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「あ」


2001年鑑賞作品

I.K.U.
2000年 74分 日本 カラー
監督:シューリー・チェン 脚本:シューリー・チェン+XXX
撮影:嘉本哲也 音楽:The SABOTEN
出演:時任歩 夢野まりあ 佐々木ユメカ 有賀美穂 麻生みゆう TSOUSIE MASH Aja 明智伝鬼 Akira MARGARETTE 


2001/6/12/火 劇場(渋谷シネパレス)
ほとんどイメージの羅列、プロモ・ビデオ風作品かと思ったら、オフィシャルサイトを覗いてみると、驚くほどキャラとストーリーがしっかりとある。うっそお、私そんなにねむねむだったかしらんと(まー、実際眠かったけど)思いつつ、でもこういうのって、最近ありがちかも、とも思う。やたらと複雑な裏設定が実際の作品として全然生かされてない、ていう、マニア(という言葉でくくってしまうのもイヤなんだけど)向けの作品。オフィシャルサイトを見ると、この近未来に至ったまでの歴史的経緯だの、このレプリカントをつくり出した会社の社史だのが驚くほど詳細に記されている。それをどこまで現作品の中に汲み取れるかといったら、すこぶる怪しい。もちろんしっかりした設定があってこそ、多少遊んでも不思議なリアリティが生まれるとかいうことはあるんだろうけど、アホな私にはぜっんぜん判んない。

ロボットではなくレプリカント、と強調するからには、やはりあの「ブレードランナー」あたりを意識しているのだろうか。時代や経済のあおりをくらってスクラップ寸前だったレプリカントを、最初は老人介護産業、そしてセックス産業へと従事させる。彼らにはきちんと人間並みの感情の機微もある、とちらりと、本当にちらりと言及されるのだが、まるでそれを作品全編にわたって否定しているかのように、そこにあらわれるのは、オーガズムデータを採集するためにひたすらセックスを求め続けるレプリカントの姿。といっても見た目はしっかり人間だから、そういう区別が頭の中で働かない。チラシなどの宣材にあらわれているコピーは「This is not LOVE This is SEX」と、マシンであるレプリカントを強調するものになっている。このあたりの意図の錯綜に頭が痛くなってくる。愛、感情、使命、仕事。レプリカントだからこその従順さ、感情のなさとばかりに描いておきながら、しかしこのレプリカントにも感情はあり、一方で人間もまたマシンと同じようなイキモノで、愛より仕事、感情より使命なのではと、ことにセックスにおいてどれだけ感情が本当に働いているのかと、それをこねくり回してもってまわって皮肉っているのか?これは。

ロボットと感情、人間のつくり出した生命?体をテーマとしたものならば、奇しくもほんとにこの間観たばかりの「メトロポリス」がまさしくそうで、しかし本作ではそうしたロボットがどうこうというよりも、このレプリカントが人間そのものの本質、功罪、そんなものを露骨に映し出しているように思えるのだ。感情よりも仕事を優先する、あるいは、プログラムされた本能というものに従うだけのセックス、結局人間なんてそんなもんじゃないの?ていう……。でも、実際そう主張しているのかもしれない、けど、そう思われるのを極力避けたがっているのではないかと感じられるような、ひたすらキッチュでファッショナブルなこの映像世界にいささかの戸惑いをも禁じえないのだが。

特にオフィシャルサイトでその世界観の構築は顕著なんだけれども、この近未来の架空の会社を本当にあるものなのだというバーチャルな感覚を絶対前提として世界が進んでおり、キミョウなまでにコマーシャリズムが横溢しているのだ。最終的にはそれを否定するようなラストにつながっていくのだが、しかしそのラストも幾つかのパターン(実際には2つのみを提示)があり、そのゲーム的感覚がこれまたそうした湿っぽい感情を強引に排除したがっているように思える。でも実際はレプリカントを使い捨てロボットにすることをうれいていたテンマ博士(!)による自己修復機能だとか(それもオナニーによってというんだから、湿っぽいことこの上ない)、すでに用済みにされている先輩レプリカントがそうやって働かされているレプリカント、レイコをピンチになると救い出してくれるとか(この辺は私イマイチわかんなかった)、わりと普遍的な物語の運びなんだけどね。この辺のギャップというか錯綜ぶりが魅力なのかなあ。

それにしても。実際のナマな現物は当然のことながらNGであり(しっかし、あれ、ひょっとしてホンバンかいな)、日本の伝統技術?であるさまざまなモザイク画面が施されているんだけど、CGで作られたペニスは、それがしっかり勃起している形であり、しかもそのファンタジックな色以外はホンモノとみまごうばかりにソノモノなのに、ぜーんぜんそのまんま素通りでOKで、でっかいスクリーンいっぱいにそのでっかいペニスが、しかもヴァギナの中に突っ込まれて動き回っているというイメージ映像をしっかり見せることが可能だというこのバカバカしい矛盾がたまらんね。ほんとに日本ってアホな国だよなー。★★★☆☆


愛欲温泉 美肌のぬめり
1999年 分 日本 カラー
監督:サトウトシキ 脚本:小林政広
撮影: 音楽:
出演:葉月螢 佐々木ユメカ

2001/4/10/火 劇場(中の武蔵野ホール/レイト)
もしかしてサトウトシキ監督は温泉が好きなんだろうか。と、いうより、状況的に温泉というのは成人映画の一つの定番なのかも。「団地妻 不倫でラブラブ」でも叙情溢れる温泉を見せてくれたけど、本作ではもっとうらびれてて、ああもうこれぞ、日本の温泉ぞ!ピカピカの温泉旅館なんかじゃダメッ!ていう、実に実にじっつにイイのよー、この感じが。タイトルが、美肌のぬめりでしょ、ピンクのタイトルはどっかヤッツケみたいな感じがあるけど(だから一般劇場での公開の時にタイトルが変えられちゃったりする)んで、まあこのタイトルも内容とはさして関係はないんだけど、でも葉月螢のあのすいつくようなあの肌に、さびれた温泉の、お湯自体もそうだし、ゆのはなや石や、そうしたものの触感が、すごーく“そういう感じ”なのだ。

冒頭で、そして折々に差し挟まれる山の稜線が筆舌モノの美しさ。奥の山の青と手前の山の黒のコントラスト。シーズンオフにはぱったり人がいなくなるというのも頷ける、シーズンの時にもさして客など来なさそうな小さな温泉町の、小さな温泉宿。ヒロイン、キリコが降り立つ駅もとっても小さくって、駅の周りの商店街も何か非常におざなりな感じ。日本って、大都会と、中都会と、そしてその他の、それぞれのギャップがホント激しいなと思うんだけど、そしてこういうところに暮らしている人たちには失礼だとは思うんだけど(なんて言いつつ、私の血もイナカモノなんだけどさ)、このどこかナゲヤリな、ひっそりというよりはやる気がなさそうな田舎町の風情というのが、凄く、イイんだよね。キリコは父親にレイプされて、その赤ちゃんを産み、さらに関係を迫ろうとした父親を殺して、逃亡の日々を送っている。そしてこの町に来た。そうしたキリコの造形が、このナゲヤリな温泉町の、そして温泉宿の空気にしっくりと、しっとりと染まる。えんじ色の仲居姿の葉月螢、清楚ながらもなまめかしいこと!

