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「う」


2005年鑑賞作品

ヴェラ・ドレイクVERA DRAKE
2004年 125分 フランス・イギリス・ニュージーランド カラー
監督:マイク・リー 脚本:マイク・リー
撮影:ディック・ポープ 音楽:アンドリュー・ディクソン
出演:イメルダ・スタウントン/フィル・デイヴィス/ピーター・ワイト/エイドリアン・スカーボロー/ヘザー・クラニー/ダニエル・メイズ/アレックス・ケリー/サリー・ホーキンズ


2005/8/26/金 劇場(銀座テアトルシネマ)
中絶の是非のこと、監督自身はどう思っているのかな……などと思いながら見ていた。いや、どうしても視点がそっちに行きがちだけど、本当は、このヴェラ・ドレイクという心優しい中年婦人を見つめた物語なんであり、中絶の是非を問う映画って訳じゃないんだけど……でも、やっぱり、考えちゃうじゃない。

そう、ヴェラ・ドレイクはとてもとても心優しい女性である。困っている人を放っておけない。常に目をかけてあげて、優しい言葉をかけて、一緒に悲しんだり励ましたり、食事に誘ってあげたり……その延長線上に、「困っている娘さんを助けるため」の中絶行為、があるのだ。
人工中絶が、法律で禁止されていて、違反した時は重罪と見なされた時代。確かに過去の時代ではあるけれど、その時代的価値を現代でもずっとひきずっていると言わざるをえない。それは、つまり、男性的価値観。
望まない赤ちゃん、時にはレイプによって身ごもってしまった赤ちゃんも(この時代だと、それが大半って気がする)、女は苦しんで産まなければいけない辛さが、どうして男に判るというのだ。
人工中絶が合法になった現代だって、産むか産まないかを決断しなければいけないのは女、身体にも心にも傷を負うのも女、それでいて、中絶をすると責められるのも女、決心して産んでも、上手く育てられなければ責められるのも女、なんてあんまりひどすぎる。男は自分が加担してるくせに、自分が加担しているどころか、大抵は男のせいのクセに、中絶をした女に氷のような目を向けるんだ。
……つい、暴走してしまった……でも、このことって、いつでも考えちゃう。なんて不公平なの、って。そりゃ、子供を産むことが出来る女性という存在は素晴らしいけれど、それをどれだけ男社会は判っているのかということなのだ。

この心優しい婦人、ヴェラ・ドレイクが、ここまでフェミニスチックなことを考えていたとは思わない。彼女は普通に家族を愛している。夫とはうらやましいぐらいの信頼関係を築いていて、彼女のこの罪が発覚して夫は一瞬動揺するも、それまでの信頼関係がモノを言って、彼女の心情を理解してくれるんだし、ちょっとチャラチャラした息子、シドは母親の罪に遭遇して、青臭い潔癖主義を振り回してカンに触るけど、それでも父親に説得されるだけの素直さを持ってるし、かなりイケてない娘は、なかなか言葉を上手く使うことが出来なくて、ただただ哀しげな顔をするばかりだけど、やっぱり女だから、判っているんだろうなって感じはするし。それにこの娘、エセルの婚約者で、やっぱりイケてないレジーは貧乏な境遇で苦労してきたから、お金のない娘たちが合法な中絶に手を出せないことを知ってて(ここが世間知らずのシドと違うところよ)、ヴェラに同情を寄せてくれる。ヴェラは捕まっちゃって、かなり厳しい実刑(禁固2年)を受けるものの、その点では恵まれた人だと言えるのかもしれない。

だって、彼女が捕まって刑務所に入ってみると、彼女と同じ罪で、しかももっと長い刑期で、しかも再犯って女性がいっぱい、いるんだもの。
ヴェラは確かにとても優しい女性。でも……ちょっと思うところは、あったんだ。実に20年もの間、そんな「可哀想な娘さん」に処置をほどこしてやっていたヴェラ。彼女たちが深く傷ついているのは誰よりも判っている……だけど、もうすっかり慣れた手つきのヴェラは、怯える女たちに、笑顔で優しい言葉ながらもかなり事務的と思えるスピーディーさで、大丈夫よ、じゃあね、みたいにささっと帰っていってしまうのだ。あとは流れ出るだけだから心配ない、もう来ることはないから、みたいな。秘密を守るためにそれはしょうがないことではあったんだろうけれど、ざっくりと仕事を終え、幸せな家族たちの元に何の不思議もなく戻ってゆくヴェラに、ちょっと……違和感、というか、恐ろしさを感じてしまったのは事実。
ヴェラの夫であるスタンの弟、フランク、の妻、ジョイス(ややこしい人物紹介だ)は、ヴェラを毛嫌いしている。若くてハデでイケイケで、慎ましい暮らしをしているヴェラと比べて消費バカみたいなキャラの彼女は、観客から見て憎まれっ子的な人物ではあるんだけど、彼女がヴェラのことを、「あんな身勝手な女」という台詞、判らなくもない、って思ってしまうのだ。ちょっと間違えば、偽善者。それは自分たちには出来ないことだから、ではあるし、誰もがヴェラをいい人だと評して疑わないけれど、それはジョイスみたいな消費バカ女を無言で軽蔑しているような存在であり、豊かな現代に生きる私たちは、ジョイスのような消費バカに他ならず、だからそんなことを、感じてしまうのだ……それこそ、愚かで醜いことなんだけれど。

先述のように、私は女にばかり子供を産むか産まないかの決断と責任を負わされる不公平に憤ってはいる。ただ……中絶にはやっぱり抵抗感がある。矛盾しているみたいだけど。それこそ自分勝手な男性的感覚なんだけど。この時代にも、母体に危険がある場合は、人工中絶が認められた。莫大な費用が必要だけど。カネのある富豪の娘は、血筋に精神病があると言ってうつ病を装い、正規に中絶を受けた。それでも心の傷には変わらない……。こんな風に、今生きている女性の方がお腹の赤ちゃんよりかは大切である、という価値観がかろうじてこの時代にもあるにしても、比較論で一方を殺すとか、命の重さ軽さを生まれていないだけで決めてしまうことに……やはり抵抗を覚えずにいられない、のだ。

マザー・テレサのような慈悲深いヴェラに違和感を感じるとしたら、そのあたりなのかもしれない、と思う。彼女はある意味すっぱりと、人格をなさない赤ちゃんよりも、今苦しんでいる娘さんの方が大事、と断じてはいる。彼女のほどこした人工中絶によって、危うく生死の境をさまよった女性のことを聞かされて激しく動揺することからも、それは明らかである。んだけど、彼女はこれが犯罪であることも重々承知していて、警察が来た時、即座に自分を捕まえにきたことを悟って、それから裁判に至るまで、もう動揺しっぱなしで、泣きっぱなしで、……ああ、こんなこと言いたくないんだけど、なんか、イライラしちゃうんである。それはね、多分、信念をもってやってきたんだったら、堂々としていてほしい、などと思っちゃったからなのかもしれない。無責任なんだけど……でもヴェラが刑務所で出会う同罪の女たちは、そういう信念をすごく感じさせるじゃない。ヴェラだけじゃなく、これだけ需要があったんだ、というのもこの時代の不幸だとは思うけれど。その女たちは、(捕まった原因が)「(処置をした)娘が死んだの?」とヴェラに問う。ヴェラは、「まさか!死んでいたら、生きていられないわ」と言う。女たちは、「私が処置した娘は死んだわ」「私も」とこともなげに言うんである。呆然と、黙ってしまうヴェラ。彼女たちはもう何度もこの刑務所に入っていて、それでも繰り返すってことは、それだけ確固とした信念があるってことなんだよね。ヴェラは初めて捕まっちゃったからこんなにおどおどとしているってことなのかもしれないけれど……何かね、あんなバカ女のジョイスの「あんな身勝手な女」って言い分が判っちゃうんだよね、ここでのヴェラの怯えた態度には。

演じるイメルダ・スタウントンは確かに素晴らしいんだけど、私はそんなアマノジャクなことばかり考えちゃったもんだから……。個人的にはエセルとレジーのほのぼのカップルが好きだったな。レジーは、ヴェラが可哀想に思って食事に呼んでやった、近所のビンボーな青年。ビンボーだけど真面目な青年だから、ヴェラはオクテな娘のエセルのダンナさんにはぴったりじゃないか、なんて思惑もあったのね。でもオクテ同士がそうそう上手くいくとは誰も思っていなかったから、二人が突然(周囲にとっては突然)婚約を発表した時は仰天するんだけどさ!「あの二人が付き合っていたなんて驚きだわ」なんて、随分な言い方だと思うんだけど……自分で引き合わせといて!だってさ、息子のシドなんて、レジーのこと、バカにしくさってたんだよ。シドはいかにも若い青年らしい青春を謳歌していて、ダンスホールで女の子を口説いたりしていたから、「レジーもダンスに行けばいいのに」なんてこともなげに言うのね。それに対して父親のスタンが、「レジーがダンスをするのか?」んで、二人してクスクスと笑う……ヒドいなー。そりゃ、レジーはかなり寸詰まりで、ダンスってガラじゃないけどさ……でもそんなイケていない青年レジーの方が、苦労している分、シドよりよっぽど人生への洞察力があって、親子であるシドより先にヴェラのことを理解してあげられるし、何よりそんな彼だからこそ、エセルの慎ましい良さを愛したと思うんだもんね。

警察がヴェラを捕まえに来たのは、レジーとエセルの婚約祝いの席である。夫のスタンは、有無を言わさず取り調べをする警察と、何もかも判った顔で悄然と従う妻に戸惑うばかりである。何かの間違いだ、と署に連行されるヴェラを追って警察署に行く。彼女の口から事実を聞かされる……子供たちには言わないで、と懇願するヴェラ。でもいつかは判ることだから、とスタンは子供たちにきちんと話をするのだ。確かにスタンはショックを受けてる。でも彼は妻を信頼し、愛しているから……。どんなにあのカルい息子のシドが母親をなじっても、即座に斬って返す。「母さんの優しい気持ちがさせたことだ」「確かに悪いことをした。だがもう十分に罰を受けた」「許せ。母さんはいつも許しているだろ」って……理解のない男はヤだけど、愛はそれを乗り越えさせるんだなー。
やはりここでも、ヴェラの信念の弱さを感じてしまう。それは女の信念の弱さなのかなあ……。スタンの信念の強さを感じもするんである。それは……男の信念の強さなの?
いやいや、実際は逆だと思うよ、なんて思うのは女のひがみなのか、それともこれがやはり男性監督の作品だからなのか。
だってさ、スタンの弟のフランクも、昔からお兄さんとその奥さんのヴェラが両親代わりみたいに育ってきたっていって、すんごく理解があるじゃない。ジョイスの理解のなさと対照的に。シドは確かに理解がないけど、父親の説得によってそれも解消されるっぽいし、何より若さゆえってところがあるから。で、レジーはこのとおり、とても理解があるでしょ、エセルは多分理解しているだろうと思うけど、あのとおり寡黙だから今ひとつ判りにくいところがあり。やっぱり女の信念の弱さを際立たせて描いているような気がしてならないんだけど……。

ヴェラは無報酬で中絶処理をしていた。仲介していた友人がカネをとっていたと知って愕然とする。この物資不足の時代に、やけにモノを安価で譲ってくれた友人、それもていのいい商売だったのだ。二重にもうけさせていた、あまりに人の良すぎたヴェラ……。だって実際に処置を施した者が重く裁かれちゃうんだもの

ラストシーンは、2年の実刑を受けたヴェラの、裁判を見つめている家族の打ちひしがれた顔と、シーンが変わって、テーブルにじっと黙って座っている彼ら、である。解説で言うような、明るい未来を待っているようにはとても思えないよ。暗い、絶望的な色合いにしか思えない。★★★☆☆


