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「あ」


2004年鑑賞作品

アイデン&ティティ
2003年 118分 日本 カラー
監督:田口トモロヲ 脚本:宮藤官九郎
撮影:高間賢治 音楽:白井良明 大友良英 遠藤賢司
出演:峯田和伸 麻生久美子 中村獅童 大森南朋 マギー コタニキンヤ ラズ・ブレザー 平岩紙 小林麻子 声 野村祐人 村上連 岸部四郎 あき竹城 夏木ゆたか 三上寛 塩見三省 大杉漣 ピエール瀧 田中要次 水上竜士 大久保乃武夫(ポカスカジャン) 玉井伸也(ポカスカジャン) 中山省吾(ポカスカジャン) 浅野忠信 村上淳 氏神一番 和嶋慎治(人間椅子) 鈴木研一(人間椅子) 後藤升宏(人間椅子) 和久田理人(スイマーズ) キース(スイマーズ) 品川知昭 佐々木"ACKY"あきひ郎 カタル(ニューロティカ) アツシ(ニューロティカ) みうらじゅん 黒沢伸(宮尾すすむと日本の社長) 大槻ケンヂ マユタン(マサ子さん) 遠藤ミチロウ PANTA 石川浩司(たま) 竹山奈穂子(THE NEWS) ROLLY


2004/1/8/木 劇場(シネセゾン渋谷)
トモロヲさんの初監督作品は、トモロヲさんが言いたいことの全てを言い切った映画、だと思った。気恥ずかしいくらいに、青臭く、まっすぐに、純粋に。
冒頭の、当時を経験してきた人たちのインタビューなど、いかにもトモロヲさんらしい良心的さ。ちょっと親切すぎるんじゃないのと思うぐらいなんだけど、ここまでキッチリやらなければ気がすまないんだろうと思う。
ここで描かれていることは社会に対して実に辛辣ではあるんだけれども、でもその一方でとても完璧に、過ぎるくらいに理想的でもある。そこまで出来ないよ、大人になるってそういうことなんだよ、とちょっとつぶやいてみたくなるぐらいに。
でもトモロヲさんは、確かにそんな風に、貫いてきた人なんだ。彼を見ていれば判る。
かつて同じようにバンドをやってきた経験をし、縁あって俳優という道に進んだ彼だけれど、音楽への、そしてバンドへの思いが人一倍強い。しかもこれは彼の同時代。つまりは自分の青春史だ。

名前は出さないけれども、あの「いか天」を題材にした、そしてその後のバンドブームを追った映画。トモロヲさんの盟友であるみうらじゅんの同名漫画が原作(未読。これは読まなきゃ)。
見た目はいかにもダサダサなロックバンド、「SPEED WAY」。その名物番組によってデビューした彼らは、しかしその生活はまるで変わらない。四畳半のボロアパートに、飲み屋でのバイト。「正社員にしてやろうと思ったのに」という言葉にうろたえたりするぐらい、芸能人とか、スターということとは程遠い。演奏テクニックもお世辞にも上手いとは言えない。
世間からは持ち上げられるものの、その裏では「メジャーもインディーズも一緒」「誰でもデビュー出来る時代」という冷たい視線にも気付いている。
でも「SPEED WAY」の面々、特にその音楽性を一手に担うギターの中島は、バンド、そして音楽に対するアツい思いがある。事務所の社長は、いわゆる世間的にウケること、生き残ることばかりを追い、恥も外聞もないような仕事を押し付けるけれども、彼、そして彼らは断固拒否する。

この中島を演じる峯田和伸である、何たって。一体何者?などと思ったのは、いかに自分が世間知らずだということを思い知ったけれど。だって、対外的には中村獅童の出演ばかりが言われてて、彼が主役の映画なのかと思っていたくらいだから、ちょっと驚いてしまったのだ。もじゃもじゃの頭にメガネ、ホント、それこそ四畳半に住んでいるオトコノコっていう感じ。でも見ていくうちに、もうたまらなく中島!なのだ。彼が愛しくてたまらなくなる。
中島だけが見るボブ・ディランの幻影(?)。なるほど、彼だからこそ見るんだろうと思う。ハーモニカ(ブルース・ハープ?)で奏でられるディランの“言葉”。字幕となってそれが“翻訳”されるのはちょっとテレテレな感じもするけれど、そう、中島だからこそ、判るんだと思う。彼が知らず知らずのうちに自分のやるべきことを見つけていく、そのために、彼自身の中から現われたディラン、なのだ。ロックの神様、は彼の中で育てたもの、その中にこそ、宿っていたのだ。

