の自分、この時点ではそれを上手く扱えないあたりなんか、いかにも。
この人工人体は物語のラスト、ガケから落とされる。そうしたもう一人の自分、理想の自分が形骸化され、必要じゃなくなったことを暗示する。そのときには、もう理想の自分→BはAの中に取り込まれているのだ。

しかし、このロボットの存在はかなりシニカルなものも感じる。だって、半身不随の人のための車椅子ロボット、なのに、Aは障害者のために作ったわけでもなく、商品化して金儲けをするために作ったわけでもないのだから。
ただ自分の達成感のために。この10年のイライラを解消するために。しかしAの中の潜在意識を具現化しているはずであるBはAが嫌悪するそうした、金と名誉と権力と女などということを平気で口にする。そのうちの金と女は自分がもらうというB。
このあたりからAとBの乖離が見えてくるような気がする。BはAに取り込まれた、といったけれど、それは100パーセントではないというか。この台詞を言った直後、BはAによって殺されてしまうのだけれど、どこかBはAをワザと挑発したようにも思えるのだ。本音を引き出すために。
Aが欲しかったもの、それはオルガスムスにも通じるような達成感と、その後の破壊のカタルシスであったように思う。ひょっとしたらノーベル賞ものかもしれなかったこの車椅子をガケから落としてしまうラストに、爽快感を感じるのはそのためではないかと。

BがAに殺される直前、いずれひとつになる、と言っていたB。彼はAに殺されたはず。しかし後半のAにBの口笛のくせなどが見て取れる。それだけではなく、Bを殺した後からAには明らかに性格の変化が見られるのだ。それは一見、今までと比べればの変化。常識ではなく、思うままに行動するという変化。
実は死んだのはAではなくてBなのかと一瞬ギョッとするが、どうもそうではないようである。実体が死に、魂みたいなものがAと融合したというか……。それがBの言っていた「いずれひとつになる」ということだったのか。
AはBに出会わなければ、自分の中のBに一生気づくことなく、終わったのかもしれない。気づかないままならそれでもそれなりの人生だっただろうけれど。
でも、と思う。本当にAは本体だったのだろうかと。ドッペルゲンガーを見たら死ぬ、という概念が貫かれているのだとしたら、ひょっとして、もしかしたらAがBにとってのドッペルゲンガーだったのかもしれない、と。そう思うと、怖くないはずのこの物語も、急にぞわっと感じられるのだ。

Aの早崎に、ドッペルゲンガーの存在と概念を教えるのが、弟のドッペルゲンガーを見てしまい、本体の弟が自殺、その後現れた弟ドッペルとの生活に戸惑う由佳である。
演じる永作博美はベビーフェイスが魅力的で、しかし不思議としっかり大人の男である役所氏との画づらが非常にいい。Bに押し倒される場面などもあって、その時には女の子らしい柔らかなワンピースからのぞく足のチラリズムに、年相応の女の色香も感じる。そしてラスト、Aと共に寄り添って歩いていく姿は、B、そして君島から更にバトンタッチされた本物のパートナーの姿だ。
この由佳が主張していた説が、理想の自分が存在しているのを見て弟は自殺した、というものである。 ドッペルゲンガーは理想の自分。だとしたら、AにとってのBは確かに……。漠とした欲望を実行に移してしまう存在はうらやましいものだったのだ。

それまでのAは開発が上手くいかないことにイラだってキレることはあっても、対外的にはとりあえずは常識的な人間である。しかしそのことがずっと彼を追い詰めていたことは想像に難くない。
無責任に彼に理解を示す周囲へのイライラもつのる。同僚の女性、高野(佐藤仁美)には好意を持ちながらも、好意を持っているということさえ、明瞭に自覚していなかったのかもしれない。
そんなAの目の前で、この高野に手を出すB。
その前にBが研究室をメチャメチャにしたことでAはクビになってしまうのだけれど、その行為だって、そうできたらどんなにスッキリするか、とAが無意識に思っていたことなのだろう。でも、そんなことをやってしまえばどうなるかが判っているから、せいぜいコーヒーカップを投げつけるぐらいしか出来なかったのだ。

