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「さ」


2010年鑑賞作品

裁判長!ここは懲役4年でどうすか
2010年 95分 日本 カラー
監督:豊島圭介 脚本:アサダアツシ
撮影:木村信也 音楽:
出演:設楽統 片瀬那奈 螢雪次朗 村上航 尾上寛之 鈴木砂羽 木村了 堀部圭亮 斎藤工 徳永えり 大石吾朗 前田健 廣川三憲 佐藤真弓 阿曽山大噴火 日村勇紀 竹財輝之助 杉作J太郎 千葉雅子 市川しんぺー モト冬樹 平田満


2010/11/24/水 劇場(ヒューマントラストシネマ渋谷)
まあこれは多分にタイトル買いだってところもあるかもしれないなあ(笑)。でも、タイトル買いで正解だった。
本作の前に観た映画があまりに癒し系気取りの意味不明で、虚脱と疲労がもの凄かったもんだから、映画としてのエンタメをちゃんと通している本作にもの凄くホッとしてしまった。まあ、ちょっとコミカルにしても野暮ッたいなあと思うところはあるけど……ゴメン!
でも、敏腕映画プロデューサーの鈴木砂羽や、いかにもなキャバクラ嬢お二人さんはやっぱりちょっと、ねえ。まあでもそれももしかしたら、原作にあるのかなあ?

本作は、この裁判員制度が始まった昨今にあまりにもタイムリーな感があるけれど、そもそもは傍聴マニアである著者の著わしたエッセイなんだという。
傍聴マニアというのはなんとなく聞いたことはある。ドラマかなんかで見たのかな?それにしてもどんなことで生計を立てていたら傍聴マニアになれるのかがちょいと疑問だが。
でも、時間と余裕があったら、マニアとまでは行かずとも傍聴してみたいなあ、と思わせる、まさに人生の様々、細々、ささやか、大仰、あらゆる人間の悲喜こもごもが、どんなよく出来た小説や映画やドラマよりも、ここにこそつまっているんではなかろうかと思わせる。

実際、主人公の三流ライター、南波タモツが妄想するような、そして彼に映画の脚本を依頼した女プロデューサーが夢見るような、歯の浮くような“愛と正義”の筋書きなぞここにはない。
大抵が、はぁ?とずっこけるようなオチがついている、コントさながらの事件だったりもする。でもそれが、本人たちにとっては実はおおごとで、いつ傍聴している自分自身に降りかかってくるかもしれないことだと思わせるところが、人生、なのだよなあ、と思う。

なあんて、ね。そんなシリアスになることもない。基本、コメディなんだもの。一瞬、シリアスになりそうになる場面もあり、思わず前のめりにもなるんだけど、それがまさにクライマックスなんだけど、見事にオチをつけるところは立派!
ていうかね、タイトル買いはもちろんあったけれど、設楽氏が主演!ということが、足を運んだ一番大きな理由だったかもなあ。
ドラマをなかなか見ないこともあって、私にとっては彼がお芝居をしていること自体新鮮だったし、しかも主役とは!
私、設楽さん、結構好きな感じなんだなあ。何がって、顔が(笑)。こーゆー顔、好きなのだ(爆)。
いやそれだけじゃなく、ひょうひょうとしてるんだけど、実は結構頭良さそうなところも好きかもしれない。

でもってね、本作には彼のみならず……それこそ彼の相棒も含めて芸人さんが結構出てるんだけど、改めて思う。芸人さんって、お芝居、上手いよなー!ヘタなイケメン俳優より(いや、何もイケメンに限定することもないのだが……)、さらりと上手い。
ことに、主演に迎えられたのにちっとも肩肘張った風もなく、さらりさらりと設楽さんそのものの彼に、う、上手い、と思ってしまった。
特に、彼のようなコント系芸人さんって、やっぱり上手い気がするのは、偶然ではなかろうなあ。ナマの舞台の上で、しかもあれだけ凝縮されたコントという名の芝居で鍛えられているんだもの。
それこそ、本職の舞台役者さんよりずっと鍛えられてるかも、とさえ思うんである。

で、彼が演じるのはテレビの企画なども手がけるライターさんなんだけど、冒頭でもういきなりダメ出しをされている、うだつのあがらなさ、なんである。
でもそこで既に彼が企画として提示しているのが、裁判員制度を見据えた、子供たちが授業で行なった擬似裁判。
「死刑が妥当だと思います!」「賛成多数で死刑!」そんな物騒な言葉が飛び交うのは、実は共食いを三回も繰り返したザリガニに対してではあるんだけれど、それにしても衝撃である。

いや、このシークエンスはあくまで、子供で、ザリガニであるという点で、ブラックではあるけれどユーモラスに描かれているんだけれど、子供はいずれ大人になり、その対象がザリガニから人間になることを考えると、この言葉がそのまま裁判で飛び交うことを考えて、思わず身がすくむんである。
こんなことで大丈夫なのかと。もう、特に考えもせず、バンバン死刑判決が出ちゃうんじゃないかと。

本作自体は、そこまで突っ込んだテーマではなく、世間に注目される重大事件ではなくとも、裁判所には悲喜こもごもが展開されるということなんだけど、クライマックスがすわ冤罪か、という展開になりもするから、ヤハリここんところは重要かもしれないなあ。

さて。先述したけど、傍聴出来るっていうのはヤハリ、タモツのようなフリーな立場だからこそ、だろうなあ。原作の著者がどういう立場か知らないけれど、やはりライターさん、なのかなあ。
だからという訳でもないんだけれど、彼が出会う傍聴マニアのメンメンは、総じてどこか変わっているんである。何の仕事をしているのかも判らないし、意外に若い子もいるし、金髪にスカートはいてる男もいるしで??
なぜか男ばかりなのは……おいおい、日本社会、大丈夫か……。

もったいないので?タモツが傍聴していくひとつひとつの裁判から追いかけていこうかな。
裁判所に向かったものの、最初は一般者の出入り口さえ判らずにまごついたタモツが、警備員に「メニューみたいの、ありますか」と聞くのは笑える。
つまり、その日行なわれる公判の一覧のことだったんだけれど、それこそ“メニュー”のように配られている訳じゃなくて、一箇所で閲覧しか出来ない。簡潔な専門用語ばかりで、どんな事件なのかサッパリ判らない。
判らないまま傍聴しようとすると、ドアから出てきた係員が満員の札を下げ、「すみません、立ち見は出来ないんです」へぇー、そうなんだ、と観客が思わず感心すると、そこに絶妙にタモツのつぶやきでツッコミが入る。「シネコンかよ」爆笑!言い得て妙とはこのこと!

ならばと入った次の裁判は、なんと傍聴席に誰もいない。なんとまあ、人気のない事件なんである。思わず引き返そうとしたタモツだけれど、係員や、裁判長からの無言の圧力に出て行くことが出来ない。
しかも、タモツが入ったとたんにあっという間に終わってしまって、次の公判の予定をたった一人の傍聴人であるタモツにまで無言で確認させるのには思わず笑ってしまう。

覚せい剤所持常習犯の事件ですわと思ったら、茶髪で鋭い目つきのいかにもコワもてのお姉ちゃんが突然ヘナヘナと泣きだし、「歯が痛いのが我慢出来なかったからあ〜」と、ヘタレにもほどがある様にズッコケたり。
「俺、ぶっ殺すなんて、言ったことありません!」と、そんなハズねえだろ!ていう、ふてえ態度にふてえナリのザ・チンピラ男がふんぞり返っていたり。
愛と正義の裁判を求めているタモツをなんとも脱力させるんである。

しかし、確かに脱力モノではあったけれど、ひどく同情してしまう事件が、前半のメダマとして用意される。だってタモツが「初めて、人を殺した人間を見た」という、殺人事件の裁判。
「映画やドラマとは違っていた。フツーだった」というその加害者。最初に殴りかかって来たのがどっちだったのか、なんてもっともらしく質問しているから、どんだけ怨恨があったのかと思ったら、舞台は大根畑、凶器は大根、で、理由が……。

加害者の方が太い大根をつぎつぎにゲットしていくことに、普段からの劣等感を募らせていった被害者が「俺のこと、バカにしているんだろ」とあまりといえばあまりな激昂の仕方をしたことから始まり、つまり被害者から先に攻撃を仕掛けたのだが……。
加害者の男性が引っこ抜いた見事な太さの大根で、思わず被害者の顔面を殴ったのが運悪く打ち所が悪かったことで、こんな場になってしまった訳で。

原作にこのとおりあるのか、あるいは原作にあったとしてもリアルにこんな事件があったのかどうかは定かではないが……まあ、ここまで、それこそコントのような話でなくても、実はこんな風に、笑ってしまうのも悪いけど、ちょっと笑ってしまうような、何とも気の毒としか思えない、人生の、人間社会の片隅で起きた悲劇というのって、あるんだよなあ、と。
ワイドショーが食いつくような、誰もが知っている凶悪事件ばかりが世の中を席巻して、世も末だ、みたいに思われるんだけど、実はこういう、ささやかといったらアレだけど、そう、ささやかな“事件”があまた、あるんだろうなあ、と思うのだ。

何かね、この事件って、被害者は死んでしまったし、確かに悲劇なんだけど、加害者に殺意はなかったし、それどころか被害者と仲良くしたいがためにこの場にいた訳でさ、なにか、哀しくもほのあたたかい気持ちがして、なんか、これこそが、人生だなあ、などと思うんである。
まあ、逆に被害者の方にこそ殺意があったってことが哀しげなのだが……。

でもまあ、コミカルに描かれる事件の方が多いんだけどね。エロDVDを万引きした男の裁判で、ドピュドピュだのブルマ漫遊記だのと、エロというよりバカバカしいタイトルを殊更に冷静に言う裁判官(検事だったかな)には思わず噴き出してしまう。
しかも、その被告人の男は、「そのブルマ……ですか?それはついでで、“欲しくて仕方なかった”訳じゃありません」とひどく心外だ、という面持ちで言うのには、そのブルマ女優?さんこそが心外だろーなー、と笑ってしまいながらも、ふと気の毒になってしまう。ほんっと、オメーが言うな!だよなー。

ヤクザ映画さながらの裁判にうっかり傍聴で紛れ込んでしまって、身を小さくする設楽さんには思わずポッとなったりもするが、まあヤクザ裁判に関してはお約束かなあ。
痴漢裁判が二件もあるのは、一件がゲスト出演の日村さんが美人検事の片瀬那奈にいたぶられるという見せ場があるとはいえ、それだけ痴漢事件や裁判が頻発しているのかなあ、と思わせる。

実際、特に常習犯に対して、反省させて防止を促がすなんて、不可能に近い気がする……。社会科見学なのか、女子高生たちが大勢傍聴に訪れた裁判で、被告よりも裁判官がハリきっちゃって、陰部に手を入れたとか、痴漢の詳細を赤裸々に羅列して興奮気味に被告を糾弾するのには、あうー、つまりこの裁判官も痴漢のようなもんじゃん、と……。
エロい言葉を専門用語に紛らせて女子高生たちに聞かせて、彼女たちがダメージを受けているのを見て興奮する、なんて、まんま痴漢なみにサイアクだよな……。
てな具合に、実に人間社会の隅々を見事に描写しているんだよね。

そうそう、片瀬那奈が、ヒロインなんである。傍聴マニアの間でマリリンと呼ばれている、彼女にだったら裁かれてみたい、と男たちの潜在M心理を引き出す鉄の女。
タモツも、痴漢裁判を切り捨てる彼女に、痴漢の被害者と加害者の位置関係を思わせぶりに再現される妄想にとりつかれ、彼女のお尻に手を伸ばしたところをグイとつかまれ、「じゃあ、右手を斬りおとす刑でいいですよね!」と、中華まな板みたいなところに押さえつけられて、あわや斬りおとされる!というところで妄想から冷めるんである。
片瀬那奈は絶世の美女だし、しかもこういうカタいカッコが似合うタイプでもある。
彼女が、実はホントにSM女王様の仕事もしている、なんてささやかれるのもちょっと信憑性を感じてしまう。実は、SMクラブのあるビルが入っている託児所に、子供を預けているだけなんだけどさ。

そのことが、クライマックスにつながるんだよね。「人の人生を高みの見物している」とこの美人検事から手厳しく批判されたタモツはヘコんでしまい、脚本も書けないままに、傍聴から遠ざかってしまう。
あ、そうそう、ひとつ、いや、二つ飛ばしてた。あのね、交通事故で高校生の男の子を死なせてしまった男の裁判があるのね。検察側は、CGを使った再現映像で、叩きつけられて血がブシャッと上がる瞬間を何度も何度も見せる。

つまりそこは、裁判員裁判だったからなんである。その映像を見せられて、身内で固められた傍聴席は顔をそむけ、遺影を掲げた母親はただただ嗚咽をもらすんである。
裁判員の一人がどもりどもり、なぜ制限速度をオーバーしていたのか、と聞く。明るい金髪に染めた髪と酷薄そうな細い目をした男は、「見たいテレビがあったから……」と言い、傍聴席をドン引きさせる。
それならば、と、何の番組だったのかと問う裁判員。答える被告に「私もそれ、毎回見てます!」とバカ丸出しに屈託なさすぎで言う若い女性の裁判員。ますます嗚咽をつのらせる母親。異様な雰囲気に包まれる。