“やらなきゃいけないことをやるだけさ。だから上手くいくんだよ”
惹句にもなっていて、ラストシーン、ライブハウスで中島が観客に語りかける言葉。きっとその言葉の前にはこうつくんだろうと思う。
“自分が自分であるために”と。
“やらなきゃいけないこと”が、自分のためじゃないことだと思っているから、きっと皆上手くいかないんだと思い当たる。
やらなきゃいけないこと、が、会社のためとか、生きていくためにとか、そういうことだと思っているから。
同じ“生きていくため”でも、それは自分が自分でなくなってはなんにもならないんだということ。
理想的過ぎる、と思うのは、それは逆に、とても難しいことだから。ラクに生きる道はいくらでもあるのに、中島が、そしてSPEED WAYの彼らが、うらやましい。

大森南朋が出ているというのも、この映画に対する大きな興味だった。「カルテット」以来の、楽器を弾いている彼。言いたくないけど「カルテット」はヒドい映画だったから。でも彼だけが、何かやっぱり良かったんだよね。で、最近やけに色っぽく見えてしまう大森氏。ここでもそりゃ、メンバーとはいえ、ワキ役には違いないんだけど、目が行って仕方がない。個性的なメンバーたちの中で、一番普通にロッカーらしい格好をしている彼は、そのために逆に一番地味だったりするんだけれど、このSPEED WAYでやることを最も純粋に好きなんである。それだけに、このバンドがなくなってしまうことをひどく恐れている。
その彼がテクニックの未熟さ(あるいはキャラの薄さかもしれない)を理由に排除勧告を突きつけられたあの時の、顔……大森南朋のこういう顔に一番弱いのよ。本当に傷ついたその目、その表情に、自分まで傷ついたような気持ちになってしまってたまらない。

昔の写真が貼ってあるのが笑わせる横暴な社長の岸部四郎のピッタリぶり、ちょっとコワいおっかけファンの平岩紙など、キャストがいちいちハマリまくっている。トモロヲ監督の人脈とセンスが非常に感じられて嬉しい。
中でも、息子が生番組で暴れまくった新聞記事のコピーを近所に配って歩いた、という、中島の父親役の塩見さんが、一番ぐっと来たなあ。このエピソードは、この父親が、表面上は冷たい反応をしながらも、実は息子を心から応援しているのが判って、本当に、ぐっときてしまった。

もちろん、これはバンド、そして音楽が好きな男の子たちの、そこからの視点の物語ではある。自分の好きなもので食べていくことの難しさ、売れることの難しさ、信念を持ち続けることの難しさ。
でも私は男の子ではないし、常にファンの立場でこういう人たちを見続けていたから、ファンの側の視点で見てしまう。
ファン、って何だろう?って
劇中、主人公の崇めるボブ・ディランが彼に伝える言葉。「誰にも知られないって、どういう気持ちだい?」と。つまり、売れる、売れないの線引きがされて、どんどん卑屈になっていく彼に問い掛けられた言葉。
それは一見して、誰にも知られない、ということが否定的にとらえられるのだけれど、その時には確かに中島はしおれているんだけれど、でも、違う、違うのだ。
こんな言葉も発せられる。「今の一位はビリっかすになる」この場合の1位、というのは、知られていた、ということだ。過去形の。
本当、たった一年で、過去形にされてしまう時代なのだ。たった一年で“懐かしい”などと言われてしまう、寂しい時代。
でも、知られる、知られないなんて、どうだっていい。
だって、伝わっていなければ、何にもならないもの。
知られることより、伝わること、愛されることの方が難しい。それこそ、あの時代は誰でもデビューできるような時代だった。知られることは、そう難しいことではなかった。
でも、「あの人は今」みたいな番組に出させられ、「あの頃、結構好きだったんだよな」なんて無責任なことを言う、その“好き”は、結局はただ知っていた、のレヴェル。知ることも、難しいことではなかったのだ。

中島の彼女が言う。「君が君でいる限り、私は君のことが好きだよ」と。そういう意味で、私は一番のファンだと彼女は言うのだ。
彼女はファンとしての、理想的な到達点。中島の中で音楽をやる自分としてのそれが見えずに苦悩していた時から、もう彼女はそのレヴェルに到達していた。
だからこそ、中島もまた、踏みとどまれたんだと思う。
それは、二曲目の披露がウケなかった、あのライヴハウスの場面に重なる。「変わらないって、言ったのに」とクサすファンの子達。変わってなんかいない、彼らは。「自分のやりたい音楽をやる」という部分で、変わっていないんだよ。
その曲のファン、あるいはブームのファンが、そのバンドのファンになるかどうかの分かれ目がそこにはあった。 本物のファンであるということも、だから誇れることだと私は思う。伝えようとしているものを受け取り、愛することが出来る、そんなファンになりたいと思う。彼女のように。

