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ピーピー兄弟
2000年 102分 日本 カラー
監督:藤田芳康 脚本:藤田芳康
撮影:清家正信 音楽:大井秀紀 藤田芳康 吉良知彦
出演:剣太郎セガール ぜんじろう みれいゆ 香川照之 田中裕子 岸部一徳 キダ・タロー 笑福亭松之助 北川さおり 小林麻子
なかなか芽が出ず、ストリップ劇場で踊り子さんだけが目当ての客たちにヤジられる始末だったのが、キレたタツオがオメコー!!と叫び、下ネタ連発したところから運命が狂い始めた。いかにもギョーカイ人、といった感じの売れっ子テレビディレクター、有沢(香川照之)によって見出された彼らは、放送に乗せられないピー音だらけの漫才でまたたくまにスターに!下ネタを充実させるためにタツオにナンパエッチさせてドキュメントにしちゃったり、どんどんエスカレートする中、本来の夢や目的を見失ってしまう。そして……。
実際に漫才師の経験もあるコメディアン、ぜんじろうの、ナサケナ男のリアルな切なさ。こいつってば人間的にもホントヨワイ男で、時々その心の弱さに愛想を尽かしそうになってしまうんだけど、でもだからこそ、いとしく、いとしくなってしまうんだよなあ!どこまでいっても芸人で、売れなくっても思い通りにならなくっても、お払い箱になってもそれを捨てきれない一途さが、彼自身のキャラクターと見事に重なる。それに好きな女の子に対してもちょっとキモチワルイくらい(笑)一途で、子供の頃、彼女からもらったお子様ランチの旗を二十数年持ち続けているというのが……しかも、それを嬉しく思っちゃう文江ちゃん、あんたってスゲェよ!
妹のみならず兄までも。完全に親を超えたな、この子供たちは!という、剣太郎セガールは、映画デビューだった「孤独の中の光 Seamless」はクソつまんない映画だったけど、彼は結構印象に残っていて、この彼もまた大阪弁をあやつるということでこの意欲的な映画に彼の若いエネルギッシュな、そして繊細な魅力はまさしくうってつけ。そう、繊細、だったのね、このコってば、という、長身でイイ男のモテモテ君でも、才能ある兄貴を尊敬しているからこそコンビを続けており(だよね、やっぱり。私にはどんなに兄のイクオをどついてても、お兄ちゃん大好きっ子に見えたなあ)、実際は人前に出ることが苦手。しかもあんなにモテるのに最初の試みの時、女の子に痛がられたことがトラウマになり、いざ女を抱こうとすると喘息の発作が出る童貞君であり、しかし一度その味を知るとヤメられなくなる単純な奴(笑)。でもでも、本当の恋がしたいんだ!兄ちゃんと文江ちゃんみたく……なんて言うところが異様にピュアでかわゆく、傷ついた彼をかくまうように同棲させるストリッパー、絹子が「こいつだけは、本物の男」というシーンとか、すごく好き。
そしてモテない男のイクオが二十年前から恋焦がれ、彼女もまた彼に、ほだされるとかそういうんじゃなくて、ちゃんとカッコいいって、芸人の夢を持ってキラキラしているのが素敵だっていうかけがえのない女の子、この映画のヒロイン、みれいゆがいいッ!素晴らしい!えー、ちょっと、こんな子、どこにいたのよ!ッて感じじゃない?やわらかな大阪弁も耳に心地よく、ああ、大阪発の美少女は、池脇千鶴ちゃんといい、レベル高いかも。みれいゆ、なんて名前もメチャいいじゃない?“足が悪い女の子”って、ヒロインの設定として折々見かけるけど、こういうのって、ちょっとしたフェティシズムを感じさせるのかなあ?
そしてそして!池脇千鶴が出たから、じゃないけど、大阪のお母さんといえばこの人、だーい好きな田中裕子。うー、この人は相変わらず素晴らしすぎる。葬儀屋をバリバリ切り盛りするおかみさんで、冒頭、棺おけの中の死体の指が筋肉の弛緩の関係か何か、ビキビキッ!と開いてしまうのに、ビビって及び腰の息子どもをヨソに、へーぜんと元通りバキバキッ!と折って組みなおすシーンから、そのたくましさが彼女の可愛らしさと実に良くマッチして良すぎるんだよなー。そしてこの死体の指バキバキシーンは、後にイクオの女房となったみれいゆ扮する文江によって継承される、というのも完璧!
ギョーカイ人を思いっきり強調しまくったシニカル&コミカルな演技で、こんなところでも軽妙な上手さを見せつけるディレクター役の香川照之が、ここでも上手すぎ。彼はシリアスにもコミカルにも、サエなくも色っぽくも、ピュアにもしたたかにも見せることが出来るという自由自在さで、本当にここ最近の突出した役者ぶりには目を見張る。田中裕子の女房におされっぱなしの岸部一徳の静かな夫&父親もいいし(「大阪物語」からの田中裕子のパートナーはタイガースつながりね)、キャスティングは実に絶妙なんだよなあ。
イクオを愛する文江は、彼の本来の目的を失った、テレビに踊らされているだけの漫才を止めさせるために、自らドキュメントのネタ……タツオのエッチ相手として身をさらす。イクオはショックを受けながらも、それを止めに行くことが出来ない。文江もイクオが止めてくれなかったことにショックを受ける……。そのあとに出演した生放送のテレビ番組の舞台で、イクオは自分の女をタツオに寝取られたことを赤裸々に暴露するのだが、その番組は実はディレー(少しだけ遅く放送して、ピー音を入れられるようにしている)で、またしても陥れられたことを知ったイクオとタツオは最後に「オメコー!」とオンエアに乗せて、テレビ界を去る。
タツオはどこかへと姿を消し、イクオは文江と結婚して葬儀屋を継ぐ。平穏な日々。しかしイクオが根っからの芸人であること、それを捨てきれないことを知った文江は、一度はタツオに戻ってくれるよう懇願し、それがかなわないと知ると、夫婦漫才として、イクオと修行の旅に出る。なかなか筋のいい文江は、夫婦漫才の相手として着々と成長を遂げ、テレビのような華やかな場でなくても、客が笑ってくれる舞台に漫才師として立てるイクオは心底嬉しそうである。そんな中、文江の妊娠が発覚する。表面上は嬉しそうにしているイクオだが、あの時のシーンが目に焼きついていて、なにげなさを装い、「……だれの子なんやろなあ」なんて言う。文江は目に涙を溜め、「あの時、どうして入ってきてくれなかったん。私あの時から(イクオがくれた)指輪をはめてた。あんたと一緒になろうと、決めてたんよ」と言う。このお互いの気持ちを吐露するシーンは、彼ら二人が今こそ、本当の意味で夫婦になったんだ、という感慨で胸に迫る。しかし、本当に父親がどっちかというのは……最後まで確定されることはない。多分、タツオとも最後までいってしまった、んだろうということを考えると、ホロ苦い結末ではあるのだが、ラストシーンで、それでもいい、それが良かったのかもしれない、とすら思わせる。
それは、ずっと二人の前から姿を消していたタツオが、祭りのイベントで神社の舞台に立っている二人の前に現われ、タツオとイクオがお互いに対する気持ちを初めて告白しあう感動、涙ポイントのシーン。イクオはタツオに謝らなければならなかった、と漫才を忘れて語り始め、そこに思わずタツオが歩み出る。タツオはずっと兄ちゃんにお礼を言わずに来た。ありがとう、と万感を込めて言い、イクオは眼鏡を上にずらして、あふれる涙を懸命に抑える。このシーン!めっちゃ、グッと来た!かつては華やかな場所にいた二人が、ローカルなお祭りの、出店があちこちに出ている神社のステージで、20数年たってやっと、本当の仲いい兄弟になれた、っていう……。お客さんたちにうながされて、3人で漫才を始め、不倫漫才でーす!などと言うのも、先述のホロ苦さがどこかシアワセな切なさに変わってくるし、本当はどっちが父親なんやと突っ込まれて、どっちでもないわ!と金髪のお兄ちゃんの顔を描きこんだバイブレーターをウインウイン言わせながら持ってくる文江がイイ!この場面でのみれいゆの振袖姿がまたカワユくてさあ、もう!そしてこの舞台をこっそり見ていた、漫才に反対していたタツオイクオの両親、母親の方が「いい嫁やな」と言い、いまだゴソゴソ言ってる父親に「あんたかて、笑ってたやんか」と突っ込む、この夫婦もまたイイんだ!