浮雲
1955年 122分 日本 モノクロ
監督:成瀬巳喜男 脚本:水木洋子
撮影:玉井正夫 音楽:斎藤一郎
出演:高峰秀子 森雅之 中北千枝子 岡田茉莉子 山形勲 加東大介 木匠マユリ 千石規子 村上冬樹 大川平八郎 金子信雄 ロイ・H・ジェームス 出雲八枝子 瀬良明 木村貞子 谷晃 森啓子 日吉としやす 林幹 恩田清二郎 馬野都留子 音羽久米子 三田照子 中野俊子 持田和代 堤康久 鉄一郎 大城政子 江幡秀子 河美智子 上遠野澄代 桜井巨郎 鏑木ハルナ

2005/10/13/木 東京国立近代美術館フィルムセンター(成瀬巳喜男監督特集)
成瀬巳喜男の一番の代表作ということで、この日は超満員だったんだけど……。
うっ……なんという、救いようのない話……ソーゼツ……。
あのね、超満員の、ギッチリの観客が、こんな救いようのない話を皆でじっと見つめているっていうのも凄い光景だなと思ったりして。
なんか某解説には、このヒロイン、ゆき子が、“最後まで環境の犠牲となった弱い女”などとシメてたりするんだけどさ、ちげーだろー。この女はうっとうしいぐらい強い女だよ。言ってみれば運のない女なのよ。弱い女だというならば、男を振りきれなかった弱い女、となら言えるかもしれないけど、好きな男を諦めない強い女、と言うこともできる。こんな男に、最終的に命をなげうつことになっても。それがうっとうしいってことなんだけど……。

ヒロインのゆき子も、ヒロインがあきらめきれない富岡も、双方共に見ていて共感できる部分が少ないっていうのが凄いと思うんだけど……富岡に関しては共感なんてゼロだな。でもそういう場合、普通はカワイソウな女の方にどっぷり感情移入するもんなんだけど、違うの。このゆき子の、なにかっちゃ男に泣いて訴えるトコなんてうっとうしいことこの上ないんだもん。でもそうされるのもムリないヒドい男だってことなんだけどさ。それならそうで、なんでこんなしょーもない男切ってしまわないのかと、少し時が立てばまた笑顔で逢いに行ってしまうのかと思ってイライラしたり、でも……判ってるんだ。判ってるからイライラするんだ。あきらめてしまえないことぐらい、その気持ちぐらい判るんだ。でもきっと自分にはそこまで出来ないと思うから。だってこの男といれば不幸になること、目に見えてるんだもん。自分なら、そこまで考えて、泣く泣く、みたいに別れてしまうだろうと。でもそれは逆に思い切れない弱さなのかもしれないと。ゆき子はね、強いよ。だってこんな境遇に落とされたら、彼女が言うようにどの時点で死んでてもおかしくないし、実際男を旅館に呼び出して、これから死ぬつもりだとか言うも、お手洗いに行って帰ってきて「死ぬのはヤメた」と言ったりするんだもの……この場面には思わず笑っちゃったけど、男も「便所で考えが変わったか」なんて言うしさー!(笑)

おっと、ついつい先走っちゃって。これじゃどういう話だかぜんぜん判らない。えーとね、時は終戦直後、ゆき子が富岡の家を訪ねるところから始まるわけ。顔を出した、前歯一本金歯の奥さんが、この女は誰だろうと頭のてっぺんからつま先までじろじろと見る。出てきた富岡とゆき子は旅館?に入って、思い出話をはじめる……そこここに回想が挿入されるのね。ここまでで数本成瀬作品を観てきて印象的なのはこの回想の挿入の仕方で、なんのためらいもなく、唐突かと思われるぐらい、挟んでくるところなんだよね。よくあるような、何年、とか何年前、とか、そこがどこか、みたいなクレジット全然入れないから、ふとしたら、今展開している場面の延長線上かとカン違いするんじゃないかと思ったりするんだけど、でもそれは全然ないの。確固たる意志で、ここでこの画だ、とバン!と入れてくるのが、それも演出の自信なんだろうなあ、と思ったりする。

で、ここで二人が思い出すのは、戦中、ゆき子が農林省のタイピストとして仏印に渡り、同じく農林省の技師である富岡と出会った場面である。ごめん……仏印って、どこ?まあいいや……東南アジアな趣。戦争中とはいえ、ノンキなお役所仕事をしているそこでは、なんだか妙に平和的な雰囲気である。そういやあ後の場面で、伊香保温泉で二人が出会った夫婦の、夫の方がやはりこの地にいたことがあって、あそこはいいですなあ、ドリアンは食べましたか?マンゴスチンは美味かったなあ、などと話していたりするのも面白いんだよね。
おっと、脱線してしまった。だからね、この地での……男ばかりの職場に紅一点の彼女が降り立った場面は、ふんわりとした広がったワンピースを着た、いかにもお嬢さんって感じの美人で、あまりにもそぐわないわけ。富岡は自他共に認める毒舌家で、最初はゆき子も敬遠するんだけど、他の男が忍んできて怖い思いをしたこともあり、二人散歩に出た時に、何か雰囲気に流されてキスしちゃう。この場面はね、この時点ではこの男がこんなしょーもない男だと判ってないから見てるこっちとしてもかなりドキドキなんだよね。うっそうとしげった森の中、足元の悪い中を彼女の手を引いてやって、ふと彼が振り向いた時、まるで、ぱん!と時間も空気も止まったようになって……そうなると、もう、キスするしかないでしょ!みたいな。でもさ、これがコイツの手だったんだよ。結局はね。だってこれ以降二人の女を同じ手口で落としてるんだもん。さすがにその二人目の女からそうされたことが語られる時には、またかよ!とか思って吹き出しちゃったぐらい、もはやギャグになっちゃってるもんなー。

結局、これ以降、二人は深い仲になる。彼は奥さんがいるのに、この地での雰囲気に流されて、日本へ帰ったら奥さんとはキッパリ別れて君を待っている、とか寝言を言ったらしい。今から思えばそんなの、その場しのぎの口説き文句に決まってるじゃないのと判るんだけど、ゆき子はそれを信じて、故郷の静岡に帰らずに、彼を追って東京に来てしまう。

そうそう、彼女、東京出身だと言い張っていたけど、彼が見抜いたとおり、違ったんだよね。そのことまで白状しているかどうかはこの時点ではさだかじゃないんだけど、とにかく彼女は何もかも捨ててやってきた。でも富岡の態度は煮え切らない。彼女が訪ねてきてもさして嬉しそうでもないし、昔話は色あせるばかりだ、と言うばかりである。これ以降、二人の場面では何度となくこの会話が繰り返され、あるいは日本に帰ってきてからの二人の道行きも、時が立てばまた思い出話として語られるんだけど、だから二人でいる時は、なんだかいつも過去の話ばかりをしているのよ。この二人に未来がないことを象徴するようで……。でもこの時点でのゆき子にはその仏印での彼との関係こそが全てだったから、男なんて身勝手だ、と泣いて訴えるわけ。もうそれ以降何度そういう場面が出てきたことか。でもさ、富岡もさ、ゆき子ときっぱり手を切ろうとはしないんだよ。なんでか、しないんだよ。それは彼女が指摘するようなハッキリとした卑怯な心持ちじゃないんだろうと思う。逆にそうじゃないからこそ、始末に終えないんだよ。計算ずくで、いい時だけ利用してやろうとか考えているならまだマシなの。この男はそういうんじゃなくて、その場の流れにまかせてしまう男なのよ。こんなに思っているゆき子を憎からず思っているから突き放さないし、「捨てるなんて言ってるわけじゃない」なんて言うもんだから、ゆき子はズルズルと彼に会いに行ってしまう。ゆき子は富岡が困った時には助けてあげるけど、ゆき子が困っても、富岡はその場限りの都合のいいことしか言わず、結局彼女をまた一段落ヒドい状況に落とし込んでしまう、ってな具合なのだ。

富岡だけを頼ってきたゆき子だったから、コイツは奥さんと別れる気もないんで、彼女は自分で生計を立てなくてはならなくなる。女一人、このご時世に仕事を見つけることは難しく、気も弱くなっていた彼女は、歓楽街で声をかけられた外国人の男に拾われて、娼婦になってしまう。どこで話を聞きつけたんだか、富岡がそんな彼女の元を訪れるのよ。笑顔でドアを開けたゆき子が一瞬のち呆然と、「……あなただったの」という場面は鮮烈で、まず、え?まさかコイツ客として来たわけじゃないよね!?と思い、さらに、ゆき子がね、あんな知的な美女だったのに、ハデめのメイクをしてイヤリングなんかもつけて、キレイにはしてるんだけど……なんかいかにもはすっぱなパンパンになっているのが、胸をついてしまうの。しかも富岡はこんな状態の彼女を救い出しに来たわけでもなく、自分なんかよりずっと元気にやってるじゃないか、とかまたしても寝言を言うし、果ては、また時々こんな風に会いに来ていいかとか、言うのよ!お、お前なー、それ、こういう立場のゆき子をどんなに突き落とす言葉かって、判ってんの!当然ゆき子は激昂して彼を追い出すんだけど、でも出て行った彼を追って外に駆け出す……も彼はもういない。

次の場面で、二人は伊香保温泉にいる。富岡はここで君と死のうと思っていた、などと言う。でもこの男はそんな気なんてあるはずないんだ。いや、自分ではあるのかもしれないけど、温泉でちょっとイイ気持ちになって、ゆき子から、あなたを長く生きさせたいなどと言われたら、そんなカルい気持ちはすぐにどっかに行ってしまうんだ。この場面で、ゆき子と富岡は一緒に湯船につかっている。白いなめらかな肌が胸元まで湯に洗われる高峰秀子にドッキドキである。いやー、この場面は二人、しっぽりと色っぽいですなあー、とか思っていたら、これがトンだ伏線でさ。富岡、さらにズルズル温泉にとどまる宿代を出すために時計を質屋に持ち込んで、そこの夫と意気投合し、彼の家に夫婦して泊めてもらうことになるんだけど、この質屋のダンナの奥さんのおせいというのが彼曰く、「娘みたいな年で恥ずかしいんですがね」というぐらい若くてピチピチした美人で、しかもどこか魔性の目つきで富岡をチラリチラリと見てるわけ。いや違うな、富岡がまずこの美人に目を奪われて、チラリチラリと彼女を見るもんだからさ。しこたま酒を飲んで、「風呂に入る」とおせいに案内されて戸口を出る、とそこでまんまゆき子の時とおんなじ手で彼女にキスよ。で、カットが変わったら、もう二人一緒に風呂に入ってんのよ!アゼン!おいおい、早すぎるよ!しかもそれはちょっと前にゆき子と一緒に入ってたカットとアングルもなにもかもまったくおんなじで、うっわ、なんつー残酷なギャグ?だよ!とか思って……うう、なあんてとんでもない男にひっかかっちまったんだよ、ゆき子……。

ゆき子は女のカンで二人の関係に気づいてしまう。女のカンっつーか、あからさまなんだもん。このおせいも、わざわざ富岡の洗濯物だけキレイに用意したりするしさ。ゆき子は問い詰めたりはしないんだけど、あまりの情けなさに泣き出し、別れを口にもする。で、こんな時も彼は別れようとせずなあなあに彼女を引きとめ、でもおせいが好きになってしまったことは正直に白状するもんだから、もう、こんな憎たらしいことって、ないの!しかもね、東京に帰ってきたらふつりと彼と連絡がとれなくなる。家も、引っ越してしまった。ゆき子がようよう彼の行き先をつきとめてみたら、そこは彼をおいかけてきたおせいの部屋で、富岡はここでおせいと同棲同然の暮らしをしているっていうんだから、もう開いた口がふさがらないとはこのことよ。で、そんな事態を抑えられても富岡は、おせいとは新宿駅でバッタリ会って、そのままここに引きずり込まれて……とかお前寝てんのかっていう寝言をまたしてもくだくだと言うのよ。この事態でよ!アホか!ってなもんよ。奥さんは重い病気だし、仕事もないし、落ち着いたらキミに連絡するつもりだったんだけど……などといつものような言い訳よ。

