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2010年鑑賞作品

BECK
2010年 144分 日本 カラー
監督:堤幸彦 脚本:大石哲也
撮影:唐沢悟 音楽:GRAND FUNK ink
出演:水嶋ヒロ 佐藤健 桐谷健太 忽那汐里 中村蒼 向井理 カンニング竹山 倉内沙莉 水上剣星 古川雄大 桜田通 川野直輝 竹中直人 桂南光 有吉弘行 品川祐 蝶野正洋 もたいまさこ サンキ・リー 松下由樹 中村獅童


2010/9/29/水 劇場(有楽町丸の内ピカデリー2)
ネタバレだろうがオチバレだろうが、この映画を観た人全てがまずそこに引っかかるに決まってるんだから、もう書いちゃう。どうしてコユキの歌声を聴かせないのか、殆んど怒りにも近い気持ちを覚える。ていうか、イカっている、私は!
最初に彼の声をメンバーが聴いた場面、予想もしない天使の歌声(多分)に、竜介はジーザスクライスト!と叫び、千葉はでっかい目を見開いて天を仰いだ。まさに、このバンドが奇跡の運命の元に導かれてメンバーが集まったと、誰もが思った瞬間だったじゃないの。
いや、百歩譲ってこの場面だけで彼の歌声が聴けないというのならまだいい。きっとそれを観客の前で聴かせる時、映画の観衆ともども、彼の歌声に魅了されるというガマンを強いているのかと。

しかしライブシーンでも相変わらず彼の声はミュートされたまま。ならばきっとクライマックスのグレイトフルサウンドの場面で、何千人もの観衆が、この無名の少年の歌声に酔いしれるという、これ以上ない舞台を用意しているのだ、きっと!
とイライラする気持ちを必死に抑えながら待ち続けるも意に反して、というか、予想された結果というべきか、やはり彼の歌声は不自然としか言い様のないオフサウンドの憂き目に合わされるのだった。

全く納得がいかず、というか、演出の意図が全く判らず、帰ってすぐさま情報収集に努めると、なんでも原作のイメージを損なわないためだという。しかも、原作者の意向でもあるという。そこに至って、私の怒りは沸点に達した。
イメージ!何それ!一体観客のどれほどが、原作の“イメージ”とやらを知って足を運ぶというのだ。

そりゃあ原作つきの映画は、原作に忠実か否か、原作のイメージを伝えているか否か、という運命を常に背負っている。優れた原作とのあまりに乖離した映画化作品に落胆することはしょっちゅうだよ。
でもね、映画なんだから、紙の上に書かれた原作と違うのは当たり前じゃない。それが前提で、映画っていうのは作られるんじゃない。別物であるというのは、否定的な意味でもあるけど、肯定的な意味として、映画がハジけることだってあるじゃない。

なのになのに、最初から映画としての勝負を捨てるなんて、あり得ない。そもそも、紙の上では実際に聴くことの出来ないものを、映画作品だからこそ、“現実”に出来るからこそ、そこにこそ映画の醍醐味はあるんじゃないの?
アニメ化に際してその問題が浮上したという話もあるけど、一応は絵のキャラを引き継いだアニメとは、映画はまた全く別じゃないの。

実際、コユキの声以外の、“現実のBECK”は、震えるほどカッコ良かった。正直、あの桐谷健太君のラップってどうなのよと思ったら、彼の魂の入り方ときたら尋常じゃなかった。
そのラッパーの千葉君は、コユキの歌声にショックを受けて、自分はいらないんじゃないかとまで思いつめる。それが、コユキの声がミュートされてしまっては、それだけの思いを抱えた千葉君に対してだってあまりにもひどい仕打ちじゃないのか。

てゆーか、もちろん一番ひどい仕打ちを受けているのはコユキである。そりゃあ演じる佐藤健君は一俳優に過ぎない訳であって、そんな天才的なボーカルである訳はない、のかもしれない。
でもさ、そこで映画のマジックを使わないでどうするんだよ。ウソをホントに見せるのが、映画のマジックじゃんか。

私は別に、吹き替えまで使わなくても、彼自身の歌声できっと充分に、演出のマジックで、観客を感動させられる筈だと思った。それが出来なければ演出の意味がない。
それがムリというのなら、大規模なオーディションをしてでも、コユキを演じられる天才的ボーカリストの才能を持つ少年を見つけるぐらいのことはしてほしかった。
これだけ大きなバジェットの映画なら、それぐらいやったっていい筈。それでスター俳優を見つけ出すぐらいの度量を見せてほしかった。それこそ「バッテリー」みたいにさあ。

大体客寄せはまず水嶋ヒロであり、サブが向井理てなところなんだから、メンバーの全員を人気イケメンで揃えるなんてことまで執着しなくて良かったと思う。ていうか、してほしくなかった。
だってそうしたマーケット的な意味で集められたにせよ、彼らはもちろん、役者としてしっかり努力して、これだけクールなステージングを披露したのだ。
それなのに、コユキの声がミュートされただけで、結局はイケメン俳優が集められたテレビ局映画だという冷ややかな視線にさらされかねないのだ。

だから最もメーワクをこうむったのがコユキ役の佐藤君であるに他ならず、彼が気の毒で仕方ない。だってさ、声がミュートされた時点で、お前の歌声じゃコユキじゃないと言われたも同然で、それ以上に、お前じゃコユキじゃないと言われたも同然で……。
コユキとして闘い続けた彼の努力は一体なんだったのか、聴こえない声にみんなが大仰に目を見開いてカンドーするシーンが繰り返されるたび、そんな虚しい思いにとらわれるしかなかった。

実はちょっと……堤監督だから、観るの自体を躊躇していたんだよね。彼はとにかくファーストインプレッションが悪すぎて、新作が出るたび、堤作品かあ……とついつい二の足を踏んでしまう。ま、「20世紀少年」に関しては、単に最初からシリーズになるっていうのが判っていたから、続き物がニガテなもんでスルーしちゃっただけなのだが……。
そう思うと彼はさ、日テレお抱え監督にでもなる気なのかしらん(まあ、ドラマは各局やってるが)。あのね、こんなこと言いたくないけど……だから、監督として闘う気がないのか、などと思っちゃう。

コユキの声がミュートされるなんて、この作品の、この作品が映画として作られる時点で、ここが再現されなければ意味がない、再重要項目が、原作者の意向やファンの顔色を伺ってお蔵入りにされるなんて、それを監督として何とかすることが出来ないだなんて、それって監督をやる意味あるの?とさえ思っちゃうよ。
一体何のために映画を作ってるのか。こんな方法を強いられるなら、この映画は作られない方が幸せだったんじゃないか、とまで思っちゃうよ。

……はー……思う存分怒ってしまった(爆)。でもね、原作をまるで読んだこともない私がそんなガミガミ言う権利なんてない、という臆した気持ちもあるのよ。
でもそれを言っちゃうのはやっぱり、映画ファンとしていけないことだと思う。だって役者たちは本当に頑張ってたし、素敵だったし、カッコ良かったし、だからこそ、許せないと思っちゃったんだもの。

宣伝的には最前線に出ていて、プロモーションも積極的に行なっていた水嶋ヒロは、しかし実は狂言回し的な立場だったと思う。
天才的なギタリスト同士としてライバル関係にあった栄ニと決裂し、最高のバンドを作ってやる!と自ら旗を振ってBECKを作った。
そして物語を引っかき回す要素……ニューヨーク在住時代に親友だった、今や世界的ミュージシャンのエディとの関係と、秘められたヤバイ過去、物語を作り上げるための人物とはいえ、それだけにマンガチックな雰囲気も多々ある。
多感なティーンエイジャーの時に運命のものに出会う、という、バンドものとしては不可欠な青春の要素で牽引していくというテーマ性でいっても、やはりコユキが主人公であるという感が強い。
そう思わせるだけ、佐藤健君はとてもセンシティブで素敵だったしね。