その彼女の描写はでも、すこうし理想的に過ぎるのだけれど……冷静で、知的で、彼氏のほうが憧れてしまうような、甘えてしまうような、そんな母性を持った彼女。こういうの、いかにも麻生久美子な感じ。彼女がそれほどまでに彼のことが好き、というのが、きっかけといい、その気持ち自体といい、正直こちらに伝わってくるとは思いにくい。
でもそれは、あくまでそれが彼氏、中島の側から見ているから、そう見えるということなんだろうとも思うけれども。
女の側からしてみれば、そんな風に神聖視されるのはちょっと寂しいような気もしてる。

君、と言い合う二人。そして最後にディランに対して歌われる「アイデン&ティティ」の物語。なんだかとても哲学的な関係。中島のプロポーズの言葉に対する彼女の返事など、ホント哲学的だけれど、それはちょっと忘れてしまうぐらい、結局はどうでもいいことなのかも。それは気持ちを、あるいは情熱を隠すためのもののような気さえ、してる。でも確かなことは、中島と彼女は、「アイデン&ティティ」であり、自分を見つけ出すために、必要な相手同士だということ。
彼女がいなければ何にも出来ないと言い、でも不安からファンの子と寝てしまう中島。彼がファンとのセックスの後にもらす「スミマセン」は彼女に対して言っていたんだね。彼と寝るファンの子にしてみれば、ホント、いい迷惑。セックスした後にスミマセン、なんて言われるなんて、こんな哀しいことって、ないもの。そりゃこういう類のファンも愚かだとは思うけれど……。

彼の首筋にキスマークを見つけ、本当に傷ついているのに、ただ「帰って」としか言えない彼女。クールさの影の、寂しさ、切なさ。
彼女は確かに中島が言うように「凄い女性」なのだけれど、それを望まれ、そして浮気をしてしまった彼女が本当に彼のことが好きなんだと判った、と告白しつつも、それにショックを受けた彼から涙ながらに罵倒される場面は、この気持ちが判ってもらえない寂しさに、彼女が冷静であればあるだけそんな風に思えて、苦しかった。
「凄い」って、男が女を可愛いとか、守ってあげたいとか、そういういわゆる普遍的な恋愛からかけ離れている関係で、素敵だとは思う反面、どっちにしたって判ってもらえてないな、と思う気持ちの方が大きかったものだから……。
でもこれって、やっぱり彼女が、彼女の方こそが、彼のファン、であるっていう描写なんだな、なんて思う。
彼女は彼のファンだから、自分の気持ちが判ってもらえなくったって、そしてどこにいたって、ずっとつながり、愛し続けることが出来る。
「親友とか、そういうレヴェルも私たちは超えた」と、中島との信頼関係をそう説明し、遠い外国へ留学に旅立つ彼女。恋人という立場に置き換えながらも、ここには理想のファン像が描かれているのだ。

SPEED WAYの“今”が語られる。彼らはスターにはならなかったからお金持ちになったり華々しく活躍などはしていないけれども、ずっとずっと変わらずに、自分たちの音楽を続けている。
小さなライヴハウス。観客との距離は本当にすぐそこ。ささやかな空間を一緒に過ごす。その一人一人全てに、自分たちの音楽がパーフェクトに伝わっていると、満たされていると実感できる、幸福。
かつて続々とバンドやミュージシャンがデビューした80年代。劇中で描かれているように、続々と解散して、その中の目立った一人だけが残ったりし、何事もなかったかのように時は過ぎていった。あの頃名前を聞いた人たちはどうしているのかな……と思うけれど、結構地道にやっている人がいっぱいいる。こんな風に、最後に残った本物のファンに支えられて。
ミュージシャン自身もそうだと思うけれど、そんな風に“最後に残った本物のファン”になれるということこそが、ファンとしての最高の幸せだって、思う。
ハヤリの音楽を“知っている”ことより、何十倍も、何百倍も。

だってそれが、一緒に生きているということだから。★★★☆☆


青い車
2004年 90分 日本 カラー
監督:奥原浩志 脚本:奥原浩志 向井康介
撮影: 音楽:曽我部恵一
出演:ARATA 宮崎あおい 麻生久美子 田口トモロヲ 水橋研二 太田千晶 佐藤智幸