必死になって探し当てた男がこんな……。私ね、なんでまた、こんな薄情な男の居所を必死になって探し当てるの、もういいじゃん!って観ながら思ってたんだけど、実は理由があったんだよね。ゆき子、「もう、いいです。子供は自分で始末しますから」と涙ながらに出て行く。驚いた富岡、追いかけて、何を言うのかと思ったら、「僕は子供に恵まれなかった。産んだら僕がすぐに引き取るから、産んでくれないか」……あ、あ、あ、あのねー!!これ、どんだけヒドいこと言ってんのよ!「産んだら僕がすぐに引き取るから」って、それはこれを機にゆき子と一緒になるとかいうことはないってハッキリ言い渡しているのと同じだし、子供が欲しいだけで彼女を引き止めているのと同じだし……。で、「次の日曜にちゃんと会いに行くから、それまで処置は待ってくれないか」とか言って、案の定、この男、来ないわけ。いかにもその場限りなの。ゆき子は結局一人で始末する。でもその手術があんまりうまくいかなかったのか、その後体調を崩してしまう。彼女の悲劇の最期はこの時のことが原因だったんじゃないかと思われるフシがあり……で、この間、おせいは追ってきた夫に嫉妬に狂って殺されちゃって(!!!)、富岡の名前も情夫として新聞に載ってしまうのね。

次の再会、富岡がゆき子を訪ねてくる。ゆき子は以前関係のあった……ていうか、ムリヤリ処女を奪われた伊庭の家の世話になっていた。アヤしげな新興宗教で汚くカネを稼いでいる伊庭の仕事を、暇つぶし程度に手伝いながら暮らしているゆき子は、以前の沈んだ様子は影をひそめ、外見だけは若く華やかに戻っている。悄然とした富岡とは対照的で……富岡は、カネを借りに来たのね。あんな事件があって職にもつけず、しかも奥さんが死んじゃって、葬式代が出ないからと。
……この男がね、結局はこういう都合のいい時だけゆき子の前に現われるっていうのがシャクなんだけど、ただ、こういう時に彼女しか頼る人がいないっていう哀れさが、ゆき子の胸をうってしまうっていうのも、判るんだよね。そここそがこの男の、自覚していないだけ始末に終えないズルいところなんだけど!で、ゆき子は伊庭にも嫌気がさしていたから、金を盗んでそこを飛び出して、富岡を呼び出す。旅館から、「もう死ぬ」と電報を出して。そこに駆けつけちゃうのがまた富岡のそういう無自覚のズルさでさ、でもゆき子もこうなるとしたたかであるのは勿論で、富岡の言うとおり、死ぬといってもあっさりとそれを翻すし。
富岡が屋久島に営林局の職のクチを見つけた、という。4、5年、もしかしたら一生そこに住むかもしれない、と。富岡としてみれば、本当にここで彼女との縁を切るつもりだったのかもしれないけど、ゆき子はついていくと言ってきかない。今更伊庭の元には戻れないし、戻りたくもない。行ってみて、飽きたら私だけ帰ってくるからと富岡を説きつけて着いていってしまう。いや、ここでも富岡は強くゆき子を止められたはずなのよ。でもなあなあに彼女がついてくることを承知してしまう。で、これが最後の悲劇となった。

この旅の最中、屋久島に渡る直前、ゆき子は突然体調を崩してしまう。それでもムリに屋久島に渡って、彼が仕事で山に入った豪雨の日、血を吐いて死んでしまうのだ。あまりにヒドいラストなんだけど……ただ、ゆき子が体調を崩してから彼、優しくて。東京に帰った方がいいとは言いつつ、鹿児島で入院して身体を直してからゆっくり来ればいいと言ってくれるのも、今までと違って心がこもっているように感じたし、屋久島に着いてから彼女を元気づけようとする毒舌も、今までのそれとは違ったように思ったし……「女はどこにでもいるからね」なんていう言葉さえ、ここでは不思議に優しく聞こえるの。ゆき子も弱々しく笑って「憎らしい人ね」という台詞もいつもどおりなんだけど、でもやっぱり彼を愛している気持ちを感じるの。

何より、ゆき子があれほど皮肉っぽく涙ながら「私が死んだらせいせいするのよ、お線香もあげにこないわよ」と言っていたんだけど、ラストシーン、彼女の死に顔に紅をさしてやり、かつて若く美しかった彼女の面影を思い出しながら、彼女の身体に寄り添うようにむせび泣く富岡が……。壮絶で残酷な話だけど、このラストシーンで救われたような気がするのは、逆に哀しいのかなあ……。

優柔不断でイイカゲンな男を演じると森雅之ってやんなるぐらい絶妙ね。んで、高峰秀子の、さまざまに転落し、その度に表情を変える演技力の幅にすっかり感服。もう、この人って、凄いわ……。★★★★☆


失われた龍の系譜 トレース・オブ・ア・ドラゴンTRACES OF A DRAGON JACKIE CHAN & HIS LOST FAMILY
2003年 96分 中国(香港) カラー
監督:メイベル・チャン 脚本:
撮影:アーサー・ウォン 音楽:ヘンリー・ライ
出演:チェン・ジーピン(フォン・ダオロン)/ジャッキー・チェン(ファン・シーロン)

2005/3/10/木 劇場(新宿武蔵野館/レイト)
ジャッキー・チェンの系譜をたどるドキュメンタリーということで、彼がずっと隠し続けていた妻子のことが出てくるのかと思ったら、違った。それはラストシークエンス、家系図の最後にジャッキーの作った家族としてちらりと触れられるだけで、彼の両親の過去をたどるものだったのだ。そしてそれはこんな大スターのジャッキー自身の人生より、はるかに過酷で、中国の歴史、そのものだった。
そうだ、ジャッキー、彼は香港スターで、香港からイメージされる存在で、でも香港が中国へと返還されたことが象徴的なように、彼は中国の系譜をたどる人であり、いや、ハッキリと中国人なのだ。
それは彼の両親が、何より生っ粋の中国人だからである。この時代の中国の困難をモロにかぶり、そしてその中を生き抜いてきた強くたくましい中国人。
ジャッキーのような、努力の天才(ただ天才、ではなくて)が生まれたのは、この二人の血を引いているから。それは確かに必然だったんだろうと思うような。

彼らは再婚同士。お互いの伴侶はこの激しい時代の中、早くに命を奪われた。つまりは二人は、それぞれにこの時代を生き残った同士であり、運の強さは人一倍。
ジャッキーのような人物が生まれたのは、偶然ではなかったのだ。
でもそのことを、当のジャッキー自身が長いこと知らなかった。ずっと一人っ子だと思っていたジャッキー。両親それぞれもとの結婚相手との間に二人の息子と二人の娘がいた。つまり、ジャッキーには半分ずつ血のつながった兄姉が四人もいたのだ。そのことを知らなかったということは、両親が再婚同士だということも知らなかったんだろう。
そのことを、隠し通せたということ自体に、驚嘆する。でも確かに……赤ちゃんの頃、そして京劇学校に入って、そしてスターになるまでをたどる家族の写真をつぶさに見ると、忙しい両親のもとながら、この父母に溺愛されたんだろうなということが判る。
ジャッキーは実に健全な少年時代を送った後、完全寄宿制の京劇学校に入った。自らの意志で10年を設定して。それは単に勉強がキライだったから。両親は大好きだったけれど。でもこの両親は彼を学校に送り出した後、仕事のためオーストラリアに渡ってしまう。大好きな両親と離れ離れになってしまったジャッキーは、父親から送られてくるカセットテープを聞いていつも泣いていたという。
それでも長い長い間、ジャッキーは両親の過去を知らなかった。
それは、両親とも、思い出したくない過去だったからなのかもしれない。

それが語られることになったきっかけは、ジャッキーの母親の病気だった。画面に出てくる車椅子に座ったきりの母親は、表情もほとんどない状態である。そしてこの映画の完成後に亡くなってしまった。
ずっと話さずにいた自分たちの系譜を、父親はジャッキーに話しておこうと決意するのである。
この母親の状態、そして単純に年齢を計算すると、すっごい高齢になっているはずのこのジャッキーの父親、しかし驚くべき若さで、マシンガントークで、ウィットに富んでて、かなりゴーカイなお父さん。にこやかでユーモアたっぷりのジャッキーもとてもかなわないぐらいなんである。この大スターのジャッキーがかなわないぐらいの!
主にこのお父さんがジャッキーに話して聞かせる形で、進んでゆく。ジャッキーが主体となる過去については、時々ジャッキー自身が語る形態もとる。車椅子のお母さん始め多くの観客?の前でカラオケを歌う場面まで出てくる。そしてお父さんとお母さんのそれぞれの息子、娘たちが登場し、ジャッキーの生まれる前の、それぞれの前の家族での出来事を語る。

何より驚くのはジャッキーのその表情。そりゃこの人はもともと笑顔全開の人だった。スクリーンの外では、笑顔以外の顔を見たことがなかったぐらい。でもここでの彼の顔は。
とても、柔らかいの。見たことない顔。笑顔なんだけど、私たちファンに、そしてマスコミに乗せるあのスターの笑顔じゃなくて、本当に家族のことが好きだっていう、笑顔。
どこが違うんだろう。でも決定的に違う。ファンに見せる笑顔とは。少々ショックを受けながらも、彼の家族への愛情が判って嬉しくなったりもする。
でも、ただ……ジャッキーは、この半分だけ血のつながっている兄たち姉たちに会っていない。会うつもりもないという。こんな大好きな両親とさえ、会える時間は限られていた。そんな彼にとって学校時代からの仲間であるサモ・ハンやユン・ピョウの方がよっぽど家族と言える存在なのだと語る。ただ……そんなことを語っている時のジャッキーの表情はどこか硬く(それこそこんな表情のジャッキーをこそ、見たことがない)……彼の中でまだ解決していない多くのことがあることを物語っている。
ジャッキーの言うこと、判るけれど、彼が寄宿生活のことを語る時、週末、帰る家のない自分にとって友達たちがうらやましかったと言っていたじゃないの、と思って少し、哀しくなる。
でも、ジャッキー自身がこの映画を製作をした。それには少し驚いたけど、多分彼は、自分で乗り越えなければいけない問題だと、自身で思っているからなんじゃないかって、思う。

ジャッキーの両親の半生、いや全人生は、壮絶そのものだ。日中戦争から始まって、国内での内乱によって命を狙われる日々。そしてやはり出てきてしまう日本人による、戦争だから仕方ないと片付けるにはあまりに非道な殺戮。南京大虐殺が映像として出てくることは衝撃である。南京大虐殺は日本では歴史の事実として認めていないことは知っていたけど、だから私は歴史教育の中でこのことは全く知らずに育ってしまい、この映画を観た後ちらりとネット検索したら、日本では思いっきりこれが虚構だとの前提で話が進められていることに改めて驚いた。そりゃ私は歴史には明るくない、明るくないけど……戦時下で明らかに日本軍によるあまたの殺戮は行なわれていたのに、数の矛盾だのを取り上げて(そんなもの、語られる過程で誤差が出るのは当然じゃないの?ヒドい目に合わされれば余計に)ウソだと言う日本人という存在自体が、なんかもう、ヤメてくれって感じで。そんなこと、言う立場か?日本人!どちらにしろ、そういうことを語られる要素があるってことでしょ!っていう……。この映像、ひざまずいた何人もの人間が、次々と日本刀で首を落とされる映像。話には聞いていても、実際にそんな映像が残されていること、そして日本人の目には触れずに(なんたって大虐殺事態が数の矛盾だけで虚構だと語られるぐらいなんだから)現代まで持ち越されてしまったこの映像の事実。そしてこの映像が含まれた本作を配給したこと自体に、勇気と尊敬を感じる。いくら戦争という、正常じゃなかった状態であっても、この事実から目をそむけてはいけないでしょ。
……ちょっと、話が脱線してしまった。でも、これはこの作品を日本で公開するにあたってハズせないポイントである。しかもジャッキーのお父さんは生き証人であり、しかもスゴいことに、彼は自分の目で見たその“映像”を、怒りを交えるわけでもなく、本当に、人間ドキュメンタリーよろしく、すらすらと語っていく。刀で切られた首の様子や、血の吹き出し方までを!
これは、ジャッキーの家系のドキュメンタリーではあるけど、そういう意味で、貴重な歴史ドキュメンタリーと言えるのではないか。