Bの言動は常識から考えれば破綻している。自由意志を履き違えているとも言える。
でも、確かに、AにとってはそういうBの迷いのなさは、うらやましいものなのだろうと思う。
しかし、先述したドッペルはAだったのかもしれない説、と考えると、逆にAの常識を踏まえた人間像が、Bにとっての理想の自分だったのかもしれないとも思えなくもない。
Bは金と女は自分がもらう、といった。Aとソックリではあるけれど、技術者としての腕はないらしいB、そしてこの性格じゃ、女を無理くり押し倒すことは出来ても、その心を得ることは難しい。ま、Aの方が確実に女にモテるだろう。実際、高野はAの早崎に好意を持っていたに違いないのだし。

AがBを拒絶したことで、Bは自分の代わりになるパートナーをAにあてがう。それが、「俺たちを見ても驚かないようなバカ」君島。演じるユースケ・サンタマリアは他のキャストより出番が相当遅いわりに、しかも役所氏を相手に、食いまくる、食いまくる。
彼のような人間にはドッペルゲンガーなぞは現れないのでは、と思う。彼には今の自分に嫌悪するような謙虚さはないから。すべて出し切ってしまう、単純バカなのである。
そんな彼が一番不気味だ。信頼している相手にはとことん服従し、裏切られたと知ったら、何の迷いもなく豹変する。豹変、いや違うな。やはり最初から最後まで彼は彼だ。一貫性がある。ありすぎる。曲がらないまま凶行に出る。だから怖いのだ。
でも、マネージャーになる、と君島が言ったとたん、彼を渓流に突き落としてしまうAもかなり不気味だが……。不気味というより、え?という感じ。なぜそんなことをしたのか今ひとつ判らない。その後君島に襲われ、鼻に大きくばんそうこうを貼っている役所氏は、何かジェイソンみたいで更に怖い。
つまり、Aは君島に支配される側になられるのに嫌悪を感じたのだろうか。今までのAだったら嫌悪だけで直に行動を起こすようなことはなかった。ここには既にBの影が入り込んでいる。
Aが望んだ達成感の中には、自分が支配の手綱を握っていることも入っていたのか。
Aが企業の中では出来なかったことが、外ではやれた。君島が、自分がマネージャーをやると言ったとたん、おエライさんに押しつぶされていた会社時代を思い出したのかもしれない。

早崎の同僚である村上は、味わい深い人物。彼には唯一不気味さがない。あの由佳でさえ、何だか後半にはやたらテンションがあがっちゃってて、あるいは妙に落ち着いている時もあったりして、ちょっと不気味になってきたのに、村上は少々暴走はするものの、最後まで割とまっとうな人間である。
彼はトップを抱えて動くのが性にあっている人物。早崎の才能をかっている。早崎が会社をクビになった後、別の理由で村上もまた辞めざるを得なくなったのだけれど、偶然会った早崎に、いつでも金は調達する、と接触してくる。
早崎はそれを断る。誰かの金で動かされることが自分を追い詰めることなのだと気づいたからか。
しかし村上は金を用意し、新潟の医療機器メーカーに売る予定の人工人体を買い取る、とハデな金色の車に乗って迫ってくる。
村上のこの行為は、人工人体に商品価値があるからという風には確かに見えはするのだけれど、何だか違う気もする。意地というか、だって村上は早崎のことを本当にかっていた、好きだったに違いないから。自分を必要としない早崎に、その彼を手伝う奴らに、そして自分がいないまま完成した人工人体に嫉妬したというか。
早崎に説得されて、彼はあっさり改心し、その場を去ってゆく。
しかし直後、一瞬にして村上は走ってきたトラックの下敷きになってしまうのである。まるで人形が倒されるみたいに、あまりの一瞬の出来事に口がアングリである。笑えることじゃないのに、そのあまりの早さにはついつい笑ってしまって、うっ、笑っちゃったよー、とうろたえる。
このあたり、黒沢監督はかなりイジワルって気がする。それこそ観客の中のBを試している気がして。

やっぱり、ひょっとして、もしかしてAがBのドッペルゲンガーだったんじゃないのかなあ……。だとしたら、今ここにこうしている自分も、どこかに本体がいて、その本物の自分にとってのドッペルゲンガーで、その本物に目撃されたら、本物の自分が死に、ニセモノの自分が生き残る、のかもしれない。ニセモノの自分が本物の自分を殺すメタファーは色々と思いついてしまう。何にせよ、強烈にシニカルなメタファーだ。それはニセモノでも自分自身として生き残ることと、どっちが幸福だろうか。★★★☆☆


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