裁判長に促がされて、被告は傍聴席の加害者家族に頭を下げるんだけど、その風貌と、着ている服もオマヌケなキャラクターものスウェットで、とても反省しているようには見えないから、遺影を抱きしめた母親はただただ非難をこめた号泣をするばかりなのも当然なんである。
観客も、反省の色ぐらい込めろよ、とか思いながら見ていると、外に出てきた加害者の両親に、必死に追いすがる被告の姿があり、必死に頭を下げているんである。でも当然、両親はただ黙って彼のもとを通り過ぎる。
被告は、同じく身内だと思ったか、タモツや一緒に傍聴していた先輩傍聴マニアの西村さんにも「すみませんでした!」と頭を下げるんである。

西村さんはぽつりと言った。「不器用なんですね。よく見ると純粋そうな目をしているじゃないですか」大げさに謝罪したり、そういう態度を示す格好を用意したりといった、“演技”が出来ない人なのだと、西村さんは気の毒そうに言った。
ハッとしてしまった。確かに、反省の態度を示すために、それって必要だと思った。少なくとも服装ぐらいは、と。
思わず、あれだけ世間を騒がせたけど、どこか同情的に迎えられたのりピーが、黒づくめの格好で深々と謝罪した場面を思い出してしまった。

でも服装もそうだし、“反省の態度”はその延長線上にあるんだよな……本当に反省している、後悔している、もう二度とやらないと誓っている、それが本当だと、外見からしか判断しようがない、この限られた時間と空間で、結局は演出力と演技力が勝ってしまうのだよな……。
それこそ裁判員制度ともなれば、裁判の場に素人である一般人たちが、プロの弁護士に指導されたかもしれない被告の“演技”に騙されないと、言える訳がないじゃないの。
それこそ、タモツが“愛と正義”として妄想した、愛する妻を殺してしまった夫が「自分を死刑にしてください」という場面が実際あったとしたって、それは情状酌量を裁判員に促がすためのパフォーマンスと考えた方が妥当なんだろうと思うものなあ。

で、その延長線上である。この重い裁判で心が折れ、西村さんから“癒しの場”であると教えられた簡易裁判所の傍聴に出向くタモツ。
コンビニで年賀状を万引きした老人に、故郷の母親にしたためたかったのかとまたしても妄想して涙腺を緩ませかけたタモツだが、老人から「お年玉(抽選)目当てです」という言葉を聞いて、コレまで以上に肩を落としてしまう。
愛のある裁判はないのかと、恋愛がらみの裁判を傍聴してみても、それは別れた恋人に放置プレイを強要して監禁罪に問われた男の裁判だし。
一緒に傍聴していた先輩マニアが「恋愛関係の間はプレイでも、それが終わったら犯罪になるんですね。勉強になるなあ」と感心しているのを尻目に、タモツはもはや人生、いや、人間を信じられなくなっている状態?

美人検事マリリンにこっぴどくヘコまされて一時傍聴から遠ざかっていたタモツだけれど、傍聴人でも何も出来ない訳じゃないと、西村さんから冤罪が疑われる裁判への参加を提案されるんである。

このシークエンスにはかなりの時間をかけるから、うっかりこれが本作のテーマなのかと思ってしまいそうになった。
だって冤罪っていうのは現代でも実に重いテーマであって、それをくつがえすことによって本作が大きなカタルシスを得るのかなという雰囲気があったから。
でもそれがなされちゃ、最初からライトな魅力があった本作が意味をなさないよな……と若干の危惧を持ちながら見ていた。
若干、だったのは、これはね、ヨワイな。やっぱりこういうエピソードで感動したいという気持ちがあるもんだからさ(爆)。

それでも、コミカルタッチはコレまで以上に執拗に入れてくる。敏腕だけどお堅い弁護士に、そのままだと勝てないと危惧したウォッチメン(タモツ、西村さんたちを中心にした傍聴マニアたちの面々)が、タモツが最初で最後の映画脚本を手がけたクサい裁判モノのDVDを送ってパフォーマンスを提案したり、カラーコディネイトの本を贈って地味なスーツ姿を改めさせたり。
その提案に生真面目に対応して、ロン毛でもないのにDVDの弁護士のパフォーマンスそのままに、髪を振り払うしぐさまで完璧にコピーする弁護士=堀部氏が可笑しすぎる!いつのまにやらウォッチメンからのアドバイスを心待ちにするようになるんだもんなあ。

物語の冒頭から、裁判所の前で息子の冤罪を訴えたビラを撒いている母親とその支援者たちが映ってはいるのね。でもタモツはそのビラを一度も受け取ったこともなかったんである。
まあつまり、一応は目的があって傍聴に来ている自分には関心のないことだと思ってた、からだろうなあ。

マリリンにやりこめられて落ち込み、傍聴に来なくなったタモツに、我々傍聴人にも出来ることがあるんだと、西村さんが持ちかけて始まったこのプロジェクト。
連続放火犯人だとされた少年だが、たまたまライターを持っていただけ、たまたま現場近くにいただけ、目撃証言もあいまいだと主張し、公判の日まで連日必死になってビラをまき続ける母親とその支援者たち。
冷酷無比だが、最近母親を亡くしたばかりの裁判長に見せつけ、同情を感じさせようビラを撒く日をアドヴァイスしたりと、ウォッチメンたちは精力的に動く。

傍聴マニアたちのブログに載せてもらえればと思うが、実際に公判が始まらないと彼らは関心を示さない。何とか世間の目を向けさせようと、タモツはマスコミにいる細い糸を手繰って、ムリヤリ報道番組に渡りをつけ、母親のインタビューを流させたりなんていうことまでしたんである。

もう、こうなるとね、盛り上がる訳よ。絶対冤罪だと信じてやってるし。気炎を上げる弁護士や支援者たちを影から見守りながら、公判で逆転無罪が言い渡される感動の日を、ウォッチメンたちのみならず、観客も心待ちにするようになる。
そう、この目的がハッキリしているのに、ウッカリ忘れていたのだ。傍聴マニアたちから、「逆転無罪の裁判にはなかなか遭遇できない。それを経験するのが傍聴マニアたちの夢」なんだと聞かされていたことを。

日本は有罪率が99パーセント以上。逆転無罪というドラマが起こることは本当にレアなのだと語る彼らに、最近の事件で印象づけられた、犯罪を見つけ出すことより犯罪を作り出すという印象が強い検察の横暴っぷりを思い出さずにはいられないんである。
一度出した有罪判決をくつがえせないプライドが邪魔して、逆転無罪が出にくい日本の裁判のありように思いを馳せる。
そこにもしっかりと問題提起がなされていて、だからこのクライマックスのシークエンスに肩入れしすぎてそれまでのカラーが失われるという危惧を持ったのだが、それこそ逆転無罪以上のまさかのどんでん返しが待っているんであった!

いやー、唖然としたよ。いやその前にね、マリリンを傍聴席に来させることにまで成功してたんだもの。
エレベーター前で彼女と顔を合わせたタモツが意を決して、裁判に来てくださいと声をかける。もう高みの見物はやめたんだと。
公判の直前にビラを撒いている途中、倒れた母親を助けたのがマリリンで、彼女自身もどうやらシングルマザーであるらしい様子では、冷酷な女性検事としての顔も揺らいだのであった。
その日、傍聴席にマリリンの姿があった。よっしゃ!と静かに盛り上がる傍聴マニアたち。車椅子姿で現われる母親の姿も、ミラクルが起こる実感を盛り上げた。
いよいよ公判。手錠と腰縄をつけた被告の少年が静かに法廷に入ってくる。傍聴席の母親と静かに目を合わせる。審理にはいろうとしたその時、少年がすっと手を上げた。

「ぼくがやりました。だって火をつけるとスカッとしたから。ごめんなさあぁいぃ……」

えーっ!!!何それ!アゼン!弁護士や支援者はもちろん、心理作戦に見事にはまっていた裁判長だって、もう最初っから逆転無罪を言い渡す心持ちになっていたであろう雰囲気だったのにさ!冒頭でいきなりガラガラガラ!
そして、ここでそうかと思う。そうだこれは、あくまでコメディだった。ついつい感動を求める方向に仕向けられながらも、心の底で何となく危惧していた気持ちを、まあぁ見事に見透かされたというか、気持ち良くぶっ壊してくれて、ある意味溜飲が下がる!

あまりのことに悄然とするタモツに、しかし他のウォッチメンたちはそれほど落ち込んでいない。
「逆転無罪が見られると思ったのになー!」とその一点に残念そうな青年に、「え、え?逆転無罪を見るためだったんですか?」とタモツは思わず西村さんを振り返る。いや、それだけじゃないですけど……えへへ、みたいな雰囲気の西村さんと、だってそれが夢だって言ってたじゃん、みたいなからりとした雰囲気のメンメン。
えぇー!と居酒屋のテーブルにつっぷすタモツに、マリリンを引っ張り出せたんだから、大成功ですよ!とまさかの側面からのなぐさめをする男たち。うーむ、傍聴マニアの奥は深い……。
でも、それだけ逆転無罪が難しいってところに、日本の裁判のあり方をシニカルに示しているところが、本作のネライなのかもなあ。

「僕はやりました」というタイトルで、いざ脚本を書き始めようとしていたタモツが、女性プロデューサーの横領事件をネットのトピックスに見つける。そういやあ、バリ島で若い男の子に入れあげていたっけ。
タモツが面会に行くとあの調子で「世間から見るとこれは犯罪なのね。私にとっては愛。そうだ!あなた私の裁判を見届けなさいよ。そして脚本を書きなさい。タイトルはそうね、裁判長!愛することは罪なのですか?これよ!!」
ズルズルと刑務官に引っ張られていく彼女を唖然として見送り、ぶふっと呆れと感慨をにじませてかすかに笑う設楽氏の絶妙さ!
うーん、とにかく彼は上手かったなあ。主演でもつのか、などと失礼なこと思っちゃったけど、全然肩に力が入ってなくて、さらりとこなしてしまうのがステキよ!

タイトルの「懲役四年で……」がどこかで出てくるのかと思ったら、最後までないままだった。
あれはひょっとして、あの子供たちの裁判に焦って割って入った教師が、カットアウトされた後に言っていた言葉だったのかしらん。だとしたらザリガニ相手に懲役四年は確かに面白いかも……。★★★☆☆


ザ・コーヴ/THE COVE
2009年 91分 アメリカ カラー
監督:ルイ・シホヨス 脚本:マーク・モンロー
撮影:ブルック・エイトキン 音楽:J・ラルフ
出演:ルイ・シホヨス/リック・オバリー/ヘイデン・パネッティーア/イザベル・ルーカス

2010/7/20/火 劇場(渋谷シアター・イメージフォーラム)
なんせここまで大騒ぎになっちゃった映画だし、なんたって私は築地人だし、そしてやっぱり日本人だし、と思って、かなり身構えて観たんだけれど、正直ちょっと拍子抜けしてしまった。
テーマや主張の前に、ドキュメンタリーの作りとしてなんか脆弱だなあ、と思ってしまったから。あるいはそれも身構えて見ているからこその偏見が入っているんだろうか?