2004/12/7/火 劇場(渋谷シネ・アミューズ)
「タイムレス メロディ」があまりにあまりだったから……長回し拒絶症なんですもん、私。だから二作目の「波」はパスしてて……でもこれは原作ものだというし、あおい嬢だし観なきゃとは思いつつ内心ちょっと……であった。だって、インタビューに答えていたあおい嬢が、やっぱりかなり長くフィルムをまわしている撮影だったと言っていたから。ああまた恐怖の長回しなんだわ、と思っていたら。
違った……。
割と、カッティングしてる。長回しじゃないと割とフツーの映画っぽい印象だな……などと思ってしまうのは私もずいぶんと勝手な言い草だけど。でも、ああ、良かった。地獄の長回しからは解放された……でも。
やっぱり、確かに、あおい嬢の言うとおり、これかなり長く回してるんだろうなっていうのは、すごく感じられる。長く回して切っている。その効果がとても出てる。それは例えば、長回しを長回しのままズルズルベッタリと供出して観ててすっごく疲労しちゃう(ゴメン!)河瀬作品なんかを思い浮かべるとね、そう思うわけ。

それは役者の表情、流れのある、繊細な表情からそう思う。特に女の子たち、あおい嬢、麻生久美子の表情を素晴らしくすくい上げてる。それはその中でキャラを生きるという自信がある役者さんじゃなきゃ、やっぱり出来ないよね。瞬発力より持久力。スクリーンにはどちらも必要だとは思うけれど、この場合は後者で、多分それは、スクリーンで勝負し続けている役者さんじゃないとできないことなんだ。
そう、麻生久美子、私、彼女はこれまでは作品のせいか、なあんかぼんやりした印象だったんだけど、今回はその手法が合っていたんだろう。とてもいい。彼女の役は原作では存在はしてても登場はしていないんだけど(つまりもう最初から死んでしまっているという設定)、彼女の役こそがキーポイントになっているし、そしてこれはちょっと意外かもしれないんだけど、彼女の役がもっとも複雑なものではないかと思われ、それがその表情の流れにとても感じられたから……それは多分、あおい嬢よりも彼女の方に私の年が近いから、シンクロした部分もあるんだろうと思うけど。

たった24Pのコミックスの映画化なんだものね。これは理想的。傑作短篇、中篇コミックスがもっともっと映画化されるべきだと思ってるから。映画には最適だもの。長編はただただ切らなきゃいけないけど、短篇、中篇なら作家として膨らませる部分が許されているし。それにしても原作との相違は気になる。特に、原作ではもう死んでしまっているこの姉、アケミの存在があるから気になる。
なぜ、アケミが最も複雑な役柄のように思えたのかっていうのは、この映画でのアケミは妹がとても大好き、って感じだったから。いつでも何かとちょっかい出して、社会人だからおごってあげようとかして。まさか自分の彼を寝取られるとは思ってなかっただろうけれど……。
何ていうのかな……お姉ちゃん、なんだけど、かすかにそうなりきれない愛らしさのようなものが見え隠れしているのだ、このアケミには。社会人で、大人のように見えて、まだ家族と同居してて、妹にまとわりついたりして。あるいは彼氏に対しても子供っぽい、とたしなめたりするのは逆に、そういう立場に立っていたい、という彼女のある意味での子供っぽさを感じたりもするんだよね。

妹から、自分の恋人との関係を打ち明けられた時、表面上はまるで取り乱さないアケミ。それどころか、温泉に誘ったりする。そりゃ、その場は取り乱さなくても、その後はなーんとなく気まずい雰囲気にはなったけど、でも何か、そこまで深刻なものは不思議と感じさせないのだ。
おそらく、なんだけど、原作ではもうすでに死んでしまっている設定のこのアケミ、彼女が妹からの告白にどうリアクションし、事故当時どういう心理状態にあったかっていうのは、映画でその表現が挑戦された、わけだよね、多分。

そう、なーんとなく気まずい雰囲気にはなったし、その翌日、出張に出かける姉の気配を、眠れずに過ごした夜から明けた朝でまんじりともせずに迎えた妹のこのみの方は、かなり心がざわめいていたとは思うんだけど……姉のアケミは、少なくとも表面上はいつものようにさっそうと出かけたし(ここでは複雑な表情を追いかけたりはしなかった。それは確実に。)そして事故を起こした時は会社と携帯で連絡をとりながら運転していたわけで、明らかに彼女の不注意、という描写になっている。
このみが、秘密の告白をした翌日の出来事だったから、このみが気にしないわけはない。それでも彼女は「私のせいだなんて思ってない」とリチオに言う。ある意味、わざわざ言う。気にしているから、言うに決まってる。
このみは当然、事故の状況なんか知るよしもないし、このあたりの対比というか対照がだから……実に微妙なものを感じるのだけれど。
だって、そう、多分、お姉ちゃんアケミは、妹このみが大好きだった。
お姉ちゃんらしさを発揮したい、とでもいうように、このみを何かとイベントに誘ったり温泉に誘ったり、でもこのみの方はというと、いつでも、「いいよ(OKではなくてね)」と気乗りしない風に断わる。何かここにはいつでも、姉と妹の温度差が、あったのだ。
案外、このお姉ちゃん……妹に対する親愛の情より、彼氏に対する愛情が勝っているというわけではなかったんじゃないかって気もするのだ。
そういう感じで……アケミというキャラがもっとも複雑であるように、私は感じていた。

