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「た」


2006年鑑賞作品

太陽/THE SUN
2005年 115分 ロシア=イタリア=フランス=・スイス=カラー
監督:アレクサンドル・ソクーロフ 脚本:ユーリ・アラボフ
撮影:アレクサンドル・ソクーロフ 音楽:アンドレイ・シグレ
出演:イッセー尾形/ロバート・ドーソン/佐野史郎/桃井かおり/つじしんめい/田村泰二郎/ゲオルギイ・ピツケラウリ


2006/9/20/水 劇場(銀座シネパトス)
撮影もソクーロフというのには驚く。モノクロのようにも見える、煙った、どこか夢のような作品。
ソクーロフ監督のような作家性の強い、いや芸術家というべき人の作品に対して、その中で描かれる人物のことを、いくら実在の人物とはいっても、歴史的実際や、本当にどう思っていたかなどといろいろ考え出すのは、違っているのかもしれないと思う。
ただ、確かに、天皇という“人”が絶望的なほどの孤独を抱えているだなんて、そんなこと、考えもしなかった。
そして確かに、芸術家の作品なのだ。その誰にも判ってもらえない絶望的な孤独が、この世で唯一のものとして、美しく見えてしまうのは。
なんだかそう思うと、私の記憶にもある、いつも静かに頷いているばかりの昭和天皇の表情が、瞳が、どこか哀しそうだったような気がしてくる。
彼に対して、どこか胸が締めつけられるような、甘美にも似た優雅な美しさを感じていたのは、その寂しさのせいだったのかもしれない。

私はソクーロフ監督作品はどうにもニガテで、これがやっと二作目か、三作目の鑑賞なので、彼がヒトラーやスターリンを描いていたことも知らなかった。そして、それらに続く、歴史を動かした政治家として昭和天皇を取り上げた、ということで、えっ、と思う。
だって、昭和天皇を政治家、なんて思ったこともなかったから。
それこそが、当時の政府や、いやもっと大きく日本人のズルさだったんだろう。外から見れば、昭和天皇は当時の政治的判断を行使する、まさしく政治家として映っているのか。だからこそ戦犯議論も出るのだし、ソクーロフ監督の描く、というか解釈する昭和天皇は、そうした自らの責任にも自覚的に描写されている。

公開不可能とまで言われたこの作品を大ヒットに導いたのは、公開直前、靖国神社にA級戦犯を合祀することにに反対する、昭和天皇の聞き書きメモが発見されたからだった。そして毎年起こる靖国問題に加え、皇室に久しぶりの男児誕生でまたしても話題になった。
そんなわけで、観客が途切れることなくいつも満員なので、こんなに観るのが遅れてしまった。この公開に当て込んだような、不思議なえにし。そして日本人が、天皇や皇室に自分の中でどう折り合いをつけたらいいのか迷っている気分が、このヒットに現われているような気もした。

そしてこのロングヒットは、聞き書きメモのニュースに対する驚きと似たものがあったと思う。昭和天皇、いや彼に限らず、皇族の肉声というのはとかく聞こえにくい。それは彼らがいまだに人間扱いされていないから。それが日本人にとっては安心できる彼らの位置だった。
メモのニュースは「昭和天皇の怒り」という、想像もしたことのない驚きの要素があり、そしてそこには、あの戦争に対する彼の深い自責の念も感じた。
そしてそれを見越していたかのように、劇中の昭和天皇もまた、その自責の念に苦しみ、しかもそれを感じることさえ許されない苦しみで、二重三重にがんじがらめになっているんである。あなたは神なのだから、そんなことに苦しむ必要はない。あなたのためなら、国民の誰もが喜んで死んでいくだろうと言われて。
そんなこと望んでない。自分のためなんかに、死ぬ必要はない。そう、彼は言いたいのに。

私は、歴史に疎いし、皇室問題にも疎い。だからまあ、一般的な認識で捕らえている一般人である。その一般人である私は、あの戦争に対しての昭和天皇は、操り人形のようなイメージがあった。政府で何もかも決定されているのに、それを天皇の名の元に発動され、国民は天皇のために戦って、天皇自身は何も出来なくて政府によって偶像化されているような。
実際に、彼自身がどれだけあがけたのかは判らないけど、あのメモの発掘が、その考えを覆し、それを予見していたかのような直後の本作の公開があり、そして、記憶の中の昭和天皇はその贖罪を背負った自身を、常に責めているように、何も言わず、ただただ哀しげにうなだれているように思い出されてしまう。

本作の成功は、なんと言っても、昭和天皇役のイッセー尾形に尽きる。
国際映画祭での上映で本作の存在を知った時から、動悸が収まらなかった程の刺激的かつ、打率100%の素晴らしすぎるキャスティング。
監督がどうやってイッセー氏にたどりついたのか、ホント知りたい。誰がこんな素晴らしいキャスティングを推薦したの!思いついた時点で、ヨッシャー!と思ったろうなと思うほどに、イッセー氏以外考えられない。
別にソックリさんというわけではない。ソックリさん演技は披露してるけど、そこにいるのはやはりイッセー氏に他ならない。イッセー氏は変幻自在の役者であるけれども、その中にある隠しようのない悲哀が、彼の唯一絶対の魅力だもの。
それ以前に、昭和天皇役、それも戦時中の、それもそれも主役だなんて、いくら役者冥利につきるといったって、誰もが尻込みするだろう。
だって、どうやって彼の気持ちを推測すればいいの。いくら監督にゆだねると言ったって……。

と、思うのは、やっぱり私たちはいまだに、彼らが普通の人間ではないと思っているからなんだろうな。
まあ、確かに普通ではないんだけど……そしていくらなんでも人間でないとは今では思ってないけれど。
でも、本当にそう思ってるの?長いこと同じ血の中で引き継がれてきた家系を、自分たちとは違う、エイリアンのように思っていたのはやっぱり事実じゃないの?
でも、ここで描かれるのは、人間としての天皇。
いや、人間として見てくれと、叫んでいる天皇。
彼が悩んだり孤独だったりこんな風に過ごしていたり、決断したり、そんなこと考えもしなかった。それが本当かどうかなんて判らない。無知な私には特に。専門領域からは疑問の声が上がるのかもしれない。
でも、芸術の領域から彼の気持ちを推測するのは自由だ。ここではただ天皇と呼ばれている。今上天皇だから、当然昭和天皇とは呼ばれない。もちろん年度もハッキリと明記してはいるけれど、フィクションだと言ってしまうことは可能だ。それこそが専門領域への武器でもある。
それは決して逃げではなく、その自由な条件の中で、彼の気持ちを推測することが、芸術として可能だということなのだ。

今でも当然そうだけど、劇中の昭和天皇は、周囲の側近からいつでも頭を下げられているんである。
ずっと仕えている、つまりは長年の付き合いの人たちがたくさんいるのに、対等に目を見て、話してくれる人がいない。
敬われているというのは、なんという孤独なのか。
しかも、そうやってかしずいている周囲は、彼を神だと言う。同じ人間ではないと断じている。敬うという免罪符の元に、差別してるも同じなのだ。神だと言われるのは、自分たち人間の気持ちは所詮判らないと、感情を持っていないと言われるのと同じなのだ。
神のために民が死ぬのを、“神”が傷つくなんて、思ってない。ロボットだと言われているのと同じ。

ずっと彼に仕えてきた侍従長でさえ、そんな彼の苦悩が判らない。
「私の身体は君と同じだ」そんな言葉を言うだけで目をむく侍従長をいたわるように、「……怒るな。いわば、冗談だ」と言い足す彼の気持ちが痛ましくてたまらない。
軍人たちを集めて、厳しい戦況を天皇に報告する場面がある。彼は常に静かな声で、せっぱ詰まってハイテンションな彼らをイラつかせるんである。
でも、海洋生物学者なんだもん、天皇さん。
やっぱり、なんだか超越してる。その静かな声も。
彼は、魚の姿をした軍艦が襲ってくるのを見る。それはやはり、夢だったんだろうと思うけど、幻想的な一方、やけにリアルだった。戦争の勝利を信じている国民とは、悲壮的なほど信じている国民とは、対照的なリアルさだった。

今は、かつてのように、心から皇室を敬ってなどいない。普段の会話では、天皇さんとか、紀子ちゃんとか、雅子さんとかフツーに呼んでるし、週刊誌を中心に、エゲツない噂話も飛び交っている。
それでも日本の皇室が外国の王室と確実に違うのは、王家ではなく、皇室だということなのだ。
神であった過去があるということなのだ。
今は人間だけど、かつては神であらせられた。
その認識は、昭和天皇が普通の人間として認められたいと苦悩した結果としては、あまりにキツい。
この戦争を終わらせるために、そして自分自身、家族のために、神格否定宣言をする彼。
でも、天皇は「国民の象徴」というアイマイな言い回しの元に、その存在を持続された。

彼にとっては、不本意なことだったんじゃないかと思う。本当に、普通の人間に戻りたかったんじゃないかと思う……と、ソクーロフ監督は解釈したから、この映画が出来上がったんだろう。
外国の監督の解釈なのに、ひどく説得力があるのは、日本人がどこかでそれを感じながらも、そんなはずはないと思っていたからに他ならない。
つまりは、戦争の責任を、やっぱり彼に押し付けたがっているのだ。
そして彼は、今はともかく、もともとは人間じゃないわけだから、それに傷つくことはないと、思いたがっているのだ。
彼が本当に普通の人間に戻ってしまったら、その罪を全て自分たちがかぶらなくてはならない。
人に罪を押しつけるのがヘイキなほど厚顔ではない、と思いたい。でも相手は“元”神なのだもの。だから、その証拠を残すために、カンタンに世間に戻すわけにはいかないのだ。
……人間は、ザンコクなのだ。

それにしても、イッセー尾形である。彼は本当に大好きな俳優、たぐい稀なる、凄い役者だと常々思っているけれども、もー、やっぱ、スゲーっつーか、スゲーっつーか、スゲーよ!!!
と、力を入れて言っちゃったけど、そういう肩の力をまったく感じさせない。ソクーロフなんていう頑固一徹なイメージのある作家に、イッセー氏は、彼だけが表現しうる昭和天皇、というものを武器に、どんどん自分のワールドで切り込んでいくんである。
順撮りかどうかは判らないけど、後半はイッセー氏、かなり自由度を獲得しているんだよね。つまり、彼の得意な、スタンダップコメディ的な方向に行っているのよ。

「最後の国民がいなくなるまで、ここにアメリカ兵がくることはありません」と言っていた侍従たちに「私が最後の国民になることはないだろうね」と言っていた昭和天皇。「お上が自分を国民だと言われるのは……」と侍従たちは困惑する。こんな具合に籠の中の鳥のように閉じ込められていた昭和天皇に扮するイッセー氏は、その最初から素晴らしいの一言に尽きる。
一方で、昭和天皇の特徴である、唇を躊躇気味にもぐもぐと動かしてから喋る様をリアルながらもコミカルに模写していて、それが後半、イッセー氏がアドリブっぽく笑わせる場面にイヤミなくつながっていくのよ。それが、この映画が作家的になりすぎず、観られる映画として存在せしめている。
ソクーロフ監督の意図するところかどうかは判んないけど、やっぱ、彼はスゴイ!
ていうか、これも日本人の恥の文化かも……。シリアスのままいけないの、恥ずかしくて。
どこか、茶化しちゃう。ふざけてるんじゃなくて、その中にもキチッと真実を込めているのよ。

例えば、こんな場面ね。アメリカ連合軍からチョコレートの贈り物が送られてくる。興味津々のクセにそれを押し隠し、恐る恐るといった風情で“毒味”をする侍従長。ひと口食べて間があり、「私はあられの方が好きです」ムリしちゃってー。美味しいと思ったくせに!
それを聞いて、イッセー氏扮する昭和天皇、パンと手を叩いて、「ハイ!チョコレート、これでオワリ!」って言っちゃうの!食べたい気持ちマンマンの侍従たち、ズッコケまくり。もー、イッセー氏……じゃなく天皇さん、判っててやってるんだから!爆笑よー!
また別の場面、彼が科学の問題を聞きたくて学者を呼ぶのね。しかしこの学者、あまりにも陛下に平伏しまくって、パニクッて、座るよう言われても立ち尽くし、小さなソファにウッカリ彼と隣り合わせに仲良く腰を下ろしたりするもんだから、その間といいなんといい、あまりに絶妙すぎて、涙流して笑っちゃう。
このあたりも、ぜーったい、イッセー氏のアイディアだろーなー。
しかもここ、ワンシーン、ワンカットで、つまり場面を動かすイッセー氏に任せる形で回してるのよ。侍従長の佐野史郎がウッカリ本気で噴き出してるのが判っちゃったり(笑)、もー、最高に可笑しいの!

印象的なのは、米兵たちの写真撮影に応じた昭和天皇が、そのヒゲと帽子の風情に、チャーリー(チャップリン)と言われ、「私は例の俳優に似ていますか?」嬉しそうにしていたことなんである。
本当に昭和天皇は、ハリウッド映画に傾倒していたんだろうか……。どの程度ソクーロフ監督がリサーチしていたか判らないからさ……。
彼、一人になって、写真を取り出して眺めているのね。
憎むべきヒトラーの写真、しかし彼の国と日本は同盟を組んでいる。
そして自分たちの家族の写真。幸せそうな妻子の写真にそっと唇を寄せる彼。
そしてハリウッドスターの写真。
これらが同列に並べられるシーンは、強烈な印象を残す。

チャップリンは戦争に、特にヒトラーに激しい批判(を超えた憎悪)を表わした人じゃない?
チャップリンと似てると言われて、まんざらでもない様子で帽子を取ってポーズまで取った昭和天皇、を描写したのは、例え事実じゃないとしても、本当に大きな意味があると思うのね。
マッカーサーとの会談で、あなたはヒトラーと親友でしょうと言われ、「会ったこともない」と繰り返し言い、あからさまにイヤな顔をする昭和天皇、という場面もそうだし。
戦争を憎んだのに、裏切り者(戦犯)として糾弾された、という共通の視点でチャップリンと彼を重ね合わせるのが、なんか嬉しいのだ。
昭和天皇に関しては、神(であった)という視点が、そういう研究や評価をジャマしてきた気がするから。
だからこそ、外国人監督の視点が必要だったのだ。

それは日本人のみならず、日本文化を理解(というか傾倒)しているらしい、米国側の通訳も同じなんである。
という描写は、ちょっと予想外でビックリしたりする。
通訳は、流暢に英語を喋る彼を恐れながら制止し、「英語を喋らないでください。あなたは、母国語で喋るべきだ」と懇願するのだ。
他国の相手と対等に話が出来ることを、その他国の通訳である彼は歓迎するのではなく、恥ずべきことだとたしなめるのだ。
彼もまた、天皇を神として扱い、野蛮人と対等になど喋るなという感覚で忠告している。では、その彼らの通訳であるあなたは、自分をおとしめているんじゃないの?
その彼のバックボーンは判らないけど……日本の血が入ってるとかあるのかもしれないけど、それにしたって、そういうことも、天皇は本当に悲しいに違いない。

でもここで昭和天皇は、ようやく対等に話が出来る人を見つけた。私たち日本人のイメージとはちょいと違うマッカーサーである。
まず彼は、頭を下げない。陛下、とは言うものの、ソファに身を持たせてリラックス、旧知の友人に対するように話す。回り道をせず、核心にズバッと切り込む。
「キモノを着ないのですか」なんて素朴な質問にも、核心がある。キモノはあくまでも国事のもの。相手によって服装を替えるのは、日本人の相手に対する謙譲の精神なのだ。
それは自分の国を貶めているとか、へりくだりすぎだとか言われることなのかもしれない。
でもその、自分を下に見る恥の文化こそが、日本人を発展させてきたんだと思う。
それを、昭和天皇の描写にゆだねるのを、恐れ多いと思っては、元の木阿弥なんだろうな。

天皇を神だと思っている通訳はハラハラするんだけど、彼自身は、自分を人間として扱ってくれたマッカーサーが、凄く嬉しかったに違いない。
チャーリーと呼ばれてバチバチ写真撮られた時に嬉しそうだったのと、同じように。
この通訳がいなくなると葉巻を所望したり、ワインを飲みまくったり、一人残されるとろうそくをかたっぱしから消して遊んだり、ムジャキにやりたい放題の天皇なんである。
それをこっそり覗き見て、微笑むマッカーサー。
しょうがないのよね。当時の彼は、どんなに近しい人間にとっても、日本人の中では、神だったんだもの。 本当は、きっと、日本人の中に理解してくれる人がほしかったんだろう。

そして、あんまり考えたくない、と思っているのは、あまりにも教えられてこなかったからだろう、真珠湾攻撃も取り上げられる。劇中、昭和天皇は困惑気味の顔で、「私は命令していない」と言う。事実ではあるだろうけれど、戦犯の議論には欠かせない要素だ。
日本の教育からは、この歴史的事実はハレモノに触るようにハズされている。どう理解すればいいのか、知識がなさすぎて判らない。この事件は「ヒロシマをやったアメリカが言えるのか」という一点でしか語られてこなかった。つまり、卑怯者に対する報復。自分たちの苦しみを真に判ってもらうために、その解決の仕方に疑問を持った時、更に天皇に対する疑問もふくらんでいった。
そこになにがあったのか。やられたからやり返す、のは、サムライ精神に反する。だから、ずっとパールハーバーは引っかかってた。
でも、それと同じ様にアメリカの人は果たして逡巡してくれているのだろうか?抜き打ち攻撃に腹をたてているだけなのだとしたら、そんな私らの苦悩がバカらしすぎるじゃない。

「私を愛してくれるのは、皇后と子供たちだけだ」この台詞が、一番、染みた。
当然、フィクションの台詞だけど、外からの視点だからこそ、リアルに気持ちを想像した結果、生まれた言葉なんだもん。
この、皇后を演じる桃井かおりは最後の最後に登場する。疎開先から、戦争を終結させた夫を心配して駆けつける。
二人きりになった天皇、椅子の位置を調節しながら、ぎこちなくも、真っ先に彼女の胸に顔を埋める。
天皇、から想像もしないシーンなので、心臓に大砲が打ち込まれる。それほどに、グワッと感情の大波が襲う。
だって、だって、頭では理解してても、神である(というイメージがいまだにやっぱ、あるんだな)彼が、弱々しげに妻の胸に顔を埋めるなんて、そんなの、想像さえ許されない(これも、伝統的刷り込みだよな……)って感じだったんだもん!
ところでさ、イッセー氏は昭和天皇の模写するに当たって、彼の口癖である「あっ、そう」を連発してたんだよね。
当然、ギャグ的空気を醸し出して、「あっ、そう」が出るたびに劇場内は爆笑に包まれ、ついにはラストに出てくるこの皇后まで、夫につられる形で「あっ、そう」を連発するんだもん!

