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脳内ニューヨーク/SYNECDOCHE, NEW YORK
2008年 124分 アメリカ カラー
監督:チャーリー・カウフマン 脚本:チャーリー・カウフマン
撮影:ブルース・トール/レイ・アンジェリク/フレデリック・エルムズ 音楽:ジョン・ブライオン
出演:フィリップ・シーモア・ホフマン/サマンサ・モートン/ミシェル・ウィリアムズ/キャサリン・キーナー/エミリー・ワトソン/ダイアン・ウィースト/ジェニファー・ジェイソン・リー/ホープ・デイビス/トム・ヌーナン/セイディ・ゴールドスタイン/ロビン・ワイガート
あのね、大前提である「自分の頭の中の理想のニューヨークを本物のニューヨークの中に作り上げる」という筋立て自体、私見ててちっとも判らなかったんだけど……それってやっぱりおバカな私だけなの??ホンット、今回ばかりは多少情報を頭に入れて足を運べば良かったと痛切に思う。その前提が頭の中に入っていれば大分違ったような気がするもの。
でも、それって本当にそうなのだろうか?カウフマンは本当にそう思ってこの物語を作り上げているのだろうか?私にはケイデンが、これぞ理想のニューヨークだと思って作り上げているとは思えなかったし、大体ニューヨークだっていう感覚すら、なかった。
確かに彼はニューヨークに住んでいるけれど、ニューヨークの片隅って感じだし、劇作家ではあるけれど、それこそブロードウェイだのなんだのという大劇場とはとんと縁がない。郊外でノンビリ暮らす老人たちのヒマ潰しになるかぐらいの、なんか地方の文化センターみたいなトコでタイクツな芝居を上演するのが関の山なのだ。
と、私には見えたんだけどなあ。彼にとって、ニューヨークっていうのは住んでいる場所にもかかわらず憧れの場所で、思いがけない資金提供がなければ、こんな大それた芝居を打とうなんて思わなかったに違いないのだ。
いや、それより前に、妻と娘に去られたことが原因か、やはり。
妻は彼よりよっぽど才能がありそうな画家である。個展を開くために海外に出かけるついでに、彼と「距離をおこう」と言い出した。
いや、距離どころの騒ぎじゃない。もうこれが実質的な別れだったのだ。この時点で妻はまだコンランしている様子で、彼にちょっとは心を残しているようにも見えたけど、信頼する女友達と一緒に娘も連れて離れてしまえば、もはや音信不通になってしまうんである。
……いや……こんな風に判りやすく物語を言っちゃっていいのかなあ、という気もしている。あのごっちゃごちゃの崩れたパズルみたいな、構成なんてあったのという作品を、後から筋めいたものを思い起こせばそんな物語が取り出せる、って感じで。
この後ケイデンがマッカーサー・フェロー賞(天才賞)を受賞して思い通りの創作活動が出来るのだって、大体、この賞の名前からしてウソくさいし……なんだか全て、彼の夢のような気がしてしまうのだ。
確かに、明らかに彼の夢だと断定できる場面も出てくるんだもの。しかもその場面と、現実(だと思われる)場面には一切の垣根がなく、それどころか、時間も展開も一切無視(している訳ではないのだろうけれど)して、切り取られた場面がポン、ポン、と提示されていく。これを天才、鬼才のゆえと言うべきなのか、あるいは……。
そう、ふと思ったの。この脚本を今までのようにプロの(爆)映画監督に任せたら、それこそマルコヴィッチとかエターナルのように、マジカルな傑作が出来たんじゃないかって。やりたいことは判るような気はするけれど、とてもついていけない。だって何が起こってるのかさっぱり判んないんだもの。
画家であるケイデンの妻の、その作品っていうのはね、スコープで見なければ見えないような、極小の絵画なんである。
それは芸術というより技術ではなかろうかなどと思う……ホラ、米粒に絵を書くとか、マッチ箱の中に並んだスシとか、ああいう類いよ。それこそ日本人が得意そうな分野なので、なんかこんな技術をうやうやしく差し出されても戸惑ってしまうというか。
彼女は自分だけで表現出来る世界が評価されているから、他人を使ってもツマラナイ作品しか作れない夫にアイソをつかしたのだろうか……?
いや、そんなアタリマエな展開じゃないのよ。大体、ケイデンがどうにもおかしくなったのは……ていうか、最初からそうだったのかもしれないけど、朝、吹っ飛んだ蛇口が彼の額を直撃した時からだった。
思いがけず深い傷で縫うことになってしまった。しかしその足を踏み入れた病院ってのがもう見るからに……なんか地獄の一丁目って感じの暗い陰湿な感じのトコで、眼科だの神経科だの回されて、なんか彼はすっかり……オカしくなったような気分になっちゃう。
だけど妻はそんなこと鼻も引っかけない。ケイデンに水道のパイプを娘に説明させると、身体中の血管を想像してなんかヘンな方向に話が行っちゃう。この場面で奥さんがケイデンに対して「あなたのそういうところがキライなのよ」的な空気をかもし出していてさ、なんかもう、最初から破綻は見えていたのだよなあ。
果たして妻は娘のオリーブを連れて出て行き、ケイデンはこんなオカシな状況でひとりぼっちになってしまった。
自分に好意を寄せてくれているボックスオフィスのヘイゼルとイイ仲になりそうになるも、妻子がいるという道徳的な観念、何より娘への愛情が頭から離れず、これからってトコで中断するという一番やっちゃいけないことしちゃって、彼女は別の男と結婚してしまう。
ケイデンは、自分が抱えている女優のクレアと関係を持って、娘まで持つようになるけれど、どうも自分の中でしっくりこないというか。
そしてあの、マッカーサー・フェロー賞受賞の通知をもらうんである……。
ていうか、ぜえったいこんなにスッキリ筋道はたってないのよね。大体、これが現実に起きていることかどうかさえギモンである。
だってこのヘイゼルが「この年になったら、もう家を買うことに怖がることはない」と自分に言い聞かせて購入する家ってのが、“火事になっている家”、そう、常に炎が家のあちこちに起きていて、煙が充満していて、下見に行った時には地下室から不動産屋の引きこもりの息子がパンツいっちょで現われるという異常さなんである。
これはてっきり夢の話かと思ったら、その後ケイデンがヘイゼルと関係を持ちそうになる時にも、そして二人が何年か後に再会して、既にヘイゼルがダンナと三つ子と共に暮らしている時にも、その“火事が起きていて煙が充満している家”にヘイゼルは住んでいるんだもの!
何より、ケイデンが“マッカーサー・フェロー賞”を受賞して後、その賞金を使って始める壮大な芝居こそが、とても現実とは思えないのだ。
これが、あの大前提「自分の頭の中の理想のニューヨークを本物のニューヨークの中に作る」というアレである。
莫大な賞金を元に、現実とソックリのセットを作り、現実とソックリの芝居を上演する。現実は進行しているから、当然芝居もどんどん変わっていき、ゆえにいつまでたっても上演するメドは立たず、実に17年たってから「いつこの芝居は上演するんだ?」とキャスト、スタッフから突っ込まれるという異常さ。
最終的に、この芝居は観客に見せることなく終わる。そもそも観客に見せるつもりがあったのかどうかはすこぶるギモンである。そのことこそが、この特異なる作品の大いなるテーマであったんじゃないかと思う。そしてカウフマンは一体……どちらが正解、とまではいかなくても、重きをおいているのだろう。
そう、観客がいることが前提の芝居と、そうじゃない芝居。
ていうか、そもそも、観客がいない芝居というものが成立するのだろうか……?
