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「そ」


2007年鑑賞作品

象の背中
2007年 124分 日本 カラー
監督:井坂聡 脚本:遠藤察男
撮影:上野彰吾 音楽:千住明
出演:役所広司 今井美樹 塩谷瞬 南沢奈央 井川遥 高橋克実 白井晃 益岡徹 手塚理美 笹野高史 伊武雅刀 岸部一徳 小市慢太郎 久遠さやか


2007/11/20/火 劇場(錦糸町TOHOシネマズ)
原作が秋元康だと聞いて漠然と抱いていた危惧が、ある種完璧な形で目の前に展開されたような気がした。
別に彼の著作を読んだこともなければ、人となりを知っている訳でもないんだけど……なんとなく、偶像化、虚像化としての女の子文化を作ってきた彼なら、自身の“男としての幸せ”を、なるほどこんな風に語るかもしれない、と思って。
加えて、それを手がけるのが井坂監督だというのもちょっとどうだろう……と思ったのは事実で。彼はデビュー作こそ驚かせてくれたけれど、それ以降は正直パッとしないどころか、ちょっと憤りを感じるような作品さえあって、彼の名前で足を運ぶ気がさらに遠のいたのは事実。

でも本作では、監督の力はどの程度及んだのだろう。彼は何となく、ある種何かに忠実であるという点では、職人的な監督であるのかもしれない。そのデビュー作はほぼ全権を握っていたカメラマンに忠実で、それはテーマを見事に表現する手段だったからこそ成功したのだけれど、明らかに矛盾やおかしさのある脚本にもいつでも忠実なことが、どうにも首をひねってしまう作品の数々を生み出したように思う。
で、今回なぜ井坂監督がメガホンをとることになったのかは判らないけれども……そのセンでいくと、その忠実さが、秋元氏の意向を逸脱しないという働きを示すからなのかなと思ったぐらいなのだ。

藤山幸弘、48歳、働き盛り。大学生の息子と高校生の娘を持ち、マイホームも手にしてる。しかも美しい愛人、悦子までいる。
仕事でも長年手がけたプロジェクトが実現に動きつつあり、充実した人生を送っていた筈の彼に、末期の肺ガンという唐突な悲劇が襲いかかる。
半年を目安にしてください、と医者は言った。見込みのない手術をしてその半年間病院でパイプにつながれることには、彼はなりたくなかった。
ただ、家族をイタズラに哀しませるのもイヤだった。長男一人にだけその事実を告げ、そして彼は人生を悔いなく全うしようとする。
初恋の人に伝えられなかった思いを告げ、ケンカしたまま30年も会っていなかった友達と仲直りし、そして仕事の後任に長年自分の下で頑張ってくれた部下を推薦した。 家族が不自由なく暮らしていける金を工面するために、勘当同然に出て行った実家にも顔を出した。
発つ鳥跡を濁さず。しかし彼の身体は急速に病魔に蝕まれてゆく。もう家族に隠すことさえままならなくなった。そしてホスピスへ。

新聞連載の当初から、賛否両論を醸したというのはどのあたりなのだろうか。それはやはり、彼が治療を拒否して生きる望みを断つ部分なのか。
最先端の治療を施せば、どんなに絶望的と思える末期ガンでも、ひょっとしてひょっとしたら、治るかもしれないと願うのが普通……と、思っていたけれど、それは違う、と秋元氏が一石を投じた部分なのか。医療にすがるのは死ぬことによって生まれるあらゆる利害(それは哀しみという感情も含めた)を緩和するという、周囲の勝手な思い込みなのか。
確かに、藤山が治療を拒否し、つまりいくつもの管に繋がれたパスタ状態になってただただ生ける屍となるのを嫌がる気持ちは、劇中にも出てくるホスピスが誕生したゆえんでもあるし、判る。
判る、なんて言ってしまうのは、いけないのかもしれない。自分がそんな状態になったこともないのに。でもそれは、原作者も同じだろうと心のどこかで思う気持ちが、どうにも小さな反発心を起こさせてしまう。

いや、秋元氏は、きっともっと大きな視点で見ているに違いない。死ぬなんて、ある意味人間の最大のイベントなのに、医者や病院の、手術数の成績やなんかのエゴで出来る限り生き長らえさせられる。
つまりサムライが生き恥をさらされるようなもんであり、そして家族も、せいいっぱいやったという満足感を得るために、「一分でも一秒でも長く生きて」ほしいと願う。

この台詞は劇中、主人公の奥さん、美和子が発したものであり、その涙ながらのセリフはそりゃ、愛する夫が死に逝く運命にあり、しかも彼は治療を拒否しているってんだから、そうも言いたくなるだろうとは思う。
だけど、この台詞の前には「私のために」という言葉が密かに隠されていて、それが証拠にこのシーン、彼女が号泣して盛り上がったところでカットアウト、にはならないのだ。
久しぶりに一緒のベッドで、夫の胸で泣きながらこのセリフを言ってひとしきり泣いて、フェイドアウトするところまで見せて、一瞬、白けた空気が流れる。
そして、「私に手紙を書いてください」と言うのだ。自分も書くからと。それって、夫に遺書を書けと言っているってことで、悲しみの感情がこの程度で途切れてしまうことにも呆然とするし、ああでも、人間ってこの程度なのかもしれないな、って思う。でもシニカルに感じたシーンはここぐらいだった。

藤山は病気を告げられた時、一応は呆然とする。冷静沈着で知られた彼が、指示を仰ぐ部下に「自分で考えろ!」と怒鳴ったり、若者言葉に「っす、ていうのはイイカゲン、やめろ!」とキレたりする。
そして自分が生きているうちにと結果を出すことに焦り、同期の同僚はどうも様子がおかしいことに気づき始める……つまり、藤山がどう隠そうと、結構周りは気づいちゃうんであり、妻の美和子だって「ホントは気づいてた。認めるのが怖かった」と言うぐらいなんだもの。
でもそのことが、藤山を気遣い、助ける方向にばかり徹底するってのが、そんなに上手く行くもんかなあ……と思っちゃうのはアマノジャクなんだろうか。藤山のプロジェクトを他部署の同僚が会社側を説得する発言でサポートし、妻が愛人の存在にさえ彼を問い詰めることなく目をつぶるなんて、そんなことあり得るんだろうか。

そうなのだ。これってさ、男の夢っつーか、幻想っつーか、ファンタジーっつーか。ここまでやられると正直気持ち悪いっていうかさあ。役所広司のマジ演技でやられたら……当然体重も落として、顔色も真っ白で、ホントに今にも死にそうだし……、そりゃウッカリ納得させられそうになるけど、でもさすがに、中盤も過ぎてくると、どうも都合が良すぎるよな……という思いを消しようもなくなってくる。
「久しぶりに一緒のベッド」で判るように、まあ夫婦もこのぐらいの年数を経れば、仲が悪いというわけではないけどソウイウ方向には倦怠期を覚えてきて、男は外に女を作るわけなのよね。
奥さんに今井美樹なんていう、20年ぶりのスクリーン登場とはいえ、とんでもねーべっぴんさんを持ってきていながら、外に愛人を作りやがり、しかもそれが井川遥だなんて、なんとゆー、ゼータクなんだ!!!

でもまあ、以前の私なら、若さゆえのケッペキでキャンキャンと憤っていたと思う。躾の出来てない犬みたいにね。男ばかりが浮気を許されるなんて!とね。
しかも死ぬ間際、妻が献身的な看護をしているホスピスに愛人を呼びつけるなんて無神経極まりないことを、男の夢として臆面もなくやってるわけでさ、もっともっと以前の私なら怒っていたと思う。
まあ、ムカつく思いがないわけじゃないんだけど……ただ、やっぱり男と女の生理は違うんだなというのは、いい年になるとなんか感じてくるものもあって、男ってのは、妻とは違う種類の愛情を、しかし同じ針の振れ幅で愛人にも注ぐことが出来る羨ましい生き物なんだろうな、っていう……。
そもそも、愛人という言い方自体が古いのかもしれない。ひょっとして父親に他に女がいるのかも、と直感した娘が言う台詞は、「お父さん、ひょっとして彼女いるの」だったし、今はやっぱりそこまでの罪の意識はないのかなって感じがする。
いや、でもそれこそ、脚本の、あるいは原作の段階での、男側の勝手な言い草なのかもしれないけどさ(ナントカ反駁)。

しかし、そこまではなんとか譲歩出来ても、その男の論理に対して、日陰の身(この言い方も古いよなー。とことん、古いな、私……)である愛人も、そしていわば何年も夫に欺かれてきた妻も、何か心に飲み込むところがありながらも、ただ黙って頭を下げ合うだけで終わるというのは、もうここまできたら、ヒドいファンタジーだよな、と思うんである。
愛人と妻のどちらかが、理解ある女性である、というのはあり得るかもしれない。でもそのどっちもがあうんの呼吸で、同志みたいな顔して頭を下げあうなんて、そりゃいっくらなんでも男の幻想すぎるって……。というか、時代劇っぽい?だから古いっていうのよ。

そりゃね、こんなところをベタな修羅場にするなんてのもイヤだわよ。それこそ昼メロチックなステロタイプだとは思う。
じゃあどうすればいいのかって言われたら困るけど……うーん、でも、この決着のつき方ってさ、男が、あの二人ならまあこの程度で終わるだろう的な予測をしていたって思惑、つまり原作者の秋元氏が、妻や愛人はこういう慎ましやかな(つまり、余計な口を出さない、自己主張をしない)女がいいなと思っていることがアリアリでさ、さすがにムカッとくるわけよ。
そりゃ、こういう場面でガーガー言う女はみっともないと思う。そうはなりたくない。特に外の女にそれをやられた時の興醒めっていったらない。これまでの昼メロ系映画にはそういう場面は結構あって、アンタ、そこまで覚悟してこの男と付き合っていたんと違うんかい、と突っ込みたくなってしまうのも事実ではあるんだけど。

でもそれでも、ホスピスに愛人を呼ぶなんてヒドイルール違反だよね。藤山からの携帯電話に出た悦子は、顔を見たい、と言う彼に「行かない」と潔く言って電話を切ったのに、やってきた。行かない、と言い切った彼女に、それでこそ愛人のカッコ良さ!と思ったのに、やってきちまった。
げっ、みっともない、と、そんな生ぬるいことを思ってしまった自分につくづく甘さを感じてしまったけれど、でも結局彼女がやってきて妻と対峙するシーンは、お互いがお互いの存在を認識するために設けられた場に過ぎない。
つまり妻が愛人の存在を“許容”して(もちろん、彼の勝手な解釈)、彼が大切なものを何ひとつ犠牲にすることなく、人生を全うしようなんてことが可能だと思っているってコトなんである。