予告編から印象的だった、突き抜けた音楽がピッタリ。画も音も、キャラもはじけ、そして収束の仕方もホロリときれい。傾向的にも、実に好みの映画。★★★★★
全共闘世代、連合赤軍、あさま山荘事件。あくまで単語としてかすかな知識がある程度。その事件が起こるまで、その前段階、原因、過程、を描いた立松和平氏の小説が原作。監督は、これを映画の中でこの「光の雨」の映画を撮影する、という劇中劇の形で描き、しかもその劇中映画のメイキングを撮らせてさらに囲い込んだ。しかもしかも、劇中映画の監督、これが映画デビュー作だという全共闘世代の監督は失踪し、メイキングを撮っていた若い監督にそのあとが託される。しつこい程に“客観性”を重視しているその姿勢に、映画の中の核に触れられないもどかしさを感じる。
多分、監督は(それはこの作品自体の高橋監督も、劇中映画を途中で放棄した大杉漣扮する監督も)、この映画をこの時代を知らない若い世代に向けて語らなければいけないと、語ろうと思ったのではないかと思う。それにはその時代に浸りきっていた自分では正しく描けないのではないかという恐れ(のように感じられてしまう)があり、こんなしつこい程に“第三者の目”を意識した作りにしたのではないだろうかと。しかし、そうすればそうするほど、私が半ばマゾ的に渇望した切実さが遠く離れてゆき、俳優もまた劇中映画の俳優というワンクッションを置いているから、どこか焦点がボケてしまう。役を生きたい、と考えている俳優の意気込みすら、阻まれている気がするのである。それはメイキングにおいて劇中俳優たちが自分の気持ちを吐露する場面においてもそうで、彼らは劇中俳優としての“素”で喋っているのであって、その俳優自身の“素”ではない。その作られた“素”がひどく弱々しいのだ。これは致命傷だった。
実際に俳優自身の素の吐露を撮ったかどうかは判らないが、もしある程度、彼らに考える期間(時間ではなく)を与え、その俳優自身の言葉が聞けたなら、これはかなり面白いドキュドラマになったのではないか、などと夢想してしまう。というのは、諏訪敦彦監督の「2/デュオ」などを思い出してしまうせいかもしれないのだけど。劇中で、言葉の力を信じていたと、今でも信じているが……などという台詞が出てくるけれど、この映画の、そしてこの事件に描かれる思想のキーワードはまさしくそれなのだ。彼らが何よりも大切にする思想としての言葉……革命だの革命戦士だの、反革命だの、自己批判だの、総括だの、といったそれが、確かに強大な力を持ってはいるものの、その意味が最初に持っていた、だからこそ大事だったその意味が、まるで真逆の方向に、それも表面上矛盾のない形で方向転換してしまうという、“言葉の力”の逆説的な恐ろしさに戦慄しつつ、でも、ならばそれは本当に“言葉の力”なのだろうか?という考えに至ってしまうのだ。これは私にとってはとてもとてもつらい問いかけだった。言葉に力があると信じたい、でも信じられない時の方が多い。実はそのことには随分前から気づいていた。でも、やっぱり言葉には力があると信じたかった。でもこの映画で、それが本当に対照的な二つの方向によって、こっぱ微塵に砕かれてしまったのだ。それが、作られた“素”の言葉の力のなさと、最初の意味から大きく変容してしまった言葉の力が、暴力となり、兵器となってしまったこと。
でも、その難しい設定の中で、若い役者たちはよく奮闘していると思う。途中から監督をまかされる萩原聖人は、全共闘世代のような思想的な核を持たないことで、頼りなげに漂っているような“その後の世代”の戸惑いを全身から発していて、言わずもがなの上手さ。彼にはもっとはっきりと主役を張ってほしいところなのだが。弁舌の立つ組織のリーダーを演じる山本太郎は彼ならではのカリスマ性で無難に役をこなしている。しかし何といっても特筆すべきは、裕木奈江で、彼女は自身が語るとおり、確かに外見からくるイメージばかりを世間が重視しているようなところがあったし、恥ずかしながら私自身もそんな風に思うところがあって、彼女に対して同性嫌悪的なうっとうしさを感じていたこともまた事実だったのだが、前作、「おしまいの日。」でまず瞠目させられ、今回の上杉役は、役者としてのうまさ、女優としての輝きをはっきりと刻み付けるものとなった。最初の登場シーンから、その低い声に驚かされ、それは図らずも彼女の、自分の信念を信じてやまない……途中からそれが揺らぎそうになってもねじ伏せてしまうだけの信念を持った女、いや人間としての強靭さを示唆していた。しぐさ、立居ふるまい、全てが組織の最高幹部としてのそれであり、こんな小さな、きゃしゃな女性からどうやったらそんなオーラが出るのかと、本当に舌を巻いた。
そうだ、そう言えば裕木奈江の役名は上杉だし、山本太郎の役名は倉重だし、そして劇中俳優としての名前はないし……。小説の方がどうかは知らないのだけど、事件当事者の本名じゃいけないんだろうか?それに先述したけれど、作られた俳優としてのドキュメンタリー風を描くことで、そしてその作られた俳優には名前がないということで、余計に虚構性が増してしまって逆効果だと思うのは、私だけなのだろうか?伝えようとすることが、どんどんフィクションめいて、そして遠のいてしまうと感じるのは……。ことに、“アイドルが女優として脱皮”するという高橋かおりの役の設定など、途中に差し挟まれる彼女のアイドルとしての傲慢な態度や、取材人のインタビュー模様など、えらく芝居じみていて、なんだか白けてしまう。人間としての体温がどんどん遠のいてしまう。必要以上に入り込むことへの懸念があるのかもしれないのだけど、でも、入り込んじゃった方がよかったんじゃないか?