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「よ」


2007年鑑賞作品

酔いどれ詩人になるまえに/FACTOTUM
2005年 94分 アメリカ・ノルウェー カラー
監督:ベント・ハーメル 脚本:ベント・ハーメル/ジム・スターク
撮影:ジョン・クリスティアン・ローゼンルンド 音楽:クリスティン・アスビョルンセン/トルド・グスタフセン
出演:マット・ディロン/リリ・テイラー/ディディエ・フラマン/フィッシャー・スティーヴンス/エイドリアン・シェリー/カレン・ヤング/マリサ・トメイ


2007/8/26/日 劇場(銀座テアトルシネマ)
なんか見た覚えのある名前だと思ったら、「キッチン・ストーリー」の監督さんかあ。
まさかその彼が、英語劇の、シニカル入ってる作品を撮るなんて思いもしなかったし、なんか似合わない気もするし。
お伽噺をほろ苦く撮る彼が、なぜこの題材なのだろう。しかもアメリカに渡ってまで。そんなにハリウッドは素晴らしいのだろうか。それに、自分のカラーを捨ててまで?

以前も……確か「リービング・ラスベガス」か「聖なる酔っぱらいの伝説」を観た時だと思うんだけど、西欧社会で酔っぱらいの話だと、どうしてこう破滅的で堕落的で絶望的な男の話になるのかしらん、って。楽しく酒好きな私はなんとなく不満。そう、楽しく酒好きな私はやはりスーダラ節や森繁久彌の世界を愛するのだ。ああ、森繁。

まあ、そんなことはどうでもいいのだが……それにこれはそうした堕落的な生活を送りながらも、そして破滅一歩手前まで行きながらも、逆転ホームランをかっとばした、有名作家の自伝的物語なのだから。
作家と自称してはいるけれど、泣かず飛ばずで誰も彼を知らない時代。作家修行時代。修行?……うーん、まあ、仕事がなくてとりあえず女とセックスして、時には競馬で稼いで、親からは見離され、という間中ずっと酒に溺れまくる。確かに、人生を作品に反映するための、作家としての修行と言えなくもない。まっ、前時代的だけど。
そう、ラストはかすかにハッピーな予感。たとえこれだと思った女に去られても、仕事がなくなっても家もなくなっても、作家としての光明がついに見いだされた。
しかしその知らせを、部屋を出て行った彼の替わりに受け取った老婆がポケットに入れたままなのが気になるのだけれどね。
と、あいも変わらずいきなりオチバレだが。

というか、ブコウスキーをまるで知らないままに足を運んだことこそがマズかったかもしれない……だって、私は外国文学さっぱりなんだもおん(とか 言いつつ、日本文学だって大して読んでないあたり……)。
本人はこんなに不幸いっぱいのダークなイメージではなく、女好き酒好きの明るいアウトサイダーってな感じだったみたいだけど。というのは、この日予告編で流されてたドキュメンタリースチールからのイメージ。
しかし演じるマット・ディロンはひたすら堕落、自堕落、破滅、陰鬱。たとえ最後に光明が示されても、彼はそれを手にすることなく街を酔っ払いながらさまよい続けるのではないかと思われるほどなのであった。

なんかやたらと大絶賛されているマット・ディロン。ううむ、そんなに素晴らしい酔いどれ演技だとは思わなかったなあ。毛ジラミを女からうつされた場面、なんちゃってお祭り野郎みたいに、アソコと太ももに包帯ぐるぐる巻きなカッコには思わず笑ったけど。
そりゃ、塗ってから30分たったら必ず洗い流せ、と言われた薬を一晩おいたら、腫れあがるに決まってるだろう……。
私が笑ったのはここだけだったのだけど、ひょっとしたら全編堕落しまくりの彼の姿は、そのまんまコメディだったのかもしれないな。確かにこれほどナサケナイ男もいない。コメディになるぐらい、男としても人間としてもなってないもの。
でもねー、それが可愛げがないから笑えないんだよな。やっぱりね、酔いどれで笑えるっていうのは、男として可愛げがある、母性本能をくすぐられるタイプのセクシーさを持ってなきゃダメよ。森繁みたいにさ(しつこいけれど、森繁好きさっ)。

まあ確かに、彼には堕落するだけの理由はあったのかもしれない。彼がふと立ち寄る実家、母親は久しぶりに帰ってきた息子に嬉しげだけど、「お父さんがいるのよ」とちょっと困ったように告げる。予想通り、厳格な、というかケッペキな父親。息子に対する愛情よりも、その息子が恥をさらしていることにガマンならないようなんである。
息子である彼はもう最初から、この父親には降参状態のようで、とりなそうとか、ウソでもいいから従順に出ようとかいう気はないらしく、「女のケツは必要だぜ」などと明らかに父親が怒るようなことを言って、自ら追い出されてしまう。
でもね、そんなの、母性本能をくすぐるにはやっぱり、弱いんだよなあ。だってさ、劇中彼を守りたくなるようなコトは何も起こらないし、同情する気も起こらないんだもん。彼の作家としての才能は、最後にようやく一遍の作品が採用されるくだりでようやく示されるに留まり、彼が送り続けたたった一人の編集者がそのことを喜んでいるらしい、つまりその編集者だけが彼の才能を評価していたらしいことはちょっとしたアクセントになっていなくもないけれど、うう、これはやっぱり、ブコウスキーを知らずに臨んだことがマズかったんだろうなあ、やっぱり。

だってこの作品に足を運んだ理由は、たったひとつだったんだもの。久しぶりに名前を目にしたリリ・テイラー。彼女こそがザ・アウトサイダー。クールなハンサムウーマン。インディーズのミューズ。もう、ワクワクして足を運んだ。ブコウスキーの名前も、マット・ディロンが熱演しているとかいう話も、全く目に入らなかった。
うう、でも彼女、やけにオンナオンナした役柄で、なんか彼女に振られる役には違う気がする。もったいない気がする。いやそれは、私が勝手に彼女に対して抱いていた、というか、期待していたイメージってだけで、ホント勝手なんだけどさ。

しかし彼女、いくつになったんだろう……それなりの年だけに、この堕落なセックスが逆にやけに生々しい。薄い胸と筋肉のついた使い込まれた身体が、やけに。
しかも、マット・ディロン演じるチナスキーが彼女を評する言葉が、こうよ。
「彼女とのセックスは最高だった。最高に締まりが良かった」
うーむ、確かにリリ・テイラーなら締まりは良さそうだが……って、何を根拠に!しかも女の私が言うな!(ノリツッコミしてみた)。
本当にセックスだけの女で、ヤリまくって朝を迎え、何を食べようとか言っても冷蔵庫に何にもない。パンケーキにしようかというと、バターがない。油であげるパンケーキとワインをあけて、そしてまたセックス。
女が料理をするべきだなんてバカなことは思わないけど、それにしても身体に悪そうだな……。