ラスト、家族の無事を喜んだ昭和天皇、「私の神格拒否宣言を録音した若者はどうなったかね」と侍従長に聞く。
侍従長、当然のように「自決しました」
……………………ええーーーーーーッ!!ちょっと待ってよ!なんで、そんなに、当然のように言うの!呆然とした昭和天皇の表情こそ、普通の人間の感情じゃないの!
ややあって、ようやく口を開いた天皇、「……止めなかったのかね」
侍従長、やはり当然のように「ええ」
あまりにも、あまりにも深い苦悩。
普通の人間に戻りたい、いや、戻るんだ、そんな天皇の意志が、天皇を崇拝しているって形があるのに、それとは矛盾もなく、だからこそアッサリと否定される。
この時、彼の気持ちをもっと周囲が察していたなら。国民の象徴などではなく、本当に、普通の人間に戻れていたなら。
でもそれはムリなのだ。いまだに。形式的な敬語で遇し、神ではないのに一般人ではない、実権を持たないのに、公務に縛られている。言いようによっちゃ、こんな都合よく、バカにされた存在ってないじゃない。

きっと、これが本当の戦争映画なんだと思う。
一般的な戦争映画は、リアルな戦闘シーンや、市井の人々が心ならずも戦争に巻き込まれる、そしてそんな中にも家族愛なんぞが描かれたりして。それは確かに伝えなければいけないことだろう。
でも、正直それは、散々伝えられてきた。もっと、根本的なことが知りたい。歴史的に正しいこと、ではなく、もっと根本的なこと。それに、本作は答えてくれた。

実在の人を描いても、それでも映画は所詮、推測に過ぎない。でもそれが第一歩なんだと思う。たとえ、推測でも。 最大の戦犯だと言われる昭和天皇、でも、操り人形なんだと思ってたのは、私だけではないと思う。
彼の存在を免罪符に、勝つ見込みも意味もない戦争を“国”が勝手に進めていたんだと思ってた。
でも“国”って?
推測でも、フィクションでもかまわない。少なくとも本作の彼は、その見えない“国”に抗い、責任を感じ、熱を冷まそうとし、人間として痛みを感じるがゆえに、人間に戻りたいと思った。
でも、いまだに日本人は、その彼の望みをかなえてはいない。
いっぽうでエゲツない噂話をしながら、乾いた敬語を使って、ロイヤルファミリーがいる文化もいっか、とあたりさわりなく扱ってる。

彼は、最も不幸な時代に生きた天皇であり、神と人間の二つの存在として生き、ビジュアルイメージは、いつも穏やかだけれど、どこか悲しげだった。
誰よりも、時代を引きずっていた。
捨てたかったかもしれないのに、責任がそれをさせなかった。

平和はアイマイなものなのかもしれない。
ヒトラーやレーニンと同様に貶められるには、自らの確固たる欲望が必要なのだ。
彼は、最後まで悩んでいた。
自分の存在こそがアイマイだったから。その存在で何が出来るかさえ、不安だったから。
最初から用意されていた存在、血筋に抵抗したい、子供のような感覚だったのかもしれない。
純粋な野望が、時には世界を滅ぼすのと対照的に。

日本の植民地としてひどい目にあったアジアの諸国は、どんな風に本作を受け止めるのだろうか。
ヒトラー、レーニンと続く、政治のリーダーとして描かれた昭和天皇を。
実際に、政治のリーダーになれれば、いろんな悲惨な状況やウラミも回避できたのかもしれない。

劇中の彼のキャラクターは、ひたすら質素だった。身なりはもちろん、態度も、そして研究している生物学も。でも彼にとっては、感動的な研究なのだ。口述筆記を頼んでいる助手が眠り込んだって。
このシーンに限らず、シリアスな軍事報告会議でもなんでも、ひたすら彼の言葉を書き留めるエンピツの音がなんだかひどくひそやかで、静謐さをもって心にすっと染みこむのだ。
そして、あのメモの存在を思い出す。

敗北の歴史を共有する、日本と旧ソ連の絆が生み出したと言えるかもしれない。悲哀と寂寞があまりに美しく息苦しい。完成度とか、好き嫌いとか、そういう部分を越えて、特に日本人にとっては、忘れられない作品。★★★★☆


タイヨウのうた
2006年 119分 日本 カラー
監督:小泉徳宏 脚本:坂東賢治
撮影:中山光一 音楽:YUI 椎名KAY太
出演:YUI 塚本高史 麻木久仁子 岸谷五朗 通山愛里 田中聡元 小柳友 山崎一

2006/7/19/水 劇場(東銀座 東劇)
長編デビューをメジャー展開で早々に任せられるケースが増えてるなあ……と、またしても見慣れない監督さんの名前を見て思う。なんとなく二の足を踏んでいたのはそれもあるけど、正直ドラマ化が早々に決まっちゃうと、映画を観る気が失せちゃうというのもあり、うーん、でもやっぱり別の理由だな。
だって難病モノって、予測できるっていうかさ。こういう予測できる泣ける映画は、自分の心の中で泣くもんかの堤防を張っちゃうの、ついつい。
だから本当に泣ける映画っていうのは、そういう堤防を張りようのない、思いもよらぬ部分から攻めてくる映画だったりするわけ。だから予測できる泣きには結構対抗できる。
なんて無意味なことを、いつ頃からやるようになったんだろう。
素直にヤラれて素直に涙を流した方が、気持ちいいのに。観終わってからチと後悔したりする。

でもね、難病モノで、しかも短い人生最後の恋が絡んでたりしてて、泣いて、あースッキリ、っていうのが、無責任な気がどうしてもしてしまうせいで、構えちゃうのかもしれんとも思う。
難病モノは、その病気のことを多くの人に知ってもらうことが、まず大きな課題なんだもん。
これが例えば白血病みたいに、世に良く知られている病気ならまだしも、このXPという病気は、その実質は一般的にほとんど知られてないでしょ。私も映画を観た後に検索して、難しい医学的解説とか思わずまじまじと読んじゃった。
この映画に関してXP関係者からは「このヒロインの描写には実際と異なることが多々あり……」というひかえめな表現でのメッセージが寄せられてる。しかもオフィシャルサイトのものすごーく目立たないところに、ちっちゃくリンク貼られて。

この言葉からは、実際には相当歯がゆい思いを感じとれる。夜だから大丈夫ってわけでもないらしい。照明にも紫外線はある。だからヒロインが、あんな光り輝く夜の街ではしゃぐのも、恐らく非現実的なんだろうと思う。
事態はもっとずっと深刻なのだ。この病気で彼女の年まで、身体も知能も「普通と変わらなく」生きられて、で、歌まで上手いなんて考えられないのが通常らしいのだ。
ということは、良く知られていないこの病気をとりあげたのは、切ないラブストーリーのための設定ってだけに思えちゃうじゃない。
興味を持ってくれた人が正しく知ってくれればいいなんて、そんな甘いこと言ってちゃダメよ!
だからこういう映画に、大きな疑問を感じちゃうんだよ。月の光しか浴びられないなんてロマンチックぐらいにしか思われないじゃないって。そんな甘美な難病モノみて泣いて、あースッキリっていうのがほとんどなんだもん。
これをチャンスに、映画は実際と違うぐらいの文句のひとつも言わなきゃ!人間はそれほど優しくないよ。
……って、何も知らん私がそんなに怒ることもないのだが。

舞台は湘南。さわやかさが深刻な空気を吹き飛ばしてくれる。平たく言っちゃえば、これはひと夏の切ない恋の物語ってことにもなるわけだから。
ヒロインの雨音薫(凄い名前だな。少女マンガチック)は、ずっと社会と隔絶された生活をしている。日が沈んだ頃に起きだし、“朝食”をとる。実際、食パンに目玉焼き、と朝食チックなのよ。で両親とは違うメニューなの……これって返って寂しくないか?
そして月夜の外へと、ギターケースを持って出かける。日の出前の30分以上前には家に戻ること。それが鉄則。
誰もいない夜の公園で、彼女はギターを爪弾き、その声を夜気の中に響かせる。夜回りのおまわりさんも、彼女のことは理解して黙認してくれている。
そして朝日の登る前に帰ってくる。眠りにつく前、彼女にはひとつの習慣があった。
バス停にいつもいる男子学生。バイクにまたがり、その傍らにはサーフボード。友達二人と三人ではしゃぎまくっているのが常だった。
いつものように公園でギターを弾いていたある夜、その彼を見かける。薫は自分のことを知ってほしいと思う衝動から、追いかけ、後ろから突き倒し、強引に自己紹介をする……。

薫を演じるYuiは、まず歌が歌える女の子ということが大前提なので、女優ではないわけで、決して演技が上手い子じゃない。それがイイんである。
だって彼女は歌が武器だから。学校生活や恋愛の経験のなさからくる彼女自身の不器用さが、演技の不器用さに素直に重なる。
だからこそ、彼女の武器の歌が冴え渡り、心に突き刺さる。この甘い設定の物語も、この歌声に託された心の叫びに救われるのだ。
歌声もそうなんだけど、力が入るメロディ部分で、心を振り絞るような、彼女の表情には実にグッとくるのね。ラストには特に泣ける。もっと泣いとけば良かった(ヘンな後悔だ)。
しかし演技がまあ……ヘタなもんで、ちょっとした笑わせどころで間のとり方がビミョーなので、笑い損なったりしちゃうのがもったいないところだけど。

薫が恋した孝治のことを、唯一の友人(メガネが萌える美少女だ)が同じ高校らしいということで探ってくれる。ビデオまで撮ってきてくれた。
昼の孝治の行動を、夜の月明かりで辿る薫。いつも彼が朝座っているバス停のベンチに座り、彼と同じようにポカリスエットを飲んでみる。そしてギターをつま弾いて。
ふと気づくと、バイクにまたがった孝治が目の前にいた。
「あの時の……だよね。君が作った曲?スゲー!」そしてベンチに隣り合って座る。ぎこちない会話。でも薫の心臓の音が聞こえてきそう。
「夏休みになったら、君の歌を聴きに行く。絶対」
自分の病気のことを言えないままだったけれど、彼との恋の始まりにほころぶ口元を抑えきれない薫がカワイイ。

で、孝治の夏休みを心待ちにしていた薫、しかし公園のいつもの場所はヘタクソなギター男に先取りされてしまった。孝治は薫をバイクの後ろに乗せて、横浜の繁華街へ連れて行く。
夜空にかがやく大観覧車、夜更けにもかかわらずニギヤカな中華街で肉まんを頬張ったり、薫にとっては恐らく初めて目にするものばかり、我を忘れてはしゃぎまくる彼女に苦笑しながら、見守る孝治。
そして、広場に出た。そこここで演奏を披露しているストリートミュージシャンたち。少し離れたところに場所を見つけて薫が歌いだす。最初は孝治がたった一人の観客。でも彼女の歌声に惹かれて、みるみるうちにギャラリーが出来上がる。
部屋に閉じこもっている彼女とは別人のような、歌に心を捧げるイキイキとした薫を見つめる孝治。

バイクの二人乗り、帰り道はちゃんと両手を彼の胴に回してた。このあたりはお約束。二人の恋が始まった証し。
でも街に戻ってきて二人で海を眺め、「一緒に朝日を見よう。あと10分ぐらいかな」と言った孝治に薫は青ざめる。いつものアラームに気づかなかった。
「ゴメン!」必死に走る薫。訳も判らず追いかける孝治。やっと彼女をつかまえてバイクの後ろに乗せ、家まで送り届ける……と、薫はギターもそのままに、必死に家に駆け込んでドアを閉めてしまった。
ワケも判らず、彼女のギターを抱えてドアの前に立ち尽くす孝治に、あちこち探し回っていた両親と友人と息せき切って戻ってくる。
友人にぶん殴られる。「あの子を殺すつもりなの!薫は病気なの。太陽に当たったら死んじゃうかもしれないの!」
ここに至って孝治は、事実を知るんである。

このXPという病気はテレビで見たことある。小さな兄弟だった。先生たちが協力してくれて、小学校中の窓ガラスにフィルムを張ってたりしてた。薫の部屋の窓ガラスや車のガラスに張られているようなものだろう。
薫は病院に行きたがらない。自らの病気に直面することが怖いのかもしれない。
薬をもらいに病院を訪れる母親は、「先生の言っている年は、とっくに過ぎました」と、どこか誇らしげである。
でも、ということは、やはりそんなに長くは生きられない病気であることは確かなのだ。今の両親には一日も早く治療法が見つかることが唯一の望み。きっと病院を訪れるたびに、こんな風に先生の目を覗き込むのだろう。でもきっと答えもいつも同じだ。
「すみません。治療法はまだ……」

サーフボードを抱える彼を窓から見ながら、「サーフィン上手いのかなあ」とつぶやく薫の顔は、恋の輝きに満ちてはいるけど、そんな薫を見つめる友人は複雑な表情をする。
だって、さえぎる服を着なければ外に出られない、だから、この台詞はあまりに、切ないのだもの。
彼の好きなことを、自分は身近に感じられない。
でも彼は彼女の好きなことを、彼女の生き様を感じとってくれた。
きっと、それだけでいい。そこから、始まるんだ。

孝治に病気のことを知られたあの日、わずかに炎症を起こした薫を、両親は病院に連れて行く。幸い、大事には至らなかった。その帰り道、車の中で薫と父親は口論になる。
「心配しないで。もう彼には会わない。だって、病気を持っている女の子を彼女にするなんてイヤに決まってるでしょ。将来だってあるんだし」
「お前にだって将来はあるよ」
「本気でそう思ってないくせに。もう子供じゃないもん。騙されないよ」
「……」
オロオロする母親。父親が何も言い返せないのが、何を言っても気休めにしかならないとは判ってても、辛くて。

父親は、薫の友人を呼び出し、真剣な顔でこんなことを聞く。
「父親が娘の元カレに会ったら、怒るかな」
「怒るに決まってますよ」
「じゃあ、父親が娘の元カレに、娘に会ってやってほしいと頼んだら?」
思わず言葉につまる友人。この父親が、薫の最期の時を覚悟して言っているのが判る。
「怒って、泣き出すんじゃないですか」

その次のシーンで、いきなり孝治が夕食の席に加わっているのである。
ダボダボのスウェットで降りてきた薫が孝治に出くわして固まって、だだだ、と階段を駆け上がっていくから、やっぱりマズかったかと顔を見合わせる両親や友人、だけどややあって、フェミニンなカッコに着替えてくる彼女がカワイイのである。
しかもその、やけにゴーカな食卓。デカイエビフライとかグラタンとか、誕生会かよ!
「なんか、ヘンだよ。何をたくらんでるの」薫が言い放つ。固まる三人。
孝治が、席を立ち、薫の横に立って、一枚の紙を差し出した。
「君の歌をCDにしてみないか」
そのために、孝治はこの夏、大好きなサーフィンを断って、バイトに精を出していたのだ。
静かにうなづく薫。
夜の散歩。二人そぞろ歩く。
「夜になったら、会いに行くよ」思わず泣き出す薫。そしてはじめてのキス。
でも、残された時はそう長くはなかった。

薫の神経障害が発生するんである。あんなに自在に弾けたギターが弾けなくなってしまう。再びカラに閉じこもる薫。会いに来た孝治も、どう言って慰めたらいいのか判らない。
でもね、他愛のない会話、彼が側にいてくれること、それだけが、彼女の心をときほぐす、それが恋なんだよね。
彼女に何もしてあげられない、と落ち込んで帰る孝治の背中に薫は叫ぶ。
「私の声が聞こえてる?」
「聞こえてるよ!」
「じゃあ、私、歌う!」

XPは、太陽に当たっての炎症やそれによる病気の進行よりも、神経障害が怖い病気だという。
「紫外線遮断により皮膚症状の悪化をある程度防ぐことはできるものの、神経症状の進行を抑えることはできない」んだという。
父親は、ついに発生した娘の神経障害に、「子供の頃から一度だって外に出したことはない、なのになぜ……今までやってきたことはムダだったのか」と慟哭する。
この基本事実を知ってたら出ない台詞のはずであり、このあたりがラブストーリーありきで用意された設定としての病気、の違和感を感じる部分。でも岸谷五朗に熱演されたら、もうねえ、しょうがないよね。

そして、ついにCDの歌入れの日が来た。プロのミュージシャンを配したスタジオに薫は入ってゆく。ついてきた両親、孝治、友人も「集中できないから」と、締め出して。「出来上がったら聞けばいいじゃん」と。
スタジオの雰囲気に、「まるでプロみたい」と母親がもらすと、孝治は確信を持った口調でこう返す。
「もう、プロですよ。横浜に行った時ビックリしました。彼女が歌うだけで、人が集まってくるんです。いつの間にか、オレもいちファンになってました。オレ、このCDを売り込もうと思うんです」
静かに頷くばかりの両親。両親は、娘の最後の思い出に、ぐらいに思ってた。でも彼は未来の時間を口にした。
あの、車の中での父親と薫の応酬を思い出す。だからこそ、確信に満ちた孝治の言葉が染みる。
でも実際、このCDは彼女自身の思い出としてではなく、永遠の未来へと生き続けるものとして、彼女を知る人や知らない人のもとに届き、心を揺さぶるのだ。

でも、次のシーンでは、もう薫は車椅子に乗っている。そして紫外線をさえぎる消防服みたいなものをすっぽりとかぶり、海岸に来ていた。視線の先には孝治がサーフィンをしている。
彼が打ち込んでいるサーフィンを見るのは、恋人としての夢だったろう。それを叶えたいと思ったということは死を意識したんだと、両親は思ったんだろう。
だから父親、「こんなの脱いで、Tシャツ一枚で走り回って来いよ!」と泣きそうになりながら娘に言う。しかし薫の口から返ってきたのは、孝治からもらった未来への言葉だった。
「ヤダよ。そんなことしたら死んじゃうじゃない。私、死ぬまで生きるって決めたんだから。生きて、生きて、生きまくるんだから」
死ぬまで生きるのは、当たり前なんだけど、死ぬ、という運命の前に諦めることは絶対にしないという彼女の言葉は、彼女にしか言えない言葉だ。