緊迫したリンチシーンが終わると、その死んでしまった役の人の撮了で、いままでリンチするがわだった山本太郎がその殺した相手にたばこを勧めたりするのも、確かにホッとはさせられるものの、劇中映画という範疇を越えて、描いているものそのものがフィクションめいて感じられるのは、危険だと思うのだが……。それに、そのリンチ殺人場面が煮詰まってないというか……こんなこと言うと今の残酷映画に慣れきった映像不感症みたいな感じでイヤなんだけど、彼らにそこまでさせるまでの説得力がないのだ。それもまた、どこか遠慮しているような、あえて入り込まないようにしているのが裏目に出て、訴えるべきものがこちらに伝わってこない、って感じで……。幹部の二人(それももともとは別組織の)がカンパを募るために上京し、アジトである狭いアパートで風呂に入ったりコタツでみかん食べたり、そんな描写がことさらにヘンにリリカルに響くのは、効果的だといっていいのかどうか……。これはやはり、原作をきちんと読んでみるべき、なのかな。
革命を起こしたいと思うのは、それが変えられると思える社会だから、なのだろうか。今そんな思想が出ないのは頑張っても変えられないと思うから……だとしたらどっちが幸せなのだろうか。でもこういう思想や信念が出、それにのめりこむ人たちがいる、というのもある種の群集心理というか、時代の気分なんだよね。だってそういう“空気”がなければ、そういう思想には至らないから。だから、今なら間違ってる、って簡単に言えるけど、それはあくまで今の時代の“空気”があるから、なのであって、また30年前の空気が再びやってくることもないとは言えないし、何が正しいのかなんて、それこそ人類の歴史が終焉を迎えてみなければ言えないのかもしれない。でもそうなったら、正しいことも間違ったこともなくて、ただ事実だけがそこに横たわっている、という気もする。大きな目で見てみれば、きっと同じようなことの繰り返しだった歴史というものが……。
思想や信念など見つからず、何となく息苦しい気分に支配されている私のような世代にとっては、「リリイ・シュシュのすべて」や「まぶだち」の方がよっぽど切実に感じてしまう……のは、うん、ほんと、どっちが幸せなのか判らない。それにしても……私たちの世代でもこうして振り返られることがあるんだろうか。いや、短いスパンでならもうすでに振り返られていることは結構あるけれど、こんな風に30年の月日を要しなければならないほどの重さが、今の時代、今の世代にはないような気がしてならないのだ。だから、今がいいって単純に思えないのは、そこなのかもしれない。★★★☆☆
数々の女性と事件を起こしてきた彼だから、その人自体にばかりどうしても興味が行く上に、それをうかがわせるような“自伝的小説”が多い太宰は、作品論が作家論に容易にすり替わってしまうような危険性を持つ作家である。純粋に作品論をやるのが非常に難しい作家、というのは恐らく太宰だけではなかろうか。彼の策についついハマってしまって、作品論のつもりが彼自身の生い立ちを追ってしまい、作家論、あるいはただの太宰ファンが彼の実像の追っかけをしているだけになってしまう。しかし作品はあくまでもフィクションなのだ。彼の人生を原典にしたフィクション。劇中にも出てくる「駆け込み訴え」なんかを考えてみれば良く判る。キリストとユダという原典があって、あれほどスリリングに書き進めて、はっと気づくと実に鮮やかにひらりとかわされてしまうあの上手さ。だから彼の“自伝的小説”ほどアテにならないものはない。自分が一番よく知っている自分だからこそ、それによって他人を騙すことも、かわす部分のタイミングも完璧なのだ。太宰は“太宰治”という作り上げた自分を演じる天才だった。
本作、あるいは原作が彼のそうしたワナをどこまで注意深く避けていられたのかが重要である。確かに彼自身のドラマティックな生涯は映像化する魅力に富んではいるが、あるいはそのことも充分判った上で、エンタテインメントとして“破滅的作家”の人生を描くという手法なのかもしれない。しかし、太宰自身が作り上げていたキャラを、さらに映画内人物として作り上げ、それを演じるのが河村隆一となると、思わずうーん……と考えてしまうものがある。最初にそのキャスティングを聞いた時はなかなか面白いかな、と思ったが、実際に観てみるとうーん、うーん……と悩んでしまう。勿論、それは私が太宰ファンの一人であり、彼に対して動かしがたいイメージがあるせいもあるだろうけれど、やはりここはもっと役者的役者、没頭する役者、イメージにかなった役者に演じてほしかった。私の好みとしては田辺誠一である。いや、それも単に私が田辺誠一が好きだからに他ならないのだが……。
何というか、河村隆一の演じる太宰は虚構のその人そのものなのだ。彼にホレてしまった女が面倒を見ずにはいられない、というような……。よく太宰治を好きだなんていうと、クラいと思われるとかいうことがあったのだが、それはまさしく太宰が作り上げた虚構の太宰治であり、実際の職人作家、太宰治その人ではないという気が、私にはしてならないのだ。でも原作者の猪瀬氏は、そのことを判っていらっしゃるのだと思う。それは彼の死に対する謎解きの部分で推測できる。何とか太宰のワナにはまらずに、本当の太宰の実像に迫りたいと思う人ならば、彼が心中で死んでしまったということに対して、おかしい、何か間違いがあったのじゃないかと思うに違いないから。それこそ“自伝的小説”に目を奪われていると、心中、ああいかにも太宰らしい……と思ってしまいそうになるのだが、太宰は実に意欲的な作家であり、特に断筆となってしまった「グッド・バイ」には、それまでには見られないブラック・ユーモアにノリにノッている太宰が生き生きと感じられた。こんな小説を書いている途中で、死にたいと思うわけがないんである!