それだけに、蒸し返すようだけど、なぜ彼の声をミュートしてしまったのか、それを演出サイドも制作サイドもすべて通してしまったのが、どうにも理解しがたいのだが……。
それでも、原作ファンなら、納得するってことなのかなあ……でも、映画を観たどれだけの割合の人が、納得しているのか、理解に苦しむんだけど……。

おっと、もう蒸し返しても始まらないか……でね、竜介はベースの平(向井理)やラッパーの千葉(桐谷健太)を誘ってバンドを形作り始める。
そこへひょんなことから……竜介の愛犬、BECKが外国人にいじめられているところをコユキが助けたことがきっかけになって、彼と友人のサクが加入。
コユキは、そもそもコユキと呼ばれているのは田中幸雄という同じ名前の生徒がクラスに二人いた時、小さい方の彼がコユキと呼ばれたことに由来する。そんなことからも判るように、今もコワい先輩に使いっぱしりにされているサエない高校一年生。

サクはそこに転入してきて、同じロック好きで意気投合したんである。サクが正確なドラム技術を持っていたことも、BECKの運命的な出会いだったんである。
コユキは竜介からもらいうけたギターを先輩に壊されて、一度は竜介の怒りを買うんだけれど、直すために一生懸命バイトして、そのバイト先のおっちゃんにギターを習って、目覚ましい成長をとげるんである。

そのバイト先のおっちゃん、竜介の住み込んでいる釣り堀の常連さんである斎藤さんを演じるカンニング竹山は、かなりグッドだった。こういうナイスキャラがいるから、救われているところはかなりある。
元オリンピック代表だからといって、海パン姿でギターを弾く理由にはならないと思うけどなあ。それが伏線になって、グレイトフルサウンドの会場で、水着姿で踊る美女たちにタガが外れちゃうのはちょっと可笑しい。

そんな具合で結成されたBECK。注目される存在になる。竜介の親友のエディが、世界的な人気バンド、ダイイングブリード(ダイブリ)を率いて来日した時、旧友のステージを見た彼は、コユキのボーカルに魅了された。
ダイブリのシークレットライブに呼ばれていたのは、大手プロデューサーから大々的にデビューした、竜介のライバル、栄二だったけれど、商業的ビジュアル系の彼にツバを吐き捨て、彼らがステージに上げたのは、コユキと竜介だったのだ。
で……こんな刺激的なシーンの数々にも、コユキの歌声はミュートされっぱなしなんである(怒)。

ちょっとね、水嶋ヒロは、惜しい感じがしたんだよなあ。日本語をビミョーに間違う帰国子女という設定は、彼自身が通ってきた道だし、もっとオトボケを強調して面白くなりそうな感じがあったんだけど。
お礼をオフダと言ったり、門限をコウモンと言ったりする言い間違いを、そのまんまさらりと演じちゃうと、いくら受け手の佐藤君が苦笑気味に訂正しても、そのままスルーしてしまうというか……。こういうギャグはもうちょっと大げさにやってほしかったなあ。

結局は彼は、客寄せ的な意味合いがあるから、いかに水嶋ヒロをカッコ良く見せるか、てなことに、制作サイドは腐心していたように思う。それが逆に彼を薄く見せる結果になってしまったのは、皮肉としか言い様がない。
いや、確かに彼はカッコイイけど(ちょっと眉毛がコワいけど(爆))、ウブな佐藤健やアツい桐谷健太、妙に色っぽい向井理の存在感には負けちゃうんだもの。

そうそう、向井理は、金髪似合わないなあ、と最初は思ったけど、ステージ上で脱いだ途端に、目の色が変わってしまった(爆)。
彼はやたらステージで脱ぐのが、どうもその衝動が彼自身からはあまり伝わっては来ないんだけどさ(爆。まあ、原作のキャラからの設定らしいし……)。
でも向井氏の、微妙になまっちろい、筋肉と脂肪が双方つきすぎてない身体が、なんかやけに生々しく、見ててやたらドキドキするんだよなあ(爆)。あー、もー、そういう視点になったら、マジおしまいだ……。

中村獅童演じるマンガチックなプロデューサーや、わざとらしいぐらい小柄なマフィア、レオン・サイクスが登場してくる段になってくると、マンガ原作に対してマンガチックというのは言い辛いものがあるけど、どうにもそのファンタジックさにお尻がもぞもぞしてくるのを感じるんである。
原作は未読だけど、恐らく原作の方が、映像にするよりもリアルな感触を与えるのだと思う。不思議と漫画作品って、そういう虚構性を、実写よりスリリングにリアリスティックに描写する感覚があると思う。
あの「NANA」も実写になった途端、やけに安っぽくなったのは、決して役者のせいじゃないと思うもん(多分)。
漫画は、キャラや設定が虚構性を増せば増すほど、集中度が高くなるからかもしれないなあ、と思う。

中村獅童のマンガチックさときたら、なかったなあ。まあ、彼がプロデューするする栄二、しかもイケメン俳優をボーカリストとしてフューチャリングするプロジェクトというのはいかにも、ヤボなほどに今風で、それが見ていてハズかしいというか、ツライというのは、つまりその“今風”が、いかにセンスのカケラもないかというのを、私たちに突きつけているとも言えるんだよね。
プロデューサーとか出してくるとそういうのかなりありがちなんだけど……でもそれも、「ソラニン」なんかは、リアリティあったよなあ、と思うと、やはり……ね。

彼らが憧れてやまない野外フェス、グレイトフルサウンドの女性プロデューサーから参加してみないかという打診がある。
一度はこの中村獅童演じる悪徳プロデューサーから締め出されるものの、竜介がエディと共に悪さをしていたNY時代に盗み出した伝説のギター、ルシールを所持しているのを、米音楽業界を牛耳るレオン・サイクスに探り当てられ、竜介は一発逆転をかけて、レオンに出場させてもらうように頼み込む。
それはあまりにも無謀な条件……海外から来たスター歌手と、栄二たちのプロジェクト、ベル・アームに観客動員数で勝つこと。それをクリアできなければ、竜介はレオンに一生無報酬でこき使われる。もちろん、BECKも解散となる。

……てか、ここまで書き進めるうちに、全く入る余地がなかったんだけど(爆)、竜介の妹でコユキとイイ感じになる真帆、演じる忽那汐里ちゃん、病弱なヒロインを演じた「半分の月がのぼる空」の時は正直、どうかねと思う部分もあったのだけど、本作の彼女を見て、ああ、こういうの方が全然似合う!と思った。
あの時、美少女のお顔から発せられたドスの効いた声が、物語のキッカケになったけど、その地?をいかんなく発揮する、ウブな男の子をホンローする女の子がめちゃめちゃ魅惑的。

役柄的に「半分の……」より厚塗り気味なせいか、気になったお年頃のニキビも気にならないし(爆)、それにそう、こーゆー、帰国子女的の特性は使えるもんならばんばん使った方がいいよな!それこそ、水嶋ヒロよりずっと思い切ってる。
私はエーゴが出来ないから、それが出来るだけでもう即座にソンケーしてしまうクチで(爆)。
「家に帰りたくない」ので、兄の元に居候状態の真帆。釣り堀に住み込んでいる竜介。彼らの家族の問題が、こんな要素を提示していながら全く描かれないことも気になったなあ……尺の問題はあるにしてもさ。だって、もったいないじゃん。