彼女はカラオケ好きで、この宿の主人と一緒にカラオケバーに出掛ける。そこで歌われるのは、いかにもな演歌、妙に彼女の状況と心情にピタリと一致する歌詞で、んん?と思っていたら、やっぱりオリジナル!彼女の歌声、本気なんだかどうなんだか、まあ、上手いとはお世辞にもいえない感じなんだけど、そのナゲヤリな感じがやっぱり、である。主人は彼女に欲情してるし、てっきりそうなると思っていたのに、ならない。意外だった。そうなったという暗示すらないから(ま、ピンクで暗示だけで終わらすなんてことは、間違ってもないけど)ホントになかったんだろう。

と、確信させるのは、ヒロイン、キリコがその絡みシーンを披露するのは、宿泊客で彼女を脅す刑事と、回想シーンでの父親、その二人のみだからである。その間には、それこそ彼女が歌う演歌のようにいろいろな人と寝たのかもしれなくて、それがどういうものだったのかは判らないけれど、この二人は双方とも彼女の意思と反するセックスであり(多分父親とのセックスは処女破りだっただろうし)、それは明らかに陵辱のセックスだ。それを象徴するかのように、刑事は「君を抱きたい」と言いつつ、実際はバック攻めばかりで、“抱く”という言葉からくる、暖かい感じは皆無である。そのセックスに彼女があげる声も、間断なく、どこか演技じみている。歓喜の声とは言いがたい。

本作では、キリコが演じる以外のセックスも、ことごとく明らかに意思的に、そそられるものがない。お互いに求め合うものがない。どちらか一方が、それもどこか自分の立場を守るような感覚で相手に対して欲情し、セックスを強要するのだ。しかもキリコ以外のセックスはどれも女性がその位置に立っている。キリコとの対比であり、そしてそのどちらもが、男性側のウンザリ感を示し、あまりにもむなしい。前戯もテキトーで、とりあえず入れちゃって終わろうという感じのセックス。

セックスの行為のむなしさが、生きていくことのむなしさとイコールになってゆく。あまりにも静かで、一体何の楽しいことがあるんだろうと思ってしまうこの温泉町が、その気分を助長する。恋愛の相手もセックスの相手も結婚の相手も、必然的に決まってしまうほどに人のいないこの町。でもそれは、人が多すぎるから逆に本当の相手を見つけられない、深く入り込んでゆけない都会に対するアンチテーゼのようにも思える。しつこい刑事に言い寄られているキリコの、父親殺しの過去を知って彼女に同情する従業員カップル。彼女が刑事をぶっ殺した後(この場面の、彼に何度も何度も何度もナイフ?を振り下ろす引きの場面の衝撃的なこと!)旅館を辞する彼女をこの二人が慈愛を込めて見送るシーンは、そうした感覚をより強くする。この場面はどこかクラシックな日本映画のよう。その後でキリコがどこへ通じるとも知れぬ山道を一人歩いてゆくラストシーンになり、よりそんな感覚を起こさせるのだ。

キリコ、どんな字を書くのか判らないけれど、まるでそれは、あの画家、キリコのような、無機質な冷たさ、だからこその残酷さと美しさを示しているよう。そういえば、関係ないけど「キリコの風景」(明石知幸監督)などという映画もあったなあ。全然ヒットしてなかったけど、好きだった映画。タイプは違うけど、町の寂しさを感じさせる点では共通しているかも。非現実感と、深い深い闇の黒に近いような、それでいて透明感のある青に沈殿する、温泉の柔らかな湯や冷たい月の光に洗われる葉月螢の肢体の神秘的な美しさ。はらはらとふりかかる黒髪がなんともいえないなまめかしさで……ああ、本当に彼女のこの素晴らしさは!★★★★☆


アイ・ラヴ・フレンズ
2001年 113分 日本 カラー
監督:大澤豊 脚本:大澤豊
撮影:岡崎宏三 音楽:佐藤慶子
出演:忍足亜希子 萩原聖人 藤田朋子 田村高廣 石倉三郎 落合扶樹 伊藤榮子 佐々木すみ江 緒方啓進 有福正志 久保明

2001/11/6/火 劇場(銀座シネパトス)
「アイ・ラヴ・ユー」の流れを汲む、ろう者がヒロインの作品。前作が何より素晴らしかったのは、まず文句なく面白いという点で、ろう者がテーマであるとかどうこうよりも、エンタテインメントとしての面白さが群を抜いていた。笑わせ、泣かせ、そして何よりも明るい。そうした雰囲気は本作にも受け継がれているものの、前作ほどの成功を収めていないのは……うーん、やはりあの守護霊のようにヒロインを助けている、亡き夫の面影のせいだろうか?画面処理は上手いし、特に違和感があるわけではないのだが、ちょっとファンタジックすぎて、これが出てくるたびに思わず構えて見てしまう。彼の、そして彼女の愛の強さを表しているのかもしれないけれど、ひとり残されたヒロインは、それをものともせず強く生きているのだから、ねえ。

やはりろう者であった夫を亡くし、息子と、夫の妹で親友の遥の3人で暮らすろう者カメラマンの美樹。京都の町で精力的に仕事をこなす彼女は、町行く人の豊かな表情をカメラに収めることをライフワークとしていて、曇りのない目でシャッターを押して行く。そうして生まれる、本来なら接点などない人たちとの交流。心に深い傷を持つ青年との出会いが、美樹の写真に対する姿勢を変えてゆく。

前作は、ろう者である、ということが大前提にあり、ろう者ゆえの苦しみ、楽しみ、などなどを描いて行くことで映画が成り立っていたが、本作はちょっと違う。もちろんそれもあるのだけれど、あくまで基本ベースとしての人との出会いと、人の心と、そうした線で描いていっている。ろう者だからこうだとかいう描写はあまりない。ろう者として出てくるのは、回想シーンをのぞいては美樹一人といっていいぐらいだし。前作ではろう者と健聴者の割合は半々ぐらいだったのだが、実際のろう者と健聴者の数の比率で行けば、もしかしたら本作の方が現実に沿っているのかもしれない。そしてろう者の美樹は、手話で会話をするということ以外は、他の人と殆ど変わることはない。いやその部分すらも、相手の唇の動きや、ジェスチャーをじっと見つめることで、通訳がいなくてもクリアしてしまっている。

実際はこんなに上手くはいかないのかも知れない。それは受ける、健聴者側がろう者に対して、一人の、普通の人間であるという意識がなければならないから。それは当然の意識であり、そうでなければならないのだが、いわゆる五体満足な身体を持つ人たちの意識は、そうしたところからはまだまだ遠く離れているように思う。本作では女子高生も、街宣車の運転手も、ろう者である美樹に対して、全く普通に接している。声高な主張が見られる作品ではないけれども、こうした部分に願いが込められているのかもしれない。あるいは、京都は障害者対策に先進的な町だというから、京都ではそれが普通のことなのかもしれない。そうだとしたら、素晴らしいことだ。

ろう者に対して普通に接することと、構えてしまうことの狭間を上手く表しているのが、美樹に「いい味出している」と言われる、造園業者の社員を演じる石倉三郎。彼は美樹がろう者だと知って、彼女が唇の動きが読み取れると言っても、あせりまくって、オーバーアクションで懸命に伝えようとし、それが過ぎて、全く関係ないところまでジェスチャーが及んでしまう。この場面の石倉三郎は、本作品の白眉と言ってもいい位に爆笑モノのナイスな一人芸人状態。でもそうまでするのには、彼に、美樹に対して聞こえない人に伝える、という過剰な反応があるせいであり、そのあとの社長役の田村高廣と好対照である。

しかし自分とほんのちょっとでも違うと拒否反応を示すような現代の私たちにとって、彼の姿はいろんな意味でチクリと刺してくる痛みがある。私たちはこんな風に、人に一生懸命に伝えようとしたことがあるだろうか、と。一生懸命に伝えようとすれば、きっとどんなに違う立場の人とだって判りあうことが出来るのかもしれないのに、と。そうする前にあきらめてしまっている、あるいは、そうすることすら考えもつかないのではないか、と。それは、昨今の、全くコミュニケートを欠いた所で繰り広げられている戦争状態を思い起こしても、そんなことを考えてしまうのだ。でもこれって、本当に基本的な、かつてはわざわざ言う必要もなかったことなのではないか?隠すことばかり上手になってしまって、隠すことに腐心していたら、あったことすら忘れてしまっているだなんて……これはヤバい。危機的状況である。