まあ、この男の都合の良さ、自分勝手さには、劇中、一応触れられてはいる。彼は人生の思い出の人達に会いに行く。初恋の相手(手塚理美、太ったな……)、ケンカしたまま別れてしまった友達。
そうした、自分の人生を全うするために会いに行く人達に、自分が近々に死ぬことをわざわざ告げて相手を動揺させるのがまず解せない。
あまりにヤボじゃないの、そんなこと。言う必要ないじゃない。だって、あまりに相手が決まり悪いだけじゃん。それで死に逝く自分のカタルシスが満たされるのか……「もう、死ぬんだから皆に自分の思い出を刻んでおきたい」ってことなのか。
悪趣味だとは思うけど、なんせ死にそうになったことがないので、そう思うかどうかなんて判らず、今こうして悪趣味だと思ってしまう方が、ヤボなのかもしれないけど……。

ただ、野球部時代のケンカ別れした親友、佐久間と会うシーンは、その相手である高橋克実氏がまた滋味のある演技をするので、ちょっとイイなと思っちゃうんである。
酒屋を継いだ佐久間は美人の奥さんをもらっていて、「意外だったな」と藤山は笑う。「お前、老けたな」「どこ見て言ってんだよ」その軽口は、勿論高橋氏のハゲ気味の頭に対することであって(笑)。
二人のけんかの原因は、ロックバンドの雨の中での野外コンサートが生だったか録音だったかという、ささいなことだった。それで取っ組み合いの大ゲンカ。いかにも男の子。
「葬式ではケンカの原因、言わないでくれ。俺もひとつぐらい、秘密を持って死にたい」そんな藤山に、殊勝な顔して佐久間は頷く。そして藤山にそのバンドのレコードを送ってくるんである。懐かしそうに一人部屋でヘッドフォンで聞いている藤山……。

藤山の会社が潰した小さな会社の社長、高木と病院で偶然出会うというエピソード。高木の方は奥さんと離婚して子供にも会えず、しかも胃がんを患って、もう余命いくばくもないんである。
その彼に、藤山はなんと言うことも出来ない。自分もまた余命いくばくもないんだ、なんてことも言えない。そりゃそうだ。藤山は体力のギリギリまで働いて、同僚の尽力で自分の育てた部下に後を任せることが出来たんだもの。
高木には一発殴られるだけで済んでしまう。しかもそれは、確かに藤山が言うように、それで彼を許してくれたってことなんである。そりゃ雨の中土下座までされたら、こんな“優しさ”を発揮するしかない。

しかしそれをしみじみと告げるのが、真っ直ぐに向かった愛人の家でだってんだから。悦子の膝の上で、氷で冷やされてしみじみと言うんだから。幸せな男だ、あり得ないぐらいに。大体病気のことだって、妻はもとより、長男よりも先に、真っ先にこの愛人に告げているってんだから。
ていうか、やっぱり恋人っていう感覚なんだよね。完全に家族から切り離されている感覚。「君を守ってやりたいと思っていたが、出来なかった」「守ってよ」という甘ったるい台詞の応酬に、う、ウザイ……と思ってしまう私はもはやロマンティックから見放された女だからなのか。
でもさ、一人で生きている女のカッコ良さを井川遥に託しながらこんな台詞が出てくるなんて、それ自体が私には理解不能だよ。

それにさ、奥さんも子供も彼の遺志を尊重し、ホスピスに寝泊まりして(つまりあれ、学校休んでるよね)最後まで看取ってもらえるんだもの。あり得ないよ、あんなこと。それに対比する孤独に死んでいくであろう高木の状況は極端かもしれないけど、でも極端といったら、藤山の方が夢のように極端だ。
大体、長男だけに告げる場面、「男同士の秘密だ」だの、「お前は長男だ。だから俺と一緒に背負ってくれ」だのという、あまりに時代錯誤なマッチョな言葉には、いささかボーゼンとしてしまった。
いや、それだけなら男が人生で言ってみたい言葉って訳で、まあ許してやってもいい(笑)。でもその価値観に巻き込まれる奥さんが、あまりにバカにされすぎてる。
愛人の存在を夫の死ぬ間際に悪びれもせず知らされ、病気のことを妻の自分ではなく息子に知らされた美和子が、そのダブルショックはいかばかりかと思われるのに、それを作り手である秋元氏や監督がどこまで判っているのか、結局は奥さん(と娘も)はやけに物分かりがよく、「また男同士で内緒話?」などと、30年前の青春ドラマかよ!てなセリフを恥ずかしげもなく吐いてくるんだから唖然としてしまう。

大体、こんな娘だっていないよ。だってこのお父さん、仕事仕事で帰ってくるのが遅い毎日だったんでしょ。子供たちが、もう帰ってたの、と驚くような。
そんな毎日を過ごしていて、あんな友達みたいにお父さんに接するとはとても思えない。私だって忙しい父親を持っていたから判るもん。反発まではいかないまでも、よそよそしい雰囲気を持つに決まってる。分かり合えるのなんて、父親が働き盛りを過ぎて落ち着き、子供が大人になってからだよ。
しかも、思春期だよ?あんな、お父さん、大好き!みたいなオーラを出すとは絶対思えない。キモチ悪いよ。それじゃ休日やなんかはマイホームパパになるのかと思いきや、「去年も(チアリーディングの)大会、見てあげられなかったんですから」という妻の台詞で、やはりそうではないことが明らかにされるしさ。
父親が倒れて、どうやらその病気がヤバイんじゃないかということ、家族みんなが知っているのに、私だけが知らないんじゃないの?と、長男は、「半べそかかれてさ、参ったよ」と言う。ま、塩谷君は最近なかなかイイ仕事をしているのだが。
女をのけものにしようとするからさっ。それが彼女のためなんて言われて納得できると思ってるあたりが、男のアホさ。見下してるんだよ。

しかし、この娘がどうやらそんな家族の思いを悟って、明るく振る舞って知らないフリを通すっつーのが、また理想入り過ぎで。優しい子、理解ある子を持ちたいという父親の願望がアリアリ。
ていうか、そもそもこの娘の、父親に対するラブラブな態度って、思いっきり願望入ってるよねー。だって、死ぬ間際には、大会が見られない父親のためにホスピスの浜辺で、一人チアリーディングを披露すんだぜ?
んでもって、「お父さん、死なないで!」と走り寄って抱きついて泣くだなんて。あり得ない。絶対、あり得ない画だ……さすがにこの画に感動することは出来ない。
いくら役所広司が真っ白な顔に真っ赤な目で充血して、ホントに今にも死にそうな有様であっても。見ているだけで苦しそうになる、治療をしないままのガンの演技にはさすがに圧倒されるにしても。

しかもその上、愛人に骨を残すだと!?アホか!自分の理想を貫き通すにもほどがあるだろ!
まあ確かに死ぬ時ぐらい、自分の思う通りに整えて死にたいというのは判らなくも……ないけど……ムリがあるでしょ。まあこれまでの経過で、男が望む死に際を、ワガママ承知でやろうとしているのは感じてたけど、それにしても……。
でも、つまりそういうことなんだよね。死んでしまえば、もう自分には何も見えないんだから、思う存分、理想を尽くしたいと思うのは当然の権利なんだよね。
あ、そうか、これは権利の映画なのか……とは思いつつ、こんなん、残された家族にとってはたまらない。でもそれこそが、家族は生きているから、これから生きていくんだから、っていうワガママな論理だということに気づかされもする。
死ぬ人は、そう、死んじゃうんだから、そんな人にまで、これから生きる人のワガママを押し付けるなんて、確かにただのエゴイズムだ。でもそんなことを、それこそこんな男のワガママで諭されるなんて、悔しい。納得いかない。

しかしこの申し出にはさすがに、彼のお兄さんがいさめる。しかし奥さんの美和子が、藤山の仲違いした両親の仏前に毎年手を合わせているという、あまりといえばあまりの浪花節エピソードを持ってくるのにはゾッとする。それで懐柔したつもりなのかお兄ちゃんは、「その(骨の)件は、俺がナントカするから」と、家族たちに知られる愚行だけは避けることになるんだけれども……。
疎遠になっていたこの兄弟、ホスピスにお兄ちゃんが見舞いにやってくる。二人してスイカを食べる。この骨の件も含め、弟の死への恐怖をお兄ちゃんが涙ながらに受け止めるまでを、5分25秒におよぶ長回しでとらえたシーンは、何たって役所広司と岸部一徳だからウッカリ見応えがあるのが困っちゃう。(スイカに)塩かけすぎだよ、と笑い泣きする締めくくりもちょっとグッときたりして。
しかしさ、弟が口ごもった様子で「女か」とすぐに察したお兄ちゃん。しかもこの家庭、元々弟が亡き父親の後妻にガマン出来ずに飛び出したというのに、その当人が外に女囲って、しかもその女は自分の家庭を侵略しないデキた女でさ。
だからこそ自分の死に際にしれっと彼女を呼べるし、その上「絶対私、イイ男つかまえるから」などとゆー、ヘドの出る台詞を言わせるなんて、どういう神経してんだよ。
お兄ちゃんが「死にたくない」と泣きむせぶ弟に同情するシーンだけで全てを解決するつもりなのか、冗談じゃない!

ついに意識のなくなった藤山に、美和子は「もう一度生まれ変わったら、また私にプロポーズしてくれますか?」と泣きながら夫の手をとる。意識がない筈なのに彼女の声が聞こえているのか、弱々しく握り返す彼。泣き伏す妻。
……ほんっと、ほんっと、ほんっと!ただの男の幻想だよね。愛人の存在も判って、それを受け止めていると妻本人に確かめもせずに勝手に判断して、つまりそれだけ愛されてると思って、死にゆく彼にこんなこと涙ながらに言ってくれるとでも思ってんの!ていうか、言わせてるし!
だって、それまで愛人とはセックスしても、妻とはセックスしてなかったんでしょ。久しぶりに寝室に寝たってんだから。つまり、そこまでほっといたんでしょ。こういう下世話な言い方はホントやだけど、でもなんたって今井美樹を据えるぐらいなんだから、やっぱりそういうことは思うでしょ。男だけに欲求があるような、都合のいい解釈しないで!