真帆は栄二のプロジェクトのフロントマンの、イケメン俳優、ヨシトとちょっとした仲である。彼の紹介で、真帆の長年の夢だった映画監督への道が開ける留学の話が用意されている。
真帆をコユキと取り合っているヨシトは自信満々に、グレイトフルサウンドで、彼女がどっちにくるかで決着をつけようと言う……。

もうね、クライマックスは、お約束だから。どう考えても無名なBECKに勝ち目はないと思いきや、洪水のような雨が降ってきて、来日スターは早々にやる気をなくし、栄二達もスタッフたちによって中止が決められてしまう。
BECKの出演を一度下げられた悔しさを持つ女性プロデューサーは、この第一、第二ステージのスクリーンに、BECKの熱いライブを中継する。斎藤さんのビキニ美女の中継もあって(笑)、観客がどんどん第三ステージのBECKに押し寄せる。

ステージが始まる前には確執があって、一人だけ啓示的夢を見ていない千葉君が傷ついて飛び出してしまって、ステージが始まっても千葉君も竜介もいない状態で始まったんだけど、コユキの勇気でステージが始まって、そして……。
正直、コユキがせっかく始めたのに、おじけづいたのか途中で演奏をやめてしまい、そこにカッコワルイぐらいカッコよく、ベッタベタに水嶋ヒロ、いや、竜介がギューン!とギターをかき鳴らして登場するのは、そりゃないよな、こんなに勇気を持ってステージに現われたコユキが突然怖じ気づいた気持ちも判んないしさ、とどうにも斜に構えずにはいられないんである。

堤作品ということで、必要以上に構えすぎた?それもあると思うけど……いや、コユキの歌声さえ聞ければ、他にごたごた言っちゃったことも、全部引っ込められたと思う。
それだけコユキの歌声の喪失、という要素はあまりにも大きすぎた。映画への冒涜と言ってしまったら、言い過ぎ?でも……そう思っちゃったよ。だってこれって、バンド映画、音楽映画だよ?余計に、そうじゃん。
声をミュートしてんのに、メンバーや聴衆の泣き顔ばかりを提示して、そら泣け!と強要されることに憤りを覚えるんだもの。泣いているところを映せば、もらい泣きすると思ってる、観客をバカだと思ってるんだろ、って思っちゃうんだもん!!★★☆☆☆


ヘヴンズ・ストーリー
2010年 278分 日本 カラー
監督:瀬々敬久 脚本:佐藤有記
撮影:鍋島淳裕 斉藤幸一 花村也寸志 音楽:安川午朗
出演:寉岡萌希 長谷川朝晴 忍成修吾 村上淳 山崎ハコ 菜葉菜 栗原堅一 江口のりこ 大島葉子 佐藤浩市 柄本明 吹越満 片岡礼子 嶋田久作 菅田俊 光石研 津田寛治 根岸季衣 渡辺真起子 長澤奈央 本多叶奈 諏訪太朗 外波山文明

2010/11/2/火 劇場(渋谷ユーロスペース)
そりゃあもちろん、この尺には怖じ気づきまくった。途中休憩が入る作品は「愛のむきだし」以来ではなかろうか。正直、こういう作品が今後出てくる傾向になるのはカンベンだなあと思った。年年歳歳、身が持たない(爆)。
でも何より、瀬々監督だから、足を運ばなければ絶対後悔する、という思いは当然、強かった。
瀬々監督は美しすぎるほどのラヴファンタジーを描くけど、その同じ透明さがひどく厳しいそれになることがある。透明な視点であればある程、曇りを許さない。それが故に、美しい。

本作は、あまりにも透明で、だからガラスのように突き刺さって、しかもこの尺でしょ。しかしこの尺の一分一秒もまるで無駄がなく、人形劇を使った暗喩的な表現さえもビシリと締まっていて、瀬々監督、大丈夫?これで死んでしまっちゃいそう、とさえ思った。
だってこんな、集大成ってない。生と死、愛の叙事詩。4時間38分の大作。もうこれじゃ遺作じゃん、と思えるぐらいの魂の込めようなんだもの。

この日、舞台挨拶に来ていた嶋田久作が、瀬々監督が本当に入り込んでいて、言葉を交わしていてもどこか心ここにあらずって感じだった、と語っていた。それが僕には嬉しかった、と。さもありなん、と思った。
一体この後、瀬々監督は何を作っていくのだろう、作っていけるのだろうかと、心配になるほどだった。

確かに以前にも、実際の事件を元にした作品を作っている。観た覚えがある。親しい知人を殺して何年も逃げ続けた女の話。
今回の物語もまさに、実に記憶に新しい、あの事件を元にしているんだろうと思われる。
まだ若い妻と、その赤ちゃんを無残に殺した少年。愛する者を突然失った夫は、ただただ許せない思いを抱く。
当然だ。何が少年だからだ。同情すべき環境に育ったって?ならば人を殺していいのかと。
理不尽な少年法の壁に阻まれた彼のことを、その実際の事件に際した私たちもひどく憤った。その手で殺してやりたいと、この若い夫が思っても当然だと思った。人を殺した罪は、その命以外で償えるものではないと。
その意識が、文明国では野蛮とされる死刑制度を、いまだに日本で継続させている。

ホントにね、思うのだ。最近よく時代小説を読んでいるんだけど、そこではカンタンなんだもの。
人殺しはそのまま磔獄門。情状の余地などない。人の命を奪ったのだから、その命をもって償うのは当然。
実にシンプルな理屈。それで済む時代の方が、健全に思えた。
でも一方で、時代劇の世界でも、仇討ちならば人を殺すことを許されるんだよね。

本作は、殺人を犯した少年が、少年法に守られて死刑にならない、ということよりも、そのことに憤って、出所した彼をこの手で殺すことを決意した、妻と娘を殺された夫の復讐の物語であり、しかもその復讐は更に思いがけない波及を呼ぶんである。
最後には、なんとこの少年こそがこの夫に対して復讐心を抱き、殺し合いになってしまう。
そこには、憎しみが憎しみを呼ぶんだとかいう、キリスト教的な説教じみた感覚をはるかに越えたものがある。
ヘンな言い方だけど……殺し合いだけど、これ以上なくお互いを判り合えた、幸せな場面に思えたのだ。

それをけしかけた女の子、彼女こそが、この物語の一番の主人公だったかもしれない。家族を殺され、犯人が自死してしまったために復讐の刃の向けようがなくなってしまった彼女が、いつのまにか愛していたこの被害者の夫。
血まみれになって瀕死の状態の彼を抱きしめて泣き叫ぶのに際し、いやいや、こうなったのもアンタのせいだよ、とか思う私はサイテーだが、つまり彼女は復讐の為の殺し合いという、最高の絆の結び合いに参加できなかった、カワイソウな人かもしれない、のだ。
だって、どう考えたって、彼女がこの元少年に恨みを持っている訳じゃないんだもの。ただ代理として、この夫に復讐をしてほしかっただけ。持って行き様のない自分の思いを、代理で遂げてほしかっただけ。
ヒーローだとか奉りながら、実はただ、自分のためだけだったんだもの。

被害者夫のことを好きになったのも、本当の想いじゃない。擬似恋愛に過ぎなかったと思う。
彼女は確かに、愛する家族を理不尽に失った。そして一人になった。実はその状態は、あの少年と同じだったのだ。
むしろ彼女は、家族を失ったという共通項で被害者夫とつながっていたように思うけれど、愛する人もいなくてひとりぼっち、という点では、少年との方が、似ていたんだもの。

