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「ふ」


2005年鑑賞作品

ブエノスアイレスの夜VIDAS PRIVADAS
2001年 105分 アルゼンチン=スペイン カラー
監督:フィト・パエス 脚本:フィト・パエス/アラン・パウエル
撮影:アンドレス・マッソン 音楽:フィト・パエス/ヘラルド・ガンディーニ
出演:セシリア・ロス/ガエル・ガルシア・ベルナル/ルイス・シエンブロウスキー/ドロレス・フォンシ/カローラ・レイナ/ヘクトル・アルテリオ/チュンチューナ・ヴィラファーネ/リト・クルス


2005/1/29/土 劇場(渋谷シアター・イメージフォーラム)
なんかもう最近は、ショッキングな恋愛ネタも底がついて、やたらと、実は親子だった!っていう話が多い気がするんだけど……(って、いきなりオチバレ!)。それとも逆にこれは、基本への回帰、なのかなあ。ギリシア悲劇への。でもこの“実は親子だった”の衝撃って、キリスト教的なんだよね。そういう文化の中に育ってないと、それほど衝撃じゃない。だってこの場合って、「オールド・ボーイ」のように作為的に親子を恋愛関係に陥らせたんじゃなくて、完全に偶然の、いわば運命であり、お互いが知らなかったんだったら、別にいいじゃんとやはり思ってしまうわけ。何もそんなに……吐き気をもよおすほどショック受けなくてもいいんじゃないの、などと思ってしまったら、……成り立たない?やっぱり。
でも本作が、そういうこととはまた別のところで悲しくも美しい色を奏でているのは、この国の哀しい過去を、この国の一人一人が皆背負って生きているから。それはアルゼンチンで起きた、1976年の軍事クーデター。本作に出演している中にも、ヒロインのカルメンと同じように、ブエノスアイレスから追われてスペインに一時移住した女優さんがいる。その過去の傷跡はいまだにこの国を苦しめ続けているという。

カルメンが、故郷ブエノスアイレスに帰ってきた。もう20年も離れている土地。今彼女はスペインのマドリードに住んでいる。このブエノスアイレスには寄り付こうとしていなかったんだけれど、父の病気が思わしくないことで、家族に懇願されて、帰ってきた。
その彼女を待っている母と娘、そして主治医のアレハンドロ。アレハンドロの様子がどうにもおかしい。彼はカルメンが会いたくない人らしい。彼自身は会いたくて仕方ないんだけど、自分が望まれない客だというのが判っているから、それでもひと目会いたくて、酒をガブガブ飲んで、なえそうな勇気をまぎらしている。
このアレハンドロというのが何かもうカワイソウというか、愛しい人でね。彼には何の罪もない。ただ彼はすべてを知ってしまっている。だから彼はカルメンを本当に、全身で愛しているんだけれど、カルメンにとって、そのすべてを知っているというアレハンドロは、自分自身と同じくらいに、見たくないトラウマであるわけで……
カルメンの過去に何があったのかは、作品中、じらすみたいになかなか明かされない。徐々に徐々に明らかになってゆく。まずは、政治犯で軍人たちに逮捕されたこと。闇の中での10ヶ月の監禁生活があったこと。そして……。

その、20年前のトラウマで、カルメンは異性との肉体的接触が、できない。あの10ヶ月で、闇の中での聴覚が発達してしまった。聴覚に依存し、他の五感に作用する。カップルを雇って部屋に呼んでは、そのセックスの声をドア越しに聞いて、自分を慰める。
……これって、肉体の接触という以上に、人との、心の接触が出来ないから、というように映る。
そういう意味では、現代に生きている人たちは、どこかでカルメンに共通するものがあるような気がする。肉体的接触をしていても、そこに相手との心が通っていなければ、結局同じことだ。身体のうめきは抑えられても……その後には、なにかぼんやりとした、空虚な時間が流れるだけ。
ブエノスアイレスに帰ってきても、カルメンは滞在期間の2週間、そのためにアパートを借りた。昔の友人に頼んでカップルを呼んでもらった。でもその次からは、その男の子の方だけを、呼んだ。
最初に、この友人に電話をした時、留守電の声で出てきたのが、彼だった。
彼女の耳を、身体を、震わせる、声……。
彼だけを呼び、ドア越しに官能小説を読ませる。時おり抑えきれず出てしまうカルメンの声に反応する彼、グスタボ。彼もまた、この奇妙な声だけの関係に惹かれてゆく。そして……。

このグスタボを演じる、ガエル・ガルシア・ベルナルがすっごく、イイのね。モデルとしてこのカルメンの友人の事務所に所属している彼、セクシーなポスターが劇中に出てきて、脱ぎかけのジーパンからのぞく黒々とした茂みが、ヤバイ。ヌードよりもエロティック。それでいて、そのセクシーさと甘えんぼの要素がニクイくらいに絶妙で、年いってしまった女性たちの心をかき乱すのに、充分。自分の年の恥ずかしさを感じながらも、溺れたい。彼は最高に良かったなあ。今のこの年齢の瞬間が、奇蹟みたい。
そう、カルメンも溺れてしまう。本当は、会うつもりなんてなかった。でもグスタボの方が会いたいと熱烈に思って……いわば彼女をハメる形で、帰ろうとしたグスタボを追おうとドアを開けた彼女の目の前に突然現われキスを奪う、あの鮮烈な場面は、ちょっと、忘れられない。

彼は、彼女を見ても、その年齢も(まあこれは、もともと知っていたけど)、全然ひるまない。声だけで恋に落ちたけれど、それこそが彼の中での、彼女への思いをゆるぎないものとして、大切な人だ、運命の人だと言うのに感動してしまう。
カルメンを演じるセシリア・ロスはキレイだけど、若作りをしているというわけではない、ちゃんと年相応に見える落ち着いたキャリア・ウーマンだから。でもそれと相対するこの若いグスタボがね、確かにカルメンの言うように、あなたが若すぎて自分が恥ずかしいっていうの判るけど、でもそれは、彼に本当に惹かれているから、恥ずかしいと思うわけで。
恥ずかしいと思わない、自信満々の恋愛なんて、ホントの恋愛じゃないんじゃないのかな……などとも思ってしまうわけ。
恥じつつも、この男の子のそばにいたいと思うカルメンと、何も疑問も持たずに彼女を愛するグスタボと。
そりゃ確かにこれは、運命が引き寄せたんだと思う。でもそれは、親子の絆としてではなく、男と女のそれとして。

親子、だったんだよね。だから凄い偶然。驚くべき運命。でもここまできたら親子でもいいじゃん、などと思ってしまう。
ただ、カルメンの中で、彼を産み落とした時の心の傷はあまりに深い。多分彼女は、この産み落とした赤ちゃんが死んだと思っていたんじゃないのかな……ずっと隣りの独房で聞いていたアレハンドロは、彼女が異性と肉体関係を持つことはもう出来ないと語る。それだけの深いトラウマだったんだと。
グスタボと愛し合うようになるカルメンだけれど、その一線を越えてしまった時、アレハンドロの言葉を裏付けるかのように、カルメンはバスタブでリストカットしてしまう。
それを予感したアレハンドロとカルメンの妹のアナが、グスタボの家のドアを破れんばかりに叩いている。
呆然と、ウロウロとしてしまう、グスタボ……。

アレハンドロはね、とにかく何かもう私は、かわいそうで愛しくて泣いてしまうんだよね。なかなか心音が回復しないカルメンを、とりみださんばかりに、もの凄い必死になって、電気ショックを与え、心臓マッサージを続け、お願いだから死ぬなと、泣き出さんばかりに……彼が一番、愛しているのに。それは誰もが判っているけど、誰もが彼がカルメンと愛し合うことは出来ないことも、判ってて、何より彼自身が判ってて、それはアレハンドロは勿論、カルメン自身にとっても、とても哀しいことのような気がして。
彼はカルメンのことを愛して心配して、でもだからといってこんなことになってしまったことでグスタボを責めるつもりはないわけ。カルメンと親子だという事実を知って、嘔吐をくりかえすほどのショックを受けるグスタボを抱きとめる。多分アレハンドロは、二人が愛し合っていることを、禁断の関係でも、反対はしないし、止めないんじゃないかと思う。こんなことがあっても、この二人が運命の絆で結ばれていることを、アレハンドロが一番、判ってるから。彼はカルメンを見守り続ける。この、恋人になってしまった親子のこともきっと支え続ける。
凄く、胸を打つんだよなあ……このはげちゃびん(ごめん!)のアレハンドロが!

カルメンの妹のアナは、その点でまだまだ若いというか……悟りきれていない部分がある。というより、彼女自身が今現在、かつてのカルメンのように混乱のまっただ中にいる。20そこそこの若さで弁護士だというアナは、もうとにかくメチャカワイイんだけど、……そのお腹に、赤ちゃんを宿しちゃってるわけ。
彼女は恋人をカルメンに紹介しようとしているし、その恋人と上手くいっていないわけではないと思うんだけど……ただその、肝心の恋人が、一度も画面に出てこないのが、気になるんだよね。
それに、姉を心配しているとはいえ、やたらとカルメンの後をつけまわしているアナ、というのもちょっと病的な感じがして気になる……。
しかも、アレハンドロが彼女の妊娠に気付くと、アナは、中絶するかもしれない……ともらす。
アナは「妊娠するわけない」と言っていたから、きちんと避妊はしていたんだろうと思う。それに返してアレハンドロは「奇跡ということはある」と言う。
まさに今、カルメンがグスタボと奇蹟の再会を果たしているのだから。
アナが中絶しようとするのを、アレハンドロは止める。そんなことを、カルメンに聞かせるわけにはいかないのだから。そしてアナはすべての事実を知ってしまう。両親からも隠されていたカルメンの、二十年前の秘密を。
そして、カルメンさえも知らなかった、グスタボの出生の秘密も。

グスタボも、知らなかった。育ての両親が、本当の両親だとずっと思っていた。軍人の父親の厳しさに青年らしく閉口していたりもした。でも両親として愛していた。
カルメンを愛してしまって、そして事実を知って、彼は取り乱し、実家にフラフラと帰ってゆく。両親が車で迎えに来ている。彼は帰るということを伝えていたわけではなかったんだけど、「お前が帰ってくるような気がした」と。
なんだか、どこまでもどこまでも、不思議な運命の歯車が回ってゆく……。
グスタボは父親にくってかかる。なぜ教えてくれなかったのだと。泣きながら。父親は取り乱す息子の頬を叩きながら、こっちもまた取り乱して、お前が去ってしまうのが怖かったのだ、と繰り返す。息子が欲しかった。でも授からなかった。だから……去らないでくれと。
この、場面の、悲痛さ。お互いに目を合わせることが怖いみたいに、避けあうんだけど、でも身体ではぶつかりあって、どうしようもないやりきれなさを爆発させる、この、悲痛さ。
グスタボは、とっさに父親の拳銃を引き抜いて、彼を撃ってしまう。二発、三発……それでも息子にすがり続ける父親に、グスタボは、泣きながら、とんでもないことをしてしまった自分を呪い……。

父親は、死んでしまったのだろうか。
次のシーンでは刑務所の中のグスタボをカルメンが訪ねるんである。
そこのところは、少々、アイマイではある。何ヶ月かの時が経っているんであろうことは、アナのお腹がふっくらとしていることで判る。カルメンは一人で入ってゆく。途中、緊張と不安のせいか、ぐらりと足をよろめかせて、所員に支えられる。しかしサングラスをかけてパンツスーツの彼女は、毅然として入ってゆく。壁に寄りかかっていたグスタボは彼女の目を避けるように移動し……でも彼女はその彼をゆっくりと追いかけ、ネットを背にして隣りに立つ。
もはやグスタボは泣き出しそうな顔をしている……。
カルメンはサングラスをはずし、様々な差し入れを取り出す。そう……本当に母親そのもののように。いや、これは皮肉ではなくて、女はいつだって男にとっての母親なのだから。恋人同士でも、そうなんだから。だから、二人はいわば理想的な恋人同士。
彼女の差し入れのセーターを着て、たまらず泣き崩れてカルメンの胸に顔をうずめるグスタボに、カルメンは自らも気持ちが高ぶるのを抑えるように、彼をしっかりと抱きとめて言う。「大丈夫。そんなに悪い結末じゃないわ」

そうだよ。大丈夫だよ。何を悩むことがあるの。うらやましいくらいだよ……なんて、言いすぎだろうか。
ただ、やっぱり、女が年下の男との恋愛に憧れるのは、究極的に言うと、こういうことなのかもしれない、なんて思ったりもするから。
グスタボの声は、カルメンの身体に響いていた。官能小説を淡々と読むだけ。それだけで、イッてしまったカルメン。子宮から産んだ息子の声が、子宮に響くんだろうか……なんてことを思った。
二人の声だけのやりとりは、彼女の身体の中で、十月十日の間聞いていたお互いの声と響きで、そして二人は出会い、彼はやっと生まれたのだ。
だったら、また愛し合えばいいじゃないのって。どんな形でも。

このシーンの前、アナがカルメンと連れ立って刑務所に行く前、アナが実家を出る描写があって、一人残される年老いた母親がもの凄く、哀れなんだよね。
アナは冷たいくらいに決然としていて、お願いだから行かないで、という母親を振り切って、出てゆく。
これは、カルメンとグスタボの親子関係と対照的で、子供を持ったらいつか子供に捨てられる(という言い方はアレかもしれないけど)恐ろしさがあって、それは多分、グスタボが犯してしまった罪もある意味その中に入ってしまうのかもしれないけど、だとしたらカルメンとグスタボもいつかはそういう決別がくるのだろうか。
でも、そうだとしても、その決別は、20年前の最初の決別とは、全く違うものだし……親と子の決別は一回きりだと、もう二人には訪れているんだからと、思いたい。

やけに不穏さを強調する音楽、そのピアノの音色がまるでホラー映画さながらで、コワかった。★★★☆☆


フォーガットンTHE FORGOTTEN
2004年 92分 アメリカ カラー
監督:ジョセフ・ルーベン 脚本:ジェラルド・ディペゴ
撮影:アナスタス・ミコス 音楽:ジェームズ・ホーナー
出演:ジュリアン・ムーア/ドミニク・ウェスト/ゲイリー・シニーズ/アンソニー・エドワーズ/アルフレ・ウッダード/ライナス・ローチ/ロバート・ウィズダム/ジェシカ・ヘクト

2005/6/17/金 劇場(有楽町日劇3)
んー……
これは……
どうなんだろう……。
一番強烈に印象に残っちゃってるのが、ジュリアン・ムーアの腕のシミだなんて、いいんだろうか、私……。
だってホントにビックリしちゃったんだもん。白人って、やっぱりそうなのね。日本人の肌ってイエローとか言いながらやっぱりキレイなんだなあ。
いや、そうでなくてさ……。
いや、なんだろう、なんつーか、またしても「予告編はあんなに面白かったのに」バージョンなんだよね。「コンスタンティン」の時と全く同じ感慨……えー?こういうオチなのお?みたいな。

この作品の最大の面白さは、自分の記憶が目に見える形でどんどんはがされていくように、消えていくところなんだよね。記憶、というより思い出、かな。彼女は自分の思い出を決して手放そうとしないんだから。
最初はそれがマイナス、マイナス、の形ではがれてゆく。写真の中の愛する息子、いつも見ていたアルバムの中の写真、何度も繰り返し見たホームビデオの映像。それらが順を追って彼女の周りから消え去ってゆく。
んで、それがひと通り終わると、今度は異常だという風に見られてゆく。
正直なところ、ね。このマイナス、マイナスではがれてゆく部分までが最もスリリングでショッキングで面白かったんだよね。止めたはずの車の位置が違う。コーヒーの味が口の中に残っているのに、最初から飲んでないと言われる。息子が死んだ事故が新聞記事から消えている……。予告編もひたすらそこをこそ強調していた。なぜ失われてゆくのか、そのことへの恐怖と戦いながら、必死にとりすがろうとする不条理な恐怖!