って、私、随分判りやすいことばかりで怒ってるな、なんか笑えてくるわ。でもさ、それなら、女だって好きなように死に際を選ばせてもらうよ、って対抗がないと、フラストレーションがたまるばかりだよなー。それをやったら、男はどう思うんだろう?

惹句は、「最後まで、一緒にいてくれる人がいますか?」 ……。 
それで、一緒にいてくれると思ってんだ!甘い!
★★☆☆☆


そのときは彼によろしく
2007年 114分 日本 カラー
監督:平川雄一朗 脚本:いずみ吉絋 石井薫
撮影:斑目重友 音楽:松谷卓
出演:長澤まさみ 山田孝之 塚本高史 国仲涼子 北川景子 黄川田将也 和久井映見 小日向文世

2007/6/15/金 劇場(池袋テアトルダイヤ)
「長澤まさみが二作続けて映画で大コケ」というヤフーニュースを見かけて、ええー!と心配になって予定を繰り上げて足を運んだ次第。記事では「彼女はまだ一人で客を呼べる存在ではない」とかフザけたことを書かれていたが、とんでもない。彼女のせいなわけがない。まあそのコケたという「ラフ」は見逃したので何とも言えないけれど、本作に限ってはそんなことは決してない。
大体、役者だけでヒットする映画が決まるほど、今の観客はバカじゃない、筈。でも以前に比べればそれはホント、言えると思う。ホイチョイムービーがお気楽にヒットしたようなかつてのようにはいかない。映画の観客の目は厳しくなってきてる。観客側がいい映画、面白い映画と思うものはマスコミの反応や批評家の意見がどうであろうと客は入るし、口コミでどんどん広がるものでしょ。
じゃあ本作の客足が鈍いのはなぜかといえば、理由は簡単。この映画はヒドい。これじゃ口コミの広がりようもない。

ざっとストーリーを追ってみる。かつて仲良し三人組だった花梨、智史、佑司の三人。
智史は少年時代から水草を愛していた。そして現在、夢を叶えて水草を売るアクアプランツショップ、「トラッシュ」を経営している。雑誌に掲載されたこともあったけれど客足はいまひとつ。それでも何とかギリギリ生活はしていけた。この店は三人との約束だった。店の名前は三人で可愛がっていた犬の名前。
佑司は小さい頃から緻密な絵がとても得意だった。画家になりたかった。彼は父親に死なれた後、母親に捨てられ、孤独だった。「秘密基地」の中で、そこら中にうち捨てられたゴミの絵ばかり描いていた。そして現在、ようやく見つかったと思った母親は、その恋人と共に個展費用だといって彼から金を巻き上げ、再び行方をくらました。しかも彼は事故に遭って、智史と花梨が駆けつけた時には昏睡状態にあった。

そして花梨。彼女は三人で過ごした時から13年後、突然智史に会いに来る。智史が母親の転院のために引っ越さなければならなくなった時、花梨は涙ながらに大事にしていた本を押しつけ、そしてキスをした。ずっと智史のことが好きだった。そして今でも。
しかし、有名モデル森川鈴音となった彼女に、智史はなかなか気付かない。押しかけバイトの彼女を店の一階に住まわせ、奇妙な共同生活が始まる。しかし花梨はあの幼い頃から不治の病に侵されていた。それは深い眠りに陥ってしまったが最後、二度と目覚めることのない病気。だから彼女はその眠気を覚ます薬を服用しているのだけれど、もはや一番強い薬も効かなくなっている。もう彼女に残された時間はわずかだった……。

実はこの設定からして私は及び腰。女一人、男二人の仲良し三人組、そのうち一人が不治の病なんて、いつの時代の少女マンガだよ、と思う。花梨が「男の子みたいな態度と言葉遣い」だからさっぱりと付き合えたっていうのかもしれんが、あんなガーリーなロングヘアーじゃそんな言い様もあんま意味ないっていうか……。秘密基地、も繰り返されすぎのお約束すぎ。マトモな神経のクリエイターなら、もう秘密基地はハズかしくて使えないだろう……。そういう場を用意しても、わざわざ「ひみつ基地」だなんて判りやすく看板をつるしたりは出来ないよ、見ただけでハズかしい。

実はこの映画に二の足を踏んでいたのは、どうも首を傾げてしまった「いま、会いにゆきます」と同じ原作者だからなのだった。役者は踏ん張っていたと思う。でも物語を成立させるためのさまざまな伏線が、イコール単なるご都合主義になってしまって、すべてのナゾが解き明かされた時にはすっかり遠くから眺めてしまっていた。

本作に関しては、それが更にヒドいことになってる。素人目から見たってありえないご都合主義が多すぎる。ことにヒドいのがラストで、ずっと眠り続けて目覚めたばかりの花梨が、いきなりマトモに歩けるはずがないでしょ。ベッドに一週間寝たきりになっただけで、足の筋肉が衰えてガクガクになってしまうものなのよ。それがあんなフツーにオシャレして会いに来て、夢で(先に死んでしまった)智史のお父さんに頼まれたとか、バカじゃないのと本気で腹が立ってしまった。
いやちがう、それはちゃんとリハビリをして会いに来たんだとかいうのもこの場合通用しないのは、智史が恐らく毎日彼女の見舞いに通い続けている描写があるからなんである。百歩譲って三日あけたとしたって、ムリがある。
しかしこれ、小説とは異なるラストシーンなんだというから、そんなに原作に怒ることもないかな(爆)。でも、映画のために用意したのだとしたら、余計にヒドいではないの。

それにこのあたりから、展開が思いっきり読めてしまう。智史が花梨の枕もとに届けた、50年間のうちいつか芽が出るはず、という種が発芽したシーンを彼女が目覚める合図にするってのもあまりに陳腐だが、その後、智史が店に戻ってくるシーンが冒頭、花梨が智史の店を訪ねてきたシーンと同じカメラ角度なもんだから、もう、バレバレなの。こういうのは伏線とは言わない、伏線というのは無粋なもんじゃない。
ああ智史がこの角を曲がってふと見たら、きっと花梨があの時と同じように座っているに違いない、そしてあの時と同じ台詞を言って、しかも抱きついた彼女を一旦離した時何かを言おうとした彼に、こりゃー絶対「おかえり」と言うに決まってると思ったら本当にそのとおりで、彼女は涙を流しながら「ただいま」と言って抱きつきなおす、もう、心で唱えたとおりになるんだもん。ガックリ。
ばっかやろー、そりゃ映画はカタルシスを感じさせてナンボの部分はあるよ。でもここまで読めすぎるのは問題だし、しかもあまりにメロドラマすぎて寒くなっちゃう。

これってね、昨今の韓国恋愛モノの影響を受けているんじゃないかと思っちゃうフシがあるんだよね。量産されまくりの韓流恋愛映画に最近食傷気味なのはそのあたりにあって、純愛というキーワードを成立させるためならば、どんなにムリがあることも押し通し、登場人物を泣かせりゃ観客も泣くだろうとたかをくくってるとしか思えないんだもん。
純愛=幼い頃から思い続けてた、っていう、まあ定番のキーワードが本作にもあるんだけど、それを成立させるために、智史は花梨を思い続け、その後も全く女の匂いを彼から感じることはない。それを違和感なくするためなのか、智史はとにかくドンカンで、彼に思いを寄せるパン屋の女の子の気持ちに気づかないのは当然のことながら、13年ぶりに会いに来た花梨のことにさえ気づかないというニブチンなのだ、という設定を押し通しているんだよね。

健康な男子が小学校の初恋(多分)の女の子を思い続けて、ドンカンという理由だけでマトモな恋愛をしていないのもキモチワルイし、そんなにも思い続けてこの店を立ち上げたほどの思いがあるのに、花梨に全く気付かないのも不自然すぎる。それを納得させるためなのか、「日本人の80パーセントは知っている」という有名モデルである彼女の存在を彼は全く知らなかった、とさせるのもあんまりである。
大体さー、花梨が誕生日に佑司と智史にもらった、もうズバリ思い出のプリズムをペンダントにしていて、それを殊更に見せ付けているのに気付かないなんて、ありえないよ。だって三人で飼っていた犬の名前を冠した店をオープンするぐらい思い出を大切にしてるのに、なんで同じ三人の思い出のアイテムがすっかり抜け落ちているわけ?

智史に恋するパン屋の女の子は、彼が花梨と同居していることにショックを受けて、「一緒に暮らしててドキドキとかしないんですか?」と問うてみる。それは観客が抱く当然の疑問なのだが、智史が返した台詞はこうである。「やっぱりオレ、ドンカンなのかな……」男の生理をそれだけで片づけるのかー!!!
しかも花梨を娘のように可愛がっていた智史の父親でさえ、森川鈴音=花梨だと気づかなかったなんて、ムリがありすぎるんじゃないだろうか。

そしてもう一人の友人、佑司はどうなんだろう。地元から出た有名人なのだから、知らない方が不自然ではないのか。
しかし佑司に関しては存在自体が無意味って感じで、花梨が有名モデルになったことを知っていたかどうかさえもあっさりスルーされてしまうし、植物状態になった彼のために二人を迎え入れる恋人の桃香にしたって、花梨に対してまったくそうした反応を示さないのはおかしいじゃないの。

そうなの、塚本君演じる佑司は、本当に意味がなかった。なぜ仲良し三人組の話にするのか疑問に思うほどだった。この男二人女一人の幼なじみという図式は正直あまりに古めかしく、今更これをまた使うのかと思うほどだったし……。
「また」というのは、ほんのちょっと前に「天国は待ってくれる」があったから。あれもいちいち突っ込みたくなるありえない「純愛」だった。しかしまだマトモだったのは、男二人女一人という構成による三角関係がちゃんと成立していたからだ。
しかし本作では、幼い頃、佑司に「俺は花梨が好きだよ」と先手を打たれてしまう智史、という図式だけで、三人による思いの攻防戦が一切ない。それを、佑司が後に「俺が花梨を好きだと気付いた時、花梨はもうお前を好きだったからさ」という台詞だけで片づけてしまうってどういうことよ。そんなことで諦めてしまうということ自体がおかしいし、智史は引っ越してしまったんだから、花梨の支えは彼一人にゆだねられたはずじゃない。それなのに、その後の佑司と花梨の関係はふっつりと語られることがないのもおかしい。