ということが、私がここ最近苦しめられている“判りにくい映画”に即座に通じるものなのだろうと思う。
映画もまた観客がいなければ成立しないメディアだと思っていたけれど……いや、ナマの芝居のことを考えれば、映画は観客がいなくても成立するのかもしれない、と思った。つまり、おバカな観客なんてお呼びじゃない、作家が自由に作って、今じゃなくても評価される時を待てばいいのだ。でも……芝居は?ナマの芝居はさすがにさすがに、そういう訳にはいかないんじゃないの。
ふと、思った。ケイデンを捨てた画家の妻。スコープがなければ見ることが出来ない極小の絵を描く。それは、スコープを使って見る、ということを強いるという点で、時間や場所を縛る映画や芝居とちょっと通じるところがある。
芸術と呼ばれるものは、時代と共に進化していく過程で、それを受け止める側に何がしかの強制を求めなければ成立しなくなっていったのだという思いを抱く。
ただそこにある彫刻や、ただ壁に描かれた絵を受け止めるのに、時間も何もいらない。そこから始まった芸術は、文学、音楽、映像、と受け止める側に必ず何かを強いるようになった。その時点で人間の傲慢があるし、そして……その時点で、受け止める側のことを計算に入れなければ成立しないんじゃないかと思ってしまうのだ。
……大分話がそれてしまったけれど。なんかね、ケイデンが作り上げようとして、結局はどこまでいっても終わりがなくて自然崩壊どころか悲惨な結末を迎えてしまった“理想のニューヨーク”は、誰も見る人がいないどころか、見たいと思う人も、見ようという人もいないってことが……キツイんだよね。
確かに人の一生、あるいは誰かの視点から見た一つの都市、という世界は深いのかもしれない。でもそれは、あくまで客観視した時に普遍的な何かが見えてくるからこそなのだ。
ケイデンはどこまでも自分の視点で作り上げようとしていたから、そりゃあ彼の死まで終わりがある訳もなく、芝居である以上、自分で自分の役を演じることも出来ない。
ていうか、「自分こそ、ケイデンを完璧に演じられる」と現われた同じ年恰好の男、サミーは一体何者だったのか。
ずっとケイデンをつけ続けて、本人よりもケイデン自身を判っていると言ってはばからないような男。
彼の出現から、ケイデンの作り上げようとする世界はおかしくなっていくんである。いや……何者か、なんて、私、この世界が現実のものとは思われない、全てがケイデンの夢のような気がする、って、言ったじゃないの。なのに、やっぱりどこか現実味もあって、その境が全然ないから、サミーの存在をどう受け止めていいのか判らないのだ。
彼は、ケイデンが、自分をすべて判ってほしいと願ったゆえの存在だったのだろうか。
それとも、妻や愛する娘に去られたミジメな自分じゃない、理想の自分を求めたがゆえの影武者だったのだろうか。
ともあれ、彼の出現によって、代役の代役、といった奇妙な自体が頻発するんである。もともと芝居なんだから全てが“本人の代役”のハズなんだけれど、それを顕著に感じたのがサミーと、この芝居を作り上げるに当たって、アシスタントとして雇い入れた、ヘイゼルの存在だった。
ひとりぼっちだったケイデンが偶然再会したヘイゼル、既に家庭を持っていたヘイゼルだけれど思いが再燃して、そして彼女はダンナと別れて……。
だけど、ヘイゼルの存在が彼にとって大きくなることで当然、ヘイゼル役も必要になってきて、女優を雇うことになるんである。
これが、ヘイゼル役のサマンサ・モートンとミョーに似た雰囲気を見事に出してくるエミリー・ワトソンで、劇中、“ヘイゼル役であるエミリー・ワトソン”と“ヘイゼルであるサマンサ・モートン”がごっちゃになり、ホントのヘイゼルがケイデンの代役であるサミーと親密になったり、“ヘイゼル役”の方のワトソンがホントのケイデンと肉体関係を持っちゃったりするもんだから、もう見ててやたらごちゃごちゃになっちゃうのよね。
というのも、劇中、結構頻繁に人が死ぬということがあるのだが……。
死とその葬儀にリアルと代役が入り乱れる。まず亡くなったのは、ケイデンのお父さんだった。その時には二番目の妻であるクレアが同席してくれた。
そしてお母さんが亡くなった。しかも強盗による殺人でだった。その時にはヘイゼルと既に親密になっていたけれど、サミーと親しくしていたヘイゼルを呼ぶことが出来ずに、ヘイゼル役の女優に同席してもらい、まだ血しぶきが生々しく残る家で彼女とファックした。
そして、代役であることに生きる意味を失ったのか、サミーが自殺した。それは確かに……途中までは、飛び降りようとするまでは、ケイデン自身がやろうとしたことだったけれど……。サミーの死のあたりから更に事態がおかしくなる。
すっかり疲れ切ってしまったケイデンに、じゃあ、私があなたの代わりをやろうと言い出したのが……なんと女性だった。
掃除婦エレン役のミリセント。だってさ、そもそも、そもそも……、そう、この“掃除婦エレン”が出現してからが最も狂ってしまったのだ。
そこは、亡くなった妻の住むアパートメント。しかし妻に会うことはなく、ただ「あなたがエレンなら」と隣に住む老夫婦から鍵を渡される。
部屋に置かれたメモが妻の声でナレーションされるんだけれど……まさに病気って感じで咳き込んでいる。ケイデンは几帳面に妻の部屋を片付け、誰かとセックスしたかもしれないベッドに横たわる……。
そもそもその前に、ケイデンは探し続けていた。妻、というより娘を。どうやら妻のレズビアンの友人、マリアに“開発”されてしまったらしいオリーブは、ケイデンの記憶にある5歳のいたいけな娘ではなくなってしまったのだ。
でもそう……彼の中ではずっと、5歳のオリーブのままだったんだよね。ローティーンに育った姿で、身体中に花のタトゥーを入れて“フラワーガール”としてアングラ芸術の世界でもてはやされているのを見て頭に血がのぼっても、それでも5歳の娘のままでさ……。
すっかり年老いて、ハゲになったケイデンが、娘がストリップダンサーになっている場所に出かけて「私の娘だ!」と吠えたり、もはやドイツ語しか喋れない虫の息の娘に、請われるままに、自分はゲイだ、エリックとアナルセックスをした……などと“告白”させられたりしても、彼にとってはずっとずっと、幼いオリーブのままなのだ。
この時、もう死ぬ間際の、チューブにつながれたオリーブは、同時通訳のヘッドフォンをして父親と会話した。
この時点で非現実的だし、この病室が彼女だけの無機質で殺伐とした空間だってのも、いかにも非現実的で、何より……身体中に掘り込まれた“フラワーガール”たる瑞々しいバラの花は、哀れにも枯れて行き……ぱさりと枯れ葉がベッドの上に落ちているんだもの。
……なんかね、これって、まるで哲学……ううん、詩を映像にしたみたい、と思った。
そもそも実在の人物かどうかも知れない掃除婦のエレンの、子供の頃の回想シーンまで出てくるんだもの。そしてそこで優しげに微笑んでいるエレンの母親が、この脆い理想郷の、ケイデンと共に最後に生き残った一人になるのだもの。
そう、この二人以外は死んでしまった。軒並み。まるでテロかのごとく。
一体何が原因だったのか。思わせぶりに上空を横切る巨大な飛行船。まがいものは本物にとってはジャマだったのか。
妻の姿を一度も見なかった部屋で、エレン役として入り込んだケイデンは、その時から天の声を聞く。いや、あれは神の声なのか、あるいは……第三者としての自分自身の声なのか。
エレン役になったとたん、そう、初めて“役者”になったとたん、台詞や行動を指示する、つまりは“演出”の声が彼の耳に届いたのだ。
その通りにしていくうちに……彼の終わりなき芝居のスタッフもキャストも、皆まるで毒ガステロのように、虚構の街の道々に累々と倒れて死んでいた。
そして……撮影用のカートで“街”をさまよったケイデンが出会ったのが、“エレンの母親役”だったのだ。
肩を乗せていいか、と、天の声、演出の声が聞く。
彼女の肩に頭をもたせかけるケイデン。
彼が真に心を許せるのは、現実の世界の人間ではないのか。
彼がこの壮大?な物語の中で、ようやく到達した真理は、平凡と言えばあまりに平凡、エキストラなんて一人もいない。誰もが自分の人生の主人公なのだ、ということ。
それがいかにアタリマエのことかということを、役者の大半がエキストラ、はいて捨てるほどいる、つまり、ゴミ以下の存在だと思っていたケイデンは知らなかった。
そして皮肉なことに……ケイデンもまた、その他大多数の人々から見れば、ゴミ以下の存在で。
代役が立てられて初めて気付くなんて。自分の代役なんて誰も務められないってこと。代役が代役の範疇を超えて、初めて気付くなんて。
自分はそうは言ってない、そんなことはやってない。そうだ、それは自分だけが知っていることだから、代役が立った途端に成立しなくなる。“代役が立った”ということは、もうオリジナルは必要ないということなんだから。
これだけ人間が跋扈して、役者という存在がいて、しかもそれがスターだったりして、憧れの存在だったりして……。
代役が、自分以上の存在だったら。代役が死を選ぶなら、それが尊いのかもしれない。