もう、それをぜえんぶ見せちゃってるんだもん、予告編。
ホント、予告編は考えるべきだと思うのよ。もうちょっと残す努力をしてほしい。
それにね、もういきなりオチバレだけど、こういう不条理な映像の面白さで引き込んでおきながら、このオチはちょっと陳腐じゃないかなあと思ったりするわけ。
まあそりゃ、思い出が不条理に失われていく、のも確かにSFだけど、それは何ていうのかな、深層意識下での戦いというか、何かこう、サイコチックで哲学的なスリラーを思わせてワクワクしたんだけれど、それが神とか、そういう天上の者によって、人間が実験台にされているんだ、なんてオチなんて、それってどんな物語のオチにも使えるじゃん、禁じ手だよー、と思っちゃうのだ。
まあ、このアイディアをラストに持っていくにはそんなオチしかなかったのかもしれないけど……。
でも、エンディングを、ランディングとして落ち着かせなければ気がすまないハリウッド映画だからだよな、という気がする。私はね、このアイディアから始まったんなら、不条理でナゾのまま終わっても良かった気がしたんだ。あー、なんだったんだろ!みたいなさ。そういう後味の悪さを無意識に期待していた気がする。
それこそ勝手な思惑なんだけど……。

だからこれはサスペンスというより、SFというより、結局は母子の絆の強さを強調するヒューマンドラマに落ち着いちゃっている。その点では成功なのかな。
いや、でもどうだろう……。
そりゃ、ヒロインのテリーを演じるジュリアン・ムーアはべらぼうに上手い。飛行機事故で亡くしてしまった息子のことを、ずっとずっと悲しんでて、次の一歩を踏み出せない母親像を、観てるだけで涙が出てしまうような迫真のテンションで演じている。息子が死んだ日からの年月を一日と間違わずに言えるぐらい。
でもね、あとのオチを考えると、この“息子が死んだ日”あるいは彼女の言う“死亡時刻だって言える”というのは、少々の矛盾があったりするんだよね。
またまたオチバレだけど、息子は飛行機事故で死んでしまったんではなく、“彼ら”の手によって拉致されたのだ。それは子供たちが目的じゃなくて、子供たちを連れ去られた親たちがどんな心理に陥るかが彼らの知りたいところだった。
その論理でいけば、テリーが息子の死体を見たとか、埋葬したとか、いうことはないはずなんだけど。
勿論、それも記憶操作でなんとでもなるって論理なんだろうけれど……でもなんか、ひっかかるんだよね。そんなことが出来るぐらいなら、彼女が息子の記憶をどんなことしても忘れないこと自体に、さすがに違和感を感じざるを得ないんだもの。

なんつーか、究極のご都合主義が働いてるって感じが、するのね。物語として効果的な部分だけ彼女は覚えてて、そうじゃない部分は“彼ら”の思い通りになっている、っていうか。
“彼ら”にとって想定外だったテリーの例は、同時に興味深い例でもあるから、彼女を泳がせていたんだとは思うんだけど、だったら彼女がアッシュ(彼女の息子と友達だった女の子の父親)の記憶をムリクリ思い出させて、行動を共にする、この彼をも泳がせているのがどうも解せない。
それもまた、彼女の症例を採取するためなのかもしれないけど、でも何のキッカケというわけでもなく彼を召し上げてしまうのは、物語の進行上、ジャマになっちゃったから、ぐらいの理由にしか思えないんだよね。
つまりは、その後、テリーは“彼ら”との対決があるわけだからさ……。

でもさあ、テリーは自分の息子の痕跡を全て奪われたのに、他人の娘の痕跡をかなりアッサリと見つけ出しちゃう(壁紙の下の絵ね)とかさ、どーにも引っかかりが多すぎて。
どうもいろんなところでしっくりこないんだよなあ。
自分が信じていたもの(思い出)が、周りから証拠を固められて、そうじゃないんだと言われれば、確かに自信がなくなるかも、自分はビョーキではないかと思うかも、自殺する人の原因はこんなところにあるのかも……と見ながら痛切に思うんだけど、それでもまったくもって揺るがないこのテリーの存在が(そりゃー、それを納得させるぐらいジュリアン・ムーアは上手いんだけど)、そんなことを思うヤツはアホだと言っているみたいに感じちゃうのもこれもまた……極端なんだろうな。

それになんか、これって、母性バンザイ!みたいな意識が感じられて、あんまり好きじゃない。テリーは“母親”だから息子の死を受け入れられず、“母親”だから父親である夫には彼女の気持ちは理解しきれず、父親がアッサリ“彼ら”の術にかかっても、“母親”だから決して陥らない、みたいな言い方に聞こえるんだもん。
うーむ、私も相当ヒネくれてるけど。テリーだけが例外だったんだから、そりゃ言いすぎだよね。でもさ……最終的に、どうしても息子の記憶を失わないテリーに業を煮やした“彼ら”が本気でかかってきて、彼女も記憶を失いそうになるんだけど、でも“その体に命を宿した感覚を失うわけがない”みたいな結論で、“彼ら”の手下の男をハッタと睨みつけて、「サノバビッチ!」と叫び、この手下の男は、役に立たなかった、と“彼ら”に処分されてしまうのだ。
サノバビッチ、っていうのもねえ……字幕では「このサディスト!」ってことになってたけど、違うでしょー……明らかにものすごくキタナイ、女性が男性に対して最も侮蔑的に投げつける言葉じゃない。

なあんかね、テリーの夫は彼女と違ってアッサリ息子のことを忘れちゃうし、それどころか彼女のことも忘れちゃうし、そりゃ誰もあらがえない“彼ら”によって操作されているから仕方ないんだけど、そういう視点がね、これは一見女性を賛美していそうに見えながら、それはイコール母性であって、母でない女を否定してるというか、女は母であるからこそ偉大なんだと言ってるみたいというか……いや、いくらなんでも私も、そりゃー、ヒガミすぎだな……。
でもねでもね、テリーと行動を共にするアッシュだってさ、彼は父子家庭でそりゃあもう一人娘を大事に、愛していたに違いなくて、だから娘を失ってからの日々は酒びたりだったんだよね。それがテリーによってムリクリ思い出させられて、自分がこんなに愛していた娘を忘れていたことへの罪悪感に彼は苦しめられる。そんなアッシュをテリーはどこか慈悲深く見つめ、一緒に頑張ろうと導くんだけど。
なぜアッシュは思い出せたのに、テリーの夫は思い出せなかったんだろう。アッシュが父子家庭だったから?……どうだろう……。

テリーの夫には、あまりせっぱ詰まったものを感じさせないんだよなあ。哀しみから抜け出せない妻を持て余し気味って感じがしてる。
パートタイムとはいえ、仕事に復帰した妻に喜ぶ夫が、どんな本の編集なの、と彼女に問い掛けて「病んだ心の女を愛する男」と答える彼女のジョークに、冷水を浴びたような顔をするのが、なんつーか、全てを語っている気がするんだな。
それだけで、夫婦の距離感を感じるというか……既に彼はもう息子のことは、そりゃ哀しかったには違いないけど、心の中で整理できてるのに、なぜ妻は……みたいに感じるというか。
うーん、うーん、やっぱり、うー、考えすぎというか、過敏に反応しすぎだってのは判ってるんだけど……どーも女は母性がすべてなのかあ?って言いたくなるのは。

テリーが、絶対に息子はいたんだと、夫や精神科の医者がどう言おうと絶対にいたんだと言って家を飛び出す。アッシュの家を訪ね、あなたにも娘がいたんだと、強行に居座るもんだから、アッシュは警察を呼んじゃって、事件沙汰になるんだけど、国家安全保障局が介入してきたことで、この地域の管轄である女刑事、ポープは疑問と、何より不信感を抱くのね。
ポープがテリーの言うことを無視できなかった、最終的には彼女のことを信じた根拠っていうのがね……それはあの気味悪いライナス・ローチを目の当たりにしたってこともあるんだけど、まず最初に刑事としての意地はあったんだろう、それに黒人で女性の刑事というのもプライドが強いんだろう(ホラ、我の強い女のキャラが強調されてきたよ!)そして、劇中、彼女は甥っ子だったかな?彼女の子供ではなかった気がするんだけど……を迎えにいかなきゃいけない、なんていう台詞があったでしょ。自分の子供じゃないってあたりがビミョーだけど(子供だっけ?)、何にしてもそんなエピソードをわざわざ挟んでくるっていうのが、またしても母性への目配せを感じるんだよね。ポープ刑事がテリーを直感的に信じたのが、まさしくその母性の部分でなんだろうな、というのがさ。

テリーは、いつでも息子の思い出を、クリアな映像としてその頭の中に浮かべている。現実の彼女の世界は寒々しいブルーグレーなのに、息子の思い出はいつだって光あふれる明るさの中にある。あの飛行機事故の直前、彼女にキスして、テレ気味のウィンクを送りながら飛行機に乗り込んだ息子を、テリーは忘れることが出来ない。
彼女が忘れなかったのは、やはりそれが記憶ではなくて思い出だったからなのかな、と思ったりして。“彼ら”が消そうとしていたのは記憶だったから。私、辛い思い出を忘れるか、忘れないかってことに関して、最近よく考えるんだ……ムリに忘れる必要なんてない、と思っていた。忘れることは、その間の人生を否定することだから。でもそのことを忘れるなんて出来ないと、忘れないことばかりを考えているその時間は、果たしてその人は生きていることになるのかってことも、考えるようになったんだ……その思い出を、時々あける心の奥の引き出しに閉まっておければいいけれども、それが出来ないんだったら、意識的に忘れてしまうこともひょっとしたら必要なんじゃないかって。だからテリーの夫や他の親たちは、“彼ら”の思惑にはまれたんじゃないかって。

テリーとアッシュの逃亡先に無表情で現われまくる“彼ら”の手下の男が、もー、気味悪くて。無表情なライナス・ローチ。「司祭」では(古いけど)あんなに美青年だったのにいー。
そう、もう、無表情で現われまくるの。テリーとアッシュの車の行く手にゆらりと立ちはだかり、全然動かないもんだから、追っ手から逃げる二人は彼を跳ね飛ばしてしまう!無表情のまま跳ね飛ばされるライナス・ローチが気持ち悪いよおー!でも彼は全然死ななくて、不死身で、何度も何度も彼らの前に現われる。撃たれても、何されても、全然、全然、ヘイキなの!その青い瞳が瞬きもせずにこちらを見据えているのが、気持ち悪いよおー!!
それと、ゲイリー・シニーズ。彼は最終的には“彼ら”の存在を知っている数少ない人間であって、そういう意味ではテリーたちの敵とも言えるんだけど、でもテリーのことは真摯に心配してて、“彼ら”にさからうことなど出来ないから、それなら安らかにテリーに息子のことを忘れさせてあげたいと思ってたりするわけで、こうしてネタがバラされても彼がテリーの敵なのか味方なのか判然としないところがあってさ、それでなくてもゲイリー・シニーズは顔がブキミだから(ゴメン!)なんかずっと、コワいんだよね。彼が一番その不条理さを体現してた気がするなあ。

テリーとアッシュの関係はナカナカイイんである。お互いに同じ運命の相手。愛する子供を奪われた同志。同志、であって、恋愛感情が生まれるわけではないんだけど、結構そのあたり微妙なバランスだったりする。ラスト、テリーの夫がどうなったのか(あのまま、妻子の記憶が失われたままなのか)は明らかじゃないし、何も覚えていないアッシュと再会したテリーが万感の思いを込めて彼に挨拶し、アッシュが「初めて会ったような気がしない」(そりゃそうでしょ!)と言い、渦中に、きっとここに来るだろう、と無意識に待ち合わせしたあのブランコで隣り合って座る。彼らが恋仲になってもならなくても、大切な同志でいてほしいと、思う。

巨大都市、ニューヨークがバッチリ舞台になっているのは、圧巻だった。特に巨大な橋(ブルックリンブリッジ?)の、ここを徒歩で通る人はまずいないだろうと思われるような巨大な橋の、車がビュンビュン走って行く脇の遊歩道を、憔悴しきったテリーが歩いてゆく空撮とか、いわゆるCG的なSF場面より、よっぽど迫力があった。★★★☆☆


復讐者に憐れみを  /SYMPATHY FOR MR. VENGEANCE
2002年 121分 韓国 カラー
監督:パク・チャヌク 脚本:イ・ジョンヨン/パク・リダメ
撮影:キム・ビョンイル 音楽:ペ・ユンジン
出演:ソン・ガンホ/シン・ハギュン/ペ・ドゥナ

2005/2/18/金 劇場(新宿武蔵野館)
本国の韓国では、たった2週間で上映が打ち切られたんだという。いや、それがマトモな神経だと思うよ。海外の映画祭なんかでは高い評価だったみたいだけど、そりゃ役者の演技は鬼気迫るものだとは思うけど、これは、ちょっと、ないと思うもの。いくらなんでも悪趣味。それに大前提の部分、根本的な部分で、少しずつ、少しずつおかしくて、だから結局誰に感情移入することも出来ず、最後まで徹底的に引いちゃって、後味悪いとかそういう問題をはるか超えた部分で、いやあ、ちょっとねえ……などとね、思ってしまうわけ。いくらなんでもそれはないんじゃないのと。

まあ、一番手っ取り早く言えば、その残酷描写は普通の人間なら生理的に引いてしまうぐらいの部類のもの。でもこれを、そうだな、例えばスプラッターホラーモノとして観にいったんなら、うわー、残酷!とか喜んで観ていられるんだろうと思う。そういうジャンルモノでは、その要素こそがエンタテインメントだから。
でもこの映画はホラーではなく、復讐、つまり人間の心そのものを描こうとしているという大前提があるわけでしょ?だからこれをエンタメの要素としてとらえるわけにはいかないわけ。だってそうなると、ここで行なわれる全ての残酷が、復讐のためなら何でもアリだと肯定することになるわけでしょ。
だからね、この復讐という作劇のためなら何でもアリだっていう大前提にこそ、引いてしまうのよ。いくらなんでも悪趣味、と思うのはそこなわけ。最近の韓国映画の秀逸さというのは、大前提にエンタテインメントがあるということをきちんと認識している(それは作家主義に陥りがちな日本と比較した場合により顕著に)部分にこそあるんだと思うんだけど、本作はその部分でなんか間違っているんじゃないかと、思っちゃうのね。
同監督の復讐三部作のもうひとつである「オールド・ボーイ」が、あくまで映画としてのエンタテインメントが前提にあったからこそ、そしてラストで救いがあったからこそ、復讐物語でも成立していたわけであって。
しかも監禁で、殺しじゃないしね。

幼い我が子を殺されてしまった父親。そして愛する姉を亡くしてしまった弟。
このそれぞれの立場で復讐の鬼となった彼らは、それぞれに残虐な殺戮を繰り返す。ことに、前者の父親の鬼っぷりはものすごいものがあるわけで……確かに、それらの哀しみは想像を絶するものがあるんだと思う。そりゃ、そんなことを経験していない私には判らないよ。でも、だったら監督はじめこの映画の製作者たちには、それが判っているとでも言うの?ここでの終わりなき残酷な復讐物語は、それを復讐の作劇としての、単なる免罪符として、何でもやっていいと、何でもアリだとしているのが、納得いかないわけ。
それが一番顕著だったのは、この父親、ドンジンが我が娘、ユソンを誘拐した犯人を探し当て、その一人である女の子、ヨンミを電気ショックによって殺してしまう場面。ヨンミたちはユソンを殺すつもりなんてなかったし、実際殺してないし、事故だった。でも確かに誘拐したのは本当。ヨンミはそれを申し開きするわけでもなかったし、確かに不遜な態度はとった。ヨンミはこの犯罪をそそのかす立場であり、カネが必要だったのは恋人のリュの方で、彼の居所を黙っているためにこんな残酷な仕打ちをドンジンから受けるわけなんだけど……平然とした態度で彼女の耳たぶをぺろりとなめて電気ショック機をセッティングし、毛布をかぶせて最高電流を与える、そのそばでフツーにご飯を食べ食べ、ヨンミの、ギャアアア!と繰り返される断末魔のような絶叫を聞いている。彼女の足はガクガクと震え、尿を漏らしてしまい、それさえも、ただ汚いものを見るかのように見ているこのドンジン。そう、いくらなんでも、これは、残酷を通り越して、悪趣味。

その描写そのものの残酷さよりも悪趣味を感じてしまうのは、いくら我が子が殺されたからって、こんなに無慈悲に人が殺せるだろうか、という部分に立ち返ってしまうから。自分の子が味わった恐怖を味あわせたいと思うんだろうけれど、だったら余計に出来ないんじゃないのと思ってしまう。人間として壊れる方向がこうなる、というのは、人間自身をこの監督が信じていない、いや、やはり、我が子を殺されたんだから何でもありってだけで、映画的だからオッケーみたいにあまり考えていないような感じがして、気分が悪いのだ。
これが、このヨンミが直接手を下したというのならまだ判るけど、そうではない。もしかしたら直接手を下したかもしれない、リュの行方を知らないだけなんだから。しかも、壁に貼られた、ユソンと彼らが仲良さそうにしているポラロイド写真から、この父親は何を思ったのか……少なくとも虐待はされていないことぐらい判ったろうに。

いきなり、クライマックスの部分を言ってしまったけど、それ以外の要素にも、全編に渡ってどうにも理解しがたい壁がいくつも存在するんである、実はね。
主人公の一方であるリュは聴覚障害者で話すこともできない。で、彼には腎臓が悪い姉がいて、その姉のために一生懸命働いてる。姉の完治のためには腎臓移植しかないんだけど、ドナーが見つからない。リュはあやしい腎臓売買組織に接触するものの、自分の腎臓をとられた上に、大金も持ってかれて、ドロンされてしまう。その後姉には正式なドナーが見つかったんだけど、手術のためのカネを失ってしまった彼は途方にくれるわけ。
その時同時に、リュは仕事も失ってしまったから。
で、聾学校時代の同級生のヨンミが、「いい誘拐と悪い誘拐がある。世間はいい誘拐を知らないから、誘拐は悪いものだと思うのよ」とか何とか言って、リュが辞めさせられた会社の社長の娘を誘拐し、身代金を奪うことを提案する。

この幼い女の子、ユソンに対しては、彼女自身には誘拐だと判らせない形でつれてきて、仲良く一緒に遊んであげるし、彼らは「いい誘拐」を心がけるわけね。
ドンジンは娘を助け出すために警察には言わずに身代金を渡し、この「いい誘拐」は成功したかに見えた。でも、帰ってきたリュが見たものは、弟が自分のために犯罪に手を染めたことを知った姉が、浴室で自殺を図ってしまった姿。
リュは嘆き哀しみ、この姉を思い出の河原に埋めに行く。その時ユソンも連れている。まあ、その後に逃がすつもりぐらいだったんだろうと思う。姉はユソンを無事帰してやりなさいと書き残していたし、別に縛って連れてきたわけでもないし。だけどリュが姉を埋めている間に、なんかヘンな男が近寄ってきて、ユソンにもちょっかい出して、逃げ出したユソンは誤まって川に転落して、死んでしまうわけ。背を向けていたリュには何も聞こえなくて、気づいた時にはユソンは川の中で息絶えていた……。
で、父親ドンジンの怒りは当然誘拐犯人に、そしてリュの怒りはそもそも自分を騙した腎臓密売組織に向かうわけで……。