いや、むしろ私は、それこそ身構えている日本人を黙らせるぐらいの、圧倒的な力を予測していた、いや、それ以上に期待していた、んだよね。
まあアカデミー賞をとったということもあるけれど……捕鯨の問題に対して、日本や日本人自体が、なあんか奥歯にものが挟まったようなというか、表向きは食文化の保護だの生態系だののことを持ち出しはするけれど、そんなに言うほどクジラを捕りたいとか食べたいとか思ってるんだろうか?という気持ちが心の奥底にあったから……。

私らの世代は、そのあたりはちょっと微妙である。まあ食べたことはあるし、給食なんぞにも出た覚えがあるようなないような。
でも、殊更に美味しいとか、大好物だとかいう食べ物ではなかったよね。そして年配の人になると更に、クジラ肉は安価であるという以上のメリットはなかった、という印象の人の方が大方なんじゃないだろうかと思う。
そして今の若い世代は、そもそもクジラ肉を食べる習慣どころか、経験さえないんじゃない?どうしても必要なタンパク源という訳でも、食べなければガマンできないような美味なものでもないという印象のクジラ肉が(まあ……時々クジラベーコンは無性に食べたくなるけど(爆))近年は供給が少ないことで高価になって、むしろその希少価値を尊ぶなんていう逆転化現象が起こったりしてさ。

そんでもって世界中の国々から冷ややかな目で見られて、嫌われてまで、そんなにクジラを獲ることに固執するべきなのかなあ?という気持ちが……心の奥底にあったのは事実で、でもそれを言下に否定されるのもシャクに触ったりして(爆)。
だったら、もうグウの音も出ないほどに圧倒的で完璧な作品の力で、ねじ伏せてほしい、なんていうマゾ的な気分を持っていたりしたんである。

しかしこれが……ドキュメンタリーで一番やっちゃいけない、“かもしれない”で押し切ってて、差し出すデータがあまりにも恣意的で、まずそれで萎えてしまった。
太地町で獲られているイルカはほとんどクジラ肉として流通している、それは水銀量を図ってみれば明らかだ、って、どう客観的に聞いてもツッコミどころ満載の、あまりに裏づけのなさ過ぎる話。そりゃー、太地町からそんな事実、あらへんわ!と抗議されても致し方ないではないか。

大体そこまでクジラ肉は需要ないしさ。あんなにクジラ肉がお買い得でっせ!とセール然として並んでんのなんて見たことないもん。今日の主婦は、キャア今日はクジラ肉が安いわ!と押しかけたりせんよなー。
大体今日び、家庭料理でのクジラ肉のレシピなんてフツーに聞いたことない。つまりそれだけ、捕鯨が制限されて以来日本人はアッサリクジラ肉から離れてしまって、特にそれに対して困ったり、飢餓感を感じたりしてはいない、っていう点が、捕鯨問題が取り沙汰されるたんびに奥歯にものが挟まったような感覚を覚える次第であり。

うーん、勿論、イルカ可愛さを全面に押し出して、もうそれで正義を押し通してしまうという点もイラッときたけど、ただその気持ちは大事なことだし、確かに判るし……日本にだって全国的に可愛いイルカを見ることが出来る水族館がある訳だしさ。
でも、彼らはその水族館にこそ憤っていて、イルカ飼育が悪だという点から展開していくのに、いつの間にか漁が悪だとシフトチェンジし、あれれ?と思ったら、それは水銀の蓄積量が人間に害を及ぼすからだと言い、どんどん最初の切り口からズレていくなあと混乱してしまう。

それでも、いや、つまり終着点は、人間の健康、何より赤ちゃんや子供たちに深刻な害を及ぼす危険性があるから、水銀の含有量が多いイルカ肉を食べるのは危険だ、というところに導くのかなと思いきや、また思い出したようにイルカの知能の高さや自己認識力に触れて、つまりこんな賢いイルカを殺すなんて、みたいな論にまた帰って行き……そんな行ったりきたりの繰り返し。
一体どっちを主張したいのか、正直見ていて混乱してしまうんだよね。

いや、彼らが主張したいのがどっちかなんて、明らかである。彼らは賢いイルカを愛し、そんなイルカを殺して食べる日本人を野蛮だと糾弾したい。水銀含有量はあくまでその主張を助ける、“科学的根拠”に過ぎず、仮にこの事実がなかったとしても、彼らはこの主張を押し通すだろうと思う……だって彼らはイルカを愛しているんだから。
それが悪いことだとは思わない。ていうか、むしろそれを納得させてほしいと思って、私は“身構えて”臨んだんである。ドキュメンタリーってのはさ、真実を伝える、と定義されがちだけど、実はそうじゃない。作り手が伝えたい“真実”、作り手にとっての“真実”を伝える手段にすぎない。

そうした強い思い込みは、ドキュメンタリストにとって必要不可欠なものであると思う。あのマイケル・ムーアが“良識派”からは糾弾されるのは、“賢い”彼らにはそうした偏重がきちんと見えるからであり、私みたいなバカは、彼のような、巧みに自分の主張を、考える暇も与えず、圧倒的に畳み掛けて“全ての人にとっての真実”として提示する“ドキュメンタリー”にアッサリ降伏してしまうんである。
そういう点で、本作の作り手以上に強い“思い込み”で動いているマイケル・ムーアは、しかし一方でちゃんと客観的な視点を判っていて、もっともらしいけれど都合がいいだけのデータなんぞは持ってこないし、憎たらしいぐらいに、自分自身だけに自信をもって主張して、それでねじ伏せてしまう力をもっているんだよね。

本作は確かに、エンタテインメントではあったのかもしれない。本作が日本において病的なまでに糾弾された“隠し撮り”という部分を、エンタテインメントに据えたのは、それはとても映画として賢いやり方だったと思う。
先述のように、ドキュメンタリーという形をとっていても、結局は“作り手にとっての真実”なんであって、映画作品としてエンタテインメントに仕立て上げるのは、マーケット的に考えても正しく賢いやり方なのだ。
それに、誤解を恐れずに言っちゃえば(まあこれはあちこちで言われていることだけれど)ドキュメンタリー作品にとっての隠し撮りやゲリラ撮影は当然の手段で、むしろそれが全くない作品が果たしてドキュメンタリーと言えるのか、とさえ思う。

この映画のキモであり売りであり、事前に情報を得ていても充分にショッキングな、入江にイルカを追い込んでグサグサとぶっ刺し、狭い入江が真っ赤に染まるシーンは、非常に訴える力がある。
それだけに、ここをクライマックスとして、あるいは決着点として、“野蛮な日本人”を糾弾する映画に仕立て上げたら良かったのに、と思う。良かったのに、ってのもヘンだけど(爆)。
でも確かに私たち日本人は、こんな漁が行われているのは知らなかったし、知らないのに食文化と押し通すのは確かにおかしいと素直に思うし、そんな漁で殺されたイルカの肉など食べたくないし、そもそもクジラはともかくイルカの肉を食べる習慣はないし……。

そうなの、隠し撮りをことさらに卑怯だなんだというのも、こんな時代にはもはやナンセンスなんだよね。こんな時代、超情報化社会において、未開の地でもなく、先進国であり、こんなちっぽけな国土の、とある地域で行われていることを、しかも、隠しておこうと思うものほど、誰かが暴いてしまうものなのだもの。
そしてそれを暴いたのがこういう……こういう人たちだったことが、ちょっと不幸だったよなあ、と思ったりして(爆)。もうちょっとマトモな(爆爆)ルポライターなりなんなり、せめて国内の人ならばさあ。

彼らは太地町の人たちの言い分も聞きたかったと一応は言うけれども、劇中、何を聞かれても、何も知らない、何もしない、と答えるその声の響き自体メッチャナメててカチンとくるし、仮に地元の人たちの言い分をこの作品にのせたとしても、こういう作り方、可愛いイルカを意味もなく殺戮する野蛮人、という、サスペンスかアドベンチャー映画さながらのタッチを変えることはなかっただろうな。
そういうのって、感じるよ。太地町の人たちだって、そういう頑なな気持ちを感じるからこそ、どうしても取材には応じられなかったんじゃないのかなあ。いや、それこそ勝手な推測だけれど……。

だって、モザイクで処理されて、ベタベタに悪人扱いされている村の人たちは勿論、水銀量を証言する科学者や公的な人たちも、なんか思いっきりナメられている感じでなんとも気の毒でさあ……。
しかも撮影クルーたちは、日本人の老人に見えるように変装したり(全然見えないけど)、ハリボテの岩の中に隠しカメラを設置したりみたいなことに無邪気にワクワクしていて、その要素がエンタメとして提示されるって、夏休みの冒険じゃないんだからさあ、と思っちゃうのよね。

太地町でイルカが捕らえられているのは、世界中の水族館に輸出するためであり、その水族館でストレスを覚えて果ては死んでしまうこともある悲劇なんである。
わんぱくフリッパーの調教師として一世を風靡した本作の主人公、オバリーは、このブームによってイルカたちが捕らえられて世界中の水族館でストレスを抱えていることに心を痛め、そんな自分を断罪し、イルカ解放の活動家としてその半生を捧げてきた。本作はその一端を示しているんである。

本作の中でしきりに、イルカを殺す、殺戮、という言葉が使われている。まあ、翻訳の関係もあるかもしれないけれど、“漁”を断罪するのに対して、この言葉はどうにも違和感がある。
殺戮って、意味もなく殺して放置するっていう意味合い、だよね?一応、最終的には食べることを目的にする漁なのに、なんかこんな言葉を当てるのは、幼稚な感じがするんだよなあ。

いや、そもそも、太地町での“残酷極まりない”イルカ漁が、見てる限りではそもそも、水族館に高値で卸す為のそれである、それによって莫大な利益を得ている、と定義されているのに、なぜその他のイルカたちは海に帰されないのか、残酷な“殺戮”よりもそこを追究しなくちゃいけないんじゃないのかしらん?という疑問がある。それとも私が重大な何かを見逃したか??(爆)。

太地町でのイルカの追い込み漁が、食文化としての長い歴史を持っているというのなら、水族館との取り引き云々というのは、明らかに新しい歴史の話だよね。
賢く可愛いイルカを売買することへの憤りに気を取られた訳でもあるまいが、この古い食文化と水族館との取り引きがどこで交わったのか、ここは絶対追究しなければいけないポイントだと思うんだけどなあ。
それこそ、欲に駆られた人間の、日本人が古くからの“文化”のカクレミノにして、みたいなさあ。

“賢く可愛いイルカ”だからこそ、殺して食うとは何事か、という点に対して、日本人が殊更に反発する気持ちはそれこそ、彼らに判ってもらえる訳もないんだろう、なあ……。
確かにあの入江が真っ赤に血で染まるシーンはショッキングで、そこまでしてイルカが食べたいって訳じゃないよ、と思うけれど、イルカだから、クジラだから、賢いから、自己認識能力があるから、癒されるから、だから食べないんだという線引きは、魚食文化として生きてきた日本人には基本的には、ないんだよね。

四方海に囲まれた島国だったら、魚食文化になるのは至極当然だというのもあるけれど、それ以上に日本人の知恵と貪欲さは海の中のあらゆる生物を“差別なく”頂く文化を育んだ。
そう……差別なく、なのだよ。賢いから、人間に近いから、だから殺して食べるのは残酷だ、という意識こそ、“その下”に位置する生物たちに対して失礼で、残酷だ、という意識を日本人は根強く持っていて……それはそれこそ、全てに神が宿る八百万の神と唯一神との違いにまで話は行っちゃうんだけどさ。
ただ、そういう意識も今の時代にはアナクロニズムだということも、一方でちゃんと判ってるのよ。そんな価値感を外に押し付けることこそ勝手だって言うことも。

ただ……この作品においてもそうだし、恐らく世界的にそういう意識があるのかもしれないけれど、イルカとクジラを一緒に考えるのはやっぱり違う気がするというか……。
こと本作に関しては、イルカを愛するがあまり、捕鯨問題で孤立している日本を揶揄することによって、クジラやイルカといった“賢くて可愛い哺乳類を捕って食う野蛮人”という結論にムリヤリ押し込んでいる気がしてさあ……。
私は築地にいるから、クジラが海での生態系の一番トップにいて、つまり彼らを捕らずに守ることによって、増え続けるクジラに捕食され、そして人間にも捕られる魚たちがどんどん減って、つまりクジラを過度に保護することによって海の生態系が壊れつつある、という認識を“常識”として持っちゃってるのよね。

でも、それってそんなに突飛な発想かなあ。至極単純な理論のように思うのは、私が日本人で築地人だからなの?
この“常識”に対して本作は、鼻で笑うかのようにたわ言扱いし、おめーら魚食文化の人間が乱獲するからだろ、なんて言うもんだから、そこまでは客観的に見よう見ようと努めていた私もさすがに爆発してしまった。
なんだよ、それ。ここで乱獲という言葉を使うのはおかしいよ。絶滅危惧種を捕ったりする時に使う言葉でしょー。
それともおめーらは肉食文化で魚を食わねえから、魚食民族を野蛮だとバカにしてんのか。魚食民族がいかに魚を大切に思い、美味しい食べ方を極め、感謝していると思ってんのか……。じゃあおめーらは寿司を食わねえとでも言うのかよ……。
すいません、つい理性を失ってしまったけれども、でも、でも、この言い様はおかしいよ、ね、ね??