“芸術”が発達してしまうと、そんなことが起こりえてしまうのかもしれない。
それこそ俗っぽい話だけれど、アコガレのスターが死んだら、後を追うとかさ。
そのスターだって、素の自分は他にあって、それどころか、自分自身を見失ってそんな悲劇が起こったのかも知れないのに。
……思いっきり間違った方向でシメに入ってるんだろうなーという思いを抱えつつ……そんな風に判ったフリする自分にもイヤケがさしてるのが正直なところなのだ……。★★☆☆☆
ならばこのサブタイトルである本タイトル(ややこしいな)は何かというと、そこがやはり、今までの渡辺あや的、甘酸っぱく切ない雰囲気を残しているんだろうな。
その裏社会に乗っかりながらも翻弄される、青年二人の奇妙な友情物語。ことにこのタイトルは、ダイレクトにつまぶっきーの泣き顔を連想させ、想像しただけで頬がゆるむものがある。
とはいえ本作の中のつまぶっきーは驚くほどのイメージチェンジを図り(まあ単に私が彼に勝手なイメージを持っていただけだろうが)、したたかで時に非情さも垣間見せるワイルドな青年を熱演。
ウワサに聞いていた韓国語も非常に流暢で(日本人の耳から聞く感覚だけにしても)驚かされ、彼の真摯な努力を感じさせて、これまた頬がゆるむものを感じるんである。
そうなのよねー、役柄に没頭するためとはいえ、その努力をついつい想像させるあたりが彼らしいというか。
……まあ、で、つまり、そんな風に思うのは、うーん、やはり(まわりくどいな)この役ってね、やはり板についていないというか、彼らしくないと思ってしまったのは事実なんだよね。ホントはね、うん。正直なところを言うとさ。
だから、彼がそんな非情な顔を見せるのは大切な家族を守るためであり、そのために最愛の恋人がこの手に帰ってこないことを知った時であり、そして何より、彼がガマンの限界を超えて涙を流した時、ああ、これよね、やっぱつまぶっきーよね、と思ってしまう、んだよね。
比重としては非情な彼の描写の方が尺も長いのに、そんなつまぶっきーをずっと待っていたことに気付くのだ。
もちろんそれが彼にとって得難いキャラであるにしても、やはりナカナカ彼はそこから抜け出せないのかなあ、という気がしている。
一方で、つまぶっきーと共演することを聞いて楽しみにしていたハ・ジョンウは、そういう意味で彼とは正反対のタイプの役者。
「チェイサー」の恐ろしい殺人鬼に震え上がり、震え上がりながらも恐るべき役者に出会ってしまった!という喜びの方が大きく、今回、まさにまったく違うタイプのつまぶっきーとの共演は大きな楽しみだった。
彼らがこの作品を通じて大きな友情を得たことが、そんなことは映画には全然関係はないんだけどなんか嬉しいし、それこそ日本文化開放以来、日韓の合作映画がどこか性急に数多く作られてきた中で、なんかようやくそういうところまで成熟してきてくれたかな、って気がしてる。それだけの努力を先述のようにつまぶっきーもしてくれたしさ。
「チェイサー」以外にもギドク作品などで見てはいるんだけど、「チェイサー」のインパクトがあまりに強いので、本作の彼は、なんかつまぶっきーのイノセンスに引きずられているようにさえ、感じるんだよなあ。
ハ・ジョンウ演じるヒョング側の描写から始まる。凪いだ海に停泊している小船でノンキに居眠りしているヒョング。そのノンキな姿とはウラハラに、彼に課せられているのはヤバイ仕事なのだ。
日本で成功しているおじさんの元に、海伝いに目立たない小船を使って遺法に物資を送り届ける仕事。ヤバいことに加担していることを薄々気付きつつも、天涯孤独のヒョングにとって自分を拾って育ててくれ、しかも法外なお手当てもくれるおじさんは救いの神だった。
本当は、自分を捨てたと思っていた母を冷酷に殺したのが、他ならぬ彼だということも知らず……。
大体、おじさんが何よりも楽しみにしている、おじさんの姉が作る絶品キムチを、「これを届けなければ殺される」ってなほどに厳戒態勢だって意味を、ヒョングはそのままに受け取っていたんだから、ちょっとノーテンキすぎたかもしれない。
そのおじさんの姉には、小さな頃、ヒョングはお世話になったらしい。彼女は弟のことを毛嫌いしていて、「あいつは、人のことを道具としか思ってない。お前もいつか捨てられるよ」と言い、「昔みたいにここで暮らせばいいじゃないか。もう若くないからあの頃みたいにはヤレないけど、……あの時お前は15、6だっけ?」と流し目を送る。
ただ黙り込むだけのヒョング。母親に捨てられただけじゃなく、かなりソーゼツな青春時代を送っていたことが知れるが、そこは特に掘り下げることもない。
そして、ヒョングが物資を送る日本の片田舎、いつも物資を迎え出るのは、おじさんの息子の嫁の兄である亨だった。
ヨボセヨ、と迎え出る亨に苦笑するヒョング。ヨボセヨ、は電話に出る時の言葉だよ、と彼に言っても、言葉が判る風もない。
ヨボセヨ君、と言ってバカにしていたぐらいのヒョングだったんだけれど、このヨボセヨ君、実はトンでもない謀略を胸に秘めていたんである。
いつものようにおじさんへの物資を運んで日本の海岸についたヒョング、しかしそこで、静かに水面から忍び寄る影を見つけた。
思わず覗き込んだ拍子に、首からかけた大事なおじさんへのキムチを引っ張られて海中にもろとも落っこちてしまった。
大事なキムチが台無しになって、おじさんに殺される、と戦々恐々とするヒョングを尻目に、亨は淡々と市販のキムチを詰め出す。
「オバチャンのキムチは絶品なんだ。こんなんで騙せねえよ!」と絶望的になるヒョングだけれど、亨はそのキムチ瓶の下に、何かを詰めたのだ。そしておじさんはいつものように美味しくキムチを平らげた。おじさんの目的は故郷のキムチではなく、その下につめこまれた麻薬だったのだ。
それを知ってさえも、ヒョングはおじさんを信じることをやめられない。天涯孤独の自分を救ってくれた、そして自分を息子だと思ってくれていると信じてやまなかったのだけれど……。
更にヤバい仕事が入ってきて、さすがのヒョングも疑惑を募らせる。
大手生命保険会社の令嬢が、生死も不明の状態でぐるぐる巻きにされ、そのまま日本まで安全に運べというのだ。
この頃になるとヒョングもさすがに、おじさんへの信頼も揺らいでいると思うのだけれど、もはやそれを準備された状態では後に引けない。
しかしヒョングを出迎えた亨はいつものように寡黙で、淡々と雑居ビルの空き部屋に彼を案内して去っていく。
ぐるぐる巻きの女は、目隠しに猿轡をされて、抵抗した後が生々しく残っていて、息はあるものの、見るも無残な状態。
その後、謎の追っ手がヒョングを襲い、彼は部屋に火を放って命からがら逃げ出す。
しかし亨に助けを呼んでいる間、運んだ女がいつの間にやら逃げ出していて、亨と一緒に捜索するハメに。この場面からようやくヒョングと亨の共犯&友情関係がスタートする。
駐車場に逃げ込んだ彼女を見つけた亨が「僕に任せてください」と言った後、女の叫び声が再三聞こえるから、これはヒドい拷問を与えているかと思いきや、キックボクシングさながらの超強い彼女に顔面を蹴られたんであろう、鼻血を出して「やっぱり手伝ってください」とヒョングに請う亨が可笑しく、それまでの寡黙なつまぶっきーからようやく脱する傾向が見られてホッとする。
この生命保険会社の令嬢が、彼らの運命のカギを握る。トンでもないおてんばでヘビメタファッションの彼女が、だからこそこの状況で癒しになるというのがスゴいかもしれない。
ホギョン(ヒョングのおじさんね)にゆすられて会社の金を横領していた彼女の父が、もうカンベンならんとそのカネを持ったまま日本でドロン、見せしめに彼女が捕らえられたのだった。
パパはボギョンに騙されたんだ。病気なのにパパがかわいそう。パパを見つけ出してくれたら、5千万ずつ支払う、という話に乗ることになる二人。
だってもう、二人にはその選択しかない。もはやヒョングも、おじさんが自分を息子同様に思ってくれているなんて幻想は抱けないところまできていた。
予想に反してやたら生命力の強いジャジャ馬の彼女を加え、ヒョングと亨、そしてヒョングが日本に来るたびに相手をさせられていた“ヤリマン”の亨の妹(つまり、おじさんの息子の嫁)、その子供たち(父親がホントに夫なのかどうかは不明……)とボケたおばあちゃんとの奇妙な共同生活が始まる。ヒョングは自分の知らない家庭生活にフシギな安息を覚える。
生命保険会社社長が糖尿病を抱えていることを知った亨は、ならば定期的にインシュリンをどこかから仕入れている筈だと判断、ウラ稼業の漢方薬屋に目をつけてカネを握らせてネタを得ようとするも、体よく追い払われてしまう。
それまでもヒョングと寝させるなど非情なまでに妹を派遣してきた亨は、この時も妹を殴り倒してでも行かせるのだ。
兄から「バカだから」と言われ、その通りシモがゆるいヤリマンとしか見えていなかった彼女が「ヤレる相手とヤレない相手がいるのよ!」と強行に拒絶反応を示したのが……なんであのオヤジだけはどうしてもイヤだったのか、あとから説明されるのかなと思ったけど、そのままスルーされたよね……?