二人は音信不通になったってだけで、大人になってからの佑司は実に物語も中盤になってからようやくご登場であり、しかもそれは、「(昏睡状態の自分を)花梨が救ってくれた」という、夢の中でのやりとりのためだけって感じなんである。それがラストの、眠り続けている花梨が、智史の父親と夢の中で会って目を覚ました、というシークエンスへの伏線になっているとしたって、それ自体があまりにもファンタジーにすぎる。
まあ最初からファンタジーだと思って観ていればいいのかもしれないけど、純愛にファンタジーを持ち込む時、ファンタジーだから何でもありだろうとばかりバンバン入れてきて、登場人物の気持ちが置き去りにされ、何より観客の気持ちが置き去りにされるのは本末転倒というよりほかないでしょーが。

とはいえ、役者はそりゃー、頑張っているのだが。智史を演じる山田孝之なんて、あの暗い目をさらに一層落としまくって、もうオマエが死んじまうんじゃないかってぐらいの入り込みようである。
本作に関しては、このかなりムリがあるキャラ設定のドンカン男智史に、そんなに頑張らなくてもいいのに……と思うぐらい山田君がじっくり入り込んでくれたことで、何とか保っているという感じがする。

そして花梨を演じるまさみちゃん、そりゃーすばらしく可愛いし、繊細な表情を見せるのだけれど、今回の役、超人気ファッションモデルという役、確かに彼女はその愛らしいお顔からは想像の出来ない素晴らしいスタイルの持ち主で、それだけで充分モデルの素養はあるのだけれど、ただ、やっぱりなんだか、しっくりこない。
それは彼女が「健康的な妹」というイメージに固まっている、ということでは決してなく、彼女の才能や潜在能力はそんなところに留まっているわけはないんだけど、でもその「健康的な妹」から脱皮すべくの役柄、というのがあまりに見え透いていて、そのあからさまな戦略に拒絶反応をおこすせいか、なんだかしっくりこないのだ。
モデルの仕事の時に見せる表情と、今、いつまでもそばにいたい智史と一緒にいる時の表情とに、もっとハッキリと差異を印象づけられれば、むしろ「健康的な妹」のイメージを利用しつつ逆手に取ったインパクトが与えられたんじゃないかと思った。無論、それは彼女のせいなわけはなく、演出のせいであるわけだけど。

「いま、会いに……」も、手紙にしたためられたタイトルとなっている言葉がまずあって、そこに向かってご都合主義もムリのある伏線も何もかもぶっ飛ばしているって感じだった。
で、本作もやっぱりそうなのね。昏睡している佑司に読んでもらうための、スケッチブックにしたためられた彼女の最後の手紙。後に目覚めた佑司は智史と共に花梨を見舞いながら、それを彼に見せる。「智史に見せたら、花梨に怒られるかもしれないけど」などと言っていたけれど、智史が見ることは、例え佑司が目覚めなかったとしたって思いっきりありえることだし(恋人の桃香が見せるだろう、当然)、しかもその、幼い頃からの思いが綴られたこの文脈からじゃ、最後に「そのときは彼によろしく」という台詞は、実はやや違和感があり(なんでここだけ代名詞になるのかもヘン)、最初にこの台詞のインパクトを考えついてから作られた話なんじゃないのかとさえ思ってしまう。
んでもってこの台詞は、花梨が智史のお父さんと夢の中で出会って言われたという台詞にも応用系として使われる。つまり、息子の智史をよろしく、という台詞。それは、ああここで、上手いなと思われるためか、と邪推したくなる応用の仕方で、なんかコソクに感じちゃう。

大体この、「深い眠りに落ちると目を覚まさなくなる」という病気自体、ファンタジック過ぎる上に、なんの根拠も治療の痕跡もないし、しかも彼女が智史の父親との夢の邂逅だけをキッカケに目覚めるというのはヒドすぎるだろ。
「天国は……」も、三人の構成のみならず、この植物状態、しかもその症状なり病気の名称なりがまったく明確にならないご都合主義もソックリなんだけど、少なくとも残された二人が彼の目覚めを待ち続けることに対する葛藤は描かれていたし、それは当然生じる問題のはずでしょー?
しかし智史は、「待っていていいんだよね」という思いだけを信念にしている。「待ち続けていることを花梨は喜ぶんだろうか」という佑司の台詞もあるんだけど、その場面が何の意味があったんだろうと思うぐらいあっさりと、あまりにもサッパリとスルーされる。まるでその葛藤が描かれないことへのツッコミを避けるだけみたい。ほんっとうに佑司の存在の意味がないよね。この三人の構成に一体何の意味があったわけ?

佑司は恋人と幸せな結婚をし、子供ももうける。ホントに、一体どこに花梨へのコダワリがあるんだって感じである。まあそれが智史に、死にゆくたった一人の父親に孫の顔も見せられなかったという思いに影響を与えるにせよ、やはり弱い。だって智史に思いをよせ、花梨からよろしくお願いしますとまで頼まれたパン屋の女の子は海外に留学してしまっているし、智史は相変わらず色恋とは無縁の場所にいるのだ。

……ていうあたりも、この原作者の特徴なのかなあ。「いま、会いに……」でも、自分の愛する夫に思いを寄せているかも知れない女の子をどこかで牽制するような形で、今後よろしくとか言ってるシーンあったし、そしてやっぱりその夫はこの女の子に何の感情を抱くことなく、亡き妻を思い続けていくところもソックリである。
でもそんなの、やっぱりムリがあるよね。むしろ、そんな状態に陥った彼女が今後の夫の幸せを考えてあげたいって方が自然だし、違和感を感じた部分は本作でもやはりその部分だったのだ。
いや、女側は確かにそう考えているのに、まるでその女に縛られるがごとく、彼女がいなければ自分はもう死んでいるんだ、ってなごときの男は、正直、キモチワルイよ。そんなの、純愛でも何でもない。この、根本的な価値観の違いがあるから、この原作者の話は、私、どうにもダメなんだと思う。佑司の「待ち続けられて、花梨は本当に幸せなんだろうか」という台詞を、真の意味で生かしてくれなければ、切なくも何ともない。

「この世界には物理学の教科書にも載っていない強い力がある」智史のお父さんが言う台詞。だからその絆を大事にしろと、息子に言い残す。でもさー、それもまたこの物語のキーワードなんだろうけれど、結局最後までうっちゃっておかれた佑司の存在があるから、そんなキレイゴトをすんなり飲み込めるわけもない。
なーにが、「だからこうしてまた三人出会えた」だって思っちゃう。花梨が余命いくばくもないからと智史に会いに来なければ実現していないし、彼女にとって佑司はあくまで二番手で、あんまり会いたい情熱を感じないしさあ。

「天国……」でもそうだったんだけど、一人の女の子が二人の男の子におもねった夢を語るのが、私はたまらなくイヤなのね。
「天国……」では、二人の男の中間地点に、三角形を作る形で職場を求めた。「じゃあ、私は銀座のお姉さんになる」と。そんなアホな条件で生きる道を決めるのかと憤った。
それと全く同じことを、本作の花梨も言うんだから唖然とした。三人の構成も同じなら、女が言うことまで同じとは。「(佑司が画家、智史が水草屋の店長なら)私は画家のモデルと水草屋の看板娘!」お前のやりたいこととか意思はないのかよ……。
最終的に花梨がファッションモデルになったとしたって、結局は同じこと。だって最後に智史に会いに来るならば。こういう過程があると、純愛だとか素直に喜ぶ気にはとてもなれない。
しかも、“水草屋の看板娘”というのは、とりもなおさず、智史のお嫁さんが夢!ってことに他ならない。
お嫁さんが夢だなんて、いつの時代だよ……。

あっ。「ただ、君を愛してる」の原作もそうじゃん。やっぱりこの原作者、私ダメだわ。タイトルが巧みなだけに、余計その空虚さにイラ立つ。
でも、本作に関しては、映画に際しての構成にもムリがあったように思う。幼い頃の三人組の描写にかなりの尺を割いているのだけれど、それが大人になってからの三人にリンクしない。だって大人の佑司は、あまりに登場場面が少ない上に、結局は花梨が眠りに落ちるキッカケとしてしか機能していないんだもの。
画家を目指していた佑司の、久しぶりに会った母親とその恋人に騙されたエピソードはもっと見たかった。
だって、彼が昏睡状態になったサイドストーリーとして流されるには重過ぎて、バランスが悪いし、智史と花梨の純愛物語より、ずっと切実そうだしさ。
でも、彼がそれでも母親を恨まず、警察に届けることもしないのは、やっぱりキレイにまとめすぎだよな……。

こういう物語に柴咲コウの主題歌ってのもなあ……売れ線意識アリアリで。余韻を残した静かな音楽でクレジットを迎えるとかの方がいいような。
まあ、どっちにしろ、私はかなりお腹立ちだったけどさ。
正直、まさみちゃんには、こういう一見口当たりのいい、売れ線の、しかし中身は空虚な映画には出てほしくない。
東宝きっての売れっ子だから仕方ないのかもしれないけど、せっかく古厩監督で鍛えられたものを箱入り娘状態にして、こんなところでばかり消費してほしくない。
それは、山田孝之に関してもそう思う。この二人には、もっと切羽つまった場所で顔を合わせてほしかった。
塚本君はどんな場所でもこなしてしまう器用さがある感じだけど、二人はその繊細さをいい監督に出会ってどんどん深めてほしいと、切実に思う。

初めて見る監督の名前、と思ったら、「白夜行」で山田孝之と、「セーラー服と機関銃」でまさみちゃんと組んだドラマディレクターなのかあ。
最近、ドラマの演出家が映画に進出する傾向が以前よりまして多いけど、いくらドラマの世界で経験と実績を積んでいるからとはいえ、それがイコール映画での成功に結びついているとは思い難い。
「セーラー服……」は私もかなりかぶりつきで見てたけど、正直、この映画作品はなあ……。

そういやー、この映画の宣伝で某番組に出ていた三人が、水草に癒される映画、ってぐらいにしか語っていなかったのも、今思えば頷けるんだよな。
確かに水草はキレイ。でもそれだけで足を運ぶ人がいるとも思えない。これがヒットされたら、そりゃないよと思うよなあ……。
★☆☆☆☆


素粒子/ELEMENTARTEILCHEN
2006年 113分 ドイツ カラー
監督:オスカー・レーラー 脚本:オスカー・レーラー
撮影:カール=F.コシュニック 音楽:マルティン・トートゥシャロウ
出演:モーリッツ・ブライプトロイ/クリスティアン・ウルメン/マルティナ・ゲデック/フランカ・ポテンテ/ニーナ・ホス/ウーヴェ・オクセンクネヒト/コリーナ・ハーフォウフ/トム・シリング/トーマス・ドレクセル/ヘルベルト・クナウプ/ミヒャエル・グヴィスデク