おっとっと、こりゃ私が一番太宰のワナにハマっているんじゃないか!?でも、かつてテレビドラマ化された時にも争点はこの部分で、太宰と冨美栄が死んでしまったのは、あの雨の日のせいで足をすべらせて流れに飲み込まれたとか、そういう解釈だったんである。本作では思いつめた冨美栄が死ぬ気のない太宰に青酸カリを飲ませて道連れにした、という推察である。それまでの自殺未遂や心中事件を見ても、致死量に至らない程度にクスリを飲んでその気分を味わっていたとしか思えない(相手が死んでしまったこともあるのは、実に不幸だが……)。いや、そう思いたいのは、作家論に陥ってしまって、イメージとしての太宰が定着してしまい、本当の太宰が見えなくなることへの恐れ、つまりは太宰にホレ込んでしまうがゆえのあがきであり、まあ結局は一ファンの願望に過ぎないのは判っているのだが。
でも、だから太宰はちっともクラくないのだ。いわば、明るくウソをつく芸人。あるいは職人。ダマされちゃいけない。河村隆一はすっかりダマされてしまって、いかにもな太宰に溺れている。いや、監督が、かもしれない。これでは面白くないのよ〜。いやいや、この作品の主人公は太宰というよりも彼と関わった女たちだから、別にそれでもいいのかもしれない。彼女らもまた太宰のワナに陥ってしまった、あるいは進んで陥った実にうらやましい、幸福な人たちだったのだから。もうけ役の冨美栄に扮するとよた真帆よりも、何たって初枝役の珠緒ちゃんがピカイチである。彼女は映画女優で生きていかなければならない運命の人なのだ。ようやく本格始動を始めてくれて嬉しい限りである。彼女って、着物のしっくり感とか、ああ本当にこの子は育ちがいい、イイ子なんだな、と思わせる、とにかくお気に入りの女の子なのだ。無学だけれど愛情だけは質、両ともに天下一品だった彼女、太宰にとっては生涯の女たちの中で絶対に一番であったにちがいない彼女。だからこそ彼女の間違いが彼には許せなかったのだ。彼のいない寂しさ、不安さゆえの間違いだったとしても。
そして緒川たまき。ああ、彼女もまたスーパーお気に入りの女優さんで、珠緒ちゃんからの連打の嬉しさに、私はもう息も絶え絶えなのである。「斜陽」のモデルになった、没落貴族のはかない美しさを持つ彼女。まったく、彼女の浮世離れした透明感ときたら、本当に大田静にピッタリである。あの、静寂の中に清冽な水が滴るような声といい、ホント、素晴らしいです。彼女が太宰との間にもうけた子供、つまりは妾の子が、太宰の才能を受け継いで作家(大田治子氏)となっている、というのは、虚構の天才、太宰自身にも操るのは不可能であった運命の不可思議さ、だよなあ。
そしてそして、裕木奈江。かつての頼りなげなイメージを「光の雨」での女優ド根性ですっかり振り払った彼女は、ここでも気丈な奥さんを実にカンロクたっぷりに演じていて頼もしい限り。実際、かつてのイメージのままだったら考えられないキャスティングなのだから、やはり残るのは真に実力のある役者なのだなあ、と思わずにはいられない。彼女がいたからこそ、作家・太宰は虚構の自分も、作家としての自分も、追究していくことができたのだ。結局、太宰ってちゃんとイイ女ばかりをチョイスしているんだよな。自分の作品の糧になるような恋愛をしてる。まあ、冨美栄だけは誤算だったかもしれないけど……。
んで。こんな風に女の変遷で語るから、何だかやっぱり分断されちゃうものを感じてしまう。流れがない、っていうか。時代と女の名前のクレジットが同一に語られていくのって……うーん、やっぱしちょっとね。何か気に入らない上に、のめりこめない。こんなドラマチックな人はいないと思うのに、ドラマチックさを感じないのは致命的じゃないのかなあ。
太宰を語る上でハズせない師匠、井伏鱒二を演じる佐野史郎の作りこみは実に、実ーにナイス!ひょっとしたら太宰以上につかみどころのない人物を、非常に的確かつユーモラスに演じている。太宰の友人を演じる天宮良や岸田修治もまたしっかりとした演技を披露しているからこそ、やはり河村隆一の太宰像が気になってしまう。中版頃からようやく何とか落ち着いて見られるようになったけど、学生服姿の時とか、かなりいごこち悪かったもんなあ……まあでもそれは、ある程度の幅の年齢を演じるという点で仕方ないのは判ってるんだけど。あ、それと銀座のバー「ルパン」での、太宰のあの有名な写真の再現だけはヤメて!あの写真の太宰はすっごくイイ感じなんだから、それを壊されたくないんだよー。いいじゃん、あの写真だけホンモノ使っちゃえばよかったのに。ていうか、やっぱり私ってば、ホント私こそ太宰のワナにはめられているよな、いまだに。くそう。
それにしても、河村隆一氏、サウンドプロデュースって、一体何なのよ。あのラストソングとかイメージブチ壊しじゃない、はっきり言って。せっかくの大島ミチルのいい仕事も台無しよ。ホントにもう。★★☆☆☆
冒頭、観客の前に新しいスターとして誕生するお竜さん。真っ赤なバックライトの中にみずみずしくしなやかな藤純子が登場する、何という印象深さ。第一作から並々ならぬ水準を保っており、藤純子は奇跡的なほどに美しい上に女親分としての気概は男の子分をホレさせるのに充分なほどに凛々しく、高倉健はホレボレするほど男気あふれ、彼の発する、現代の世じゃ一歩間違えば女性蔑視に聞こえる言葉も、彼の言うことなら素直に聞いちゃう。ストイックな男女の心の機微の中にも、熱い感情があふれ、とにかく全てが素晴らしい。
最愛の父親を何の恨みをかった訳ではない、卑怯な辻斬りで失った矢野竜子(藤純子)。幼い頃に母親を亡くし、男手ひとつで育ててくれた父親は、竜子だけはヤクザな世界に入れまいと心を尽くしてくれ、カタギの家への嫁入りが決まった矢先の出来事だった。父親の死骸が横たわった横に咲いていた真っ白な牡丹が鮮血に染まっている。ああ、これが緋牡丹のお竜さんのいわれだったのか……。縁談は破談にされ、一家は散り散りになり、竜子は一人、残されてしまう。後に残ったのは、忠実な子分、フグ新のみ。しかし彼女はフグ新にもカタギになれと言い残し、自分は父親を斬った仇を探すのも含めた渡世の修行の旅に出る。いつしかその腕と器量ときっぷのよさで“緋牡丹のお竜”の異名をとるようになる彼女は、ある賭場でのいざこざから助けてくれた流れ者、片桐(高倉健)と出会う。片桐は、どうやらその仇に心当たりがあるらしい。お竜は彼自身が仇かもしれない、という思いも抱くのだが……。
敵に囲まれてきらめく刃をしなやかにさばいて闘う藤純子は強く、カッコよく、何より美しい、美しすぎる。そこに助太刀として登場する高倉健は、前を広く開けた着流しもヘンな色っぽさがあるわけではなく、とことんストイックで、これぞ“男”!って感じでイイ男すぎる。この二人、脂の乗り切った頃の二人を画面の中にこうして観ることだけでも奇跡的ではないかと思えるほどに画になる。だって、この最初にお竜さんに出会ったこの場面で、片桐は彼女にひとめ惚れ、だったんだよね?もちろん、お竜さんも……。でも二人とも渡世人だから、そんなこと口にはしなくて、あやうく仇同士になりそうにもなって、その気持ちをようやく、ようやく確かめ合うことが出来るのは、クライマックス、最後も最後、仇のところへ切り込みに行って片桐が敵の刃に倒れ、その死に行く彼を泣きながら抱きしめるお竜さん、という場面でようやくなんだもの!うー、こういうストイックさが仁侠映画の美しさだと判っていても……!