そういやー、何人かコメントしている著名人の中に永瀬正敏がいて、やはり彼だけはリリ・テイラーに言及していたのはちょっと嬉しかった。
「コールド・フィーバー」で共演してから、リリ・テイラーのことはことあるごとに絶賛してたもんね、彼。
うう、でもカッコイイリリ・テイラーが見たいのだよ、私はっ。

リリ・テイラーが扮するジャンは身持ちの悪い女。男から男へと渡り歩く。
彼女は何より、その堕落した状態のチナスキーが好きだった。毎日のようにセックスしてくれるし、気が置けない、って感じだったんだろうか。
しかしチナスキーが同僚に誘われて行った競馬で才能を発揮し、小金をためだし、ちょっとイイ服など着だすと、ツマンナイ男になった、とクサすんである。
チナスキーは、作家と称する仕事場のボスの友人に会って、ソイツが上等の葉巻とパリッとしたカッコをしていることに打ちのめされて、まあいわば真似っこでそんなカッコをしてみたんであって、彼女とも何週間もご無沙汰になっているし、そんな風にクサされても仕方なかったのかもしれない。

それをチナスキーは、お前をレディにしたかったんだ、などと言ってみる。そして、「恋愛にマメな男はヒマなんだ。オレは今まで週三回はセックスしていた」などとごちてみる。
作家修行時代に、そういう生活は必要だった、のかもしれない。そしてそういう時代にそれを望む女と出会うことも。
だから、ジャンと一旦別れて再会し、ヨリを戻しても、「お互いに必要としていないんだ」「そうね、判っていたわ」などという乾いた言葉で別れることになる。たとえそれでまた彼が最下層にまで落ち込んだとしても、そのすぐ先に、作家としての成功があるのだもの。
それが彼にはまだ見えていないのに、不思議なんだけど……。

で、ジャンといったん別れたあたり、なんか眠くて寝ちゃった。なんで、どうして別れたんだっけ……。
うー、だって淡々としすぎなんだもん。ま、それはこの監督のカラーではあるのだが……。
さて、二番目の女はマリサ・トメイ扮するローラ。一見フツーにセクシーな女だけれど、金持ち男に複数の女たちと一緒に囲われている。しかもその男を「カネを渡さず、自由に酒も飲ませないケチ」とクサす。つまり身なりはそれなりに洗練されているけれど、彼女もまた彼と、そして元カノのジャンとどっこいの堕落女だったのだ。
黒いタイトなミニワンピースで、セクシーに、というよりは自堕落に足を広げてみせるその奥が、どうやらノーパンらしくて、こっちもまた使い込まれた女の匂いにむせ返りそうになる。

で、まあこのローラとのくだりは数回のセックスと、くだらない金持ちの生活をシニカルなユーモアで仕立て上げて、割とアッサリと流されていく。そしてチナスキーは行方が判らなかったジャンを見つけ出して会いに行く。
ホテルのメイドの仕事を得ていた彼女。「仕事しているんだな」と街に立つ女じゃなくなったことに、彼は一瞬まぶしそうな目をしたけれど、彼女の仕事は「クラークさんの部屋だけでいいの。チップをくれるから」……どうやら、やってることは以前と大差ないらしい。
彼女自身は、「でも、何もないのよ」「あんたと別れている間、誰とも寝なかった」とか言いやがるけど、そんなのウソだとチナスキーだって判ってる。ホテルの空き部屋に引っ張り込んでさっそくファックしようという彼女に、「なんか、照れるな」と言う彼。「何言ってんの、私たち800回もセックスしたのよ」と彼女。

ローラと再び暮らし始め、いそいそと部屋の掃除などする自分を、「オカマになっちまった」と嘆息する彼。それはかなり女性蔑視(オカマ蔑視?)だと思うが……。
しかし彼女は、それを他の女がしたとカン違いして嫉妬する。いや、嫉妬するフリをして、自分のウワキなタチを隠そうとする。正当化しようとする、とチナスキーは見抜いていた。
バーでナンパされた男と、カンタンに寝る女。実際、彼と二度目に別れても、すぐに次の金持ち男を見つけられる女。その締まりのいい名器で男を惹きつけるのだろう。そういう意味では決して美女ではなく、若くもないリリ・テイラーは適役なのかもしれないけど、でもやっぱり、私の頭にはカッコイイリリ・テイラーが染み付いているからさあ……。

まあ、つーかこの作品は女たちに気をとられているべきじゃないんだろうとは思うけど。底辺をさまよいながら、酒をかっくらいながら、それでも書くことだけは忘れなかった表現者としてのチナスキー=ブコウスキーに魅力を感じるべきなんだろうけれど。
でも、だって、書いてる描写に力が入ってるわけでもないし、とにかくポストに入れるんだって感じにしか見えないし、色々ちりばめられてはいるけれど、断片的で、こっちがネイティヴじゃないからなのか、彼の言葉が力のあるものとして中に入ってきてくれないんだもん。
あ、でも一個だけあった。「小さな恨みや憎しみで、人間は一生涯を費やしてしまう」とかいう言葉。たったひとつ、覚えていた詩の一節。あまり聞きたくない言葉だと思って、苦く受け止めた。

何の職も続かない、というか、最初からいわゆる“仕事”をする気もないんで、あっという間に仕事を放り投げて酒飲んじゃってクビになっちゃうチナスキー。ジャンは「丸一日働いたんだから、もらう権利があるハズよ」と小切手を受け取ってくる彼を待ち受けるために、ハイヒール履いてオシャレして待ち構える。恐らくこんなヤツに小切手は最初から用意されていなかったと思しき、社長に直談判してやっとの思いで手に入れる。「オレは早く受け取って酒が飲みたいんだ。どうしようもないヤツだと思うかもしれないが、俺の勝手だ」
この場面など、確かにちょっと笑っちゃうぐらいに情けなさ全開ではあるんだけど、どうにも笑えないのは私の寛容さが足りないのだろうか……。
ハイヒールで待ち続けたジャンが、足が痛くなっちゃってハイヒールを脱ぎ捨て、彼の脱いでくれた大きな革靴をはいて、彼は裸足で共に歩いていくのはちょっと可愛かったけど、でも直後、二人はお互いに必要としていないことを認め合って、今度こそ別れてしまうのだ。