このみはというと、このアケミよりずっとネガでずっと大人びている。
でも、やっぱり少女で、女子高生で、あいまいさが生み出す向こう見ずな危うさがある。
宮崎あおい、なんだよなあ……このあたりは。別にそんな出してるわけじゃないんだけど、宮崎あおいという女の子は、この年頃のリアルな生理を感じさせる。それはそう、しっかり出してるジョゼ虎のちーちゃんと比べて彼女はハッキリとネガで……ジョゼ虎は切なくても不思議と色合いは明るかったんだけど、本作はこの宮崎あおい、の少女としてのネガが、晴れているのに追いつめられるような雲行きをかもし出してる。彼女は空気をさえ、変えてしまう。
意味のない予備校。将来へのあいまいさ。姉の恋人への思い。そして……過ち。
彼女がCDを試聴しているリチオに声をかけて、で……一緒にご飯を食べて、で……話の流れから部屋に遊びに行って、で……あまりにも自然な流れに、ついつい見過ごしてしまうけど、彼女が最初から常に、そうなるよう、そうなるようしかけているんじゃないかって、思ってしまう。相手にそう言いださせるようにゆっくりと仕向けて。
このみは、最初からこのリチオが好きだったの?
いつもいつもサングラスをしているリチオ、それは彼の右目に、小さな頃ついた生々しいキズがあるから。
外した彼の素顔を見て「かけないほうがいい」そう言うこのみに、突然、キスするリチオ。

姉が死ぬ。そして、海へと花束を投げに行こう、とこのみはリチオに言い、リチオの青い車に乗って出かける。その途中、このみはリチオに声をかける。「ねぇ、セックスしよ」
車で立ち寄る、なんだか寂しいラブホテル。重なる二人の足。
「まだ、痛い?」そう、このみに聞くリチオ。
「うん……だけど感じるよ」だなんて、宮崎あおいが言うと、ヤバいくらいに生々しい。
そっか……やっぱり、このみはリチオが最初の男、だったのか。最初の男に、よりにもよって姉の恋人を選んでしまうなんて。少女って、……時にまっすぐすぎて、怖い。
それにしても、なぜこんなに陰の生々しさを感じるのだろう、彼女には。普通、ちっちゃな頃から活動してると、そういうイメージから抜け出しにくいものだけど、思えばあおい嬢はその最初っからヒミツの性を感じさせていたんだもんね。
こんなにベビーフェイスなのに!!
でも、ホントは、「パコダテ人」のあおい嬢が一番好きだったりするんだけど。いや、別によーちゃんが共演してるからって訳じゃなくて(汗)実に、あの作品だけが唯一、彼女が百パーセントポップで明るい可愛らしさ、だったから。
まあ……それだけ、日本映画のほとんどがネガの方に傾いているってことなんだろうけど。

主人公は、リチオってことになるのかな。それにしても毎回印象がガラリと変わるARATA。誤解を恐れずに言えば、彼にはARATAだ、という印象がないから。今回は特に髪を銀色に近い金髪に染めちゃったりして、そしてとりつくしまがなくて……。
声だけは、ああARATAだって、思う。彼の声はいつでも、スクリーンをしんしんと震わせる。
リチオの本心はホント、見えなくて。でも、だからといって彼の中に強固な意志があるとか、そういうのをちらつかせるというわけでもない、悩んでいるというわけでもないし、焦っているというわけでもない……ただ、不思議に常識的なこと、譲れないコダワリは身につけている。こういう部分、かすかなんだけど、これを多分今の世では見逃しがちだから、ただ、どうにも理解できない若者、と片付けてしまうんだろうなと思う。
彼を雇っている中古レコード屋の店長は、彼のそういう部分が判っている数少ない大人、なんだろうと思う。
でもこの店長さん、離婚したばかりで色々とタイヘンでキュウキュウで、このレコード屋はリチオに任せて自分はラーメン屋を始めようとするわけね。そのことを知ったリチオは「俺、今日で辞めます」と、出て行ってしまう。このあたり……実に象徴的。
別にやる気もなく、世の中に合わせてテキトーにやっているように見えて、それとは正反対なんだということ、確かにいきなりのその言動は“今時の若者”として片付けてしまいがちだけど、よく見てみると、本当に今時の若者なら、そんな他人のことなんかどーでもいい、ってなるはずなわけで。
そして次のシーンでは店長はラーメン屋は断念してて、リチオにいまだに根に持ち気味にからかわれたりしてて(笑)。