本作が凄いと思ったのは、やっぱり何より、人の命を奪った者はその命をもって償うべき、という点に対して、この4時間超を費やして、明確な反論を構築したことにあると思う。
だってやっぱり、疑問を持っていたんだもの。それで遺族は本当に気持ちがスッキリするのか。諦めがつくのか。それで加害者が本当に遺族の気持ちを判ったと、反省したと、思うのかと。
裁判やなんかで、いくら加害者が反省の態度を示しても、あるいは逆に示さなくても、遺族はただ怒りを募らせるしかない。ある意味それは遺族の権利ではあるけれど……それってあまりに虚しいではないか。

私ね、加害者はヘタに、反省の態度なんか示すべきじゃないと思ってたんだよね。というか、今でも思ってるかもしれない。
だって彼、もしくは彼女は、永遠に遺族の気持ちなんて判りっこない。反省の態度を示したって、殺された被害者は戻ってこない。
ただ命を永らえているだけで遺族にとっては許せないことなんだから、だったら極悪人のまま、早めに獄門台の上で命を散らすのが、遺族にとっては一番の慰めになるんじゃないかと、思ってた。
あるいは、本当に、叶うことならば、遺族の手によってその命を断たせてやること、昔の仇討ちの様なことが叶えばいいのかな、とさえ思っていた。
でも、それが無理な以上、というか、たとえ現代で仇討ちが叶っても、きっとそれはやはり虚しいのだ。だって問題はそこじゃないから、というのを、監督は実に明確に示したのだ。

愛する人を殺された罪は、その加害者の命によって償うことでは、加害者はやはり遺族の痛みを判らないままなのだ。
愛する人を殺された痛みを、その加害者は知らないから。
愛する人を殺されることによってしか、判らないから。
示されてみれば、こんなシンプルなことはないのだ。そりゃそうだ、加害者自身が命を奪われても遺族が救われないのは、だからなのだ。
いや、それとも、私が気づかなかっただけで、皆気づいていたのだろうか。それが出来ないから、出来っこないから。ならば一番憎い相手がこの世から去ることを望むしかない、と。

そう思うと、実はこの設定はズルいのかもしれない。少年には、彼を愛してくれる家族はいない。彼は愛されないままに育ち、自分でも明確に動機を感じないまま、残忍な犯罪を犯した。
“だからこそ”情状酌量すべきだ、と裁判の場では守られてしまうことを、少年自身も、どこか他人事のように、戸惑いながら眺めていたのかもしれない。そうやって情けをかけられて、これからどうやって生きていけばいいのか、と。
少年には愛する人がいなかったから、殺人の本当に重い意味が、判ってなかった。
勿論世の中の殺人には、加害者の家族が苦悩する例もいっぱいある。家族だから愛しているという単純な世の中ではないにしても。でもこの少年には、なかったのだ。

被害者の夫、トモキは、出所した少年、ミツオを目の前にしながらも手をかけられなかった。
彼を殺しても、何になると言うのか、という意識が芽生えたのは、その時点で、長い年月が経つ中で、新しい家族を得てしまっていたから。
家族を殺された人は幸せになってはいけないのか、という問いに、同じく家族を殺され、復讐すべき犯人も命を断ってしまった少女、サトは、いけないと思います、と即答したのだ。

一方、愛する人がいなかったミツオに、愛する人が出来た。孤独な彼を養子として迎え入れてくれた、やはり孤独な中年女性、恭子。
若年性アルツハイマーに冒された恭子を介護することになったミツオは、そのために自分は受け入れられたのかと、まさに擬似家族の葛藤を覚えるんだけど、そのギブアンドテイクだけでは説明しきれない絆こそが、家族なんだよね。
トモキとサトの復讐の最中、思いがけず恭子が死んでしまったことで、ミツオは愛する人を殺される憎しみを知るのだ。トモキが、被害者遺族が、最も望んでいたこと。

私ね、この結論を、この壮大な物語の中で、この結論こそが、一つの重大なキーワードになっていることに、瀬々監督の覚悟と、そして優しさと……同時に残酷さを感じたのだ。
それは本当に、クリアーな回答だ。でもどうすりゃいいの。だからといって、被害者の家族を殺す訳にはいかない。彼のように、愛する人さえいない加害者だって多いだろう。
いや、だからこそ、世の中に犯罪は起こるのかもしれない。だからといって、その加害者を慈悲の心をもって許す訳にもいかない。
もちろん、そこに答えなどない。監督はただ、彼らと彼らをとりまく大きな人間の渦を提示しているだけだ。そして、ただ生きていくしか出来ないのだと、言っているだけだ。

ざらざらざらと物語を綴ってしまったけれど、この殺人事件を軸として、あまたの登場人物が彼らとつながっているようでつながってなく、つながっていないようでつながっているような、すれ違い、通り過ぎ、さらりと触れていく、その間には10年という月日が横たわる、本当に壮大な物語になっているんである。
トモキとミツオがあくまで物語の軸なんだけれど、始まりは違うし、錚々たる役者がザラザラ出てくる。その中で、長谷川朝晴と忍成修吾という、若く、気鋭の役者に大きな世界観を任せたあたりも、この物語の凄いところだと思う。

構成上は9話からなるオムニバスのようにも見える。実際、三分の二ぐらいまでは割と短く刻むし、確かにオムニバスのような、ある程度切り離された印象も受けるんである。
いや、その中でも確実に人物は連鎖していくし、え?この人がここにも唐突に現われるの?というオドロキが、見事に最後の最後まで使って、まさにパズルのピースを組み込むように収斂されていくんだけど、途中休憩を挟む前半までは、いわゆる、ゴーカな脇役たちの物語という感も強いのね。
それが、後半の重い展開に対しての、いわば準備運動にもなっているのかと思う。

瀬々監督がテレビのドキュメンタリーの仕事で発見して、いつか映画で使いたいと思っていたという、とても現実のものとは思えない、鉱山跡地の廃墟の街での、復讐代行人とそのターゲットとのシーンなど、実に映画的である。
子供のようなワナを仕掛けてあがき続けるターゲットを演じる佐藤浩市の遊び心に、ふと笑わせられたりもするんである。
……などと言っていても仕方ないので、ここからはその一話ずつを思い返してみようと思う。……だったらここまで長々言ってきたのはなんだったんだともちょっと思うけれど……。

【第一章 夏空とオシッコ】
ここでは幼い少女として出てくるサト。物語の後半では彼女は生長した姿になり、大きな存在感を示す。
この第一章の前、人形浄瑠璃か、寒村の秘祭の人形劇などをも思わせる、面をつけたひそやかな劇が示され、この物語の先付け、というか……前説のように、「怪物が里に下りてきた。寂しくて、人間と仲良くなりたいだけだったのに、人間に怖がられて、怒って、人間を襲った。襲われた人間たちは、怪物になった」と語られる。
この前提的な語りは、全編通じて頭の中にこびりつき、考えさせられずにはいられないんである。

で、サトである。女の子たちに軽くいじめられている風。その流れで、海に飛び込まされる。しかし彼女は、この町を離れる直前なんである。
おじいちゃんが迎えに来てる。さっきまで彼女をいじめていた同級生と思しき女の子が、あんた、家でトイレに入っていかなくていいの。家のトイレじゃなくちゃ、出来ないくせに、と心配し、走り去った車をいつまでも追いかけるんである。
このシーン、友達といじめっ子は紙一重である幼き頃を思い出させる。この後、成長した高校生のサトが同級生たちに、これは友達なんかじゃない、本当にリアルにいじめられているシーンが用意されているだけに、このシークエンスは、人間の可能性や根源といったものを考えずにはいられないんである。
でもそれは、その後のシークエンスが現われてからようやくそう思うんだけれど。