お竜さんは、器量のよさはもちろんのこと、女を捨てたと言い放つそのきっぷのよさ、人的魅力でさまざまな人を助け、その人たちが彼女の味方になり、という人の輪を次々作ってゆく。お嬢さんがその細腕で渡世の修行を頑張っているのに、自分だけがカタギになるわけには行かない、と他の組でやっかいになっていたフグ新との再会。その組の親分はお竜さんに岡惚れ(というのは、いくらなんでも彼に失礼か……でもそういいたくなるほどお竜さんの美しさと対照的なほど、若山富三郎ってば悪ノリ気味のひょうきん親分なんだもん)し、これまたソックリに不細工な妹を使って彼女にプロポーズするのだが、固めの杯、を兄弟分の杯のことだと思い込んだお竜さんにあえなく失恋。実にナサケなさそうな、恨みがましい表情で彼女と兄弟分の杯の儀式を行う熊坂親分、笑える。
組同士の争いの仲裁に行った先で、あわやその緋牡丹の刺青を撃ち抜かれそうになったところを仲裁の仲裁に入る女親分、お神楽のおたか。私が緋牡丹を撃とう、と狙いを定めて彼女が撃ちぬいたのは、庭に咲いている緋牡丹。ふわあ、粋だねえ!おたかさんは頑固者のお竜さんを、自分の若い頃にソックリだ、といいここでもまたお竜さんの人柄が作る輪が出来る。おたかさんを演じる清川虹子が本当に粋でカッコよく、その器量に関してはまさしくお竜さんと対照的で、……なんだけど、それまでも含めたおっかさん的なふところの深さがまた、イイんだなあ。
しかしこの人の息子が気はいいんだけどちょっと頭の足りなさそうなボンボンで、そこをワナにはめられてしまう。成金主義とでも言おうか、どんなに汚い手を使おうとも構わず、とにかく自分の才覚だけでのし上がっていこうとする加倉井によって。この加倉井こそがお竜さんの捜し求めていた仇であり、片桐は彼が弟分であることで、彼女との板挟みに苦しみ、あのクライマックスで弟分とともに非業の死を遂げることになるのである。
実際、この加倉井という男は、確かにあくどいやつなんだけど、兄貴分である片桐のことは本当に尊敬していて、男としてホレていて。いろんな辛酸をなめてきた加倉井が、その結果として自分の力だけを頼りにのし上がっていく、ということを選び取り、そのことに対して今更迷うわけにはいかない、と踏ん張ってて。しかし兄貴である片桐に非道なことはするなと言われると、シュンとなってしまう彼を見ると、何か……うん、憎めないとまでは言えないかもしれないけど、一概に悪人とだけ斬ってすてるにはかわいそうというかなんというか……だから、彼とともに彼がホレていた兄貴、片桐も死なせちゃったのかな、なんて……。でも、女として片桐にホレていたお竜さんが、それじゃあんまりかわいそうなんだけど……。
フグ新と気があって仲良くなる、熊坂組の不死身の富士松(待田京介)と、その恋人、君香(三島ゆり子)との恋物語もよかった。二人にも加倉井が絡んでいて、それをお竜さんが助けることで、彼もまた彼女を慕い、お竜さんの斬りこみに同行するのである(もちろん、彼は不死身だから死なない(笑))。いや……その前に、フグ新が単身、加倉井のところに乗り込み、壮絶に殺されるという出来事が前にあるがゆえ、なのだが。この場面のフグ新、めちゃくちゃ泣かせるんだ。彼はずっと、親分としてのお竜さんにホレていた、と言いつつ、実は小さな頃からずっと見守ってきた娘のような思いと、そして美しく成長した彼女に対しての思慕の念も勿論あって、彼がもうダメだと、死んでしまうと自覚して、お竜さんに故郷の歌、五木の子守唄を歌ってもらい、彼の脳裏には、娘時代のお竜さんのさまざまな思い出が白い紗がけの画面で駆け巡っているのだ。この五木の子守唄っていうのも、ひどく美しいメロディで、私大好きで、あまりに美しすぎて哀しくなって、それもあいまって、グッときてしまう。
そしてもう一人、強烈なキャラが、いかさまを見抜かれて指をおとし、闇討ちしようとしたお竜さんにさらにやられて顔に傷を負った賭博師、蛇政である。演じる沼田曜一が、彼特有の気味の悪さを存分に発揮していて、傷のない登場場面からしてもう、額に脂汗浮かべて、その目の下にどす黒く隈作ってて、うわあ、気味悪うー!とか喜んじゃったもん?いかにも理不尽な恨みを持ちそうな男で、絶対同情できないというキャラとしてある種の潔さ?何だかんだいって、気に入りの俳優さんなのだ。
おたかさんの息子が「うわあ、もんのすごきれいなお姉ちゃんがいるわ」とあっけにとられたように言う、あの台詞が実に単純に、しかし明確にお竜さん=藤純子の美しさを表現してたよなあ……。白く塗りこんだ肌、実際の唇の輪郭より小さめに指した紅、と造作を作りこんでいることはその目にも明らかなんだけど、それがこれだけ映えるという意味でも、尋常ではない美しさだ!★★★★★
「壊音」ではわっかんないなあ、とは思いつつも、前提としてあるはずである物語世界を映像表現の前にぶっ壊すだけの意味も感じたし、どこか詩的な美しさもそりゃ感じたけど、本作ではそれをやる意味が、本当に、全然、判んない。というか、もったいない。本作に関しては、全く物語が見えなかった、オブジェのようだった「壊音」とはさすがに違って、台詞もまあそれなりに聞こえるし(それなりに、なんだけど)ストーリーも判る、と思ったんだけど、でもオフィシャルサイトでストーリーを確認してみるとやっぱり驚いちゃうんだよね。ええ?こんなん、あった?細かいところとかはやっぱり全然判んない。画的なキャラとしては面白いなあ、と思ったけど一体どんな役柄なんだかさっぱり判んなかった、宮藤官九郎扮するバイオが、そんな重要なキャラだったなんて、とビックリしちゃうありさまなんだもの。一体、どうしたらいいのー?