そして家を失ったチナスキーは日雇いの職なども求めてみるけれど、同じ酒飲みの男とともにそこも叩き出され、行く当てもなく朝を迎える。
その頃、彼が出て行った部屋に、小説の採用通知が届いているのだ。

敗者の映画といえばカウリスマキ。この間観たばかり。敗者が敗者のまま終わる、負けて負けて負けて終わる、それが不思議な共感と感動と爽快さえも呼んだ。という経験をしたばかりなんで、なんかこう、居心地が悪いのよね。
チナスキー=ブコウスキーの、言葉でこそ魅了してくれなければ、この作品を決して好きにはなれない。
それはやっぱり、違う言語を持っているから、今ひとつピンとこないってことなのかなあ。
それとも私が眠かったから?
だって、ブコウスキー全然知らずに観ちゃったんだもん。なんか、怒られそう。
「作品の価値を最後に決めるのは作家自身だ。批評家でも読者でもない。そんな奴らにおもねったら終わりだ」
それは、確かにそうだと思う。共感できる。
でもそれは成功した作家の言葉だからだ。
劇中のチナスキーがいくらブコウスキーの分身だからって、その片鱗を感じさせず、かまいたくなる男でもなかったら、意味ないように思う。

酒、タバコ、女、競馬を愛したブコウスキー。
なんかちょっと、寺山修司みたいだな。あ、競馬のトコだけか。でも詩人だったり、破天荒だったりするところとか。
……そうか、読んでみるか。★★☆☆☆


夜の上海/夜。上海/the Longest Night in Shanghai
2006年 110分 日本=中国 カラー
監督:チャン・イーバイ 脚本:高燕/山村祐二/チャン・イーバイ/高真由子
撮影:ヤン・タオ 音楽:伊東宏晃
出演:本木雅弘/ヴィッキー・チャオ/西田尚美/塚本高史/ディラン・クォ/和田聰宏/サム・リー/大塚シノブ/竹中直人

2007/9/28/金 劇場(東銀座 東劇)
今日何観に行くの?と聞かれてこのタイトルを告げたら、え?テレサ・テン?と言われた(爆)。そ、そんなあ。抱いていたちょっとオシャレなイメージが台無しじゃないかあ。で、でもちょっとそんな気も。いやいや。でもスクリーンに映し出されたタイトル(原題?)は、「夜。上海」だった。こっちの方が洒落っ気はあったような気がする。

いや、とにもかくにも本木雅弘なのであった。彼、思えば随分と映画から遠ざかっていた。一時期は彼の出る映画ならハズレはないというぐらい、気鋭の監督と組みまくっていたのに。三池監督や塚本監督といった鬼才とも、組んでいたのに。
一体なんだって、こんなにも出なくなっちゃったんだろう?出まくって疲れた?そんな風に思うぐらい、出てないよね。いや、一番最近の「スパイ・ゾルゲ」を観てないせいで余計そう思うのか。
最近じゃ伊右衛門のCMぐらいでしかお目にかかれない。そこでの彼はちっとも色あせていなくて相変わらず水も滴るいい男で、何だよ、もったいないなあ、スクリーンに戻ってきてよと思っていたもんだから。今年なんて、表舞台に出ないはずのヨメの方がいい仕事をしてるじゃないのお。

本木氏演じるカリスマ・ヘアメイクアーティスト、水島が、上海音楽祭のために当地へとやってくる。の前に、日本での仕事ぶりがちらりと描かれるのだけど、舞い踊るように仕事して、自らもカメラの前に颯爽と立ったりして、いかにもな“カリスマ・ヘアメイクアーティスト”。いや、今の日本でのその職業のイメージって、ちょっとオカマっぽい先入観があるから?(誰のせいだ!)、そうではない彼は実にカッコイイのだが。
そんな彼に寄り添っているのが長年の恋人で、彼の仕事を仕切っているやり手の美帆。彼女は、どうもここの所お疲れ気味の彼を心配してる。仕事はバリバリやっているんだけど、声をかけても上の空。それに加えて二人の心は、そんな長年のきしみが重なって離れ始めていた。
そんな時の上海出張。美帆には彼女を思って追いかけてくる龍一が現われ、そして水島は夜の上海を一人で歩くうち、迷子になってしまった。そんな彼が出会ったのが、タクシードライバーのリンシー。ぼーっとしていた水島、突っ込んできた彼女の車に跳ね上げられて、宙を舞い、ボンネットに墜落!

なわけで、久しぶりに本木氏をスクリーンに拝むことになった本作、なんとまあビックリ、中国との合作である。しかしテイストは中国というよりも、往年の香港映画風。こりゃ絶対、演出のせいだとは思うけど、彼の演技もビックリするほど往年のラブコメ香港映画風に、気恥ずかしいぐらいにハジけまくってる。
そう、ちょっと、見ててハズかしい。いやあ、そこまでやらずとも。特にヴィッキー・チャオ演じるリンシーの車にぶっ飛ばされた後、意識がハッキリしないままに、カクカクとしたロボットダンスのような動きで目を覚ます場面には赤面。
しかしそれは、本木氏自身がアドリヴでやった、ヘナヘナダンスから膨らんだというから驚く。てっきり、香港映画風の演出かと思った。しかしあそこまでのクッキリしたダンスにするのはやりすぎのような気がするけど。新境地に達するためのチャレンジなのか?それにしても相手のビッキー・チャオは別にそこまでやってないじゃないのお、などと思う。

まあ、これは、見知らぬ、言葉も通じない外国で、ストレスを抱え込んでいた自分を解放するといった意味合いも持っているから、彼のハジけ方はある意味正解なのかもしれないけど、やはり久しぶりの本木氏であり、そしてあの静謐なハンサムの本木雅弘を見てきたから、少々のショックは隠せないんである。彼はもっとカッコイイハズなのになあ、なんてね。
いや、確かに相変わらずイイ男なのだけど、何となく顔のパーツが中央に寄っているように感じるのは気のせいなのだろうか?宣材写真は実にあのイイ男の本木氏なのだが。香港映画のスクリーンに入ると、昔のハンサムみたいに見えてしまうのは気のせいなのだろうか。
いや別に、ヴィッキー・チャオの引き立て役とまでは言ってないが(言ってない!)。しかしワイシャツの下に隠された、隠しようもない胸板の厚さにときめく。あれれ、本木氏って、こんなちょっといいカラダの持ち主だったっけ。それともひょっとして、今後なにがしかの展開を考えて体を鍛えているとか?