2007/4/24/火 劇場(渋谷ユーロスペース)
「ファスビンダーの真の後継者」とか言われても、ファスビンダー自体私は判らんが(爆)、この監督さんの名前は初めて見る。ドイツ国内では有名な映画作家さんらしいけど、恐らく日本での正式公開は初めてだよね?
勿論私もご多分に漏れず、「ラン・ローラ・ラン」再コンビのモーリッツ・ブライプトロイ&フランカ・ポテンテの名前を見て足を運んだわけだが。そうかそうか、もうあれから8年たつんだね。
劇中でブライプトロイが「もう40だ」なんて言ってて、年月の早さを思う。まあ実際にはそこまでは言ってなくて私よりひとつ上なだけなんだけど、それにしてもだよね。あーあ、それだけ私も年をとったのだよなあ。
実際、バックショットで彼の後頭部が薄くなっているのに軽いショックを受ける。ううっ、こんなに髪の毛の多そうな人なのにい。

真実とは素粒子のようなものだ。これ以上、小さくならない。そんな弟、ミヒャエルのつぶやきが、このタイトルにつながっている。
彼は数学研究者。真実というものは決して揺るがないものだという信念があるのだろう。彼のお師匠さんが、「西欧文明は、宗教や哲学を破壊してしまった」とかなんとか、そんな意味のことを言っていたけれど、それは案に、彼のように最小単位の真実以上の、ムダに膨れ上がった何ものをも信じられないことを、やや危惧して言っていたようにも聞こえた。

ミヒャエルの異父兄弟が、ブライプトロイ演じるブルーノである。この二人を等分に描いているはずなんだけど、しかもタイトルの由来は弟の得意な数学の分野なのに、最終的には兄、ブルーノのウエイトが大部分を占める。
ぶっ飛んだ母親を持ったバックグラウンドは同じ。その母親に悩まされたのも同じ。外見的に、どこかパッとしない押しの弱い青春時代を送ったのも同じ。
案外共通項はあるのに、まるで違う。大した得意分野もなく、辛い過去もなんとなく傷つかないように見ないようにやり過ごしてきた兄と、数学という打ち込めるものがあって、若い頃には叶わなかったお互いの気持ちを確かめ合った恋人がいる弟と、なぜこんなにも違うのだろう。

弟がアイルランドの研究所に戻ることを決意し、兄と久しぶりに会うこととなる。近い将来、生殖とセックスは完全に切り離される。ミヒャエルはそのことを青年時代からまっすぐに信じてきて、研究を重ねてきた。
しかし、自分のはじきだした計算式が間違っているかもしれない、そのことが発覚することを恐れて、彼はアイルランドの研究所を辞めたのだが、今、こうして、どうにも忘れられなくて戻ってくる。しかも彼の計算式はスパコンによって完璧に正しいことが実証された。

一方の兄はというと、国語の教師をしているんだけど、密かに執筆活動もしている。その内容は過激な差別主義者である。
そしてもはや妻には欲情できず、教え子の思わせぶりな視線に悶々として過ごしている。彼は一応、仕事と家庭という幸せを手に入れているはずなのに、まるでそれが実感出来ないみたいで、そのことこそが、彼の不幸なんじゃないかという気がする。

そんな二人の現在と絡めて、過去が次第に思い出されてくる。それは主に、ブルーノが精神科医に打ち明けるカウンセリングによってなのだけれど……。
そして弟も、おばあちゃんの墓の移設や昔好きだった女の子との再会などを通して、若かかった頃を、もしかして忘れようとしていたあの頃を次第に思い出してゆく。

それにしても、ブルーノなんだよね。そりゃ彼は、思想や価値観にかなり問題があるとは思うけど、それにしたってちょっとカワイソウだと思っちゃう。
彼に対して、やけに思わせぶりな態度をとる教え子の女の子。挙手をするとノースリーブのワキの剃り跡が甘い。カミソリの遊び傷がある。やけに、生々しい。
ブルーノは確かにカワイイ彼女にのぼせ上がってたけど、だからといって彼が思い込みが激しかったとは思わない。
彼は慎重だった。傷ついた過去があったから、彼女が本気なのか探りを入れてた。彼女が作家になる気もないのに彼に作文を見てもらったり、授業が終わっても残って流し目を送ったり、授業中、取り上げられた文学作品に対して、男性のセクシャルな意識の観点から意見を言ってみたり。

そこまでされれば誰だって、彼女がモーションかけてると思うだろう。ブルーノは彼女の作品を読みながら、彼女の写真を傍らに置いてマスまでかいた。その液が飛び散ってゴワゴワになった原稿を彼女に返してみても(エグいな……)彼女は、ちらりとその部分に目をやっただけでなんとも言わなかった。
これは脈ありだと誰でも思う。だから彼は勇気を振り絞って、授業後残っていた彼女の隣に座り、太ももに遠慮がちに触ってみた。決して、ムリヤリじゃなかった。大丈夫に違いないけれど、恐る恐る、触ってみた。
でも、大丈夫じゃなかったのだ。彼女はそっとその手を外し、なるべく怒らせないようになどという気遣いを見せながら、やめてください、と言った。
じゃあ今までの態度はなんだったのか。何を信じればいいのか。ブルーノは打ちのめされ、号泣しながら車を飛ばし、「ウチには帰れない。帰りたくない!」と泣きじゃくって、病院のイスに座ってた。

ブルーノは一応既婚者。子供もいる。しかしこの結婚生活に、しかも我が子にさえイライラしているらしいのは、執筆活動を度々中断される泣き声をあげる赤ちゃんに、睡眠薬をまぜたミルクを飲ませるという衝撃的なシーンで充分に説明される。確かに一錠を半分に割って、という配慮はしているけれど、赤ちゃんだよ!?
しかもガーターベルトをつけさせた奥さんに自分を棚に上げてゲンメツしてみたり、男としてはかなりサイテーな部類に入ると言っていい。
しかも、彼が執筆するそのキョーレツな差別主義を、半ば本気で真実だと思っているらしいのもヤバい。アフリカンはペニスが長く脳みそは小さく、エイズを撒き散らしているなんていう原稿を、ひどくマジメな顔して渡してる。その原稿を出版できないと言われて、本気で傷ついた顔をしている。
自分が相当異端の思想を持っていることに、本当に気づいていないらしい。これは相当ヤバイんである。
かくして彼は、カウンセリングにかかり、そしてヨガのサークルに入ることになる。それはかつて母親が入っていたヒッピーのコミューンとソックリだったことに、彼はまるで気づいていないようなのだけれど……。

そう、ブルーノとミヒャエルの母親は、ヒッピーの思想にかぶれたことで、子供たちを置いて出ていった。二人とも、そうされたのは自分だけだと思っていたんだろう。もう10代も後半になって、お互いに兄弟がいることを初めて知らされ、戸惑う。
いきなり会わされて、「積もる話もあるでしょう」って、あるわけないだろ!
しかしそれでも、二人はおずおずと会話を進める。弟の数学の才能に目を丸くするブルーノ。しかしこの時既にミヒャエルが唱えていた「生殖とセックスの分離」には驚きながらも共感し、対照的なキャラながらその距離は縮まった。
しかしさ、この少年時代を演じるそれぞれの役者がね、勉強のできる弟と、いつでも今ひとつサエなかった兄。そういう対比とはいえ、実際はハンサム系であるブライプトロイの少年時代が、あんなモサいニキビ少年というのは、あんまりムリがありすぎる。
弟の方は、本当に彼の若い頃かと思うぐらい、面影のある少年を探してきたのになあ。

ブルーノは弟に初めて会う前に、休暇を母親のいるヒッピーのコミューンで過ごしていた。性的自由。解放。そんなところになじめるわけもない彼。
ブルーノは精神科医に、その時のことをようよう、思い出し、思い出しして告げた。
「(恋人と一緒にベッドに入っている)母親で、マスをかいた。じっと見つめていた黒猫が、ふと目を伏せた。石でその頭蓋骨を潰した。休暇の最後の日だった」
ブルーノは、育ててくれた祖母が、不注意で煮えたぎったスープをかぶって死んでしまったという衝撃的な過去も持っていた。そして両親が自分を寄宿舎に入れたという。
あら、父親がいるのね、と思ったけど、その影はまるで出てこない。ずーっと、ずーっと後になって彼は父親を訪ねるのだけれど、これがまたロクデナシで、部屋中酒瓶が転がってて、久しぶりに訪ねてきた息子に、「金、持ってるか?ワルイな」などと悪びれもせず言うサイアクな父親なのだ。

ブルーノは相当マイナス志向だとは思うけど、こうした過去が明らかになってゆくほどに、それもムリないって気は確かにしてくる。だからこそ、ここぞという時に正しい反応が出来ない。
妻に離婚を言い渡され、教え子から辱しめを受けたブルーノは、ヨガのサークルに参加するも、ここでもイマイチなじめない。そのマイナス志向で、アフリカのリズムが原始的だとか、スペインが好きだという女性にヤクの密売や子供の売買を野現場を見に行こうとか言って、ドン引きされてるありさま。
母親が、いわば意味もなく自由だけを享受して、その子供である自分がただ苦しむだけだったことが、彼に大きな影を落としているのかもしれない、と思う。
ただ、彼はここでヨガの先生であるクリスチアーネという女性と出会った。夜のジャグジーで男と交わっていた彼女に、二番手の形で近づいていって、彼は久しぶりのセックスをした。そして、恋に落ちた。

しかしここも、ヒッピーのコミューンと何ら変わらない。自由というものに、ことに束縛からの自由というものに、ひどく拘泥している。
束縛とはつまり、恋人からの束縛。自分も相手もそこから解放しよう、させてあげようという思想は、しかし表面上の自由は獲得しても、愛する人をその手の中に得られない苦しさを伴う。
確かに彼女は、妻と違ってガーターベルトもよく似合うセクシー美人。最初こそそのことに喜んだブルーノだけれど、それも何度もやられると、自分に気を使っているように、負担に感じてくる。それこそ、自由を求めているんだろうけど、こんな勝手な話もない。
そんな彼の様子を察知したからこそ、クリスチアーネは乱交パーティーに誘ったりもしたに違いないのに。
男をつなぎとめようという、女が間違っていると言うの?
しかも彼女は、自分が致命的な持病を抱えていることも、黙っていた。
その乱交パーティーの時、彼女は腰の激痛に耐え切れずに、倒れてしまう。
尾てい骨の壊疽で、両足が麻痺。そう医者から告げられ、ブルーノは呆然とするけれど、そのことをクリスチアーネは既に知っていた。
「あなたと出来るだけ、一緒にいたかったから……」