結局妹の働きによって社長の居所を突き止めた。顔を出さなくなった亨を不審に思った妹のダンナが、超久しぶりにヨメのもとを訪れて事態は一気に動き出した。
ここはスリリングながらも、ちょっとコミカルなんだよね。カーテンの陰に隠れたヒョングがアッサリ見つかっちゃったりするあたり、ミョーにカワイイ。
妹が自転車をダンナの頭に振り下ろし、死ね!死ね!とあわや殺しそうになるあたりが……コミカルの後だけに、生々しいんだよなあ。
ヒョングはね、孤独な家庭事情なんだよね。母親は病弱な弟を連れて、自分を捨てた。そしてヤクザまがいのおじさんに拾われ、まさにヒヨコの刷り込みさながらに、このおじさんだけを信じて生きてきた。
ヤバイ仕事に手を染めていることも気付いていたし、息子同然だと言ってくれるおじさんの言葉を“信じたい”と思っていたからこそ「オレはおじさんのイヌですから」という台詞が無意識に出たんだろう。
その言葉に対して必要以上におじさんが激昂したのはつまり……言い当てていたから、というのを、彼だってどこかで判っていたに違いないのだ。
家族のしがらみに縛られて、好きな女の子と結婚も出来ない亨が、自分のことを羨ましい、というのを、ヒョングは否定できなかった。
「お前に言われると、そんな気がするよ」と。
ヒョングは家族というものを知らない。飢えている以前の問題。ニセモノの父親役でも父親だと信じたかったし、そして自分を捨てた母親のことを、いつまでも愛してた。
ボケたばあちゃんと妹、妹の子供三人を連れて逃げようとする亨にヒョングは、ガキを誰か一人捨てるとするならどれにする?と聞く。
当然亨は激怒するけれど、ヒョングの真意を汲み取って言うのだ。「真ん中の子かな。身体も丈夫だし、人見知りもしない。あいつなら一人で生きていける」
すぐにでも入院させなければ命が危ない病弱な子がいた。くたりと弱々しいその子を抱き抱えて、ヒョングは散歩に連れて出たりしていた。
鼻からチューブを通した、まだ赤ちゃんと言ってもいいほどに幼い男の子と、やさぐれた雰囲気のタンクトップにサンダル履きの青年はあまりにも不似合いだったけれど、あの時のヒョングの表情は……母親が連れて行った病弱な弟の影がよぎっていたからなのかもしれない。
だから亨に問い掛けたに違いない。そして亨はヒョングが望んでいたとおりの答えを返してくれた。
ヒョングとは全く逆の方向で、家族に苦しめられてきた亨だけれど、だからこそ、正反対の位置だからこそ、判ったのだ。ヒョングの寂しさが。
母親を盾にとられたヒョングに、亨は自分を連れて行けと言った。そうすれば、お前もお前の母親も助かると。
だけどヒョングは、そこまで亨の気持ちに甘えきることが出来なくて、おじさんの元に行くドライブの途中、亨を置き去りにしてしまう。
このドライブ、いい天気だな!と亨が車窓から顔を出して、きっといつも聞いていただろうラジオの韓国語講座なぞを復唱していて……なんか、ヒョングってば、いたたまれなくなってしまったんだろうなあ……。
父と信じていたおじさんから容赦ない拷問を受け、母ちゃんは助けて……と絶え絶えにつぶやいた彼の言葉を、判った判ったとか言いながら実際は聞き流し……そう、もう、彼女はヒョングが“捨てられた”時、おじさんの手によって始末されていたのだ。その時既に、彼女は彼の手下で……忌まわしい運命の絆が継承されて今ここにあるのだ。
ヒョングは、コンクリをつながれて、海に放り出された。
ぐんぐん海中に沈むヒョングを、美しい人魚が追っていく。
それはあの時、キムチの中の麻薬を狙われた亨の妹じゃなくて……。
このあたりのファンタジックな描写は、確かにまさに、渡辺あやチックである。
しかし、ラストは……“人魚”は亨で、助けられる王子を助けるのもまた王子で……などと夢見ごこちでヒョングは反芻するけれども、王子が王子にキスかよ、とごちる人工呼吸にもヒョングは息を吹き返さない。
必死の亨に、泣くなよとモノローグしながらも、天を仰いで叫ぶ亨の腕に抱かれたまま、激しい雨に打たれたまま、ラストなんである。
ホギョンから逃亡中の二人が、なかばヤケクソ気味に商店街のカラオケ大会に乱入するシーンが良かったなあ。
最初、そのカラオケ大会のうるささに八つ当たり気味にイチャモンつけるのが、トイレットペーパーなぞいっぱい抱えた買い物帰りのヒョングなんだけど、ふと気付いたらステージに上がってやたら怒りモードで歌ってるのがつまぶっきー、あいや、亨な訳。
んでそこにヒョングも乱入。日本に来る度に遊ばせてもらっている彼は、カラオケをするシーンも伏線として示されているけれど、つまぶっきーとハ・ジョンウが見せるオトコ版パフィー「アジアの純真」の完璧さには拍手喝采!
激怒しながら歌っていたつまぶっきーが、あのワンコのような嬉しそうな笑顔で、これまたノリノリのハ・ジョンウと楽しそうに歌ってるのが、後から思えば、その後のクライマックスがあっただけに、すごくふっと、癒されたんだよなあ。
亨の元カノ役の貫地谷しほり嬢が良かった。少ない状況説明で、二人の、というか、亨の過去を瞬時に感じさせて。
結婚を控えていながらも、元カレの亨のこと、いろいろやんごとなき事情で別れたにせよ(彼が喫茶店の払いをしたことを驚いた描写がね……)、お互い嫌いになったわけじゃないんだろうな、っていうのがね……。
ラストは、ヒョングが息を吹き返すかどうかを示していなくて、ちょっとは期待を持たせている分、少しは救いがあったのかなあ……。 ★★★☆☆
だってさ、この強烈なタイトルなんだもの。イヤなことに年齢がドンピシャリ。カッコ付きの家事手伝いなんていうトコまで、ヤケにスパイスが効いている。
そりゃまあ私はフツーに仕事もしてるし、もちろんゲーノージンの過去なんてないし、それこそ年齢だけで、それ以外ノン子と重なる部分なんて何ひとつないのかもしれない。
でも、なんだか最近やけに、この年頃の、一人身の女を扱う物語ばかりが目に付いて、そりゃあ自分がその年頃だから気になるだけなのかもしれないと思っても、じゃあだったら、これをそのまま男性に転換した物語などないじゃないかと女であるソンを思ったりもし……しかもその物語を作っているのが男性だったりすると更に腹が立ったりもし。
なんかね、ノン子を見てると、36歳の一人身の女って、こんなにやさぐれてるのか、あるいはそう見えているのかしらん、と最初思ってたのね。
でもなんだかだんだん、判る気がしたのだ。私だって対する人によっては、そんな風にヤサグレを使っているかもしれない。使って、などというのは、だってこんな年になると“女の子の可愛さ”なんてとてもとても使えなくなるんだもの。痛くて。
痛い、そう。劇中、ノン子の妹がその台詞を姉に向かって吐く。この妹こそ無愛想で残酷でムカつく女なんだけど、彼女は結婚し、子供も産み、それが女としての一人前だという位置から姉を見下しているんだろう。
……それって若干古くさい価値観ではあるんだけど、でもいまだにそれは横行してて、そんな価値観に苦しんできた女でさえ、それを勝ち取るとこんな風に勝ち誇るし、それになんたってノン子はフリーターですらない、“家事手伝い”なんだもの。
そもそもタイトルにノン子、と使われていることが、彼女の大きな負の遺産になっている。
劇中、彼女はちゃんと本名のノブ子と呼ばれている。ノン子は彼女のタレント時代の芸名。タレントといってもB級ビデオ作品や深夜テレビのパネルガール程度の位置だった。
そして、何が原因だったのか劇中では明らかにされないんだけど、マネージメントをしていたと思しき男、宇田川の失策によって、彼女はタレント生命を断たれた。
つぶしがきかないとはまさにこのことで、彼女は実家の神社に帰り、家の中にいても勘当しているような態度の厳格な父親と、ハレモノに触るように扱う母親と共に、無口にぶっきらぼうに、ヤサグレて時を過ごしている。
冒頭、ノブ子はかつての同級生が切り回しているスナックで呑んだくれている。いや、呑んではいるけど妙に覚めている。離婚して出戻ってきたママに、あんな男やめときなと私、言ったよと言い、ここに寄ったのはタバコのついでだったからと、タダ酒で帰路につく。
自転車が移動手段の彼女は、通りのゴミ箱やら何やらをガンガンぶっ飛ばして、ゆらゆら走ってゆく。どこにもぶつけられないイラ立ちを発奮するかのように。
ノブ子が去った後、従業員の女の子がママに聞く。友達ですか、結構キレイですよね、と。ママは、別に、ただの同級生、と軽く吐き捨てるように言う。
なんかこの場面一発だけで、ノブ子には地元に親しい友達がいないって示しているように思う。だから決して友達なんかじゃない子の店に、何かというと飲みに行くのだ。
後にノブ子に復帰の話を持ちかけてくる(実際はウソで、彼女を保証人にしてカネを借りようとした)宇田川が入り浸るのもこの店で、彼にママは「あの子がミジメで見ていられないから」と言ったのだ。
その台詞は、その残酷すぎる台詞は、友達なら言えるの?それとも友達じゃないから言えるの?