さて、リンシーには恋しているお相手がいるんである。長年気の合う友人関係を続けてきた、自動車修理工のドンドン。彼に会いたいがためにガンガン車をぶつけては、嬉しそうに修理にやってくるリンシーの気持ちに、このハンサムなドンカン男はまったく気付かず、突然別の女性との結婚を決めたことを告げてくる。
しかも更にドンカンなことに、「独身最後の夜に会おう」と必死なリンシーに、「今日、婚礼衣装の試着だから……」とその様子を彼女に見せつけるのだ。そんなリンシーを水島は、言葉が通じないながらずっと見つめ続けていた。水島をもてあましたリンシーに安ホテルに引き渡されても、警察に置いていかれても、「置いていくなんてヒドイよ!」と彼女についてまわる。リンシーもそんな彼を、ついつい放っておけない。

で、そう、本木氏が引き立て役だなんて言葉が思わず出てしまうほど、ヴィッキー・チャオの可愛さときたらないのであった。本木氏とは10以上離れてるんだけど、違和感がない。だって本木氏、イイ男なんだもーん。
というか、ヴィッキー・チャオがもう30超えてることにビックリした。見えない。少女のよう。こんなボーイッシュな役柄だから当然ノーメイクで、髪がボサボサで寝グセしまくってて、ダボダボの服着て、強引なタクシー運転手でしょ。
世の中を気丈に渡っていくためだと思われる、男の子っぽくガサツな振る舞いも、たまらなくカワイイのだ。その寝グセの髪を水島がちょこちょこっと三つ編みにしてくれる場面、髪に触られることに再三、抵抗感を示すあたりはまだまだ乙女で、それもまたカッワイイのだ。
しかしこの場面の本木氏も妙にキザな仕草で、彼女の目をつぶらせたりするのが気恥ずかしいのだが。でもさこの、ちょんと細い三つ編みがのっかってるボサボサ頭、カワイイのよねー。

なんたってリンシーは、カリスマ・ヘアメイクアーティストと出会ってるんだから、その出会いから、早く彼女をキレイにしてあげて!とワクワクして見守り続けるのだが、それは最後の最後までとっておかれる。ちょっと髪に手をのべるだけであんなにガードが固かったリンシーが、彼の美しい手が触れられてキレイになっていく様をワクワクしながら待ち続けることになる。
で、その間たっぷりと、二人の心の交流が描かれていく。一方は失恋した女の子、一方は恋愛にも仕事にも疲れた男。人生の経験値も暮らしてきた環境も、もちろん言葉も全然違うけど、不思議にシンクロしていく。
水島はちょっと散歩するつもりで出てきたから、財布も携帯も持ってきていない。それ故、二人の距離を縮めていくのが上手いのよね。リンシーの方は勿論携帯持ってるから、ドンドンや弟と会話したりするんだけど、そんな彼女の様子に水島がじっと耳を澄ましているのは、彼が今、その携帯を持っていないからであり、そして彼女の様子をつぶさに観察することによって、どうやら今彼女が傷ついているらしいことを知る。そして、自分の手でリンシーをきれいにしてあげたい、と思うのだ。

どしゃぶりの雨が降ってくる。雨に濡れた客を乗せるために、一時水島が車を降りるんだけど、心配したリンシーが客を他のタクシーに乗り継がせて戻ってくる。このあたりから、二人の距離が急速に縮まっていく気がする。
水島を自分の家に案内し、濡れた衣服にアイロンをかけてやる。日本に留学したい弟が、姉から事情を聞くように指示されて興味津々、カタコトの日本語で近づくも、カタコト過ぎてぜんっぜん通じない。ミズシマがミソシルになっちゃうし。
リンシーが、そのいでたちからズボラに見えるんだけど、実はちゃんと生活していることも描かれる。アイロンや料理も手馴れている。既に両親はなく、ノーテンキな弟をしっかり育てているお姉ちゃん。
部屋に置きっぱなしのシンセを弾いたり、指でお互いの名前を宙に書いてみたり。もう敵対する関係じゃなくなって、お互いの気持ちが知りたいと思う。それがヴィヴィッドに現われる。
ドライバーたちが集まる屋台に夜食を食べに行く。「美味しい」とむしゃぶりつく水島は、もうカリスマでもなんでもない。こんな感覚を忘れていたんじゃないだろうか。

リンシーは、「愛している」「私のこと好きですか」という二つの日本語を水島から教わる。それを、ドンドンにぶつけたかった。水島の後押しもあって、呼び出したドンドンにそう言ってみた。でも日本語のその意味までもは、伝えられなかった。伝えられないまま、リンシーの恋は終わってしまったのだ。
そして二人、車のフロントガラスに、そして道路に口紅で漢字を書き連ねてゆく。
漢字で通じ合えるのは、漢字圏ならでは。韓国はどうなんだろう……漢字もあると思うけど、ハングル文字の印象が強いからなあ。
だから、中国と日本はそれが出来るってのが、スペシャルなつながりを感じるわけ。
最初は宙に書く指文字。そして車のフロントガラスに口紅で書くようになって、そして、建物の壁や窓ガラス、ついには道路のアスファルトにまで書き綴る。

漢字にはたった一文字で深い意味が刻まれていて、例え国が違って言葉が通じなくても、その一文字で意味が、気持ちが、心が通じてしまうことに、キュンとくるのだ。
漢字って、それを伝えてくれた中国って、素晴らしい!勿論、それぞれの国にしかない字、和語もあるわけだけど、それはきっと、二人はきっとここで終わりじゃないし、きっとこの後があるって思えるから、それは日本と中国の関係なんていう壮大な思いへも発展できるのだ。今、あんまりいい関係じゃないからなあ。
でも、道路に書いていた漢字。口紅で書いたにしては、ちょっと太すぎるけど。そういう細かいトコって気になるのだ。やっぱり、そういうところを気にせずにドキドキさせてもらいたいと思っちゃうから。まるであれって、チョークで書いたみたいにぶっといじゃん。

さて、まあ、いろいろあり、水島のホテルもようやく見つかって、恋人の美帆との関係もきっちり収束を迎え、水島は一日滞在を伸ばして、リンシーを探しに行く。「どうしてもキレイにしてあげたい子がある」と美帆に告げて、スケジュールを調整してもらった。最後のワガママ。
探す当てもない。あの、漢字を書き綴った路地に来た。もう清掃車が洗い流している最中だった。二人の思いを。しかしその道のあちら側にリンシーが立っていた。お互いもう一度会いたいと思う気持ちが、同じだった。ああ、キュンとくるわー。
そしてリンシーは、水島の手によってヘアメイクを施されていくんである。