……私はね、もうたまらなかったの。だって、私が映画を好きになった決定的なきっかけは、ジャッキーだったんだもの。冒頭にジャッキー黄金期の名シーンがつづられる。プロジェクトA、サンダーアーム……その凄さは今観ても鮮烈。それらを観てない若い人には、ぜひとも観てもらいたい。本当に、凄いから。
ジャッキーはファンの多い日本に何度も来てくれるし、親日家じゃないかと思われる節もあるし、いつでも日本のファンにとても優しくて、そのことについて何の疑問も持っていなかった。
いや別に、ジャッキーが何か偽っていたとかじゃなくて、何より私たち日本人が、そんなことさえ知らずに、ジャッキーの優しさを享受していたってことが……なんかもう、許せなくなっちゃったのだ。
ジャッキー自身がその時代にヒドい目にあったわけではないんだけど、でもそんな風に自分たちの息子が大スターになって、かつてのそんなヒドいことされた国に熱狂的に迎えられているのを、彼の両親はどんな思いで見ていたのかな……って、思わずにはいられない。
それでも、両親はジャッキーに何も言わなかった。教えなかった。自らの壮絶な過去のことを。

それが、凄いと思うんだ。だからこそ、世界のスター、ジャッキー・チェンは誕生した。そして今、ジャッキーもまた、今まで知らなかった過去に、直面している。彼だって中国人だもの、そういうことには日本人以上には触れてきたとは思うけど、でも、香港に住んでいた中国人、だった。中国人というより香港人、だった。香港という刺激的な土地で活動することにこそ、意義を感じていたに違いない。
でも、香港は中国に返還され、ジャッキーは自らのルーツを知り、そして今……多分、揺れている。
ジャッキーの父親は、長い間行方の知れずにいた息子たちを探し出して、再会した。父親も母親も、この過酷な時代、生き延びるためには子供たちを捨てるしかなかった。
でもそんな親を、子供たちは責めることなどしない。自分たちの力で必死に生き延びて、親の無事を知った時には、仕方ない、そういう時代だったんだからとあっさりと語る。これにも驚く……そう、そう言わせるほど、思わせるほどの、過酷な時代、だったのだ。
そういう時代を知らない私たち、そして……言ってしまえばジャッキーも、幸せなんだろうけど……幸せ?なんだろうか。
私はジャッキーが好きだから、彼のルーツを知りたいと思った。でも、そのことが、自分たちのぬるま湯を突きつけられることになるなんて。
ジャッキーは全く知らなかった兄や姉の存在を、まるで否定するかのように、会うつもりはないという。ジャッキーにはありえない、硬い表情で。ジャッキーにとって、それは知らない過去、だからなのだろうか……。

でも、先述したように、ジャッキー自身が、この映画の製作をかって出ていることに、少々驚いたりもしていた。映画の中では納得した様子は感じられなかったジャッキー。両親に対するまっすぐな愛情は疑いもなかった反面、まだ会わない兄と姉には複雑な表情を残したままだった。でもそれは、ジャッキー自身の“今”を、ジャッキーらしく、隠すことなく、見せてくれているようにも、思えた。
ファンにはいつでも誠実だったジャッキーらしく(妻子は隠してたけど)。

あの壮大な中国歴史映画、「宗家の三姉妹」のメイベル・チャンだから撮れた、真の中国の歴史映画だと思う。ジャッキー・チェンというスーパースターをフィルターにしながらも、これはまごうことなき、中国という大陸に生きた市井の人間の目を通した、渾身のドキュメンタリー。
メイベル・チャンが記している。この映像を撮った後、公開する段になっても、ジャッキーがまだ兄姉たちに会っていないこと。
そう記すっていうことは、“まだ”だっていうことを、強調しているんだと思う。ジャッキー、会ってほしいよ、かけがえのない家族に。あなたを誇りに思っている家族に。
お父さんは、時代のため改名していた苗字を元に戻した。そう、ジャッキーは、チェンではなかったのだ。ファン(房)だったのだ。その家系図を作るべく奔走する。彼がずっと逃げ続けていた過去、それと向き合った、集大成の仕事。
そこに、ジャッキーも当然加えられる。世界的なスーパースターとして記述されながら、彼の本名、そして長いことファンに隠匿されてきた妻子のことを。
血って、たかが血だけど、ホント、されど血、なんだね。

ジャッキーが好きだからと、単純に見に行っちゃったけど、それだけに、ガツンと来てしまった。あまりにも、知らないことが多すぎるね。これからは、真の意味で、自由な国になってもらいたい、と思う。

ジャッキーはこれからも、日本のこと、好きでいてくれるかな……。★★★★☆


宇能鴻一郎の 濡れて打つ
1984年 55分 日本 カラー
監督:金子修介 脚本:木村智美
撮影:杉本一海 音楽:
出演:山本奈津子 林亜里沙 沢田情児 原田悟 石井里花 高山成夫

2005/5/24/火 劇場(銀座シネパトス/特集・日活ロマンポルノ・アラベスク2005/レイト)
金子修介監督のこれがデビュー作だということで……はー、そうですか、もうそんなことどーでもいいほどのこのバカバカしさは、でもあんまり好きな種類のバカバカしさじゃないかもなあ。うーん、とか言いながら結構笑ってたけどさ、私も。ちょっと、アレかな。ヒロインの女の子が80年代アイドル的目も当てられない演技のヘタさのせいかな。いや、多分単純に私の好みのコじゃないからかな(爆)。だってさー、お蝶さまが「私の子猫ちゃん」(!)と可愛がるのがちょっと首をかしげちゃうもん。ニキビあとも気になるし。

お蝶さまでもはや判っちゃうけど、いーのかね、コレ。モロ「アタックNo.1」のロマンポルノパロディー版である。あ、でもそういやー、「スケバン刑事」のピンクパロディー版っていうのもあったから、そういうのって、い、いいんですかね。あ、しかもこれ、当時スポーツ新聞に連載された原作モノだっていうし。それにしてもホントまんまである。お蝶さまに、ひろみに、北條コーチっつーのは今ひとつ名前を踏襲してないけど、「アタックNo.1」があそこまでコテコテの、ちょっと笑っちゃうようなスポコンだったからこそ許されちゃうんだろうな、こういうパロディーが。シリアスなものがベースにあったら、怒られると思うよ、ホント。

新入部員の細川ひろみはお蝶さまに目をかけられ、テニスが上手くなりたいなら男とつきあうのは厳禁よ、と言われる。彼女を崇拝しているひろみはそれを誓うんだけど、お蝶夫人のお気に入りである男子スター部員の坂西君とさっそくイイ仲になって、朝から温室のなかでヤッちゃうありさま。そんな中、ひろみがお蝶様の誕生日プレゼントを選びにスポーツショップへ行き、狭いエレベーターに乗り込むと、そこに乗り合わせたジャージ姿の男が、いきなりエレベーター止めちゃう。
「故障でエレベーターが開かない!息苦しくないか?脱水症状を起こしているんだ」
そしていきなりひろみの股間に手をいれる!?
「何するんですか!」
「脱水症状を起こしていないか確かめるんだ!」
……(始まっちゃったよ……)
素直に従うひろみ。この時点で彼女の頭の弱さが露呈。パロディとはいえ、この後の展開でもこの方向への頭の弱さがあまりにもで、さすがに引いちゃうのが私がちょっとなーと思う原因かも。
「やはり脱水症状を起こしている。服を脱ぎなさい」
「どうしてですか?」
「死にたいのか!さっさと脱ぐんだ!」
服を脱ぐひろみ。下まで脱いじゃって全裸である。いや、だからね……。
「じゃあ、治療をする。肉棒注射だ。栄養を注入するんだ」
脅されているという風もなく、素直にバックで入れられるひろみ。「宇宙遊泳している気分」などと陶酔してる……って、お前なー、どんなバカでもいくらなんでも気づくって。しかももだえまくって、「坂西君以外の男の人に入れられたのは初めて。人によってこんなに違うものなのね」と甘美な余韻にひたってやがる。

その男が翌日、なんと新しいコーチとして赴任してくる。驚くひろみ。しかしそのコーチは特にうろたえた様子もなく、ひろみをお蝶様と共に代表選手候補として抜擢する。これから特訓して、お蝶様と試合をし、勝った方が代表選手になるんだと。お蝶様を崇拝している彼女は、そんなこと出来ません!と拒絶。「あんなことをしたこと、理事会に訴えてやるから!」お、ちょっとはまともな神経を持ってたか?
「あれは、お前がいい腰をしていそうだからテストしたんだ。テニスには腰のバネが必要なんだ」
「は?」
まさしく鳩が豆鉄砲くらったような顔で首をかしげるひろみのアップに思わず吹き出す。
「思ったとおり、いい腰をしている。お前には素質があるんだ」
それでひろみも納得してんなよ……やっぱ、頭ヨワいわ、このコ。
しかもダメ押し、何も知らないお蝶様は、可愛がっているひろみなら相手に不足はなしと、頑張ってみなさい、私も手加減しないから、と声をかけてくれる。ひろみは俄然やる気になっちゃうのね。

……まあ、このあたりまではまだマシな展開なのかもしれない。お蝶様は、ひろみと坂西君の関係を知ってしまい、激怒。ひろみに坂西君をとられたというより、可愛い私の子猫ちゃんが(……)、しかもこんな大事な時にダメになってしまう!というんである。お蝶様の取り巻きがひろみばかり可愛がられるのに嫉妬してチクったんだけど(……まあ、っつーか、赴任してきたコーチにホレちゃって、ここでも彼女が贔屓されているからってことだったんだけどね)、「あの子ったら坂西さんとあーんなことや、こーんなことしてたんですよ!」「ええッ!?」っつーのを、ここだけモノクロのストップモーションでやけに大仰にやるのには大爆笑。マンガさながらに二重のお目々をガッとばかりに見開いて驚くお蝶様は、この女の子は演技もまあマトモだし、かなりキャラに気合い入ってるからちゃんと可笑しいのね。ちゃーんとお蝶夫人そのままの縦ロールヘア、こないだドラマでやってた某女優よりもお蝶夫人に近い。

んで、お蝶様、坂西君を誘い出し、この男も性欲バカな男だから、お蝶様とヤレるんならひろみなんて、とすぐに陥落。しかしお蝶様に上に乗られてすぐ漏らしちゃって(……おいおい)、「プレイボーイの名が泣くわよ」とソデにされてしまう。その証拠ビデオを見てしまいショックを受けるひろみだけど、気丈に「私のためを思ってやったんだもの。お蝶様、やっぱりカッコイイ」と言い、お蝶様に未練たらしくベタベタする坂西君からお蝶様をもぎとり、「お前ら、レズビアンかよ!」との彼の遠吠えに、思わず肯定してしまうんである。と、と!「なぜ早くそう言ってくれなかったの、ひろみ!」とお蝶様から熱いキスを!?ひやッ!お蝶様はホントにそーゆー意味でひろみが好きだったの?おっとー!これはイイ展開かも……と期待するも(何を期待してんだ、私……)、結局二人の描写はそれで終わっちゃって、つまんない。やはりここはせっかくキャラをここまで踏襲してんだから、お蝶様とひろみのそーゆー場面があったらよりパロディとしておもしれーんじゃないかと思うのは、単に私のシュミの問題だろーか……。ひろみがその後も男に走るからお蝶様はまたまた激怒するってわけで。