ブルーノの話はとりあえずおいといて、ミヒャエルの方である。どうもね、ブルーノがあまりに重たいエピソードが続くから、どうも彼に引きずられちゃう。
ミヒャエルは祖母の墓の移設に立ち会う。墓堀人が掘っていくと、木の棺桶はもう腐ってボロボロになっているから、そのままは掘り出せない。つまり……真っ黒く腐敗した半ミイラ状態の遺体を目の当たりにすることになるんである。
……やっぱり火葬の方が絶対、イイよな……。
しかも墓堀人は、その遺体をスコップで掘り起こして、黒いゴミ袋に無造作に放り入れるんだもの。胴体の部分なんて、ぽっかり空いた内蔵のあったところにスコップを差し入れてポーンってさ、入れるんだよ。思わずミヒャエルも目をそむけてしまう。
そりゃあ、こんなところに魂も何もあったもんじゃないよな。その点ではミヒャエルの信じる、最小限度の真実が揺るぎないことであることにも頷けるってもんだけれど、だけど、何か、虚しい。

ミヒャエルは、かつて恋していた幼なじみのアナベルと再会する。
あの頃、お互いに思い合っていたのに、その思いを告げることも、キスさえ出来ずに、終わってしまった。
ミヒャエルは引っ越しの時、自分が写した彼女の写真を見つけて、懐かしそうに見つめてた。しかしそのビキニ姿の彼女は、下のパンツがガフガフでどうにもみっともないのだが……。
遅まきながら、お互いの思いを確かめ合う二人。「今ならキスできる?」そう誘い込んだ彼女に、大人になったミヒャエルはようやく、首を縦に振ることが出来た。

ブルーノと違って、ミヒャエルはこの年まで研究だけに没頭して、女性関係のないまま、つまりこんな年まで童貞のままで過ごしてきた。
そんな弟の方が、兄より恵まれない人生だったと言えなくもないのに。
結局は、結果なのだ。人生の結果。結果的にミヒャエルは、一人の相手のために操を守り続けた。
アナベルの方は、ミヒャエルへの思いを遂げられず様々な相手と寝たけれども、だからこそ本当に好きだったのは彼だけだという思いに立ち返った。せっかくの愛の結晶が子宮ガンという形で失われたとしても、その命を失うより、どれだけ幸せだろう。

……おっと、口が滑ってしまった。そう、アナベルは彼と思いを遂げて、その1回限り、しかもこの年齢で子供を授かるという奇蹟を得たのに、子宮ガンが見つかってしまったのだ。
でも、ミヒャエルは落ち込む彼女をアイルランドに呼び寄せ、人生を共にすることを決意する。
一方のブルーノは、ミヒャエルには出来たことが、出来なかった。
いや、確かにクリスチアーネの身に起こったことは、もっともっと悲劇的ではあったけれど。
でも車椅子に乗った彼女に一度は、一緒に暮らそう、ずっと一緒にいようと言えたのに、彼女から、「本気なの?ムリすることないのよ。これから先の人生、障害者の介護をして過ごすことはない」と言われてひるんでしまうブルーノ。
彼女の本音、というか切なる願望は、「本気なの?」の部分の嬉しい響きにこそあったのに、ブルーノはそれを汲み取れなかった。
彼だって勇気を振り絞って、彼女の面倒をみることを決意して口にしたに違いないのに、まるでその覚悟が甘いものだと否定されたがごとく、自分自身にこそショックを受けてしまった。……ったく、弱い男なんだから。

「よく考えて」そう言い残して、彼の元から去ったクリスチアーネに対し、確かにブルーノはよく考えたんだろうが、その考えをちゃんとまとめてからにしろよなー。
もう、なんで、ワンギリなんかするんだよ!しかも何度も!なんてザンコクなヤツなんだ。あのひるんだ表情で既に、彼女にとって相当にザンコクなのにさ……。あー、もー、サイアクだ。あんな顔を見せるぐらいなら、最初からいいフリなんてこいてほしくなかった。最終的にブルーノが悩んで悩んで彼女に電話をかける決断をしたとしたって、もうあの時、クリスチアーネにあの顔を見せた時に全てが決まってたんだ。

そうだよ、彼女はあの時、もうその命を断つ決意を半ば決めていたんじゃないかと思う。電話の側に、セクシーなドレス姿でメイクもバッチリして待機していた彼女。それは、彼からの電話を、一緒に暮らそう、愛しているよという電話を待つための正装だとばかり思ってたんだけど、鳴り続ける電話のベルが聞こえていた筈なのに、彼女が飛び降りてしまったのは、それは、ひょっとしたら、死装束だったのかなとも思えるのだ。
でも、引き返して、受話器をとろうとして、また切れたら、という恐怖が働いていたのかもしれない。あれだけワンギリを繰り返されたら、そう思うのもムリはないけど……判らない。
けれど後に、ブルーノの妄想の中に出てくる彼女は、明らかにウソを言っている。電話のベルは聞こえていたけれど、もう飛び降りていたから、と。鳴り続けるのを聞いていたのに、ムリヤリ動かない足を持ち上げて飛び降りたのに。

ムリもないけど、このことでブルーノは本格的にぶっ壊れてしまう。精神病院に自らの足で戻る。それは自分が病んでいると自覚しているってことでもあるけれど、しかし彼が自分で思っている以上に、その症状は深刻になっていた。ブルーノは「奇跡的に生きていたクリスチアーネ」を見てしまうんである。全てを許して、彼を抱きしめてくれる永遠の恋人を、見てしまうんである。
ミヒャエルとアナベルがブルーノを見舞いに来て、ドライブへと誘う。ありゃ、大丈夫かな、もうこの兄弟間の幸せ度は、決定的に差が出てるのにな……と思いつつも、しかし、二人にはブルーノが見えているものが、判ってたのだ。

後部座席に一人座っているブルーノは、しかし隣にクリスチアーネの存在を見ている。こんな風に、いつも隣に見ている。感じている。
後ろを振り返ってブルーノを見た二人の表情は、そのことに気づいている様子である。
ビーチに並べたチェアに寝そべってリラックスして、潮風を受けて、気持ちいい、来て良かった、ありがとう、とブルーノは礼を言う。そして彼の隣にあいているチェアに視線を送る。彼だけに見えているクリスチアーネの姿。
「“二人で”新居に遊びに来て」とミヒャエルとアナベルは言う。ああ、やっぱり判ってるんだなと思う。ブルーノの隣に空いたチェアを置いたのだって……。
だから、ブルーノは幸せ。一生病院暮らしでも、幸せ。
はたからみれば、あまりに哀れであっても……。

ミヒャエルが研究テーマとし、未来はそうなるであろうとした「生殖とセックスが完全に切り離される」しかし、この事実は果たして人間にとって幸せなことなんだろうか。
確かに、もう子供の産めない年齢であったり、アナベルのように子宮を失ってしまう女性にとって、喜ばしいことなのかもしれない。でもそうであるからこそ余計に、彼とひとつになった行為によってその結果が生まれたら、こんなに幸せなことはないと、思うだろう。
勿論、愛していない行為でも子供は出来る。だからこそこの論理が意味を持つ。その葛藤に、女だけが長い歴史、苦しんできた。
クリスチアーネにしても、表面上は車椅子ということだけが示されているけれど、やはりブルーノとの愛の行為や、その先にある愛の結晶のこと、それが望めなくなったことが、彼女の絶望を産み出したのではないのか。
そう考えると、このタイトルは非常にアンチテーゼを感じるんだよなあ……。★★★☆☆


それでもボクはやってない
2007年 143分 日本 カラー
監督:周防正行 脚本:周防正行
撮影:柏野直樹 音楽:周防義和
出演:加瀬亮 瀬戸朝香 山本耕史 もたいまさこ 田中哲司 光石研 尾美としのり 小日向文世 高橋長英 役所広司 大森南朋 鈴木蘭々 唯野未歩子 柳生みゆ 野間口徹 山本浩司 正名僕蔵 田口浩正 徳井優 清水美砂 本田博太郎 竹中直人 益岡徹 北見敏之 矢島健一 大谷亮介 石井洋 菅原大吉 大和田伸也

2007/2/9/金 劇場(日比谷シャンテ・シネ)
周防監督の11年ぶりの新作にはそりゃ心躍ったんだけど、そのテーマを聞いて最初はちょっとフクザツな心境だった。しかも作品が公開を控え、そして公開されてからも、監督は海外にも出かけていって、積極的にこの問題をヒートアップして語っていたでしょ。それが何となく引き気味だったんだ。
やっぱり正直、女としてはね、本当に痴漢はイヤでイヤで、特にその被害に遭った時は男全てが憎くてしょうがなくて、その車両ひとつ火炎放射器で焼き尽くしちゃいたいぐらい。そこに居合わせただけの奴らも全て、男なんて総じて罰してやればいいんだぐらいに考えちゃうぐらい、イヤだから。
これはもうね、このイヤさは説明のしようがなく、しかもお前なんかに触るか、とか、ホントは触られて嬉しいんだろ、とか、そーゆー、吐き気がするような輩がいるわけで……でも一方で「痴漢電車」シリーズとか喜んで観ている自分はなんなんだとか、面白いんだもん、それは……あー、ダメだ。思いっきり支離滅裂。
つまり、女としては痴漢の冤罪なんかありえない、とまでは思わないけど、取り上げてほしくないって気持ちはちょっと……いやかなり……あると思うのね。

それは劇中、新人女弁護士の須藤が、せっかく痴漢を罰せられる流れが出来てきたのに、痴漢冤罪が認められたら、女性が勇気を出せなくなってしまう、みたいに苦々しげに言う場面に実によく出てんだよな。
つまり、この視点を忘れられたら、やはりマトモには観ていられなかったと思う。それも含めてさすが周防監督は綿密な調査、取材を張り巡らし、私のよーな勝手な女が文句を差し挟む隙もなく、かなり長尺のこの映画にどんどんのめりこませちゃって、ついには、「ち、ちくしょー、お、面白い……」とつぶやかせるに至ってしまう。なんか、悔しい。
そう、これって、確かに、監督のこの問題への怒りがすっごく込められた社会派映画なんだけど、きっちりエンタメになっているのが凄いところなのよね。しっかり、面白いの。それはファニーの面白さじゃなく、インタレスティングの面白さ。ギュッと詰められたボールを投げられて、それをズッシリ受け止める面白さ。