でも、彼の手によって美しく変身したとしても、そのアフターより、ビフォーの、ありのままの彼女の方が可愛くて仕方がないのだ。
絶対、ビフォーが可愛いと思う。それは、「ただ、君を愛してる」で、メガネをかけてボサボサ頭のあおいちゃんの方が可愛かったのと同じ。メイクを施してカッコもちゃんとして美しくなるということは、つまり平均化されるということなのだ。誰が見てもちゃんとした美しさに見える、それは、その人のオリジナリティを失うということなのだもの。
もちろん、それはよそゆきのため。リンシーをソデにしたドンドンに、美しく変身し颯爽とした姿を見せるためである。
その変身を手伝った水島には、彼女の可愛さや魅力が、そんなところにはないことが判っている。生(き)のままの彼女の方が可愛いし、チャーミングなんだと判っていることが重要なのだ。

そして物語は、美しくなったリンシーがドンドンのウェディングパーティーに乗り込んで溜飲を下げるところではなく、パーティーに行く場面さえも描かれず、メイクが完了し、その姿を鏡に映して、「ワタシノコト、スキデスカ」とつぶやく場面で終了するのである。おお、なんという粋!それまで香港映画ならではのベタベタで進行していたから、その粋な幕切れにグッとくる。
リンシーはあくまで、鏡越しに言っている。決して、水島に向かって直に言ってる訳じゃない。でも、鏡に共に映っている彼に目を合わせて言っているんであって、それは、この答えを本当に聞きたかったドンドンが、訳の判らない外国語として受け流した場面とハッキリと対比されるのだ。
この言葉を教えた水島なのだもの、その目的が判ってるから教えたのだもの、その言葉がより重く響くに違いないのだ!たった一日で気持ちが盛り上がるなんていう、映画ならではの、それこそ「ローマの休日」から脈々と続く映画のマジックを信じさせるためには、何か、たった一つの魔法が必要なのだ。そのひとつだけが観客の胸に届けば、その他がどんなにベタでハズかしくてもオッケーなのだ。

この後、二人がどうなるのかは判らない。水島はリンシーをメイクするために一日滞在を延長しただけだし、お互いに愛の告白を交わしたわけでもないし、勿論キスひとつしたわけでもない。雰囲気でしそうな場面はあったけど(リンシーが失恋した場面とか)、そんなヤボなことはさせないところもイイ。いまだに言葉は通じないし、明日から二人が離れ離れになってしまうことも、判っている。
だけど、不思議とこれで終わりだという気がしないのだ。きっと、このままじゃ終わらない。彼女の弟は日本に留学するというし、今回の上海でのイベントが、彼の今後の仕事の道筋をつけてくるかもしれないし。
今まで彼の仕事を仕切ってくれていた美帆と別れ、水島はこれから一人で仕事の裁量を任されていくのだ。まさに、上海から人生が再スタートを切ったのだもの。きっとこのままじゃ終わらない。そんな余韻や予感が、この“何も起こらない”幕切れを、不思議に幸せなものにしてくれるのだ。

とはいうものの、メイクシーンのドキドキはたまらないものがあるのだが。早く、早くキレイにして、ってはやる気持ちは、まるでキスを待ってる女の子のよう。いい男にメイクされるなんて、古今東西問わず全ての女の子の夢じゃないかしらん。
髪に触れる、肌に触れる、そして最後は唇に……唇に指を伸ばすのを一瞬止めるドキドキ!究極のボディタッチ。恋人以外には許されないはずの触れ合い。その恋人未満な感じがたまらんのだ!

なんか、メインの二人の話だけで進行しちゃったけど、様々な上海の夜が、同時進行で描かれるのね。それはつまり、行方不明になってしまった水島を探す上海の夜であり、それぞれが自分自身を見つめ、発見する夜でもある。
水島の恋人で仕事のパートナー、そして映画の最後には別れてしまう美帆を、西田尚美が演じる。彼女の、いくつになっても持ってる飾らない可愛さと、勿論、もう年も重ねたやり手な感じがいい具合にミックスされて、実に魅力的。
彼女もずっと若手女優、役柄も、今時の若い女の子のワガママ、みたいなものも多かったから、なんか時の流れを感じる一方、ちょっと嬉しくも感じる。いまだに変わらないその舌足らずな喋り方が、イヤミじゃない程度にカワイイのよね。彼女は最後まで、言い寄ってくる部下の男の子の口説きに落とされない。グラッと来るのは、むしろ見ているこっちなんである(爆。オバサンだなあ……)。だって酔いつぶれて、ベッドまで運ばれるなんていう段になっても、彼女は正気を保ってるんだもん。エライよ(って、私、モラルなさすぎかしら)。

美帆が再三言うのは、私は普通がいい、ということ。水島も、彼女に言い寄る部下の龍一も普通じゃない。(竹中直人演じる)山岡さんはとても日本人とは思えないし(笑)、加山君は超マイペースだし……とぐちりまくる。
そして酔いに任せてハイヒールを脱ぎ捨て裸足で歩き出す美帆に、「普通がいいんじゃなかったの」と龍一が笑いながら声をかけると、「いいの!私も普通じゃなくなったの」とヤケ気味。こんな風に自分の弱さをさらけだすことも、きっと水島の前では出来なかったんだよね。それこそが、“普通”じゃなかったんじゃないのかなあ。
今の水島との関係に決着をつけなければ、次には進めないというケッペキが、またカワイイ大人の女なんである。
その彼女に猪突猛進な龍一を塚本高史が演じる。それなりに大人ではあるけど、まだまだ男の子のやんちゃさを残した彼の思いのまっすぐさ、勝手に上海までついてきてしまうぐらいの情熱に、結局は最後まで抗い続けた美帆に敬服を感じるぐらいよ。
でも、キッチリと水島との関係を清算した今ならば、きっと彼女も新しい恋に踏み出すことが出来るだろうけど。というか、龍一の存在が、今までモヤモヤとしていたものを考え直すキッカケになったことは否めないでしょ。

いつの間にか、恋愛を置き去りにして仕事だけの関係になっていた、と、翌朝ホテルで水島と美帆は決着する。
「いつも美帆に頼りきって、いつの間にか、セレブとかカリスマとか、おかしなことになってた」と語る水島に、「セレ“ブー”ね」と寂しさを押し隠してジョーク交じりに返す美帆。そして、リンシーにメイクするために、最後のスケジュール調整を引き受けてくれる。「女の子を美しくするのが、あなたの使命だものね」と言って。