でも、そのすぐ後に彼女は死んでしまう。
棺の中は、太陽を象徴するヒマワリに埋めつくされていた。
でもこのシーンはいらなかったな……とも思う。ラストの彼女の歌声とモンタージュが感動的だっただけに、それだけで彼女の死は暗示できるし。
ラジオから、流れてくるんだよね、薫の歌が。
両親が働くパスタ屋のアンティークなラジオ、そして学校では友人がラジカセを持って廊下を全速力で走ってくる。怪訝な顔の孝治は事実を知って、破顔する。
それまでは、死んでしまった彼女の思い出を、この一枚のCDに託して、それに彼らはすがりつくように聴いていた。
でも今、彼女の歌声は思い出ではなく、生きた声として、ラジオから響いている。
浜辺のラジオ局から。

ストリートライブで、観客が感動する場面がもう一個ぐらい欲しかったな。一回だけだもんね。
主題歌であり、ストリートライブでの曲であり、CDとなる曲。好きな人に勇気を持って会いに行く決心を歌うこの歌、でも……「Good-bye days」なのだ。もう最初から彼女は判ってた。でも、「死ぬまで生きる。生きて生きて生きまくる」という彼女の最期の言葉が、この曲に永遠の命をもたらしたんだね。★★★☆☆


太陽の傷
2006年 117分 日本 カラー
監督:三池崇史 脚本:大川俊道
撮影:金子正人 音楽:遠藤浩二
出演:哀川翔 佐藤藍子 森本慧 吉岡美穂 勝野洋 小木茂光 本宮泰風 平泉成 夏山千景 冨浦智嗣 佐々木麻緒 蜷川みほ 高味光一郎 遠藤憲一 松重豊 風間トオル 宅麻伸

2006/9/26/火 劇場(渋谷ユーロスペース/レイト)
正直、三池監督がこんな社会派映画をガッツリ撮るとは思わなかった。いや、彼は撮るっていったらもう直線、手を抜かない人なのだ。
ほぼ同じテーマであった「誰がために」が物足りなかったこともあり、本作は三池作品、三池&哀川翔というゴールデンコンビという以上に、そのことに溜飲を下げたくて下げたくて、どこかワクワクと足を運んだように思う。そしてそんな気持ちが見透かされたようにも思った。
確かに溜飲は下がりまくった。気持ちいいほど。あまりにストレートに下がりまくったので、だんだんと怖くなり、これこそが監督のネライだったんじゃないだろうかとも思えてきた。

加害少年が少年法、人権という名の元に守られ、被害者、あるいはその家族は人権もクソもなくさらし者にされ、ボロボロに傷ついてしまう。
昨今、そんな図ばかりが世間に横行し、確かにおかしいと思っていた。そしてそのあたりのツッコミは「誰がために」では生ぬるいと思ったし、少年がボーとしていて何を考えているのか、サッパリ判らなかった。
本作で、娘を殺された父親は、その少年の気持ちを、本当に更生しているのか、いやもっと根本的なものをぶつけたくて、あらゆる壁を乗り越えて少年と接触しようとする。
そして、少年は父親の、いや私たち観客の期待通り、怪物で異常者でビョーキで、制裁するのに躊躇などいらない存在なのだ。

これが……これが、三池監督が「そら、溜飲、下がりまくりだろ」とシニカルに突きつけているような気になったのは、それが本当に明らかになった後半になってようやくだったのは、遅すぎたのだろうか。
そこまで導かれるまで、胸クソ悪い社会の嫌らしさも次々と繰り出される。人殺しを守ることで善意の仮面を得た人間のエゴが。それをブチ破ることにもなって、より溜飲を下げる度合いは飛躍的に増すのだけれど。
なんだろう、この後味の悪さは。
ゲームのように人を殺してスカッとするこの少年たちと、同じイキモノになったような気がしてしまうのは。

それにしても哀川翔、なんである。三池監督とこうしてアングラ的に組むと、哀川翔はナイフのような切れ味になる。決して「ゼブラーマン」などではいけないんである。
彼が建築の図面を引いているサラリーマンで、家庭を愛する良き夫、良き父親、という役柄は、あらららら、なんかすんごく意外!である。
父親の誕生日に眠い目をこすりながら待っている娘のために、残業帰りの足を速める彼、片山は、ホームレス狩りの少年たちに行き合う。
もうボッコボコにされているホームレスは、ただただ悲鳴を上げることしかできない。すぐそこのコンビニの店員は「ま、一応通報したし」とあとはほったらかし、なかなかパトカーが来る気配がない。
至近距離でエアガンをホームレスにうちまくり、「ほっぺた穴あかないじゃん」などと不満気なぐらいの、あまりに容赦ない少年たちを放っておけなくなった片山は仲裁に入ってしまう。それが全ての発端だった。

確かに、警察が来るまで放っておくべきだったのかもしれない。帰ってこない夫を心配していた妻も「ケンカなんか、放っておけばいいのよ」と言う。でもその台詞に苦い顔を見せる片山、いや哀川翔にハッとする。
そうだ。これを演じているのは哀川翔だったんだ。見て見ぬフリをすることなんて、出来るわけがない。
そして少年たちは片山にボッコボコにやられるので、駆けつけた警察はむしろ彼に不信の目を向けるのだ。
実際、哀川翔に立ち向かうなんて無謀でしかないわよねー。案の定、ただのサラリーマンとは思えないほど、そして正当防衛だと主張するにも確かにキツいほど、もう気合いの入ったパンチを少年に入れまくってんだもん。
ま、確かに片山の言うように「ナイフを持ってた。殺されるかもしれなかった」というのはその通りなのだが……。

ちょっと先走って言っちゃうと、ラストには少年たちが「ネットで何でも手に入るな」と言って入手した銃でドンパチやりだすのね。で、その銃を一人の少年から奪った片山が応戦し、彼らを一網打尽、倒しちゃう。
もうこうなると、哀川翔、サマになりすぎてて、Vシネで演じてる若き親分と全く変わりなくって、ちょっと苦笑してしまう。
でもやっぱり、哀川翔が演じる意味は凄く大きい。彼が現代の良心と言ってもいいような、とてもまっとうな家庭人であることは知れ渡っているし、そして自身のキャラでもあるその男気が、娘を殺された父親、に設定された時、意外そうに見えて意外でも何でもなく、100パーセントピタリとくるのだもの。

この時、リーダー格の少年、神木はフードの下に顔を隠し、ロリポップキャンディを舐めながらただ眺めているだけだった。他の少年は彼の指示の元動いていた。そして神木はプライドを傷つけられたと思ったのか片山を逆恨みし、最愛の娘を惨殺するんである。
最初から彼は、自分が少年法で守られていることを意識していたに違いない。そして少年院の中で模範囚を演じ、たった1年8ヶ月で社会復帰した。元から学校なんてマトモに行っている風じゃなかったから、学校に行けないことだってヘでもなかっただろうし、そして「少年法で守られている」という同じ理由で、今度はひとまわり下の少年たちを手なづけ、片山に更なる復讐を図る。

一方で、片山はもうボロボロになっていた。娘を殺される前、ホームレス狩りで警察に引っ張っていかれてから、彼は警察が頼りにならないことを感じていた。あんな残虐なことをヘイキでやっている彼らを「もう、家に帰しました。まだ、中学生なんですよ」と、中学生=天使であるかのごとく言う警察官たちに、まず納得がいかなかったし、そして、彼らに付けねらわれていることを感じて相談するも、「事件が起きるまでは動けない」と言い放ちやがるんだもの。
つまり結果的には、殺されるのを待て、ってことになったわけだよね。これも最近、こういう事件が起こると指摘されていること。警察官の言い分としては、不安なら探偵やボディガードでも雇えってなことなのかもしれないけど、こういう心なさが、事件の処理に関しても常に働いていて、被害者がさらし者にされる原因になっているとしか思えないのだ。

そして、娘が殺された。母親が目を離した隙にいなくなってしまった娘は神木に連れ出され、惨殺されてしまった。
でもこの母親、あれだけ不審者に怖がっていたのに、娘を連れて友人と会い、その娘が自分のトコから離れていっても、遊んでいるのを目視だけして安心していたっていう描写は解せないんだけど……。しかも会っていたの、男性だったよね。いや、異性の友人がいたっていいけど、この場面で?なんか、勘ぐっちゃうよな。
……なんてことを言っている場合ではない。この、娘惨殺の描写。いや、殺している場面が出てくるわけではないけれど、荒れ野の中に放置された幼い娘を足元から撮ったショットは角度の加減か頭が見えない……と思っていたら、フードをかぶってロリポップを舐めながらフツーに往来を歩いている神木の、その手にしているスーパー袋の中身は重そうに丸く、赤い液体が滴っているのだ。
彼はそれを止めてある自転車のハンドルに何気なくかける。あれは、どう考えても、首、生首じゃないの!

かくして神木は捕まる。少年法で囲われてしまった彼の人となりがまったく見えてこない。「ぶっ殺してやる!」と駆けつけた片山に見せた、フードを脱いだ神木の顔は、ビックリするほど整った美しい顔で、淡々と片山を見やるばかりだった。
妻は、ノイローゼになって、自殺してしまった。ただ一人生き残った片山は、同情されるどころか世間の冷ややかな目にさらされ、生活の場を移すことを余儀なくされる。
片山は、ハッキリとそうは言わなかったけど、ずっと神木を殺したいと思って、彼の出所までひっそりと生きてきた。そしてその片山の望みをかなえるかのように、模範囚で、片山に反省の手紙を山ほど書き、大人しく仕事についていた神木の本性がどんどんあらわになってくる。

ヘイキで人殺しをするような少年は異常なんだと。病気なんだと。更生などムダなこと、抹殺してしまうのが正義だと。そう思っていた心を見透かされる。思う通り、異常者に、人でなしに描いてくれる。家庭環境だの、心の闇だの、感傷的なことは一切入れてこない。
そのことに溜飲を下げている自分に気づく時、ゾッとする。昔は、罪を憎んで人を憎まずとか言っていたではないか。間違いを犯した人間でも、正しい道に帰れるチャンスを与えるべきだと思っていたではないか。今は時代が違うと、この悪しき世界が人を捻じ曲げたら、もう戻らないと、いつからアッサリ考えるようになったのだ。

でも、確かにおかしいと思っていた。主人公のこの台詞が最もそれを物語っている。「どうして人殺しのアイツが守られていて、被害者の俺たちがさらし者にされるんだ」
彼は、ホームレスを少年たちから守ったことで、逆恨みされ、娘を殺された。でもそれが、少年を殴るけるの暴行を加えたことがキッカケになったと報道され、「暴力が暴力を呼ぶ」などと、自業自得のように、人殺しと同じレベルにされてしまった。
こういう報道のされ方をした事件、確かにあった。その裏にこんな事実が隠されていたのだとしたら……。
マスコミは信用できないと言いながら、事件を知る時はマスコミしか頼りに出来ない。
こうして、いつだって私たちは自分の頭で価値を決定する力を、いや権利を、限りなく奪われてゆくのだ。
でも、どうやって客観的になればいいの。あらゆる事件や出来事を全て客観的に、自分の価値観で咀嚼するには、麻痺するほどにヒドい事件が多すぎる。

出所した神木を囲うのは、善意の仮面の人間たちである。少年の更生を目的にと、彼の氏名も居所も片山に秘す警察、少年達の更生の妨げになると、片山の行動を疎んじるボランティアの保護司、少年を守ることによって、自尊心を満たしている。
そして最も胸クソが悪いのは、事件が起こった時から人殺し少年の権利を主張し、被害者の弁護を頼まれたらどうすると問われ「それも面白いねー」とニヤリと笑う、名誉欲丸出しの弁護士である。
どれもこれも、こうした事件が頻発する現代で、実際に被害者家族が不信をもらしてきた人間たちだ。
そう、本当に溜飲を下げることを目的としているような作り方なのだ。実際、少年の心の闇などに、どれほどの興味を私たちは持っていただろう。その願いを三池監督が直球ストレートでかなえまくってくれて、かなえまくってくれることが、どうしてこんなに不安になるんだろう。

その答えが、結末となっている。片山は最初から神木と刺し違えるつもりだったんだろう。彼を殺さなければ自分は生きていられない。いや、もっと言えば、彼が生きていたら自分は生きていられない。
片山のそんな頑なな心に、自らの信条が次第に揺らぎ、ついつい神木の居所やらを教えてしまう女性保護監察官・滝沢がそのカギを握っているんである。
その前に、片山はまず神木の名前はもう掴んでいた。あの時一緒にホームレス狩りをしていた少年の一人をとっつかまえ、この地に少年が戻ってきてはいないか、連絡はないかと問い詰める。
実家のクリーニング屋を継ぎ、いまや妻と子供もいる彼は顔をこわばらせながら、もう神木とは関係ないと言い張る。彼もまた家族を持つことで、あの時の片山と同じ恐怖にさらされていたのだ。

神木から妻子を脅されたことで、初めてあの頃の自分の愚かさに気づく。
いや、それだって客観的には判ってないのかもしれない。ただ自分の今の立場に怯えているだけで。それを言ったら片山だって、こんな事態にならなければ思いもしなかったことだもの。
でも長年、こんな思いにさらされている片山は、彼よりは少し、周りが見えている。
事件が起きた時から力になってくれていた地元の友人が、神木を捜してこの地に戻ってきた片山に部屋を提供した時、「協力できるのは、これが最後だ。俺のところにも取材が来た。俺にも家族がいるんだ」と言った。片山は落ち着いて、「これまでのこと、本当に感謝しているよ」と言い、友と別れた。
それを責められないこと、理不尽な思いをしてきた自分が一番よく判ってる。
被害者は、友人さえも失ってしまうのだ。

あの頃の神木たちをほうふつとさせるような少年グループが、またしてもこの街に現われていた。いかにも幼い、外見だけはそれこそ天使のように可愛らしい少年が、ジャックナイフで人を切りつけ、袋の中の猫?をザクザクと刺して興奮の哄笑をたてている。
彼は神木を神のように崇めている。あの人は本当に凄い人だと。神木によってもたらされた銃に、異常なまでに興奮する。拳銃の匂いをかいだり、舐めたり。まるで性欲だ。
多分、人を傷つけたり殺したりすることは、そうしたセックスの欲望がどこかの回路で変換されているんだろうとも思う。死体陵辱の話も昨今はたびたび耳にする。そりゃ、セックスよりよほど相手を支配できる。相手は永遠に立ち上がらないのだもの。
性欲の回路とセックスのそれが、そんなにも似通った部分にあるということには、なんとなく判るような気がする、と思うことが、恐怖である。
それをどうやってコントロール出来るかなんて、どうやって子供たち世代に教えればいいのか、判らない。

自分が神木に逆恨みされていることを自覚している片山は、神木が地元に帰ったらしいことで、その地で小学校の教師をしている妹の身に危険が及ばないか心配する。
でも妹は、片山がこの地に帰ったことこそ、メイワクそうなんである。いや、一応、兄を心配する仮面はかぶっている。だけど……彼女、あの事件の担当刑事とイイ仲になっているんだもの。
もう騒ぎを起こすのはヤメて。そんな風にさえ言い言いする。刑事も恋人の兄だという弱腰の姿勢ながらも、自分の立場が悪くなりたくないのがミエミエで、彼をたしなめる方向に出る。
全然判ってくれない、所詮妹もだ。教師である彼女は子供たちを守りたいって気持ちがあっても、お兄ちゃんに対してはメイワクな気持ちしかないんだ。
片山は妹を心配しているだけだったのに。黙ってその場を去る片山。そして神木のワナに陥れられた片山を、この刑事が逮捕に走るような事態になってしまう……片山は逃げるけど。
でもそれでも、片山は神木を(恐らく)ブチ殺した後、「妹を頼む」とこの刑事に電話をするのだ。

と、いう場面にはまだまだ、様々な事態が残されているんである。あの保護監察官、滝沢が片山を追う途中、ジャックナイフを持った少年に襲われる。
「ケガしたくなかったら、お金ちょうだい」
あどけない顔をした少年からそんなことを言われた彼女は、呆然とする。
「あなた、まだ子供じゃないの!」
この瞬間まで、彼女は彼らが子供ゆえの愚かさで、間違いを犯していたと思っていたに違いない。
この台詞にはたしなめる調子が入っている。でもその一方で、この子供に更生の道を信じられない恐怖も感じている。

つまり彼女は、所詮子供だからと思っていたのだ。子供の未来を守っているんだというおごりの下で、自分こそが子供を一個の人間として向き合おうとせずに、ナメていたのだ。
むしろ、娘を殺された片山こそが、人間対人間として、命を張って少年と向き合っている。そのことを彼女も感じ始めていたから、自らの職務を逸脱する形で、彼に協力するようになっていったのだと思う。
本当の気持ちが知りたい。本当に反省しているのかが知りたい。なぜ娘を殺したのかを知りたい。
子供だったからつい犯してしまった罪だ、などと考えていないからこその思いだ。
そして例え子供であったとしたって、自分が犯した罪には、傷つけてしまった人には、きちんと向き合うことが、人間としての責務なのだ。
その先に、だからこその復讐の殺意があったとしても。

今度は神木に捕まってしまう滝沢。彼女が守り続けてきた、更生していると信じていた神木は、またロリポップキャンディを舐める、あの少年に戻っていた。いや、ずっと変わらなかった、多分。妙に整った顔、妙に作った声がキモチワルイ。実際、未成年を演じるにはトウのたったハタチだっていうのがそんなキモチワルいわざとらしさを助長している。
彼が少年たちを動かしている黒幕だと知って、滝沢は恐怖に震える。
「あなた、異常よ」
「そう?普通だよ」
そしてこう言い足す神木。
「人を殺したがっているヤツなんて、たくさんいるんだよ」
自分もそうだったから、といった調子で言い放つ神木。実際、彼と一面識もないのに、盲目的に崇拝している少年たちは、写メールで送られて来たターゲットを殺すことに一種のオルガスムスを感じているのだ。
「やっぱりあの人は、凄い」と言って。