阿部サダヲ扮するヤスが潜入捜査している日雇い刑事だとずーっと思い込んでいたのは、確かに私がバカだったが(だって、タイトルロールだと信じ込んでたんだもん)、バイオがコンピューターの中にLSDを仕込んで密輸しようとしているとか、というかその前段階で、この長坂組がコンピューター組み立て販売で大当たりした、ってあたりから全然判んなかったのも、やっぱり私の方がバカなんだろうか……。何で接続コードなんて運んでるんだろうとか本気で悩んじゃったんだもん。というのも、先述したけど台詞がただでさえそれなりにしか聞こえないのに、しかも轟音の中に埋没しちゃって、余計に聞こえない。「壊音」のように、物語の解体をこそ前提にしているような作り(少なくともそう私には思えた)ならいざ知らず、本作はそういうわけではないらしいし……。
というより、そうであってほしかった、という私の願望に過ぎないのかもしれないけど。だって、長引く不況がわざわいして、刑事職にまで日雇い制度を使う、だなんて、普段は鳶職人をやっている男が呼び出されて“日雇い刑事(デカ)”になるなんて、そのトボけた設定が、とても魅力的だったものだから……。その設定の性格自体からしてもう「壊音」とは明らかに異なっていたから、てっきり話法を変えてくるんだと思ったのだ。お、いろいろな面を見せる監督なのかな、とか期待しちゃったのだ。ところが……。変えてきてくれたら、どうも判んなかった「壊音」にも作品の一方のあり方として、それはそれで面白いと思えたんだろうけど……つまりは、私にはどうもこの監督の作品はダメみたい。
手法としてのこうした先鋭さは、結構好きな方だとは思うし、映画に対して“理解”できる、できないなんていうヤボなことで判定などするつもりは毛頭ないんだけど、やはり心のどのベクトルにも琴線にも、あるいは本能的な衝動にも響いてくれなければ、自分の中では不可とするしかなくて。……でもさあ、「壊音」とは違って、この物語は監督自身の手によるものなんでしょ?ということは、こういうトボけた味わいを出す土壌がこの監督の中にあるということだよね。そのトボけた味わいを、なぜ暴力的な音と光と聞こえない台詞の中に埋没させてしまうのかなあ。それとも、これをトボけた味わいと感じているわけではないのかなあ。あるいは、こうした処理の仕方をすることで、カッコよくなるという目論みなのかなあ。そうだとすると、うー、これを言うのはギリギリの最終的な、つまりは自分の中では反則モノなんだけれど、好みの問題としか言いようがない。
キャラ設定でずっと誤解していたにもかかわらず、その言動が一番ハッキリと見えていたのは阿部サダヲであった。私は彼が目当てで行ったようなフシがあるので、まあそれは嬉しかった。阿部サダヲ扮するヤスは何かっていうと東大の学生証をチラつかせ(ていたもんだから、現役学生なのかと思った)、長坂組の面接に挑む。哀川翔や竹内力のVシネのタイトルを連呼する彼に眉をひそめる組長。事態を察したヤス、「「仁義なき戦い」も好きです」と言うと、「そうだよなあ、そっちで行こうよ、なあ」といきなり相好を崩す組長が可笑しい。この組長はそのしぐさ振る舞いがえらくマンガチックで、自慢の妻とのSMプレイに低い点をつけられて激昂するところなんか、まあ確かに笑えるんだけど、ややウケ程度。
むしろ、この組長の背後から、彼にならってこの姐御さんにしきりにちょっかい出したり(耳こちょこちょ攻撃。それにあえいでるこの女、ちょっとブキミ)、シャブそばがき?の味見に手を出してきたり、組長に再三小突かれながらも、ニコニコ笑って、すいません、すいませんと言いながら何度もトライしてくるヤス、いや阿部サダヲが実に絶妙。しかもその軽いノリのまま、姐御さんをあっさり寝取っちゃう。阿部サダヲ、イイんだよね〜。私は彼を見るたびに、なぜかその目を赤く染めたくなる(笑)。何か、そういうイメージなのだ。年の割には(でもまだまだ若いけど)妙に童顔なんだけど、どこか異星人みたいな気味悪さがあるというか。
このヤスの属する組が日雇い刑事に張られているわけで、どっちかというと、日雇い刑事たち側の方にいろんなサイドストーリーがあるんだけど、阿部サダヲの強い印象の下では、どうしても曇りがち?彼らを率いる本職刑事、イタリアだのフランスだのいう男たちは今ひとつ判らんかったけど、日雇い仲間たちには、どうせ日雇いだからとヤッツケに仕事をし、しかもクスリを横流ししてハダカのオネエちゃんたちとウハウハやってる奴もいれば、そんな彼にイカるエリート風お坊ちゃまもいる。そんな彼らを両成敗するのが、主人公である、通称“日雇い”(ややこしいな……なんで彼だけが“日雇い”って、そのまんまなのよ)。
追う相手と追われる相手である“日雇い”とヤスだけど、組長を殺しちゃったヤスとヤスに撃たれちゃった“日雇い”は、なぜか一緒に居酒屋になだれ込み、「人を殺した後のビールは旨い」「撃たれた後のビールも旨い」と意気投合してしまう!?このあたりのノリはかなり好きである。……ひょっとしたら、後半になって私もようやく慣れてきたのかもしれない?しかもこの後、“日雇い”と二人、夜を明かしたヤスが土手で目を覚ますとヤスを捕まえにきているイタリアとフランスが覗き込んでて、ヤスを連行するんだけど、なぜか唐突にヤスの娘が「パパ」と呼びかけてくる。おいおいおいおい、何でお前に子供がいるんだよ!どっからそんな設定が出てきたんだあ〜!?画面に見切れて終始後姿の女性が妻らしいが、ヤスってば女子高生風の女の子とヨロシくやってたじゃん……。しかしこの娘に二度、三度、いや四度と、刑事を振り切って抱きつきに行き、しまいには、早合点して刑事だけがビクリと振り返り、更には、また、と思わせて今度は前方に逃げていくヤス、というナンセンスさが、阿部サダヲだからこそ醸し出せる可笑しさで。うん、この場面は文句なく好きである。でも画面はめちゃめちゃ逆光のハレーション。阿部サダヲの表情が、み、見えないよう。