リチオには自殺の妄想がある。いや、その前に、自分が事故にあった小さな頃のトラウマ的映像がずっと、まとわりついている。自分だけが生き残ってしまった。それはきっと正解じゃなかった……そんな風にも思える、繰り返し繰り返し現われる、寒々しい映像。
このキャメラは全編に渡って実に寒々しい色をしているんだけれど、リチオの妄想やトラウマにはそれを顕著に感じる。青く曇った、荒涼とした中、立ち枯れた寂しい木に、首吊りでぶらさがっている自分。それを見上げている自分、そして果てには……アケミとこのみと店長が、そのぶらさがった自分を見上げて、可笑しくてたまらない、とでもいったように、いつまでもいつまでも笑い続けているのだ。
一体、リチオは、この、一番身近にいた三人にさえ、ちっとも心を開いていなかったということなのか。
それとも、心を開きたくて仕方がないのに、同時にそれが怖くて仕方なかったのか。

妄想の中で、彼が可愛がっている、ミッキーという名のアヒル。このアヒルもまた、死んでしまう。お前が殺したのだと、小学生の同級生(でもそう言われているリチオは既に大人の姿なのに)や先生たちから言われて、この哀しいアヒルの死骸を横抱きにしてリチオは逃げ出す。
自分が生き残ったことが、間違いだったんじゃないか。
原作コミックスは、あの阪神大震災の衝撃を引きずっているんだという。このあまりに理不尽な気分は、あの悲惨な出来事から生まれでたものであるに違いないけれど、でも、ならば、そこから切り離され、今の空虚な時代にぽつんとこの気分だけが取り残されているのだとしたら、それはあまりにもあまりにも……救いがないではないか。

もし神様がいたら、私たちをどう見ているのかな、そんな言葉に、リチオは即座に言う。「そんなやつ、いないんだよ」
神様なんていたら、自分を生き残らせはしなかった、そう思ったのかもしれない。
リチオはこのみを抱きしめる。俺が守ってやる、と。
そうすることで、この気分から逃れられるかもしれない、とでもいうように。
でも、またしても、自分が生き残ってしまった。アケミは死んでしまった。
このみはきっと、生き残る価値がある女の子だ。その子をこの自分が守っていけるのか。
リチオがこのみを抱きしめる、それがなんだか頼りなげに見えるのは、そんな風にリチオを感じてしまうからなのかな……。
このみは、青い車の中、一筋の涙を流す。これが、ラストカット。
二人の抱擁ではなく、これがラストカット……。

これは本当に、原作が読みたい。たった24Pに、映画がどこまで勝負できていたのかを、知りたい。★★★☆☆


味見したい人妻たち
2003年 60分 日本 カラー
監督:城定秀夫 脚本:城定秀夫
撮影:長谷川卓也 音楽:タルイタカヨシ
出演:Kaori 橘瑠璃 佐倉麻美 白土勝功 田嶋謙一 サーモン鮭山 飯島大介

2004/4/18/日 劇場(池袋新文芸座/第十六回ピンク大賞AN)
今回の2003年度ピンクベスト5の上映のなかで、私は三位の本作が一番好きだった。先に上映された一位二位の作品が、いわばピンク映画でなくても成立しそうな題材であるのと比べて、本作はピンクでなければ成立し得ないという構成要素もいい。つまりは、ヒロインは昼も夜も飽かずセックスしている。でもそれが、セックスとしてきちんと意味をなしていて、しかも切なく、美しい。それが凄いと思った。もと美術教師である新婚ほやほやのこのヒロインは、幼さの残るファニーフェイスが出始めのスー・チーを思わせるような初々しい可愛らしさ。膝丈のフレアースカートが良く似合う清楚なミセスだ。豊かな黒髪が印象的で、それがセックスの時には実にドラマティックに、ロマンティックにつやつやと振り乱される。この長い髪をかきわけかきわけ、彼女のその可憐な唇まで到達するのが、ちょっとしたスリリングな迷路のようにさえ、思わせる。

彼女は自分にベタ惚れのご主人と、ラブラブである。その出張中に元教え子と出会う。大めのやわらかな髪をうっとうしそうにしているこの男の子はいかにも美青年。久しぶりにのぞいた美術教室で、彼が同級生の女の子とセックスしているのを、彼女は見てしまう。