あ、でもこれをアメリカで上映した時には、それこそファニーの面白さが受け止められたのか、かなり笑いが起こって、監督はショックを受けたらしいけど。判ってもらえなかった、とそりゃ思っちゃうよなあ。クスリとする部分は結構あるけど、そんなゲラゲラ笑うような映画じゃないし。笑いのツボが違うというより、やはり「Shall we……」のイメージというか先入観もあったのかしらん。
それとも、痴漢自体が、日本にしかないような卑劣な行為で、だからイマイチピンとこなかったのかもしれないけど。それは日本人の男自体に問題があるのか?
いやそこを、そういう行為が発生する環境自体が問題なんだと、監督は主張していたんだよな。
痴漢冤罪事件を減らすのには、痴漢の発生する現状事態を何とかするべきだ、満員電車を作らないようにする努力をなぜしないんだと。
でも劇中のような、キツキツの満員電車じゃ、逆に痴漢はあんまりないと思うけどね。
自由に手を動かせるだけの余裕と、ごまかせるだけのスペースがある、それなりにコミコミの時が一番危ない。だからそんなに誤解は発生しづらい、痴漢冤罪はそもそも少ないということもあると思うのだ。そう思い込んじゃうことが、危険だってことなんだろうけど。

実際ね、どんどん彼を応援する気持ちになっちゃうのよ。何とか無実を勝ち取れ!って手に汗握って応援しちゃうのよ。それがね、そういう気持ちになり始めた時には、そりゃ彼は無実なんだから当然なんだけど、意外というか……周防監督の腰を据えた演出に打ち負かされてというか……そう、なんだか負けたような気分がしてて、そう思う女の自分がヤだったりして。
つまり痴漢にヤられるのがイヤなのが女にしか判らないなら、その痴漢に間違えられる屈辱は確かに男にしか判らないわけで……やっぱり人間は自分をカワイソがることがまず第一で、それを否定するようなカワイソを認めたがらない傾向があるんだよな。

しかしホント、監督がいかにこの問題に怒りを持って取り組んだかが判る。怒りは、最初のテンションを通り過ぎると、凄く冷静になる。だから、ここまで隙がないんだね。
私は、まだ最初のテンションの部分で止まっているんだ。多分、その方がラクだから。だから、私みたいに「勘違いされたって認めちゃえばいい。男なんてみんな痴漢予備軍なんだから」ぐらいに心のどこかで考えていた女も、納得させるものを作らなければならない、というところまで、監督は到達してるってことなんだよね。
でも女のこういう感覚って、それこそテンションを通り越して、かなり根強いものであるのも事実だと思う。
須藤弁護士が徹平に謁見に行った時、部屋の中にエロビデオがあったことを指摘された彼が、「男は皆痴漢なんですか」と言うと、彼女は「そうよ!」と即答する。凄く、確信に満ちた言い方で。
それぐらいやっぱり、女の痴漢に対する憎しみって根が深いんだ。だから、それを突き崩しちゃう監督の手腕は……悔しいけど並大抵ではないのだ。

超満員の電車から降りたところで女子中学生に手をつかまれ、せっぱつまった声で「痴漢したでしょ」と言われる青年、徹平の場面から始まる。彼には覚えがない……というのは、この時点ではまだ確信がいかない。
彼はひょっとしてウソをついているのかもしれない。電車内での描写は、まだひとつも描かれていないから。特に女の観客であり、女の子好きの私は、オマエ、ホントにやってないの?などと、この映画のテーマが判ってるのに、ついつい心の中でごちてしまうんである。
ラスト、裁判の結果が出た時、僕はやっていない、それは僕だけが知っているという彼の心のつぶやきが、結局は全てのテーマである。
つまりいくら支援者や、信じてくれる家族がいても、彼はどこまでも孤独な、孤高の人なんである。

信じている、というのは、信じていない人がいるという反証だ。あるいは信じている、というのは、世間に認知されている事実がそうではないという証しでもある。つまり彼はどこまでいっても、真実を誰とも共有できない孤独地獄に陥っているんである。
彼がたとえ、無実と認定されたとしたって、それは乏しい状況証拠から「そうであろう」と推定されたに過ぎない。200パーセント、無実だと知っているのは、やっていない、彼だけなのだ。
その仮定が成立するなら、被害者である女の子もそれを知っているはずなんだけど、……女の子好きの私がこーゆーことを言うのはイヤなんだけど、女はこういう状況の場合、とりあえず男全てを憎んでいて、いくらだって都合のいい記憶に改ざんできるんであろう。
確かに彼女は決死の思いで痴漢の手をつかみ、その手を引っ込められても、彼女の意識では「ちゃんとその手を目で追っていた」んだろう。でも多分、その時点で、見失った手が似た様な袖の色であれば、そしてそれが男であれば、誰であろうと大して問題じゃなかったんだ。それが男であれば。
特に、女子中学生という設定が重要。性的なことに目覚め始め、そして嫌悪を感じてる、一番潔癖な時期だもの。

果たして、哀れ犯人とされてしまった徹平である。やってなくても認めてしまえば、いや、やってないとウソをついてても説得に応じて認めてしまえば、すぐにでも釈放される。誰に知られることもなく、社会に戻って知らん顔で生きていける。ちょっとは酒の席でネタにしちゃうぐらいは、あるかもしれない。
だけど、徹平は、絶対に認めなかった。だって、やってないんだから。確かにそれは、彼がまだ定職についてなくて、世間的な悪評をそれほど気にせずにいられる立場だからってこともある。ちょっとご都合主義だけど、こういうテーマをあぶり出すためには、まあ仕方のない設定ではあるかな。
でも一方、きちんと社会人でも、無実を勝ち取るために戦い続ける、いわば徹平の先輩の存在もいるんだよね。
演じるのは光石研。彼は近年ほんっとに、観る映画観る映画、キーマンのイイ役ばかりやってるよなあ。見かけ始めた頃は何となく中途半端な年齢だったけど、着々とキャリアを積み重ねて、夫として父親として男として、凄くノレる時期にさしかかったということだろうか。

彼はまず、ガラガラの傍聴席をこれではいけない、と厳しく指摘する。傍聴席は友人や支援者で一杯にし、この裁判が注目されていると思ってもらわないとダメだ、と。
友人や別れた彼女までもが傍聴席を埋める光景に、徹平は見世物にされているような拒絶反応を示すんだけど、友人は「皆オマエを心配しているんだから」と説き伏せる。……なんかどこまで彼がガマンしなきゃいけないのか、って辛い。
ところで、この先輩である佐田さん、彼のキャラって、なんか見覚えがあるんだよな。こういう、痴漢冤罪で戦う男の人を追ったドキュメントをなんかテレビで見た覚えがある。監督が読んだ記事っていうのも、ひょっとしてこの人のことかな。やっぱりこういう風に奥さんが支えてて、再現ビデオとか作ったりしてた。本作では、この彼の経験を元に、徹平も再現ビデオを作って自身の記憶の裏づけが取れたりするんである。

裁判中、「反省の色がない。再犯の可能性がある」と再三、言われるけれども、釈放されるために臆面もなく、はいはいやりました、ごめんなさいみたいにヘコヘコ頭を下げて釈放される本物の痴漢の方が、よっぽど再犯の可能性があるってもんなんだよね。
この決めつけはその皮肉な示唆だし、それに徹平が最初に連れていかれた時、「またお前か」と刑事に言われて卑屈な笑顔で頭を下げて出て行く痴漢常習犯も描かれる。まさに、その裏づけである。
それを思うと……認めればすぐに釈放、というのは、結局は男の都合で何となく決まっているマニュアルであり、それこそこのマニュアルが横行している限り、罪を認めれば罰せられることもなくすんなり釈放、てな図式が存在する限り、被害者の女性が犯人を捕まえても捕まえても、事態は改善しないんだ。
……そうか、つまりはそういうことなんだ。女性が痴漢を捕まえる勇気が失われるうんぬん、以前の問題なんだ。
だって、そうやって捕まえても、認めりゃあっさり釈放なら、全然意味ないもの。

そこに、二重三重の矛盾が存在する。だから、女性の気持ちを考えたら、いやそれ以前にまっとうな流れとしたなら、当然、罪を認めたヤツがその罪の罰を受けるべく拘束されるべきなのだ。なのに、やっていないことを主張しているのに、罪人以上の扱いで何ヶ月も拘留されちまうんである。
徹平が戦うことが出来るのは、失うもののない(わけじゃないけど)フリーターだからだけど、もし彼が既にどこかの会社に勤めていたら、ぐっと奥歯を噛み締めて、ウソでもやりましたと言ってしまったかもしれない。
日本にはそういうところがある。受ける側も責める側もある程度判ってやっているところがある。責める側だって、ひょっとしたらやってないかもしれないけど、いつもどおりやりましたと言わせれば、自分にとっても相手にとっても面倒がなくてすむと思って、そう勧めてしまう。つまり親切でやっているんだ、ぐらいの気持ちなのだろう。
つまり、前例社会。慣例社会。それが全て悪いとは思わない。けれど……。

“やっていないことを主張しているだけなのに、罪人と同じ扱いで何ヶ月も拘留”でも、これが例えば殺人事件だったりしたら、やっぱりそうそう放免するわけにもいかないわけだし。
でも、それこそそういう重い事件で、無実なのに容疑者として拘束される人の話も、映画でたびたび見かける。んで、そこでも彼はやはり同じ疑問を呈しているんだよね。ただそういう重い事件だから仕方ないじゃんと、観ている側はちょっと思ってしまうわけ。
それを、こうしていわゆる軽微な犯罪の容疑者、にすると、その理不尽さがハッキリと判る。
しかし、軽微な犯罪だから、裁く側も何となく軽い気持ちでいる感じは否めない。居眠りなんかもしちゃうから、周到に用意してきた須藤弁護士がちょっとムカついて、「被告人は無実です!」とひときわ声を大きくするぐらいである。この裁判官は恐らく、もう最初から彼を有罪にしようと決めちゃってるんだよな。