で、美帆に「とても日本人とは思えない」と喝破された、いかにもカワリモノのエージェント、山岡“ラブイズオーバー”千尋。ラブイズオーバーはミドルネームでっす!とハートマークつきそうな勢いでオチャメに言う、冒頭から竹中直人大全開なんである。
本木氏と竹中直人、思えば「シコふんじゃった。」以来の顔合わせではないだろうか。竹中直人が自身の監督作品に、本木氏を呼んでくれたりすればいいのになあ、と思う。
で、その竹中直人ってばもうノリノリで、本木氏どころではないハジケっぷりで、オレのやりたいことがやれる場所はここなんだと言わんばかりのやりたい放題。なんたって彼のブルース・リーのモノマネのために、「燃えよドラゴン」のテーマが再リミックスされているぐらいなんである。おっどろいた。
なんたって竹中氏はあの世界的大ヒット、「Shall We ダンス?」にも出ているんだし、中国でも人気なのかもしれない。

登場シーン、驚いたもん。そのアヤしげな「水島シェンシェイ!」ってな言いっぷりに中国人役なのかと思ったら、中国人になりきってる純日本人で、仕事仲間もみんな持て余している変人。いかにも竹中直人である。このインチキめいた面白さ、かの地でも通じているなら嬉しいけど。
私としては、もっとサム・リーとのカラミが見たかったんだけどなあ。サム・リーは現地の通訳役なんだけど、ぜっんぜんその仕事がなされてなくて、スタッフの手配が出来てないという冒頭の設定。サム・リーも相当に可笑しい人。彼がアヤシゲな日本語を操るだけで可笑しいし、自分のことをマジメだマジメだと言い張るほどに可笑しくて仕方ないのよね。

竹中直人とのカラミは、序盤に竹中氏がカツラをかぶってブルース・リーのモノマネをするところをサム・リーが止める場面のみで、ああ、もったいない!二人のカラミをもっと用意してよ!と思うのは、サム・リーには竹中直人に共通するようなコメディ・センスを感じるからさあ。それに日本とか中国とか香港とかの限定じゃなく、広くアジアを感じさせるところもなんか似ている気がするのよね。それに「ピンポン」で共演してるんだし!ああ、サム・リーと竹中直人の顔合わせが、また見たい!

で、この山岡も一夜の恋??水島とすれ違う形で警察署にやってきた彼、美しい女性警官にひと目惚れする。「日本で駐禁を切る女性警官にはムッとするんだけど、あなたには駐禁を切られたい」……オタクだろ……つーか、ヘンタイ!?
美しいだけじゃなく、強い。泥棒を共に追いかけて捕まえて、なにげに仲良くなる。路肩に座りこんで、おしゃべりに花が咲く。しかし、ポケットからとり出した写真は息子のツネジロウ??長年会っていないという。うーん、奥さんに逃げられたか。判る気はするが……。

もう一人、夜の上海を漂う同僚の加山君。正直彼は、この物語に必要なわけではないキャラだよなと思ったけど。ホント、何のためにこんなクサいキャラが必要なのかしらと思っちゃう。
美帆が「マイペース」と称する加山君に扮するのは、いつの間にやらじわじわとその存在感を増してきた和田聰宏氏。彼が鮮烈にデビューしたというドラマ「東京湾景」を知らないからかもしれないけど、ホント、そんな感じだよね。ホラー映画のオバケみたいに、いつのまにやら隣にいてビックリした!みたいな。
色気も存在感も、勿論演技力も充分な彼は、ここまでこつこつ積み重ねてきたキャリアで、いつ爆発してもおかしくない逸材。まさに、嵐の前の静けさってな趣。

この不必要ともいえるキャラで、そのキザな立ち位置も厭わず、女子の心をキュンとさせるイイ男っぷりを発揮している。
だって、水島を捜索する筈が、いつの間にやらジャズバーに紛れ込んで一人グラスを傾け、セクシーなボーカリストに声をかけて会話が弾み、「今日は楽しかった。東京で会えるのを楽しみにしてるワ」と言わせるんだもの。
ホンットに、どんな意味があったのかと思うキャラなんだけど、涼しい顔でこなしてしまう和田氏にちょっとドキッとしてしまう。いわば上海のオシャレな側面を紹介する役割であり、その役割をキッチリこなしているのには驚かされる。

ポップで心躍るテーマソング。濡れたような上海の夜景。最近めったにお目にかかれないオシャレ系ラブストーリーが、久々に心地よい。夜の街に浮かび上がる白いウエディングドレスが、リンシーの気持ちを映して切なく美しかったのが印象的だった。★★★☆☆


4分間のピアニスト/VIER MINUTEN
2006年 115分 ドイツ カラー
監督:クリス・クラウス 脚本:クリス・クラウス
撮影:ジュディス・カウフマン 音楽:アネッテ・フォックス
出演:モニカ・ブライブトロイ/ハンナー・ヘルツシュプルング/スベン・ピッピッヒ/ヤスミン・タバタバイ/リッキー・ミューラー

2007/12/11/火 劇場(シネスイッチ銀座)
これもまた、最近頻発しているピアノモノっつーことで、ピアノに永遠の憧れを持っているワタクシとしては足を運ばずにいられないんである。んでもって、予告編や宣材写真の感じからは、これこそが真打ちではないかと思われたんだけど……。
やはり私は、自分の中でイメージを囲い込んでしまうキライがあるらしい。ラスト、まさにここがクライマックスの、ヒロインのジェニーが自分の中の音楽をさらけだして聴衆を興奮のるつぼに巻き込む場面、ピアノをパーカッションにまで見立てる破天荒さに、あ、あれ?と思ってしまったのだ。何もそこまでやらずとも……と。

って、いきなりオチを言ってどうするって、ま、いつものことだから(爆)。
確かにね、ジェニーはこの牢獄に、しかも無実の罪で閉じ込められてた。才能を見い出されてピアノが弾けるようになったのはいいけれど、自分の中にたぎる音楽を「下品な音楽」としてピアノ教師に禁じられて、ぶつかり合いながらもとりあえずは、決められたクラシックを弾いていた訳で。
で、そんな全ての思いが爆発寸前に膨れ上がった所で、“自分の音楽”を、このクラシックの殿堂、ドイツ・オペラ座でぶちまけるというのは判る。きっちり張られた伏線と感動的な展開の筈なのだ。

確かに判るんだけど、でもそれにしたって、ピアノ線をはじいてキャンキャン鳴らしたり、ボディーを祭囃子のように叩いたりするに至っては……なんか、情熱というよりは大道芸みたいだな、とついつい思っちゃう。確かに画的に目は引くけど、これがヒロインのこれまでの思いを現わす方法なの?と思って、なんか奇をてらいすぎな気がして、ガッカリしてしまった。
うーむ、私は保守的に過ぎるのだろうか?でもピアノが好きだからこそ、このヒロインもピアノが好きなんだからこそ、そのピアノを愛する弾き方が、いくら“自分の情熱”にしたって、やりようがあるんじゃないかと思ったのだ。拳で鍵盤を叩いて弾く山下洋輔だってこれはやらないよな……だってそれは、彼がピアノを愛しているからだと思うから。