この男の子、白土雅功のやわらかな存在感の、なんて素敵なこと!「どすけべ姉ちゃん」で見ていた彼だけれど、こんなに素敵な男の子だったかしらん、とびっくりする。男優賞をとった彼は、フレッシュマンのような三つボタンを生真面目に着て、その日壇上に上がっていた。“アカデミー賞受賞みたいな(関係者各位に感謝する)”とからかわれるようなスピーチを緊張気味にしていた彼は、本当に可愛くて好青年だった。もう20代後半に差し掛かっているはずでも、高校生をやってまるで違和感がない。それどころか、高校生、若さ特有の独特の無防備な色気があって、こりゃ劇中の設定じゃなくても年上キラーだなと思わせる。Tシャツの上に学生のワイシャツをだらしなく着たまま、カラむシーンは、久々……女優ではなく彼の方に目が行ってしまう。まるで少女漫画にちょっとだけコッソリ登場するセックスシーンのようにロマンティックなのだもの。

ダンナのいない家に招きいれたこの少年と彼女が、隣に座ってコーヒーをすする画から、何だかもう尋常じゃない。だって普通、向かい合わせに座るもんじゃない?まるで画の都合で画面の向こう側に全員押しやってしまうホームドラマのように見せながら、この少年の肩に触れるか触れないかの距離で、テーブルの下でうずく彼女の隠微なエロティック。でもそのエロティックさえもやはり可憐。この幼顔はクセものだ。
台所の床に押し倒されてのセックスは、テーブルの上のものをガチャガチャと落としまくる激しいものだった。それは若さと同時に、その脆さも……その先のそれをも感じさせた。

彼女はこの美少年を押入れに飼う。「美少年を押入れに飼う」!もうそれだけで胸がときめく。彼女はダンナとのセックスを押入れからこの美少年にのぞかせる。そのことで興奮し、彼女曰く「初めてイっちゃった」と果てる。ピストン運動に揺れながら押入れの隙間に目をやる彼女の恍惚とした顔が……たまらない。
そしてダンナを会社に送り出してからは、「私のセックス、見てた?」とこの少年に迫って、セックスである。ベビーフェイスの彼女と少年は、まるで姉弟のようである。絡む様子も何か……初々しい。

押入れとは、実に隠微な空間である。日本的な……陰であり、淫である。湿っている感じも、双方を感じさせる。何かが出てきそうな感じの、その何かは、エロの象徴に感じてしまう。
その中に、美少年が飼われていると思っただけで実に刺激的だ。女の永遠の夢ではないだろうか?と思うほど。
彼女は妊娠する。同時期にダンナと少年、ほぼ公平にセックスしていた。それを告げられた少年は言う。「何それ。俺の子供ってこと?」「ダンナのに決まってるじゃない」「どうして判るの」「女だもの」……最初こそ、どこか突き放すように言ったものの、彼は傷ついたんだろうと思う。彼女が、自分の方をこそひいきにしていると思っていたから。「……俺、帰るよ」と立ち上がりかけた彼を彼女はムリヤリ押し倒す。「ダメ!」と……そして彼の首をしめながら彼女上位のセックスを繰り広げる。まるで夢のように。

呆然とあおむけに横たわる二人のショットのあと、彼女が少年をズルズルと押入れに押し込めて、またとろとろと夕闇溶け込む畳の上でまどろんでいると、ダンナが帰ってくる。「お前、そんな格好で何してるんだよ」と……。ふと押入れに目をやると、戸が開けっ放しのそこには、少年の着ていた青いシャツがきちんとたたんで置かれている。
彼女のお腹が大きくなるだけの期間がたったある時、彼女がかつて少年を飼っていた押入れをのぞく。その壁にはこっそりと彼女の似顔絵がスケッチされている。彼女が美術教師だった時、彼が彼女のヌードを想像してスケッチをしていたシーンがあった。しかしここでは顔だけが、でもとってもチャーミングに、ニッコリと描かれている。彼女は思わず微笑む。そして……カットアウト。

これがデビューであるという27歳の新人監督、城定氏はどこか決まり悪そうにテレて、恥ずかしくて一度も見返してないと言っていたけれど、それも判るような文学青年の青臭さのようなものも、たとえようもなくリリカルだった。
窓越しにのぞき見る、隣のアパートの受験生(浪人生?)とその恋人のカップル。パンツ丸出しのこの女の子の方がいつもいつも練習している「トルコ行進曲」はヘタクソで、でも何かをかきたてられる。このカップルのセックスはあまりにもベタで滑稽で、それを彼女と少年は音声オフで見ている。それにおバカなアテレコをつけて笑いあう二人。あるいは一人でその遊びに興じる少年を見ながら、一方でぶどうをつまんでいる彼女。