劇中、築地の市場も出てくるんだよね。出てくるんじゃないかなーと思っていたから、予想してたから……でも、やっぱり出てくるとヒヤッとした。
でもさ、それこそ“海の生物を乱獲”っていう流れで、鼻たーかだか、みたいにハイスピードで、膨大なマグロや魚たちがめまぐるしく市場を行き来する様を提示するから……いくらこれがエンタメの手法だと判っていても、そりゃないよなーっと思ってしまった。
だって、ここは築地、東京だけでなく、日本、いや、世界を流通させている市場なんだよ?目を奪う膨大な量の魚たちが行き来するのは当たり前じゃんか……。

で、ね。話が脱線したけど、やっぱり日本人にとってはクジラとイルカは違う意識だよね?ていうか、その意識って、日本人だけなの?
先述したように、クジラが大きさの点からいっても、海の中の食物連鎖の頂点にあって、だから彼らだけを保護して他の魚たちは普通に漁をすると生態バランスが崩れるのは、火を見るより明らかでしょうっていう話で……。

ただ、そのことを理由に、じゃあクジラも捕らえて食べなきゃ、という論理になるのは、しかもそれを、日本の食文化というのを盾にして主張するのは、ヘンだと思うのは確かでさ……先述のように、決してクジラが食べずにはいられないっていうもんじゃないんだもん。
こんなの観ちゃったら、もううっとうしいな、じゃあいいよ、クジラは捕らないし食べないし、それでいいじゃん!と思わずナゲヤリな気分になってしまったりもして。
そうしたらサンマやニシンが全部クジラに食べられて、本当に魚食文化が危機に瀕するんじゃないかと思ったりもするけれど、でもクジラ自体には、正直そんなに頑張って捕鯨を確保しようと思うほどの思い入れはないんだよな……。

イルカに関してはそれ以前の問題で、そもそもイルカ肉を日常的に食べる文化自体が殆んどの日本人にはなく、だから本作に関して、寝耳に水みたいに驚いたのはそのせいなんだよね。
それこそ築地を映した時にさ、海の中の食物連鎖で、上の生物に行くほどに水銀の含有量がたまっていく、と、マグロやカジキを例に出してきたから、えーっ、それも食べちゃダメっていう気?と思ったらあっさりスルーした。
……むしろ、そこまで押してくれたら良かった気がした。だってそれでやっぱり、“それでもイルカやクジラは別”という線引きをハッキリ示してしまったんだもんなあ。

ホント、この段でハッキリしちゃうのだ。水銀含有量の話は、彼らにとって愛しいイルカを守るための格好の材料でしかなかったってことが。
だって、この隠し撮りミッションに参加したダイバーの女性なんかは、水銀含有量のことなんか、ちっとも認識してないんだもの。ただ、イルカが“殺される”ことに、ああ、なんて残酷なのと涙を流すだけなんだもの。あんなに頭のいい、可愛いイルカを殺すなんて信じられない、と。
なんかそれって、なんかそれって……めっちゃ偽善じゃん!確かにあの入江での“殺戮場面”はショッキングで、だからこそ、そう、何度も言うけど、それだけを押していけば、こんなこうるさい日本人を黙らせるだけの、いい意味での“思い込み”の強い映画を作れたのになあ。

日本公開に際しての騒ぎが大きくて、しまいには右翼に「外国人が内政干渉するな」なあんて方向にされちゃってさ。理不尽な描写をされて、更にこんなことになってしまった太地町の人たちがホントに気の毒で……。
公開が危ぶまれ、実際予定していた劇場が中止されて、あらたに公開が決まったイメージフォーラムでも初日は騒然としたというニュースが流れたけど、ホントに初日だけでさ。
思わずビビッて、かなり間を空けて足を運んだ時には、公開されて何日目の映画、っていう、フツーにパラパラ加減で、騒ぐことなんてホントなかったのに、と思う。

正直ドキュメンタリーとしてはお粗末だという印象はやはりぬぐえず、だからこの作品がオスカーをはじめ、世界中の映画祭を荒らしていることにどうなのと感じる気持ちは否めないんだけれど、つまりそれだけ、この感覚が日本を除いた世界中の大きな流れであり、そのことに目を背けてはいけないのだろうと思う。
確かに日本人は“西洋人から指図されて意地になっている”ところはあり、それをナレーションされた時にはカチンときたけど、図星を指されると人は一番腹を立てる、つまり、それはホントのとこなのだ。

そんな風に結構シャープな感覚はあるのに、したたかにそれを追究出来ないのはなんとももったいない。イルカ愛の描写にはついつい偽善を感じちゃうけれど、そういうツメの甘さには、まあイルカ愛ゆえなのかなあ、などとついついこちらもツメが甘くなってしまうかも?

判ったように水俣病を出されたことには思わずムッとしたけど、でも確かにそれも真実で……いくら含有量が水俣病が発生したそれと比べて全然低くても、妊婦には勧められないほどの高濃度には違いないんだものなあ……。

あー、なんか私の方が支離滅裂!まだまだ日本人の意識は複雑なのよ、それぐらい! ★★☆☆☆


サヨナライツカ
2009年 134分 韓国 カラー
監督:イ・ジェハン 脚本:イ・ジェハン/イ・シノ/イ・マニ
撮影:キム・チョンソク 音楽:ソ・ジェヒョク
出演:中山美穂 西島秀俊 石田ゆり子 加藤雅也 マギー スパコン・ギッスワーン 川島なお美 松原智恵子 須永慶 日高光啓 西島隆弘

2010/2/9/火 劇場(新宿バルト9)
彼女は引っ込む前に残した作品が良すぎたんだよね。あれだけの秀作を残してしまって、しかも長いブランクがあれば、どうしたって復活作品に期待してしまう。
だからこそ……何もこんなにガッカリするほどの出来だったのかと思い返してみれば、実はそうでもなかったのかもしれないけど、長いブランクがあったからこそ、その間に彼女のイメージが実際より増幅してしまったのかもしれないな、と思う。半ば、伝説の女優になりかけていたもの。
その意味で同じ轍を踏んだらヤだなー、と思っているのが山口智子。いい仕事を残した女優ほど、復活が難しくなるということをミポリンが証明してしまったから……。

やあーっぱ、一番のガッカリはさ、こういう作品、こういう役柄に挑んでおきながら「なあんだー、全然脱いでなんかいないじゃん」というところだっていうのは、それこそゲスの興味だということは判ってるんだけど(爆)。
確かに脱いだとは言っていない。「官能的な役柄に体当たりの演技」程度の表現だったから、そんな気はしていたけれど……でも期待感をあおる宣材映像だったから、ひょっとして、よもや、それぐらいの女優根性を出せる人だったかも!などと、それこそイメージを勝手に膨らませていたもんだから……。
いや、でもさ、やはりこの作品でこの役柄で、出すべきところを出さないのはやっぱり、ダメでしょ!

だってこれって、めっちゃファム・ファタルじゃん。しかも、女というセックスを武器にしたファム・ファタル。ソウイウシーンだってたくさんあるのに、まー、上も下もキレイに隠しやがって。
スター女優さんは、セックスの形で手足を出しているだけで「体当たり」なんすか?スカートの下からパンツを脱ぐだけで、体当たりなんすかっ!?
古い時代の話なんかするのはヤだけど、それこそ往年のスター女優さんは、倍賞美津子も桃井かおりも、さらりとカッコよく脱いでたよ。そんなこと、勲章になりこそすれ、傷になんてならないのに、どうしてこんなくだらないプライドを通すのか。
女の私がこんなこと言うのも何だけど、ある意味女優は脱いでナンボだと思ってる。現代のカッコイイ女優たちだって、さらりと、知らない間に脱いでるってもんだ。この役をそのつまらないプライドで台無しにしているのがなぜ判らないのかっ。

……いやー、どんだけ私、女優さんに脱いでもらいたがってんの(爆)。でもさあ……この作品のこの役柄なんて、ザ・脱ぐべきでしょ、と思ったからさあ……殊更にガッカリしてしまったのだ。
彼女のちょっとツンとした整った顔立ちも、それでいて鼻にかかるような甘ったるさも、この役には確かにピタリだったと思う。
彼女の顔の整い方は、このちょっと古い時代にも違和感がなかったし。実はそんな彼女の本当の良さを生かした役は、意外に今までなかったのかもしれないとも思う。だからこそ……すごおく、もったいない、と思ったのだ。

……などと憤ってばかりじゃちっとも話が進まないから(爆)。そもそもこの話はそう、現代じゃないんだよね。
しかも舞台は日本じゃない。タイ・バンコク。そして、1975年。
小さな航空会社に勤める豊は野心満々。東アジア空域をこの航空会社の飛行機で占めてやると自信タップリ。いや、自信だけじゃなく、彼の大胆不敵な行動力は、着実にそれを現実に近づけていった。
結婚間近の婚約者を日本に残して単身赴任してきた彼は、仕事だけでは体力をもてあましていたのか……友人が意気揚揚と紹介した美女、沓子にいっぺんに魅了されてしまう。
そんな彼の気持ちを見透かしたかのように、航空会社同士の野球の試合の後、彼のホームランボールを持ってふらりと部屋にやってきた彼女は、思わせぶりにスカートの中から下着を脱ぎ捨てた。そして……。

えーとね、ミポリンの代わりのように脱ぎまくるのは、豊役の西島秀俊なんだよね(爆)。いやー、ある意味これは嬉しい誤算?いやいや!
彼は美しい男優だけど、意外に今までこういう色っぽい役柄が少なく(「さよならみどりちゃん」はちょっとそうだったかなあ)、そうでなくても濡れ場で男優のヌードの方がフューチャーされるというのはないしさ……。
ほおんとにね、ミポリンの代わりのように、まー、その肉体美を惜しげもなく披露してくれること!
いや実際、ちょっと意外だった……だって彼、なんか文系のイメージだし(爆。いや勝手に……)、まさかこんなイイ身体をしてるとは思ってもみなかったッ!
しかもミポリン、彼を半ケツにまでしちゃったりして……感謝!(いやいや!)いやー、コレは嬉しいビックリだったなあ。
まあ本作に足を運んだのは、彼女の相手が西島秀俊だということも大きかったのだが、かつての三浦友和的役柄(まーつまり、刺し身のツマ)のハズが、こんな思いがけないサービスショットをふんだんに用意してくれるとは!

これじゃまるで、監督が使えない女優の替わりに苦もなく脱いでくれる彼を気に入っちゃったように思えるんだけど(爆)。
そう……大体なんでこれ、こういう制作形態になっちゃったのかなあ?なぜ韓国の監督さんなの?ちっとも韓国の要素ないんですけど……。
いや、そりゃあね、要素とか関係なく、実力のあるスタッフやキャストが国境を越えて集まるのはいいと思うけど、これってそんなボーダレスな映画だろうか?そりゃ舞台はタイだけれど……。

それに、この映画にウンザリしたのは、ミポリンが脱がないという以上に、このやたらとうっとうしくうるさい演出方法にあったと思う。
なんでこんなにひっきりなしに音楽をあてるの。しかもやたらボリュームあげてさ。時々台詞さえ聞き取れないぐらいなんですけど。
しかもしかもその音楽の、腐りそうなほどにムダに甘くて過剰にドラマティックなことときたら!今時昼メロだってこんな使い方しないよ。正直ドラマを追うことも困難なぐらい、うるさくてたまらなかった。
それともこの監督は、これぐらいしないと臭みが取れないと思ったのかもしれない?それはちょっと判る気がするかも(爆)。だってこーいうタイプのファムファタルと、ある程度自分に自身がある男がそういう女に溺れていくのって、かなりクサクサな展開なんだもん(爆)。

原作を読んでないからなんとも言い難いんだけど……繊細なセンスを持つ辻氏が紡ぐ物語としては、意外な気がしたんだよなあ……。
確かにきっと、原作と映画はベツモノなのだろう。いや、大筋は沿っていても、きっと印象は大きく違うんじゃないかなあ。辻氏はもっと叙情性を大事にする人だと思うもの。

勝手な推測だけど……原作では豊のキャラこそが、大事なんだと思うんだよね。いや、映画でだってそうだと思う。語り部だし、主人公だもの。
そう、主人公はミポリンじゃないんだよね。豊なのだ、間違いなく。
理想的な結婚を控えていた彼が、うだるような暑さの中、出会ってしまった運命の女。有利な人生を優先して彼女との別れを決断した彼だけれど、25年後、彼を待ち続けた彼女と再会して再び思いが再燃する。
いや、思いはずっと燃え続けていた。それを妻も判っていたから、黙って送り出したのだ。

……いやいや。原作がその通りなら、やはりちょっと受け入れ難いなあ。大体いくら妻がしたたかでも、25年間黙って見守り続けて、じゃあいってらっしゃい、てな感じで送り出したりしないよ。
しかもそれですんなり送り出される男って(爆)。……正直、これは男の夢のようにしか思えないなあ。

大体がね、25年後からの尺が長いんだよね。ワザとらしい老けメイクや、お互いメガネをかけあって笑い合う描写もクサいし、それに正直、この歳になってかなりヤル気マンマンな感じで抱き締め合うのを見せられるのもツラい(爆)。
いや、それがヘンケンであるのも判っているし、実際演じているのは若い役者なのだということも判っているんだけれど……“実際、若い役者”だからこそ、本当にこの年頃になって再会してこういう雰囲気になるのか、こんな、超セックスしたかった!みたいな感じになるのか、と感じてしまって、なんかヤーな心持ちになってしまったのだ。
……それはそれこそ、確かにヘンケンに違いない。いくつになっても恋愛への渇望は変わらないのかもしれないし、こんな風に性急に抱き締めあってしまうのかもしれないけれど……でも、それをその年齢の役者がやっている訳ではない、というのがあるからさあ……。

それにね、豊の婚約者、そして妻となる光子もいかにもなんだよね。従順さとしたたかさを兼ね備えた女性。
そりゃあ男にとっては、ある程度は見逃してくれて、手綱はしっかり握っていてくれる、こんな嫁さんは理想に違いない。悪女と共に堕ちそうになるところを、彼女が救い出してくれたあげく、その悪女の最期を看取らせてくれさえするんだから。
しないしない!そんなイイ女なんていない!演じる石田ゆり子は、成熟した女性なのにまるでティーンエイジャーのようなピュアさを併せ持ち、やわらかな雰囲気の中にも、そんなしたたかさを絶妙に感じさせて、単純明快なキャラのミポリンよりずっと魅せてくれはするものの……。
結局はミポリンも彼女も、男が思う、こうあって欲しいと思う女、のメッチャステロタイプなんだよね。まだ石田ゆり子の方がやや上手く攻略しているしているだけでさ。両極端だけど、その両方を欲している。つまり男は、翻弄されて堕ちていきたいと思っているのかも?