この裁判官ってのが、小日向さんなんだよー。途中から替わった裁判官。ひとつの裁判で途中で裁判官が替わることがあるなんて、ビックリした。徹平は勿論、母親や支援者も驚いてる。しかし弁護士曰く、そんなに珍しいことじゃないという。
でも、でもっ!小日向さんがこんな悪意のある裁判官役なんてヤだー!いかにも人が良さそうなのに……。
その前の裁判官は、無罪判決を連発して、マスコミからはもてはやされていたものの、内部からは無能呼ばわりされていた。でも彼はあくまで、資料を公平に判断すること、それが裁判官の仕事だ、と言ってやまなかった。でも彼はそれが原因だったんだか……左遷されてしまった。
替わって担当した小日向さん演じる裁判官、彼自身は悪意があるとは思っていないんだろう。公平な裁判をやっているという自負があるんだろう。
でも、絶対、偏見がある。居眠りは最初から結論を決めている怠惰の証拠。心のどこかに偏見があることに気づいていない人間の代表だ。

再現ビデオを作ることによって、徹平の主張の正当性と、女子中学生の主張の矛盾点が明かされた。
正直、どこか半信半疑だった須藤弁護士は、これでスッカリ徹平を信じた様子である。まあ、それまでの過程で、徹平のブレのない真っ直ぐな主張にかなり確信は感じていたみたいだけど、「やってみるもんですね。なぜこんなカンタンなことに気づかなかったんだろ」と感心しきり。
でも、裁判官は頭から彼を犯人だと思ってる、というか、犯人にしておけば問題ないと思ってるからさあ……。
再現ビデオですっごくハッキリと示されたのに。裁判官はあまりにも机上の論理なんである。徹平が主張する、痴漢していたのは隣にいた太った男ではないか、という主張をアッサリはねのける。
再現してみて、隣にいた男がそういう行為をしていたとしても、徹平は気づけなかったことは明らかだった。ただそれは、実験で再現した徹平自身にしか判らないことだったのは事実。だから、「隣の男の行為に気づかなかったというのは不自然」という裁判官の主張に、100パーセント反駁できない。それが、今回の敗因ということなのか。
しかし、裁判官にとって、無実を出すことは、負けること。検察に、つまり国にたてつくこと。昇進にも影響する。そう、描かれる。
これから始まる裁判員制度は、こうした向きを受けてのことだろうけれど、それもまた、アメリカみたいに口八丁の弁護士にただ負けそうだしな……。

留置所に入れられて、何がなんだか判んなかった徹平に、何の罪を犯したんだか、こういう状況はスッカリ慣れきっているらしい男がいろいろと教えてくれる。これが本田博太郎なんだけど、独特のキモチワルさで、最高に可笑しい。
そーいやー、彼は一体、何の罪でとらえられていたのかなあ。加瀬亮の背中にぴったりとくっついて耳元で囁くところなんか、かなりアブないんだよね。ひょっとしてそーゆー罪でとらえられたとか?アブナイ、アブナイ。

彼が教えてくれたのが、「最初はタダ」の当番弁護士の存在だったんだけど、コイツがネックだった。裁判に勝てる見込みは99.9パーセント。時間もかかるし、お金もかかるし、罪を認めて示談にした方がいい、とのっけから勧める。交通事故のようなもんだと思えばいい、と。
アゼンとした徹平は「やってないんだ」と何とかしぼり出すんだけど、この当番弁護士というのが後に弁護を頼む主任弁護士の荒川氏や須藤弁護士とも顔見知りで、須藤は後にそのことを知って彼を責めるのね。なぜ示談を勧めたりしたんだと。
彼は、不公平な裁判の現実にゲンメツしてて、だから、徹平のためにそう言ったんだ、ウソはつけなかったと反省しているみたいに描いている。でも多分、当番弁護士なんて、すべからく似たようなもんなんだろうな。だって監督がわざわざこういう描写を入れてくるってことは……多分そうなんだろうと思う。
交通事故のようなもんだ、運が悪かった……まあ女の私はそれぐらい思えばいいじゃない、と正直映画の最初ではそう思ってた。

被害に遭った女子中学生が証言に立つ。プライバシーに考慮して目隠しの壁が設置される。性犯罪裁判の傍聴マニアの男たちは、「またかよ。公開が基本なのに」といまいましげに言う。はあ、本当にこういう人たちって、いるんだ……。
当然だけど、彼女は本当に彼がやったと思ってる。勇気を振り絞ってにっくき痴漢を捕まえたのだと。
涙を必死にこらえて証言をする場面でも、凄く真摯に聞こえる。だから、それを見つめる徹平は困惑するしかない。
ああ、きっとそんな風に本当に思い込んでしまっているんだ、と。
そんな風に聞こえ、そんな風に見えてしまったんだ、と。
でも、彼が頑迷に無実を訴え、起訴にまで応じてしまったことで少しはヘンだとは、この時点の彼女は思わなかったのかな……。
どうなんだろう……そこんところは。そりゃ、自分が痴漢だと思っている男と話をするのもイヤだろうけど。

あの時、彼は痴漢じゃない、と言ってくれた女性がいた。
急いで電車に乗った徹平が、ドアに挟まれた上着を懸命にはずそうとしているのを見ていた女性。その時身体が当たって、彼はこの女性にすみませんと謝っていた。
そして電車から降りた徹平が痴漢容疑で捕らえられるのを見て、「その人は痴漢じゃないと思います」と言い、連れて行かれた駅事務所にも来てくれたんだけど、駅事務員は彼女を一切無視して、ピシャリと事務所の窓を閉めてしまった。
その彼女が、駅で母親たちがまいていたビラを見て、数ヶ月ぶりに名乗り出てくれたのだ。

裁判官に、なぜ彼がやっていないと思ったのかと聞かれ、「私にそうやって謝ったすぐ後に、そういうことをするっていうのも不自然だと思うし……」と実にまっとうな意見を述べてくれる。演じる唯野未歩子が非常に誠実な感じで、この証人が見つかったのはヨッシャー!と思ったのだが……。
降りる駅でドアが開くのに、なぜ徹平はそんなに焦って挟まれた上着を引っぱっていたのか、あるひとつのカン違いがあったことも明らかにされる。その謎が彼の主張を「ただの言い逃れ」にしていたんだけど、再現ビデオを作るに当たって、電車の進行方向がどちらだったかが判った徹平は、思い出したのだ。履歴書を確かめるために途中下車したことで、そして面接に遅れる焦りもあって、開くドアをカン違いしていたこと。
その二つの、有力な立証が得られたのに、せっかく連れてきた証人も、そして再現ビデオも、裁判官はどこまで真剣に見てくれていたのか……またなんか出してきたよ、ぐらいに思っていたのか。

女子中学生の証言で、刑事が立ち位置などの実験をして、徹平が犯人であるという確証を得たと話していたことが明らかになるも、提出するように求めたその資料は「不見当」
ないのではなくて、「見当たらない」んだというのだ。実験をしたということ自体がウソだったか、あるいは有効な結果が得られなかったからなのか。
駅事務員も証言に連れてこられる。「駅事務所で話を聞くから」と言いつつ、ひと言も徹平の言い分を聞かなかったことについて追及される。事務員は、最初から聞く気はなく、自分の仕事は、痴漢容疑者を警察に引き渡すだけだと白状する。

こうやってひとつひとつ積み重ねて、裁判官の心証に訴えるしかないんだけど、時に裁判官は居眠りをしているのか目を閉じたまま微動だにしなかったりするもんだから、苛立った須藤弁護士が「被告人は無罪です!」と大きな声を出してみたりする。その時だけメンドくさそうに目をあける裁判官。うー、小日向さんがこんな裁判官の役だなんて、ホントちょっとショック。

警察は、被告人の味方には決してならない。供述書(?)は警察が勝手に作る“作文”、根気よく訂正してくださいと荒川弁護士は穏やかだけどキッパリと言った。徹平は頑張ってそれに従ったんだけど、結局は全てを訂正してもらえない。裁判官はそれを最も重要視し、「ここにあなたの署名がありますね」とまるで得意げに高々と掲げるんである。
どんなに立証を積み重ねても、こんなウソ作文で全てが覆されてしまうのか……。
何くれと力になってくれた、痴漢冤罪裁判の先輩である佐田は、しかし最後の戦いに負けてしまう。
徹平がこの映画のラスト、有罪を言い渡されても即座に控訴するのは、この先輩のためでもある。ここで引き下がってしまったら、これからも起こってしまう冤罪事件の歯止めにならないのだ。やっていない罪を認めることはない。たとえ99、9パーセントの確率であったとしても。

無実なら絶対に裁判で勝ち取れる。誰もが漠然とそう思っていた。そんなことはないと、頭では判っていても。
でも本当にやってないのに。その闘いをここまでつぶさに見せつけられ、つまりは濡れ衣を国によって着せられ、世間の人すべてから罪人だと思われている人が、こんな風に声を出していることを、どれだけウチらが知っているかってことなんだよね。

母親がもたいさんだから、必要以上に深刻にならなくてすむ。でも本当に心配して、哀しんでる。このバランスが絶妙。
ついでに、大家さん(管理人?)を演じてる竹中直人も絶妙。この大家さん、母親からお土産を渡された途端、それまでの冷たい態度から豹変するのがあまりにお約束なんだけど、竹中直人だからやけにおかしい。
しかも徹平が捕まったと聞いて、「何となくヘンだなとは思ってたんですよ」とアッサリと口にし、
「どうしてですか?」と突っ込まれると途端に慌てて、「いや……なんとなく。働いてないし」と口ごもる。
しかし、この大家さんの態度は、世間というものを実に的確に示しているよなー。それぐらいイイカゲンに、元からおかしいと思ってたとか、働いてないから痴漢ぐらいやるだろうとか、思っちゃう。自分だって一本や二本持ってるだろうに、エロビデオが出てきただけで決定的な証拠みたいに大騒ぎして。

有罪を言い渡された徹平は、長い長い裁判官の言葉を立って聞きながら思う。ここは真実を明らかにする場所じゃない。有罪か無罪かを判定するだけの場所だと。やけに心静かに思う。
自分だけが知っている。やっていないのだと。この静けさは怒りというより、悟りに思える。そして、彼の声が法廷に響き渡る。「控訴します」
この闘いは、まだまだ続く。

現代日本映画のエンタテインメントが世界に、特に保守的なアメリカ映画社会に出て行けるきっかけになった監督なんである。そしてようやくの新作に対して、彼の作品によって世界に出て行った役所さんは、感動という言葉を使った。
まさに、映画における感動っていうのが、お涙ちょうだいモノだけではないんだということを示してる。
ホント、そうだよな。★★★★☆


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