そんな場面が示される訳じゃないんだけど何となく、宇田川とママは寝たんじゃないかと思う。二人の間には妙な目配せがあった。そしてママは、ノブ子にはもう出来ない、女の子の可愛さをいまだ発揮するずぶとさがあったのだ。
メイクもヘアスタイルもファッションもそんな感じだった。
本当は、そっちの方が痛いのに。
宇田川は、かつてノブ子の夫だった。なんでこんな男と。だってこの男、いかにもギョーカイ人という感じで。ノブ子にウソの復帰話を持ちかけた時も、もう最初っからついでにヤる気マンマンでさ、対するノブ子も、抗う態度も多分前フリに過ぎず、彼とセックスしてしまうのよね。
この“抗う態度も多分前フリ”っていうのが、すんごいリアルで。鶴見辰吾のセックスへの手管はゾッとするほど手馴れていて、腕に浮き出る筋肉の筋とか、ゴーカなだけに妙に安っぽく感じる時計とか、ホント、ゾワリとしてしまう。ノブ子が抗うフリなのか、ただ彼に落とされているのか、スレスレってな感じなのだ。
坂井真紀が生々しくセックスシーンを演じるのには驚いたけど……しかもその“女としての演技”の内面がやたら赤裸々だし。
しかしミョーに感心したのは、テーブルの角を上手く秘部に隠して動きをつけてること。いやー、どんだけリハーサルしたのかしら(爆)。
坂井真紀は何気に熊切監督連投だし、彼にとってのミューズであるのかもしれない。実際、今まではキュートなイメージだった彼女が、熊切作品では常に違ったように思う。ただここ数作の熊切作品はかなりの難解度だったもんだから、正直そこにまで思いが至らなかったんだけどさ。
でも元々とても上手い女優さんだし、ここでの“36歳のヤサグレ女”は見てられないほど痛々しくて、彼女は本当に上手いこと真の女優への階段を登っている気がする。
そういえば、多少年はサバ読んでたけど「ビルと動物園」でも彼女は三十路あたりの独身女で、やっぱり若い男の子を相手にした役を演じてて、でもあのキャラとはまたまったく違うのが面白いなーと思って。
あの時もね私、この年頃の一人身の女をイタイ視点で描くことに少々の憤慨を抱いていたけど、同じ女優がこうして違った女を見せてくれると、やっぱり面白いなーと思う。それに、カワイイ系だったかの作品より、女として共感出来るのはこっちかもしれないとも思う。立場が近いのはむしろむこうの作品の方なのに、おかしなもんだ。
で、そう、若い男の子なのよ。この田舎町にふっと現われた異邦人。異邦人という点では宇田川もそうなんだけど、彼が最初からそれを充分自覚の上で動いているのに対して、この男の子、マサル君にはそれがないんだよね。
それが若さであり、若さゆえの痛さなんである。痛さの種類は違うけど、クライマックス、ノブ子とマサル君は同時にその痛さに直面して、一瞬の幸福を迎える訳なんだけど……。
マサル君はね、この地に、祭りで露店を出したくて来たんだよね。彼に関しては本当にそれまでの来歴が全く語られない。なぜそんな商売をしたいと思ったのか。何をつてにここまで来たのか。
ただ彼は、いずれ世界に出たいと夢を語った。愚直にも世界地図まで携えて。“世界”という言葉も漠然としすぎているならば、その手段も目的も、あまりにも漠然としている。でもそれこそが夢だと、信じてやまない若さが、まぶしかった。
ノブ子はなんたってもう36歳で、彼よりひょっとしたらひとまわりぐらい年上なワケで、ゲーノー界なんていう厳しい世界も経験したんだし、そんでもってヤサグレてるし(爆)、こういう夢見がちな男の子を、そんな甘いもんじゃないよと指導する立場にあった筈なんだけど。
いや、表面上はそういう態度をとってるんだよね。でも基本、ノブ子は彼並みに甘いのだ。地元の祭りを取り仕切る露天商のトップ、安川に、けんもほろろに追い返されたマサル君に、「ああは言ってるけど、貸してくれるよ」と人生の先輩よろしく激励し、それに力を得た彼が「最終的には義理人情ですよ!」とある意味つけ上がる原因を作ってしまったのだ。
勿論、世間はそんな甘いもんじゃなく、祭りの日にぶっつけで安川に再トライしたマサル君はまたも跳ね返され、ついにぶっ壊れてしまうのだが……。
マサル君ともノブ子はセックスする。でもそれは、宇田川とのそれとはまるで違う。
なんかね、この映画、ピンクで作ってもいいような気がしたんだよね。女の、それもこの年頃の女の日常に普通にセックスが存在している、っていうのが。
……うーん、なんか上手い言い方出来ない。それはセックスがなされてもなされなくても、っていうか、ヤラしい意味や気持ちではない部分でも、というか。本当に、生活の流れの中にあるような気がしたんだよね。
だからこそ、その中にはさまざまなセックスがあって。セックスの理由づけ、有り様、をまず前提に考えて作られるピンクで作られそうだな、と思ったのだ。
だって、本当に、全然違うんだもん、二つのセックスは。
セックスしちゃうと情が移る、という台詞が印象的な作品があった。それは見事にこの二つのセックスをつなぎ合わせていた物語だった。
本作は、その二つのセックスは完全に分断されているんだけど、分断されているからこそ、セックスという意義が際立って見えたのだ。
それにやっぱりピンクだと、セックスそのものが目的意識ってトコがどうしてもあるからさ、描写や割く尺も違ってくるし、目もいっちゃうし、難しいよね。本当に、生理的な意味での、生活の中でのセックスを描くっていうのってさ。
それに、情が移るっていうの、男は違うような気がする。悔しい。
こんなこと言いたくないけど、だから女の方が子供に執着するのかな……ただ単にお腹をいためた、ってだけじゃなしに。気持ちが残るから、引きずるから、セックスの余韻がそのままに宿るから。
男にとっては突然の出来事、でも女にはそうじゃない。全てが続いているんだもの。
やり直す気なんてさらさらないし、むしろイヤな相手なんだけど、でも気心カラダ心知れた相手とのソレをどこか心待ちにしていたカラダ。
こんな若くて何の得にもならないような風来坊にホレちゃいけないと思いながら、寝ちゃったら絶対そうなっちゃうと思いながらも、吸い寄せられるココロ。
そういやあ、あー懐かしい「プリティウーマン」で、情が移っちゃうからキスだけはしない、というくだりがあったよね。で、まさにノブ子はこの若い男の子にまず、キスしようと持ちかけるのだ。危ない危ない、キスが一番危ないよ。
んで、なんたって若い男の子だから、キスなんかしちゃったらもうその先にぐんぐん突入しちゃって、まあありていに言えば発情しちゃって、一度はノブ子に拒否されるんである。「誰でもいいのかよ!」って。
っていうか、あなたが「誰でもいいからキスしたい」って誘ったんじゃないの(爆)。
でも判るんだなー。というか、こういう状況を妄想しちゃうとさ(爆爆)。年だけは、経験だけはそれなりに積んじゃってるから、男の生理ぐらいはわきまえているからさ……。
それこそキスだけで情が移っちゃうヨワい女は、いつだって恐れているのだ。対する相手がそんなつもりもないことを。
でもノブ子はしおれているマサル君に、なんだかホントに可愛くなっちゃった彼に言った。「誰でもいいってわけじゃないよ」と。
あー、こういうの、ヤバい。いくらこれが刹那的なものだと判っていても、ヤバい。
純粋ながらも激しいセックスの後、マサル君はお決まりに、「ノブ子さんが好きです。一緒に遠くに行きませんか」と誘った。
それはあまりにもウブで可愛くて、ノブ子は彼のボサボサの頭をいとおしげになおしてやるんだけど、でも一緒に生きていける筈もないことぐらい、判ってた。タレントをやり直すつもりだったのだ。
判ってたはずなのに……。
結局、復帰話なんてウソだったし、マサル君の露店もやっぱり了承されなくてさ。ここに至るまで、ノブ子の父親に殴り飛ばされたり、雨で順延になってヒヨコが泥だらけになって一羽ずつ洗わなくちゃいけなくなったり、それどころか何羽か死んじゃったり本当に大変だったのに。
義理人情をお伽噺みたいに信じてたマサル君が、「なんでお前に義理人情を感じなくちゃなんねえんだよ」と安川に残酷に突っぱねられるのが、哀しくてならないのだ。
何が哀しいって、マサル君が人の善意をムジャキに信じていたこと。どうやらそれまで様々にバイトとかして、それなりに人生経験を積んでいたと彼自身思っていたんだろう。それなりに苦しい思いもしたんだろう。でもきっと今まで運が良くて、それこそ義理人情な人ばかりに当たっていたのだ。それは彼の純粋さが引き寄せたものだったのかもしれないけれど。
でも、マサル君は時おり、ガマンのきかない目を見せていた。自身で押さえ込んではいたけれど、それは真に経験を積んだ大人たちには丸見えだった。
だからこそノブ子の父親も、ヤクザの安川も、彼をまだまだ浅い若造としか見なかったのだし。
それが見えていなかったノブ子は、ただカワイイ男の子にしか見えていなかった彼女は、あんなミエミエのギョーカイ人に騙される彼女は、マサル君共々愚かだったのだ。
でも、だからこそ、あのクライマックスが、愚か者同士だからこそ、胸に染み入るのかもしれない。
絶望のふちに立たされたマサル君は、救いを求めるノブ子も宇田川に騙されていたことが判って絶望の縁に立たされてて、もう行きどころがなくなって、祭りの中、チェーンソーをふりまわすという凶行に出る。
つまり、もう答えは出ていたんだよね。マサル君が最後の望みも断たれた時、“情が移った”ノブ子の方もまた、彼のことなんかかまってられないほどに絶望のふちにあった。あの時すでに、二人の間には決定的なミゾがあった筈なのに。
マサル君はチェーンソーを手に暴れまわり、やぐらや露店をなぎたおし、警察が呼ばれるという手前で、彼が用意していたヒヨコの箱が地面一面に撒き散らされるのだ。
一面の、フカフカした山吹色の絨毯。愛らしいヒヨコの海。
その前に、泥だらけになったヒヨコを洗っている最中、一羽が逃げ出して、ノブ子とマサル君が二人して追い回すという、青春ドラマさながらの甘美な場面があった。