そう、話が飛んだけど、25年後になってからが長くてさ……それがかなりヘキエキした原因。
言っちゃ悪いけど“老醜”を見せられるのは、キツいよ。その上“老いらくの純愛”……カンベンしてって感じ。
だって、だってさ。結局豊と沓子はエッチしかしてないじゃん。何か人生の深いこととか、交換したりした?せいぜいがとこ、沓子の元ダンナが若い女とくっついているのを、彼女が寂しそうな顔で見ているのを披露したぐらいじゃないの?
そもそも沓子はなんでそんなセレブなのか判らないし、老いたあとに病んだ彼女がホテルで最期まで面倒見てもらえるまでの、どんなしがらみがあったのかも全然判らない。
大体彼女、あんなタカビーな態度で、ヒマさえあればセックスしたがってたくせに(それなのにおっぱいひとつ出さないんだけど(爆)、25年後に登場したらいきなり楚々と上品なホテルのVIP係ってさ(爆)、どうなのさ。

……憤慨しすぎかもしれないけど。でもさ、そりゃセックスは恋愛に置いて大事だと思うけど、セックスアピールも必要と思うけど、これじゃあ、エッチだけでつながった二人が、それが生涯の愛だと信じて運命の再会に涙しているみたいで、なんか気分悪いんだもん。
気分悪いし、キモチワルイ(爆)。なんか、なんか違う気がするんだよ。確かにこういう話ってあるし、そのすべてにこんな風にウンザリした訳じゃない。何が違うんだろうっても思う。
再会してからの尺が長すぎるのが、逆にリアリティをなくしているのかもしれないし、あるいは逆に、二人の甘美な時間も彼女の存在のリアリティのなさで没頭出来なくしているのかもしれないと思う。
だってさ、沓子がパーティーに行くのかなんか知らんけど、とっかえひっかえドレスを変えてさ、最後に選んだ衣装が場末のストリッパーか、てな露出オンリーのセンスのなさなんだもん。ストリートの娼婦みたいな真っ黒なアイメイクもヒドイし。
憮然として着替えろという彼に「嫉妬してるの?」…………たとえそうだとしてもアンタにセンスがなさすぎるっての……この会話自体、センスなさすぎだしなあ。

結構それなりに脇役を揃えているだけに、余計にもったいない気分がする。学生時代から豊に恋する女をとられまくっているというマギーの人の良さ。このクサい作品に合わせて彼だけが、ワザとらしいほどのキャラづくりをしてきたんじゃないかと思う加藤雅也のステキな大味さ加減(ことに25年後のジジイっぷりは絶対ネラってる!)、つまり……ワキはきちんとそのあたり抑えているだけに、メインの流れがイケイケなのが、見てられないのだ。

これ、辻氏自身で演出すれば良かったんじゃないだろうか。どういう流れでこのスタッフになったのか知らないけど、辻氏は演出手腕もあるんだし(彼が残した映画作品は、私どれも大好きだ!)、なんたって奥さんが主演なら尚更じゃないの。
なんか韓国式メロドラマに仕立て上げられた気がして納得いかないんだよなあ。画は妙に凝ってて、かつての甘やかな時間はカラフルで、今の時間はメタリックだったり、妙に上手いことやってるあたりもなんか、気にいらない。

まあ、でも……教訓はいっぱいあったかな。加藤雅也扮する豊の上司が言う「怠惰は伝染する」「かしこい男は道には迷わないものだ」という台詞はちょっとステキだった。でも結局、豊は最後の最後で迷路に迷ってしまったけれど。
いやいやそれよりも、彼の親友、マギーが「マナカトウコはホテルだ。誰かが出れば誰かがチェックインする。俺はいつチェックイン出来るのかな」という台詞の方がずっと、深かったかもしれない。
生々しいだけに、道徳的な先述の台詞よりも、ずっと切実感があった。でもそのホテルを経験することが人生を豊かにするのか、それとも……。

そして、これが一番ヤだった。なんでそんなやたらと泣くの。男が泣くなというのも古いけど、泣く西島秀俊をぐるぐるとカメラが回転して、回転にもほどがあるでしょって感じで、マジで目が回って吐きそうになった。
25年後の二人もやたら泣くし、しかも沓子が死んで、ガラスの向こうの幻の彼女と会話する段に至ってはホントに席を立って帰りたくなった。ボケ老人のオチにしちゃったんじゃないの?これはヒドいよ!
あまりに納得できなくて、ユーザーレビューを泳いでいたら、「ラマン」を思い出したという人がいた。そうそう!私もちょっと思い出したなー、おっぱいぐらい出せよという意味も込めて(爆)。
でも、ラマン、なんだよね。本当はそうならなきゃいけないと思う。ご都合主義を映画的美しさに高める方向性の決定的な違い。残酷なほど傷つくことが、人生の、そして男女の、愛の美しさなのだ。

この物語が「人間は死ぬ時、愛されたことを思い出す人と愛したことを思い出す人がいる」という台詞をテーマにしているのならば、余計にそうなんじゃないの。愛し、愛される両方を獲得出来ないからこそ、人生は切なく哀しく、そして美しいのだ。
それを両方得ようとしたから、ガッカリしてしまったというのが勝手だというのなら、ならなぜ、この台詞があったというの?

サマセット・モームやジョセフ・コンラッドなど、伝説的作家の名前を冠した美しいスイートルームが印象的なホテル、それは確かに映画的なのだが……。★☆☆☆☆


さんかく
2010年 99分 日本 カラー
監督:吉田恵輔 脚本:吉田恵輔
撮影:志田貴之 音楽:佐々木友里
出演:高岡蒼甫 小野恵令奈 田畑智子 矢沢心 大島優子 太賀 赤堀雅秋

2010/7/6/火 劇場(ヒューマントラストシネマ渋谷)
今から思うとほおんとに、デビュー作「机のなかみ」を観ることが出来てて良かったなあ、と思う。パッケージ的には見逃してもおかしくなかった作品なんだけど、なんかふと、足を運んだ、そんな感じだったのに、うわ!何コレ!と思ったんだよなあ。
そして本作でまだたった三作目だというのに、まったく期待を裏切らない!いやむしろあの「机のなかみ」の時に感じたオドロキが帰って来た感じだった。
ジャンルとしてはアイドル美少女系にも見え、前半からなんとなく展開を観客が予想するんだけど、というかさせられるんだけど、それをトランポリンでポーン!と飛び越えちゃうようなオドロキを持ってくるんだもの!

そういう意味で言えば、もしかしたらパッケージ的には損をしているのかもしれないとさえ思う。それこそ「机のなかみ」なんて、パッケージも宣伝さえも地味だったもの。
もちろん、作品自体が評価されて、次の「純喫茶磯辺」も好調での本作だけれども、その本作でさえ、今をときめく(というか、ようやく人気が追いついた)高岡蒼甫を主演に迎えた、という“パッケージ”と、そしてAKB48から迎え入れた“美少女”という、これまた“パッケージ”が作品の力をジャマしているようにさえ思えるんだよね。見た目の予想よりずっとずっと凄いのに!って。

とはいえ、高岡蒼甫も、そのAKBの彼女も、そしてもちろん、彼女こそが重要な、三角関係の一端、田畑智子も、本当に素晴らしかった。
高岡蒼甫は、巷で言われているようにこんな軽いコメディタッチ(では決してないことが、どんどん明らかになるんだけど)の役柄は見たことがなく、しかしこれまで積み上げたキャリアはさすがダテではない。見事なんだよね、そのイケてないのにイケてると思い込んでいるダサ男ぶりってのが。
そしてそのAKBの彼女、小野恵令奈嬢を、私は彼女自体知らないし、演技も勿論初見だが、よくぞこの役にこの子を探し出した!てな、もうファムファタルっぷり全開。

いや、そりゃあね、日本はロリコン文化よ。普通ファムファタルっていえば、色気ムンムンの大人の女性だから、こういう子を持って来るあたりに、やっぱり日本は……と言われるかもしれない。
でもね、ロリコン文化は、それを積み上げてきた日本のそれは、凄いなあ、強力だなあ、と思ったよ。おっぱいは立派に発達しているのに、それ以外はもどかしいほどに幼い。おっぱいが発達している、ってあたりは映画的、確信犯的逃げではあるけれど、でもそれが実に効いている。

つまり彼女は、自覚がないんだよね。自分がこんな大人の男をまどわしているっていう。
いや、あるかな。あるとしても、自分自身の魅力をハッキリと判っているまでには至っていないと思う。もしかしたらおっぱいの大きさには自覚があるかもしれないけど(爆)、それと幼さとのギャップ、なんだよなあ。

まさにそのあたり彼女って、萌えアニメの美少女キャラそのものなんだよな。ぬけるような白い肌と、漆黒の髪が寝起きでボサボサになっているあたりとか、家着のホットパンツから無造作に太ももをあらわにしていたりとか。
予告編でも印象的に使われていた、キャミソールの肩ひもがずるりと落ちたしどけない姿で眠たげに「行ってらっしゃい」という姿は、反則でしょ!女の私だって血迷ってしまうわ!

で、まあ、設定を言わなきゃね。そう、この設定で、あんな展開が待っているだなんて、誰が予想しただろう。
夏休み、田舎から15歳の妹が年の離れたお姉ちゃんのところに遊びに来るんである。お姉ちゃんの佳代は、彼氏さんと同棲中。
佳代はきっと“年の離れた妹”という感覚が抜けてなかったんだろうなあ。全然子供だっていうさ。
まあ確かに子供であり、それが今後の重要な伏線になってくるんだけど、15歳の女の子というと、身体的にもそれ以上に精神的にも色気づいてくるころ。
いざ妹を迎え入れて、初めて佳代はそのことに気付いたんだと思う。「あんまりモモちゃんになれなれしくしない方がいいと思うよ」と牽制すると「お姉ちゃん、ひょっとして焼いてるの?」と返されて、更にその思いを強くした、だろうなあ。

その妹の桃がさ、又コレが憎たらしいんだ!佳代が自分用に買ってきた服を「お姉ちゃんには似合わないよ。桃の方が似合うよね」と言った時には、佳代ならずともぶっ殺してやりたくなった(爆)。
ただ、桃がは東京に遊びに来た理由は、憧れの先輩に会いたかったから。しかしその先輩はバイトの合い間のついでみたいに桃に会って「東京に来たらいつでも連絡してだなんて、俺言ったっけ?」と言い、「ディズニーランド……俺、彼女いるから、二人で会うのって微妙なんだよね」とバサリと斬る。
なら最初からそう言って会うのを断われよ……桃の心情は察して余りあるんだけれど、ただこの時、桃が先輩のバイト先を執拗に覗いていた姿が、このソーゼツな物語の前提になっていたなんて、誰が予測しただろう。

そして高岡蒼甫である。ほおんとにね!こんな彼は初めて見た。ダルダルのスウェットが似合ってしまうだなんてこと自体、若干ショックだしさ(爆)。
彼が大枚はたいてカスタムしているワゴン車の、その古臭いSFマンガみたいな流線形の部品をくっつけまくったデザインと、デコトラよろしく描かれた肖像画(だよな、あれ……)の、ホストクラブのそれか、ってなハズかしいキラキラ系が彼のセンスのなさを露呈していて、もう見てられない(爆)。
でも彼自身は、自分がイケてると思ってるんだよね。んでもって、職場の釣り具屋の後輩や、学校時代の後輩にもひたすら高圧的な態度に出てる。
まさかこのワキ的な要素もまた、大いなる伏線になっているとは思いもせず、ほおんとに、油断ならない!