ところで、この証拠ビデオを撮っていたのが、ひろみに片思いしている報道部の玉本君である。この男もなー、コーチにホレちゃったあの女子部員に誘われてあっさりヤッちゃうあたりがなー。この場面は女からの強姦?みたいな感じで玉本君はムリヤリヤラされたって雰囲気ながらも、すぐに彼が体位を上に替えちゃうしさ。どうやら立派なモノを持っているらしい見た目は地味なこの報道部員に、欲求不満がつのっていたこの女子部員は「……拾い物かも」と舌なめずり。まー、この場面は一応伏線ってことで、つまりは玉本君はホントに立派なアレの持ち主であり、後にひろみがそこにまたがることになった時(ほんっとにこのコはどーしよーもないね)、失神するまで感じちゃって、「だって玉本君のアレ、凄いんだもん」と驚嘆するわけ。うーん、うーん、うーん……私はねー、女の子は好きだが、こういう頭のヨワそうなコはダメよ。パロディでもね、アホはダメなの。パロディを笑わせるある程度の頭の良さを感じさせてくれないとさ。

つーか、このコのその前の場面が一番アホなんだよなー。つまりあのコーチはエロコーチでさ、ひろみを鬼コーチとして特訓するなんてのはホントに一瞬の場面だけよ。カットが切り替わったら、なぜかお風呂場で彼女にシャワーをかけている。
「何するんですか!水が目に入って前が見えない!」
「そんなことでどうする!試合には雨の日も風の日もあるんだ!」
まあ道理だけど、でもそれでお風呂場はヘンだろ。しかも次の台詞でそういう状況での特訓ってことがいきなり無意味になる……っつーか、まあ最初からそれが目的でこんなところにいるんだからムリもないけど、
「ユニフォームが(水に濡れて)重いんです!」
「じゃあ、脱げ!」
!?バッ、バッカじゃないのお!とパロディとはいえさすがに開いた口がふさがらん!相変わらず素直に脱いじゃうひろみって、お前なー、いくらなんでもそこまでいきゃおかしいだろ!さっそく、「腰を鍛える」の口実でひろみに入れようとするコーチに彼女は、もう男の人とそういうことはしないとお蝶様と約束したから……と言う。お、ちょっとはマトモな神経持ってたか?と期待した思いは当然あっさり裏切られ、「バカモノ!これは特訓だ!腰のバネを鍛えるんだ!」あっさり従っちゃうひろみ、って、あ、あのねー。やっぱり頭ヨワイよ、あんた……「あの肉棒注射が忘れられない」とモノローグするから、一応はこれがオカシイことだと判ってて、自分の弱さを自覚しているのかと思いきや、その場面をお蝶様に見られたひろみ、慌てて彼女を追いかけ、「あれは特訓なんです!」と弁解するんだから、やっぱり頭ヨワイっつーの。返すお蝶様の、「テニスは腰だけじゃなくてよ!」という台詞はマトモだけど、そこで言う台詞じゃねえだろ!とまさに腰くだけ。しかしこんなシュラバにそういう、テニスを愛する観点でモノを言うお蝶様が徹底してるのが、頭ヨワくない可笑しさで、イイんだよね。

ひろみはもう玉本君とラブラブになっちゃってるし、つまりは「お蝶様はテニスに男はいらないと言っていたけど、私には当てはまらないみたい」とすっかり悟り、というより、開き直っちゃってて、っつーか、お前、最初から全然言うこと聞く気なかったもんなー、という状態でさ。試合の日には、玉本君もついてるし、って具合に気合いがみなぎってる。ひろみのことが可愛い気持ちは変わらない(ってあたりがスゴい)お蝶様は、「また新しい男が出来たのね」と瞳に炎を燃やし、「わたくしは、あなたに負けるわけにはいかないの。1セットも与えなくてよ」と、こちらも気迫充分。んで、激しいラリーの応酬……おお、テニス映画らしいじゃないの、と思いきや、それもまたほんのつかの間で終わっちまい、ひろみの会心のスマッシュがバウンドして狙い打ちしたのはお蝶様の股間!しかもそのボールはぐりぐりと回転して彼女のソコを刺激しまくる!って、あの、あの、あのあのねー!まあその、エロパロディーとしては確かにここまでやってくれりゃー文句はないけど、それにこれがひろみが受けたものだったらそれこそまた私はぶーぶー文句を言ってそうに思われるが、ここはキャラを徹底的にまっとうしているお蝶様だから、そのバカバカしさにも素直に笑える……が、あんまり出来のいいギャグとは思えんけどさ。で、彼女は哀れ腰くだけとなり、ひろみは無邪気に(つーかアホまるだしに)駆け寄ってきた玉本君と抱き合ってくるくる回りながら、この勝利を喜ぶ。

んで、次のシーンでは、ひろみの部屋にしのびこんだ玉本君と彼女がエッチしてる、とそこにカーテンをジャッ!と開けてニッカリ笑顔のコーチが、「細川、俺にもヤラせろ!」……なんつーオチだよ、これ、既にコーチ、コーチだっていうムリクリな言い訳さえ放棄しちゃって、これじゃただのセクハラ教師だろー!

まあ、だからさ、ひろみ役のコが、それこそアニメを踏襲してこう、もっと頑ななコが陥落していくとかさ、あるいはこんな知能の足りなそうな感じじゃなくて、フツーにフツーのコであるかさ、あるいは、もちょっとカワイイコならさー、このアホなパロディをもっと楽しめたんだけどなー。いわゆる少女モノ、つまりはアイドルモノのパロディでもある分、このヒロインはちと辛いよなー。★★☆☆☆


姑獲鳥の夏
2005年 123分 日本 カラー
監督:実相寺昭雄 脚本:猪爪慎一
撮影:中堀正夫 音楽:池辺晋一郎
出演:堤真一 永瀬正敏 阿部寛 宮迫博之 原田知世 田中麗奈 清水美砂 篠原涼子 すまけい いしだあゆみ

2005/7/21/木 劇場(丸の内TOEI2)
じっ、実は、これほどの売れっ子作家、京極夏彦氏の作品って、ひとつも読んだことがないのです。ごめんなさーい!でもこれは「京極堂シリーズ」と呼ばれる第一作であり、彼のデビュー作であり、これから映画化も続きそうな気配がするから、これをきっかけに読もうかなとも思ったり……いや、最近ホント自分の活字離れをひどく危惧しているので。「「怪」七人みさき」にも魅せられたことだしなあ、こういう日本古典文学の世界を色濃く反映した世界は、魅力的には違いないもの。

実際京極氏は相当な日本古典マニアだと思われる。主人公「京極堂」はそりゃあ間違いなく本人の理想の姿を模したに違いないし。京極氏の風貌、ホントに陰陽師で憑き物落としとかやりかねないもの、なんて言っちゃうのはマズい?
で、なんとも嬉しそうにご本人が出演しているその役が、傷痍軍人であり、神社で紙芝居のおじいさんが「墓場の鬼太郎」をやっているのをこれまたなんとも嬉しそうにながめている、ということはつまり水木しげるなんであって、水木しげるをこよなく敬愛する京極氏が、多分自ら提案したに違いないんだろーなー、この役。
でも、京極さん……ちょっと太ったかい?いやいやカンロクかな。

原作、それどころか京極作品をちいとも読んでいない私が内容について云々は非常に書きにくいものがあるわけで……。だからここは役者さんのことから始めよう(弱気だなー、我ながら)
一応ピンの主人公として京極堂がいるわけだけれども、この主役を含めて三人の男優が、皆主役と言っていいほどの活躍であり、しかもこの三人ともが面白いほどの個性の違いをぶつけてくる。この作品が映像化不可能と言われ、こういうあやかし映画を作るならこの人、という実相寺監督がどうそれを表現するか、が第一の注目ということだけれど、原作読んでないこちらとしては(無責任な言い方だよなー、いかにも)この個性派ぞろいの男優たちがじつに興味があるわけ。

堤真一、永瀬正敏、阿部寛、というお三方は、それぞれ、舞台、映画、モデル、と出自を異にしてて、今は三人ともそれらのフィールドを縦横無尽に駆け巡っているわけだけれども、このもともとの出自の違いが、この競演にとっても興味のある効果をもたらしているように思うのね。
ボサボサの寝ぐせ頭がなんともチャーミングに母性本能をくすぐる、京極堂の役の堤真一。京極堂自身は古本屋の主人、神社の神主、憑き物おとしをする陰陽師という三つの顔を持つ、完璧でクールな男なんだけど、そういう完全無欠な男だからこそ、ビシッとえんじ色の和服で陰陽師をキメていながら、頭がボサボサというそのかまわなさが妙に色気を感じさせ、カワイイなぞとオンナに思わせてしまうのよね。それにこの京極堂、感覚派の関口と違って論理派であり、「この世には不思議なことなど何もないのだよ」が口癖、その「不思議」に心を支配されてしまう関口を、実に学術的に論破する、ネライどおりの舞台調の台詞が、落ち着き払った舞台映えする腰のすわりっぷりとビシッとキマるんだよなー。なるほど、彼は舞台出身なんだよなー、と感心してみたり。

そして、その不思議に心を支配されてしまう関口に扮するのが永瀬正敏。彼は関口そのものの感覚派、なんだよね、まさしく。彼は見たくないものは見えない。頭の中にうずまいているのは、実際に見ている映像が届いているのではなく、彼がそう願っていることや、あるいは逆に、とてもとても恐れていることだったりする。つまり彼にとって現実に起こっていることは届かない。これだけ恐怖にさらされていながら、穏当な現実を見ようとせず、自ら恐怖に身を捧げているとも言える。
永瀬氏は、映画出身の人。とてもセンシティヴだし、そこにあってそこにはない映像という世界に似合っていて……それは彼自身がその役なり世界なりをコントロールするのではなく、そういう強さを自ら排除して、映像というはかなさに翻弄されることをよしとしている点であり、そこは役者と舞台という二大原理を完璧にコントロールしようとする舞台型の堤真一とは明らかに違うのだ。

そしてもう一人、モデル出の阿部寛、モデルもまた舞台とちょっと似ているけど、より見た目というか、存在感のパワーが違う。この人は文句なしの美形だけど、美形すぎて、ちょっとヘンな感じがする。最近の阿部寛はその「ちょっとヘンな感じ」を遺憾なく発揮していて、オチャメな変人ぶりを、言動ではなく彼自身のオーラできちっと玉を投げてくるのが凄いと思う。同じ美形組でヘンな男優の加藤雅也と比して、ヘンさが明るい方向に行っているのが阿部寛で、暗い方向にいっているのが加藤雅也って感じ?
阿部寛の演じる榎木津という探偵は、左目が見えない。その見えない左目は、人の記憶が見える。京極堂が「世の中には不思議なことなんて何もない」と言うけれど、この現象は充分不思議である。でもそれをことさらファンタジーにせず、彼のこの能力をひどく現実的にとらえているのが、阿部寛のオチャメなヘンさによく似合っているんである。

えーと、ストーリーの本題に入ってみようかな。タイトルの姑獲鳥、とは、日本では、子供を抱いてくれと請う女の妖怪であり、中国では、鳥に化けて赤ん坊をさらいに来る女である。じゃあなんなのかっていうと、お産で死んだ女の無念を形にしたものなんだという。
このことについては、知識の豊富な京極堂によって、各所で詳細な説明がなされる。古典文学の書物の名前やその書面、古い画などがふんだんに盛り込まれた世界は、日本古典の豊穣さを実に魅力的に、映像で垣間見ることが出来る。
関口が、京極堂の妹である編集記者(田中麗奈。相変わらず今ひとつだな……)から聞かされたのは、20ヶ月もの間妊娠している女と、密室から忽然と姿を消したそのダンナの話である。不思議、をまっすぐに信じてしまう関口は、それ以来姑獲鳥の妄想にとり憑かれてしまう。
でもこの事件との出会いは、運命の不思議とでもいったものだったのかもしれない。京極堂は不思議なことなどこの世にはないといったけれど、この事件とのかかわりは不思議な縁(えにし)としか言いようがない。

この、20ヶ月妊娠し続けているという梗子という女性に、先輩から頼まれて恋文を渡したのが関口だった。
つまり、その先輩、牧朗が失踪したダンナである。
しかし関口が手紙を渡したのは梗子ではなく、姉の涼子だったんである。
その手紙を渡した時、関口は彼女とマチガイを起こしている。でもそのことは、関口の、見たいものは見えない、覚えていたくないものは覚えていない、という“能力”によって、記憶から消し去られている。他人の記憶が見える榎木津はだから、関口が彼女とは初対面だと言うことに、いぶかしげなんである。
更にこの手紙に書かれた、梗子という文字が、京子、と間違って書かれている。手渡された涼子の涼の文字にも似た字……涼子は自らの中の京子を育て始める。つまり多重人格である。
しかし涼子は妹の梗子を確かに愛している……。