そしてその時、あのイヤミな妹が来て、本当だ、男連れ込んでる、と言ったものだ。最初に男を連れ込んでさっさと結婚して家を出たのは妹の方だったのに。神社の跡継ぎの問題もあったのに。
自分ソックリの女の子を得た妹は、そんな孫娘に目じりの下がりっぱなしの両親に、意気揚揚なのだ。
でも、その直前、花畑の中でヒヨコを追いかける二人は、本当に幸福そうだった。
でも、花畑なんて、ヒヨコをはしゃぎながら追いかけるなんて、あまりにベタで、あらかじめ崩壊を示唆しているようなもんだったんだけどさ……。
その場面を見ている時には、不思議とそんなこと、頭にのぼらなかったのに。
そして、心臓をぎゅっとつかまれた、ヒヨコの海の中、マサル君がノブ子に手を差し出す場面でさえのぼらなかったのに、むしろこの場面の時、一瞬、ほんの一瞬、ハッピーエンドを夢想したのに。
卒業という映画のラストが、ハッピーエンドなのかどうかと、悩んでしまったことを思い出すんである。
花嫁を連れ出す場面でカットアウトなら、素直に溜飲が下がったろう。でも乗り込むバスの中、妙に疲れた顔をした二人に、後先考えずに飛びだしたこの先の暗雲を考えずにいられなかった。
そして本作も、手に手をとって走り出した二人にこの上もなく心が高揚したけれど、二人は列車に乗った。ああ、こともあろうに乗ってしまったんである。
しかも乗った場面で終わりではなく、その中の二人も活写した。いや、そこまでならいい。マサル君は、「僕は、どこまででも行けますよ」と顔が赤くなるようなカッコイイ言葉を吐いた。
そこで終わってくれたら。でもそこで終わったら、私はきっと、そんなんあり得ないと、毒づいただろう。
そう、そんなこと、あり得ないのだ。
だって、この先、どうするの。マサル君のスニーカーをはいた巫女姿のノブ子と、裸足のツナギ姿の彼。
そりゃあ、これ以上ロマンティックな画はない。だけど……。
信じられないもの、この先の未来なんて。だって、もう36歳。しかもつぶしのきかない36歳。男に頼るなんてことだってしたくない世代だし、頼るには頼りなさ過ぎる。そんなところこそが好きだったのに。
ああ、なんて辛いの、切ないの。
この幕切れは判ってたハズだった。マサル君にタバコを買いに行かせた間に、ノブ子は列車に乗った。
地元へと、帰る列車。
彼はホームに残されたスニーカーを見て、走り去る列車を見て、呆然とするしかない。……まあつまり、彼女が戻ったであろう地元にまで追いかける気概は、ないのだ。
でも、それが当然なんだよね。夢を見ちゃいけない。いや、いや!夢を見る場所を、間違っちゃいけない。
だって彼女の夢は、彼と一緒に逃げることじゃなかったはず、だもの。
でも、ノブ子の夢は、じゃあ何だったのかと言われると……。
宇田川から持ち込まれた話は、いわば過去の栄光のやけぼっくいで、現実味がなかった。
今、ノブ子は相変わらず地元に残って、気楽なワンピース姿で自転車を走らせてる。変わらずに。
でも、あの頃のようにやみくもに走らせて、ゴミ箱やら何やらをぶっ飛ばすこともなく、なんだか穏やかで楽しそうである。
彼女は、その道筋、ニワトリが横切るのを見かける。
恐らくあの時、逃がしてしまった一羽のヒヨコが育ったのだろう。つまりはノラ鶏?
ノブ子はマサル君と共にそうしたように、追いかけて、追いかけて、ついに海岸まで追いつめて、波打ち際で捕まえて、水中にひっくり返ってしまう。捕まえたニワトリを抱えて、楽しそうに笑った。
なんだか、これでいいのだと思ってしまう。
女でいることに肩肘張って、キャリアウーマンか、よき妻よき母よき主婦かのどっちかしか、女としての完成形はないんだと思いつめている向きがいまだにあって、それをどこか本作でも追いつめながらも、なんか最後には、彼女は相変わらず(家事手伝い)だしさ、別にいいじゃん、って言われてる気がして。
まあでも、それを男性に言われてるって思うとシャクなんだけど(爆)
ところで、おみくじを引く場面がよく出てくるんだけど、大吉は結んで帰るより、手元に持っている方がいいって言わない?★★★☆☆
一作目は少年、二作目は中年女性、そして三作目に至って、いわゆる商業映画っぽいキャラ、“31才子連れバツイチ女性”というヤツが登場。
んんー、しかしこれが商業映画っぽい、と感じるあたりは時代だが、しかしとりあえず30代で女ひとり生きている、という点だけは共通する私らにとっては、やはり捨て置けない作品だと感じてしまうんである……てゆーか、それじゃほとんど共通点ないってことじゃんと言われそうだけど(爆)。
まあ、さ。女はとにかく、頑張っている自分、に対する共通点を見つけたがる生きモンってワケなのよ。
それに確かに“子連れバツイチ”という部分にそれこそ商業的吸引力はあれど、子連れだろうがバツイチだろうが、恐らく男にとっては女ほどには大した足かせにならないであろうと思うと、それよりも大きな部分はヤハリ、“30代の女が一人で生きていく”ということだと思うのだよね。
そう、これはやはり、20代では成立しないんである……20代ならそれこそ、劇中の小巻が尻込みする水商売だってエイッと飛び込めるだろうし、それ以前にあんな、自分がミジメになるばかりの場末の流行らない居酒屋で中年男にブチューされるのをガマンするようなトコではなく、それなりにプライドも発揮しつつ、それなりに稼げる場所でだって働けるだろう。
いや、更にそれ以前に20代ならば、経験やスキルがないという弱点も若い女の子という武器を使って下手に出て、媚びのひとつも売れば、職場に入り込んでそれらを身につけることも出来るだろう。
でももはや31歳、恐らくパソコンを触ったこともない小巻のような女にとっては、しかも小学校に上がる前の娘を抱えて立ち往生している小巻にとっては、社会、いや、男社会というものは想像以上に冷たいんであった。
……なんて勢いで書いてしまったけれど、“20代の女の子ならば……云々”とかって考えている時点で、同じ女でありながら、女という存在を貶めちゃってるんだよね。
こんなこと言ったらそれこそ、20代の女の子から総スカンを食らうに決まってる……そうだ、それこそ20代の私なら、こんなこと言わなかったに違いないもの(大体20代の私が、先述のような立ち回りを出来たとも思えないし……)。
カイショないダンナに離婚届を突きつけて、小巻は娘を連れて実家に舞い戻ってきた。
でも、年齢と子供の年から察するに、職業経験のない彼女が、しかも幼稚園のお迎えまでの限られた時間で、カタギの正社員など望むべくもなく……。
幼稚園の保母をしていたかつての同級生、麗華からの紹介で、ひなびた居酒屋で時給二千円というオイシイ筈のアルバイトを始めるものの、先述のようなコトになって一日で辞めてしまう。
確かに、小巻は甘かったのかもしれない。麗華の言うように「子供抱えた30過ぎの女」は、なりふりなんてかまっていられない。それこそ水商売だってやんなきゃラチもあかないのかもしれない。
でも、小巻が就職活動先で遭遇する「9時から1時?いいよねえ、女の人は気楽で」「俺らは毎日残業して必死に働いてるんだよ。あんた、ナメてんじゃないの?」などという態度は、決して男性は経験することのないものだろう……。明らかにナメてんのはそっちだろっていうさ。
そりゃ私はバツイチでもなく、子供も持っていないけれど、小巻の遭遇する事態が悔しくて悔しくてならないのだ。
そりゃね、男性は男性で、女性には判りようもない大変な目にあっているんだってことは判る。
でも……結局、女性の社会進出が世界に比べても低いままで、引いては日本の出生率がどんどん下がる一方なのは……結局はこーゆーことが原因なんでしょ。
子供という“足かせ”を持った存在に社会は、いやいや男社会は!こんなにも冷たい。
都合よく仕事をしようとしている、と蔑み、オレら男たちがこんなに頑張って家庭を守り、世の中を動かしているのに、とふんぞり返る。あんたらが家庭を本当に守ることが出来ていて、本当に世の中を動かすことが出来ているのか、すこぶるギモンだね、と思うんだけど、結局はそういう具合に社会は回っちゃってて。
そりゃー、これじゃ女は、子供なんて生みたくなくなるってなもんだ。
子供が理由で経験やスキルを積めなくて、あるいはインターバルが出来ちゃって、それがまるで彼女自身の責任みたいに鼻先で笑われて追い払われるなんて判っちゃったら、子供を産もうなんて思わない。
そのことで自分自身が社会から抹殺されるってことが判ってたら、そう思うに決まってるじゃないの。
……アツくなってしまいました。いやー、本作は決してそうしたタイプの映画ではないんだけど、なんか必要以上に汲み取ってしまって(爆)。
でもね、確かに表面上は、小巻が遭遇するそういった仕打ちは割とさらりと流されて、私がここで憤っているほどに掘り下げている訳ではないんだよね。
だって展開上大きな役割を示す男たちは、写真館を継いだ初恋?の男の子が成長した建夫と、金持ちの実家から100パーセント援助をもらって、小説家になるなんて夢もどっかに置き去りにされたままに自堕落に寝暮らしている夫、だけなんだもの。
その二人ともそんな“男社会の理不尽さ”からは離れていて、建夫君は女ひとり頑張っている小巻を後押ししようとしてくれているし、夫の方はといえば、自分のカイショなさを自覚しつつ小巻の甘さもまた見抜いているという小憎らしさでね。つまりはこの二人の存在によって、小巻が自分の立ち位置を次第に見定めていくというのは……なんか悔しいんだよなあ。
だって女ひとりで全てを見定めて生きていきたいじゃん。でも、女は勿論、男だって自分ひとりじゃ生きていけない。それを女の方が冷たい社会に跳ね返されることによって早めに自覚しているのが、返って幸せなのかもしれない。
小巻が出戻った実家のある下町の、学生時代の淡い恋のお相手、写真館の跡取り息子、建夫君を演じるムラジュンがすんごいイイんだよなあ!