殺された娘夫婦とともに、このサトとも長年疎遠だったおじいちゃん(柄本明)は、葬式の間も黙りこくっていた孫娘のサトを正直、持て余している。
車の中で、腹痛を訴えたサトに、薬屋に寄ったおじいちゃんが戻ってくると、サトがいない。半狂乱で探し回る。サトはというと、おじいちゃんがイヤだったのか、単にこの現状から逃げたかったのかは定かではないけれど、明らかに仮病だったらしく、おじいちゃんがいなくなると車から走り出す。どんどん、走り出す。
ある電気店の店先で、テレビニュースに気付く。両親と姉を殺した犯人が、自殺しているのが見つかったと。耳をふさぐサト。
しかし次のニュースで、妻子を殺害された夫が加害者の少年の無期懲役に際して、控訴はしない。早く社会復帰して、この手で自分が殺すのだと、涙を流して宣言しているのにサトは釘づけになった。
我慢していた意識もないおしっこが、しゃがんだ足の間からたらたらとこぼれ出る。

実はこれもまた、つながっているんだよね。最終章で、江口のりこ扮するカナが子供を産む。その直前、ギリギリの展開で彼女が破水するシーンで、あ、ここにつながってたんだ……と気付く。
一話と、最終話。まあ正直、女の役割を判りやすく限定しすぎな気もしたけど、でも、鮮烈である。しかもこのカナとサトとも、本当に絶妙に、間接的に、この最終話に至るまでに、つながっていくんだもの。
こうして思い返してみると、本当に、なんて凄いんだろうと思う。

サトは、最後の愛する家族まで失ってしまったと思って号泣する祖父の元に帰ってくる。そう、ここで既に、この物語の大前提が示されているんだよね。
サトは宣言する。私は、お姉ちゃんよりも、お母さんよりも、長生きすると。おじいちゃんは、今度こそ決して自分より先に行かないと約束してくれた孫娘を抱きしめた……。

【第二章 桜と雪だるま】
前段の夏の物語を思い、なるほど、本作は四季を描いていく訳なんだな、と思う。このシークエンスはタイトルどおり、冬と春が非常に鮮やかなコントラストで現われる。
第一話とは一見、何の関係もなさそうな、和やかな花見の席。しかしその花見にフラフラと現われたのは、あのニュース画面で、加害者の少年を殺すと宣言していたトモキ。
桜の木によじ登って、枝を切ろうとしていたトモキがどたりと落下する。
その場に居合わせたのが、おまわりさんのカイジマと、彼とはこの場では初対面で、後にカイジマとソウイウ関係になっていることを示される直子。
ムラジュン扮するカイジマは、おまわりさんのかたわら、復讐代行人なる副業をやっていて、そのサイトにトモキがアクセスする場面が出てくる。
ただ、トモキが殺したいミツオは刑務所の中であり、それでも復讐は可能なのか、と問い合わせる場面で終わっており、トモキとカイジマが実際邂逅したかまでは示されないんである。

カイジマがその復讐代行人の仕事を見せる場面で、本作で実に象徴的な美しさを見せる、廃鉱ハイコウになった廃墟の街が目の前に広がる。
雪に埋もれたその場所は、後に早春の緑の姿で現われる時とはまるで違った、隔絶された厳格な美しさに息を飲むばかりなんである。
そこで対峙するターゲットが佐藤浩市というゴーカさで、しかも彼が、本当に子供のようにはしゃいでカイジマの追撃をかわしまくるもんだから、事態の深刻さをふと忘れそうになってしまうぐらいなんである。

この佐藤浩市扮する波田は、末期ガンで余命いくばくもないという。カイジマに依頼したのは奥さんで、波田は自分が若い女の子にうつつを抜かしたからだと言う。
実際そうなのかもしれない。この、誰もが出て行ってしまった失われた鉱山街で幼なじみとして育った、同志のような関係だった夫婦関係を、そんな浅はかさでぶち壊してしまった彼に非があるのだと考えるのが自然である。
ただ……後に出てくる、若年性アルツハイマーに犯された山崎ハコ扮する恭子が、恐らくこの波田の妻であり、彼を殺すよう依頼したんだと思うと、記憶が……いや思い出が着実に失われていく自分を思って、自分の思い出が色濃いうちにと夫を間接的に手にかけたと思うと……何とも言い難くてさ……。

これはまた後の話になるけれど、記憶って、思い出って、人間を形成する、人間たる、基本のようなものじゃない。愛と言うのが陳腐ならば、記憶や思い出と言えばしっくりくるもの。
だから……殺人の加害者になった少年のミツオと、殺人を依頼した恭子が愛と記憶の喪失者であると考えると、あまりにもあまりにもしっくりくるんだもの。

無事?仕事を終え、カイジマは息子の元に帰ってきた。お土産は、波田を殺した雪山で、彼を殺すために用意したクスリを入れたクーラーボックスに入れた、波田が作っていた雪だるま。
無邪気にはしゃぐ息子を見ていると、見ているだけで心が温まる。桜の花びらが散っている……。

【第三章 雨粒とRock】
「ハッピーエンド」では全く違う、からりとしたラブコメを演じていたと思うと感慨深い、菜葉菜嬢と長谷川朝晴の二人ががっぷり四つに組む。
鍵の救急として働いているトモキが呼ばれたのが、最初からふてくされているような、菜葉菜演じるタエ。どしゃぶりの雨の中、浮気された恋人の部屋から私物を持ち帰るところだった。
「私が誰かも確かめないんだ。この部屋の住人じゃなかったらどうすんの」いきなり噛みつくタエに、会社に言われたとおりにやるだけだ、と淡々とするトモキ。
やたら虫の居所が悪いタエは、レイプされたと会社にウソの訴えをし、トモキを自身がベースを弾いているライブハウスに呼び出すんである……。

ここでの菜葉菜嬢は、彼氏にフラれたばかりというのもそうだし、メンバーに疎ましがられてやめて欲しいと思われているのも感づいているのか、やたらイライラし、泣き叫び、正直見ていてもちょっと引いてしまう感はなきにしもあらずである。
正直あまり人と関わりたくないであろうトモキが、彼女を持て余し気味にするのもさもありなんである。
ただ……幼い頃、酔っぱらった父親に蹴飛ばされて片耳が聞こえない彼女が「カチャカチャいう補聴器の音の中で……それでも私は自分の音楽が聴きたいんだよ!」と吠える痛ましさにはやはり胸をつかれずにいられない。
一度は彼女からのキスに、条件反射的に突き飛ばしたトモキだけれど、壊れ物を扱うように、そっと後ろから抱擁せずにはいられないんである。

チャプターが変わって、彼がタエと娘をもうけ、新しい家庭を築いているのはそう驚くことではないのかもしれない。
けれど、トモキの復讐を自分の生きがいにしているサトのことを思えば、やはり……もちろんそれは、あまりにもやるせないことなのだが。
トモキはタエに、自分の殺された家族のことを話したのだろうか。いや、話してないだろうな。話していたら、彼が様子がおかしくなった時、そうと予測がついただろうもの。