はああ、なんともはや、フクザツな事情。この多重人格というのは物語も後半になって明らかにされるんだけど、姉妹なのに、双子のように似ている涼子と梗子というのは、なんだかそれだけで猟奇性をおびている。
双子(似ている姉妹)ってなんかコワいんだもん……と思うのは、「シャイニング」に影響されすぎだな……。
劇中では原田知世が二人共を演じており、しかも涼子はその中に二つの人格を秘めているわけだから、いわば三役である。大人の女優となってからはあまり映画に顔を見せてくれなかった彼女だけど、さすが本来映画女優である彼女の、本領発揮である。
やっぱり、スクリーン映えするというのは、あるんだよね。ただ美しいだけじゃなくて、彼女のこのはかなさというか、頑なな強さがくるりと弱さに反転してしまうようなところというか、何層もの秘密が重ねられているような感じというか。
榎木津の事務所で“初めて”会ってひと目で魅せられてしまう関口。勿論過去にそういう、彼自身の記憶を封じ込めた中でのことがあったにせよ、なるほどひと目で陥落してしまうのも納得するほどの、彼女の美しさなんである。

梗子のダンナの牧朗、演じるのが恵俊明。梗子に恋い焦がれ、大医院の娘である梗子の家族に認めてもらうためにドイツに留学して医学を修め、しかし戦争で下半身に負傷を負ってしまい、せっかく彼女の家族に認められたというのに、子供がつくれない身体になってしまう。
その、不能のダンナの替わりに梗子を“なぐさめる”のが、この医院の医者である内藤である。「イン・ザ・プール」に続いての、キモチワルイ医者役の松尾スズキ。間違ってもこの医者にはかかりたくない。
牧朗はその事実を黙認し、しかし彼女との子供が欲しいと、体外受精の研究にいそしみ、成功する。
彼が殺されたのはそのことを妻に打ち明けた夜である。妻は錯乱して彼を刺し殺し、死体はそのまま彼女の寝室に放置された。室温の低いその部屋で、死体は腐ることもないまま、蝋化し、部屋に入った関口はそれを見ているはずなのだけれど、見たくないものをシャットダウンしてしまう彼には見えなかった。

なるほど、「不思議なことなど何もない」んである、京極堂の言うとおり。事実はもう最初から決着がついていて、そこにきっちりと露呈されていて、関口が久遠寺家の呪いを解いてくれ、と京極堂に懇願するも、京極堂が、もうすべてが終わっている、憑き物落としが必要だとすればお前だ、と言ったのはなるほど、当たっていたのだ。
関口は、涼子とのマチガイがあってから、長いウツ状態に入り、涼子との出会いはおろか、牧朗のために手紙を届けた記憶さえ封印していたのだから。

この物語が、姑獲鳥として語られるのは、多重人格障害に陥ってしまった涼子に関してである。
まあ、梗子に関してとも言えるのかもしれないけど。彼女の20ヶ月の妊娠状態は、想像妊娠であり、体外受精をしようとした夫を殺してしまったトラウマの上に発生したこととはいえ、女の姑獲鳥的性質の恐ろしさを語って余りあるんである。
でもやっぱり、キモは涼子だよね。身体が弱い彼女が女として子供を切望していたのは想像に難くないし、なのに妹の梗子はそのチャンスを自らフイにし、しかも想像妊娠なんていう事態に陥っている。涼子が京子の人格を宿したのは、関口に恋したからに他ならないんだもの。
そして、そのマチガイで、“京子”の涼子は彼の子供を身ごもってしまった……。
それを、家族によってムリヤリ堕ろさせられてしまう。この久遠寺家では代々、男の子はカエルにソックリな頭のない奇形児として生まれてしまい、その呪いを母の菊乃は恐れたのだ。
この菊乃を演じるのがいしだあゆみで、そのあまりの老いっぷりに驚く。……いいのか?こんな状態で彼女を出しちゃってさあ……。

京子となって、医院から赤ちゃんをさらっては殺してしまう涼子、その事件を解くために、京極堂や関口と同輩である刑事の木場が動いていて、演じているのが宮迫氏。いやー、彼、すっかり映画俳優だよね。上手いんだもんなー、憎らしいほどに。
そのちょっとアヤしくてコワい風貌も役者として、そしてこういうあやかしの世界の映画にはピッタリである。いや、ここではマジメな役なんだけどね。
自分の記憶が暴かれることも知らず、京極堂に憑き物落としを懇願する関口、京極堂は、もう終わっている事件に手を出すのを渋りながらも、「一番憑き物おとしが必要なのはお前だ」と関口に言い、そのことを一番の主眼にといった格好で、ビシッとえんじの和服に身を包んで久遠寺医院へと赴く。そこでは赤ちゃんを殺された人々がヒステリックに泣き叫んでいる。
あ、そうそう、この赤ちゃん殺害事件に関連して、この事件を告発した看護婦(だったかな)の澄江が謎の死を遂げていて、その死にっぷりときたら、目をカッと見開いて、四肢をおっぴろげてこわばらせた状態で、かなりキテるんだけど……三輪ひとみ姉さんですよ……相変わらずヤッてますなあ、実際キレイな人なんだけどねえ。
んで、ここで自分の赤ちゃんを殺されたことで怒りまくって真相を追い求めている原澤が寺島進。最近どうもガラの悪い役が続いてて、この人自身が実際ガラが悪いように思われているようなフシが?いや実際は知らないけど、私の中では彼は真摯な紳士(シャレではない)なんだけどなー。

涼子は最後、燃えさかる久遠寺医院の屋上?から身を投げる。奪った赤ちゃんを関口に手渡し、彼にありがとう、と言って。
そうつぶやいたことを関口は判ってなくて、京極堂から知らされるあたり、なんつーか、彼らしいよなーなどと思ってしまう。
あんまり出番なかったけど、関口の妻役の篠原涼子がカワイかったなー。彼女はねー、私、すんごいイイ女優さんだって思ってるのよ。映画にもちょこちょこは顔を出してるけど、早く主演映画が見たいわあ。

それにしても堤真一の活躍ぶりは凄い。ちょっと前に「フライ,ダディ,フライ」でしょ?私が観た劇場、隣で「フライ……」だったから、大看板二つとも堤真一の大写しよ!全然違う役柄で、違う作風で主役が同時期で同劇場って、スゴいよなー。

はい、原作読みます……「京極堂」シリーズ、映画化続くかな?★★★☆☆


海鳴り (集団痴漢 人妻覗き)
1991年 60分 日本 カラー
監督:佐野和宏 脚本:佐野和宏
撮影:斎藤幸一 音楽:
出演:岸加奈子 佐野和宏 伊藤清美 梶野考 小林節彦 上田耕造 吉本直人 今泉浩一 広瀬寛巳

2005/2/20/日 劇場(渋谷シアター・イメージフォーラム)
日本文化解禁によって、今まで観ることの出来なかった日本映画として、韓国で上映された作品の特集、の中に敬愛する佐野和宏作品が入っているとは……私が観てないのに、先に韓国で観られるとは許せん!じゃなくて……なかなか見る機会のないピンクの中の、さらに観たいのにチャンスがない佐野作品がこんな形で観られることが嬉しくてさっそく足を運ぶ。

数少なく観ている中でも、今更にして気づく、佐野監督のなんらかに対する問題意識の深さ、である。寒々とした画がいつも胸を締めつけられるようなリリカルさで、その美しさにうたれてそんな大事なことを取りこぼしていたんだ、私。その問題意識の深さが、佐野監督をここまで寡作にしている原因なんじゃないだろうかなどとも思う。
ラスト、原題(ピンクタイトルではない、多分監督の中での本来の)である「海鳴り」が提示されブラックアウトする、と、そこに白抜きで書かれるこんな言葉。
“あるいは、波の数だけ抱きしめていられるか、アホンダラ!”
あるいは、ということは、これがタイトルにも匹敵するような、確たる思いで叫ばれていることが判る。それは当然、同じ年に製作、公開されている、そのタイトルの映画を名指ししていることは明らかであって。
1991年という、まだまだバブル絶頂期に、たった10年前を振り返って、あの頃は良かった、また皆で集まって楽しくやろうよ、的な、まあ、あの、私は観てないんでなんとも言いようもないんだけど、バブル時期の映画を象徴するようなホイチョイプロダクションの、ストーリー的にもキャスト的にも、そしておそらく最もバブル的、ホイチョイ的と思われる映画で、佐野監督がこの映画に成り立ち自体ですでに虫唾が走ったんではなかろうかと推測されるんである。実際、そう、観てないんでホント言いようもないんだけど、「波の数だけ……」はストーリーを読んでるだけで、確かに何とも居心地の良くない気分になるのは確か。

本作は、その当時から、今の時代そのもののような、寒々とした気分を抱えている。幼なじみの五人組、10年前の記憶を思い出す、という部分は同じ。それは確信犯的に同じ。それは昔愛した人への思い、というのも同じ。ただ10年前のことは、ただ恋人であったということが示されるだけで、その男性の方だけが東京に行ってしまったというだけで、詳しい事情は明かされない。いや、詳しい事情なんてほどのことはなかったのかもしれないとも思う。ただ、若かった。男は臆病だったし、女は男からの言葉を待っているしかなかった。そして東京に行った男をのぞく四人はこの海辺のさびれた田舎町で、それぞれに夫婦になり、それぞれにつつましい生活を送ってきた。

二組の夫婦のうち、事業に失敗した夫婦、その妻はすっかり腑抜けになってしまった夫にアイソをつかせて、手当たり次第に他の男たちとセックスをしている。海辺でのそんな場面からこの映画は始まる。そしてその場面を遠い崖の上からこの男の仲間たちが覗き見をしている。まず、ピンクタイトルの責務を果たしている、という感じ。
この男のいかにもなイヤラしさはともかくとして、その仲間(というか手下)たちはどこか知能が足りなさそうな、良くいえば無邪気な感じの青年が二人と、まあマトモだけど何かもんもんとしたものを抱えている青年一人、といった構成であり、この一応マトモである青年が、ヒロインの義弟である。ヒロインはこのインラン妻ではなく、もう一組の夫婦の妻であり、民宿の女将。この仲間たちが“激マブだよな”と言う、このインラン妻とは違う、いい意味での人妻の色香を漂わせる女性である。

それにしても、この二組の夫婦は、お互い何だかいまひとつ冷めていて……先述の夫婦はまあ夫の気落ちが激しいせいもあって仕方ない部分もあるんだけど(インラン妻とはいえ、そんな夫への必死のアテツケのようにも見え、切ない気分もあるんである)、民宿夫婦の方は、表面上は普通に上手くいっているように見えながら……まあ、これはいわゆる倦怠期というやつであろうか。
そんな時に、もう一人の幼なじみが帰ってくるのである……。
彼は一人、東京に行っていた。実に12年、何の連絡もよこさずにいた。幼なじみの一人であるこの民宿夫婦の夫は、そんな不義理を責め立てながらも再会を喜ぶ。でもそこには複雑な気分もあった。それは、彼の妻が、この男と昔、恋人同士だったから。
幼なじみの五人は浜辺で再会を喜ぶ宴会を開きながら、そこではお互いの夫婦どうしのぎくしゃくした関係もあり、そして時を隔ててしまった思いもあり、楽しげに見えながらどこか、よそよそしい。