と、まずここまでにしておこ。ここまででも、もう既に、ちょっと待てよと思うところがいっぱいあるんだもん。
何より、かなり唐突なぐらいに思ってしまう、この復讐劇が始まるキッカケとなる姉の自殺。弟が自分のために女の子を誘拐したと判って、罪悪感を感じるのは判る。でも、何で自殺なの。いくらなんでもムリがあるような気がする……だって、そんなことしたらそれこそそこまで彼女を思って、思いつめたためにこんなことをしてしまった弟がさらに深く深く負い目に思うの、判るじゃない。それに仲良くなったこのユソンだってそう思うに決まってるじゃない。
でも、まあそんなことを言ったらこの話自体が始まらないんだから、そこはとりあえず飛ばすとしても、姉を失ったリュの怒りが、騙されて腎臓をとられた組織に行き、そちらに対してまず行動を持つのも、解せない。ユソンを死なせてしまったことで、二重の悲嘆にくれていたというのに、もういきなりその罪悪感がどっかいっちゃっているような趣なんだもん。最初のあいつらさえいなければ、みたいな。これもまた、復讐の作劇のためだけに起こる違和感。そんなことやってたから、その間にヨンミはドンジンに殺されてしまったわけで。

で、それをさらにヨンミも助長して、組織探しに協力しているのもおかしい。それより彼に自首させるとか何とかしなさいよ、などとフツーに思っちゃう。だって、その方が彼のためになったじゃない。
まあ、このヨンミのキャラの造形に関しては、彼女はもともとろう者でもないのに聾学校にもぐりこんだり、反体制のビラをくばったり、学生運動に傾倒してキムジョンイルに会うために国境を越えようと海に飛び込んだなんて逸話もあったりして、こういう、“組織に対する反体制”という性格があったためだってことはあるんだけど。
このせっぱつまったさなかに、いきなりセックスしていきなり恋人同士になっちゃう描写にも、なんだなんだとビックリ。それまではちょっと気の合う友達同士という感じ。というか、ヨンミがリュを心配してそそのかしているような感じ。落ち込むリュを励ます形になったのかしらんが、このセックスシーンには何かの意味があったんだろうか……。
しかし、あっさり、サッパリおっぱい出しちゃったペ・ドゥナにはおお、と思ったけどね。このエッチシーンもかなりの激しさ。こういういさぎよさが日本のアイドル女優にもほしいもんだ。手話をかわしながらの女性上位のこのシーンは独特のエロティック。
このカワイイ顔でタバコをすぱすぱやるのも妙に似合うのが、彼女の魅力。「いい誘拐と悪い誘拐」を説いてリュをそそのかす場面なんか、そのサバサバした言いっぷりが実に見事。カジュアルながら胸のふくらみや谷間を強調する服に最初から釘づけ。キレイキレイな韓国女優の中で、彼女が唯一ホンモノの映画女優じゃないかと思うんだわ、私。

実は何よりヤだなと思ったのは、障害者をその障害を欠点、弱点として描いている点にあるんである。
リュは、耳が聞こえなかったために、ユソンの叫びに気づかず、死なせてしまったんだけど、彼が姉を埋めに行った河原に、その原因となった脳性麻痺の男がたまたまいるというのも、かなりのご都合主義である。
その後、娘の死んでしまったこの河原に手がかりを探しに行ったドンジンは、埋まっているリュの姉の遺体をみつけ、さらにこの脳性麻痺の男が、娘のしていたビーズのネックレスをしていることに気づく。で、この男から事情を聞いているらしいんだけど、ドンジンってば「脳性麻痺だが頭はしっかりしてる」と言うくせに、彼が手を下した張本人だってことは、判ってないわけ。まあつまりは、“アタマはしっかりしてる”からこそこの男はそのことを言わなかったんだろうとは思う。でもこの男の扱いは、行動から何から、完全に見た目からイメージされるような知能障害か変質者であり、その点で胸が悪くなるぐらい偏見がアリアリなんである。

それにさあ、このドンジン、娘の誘拐、殺害(ではないけど)に際して、刑事から、誰かに恨まれた覚えはないかと問われて、マジメに生きてきた。そんな心当たりはない、って言うでしょ、言い切るでしょ。これまたちょっと待て、だよね。そりゃあ彼は、底辺からこつこつと這い上がってきた人物なんだろうさ。でも、経営の苦しさからアッサリと多くの社員をクビにしているというのに、恨みを受けた覚えがないなんて、ただ一人思い当たるのはそれに対して直訴してきた社員一人だけだなんて、ありえない。彼が本当にそう思ってるんだとしたら、最初から彼自身に人間として欠陥があるんじゃないかとさえ、思っちゃう。
で、ドンジンはこのただ一人思い当たるという男のもとに行ってみる。あの時この男が言っていたように、失業によって食えなくなってしまった一家は、バラックみたいな粗末な貧民街で、総倒れしていた……あれは雰囲気的には餓死というより心中である。彼が働いていたドンジンの会社は工場みたいなトコで、そんな高賃金の感じでは確かになかったけど、その社長のドンジンがキレイで豪勢なマンション暮らしをしているのに比べて、これは明らかな差であり、そうした低賃金労働者をたくさんクビにしたというのに、恨みに気づかないドンジンは、やっぱりおかしいよね。

その、総倒れしている中に、たった一人息をしている男の子がいて、ドンジンは一緒に行った刑事とともに、急いでこの男の子を運び出す。ちょっとは罪の意識を感じたのか、自分が保護者だと言って、彼の回復を祈る。だけど、もう手遅れで……その間、この見も知らぬ男の子に対しては気まぐれのようでもこんなことをやったというのに、あの数々の目も当てられない復讐をとげたあと、彼の死を病院から告げられたドンジンは、「人違いです」とアッサリと斬って捨てるのだ。
何なんだよー、この行き当たりばったりは。正直ドンジン自身がそんな複雑なキャラクターを抱えている印象はないし、こうなると、人格欠損者というよりは、ホントに行き当たりばったりな、人格が練られてない感じがしちゃうんだよな。

このドンジンの復讐劇を支えるのは、彼からワイロを受け取って情報を流す刑事である。そんな、刑事としてあるまじきコトをする割に、この刑事ったらあの男(リュのことね)は残虐なヤツだから、復讐はヤメた方がいいとか、妙に心配するようなこと、言うしさ。ハッキリ言って、残虐はこのドンジンの方ですってば。何か、これも復讐劇ありきのキャラなのよね。そう思うと、どの要素もそう思えてしまう。

残酷シーンのシメは、ついにリュを追い詰めたドンジンによる、あのユソンの死亡現場での、リュのアキレス腱切りである。「お前は優しいから俺がお前を殺すのを許してくれるよな」なんて意味不明のことをドンジンは言い、水の中で歩けないようにするために、縛ったリュのアキレス腱を水中にもぐって、切るわけ。いつそんなことを思いついたんだ、別に殺すなら普通に殺せよーと思う。復讐心でアタマがいっぱいになってる割には、ずいぶんとオリジナリティあふれる殺し方を思いつくよなーと、ここにも、あ、またこんな残酷な殺し方思いついた♪みたいに監督が思っているよーな気までしてきちゃって気分が悪い。
これでドンジンの復讐は達成されたかと思いきや、最後、彼も殺されてしまう。それはあの時、小水をだらだらもらしながら、息も絶え絶えに言っていたヨンミの言葉。「私の仲間はテロ集団だから。私に何かあったらあなたは確実に殺される。あなたのためを思って言っているの。あなたは殺される。100パーセント、確実……」そう言ったヨンミはあの忌まわしき電気ショックにかけらえ、あえない最期を遂げてしまうんだけど、このヨンミが属するナントカいう組織は、刑事が言うところによると、学生闘争に没頭していたヨンミが自分ただひとりで作った組織だったはず。しかしヨンミの言葉どおり仲間たちが現われて、ドンジンはぐっさぐさに刺されて哀れ、殺されてしまう。哀れ、かどうかは難しいところだが……誰に優しいまなざしを注ぐこともついになく、カタルシスなんてところからも遠くはなれたところで、こうして物語が終わってしまい、何か放り出された気分。

役者の演技が渾身こめられていただけに、その力量をこんな作劇に使ってしまっているのが、何かもう、やりきれない。★★☆☆☆


舞台よりすてきな生活HOW TO KILL YOUR NEIGHBOR’S DOG
2000年 98分 アメリカ カラー
監督:マイケル・カレスニコ 脚本:マイケル・カレスニコ
撮影:ヒューバート・タクザノウスキー 音楽:ロビン・アーダン
出演:ケネス・ブラナー/ロビン・ライト・ペン/スージー・ホフリヒター/リン・レッドグレーヴ/ジャレッド・ハリス/ピーター・リーガート/デヴィッド・クラムホルツ

2005/1/24/月 劇場(銀座テアトルシネマ)
ケネス・ブラナーの映画を観るのって、なんだか久しぶりのような気がするなあ。この人の、イヤミのない洒脱なイギリス人っぷりは昔っから好きでねー。ここでのブラナー、まさしく彼!って気がするなあ。アメリカの中のイギリス人、その中で苦虫を噛み潰しているような、でも愛すべき人物ってのがすっごく似合ってるの。しかもここはロス。ニューヨークなら彼みたいなイギリス人も生息していけるんだろうけれど、開放的であけっぴろげなここでは彼の居場所はどうにも、ないわけ。
アメリカを中心に全世界的に広がっている嫌煙ムードの中でも、意地みたいになってタバコスパスパやってるあたりも、実に彼らしいのよね。
で、彼は劇作家。かつて怒れる若者と言われた時代も過ぎ去って、今は哀しいかな、ちょっとばかしスランプ気味。しかも妻はもう年齢的にも最後のチャンスとばかりに彼に子作りを迫ってくるわけ。そうだよねー、かなりギリギリの年齢だわよ。しかも彼女、子どもにダンスを教えていたりするもんだから、子供好きなわけ。でも彼はそうじゃない。自分自身がまだまだ子供っぽい彼にとって子供の親になるなんてぜっんぜん、考えの範疇の外にあること。しかも今はスランプだし、義母は痴呆症気味で彼をイライラさせるし、とにかくもう、夫婦喧嘩ばっかなの。
いや、夫婦喧嘩にさえ、なっていない。妻は夫を呆れ気味で突き放しているんだもん。
何はともあれ、ちょっと可哀想なダンナさんなんである。

というあたりのキャラは、ケネス・ブラナー、ハマリすぎ!劇作家とか、理屈っぽくも熱いイギリス人とか、もう彼、自分自身じゃないの?と誤解?されるんじゃないかと思うほど。彼の、一見筋道が通ってる論議はでもなんだかワガママからくるヘリクツで、だけどあのマシンガントークでやるもんだから、妻も呆れて突き放すしか、ないわけ。
でもね、なんだか彼の言うこと、判るんだよね……。
子供を持つことがそんなにおえらいことなのか、って彼、言うじゃない?それは、私だってそうは思うんだよねー。子供が出来ること、作ること、出来ないこと、作れないことで、今世の中色々と複雑じゃない?
ま、彼の場合はそういう理由じゃないから、単に自分が不安なだけのワガママだってことはそうなんだけど。
でも多分、男の人ってそうなんだろうな。十月十日をイメージも実感も出来ずに子供が生まれてしまうんだもの。だからまあいろいろと、世間的に問題も起きているわけで。
でも、くしくも彼はその訓練を受けることにあいなるわけである。隣家に母子家庭が越してきたのだ。

女の子を見たとたんに、妻、メラニーはもう一見して大喜びなわけ。子供好きな彼女だから、早速仲良くなろうと画策。まあ、その下心として、夫をこの機会に教育しようということも当然あったはず。
でも、彼、ピーターはひたすら逃げまくる。子供なんかにどう接すればいいのか判らないし、妻の魂胆もミエミエだったから、僕は書斎に立てこもるから!と……もう、彼自身が子供そのまんま。
そう、彼自身が子供そのまんまなんだよね。だから悩む必要なんてなかったのよ。
ピーターは今の戯曲が全然進まずにイライラしている。それは、劇中に登場する子供の描き込みがリアルにいかないから。いかにもバカそうな男優や、ピーターを気に入っているらしいゲイの演出家や、やたらとアドバイスしたがる掃除夫にさらにイライラとさせられながら。あれ、でも、舞台上に実際に子供が出るわけではないのかなあ?ディスカッションしながらの舞台稽古では、板の上に乗っているのは夫婦役の役者二人きりで。それとも今だけ実際にいないだけなのかもしれないけど。でもだからこそ、彼ら二人のバックボーンとして語られる子供がリアリティがないと、夫婦としてのリアリティも出てこないってことで、彼は頭を抱えているのだ。

そんな時この女の子、エイミーが現われたわけで。彼は自分が子供が苦手だからととにかく逃げ回っていたんだけど……そう思い込んでいただけだったんだよね、実は。
ある日、ピーターの庭先でエイミーがままごと遊びをはじめる。それをピーターは書斎から覗き見ている……子供の会話を盗み聞いて参考にしようと思ったんだけど、どうもよく聞こえない。
で、結局エイミーに見つかっちゃって、一緒にままごと遊びをすることになるわけね。
でね、ここでフツーの大人とか、あるいはフツーに子供が好きな大人なら、彼女のままごと遊びにテキトーに合わせることが出来ると思うのよ。でもピーターはまず脚本をいいものにしようと必死だし、何より子供が何たるものだとかいうことをテキトーに考えられない、まあ愛すべき子供っぽさ、つまりは子供の一生懸命さを持ち合わせた人だから、もう必死でエイミーに教えを請うわけね。
で、ピーターはここで、ままごと遊びが素晴らしき即興演技の場だと、驚嘆するのだ。

なんて、彼が、妻のメラニーに興奮気味に話した時には、観客のこちらも少々ビックリなわけ。ええ!?そうとるわけ!?みたいなさ。でも、ふと考え直して、そうかもしれない……と思うのね。子供はままごと遊びやごっこ遊びによって大人の疑似体験をして、これから成長していく過程でなるべく上手くいくように、傷つかないように、って無意識の防御をしているんじゃないかって。で、大人になってからの人間関係って、そんな即興演技が日々試されることなんじゃないかって。
子供の時には、素直すぎて、正直すぎて、お互い傷つけあったりもする。でも、その時代には仲直りしたりやり直したりする柔軟さが大人よりもあるから、それで成長していける。そしてその過程で子供は人間関係に素直や正直だけではいけないんだということを学んでゆく。いわばそれが、言葉を変えれば思いやりだということなんだけど。
でも、そう考えると、思いやりって、他人に対して、日々ウソをつき続けていることなのかもしれない、とも思うんだよね。
ままごとは、他の人物になりきって、相手が望むことは何なのかを考えること、なんだ。

ピーターが子供なのはイギリス的なウィットに包み込みながらも、その点であまりに素直に正直すぎることなんだろうなと思うし、そして今更ながら、それを包み隠すワザをこのエイミーから教わるわけで。
しかも只今、エイミーの両親は不仲で、だから父親とは別居中なのである。
そんな中、そうやって“即興演技”で人間関係を孤独に訓練しているエイミーに胸がつまるし、その彼女に対して、“子供の世界は大人よりもずっと大変だ”とすっかり意気投合して、親友に任命され、それをすんなり受け入れるピーターが、すごく、微笑ましいんだよね。
ままごとにゴム飛び、そしてエイミーが母親から“出来るわけない”と禁止されていた水泳も、プールに飛び込むエイミーに激突されて再三鼻血を出すピーターが可笑しくて。
もう、本気で遊んでるもんね、ピーター。すっごく楽しそうに。
実際、子供にとって、大人の目線で対されるより、こんな風に人間対人間として付き合ってもらえることが、どんなに嬉しく、どんなに糧になることか。

あのね、エイミーの母親は、ちょっとヒドい人でね。娘の足の障害を恥じているようなとこがあるわけ。そんなの全然大した障害じゃないのに。見た目じゃ判んないぐらいだし、ちょっとゴム飛びが出来ない、そのくらいだよ?
この母親の態度っていうのは、まさに、大人の目線で子供を見る、そのものなのだけど、でもそれが大人の目線なのだとしたら、大人って、子供以上になんて愚かな生き物なんだろうと思うわけ。
それは子供を、自分の子供なのに、それ以下に、あるいは人間以下にさえ、見ているということ。みっともないんだから、その姿を他人様にさらけ出さないで、それが自分の子供だなんて、私が恥ずかしいじゃないの、みたいな。
多分、彼女の意識は後者の方にこそ、偏っているんだろうと思う。
彼女は、子供が、自分のものだと思うからこそ、恥ずかしいのだ。
ピーターはそんな彼女の態度に怒り心頭して怒鳴り散らしちゃったんだけど、……でも多分この母親は、そう、こんな風に愚かな偏ったものではあるけれど、それは多分ある意味での……母親としての娘への愛情なんだろうね、確かに。
子供にとってはこの母親の偏見に満ちた愛情も、それに激昂する仲良しのオジサンも、今はただただ哀しく傷ついてしまうだけなんだけど……。