回想シーンで、バレンタインまでにこっちしか間に合わなかった、と手編みの手袋の片方だけを小巻が彼に差し出す。その時もまさしく今の建夫君とおんなじで、カタそうな銀縁の眼鏡で風景写真かなんか撮るのに夢中でさ。
でも差し出された片手だけの手袋をはめて、もう片手分を待ってるよ、と合図したのは、もー、なんか、お互い照れているのもあって何ともキュンキュンだったのだ。
そうして10数年の時が過ぎ、小巻はバツイチの子連れ女として彼と再会した。あの時とちっとも変わっていない純朴な建夫君に小巻は即座に再び恋に落ちちゃって……小巻のお母さんが牽制するも、その思いは止まらない。
……いやー、小巻のお母さんが娘のことを心配するのはね、自分と似ていて男運が悪いもんだからさ(爆)。
それでいて、最後の夫、つまり早世した小巻のお父さんのことは、イイ男だった、と言ってやまないんだから、結局はラブラブ夫婦だったわけで。お母さんも口うるさく言いつつも、最後にイイ男に出会えればそれでヨシみたいな部分はあったのかなあ。
でね、そう、ムラジュンの良さなのよね。ちょっと、ビックリした。年を重ねなければ出ない色気が出まくり。でもそれって、自分の年齢とちゃんと向き合っていなければ出ないもの、なんだよね。
ちょっとひと目見て、ムラジュンって気付かなかったぐらいだったんだよね。それぐらい、オーラを消してた。
下町の写真館の息子、「嫁日照り」と自嘲する彼は、その誠実さゆえに、女の子を口先三寸でヨメに据えるなんてことは出来なかったんだろうなどと夢想してしまう。
それと全く対照的なのが、小巻が別れを突きつけて家を出たぐうたら夫。
演じる岡田義徳はもう……上手いッ!彼はその人当たりの良い外見から、ちょっとそこをハズれるとそれだけでインパクトが強くなるトコはあるにしても……でも、上手いんだよなあ。
あのヘラヘラした顔で「お前には自立なんて出来ないよ」なんてサラリと言いやがり「なーんて、自分のことは棚にあげてまーす」と逃げを打つ小憎らしさ。
だけど不思議と……憎めないのだ。コノヤローとは確かに思うし、小巻が別れを決意したのも当然と思いつつ……。
彼は確かに親のすねをかじって家まで用意してもらって、それゆえにぐーたらしてても生活できちゃってるんだけど、決して世間が見えていないわけじゃない。そんな目をどこで養ったのと思うぐらい、悔しいけど小巻より世間が見えているんだよね……。
ひょっとしたら彼は彼で、そういう恵まれた境遇がネックになって苦労したこともあったのかなあ、などとついひいき目に思っちゃうんである。
でも、そんな夫でも知らなかったのが、小巻の料理の腕。子供がこんな年に育つまでそんなことにも気付いていなかったってトコこそが、二人の別離の原因だったかもしれない。
小巻の愛娘、タイトルロールにもなっている“のんちゃん”の大好物で、小巻の自慢ののり弁。
正直、このタイトルを聞いて、更に予告編を見ても、のり弁が得意でそこからお弁当屋さん??という思いがぬぐいきれなかったんだよね。だってのり弁って、のり弁じゃん!みたいな。
実際、出戻った実家で小巻のお母さんも「のり弁なんて……。子供なんだからもっと栄養のあるものを食べさせなさいよ」と忠告するぐらい、そういうイメージだよね。すると、小巻は待ってましたとばかりにあごをあげ、ただののり弁ではございません!とそのネタを披露する。
確かに見た目はただののり弁。しかし驚くべきことに中は何層にもなっていて、青菜やらじゃこやら玉子そぼろやらゆかりやらといった、様々な混ぜごはんの多重構造になっているのだ。
もちろん、お弁当のフタにくっつかないように、一番上のご飯に乗せる海苔を細かくちぎるという心遣いも忘れない(これ、判るー。ウチも母親にクレームつけて(笑)、それ以降同じようにちぎって乗せてたもん)。
そりゃー、のんちゃんが外食の誘いにも首を振って「ママののり弁がいい!」と高らかに言い放ち、誰も友達のいない転入先の幼稚園でも、華やかなキャラ弁を持参する園児たちにも臆せず、誇らしげに“ママののり弁”を披露するのも判るんである。
小巻自身、自分の中ではその腕前を誇っていたんだろうなあ。
だからこそ母親にも即座に言い返したし、何より……その拠り所が彼女を夫と別れさせる原動力になったんだろうと思う。
確かに小巻は、自分の甘さに直面して困難にぶち当たりまくるけど、結局は自分の“お弁当力”を生かせたんだもんね!
小巻は建夫君の配達に便乗して、なんかデートっぽい雰囲気になる。配達先にはラブホテルなんぞもあって、思わず自分の息が匂わないか、下着は大丈夫かなどと確認する小巻だけど、当の建夫君はあっさり配達を済ませて、お土産にお団子なぞ携えてくる天然君。
小巻は思わず知らずホッとし、ますます建夫君への思いを募らせる。彼の方も結構本気っぽく、プロポーズめいた言葉を口にしたりもする。
その配達の最後の場所「ととや」。
いかにも下町の飲み屋、いや、飲み屋というより、居酒屋も違うし、かといって小料理屋ほどにかしこまってもいない、そんな絶妙に居心地のいい店。
ふと振る舞われたサバの味噌煮に小巻は、見つけてしまったのだ。
自分の本当にやりたいことを。
つまりは小巻は、猪突猛進なんだよね。そう思い定めたら止まらない。ととやの大将から、奥さんは外であまり食べた経験がないんでしょう、やんわり牽制されても、じゃあ、この味噌煮を自分で極めてやる!とばかりにレシピを漁っていろいろ試して、娘を預けた先の幼稚園やらバイト先の女の子やらに食べさせまくる。
んでね、「こんなおいしいのをタダで頂くのは申し訳ない!」と麗華が、皆が出した小銭をジャラジャラと小巻の両手に注いだ時、もう決まっちゃったのだ。
そう、「私、お弁当屋さんをやりたい!」ってことなのだ!!!
小銭を手にして、思いっきり固まっちゃった小巻も可愛かったけど、そんなお母さんをつんつんつついて「ママ、固まっちゃった」とつぶやく娘ののんちゃんがちょー可愛かった!
このコのことをママである小巻は勿論、カイショがない夫も溺愛してて、小巻への未練と言うより娘へのそれで押しかけまくるのも判るんだよね。
そう、決してカミさんへの未練じゃないって判っちゃうあたり、キビしいけど……でもそれが確かにホントなんだもん。
「ととや」で修行を重ねる小巻。給料はいらない、と宣言しちゃったことで母親は怒るけれども、大将は小巻の熱意をちゃんと見ててくれてた。
終始「奥さん」と呼びかけて、小巻の今の立場(ダンナが離婚届に判を押してくれないから)を残酷なまでに示しながらも、それは、そういう立場の女はテキトーな男よりずっと大変なんだということを、彼自身ちゃんと判ってて示唆してくれていたように思えてならないのだ。
もー、それからも、とにかくとにかく紆余曲折はありまくりである。
苦労はないクセに、ウンチクばかりはありまくるダンナはやたら押しかけまくり、しまいには娘を幼稚園から“拉致”しちゃう有り様。それがさ、始末におえないことに、彼も、そして娘ののんちゃんも、罪悪感どころか悪いことをしちゃったという自覚さえもないトコなんである。
幼稚園の園庭で遊んでいたところを、チョイチョイ呼び出してタクシーに乗せて連れ出したんだから、そりゃたとえ実の親にしても犯罪でしょ!(園に許可得ないんだからさ!)。
すわ誘拐事件かと血相変えて探し回っていたら、小巻がアルバイト遅くなると連絡を入れた「ととや」にあっさりいやがるの!