ダメダメダメと言いながら、結局阿部サダヲに諭されてしまった?感じ。うーん、でも奥監督、次作が来ても、観に行くかどうかはすこぶる自信ない……。★★☆☆☆
しかし、らいてうは悲壮な覚悟で女性運動を進めたとか、そんな感じではまるでない。彼女自身の自伝を抜粋したナレーションに、さまざまな資料の挿入やインタビューで構成される本作によって描かれるらいてうは、第一に人物として非常に面白い。まず彼女はふんわりしたうりざね顔の美人で、女性運動から連想されるようなトゲトゲした感じがまったくない。その昔には師である森田草平に一方的にホレられ、深刻な手紙を再三送られ(手紙ってところが、まあ時代ということもあるんだろうけど、コワい。ま、文士だからね)、一人勝手にせっぱつまっちゃった彼に心中を迫られ、「好奇心でついていった」というところからしてまず常人では考えられないのに、結局覚悟が決まらずに死ねない彼を冷めた気持ちで見つめ、彼女が彼を引っ張るようにして下山したというあたりがカッコよすぎる。
恋愛や、それが女性にもたらす旧来の概念に対する彼女の反発の仕方というのが、とにかく面白いんである。処女性に縛られるのを嫌がって、恋人でもない男と待合に行ってさっさと処女を捨てちゃうエピソードにはかなりアゼンとさせられるのだが、らいてうだからこそ颯爽とした行動に思えてしまう。「青鞜」のことは無論知っていたけれど、その女性だけの雑誌がこれほどまでに「新しい女性」としてバッシングされていたなんて、知らなかった。しかしそれもまた痛快で、そこで繰り広げられる女たちの仲間意識と、その鮮やかな言動、行動には、現代の女性たちですら到底かなわない。今までは女たちが群れて女の権利、などと叫ぶなんてどこかミットモナイと思っていたんだけど、本当に志を同じうする女たちが、力を合わせて事を成し遂げるのは、こんなにカッコいいんだと目を開かれる思いがする。男性や、あるいは現代の女性たちに欠けているのは、この基本的な仲間意識かもしれない。結局は一人一人の利害で、都合のいい時だけ結束を試みようとする、例えば現代の政治家のセンセイたちなどとはまるで違う。
彼女が年下の画家、奥村博(後、博史)と出会い、出会った時から惹かれあい、一時引き裂かれもしたものの(“若いツバメ”という言葉がこの時二人を揶揄されて生まれたなんて、知らなかった!)、一緒になった時、その奥村へのノロケや舅、姑に対する拒絶発言を、「黙ってやればいいのに、わざわざ雑誌に発表しちゃったんですよ、らいてうは」と実に嬉しそうに解説する瀬戸内寂聴の言い方に大笑いしてしまう。男の下に一方的に入るような今の法律はイヤだといって、結婚ではなく共同生活、子供が成人し、就職問題(兵役問題だったかな)が出るまで籍を入れなかったというのが、現代の夫婦別姓問題をはるか昔に実践しちゃっていることに驚かされる。カッコよすぎ!
また、このらいてうと奥村というのが、実にイイカップルで。80何歳かで、まさしく天寿を全うしたという形でこの奥村が死んだ時、「寂しいというより、悲しいわね」と言ったというらいてうの言葉は本当に凄い。それは彼のことを出会った時と変わらず、本当に最後まで愛していたということなのだもの。実際、それを裏付けるように、彼らは若い時から晩年に至るまで、二人、もしくはプラス子供たちを入れた写真をたくさん、たくさん残している。そのどれもがホレボレするほどステキなのだ。奥村は芸術家ということもあってか、家父長制度とか、男が家を守るとか、そういった意識は希薄だったらしく、子供に語ったという「お母さんはお母さんの好きなことをやった方がいいと思う」という言葉が実に胸に染みる。好きなことしかしないというのはらいてうも奥村も共通していたわけだけど、パワーとスピードでめまぐるしく突っ走るらいてうと、のんびりおっとりの奥村は想像するだに絶妙なバランスが取れている夫婦だったのだろう。まあ、こんな二人だから経済的に豊かだったとは言えなかったかもしれないけど、どちらかがどちらかにおもねるとか、あるいは理解を示すとか協力するとかそんなんじゃなくて、お互いに完全に対等で、一人間としてそれぞれの思うことをせいいっぱいやり、その上で二人でいること、家族でいることの意味を見出していた彼らは本当に凄い。素敵すぎる。
彼女が最初に目覚めた、「女子教育」という本。それは勿論男性教授による著作で、彼女は後にその教授を追っかけて日本女子大学に入るわけだが、「人として女子を教育すること」という言葉に惹かれたという。今となっては侮蔑的にも響くこの言葉が新鮮に映るほどの時代に、らいてうのようなニュートラルな女性がのびやかに生き、発言し、行動したということの奇跡を改めて感じてしまう。年若い頃に出会った禅にのめりこみ、それが彼女の基底にあることも興味深い。先天性と後天性の意識の高さ、その二つを融合する柔軟さ。法や権利、制度や平和について、組織を作り、提言をし、最晩年まで一線で行動し続け、実際に活動が出来なくなっても、最後まで発言し続けることを止めなかった。彼女が発言したさまざまな題目がズラズラズラーッとクレジットされ、その膨大な量に本当に圧倒されてしまう。
この映画で描ききれないほど、多くの業績を残したというらいてう。まだあるのか!と驚愕を隠せない思い。人生は等しく尊いものだと思うけれど、こんな濃密な生涯を見せつけられてしまうと……。ああ、だから、彼女の努力、尽力の末に勝ち取ったものを、当然だなどと思って安住してはいけないのだ。彼女が最後まで美しかったのは、信じた道を思い残すことなく突き進んだから……化粧なんかに時間をかけている暇があったら、現代の女性たちもガンバラなくてはいけないのだ。★★★★☆
何たって、ARATA氏の素晴らしさはその声にある。とんでもない美声。これまでも出演作の全てで彼の声には魅せられてきたが、本作では作品自体、画面自体が劇画そのままのエキセントリックな弾け方をしているので、ギャップとしてのARATA氏の声の美しさが響き渡るのだ。彼の声だけステレオ放送で聞こえちゃったもんね。まあったく、何でまたこんな素敵な声をしているのだろう!アンタ、声だけで女を陥落できるよ、マジで。ARATA氏とサシの場面が多い竹中直人氏も重く響く美声の持ち主なので、この二人の場面は実に“聴きごたえ”がある。