神木の究極の殺し文句はコレだった。「13歳が人を殺しても、罪にならない。殺人の許可証が与えられているんだ」このコトバに興奮した少年は、どんな理由なのかも判らずに、片山に刃を向けた。
で、最後のバトルは先述のように、「修羅がゆく」的なノリの、ドンパチである。哀川翔はさすが慣れている様を隠すことも出来ず、さっと身を隠して銃をぶっ放すのが実にサマになっている。
そして少年たちは銃で人を(しかも見知らぬ人を)殺すことを何とも思ってないどころか、ゲーム的にノリノリだったのに、自分に弾が当たるととたんに見苦しいほどにうろたえ、「俺たちは神木と会ったこともない」と這いずりながら訴えるのだ。

最後のバトルは、その神木とである。
神木は、滝沢を人質にして片山の前に現われる。つまり、少年の未来は守るべきだ、などと甘いことを言っている(この時点でかなり揺らいではいるけれども)彼女の、いや社会の現実の目の前で、二人は戦うのだ。
最終的に、片山が神木を殺すところまでいったのかどうかは判らない。けれど、(なんたって哀川翔だから)ケンカ慣れした片山に所詮、裸の王様であった神木がかなうわけもなく、たとえようもない恨みつらみが片山の手を止めさせることが出来ない。
何度も、何度も、何度も、神木の頭をガツガツとコンクリに打ちつける。もはや、神木のうめき声さえ聞こえなくなるまで。
そして、片山は、結局何にも自分の力になってくれなかった刑事に、でも妹の恋人だから、電話するのだ。「妹を頼む」と。

こういう結末を見たかったんだろうか。いや、見たかったんだ。だからこそ、イヤな思いがうずまく。正直なところを突かれたから。でもだったら、どうすればいいの。そんな仏みたいな気持ちになんてなれない。社会が悪いと言ってしまえば、片付くことなの。
少年、神木の存在が、たった一人で、両親はもとより、身内の匂いがまったくしなかったのが、こっちの溜飲を下げるにはそんなジャマな要素がないのは確かに都合がいいんだけど、それだけに、凄く象徴しているような気がして。
でもそんな風に思うのも、日本人特有の浪花節的な、家族に責任をなすりつける逃げにも思えて、ああ、もう、どう決着をつけていいのか、判らない。★★★★☆


ダウン・イン・ザ・バレー/DOWN IN THE VALLEY
2005年 112分 アメリカ カラー
監督:デヴィッド・ジェイコフブソン 脚本:デヴィッド・ジェイコフブソン
撮影:音楽:ピーター・サレット
出演:エドワード・ノートン/エヴァン・レイチェル・ウッド/デヴィッド・モース/ローリー・カルキン/ブルース・ダーン/ジョン・ディール/カット・デニングス/ハンター・パリッシュ

2006/1/24/火 劇場(渋谷シネマライズ)
観てる間はとにかくもう、お父さんがかわいそうでかわいそうで、姉弟二人に、お前らアホか、さっさと気づけ!などと毒づいていたんだけど、終わってふと振り返ってみると、なんだか不思議に孤独な色合いの、“西部劇”だったな……と、まるで郷愁のような切なさがこみあげるのには驚く。そう、確かに“西部劇”だった。カウボーイはたった一人だったけれど。

たった一人のカウボーイはハーレン。最初こそ、よもや彼だって、自分のことをリアルにカウボーイだと思っていたわけではあるまい。ただカウボーイ魂を持っているんだってぐらいで、自分の立場が判っていたはずだ。「カウボーイがガソリンスタンドで働いているの?」と若者たちからカラカイ気味に聞かれた時、「食べていくためには仕方がない」とイタズラっぽく笑っていた彼は、普通に好青年だったもの。でも、自分より20近く年下の美しい娘、トーブに誘われた時、「ガソリンスタンドのボスに聞いたら、行くか辞めるかだと言われた」と言い、さして悩むこともなく行くことを選択してしまった時、もう既に、あ、ヤバいな、と思う。
そのヤバい、はかすかな感情で、まさか彼がそのかすかなカーブからこんなにも曲がっていってしまうとは、まさか……思わなかったんだけど。

思えばあの時、一緒にいた友達たちはもう判ってたんだ。こんな乾いた中規模な街で、今時カウボーイハットなんかマジでかぶってる男なんて、クレイジーだと。その感覚は日本人の私なんかにはどうもよく判らん部分もあるのだが……。
でも友達たちが“クレイジー”だと感じたところを、トーブは“ファニー”だと取る。どちらも“おかしい”ではあるけど、トーブにとっては明らかに好感触の思いがある。その時点で彼女の感覚が間違っていたと……思うのも何なんだけど、彼女が彼を、“クレイジー”だと気づいた時、彼女の腹には彼に撃ち込まれた銃弾が深々と貫いていたのだ。

というところまでは話を急ぎすぎたが。
トーブはまあ今時の女の子、ぐらいなものだったんだと思う。いわゆる反抗期で、父親とぶつかってばかりいた。父子家庭で、父親が折々女を連れ込むのにも彼女はイヤ気がさしていた……ということを父親自身も判っているから、この不器用なおとーさんは奔放な娘に厳しく注意するものの、最後まで追い込むことはなかなか出来ないのだ。
この父親の不器用なんだけど、子供たちを愛している、というのが大人になっちまったこっちには判るから、そしてそんな親をまだまだ理解できない子供の彼らが判るから、どーにもこーにも歯がゆいのだ。お父さんだってオトコだし、一人で寂しいんだもの、恋人の一人や二人作ったっていいと、大人だったら思うけど、まだまだティーンエイジャーの彼らにそれを解するのは難しい。

しかもこの不器用なお父さんは、娘と息子、それぞれに対しての愛情の違い、というかレベルを隠すことも下手なんである。これはホントかウソか判んないんだけど、弟のロニーは自分が父親の実子ではないと言い、養ってくれていることは感謝している、とハーレンに語るんである。
実際、ロニーが聖書の一節で弱き者の力を謳っていることを語ると、父親は一笑に伏し、「軟弱な者は気骨のある者に負けるんだ」と暗にロニーの弱さを否定するようなことを無意識に言ってしまっている。ロニーは、自分が否定されたことを敏感に察知し、黙り込む。
ここでの“気骨のある者”とは、父親はハッキリとトーブのことだと明言していて、彼がそんな娘を誇りに思っているから、奔放に遊びに行ってしまう娘を心配しつつも最後まで押しとどめられないんだ、というわけで、トーブに対する関心の方がロニーへのそれより明らかに強いのが、第三者にも見えてしまうのだ。

それを、せめて姉であるトーブがもっと気づいてあげられればなあ……彼女は弟の世話を“押しつけられる”のを、あからさまにイヤがり、ロニーがけなげに「僕は一人で大丈夫」だと言う場面が何度も出てくる。でも彼はまだ甘えたい盛りの子供で、本当は大好きなお姉ちゃんにくっついていきたいのだ……というシーンが冒頭で示されてる。
いやそれは逆で、ロニーもまた危なっかしいお姉ちゃんを心配していたのかもしれない。この街での生活に、ロングバケーションの夏は、特にもてあましてしまうような今。

皮肉にも、ロニーのそんな寂しい気分に気づいたのがハーレンだった。前半は恋に落ちたハーレンとトーブの話がメインなんだけど、その中に絶妙にロニーとハーレンの絆が伏線として張られている。
そして、トーブを撃ってしまったハーレンに連れてかれたロニーの逃避行が描かれる後半戦の方が、トーブとの前半戦よりも濃厚なラブストーリーのように見えてしまうのはどうしたことだろう。
だって、トーブはハーレンのおかしさに気づいてきていて、彼と距離をおこうと思って、でもその気持ちが通じずに撃たれてしまったわけで。ロニーはそのことに一切気づかず、最後まで彼を信じてかばって……本当はロニーが危ないところだったはずなのに、父親がハーレンを撃ち殺した時、ハーレンのなきがらに覆い被さって泣いた彼は……心底父親を憎んだに違いないんだもの。

……またしても話を急ぎすぎてしまった。話を戻そう。そもそもトーブがガソリンスタンドのファニーなカウボーイ、ハーレンに、一緒にビーチに行かないかと声をかけたのが始まりだった。バンの後部座席に一人で座っている彼女に最初に見とれたのはハーレンだったから、むしろ始まりはハーレンだったのかもしれないけれど。
海で二人でプカプカと浮きながら、トーブはハーレンにキスをする。驚くハーレン。彼がそこで、彼女が20も年下の年若い娘であり、夏の一時の感情だと冷静な一線を張ることが出来ていれば……いや、それが出来ない彼だったから、こんな悲劇を引き起こしてしまったのだ。

あっという間に恋に落ち、あっという間にソウイウ関係になってしまい、ハーレンはまるで高校生みたいにこの恋に夢中になる。
一方で、彼女の父親に対しては妙にアイソよく、「僕を信頼してください」「美しい娘さんなのに、ドレスを着ないなんてもったいない」とかなんとか、やけに弁が立つ。
ここで、最初に感じたヤバい、という感覚がまた呼び起こされる。コイツ、なんだってこんなにスラスラおべんちゃらが出てくるの、と。いや……何か彼が、本気でそう思っているように思えて、うすら寒くなる。

いや多分、本当に、本気で思っているんだろう。ヤバい。だってそう言いながら彼は彼女をヘイキで朝帰りさせるんだもん。ドラッグを自分に禁じてると言いながら、彼女から勧められるとアッサリ口にしてしまうし。一緒にお風呂に入りながら睦む言葉は、妙に哲学的で一見ステキに思えながら、彼の精神の不安定を思わせもするしさあ。
「君は自分の声が聞こえているか」とか、「他人の声が聞こえていないか」とか。つまり彼の中には他人の声が聞こえてたってことなんだよね。それが、後から考えると凄く得心がいってしまうの。

だって彼は、そもそもハーレンなんて名前じゃなかったんだもの。もっともらしい長々とした苗字やミドルネームも、彼が考えてつけたものに違いないんだもの。でもそれを彼は最初は判っていたはずなのに、いつしか自分は本当にそんな名前の人間だと思い込んでいたに違いないんだもの。
「人生が始まるのを待っている」とお風呂の中でハーレンと向き合い、涙目で言っていたトーブ。彼と出会ってそれが始まった、と彼女は思ったのかもしれないけど、違うよ。人生は自分で始めるものなんだよ。いや、もう始まってるんだよ。「終わりを待っているの」という「ヘヴン」の台詞とはあまりに違う。終わりは受け身でもいいの。でも始まりは受け身じゃダメ。何も、始まらない。

トーブが最初の異変を感じたのは、彼がかつて働いていたという牧場で、世話をしていた馬をちょっと借りて、二人で乗馬とシャレこんだ時だった。かつての雇い主だったはずの“チャーリー”はハーレンが馬を無断で使ったと激怒し、しかも、自分はチャーリーなんて名前じゃない、お前なんか知らない、と言い張るんである。
いや、言い張ってる、と言っているのはハーレンであり、最後まで誤解だと言い募るんだけど、トーブはウソをついているのはハーレンの方ではないかと、その年若い敏感さで察知してしまうのね。

しかもハーレンは短気な父親を更に逆なでするように、トーブがダメだと言っているのに家に来るし。
でもそこでね、父親がもうちょっと冷静な対応をしていれば、よかったのかもしれないんだけど……この辺は本当にすれ違いというか、うまくいかないっていうか。
父親にはもうコイツがどういう人間か見えちゃってたから(やっぱりこういうのは年の功よね)、「オレはお前のような人間をたくさん知ってる。稼ぎもないくせに大物ぶる、クズみたいな野郎だ」と言い放つ。もう観てるこっちはまさしくそのとおり!と拍手喝采を送りたいぐらいなんだけど(ホント、トーブと知り合ってから、ハーレンはぜっんぜん仕事探そうともしないしさ、何度も、オマエ働けよ!って思っちゃったよ)、この言葉って、彼を好きなトーブやロニーにとって、いかにも判ってくれない大人の言い草にしか聞こえないんだよね。
薄々ハーレンをおかしいと気づき始めたトーブも、そうやって否定する父親に反抗する形で、ハーレンに巻き込まれ続けてしまう。

ハーレンは自分の部屋で西部劇ごっこよろしく、一人芝居やってる。いや、“ごっこ”なんだけどこれがやけに真剣で、まるで自分のカウボーイ魂を忘れないようにトレーニングしているみたいで、隣りからうるさい!とねじ込まれるとマジギレしたりするし、この年なのにやけにイイ身体してるし……コワいんだよね、やっぱり。
拳銃さばきにもやけに熱が入ってる。この拳銃さばきにロニーはホレこんでしまったんだ。トーブに会いに来たハーレンは、彼女に会うことが出来ず、家でひとりぼっちでいるロニーを誘って、トーブとそうしたように二人で乗馬をし、西部劇さながらに空き瓶を並べて射撃練習をした。
16になるまで銃に触ってはいけないと言われていたロニーだったんだけど、男気溢れるハーレンに引き込まれて、彼にイチから教えられて銃を手にした。上手い上手いと褒めてくれるハーレンに、ロニーはめったに見せない笑顔を、かすかにだけど見せたのだ。

ロニーが初めて心を開いた人間。父親も姉も好きで愛してるけど、自分のことを本当に思ってくれてるわけじゃない。ジャマだと思ってること、感じてる。ハーレンはそんな彼の気持ちに初めて気づいてくれた人だから……彼自身もそういう境遇だったからなんだろうか……。
ロニーを演じるのが、またしても出てきたカルキン一族のローリー・カルキンなんだけど、また彼がいいんだよね。暗さの中に繊細で柔らかい桃のような精神を隠してて、でも人に惹かれると激しくて、みたいな。13歳の少年期の全てを持ってる。

で、ハーレンはトーブに会えない苛立ちから、部屋で鏡に向かって銃をぶっ放してしまって、大家さんから追い出されてしまう。行く当てなどない彼は小競り合いを引き起こし、家宅侵入して盗みまくり、質屋に売り飛ばしてカネを作る。……ここで彼は父親?のジョーにあてた手紙を残していくんだけど、ここが彼の実家だというのかというとそれも怪しいのだ。
しかも彼、そのカネを持ってトーブの部屋に侵入し、「まとまったカネが出来たからオレと逃げよう。ロニーも一緒に」などとホザく。彼女の荷物を勝手に荷造りして。

さすがにおかしいと感じたトーブは後ずさりしながら、私はここを出たくないって言ったでしょ、出て行って!本気よ、と叫ぶ。
トーブはここを出て行きたくないんだ……そんなこと言ってたっけ。彼女はここから誰かに連れ出してほしいのかと思ってた。
でもそう思っていたのは幼さからで、彼女は家族を愛していることをこの“クレイジー”(決してファニーなどではない)男に出会って思い知らされたんだと思う。これぞ反面教師というやつか。
抗う彼女を、ハーレンは“ついうっかり”撃ってしまう。本当にそんな感じだった。早撃ちを得意、自慢にしていたハーレンがとっさに出た習慣で愛する人を撃ってしまう皮肉。
自慢にしていることは、人を、愛する人を傷つけ、ひょっとすると殺してしまうことだということを、フィクションの世界に生きている彼は本当には判ってなかったんだ。
「そんなつもりはなかった」などとアホなことを言ってうろたえるハーレン、しかも父親が来たことに気づくと、虫の息の彼女を置いてスタコラ逃げ出してしまう。

娘のとんでもない姿を目にした父親の衝撃は、想像を絶する。そして誰がやったのかも、即座に判ったに違いなく……彼は血だらけの娘を抱え上げ、病院に担ぎ込む。
遅れて帰宅したロニーのことを、父親が……まあこんな事態じゃ仕方ないにしても、彼女の意識が戻るまでの数日間、思い出しもしなかった、というのが、やはり愛情の差を決定的に感じさせて、ロニーの行動を責められなくなってしまう。
ロニーは、ハーレンに連れ出されてしまったのだ。ハーレンはウソをついた。トーブを撃ったのは父親だと。自分もかばった彼女との間に入り込んで撃たれた、ほらココだ、と彼は自分で撃ちぬいた足の傷を見せる。
ハーレンが口の中に布を詰め込んで足を打ち抜くシーン、私は腹を撃ちぬいて自殺したのかと思って、まあこんなことになっちゃトーゼンだよなとか(私もコワいが)思ってたんだけど、よもやこんなウソをつくためだったとは……とボーゼンとする。
しかも、彼はどこからか、それがウソなのだということを忘れてしまっているようなんだもの。

ロニーはハーレンがトーブを撃った銃を、拾って触りまくってしまったことから、自分が疑われている、警察に連れて行かれる、と言う。ハーレンは、一緒に行こうと言う。そうでなければ君は里子に出されてしまうよと、言葉巧みに。
そう言われなくても、ハーレンに惹かれていたロニーは、行くのにそう躊躇はしなかったかもしれない。……ここからハーレンとロニーの逃避行が始まるのだ。
皮肉だけど、本当に皮肉だけど、父親からは軟弱と称されていたロニーの強さを引き出し、育てたのはやはりハーレンだったんだよね。
彼は本当にアブないヤツで、ロニーと一緒にいる間も、私は彼がいつ“ついうっかり”ロニーを撃ってしまうんじゃないかと気が気じゃなくて、もう、ロニー!さっさと気づけ、逃げろ!と心の中で叫びっぱなしだったんだけど。
でもロニーは結局、ハーレンのことを最後まで信じてて。

何度も、追いつめられるの。でもロニーは危険を察知するとハーレンに「早く早く逃げて!」とうながし、一緒に馬に乗って行ってしまう。そして一夜を明かすことになった森の中、もしかしたらハーレンはあそこでロニーを解放するつもりだったのかもしれない……暗闇の中、怖がる彼に、怖くなんかない、君なら出来るんだと離れていって……でもそこでまた追っ手がきて、二人は逃げ出す。
ずっとずっと歩いてきて、深夜たどり着いたのは、廃墟のような街。そこで二人は一夜を明かす。