美樹の一番の理解者であり、一番の親友、遥を演じる藤田朋子がとてもいい。彼女に関しては、演者としてよりも、彼女自身の、どこかこうるさい部分が妙に表に出ていた時期があって、しかもあの胸クソの悪い某脚本家の某ドラマのキャストだったこともあってか、何かいい印象を持っていなかったのだけれど、まったくもってクダラナイ偏見であったことに今更ながら気づいて、反省。手話に関しても、そうでない部分に関しても、アッケラカンと突き抜けて明るく、コメディエンヌとしての才気を感じるし、ヒロインを演じる忍足亜希子のハツラツさを引き出しているのも、彼女の功績だと思う。ややもするとやり過ぎなぐらいのオーバーアクトに見えそうなのだが、作品のカラーもあって、上手くはまっている。ひと言で言えば、上手いんである。美樹と小さな頃から仲が良くって、しかも死んだ兄の妻であった、という関係性を、そうした明るい演技の中でしっかりと感じさせている。こうした人があまり映画に出ていないのは、もったいない気がする。

作品の中ではそこまで無粋に展開させはしないけれど、いずれは美樹と……ということを感じさせる、キーパーソンの柴田を演じる萩原聖人。交通事故で飛び出してきた子供を死なせてしまった経験を持つ彼は、その母親がいつまでも彼を許してくれないことも手伝って、癒えない傷を抱えて、生きていく資格すらないのではないかという状態で日々を送っている。その彼の上手さは今更言うまでもないことで、ことにこういう、心の中に傷を抱えた、哀しい表情を見せる人物にかけては、彼の右に出る者はいないんじゃないかと思うぐらい。立っているだけで、背中だけで、その哀しさを体中にみなぎらせているという感じ、そして表情も絶妙で、顔のアップだけでも充分に耐えられる。彼は本当にスクリーンに息づく人だと感じる。ここ最近はチョイ出ではあるけれど、印象的な役がらで以前よりも映画に結構顔を出すようになったので、是非、代表作となるような主演作を期待したいところ。

その柴田に、彼の仕事がどんなに人を勇気づけているかを知らせて、生きる力を取り戻して欲しい、と美樹は奮闘する。彼の植えた植物が、その成長の間、どんなに人に勇気と希望を与えているか、と写真に収め、人から話を聞き、彼の前でレクチャーよろしく力説する。……この場面は、多分一番の感動ポイントで、ここでグッとツボにはまることが出来たら、多分この映画の印象もずいぶんと違ったものになったのだろうと思うのだが、はまれなかった。写真が人を不幸にすることがあるということを知った美樹が、写真は人を幸せにするもの、ということを実証するために起こす行動ではあるのだけれど、切り取られたインタビューの言葉がとってつけたようで力がなく、本当にレクチャーのようで、生身の感動を与えてくれない。

カメラマンの岡崎氏が言っていたのだったか、忍足亜希子は、もちろんもともと美人ではあるのだけれど、特に横顔が凛と美しく、とても画になる。加えて前作よりすっかり演技に余裕も出て、見ていて安心する。ベテラン勢と一緒でも引けをとらない。はんなり、というよりハツラツとした京都弁が印象的で、手話の字幕も京都弁になっている。もしかして通常の手話と少し趣が違うのだろうか?紅葉や花の咲きほころぶところなど、京都の四季の風情は美しいが、桜草の空き地の場面で、画面の四隅をぼかした、妙にファンタジックな画になっているのが???なあんかテレくさいものが……。★★★☆☆


アヴァロン
2001年 106分 日本 カラー
監督:押井守 脚本:伊藤和典
撮影:グジェゴシ・ケンジェルスキ 音楽:川井憲治
出演:マウゴジャータ・フォレムニャック/ヴァディスワフ・ゴヴァルスキ/イエジ・グディコ/ダリュシュ・ビスクプスキ/バルティック・シヴィデルスキ

2001/1/26/金 劇場(丸の内シャンゼリゼ)
アニメ界の鬼才、押井守は、すでにして映画界の鬼才となった。おそらくアニメ作家でしかなし得ないであろう、綿密な構図で押し寄せる世界観、その手法でこそ可能となる、増幅される実写の迫力。映された素材……映像ですら、演出という手の下に加工してしまう。まさしくアニメのキャラクターの表情や動きを変える行為そのままに。それは役者の演技をおびやかすものでもあり、大いに議論の余地がある問題なのだが、押井守はその禁断の扉を開いてしまった。全てを監督の管理下におくこと。役者の自由を許さないこと、だから正直この作品に出てくるキャラクターたちは生身の、人間としての表情を感じることがない。それはもちろん、ゲーム世界を描くこの作品だからこそ可能な表現方法なのだが、こうした映画の作り方が生み出してしまう副作用のような気もしてしまう。

時代のせいか、なんだか最近よく見るような気がするゲーム世界の話。「イグジステンズ」のように、バーチャルリアリティとしてのゲーム世界そのものを舞台としている。しかし「イグジステンズ」と違うのは、そこでプレイする人間たちがみないわばプロであり、経験値を得ることで金を稼ぎ、生活をしているということだ。その分危険もある。未知のフィールドに足を踏み入れると、戻ってくることが出来ずに現実世界のプレイヤーは廃人になってしまう。しかし高度なプレイヤーになればなるほど、その誘惑に吸い寄せられてしまう。

ゲーム内世界と現実が複雑な入れ子構造になっているのも「イグジステンズ」に似ているけれど、本作の人物たちは、そして観客もどれが本物の世界なのか、ついには判らぬままになる。もちろん常識的に考えれば、ヒロイン、アッシュ(マウゴジャータ・フォレムニャック)がかつての仲間を始末するために迷い込んだ、私たちにとってのまさしく現実の世界に他ならない。しかし彼女はそれを否定し、殺した相手は一度は血に染まるものの、砂のように崩れ去ってしまうのである。本体はアッシュが信じる現実世界に残されているのだからそれはそうなのだけど、でも彼はこの世界こそが現実なのだと信じ、客観的に見ればまさしくそうなのである。……だからそれは、彼をはじめとした、もちろんアッシュも含むプレイヤーたちがその目的のために作られたオニンギョウだという暗示とも取れる。

ゲーム世界を表現するためとはいえ、何故これほどまでにセピアと照明の陰影を多用した映像を作りこむのか首をひねっていた。アッシュが迷い込む最終フィールドが現れることを予期していなかったから。アッシュが戦う“アヴァロン”のゲーム世界と、彼女が現実世界だと思っている生活空間は殆ど変わりない。色のない、モノトーンの世界。恐ろしいほどスタイリッシュでありながら、完膚なきほどまでに現実感がない。廃墟のようなセピアの色合いのゲーム世界はフィクションだと割り切れるけれど、彼女がそこから戻ってくる世界もあまりにもフィクショナルだ。いつも乗る電車(バス?)もいつも同じ人が同じ配置にいる。……その不気味さ。彼女はなぜそれを気にもとめないのか

このアッシュにとっての現実世界における映像の肌合いは「π」とよく似ている。露出を強調することで生み出される、極端なコントラスト、光はまばゆいが闇はこの上なく暗い。だから明るい光の中にも、そして当然に闇の中にも何も見出すことは出来ない。それはゲーム管理者、つまりはイコール神によってつくられた鏡ばりの部屋なのだ。全てが映し出されているように見えて、その実その奥にあるものを何一つつかみ出すことが出来ない。疑問すら持たない。一体このゲーム世界を作り出したのは誰なのか。そして彼がアッシュを“現実世界”に送り込んだ意図は?