だってさ、彼にベタ惚れの佳代は、自分に友人が少ないことを気にしていて、友達や趣味の世界が広いモモちゃんを尊敬しているんだもの。
実は友達なんか彼だっていなくって、誰からもウザがられているのに、そして彼の趣味は、あんただってイタイと思っているんでしょう?
アバタもえくぼとはよく言ったもんで、佳代は彼の人となりが見えてなくて、しかも凄いことに、いろんな、もの凄い展開があってラストを迎えても、彼女はやっぱり彼のことが変わらず、盲目的に好きなのだ。

いや、勿論、ラストには、百瀬(あ、だから彼もモモちゃんなのね)が、彼女の妹の桃に執拗に電話しまくっていた事実は明らかにされるのだが。
でもね、佳代はその前に……仕事でつまづいちゃうんである。彼女いわく、唯一の友達から紹介された栄養ドリンク、百瀬は最初からマルチ商法だろ、と、友達だからって信用する佳代をバカにしてた。
大体、クリちゃんって呼び方、ヒワイなんだよ、とまで百瀬が言うから、見てるこっちは吹き出しちゃうんだけど、佳代は、クリハラ(?だったかな。とにかくクリがついた)だったら普通クリちゃんでしょ!とその時点で怒っちゃって、もうこの話題については百瀬とはまったく相容れないんだよね。

……確かにこの件については、百瀬の方が一日の長があった。友達だからって信用するのはおかしいと。お前のこと、金づるとしか見ていないだろうと。
モモちゃんにクリちゃんの何が判るって言うのよ、と佳代は憤るけれど、結局そのとおりだったのだ。しっかしここまで来ると、カキちゃんとか出てこないかね(爆)。
せっかくキャリアのあった化粧品売り場の仕事を辞めて、佳代は彼女の会社に就職してしまった。けれど、あっという間にノルマに縛られて、追いつめられてしまう。
と、いうのは、クリちゃんからの、心配を装って実は心配しているのはノルマのことだという留守電一発と、その積み上げられたノルマの箱でだけ示されるというのが凄い。
でも彼と同様、観客も佳代の甘さには最初からヒヤヒヤしていたんだもんなあ。

てか、桃だよね。先輩にソデにされてからは、まるでターゲットは百瀬だというぐらいに、小悪魔的魅力を振りまくりまくる。こういうあたりは女の本能だって気がする。無防備にテレビを見ながら彼の手をこっそり握ったりさ。
そして、一人主婦状態になってキリキリしている佳代に「ヒステリーはヤダよね」なんて耳打ちしあってクスクス笑い合って。
あーもう、佳代が痛々しくてたまんないよ!しかしまさか、佳代が、そして百瀬が、あんな強烈なストーカーになるなんて、思いもしなかった……。

この作品のテーマは、ロリコンでもなく、三角関係でもなく、いや、それもそれなりに含んではいるけれど、ストーカーがテーマなのよ。ホント、まさかって感じ。
桃が田舎に去る。その直前、佳代が寝ている深夜、トイレの前で桃と百瀬は鉢合わせした(それもまた、桃の確信犯的行動のように思ったが)。
それまで佳代の目を盗んで一緒に食事をしたり、買い物したりした秘密の気持ちが盛り上がったのか、ふと、キスをしてしまった。

それでさ、百瀬はスッカリ心を奪われてしまうのよ。もう別れ難い気持ちマンマンでさ、彼の気持ちが浮ついているのを察した佳代が痴話げんかの手管ってだけで、別れようと持ち出したのに乗っちゃうんである。
まさかの展開に佳代は呆然とし、別れたくないよ、と彼にすがりまくる。仕事場に押しかけ、引っ越し先のトイレから覗き込み、果ては合鍵を作って忍び込み、掃除やら食料の補充やらまでしちゃう。

それを聞かされた佳代の“唯一の友人”のクリちゃんは、別れた最初こそ「諦めちゃダメだよ」と応援していたものの、さすがにドン引き。
佳代から「アメリみたいじゃない?アメリ観た?」と言われても「いや、観たけど……」と言葉を濁す。
ああ、そうか、「アメリ」かあ……そういやあ、あの作品、それこそパッケージは可愛かったけど、ヒロインの思い込みに結構引いちゃったっけなあ、と思い出した。
それって、それって、本作とおんなじじゃん!凄いなあ、それって!

でもね、その合い鍵を作れたってあたりも、百瀬の中途半端な優しさがもたらしたものなんだよね。
雨の中ずぶぬれで彼を待っていた佳代に、うんざりしながらも冷たくしきれずに、傘と上着を押し付けてしまう。その上着の中に部屋の鍵が入っていたから、合鍵を作っちゃったんだもの。
しかし、彼がトイレでオシッコしている時に、窓から覗き込む佳代に動転するシーンはめっちゃ爆笑しちゃったよなあ!いや、あれは確かにコワくて笑ってられるシーンじゃなかったんだけど……。

それに、佳代が忍び込んで掃除だのなんだのしているのを、疑い始めて彼が設置したビデオに撮影されているシーンの恐ろしさときたら!
大体佳代が「判らない程度に食料を補充したり……」とクリちゃんに言っているんだけど、そんなの判るに決まってるわ!実際、こんな決定的証拠を掴まれてしまう。
でも、このビデオを再生するシーンは、見てるこっちも緊張したなあ……だって途中で佳代がビデオの存在に気付いちゃうんだもん!

いやそれは、慌てて出ていったのか、CDを蹴散らした跡があったことから予測出来たんだけど、ビデオ映像の中で慌てた彼女が一端トイレに入ってそのまま時間が過ぎたことから、まさかまだその中にいるんじゃ……と百瀬が恐る恐るドアに近づいてバン!と開けるシーンは、こっちも緊張したなあ!
しかもそれが、ビデオの中と同じように引きの場面でさ、しかしビデオの再生映像はそこから彼女が出てきて、そして玄関から出ていくところまできちんと捉えている。
思わず笑ってしまいながらもゾクリとし、そして勿論ここだけじゃ終わらないのだ。

この証拠を突きつけて、百瀬は佳代と会う。しかし佳代は別れたくない、の一点張りで、なら今まで一緒に生活してかかった分を折半してよ、でなきゃ別れない!と実に80万円の金を明細に起こして彼に請求するんである。
……この場面の痛さと言ったらない。彼女の気持ち……百瀬を好きでたまらないという気持ちも、好きだからこそ尽くして、自分が余計に出したお金のことを振り返ってみると、理不尽で悔しいと思う気持ちも判るだけに、でもそれは言ってしまったらおしまいだ、ってことがもっともっと判っちゃうからさ……。
当然百瀬はドン引きして、そんなこと言ったら、俺ますます佳代のこと嫌いになっちゃうよ、という。この台詞はこの台詞は……判るけど、判るけど、それだけは言ったらカワイソすぎる。でも、言うしかないんだよね……。

しかしそれでも終わらないのだ。彼の部屋の窓ガラスを破って石が投げ込まれる。何個も、何個も。
このシーンは本当にコワくて、いや、彼は勿論、観客も、これが彼女の仕業だって思ってるからさ。
それでなくても、鍵を換えるために業者を呼んだ時、ドアノブに髪の長いマネキンのクビが引っかかっていたこともあって……このシーンもね、呆然とドアノブを見つめる業者が立ちすくむシーン、何よと見下ろす百瀬が事態を飲み込んでアゼンとする、というその2段描写が実に巧みなのだ。
しかも、このくだりは、その前に佳代がドアノブに手作りの弁当をぶら下げていたという前提もあって、これはもう、佳代の仕業だろうと否応なく思わせてしまう巧みさが悔しくも素晴らしいんだよね。
しかもその弁当、百瀬はさすがに自分では食べずに上司にくれてやりはするものの「あ、すいません、やっぱり卵焼きだけください」と言うのが……つまり佳代の卵焼きが好物だって言っているようなもんでさ、この厳しい展開に一抹の希望を抱かせるんである。

一方の百瀬は、確かに佳代のストーカー行為に悩まされてはいるけれども、実は自分もまたストーカー行為をしているということに、気付いていないのだ。
桃が去って以来、彼は執拗に留守電にメッセージを残し続けた。
最初の一回は普通に通じた。また会いたいね、という言葉を鵜呑みにして有頂天になってしまった。
いや、有頂天になったということ自体、多分彼は自覚がなかったんだろうなあ。尋常じゃないふるまいをする佳代に悩まされる一方で、桃ちゃんの声が聞きたいよ、と百瀬は留守電にメッセージを残し続けた。
あるいは、そのことをお姉ちゃんには言わないでね、と言っちゃったことが、桃に彼の気持ち悪さをトラウマにしちゃったのかもしれない。

そして、窓に石が投げ込まれる事件が起き、佳代は百瀬への接近警告命令を受ける。石を投げ込んだのは私じゃない、と彼女は否定するけれども、その前に不法侵入の証拠があるもんだから……。
しかし彼女は最後の電話をかける。もう会わないから、お別れの電話だから……佳代の尋常じゃない様子に、風呂場で手首でも切ったかと飛び出した彼の目の前に、いつものように待ち伏せた佳代の姿。
怒鳴りつける彼だけど、ハッとした。手首から尋常じゃない血が滴り落ちていたのだ。
これで警告ではなく接近禁止命令が下せると弁護士から言われるけれども、今回のことで佳代を罪に問わないでほしい、と百瀬は言うもんだから、弁護士は意外そうな顔をした。
でもその後、佳代は本当に姿を消した。でもそのことを、百瀬は知っていたんだろうか?

そのあたりが皮肉なんだよね。ていうか、こうして書いてみてもほおんとに、さんかく、という柔らかなタイトルから予想もつかないハードさなんだけど!しかもそれだけじゃ終わらないところが!
そもそも百瀬は、佳代が二人過ごしたアパートを引き払って田舎に帰ったこと自体知らずに、桃ちゃんからちっとも連絡が返ってこないことに業を煮やして彼女の田舎に会いに行っちゃうんである。
もうこの描写の時点で、当然観客はハラハラするんだけれど(爆)、そして観客の予想通り、桃は地元の同級生と、冬ということもあってマフラーをカッチリ巻いた健全な制服スタイルで、これまた健全に自転車の二人乗りなんぞして現われる。
のどかな田舎の風景もあいまって、東京でのけだるげでしどけない、萌え系美少女の面影さえもないんである。

対して、あのセンスのかけらもないカスタムワゴン車に、いつもどおりのダルダルなスウェットにフードをかぶって現われた百瀬、いや、こんな姿が似合ってしまう高岡蒼甫が哀しすぎる。だって、思いっきりイタいオッチャンなんだもん(爆爆)。
何ヶ月も数十件の留守電を入れられた“ストーカー”に怯える桃に、事態が理解出来ない百瀬は無邪気に近寄るも、桃と二人乗りしてた柔道一直線!てな彼氏が難なく百瀬を背負い投げを二発、いや、三発ぐらいしたかな?
全く歯が立たずに退散する百瀬の姿もあまりに哀しかったけど、追いすがった桃から当惑した態で「だって私、子供だよ」と言われ、今更ながら「15歳!?俺、何やってんだ……」とガックリ膝を突くのが、もう見てられないほど哀れすぎる……。

しかも、更に続きがあるんである。あのアパートを引き払ったことで、この展開は何となく予想されていたけれども、佳代が実家に帰っていて、この情けないやりとりのあとで、百瀬は佳代と遭遇するんだよね。
改めて佳代の一途な気持ちに打たれた百瀬は、「都合がいいと思われるかもしれないけど(都合が良すぎるわ!)、俺、もう一度佳代と……」と言いかけた所に、あの桃の彼氏がやってきて、まだいたのかよ!と怒鳴りつける。
そこで初めて、ようやくって感じで佳代が気づくのも……彼女が妹に対して大人ぶってた(いや、確かに大人なんだけどさ)ことも含めて、切なすぎて痛すぎてさあ……。

いや、そりゃあ、全く気づいていない訳ではなかったとは思う。やたら桃に肩入れするじゃない、てところから口喧嘩になって、百瀬が予想以上に腹を立てて別れることになったんだもの。
少女ゆえの無防備で何でも許される言動……無邪気に高いものをねだったり、カワイイものはお姉ちゃんより私の方が似合うよねと言ったり、佳代がお気に入りのマニキュアを勝手に持っていっちゃったり(ていうか、それ以前に勝手に使ってたし)が、あくまで少女ゆえで、大人になったら佳代の立場が判るんだと桃が知るのは、一体どれぐらいの期間が必要なのだろう?

まあ、でも、だからこの時点でようやく佳代は気付き、イイ感じになってた筈の百瀬は尻尾を巻いて逃げ出してしまう。
そして佳代は、桃から「別れて正解だよ。自分でカッコイイと思ってるみたいだけど、センスだってビミョーだしさ。お姉ちゃんならもっといい人いるよ」などと無神経に言われ、さすがに逆上、掴みかかるんである。
桃には、佳代がどんなに百瀬が好きだったか判ってないし、実家に帰るまでにこんなソーゼツなことがあったことも判ってないし……。
でも、桃は桃で、百瀬からの執拗な留守電(百瀬が何度も録音をやり直すのが確かにキモい(爆))に悩まされていた訳だし……この姉妹喧嘩はホントに何とも言えなくて、心がふさがるんだよな……。

そして、正直ここで終わりと思っていた、もう百瀬は帰ったと思っていたら、奇跡のラスト。
百瀬が気まずげに、しかし帰りがたい様子で、翌朝まだ、いるんである!ゴミ袋を抱えた姉妹二人が、お互いこれもまた気まずげな様子で佇んでいるけれども、次第に二人は、彼の目的を感じ取って、姉が前に、妹が後ろに、微妙に位置をずらすんだよね。

いや、その目的ってのは、私が勝手にそう、希望的観測で思っただけかもしれない。
そのあたりの含みようは絶妙でね、弱々しく佇む百瀬に佳代がニッコリ笑うところでカットアウトで、観客に委ねる余白が大いにあるんだけれど、でも、絶対そうだよね、そうだと思いたい。
こんな壮絶なやりとりがあって、そんな風に思うのはある意味甘いのかもしれないけど、佳代も、百瀬も、お互いキツいストーカーである自分を自覚して、本当に大切なことに気付いたのなら、壮絶だったからこそ、ハッピーエンドもアリだと思いたい。

あ、そうそう!これは言っておかなければ。ドアノブに長髪のマネキンの首をぶらさげたり、窓ガラスに石を投げ込んだりしたのは、百瀬がウラウラとイジめてた職場の後輩。
百瀬が佳代と別れた時にも転がり込み、当然って感じで「じゃあ、俺、アサヒがいいや」とパシリに使っていた気の弱そうな青年である。
佳代は自分が友達がいないって自覚があって、百瀬は友達も多いと、うらやましいと言っていたけど、実は百瀬は力づくで押さえつけてる後輩ばかりで、友達がいた訳じゃなかったんだということが明らかになるあたりが実にシンラツなんだよなあ。
それでもね、そんな殺伐とした気持ちが残らないのは、それでも彼は人間関係を築いていたし、そんな彼を佳代は尊敬していたし、そしてきっと彼らは、また一から始めるんだろうと思うからなのだ。

そして本作でもやっぱり照明兼任の監督。何とも不思議なんだよなあ!★★★★★


懺悔 −松岡真知子の秘密−
2010年 75分 日本 カラー
監督:城定秀夫 脚本:城定秀夫
撮影:田宮健彦 音楽:
出演:松浦ひろみ 原紗央莉 石井亮 吉岡睦雄 福天 濱田マナト 神楽坂政太郎

2010/6/26/土 劇場(ポレポレ東中野/城定秀夫監督特集/レイト)
なに、なにこれ!これもOV作品なの?凄い!凄いクオリティの高さ!いや……映画作品として紹介されているところもあるけれど、先にDVDになってるし、“劇場公開”は今回のポレポレの城定作品特集でのたった3回のみならば、それはさすがに公開作品とは言わないのでは……。

もはやこうなると、OVと映画の境目が判らなくなってしまう。もちろん映画館にかかってしまえばどんな形で作られたものでも“映画”となって“しまう”のであろうが……。
でもそんな中途半端なハクのつけ方じゃなくて、本作は本当に、正式にきちんとした形で、小さな形態でもいいから、ロードショー公開をしてほしい。これだけの完成度を持った作品が、こんな少ないチャンスに埋もれているのはもったいなさすぎる!