そのあたり、これもまさしく窪塚氏と対照的。窪塚氏はその“劇画そのままのエキセントリックな弾け方”をまさしく体現しており、彼の方がこの作品における正しいアプローチだとも言えるのだけれど、そしてそれこそが窪塚氏特有のユニークな個性なのだけれど、エキセントリックな窪塚氏をも凌駕してしまうARATA氏の繊細なオーラには本当に降参してしまう。はい、勿論声だけではありません。本作のARATA氏は今までの出演作の中で容姿も一番美しいんじゃないかな?彼は髪型でとても印象の変わる役者さんで、「ディスタンス」などでは誰これ?と思ったものだが、こういう髪が一番良く似合う。実はそこもまた窪塚氏と対照的なのだ。窪塚氏はヘアスタイルぐらいじゃ印象、変わんないんだよね。役に自分の中にあるものからアプローチしていく窪塚氏と、役そのものに染まっていくARATA氏、という感じかなあ。この対照的な役者二人をツートップで持ってきているのが、この作品の面白さかもしれない。
実は、窪塚氏よりもユニークな個性を持っているんじゃないかと思われるサム・リーが、その面白さを発揮されないままアッサリと途中退場してしまったのが残念。サム・リーはこの作品(というより原作。まあ、読んではいないけど、ちらちらと見聞きするイメージから)の異質な面白さが非常に似合うとキャスティングの段階からとても楽しみにしていたから。結構シリアスなまんまで終わっちゃったよねー、うーん、残念。「花火降る夏」や「ジェネックス・コップ」で見せたような、彼の乾いたユーモアが是非見たかったな。屈折したエリート役、上手かったけど……。
エリートといえば、卓球エリート校、海王高校のスキンヘッドのメンメンは皆スゴい迫力だったが、そのエース、ドラゴン役の中村獅童の凄いオーラときたら!まあ、眉をそり落としているせいかもしれないけど……(笑)。彼が、今まで誰のために卓球をやっていたのかっていうような悲壮さでプレイしていたのが、卓球が大好きで大好きでたまらないペコと打ち合うことで彼の奥の奥の奥底の卓球への愛が掘り起こされて実に嬉しそうな、幸せそうな笑みを浮かべてラリーするとこ、今までのコワモテがあったからそのギャップもあって、ちょっとジーンと来ちゃったよね。彼がそうした幸福の境地に昇華されるに従い、周りが真っ白になるCGは、……意図は判るけど盛り上がってた気持ちがちょっとばかし冷めちゃったけどさ。
実際、こういうオーラは役そのままの年齢じゃ出ないよねー。本作は72年生まれ(私とおない年じゃん)のこの中村獅童を筆頭として、その二つ下のARATA氏、同じくアクマ役の大倉孝二などなど、高校生というにはあまりにキツいメンメンばかりだが、最近は、そうした年齢ギャップのキャスティングに対する苦情?も聞かれなくなった。一時期は、中学生役とか高校生役とかにそうしたお年(笑)の方がキャスティングされると、それだけで、そんな年には見えないとかヤボなことを言う輩もいたけれども。まあ、そりゃ、本作だって、誰一人として高校生には見えまい(あ、窪塚氏は割と見えちゃうか。この中では一番若いし、女の子みたいな可愛らしい童顔だからなあ。「GO」でもちゃんと高校生に見えたもんね)。だけど、漫画が原作ということもあるのかもしれない、そのフィクショナルな感じもまた、イイんだよね。アクマなんて、顔からしてフィクショナルだもんね(失礼)。いやー、こんな役者がいたとはね。フィルモグラフィ見てみると、結構映画で見かけてたはずなのに、全然気がつかなかったなあ。
何か役者の話ばかりになっちゃったけど、当然この作品の成功のポイントは、何といっても卓球がテーマだということに他ならない。とかく地味で、あるいはお遊びなイメージの強い卓球を、入り込みやすいようにそうしたコミカルな方向からアプローチしながらも、卓球本来の魅力をしっかりと伝えようとする。もともと特殊映像の世界のエキスパートであるこの監督が、いかにもなスペクタクル映画ではなく、この題材を選んだのは、まさにそこにこそ表現したい気持ちがあったに違いない。それそのものの技術を見せるのではなく、テーマをより明確に、魅力的にするための手段として。はっきり言って日本での卓球のイメージって、映画にもなったけどまんま「卓球温泉」じゃない?(まあ、あの映画、結構好きだったけどさ)そのコミカルさを確信犯的に踏襲しながらも、スポーツとして、そして青春モノ、あるいはもっと突き抜けて人生モノにまで仕立て上げてしまった本作の功績は大きい。
かけがえのない親友同士のはずなのに、劇中では分けて描かれることが多いのが余計に切なさを募らせるペコこと星野(窪塚洋介)とスマイルこと月本(ARATA)。星と月というのはいかにも象徴的で、小さいながらも自ら光り輝くペコと、自分だけでは光れない、何かを、誰かを反射しなければ光れないスマイル。ついでにその二人のまわりを嫉妬と羨望で惑星のごとくぐるぐる回っているアクマ(笑)。もしかしたら才能はスマイルの方があったのかもしれないけれども(スマイルがアクマに「卓球の才能がないからだよ」とクールに言い放つ場面!)、卓球が好きで好きでたまらないペコをまぶしく見つめるスマイルが、彼に負けた時にこそ、表彰台でうっすらと笑みを浮かべたのは当然だったのかもしれない。その後が描かれるくだりで、世界に打って出ているペコと、卓球を愛する市井の人として暮らすスマイルの描写、それでラストを締めくくったのは良かった。いい後味。んで、このシーンで、卓球場で小さな男の子にマンツーマンで指導するARATA氏がまた素敵なんだ!そのネクタイ姿も妙にイロっぽく、その時の囁くような声が一番美しくてドキドキしちゃう。ああっ。
あっ、あっ、ところでさ、キャストクレジットの中に“佐藤幹雄”の名前があったんだけど……それって、もしかしてあの佐藤幹雄君?い、いったいどこに出てたのー!?くやしい、見逃した!★★★☆☆