まあでも、ジェニーが本当にピアノを愛していたのかっていう根源の部分に立ち返ると、彼女のこれまでの人生はあまりに壮絶すぎて、そう単純に言えない。だからこそピアノへの思いが、音楽への思いがあんな風にアマノジャクに発露したのかもしれないとも思う。
そもそもピアノは、養父によって鍛え上げられた。恐らく子供の頃はピアノが好きだなんだという意識さえなかったと思うし、いわば親鳥がヒナに刷り込みを与えるように、強制的に与えられたものだったのだろう。養父は彼女をモーツァルトにしたかったんだというから、相当に厳しかったのは想像に難くない。それでピアノを好きだと思う方が難しい。

思春期になって、彼女が自らの意思を行使してそれを拒否した時、報復として養父のレイプが待っていた。当然のごとく、そこから彼女の人生は転落した。クズみたいな男に引っかかり、彼の子供を宿している間に、この男がバラバラ殺人を犯して、それに巻き込まれた。
こんな男をかばって彼女は罪をかぶり、服役した。初めて愛した男だったのかもしれない。身籠った子供はというと、壮絶な陣痛を訴えても「帝王切開をすると、病院の外に出られる」から演技だとみなされ、ほっておかれた末、気を失った彼女が気がついた時には、赤ちゃんは死んでいた。そして男は、当然のごとく彼女を捨てて逃げていたのだ。

確かに壮絶な人生。でもこれが物語の中盤で明かされた時も、私はアレッと思ってしまった。あら彼女、本当の罪人じゃなかったのね、と。
これもまた、日本人的浪花節な感覚かしら。罪を犯し、そのことに対して反省もしていないような極悪人が、しかし音楽だけは愛していて、その音楽を愛している心が自らの罪の重さに向き合わせることになる……だなんて展開を勝手に期待していたんだよね。
実は罪人じゃなかった。無実の罪だっただなんて、ちょっとズルい展開じゃないの、と思っちゃったのだ。だってそれじゃ、塀の内側の人間が実は才能あるピアニストだ、という設定自体が半分以上崩れてしまうじゃない、って。
それでも心のどこかで、音楽を愛する人に真の悪人はいないとか、甘っちょろいことを考えている矛盾を見透かされてしまったのだろうか。

冒頭はいきなり衝撃的。女の足が宙に浮いている。カメラがパーンアップして、その女が首吊り自殺をしているのが判る。そのすぐ脇のベッドでジェニーが寝ている。ガバリと起きたジェニーはその事実を目にしても特に動揺することなく、彼女のポケットからタバコをくすねて一服する。このヒロインが地獄を見てきたことを一発で示すシーン。
そんなジェニーの才能を見い出す老女教師クリューガーは、ナチスの地獄を見てきた経験をも積んでいる。しかし彼女にもどうやら秘密がある。クリューガーの若き日の回想が、そこここで意味ありげにインサートされるので、主人公はジェニーではなく、このクリューガーなのではないかと思われるほどなのである。ま、両主演ってとこなんだろうけれど。

マニュアルや自身の保身に忙しい所長から、細かいクレームばかりがつけられる。ピアノを運搬するのに前科者を塀の中には入れられないとか、ピアノのレッスンの時にも手錠を外すわけにはいかない、などという、まったくもってバカバカしい融通の利かなさを平気で示してくる。
ほんっとに、この所長はムカつく男。しかしクリューガーはこの男をクリアしなければ先に進めないから、才能あるジェニーを世に出せば、あなたの名声が上がりますよとか誘導するんだけど、ことあるごとに鉄面皮で立ちはだかるイヤなヤツなのだ。

イヤなヤツといえば、もう一人いる……というか、彼の場合は、イヤなヤツと言い切れない複雑さを持っている。クリューガーにジェニーを紹介した看守のミュッツェ。
彼自身も音楽を愛していて、だからこそこの牢の中で音楽の才能をもてあましてくすぶっているジェニーをほっておけなかった。机に鍵盤を刻んで頭の中に音楽を響かせながら弾いていることも、彼は知っていたんだろう。だから最初は、本当に彼こそがジェニーの理解者であった筈だった。
ジェニーをひと目見たクリューガーが、こんな態度をわきまえない女、みたいに拒否反応を示したもんだから彼女が激怒、ミュッツェの頭をピアノにブチ当てて重傷を負わせ、心のおもむくままに鍵盤を鳴らすのだ。

この時の、豊かなアドリブを聴かせたジェニーの演奏が、ああこれが、これの完成形がラストに聴かせてもらえれば良かったのにと、展開を知らずとも多分私はそんな風に思っていたんだと思う。荒削りなフリージャズといった趣。鍵盤の上にだけしか、思いを表現できない切なさ。
ああ、そうだ、そう思っていたから、鍵盤を離れてピアノ線やら、パーカッションやらやりだして、鍵盤の上だけというストイックの中にこそ感情を爆発させるという、ピアノのアンビバレンツの魅力がアッサリと壊されてしまったから、失望したのだ。

で、ごめん、脱線した。看守のミュッツェの話だっけ。彼はなんとなく……そう明言される訳ではないんだけど、ちょっと頭が足りない感じがする。なんとなく言動が幼稚というか。
自分が出演した視聴者参加番組を見ることを強要するのも、そんな感じがする。実際はそのクイズ番組で、彼はごくカンタンなトリック問題に生真面目に考えすぎて、かなりマヌケな敗北を喫してしまうし。
才能あるジェニーを自ら推薦したのに、クリューガーが彼女の才能に魅せられて指導しだすととたんに嫉妬して、凶暴な囚人と同室にしてグルになり、寝ている彼女の手を焼いたり(!)なんてことをさせちゃうのね。

まあ確かに、ジェニーにケガをさせられた時から、思いが曲がった方向に行ってるな……という感じはしてた。
それに彼が「ボクには家族がいるから……」と言うけれど、出てくるのは幼い娘だけだし、妻がいる雰囲気がないんだよね。
ケガをしてロクに発音できない彼の“通訳”をつとめるこの幼い娘は、クリューガーが「お辞儀が出来る?」というと、意味が判らないとでもいうように、じっと彼女を見つめるばかりなのだ。
この問い自体もなんだか奇異な感じがしなくもなかったけど……日本的な感じだよね、こういうの、ドイツでもあるの?
つまり、目上の者に対する敬意を示せるかっていう問いなんだと思うんだけど、それを当然のこととして強要するのもちょっとなあという気がするし。