夜が明けると、外でまさしく西部劇そのままのパーティーが開かれてる。楽しげに踊る“村の人たち”。
明らかにおかしい。これはハーレンの見ている夢なのかと思い……ハーレンは何の疑いもなくこの楽しげな輪の中に入ってゆくし。でも後に目を覚ましたロニーの目にもこの光景は見えている……ええ?
映画の、撮影だったんだよね。でもハーレンはそのことにすら気づいていない。完全に、世界に入ってしまった。ヤバい、これはヤバい。
予感的中、そこに二人の後を追ってきた警察官と父親が到着する。もうハーレンは西部劇モードに完全に入り込んでるから、勧善懲悪の世界で登場したこの二人は、倒すべき敵にしか見えてない。バンバン撃ちまくる。オマエ、オマエ、アホかー!ああ!警察官の人、死んじゃったよ!せっかくトーブが息を吹き返したのに、これでもう……殺人者になってしまった。取り返しのつかないことになってしまった。

でも、それでも、それでも!ロニーはハーレンをうながして二人で馬に乗って逃げるの!何でよ、どうして!?いくらなんでもおかしいじゃない、っていうことを……きっとロニーだって気づき始めたとは思うんだけど。
だって、奇妙なんだもの。彼らが馬に乗ってゆく道は、キチンと舗装されてて、ちっとも西部劇なんかじゃない。カウボーイはハーレンただ一人。迷い込んだ異次元で、彼は西部劇という男の世界に戻る道を探してる。ああきっと、ジョーというのはその中の、彼のオヤジさんだったんだ。

そして二人がたどりついたのは、造成中の新興住宅街。こぎれいな建物がぞくぞく建ち並ぶのが想像できる場所で、重傷をおったハーレンは「こんなところで死にたくない」と言う……あの、廃墟のようなところの方が、つまりは西部劇のロケセットだったわけだから、彼にとって理想の場所だったんだ。
ハーレンはロニーに馬をガレージにつなぐよう指示する。怖がるな、君になら出来る、と。
ズルいな、本当にズルいんだけど……最後の最後まで、ロニーにとって頼りになる兄貴分を演じるなんてさ。
そこに父親が追ってくる。死闘の末、ついにハーレンは彼の銃弾に倒れ……「トーブはハーレンに撃たれたんだ。姉さんに聞いてみれば判る」という父親の必死の抱きとめも振り払い、ロニーはハーレンの亡がらに泣きながらくらいつくのだ。

ラストシーン、ハーレンの遺灰を「ダウン・イン・ザ・バレー」に撒きに来たトーブとロニーは、父親の気持ちを判ってくれただろうか。
二人をここまで車で連れてきてくれたのは、父親だったけれど……。
少なくとも、姉と弟は気持ちを共有したには違いないけれど。
あの寂しいカウボーイを忘れられない気持ちを。

予告編で、えっらい美少女と、中年に差しかかったカウボーイのツーショットが鮮烈で、観る気になったのね。
ビーチに出かけるのに、トップだけビキニスタイルの彼女が、それほどおっぱいないのが、逆に生々しくてそそる。
あっちの17歳は日本と違うんだろうとは思いつつ、テーマの重さと、それ以上に重いエドワード・ノートンとタイ張る彼女には感嘆した。★★★☆☆


ただ、君を愛してる
2006年 116分 日本 カラー
監督:新城毅彦 脚本:坂東賢治
撮影:小宮山充 音楽:池頼広
出演:玉木宏 宮崎あおい 黒木メイサ 小出恵介 上原美佐 青木崇高 大西麻恵

2006/11/7/火 劇場(渋谷TOEI@)
……これってホントに評価されてんの?
オフィシャルサイトのBBSは絶賛コメントしか載せてない感じなんだけど……、何かそれに納得いかなくてヤフーのユーザーレビューとかいろいろ渡り歩いちゃったんだけど、そんな普通に感動しちゃうの?それともただ単に、私がヒネクレてるだけ?
私は、なんか凄くイカって劇場を出ちゃった。
まず、映画の作りという基本的な部分から、納得行かなかった。

音楽がうるさすぎる。最初だけなのかなと思った。ナレーションが聞こえなくて、驚いた。音楽が大げさな映画はまあ、あるけど、ナレーションがかき消されるほどうるさいって、ありえないでしょ。
大切な感情をわざわざナレーションするのもどうかと思うけど、それが聞こえないほど大仰に演奏するってさ!
それでなくても、感動的な演奏でゴマかすことに、凄くイヤな気分を味わってるのに……役者の演技を信頼してないみたい。
本作は、本当に音楽が、うるさかった。黙れよ!って何度も思った。
この監督さん、劇場用映画は今回が初。でも多くのドラマを演出しているというし、「君の手がささやいている」なんて、私もどんだけ涙を搾り取られたか判らない。しかしこれはなあ……。

ところで、私は知らなかったんだな。大塚愛の主題歌が「恋愛写真」だという時点でアレッと思ったけど、偶然かなと思ってて。
でもマスメディアへの露出が多くなるに従って、ヒロインが静流、そして写真、ニューヨーク……と明かされる要素がことごとく共通するもんだから、さすがになんで?と思って調べたら……、堤監督の「恋愛寫眞」が先で、それに本作の原作となる小説がコラボする形で書かれたんだという。
大学で出会う静流と誠人、共通の趣味である写真、ニューヨークへ舞台が移されること、そうした要素だけを共通点に、全く違った物語を綴っていく。
確かに静流も誠人もキャラが全く違う。というか、違いを際立たせるために、本作のキャラは少々マンガチックに造形されている感がある。
でもそれは、少女漫画的世界がスキな私は全然オッケーである。むしろ、予告編でのあおいちゃんのあまりのカワイさに、胸を躍らせて足を運んだぐらいだもの。

展開自体はキライじゃない。いや、むしろ好き。
堤監督のも、中盤までは悪くなかった。後半が意味不明、というか、愚かな結末で、それまで役者が大切に築いてきた世界をグシャグシャに壊してしまった。
で、本作。年齢よりずっと幼く見える外見は、成長すると病気が進行してしまうために、成長ホルモンを抑制していた、と最後に明らかになる静流と、皮膚が弱くて、その塗り薬の匂いが人に不快感を与えているんじゃないかといつも気にしている誠人が、大学の入学式の日に出会う。
写真を通じて二人は近づき、静流は誠人に恋をする。しかし誠人はみゆきという美人の同級生に惹かれている。静流がこのみゆきと仲良くなったことから、三人は友情と恋愛の微妙な均衡を保ちながら、周囲の同級生たちとの友情も形成しつつ、大学生活を送ってゆく……。

という、ね、本作の展開は、特に問題はないんだ。純愛物語として用意されたワクとして、問題はない。そしてあおいちゃんはめっさカワイイのに、なんでこんなにつまらなくなっちゃうの。
始まって15分で既にタイクツを感じ始め、段々と映画と共に時間を過ごすのが苦痛になってくる。
こういう、ある程度流れの予測がつく物語は、その恋のドキドキを感じさせてくれなければ、全く意味がないんだもの。

これってつまりは、王道の少女漫画的センチメンタルなラブストーリーなのよね。今はもしかしたら、そういうもの自体が成立しなくなっているのかな……「ラブ★コン」のように思いっきり崩すか、「NANA」のように主軸はラブストーリーじゃなくするか(ヒロインはメッチャ恋してても)するしかないのかもしれない。
でも、だからこそ、ラブストーリーは普遍。この物語の中には、切なくなる沢山の要素が詰まってる。男の子も女の子も、身体的コンプレックスがあって恋に今一歩踏み出せない。ここでは病気が上げられてるけど、太ってるとか、背が低いとか、そういう普遍的なことに十分通じてくる。

静流は結構アッケラカンと、誠人に自分の気持ちを伝えてくる。みゆきに対して嫉妬しながらも、「好きな人が好きな人を好きになりたい」と一見ややここしく、しかしこれ以上ストレートに気持ちを表現する台詞もないぐらいな言い方をしてみゆきと知り合い、本当に仲良くなってしまう。
そう、誠人は静流が自分を好きだってこと、判ってるのに、この大切な友情関係を壊したくないと思って、恋へと踏み出せない。そしてそれは静流自身もそう思っている、というのが奇妙にも微妙な感情というわけで。静流は恋の関係っていうのが、男の子の家に行くとか、エッチするとかっていうことなんだと思ってる。本当はそんなに単純なもんじゃないんだけど。自分が幼く見えるコンプレックスがあるからこそ、そんな風に思っちゃうのかもしれない。

それにしてもこの、「好きな人の好きな人を好きになりたい」って、あまりにも直截な告白だったのに、彼はそれを、流してしまった。
あるいはその前の、二人だけの大切な場所だと静流が思っていた森に、誠人がアッサリみゆきを連れてきちゃうトコとかも。
いや、それを言い出したら、「実は切ない要素」なんていっぱいある。変人扱いされている静流と付き合っているのかとからかわれた誠人が「つきあってない、友達だよ」と連呼するのを静流が聞いちゃってて、「別にそれを怒ってる訳じゃない、なんでかばってくれなかったの」と誠人を責めるトコとかもね。彼が思いもかけないことを言われたみたいな、傷ついた子供のような顔をしてゴメンと謝るその反応も。
そんな風に怒っても、大好きなビスケットを差し出されたらたちまち機嫌が良くなってしまう静流の子供っぽいかわいさも、上手く使えばキュンとくるものがあると思うのに、ただ幼稚に見えてしまうのは、凄くもったいない。

こんな風に切ない要素がいっぱいあるのに、なのになぜ切なくなれないかっていうと、映画の流れが、どこにも重きをおかないで進んじゃうんだもん。メリハリがないっていうのかな……こうした様々に用意されたたまらなく切ない要素を、ぬりえみたいに、切り張りみたいに、ヨイショ、ヨイショと羅列されたら、切なくなれるかってーの。
それに、演出っつーか、演技のつけ方もなんかワザとらしいっていうかさー。玉木宏はそんなに興味のある役者じゃないけど(実際、ここでもあまり魅力的には見えない)、あおいちゃんはこんなヘタっぽい演技をする人じゃないのに……なんか、凄いヘタに見えるんだよー。
なんか、観客に言い聞かせているような、こうだよね、みたいな演技をさせてる。漂うものが、全然感じられない。それがすっごい許せない。あおいちゃんがヘタに見えるなんて! いや、すっごく可愛いんだけど……。

そう、あまりにも可愛いあおいちゃん。そりゃ彼女は可愛いけど、ここでの、いわばコスプレめいた「メガネでボサボサのおかっぱ頭」そしてラクチンなファッションの彼女は新鮮で、すっごく可愛い。予告編でもう恋しちゃうぐらい。
彼女は「今はまだ成長ホルモンが足りないから、これからどんどん成長するんだ。そしたら誠人がビックリするぐらいイイ女になる」と言ってやまない。
そしてその、成長して大人になった静流、というのが感動のキーポイントではあるのだが、その大人の静流よりやっぱりボサボサ頭の静流の方がカワイイんだから、困っちゃう。
大人の静流になったあおいちゃんに、あらま彼女、こんなに手足が長かったっけ?と驚くけど、でもとりあえずあおいちゃんそのものを知っちゃってるから、むしろこのメガネにボサボサおかっぱのあおいちゃんの方が新鮮でカワイくて、大人になってから美しくなった静流、に誠人のようには胸を衝かれないのだ。
ただ、キスの前に眼鏡を外したら、すんごいカワイイあおいちゃんにはドキッとしたけど……。
眼鏡を外したら実はカワイイ、って、眼鏡をかけててもカワイイのに、反則だ……。

おっと、先走ってしまった。このシチュエイションこそが本作のキモなのに。
静流はほんのつかの間、誠人と“同棲生活”するのだ。父親とケンカして家を飛び出した、という静流に誠人は特に深い考えもなしに、ウチに来りゃいいじゃん、と言う。以前はよく来ていたんだしさ、と。
みゆきと仲良くなってから、静流は以前のように誠人の部屋に気軽に遊びに行かなくなっていた。その気持ちをコイツが全然解していないのが、よーく判る。
彼に処女を捧げる決心をした静流が、そういうつもりはない、と誠人に押しとどめられるシーンぐらいはせめて、コミカルだけにせずに、もちっとどーにかなったんではないかとも思う。
……というか、静流に対して何かというと笑いをこらえるように口元を抑える、玉木宏の演技のワザとらしさがどーにも気になるんである。

いつもビスケットばかり食べていたのに、意外に料理が上手い静流、小さなテーブルを挟んで楽しげに食事をする場面など、まさに同棲生活そのもの。
でも、やはり誠人はみゆきが好きなのだ……そしてみゆきも。みゆきからウェディングイベント?に一緒に来て、と誘われた誠人に、静流はヤキモチをやきながらも、きちんとスーツを着させて送り出す。ポケットには誠人が彼女にナイショにしていた、皮膚炎の軟膏もちゃんと入れてあげて。

静流は写真コンテストに出すためにと、誠人にモデルになってくれるよう頼む。彼女のテーマはキス。セルフポートレイトとして、自分とキスしてくれないかと言うのだ。
今から思えば、この時から静流は決心していたんだろうと思う。二人の思い出の森で、大好きな誠人と一生一度のキスをすること。
宣材にも使われているこのシーンは、木漏れ日あふれる緑の森の中、小さな彼女の肩を壊れ物のように大切に引き寄せる誠人の姿勢といい、ちょっと見とれてしまう美しさである。
そして、静流は姿を消してしまった。

この時に誠人は自分の気持ちに気づいたのか、自分で自分をコントロールすることが出来なくなって、倒れてしまう。
友人たちに病院に担ぎ込まれて事なきを得るものの、そこでみゆきから、静流の行方が全く知れないこと、そして、自分もちゃんと失恋しておきたい、と告げられる。
しかしなー、静流と誠人とみゆきの三角関係は、実にこの時点まで3年以上続いているわけで、ちょっと上手く行きすぎじゃないの。
いやこれが、誠人とみゆきがちゃんと恋人関係で、っていうのが確立されているのなら……いや、そうなると、友達で均衡を保っている三角関係も成立しないか……。

でも、今時なあ……なんて言うのもなんだけど、誠人がこの二人と一切関係を持たずに大学時代を終わってしまうって、この濃密な若い時期を棒に振った、と言えるぐらいじゃない?自分の皮膚炎にコンプレックスがあるにしたって、健全なオトコなんだし、不自然だよ。
しかも、「ちゃんと失恋してない。でも私も、ちゃんと好きだって言わなかったしね」だなんて、みゆきはやけに理解ありすぎだしさ!都合よすぎるだろ!
まあ、みゆきはウェディングイベントに誘ったり、それなりに誠人を挑発する行動には出ているのだが……。
しかし、女の子はこんなんで終わるほど甘くないのだよ、実際はさあ。
静流と誠人の関係を語るために、泥沼な展開を避けているようにも思えるしなあ……。

ここで、友人たちの就職先が決まった、という話がされるのだが、外国語学部の仲間達だからにしても、やけに皆エリートなトコに就職が決まってるのも(しかも全員!)、プロレタリアなこっちはカチンとくるのだった。
国連職員に、外資系に、外務省だあ?フザけんなっ!人生そんなに、上手くいくかあ!
大体この誠人も、「大学を卒業して、カメラマンになった」って、ハショりすぎだろ!英語学科出て、その間にそういう関係のトコにバイトに入るっていう描写もないのに、カンタンすぎるだろ!せめて、「いろいろあって」とか「紆余曲折の上」とか、入れろよ!
こういう、瑣末な部分に見えるかもしれないところで、リアリティを獲得できるかどうかがかかってるんだから!

でもねえ、ホントこういう説明の部分もそうなんだけど、台詞がそもそも生きてないんだもん。言葉が。ことごとく。どんなに役者が頑張ってそれに命を吹き込もうとしたって、限界がある。しかも演出は、その役者の頑張りさえも拒んでいるような感じだし。
台詞は、小説に準じているのかもしれないけど、ただでさえ演出にメリハリがないから、余計に台詞に生々しさをまるで感じない。
静流はNYに渡り、写真修行をした。そして、成長を抑制するクスリを飲むのを止めた。病気が進行しても、ちゃんと大人の女になって、それを誠人に見てもらいたい。つまり恋のために彼女は死んだのだ。
それを知った誠人は、呆然とこう言うのね。「恋したから、死んだっていうのか?」
微妙にガクッとなる。こういう状況に置かれたら、人はこういう言い方はしないと思う。いわば、文学的。
もっといえば、他人事に聞こえるから、ガクッと来ちゃうの。普通、「僕を好きになったから、死んだっていうのか?」って言うんじゃない?そうじゃなければ、誠人を好きになったことを誇りに思った静流の気持ちが、浮かばれないじゃない。

こういう風に、台詞に距離を感じるところがかなりある。倒れた誠人を友人たちが病院に担ぎ込むシーンでもあった。ここは皆が必死になって、凄く緊張感のあるシーン。
自分の匂いを気にして、おぶってくれている友人に降ろしてくれと言う誠人。友人返して「何言ってんだよ。お前はいつだって女みたいにシャンプーの匂いをさせてたじゃねえか」んんー……。
いくらそうでも、この場面でそんな説明的な台詞、というか、諭すような台詞、とっさに出るか?
役者の演技の力で、「何ワケわかんないこと言ってんだよ!」と一喝させた方が、ずっとリアリティがあるじゃん。 言葉が生きてないの。役者がどんなに頑張っても(とゆーか、あおいちゃん以外は大した役者いないしな……)これじゃ、どうしようもないよ。

堤作品が前提にあったから、違う物語とはいえ、オチは同じくしているんだろう、つまり最後は静流はニューヨークで死んでしまっているんだろうという予測はついていたので、それで驚きはしなかった。
誠人が静流の写真展を観にNYに行く、というのも同じだったしね。
誠人を迎えに来たのは、静流とNYで同居生活を送っているというみゆきだった。半年前に偶然チャイナタウンで再会したんだという。その時に知らせてくれればいいのに、と誠人は不満げである。
みゆきは結局、静流との共犯関係にあったわけだよね。同じ人を好きになった友達同士として、彼女の最後の願いを叶えてあげたいと思ったんだろう。

しかし、この後もうしばらく続く筈だった誠人へのウソは、バレてしまう。静流は写真展で自分の写真と大人になった姿を見てもらって、大人の女として誠人の中でしばらくの間生き続けていたいと思って、彼に送る何十通もの手紙を用意していた。
でも結局、みゆきの元に入った静流の父親からの留守電で、静流の四十九日が既に済んでしまっていることを誠人は知るのだ。