てことは、やっぱりトモキはタエに全てを受け入れてほしいとは思わなかったのだ。殺された妻と子供は、タエとは共有したくなかったのだ。共有できないじゃなくて、したくなかったのだ。それは彼だけが愛していた世界。
男は別名で保存して、女は上書き保存する。それは恋愛において囁かれるつまんない俗説かもしれないけど、でもこんなところにも、感じる。
そうして女は置いてけぼりにされてしまうのだ。

【第四章 船とチャリとセミのぬけ殻】
サトが16歳になっている。いよいよ、サトにとってのヒーロ、トモキとの邂逅のチャプター。ここから本作が本格的に回りだす。
サトが16歳ということは、あれから何年経っているのだろう。6、7年というところだろうか。
渡し舟によって行き来するこの町の風景は、ひどく映画的で印象的である。大林作品で、尾道と向島を結ぶ大きなフェリーとも違って、ごくごく小さな船で、まるで昔話のようなほっこりとした気分を感じる。
だけど、この場所にトモキを訪ねてきたサトも、そして勿論トモキも、そんな気持ちとは無縁なのだ。

渡し舟がつく場所に、ナマイキそうな、暗い目をした少年が何をするでもなく座り込んでいる。その少年からサトは強引に自転車を借りて、トモキの家を突き止めた。
だだっぴろい海辺にガツン、ガツンと建っている団地は、その海辺の風景に比してあまりに無計画で、落ち着かない気分にさせる。
色合いなどは何となく海辺に沿うように計画されているのかもしれないけれど、都会的にここに集められて生活している人々と、スコンと抜けた青空と海が、どうにもしっくりと来ないのだ。

あの少年は、カイジマの息子の、あの愛らしかった男の子、ハルキである。
ちょっと、そのことに衝撃を受けた。父子家庭であっても、お父さんを困らせるような子じゃなかった感じだったのに。
人の荷物をかっぱらっては、金をかすめとろうとする悪童に成長していた。単なる反抗期なのか、それとも……。
後に彼は更に成長した、更に暗い目をして、その時には父親は「ヤバい副業」のせいでか、誰かに殺されてしまっていた。

ここではまだ、セミのぬけ殻に夢中になるだけの無邪気さは持ち合わせている。
それでもセミのぬけ殻のことさえ知らずに、何かの虫の死体だと言ってじっと見つめている。
サトはそんなハルキに、セミのぬけ殻だよ、と教えた。

ちょっとね、このチャプターだったのか、次の次のチャプターだったのか、ごっちゃになってきちゃったんだけど(爆)、サトがトモキともっと大きく接触するのは。
このセミのぬけ殻をトモキが踏み潰しちゃって、サトは彼が「この間娘と見つけた」という公園で、あらたにぬけ殻をゲットする。
そしてその場所で、サトはトモキに、あの殺人を犯した少年、ミツオが出所したことを告げるのだ。
「まさか、知らなかったんですか。私は毎日、新聞を隅から隅まで読んでいました。でもあの少年が殺されたっていう記事は、出ていなかった」
犯した罪の重さに比して、あまりにも早い出所にうろたえるトモキに対して、投げつけるようにサトは言った。

新しい奥さんと子供も出来て、忘れちゃったんですか、とサトが憎々しげに言う。トモキは弱々しく、家族を殺された人間は、幸せになっちゃ、いけないかな、と問うた。
それはこの時点では勿論、トモキはサトが、自分と同じ境遇だなんてことを知らなかったから、そんな問いをしたんだと思うんだけど……サトは一瞬の間をおいたようにも見えたけど、でも、迷わず、きっぱりと言ったのだ。

「いけないと思います」

でも、今思っても、あの一瞬の間こそが、サトにとっての本音だったと、思いたいのだ。
サトにはもはや、復讐する相手がいない。そのことが不幸だと、彼女はずっと思ってきただろう。だからトモキが羨ましかったし、自分の手で殺すと公言する彼が、彼女にとってのヒーローになった。

でも……。

ある意味、トモキが新しい家族を得て、半ばエセチックではあっても幸せを作りかけていたのは、つまり彼には、いつか復讐すべき相手がいたからこそかもしれない、と思う。
復讐すべき相手もいなくて、ただ空振りみたいな人生を送らざるを得なかったサトにとって、実はトモキが人生をやり直しているのがうらやましかったようにも思えてしまう。
それは、いつか復讐するという目的があるから、足元が固まっているから出来たことだということ、サトもどこかで判ってたんじゃないかと思う。
判らない。トモキがサトとの出会いがなくて、ミツオの出所をどこかのタイミングで知って、あらたな、守るべき、愛しい家族を持っている彼がどんな決断を下すか、それは判らないけれども……サトの出現がなかったら、トモキは家族に打ち明けたかもしれない、とも思うし……。

でもやっぱり、やっぱりやっぱり、この白茶けた海辺での生活は、やはりどこか、空虚だったのか。

【第五章 おち葉と人形】
こんな後半になって、更なる重要な人物の登場である。
山崎ハコ。実は私、名前は知っていたけれど、彼女のお顔を実際に拝見するのは初めてである。彼女の大ファンである監督のたっての願いで、出演がかなったという。そしてなんとまあ……重要すぎる役柄を、粛々と演じることか。
収監されているミツオのことを新聞で知った恭子。「生まれてくる子供にも、僕のことを覚えていてほしい」というミツオの言葉に突き動かされるように彼にコンタクトをとる、人形作家の恭子である。

このチャプターの最初で、彼女は若年性アルツハイマーを告げられている。いつか自分では生活できなくなる。誰か身寄りの人はいませんかと医者に言われて、思わず笑い出す。
この時にはまだ判らないんだけれど、後に彼女がミツオに語る自身の境遇で、カイジマに殺されたあの波田が恭子の夫であったことが推測される。子供もいない様子の彼女には、身寄りなど、いないのだ。

恭子がミツオを養子として迎えたのは、ミツオが後に悩むように「自分の介護をさせるため」だったのかどうかは……決してそうではないとは思うけれど。
一瞬、正常に戻った恭子が、ミツオに迷惑をかけたくないから施設に行く、とハッキリ言ったあの言葉こそが本音だったとは思うけれど。
でも……最後まで、最後ぐらいは、自分を思ってくれる誰かにそばにいてほしいと思ったんじゃないのか。
いや、逆か。自分が思う誰かにそばにいてほしいと、思うだろうなと、最近、私は思うようになった。
それは、逆の場合よりも、実は難しいことなのかもしれないから……より、高望みかもしれないから……だから、望む、のだ。

恭子が作る人形は、関節が細かく作られている、表情もなまめかしいからくりのような西洋ドール。
この人形と、全編で印象的に登場するお面のパフォーマンスは奇妙に符合するんである。
動かない表情の中に、確かに息づく生々しい感情……。
恭子は出所したミツオとともに、暗闇の中にかがり火を焚いたパフォーマンスを観劇する。
黙ったままの恭子の瞳から、ひと筋の涙が流れた。

【第六章 クリスマス☆プレゼント】
何度も学校から呼び出しをくらっている息子のハルキが、不良たちにボコボコにされて病院直行。知らせを受けて、復讐代行を急ぎ片付けて駆けつけるカイジマ。
クリスマスプレゼントを用意している、と病院のカーテンを開けると、そこには雪が静かに降っている。
「サンタに頼んでおいた。ホントだよ。俺はヤツに借りがあるんだ。去年スピード違反を見逃してやったからな」
ウソだと判っていても、この洒落っ気のある父親の言葉に、ふと笑ってしまうハルキ。この時には、かつての仲の良い親子が甦ったかのように思えた。