「子供をロボットにしてる!」と怒りまくっちゃったこの場面でのピーター、でもカッコ良かった、よね。妻のメラニーには、家庭の問題に口出すなんて間違ってる!と言われて大喧嘩しちゃったけど。
だって、もってまわった言い方ばかりしていた皮肉屋のピーターにとってめずらしい、ストレートさだったから、ちょっと驚いちゃって。でもこのエイミーに対しても、ピーターってば、確かにすごくまっすぐだったかも。エイミーを叱ったりする時も。隣人に叱られる、そんな社会が失われたから世界はダメになる。で、このお母さんもそういうことに目くじら立てるからさ。
この、エイミーがピーター夫妻に叱られる場面っていうのも、なんかすっごい、考えちゃうものがあるわけ。エイミーのお母さんが、娘があんまり隣家とばかり仲良くしているもんだから、イヤがっちゃって(……ま、判るけどね。だって、自分になつかないのに隣家の夫婦と大の仲良しだなんて……誘拐されちゃうかも、とか思うかも?)、自分の留守をベビーシッターに頼むわけよ。でもこのベビーシッターっつーのがサイアクでさ、メシを与えて寝かしつけりゃ、それでイイと思ってんの。「子供なんて単純よ」とガムをくちゃくちゃやって。
そのベビーシッターに激昂したエイミーを、他人をそんな風に言っちゃいけない、と叱るピーター夫妻。後で、「悪い子になるつもりはなかったの」と泣きながら謝りにくるエイミーは……なんか、でも、イケナイ、大人の階段を登っちゃった様な気も、してね……。
子供は未知だし、可能性がある。だから子供に対しては、誰だって叱ったりしていいと思うんだよね、多分。
でも、それが、眉をひそめるだけで終わりになってしまう。ある程度、大人になってしまうと、見放されてしまう。
ピーターはその点、ラッキーだったのかもしれない。エイミーと出会えて、大人になれたんだもん。

世間体を知りすぎたという意味で大人になりすぎたこの母親も、子供以上にまだまだ子供であるピーターも、エイミーの苦悩に比べたら、ホント、子供の愚かさなんだろうな。
エイミーは、女の子であるということや、障害を持っているということで、彼女にとってはその中でとても複雑な、でも均整のとれた人間としての感覚を持っている。……子供が宝だというのって、この奇蹟のような一瞬の時があるからこそなのかもしれない。
大人が子供に育てられるのって、確かに本当かもしれない。

ピーターは自分の戯曲の中の子供を、障害を持った設定にすることを決意する。そのひとりは脳性麻痺の子である。それは知的に障害があるというわけではない、という設定。
このことに関しては、「オアシス」で凄く考えさせられちゃったことだから、思わず知らず、ハッとしてしまう。
ピーターは、自分を義理の息子だということをなかなか認識しない痴呆気味の義母に、イライラする日々を送っていた。でも何たって義母だからその態度をロコツに出すことは出来ない。妻の方が実母のそんな状態にイライラしているのを知っているから。でも、この義母、ね、ふっと意識をハッキリとさせるのだ。そしてこんなことを言う。
「若い頃には、自分は死ぬことはないんじゃないかと、本当にそう思っていた。でも今は、こうして死にかけている……」
その言葉に、思わず耳を傾けるピーター。

ピーターは多分、今まではこの義母の言うこと、生きている人間としてとらえることさえ、出来ていなかったんじゃないかと、思うんだ。どうせ判ってないんだから、みたいな。それは今までの、子供に対する自分も同じだった。でもエイミーと出会って、それが間違いなんだって、気づいて……だから、“障害をもつ子供”の中でも、脳性麻痺の子供、というテーマを選んで、挑んだんだと、思うのね。
それまでのピーターは、“もはや若くはない怒れる若者”だった。若い時には怒っているだけで良かったのかも知れない。若さにまかせて。
でも、今は。子供と老人の橋渡しとなる大人として、そうでばかりはいられない。
生まれた時間、死ぬ時間から、最も遠く隔たってしまったことで、忘れてしまったことを、一生懸命、思い出さなければいけない。
それがきっと、大人としてのつとめなんだ。

ピーターが隣家(エイミーじゃなくてね)の犬の鳴き声に不眠症になって外をうろつきまわっている時に、自分の名を語る彼のストーカーと出会う。
このエピソードがちょっと、面白くて。ピーターはもともとこの不審者の存在は知っててメイワクこうむっており、一度なぞは自分自身がその不審者に間違われて連行されちゃった、なんてことまであるんだけど。
このストーカーを演じるのはジャレッド・ハリスで、私彼結構好きなのね。うーん、「I SHOT ANDY WARHOL」でウォーホルを演じた時はウツクシイ青年の印象があったんだけどなあ(笑)。
大ファンを通り越して、自分こそがピーターの真の理解者だ!と主張してはばからないこの男、なんだろ、なんていうのかなあ……それは確かにピーター、いやピーターの影、って感じなんだ。
エイミーと出会う前のピーター、と言った方がいいかな。人付き合いをうるさがっていた時の彼。

人にイヤがられるタバコをピーターはここぞとばかりに吸うんだけど、それをすすめたこの男は一旦、断わるわけ。多分、どうやら吸う習慣がないんだろうな。でも、タバコも付き合えないのか、みたいにピーターが言うと、やっぱりくれ、ともらってセカセカと吸い出す。
なんかこのあたりとか、アマノジャクなピーターが単純化されたっていうかさあ(笑)。
エイミーの母親のことでイライラとしていたピーターが、その時ちょうど隣家の犬が殺されちゃって、普段からこの犬をうるさがっていたピーター、捕まってしまう。でも実際は、あのストーカー男がやったことだったのだ。
「あんたのために殺してやったんだ!」そう叫ぶ男を、ピーターは呆然と見送る。
愛すべきキャラクターがそうじゃなくなる紙一重、という、なんともシニカルなものを感じさせる一場面……。
人付き合いっていうのは、憎しみも、まあひとつの愛情のようなものなんだっていうか、それをなかなか今の世では出来なくなっているっていうか。

そんな中、エイミーがまたしても引っ越していってしまうことになる。彼の両親が仲直りしたから。ピーターとメラニーは寂しくてたまらない。でも、エイミーにとって両親の関係の修復は何より嬉しいことだと判っているから……。
「お父さんとお母さん、仲直りしたの、嬉しい?」だまってうなづく彼女。
エイミーのお母さんは、ピーターとの接触を禁じているから、遠くから、この娘に触りはせんかと見張ってる。エイミーもそれを判ってるから微妙な距離をとってる。お別れのキスも、握手さえ、できない。
でも、エイミー……車に向かう途中に、ガマンできずにきびすを返して、ピーターに抱きつくのだ。ピーターもガマンできずにエイミーを抱き上げて。あー、あー……ヤバい、涙出る、マジで。
メラニーもそれを見守りながら、たまらず、泣き続けてる。
エイミーは、悲しいけどまだ年齢が子供だから、いっぱいいっぱい、ガマンしなきゃいけないことはあるけど、この親友のオジサンとオバサンに、大人になったら会いに来てよ、ね?って思う。大人を思いやれる大人以上の大人のエイミーを、このオジサンとオバサンは大好きなんだもの。
せっかく、エイミーのおかげでいい作品に仕上がった舞台を見せられないのも残念だけど、それだって観にこれる大人への時間は、そう、長くないから。

そして、産婦人科の待合室である。結局は不発だった冒頭の産婦人科ではつきそってきてたピーター、実に居心地悪そうなんだけど、最後ではまあ同じように見えながら、心の中でかなーり期待している雰囲気を感じさせる。
それにしてもきっちりつきそってくるってあたりがやっぱり欧米人だよなあ。

ケネス・ブラナーは無論、ハマリ役だったんだけど、案外に良かったのが、ここではピーターとエイミーを主にして、脇に徹した感のあるメラニー役のロビン・ライト・ペンなんである。彼女、私はなんかギスギスしたフツーの美人、って感じで、特にピンとくる人じゃなかったんだけど、ここではそのスレンダーが不思議に可愛くて、あのケネス・ブラナーとやりあう頭のよさもあって、なんか、良かったなあ。うんうん、さすがショーン・ペンの奥さんだけあるわけ。

アメリカ人とイギリス人の関係って、こういう風にシニカルなんだけどウィットに描けていいなあと思っちゃう。日本人ってどこの国の人に対しても、こういう関係を築くのはちょっと……難しいだろうからさ。★★★☆☆


フライ,ダディ,フライ
2005年 121分 日本 カラー(一部モノクロ)
監督:成島出 脚本:金城一紀
撮影:仙元誠三 音楽:安川午朗
出演:岡田准一 堤真一 松尾敏伸 須藤元気 星井七瀬 愛華みれ 塩見三省

2005/7/15/金 劇場(有楽町丸の内TOEI1)
ヤバイヤバイ!すんごく楽しかった!面白いっていうのもあるけど、まず何より楽しい。成島監督、やっぱり上手いよなあ……「油断大敵」は地味なデビューだったけど(作品がって言うんじゃなくて、あれだけ完成されて面白い映画が無視されすぎってこと)やはり脚本家としてのキャリアがあるせいか、もはや熟練のワザなんだもの。
今回は原作者の金城氏自らの脚本。原作ありきじゃなくて、映画のためのオリジナル脚本というあたりに、映画に対するマジな意気込みがうかがえる。劇中、ちょっとクサいかな〜などと思う台詞もあったりするんだけど、成島監督はその台詞の時にはシーン自体も夜景を見つめながら、とか、思いっきり舞台を整えて、思う存分クサい台詞も言わせちゃう。脚本のてらいのないストレートさに演出が臆することなく挑んでいるから、こっちもよし、判った!とついていくことが出来るんだよなあ。

それに、うん。やっぱりキャストだと思う。傷つけられた娘のためににっくき男に立ち向かうお父さんである堤真一。今までで一番好きな堤真一かも。こんな直球勝負でドカンとくる人だとは思わなかった。今年はこれ以降にも色々良さそうなのがあるし、賞レースに絡むかも!
そして彼にケンカ、もとい戦い方を教えるスンシン。演じる岡本准一は私今回が初見。「東京タワー」はああいう映画をピンの女一人で観に行くことにあまりの虚しさを感じてしまって、ついつい避けてしまった。それを今回ちょっと後悔。彼は今一番美しい時かもしれない。その一番美しい時を、こんないい役でスクリーンに刻みつけることが出来る彼は、なるほど自身でこの役を得たことを最高の光栄だと言うのも判るほどに幸福だと思う。実年齢からすると高校生役はキビしいけど、スターとしてのオーラがそれを感じさせない。
めっぽうケンカに強いスンシンをその若さの躍動感とイヤミなぐらいの美しさで、釘づけにさせる。一年前からの特訓というのが、その思い入れがうかがえる好感度。

冒頭はね、ちょっとしつこいかな、などとも思ったの。幸せな家族の風景。それが暗転するいわゆるプロローグ。仕事で夜遅くなった彼を、妻の運転する車で、後ろにパジャマ姿の娘も乗って迎えに来る。「私も来ちゃった」「試験は大丈夫なのか?」「明日は一教科だけだから大丈夫なの」くったくない笑顔を見せるこの娘、演じる星井七瀬の可愛さが光り輝き、このお父さん、鈴木一が目に入れても痛くないほど可愛がっているのがよく判る。
試験が終わった後に友達とカラオケに行きたい、というのを許す彼。しかし妻からの電話で呼び出される……娘が怪我をしたと。慌てて病院に駆けつけてみると、そのケガは暴力をふるわれたものだった。痛々しいほどに晴れ上がった顔に包帯がぐるぐるまきにされている。可愛い女の子だから、そのケガは本当に……正視できない生々しさで。
ケガの状態を説明する医者は下卑た笑いで「ご心配なく。ケガは上半身だけですから」などと言い、胸が悪くなる。しかしそれはまだ序の口。当事者の、暴力をふるった男子高校生と、彼につきそってきた教頭、担任は、謝罪とは程遠い、つまりは一たちの口封じに来たのだ。

だって、ウソついてるんだもん。娘の遥が彼に声をかけられてついて行った先で暴力をふるわれたとか言うんだもん。一は「そんな娘に育てた覚えはない!」と激昂するし、後に真相を彼女の友達の口から聞いた時も「本当は聞かなくても判っていた」と言うんだけど……つまりここでは、この青年のいかつさと、彼のバックの権力に威圧されてしまう、のね。この石原という青年の父親は次の次の総理大臣と目される人物で、学校側も当然のごとくといった感じでこの事実をもみ消そうとし、くってかかる一を、もんのすごい高飛車な態度で小突き倒すアリサマなのだ。
もおー、本当にムカつくの。私も単純なんだけど……この石原を演じているのが須藤元気でね、彼格闘家でしょ?役者じゃないっつーのに、何であんなにムカツク男をリアルに演じちゃうの!ムカツキながらも、くっそう、コイツ上手い……と思う。ニヤニヤ笑いながら、めんどくさそうに頭を下げてみせる、全然反省なんかしてやしない石原を、さっいこうの悪印象で演じてみせる。ぐううう。回想シーンで遥に馬乗りになって殴りつけるシーンもさあ……。たたずまいといいいでたちといい、殺気といい、生々しいリアリティがある。
一は何にも言い返せない自分にも腹が立っていたと思うし、娘に対して理不尽に激昂なぞしちゃって……。事実を知りたがる妻に「遥に聞けよ!」と言っちゃって、大好きなお父さんに信じてもらえなかった!と思ったのか、遥は「入ってこないで!」と病室からカバンを投げつける……。

翌日、一は石原の高校に包丁を持って乗り込むんである。ぶるぶる震えながら、「石原呼んでこい!!」しかしそこにフラリと現われた見事なフットワークの男に一発フックで倒され、気絶してしまう。それがスンシン。ちなみに一ったら高校を間違えたのだ……目覚めた彼を介抱していた、ぐるりと取り囲んだ男子高校生たちは、「あっちはエリート高、ウチはバカ高ですから」と言い、あの悪名高き石原に立ち向かおうとした一に興味津々、何があったのかと聞き出し、力になりますよ、と言う。ケンカの達人、スンシンに鍛えてもらって、石原とタイマンの対決に勝とうではないか!と提案するのだッ。
でもスンシンは一人、そんなノリノリの輪から外れたところにいるのね。「それだけの覚悟があって、なんでこんなもの(包丁)を持ってきたんだ。なぜ素手で戦おうとしなかった」と言い、グサリとその包丁を壁に突き立てるとボキリと折れてしまう、「こんな安物じゃ人は殺せないけどな」黙り込んでしまう一。

そんなクールな、ちょっとコワいようなスンシンにも、仲間たちは判ってるよん、みたいに全然気にしてなくて、アホ一歩手前並にアッカルイのがイイんだよなあ。実際、スンシン一人だけが明らかに雰囲気が違い、つまり一匹狼みたいに見えるから彼らとつるんでいること自体が不思議に見えたりもするんだけど、そんなスンシンとこだわりなく付き合えるイイ奴らだからこそ、彼はここに居心地良くいるんだなというのが判るんだよね。だってさー、ほおんとに愛しい奴らなんだもん。
アホ一歩手前なんて言っちゃったけど、そう見えるだけで決してそんなことはないわけ。一がスンシンの特訓についていけるだけの強さを持っていることを彼らはいち早く見抜いていたし。どんなにしごいても、筋肉痛バリバリの身体を引きずって毎朝通ってくる一にスンシンは「……あのオッサン頭おかしいぜ」とつぶやき、彼らは「今ごろ気づいたのかよー」と本気になり始めたスンシンに嬉しそう。一はいつだってスーツ姿で、トレーニングの時に着替えるジャージは寸足らずでカッチョ悪い。キッツイジョギングの一週ごとに積み上げる小石はだんだんと小山になってきて、目標を達成した時、その最後のひとつの小石をスンシンに手渡すのね。手渡されたスンシン、無表情ながらも喜んでるに違いないのがああ、グッときちゃうッ。
実はそんな中、一と石原の勝負に大賭博大会状態になっている、しかも石原への賭けが圧倒的に多いのを一が偶然知っちゃって、「俺は出世も諦めてこんなに必死なのに!」と怒るんだけど、あまりに怒ってるから事情を説明するヒマもないんだけど「説明ははしょりますが、俺たちはマジですから」と。説明ははしょりますからってところがスキだなあー。

つまり彼らはちゃあんと一に賭けてるわけ。この賭けには石原の高校の生徒も全員巻き込んでて、そいつらは全員石原に賭けてる。一は勿論シリアスに頑張ってるわけだけど(寸足らずのジャージ姿が可笑しくもカワイイけどね)、そういうところにマジながらも遊び心を加えている彼らが可愛くてね。
そう、スンシンが本気で一をトレーニングしようと決心したあたりから、彼らも着々と準備を固めてくる。一の妻に献立ノートを渡し(出された食事に「……何か白いもんばっかりだな」と一が言うのは、多分筋肉を強化させる献立なんだろうな)、遥には、こともあろうに病院の屋上からロープにぶら下がって、窓をコンコンと叩き、スケッチブックでカワイイ絵入りで「こんな風に吊られていますが、決して怪しい者ではございません」!!爆笑!すんげえ怪しいって!そして一ちゃんがいかに頑張っているかの証拠を手渡す。遥、それはそれは嬉しそうにニッコリとして……。
吊り下げられたちんまいメガネの子が一番コメディリリーフでオモロくて好きなの。ただ一人遥をその目で見た彼、屋上の仲間にスケッチブックで「カワイイ!」と満面の笑みだが、なんたって吊り下げられているからさあ、そんなの見せられた仲間が、引き上げようとしないのに慌てる様が可笑しくて!それに、あの賭博状態に怒った一にとりすがろうとして、一番ぶっとばされちゃうのも彼だし。その漫談家みたいな独特の声といい、何ともはや可笑しいんだ!……いやこの彼らの中でマトモな感じのコなんて一人もいないんだけど(笑)。かなり皆(一見)アホ満開だし!言い出しっぺの南方くらいかなあ、顔も感じも一応マトモなのは……でも彼、妙に落ち着いた声と喋りッぷりが、こんな中じゃ逆に可笑しいんだけどね。

何か思いっきり話を進めすぎちゃったけど、なんたってこのトレーニングの大変さにあるんだから!ど素人の一を鍛えるためにはまずは基礎体力、とひたすらひたすら走らせるところから始める。筋肉痛でフラフラの一は、競歩状態の老人夫婦にも抜かれるアリサマである。ところでこの老人夫婦の掛け声「オイッチニ!」はやっぱり「油断大敵」から来てるんだよね!
果てしない石段をつま先で登るとか(バナナでつるスンシンに、「俺はサルかよ……」とつぶやく一が可笑しい)、木の枝に綱一本で這い上がるとか、実践の戦いに到達するまではとにかく筋力作り、なんである。一は妻には会社を休んでいることを言っていないから、毎日スーツで出かけて、スーツで帰ってくる。迎えの車も前みたいにはやってこない。一度はバスに乗ったんだけど、今はそのバスと自らの足で勝負を挑む。革靴から運動靴にはきかえて、信号でバスが止まる度に、追い越していく!