で、このクリューガーにこそ大きな秘密があるのであった。彼女は実にストイックな生活をしていて、部屋に飾ってある写真も敬愛する音楽家のものだったり。つまり彼女には結婚どころか、男の匂いがしなかった。
それは意味ありげにインサートされる回想映像から容易に推測されるけれど……つまり彼女はレズビアンであり、ナチスによる迫害の時代、最初で最後の恋人を処刑され、それ以来、まるで修道女のように慎ましく生きてきたのだ。そう、愛するのは、音楽だけだった。
でもこの、音楽だけを愛して生きてきた、と言い切るクリューガーの言葉こそ、ひょっとしたらジェニーよりも音楽を冒涜しているのかもしれないのだ。愛した人を失って、その後誰かを愛する勇気も持てず、そこから目を背ける為に、音楽にかりそめの、というより虚構の愛情を注いで自分の中のバランスをとってきた。そういうことだと思うもの。

だからこそ、自分の中のタガが外れてしまうような、ジェニーの奏でる感情をダイレクトに表現する音楽を、“下品な音楽”として禁じたのだ。それを耳にしたとたん、ヤバイと思ったに違いない。だって、最初のジェニーのアドリブで、決してクラシックなどではない演奏で、彼女の才能を見い出したのだもの。

そして勿論、ジェニーをそういう対象として愛していた。
最初こそ、彼女の才能だけを買い、「あなたのことは嫌い。良いピアニストを育てることは出来るけれど、人間を良くすることは出来ない」と言い放ってはいたけれど、それこそが彼女に目を奪われた自分への牽制だったのか。
それはね、下世話なんだけど、クリューガーがコンテスト用にと用意した、セクシーに背中がぱっくりとあいたドレスをジェニーが着替える場面、タンクトップに生々しくおっぱいが息づく彼女に、ふと目を伏せる場面で容易に推測されるのだ。
そして素朴な野外パーティーでも、クリューガーの恋心から来る戸惑いは赤裸々に表現されている。踊ろう、と誘うジェニーに、踊れないから、と言いつつ、その誘いに嬉しさを隠し切れない。だってジェニーは実にセクシーなドレス姿で、しかも靴も脱ぎ捨てて裸足で、やけに色っぽいのだもの。素肌の背中に手を回すことをためらうクリューガー。

でもそういう描写も、なんとなく単純にやりすぎだな……という気分も否めない。大部分のストレートの私たちが始終異性に気をとられている訳ではないのと同じく、同性愛者が常に同性に気をとられている訳もないんであって、でもなんかここでは、同性愛者イコール同性に対して常にソウイウ気分でいる、みたいな感じを受けさせるような感じがしちゃって。
それはそれこそ私自身の偏見かなあ……やっぱり。でもジェニーがクリューガーを同性愛者だと知ったとたん、自分に対する思いを即座に直感、というか憶測して(まあ確かに、その通りだけどさ)気味悪がるのがね、なんかね、受け入れがたくってさ……。
しかも老教師という立ち位置が、同性愛の異質さ(ゴメンなさい。あくまである種の感覚で)の中でも更にクリーチャー的に見ている気がしてさあ……。ああ、これこそ、超偏見なのか。そういうことか。そういうこと……なんだろうなあ。

ジェニーを12歳の時にレイプした養父が、しかし彼女のことを一番に心配して、そしてその才能を一番に評価して「勝ってくれ」と言って登場してくるのも微妙である。でもこの養父の存在を成り立たせられるかどうかが、この映画のカギであったんだろうとも思う。しかしそれが成立したかどうかは……ホント、微妙なトコなんである。
だって何たって彼は12歳の少女をレイプしたという、彼こそが牢獄にブチこまれなければならない鬼畜の所業を犯したんであり、それが“娘”に対しての愛だなんて言い訳が通用するほど、今の世間は甘くないのだ。

でもジェニーは……子供の弱い立場だったからだろうけれど彼を告発することはなかったし、そしてその後出会ったクズ男のこともかばって、今こんな場所にいるのだ。
少なくともクズ男に対してはそれが愛だったというのならばあまりにも甘いし、それが成立するのなら、結果的にはレイプを黙認してしまったこの養父にだって愛は成立してしまうのだ。そう単純に定義してしまうのは女の立場の私がするべきじゃないのだろうけれど、なんかそんな風に突っ込みたくなるほど、どうも、ツメが甘い気がしてさあ……。

それにね、ジェニーが、そう、これはもうコンテストの直前なんだけど、ミュッツェの手引きで牢獄を抜け出し、クリューガーの部屋で準備をしている時、酒を呑まないはずの彼女の部屋にカラの酒瓶を見つけるのね。それだけで養父が来ていたことを直感する。
それはいいけど(でも、それもねえ……)、というかそこからジェニーが、養父から金を受け取ったんだろうとか、最初から彼の手引きで自分を育てたんだろうとかと妄想するのが、あまりに飛躍しすぎだし、そこまで興奮してまくしたてるのに、クリューガーの過去を聞いたとたんその全ての妄想を納めるのも、え?なんで?と。あまりに説得性がないような。

ラスト、挑戦的な演奏が、満場の聴衆から拍手喝采で讃えられる。しかしそこへ、駆けつけた警官たちがなだれこんでくる。
ステージ上のジェニーは、これまで決してやらないと断言していたクリューガーへのお辞儀を(あ、お辞儀がここにもあった)、一見してそれは聴衆に向かっての丁寧なお辞儀に見えたけれど……階上のクリューガーに向かって、視線を絡ませて、お姫様のようなしぐさでお辞儀をする。
お辞儀って、いったいどういう定義でとらえられているんだろう。敬意?降伏?それとも……愛?

そして、そこでスローモーションからのストップモーション。駆けつけた警官に後ろ手に手錠をかけられながら階上のクリューガーを見上げるジェニーの、三白眼気味の挑戦的な視線。
クリューガーは涙を堪えている。彼女が自分の音楽を発露したことに感動しているのか、それとも……。

ところでこのクリューガーを演じるモニカ・ブライブトロイ、こんな苗字他にないよな、と思っていたら、やっぱりモーリッツのお母さんだったのね。そう言われりゃ似ているような。でも「ラン・ローラ・ラン」でも観ている筈なのに、覚えてないなあ(爆)。

そしてこうして様々なピアノモノを観てきた本年度、「神童」がもっともスタンダードだったのね、と思うんである。もしかして観る順が逆だったら、「神童」に物足りなさを感じていたかも?いやいや……やっぱり私は保守的なんだろうな。★★★☆☆


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