男は民宿に泊まった。民宿の夫婦、まるで義務のような、味気ないこの夫婦のセックス。ほんのりとした明かりの中ですだれごしのそのシーンはそんな美しい演出だからこそ、味気なさが際立ってしまう。事後、夫は言う。明日は組合の寄り合いで帰れない。だからお前、あいつと……と。
彼が突然帰ってきたこと、東京で何かがあったんだとこの夫は友達の気持ちからそう察するわけ。そして友達の思いから……かつての恋人であった妻を、彼に抱かせようとする。
妻は、過去のことだと言い、夫のそんな態度に激しく拒絶感を示しながらも、彼に、抱かれるのだ。
いつだって、男は勝手に決めてしまうんだと。
それは、夫がそうさせたこともそうだし、かつてこの恋人が去ってしまったこともそう。
それは、表面上は女性主導、女性の思うままに甘いストーリーが展開されるホイチョイ作品に対する皮肉なんだと思う。悲しいけど、悔しいけど、確かに女はそんな言うほど、甘やかされて女の思い通りになんかコトは運ばないし、そう思わせられていたとしたら、それは人間として対等な立場では、ないんだ。
男はいつでも勝手、それは女が受け身で不利に見えながらも、そうやって自滅に追い込まれていく男の形でもあり、勝手に自滅に陥っていく男に翻弄される女の哀しさでもあり。

あなたを忘れるために抱かれるのだと彼女は言い、後ろ向きに浴衣をはだける。窓枠に腰掛けてタバコを吸っている男、そのタバコの灰が長く長くほっておかれ、ぽとりと落ちる。と、男はタバコを外に投げ捨て、彼女を後ろから羽交い絞めにする。一糸まとわぬ姿で汗だくになりながら繰り広げられる二人のセックスは執拗に、何度も繰り返され、彼女が夫とする衣服をまとわりつかせたままの性急で味気ないセックスとはまるで別物。彼女は何度も確かめるように繰り返す。あなたを忘れるために抱かれるのだと。男は判ってる、とそのたびに繰り返し答える……。
矛盾しているのだ、そんなこと。セックスをして、どうして忘れられるの。そんなことをしてしまったら、忘れられなくなるに、決まってる。忘れられなくなるためのように、まるでケモノのように交わる二人。
そんな場面を彼女の義弟がじっと覗いている……。
この義弟はその後、集団レイプのような趣で、もう一組の夫婦の、あのインラン妻によって筆おろしをするんだけど、他の二人の仲間たちと違って、彼は躊躇するのね。この時、このインラン妻は、インランのはずが、おびえて激しく抵抗し、そして抵抗が無駄だと知ってからは、まるで呆けたように空を見上げてるの。「こんなに空ってまぶしかったっけ」と。念願のセックス体験をこの義弟が躊躇したのは、あの憧れの義姉が、ダンナである自分の兄とのセックスを、今目の前にいる女と同じように望んでいないということ、東京からの客人とのセックスこそが、望んでいたセックスであったことに、気づいてしまったからではないんだろうか。

この義弟と東京からきた男とは、不思議にリリカルな場面がある。蝉がジーコジーコ鳴くまっぴるま、ふいにこの男と出くわした義弟は、神社の境内であっというまに溶け出すアイスバーを食べ食べ、いろんな話をする。賽銭箱からカネをちょろまかしたことなんかを。義弟は、この男のように東京に出たいという話をする。この小さな町で、兄の手伝いをするぐらいしか出来ない彼は、行き詰まりを感じていた。東京から来たこの男がまぶしく映る。でも、この男はどうやらワケアリで……。
義弟は、この男のバッグの中に、覚せい剤らしき白い粉と、拳銃があるのを、知っていた。

覚せい剤と、白い粉。そして追ってきた筋者の男に殺される彼、というのは、それは確かに、まるで東京そのものの、ある意味華々しい人生であるのかもしれない。
でも、ただ、撃たれて、血まみれになって、死んでしまうだけだ。そう、あの時、幼なじみの五人が浜辺でやった安っぽい花火みたいに。何度も繰り返し挿入される線香花火の閃光。
打ち上げ花火でさえない。線香花火である。せいぜいが下っ端でしかなかったであろう彼の死は。
彼は、東京から帰ってきた。12年ぶりに。この故郷に。故郷より、幼なじみより、多分何より、あの時連れて行けなかった彼女に会うために。
彼女に忘れられないように、彼は彼女を抱いた。彼女は忘れないように、何度も彼に抱かれた。
友達として、夫として、彼女のダンナはそうさせてあげた。
たまらない、恋人同士。たまらない友情。撃たれてあがあがと言葉にならないうめき声をあげ続ける彼を抱いて、彼女は彼を罵倒し続け、泣き続ける。
結ばれなくて、結婚なんてこともなくても、永遠の恋人というものが、きっとあるんだ。
その究極の形。甘やかな記憶に彩られているんじゃなくて、哀しみの方がずっと強い、胸かきむしられる強い切なさにそれは支えられている。

ラストシーンは、あの義弟がこの町を去る場面である。
あの彼のように、逃げ出すように東京を出るわけではないという点で、義弟には可能性があるのかもしれないと思う。
あのもう一組の夫婦のダンナと行き会う。このダンナはかつて甲子園に出場したことがあった……ホケツだったけど。義弟はボールを投げてみてくれよという。ボールはないじゃないかとこのダンナは言う。義弟はパントマイムよろしく、あるじゃないかとしぐさで示し、テレビのアナウンサーのように解説をつける。試合には出られなかった、そして店も潰してしまった、ずっと消化不良のまま来てしまって、夫婦生活も不能のままのこのダンナを励ますように、決勝戦、勝利の瞬間を演出する。ダンナは砂浜でガッツポーズ、そして義弟は走り出してスクリーンから見切れる。鮮烈なラストシーン。彼には今まで何もなかった思い出を、東京という土地で、作り出そうとするのだろう。

このバブルの時代に(“バブル”だということを、既にこの時点で確実に判っていたことがハッキリと示されているのがスゴイと思う)皮肉に満ちながらも、美しく切ない。役者としての佐野和宏、の素晴らしさも天下一品。★★★★☆


運命じゃない人
2004年 98分 日本 カラー
監督:内田けんじ 脚本:内田けんじ
撮影:井上恵一郎 音楽:石橋光晴
出演:中村靖日 霧島れいか 山中聡 山下規介 板谷由夏

2005/7/26/火 劇場(渋谷ユーロスペース)
これで新人さん!?いやー、参っちゃうなー!いわゆる年若い新人さんの撮る映画って感じがまるでしない。演技の達者な役者を揃えてガンガン撮ってるあたりが、自分のきっちりとした脚本に対する自信のあらわれのようにも思う。実際、この完璧と思えるほどの脚本がすんごいんだもの。時間軸が少しずつ重ねあわされるところでどんどんあらわにされていく違う方向からの“真実”に、ありゃ!あん時はそんなことが……と口あんぐり。最初はホント単純な、小さな勇気の物語で、ちょっとイイ話に落ち着くかと思いきや、そのエピソードさえもシニカルに裏切られるまでに、一体どれほどの事実が明らかにされていくのだッ!パズルどころかジグソーパズル並みの重層さじゃないのよおー。

だからこれ、ここに書くだけでも大変だぞ……(と最初から嘆息気味)だからね、最初の単純なエピソードというのは、でもそれでもちょっとほんわかするイイ話。ちょっと信じられないほどのイイ人、一方的に別れた彼女のことを今でも心配している宮田君がある夜突然その友人、神田に「あゆみちゃん(その元カノね)のことで話がある」と呼び出されてすっ飛んでいくと、その彼女が結婚するという話。で神田はあまりにもオクテな宮田を心配して、後ろに一人ぽつんと座っている女の子、真紀をナンパして一緒に食事をする。
あっと、その前にもはやすでに時間軸のズレは起こっているのだった、忘れてた。真紀が婚約者の家を出てくるところから始まるんだっけ。婚約者の浮気にこの世をはかなむ勢いのクラい顔の真紀、婚約指輪を質屋に持っていくも3500円にしかならない。この質屋でのやりとりもおっかしいんだよね。全編台詞の面白さは実に効いているんだけど、もうここからそうだもん。最初は質屋さんは3000円を提示。真紀が呆然と「え……これ婚約指輪なんですけど」と言うと質屋さん「……じゃあ3500円」この思いやりのようなわずかな上乗せが逆に真紀を更に打ちのめしているのが判って、どーにも苦笑いをせずにはいられない。
で、もう一人で生きていくんだ、とテーブルに並べられた3500円を睨みつけている真紀が「あ、だめ泣きそう」となった時に声をかけてきたのが神田だったのだ。この時には宮田はスクリーンから見切れていたし、神田はいかにも手馴れていそうな男だったから、ヤバいナンパに引っかかっちゃったなーと思っていたら!

実はこういう事情だったわけ……。で、宮田は神田が途中で気を利かせたのかいなくなってしまった上に、真紀が急に泣き出して「帰る家がない」などと言うもんだから、自分の家に泊めてあげることにするのね。この時点では本当に宮田はいい人を発揮しているだけで、実際に下心が全然ないようだっていうのが実に彼らしい。
で、案内した彼の部屋の中でいい雰囲気になっちゃう。しかしそこでさっき話に出ていたあゆみが「どうしても必要なものがあって」と突然訪ねてきて……真紀はあゆみに「自分勝手すぎるんじゃないんですか」などと怒り、そしてそのまま出て行ってしまう。
宮田は、今でも好きだったはずのあゆみに、「必要なものを取ったら、もうあとは捨てますから出て行ってください」と言い捨て、真紀を追いかける。タクシーを捕まえようとしている真紀に追いつくも「まだあの人が好きだって言ったじゃないですか。誰でもいいんですか」と言われ、言葉を失ってしまう。タクシーに乗り込んで行ってしまう真紀……しかし宮田は決死の覚悟で追いかけ、ぜいぜい言いながら「電話番号教えてください……また会いたいから……」ここでタクシーの運ちゃんが「電話番号ぐらい教えてやれよ」と言うのもイイ。で、真紀は電話番号を書いてやって、去る。宮田は夜の道路でガッツポーズ!

と、ここまでがひとまず基本となるエピソードである。この一連の流れの中に、もう、もう、沢山のあっと驚く秘密が隠されてるのッ!
あ、そうそう、書き忘れたけど、宮田が真紀に電話番号を聞く勇気を与えるのには、あのレストランでの神田の台詞が大きな力を及ぼしているのよ。この神田の台詞ってのが全編いちいちいいんだけど、ここが特に好き。合コンで電話番号を「タイミングがなくて」聞けなかったという宮田に「タイミングなんて、ねえよ。作るんだよ、タイミングは。電話番号をなめんなよ。電話番号を知っているかどうかだけが、知り合いか、赤の他人かを分けるんだからな」更に、「お前、もう30過ぎて運命の出会いとか、自然な出会いとかいっさいないからな。クラス替えも文化祭ももうないんだよ。友達から始まって惹かれあって結婚とか、絶対ないからな」なんか、ウンチクか説教みたいでもあるけど、確かになるほどとうなづけるものがあるんだよなあ。それに演じる山中聡の流れるような台詞回しで実に聞かせるわけ。じっさいあゆみとだって運命の出会いなんかじゃない、あゆみが意図的に宮田に近づいたってだけだったんだから……てのがなんでかっていうと、あゆみは名うての結婚詐欺師だったからなのだッ!