この気も滅入るセピア&モノトーンの世界から、突如私たちのよく知る極彩色の世界に押し出されるアッシュ。なるほど、この世界とのコントラストのためだったのかと思いはするものの、それまでの世界観とのギャップがあまりに激しくてこの世界すらも作り物のように思えてしまう。……いや、それこそを描きたかったのではないか、押井守は。このべったりと塗りつくされた、こんなに人が行き来しているのに人の匂いのしない無機質な都会。ヴァーチャルとはいえ命をかけて戦い、それなりの仲間意識もあったアッシュの世界と比べれば、確かにこの世界の方が非現実だと思えてくる恐ろしさ。この世界に放たれたアッシュは、その極彩色の光のもとに全てを映し出されて、モノトーンの世界にいたときより恐ろしく老けて見える。疲れた化粧、年齢を気付かせる小じわや肌のつやのなさ。しかしそれは逆に彼女がこの世界では本当に生きている証のようにも見えてくる。あの世界ではロボットのようだった彼女の……。

ゲーム世界のリアリティを追及するためのアイテムが用意できる場所として、そして言語のもつ独特の響きが絶大な効果をもたらす国として、ポーランドでポーランド人キャストによる撮影を敢行した本作は、近年揺れ動いていた日本映画の定義というものも完全に打ち砕いた。これまではこうした要素があっても、必ず日本人が現れたり、どこかに日本の要素をもぐりこませたものだけど、それすら、全くもって、ない。あ、一つだけあった。アッシュが謎の敵、ビショップに対抗するために図書館で借りるアーサー王の資料本は、すべて日本の本で日本のタイトルの背表紙を映し出す。なぜ字幕をつけるのかも不思議だし、なぜ日本の本なのかも不思議である(それは日本人が書いた本という意味ではなく(それも一冊あるけど)日本語で書かれた本という意味)。このあたり、なんだかちょっとアニメ的なものも感じさせて、確信犯的な遊び心という気がする。

明快にストーリー展開させていくというよりは、かなり観念的な部分が多く、もちろん大スクリーンに映える映像だとはいえ、東映系全国大公開というスタンスにも驚くのだが、そうしたステロタイプな考えも古くなっていくのだろう。これまではあまりにも二極分化されすぎていた映画興行が、こうしたスリリングなプログラムを組んで映画の裾野を広げていく。これって、大事なことだと思う。★★★☆☆


アカシアの道
2000年 90分 日本 カラー
監督:松岡錠司 脚本:松岡錠司
撮影:笠松則通 音楽:茂野雅道
出演:夏川結衣 渡辺美佐子 杉本哲太 高岡蒼佑 りりィ 小沢象 有福正志 小林麻子 土屋久美子 藤田弓子

2001/3/27/火 劇場(ユーロスペース)
現代日本映画界の中で純粋に信頼できる映画作家の一人、松岡錠司監督。しかし「ベル・エポック」以来三年ぶり、なんだ……そんなに撮っていなかったか。だんだんと、大人の映画を撮るようになっていく人だな、とは思っていたけれど、本作ではこんな重いテーマにまで向き合っていて、驚いてしまった。松岡監督だから何にも躊躇せずに観にきたけれど、彼の監督作品じゃなかったら、来たかどうか……なんて考える自分に、我ながらガックリきたりして。ああ、こんなんだから、ダメなんだ。実際この手の企画、老人介護をテーマにした映画が通ったこと自体が、観客を呼ぶことだけが重視される今の興行界には奇跡的なことだという。私が行った回はガラガラだった。実際の興行がどうなっているのかもちょっと心配である。私にとってはだから、これが松岡監督で本当に良かったと思った。だから観に来たし、観に来て本当に良かった。手放しで泣きながら、ただ泣いてるだけじゃダメなんだと思った。

夏川結衣扮する主人公、美和子は、30歳。長いこと連絡を絶っていた母親がアルツハイマーにかかってしまったと知り、在宅介護を決意して家へと戻ってくる。元教師であった母親かな子は、離婚した夫の憎しみを美和子に見るのか、彼女に小さな頃から辛く当たってきた。しかし、この母親の記憶が徐々に後退していき、帰ってきた美和子が、小さな頃の彼女だと思い込むようになる。再び起こる親子の葛藤。

子供だからって親の面倒を見なければいけないということはない、というようなことが言われ始めて、ああようやくそういう福祉社会になったよな、などと安穏と構えていたけれど、勿論コトはそんな単純なわけではないのだ。平凡に、いい親子関係を築いていたならば、親の面倒を見たいと考えるのも普通かな、と思っていたのだけれど、こんな風に、難しい親子関係であっても、心の中でさまざまな葛藤があっても、やっぱり親の面倒を見たい、と、自分が辛くなるのが判ってても考えるのかもしれないな、と。それが親子の素晴らしさである、と言うのは簡単だけど、それまたコトはそんなに単純じゃない。どんなにヒドい親でも子供は愛されたいと願っていて、そんなことムリなんじゃないかと思いながら大人になって、それでも、まだどこかに可能性はあるんじゃないかって、思い続けてる。しかも自分はどんなに逃げようと思ってもこの親の子供で、やっぱり似ていて、忘れたい過去を共有しているのはこの親しかいないのだ。これは愛、なのか?

私は理解ある両親にノンビリと育てられたクチなので、とても美和子の心の中を理解できる、などと言える立場にないのだけれど。でも、彼女が30歳で、一人で、キャリアウーマンと言うほど自分のことが頼りにならなくって、……なんていう心細さは判りすぎるほどに判るし、それに親に対する気持ちは、それがどんな親であっても基本の部分は変わらないんじゃないか、という気がする。ある意味この物語は親子の葛藤と介護の問題の難しさを、児童虐待という過去によってより判りやすくしているような印象も受ける。でも私みたいに親との問題が特になかったとしても、やはり同じような葛藤に直面しただろうと思う。介護士のように、仕事として割り切れるわけでもない。親が嫌いになって、尊敬できなくなることに対する躊躇と恐れは、自分がこの親の子供であるからこその躊躇と恐れ、なのだから。自分が嫌いになってしまう、自分がイヤになってしまう……世の中に自己嫌悪ほど辛い感情はないと思う。それを、もう遺伝子の段階から突きつけられるのだから、こんなに恐ろしいことはない。

でも、大人になってからだったら、やっぱりまだマシなのかもしれない。美和子は子供の時から遺伝子レベルで自己嫌悪を植え付けられてきた。母親の過度の期待、それにこたえられない自分、彼女が自分の中に見ている父親……この、少女期の回想シーンは、怖かった。ひたすら怖かった。友達が遊びに来てはしゃいでいると、静かにしてと再三注意され、ふすまの陰に呼び出されて平手打ちされる。テストの点が良くて、やれば出来るじゃないかとほめられたかと思えば、すぐにこんなことは当たり前だ、油断したらダメだ、と言われる。こんなにきれいなのに、ニセアカシアなんて名前、可哀想というと、それが正しいことなの、あんたって感傷的なのね、とバカにしたように突き放される、女が一人で生きていける職業だからと、自分と同じように教師になることを強要され、お嫁さんになりたいという夢をせせら笑う。たえず母親の顔色をうかがってびくびくとしている美和子の心中を思うと、こっちまでたまらなくなってくる。

こんな風に自分が罵倒されてきた小さな頃を思い出させる母親の病状の進行に、美和子はたまらなくなって、母親の首に手をかけてしまう。間一髪少年に助けられる。……どっちつかずの恋人に母親がアルツハイマーだと告げた夜、予想通りだったが、彼は腰がひけてしまう。家に帰った美和子は、母親と夜から朝にかけて延々と散歩をし、その後に起こったこのクライマックス。場面としてもそうだけれど、美和子の感情のクライマックスでもあって、私はもう、ほとんど慟哭にも似た涙が抑えられない。彼女は母親のことが嫌いな感情の、その同じ分だけ、母親のことが好きで、そう、それこそが親に対する説明のつかない気持ち。彼女ほど親に対して強い負の感情を持っていると、それだけ振り子の幅が大きくて、手におえない愛情の気持ちも、あるのだと思う。美和子はそこを乗り越え、一人間、一女性として母親と向き合うことによって、一年後の、穏やかな時間を獲得できたのだ、と思う。親は絶対の存在だから、この境地に行き着くのは本当に難しい。でもそこに行き着かないと、親を介護するなんて、出来ないのかもしれない。それこそこんな修羅場をくぐり抜けなければ。