最初は勿論全然追い越せなかったんだけど、バスに乗っている疲れた男どもがそんな一に応援の目を向けるようになって……。この男たちってのがまたおっかしいの!徳井優、神戸浩、田口浩正といった見てるだけで吹き出しちゃいそうなメンメン。いつも同じバスに乗り合わせてるから顔見知りではあったんだけど、一の話題から始まって、一緒に呑みに行きましょう、なんていう話になる。その時点で呑みに参加することになっているのは三人、四人目の男が五人目の、フケだらけのおっちゃんに「あなたもどうですか」と声をかけると、「いや私は……」と断わられてしまう。三人のうちの一人が四人目の男に「誘われてもいないのに……」と言うトコがおっかしくてもおー、大好きなの!いやだって……ヒドいけど、吹き出しちゃうんだもん。
一がこのバスとの勝負に鼻先で勝って(ストップモーションがまるで競馬の写真判定!)バスの男たちは拍手喝采!勝負を挑んだ運転手も(途中のバス停の乗客をすっとばして!)よくやった!と拍手喝采!かくして十分に力をつけた一は戦い方もスンシンから学んでいざ石原との対決に出陣!なのだッ。

ところでさあ、ところでさあ、このバスとの対決でランニング・ハイになってる状態って、これは絶対、堤真一もメインキャストだった「弾丸ランナー」だと思ったんだけど!違うかなあ?

特訓を受けているうちに、スンシンとの距離もこのアホ満開の仲間たちとの距離もぐんぐん縮まって、年の差さえも縮まって、大親友みたいな雰囲気になるのがイイんだよね。スンシンは自分の過去の話をする。リストラされて、自暴自棄になった男に外国人労働者のせいだと、「朴」という表札の家から出てきた子供だったスンシンは刺されてしまった。大怪我を追ったスンシン、離婚したばかりの父親は見舞いに来ず、この恐怖からしばらくは外へ出られなかった。だからスンシンは遥の気持ちがよく判るんだよね。そのことを言いたくてこの話をしたんだろうけど、一はそんなスンシンが急に愛しく思えたのか、髪をぐしゃぐしゃとなで、自分の胸に引き寄せる。テレて気まずげに身を離すスンシンが彼らしくてカワイイ。彼、だって、はいている靴、「俺はスニーカーしかはかねえんだよ」と言っていたけど、あれはやっぱり一がプレゼントした「運動靴」なんでしょ?赤の奇妙なデザインのやつ!そういうひねくれた陰で素直なトコとかがカワイイのね。
スンシンはその時、強くなろうと決心したんだという。ビデオテープのケースに手書きで書かれた「燃えよドラゴン」何度も何度も見ているんだろう、もう薄汚れている。ブルース・リーの挨拶は欠かさず(開いた片手にこぶしのもう片手を当てて顔をあげたまま上体を下げる、あれね)、「灰とダイヤモンド」の詩なぞを口ずさむ一に「その映画は主人公は勝つのか?(勝たない、と言われ)そんな話には興味がない」スンシンらしいなー!

そしてこの仲間たちが、あの時遥と一緒にいた友達を連れてきてくれて、つまり、当然あの石原の言っていたことはウソで、カラオケを楽しんでいた二人の部屋に突然彼らが押し入ってきてこんなことになったわけで……それをね、聞き終わって、皆で草っぱらに横一列に寝転びながら、「そんなことは聞かなくても判ってたんだ……」なあんて言う一の言うことを聞いている彼らは、仲の良い少年さながらでさあ、なあんかもう、甘酸っぱい気持ちになっちゃうんだよなあ。
しかも最後の休養日、一は彼らを遊園地になぞ連れて行くし!スンシンてばジェットコースターが苦手なんだよー。「最高の夏休みだったでしょ」そうだね、まさに少年の夏休みを一も、そして彼らも過ごしたんだなあ。

そして対決の日!石原の高校の始業式を乗っ取って試合をしようという段取り!ここの高校の奴らはみんな賭博に引き込んでいるからオッケーなわけ!スンシンはね、一に言うの。「本当の勇気を感じられたら、戦わなくてもいいんだぞ」って。そういう哲学をスンシンはことあるごとに言いはするんだけど「自分を信じることだ。勝つのは簡単だ」と一に言い、一は「君を信じるよ」と言う、この会話がまたキュンと来てイイのよね〜。
そんなこと言いながらスンシンは、一が勝つと(そうッ!見事な勝利!でもそんなことはもはやこの物語では割とどーでもいいから割愛!?)いっちばん喜んじゃって、一に飛びついて抱きついて、もう大騒ぎなの。この時初めて少年らしい笑顔を見たなあ!

そして一は、やっと娘を迎えに行く。見送っていくスンシン、「飛べ、オッサン!」言われた一は両手を大きく広げて、駆け抜けてゆく。本当はね、こんなクサいラストシーンもないんだけど、ただスンシンがそれまでに見せている、モンゴル相撲の勝者の舞をアレンジしたという、重力を極限までなくしたダンスとかね、これがまた岡田准一が舞うとバレエのように美しくって肉体の躍動感の美しさに唸る。すんごい見入っちゃう。そういうのをふんだんに見せてるから。この突き抜けた青空もね、いいんだ。フィクションぽい青空の突き抜け方がね、、いい意味でのフィクションの気持ち良さが青空によく似合ってて。

お父さんにこんな最高のコトされたら、遥、恋人作るのタイヘンそうだよなあ……こんなお父さんより好きになれる男を見つけられるのかしらん。いや、やっぱりスンシンか!?

地味なデビューだった監督も、実力があったからこそのこの大抜擢だし、評価されるのに早すぎることはない!!★★★★★


ブリジット・ジョーンズの日記 きれそうなわたしの12か月BRIDGET JONES THE EDGE OF REASON
2004年 107分 アメリカ カラー
監督:ビーバン・キドロン 脚本:ヘレン・フィールディング
撮影:エイドリアン・ビドル 音楽:ハリー・グレグソン=ウィリアムス
出演:レニー・ゼルウィガー/ヒュー・グランド/コリン・ファース/ジム・ブロードベント/ジェマ・ジョーンズ/ジャシンダ・バレット/サリー・フィリップス/シャーリー・ヘンダーソン

2005/3/24/木 劇場(有楽町 日劇1)
いっや、ホントーにやっちゃったよ、レニー・ゼルウィガー!前作の時も太っちゃったけど、今回はそれどころではない太りよう。だ、だって首が、……ないもん。あごがそのまま鎖骨につながっちゃってるッ!そして今回の巨乳っぷりは更にヘビー級で、ここまでくるとさすがにただのおデブのおっぱいで色気を通り越しており、前作の時は正直そうでもなかったと思われた太ももやふくらはぎにもぽってりと肉がつき、そして前作の時は吹き替えじゃないのと疑った“ブラジルサイズ”のお尻も、いや、これは問題なく本人のモンでしょう!という堂々たる超・安産型である。や、やっちゃったよ、レニー……それも別に賞とかに勝負をかけるシリアスものではなく、こういういわばコメディにそこまでやっちゃうレニー、アンタが大好きだッ!まあこのブリジット・ジョーンズ役というのはまさしく彼女の当たり役であり、代表作であり、だからこそそこまで思い入れてやっちゃうんだろうけれど、勝負役であっても人工メイクの力を借りたシャーリーズ・セロンなんかとはまるで違うわけよねッ!まんまだもん。まんまおデブになっちゃったんだもん。ポスターとかの宣伝写真は上手く逃げて撮ってるよ。首がないのをうまくごまかしてるもん。実際スクリーンに彼女の姿を見て、ほっんきで驚愕してしまう。だってこれは……ヒロインの体型じゃないッ!実際は彼女が本当はちゃんとヤセている(まあ、フツウの体型だと)ということを、オープニングのサウンドオブミュージックのパロディ映像でわざわざ見せているのは、このアプローチがいかに衝撃であるかを物語ってるよなー。

そういう意味でも、彼女は革命を起こしたんだとさえ讃えたいよね。だってさ、このおデブでコメディとはいえラブストーリーのヒロインを演じようってんだから!しかも二人のイイ男を相手に、しかもしかもそのうち一人は名うてのプレイボーイであり、見るからにヤラしそうな色男なのよッ。もう一方の、まあ彼女の本命であるマークは、カタブツ弁護士であり、ブリジットを心底愛してはいるからではあるんだけど、彼女と付き合って毎日セックスするというあたりに、そして彼女の肉体を賛美するあたりに、どーもフェチ的なところを感じたりもするんだけど、色男のダニエルの方はねえ……でも彼もまた変わった趣味の持ち主のよーなところはある。女に不自由なんて全然してないであろう彼がお遊び半分とはいえミョーにブリジットに執着するのは、やはり彼にとって珍しい女に対する興味があるからに違いない。だって彼、ブリジットに、僕を笑わせてくれる唯一の相手だ、みたいなこと言うでしょ。そここそが彼にとってのブリジットの価値観なわけ。なーんかそのあたりはマークもダニエルもどっちもどっちだって気もするけど、まあプラスアルファ、彼女のことを真から愛しているという点で、マークに軍配があがるわけね。

しかし前作で、見事マークとの恋を成就させたブリジットなのに、その続きって一体何をするんだあ?と思っていたら、本作、冒頭はもうハズかしいぐらいマークとのラブラブライフ大全開で、キャスターとしての仕事も、まあかなりイタい仕事ながらも順調にいっており、じゃあ何なんだよ、とか言いたくなるような感じだったんだけど、もともとブリジットの仕事や彼女自身のプロレタリアな価値観や思想が、このバリバリエリートのマークと折り合いがつくのかなあというのは確かに前作薄々感じていたことで、だからその点では、確かにダニエルが相性ピッタリではあるんだよなともまた思っていたことで。弁護士のマークは結婚相手としては最良の男であり、そうではなくて、本当に好きだから、ということを再確認するためには、見るからにヤらしいダニエルのような男は、必要なんだよね。それにだって、エリート弁護士であるマークとの恋の成就というのは、独身の30女としてはそりゃあまりにもデキすぎっつーか、恋というよりは勝ち組仲間入り!みたいな感じは正直あったんだよね。
だから、それを受けてのこの続編だったのかもしれない。本当にマークでいいのか?一生をともにする相手としてこの先やっていけるのか?という……。そのマークの対照となるダニエルが、だからここまでヨロめきまくるイイ男ってのは、超・必然。

前作ではあくまで恋の成就であって、結婚という文字はまだ全く見えていないんである。だから前作こそ、純粋なラブストーリーだった。そして本作も途中まではそうだった。仲直りする電話のやりとりなんて良かったよねー。ブリジットが謝りの電話を携帯の留守電に入れたと思ったらブリジットのアパートメントにマークが来てて(この場面、留守電に向かって来客が来たからと言い、まるで本当に来客と自分が電話かけてる相手が同じだって判ってないように見えちゃって(そんなわけないんだけど)かなりドキドキ!)、ドアの前に立ちんぼで待たされたマーク、たむろしてる若いあんちゃんたちに聞かれながらドア越しに初めてのアイラブユーを言ってくれる。それはブリジットだって本当に嬉しかったし、友達たち(かなり、アヤしい)に浮かれて報告しまくるぐらいだった。その時点では、純粋な恋人同士だった。でも結婚を意識しないわけにはいかない年なんである。特に女は、子供を生むという大問題があるから、男よりその点は神経質にならざるを得ない(いいよねー、その点男はジジイになっても子種はそうそう絶えないんだからさ)。

まあ、ね。ブリジットだって、別に結婚したくて、その相手としてマークを選んだわけじゃない。本当にラブなハッピーエンドとして前作はあったし、その満足感は当然あった。そして本作だって前半はウンザリするほどのラブラブ光線で、彼が外国の大使と会議中にこともあろうに電話のスピーカーホンで、彼との充実したセックスライフをご披露しちゃうなんてトホホな場面もあったりして。
そう、別に結婚は意識していなかったんだけど。
でも、家族ぐるみの付き合いである彼らが、両親の前で、まだ結婚は考えていない、君もそうだろ?と当然のようにブリジットにマークはふってしまって。それに対して、確かにまだそんなことは考えてなかったであろうブリジットなんだけど、でもあまりにも当然のようにそんなことを言うマークに、戸惑いと、そこから発展した不信感が芽生えてしまったのだ。
この年の女と付き合う男がそう言うということは、大げさに言えば、本気じゃないんじゃないかと受け取られかねない、いや、受け取られてしまう、のは仕方のないことなんである。
哀しいなー、女って、しくしく。
でも、本当の愛なのか、愛されているのか、愛しているのかということを確かめるためにこれは乗り越えなければならない儀式だったのだ。

何たってマークはエリートだから、何かカタいパーティーとか色々あるんである。
そのために頑張っちゃうブリジットは、着慣れないタイトなドレスなぞ着て、苦しくて歩き方ヘンだし、何よりそのドレス、センス最悪で、センスのいいハイソな人たちの中で完全に浮いてて、もうカワイソで目も当てられない。クイズゲームでムズカシい弁護士系の問題は当然ながらちんぷんかんぷんながらも、俗な大衆クイズには嬉々として正解を連発、しかし最後のひっかけ問題をハズしてしまう場面とかも、もう、もうイタすぎて。

しかも、マークの浮気疑惑が持ち上がってるんだよね。
彼のそばにいつでも控えている美人秘書のレベッカである。
スラリとしたスタイルといい、その美脚といい、ブリジットはとても叶いそうにない相手である。しかも彼女、マークといかにも親しげで、留守番電話に思わせぶりなメッセージが入っていたり、マークと二人きりのデートのはずのスキー場に仲間を引き連れて現われたり、するわけよね。
しかしこの彼女の存在には意外なオチがあって、実はレベッカはレズビアンであり、ブリジットのことが好きなんであり、そのことをマークに相談していたんだと!
まあ、そのオチが明かされるのは、もっとずっと後になってからなんだけど、今回の話にはコレといい、ダニエルが遊ぼうと思っていたタイの娼婦が実は男の子だったりと、何か、そういう目配せというかそんなのが、あったりするのね。
ただ、このレベッカがブリジットに惚れちゃって、彼女の恋人であるマークにそれを相談するなんていう、言ってみれば結構シリアスにもなりかねない状況なのに、誤解したブリジットにレベッカは、特にせっぱ詰まった様子もなく自分の気持ちを告白し(こんなにアッサリ告白するぐらいなら、相談する必要もなさそうだけどなあ……)キスまでしちゃうのね。ダニエルのタイ・ボーイ事件にしても、ブリジットと寝たと思い込んだマークにつかみかかられたダニエルがその事実を暴露するっていう事態であって、その場面自体もないし、あくまでネタとしてあるだけで。
まあ、それは、こういう、いい意味でラクーに見ることが出来る映画だから別にいいんだけどさ。

あ、そうそう、だからそんな状況になるためには、ひと山、これが驚くべきひと山なんだけどさ、それが、あるわけさ。ブリジットはどうにも冷たいとしか感じられないマークにキレちゃって、ケンカ別れしてしまった。それはね、後から思えば彼もまた子供だった部分はあるし、何より不器用な人で、彼女への思いと仕事モードな彼とのオン・オフが上手く出来なかった、てのもあるわけで。でもそういうことをブリジットも知って乗り越えなければ、こんな人との結婚なんて、出来るわけないわけ。
しかし、そんなことでマークと別れちゃってる間に、こともあろうにブリジット、刑務所送りになるんである!!
いや、さっすがにこの展開にはビックリ。ブリジット、ダニエルと仕事のためにタイ旅行に行くわけ。かつての恋人とはいえ、女たらしでイイカゲンなダニエルに嫌悪感と、同業者としての嫌悪感を隠しきれないブリジット。だってコイツってばこんな女タラシなくせに、しかもそのキャラ全開のエロい視点での旅行ガイドが大当たりしてるんだから、スカイダイビングから豚の糞まみれに突っ込むようなイタい仕事ばかりのブリジットにとってイライラが募るのもムリはないんである。しかしね……。