誠人は、静流の写真展へ出かける。数々のキスの写真。彼女のライフワークとなったらしいその写真たちの発端として、離れた場所に引き伸ばして大事に飾られていたのが、誠人とのキス写真。そして、ビックリするほど美しく、大人の女に成長した静流のセルフポートレイト。
二人のキスシーンが貼られた壁には、彼女の筆跡でこう書かれている。
「生涯ただ一度のキス ただ一度の恋」ううむ……泣き所のはずなのに、なぜか引くなー……。
誠人は溢れる涙を抑えられない。

……というこのシーン、男の人が涙を流すシーンで心を打たれるのは、女の子のそれと違って、結構難しいんである。
例えばそれを、小説での字面で観るのとは違う。やはり頭のどこかに古い考えがあるので、男性がしゃくりあげ泣きなんかしちゃうと、ふっと引いてしまう。
浅田次郎の「ラブレター」もそうだったな。小説ではすごく感動的でも、画面で号泣する中井貴一にはイマイチ共感できなかったもん。

しかし、命を捧げるほどに好きになった誠人に、この姿を見せないまま死んだら、意味ないじゃん……。たった一人生き残った父親だって、無念だったろうしさ……。
これが本当に切ないラブストーリーに仕上がってたら、そういう部分も気にならなかったんだろうと思う。
彼女が成長することを(つまりその先の死を)選んだ、それほど強い誠人への気持ちを、このツギハギの映画じゃ感じないのよ。

結局、この原作者の価値観に、私はあまり合わないのかもしれんね……。★★☆☆☆


ダック・シーズン/TEMPORADA DE PATOS
2004年 90分 メキシコ モノクロ
監督:フェルナンド・エインビッケ 脚本:フェルナンド・エインビッケ
撮影:ダニエル・ミランダ/ディエゴ・カターニョ/エンリケ・アレオーラ/ダニー・ペレア

2006/5/24/水 劇場(渋谷シアター・イメージフォーラム)
なんか言いたいことというか意味がよく……判んないのよね。オフィシャルサイトで紹介されてるキャストのバックボーンも、映画を観ている時は全然判んないから、劇中の二人の男の子を兄弟なのかとしばらく思っていたぐらい。
だって冒頭、母親が出かける時にフラマの方にだけいろいろと注意を言いつけてるんだろうけど、一緒にいるモコに対してまるで敬意を払わないというか、息子と一緒に留守を任すのにまるで無関心なんだもん。
でもそれって、この家庭状況を表わしているような気も、後から考えると確かにするんだよね。息子がどう休日を過ごそうが関係ない。とりあえず腹を満たして留守を守っててくれればそれでいい、ぐらいの。
友達がどういう子だとか、どんな遊びをするのかとかも、多分判ってないんじゃないかというのが、冒頭の玄関でのワンショット、エレベータに行くまでにガスの元栓だのポットのスイッチだのをこと細かに気にして行き来する母親の姿に現われてる気がする……あくまで後から考えると、なんだけど。

で、この家庭、両親が離婚直前で、フラマが母親についていこうと内心では決めていても、それを親友のモコに言い出せずにいる……つまりこの地から去ることになることも、両親の離婚が決まっていることさえ観客にはずっと知らされないんだから判るはずもない。
まあ最終的に判るからいいっちゃいいけど、彼が親友との最後の休日をどういう思いで過ごすかが問題で、それが判らないままだと、ただの男の子二人のダラダラした休日を見させられるだけになっちゃうじゃん。
で、「後から考えれば」の大洪水で、後から大急ぎで頭の中で反芻しなくちゃならないのよ。こういうのを多分、バランスが悪いということなんだと思うんだよな。情報はバランス良く配してほしい、のよね。

二人で日がな一日対戦型のテレビゲームやって、ピザとコーラのデリバリーを頼んで。そんな風に休日は過ぎていくはずだった。「後から考えれば」親友との最後の休日を、そんな風にいつものように過ごして、フラマは思い出にするつもりだったのかもしれない。
しかし、そこにまず、マンションの隣の部屋の女の子、リタが訪ねてくる。ケーキを焼くためにオーブンを貸してほしいというのだ。「後から考えれば」この子が最もクセモノのトラブルメイカーである。ほんの15分のはずが、失敗を繰り返して三回も作り直しをする時点で、充分引っかき回してるし。
そしてもう一人、フラマとモコがキノコ(シャンピニオンっていうのねー)とサラミのピザを頼んだ、そのピザの配達のお兄ちゃん、ウリセスである。「後から考えれば」(しつこい?)彼が最も複雑な過去を持つキャラで、彼だけを丁寧に追う物語を見たいぐらいである。その場合は最初から判りやすく語ってくれればね。

この四人が一堂に会するのはこれが最初で最後だろう。そしてフラマの住むマンションの一室のみで展開され、ここからフラマは母親と一緒に出て行くのだ。だからこの休日の一日は、奇跡的な邂逅と言える、のかもしれない。

フラマとモコは、ウリセスのピザ到着が11秒遅れたからタダだとゴネまくる。これは正直ちょっとイラつくんだけどねー。つまりは二人はそうやって母親から預かったお金をピンハネするつもりなんだろうけど(わざわざコーラ代まで請求してたもん)、そうやって押し問答しているうちにピザはどんどん冷めてマズくなっていくわけで、もーいーかげん折れろよな、ガキ!とムカムカしてくる。
……のは、私が大人で、ウリセスの方に同情するからだろうけど。それにウリセスは後に語られる身の上話も、大人としては何だかちょっと同情しちゃうような内容だったし(ちょっとだけだけど)。

まあ、確かにウリセスは、同じような高層マンションの林立の中を迷いまくり、しかも停電だからエレベーターも止まってて階段を必死に駆け上がって、ギリギリに到着したのは間違いないんだけどさ。
あ、そうそうこの停電という設定も、こんな風に多少は効いてるけど、何かあんまりピンとこない。
ま、停電にならなければウリセスは11秒遅れることもなく、遅れたとしてもテレビゲームで決着をつけるはずがまたも停電になり、結果がアイマイになることもなかっただろうけど。
まあつまりこれは、時間で動いている現代人や、テレビゲームで過ごす休日の無為さを言ってるのかもしれないけど、ソウイウ難しいことは別に望んでないしな。

で、ピザの代金をもらうまでは帰れない、とウリセスは居座る。リタのケーキはまずは焦げ焦げでやり直しになり、その手伝いをモコにさせる彼女は、なぜかこのちっさなフワフワカールの男の子にエッチなちょっかいを出す。そして「後から考えれば」(ホントしつこい)人生の岐路で思い悩んでいるウリセスは、フラマのこれまでの人生を聞いたり、彼と一緒にピザを頂いたりしてすごすんである。
そう、ここからしばしの間、この2グループに別れるのね。ウリセスのこれまでの人生は、こんなところでさらりと語られるにはもったいない過酷さなんである。

そもそも、彼はピザの宅配で生計を立てるような人物ではない。大学院で動物学の研究をしていた学者肌、しかし大叔母の面倒を見なければならなくなって犬の収容所(ま、保健所だわな)に就職し、犬を選別(処分するか生かすか)する部署につくものの、貰い手なんていないから、結局は処分するしかない。だからその部署はムダだと切られて、彼はまんま犬を処分する部署に異動になってしまい、耐え切れずに辞めた。
この作品はモノクロだから、犬の死体が山積みになっているシーンも何とか見ることを耐えられるんだけど、動物行動学を専攻していた彼が耐えられなくなったことは想像に難くない。
そしてピザ宅配で糊口をしのいでいる彼だけれど、つがいの鳥を買い、小鳥を繁殖させて稼ぐ仕事を始めようと思っている。
結局動物から離れられないということを、彼が認識しているかどうかは判んないけど……とにかく金を稼いで、大叔母の世話から逃れたいのだ。だってこのヘンクツの大叔母のために、長年付き合った彼女とも別れるハメになったのだから。

なんて身の上話をフラマ相手にしている間に、モコはリタにファーストキス(だろうな)を奪われるんである。モコは大興奮したくせに、それをフラマに報告する時はクールぶってかなり虚飾入ってる。自分がリードしたみたいに言っちゃってさ、されるがままだったくせに。
「君の舌、ヘンな感じって言ったんだ」などと得意気に言っちゃってさ、メッチャうろたえてたくせにさー。
それに対するフラマ、落ち着いたフリを装って、「興奮したか?つまり……(雑誌を持ってくる)こんな風になったかってこと」
「……ちょっと」とモコ(笑)。
フラマは「必勝コロン」をモコにつけさせ、再度トライを指示するのだ。興味アリアリじゃん!

二つ年上のリタは彼らから見ればかなり大人っぽく見えるんだろうけど(実際、この年の男の子って身体的にも精神的にも幼いし)、実際は、そんな大人の女としてふるまいたい、男の子を翻弄させたいという、こちらもまた子供っぽい欲求に過ぎなくて、実際、年下の、こんなカワイイ男の子だからこそチョッカイが出せたわけだよね。
だって、リタがここに来た理由は、今日は自分の誕生日なのに、家族はそれを忘れてるし(劇中では語られないけど、彼女の誕生日がうるう年の2月29日であるかららしい)、自分でケーキを焼いて祝おう、ってことらしいんだから。

ある程度の年齢までは確かに、子供の誕生日は特別なものとして家族で祝われるけど、いつの頃からかそんなこともフェイドアウトしてくもんじゃない?リタの年の16歳なんて、そのフェイドアウトが始まるあたりだもん。仕方ないって感じするけどなあ。
でも、彼らが住むマンションっていうのが、玄関からエレベーターまでやけに狭かったり、マンション自体もギッシリと林立しているし、それだけでなんか、都会、いや都会にしがみつくためにいる人たちのために建てられた、みたいな寂しさを感じるんだよね。
モノクロも、そんな感覚を助長する。ましてやフラマは今、アイデンティティの問題に直面しているのだから。

それは、2グループに別れていた四人が一同に会し、皆してフラマの家族のアルバムを眺めている時に飛び出したある仮説だ。彼のような赤毛は、両親はもちろん、親戚の中にも誰もいない(フラマというのは炎って意味のあだ名)。
赤毛が突然発生することなどありえないと、生物の専門分野に通じたウリセスが言うんだから余計に真実味がある。アルバムを繰ってくと、両親の新婚旅行先の店員にフラマのような赤毛がいるんである!これは父親に違いない!と外野は勝手に盛り上がり、フラマは撃沈。
モコが親友らしく気を取り直し、そんなはずない、絶対に実子だよと慰めるも、根拠がないから(この店員が父親だっていう根拠もないけどね)フラマは落ち込むばかりなんである。

この2グループがまた集合したのは、リタがケーキを諦めてブラウニーを焼き、それが思いがけず成功したからだった。「信じられないけど、マジでおいしい」ブラウニーを四人、むさぼり食うと……「ママの持ってた」マリファナ入りブラウニーだってことが発覚。
四人ともハイテンション。四人踊るわ、絵の中のカモが飛んでるように見えるわ、もう完全にトンじゃってるのだ。

ちなみにこのカモの絵がタイトルの由来にもなっているのだが、ダックはアヒルじゃなかったっけ?実際「四人のアヒルが……」という言い回しが出てくるし、ウリセスがいい気分で風呂に入るシーンで、浴槽にアヒルのオモチャが浮かんでるしさ(カワイイ)。
このカモの絵は、両親が出席したとあるパーティーのビンゴで当たったもので、どちらの所有か争っているんだという。面白半分に意見を述べる外野三人にフラマはムクれてこの絵を外してしまう。
しかし、彼自身、両親がこんな即物的なことで争うのを見るのが耐えられなかったのだろう、マリファナでトンだ勢いで、部屋のあちこちに飾ってある高そうな陶磁器をエア・ガンで次々と壊してゆく。

皆でフラマの父親のいる(かもしれない)地に行こうと盛り上がるけど、結局はフラマはモコとシャツの交換をして別れを告げ、ウリセスは上司にピザ屋を辞めることを告げて、ここに来た配達用のバイクで去ってゆく。
フラマがモコに、「ママについていくよ」と言った時モコが神妙な顔をしたのは、それが、二人が別れることを意味していることを知ってたからだよね。
ウリセスは上司から電話が来た時、完全にトンでて、カモの泳ぐ湖畔でバスタオルを腰に巻いた状態で、受話器の向こうの上司に湖を見ながらタンカ切ってるんである。そんな状態で人生の岐路を決定していいんだろうか……。

まあ、なあんか、正直、ね。やっと終わった、て印象だった。
大体、小津監督とジャームッシュにオマージュを捧げるというのがもうそれだけで引いちゃうんだもん。二人とも素晴らしい監督ではあるんだけどこの両巨頭を並べること自体あまりにありがちだし、特に小津監督を敬愛するってのがね……。
確かに本当に素晴らしい監督よ。でもね私、今はちゃんと?敬服してるんだけど、小津作品のファーストインプレッションが良くないのよ。あまりに内外で小津小津言われてることに対するむずがゆさというのもあって、何だかいまだに小津監督に捧げるとか言われると引いちゃうんだよね……。
このオマージュも、作品を「後から考えると」なんか思いっきりナルホドなんだよなあ……いい意味ではなくてね。★★☆☆☆


Touch the Sound そこにある音/Touch the Sound 
2004年 100分 ドイツ カラー
監督:トーマス・リーデルシェイマー 脚本:セバスチャン・コルデロ
撮影:トーマス・リーデルシェイマー 音楽:
出演:エヴリン・グレニー/フレッド・フリス/オラシオ・エルナンデス/鬼太鼓座

2006/3/30/木 劇場(渋谷ユーロスペース)
音楽に関する様々なドキュメンタリーも、聾唖者に関する様々なドキュメンタリーも観て来たけれど、この作品はそのどのカテゴリーにも当てはまらない、極めて特異な、ユニークな作品であると思う。私はタイトルとドキュメンタリーであるということだけで、何の前知識もないまま観に行ったので、彼女が聴覚障害者であるということが映画が始まってしばらくたたなければ判らなかった。

冒頭、彼女、エヴリン・グレニーは駅のコンコースで素晴らしいドラミングを披露し、集まった聴衆から拍手喝采を浴びる。そしてパーカッション奏者であるという彼女が、これから音を巡る旅に出ると言い、物語が進行していくんである。
その合い間合い間に、打ち合わせも方向性も何も決めないまま行なわれる、ギタリストのフレッド・フリスとの競演によるCD録音の様子が差し挟まれる。
ドイツのケルンにある廃墟となった大きな工場で、楽器のみならず、様々な機械やら手すりやら、なんでもかんでも使って、音をつむいでいく。無音すれすれまで降りる繊細さと、地を轟かす様な大胆さを併せ持つ彼女の演奏は、まさか聴覚に障害があるなんて思えない。しかも彼女は、いわゆる聾唖者特有の発音でもないので、しばらく気づかなかったのだ。

それは、彼女が自分の聴覚に限界があると知ったあとでも、大好きな音楽を止めなかったことが鍛えたのかな、と思う。「非常に音が聞こえにくい」と表現される彼女の聴覚がどの程度のものであるのか、はっきりとは掴みかねるのだけれど、でも聾唖のドキュメンタリーを見るたび、確かにいつも素朴な疑問を持っていた。聴覚障害者は、どんな風に聞こえているんだろうって。こんなこと言ったら怒られるかなと思って、口には出せなかった疑問だ。その答えを、この映画は示してくれている。

そう、まず、聞こえているのだ。補聴器を通して助けられる耳からの音ではなくて、本当に、音そのものを、健聴者とは違う音として、いや、より本来の音として、身体を反響させて聞いている。
エヴリンは補聴器をつけていない。唇が読めるし、発音もキレイなので、一見して聴覚障害者だと本当に判らないのである。電話のやりとりは、声を出さずに唇だけを動かす“通訳”を介在する、のが、なんとも不思議な光景である。
しかもあの素晴らしい演奏である。彼女は聴覚障害者の音楽教育にも力を入れていて、演奏者は聴衆よりも長く音を聴いていられるのよ、と教える。生徒の女の子は聾唖者特有の発声の子だから、音に対して今まで、聾唖者としての接し方しかしなかったんだろうと思う。でも彼女は、エヴリンから促がされて補聴器を外し、音に“触れる”喜びを知る。それを知ったこの女の子の嬉しそうな表情ときたら、ちょっと曰く言いがたいぐらい。
なんだかちょっとだけ、うらやましくなる。だってどうしても耳で聞いてしまう私たちには、音に“触れる”なんて感覚、どうやったらいいのか判らないんだもの。そしてそれは耳で聞くより、ずっとナマで感じられるというのだから。

エヴリンが言うように、五感のたったひとつが失われただけで、そのたったひとつがまるで感じられないように言われるのはおかしいことなんだろう。ただ、幸か不幸か五体満足に生まれてしまった私たちには、逆にその素晴らしさが判らない。心で奏でる音楽、なんて字面では判った様な気分でいても、やっぱり漠然としている。
でも、エヴリンが言葉を尽くして語ってくれる、そして何より、全ての音を音楽にしていく彼女の姿に、それがちょっとだけ、判ったような気がするんだ。
五感のうちひとつが失われるたその時、第六感が生まれるんだとエヴリンが言う。第六感って、そんな深い意味があったのか……。多分、その第六感というのは、私たちがイメージするようなミステリアスな漠然としたものじゃなくて、残りの四感をフル稼働した果てに生まれる、感度バツグンのアンテナのようなものじゃないのかな。

エヴリンの言葉で最も印象的だったのが、音を探す、という表現だった。
エヴリンは、音は表面にはないんだ、という言い方をする。その下にあるんだと。それを探し当てるんだと。
だって、歌手だって口から声を出すわけじゃないでしょうと。横隔膜から動かして声を出すんだ、それなのに、耳だけで「聞こえる」云々などというのはおかしい。聴覚障害者がそれだけで特異な目で見られることは理不尽だと、彼女は言う。
そう言われると、本当にナルホドなんだよね。耳という表面だけを見て、聴覚障害者がミュージシャンであることを奇異に感じるというのは、歌手が唇だけで声を出していると言っているのと同じなんだ。
耳という、音を判りやすく識別するマシンがないだけに、本質的なところで彼女は音を深くまでもぐって探し出し、すくい取り、体に共鳴させる。
それが目の前に展開される。ああ、こういうことなんだと、判るのだ。