父親を殺しかけたというこの少年との出会いは、ちょっと都合が良すぎるかなと感じなくもないのだけれど、でも人が本当に本当に追い詰められた時、ふっと救いに出会えることって、あると思う。あると思いたい。一年後に飛ぶと、母親はもうすっかり幼児状態に病状が進行していて、ショートステイを利用し、少年がそのお迎え役を担っている。前の通りの仕事に復帰した美和子は、待ち合わせの公園に走ってゆく。少年と母親が美和子の作ったお弁当を食べている。少年は定時制高校に通うようになったのだと言い、美和子は微笑んで、応援の言葉をかける。バイトの時間だからと少年は辞し、美和子は母親とあのアカシアの小道をそぞろ歩く。かつて、アカシア、いやニセアカシアの花の美しさになど見向きもしなかった母親が、落ちた花びらを救い上げて無心に喜んでいる。美和子、「私、ずっとお母さんと手をつないで欲しかったんだよ。お母さん、してくれなかったけど、私はするから」と母親の手をとる。……この時、あのただただヒドかっただけの母親が、でも本当はこんな風に花を愛でたくて、こんな風に娘と手をつないで歩きたくて、でも、いろんな人生の紆余曲折がそうすることを彼女に許さなかった、そんな風にも思えてきて……いや、そうウツクシク感じなくったって、美和子が、そうやって母親の手を取った時、悲しいような切ないような、つまりは優しい涙がどおっと襲ってきてしまう。優しさは、弱さからは生まれない。優しい感情が悲しさや切なさを含んでいるのは、いろんなことを乗り越えて、強くなって、でもその“いろんなこと”が加味している思い出の悲しさや切なさで、それが支えているからこそ、優しさは、強いんだ。だから、こんなに涙が出てしまう。

感情と湿度の塊の女優、夏川結衣は、本当に本当に素晴らしい。まったく、松嶋菜々子なんかをアカデミー賞ノミネートしているやつらは、同年代(よりちょっと上か)にこんなに素晴らしい女優がいることを、知っているんだろうか。そして渡辺美佐子、ふと気づくと最近彼女が出ている映画は全くハズれない。「千年旅人」しかり、「顔」しかり。この二人のような人こそ、本物の女優というものなのだ。

松岡監督は、「ベル・エポック」もそうだったけれど、女性の描く漫画に興味があるお方のようで。しかし漫画原作の映画というフィールドを、ここまでの高みに持っていったのは、初ではなかろうか。漫画という文化ジャンルのレベルの高さを改めて証明してくれたし、それが女性作家だということも嬉しいし、そしてそうした優れた原作やキャストを迎えて日本映画のレベルの高さを、実に正当な方向から立証してくれた、それこそが、とても嬉しい。観ていて辛くてたまらなかった感情を、優しく昇華させてくれる、秀作!★★★★☆


アタック・ナンバーハーフSATREE−LEX
2000年 104分 タイ カラー
監督:ヨンユット・トンコントーン 脚本:ウィスッティチャイ・ブンガーンジャナー他
撮影: 音楽:
出演:チャイチャーン・ニムプーンサワット/サハーパープ・ウィーラカーミン/ジェッダーポーン・ポンディー/ジョージョー・マイオークチィ/ゴッゴーン・ベン/ジャーティグーン/エーカチャイ・ブーラナパーニット/シリタナー・ホンソーポン

2001/4/30/月 劇場(シネクイント)
ゲイの人をテーマにした映画はその視点、視線の置き所が難しいと思うのだけれど、本作は実話が根底にあるということもあってか、非常に思い切りの良い、楽しい“オカマ映画”に仕立て上げてきた。“オカマ”という言葉でひとくくりに言ってしまうのもどうかという部分はもちろんあり、タイでの呼称の問題もいろいろ考え合わせての日本語の字幕であり、このタイトルであるんだろうけれど。それを感じさせるのは、親友同士のメイン二人、ジュンとモンの描き分けであり、二人とも字幕ではオネエ言葉を使っているのでいまひとつ判りづらいんだけど、ジュンの方はこちらが期待する部分を一手に引き受けた、いわゆる“オカマ”であり、そのことになんのネガティブさも感じさせない陽性なキャラクター。一方でモンはオカマというよりゲイであることに対しての、社会との軋轢を非常に感じ取っているキャラであり、ジュンほど積極的にファッションやメイクを施したりしないし、ある局面ではゲイであることを知られたくないと思っているようにも感じられる。ジュンには“オカマ”と言わせて、モンには“ゲイ”と言わせている(あくまで日本の字幕に置いて)。オカマという言葉には世間の、やや蔑視する視点が含まれており、ゲイという言葉には、ゲイの人たち自身から発信した、自分たちを正しく表現する言葉としてのニュアンスがあると思うのだけど、一見してアイデンティティを重視している後者より、前者の言葉を使うジュンに(当初の)モンよりもそうした強さを感じるのが非常に興味深い。

それにしても、そうだ、これは実話だというんだから!ラストクレジットに重なって出てくるホンモノたちのなんという強烈さよ!殆どムエタイさながらの強烈スパイクを浴びせて、それが決まるとキャーンてなばかりに乙女チックに喜びあう彼女?らのかわゆさ!しかもこのキャストたちにちゃんと(ややビミョーに)似ているところがイイではないか。特にジュンとオナベのコーチは似てるんだよなあ!

冒頭はモンがバレーボールチームのレギュラーからはずされる場面から始まる。一人ロングヘアだけれど、この時点ではモンがゲイだということはピンと判らない。モンが、僕がゲイだから落とされたんですか、と監督に詰め寄ると、肯定も否定もされずに、何ともいいようのない表情で拒絶される。その場を辞するモン。

そんなモンの親友がジュンである。おしゃれが大好きで、ハンサムな男の子が大好きで、いつも満面の笑顔を浮かべているまさしく乙女。ペコちゃんとマイメロディの入った愛用の扇子が可笑しくてカワイイ。何たってイイのがジュンの両親で、理解ある、という次元をとうに越えており、彼女?の価値観にすんなり同化しており、大会での息子?の活躍に大喜びして道に踊り出てはしゃぎまくるというのが愛しすぎる!うーむ、彼らもこうした息子に対して悩む時があったのかすら疑わしい?信じているとか理解しているとか、そういうのをすっ飛ばしてて、自分たちの子供に対する当たり前の愛情と誇り、という感じがすごーく、イイんだよなあ。

おっと、思わず物語をすっ飛ばしてしまった。そうそう、ジュンとモンは県代表のバレーボールチーム募集の貼り紙を見つけ、応募するんである。そのチームは監督がオナベの女性監督に変わったばかりで、彼女は自分たちの実力を過信してダレきっているチームを立て直すため、メンバー公募をしたのだった。ジュンとモンの登場にあざ笑わんばかりのチームメイト。しかし監督がこの二人をレギュラーに選んだことでチームは紛糾、一人だけを残してオリジナルメンバーが全てやめてしまう。この残った一人だけとは、チーム内でいつもバカにされ続けていたチャイ(限りなく川崎麻世!)。

かくしてジュンとモンは大学時代のバレーボール仲間をスカウトすることとなるのである。当然みんな、ゲイであり、オカマさんである。しかも個性的なメンメンばかり。ついでに言うと、監督が連れてきた三つ子ちゃん(!)もしかりである。ことに強烈なのは、軍隊に属していた、その風貌からやたらと水牛と呼ばれるノンちゃんで、軍隊上がりのその完璧な肉体と内面の女らしさのギャップが、ジュンちゃん以上にスゴすぎるんである。チームメイトのその後を描くラストクレジットでも彼が一番のコメディリリーフで、工事現場で男性労働者と汗が触れ合うのに、ああん、てな感じでその幸せをかみ締めている表情はもうバツグン!あ、ちなみにジュンちゃんは銀行の女子?行員になって、強盗に入られた時にその見事なスパイクで犯人をしとめるという、しかもその場面でキャーン、ヤッタわあ、てな感じで喜んでいる表情がまたカワユイのだ。