というのが、第二に語られるエピソードね。この神田ってヤツ、こんな風に女の子や世間に手馴れてそうなカルイヤツ、ぐらいにしか第一エピソードでは見えないんだけどさあ、実際はこの、子供の頃からの親友の宮田をすっごく心配している、男気あふれるイイ奴なの。なんかね、人を見かけで判断しちゃいけないよっていうのを、すっかりそんなカルい男ぐらいにしか思えなかったもんだから、ガツンとくらわせられちゃったな!っていうのが、でも逆に凄く気持ちいいわけ。
あゆみ宮田より先に神田の方に訪ねてきている。神田は探偵さん。あゆみはヤクザの組長とつきあってて、そこからカネを持ち出してきちゃったから、どうにか逃がしてくれ、と助けを求めてくるのね。助けを求めてくるって態度じゃないけど……鷹揚な微笑みを浮かべて、自信満々で、「だって、あの人が組長なんて知らなかったんだもの」てな台詞さえ、やけに余裕たっぷりで、いかにも女って匂いがする。
じっさい、こんな美女が宮田みたいな民族人形系(!?)な青年を好きになるなんて、おかしいというか……神田は最初からあゆみがうさんくさいと睨んでいて、彼女が結婚詐欺師だということをつきとめていた。でも宮田を傷つけたくなくてそのことを彼には言っていなかった。
泣かせるんだよなあ……神田ってば。

このあゆみを演じるのは板谷由夏で、彼女がこんなちょっと憎らしいぐらいの美女だということが、えー!?そうだっけー!?などと驚いてしまう。でもここでの役者さんたちは知っている人も知らない人も、とてもチャキチャキと演技をしている感じで、それはこの作品のカラーにビシッと合っていて、とても気持ちがいいんだよね。
神田を演じる山中聡も、この人は最初っから上手い人だなと思ってはいたけど、ここでの彼が一番良かったな。台詞の粋さは神田に集中している趣があるんだけど、先述のように、それがリズムのある言い方ですんごく力を持つというか映えるんだよなあ。神田はあゆみを助ける代わりに彼女から100万とるのね。あゆみはしぶしぶ出すんだけど、彼に「結局は私にお金のにおいがしたから調べたりしたんでしょ」とか言うのよ。神田がいくら「あいつは子供の頃からの親友だから心配なんだよ」と言っても、「いいのに、隠さなくたって」の一点張りで、もう勝者の笑みなの。神田は嘆息して「哀しいな……」と言う。「お前には判んねえよ」と。実際、神田は本当に宮田を心配している頭しかない。あゆみが「残念ね。あなたみたいな人、結構好きなのにな」と言ってもまるで動じないし。そうは見えないカルい色男なだけに、この親友思いの神田にはキュンと来てしまう。こういう男同士の友情ってうらやましいと思う。絶対、恋人より奥さんより、親友を助けに向かうだろうなって。それも仕方ないと思わせるような。

しかしさ!ここで事態が収まるわけもなく!あゆみが盗んできた金を神田はヤクザ事務所に返したはずが、あゆみは宮田の家にパスポートを取りに行った時、中身を衣服とすりかえていたの!あ、これはさっきの、真紀がいた場面じゃなくて、その前、宮田が家に帰る前、宮田のマンションの合い鍵を持っている神田(ってあたりが、ホント親友って感じでカワイイ)とともに忍び込んだのね。で、探している最中に宮田が帰ってきちゃって、ここで第一エピソードと既に重なるわけ!宮田の携帯電話に神田からの呼び出しがかかってきたその時、まさか神田がこの部屋の、トイレの中にいたなんて思わないよ!「なんでお前そんな小声なの」と言う宮田に「仕事中(探偵だからね)、尾行してんだよ」という台詞も実に効いてるんだよなあ。
で、返したと思ったお金のつまったスーツケースの中身が衣服だったわけだから、神田はヤクザの組員にレストランにいるのをつきとめられちゃって……(というのもあゆみがもらした情報なんだけど)宮田が真紀をなぐさめている後ろをすりぬけるように拉致されてしまう。車の中、まっぱだかにされた神田に宮田から電話がかかってくる……「お前、今どこにいるんだよ!」「……仕事だよ。がんばれよ。めったにないチャンスなんだからな」そう、第二エピソードでその電話のやりとりを聞いた時には、本当に、ただ単に、気を効かせていなくなっただけかと思ってたのに!!

でね、ここで登場するヤクザの組長さんというのがまた最高なわけ。演じるのは山下規介。彼もまた、今まで見た中で最高にイイ感じだったなあ!実はね、あゆみが盗み出したたくさんの札束、上と下の一枚ずつ(数枚ずつ?)だけ がホンモノで、中身はただのサラ紙の、いわゆる見せ金なわけ!組長さんは、「カネの匂いのするところには人が寄って来る」という理念で、ヤクザという稼業もこの不況の折りではなかなかキビシイし、正直経営は苦しいんだとモノローグ……がやけに可笑しくて。そんな悩みを彼は一人で抱えているんだよね。唯一知っているのは、この見せ金作りをしてくれる便利屋の山ちゃんという男だけ。しょうゆを薄めた液をはけで塗ったりして、見せ金をそれらしく作っている辺りがもう、大好き!組員たちは往年のヤクザ映画のように、ヤクザ風をブイブイ言わせているんだけど、この組長さんは組員の前では威厳を保っているものの、山ちゃんの前では、まるで中小企業の社長さんみたいな風情なのが実に可笑しいんだよなあ。

だから、その見せ金が奪われた時点で彼は別の意味で戦々恐々としているわけで、戻ってきたスーツケースに衣服が詰め込まれているのを見て、こんな見せ金でフクザツな事態になるなんてことに思いっきり困惑しちゃうわけよ。しかもその中には神田の名刺が入ってる。勿論あゆみがわざと入れたもの。で、組長さんは組員に神田を捕らえさせる一方で、あの便利屋の山ちゃんに頼んで神田の事務所をさぐらせて、あゆみの過去を知ることになり(ということを予測しないあたりは、あゆみもヌケてるけど)更にそこから宮田の存在を突き止めて彼のマンションに忍び込むと、狙い通り、あゆみがすりかえた見せ金を見つける。とそこに、宮田が帰ってきて!あの第一エピソードの、真紀とちょっとイイ雰囲気になるシーンを組長さんたらベッドの下から息を潜めて見守ってるわけ!なんて上手いんだー、この構成のジグソーパズル!

この時、真紀は宮田にそっと抱きつくんだよね。宮田はうろたえて、「……お風呂のお湯を入れてきます」なんて言って部屋から出るんだけど、この時、二人のつまさきがキュッと床に立てられているのを組長さんがベッドの下から息をひそめて見ていたりするのがもおー、最高に可笑しいんだよなあ!んでね、神田がとらえられたエピソードで、事務所で震えながら待っている神田、のところに組長があゆみを連れてやってくる、っていう前段になっているのがここで、組長は見せ金(だとあゆみは思ってないけど)を取り戻しに来たあゆみをここでつかまえて、神田の待つ事務所に戻っていく、という段。もちろんこういう具合だから神田は無罪放免だし、(ここでちらっと、「人を一人バラすのにもカネがかかるんだよ」などと経済状態を露呈するのも好きッ)あゆみはこの組長にすっかり弱みを握られて渋い顔。これで大団円!と思いきや……。

はああ……まだあるのよ。だってあの見せ金よ。あれをね、真紀が見つけちゃってたんだもん!それを組長はベッドの下から見ているわけ……あの、真紀と宮田がちょっとイイ雰囲気になっちゃった後よ!あの時は真紀だって宮田のことをちょっと好きになってたのかもしれないけど、金を見つけたとたん彼女の頭の中に何がめぐったのか、もう充分すぎるほど判っちゃうんだもんなあ……つまり、それ以降の彼女の言動は、どれもがもっともらしく聞こえるけれど、この金を持って逃げて、一人で優雅な人生を送る、そのことだけなんだもん!あゆみに罵声を浴びせたのも、「(あゆみが)話があるからきたんじゃないんですか」「(宮田があゆみのことを今は好きじゃないと言ったのに対して)誰でもいいんですか」と言ったのも、心打たれたような顔をして電話番号を手渡したのも、すべてが、すべてがウソだったんだもの!あの時協力してくれたタクシーの運転手さんがさあ、宮田のことを、まじめそうで、いい青年じゃないかと真紀に言ったのも、すべてが皮肉に聞こえてしまうこのシニカルな幕切れ!

その後、宮田が真紀に電話をかけようとして、かからないから、「書き間違えたんだ」とか「これは8じゃなくて6かな」とかやっているのを、彼と一緒に朝食をとっている神田が制するのね。「女は平気でそういうことをやるんだよ」と。それでも信じない宮田に、「お前だけは、別の星に住んじゃってるのな。早く地球に住みなさーい!」と呆れ気味に言う……朝の光の中で、小さなテーブルで二人向き合っているのをやや引きのツーショットで映しているのが、なんか実にホッとさせられるというか、クスリとさせるというか、イイんだよなあー、もう!キマジメな宮田に対してちょっとスレてる感じの神田がスラスラとぶつける言葉は一見カルそうに思えながらも実に的を得ていて、それがこのラストでビシッと決まってて、いやー、実に気持ちイイ!

本当にね、真紀に電話番号を手渡した時には、彼女は絶対脈アリだと思ったのに、まさかカネに目がくらんでいたとは……実はこの時この人はこう思っていた、というのを、時間軸をジグザグにさかのぼってあらわにしていく上手さときたら、もう本当に、恐れ入りましたと言うしかない。いや、そんな言わなくても、とにかくまずこの面白さが、ああ映画は面白さなんだよなー、面白さの第一義はこういうことなんだよなー。

監督がインタビューでこう言っていた。「新宿を歩いているおじさんが、「もしもし、いまどこ?」って携帯電話をかけたことに衝撃を受けたんです。いまは当たり前なんですけど、電話をかけた相手の場所がわからないって、昔はありえない。これってミステリアスというか、電話をかけた相手も、自分とは別の時間を生きているんだっていう面白さがありますよね」それって、すんごい、なるほどー!って思った。携帯電話が出てきた時、SFの世界が現実になった!ってショックだったけど、それが今やフツーになってる。それって、SFの世界でしかありえなかったことが、現実のミステリやエンタメに生かせるってことであって、それだけ現実はミステリやエンタメに満ちているんだなあと。私はいまだ、携帯を持つ気になれないけど、原因はそんなところにあるのかも……。

結局この話がどういう話だったかというと……。

結婚詐欺の女がカネを盗む→神田(探偵さん)のところに結婚詐欺の女、あゆみ→パスポートを取りに主人公、宮田の家に合い鍵で入る→宮田が帰ってくる……トイレに入っていた神田は慌てて彼の携帯に電話をかけて外に呼び出す→その間に、あゆみがスーツケースのカネを服とすりかえる。→ヤーさんの事務所にカネ(実は中身は服)を返しに行く→神田はあゆみと別れ、宮田の待っているレストランへ→別に話があったわけではないので適当に元彼女のあゆみと会った(まあそれはホント)話をしつつ、後ろの女の子に声をかける→実はその女の子、真紀は今日婚約者と別れて家を出たばかりの子。一緒にゴハンを食べる。→神田、レストランにヤーさんたちが入ってきたのに気づいて慌ててトイレに立つ。→そのまま拉致られる。→トイレから戻ってこない神田に宮田が電話をかけると「仕事中、がんばれよ。めったにないチャンスだ」実はこの時ヤーさんにハダカにされて、組事務所へ。→帰る家がないと言う真紀を自分の家に泊めることにする。→その間にヤクザの組長、浅井が神田の事務所を家捜ししていて、宮田の家にカネがあると踏み、忍び込んでいる。→カネを見つけるも、宮田が帰ってきて、慌ててベッドの下へ。→ベッドの下から宮田と真紀のやりとりを見ている。→真紀のためにお風呂にお湯を入れている間に、彼女はお金を見つけてしまう。んで、それも組長はベッドの下から見ている。→あゆみが訪ねてくる。勿論お金を取り戻すため。→真紀が元カノが訪ねてきたことで、本当はお金を持ってその場を去りたいだけなのにあゆみに罵声など浴びせて、去る。→宮田、あゆみに、忘れ物をとったらすぐに出て行ってくれと言って真紀を追いかける。→あゆみが金を取りに行こうと部屋に入ると組長がいる。→宮田、タクシーを必死に追いかけて真紀の電話番号をゲット。運ちゃんが協力。→最初に観た時は感動的と思われたそのシーンは、しかしカネをゲットした真紀は最初からその気はなく、番号はニセモノ。

うおー!すげえ!複雑すぎる!でもそれを、あの宮田の第一エピソードの中にほとんどすべて含ませているんだもん!

最初からこれだけ物語の構成力や台詞の完成度が完璧な新人さんは初めて見る気がする。いやー、恐るべき新人だわあ、まさしく!★★★★☆


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