この映画には幾人かの著名人がコメントを寄せているんだけれど、そのトップバッターが最近一番のお気に入りである天才ジャズピアニスト、上原ひろみ嬢で、そのことに真っ先に触れていたんだよね。聴覚に障害があるとかそんなこと関係なく、同じミュージシャンという才能の持ち主として、そのことに共感しているのが、ああ、ミュージシャンって凄いな、と思って。
実際、ミュージシャンであるという共通点さえあれば、聴覚障害者だろうと、外国人で言葉が通じなかろうと、まるで、まったく問題がないこの素晴らしさ。
そういうのって、これまでほかの音楽ドキュメンタリーでも見かけていたことではあるけれど、その本当に根源的なものを見ることが出来るのだ。
ニューヨークの喧騒、街角のタップダンサーの靴音に合わせたセッション、日本のジャズバーと思しき場で、グラスやら空き缶やらお皿をテキトーに並べ、箸をスティックに絶妙なバランスのリズムを作り出す遊び心の楽しさったらないし、しかし圧巻なのは、やはり日本の、鬼太鼓座とのセッションである。

同じミュージシャン、パーカッションとはいえ、スネアドラムを基本とした西洋スタイルのエヴリンと、囃子太鼓のリズムを基本形にした鬼太鼓座とが上手くセッション出来るのだろうかと思ってしまった素人考えが恥ずかしい。
目と目をちょっと見交わしただけで、そしてその振動のやりとりのコミュニケーションで、ソロやユニゾンのタイミングも、盛り上がりのポイントも、ラストの締めさえきっちりと合わせてくるのだ。それでいてその中で双方ともに弾けまくって、この一瞬だけの奇跡の名演奏を聞かせてくれる。
エヴリンは日本の音楽に関しては、伝統的なものがとりあえず好きみたいだ。そして思うのだけど……世界各国の伝統音楽って、それぞれに全く違うんだけど、でもなんだか根底には不思議に共通しているリズムがあるように思う。その音色や、スピードや間合いが違うだけで、伝統音楽のリズムというのは、やけに似ている気がする。

日本での時間は、さまざまな場面にやけに尺が割かれていて、彼女にとって、あるいは監督にとってかもしれないけど、興味津々の国であるらしい。確かにこうしてカメラを通してみると、日本って、奇妙な国だよね。
渋谷や歌舞伎町、あるいはデパートの地下食品売り場、声は威勢良くお客を呼び込んでいるのに、顔はまったく無表情な店員たち。大勢の人が行き来していて活気はあるけど、その人たちもなんだか表情に乏しくて、ネオンやマイクパフォーマンスばかりがハデに飛び交う都会。
こうして、それが強調された外国映画のカメラを通して見ると、ホントヘンな国だな、と思う。
一方で赤い橋を手前にした、水色にそびえる富士山や、寺小坊主がゆっくりゆっくり掃き目をつけてゆく、石庭の静寂もまた日本である。都会の喧騒の中では、その不協和音に時には不快な顔を見せていたエヴリンも、石庭ではその静寂の“音”を胸いっぱいに吸い込んでいる。

エヴリンは言っていた。音の対極は静寂だと言われがちだけど、そうではない。静寂は最も重い音だ、と。
音を何より愛するエヴリンだもの。静寂が音の対極だったら、静寂を尊重したりするまい。最も尊重するべき最も重い音、それが静寂だから、最も深い尊敬を、静寂という音楽に向けるのだ。
では音の対極は何なのか、あえて言うとすれば、それは死ではないかとエヴリンは言う。
静寂には、静寂というマックスの“音”がある。でも死には何もない。何も感じられない。逆に言えば、生きていさえすれば、音はいつだって感じられるのだ。耳なんていう、拡張機がなくても。

音楽と音の解釈も、強烈に印象深かったのね。音楽というと、メロディっていう感じがするじゃない、どうしても。でもエヴリンが言う音楽は用意されたメロディなんかじゃなくて、まず音、そしてリズム、身体の内部から湧き上がるそれらが大事で、計算されて、作り出される旋律はずっとずっと後の方にあるんだよね。
もしこの世から音楽がなくなっても、きっと音は残る。エヴリンが言ったそんな台詞は、音楽がメロディだと定義されている現代を皮肉っているんじゃないかと思うんだ。
これが、音楽なんだ。メロディは、むしろ言葉と言った方が正しいように思う。気持ちを、感情を、言葉という便利な記号に置き換えるのがメロディで、その前に存在している根源の音楽は、そんなこと全然考えてない。それが、旋律の波や物語性といった価値観が先に立つメロディを形成するはずもない。
言葉で作られる文学や、言葉が介在する映画が、音楽と違って文化の垣根をどうしても越えられない理由がここにあるんじゃないかって、思うんだ。

しかもね、彼女の定義する音楽は、美しい画を伴っているんだ。ドキュメンタリーなのにドラマチックなのは、監督が、彼女が見えているもの全てに音を、音楽を感じていることを了解しているからなんだ。ビルの屋上でのパーカッションのパフォーマンス(隣接する建設現場のあんちゃんたちは拍手喝采!)に驚いて飛び立つ鳩、そのふわふわと舞い落ちる羽、石を投げ入れられたのか、静かな波紋が広がる水面、寄せては返す海の白波……。
そう、水の描写が多かったな。視覚から、心の中に聞こえてくる音。それはただ美しい画として観るのと、全然意味が違った。音が、聞こえてくる。美しい画であればあるほど。
美しい画は、それだけで成立していると思っていた。でも、世界の全ての物事に音はある。音楽は限られていても、音は常にある。死以外、静寂さえも、音なのだから。美しい画であればあるほど、そこには美しい音が存在するのだ。耳から聞こえる音に頼っている私たちは、美しい画を見るだけで満足していた。そこに音が、音楽があるなんて、考えもしなかった。“耳”で聴いてる私たちの方が、ソンしてるじゃない。

エヴリンの聴覚異常が判明した時、それまで普通の生活を送ってたのに、突然どれもこれもやるなと言う医者に動揺しながらも、娘は今までどおりだ、何でも好きなことをやるんだと言ってくれた親御さんが何より重要事項だよね。子供の幸せを考えた時に、出来る限りの最良のことを選択する、親に課せられた本当に難しい課題だ。★★★☆☆


単騎、千里を走る。/千里走単騎/RIDING ALONE FOR THOUSANDS OF MILES
2005年 108分 中国 カラー
監督:チャン・イーモウ(日本編:降旗康男) 脚本:ヅォウ・ジンジー
撮影:ジェオ・シャーディン (日本編:木村大作) 音楽:ガゥオ・ウェンジィン
出演:高倉健 寺島しのぶ リー・ジャーミン チュー・リン ジャン・ウェン

2006/2/23/木 劇場(錦糸町シネマ8楽天地)
イーモウ監督と健さんの友情に水をさすのもアレなんだけど、なんか私は違うなあ……と思ってしまった。悠久の大地に立つ健さんの魅力、小さな男の子との交流、それがもたらす、長年溝の出来た息子との心の通い合い、そうしたものを描こうという意思は凄く感じられたけど、私には伝わらなかった。
イーモウ監督は、自分のアイドルである健さん主演の映画が出来たことだけで胸がいっぱいなんだろうけど、こっちとしちゃ、それだけで引っぱられてもなあ……という思いだった。

まあそのお、思いっきり端的に言ってしまうと、正直、今の健さんはピンのメインで押すのはキツいんである。
男優にとって年を重ねるのは女優と違ってプラスに働くけど、彼は近年はそれほど積極的に映画に出てないし、仕事を重ね続けていないと、役者としての色艶を保てないというか。集中力のある演技はさすがだけれど。
健さんはさ、ずっと主役で来た人だし、演技力で売ってたわけじゃないから、脇に回るのは難しいんだろうけど……ずっと主演でい続けることがいかに大変かは、主演、の名目を保ちながらも、晩年は脇に譲っていった渥美清の例からも判る。
全編、彼自身のナレーションで展開されるんだけど、入れ歯か?てなフガフガした発音にもかなりハラハラするしなあ……。
一度も姿を見せない、声だけ、あるいは手紙の内容だけ、なのにそんな“あちら側”の、息子役の中井貴一の方が圧倒的に存在感があるというのは皮肉だ。
無論、それを主役の健さんが追いかけているからなんだけど。

そもそも二人の間に溝が出来たのはなぜなんだろうか。末期がんの状態になってまで、父親にはかたくなに会いたがらないほどの理由というのは、相当のものと思われるのに、それをハッキリと示さないまま映画は終わってしまう。
一切言い訳しない健さんの寡黙な魅力で充分、と監督は考えたんだろうけれど、先述のように今の健さんでは、そして今の時代ではここにムリが残る。
本作の中で最も心に残るのが寡黙な健さんではなく、義父と夫を必死にとりもとうと言葉をつくす、息子の嫁役の寺島しのぶだというのも、またいかにも皮肉である。
中国側は、劇中の仮面劇の役者も通訳も、同名の素人を使っていたりして、そこは中国映画ならではのこだわりと、同時にこだわりのなさも感じるんだけど、結果、本作で“役者の力”を、寺島しのぶ一人に負わされているのが、彼女の熱演を揶揄するつもりはないんだけど、どうもアンバランスで。

ちなみに、日本側の演出は、健さんと盟友の降旗監督である。日本側を象徴する彼女に熱が入っているのは、そのせいだろうか。思えば降旗監督が演出する健さんと女優、ってこんな風に、寡黙な健さんの気持ちに揺さぶりをかける女性、という図式だもんなあ。
そういやあ、年相応の夫婦であるのに、この息子夫婦に子供がいる様子はない。それこそ孫がいたら違っただろう。わざわざ中国の子供に息子の影を見る必要もなかったろうと思う。
そのことについてはまるで触れられないのも、今となっては不自然な気がするんだよなあ。

小さな漁村で漁師をしている剛一(健さんね)は、息子、健一の嫁(寺島しのぶ)から連絡をもらい、10年ぶりに東京を訪れていた。その時はまだ末期がんとまでは判らなかったけど、彼女にはどこか予感するところがあったのだろう。今会わせなければ二人は一生会えないまま終わってしまうと。
でも健一は父親に会うことを強く拒み、剛一もまた、それを押してまで息子に会おうとする性格でもなかった。
嫁はせめて、とばかり、彼に一本のビデオテープを渡す。健一の仕事が認められて、テレビで特集番組が組まれたんです、と。健一さんの仕事ぶりを見てやってください、と。
漁村に帰った剛一は、ビデオを見る。中国の小さな村での、仮面劇の取材。その役者が本当に得意なのは「単騎、千里を走る」だと言われ、ぜひ見たいと言うものの、役者は今は出来ない、また撮りにくればいい、と言う。画面の手前で声だけの健一は、じゃあ約束ですよ、また来ますからと言い、番組は終わる。
病床にある息子に、その約束を果たすことができるはずもない。
そう思った剛一は、いきなり中国に飛ぶんである。

寡黙な男のものすごい行動力である。今中国にいるんだと知らされた嫁もビックリである。そらそうだよなあ。
剛一は、その小さな村に向かうものの、くだんの役者、李さんはなんと傷害事件を起こしてお縄になっているというんである。
どうせ、仮面劇、どの役者がやったって判りゃしないと、いかにも中国人のノリで言われるものの、剛一は寡黙ながら、そこを譲ろうとはしない。そりゃそうだ。撮影隊として来たのではない。死にゆく息子にできる、たった一つのことだと思って来たのだから。

剛一は中国語を喋れないし、聞き取れないし、そうでなくったって寡黙で、ひたすらにディスコミュニケーションがそこに横たわっているのである。
本作に健さんを持ってきたのは、無論イーモウ監督のアイドルだから、ではあるんだけど、寡黙な健さんのイメージがそのまま、息子をはじめ周囲のあらゆる人とのディスコミュニケーションを引き起こすことを、彼のたたずまいだけでダイレクトに表現できるからだったのかな、と思う。
しかも、剛一が、長い間この村に滞在していた息子のことを村民に聞いてみると、健一は親しい友人がこの地にいたわけでもなく、ずっと孤独だったというんである。
中国の仮面劇にひかれ、恐らくこの村に魅力を感じたからこそ長逗留をしていた健一はしかし、積極的に人とコミュニケーションをとろうとはしなかった。
そこには、父親とさえコミュニケーションがとれない自分への思いがあったんだろうか。

剛一は李さんが壁の向こう側にいると判っても、あきらめようとはしなかった。
しぶるツアーガイドに、何とか刑務所の李さんに踊ってもらえまいかと繰り返し頼む。
その姿勢に心打たれたのが、村民のチュー・リンだった。自分が剛一を刑務所まで連れて行き、なんとか説得して撮影をさせる、と申し出る。あの番組を撮影した時、かたわらで通訳まがいのことをしていた彼は、ほんの少しなら日本語が喋れる。
ツアーガイドの女性(名前忘れた)も、困った時は携帯で呼び出してくれればサポートすると言ってくれた。

かくして刑務所に向かうも、前例がないこと、手続きが煩雑なこと、であっさりと門前払いされる。
そのことを、チュー・リンの日本語の力では剛一に伝えることが出来ず、やむなくツアーガイドの女性の携帯に助けを求め、彼女は、もうムリです、諦めてください、と剛一に言う。
しかし彼は諦めることが出来ない。何かを思いつく。
商店街で大きな旗を買う。そしてチュー・リンに協力してもらって自分のメッセージをビデオに撮影、これをチュー・リンに翻訳してもらいながら刑務所の関係者に見せ、何とか望みをかなえてもらおうするのだ。
自分の息子が病気にかかっていること。自分が息子にしてやれるのは、李さんの「単騎、千里を走る。」を撮影することだけだと。
剛一は中国語が喋れない。だけど自分の思いを翻訳して伝えるだけでは不十分だ、言葉が伝わらなくても、自分の声で伝えたい。そう思ったからこその決断。これが相手の心を動かすんである。

で、この“言葉が伝わらなくても自分の声で、それが相手の心に届く”というのを、彼はその後も再三行なうんである。これがね……この場面ではちょっとだけ私もじんときたし、有効だなと思ったんだけど、それが二度も三度も繰り返されると、これがなかなか有効だと思えなくなってくるのね。
ちょっと勇み足だけど、一番のクライマックスである、李さんの息子のヤン・ヤンと二人、石の谷間に残された場面でも、剛一はヤン・ヤンに多少のジェスチャーは加えるもののずーっと日本語で喋りかけてて、そう、ジェスチャーは多少どころかほんの少しで、伝えようと必死になっている様子はないのね。
ここに至ると、彼の信念であるらしい、“言葉が伝わらなくても……”に胡散臭さを感じてきてしまう。

話を戻すと……そう、なぜ剛一が李さんの息子、ヤン・ヤンに会うことになったかっていうことだよね。
李さんを撮影できることになったものの、いざ衣装をつけてカメラの前にスタンバった李さん、いっかな歌おうとしない。仮面を脱がすと、その下で彼は鼻水垂らして泣いているんである。息子に会いたい、と。
この、息子に会いたがる李さんに説得力が今ひとつないのが、最大の問題なのかも。
いきなり鼻水垂らして泣かれてもなあ、という。ほっんとうに、いきなりなんだもん。
それも彼、息子と暮らしたこともないのに、刑務所に入った途端、そんな感情が、しかもこの場面でいきなり湧き上がったわけ?そう、この場面でいきなりよ。なぜ踊りの撮影で、息子に会いたいから踊れない、になるのかが判らない。
まあ、剛一が息子のために撮影に来た、という話を聞いたからかもしれないけど……彼がその事情を聞いた過程は描かれないし。

まあ、んで、またしても撮影は頓挫。しかしやっぱり諦めきれない剛一は、それじゃあ李さんの息子を連れてきて会わせてあげようじゃないか、と決心する。
これもねえ……寡黙な健さんだから、なんかとても高尚な決心のように見えてしまいそうになるけど、ヤン・ヤンが結局、父親に会いたくない、と泣く段を待たなくても、これってかなり余計なおせっかいだよな、とこの時点でもう思っちゃうもんね。
まあ、でも、彼がヤン・ヤンのいる、更に辺境の村に行き、更なるディスコミュニケーションにさらされる場面は確かに面白い。ここまでくると頼りない通訳のチュー・リンもいちいち剛一に伝えようとする努力をせず、彼なりのコツをつかんで、彼にはあとで通訳するから、とするもんだから、ますます剛一がカヤの外にほっとかれる図、というのも面白いんである。
しかもここは辺境も辺境だから、あのツアーガイドの女性に携帯をかけても電波が届かない。この村の村長さんも、剛一の意見が聞けないことに業を煮やして、携帯の電波が届くところまで連れてゆく。
それが、もう登るは登るは、どんどん階段登っていって、その村が見渡せるような高さの、しかし狭い屋上に皆がひしめきあって電話をかけている図はかなり面白い。

村長は、ただ難色を示しているわけではなかった。ただ、こちらの道理をこの日本人に判ってもらえるだけでよかった。ただヤン・ヤンを差し出すだけじゃなくって、自分たちがヤン・ヤンを責任を持って世話していることを、判ってもらいたかっただけだった。
かくして、村人たちは喜んで剛一に協力してくれることになり、盛大な食事会も開かれる。道にずーーーーーっと並べられた果てしない、にぎやかな宴。自分のためだけに、本当にそれだけのために、こんなに多くの人が一緒に食事を共にしてくれることに、剛一はひそかに胸を熱くする。

でも、連れて行こうとしたヤン・ヤンはひと言も喋らず、途中で逃げ出してしまう。
しかもそこは、中国の果てしない大地の、切り立った迷路のような石の谷間。追いかけた剛一ともどもあっという間に迷ってしまう。
この場面で、先の、“言葉が通じなくても……”を剛一は彼に実践するんだけど、これがどうもねえ。ヤン・ヤンのうんこする姿に、鼻をつまんでクサイクサイってやるだけで、彼の心の垣根が取れるのも強引だよなあ。
だって、うんこするとこ見られるのがイヤだって隠れてたのに、クサイクサイやられたら普通もっと怒らないか?
しかしあれ、リアルにうんこしてたように見えたけど……まさか!
「うんこしてる場合じゃないよ」という健さんの台詞にはウケたが。

一晩中、眠るヤン・ヤンを抱き締めてまんじりともせず夜が明ける。
剛一は、こんな風に息子を抱き締めてやったことがあっただろうか、と思う。
オチバレだけど、この時に健一は死んでしまっていたわけで、これから生きてゆくヤン・ヤンに息子を重ね合わせているわけなんだけど……。