おっとっと、またしても先走ってしまった。えーと、だから、この前代未聞の“サトリーレック”(鋼鉄の乙女)チームは、半ば呆然としている相手チームをなぎ倒し、地区予選を軽々と突破、見事国体出場を果たすんである。見世物扱いする、実はセクハラオヤジのおエライさんをものともせず、サトリーレックの熱狂的なファンがゾクゾク増幅、決勝戦には殆どアイドルコンサートなみの、最高潮の盛り上がりを見せるんである。それまでにはいろいろと問題もあって、気分によって波が激しいせいもあり、お化粧しないと気分がノらないせいもあり、今ひとつチームに溶け込めないただ一人ノンケのチャイのせいもあり、彼らをまとめる監督の苦悩ははかり知れない!でも責任感や正義感という点でチャイとよく似た気質のモンが、もちろんチャイのそうした性質を無意識にも感じてるからこそ、彼に自分たちのことを判ってほしい、と歩み寄り、最後にはチャイは彼ら以上に彼らのことを理解して、メイクさせることで気分を盛り上げる、という最高のチームワークを見せる。ただ一人のノーメイクで、ノンケキャラのせいなのかなあ、やたらとハンサムに見えるのよねー、このチャイが。ラストクレジットでチャイと彼のカワイイ恋人とその間に生まれた赤ちゃん、そしてチャイと無二の親友になったモンが一緒に写真に写っている、というその後がとってもイイ!

思ったよりバレーボールのプレイシーンを堪能できなかったのが残念かなあ。うーん、やっぱりそこまで望むのは難しいのか。メイクをした後に俄然力を取り戻して相手チームを組み伏す、というところでも、メイクをしたところからいきなり試合後にジャンプしちゃうんだもん。ラストクレジットでホンモノたちが見せた、ああいう強烈さ、楽しさを期待してたから……。 彼らの母となる監督が、すっごく良かった。公正で、厳しくて優しくて、慈愛に溢れてる。そのオナベな外見が、そうした人間性の素晴らしさをリアルに感じさせるのよねー。女は(オカマ、ゲイも含めて!)偉大だ!!★★★★☆


甘い汗
1964年 119分 日本 モノクロ
監督:豊田四郎 脚本:水木洋子
撮影:岡崎宏三 音楽:林光
出演:京マチ子 佐田啓二 池内淳子 桑野みゆき 小沢栄太郎 山茶花究 名古屋章 小沢昭一 市原悦子 木村俊恵 桜井浩子 川口敦子

2001/8/2/木 劇場(東京国立近代美術館フィルムセンター)
この成人映画チックなタイトルは何なのかしらん、という興味も手伝って、そして佐田啓二の遺作ということで、足を運んだ。なぜこういうタイトルなのかは今ひとつピンとこなかったが……。くだんの佐田啓二は中盤になるまで登場しないので、まだー?などと思ったが、出てきたらこりゃービックリの強烈なキャラで、私はそれほど佐田啓二作品を観ているわけではないのだが、佐田啓二がこんなあくどいキャラをやるなんてイメージの範疇外だったもんだから……。しかしイイ男だから似合っちゃうのよね。したたかでタフなヒロイン、京マチ子がころっとだまされちゃうのも判るぐらいに。

しっかしこの京マチ子には、さらにビックリである。スゲーッ!という感じである。若くして生んだとはいえ、もはや17の娘がいるという、30も半ばを過ぎた肉体もそろそろ崩れてきている女、梅子が、時にものすごいサバを読んで、その女である肉体を武器に生きてゆこうとする。母一人子一人で住む場所もなく、今は梅子の母と弟夫婦のいる家にぎゅうぎゅうづめになりながら居候している身。のくせして、べろんべろんの朝帰りで家族を起こして、早朝からひと騒動なんてこともしょっちゅう。

こんな母を持つと娘も強くなるもんで、この娘竹子がエラすぎるんだよなー。あからさまなイヤミをいわれながらも(この梅子の母親が特に隠しもせずブツブツ文句言うのよねー。しかしそれでイヤな感じがしないというのがすごいけど)強く明るく生きている。母親が学校の月謝も払ってくれなくたって、落第はすまいと懸命に勉強し、家では邪魔になるからと学校で遅くまで勉強して帰ってくれば、遅くなったから夕飯はないよ、といわれたり。しかしそんな竹子も学校から借りてきた高価なテープレコーダーを梅子が持ち出して、そのテープもぐちゃぐちゃにしてしまったことで、さすがに母に対する怒りが爆発(そりゃそうさね、梅子さん……これはいかんよ)、家出をするも、家族の誰にも気づいてもらえず、さらに傷つき、住み込みの働き口を見つけて梅子のもとを去る。追いかける梅子の手にはお金が握られていて、「竹子、これを持っていきなさーい!」って、オーイ!引きとめろよ!でも、「泣くなよ、竹子」とつぶやきながら、本当にたった一人になってしまった梅子さんが一人歩いて行く後姿のエンディングは、母として、女としての寂しさと強さを同時に感じるんである。

思わず思いっきりすっ飛ばして、娘の話に終始してしまった。だってねー、ケナゲでかわいそうだったんだもん、この竹ちゃんが。エロオヤジに手は出されちゃうしさ。しかしあのくだり、一緒に寝ている男の子がこのオヤジのたくらみを阻止せんとしているかのように、その寝相の悪さで襖をバーンと蹴ったりオヤジをバーンと蹴ったりするのがムチャクチャおかしかったけど。まあ、ね、梅子さんもこの竹ちゃんを何とか大学まで行かせてやりたい、と思って頑張っているっていうのが判るんだけどね。いかんせん、どんなにタフでもしたたかでも、どっかヌケているというか、男をだましきれなくて、時には逆にだまされちゃって、ま、そこがこの梅子さんのカワユイところなんだけど、どうにもこうにも上手くいかない。

それは既に冒頭から提示されている。女同士の凄まじい掴み合いの大喧嘩。というより、片方がもう片方に一方的に掴みかかっているという感じ。んで、この掴みかかっていたのが梅子さんで、何でかっちゅーと、この若い女に自分の客を取られたから。「35にもなった女が……乳も垂れた女より若い女の方がいいに決まってる……云々」とか、いわれちゃうこの冒頭で、すでに梅子さんのキャラと話の展開がすべて説明されちゃっているという上手さ。見終わってからこの冒頭部分を思い出すと、あー、この梅子さんが、上手く世の中を渡って生きていくというのは、確かにムリだったかも……と思うのだ。女の武器を使えるギリギリのところで、状況に応じては懸命に若作りをして、その使い込まれた爛熟した肉体を惜しげもなくさらして(も、殆ど全編セミヌード状態!?)頑張っている梅子さん。演じる京マチ子が、もー、スゴイ。これぞホントの意味でのセクシーな、ダイナマイトな肉体、スリップ姿もさらにはだけて、汗びっしょりになってひたすら眠りをむさぼり、ここぞというときには殆どくまどり状態にバッチリメイクで挑む。大酒のみの大トラで、明るくって、悩まなくって……と見えながらも、そのラストシーンで、実はその傷ついた心をいっぱいいっぱい溜め込んでいたんだ、なんても思っちゃう。

それにしても佐田啓二が登場からはドキドキだった。彼は梅子さんを訪ねてこの町にやってくる。かつての恋人で、梅子さんは竹ちゃんを捨ててこの彼と女の幸せを掴もうとしたこともある。彼が梅子さんを探していた本来の目的が最初からこれだったのかは知らないが、ちょっと休もう、と休憩旅館に彼が誘い(まるでお茶にでも誘うようにあっさり誘っちゃうところがニクイ)、梅子さんがこんなときにも商売っ気を出して、ムードを出してベッドで抱き合い、その房事の声を録音しようとしたら(足でコンセントを入れる荒ワザ!)舞踊のトレーニングテープが再生されちゃって(これがあの、竹ちゃんから失敬したテープレコーダーね)大慌て(爆笑!)。んで、梅子さんは今の境遇を彼に話し、そのことで逆に利用されてハメられちゃうわけだが、このシーンでの二人は、何たって水も滴る美男美女で、キス1つでも色っぽくって絵になって、かなり鼻血ブーなんである。しかもこの物語はひと夏のエピソードで、エアコンが普及している時代な訳もなく、扇風機がぶんぶん回って、それでも暑くていつでも汗をかいていて、汗を拭いたり衣服を脱いだりするのが、何かすんごい色っぽいんだよー。特にこの二人だとね。完璧な男の肉体と、完璧な女の肉体。ああッ!