このヒロインの松浦ひろみという人、音楽業界に疎い私はちっとも知らなかったんだけれど、シンガーソングライターとしてデビューし、心身の調子を崩してブランクがあり、AV女優に転身したことで話題になった人、なのだという。正しくは転身という訳じゃなく、プロモーションの一貫として限られた数に出ただけで、音楽活動をちゃんと続けているらしいんだけれど。

確かに“シンガーソングライターがAV女優に転身!”なんて、スリリングな話題に違いない。でも、図らずも城定監督という力のある演出家の手にかかったこんな秀作で彼女を初見してしまうと、一体一般的に言う女優とAV女優、あるいはセクシー系女優だのといった曖昧な垣根はなんなのかと考えてしまう。
おっぱいを出すまでなのがセクシー系なのか、ホンバンを撮らせるのがAV女優なのか。

城定監督がメインで活躍するピンク映画やエロ系OVは決してホンバンをウリになぞせず、あくまで作品力で勝負する世界ではあるけれど、世にあまたいる、くすぶっている役者のタマゴたちが、エロもやりますと言えば確かに活動の枠がぐんと広がるのは確か。でもそこから、普遍的な活躍が出来る女優になれる人が限られるのも事実。
でも……城定監督のような新世代の、確かな実力のクリエイターに接すると、そんな垣根がなんとくだらなく思えることか。それこそ彼はAVからOVからピンクから一般映画に至るまでの垣根を、総じて曖昧にしてくれている。そしてそのヒロインとして迎えられた松浦ひろみという人もまた、そうした垣根をぶっ壊す可能性を秘めた人なのだと感じる。

彼女の姉役として重要な役割を担うもう一人のヒロイン、原紗央莉が、実に判りやすい素晴らしい巨乳の、エロ系アイドルのスターであることを考えると、それがとても顕著に思えるんである。
とはいえこの原紗央莉もまた、そんな判りやすい外見のイメージをぶっ飛ばすネガ女っぷりを発揮して、目を奪われてしまう。まさにスター、まさに、女優である。
ますます、女優とはなんぞや、テレビの連ドラにレギュラーで出て、世間的にチヤホヤサれることがスター女優なのか、などと思いにふけってしまう。大体、エロが出来なくて何が女優か……などとも考えてしまう。

……作品とは全然関係ないままつらつら言い過ぎた(爆)。でも本当に、凄く良かったなあ。城定作品、純粋なる監督作品を観るのは随分と久しぶりではなかろうか。ひょっとしたらデビュー作品以来?脚本を提供した作品はよく見かけるのだけれど……。
そう、そのデビュー作「味見したい人妻たち」で心をわしづかみにされた。あの年度の3位作品だったけど、あの時観た、勿論1位も含めた入賞作品の中で、私は一番好きだった。

年下の男の子との秘めた関係。それは確かにエロの設定ではありがちのことだったのに、とてもみずみずしくて、繊細で、美しくて、切なくて、なんだか、少女マンガの中の恋みたいだった。ファンタジーみたいだった。
つまりあの時は、その繊細さはまだ、少女の憧れの恋のようなものだったのかもしれない、と本作を観て思った。本作の繊細さ緻密さに、あのデビュー作を即座に思い出したけれど、だけど決定的に違うのは、そこにどうしようもなく横たわる人間の諦念であり、生々しい愛憎であり……。
それを全てあきらめて受け入れる結末なのになぜかすがすがしく、美しいのだ。それが、凄いと思った。

松浦ひろみ演じるヒロイン、真知子は高校の音楽教師である。受験科目でもないし、彼女自身に教える覇気が感じられないので、好き勝手にお喋りする生徒たちにやる気のない授業をするだけの毎日。
教師同士の飲み会にも参加せず、仕事が終わればさっさと帰る彼女は、担任している生徒のイジメにも無関心だし、同僚教師のみならず父兄たちからも頼りないとクレームが届くような、そんな教師だった。

それには理由があるんである。彼女は姉と二人暮し。姉は両足にガッチリと保護器具が据えつけられ、その動かない足を投げ出して座った状態のまま。いや、彼女自身がリハビリも外への散歩も拒否しているからなんだけど。
なぜそんな身体になってしまったかというと……彼女の好きだった人と真知子がこっそりセックスしているところを見てしまって、そして彼女は迷わず窓から飛び降りてしまったのだった。

真知子が学校のトイレから両親からの電話に出る場面がある。大丈夫、心配ないよ、リハビリも毎週行っているし、とウソをつく。そしてそのウソをついている途中、吐き気に見舞われて激しく嘔吐してしまう。
それでなくても女王様のごとく居丈高にふるまい、負い目のある真知子を奴隷のように扱うこの姉は、見ている観客の方が、ぶっ殺してやりたくなるほど憎たらしいんである……実際、あくまで妄想の中だけれど、それでもたった一度、真知子も妄想で、姉を何度も何度もハサミを突き立てて殺す場面が出てきたりもする。
あの時の、我慢に我慢を重ねて爆発した真知子の、返り血を浴びた、鬼のように恐ろしいのにふと安堵の微笑みを浮かべた真っ赤に染まった顔が恐ろしく、それまでも充分に魅力的だったけれど、この見知らぬ女優、松浦ひろみの秘めた可能性に身震いしたんであった。

そしてそう……この女王様のようなお姉ちゃんを演じるのが、この業界?のスター、原紗央莉である。彼女、素晴らしかったなあ。まあ、立ち位置としてはサブなんだけど、でもカラミ要員という訳でもない。おっぱい出してカラミめいた場面(いや、そこまでもいってない……パンツの上から触らせた程度だし)があるにしても一度っきりだったし。
ひょっとしたら原紗央莉ファンにとっては物足りないのかもしれない……でもね、彼女、ヤバいよ。大体、両足に、なんかサディスティックに見える保護器具を施している状態で、お姫様チックに両足を投げ出したまま座っている姿からして萌え萌えだし、しかもその姿で、もう目を吊り上げて、女王様なんだもん。

かしずくメイド……までもいかない、下働き状態の真知子は、せっかく作った夕食をぶっ飛ばされ、借りてきたDVDは「全部つまんなかった。もうちょっと考えたら」とツバを吐くかのようにつき返される。
当然、「男なんて作ったら、ぶっ殺してやるから」と、少しでも帰りが遅いのを許さず、朝も、彼女の髪をとく真知子(このシーンは、メッチャ萌えたなー!)がちらりと腕時計に目を走らせるのを目ざとく発見して「やっぱり編み込みにして」と時間がないのを判ってて言い放つ。
おかげで遅刻が絶えない真知子は立つ瀬がなく、学年主任(だったかな)の男性教諭からチクチクとイヤミを言われる。しかもエロDVDをかりているところをクラスの男子に見られて、クラス中が冷笑し、この男性教諭からもヤラしい目で見られたりして、もう針のむしろなんである。

で……ああ、もう、一番大事なところに行くのに時間がかかるな!そう、真知子が心と身体を焦がす相手が登場しなければならない。
いや……後から考えると、真知子は身体を焦がしていただけで、いつも心はお姉ちゃんに捧げたっきりだったのかもしれない。結末を思うとそうとしか思えない。そうだとしたらそれは……やりきれないけれども、なんかもう、たまらなく萌えてしまうではないか!

いや、だから、また脱線しちゃった(爆)、私つまり、妙齢の姉妹二人の愛憎に萌え過ぎだってば(爆爆)。
真知子はね、クラスの男子から思いを寄せられるんである。それは彼女が気に止めもしていなかった、イジメを受けている、いかにも気の弱そうなニキビくさいメガネ男子。メガネ男子というと今はイケメンっぽく聞こえるけれど、そのメガネもダサいデザインの、もうホント、まんま冴えないタイプの男の子なんである。
ある日真知子は、音楽室から聞こえてくるピアノに気付く。ベートーベンの悲愴。そっと入ってみると、自分のクラスのそのメガネ男子(役名忘れた!)が弾いていた。素晴らしい演奏に思わず「凄い……」と声を漏らす。実は音大を志望しているんだという彼から、指導を頼まれる。

「先生のピアノ、凄いですよ。なんで教師になんかなったんですか」「……」
真知子の脳裏に、ドレスアップして息の合った連弾を弾く姉とのシーンが甦る(原紗央莉はおっぱい強調しすぎだけれども(爆))。
こんな具合に、あのお姉ちゃんが飛び降りてしまったシーンも、しっとりと濡れた、そしてブレブレに揺れるカメラで、苦く、痛く、回想される。
真知子はいつも過去にとらわれて……いや……過去に生きている感を印象づける。今の風景は彼女の目には入っていない、いや、入っているけれど、壊す対象でしかない。
音楽室の窓から気だるげにタバコをくゆらす真知子は、その吸い殻を、無邪気に戯れる生徒たちの上に落としたいと思う。今にも灰が落ちそうなタバコがアップにされる。学校でも家でもただ頭を下げ続けるだけの真知子の、ささやかな抵抗。

でも、思いがけず、年下の、しかも教え子の、ニキビくさい、イケてない男の子が、真知子の中に飛び込んできたのだ。
そのピアノに魅せられた彼女は、なし崩し的に彼の指導を引き受けることになる。いや……そりゃ彼女だって最初から判っていたに違いない。ブラウスのボタンをひとつ外して、鏡に向き合っていた彼女が判らなかった筈はない。
クラスの男子にエロDVDを借りていたのを見られてクラス中から冷笑された日、いつものように音楽室に来た彼にも「来るたびヘタになってる。もう来ないで」と言った。

彼は、“来るたびヘタになっている”ことは判っていると言った。だってそりゃそうだ、先生のことが好きなんだから……衝動を抑えきれないように彼女を抱きしめてキスをした彼に、真知子はまるで動揺したかのように(判ってたに違いないのに!)「そんなつもりだったの!?」と叫ぶ。
彼は吠えた。「そうです!判ってたんでしょう?先生が好きです!」「ヤメてよ!気持ち悪い!」あんまりな言葉を浴びせられて、彼はたまらず出て行った。
ほんの一瞬をおいて、真知子は弾かれたように飛び出す。彼をまるで引きずるように、音楽室の重いドアの内側に連れ帰った。
もどかしいぐらいに求め合った。彼女の、およそセクシー系女優さんには似つかわしくない、リアルに普通の、薄めのおっぱいが切なかった。

メガネ同士の彼らのキスが、そのメガネが彼らの距離を隔てている感じがするのも、それでもたまらなく求め合っているのが、切なかった。
なんたってヤリたい盛りの男子高校生と、女盛りを封じ込められていた女教師のセックス、もう、せきを切ったら止められなかった。
そう……なんかさ、セックスに対する欲求が、この男の子の年齢と、彼女の年齢とでピッタリきちゃうのが、それが一番切なかったかも(爆)。
これはね、そう、ここにこそね、「味見した人妻たち」のあの切なさ美しさ繊細さを感じたのだ。でも、あの作品と違って、真知子には帰っていく替わりの男はいない。あの冷たく傍若無人な姉との生活に帰っていくしかないのだ……。

それでも彼とのカラミ場面は、その後2回ぐらいあった程度だったかなあ?姉が、敏感に真知子に男が出来たことを察知して、私を満足させるためにと、テレクラの男に電話をし、引っかかってきたおデブな冴えないサラリーマンと、自分の目の前でセックスしろと言う。そうしたら今までのことは全部許すからと。
今までのことを全部許す、という言葉に釣られて、それでなくても慣れないセクシーボンテージ系の服に身を包んだ真知子は必死にサラリーマンにフェラをする。
しかし姉から「あの時みたいに、あんたが上になりなさいよ!」と指示されてその通りにした途端に……フラッシュバックなのか、真知子は男の上にゲロをぶちまかしてしまうのだ。

激怒して帰ってしまう男。ごめんなさいと泣き崩れる真知子に、お姉ちゃんもまた泣いた。……あの場面は壮絶だった。原紗央莉の登場場面はたった一日で撮影されたということだけど、信じられない。あの姉妹は、長い愛憎を共にしてきて、そしてこれからもそうなっていくことをまざまざと見せ付けられた。
そう……「10年後、私たちどうなっていると思う?」「きっとこのままだよ」「じゃあ、20年後は?」「このまま」「気持ち悪い」「仕方ないよ」
ネガティブに言い合いながらも、そして確かにネガティブかもしれないけれど、一般的に言う女としての幸せから遠のいているのかもしれないけれど。
でも二人がね、急勾配で長い坂道を、真知子がお姉ちゃんの車椅子を押して歩いていくシーンは……グッときたなあ。

それまではリハビリに行くことも拒否し、車椅子を使うことを「私のミジメな姿をさらしたいの?」と当たり散らして、もう何ヶ月も外にすら出ていなかった姉が、外の空気を吸いたいと真知子に言い、本当に久しぶりに外に出たのだ。
底が見えるほどに急な坂道で、手を放していいよ、と冗談ともつかぬ口調で姉が言う。そんなこと出来ないよ、と真知子。いくじなし、と姉。
そして、先述の会話が繰り広げられるのだ。それは一見して、あまりにも彼女たち二人が閉じられた世界にどうしようもなく閉じ込められる哀れさのように見えもするんだけれど、私は、なんだかとてつもなく幸福に思えた。彼女たちが否定的な言葉を口にするたびに、それがひどく幸福に思えた、だなんて、あまりにペシミスティックにすぎるだろうか?