ヤン・ヤンがまだ父親と会う心の準備が出来ていない気持ちを汲んで、剛一は彼を置いて旅立つ。
その帰り道、健一の嫁から電話がかかってくる。ずっとかけ続けていたのに、かからなかった。彼が死んだんです、と。
その前の晩、めずらしく機嫌が良かったという健一は、父親に手紙を残していた。
あの時追い返してしまったことを後悔していること、今、会って話がしたいこと、そして……。
剛一は途中、車を止めてもらう。そしてガイドやチュー・リンに背中を向ける。
男はどんな時でも毅然と、涙を流さない。
流す時は、人知れず、背中を向けてひと筋だけ、ってなことを健さんは見せてくれるんだけど、彼なら確かにそうだろうなと思うんだけど、今の時代、それ自体に説得力を持たすのはなかなか難しいな……と感動的になるはずのこの場面を見つめつつ思う。
死に際に、会話も交わせずに、その息子の死を見届けられずに、嫁は絶対に会わせたかった筈なのに。それが叶わなかった。それを観客に納得させるだけの説得力という点で難しいのだ。
その時一緒にいたヤン・ヤンに、死にゆく息子を重ね合わせていたわけだが、先述のように、二人の間の気持ちの交流はあまり伝わらない。
ヤン・ヤンが剛一の乗った、走り去る車を追いかけるシーンだけでは、ちょっと、ね。
ヤン・ヤンの中には、父親への葛藤がもっともっとあるはずなわけ。子供だけ作って母親を捨てた形になる父親、それはもっともっと想像を絶するもののはずなんだもの。
そんな、キレイなもんじゃ、ないと思うよ。

剛一は、再び刑務所を訪れる。今度こそは歌をお聞かせしますと、李さんはじめ、待ち構えているんだけれど、剛一は、今日はそんなつもりで来たんじゃない、と言って見せたのはヤン・ヤンの写真。
デジカメからつながれた、テレビに次々と現われるヤン・ヤンのさまざまな表情に、李さんはもちろん、他の受刑者も皆泣いている。
うんこのシーンは笑いが出るかなと思ったけど(と、思う私が浅はかなのか)、そのシーンでも皆泣いている。
李さんは、ぜひ、「単騎、千里を走る。」を撮影してくれと言う。健一さんに見せてくれと。剛一は、健一が実はもう死んでしまった、とは言わずに、黙ってカメラをすえる。李さんと、そして受刑者たちが剛一のために、そして健一のために舞っている姿をただただじっと……撮影している。

健一は、「単騎、千里を走る。」にこだわっていたわけじゃなかった。ただ李さんに気を使ってそう言っただけだった。そう健一の嫁から告げられても、彼には健一に対してするべきことがこれしか見つからず、そして彼が死んでもなお、全うして、物語は終わる。
なんかでも……本末転倒な気がしてしまう。つまりこの撮影をする決心をしたのは、それを持って息子と話せるんじゃないかと思ったからじゃないの、って。こんな即物的な言い方するのはイヤだけど、息子が死んじゃったら、意味ないじゃない、なんて。
そりゃ息子自身も彼の嫁さんも、お父さんがそれを撮りに中国に行ってくれたことこそが心を動かしたというけど、それでも、手紙にあるように、実際に言葉を交わさなきゃ、伝わらないことっていっぱいあるじゃない。
健さんのキャラだからそういうストイックな切なさが成立するけど、正直時代錯誤だし、逆に健さんのキャラを使ってそうして逃げた気がして仕方ないんだな。

それに、先にも書いたけど、どうしてこの親子に仲たがいが発生したのかがね、判んないから。
健一が最後に残した手紙には、母親の死によって、父親はへんぴな漁村に引っ込んだ。それを彼は逃げたと思った、と記してあるけれど、剛一の述懐じゃそれだけじゃなく、彼は息子を傷つける言葉を言ったんだというんだもの。そんな風に投げられて、気になるじゃない。
それを明らかにしないのも、逃げのように感じるなあ。すべてを高倉健の寡黙なキャラに丸投げしてしまって。

歴史的な、友好的な映画だということは、判るんだけど、どうもそんな色んなことが気になっちゃって。
でもやっぱり健さんだけが、中国や韓国の、日本に対する嫌悪感を取り除いてくれる唯一の役者、スター、男、であるんだね。
健さんが、そこまで中国で知られているとは知らなんだ。しかも彼が有名になったという「君よ憤怒の河を渉れ」なんて、知らんなあ。
佐藤純彌監督ってのが微妙な線だけど……。

それにしてもさ、イーモウ監督と映画を作ってるっていう情報、一時もれたりしても、否定したりしてて、なんでそんな隠す必要があったのかなあ。★★☆☆☆


団地の奥さん、同窓会へ行く
2004年 64分 日本 カラー
監督:サトウトシキ 脚本:小林政広
撮影:広中康人 音楽:山田勳生
出演:佐々木ユメカ 川瀬陽太 向井新梧 風間今日子 小林節彦 古館寛治 下元史朗 清水大敬 女池充 伊藤猛 間宮結 本多菊次朗 華沢レモン

2006/5/21/日 劇場(ポレポレ東中野/R18 LOVE CINEMA SHOWCASE Vol.1/レイト)
タイトルは奥さんが同窓会に行く話だし、実際そっちのエピソードが半分を占めているんだけど、実は重点が置かれているのはピンク映画界の内幕の告発であり、これがやたらと切実な上に面白くて、すっごい興味シンシンで観てしまう。
だってねー、役名からして川瀬陽太氏演じるのがまんま川瀬という男だし、その他にも役名と役者の名前がシンクロしてたり、劇中撮影スタッフの中に実際の監督がいたり、監督が「イマムラ君も主役を降ろした」なーんていう台詞は……イマムラ?いまおか監督のことだったりして、まさか……などと、なんかミョーに生々しいのよね。
三日で上げなきゃ赤字のピンク映画、そこまでは何となく聞いたことがあったような気がするけれど、ヒロイン(だよね)のギャラが8万!?そ、そんなに安いの!そりゃ数こなさなきゃとてもやっていけない……ピンク映画というものがイロモノとして見られ、女の子が手っ取り早く金を稼げるエロビデオとさして変わらないようなイメージを持たれている側面がなきにしもあらずだけど、やっぱりここに関わる人たちは、こんなアゼンとするような安いギャラの中で、芝居をしたくて必死に頑張ってるんだという、痛々しいほどの現実を目の当たりにする。

一方で男優のギャラがどの程度のものなのかちょっと気になったりもしたんだけど(笑)。ここでの主人公は川瀬氏だからねえ……。
彼はピンク映画のトップ俳優だから、その彼がピンク男優を演じるということ自体に非常なリアリティがありつつ、ここでは「役者やって、しかるのちは有名芸能人になり、カネを稼ぎたい」と夢見る男である。しかし一方でピンク男優をやってまだ間もなく、現場では監督のOKが全然出ない、という役どころなんである。
……何かね、なんつーか……切実なのよね。川瀬氏は本当にイイ役者だと思う。野性味も色気も独特で、その魅力はピンクのエロさに非常に貢献しつつ、その一方でさすが数こなしてるだけあって上手いし、存在感も圧倒的である。
だからね、彼、一般作品に呼ばれたって全然おかしくないと常々思ってたから、いや誰か呼べよ!ぐらいに思ってたから……この設定は、なんかもう、ホント切実なわけ。彼のようなトップ俳優でも、やっぱり安いギャラで数をこなしていっぱいいっぱいなのかなあとか、いらん想像などしてしまうからさ……(この辺のギャランティの差とかまではさすがに描かれないが)。

で、彼は劇中で佐々木ユメカ姐さんをヨメさんにしており、多分このヤクザな稼業(言ってみればね)に足を踏み入れる前はマトモな職についていたと思われるのね。
というのも、このヨメさんがピンク男優なんて儲からない仕事を始めたことに賛成してない風で、さっさと辞めてほしいと言っているから。「憧れだったんだよ」と言う彼に「ピンク映画の男優が?」と冷ややかに返すんである。彼は「役者がだよ」と少々ムキになったりする。
彼はそんな夢を語り、その足がかりとしてピンク男優に足を踏み入れたようである。で、彼は主演映画の撮影に意気揚揚としているのだけれど、これも多分……劇中の彼にとって初の主演映画なんじゃないのかな。

しかし、撮影の前になるとなぜかビンビンに興奮してしまう彼、朝ヨメさん相手に一発抜いてから撮影現場に臨むと、それを見透かされたように、いっくらやってもOKが出ないの。
実際、助監督には見透かされてしまった。「川瀬さん、今朝一発抜いたんじゃないんですか」「……二発」「撮影の前にはダメだって言ったでしょ。あの監督、画面には映らない部分を大切にする人なんだから」
一見かなりバカバカしい会話に見えて、これはピンク“映画”であり、芝居なんだということを主張しているわけなんだよね。汗だくになってピストン演技を繰り返す祐司(川瀬氏の下の役名ね)に何度もNGが突きつけられ、「カット!もう一回」と言われる度に、女優の上に四つんばいの彼がガックリと肩を落とすのがまさにそのものでさあ……。

監督は業を煮やし、ついにはホンバンでやると言い出す。これも、皮肉よね。監督は「20ぶりのホンバンだ、愛のコリーダだ!」(笑)と大ハシャギだけど、リアリティを追及するあまり、エロビデオモノに落ちたようなものなんだもん。それも役者の芝居のリアリティを信頼できなくなって、である。
一方女優は納得いかない。ただでさえ安いギャラなのにホンバンなんてとゴネ始める。
「ホンバンで女優はギャラが吊り上がるんですよ」と助監督が祐司に耳打ちする。「男はキモチイイですからね」「女は気持ちよくないのかよ。おんなじだろ」「違うんですよ」ここで助監督の言う「違う」という意味は、女の思う意味とはそれこそ違う気もするけど……まあそんなこんなで場は頓挫してしまう。
ここで、女優の文句にひたすら平身低頭して「もちろん……そうなんですけど」としか言わない彼女のマネージャーが、帰ろうとする彼女を引きとめようとして蹴り出され、なんと二階の窓からダイブしてしまうシーンの唐突さにはギョッとして大爆笑!バッと画面が切り替わって外からの絵になり、一軒家の二階からガラスを破ってマネージャーが飛んで来るんだもん!こういうナンセンスなギャグを唐突に入れてくる変化球がたまらないっ!

ホンバンなんて聞いてない、それならギャラを10倍に上げろと、監督は女優に色仕掛けで責められるんである。
「80万でヤレるわけじゃないし……」「ヤってもいいのよ。私、監督のこと好き」「えっ……」てなわけになっちゃう。
しかし女優とヤッちゃったことで満足した監督は、もうホンバンでリアリティを、とかいう意気込みさえ頭から吹っ飛んじゃって、もうテキトーにこんな撮影すましちまおう、当然ギャラが10倍なんて話はチャラだ!と豹変、投資損の女優は呆然、そしてビンビンに勃たせて待っていた祐司もアゼンなんである。
正座して待ってる祐司の股間に目をやった監督と女優が、あっと驚くのには思わず爆笑。

あんなに何度も何度も頑張ったのに、今度はテキトーに流した芝居でOKを出してしまう監督に祐司はキレる。
「作品は監督だけのものなんですか。役者やスタッフ皆で作り上げるもんなんじゃないんですか。監督が女優とデキたとたん、こんな手抜きの芝居でもOK出すんですか」と熱くくってかかる彼に、「役者は与えられた台詞を言ってりゃいいんだよ!」と断ずる監督。
祐司はもうガマン出来ず、「俺、降ります」とその場を去り、代役を指名された助監督も「ボクも降ります。もうあなたの下では働かない」と去り、他のスタッフも続々と去っていってしまう。残された監督「作品は監督のものだろ!」と叫ぶも、虚しいばかり。
帰り道、「……あの監督好きだったのに」と祐司が泣きながら商店街を歩いているのが、カワイイというか可笑しいというか切実というか、なんか妙に胸に迫ってしまうのよね。

一方、その頃奥さんは同窓会に出席している。昼間の同窓会という時点でオヤと思ったが、行ってみたら4、5人しか集まっていないありさま。しかも予算を抑えるためにコーヒー一杯というショボさに彼女はゲンメツして思わず泣き出し(夫婦して泣いてる(笑))、飛び出してしまう。
しかしそこに現われたのが、彼女がお目当てにしていた当時の恋人の真悟だった。一人だけラフなカッコをしている感じからも察せられるけど、当時からガキ大将的な役回りだったらしく、盛り上がらない場を仕切りだして、気弱そうな元同級生になんかやれよとどつく。

と、そいつ、明子(ユメカさんね)に視線を移し「じゃあ、彼女を犯します!」はあー!?驚く明子に猛然と迫り、ひんむいて、テーブルに押し倒してヤリだしちゃう……って、なんじゃそりゃー!!
ここ、微妙なのよ、明子の反応が。デブデブな男だし、見る限りそんなに暴力的にムリヤリじゃないの。全然、逃げ出せる程度の力加減だって判るんだよね。でも彼女、一応抵抗の形は見せるものの、それがなんともあいまいで……なんか真悟の方に視線が泳いでるのよ。
真悟が指示したことだし、そして彼に会えたことは嬉しいし、そして彼には嫉妬してもらいたいし……そんないろんな思いがないまぜになっているような。このユルユルの“レイプ”ショーに、同級生たちはなんとなく引いて見守っている感じといい、こんなシーンがオフビートになってしまうあたりがさすがといおうか。

じっと経緯を見守っていた真悟は突然激昂して、「明子はオレの女だ!」とこのデブ男をテーブルから突き落としちゃう。画面から見切れるデブ男(笑)。
そして散会、真悟と明子はホテル街を歩いている。「ちょっと休憩しようか」「喫茶店で?」「この辺に喫茶店なんかあるかよ。ラブホテルだよ」「本気?」「本気なわけないだろ。遊びだよ。お前だって久しぶりに俺とヤリたいだろ」「……愛はないの?」「え?なんだよ、お前口の中でモゴモゴ言ってて聞こえないんだよ」
そんな会話を繰り返しているものの、結局はホテルに入ってしまう二人。でも明子は愛のないセックスはやりたくない、と直前になって帰ろうとする。

しかし真悟、彼女を引きとめ叫ぶのだ。「俺はお前を愛してるんだよ。女房とは別れる。子供も向こうに引き取らせる。それぐらい、お前を愛してるんだよ」
その言葉にノセられて慎吾に抱きついた明子、狭い玄関スペースで二人、やりにくそうに絡み合いながら、あっという間に達してしまう。
「欲求不満だったのかな、凄く早かった」「俺も」「新記録」
そして二人して爆笑する。「一回きりの、遊びにしよう」
そして街を歩く二人、明子はそれでも名残惜しそうに、いやもしかしたら自分の気持ちを振り切るための念押しだったのかもしれない。
「また、会えたりしないよね。携帯のメールアドレス、教えてくれたりしないよね」
否定形で聞くあたり、そんな複雑な心の駆け引きが見え隠れする。真悟は首を振り、でもそんなこと、判ってた。二人は最後のキスを切なげに交わして力強く抱き合い、そして別れるのだ。

かつての恋人、ひょっとしたら初恋だったかもしれない彼との、こんな一回きりの再会。セックスの前の台詞はヤルために発せられただけのもので、つまりはここでも芝居が繰り広げられるんだけど、でも心のどこかに、そんな風に全てを捨て去ってしまいたいと思う気持ちは確かにあって……。
そういえば冒頭、夫の祐司に一発抜かせてやった明子、つまりはそれは抜かせてやっただけの話であり、明子の台詞にある「愛のあるセックス」などではなかった。
撮影の前だけ、朝のほんのつかの間だけヤル気になる夫に「最近、全然じゃない」と皮肉のひとつもぶつけていた明子。
でも、夫婦仲が上手くいってないわけじゃない。夫の儲からない仕事に不満はあるけど、彼の夢は応援してあげたいと思ってる。真悟に夫のことを聞かれた明子は、「いい人よ」と言い、そんな不満は一切口に出さないし、こんなところで遊びのウワキをしてみても、夫のことをちゃんと愛してることが判るのだ。

家路に着こうとする祐司が、公衆電話から家に電話をかけている。「まだ、帰ってないか……」しかし振り返った彼の後ろ、電話ボックスの外に、まるで泣き出しそうな顔をした明子がいる。しばし見詰め合う二人。それぞれの現場からそれぞれの思いを持ち帰ってきた二人の思いが交錯するイイシーンだ。
彼は役を降ろされたことを話す。「今月末の振り込みは出来ないわね」と明子。「バイトするし、来月まとめて払うさ」その彼に笑顔でうなづき、「私もがんばって働く。あなたの夢を応援する」二人笑顔で商店街を抜けてゆく。

その後にね、祐司に、あの時の助監督から自分のデビュー作の主役をやってくれないかという電話がかかってくるのね。
あの時、監督からこの業界を追放だ、と言い渡された祐司だったから躊躇すると「知らなかったんですか、彼死んだんですよ。あの時から三日に一度は透析受けてましたからね」
つまり、あの監督はそんな命を削った状態で撮影をしてて、女優の色香にちょっと足を踏み外しちゃったけど、それも人生最後の花だったと思えば、なんか憎めなくなっちゃうんだよね。
ピンク男優をもう一度やってみようと思うんだけど、と言う祐司に明子は「いいんじゃない。今出来るところから始めなきゃ、先はないもの」と返す。
その台詞には、ピンクの監督、ピンクの役者にとどまらないその先、ということが言外に含まれているとは思うんだけど、なかなかそうもいかないというあたりの皮肉(というか悲哀)もやはり同時に感じるのね。
ラストは祐司の主演復帰、集中した芝居で撮影をスピーディーにこなしていくスリリングな現場が描かれ、その脳裏で「こつこつ、こつこつ……」という彼のつぶやきがひたすら繰り返される。

なんか本当に……切実に感じちゃう。確かにピンクにはこんな風に傑作が数々あるけれど、決して一般に広く受け入れられているわけじゃない。川瀬氏やユメカ姐さんもそうだけど、ホントに一般作品に抜擢されてもいいと思っちゃうだけに、そして監督さんたちにももっと一般映画へのチャンスがあってもいいんじゃないかと思うだけに(経験もない新人監督を一般デビューさせて金を使うぐらいならさ!)、ホント、切実なんだよなあ。★★★★☆


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