コイツってば、色男なんだもんよ……。
既に行きの飛行機から口説きモード全開でさ。こういう男だってこと、観客のこっちだって知ってるはずなのに、そのプロ仕様の口説きには……うう、くそ、ヨロめいちゃうんだよー、くそう!最初はまあ、ね。カルい感じで相手の緊張感を解いちゃうわけ。そんであの先述の、自分を笑わせてくれる唯一の女性だ、みたいなゼツミョーな台詞ととろけるようなタレ目笑顔で完全に全身ストライクゾーンに持ってきちゃうでしょ。そんで夜景を臨むバルコニーで巧みにキスなぞ許しちゃったら、しかも相手は彼女のデカパン趣味も知ってて、懐かしいね!とばかりにめくりあげた裾からそのパンツに頬ずりしちゃうんだもん、も、もうダメだろー。
そう、私なら、ダメだな(笑)。ヒュー・グラント、素敵なんだもん……タレ目だけど。コイツは間違いだと判ってても、マークみたいなカタいエリートで自分を心から愛してくれるような男が文句なくベストだと判っていても、ヒュー・グラントのこのキャラには参るよなー、勝てないよなー、実際これ。
マークのことを思って、瀬戸際でかわしたブリジットがエラいと思っちゃうもん。
実際、当然、正解なわけよ、ね。ブリジットがかわした直後に、ダニエルが呼んでた娼婦が訪ねてきて、そして、そう、この娼婦だと思っていたコケティッシュ・ガールが実は、コケティッシュ・ボーイだったという……。

ブリジットが麻薬密輸疑惑で捕まっちゃって、それを空港でダニエルは見逃しちゃってたのね。まあそこでヤツの本性が明かされるわけだけどさ。でも何たってヤツは仕事とはいえブリジットとともに旅行してたわけで、ブリジット解放のために奔走したマークが、一緒にタイに行ったマークと彼女が寝たんじゃないかと勘ぐっちゃうのも当然なわけね。で、問い詰めて噴水の中で大バトルしたマークにダニエルがそう告白するわけ。でも、タイ・ボーイのくだりまでホントかどうかは、判らないけど。ブリジットをつなぎとめておかないマークにダニエルがけしかけるために、そんなことを言ったのかもしれないしさ。「そんなにブリジットのことを忘れられないのなら、結婚してしまえ」そうしてさらに「そうしたらヨロめく」そんな余計なことを、しかしその余計な台詞が粋なのよね、プレイボーイたるゆえん!よねー。

ブリジットが入れられる女子牢での描写もこれがかなり面白くって。今回はこここそが見せ場でしょー、ヤハリ。大体、こんなラブコメで、外国の刑務所にいきなりブチこまれちゃうってあたりがまずぶっ飛んでるしさ。しかもこのあまりに殺伐とした女子牢の中で、ブリジットはスーパーブラ(って、ナニ?上げて寄せる、みたいなヤツとか?)から始まって、マドンナの歌を正しい発音で指導、それを皆でパフォーマンス、なーんてことでスッカリ女子牢の中のカリスマリーダーになっちゃうのよ。こういうのをイヤ味なく見せられるのが、レニーの魅力だよなー、ほんっと。だってこの中でブリジットが言うように、ここに入れられてる女の子たちは、暴力とかヤクザとかヤク中とか、そんなサイテーの恋人によって人生を狂わされてこんなところにいるんであって、ブリジットがマークと別れた理由がいかに甘えたものだったかということを、ブリジットは思い知らされるんだもの。彼女は、マークに対して憤っていたし、ある程度自分をカワイソって思ってたんだけど、そんなこと、ここではとても言えっこない甘ったるい理由だってことが判ったんだよね。そしてしかも、マークはこの状況から自分を救ってくれた。この時点では彼女は知らなかったんだけど、彼女を出獄させるために国の要人さえをも、動かしたのだ。

そのことを知って、ブリジットがマークに会いに行く場面、凄−く好きだなあ。ブリジット、いやもといレニーはね、牢獄にブチこまれていたという設定で、空港に迎えにきた両親が言うように、確かに少し、すこうしだけど、痩せたのね。ビミョウな感じだったんだけど、確かに。で、この出獄には実はマークの並々ならぬ努力があったんだと知って、それは確かに愛であり、自分こそがマークを忘れられずにいたブリジットは、思いを伝えるためにマークに会いに行こうとする。勝負服を着てね!それをさまざま、とっかえひっかえ、試すわけ。かっなり、これがキツい。ボンレスハム状態に、しかもシースルーのボンテージとか。しっかり色んな服持ってるねとツッコむのはこの場合ヤボか。そしてブリジットはラブリーなワンピースで彼に会いにゆく。この“ビミョウに痩せた”状態が、こんなワンピース姿をギリギリ問題なく確かにラブリーに見せていて、太り方、痩せ方までも、職人的にウマいッ!

そしてめでたくマークからプロポーズの言葉をもらったブリジット。ハッピーエンドはちょっとヒネって、ブリジットの両親の再ウェディングから。とにかくラブラブなブリジットの両親は、二度目の結婚式をラベンダーカラー一色という、サイアクのセンスでとり行なうのだ。しかしそのウェディングブーケを受け取ったのは他ならぬブリジット。もう、必死になって受け取ってたけど(笑)。当然、もう、これでこのシリーズは終わりでしょ。負け犬が勝ち組になったら、もうすることなんて、ないもん。だからこそブリジットも気合いが入ったんじゃないの?

肉体改造してこんなおデブちゃんになって、タイプの違う色男二人に口説かれて、こりゃ、世の女性たち、間違った希望を抱いちゃうっつーの!
しかしこんなおデブで実際可愛く見えちゃうってのがね、凄いんだけど。
黄金のスタンダードナンバーで彩られるあたりも心憎いんだよなあ、まったく!★★★☆☆


プリティ・イン・ピーチ (ミス・ピーチ 巨乳は桃の甘み)
2005年 60分 日本 カラー(一部モノクロ)
監督:吉行由実 脚本:本田唯一 吉行由実
撮影:清水正二 音楽:加藤キーチ
出演:林由美香 薫桜子 小島三奈 岡田智宏 ますだいっこう

2005/9/4/日 劇場(テアトル新宿/林由美香追悼オールナイト)
林由美香の急逝直前に完成していた彼女の遺作であり、最後の主演作。脇役でもチョイ役でも絡み要員でもこだわらずに仕事をしていた彼女の最後の作品が、久々の林由美香主演で、と監督、主演ともども気合いの入っていた主演作だったことに、つんと鼻の奥が痛くなるものを感じずにはいられない。しかも監督は、由美香嬢と親友と呼べるほど仲の良かったという、ピンクきっての名女性監督、吉行由実であり、舞台挨拶に立った彼女、どこか動悸を抑え気味にしながら、彼女の魅力を引き出せたと思っている、と語った。あの「たまもの」の次の主演作、だったからやはりプレッシャーはあったといい、それが、じゃあ逆に喋り倒させちゃおう!というこのハジけっぷりになり、そう、これこそが林由美香の、魅力なんだと。優れたコメディエンヌであり、あっかるくて、皆に好かれて、で胸なくて(笑。コレに関しては殆んど自虐的なほど)、そのバカバカしいほどに明るいギャグに何度も吹き出しつつも、だからこそ、ああ、こんなにカワイイ人が、この直後に死んでしまったなんて、やはりにわかには信じられないものがあって。

と、しんみりするのはここまでにしておこう。このアホか!ってぐらいなあっかるい作品の前でいつまでもそんなことをグダグダ言うのは失礼だもん。それにしても、私はほおんと、個人的にウケちゃったよ。彼女含め三人のミス・ピーチが、「福島の桃」を宣伝するキャンペーンガールだっていうんだもの!彼女たちが指導を受けるホワイトボードにはあかつきだの川中島だのとさまざまな種類の桃の写真が貼られており、そうそう!桃って意外に種類があるのよね!とこのお盆休みに実家の福島で死ぬほど桃喰らった私は、一人でニンマリする。しかもね、「日本一美味しい福島の桃を」って言ってるので更に嬉しくなる。あのねあのねだってね、生産量では山梨が一位なのよ。福島は二位なの。ほかの果物でも、全部山梨に一位取られてるの。でもね、確かに美味しさで言ったらぜえったい、福島の桃が一番だもん!と私も思うもん。それに、果物王国と言われて桃だけに執着していない山梨と違って、福島はとにかく桃に命かけてるんだもん!福島だけでとれる品種もあるしさ。あれー?ひょっとして吉行監督ってば福島出身?と思ってちょい検索したらそうだった。やっぱりね!

ちなみに、由美香嬢はこのミス・ピーチグランプリである。しかも年齢詐称して。彼女はベビーフェイスだし、劇中年齢を若くしたってそんなに問題はないけど、ここもまた等身大の彼女。準ミスは巨乳だけど、グランプリは私なんだから!、と言うと同居しているゲイの友人に、「10もサバ読むなんて」とか、「この三十路女!」とイヤミ言われてる。「仕方ないじゃん。冗談で(ダメモトで、だったかな)書いたら通っちゃったんだもん」と。「あんたの場合、汗水たらして農作業やってるのが審査員のオジサマたちにウケたのよ」と、ゲイの友人は言うんである。

巨乳の準ミスがしかもピチピチに若いこともあって、由美香嬢のちっちゃい胸、の自爆ギャグは全編通して更に続く。雑誌のインタビューに呼ばれた彼女は、このゲイ君に必死に胸を寄せ集めてもらい、「ほら、ここの贅肉も!」とちょっとだけたるんだお腹の肉もギューっと引き寄せながら、「んもう!どこに谷間があるのよ!」と言われちまう。おいおいおい……確かに谷間は全然ないけど……ぷう、とふくれた由美香嬢、「ちゃんとあるじゃん、ここに!」と両腕を胸にギュッと引き寄せて一生懸命谷間を作るんである。ああ、ひとごとではないが……。
このインタビュアーである雑誌記者っていうのがね、男性誌だからと、プライベートで失礼な質問ばっかりするのね。「どうせ読者が知りたいのはミスのスリーサイズと私生活なんだから」、と。ミス・ピーチの仕事に誇りを持っている彼女、憤然として、部屋を出て行ってしまう。
しかし彼とひょんなところで再会するんである。彼女が朝、新聞配達をしているところに、残業明けと思しき彼が行き会うんである。グレーのスウェットの上下に、首にはタオル巻いた、ダサダサ大全開の格好の彼女、「……やべ」とそむけた顔をタオルで隠すがバレバレだって!(こーいうところがカワイイんだよなあ)「この間は失礼した。偏見でものを見ていた」と彼は彼女を食事に誘う……その場は冷たくあしらって帰ったものの、実はこのヤサ男の記者さん(演じる岡田智宏にちょっとドキドキ!)、彼女の死んでしまった昔の恋人にソックリだったこともあって、もう帰るなり彼女有頂天で、ひっくり返って、足でパチパチして(おーい!すげー恥ずかしい格好だぞ!)はしゃぎまくり。ホント、こーいうところがカワイく決まっちゃうのは由美香嬢しかいないかも……。

そう、彼女にはむかーしむかし、死んでしまった恋人がいた。と回想されるセピア色の彼女は、うっ、いつの時代だよ!いや確かに彼女が10代ぐらいの時代って(つまりはまんま私の時代だよ)、こういうコテコテヤンキーがいたか……ずるずるの長いスカートに聖飢魔II一歩手前のダークメイク、恋人と二人バイクにまたがって、結婚しようぜ、なんて言っているのがハズかしすぎるー!しかし恋人は自分ひとりでバイクでひっくり返っちゃって(マヌケ)死んじゃって、そんな彼に泣きじゃくりながらすがりつく彼女は「ウッ、キモチワルイ……まさか、赤ちゃん?」そんな都合よくツワリになるなー!かくしてこんなヤンキー女が一人では育てられない、と彼女は泣く泣く我が子を施設に預ける。いつか迎えにいける日を夢見ながらもう17年もたってしまった。

今回のことが、その“立派になって息子を迎えに行く”チャンスだと彼女は思ってるんである。ミス・ピーチとしての活動が認められて、ミス・フルーツグランプリに選ばれれば、世界大会にも行ける。それを目指して地道な努力をしているのだ。「世界中からミス・フルーツが集まります。オーストラリアのミス・キウィ、アメリカのミス・オレンジ、パプアニューギニアのミス・ココナッツ……」おいおい、ミス・ココナッツ、思いっきり原住民だろ!
しかしね、あと二人の、準ミスと特別賞の二人は、ちょっと困ったヤツらでさ。特に準ミスである巨乳女は、なんであんな胸のない女がグランプリなんだと、自分こそが桃そのものではないか、と敵意むきだしなの。審査委員長に近づいてそのエロな身体で陥落させちゃう。ミス・ピーチがグランプリに選ばれれば、自分も世界大会に行けるから、と。しかし彼女の身体をエロエロに味わい尽くした(まさしく桃だ、こっちの桃も食べ頃だと、アホ全開(笑))審査委員長、「今年から規定が変わって、グランプリの一人(つまり由美香嬢)しか世界大会に参加できない」と。それを聞いた準ミス、大激怒!なんとかして由美香嬢を引きずりおろさなければと画策する。

一方、特別賞のちょっとイタイ感じの女の子は、「農協にコネがあって良かった!」と言うコスプレ好きのオジサマに、もっとアホ全開のエッチされてる。「次は、ミス金魚だ!」と手にはめた金魚のパペットで攻め立てるヘンタイオヤジに、「ええー、あたし、金魚になんか似てないよお」とあえぎながらもさすがに困惑の彼女、しかしこの金魚君に攻め立てられて、「ああーん、あたし、金魚に似てるかもお」あっ、アホか!!それにしてもこの小島三奈ちゃんは身体柔らかいねー、フツーに股割りとか、Y字バランス(いやあれはY字どころじゃない、直線バランスだ!)させられて、それもまたアホなんだけど(笑)。
まあでもこの子はちょっとアホなだけで、由美香嬢を慕っててイイ子ではある。街行く人たちに手作りのパンフレットで福島の桃の美味しさを地道に伝えようとする彼女に賛同して活動してるし。でね、ここに、ミス・スイカのジャマがはいったりするわけ。ミス・スイカ……スイカに見立てた緑地に黒の縦じま模様のTシャツがアホすぎる。メイキングではキュウリとか言われてるし(笑)。
試飲の桃ジュースを配っている彼女たちにどーん!とぶつかって、「服が汚れちゃったじゃないのよお!」オイオイ!なんでノーブラなんだよ!あのイタイ女の子、「あ!乳首が透けてるう!」だからあんたもそんなとこ大声で指摘するな!由美香嬢、上着をかけてやろうとするも、それも拒否され、そのブラジャー姿のまま、ひし、と土下座する。イタイ女の子も一緒に「私も脱ぐ!」(アホ……でもイイ子や)と同じカッコで土下座してくれる。ミス・スイカは負け惜しみ言って去ってゆき、野次馬にまぎれて審査委員長がうんうん、としたり顔でチェックしてるんである(笑)。

そんな努力のかいあって、無事彼女はフルーツグランプリに選ばれるのだが、彼女の弱みをかぎまわっていた準ミスによって、隠し子の秘密が暴かれることになっちゃって……。

あっと、その前に、由美香嬢とその雑誌記者さんは、イイ雰囲気になってるのだった。初デートにミニのドレスでキメキメで行った彼女、しかし彼はラフに自転車である。しかし彼女、そのミニでガバッと荷台にまたがり、気にしないよー、とニッコリ。いや、ミニでガバッとまたがれちゃ、こっちが気にするんだが……せめて横乗りしてくれよお、でもそこがまた由美香嬢の飾らないカワイイトコなのだ。食事の後公園で、二人ブランコに乗りながらイイ雰囲気になって、彼、キスしようとするも、隣りのブランコからバランス崩しておっこちちゃう(笑)。気を取り直してもう一度、ってとこで、同居しているゲイの友人から携帯に電話が。大事なトコをジャマされて「もおー!今メチャメチャ大詰めだったのに!」(カワイイ言い方だ)と怒る彼女に、「ゴメン、そうだとは思ったんだけど……」彼女の飼ってる老猫が(しかしこの猫、首しか動かないぬいぐるみなのがねー。コメディとは判っててもちょっと引いちゃう)具合が悪くなっちゃって、慌てて彼女、家に戻る、のに彼もついて来る。彼の実家でも猫を飼っていたといい、彼、適切に処置してくれるのね。大感激の彼女、ゲイも大感激(笑)。そして送っていく道すがら、踏み切り待ちで今度こそキスを交わす……このシーン、すんごく初々しくって、いいキスシーンだったなあ。ちらっと紹介されたメイキングでもこのシーンの撮影場面あったんだけど、さすがプロでアッサリとこなしているんだけど、やっぱりセンシティブでドキドキしちゃう。しかもこの時の、薄いモスグリーンで胸のところがレースになっている由美香嬢のスリップドレスがプリティセクシーで、すっごく似合ってて可愛かったなあ。