でもさ、結局血の絆って切れないものじゃない。まさにこれは、エロの形を借りながら、血の絆の不可避性こそを描いた作品だったんだと思う。
エロはふんだんにありながらも、男子高校生とピアノを介してソウイウ関係に発展するなんて、萌えの極地を描きながらも、でも結局は好き=ヤリたいってな男子高校生、この先なんて見えないのだ。

それでも確かに……彼との刹那の関係は本当にドキドキしたけど。松浦ひろみのいい意味での普通さと、決してイケメンなぞではない、ほおんとに、イケてない部類の文科系イジメラレ系男子高校生とのカラミが実に生々しく、それでいて舞台は音楽室なんて妙にセンシティブで、ある意味彼らの結びつきが本作の救いになっていた気がする。

そして彼は、姉と生きていく決意を固めた真知子により、音楽室から締め出され、元のイジメラレっ子に戻ってしまうのだが……。

松浦ひろみ自身の音楽の才を充分に生かした音楽教師という役柄は、やっぱそうじゃない人が音楽教師を演じるのとはリアリティが違うなって思う。
そして……そう、こんなに濡れたような、はちみつ色の光が胸をかきむしる切なさの、夕暮れの中で、ひどく赤が、赤だけが冴えているような、こんなたまらなく心の奥のやわらかい部分をぐりぐりと刺激してくるような、映像を作り出す人だったのか、 城定監督ってぇのは!やっぱやっぱ、やぁーっぱ、デビュー作品で受けた衝撃は、ホンモノだったんだなあ! ★★★★★★


三匹の奴隷
2009年 分 日本 カラー
監督:佐藤吏 脚本:金村英明
撮影:小山田勝治 音楽:大場一魅
出演:亜紗美 友田真希 真咲南朋 那波隆史 なかみつせいじ 黒木みらい 柳東史

2010/5/16/日 劇場(テアトル新宿/第22回ピンク大賞AN)
もちろんこれにはあの衝撃の「奴隷」がある訳で、それがあったればこその、ある意味スピンオフ(とは違うか)の「三匹の奴隷」な訳で。
シナリオタイトルも「この世界のだれよりもかわいそうなあたし」と「奴隷」の「つまらないあたしの……」の姉妹篇となっているのは明らかだし。
それにもちろん、緊縛ものというジャンルにおいてもそうだし。

でもでも……あの「奴隷」にあまりにもガツンときたから……あの「奴隷」がスゴ過ぎたから、やっぱりやっぱり……。
つまりはあの平沢里菜子嬢に太刀打ちするには、“三匹”ぐらい持ってこなければなんともならないってことでさ、もうそれぐらい、あの「奴隷」は(しつこい……)凄かったのだ。
あの「奴隷」が(だからしつこいってば)里菜子嬢のノンフィクションだと本人が言ったのがどこまで本当なのか、ジョークのようにも聞こえたけれども、それが本当に聞こえたぐらい、凄かったからさ……。
あれはもはや、緊縛ものというジャンルではなく、平沢里菜子というジャンル、だったのだ。

で、本作はね、“三匹”だからさ、三人がかわるがわる緊縛されるんである。それらは同じエピソード内にはいなくて、つまりはちょっとしたオムニバスの様相を呈しているんだよね。
それでも、緊縛師として彼女たちのMを掘り起こす梶原(那波隆史)は共通しているし、第一話の女の娘が第三話のヒロインとして現われ、まさにMの遺伝を描いてちょっとした大河っぽさもうかがわれるんだけれど……。
でもやっぱり、オムニバス、それもこの尺を三つに割ると、正直やっぱり1エピソードとしては短くって、縛るというゴールに向かって駆け抜けて、縛ってオワリ、みたいな淡白さを感じなくもないというか……。
でもそれぞれにヒロインのテイストもエピソードの色合いも違うから、それは面白いんだけれども。

一番印象的だったのは口開けのエピソードのヒロイン、友田真希かなあ。前年度の新人女優賞をとった時から既にベテランぽく(てかもう、年齢的にもAVのキャリア的にもベテランだったからなあ)、崩れた熟女の色香を濃厚に匂わせていた彼女は、ここでも一人、次元が違う感じがする。
娘をさずかり、夫との仲も悪くなく、つまりは穏やかで幸せな日々を送っていたと思っていた奈津子の人生がひっくり返ったのは、夫が何を思ったか突然、緊縛師を呼んだから。

最初はただの客として扱っていた梶原のことを、ガサツな男だ、ぐらいに彼女は思っていた。そして、苦手なタイプだと夫に吐露していた。
この時、奈津子が客に供するのが生牡蠣だというのがダイレクトに生々しい。「親戚から送ってきたんだ。三陸の牡蠣もなかなかいいだろう」なんて夫の台詞で説明されるのが、逆にワザとらしく感じるぐらい。
夫は妻が無意識下で欲求不満なことを感じ取っていたのか、あるいは彼女の中に潜むMに自分が応えきれないと思ったのか。
あるいは彼こそがMで……つまり、陵辱される妻を見ることで興奮するタチだったのか(それもあるような気がする)、名うての緊縛師を呼んで彼女を縛り上げ、一晩中いたぶらせたのであった。

そして夫は最後に妻を抱いた。もういいだけ興奮して。
いたぶられる妻を見つめる夫はまるで傷ついたような、アワアワした表情をしていたけれど、なんたって自分が仕掛けたことだもの。
しかもここまでお膳立てしなければ、最後に自分が挿入することも出来ないだなんて。
でも、そんな屈折した夫を演じるなかみつせいじ氏の哀切さがまた、素晴らしく胸に迫るんだよなあ……。

で、この時「お母さんが虐められている」と思いながら部屋を覗いていたのが、一人娘の亜紀。
このエピソード内では幼い娘がいるという言葉だけで、一切その姿は出てこない。何かそれが、サスペンスめいた気分も起こさせてドキドキする。成人するまで大事に持っていたことが後に判る、パンダのぬいぐるみがぽとりと落とされたりさ。
そして恐らくこの覗き見の時に幼い娘は、母親から受け継いだ遺伝のMの芽が根付いたのだ。

奈津子は夫の縛りには満足できなくて、梶原の元に通うようになる。しっとりと和服に身を包み、帰りにおいていく“梶原先生”と書かれた封筒は、そうか、“お月謝”だったのか。こんな時代錯誤な描写が似合ってしまうあたりが、友田真希の凄さだと思う。
そしてある日、奈津子は「一度冒険してみたかった」と突然大胆な行動に出る。旅行バッグを携えて、梶原と共に海辺に旅に出かけた。
しかしそこで、彼はこの執拗な奥様にもうアキアキしたのか、あるいは彼女の最も望むMを優しくも終わりに持ってきてくれたのか、海岸にX字に突き立てられた木に磔のように縛り付けて、そのまま彼女を置いて去っていってしまう。
この場面は、「奴隷」のオープニングでありエンディングである、荒野の枯れ木に吊るされた平沢里菜子を思い起こさせ、しかし本作はそれが十字(ナナメだけど、一応)に磔になっているというあたりが、なんか、神聖さとそれに反する罪の深さを感じさせた。

そして第二エピソード。正直これはいらなかったような気もしなくもない(爆)。まあでも、この母娘の重い血のつながりの間に、こんな軽さを挟むのもまあ、いいのかもしれない。
それこそメチャメチャ軽い緊縛(あれを緊縛と呼んでいいものだろうか……)もエピソードの終わりに用意されてもいるし。

ヒロインはいかにも高飛車なOLの詠美。上司にプロポーズされてはいるものの、私を支配も出来ないくせに、と鼻であしらっている。
ご主人様に仕えることが何よりカイカンな詠美は、しかしそのご主人様に、他の女の影が見え隠れすることにやきもきしている。“奴隷”は私だけでいいのよ!と。
彼女には緊縛以外のSMプレイも用意されていて、トイレを我慢させられて素麺が盛られたガラス皿の上にしゃがみこんで用を足す、だなんていう、軽いスカトロも登場する。
上司とのカラミシーンといい、なんか彼女はカラミ要員&コミカル担当?
いや、コミカルなのは詠美ではなく、第一話と第三話ではクールに見せている梶原だろうな。

自分以外の“奴隷”に“ウワキ”していることがガマンならない詠美は、梶原の家の押し入れに忍び込んでことのなりゆきを眺めている。そして彼が連れ込んだ“ウワキ相手”に彼女は思わず噴き出し、爆笑が止まらないんである。
何かと思ったら、まあつまり……良く言えばふくよかな、悪く、いや、普通に言えば巨漢おでぶさんな女だったんであった。
確かに観客であるこっちも思わず噴き出してしまったけれども、でもさ、彼が緊縛師であり、緊縛の威力や魅力を発揮するのは、やあっぱ縄が食い込む肉、なのよねえ。
そういう意味でこのおでぶさんは、梶原にとって欲情する女、なんであろう。だってそれ以外の女、つまり三匹の女たちは、みんな普通にセクシーな程度の身体つきなんだもんなあ。そう思うとちょっと未来に希望が持てるかも??

で、詠美はプロポーズされていた、自分を全然満足させてくれない上司をタオルで手首と足首を縛り、これはどんなプレイ?と喜んでいた彼を残して悠然とホテルを出て行っちゃったんであった。
一応緊縛?いやいや……てか、お約束!

しかし、ここで梶原が一度貶められているにも関わらず、第三話ではしれりとクールな緊縛師に戻るあたりはズルい気もする。
いや、しれりでもないか。最初のうちは確かに、情けない態を示していた。SM女王様にしばかれていた。
あれっ、なんでこんなことになってるの、だって彼はS側じゃ……と思っていると、Sのなんたるかを判っていない女王様を見抜いた彼が、くるりと形勢を逆転してしまった。
その女王様、亜紀の勤める店のオーナーに頼まれたんだと言うけれども、彼女が第一話の奈津子の娘だっていうのは彼は……あれ?でも知らない感じだったっけ?
ひとしきりMの開発をした後、梶原がアルバムなんぞ繰っていて、その中に亜紀の母親の写真があってさ、私もこうしてほしい、という会話のくだりで、彼女が幼き日、梶原が家を訪れたエピソードを吐露するけれど……あの時彼はどんな表情をしていたっけ。
いやあ、このあたりになると、結構眠気も襲ってきててさ……(爆)。

ま、とにかく、亜紀は母親と同じ海岸で、母親と同じように磔に縛り付けられる。
尋常じゃない強風がびゅうびゅうと吹き付けていて、こりゃあ相当寒かっただろうな、などと無粋なことを思ったりする。
そこで彼女は、母親の奈津子が捨て置かれたにも関わらずどこか満足そうな表情を浮かべていたのと同じく、すがすがしくその美しい裸体を海岸の風にさらすんであった。

作品的には、第三話の亜紗美嬢が一番のウリらしい。確かに大トリを任せられるのだし、ピンク的にも、和服よりもOLのミニスカよりも、ボンテージSM女王の方が魅力的に違いない。羽のような挑発的な付けまつ毛なんかつけちゃってさ。
でも、彼女があの友田真希の娘で、Mの血であり、母親のようにあの場所で縛られたい、という段に至ると、あのしっとりとして、一見理想的な妻に見えながら堕落的な友田真希が鮮烈に浮かび上がってきてしまうのであった。
三篇の中ではやっぱり、友田真希が一番良かったなあ。 ★★★☆☆


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