カイジマはね、あの時花見で出会った女性と、ソウイウ関係になっているようなんである。さびれた洋服店のシャッターを開ける彼女の前にふらりと現われ、激しくキスを交わす場面にはドキドキとする。
息子さんに会わせてほしいと言う彼女に、ふと黙り込むカイジマ。そして、苦い記憶……交番に訪ねてきて拳銃を奪おうとした男ともみ合いになって誤まって殺してしまった過去を告白する。そしてそれ以来、ずっとその被害者の妻と残された娘に、金を送り続けているんだと。

家族を理不尽な理由で失って悲しむ人々の気持ちをカイジマは判っているのに、その一方で人の怨みを肩代わりして復讐を代行する。
カイジマが一番、この物語の登場人物の中で、説明のつかない立ち場にいる。トモキもサトもキツい立場だけれど、その点では自分の立ち位置に明確な理由を見いだせている。
けれど……カイジマは自分の犯してしまったことを生涯背負って生きていく覚悟が出来ているのに、その一方で……。

整合性がつかないようにも思うけれど、カイジマが犯してしまったことって、自分自身による意志ではなく、あくまで偶発的に起こったこと、なんだよね。
彼が、代行という形とはいえ、いや逆に、これは仕事だという、ハッキリとした意思によって人を殺しているのが、自分が陥った状況に対する落ち着きどころのない気持ちを固めている、って気がしてさあ……こんな、こんな理不尽な決着の仕方って、ないんだけれど……。

そしてこのチャプターでは、トモキがついに、ミツオとの邂逅を果たす。
いや、お互いに顔は当然見知っていたんだろうな。つけてきたトモキに声をかけられて、一発でミツオは判ったから。
こんな過去を持っているから、出所してもなかなか就職が決まらなくて四苦八苦していたミツオは、なんとか工事現場に職を得た。
未成年のまま獄中に入った彼は、酒の味さえ知らず、てことは、彼は本当に不良少年じゃなかった訳で……仲間から勧められるままにビールを飲み、目が覚めた時にフーゾク嬢が「一緒にいた人たちは帰ったよ。悪いと思ったけど、君の財布から延長料金もらったから」という状況だった。

そして声をかけてきたトモキとの再会。君から謝罪のひとこともない。電話だって出来ただろ、と食いつくトモキに、謝ったら終わりになるんですか。それならとっくに謝ってました、とミツオは言い捨てて、去っていく。
それに対して呆然とするばかりで、トモキは何も言い返せなかった。

……でも、そうなんだもん。謝れば済むのか。「謝ればいいと思って」そんなよく聞く言葉は、それを浴びせられる当人こそが、一番判っていることなんだもの。
裁判で良く聞く、反省の態度が感じられないとか、あるいは反省の態度を示しているけど、そんなのは許されたくてやっているだけで本気じゃないとかさ、“反省の態度”なんて、犯罪を犯した人間にとって、不利になることはあれど、有利になんて、ならないのだ。
決して許してなど、もらえないんだもの。それどころか、余計に冷たい目で見られるだけなんだもの。
ミツオがこんな殺人を犯したのに、理由などない。ミツオ自身が証言するそれは、演じる忍成君のキリッキリの芝居で、もうそうでしかない、と頭を垂れるしか、ないんだもの。

それが、ミツオが愛されない環境だったから、と言ってしまうのは簡単すぎるのだろうが……。
でも、ミツオが出会う、勿論本当の家族でもなく、友達でもなく、恋人でもない、恭子の存在が、確かに彼にとっての愛になった時、彼女がトモキとサトによって殺されてしまった時、ミツオは真に、自分の罪を知るのである。
しかし、知って悔いることよりも、愛する人を殺された憎しみをこそ強烈に感じ、獣のように吠え、トモキに殺意を向ける。それをトモキはむしろ、嬉しげに受け止めていたように思う。

ミツオが本当の家族を知らない、その家族による愛を知らない環境で、つまりは他人である恭子に愛を感じたのは、だからこそひどくリアリティを感じる。
むしろ、この擬似家族に、それまで得ることがなかっただけに、自分でも思ってもいなかった理想を傾けただけに、ずっと大きな“愛”が生まれたように思えてならない。
それはまた、最終チャプターに譲ることなのだけれど……。

【第七章 空にいちばん近い町1 復讐】
さらに、年数が経っている。トモキは妻と子供にアイソをつかされているし。
すっかり自分のことが判らなくなってしまった恭子を連れて、ミツオはカイジマが波田を殺した廃墟の街を訪れていた。恭子のふるさと、今は誰もいない街。
一度は恭子を施設に預け、各地を転々として働いたミツオ。ここで一緒に暮らそうよ、と彼女に言う。けれども、もはや恭子はそんな彼の言葉が判る状態にさえない……。
そこに、ミツオを今度こそ殺しに、トモキとサトが彼を追ってきている。
まずは恭子をと、頭に黒いゴミ袋をかぶせて、連れ去る。ミツオを見つけたトモキは、彼と死闘を繰り広げる。ここで殺すか殺されるかの決着がつくかと思いきや、サトの悲鳴が聞こえた。「この人、息してない!」
呆然と立ち尽くすトモキとサト。
獣のように、泣き叫ぶミツオ。

【第八章 空にいちばん近い町2 復讐の復讐は何?】
正直、どこでチャプターが別れたのか、よく覚えていない。ただ、思いがけない結果に逃げるように戻ってきたトモキとサト。トモキは家族も去った部屋で一人、狂人のようになってしまって布団をかぶって震えている。しかしサトの方は意外に冷静で、どこか奥さん気取りで食事の用意なぞしているんである。
苦しんでいるトモキに「あなたは当然のことをしたんだよ」としれりと言ってのけることまでする。トモキは激昂し、「君は何にも判ってない。子供だ」と吐き捨てる……。
トモキが結局、サトの境遇を判っていたのかどうかがちょっと気になるところではある……。ただ、判っていても、この台詞は出たかもしれない。あくまでサトの子供っぽさ……勧善懲悪の理想に対しての反応だったから。

でもその台詞には、トモキ自身も気付かなかったかもしれない、皮肉な意味も込められてて。
つまり、サトにとっての復讐の相手ではないし、……こんなこと言ったら絶対にいけないんだけど、サトの家族が殺されたのは彼女がほんの幼い時で、トモキとは立場も感じる思いも違う。
サトが感じていた気持ち、憎悪は勿論だけど、その他には喪失感のみを抱えて生きていたのだとしたら、トモキは夫として父として家族を守れなかったという、罪悪感を抱えて生きてきたのだから。

加害者が感じるべき罪悪感を、被害者であるトモキの方が感じて生きてきたことを、サトは想像したことがあっただろうか。
想像していたら、ただただヒーローとしてあがめるばかりではなかったかもしれない。
でもそれは、死んでしまった妻や娘にとっては、望むべき感情ではないのだろう。守られるばかりが家族ではない。それは、夫や父という立場に君臨したがる男のエゴだ。
でも、まだ幼い娘、年若い新妻に対して、そんなことを言うのは酷というものか。いや、だからこそ、死んでしまった彼女たちの自我が踏みにじられた哀れさを思うのだ。

窓の外に、ミツオが立っていた。
まっすぐにトモキを見て、携帯電話から語りかける。
あなたの家族を殺したのに、こんなことを言うのはおかしいのだろうけれど、そう言って、愛する人が殺された強烈な憎しみをトモキに向ける。
それが判ったか、ようやくそれが判ってくれたのか、とトモキは搾り出す。
そう、ここで、ようやく判ったのだ。殺人を犯した者が、自分の罪を最も悔いる方法は、その人自身の命で償うことではない。同じく、愛する人の命を奪うことでしか、同等の悔いは得られないのだと。