で、そう、フルーツグランプリの記者会見で、準ミスから隠し子の事実をバラされた彼女(しかもこの準ミス、その前にこの息子の童貞食っちゃってるし!)、「ママ!会いたかったよ!」と東京に出てきたその息子、オーバーオールにその喋り方……アドちゃんかよとか思っちゃう(笑)。記者たちから突っ込まれるも、いさぎよく詐称を認め、息子と抱き合う彼女、誇らしげに由美香嬢からティアラを奪い取る準ミス、しかしそこであの雑誌記者「ところで有栖川さん(由美香嬢ね)エッセイ集を出されると言うのは本当ですか」彼女の文才を高く評価した彼は、会社の了解もとって、この企画を提案していたのだった。かくして記者の関心はまた由美香嬢に向けられ、しかも乱入してきたスイカ娘たちから準ミスが審査委員長と寝ていたことをバラされ、てんやわんやの中、雑誌記者さん、由美香嬢にプロポーズ!「僕もその家族に加えてもらえないかな」っていうのよー!「ね、もう一度、もう一度言って!」この台詞は劇中で由美香嬢、何度か使うんだけど、これは彼女自身の口癖なんだそうで、それがすっごい、カワイイんだよねー。

彼女の最後の作品が、こんな風に、ちょっとバカバカしくって、サンサンに明るくて、そしてカワイイ作品で良かったんだね、きっと。★★★☆☆


故郷(ふるさと)の香り
2003年 109分 中国 カラー
監督:フォ・ジェンチイ 脚本:チウ・シー
撮影:スン・ミン 音楽:サン・バオ
出演:グォ・シャオドン/リー・ジア/香川照之/グァン・シャオトン/グォ・ズーシン

2005/2/24/木 劇場(銀座テアトルシネマ)
この映画が、初恋の美しさ、初恋が実らない切なさを描いている、という風に語られるのが、えー、そうかなあ、と思う部分があって。いや、初恋は確かに美しいし、切ない。でもこの映画のテーマはそこをくぐり抜けた真の人間の生活と、そこに確かにある愛なんじゃないかと思って。もし監督の狙いがそうじゃなかったのだとしたら、そう感じさせたのは、ヤーバを演じた香川照之の力だと思う。日本人のひいき目じゃなくて、本当に香川照之のすばらしさに改めて感じ入る。なぜこの役をわざわざ日本人に、とか、東京国際映画祭での男優賞が彼に贈られたのが日本だからなのかとか、香川照之が素晴らしい役者だと知りながらも、観る前はそんなことをついつい思ったんだけど、国籍を超えて、香川照之だからこそこの役が振られたのだし、彼こそが、私たちの心をうつ。初恋は確かに美しい。そして切ない。でも初恋はあくまで思い出で、思い出では人は生きていけない。ならば今の生活が空しいのか。初恋を実らせれば幸せだったのか。違うんだよね。それを違うと思わせるほどのレベルの役者が必要だった、それが香川照之だったのだ。あのクライマックスのシーンだけでも、あの香川照之を見るだけでも、この映画を観にきた甲斐がある。あのシーンだけ独立して心の中に残るぐらい。

原題は暖(ヌアン)で、タイトルロールがヒロインだけど、主人公は語り部でもあるジンハーなんだろうと思う。ジンハーが故郷の村に10年ぶりに帰ってくるところから話は始まる。そしてジンハーが滞在する数日間(いや、せいぜい2、3日)と、10年前のジンハーとヌアンの思い出が交互に語られる。10年前と今と、この緑豊かで、小川のせせらぎに心休まる、うっそうとした村の風景はまるで変わらないのだけれど、でも、10年前の思い出は、光りまばゆい中につつまれ、美しい情景として描かれる。何もかもを信じられた、あの頃として。
現在のジンハーは都会で公務員をしており、この故郷には恩師の窮地を救うために帰ってきた。本当は彼はもっと早く帰らなければいけなかった。約束をしていたから、このヌアンと。
10年ぶりに再会したヌアンは足をひきずり、汗だくになりながら、大量の木切れを背負って橋を渡っている。さっそうとした都会人であるジンハーとは対照的な、いかにも田舎の労働女という感じだ。足を引きずっている、ということで気づいたらしいジンハーは、ためらいつつも彼女を追いかけて話しかける。「……僕を恨んでいる?」一体二人の間に何があったのか。それが現在の時間軸と交互に語られる、この甘やかな過去の記憶で徐々に明らかにされる。

ジンハーはずっとこのヌアンのことが好きだった。幼なじみの彼女。心が通い合っていると信じていた。でも実は、ヌアンの方はこのジンハーに心を寄せたことは、もしかしたら一度もなかったんじゃないかとも、思えるんだよね。確かに幼なじみで気は合った。いつでも一緒にいた。でもそれは彼女にとって友達の範疇を出ないものなんじゃなかったのかって。
ヌアンにとっての初恋は、村に巡業に来た京劇の劇団、そこでひときわ輝いていた美形の男優である。芝居の巡業はこの小さな田舎町にとってセンセーショナルな出来事で、彼らの稽古にさえ、人だかりができるような状態だった。学校にも行かずに、この男優の稽古に目を奪われるヌアン。ヌアンはもともと歌や踊りが得意で、でもこんな田舎町にいたら、女優になるなんて夢のまた夢だと思っていた。でもこの劇団を目の当たりにし、男優に恋をし、男優もこの美しい娘にひと時心を奪われてつかの間の恋人関係になったことで、彼女は彼への思いと、夢のまた夢だったことが、手が届く夢のように感じられた。この男優も彼女に女優になることを勧めてくれたし、彼と共に都会へと出て、女優になる夢と恋を共に実らせたかった。

でも、世の中はそう甘くはない。
今、団員募集はしていないからと劇団からは断わられ、いつか必ず迎えに来ると言っていたこの男優も、一年待っても音沙汰なく、ヌアンの初恋は破れた。そしてヌアンに恋していたジンハーの初恋も。
そう、この時点で破れていたのだ、ジンハーの初恋も。だってヌアンはジンハーに恋などしてはいなかったのだもの。でもジンハーは失恋したと自分で言いながらも、ヌアンのそれが破れたことで、いや、自分にはまだチャンスがある、と思ってしまう。それほどまでの思いがあるなら、ヌアンがあの男優に恋していた時に、意思表示すべきだったのに。
ヌアンはジンハーの告白に、あの男優が本当に、どうしても来ないんだったら、ジンハーと結婚する、と言う。二人の思い出の、村唯一の娯楽であろう、長い長いロープで作られた、天まで届くかというような、ブランコに二人乗りしながら。
このブランコには思い出がいっぱい、つまっていた。二人で向かい合ってよく乗ったし、ヌアンはこのブランコを勢いよくこいで、見えるはずのない憧れの北京が見えると言った。ジンハーは一人このブランコに乗って、遠くにヌアンと男優が仲睦まじく歩いているのを目撃した。

ジンハーが告白し、ヌアンが答えて、久しぶりに二人乗ったブランコの綱が、突然切れてしまう。二人は空高く放り出され、ヌアンは片足を引きずる後遺症が残ってしまった。
歌が好きで、踊りが好きで、京劇の女優になることを夢見ていたヌアン。男優への思いは、その夢を叶えるための一要素だったことを彼女自身が気付いていたかどうかは判らない。でも、だから、彼女の未来への思いは断たれてしまったのだ。
ここで、断たれてしまったと、だったら別の人生をと切り替えれば良かったのかもしれない。でもこの時ジンハーに結婚の約束をしたことで、自分の思いが断たれてしまったことで、周りに公認されてしまったことで、彼女はジンハーに恋などしていなかったはずなのに、彼にすがるしかなくなって、彼が恋人であるような錯覚に陥ってしまった……としか、私には思えないのね。
一方のジンハーは、ヌアンへの自責の念に駆られながらも、ヌアンを自分のものにできることと、未来への希望に胸を膨らませていて、その思いはあまりにヌアンとかけ離れている。

大学に受かったジンハーは、いつか必ず迎えに来るとヌアンに告げる。この小さな村から大学進学者が出たことで、村をあげての大騒ぎ、見送りの行列はすごいもので、それはジンハーの輝かしい未来と、そんな彼にすがるしかないヌアンのみじめさとがあまりに対照的だったことを、この時二人は気づいていただろうか。
いや、ヌアンはうすうす気づいていたと思う。私はあなたには釣り合わないと、三回返事を書かなかったら、私のことは忘れてね、と言う。必ず返事をくれ、とジンハーは言う。でも、手紙が滞りがちになったのは、ジンハーの方が先だった。
ジンハーの気持ちの変化に、ヌアンは気づいていた。だからやっと来た手紙も読まずに破いたりした。
その手紙をヌアンに届けていたのが、あのヤーバだったのだ。

ヤーバ。香川照之である。ジンハーとヌアンの10年前、希望に満ちた若者たちの生活が描かれる中に登場するヤーバと、今のヤーバは殆んど変わらない。ヤーバは耳が聞こえない。声も満足に出せないから喋れない。学校に行くことも出来なかったらしく、人との対峙の仕方を知らない、粗野なところがあり、それは彼をどこか、ちょっと頭のネジがゆるんでいるように見えさせていて、若いジンハーやヌアン、彼らの同級生たちや村の人々も、そんな風にヤーバを……まあ、どこかバカにしたように扱っている風があるんだけど、決してそういうわけではなく、そう、聴覚障害者なだけで、人との接し方を知らないだけで、心優しい人なんだよね。
アヒルの群れを引き連れて、若い頃から生計を立てていたヤーバは、ジンハーやヌアンより、早い頃からずっとずっと大人なのだ。

この、アヒルたちをすっごく大事にしてて、帽子をかぶって群れをコントロールしているヤーバ、いや香川照之は、お伽噺の中の羊飼いの男の子みたいで、妙にカワイくて、そしてなんだか切ないのだ。とんがり麦わらをかぶっているところなんて、ちょっとスナフキンみたい。そんな寓話的な魅力が漂う。
人との接し方を知らない、というか、それは自分をいいカッコに見せない、ということなんじゃないかとも思う。ヤーバはずっとヌアンに思いを寄せていた。ヌアンにちょっかいを出す、それはまるで小学生の男の子のそれそのもので、でもヌアンのことをずっと見ていて、ヌアンがジンハーの手紙を心待ちにしているのを誰より知っているから、郵便屋さんから受け取ると走って走ってヌアンに届ける。それをヌアンが破って捨てると、まるで自分の手紙が捨てられたかのように悲しい顔をする。次に手紙が来た時、まるでヌアンの気持ちに寄り添うようにして、今度は彼がその手紙を破って捨ててしまう。でも次に贈られてきたのは革靴。ジンハーがヌアンにプレゼントするよ、と言っていたものだ。ヌアンはハッとした顔をして、でも手紙ひとつそえられていないから、それを届けたヤーバに訴えるような顔をする。この時は手紙を破ったりしていないヤーバは、ただただ首を振るばかりなんだけど、まるで、その前の自分の行為が見抜かれたような表情にも見え……ヌアンは、この革靴を投げ捨ててしまうのだ。
慌てて、この革靴を拾いに行くヤーバ。必死に……。

この革靴は、10年後の現在、再会したジンハーに過去を思い出したのか、ヌアンはとっておいた革靴を取り出し、そして彼女の娘がその靴をはいて階段を降りてくる、というシーンがあって、それはまるでジンハーの思い出を大事に大事にヌアンがとっておいたように、ジンハーのことを思い続けていたように映るんだけど、違うと思う。
だって、ヌアンはこの革靴を一旦投げ捨てた。手紙もその前に一旦破り捨ててた。ヌアンの中で、あの男優と同じように、ジンハーが自分のことを忘れかけているのを、感じとっていたから。
投げ捨てた革靴を取りに行ったのはヤーバ。ヌアンがこの革靴をとっておいたのは、ヤーバのその思いを大事にしていたように、私には思えてならないんだ。
ヌアンがなぜヤーバと結婚したのか。街での縁談も確かにあったヌアン。でもその相手は自分と決して外出しようとしなかった。そのことに傷ついて、ヌアンは村に戻ってきた。そんな婚約者の態度は、迎えに来ると言いながら彼女を見捨てたあの男優やジンハーと重なったんではないだろうか。
ヌアンは街に出ていい人と結婚したとばかり思っていたジンハーは、自分こそが迎えに行かなかったくせに勝手に自己嫌悪に陥って、「もっとふさわしい人はいなかったの。ヤーバは大丈夫なの」と、こともあろうに、てなことを聞く。あんたにそんなこと聞く資格はないでしょ!
まあ、そのことはジンハー自身、最後に思い知らされることにはなるんだけど……。

そう、なぜヌアンがヤーバと結婚したのか。これが決定的だというわけではないのかもしれないけど、やはり最も印象的なシーンは、豪雨の中、牛を連れて不自由な足で立ち往生しているヌアンを、ヤーバが見つけ、言葉も出ない彼は必死に身振りで自分の背中におぶさるように彼女にうながすところである。人間が必死になる時、何もとりつくろわない時、あんなに、相手に、何も言わせることの出来ない表情になるんだ……。ジンハーがヌアンをおぶうシーンもあったけれど、あっただけに、ジンハーのそれとはヤーバの彼女への思いと必死さがまるで違うのが浮き彫りになる。ジンハーはあの時、彼女に甘い言葉をかけながらも、自分の未来のことで、頭がいっぱいだったから。

ヤーバを演じる香川照之は、本当に素晴らしいんだよなあ。ヤーバはとりつくろうということを知らない人。だから戸惑う表情も親しみを示す表情も、そして……悲しみの表情も、あまりにも無防備に現わしてしまう。痛ましいぐらい。口をポカンと開けて、10年ぶりのジンハーを迎えたあの表情、ジンハーと酒を酌み交わす嬉しそうな表情、そして妻が、……いわば元カレのジンハーと楽しそうに話しているのを見てしまった時の表情……そしてそして、バカな決断をして、感情を爆発させるあの表情!彼は役を生きるというのさえ越えている。感情が水のようにその身体にたたえられて、溢れ出す。だから彼の存在がその映画の色さえ変えてしまうんだ。

ヤーバはね、都会に帰っていくジンハーに言うの。言うったって、声は出ないから、手話で必死に語りかけるの。妻と娘を連れて行け!と。だってジンハーってばちょっとズルいんだもん。この娘に飴だの傘だの喜ぶものを与えてさ、つかの間優しいオジサンとして仲良くなっちゃうんだもん。
いや、そんなことは別にささいなこと。何より、ヤーバは妻のヌアンのことをずっとずっと好きで、ずっとずっと愛していたから、迎えに来るはずだった元彼との再会、楽しそうな彼女、に、彼女を本当に幸せにしてやってほしいと思って、身を引こうと思ったんだよね。
バカ!バカ!あんた、バカだよッ!充分ヌアンを幸せにしてたのに。いや、ヌアン自身も、確かにそのことに気づいてはいなかった。ヤーバと結婚しようと思った時のことを忘れていたんだろうし、突然のジンハーとの再会、過去の記憶に翻弄されたこともあるだろうし……。

もう、この時のヤーバ、いやさ、香川照之が、すっごい、素晴らしすぎるの。声にならない言葉をふりしぼって、手話で、訴えるの。妻と娘を連れて行け、連れて行ってくれ、って。
もう、震えがくるんだもん……このシーン、この香川照之の筆舌に尽くしがたいこの顔、この全身の表情、そこから感情の激流がほとばしるんじゃないかというぐらい……なんて、凄いの。
お父さん子である幼い娘は泣き出し、ヌアンもまた泣きながら、こんなことを突然言い出す夫を、バシバシと叩き、押しやる……決して、そのヤーバの言葉に迷ったりしない。何でそんなこと言うの、バカ!って感じで、泣きながら。
よ、良かった……このヤーバの台詞で迷ったり、ジンハーについていこうとしたらどうしようかと思った……でも、そんなはずないんだよね。かけがえのない7年間の夫婦生活、愛しい我が子、この時、ヌアンは忘れかけていた、ヤーバが自分を愛してくれていること、自分も愛していることを思い出したに違いないのね。

この時、ジンハーはこんな場面を目の当たりにして、自分とは違って、ヤーバはヌアンをずっと愛し続けていた、と心でつぶやき、だからこそヌアンは幸せなんだという言い方をするんだけど、確かにそれは真実、女にとって愛することより愛されることの方が幸せだってことは確かにあるとは思うけど、でも何よりヌアンが自分がヤーバに救われたということ、それは何よりヤーバを愛しているんだってことを、思い出してくれたからだと思うんだ。
初恋は、愛じゃない。それは思い出。
思い出は大切だし、忘れられないものだけど、でもそれは、今生きていく上で、必要なものではない。
初恋もヌアンだったんであろうヤーバにとって、ヌアンにとってもそうであろうと思ったのかもしれないけど、ヤーバ、彼に教えてもらった愛を、今度はヌアンが教えてあげてね、って思う。
そしてジンハーは去ってゆく。いわば、ヤーバの愛に負けた形で。
都会に妻子がいるジンハーだけど、この数日間、過去の甘やかの思い出に揺さぶられて、ちょっとカン違い、しそうになっていた。迎えに行かなかったのは自分のはずなのに。
ヌアンと会うことが怖くて、会えないことも怖くて、ずっと故郷に帰ってこれなかったジンハー。
そして、ずっとそばにいたのは、ヤーバ。