私ね、多分、悔しかったんだと思う。
そして小巻は、当然、悔しかったんだと思う。
だってだって、自分が頑張って頑張って育てようって思っていた娘が、あっさりダンナの元にいるんだもん。
でもそれは当然なのだ……のんちゃんにとって、カイショないとか働かないとかそんなの関係ない、ただ大好きなパパってだけなんだもん。
何度も聞かれてた。もうパパには会えないのかって。
その度小巻は、どこかごまかすように、流すように、会えないかなあ、会えないかもなあ、でもママがいるよ、などと諭すでもなく言い流していたのだ。
そこを突かれた。三十路のバツイチ一人女より、カイショなし家つき男より、さびれかけた写真館の男より、つまりはつまりは……そりゃそうだ、たったひとりの、未来をになった子供の方が大事に決まってる。
「子供より親が大事」
「子供より親が大事と思いたい」
そんな台詞…………ナカナカやっぱり、言い難いよなあ。
でも、その娘、のんちゃんが、パパも、そして勿論ママの小巻もちゃんと大好きでいてくれるのが、大いなる救いなのだ。
本当に、本当に、申し訳ない。子供に一番、一番、辛い思いをさせて。ととやでアクション映画さながらの取っ組み合いをし、警察まで呼ばれる騒ぎになって、ようやくダンナも離婚を承諾してくれて、小巻は決意したのだ。
ととやの大将の好意に甘えて、ととやのあき時間を利用して、弁当屋をオープンさせること。
小巻はそれまで突っ張ってて、自分でお金を貯めてからでないとお店を出すべきではないと思ってた。彼女の頑張りをご主人や周りの人たちが認めていても、やたらめったら突っ張ってた。
それは、ご主人が「奥さんは猪突猛進だから」と言う以上にやっぱり……初めての就職活動で直面した悔しさがあったんだと思うんだよね。
あの悔しさ。
それ、凄く判るんだもの。
でもこの紆余曲折の末、小巻は大将の好意に甘えることを決意した。「まだ子供の手だ」というその手を、大人のそれに成長させることを条件に。
つーか!この作品のポイントはやはりムラジュンだと思う!(お、戻った)いつのまにこんな、枯れた魅力を身につけていたの!
学生時代の純情な雰囲気をそのままに、そう、あの頃と変わらずカメラを携えて、もうあらゆるコトを経験してしまった小巻の前に現われた彼。
配達のためとはいえ、ラブホの駐車場にアッサリ車を乗り入れたりする奇蹟的なドンカンさに、思わず身づくろいをしたりした小巻が「いつも予想外なんだから」とつぶやき、またまた彼に惹かれるのも必至でさ。
小巻がお弁当屋さんを開くにあたり、試行錯誤したおかずを携えて写真館を訪れた時、「親父は競馬で当てて、今日は遅いから」と招き入れられるドキドキ。
そして、いよいよ孫の本命が来たか、と小巻のまん前にぺたりと座り込んでニコニコしっぱなしのおばあちゃんのたまらない可愛さに噴き出し、しかもそのおばあちゃんが「私ゃもう寝るよ」と気をきかせちゃうのが更にたまんなくてさ!
小巻はそんなおばあちゃんの気持ちを汲んだ……訳ではなく、恐らくその気マンマンだったと思うんだよな。酔ったフリこいて、建夫君にチュッとオミマイしちゃう。
彼は「こういう空気にならないようにしていたのに……」と覚えず首を振り、どこか及び腰気味ながらも小巻を膝に引き倒す。
小巻は「そんなこと思ってたの」とバツイチながらの余裕の笑み?かくしてチュッチュしだした彼らが最後まで行くかと思いきや……。
そこへ、競馬で当てて帰りが遅い筈、の父親が帰ってきちゃう!ご機嫌にスシの折り詰めなんぞ下げて!(ベタやなー)。
慌てて離れる二人。それ以上に自分がコトをブチ壊したことに気付いた父親が、折り詰めをぶら下げたまま深くうつむいた顔をあげられずに「お前……」と固まっているのが、もー、なんとも愛しくて、哀れで(笑)可愛くて(大笑)サイコーに噴きだしちゃうのよ!仕方ないって。これが運命だったんだもん!
そう、これが運命、だったんだろうなあ。
正直、建夫君をゲット出来なかったのは惜しかったと思っちゃった……確かに「アンタは惚れっぽい」と、自分と同じくすぐ男の懐にクラッときちゃう娘を心配する母親の言はあったにしてもさ。
娘を誘拐しかけたダンナとのバトルの末、自らの行き先をしっかと定めた小巻に、彼女の中にもはや自分の居場所がないことを、元ダンナは勿論、直前までラブラブだった建夫君さえも自覚せずにはいられなかった。彼女にとってはもってこいの、たたんだ写真館の跡で二人で弁当屋を開こうという話があったのに。
何よりここで泣かせたのは、そりゃー、タイトルロールであり(何度でも強調)、実は何より一番の要素であった小巻の娘、のんちゃんである。
何の疑念もなく、ママもパパも大好きで、だからなぜ今パパと離れなきゃいけないのか判らなくて、それでもどうやら、ママと暮らしつつパパとは疎遠になることを察していて……。
誘拐未遂事件の騒ぎの後、のんちゃん……と切り出した小巻をさえぎる様に、聞きたくない!と両耳をふさいだのんちゃん、でも聞かせておかない訳には行かなくてさ……。
「もうパパと会えなくなるの?」「パパとはいつでも会えるよ。会いたい時に会っていいんだよ」号泣するのんちゃんを、まるで仲良し夫婦のように娘を挟んでしっかと抱き締めあう小巻とダンナ。
子はかすがいという言葉を実感しながら、ならばなぜ夫婦は、こんなカワイイ子供を共有しながら別れなければならないのか。
いや、違う、子供を理由にしたら、子供自身がキツすぎる。だからこそ小巻が「のんちゃんが大きくなった時、のんちゃんを理由に諦めたって言いたくないから」とちゃんと言ったもの。
でも……ならばなぜ、親が一人の人間としての生き方を選択して、そのために子供を傷つけることを申し訳なく思った時に、親には出来ないケアをしてくれる制度がないのか。
だってね、これって単純なことで、しかも単純がゆえに、人間として生きて行く上で、子供も親である大人にとっても本当に重要なことじゃない。なんでそれをサポートする制度がないんだろう。今の時代に。
……なんか、やたらシリアスになりすぎちゃったかしらん。実際は、笑いも多くてステキなのよ。数あるおいしそうなお惣菜も魅力だったしさ。
ラストエピソードは、小巻がお弁当屋を開く直前。一人準備を重ねている。
お弁当屋を始めるのに「時間がないだろうから」と料理下手のお母さんが、すき焼きとごはんをつめただけの弁当をこっそり届けたのもグッと来たけど、それ以上に、もう開店直前、のんちゃんに作っていたようにのりをちぎりながら、なんかもう今までのこととかそれ以外も、いろんなことが込み上げてきたんだろう小巻が、しゃくりあげながら、更に大きな声をあげて、うわーん、うわーんってな号泣につながっていくのが、ちょっと予想はしてたものの、たまらずもらい泣きしちゃう。
更に、そこに、小学校への初登校ののんちゃんが訪れるのもたまらないんだよなあ!
幼稚園の卒園式、こっそり来ていた元ダンナ、ランドセルの礼を小巻から言われても、あれはウチの親が送ったからだと所在なげに言った。
幼稚園生ののんちゃんと最後のデートをしたいなと思って、と言う彼に目を尖らせるかと思いきや、小巻は気持ちよく送り出した。
だってのんちゃんがパパを大好きなのを知っていたから。そしてパパとしてのダンナは確かに百点満点なのも知っていたから……。
開店直前、店を訪れてくれたのんちゃんに、涙を隠して笑顔で言ってらっしゃいを送る小巻。
その直後、今日が開店なんですか、と声をかけてきた、スクリーンから見切れた声だけの客にハイ!と満面の笑顔で応える小巻。
ああ、ああ……。
女が一人、生きていくのは確かに大変だけど。男は愛しくも、やっぱりズルい存在であるとは思うけど。
自分自身、そして愛する相手、それは今自分のそばにいる相手も、今は遠く離れている相手も、見栄なんかどうでもいい、貪欲に取り込んじゃえば、イイのよ!
こにたん、もっともっと映画に出てほしい。大体、主演映画ってのがなかなかないし。本作もステキだったけど、シリアスとか、ねじれたヤツとか、更に徹底したコメディとか、もういろんなジャンルどれをやらせても、きっと素晴らしいと思うんだよなあ!★★★★☆