計画に乗ってくれたら住むところを与えてあげる、とこの佐田啓二(役名忘れちゃったよ)。しかしそんなの嘘八百で、その場所から追い出すための男とちょいと旅行にと出されて帰ってきたら、そこはパチンコ屋に改装中。してやられた、と、だまされた男は、あいつを殺してやる、と思いつめ「朝鮮人だからって、バカにしやがって!」とひと言低く叫ぶのにドキッとする。こんな台詞を、そんなことを話の流れの中で何にも言わないで、台詞だけで入れてくるのが、この時代には特にそういう軋轢も強かったんだな、と思わせて。だまされたとはいえ、かつての恋人、情はある(この辺が甘いのね)。梅子さんは何とか佐田啓二を助けてあげたくて、進言しに行くも、そこにだまされた男が斬りかかってくる!懸命に佐田啓二を逃がそうとして間に入る梅子さん。そのうちにこの殺人未遂男は取り押さえられ、佐田啓二はというと、梅子さんなど見向きもせず、塩を撒いてドアの向こう側に消えてしまう。破れた日傘に塩を浴びて、呆然とする梅子さん。……もう!

そして娘にも去られ、梅子さん、どうなっちゃうのかなと思いつつ、彼女の強さは辛さ悲しさを瞬発力、行動力に変えた強さなんだよな、と思い、いつの日か梅子さんが本当に幸せになる日を祈りたいなあと思うのだ。★★★☆☆


アメリカン・サイコAMERICAN PSYCHO
2000年 102分 アメリカ カラー
監督:メアリー・ハロン 脚本:メアリー・ハロン/グィネヴィア・ターナー
撮影:アンドレイ・セクラ 音楽:ジョン・ケイル
出演:クリスチャン・ベール/ウィレム・デフォー/ジャレッド・レト/ジョシュ・ルーカス/サマンサ・マティス/マット・ロス/ビル・セイジ/クロエ・セヴィニー/カーラ・シーモア/ジュスティン・セロウ/グィネヴィア・ターナー/リース・ウィザースプーン

2001/5/18/金 劇場(恵比寿ガーデンシネマ)
メアリー・ハロン監督作品だというんで、もうワックワクしながら公開を楽しみにしていたのだ。彼女の前作にして劇場長編デビュー作「I SHOT ANDY WARHOL」がもうムチャクチャ好きで、それはリリ・テイラーが大好きだというのもあるんだけど、このリリが演じたヴァレリーのカッコよさ(といっていいんだろうか……)にシビレまくったのだ。そしてそれはハロン監督自身のカッコよさに呼応しているような感じがして……もちろん推測なんだけど、今回ハロン監督のプロフィールを初めて読んで、ああ、やっぱりムチャクチャカッコいい女性だ!と思う。「I SHOT……」はミョウな、本当にキミョウな味わいというかおかしみも絶妙で、思えばそれにもスティーヴン・ドーフは強烈な役で出ていたんだよなー、彼ってホント……。結局だからそれ以来、え、ほぼ5年!?でも待ったかいあった。この作品に関しては彼女自身が原作にホレこんで脚本を書き、しかしその後主役のベイトマン役をめぐって彼女がクリスチャン・ベールを熱望して譲らなかったために、トラブり、これだけの時間が経過してしまったのだ。それにしてもレオナルド・ディカプリオ&他の監督にならなくって、ホントーに良かった。レオにはあの筋肉が作れるとは思えないし……まあ、それはあまり関係ないけど、でもとにかくこの世界は、このキミョウに可笑しい、でも不思議にスタイリッシュでカッコいい世界はハロン監督ならではなんだもん!クリスチャン・ベール、すごい、本当に。キャスティング・ディレクターとしての目も確かだわ。ハロン監督。

舞台は80年代。好景気、物質主義に浮かれるアメリカ。ニューヨークのウォール街に勤めるパトリック・ベイトマンは27歳にして副社長を務めるエリート証券マン。エクササイズでムキムキの身体を鍛え、しかし汗臭さを極端に嫌ってノンアルコールの化粧水を愛用し、身につけるものはみな一流ブランド、同じようなキャラの仲間たちとは予約なしでは入れないレストランにこだわって、名刺のセンスの良さを競い合い、スノッブな、というより空虚な会話に精を出す。この、名刺のくだりは、もう爆笑もんである。オフホワイトだ、浮き彫りだと騒ぎ立て、ゲイのルイスに負けたと思ったベイトマンは冷や汗たらり。名刺なんて、アメリカでも使うもんなのか。いやまあ、使うにしても、こんなにもこだわるのはやっぱりキミョウである。アメリカって、自分の個性、自分のパフォーマンスを大事にする国で、名刺、つまり肩書きにこだわるのって、すごく日本的な感覚だと思ったから。まあ、確かに“個性”としての名刺のデザインを競っているわけだが?でも、実はそここそにこの時代の、好景気が生み出した病根があるのかもしれない。証券会社というのも、象徴的だし。それこそかつては花形職業、でも、そう、日本はバブルを経験して、結局は形のないもの、宙に浮いた数字ばかりをありがたがっていたということがわかったのだもの。そうした空疎なもののまさしく象徴なのだ。アメリカは、現代に至ってもそれが判っているかどうかはアヤしいところだけど。そうそうそう、日本的といえば、やたらと出てくる日本の片鱗。日本食レストランはもちろんのこと、はあ、向こうではシアツ(指圧)って定着してんのね、そういやあ他の映画でもシアツ、って聞いたような気が……。でもさ、あの畳の敷き方は違うでしょー。ちゃんと横縦に組み合わせなくっちゃ。

ベイトマンは物質の豊かさに惑わされて、それが自分自身だと思い込んでいて、その上で自分が大好きなナルシストなのである。ただのナルシストじゃなく、この空疎な前提が、彼を特徴づけている。彼が自分の美しさだけを信奉していたのなら、それこそクリスチャン・ベールが言及したようなドリアン・グレイの、そのデカダンな美しさにのみ耽溺できたのだろう。でも、ベイトマンは自分からその物質的、数字的なものを取り去った時に何が残るのかということに思いが及んだ時、ただの自分自身を愛せるのか、あるいはただの自分自身を愛してくれる人がいるのかということに、そう明確に思わないまでも、無意識的にその点に思いが及んだ時、狂ってしまったんだと思う。彼が自分の元に置く女たちは装飾品に過ぎないのだけれど、その女が他の装飾品と違って自分の思い通りにならないことに対する焦燥感と、そしてこれは矛盾なんだけど、装飾品ではなく自分を本当に愛してくれる女がいないことに対する絶望感もあって。それはそうはっきりと言及されているわけではないんだけど、ただ一人本当に彼を愛している、彼の病的な心の闇を知っても、それに対して涙を流すまでの愛を持っている、秘書のジーンの存在がそんなことを思わせてしまうのだ。ジーンを演じるクロエ・セヴィニー、彼女は数少ない、本当の意味での“役者”としての女優を感じさせる。

そしてその一方で、ひょーっとしたらベイトマンはホモセクシュアルだったのでは??とも思ってしまう。ナルシストというのもその象徴だし、なんつったって、あの女たちとのセックスの最中に、女に馬乗りになりながら自らの筋肉を鏡に映して悦に入る、あのシーンのクリスチャン・ベールときたら!それと、部屋でワークアウトをしながら、テレビに映し出されているのはなんと「悪魔のいけにえ」!!しかもである、あの、白々とした朝の光を浴びながらチェーンソーを振り回す殺人鬼の、まさしくあのトラウマ的ラストシーンなのである!あああ、彼はこれこそが自分を誇示する術だと思っているのか……彼の鍛えている筋肉が、それのために鍛えられているみたいな象徴的なシーン……。

とっと、ちょっと話がズレたけど、だから彼がホモセクシュアルなんじゃないかなー??と思ったのは、名刺で負けたルイスを殺そうと首に手をかけた時、もんのすごい勘違いされて、「君の気持ちはわかってた、待っていたよ」なんぞといわれ、その手の甲にキスされたあのシーンである!!!あるいは、予約がどうしても取れない超高級レストラン、「ドーシア」に一発で入れるポールに対する、執拗なまでの嫉妬心だって……あの楽しげにレインコートを着込み、彼にピカピカ光る斧を振り下ろすベイトマン=クリスチャン・ベールの素晴らしさよ!