ヌアンとヤーバの娘がイイんだよね。このコはヤーバ以上に打算がない。本当に、子供らしい子供。このステキなお土産を持ってきてくれるオジサンには好意を示してなつくものの、基本的にはお父さんっ子で、言葉より先に手話を覚えたくらい。
この、大好きなお父さんが、このオジサンに、自分とお母さんを連れて行けって言った(手話で示した)ことに、涙を流す。だって、お父さんが大好きなんだもん。
ヌアンのヤーバへの愛の中にはこの子供の存在も無論、含まれていて、それは子供のためを思ってとかそういうことじゃなくて、培われてきたもの、切り離せないものなんだよね、きっと。だから、10年間ほったらかしにしたジンハーは奪うことなど出来ない。だって彼にも同じように大切な家族が都会にいるんじゃない。
時間って、本当に大事なものなんだ。その期間、そばにいることによって醸成されるものが確かにある。
それは、こんな風に引っ掻き回される要素によって、ようやく確かめることができるものなのかもしれないんだけど。

ほら、やっぱりこれって、初恋の美しさ、切なさの物語なんかじゃないでしょ。
いや、そういう意図があったのなら、こんな素晴らしすぎる役者、香川照之を持ってきたことが失敗だったのかもね。★★★☆☆


ふんどし医者
1960年 116分 日本 モノクロ
監督:稲垣浩 脚本:菊島隆三
撮影:山田一夫 音楽:團伊玖磨
出演:森繁久彌 原節子 山村聡 夏木陽介 江利チエミ 志村喬 田島義文 谷晃 佐田豊 小杉義男 本間文子 田村まゆみ 清水元 八波むと志 村上冬樹 中谷一郎 中北千枝子 沢村いき雄 高原駿雄 十朱久雄 横山運平 馬野都留子

2005/4/22/金 東京国立近代美術館フィルムセンター(稲垣浩監督特集)
いやあ、もおお、すっごく良かったわあ。面白いし、じーんとしちゃうし。今さらだけど、ホントに森繁久彌っていうのは名優なんだわね。本当に今さらなんだけど。恐らく今まで見た中で一番若い彼なんだけど、でもやっぱり既に年とってる(笑)。でも、顔の印象がかなり違ってて最初のうちは、え?これ森繁久彌?って思ったのは……顔の面積が大分広いのね(笑)。この間初めて観た社長シリーズではそこからほんの少し面積が小さくなってて、で今はといえば本当にほっそりしちゃってて、みたいな。でもその瞳と滋味のある喋り方で、そうだそうだ森繁久彌だよな、と思う。いやー、なんてこの人上手いの、自在なの。基本はこんな片田舎にはもったいない名医なのよ。でもすっごく人間臭くて、愛妻家で、機嫌をそこねたり嫉妬丸出しにすねちゃったり落ち込んだりする時のあの表情にもー、ドキドキしちゃうぐらい。ヤバいなあ、ホレちゃうなあ。

ま、タイトルで観に行こうと思ったんだけどね(笑)。しかしまたこのタイトルの由来ってのがいい。このお医者さん、小山慶斎の妻いくは、こんな田舎には、そしてこんな豪快なキャラの慶斎にはもったいないような楚々とした美人なのに、なぜだかバクチ好きで、しかもめっぽうそれに弱いんである。んで、妻のバクチに付き添う小山は、負け続けの奥さんの資金がなくなるとその着物まで賭けちゃうから最後にはふんどし一丁になってしまい、そのカッコで帰るといつも、村の人々から、ふんどし先生、と呼ばれるという……このナイスで微笑ましいエピソードが森繁久彌の、「いいじゃないか、わっはっは」てな雰囲気とあいまって、この夫婦を実に素敵に見せている上に、なんとこの妻、いくを演じているのがビックリ原節子なんだもんね!確かに“こんな田舎にはもったいない美人”という部分は当たってるけど、その楚々とした雰囲気を壊さずにバクチ好きで、「……あなた、いつもごめんなさい」と申し訳なさそな顔しながらダンナをふんどし一丁にまでしちゃうってのが、うっそお、と思うんだけど、このギャップだからこそ実に面白いの!

んで、このバクチ場で知り合ったのが、ヤクザ者の半五郎である。いくが胴元にカモにされているのを見て取った半五郎は慶斎に注進するんだけど、ここで慶斎が言い放つ言葉がまた、イイんだなあ。「俺は女房がバクチに負けて困った顔をしているのをながめているのが好きなんだ」(正確な言い回しは違ったかも)んんー、なんて素敵なんだ、それで奥さんにふんどし一丁にされて嬉しそうに二人して帰るなんて、素敵すぎるッ。
しかし、半五郎はこんなことを注進したことでヤクザ連中に襲われちゃって、瀕死の重傷を負っちまうんである。地元にいるもう一人の、慶斎言うところの「ヤブ医者」にも見離され、慶斎の見立てでも、腎臓がメチャクチャになっている大重体。「こりゃ、俺でもちょっと無理かな。こんなヤクザ者は一人ぐらいいなくなった方が世の中のためになる」なーんて言いつつも、つきそってきた半五郎の恋人、お咲(江利チエミだよー、カワイイ!)の必死の頼みで、やったこともない大手術を決意する。腎臓摘出!この舞台設定が1860年頃で、慶斎は長崎で和蘭医学を収めてこの田舎町で医者をやっている、っていう設定だから、まさしくこんなことは彼が日本で初めての驚くべき大手術なんである。

半五郎は見事息を吹き返すんだけど、慶斎がさー、こういうゴーカイな人物だから、ひたすらお礼を言う半五郎とお咲に、「いやいや!これから先も保証したと言うつもりはない」とか、「今、お前が息をしているのが不思議」とか、「いつおだぶつになっても不思議はない」とか正直っちゃあ正直すぎることを言って、アルコール漬けにした彼の腎臓を見せて、「腎臓がひとつになったんだからな。どうだ、小便の出は?近いか?遠いか?」と心配というよりは興味津々といった面持ちで半五郎に言うもんだから(森繁久彌、面白すぎッ!)、せっかくカタギになろうと思っていた半五郎を怒らせちゃって、というよりは、半五郎はまだまだ未熟者だから死ぬかもしれないんだ!ってな恐怖にとりつかれちゃって、その場を憤然と出て行くのね。
慶斎もまた子供っぽいっていうか、自分からけしかけたのに、恩知らずめが!なんて怒っちゃって。いや、またそれがカワイイんだけど(笑)。それでもちゃんとその後の経過を診にいってあげるのね。「あの元気ならまだまだ生きるだろう。下等生物は生命力が強いって言うからな。わっはっは」と嬉しそうに言ってお咲ちゃんも喜んでいいのやらって感じで(笑)。そんな時、長崎時代の盟友で、今は江戸で将軍付き御典医である池田明海が彼に会いにくる。

池田は慶斎とともに御典医を目指した仲だった。いくを争そうライバルでもあった。というか、いくは池田の方に惹かれていたらしいんだけど、「確かにいくはこんな田舎医者より、御典医の上品な奥様が似合っていたかもしれん。しかし、これもまた運命だ」と二人酒を酌み交わしながら慶斎は言う。で、ここで回想される若き日の二人のエピソードがいいのよー。江戸へ向かう途中の二人、川の増水で足止めをくった宿で、伝染病の患者を無報酬で診てやるんだけどね、慶斎は、ひとりの将軍だけを診る医者になることより、ここで必要とされる医者になることを選ぶんだよね。池田は慶斎の才能を高くかっているから、それはもったいない、日本の医学の進歩のために江戸へ出るべきだと、この時も、そして久しぶりに会いにきた今も言うんだけど、慶斎はガンとして動かない。で、この時、二人を、正確に言えば池田を追いかけてきたいくが目にしたのは、一人残って患者を診ていた慶斎の姿であり、彼女はそんな彼に心打たれて、今こうして夫婦となっているわけ。んんー、なんて泣かせるんだ。しかもここで、庶民のために俺はここで医者になる!と言い放つ慶斎のなんとカッコイイこと!そりゃー、いくでなくったって、ホレるやねー。

その話を物陰で聞いていたのがあの死にぞこないの半五郎で、彼もまた素直な人なんだよね、もう、猛烈に感動しちゃうの。んで、オレは医者になるしかない!慶斎先生に弟子入りするんだ!と決めて、つっぱねる慶斎に、聞き入れてくれなきゃオレはここから一歩も動かない!と庭先で座り込みをはじめちゃう。飲まず食わずで、雨まで降ってきちゃって、心配したお咲ちゃんが差し入れてくれた傘だけをさして、じっと、ガンコに動かずにいる。
慶斎はさ、医者になって人を救うということが、口で言うほどのキレイごとじゃないって知っているから、こんな思いつきの行き当たりばったりみたいな半五郎の言動をすんなりそうですかと聞き入れるわけにはいかないのね。でも、たとえ行き当たりばったりにしても本気だってことは判るから、じゃあその本気の度合いを試してみようじゃないかという気持ちなの。で、折りしも雨まで降ってきちゃって、それでもじっと我慢の半五郎に、朝になったらヤツの願いを聞き入れてやろう、と言うんだけど、なんとその朝、半五郎の姿は見えなくなってる。

この時の慶斎の落胆ぶりと来たら、ないわけ。「やっぱり逃げ出しやがったか!」と口では言いながら、信じられない思いも手伝って、もう本当に落胆してるわけ。半五郎のあのアルコール漬けの腎臓を庭に投げつけようとまでしながら、いくが見ているのを知ると、ううーん……とその手を引っ込めてしまうところなんかカワイイんだわあ。この後も再三出てくるけど、こういう慶斎の、心の中が手にとるように見えちゃう様ってのが、もー、もー、チャーミングとしか言いようがないッ!森繁久彌、イイよなー、もうホント……。
しかも、立ち直るのが早いのがまたカワイイところで。そこにお咲ちゃんが半五郎の手紙を持ってやってくる。そこにはなんと!自分の力で医者にならなきゃダメだと悟った、と書いてあって、半五郎は単身、長崎に向かったんである。モノになる医者になったら、その時こそ弟子にしてくださいと。そのことを知った慶斎の破顔一笑ときたら!「ほら、あいつは見どころがあるって言ったろ」って、あんた、さっきまであれだけ半五郎を罵倒してガックリきてたくせにい。もおお、そういうところがカワイイんだよなあ!

かくして時代は幕府が崩壊して明治となり、実に8年もの歳月の後、半五郎が帰ってくる。あのボロの着流しのヤクザ者だった彼が、髪をポマードで固め、スリムな洋装に口ヒゲなんぞ生やして、立派になって帰ってくるんである。ずっと待っていた恋人のお咲ちゃんや、いくは驚きと喜びを持って迎えるんだけど、最先端の医学を学んできた半五郎に、すっかり白髪頭となってしまった慶斎は目を細めながらも戸惑いを隠せない。それは、妻のいくも感じていたことで……お咲ちゃんに、こう言うのね。「すっかり立派になってしまって。なんだか小山がすっかり田舎医者に見えてしまいますわ」って。それは彼女が慶斎の気持ちを敏感に感じとったに違いないんだけど。それでも半五郎は命の恩人で敬愛する慶斎に弟子入りできることを手放しで喜んでて、でも彼の医学の話、慶斎が聞いたこともないような高度な医療器具のことなどを聞くに至って、もう慶斎はだんだんと小さくなってしまうの。俺はこの片田舎に身を捧げて、医学の進歩から取り残されてしまった……と。

今の時代なら、田舎にいたってそんなことはないと思うんだけど、でもだからこそ慶斎の決断は尊いものだったし、池田も半五郎も彼のことを尊敬しているんだよね。しかもこんな田舎にいても、慶斎の腕は決して衰えなぞせず、半五郎に対する大手術のような度胸の良さと独創的な技術の高さは、半五郎の支持した蘭学医の舌をも巻かせるものだったのだから。でも村の人々は感謝こそしているものの、そこまでの深い事情は判らない。そんで慶斎もこのとおり正直な人だからさ、半五郎への嫉妬も手伝って、感染病の診立て違いを起こしちゃうのよ。半五郎がチフスじゃないかと再三、師に提言するんだけど、慶斎はいや、食い合わせだ!という意見を変えようとしない。もしチフスならエラいことだ、と半五郎はあの300倍のマイクロスコープさえあったなら……と。船で一緒になった貿易商人が持っていたんだけど、ものすごい高額で手が出なかったのだ。慶斎もそんな高倍率の顕微鏡など聞いたこともなく、しかも半五郎の話で取り残されていく自分を感じていたから、その顕微鏡が欲しくてたまらない。いくに、へそくりはいくらあるかと聞いてみたりする。「それしかないのか。なぜ日ごろから心がけておかん!」なんて、理不尽なことでヘソをまげてすねてしまう。

いくはね、大勝負に出るの。これがねー、うう、泣けるのよ。いくは、慶斎のことを本当に愛してて、本当に心配しているから、今落ち込んでいる慶斎をどうしても助けたいわけ。で、なんと一人親分さんのところに乗り込んで、サシの勝負を挑むの!ば、ばか!だってあんた、あんなにバクチに弱いじゃないのよお!顕微鏡代の三百両、負けたら自分の体を差し出します、と言って震えながら仕掛けた大バクチが、なんと、なんと、大当たりしちゃう!でもね、この時の親分さんがね、志村喬なんだもおん。いくは震えながら下を向いていたし、ひょっとしてひょっとしたらこの親分さんが粋なはからいをしてくれたのかなと思ったりもするんだけど、いや、やっぱりいくの命をかけた一世一代の大勝負が当たったんだよね!そしてそれを素直に受け止めて負けを認めてくれたからこそ志村喬の親分さんなんだよね!いやー、泣けるなー!

朝方、フラフラと帰ってきたいくに、心から感謝の意を述べる慶斎、「命が縮む思いでした……」と慶斎の腕の中に倒れこむいく。楚々とした奥様がバクチ好きなんていうぶっとびのキャラ設定がこんなところに活かされるとは……ああ、もう、なんて素敵なのッ!
でもね、そうして顕微鏡を手に入れて(正確に言うと、先に池田が手をつけてたから借りてきたって名目なんだけど)実際に菌を見ても慶斎の診立ては変わらないの。30年のカンというものも大事なんだ!と言い張っちゃう。でもそんなこと言っている間に、明らかにチフスの症状の患者が続々と報告されてくる。走り回る慶斎と半五郎。もうこうなると慶斎の診立て違いは明らか。慶斎の病院に患者たちを隔離するんだけど、手の施しようもない子供たちやお年寄りを手始めに次々と死んでいく……身内の死に目にも合わせないのか、ヒドい医者だ!とばかりに村人たちは、慶斎の病院に手荒に乗り込んで、患者を奪還し、慶斎に罵声を浴びせ、のみならずその家屋をしっちゃかめっちゃかに打ち壊してしまう。

うう、ヒドいよ……そりゃあさ、慶斎は人間らしい嫉妬心が先に立って診立て違いを起こしちゃって、それがこの最初の感染の致命的なものになったことは否めないけど、でも慶斎は必死に患者を救おうとしたし、何より長年、この地に尽くしてきたんじゃない。慶斎ももうすっかり落胆しちゃって、この30年の信頼関係は何だったんだ、俺は立身出世もものともせず……いやそんなことはどうでもいいのだが、この地に尽くしてきたのに……とすっかり、すっかり、落ち込んでしまう。判ってる。村人たちが悪いんじゃない。彼らはただ、隔離というものが理解できないだけなんだと判ってるんだけれど……。いくも涙を流す。やっぱり俺は東京に行って、医学を勉強する!と慶斎は決心するんだけど、そんな時訪ねてきた池田が、そんな慶斎を更に打ち砕くことを言う。それは、半五郎を医大の教授として招聘したいんだと。

ずっと自分に声をかけてくれていたのに……慶斎はもう落ち込みを通り越してヘソをまげちゃって、いくは泣くばかりなんだけど……でもいくは、いくこそは判ってるからさ。慶斎がどんなにこの地で頑張ってきたかを、その最初から見ているんだもん。だから半五郎さんを行かせてあげて、いく一生のお願いです、って……。半五郎も師への思いに後ろ髪を引かれながらも、新しい医学を発展させることこそ、師への恩返しじゃないかと思ってる。お咲は恋人を行かせたいけど、でも慶斎への恩を考えるとそんなことも言えなくて、半五郎以上に苦しんでる。いくはそういうことも全部判ってたから、いや慶斎だって判ってた。いくはずっと、本当に、いい妻だったし、こんな時も変わらず側にいてくれるし、「お前が妻でいるだけで俺は幸せ者だ」って(なんて、なんて素敵な台詞!)、彼女の願いを聞き入れる。「だったらお礼に……」といくが慶斎の手をひっぱって連れてきたのは、壊された慶斎の家を、村人たちが直している現場だった!あー、もう!単純だって判ってるけど、こういうのがイイのよおー。村人たちは池田に涙ながらに怒られちゃったわけ。慶斎の今までの献身をこんこんと諭されて、目が覚めたわけ。今回の慶斎の処置が正しかったことも、今、役所によってお寺に患者たちが隔離されていることでもう判ってる。こん時の慶斎、いや、森繁久彌がイイんだなあ!嬉しいくせに、バカ者!お前たちの直した家なんぞ誰が住むか!と言い放ったりして、いくの視線に会うと、いやその……みたいにぐずぐずになっちゃう。もおー、もおー、カワイイんだからッ!いくもね、少々にらみ気味に見てるんだけど、思わず知らずその口元は緩んでるわけ。ああ、いいなあ、この夫婦ッ。

ラストは、いくのバクチ好きが復活したらしく、またしても慶斎がふんどし一丁でいくと並んで歩いてて、村人から、ふんどし先生、と呼びかけられてる。オチとしてもシメとしても完璧だよなあ、まったく!★★★★★


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