二人が繰り広げる長い長い殺し合いは、ただただ、見ているのが辛い。
ただその前に、もうひとつ大事なシークエンスがある。カナがハルキを訪ねてきている。自分の父親を誤まって死なせてしまったカイジマとは勿論何度も顔を合わせていて、「もう25か!」なんて、自分の子供のように顔をほころばせていたカイジマ。
そう、不思議なんだけど、まるで擬似父子のようだったのに、カイジマの息子のハルキとは会ったことがなかった。当然と言えば当然なんだけど。
中学生になるかならないかのような年頃で、反抗しているのがハッキリ判るようなうっそうとした髪をしたハルキは、突然知らない大人が訪ねてきても、動揺するでもなかった。散らかり放題の部屋の中でただ泰然としていた。

「お金が振り込まれない?だってあいつ、死んだから。そりゃムリだろ」
カナは驚愕する。その死の事実よりも、今の彼女には早急にカネがいるのだ。彼女のお腹は目に見えて大きい。見るからにカスな男にはらまされて捨てられた。
いや……捨てられた描写の様子では、カナの方がいかにもウザイ女にも見えた。カイジマの前ではハスに構えて見せていたくせに。
カナは家中をあらっぽく探し回る。ハルキは「警察が全部持って行ったから、ないよ」とこれまた泰然としている。どうやらカイジマはあの裏の仕事がたたって、始末されてしまったらしいのだ。
トイレを借りたカナは、水洗の音の異常に気づいて、タンクの中から油紙とビニール袋で厳重に梱包された拳銃を発見する。

その拳銃を懐に入れて外に出て、ミツオが停めていた車を物色するカナ。見つかって、とっさに銃を彼に向ける。
興奮している彼女は、自分がとんでもないことをしているのが判らない。撃ってしまう。ミツオのわき腹を貫く。
ミツオは叫ぶ。そんなことをやっちゃダメだと。生まれてくる子供がいるなら、そんなことはやっちゃダメなんだと。
……この言葉は、ミツオのように、そんな愛情に恵まれなかった人から発せられるとハッとする。いや、逆か。恵まれなかったからこそ判るのか。それも、ミツオが恭子さんと出会っていなかったら、きっと判らなかったことだ。
興奮が促進したか、カナは破水してしまう。そこにサトが通りかかる。必死に助けを求めるハルキ。カナの破水とサトの幼き頃のお漏らしがふとオーバーラップしてしまう。

で、前後したけど、もうこの時点で瀕死の傷を負ったミツオがトモキと殺し合うのだから、なんかもう、最初から、こんなことを言ってしまうとアレなんだけど、やけに耽美でさ……。
ミツオを演じる忍成君が、彼は本当にさ、基本は美青年なんだけど、役柄によると、まがまがしいそれになる人で……それが本作では本当に顕著に出てて、フツーに考えればただただ許せない殺人者なんだけど、ふと見せるまがまがしい美しさにゾクリとしてしまうのだよね。
でもその一方で、愛情という意味さえ知らなかった孤独もちゃんと感じさせてしまう。それが、たまらなくズルイと思い、どうしたらいいの、と戸惑わせる。

不思議に牧歌的な草原の中だった。観覧車なぞが見えた。二人は相撃ちだった。
いや、でも……血まみれのトモキを泣きながら引きずり運び、もう息もしていない彼を、こんな出会いで愛してしまった彼を、抱き締め、ただただ獣のように泣き叫ぶしかないサトという存在があるだけ、トモキの方がこの瞬間はちょっとは幸せだったかもしれない。
それこそ、この時点で、愛する人が、いたのだから。

でも、そう、この時点で私はサトに対して、でも全部オメーのせいだよ、と思ってたんだから人でなしである。
でも本当に、復讐心を他の誰かで代用出来るのなら、ある意味そんな楽なこともない訳で、そんな間違いに対してサトは充分な制裁を受けたということなのだろうか。
復讐も、復讐の復讐も、代理の復讐も、何にも意味をなさなかった。でもだったら、どうすればいいのか。

【第九章 ヘヴンズ・ストーリー】
最終章に、同じタイトルがついているんだ。観ている間はね、これのどこが天国の物語なのかと思った。いや、観終わった後でもそう思っている感はあったけど……。だってどこにも神様はいない。天使さえもいないじゃない、って。
ただ物語が進むにつれ、印象的な線描のアニメーションが物語を控えめに彩るんである。カモメが羽ばたく様子が実際のカモメにオーヴァーラップされたりとか、そんな、本当に、ヘンに意味深なものではないんだけれど。
でもその白い描線が、どこか粛々と神聖で、人形演劇とか、メッチャ日本的なのに、確かに神の視点をふと感じるような気がした、のだ。

それはやっぱり、日本的な神だったかもしれない。冒頭に示された、人間に怖がられたことを怒った怪物の話。
怪物っていうのは、きっと神だと思う。西洋的な絶対的な神じゃなくて、八百万に神が宿っている日本の神様。
八百万もいるから、その中にはワガママだったり怒りっぽかったり子供っぽかったりする神様もいる。そんな民話に私たち日本人は親しんで育った。人を殺してしまったりする神様も、いたように思う。

神様でさえ、そういう欠陥だらけの存在だということを語り伝えられ、私たちは育った。だから他人に完璧を求めてはいけないし、同様に自分だって完璧じゃないのだと。自己にも他にも慈悲を持って生きなさいと。
たとえどんなにひどい目に遭わされても。……愛する人を、殺されても。それは神でさえし得る過ちなのだから、あなた自身もし得るものなのだと。
まさに、まさに。復讐の復讐まで行った本作の救いようのない展開は、そうだと思うと、思うと……辛かったし、重かったけど、不思議と心が安らぐんである。
そんなこと言っちゃ、いけないかな。だって私は、愛する人を殺されても、殺してもいないのだから。

この最終章では、あちこちに、死んでしまった筈の人が、現われる。最初は、あれ?死んでしまったと思ったのは、私の思い違いだった?などと思ってビックリする。
でも、彼らは自分が愛した人たちをただ黙って見守るだけで、手を出してこようとはしないから、ああ、“神様”になった状態なんだと判る。
そうしてサトは、バスに乗る。どこへとも知れずに。ふと、バスを降りる。乗り合わせていた、小さなピアノと縦笛で合奏していた少女たちに導かれたように。
何度も印象的に現われていた、あの人形劇が繰り広げられている。明らかに、この世の風景ではない。サトは演じている三人が、幼い頃失った愛する人々、両親と姉であることに気付く。

おじいちゃんに、皆の年を追い越して生きるんだと宣言したサトは、既に姉の年はとっくに追い越していた。
お気に入りの靴が見つからないだけでふてくされた自分をなだめてくれた姉が、死んだ時のまま年をとらずに、幼い少女の姿のまま、サトの前にいる。でもそれでも、やっぱりおねえちゃんなのだ。正直今のサトは、このお姉ちゃんよりも幼いかもしれないんだもの。
死んだ年のままの若いお母さんは、ぐっとサトに年が近づいている。それでも変わらぬ、お母さんだ。サト、と呼びかけ、愛しげに我が子を抱き寄せる。片岡礼子、変わらず素敵だった。

個人的には、ムラジュンの枯れた魅力に一番にやられた。そしてあの廃墟の街の。この世のものとも思えぬ美しさも。一度、行ってみたいが、それまでに残されているだろうか。★★★★☆


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