80年代の空疎な豊かさを必死に押し隠すようにガンガンと陽気に流れるヒットポップス、それにのせて繰り広げられるスプラッターな殺人。まるであのヒット曲の数々は殺人のために作られたんじゃないかという錯覚にまで陥ってしまう。しかしこの殺人が本当に行われたものなのか、あるいはベイトマンは本当にベイトマンだったのか……劇中彼は違う名前を使っていたりして、あれ、と思うのだが、そして殺人を犯す自分を押えきれなくなることに対して追いつめられてゆくという二面性と、ついに自分の罪を告白した時に、君はベイトマンという男ではない、君が殺したという男に僕はロンドンで出会っている、と断言されるとき、本当に混乱の極みに陥ってしまうのだ。彼はベイトマンとして幻想の中でセックスや殺人やエクササイズを楽しむことで、空虚な自分をどうにか支えていた。結局は幻想でのみ満たされていた、フツウの人間だったのだ。異常な殺人鬼でもなんでもなく。でもそれが崩れてしまった時、彼はどうなってしまうのか……

その、幻想なのかどうなのか、クライマックスの、次々と殺戮を繰り返してゆく場面、ビルからビルへ駆け込んで撃ちまくるシーンで畳み掛けられるストリングスチックな音楽がイイ。それまでの80年代アメリカンポップスのヒットチューンとの対比か、インテリジェンスな趣すら感じる。でもそのインテリジェンスな、その旋律はシュールで、これから訪れる破滅を予告しているように思えるのだ。迫りくる不安に満ちた90年代の……。★★★★☆


アンチェイン
2000年 98分 日本 カラー
監督:豊田利晃 脚本:――(ドキュメンタリー)
撮影:豊田利晃 音楽:ソウル・フラワー・ユニオン
出演:アンチェイン梶 ガルーダ・テツ 永石磨 西林誠一郎

2001/5/22/火 劇場(テアトル新宿/レイト)
「ポルノスター」で鮮烈にデビューした豊田監督の第2作目は、ドキュメンタリー。意表をつかれた。監督自身はドキュメンタリーのつもりはないといっているのだが。“心の鎖を解き放て”というリング名の由来そのままに解き放たった結果、精神病院送りとなってしまったアンチェイン梶を軸に、彼を取り巻く3人のボクサーたちの5年間あまりを追いかけている。ボクシング、キックボクシング、シュートボクシング……今まで見たことのない熱い戦いと人生があり、実際に起こったホンモノのフィルムの前に、そのこっけいなまでの激しさに打たれる。ボクサーというと、そう、スターボクサーならばいろいろとクローズアップもされ、そのイメージは禁欲的なファイティングスピリットと、自分の信念に忠実な一人の聖人の姿である。でもここに登場する男たちは、その前にボクシングが好きで好きで、それに運命を感じていて、ボクシングがダメならばキックボクシング、それがダメならば……と何とかしてボクシングに捨てられたくないと願う。……そうだ、まさしく、捨てられたくないと。今ひとつボクシングの才能には恵まれていなかった梶は、そんな自身を痛々しいまでに体現している。ホンモノの姿として。

彼はだれよりも、そう自分よりも友達を愛し、大切にしている。部屋中に友達と撮った写真が貼られている。やたらと露出狂気味な梶に、子供っぽい可愛らしさが見てとれる。でも彼が才能から見放され、さらには阪神・淡路大震災後に始めた何でも屋事業「とんち商会」の経営もうまくいかず(……いかにもうまくいかなさそうな名前だもんなあ……)、奇行が目立つようになり、友達は次々と離れていってしまう。最終的に残ったのが、このガルーダ・テツ、永石磨、西林誠一郎の三人。永石磨は在日朝鮮人2世で、梶が兄夫婦に育てられたことで疎外感を感じていることに共感したり、梶の元恋人だった女性と梶の入院中に結婚したりと、何かと梶と分かちがたい縁がある。しかし永石は、退院してきた梶に会い、そのあとにこんなふうにもらすのだ。自分にとっては友情はそれほど大切ではない。家族がいるから、と。

なんだかその言葉にはふと気おされてしまった。家族のことで複雑な感情を抱えてきた永石だから、確かにその台詞には胸にこたえるものがあり、しかし梶にはそんな幸福な家族はいなくて、永石にしたって、2人の子供は彼女の連れ子であり、また自分と同じく、家族や血筋について悩む運命なのだ。友達も、家族も、ちっとも絶対的じゃなくって、でもその絆にしがみついていたいのは、自分のためなのか、それとも相手に対する愛情なのか。……判らない、判らなくなってしまった。梶はとっても人好きのする男で、陽気で、でも純真すぎるからなのかこんなことになってしまって、彼の笑顔がひとなつこくて愛しいほどに、なんか、すごく、見ているのが、つらい。

梶がおこした何でも屋、「とんち商会」は、労働者への仕事のあっせんなどを行っており、それによるトラブルが梶を破滅に導いた。震災後の混乱の中で、労働者に支払われる賃金が遅れ、クレーム電話がかかってきたのだ。その名はカジキ。……本当に事実だったのか、梶の妄想ではなかったのかと思うぐらい(でもその電話を取ったのは梶ではないのだから、そんなことはないんだけど)、その名前の不思議な符合。彼は“弟分”西林を呼び出して引き連れ、頭から黄色いペンキをかぶって上着の背中に同じペンキで“魂”と書き、労働者センターに殴り込みをかける。捕らえられ、精神病院に入れられる。病院から、梶が守りきれなかった恋人に当てて書いた手紙が、痛々しい。左手で書かれているという字はのたくっていて、陽気に振舞おうとしている文面が、かえってつらい。

三人の中では最も梶の親友と思われる、ガルーダ・テツが素敵だった。そのリング名は彼がキックボクシングに転向した時に、梶が贈ったキックボクシングの本場であるタイ(?)の守り神の名前、ガルーダ。彼が楽しそうに回想する梶との思い出話はとにかく可笑しくて、特にテツが働いていた映画館のオールナイトが終わったあとに観客がろう人形のようになって死んでいたという話は、ほんとに不謹慎なんだけど、可笑しくて可笑しくて。梶は自分が引退したあとも、このテツにはほんとにくっついていて、彼の試合の時にセコンドと称してやたらとまとわりつき、テツが勝って対戦相手と抱き合う時も2人の間にねじりこむように入っていっているのが、可笑しかったなあ。

そういえば、梶の退院後、永石と西林には再会するシーンがあるのに、テツとの再会シーンって、あったっけ?なかった気がする(ラストの方、睡魔が……)。テツの場合、わざわざ再会シーンを作るまでもない、って気もするし。テツが梶に対して、なんていうかリベラルな感じで、友情とか先輩後輩とか、そういう気負いがなくって、梶のことを困った男だなぐらいには思っていても、あまり気にしていないというか、なんかほんとに普通に、梶のことが好きなんだな、って気がしてしまう。ガルーダ・テツ、リング上での肉食獣のような激しい姿と違って、リングを降り、梶のことを話してたりするときの彼は、何だかやたらと素敵なんだよね……ああうう。

豊田監督、「ポルノスター」でこれだけ評価受けたんだから、本作はレイトなんかじゃなくて、きちんとロードショー後悔にしてほしかったなあ。それだけする価値のある作家だと思うのだけど。★★★★☆


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