少年の片耳が聞こえないというのは、彼自身が戯れで「障害者をからかうなよ」などと言ったりする部分に、ペシミスティックなロマンティシズムを感じるし、ワザとその耳にナイショ話をする彼女も同様のそれを感じる。あるいはこの作品のクライマックスであるハチミツ・プレイ(納豆のように糸が引く!)でさえ、何だかリリックなものを感じるのだ。そもそも……彼女の心情を女の子っぽい字体で(彼女自身と思われる字で)書き文字にし、折々挿入する手法がそれを決定づけている。お願い、気づかないで……、とか、ダメ、ダメ……と心の中で唱えながらも少年に押し切られてしまう甘やかなセクシャリズム。「コレを飲んだら帰りなさいよ」「コレを食べたら帰りなさいよ」と小さく何度も練習して、冷静さを保とうとするあたりのもどかしさも何とも言えずいいのだ。

それにしても本当に、白土雅功は素敵だった。佐藤幹雄の時とはまた違った、純粋なトキメキを感じちゃう!★★★★★


アドルフの画集MAX
2002年 108分 ハンガリー=カナダ=イギリス カラー
監督:メノ・メイエス 脚本:メノ・メイエス
撮影:ラホス・コルタイ 音楽:ダン・ジョーンズ
出演:ジョン・キューザック/ノア・テイラー/リーリー・ソビエスキー/モリー・パーカー/ウルリク・トムセン/ダヴィッド・ホロヴィッチ/ジャネット・サズマン/アンドラス・ストール/ジョン・グリロ/アンナ・ナイ/クリスツィアン・コロヴラトニク

2004/2/17/火 劇場(新宿テアトルタイムズスクエア)
ヒトラーが画家を目指していた、というのが良く知られた話だというのがえー?ホント?と思ったのだけれど……私は全然、知らなくて、えー、そうなんだ、とその時点で驚いたぐらいで……恥ずかしい話。画家を目指していたというほど大げさな話ではなく、絵を描いていた、ぐらいのことだったみたいなんだけれど、どっちにしろ、ヒトラーは表現する人、だったのだ。それは意外、というよりはちょっとしたショックだった。なぜ、ショックを受けるんだろうというのも……表現する人、がイコール善人というわけではないのに。

私はでも、基本的に性善説を信じたいと思っていて、それでもヒトラーはイコール悪人、と即思っていたことにも気づかされた。というより、そういう刷り込み教育を受けていた、と思った。そりゃヒトラーが善人だというつもりはないけれど、彼が人間だということを忘れていた、というか、思いもしなかったのだ。そう、まさに、そういう教育を受けていた。
ヒトラーだって、人間だったのだ。
彼のことを、突然現われた悪魔だとか怪物だとかと断じてしまえば、そりゃ話はカンタンだ。あれは特別なのだと、例外なのだと、歴史に名前を書きつつも排除してしまえばいいのだから。でも彼だって出身地があり、親兄弟のいた人間だったのだ。
そして、芸術に造詣の深い、表現する人だった。
なるほど、ヒトラーはある意味、天才だったと言ってもいいのかもしれない。その弁舌で人々を動かすことのできた、天才。弁舌も表現、パフォーマンスという意味で確かにそうかもしれない。

芸術というカテゴリの中の表現という作業に行き詰まりを感じていた、劇中の若きアドルフは演説に熱中する。それは政治と芸術の融合なのだと。新しい芸術の誕生なのだと。
第一次大戦が終わり、厭世的なムードの中で、前衛芸術がその表現を模索して躍動していた時代に、アドルフがその“新しい芸術の発見”に狂喜した気持ち、判るような気がするのだ。
勿論それが、どこまで真実なのかは判らない。あくまでこれは映画、これはフィクション。
でも、あの忌まわしい戦争の、そして歴史の汚点を、たった一人の人間の責任だけにするのは、確かにおかしいような気がする。
彼一人が、そんなにもカリスマ的力を発揮できたのだろうか?
時代は、そして歴史は確かにこんな風に一人の指導者に歴史の全てをゆだねることが多いけれども、その指導者がその決断にいたるのは、本当に彼一人だけの考えだったのだろうか?

若き日のアドルフはむしろ、親ユダヤだったのだという。愛が憎悪に変わるのはよくあることとはいえ……そこまで極端に変わるものなのだろうかとも、正直、感じる。
そりゃ、一人、象徴的な悪人がいれば、簡単な話だ。その人にだけ、問題を丸投げすればいい。その時点でヒトラーには家族もいなかった。格好のスケープゴート。
そう、この映画のその部分が少しでも真実に近いものがあるなら、ヒトラーはスケープゴートに過ぎなかったのかもしれない、などと思う。たった一本の映画でそんなことを思うのは危険なのだろうけれど……少なくとも最初のうちは。
芸術としての演説に熱中した若きアドルフ。それを見抜いて彼をスケープゴートに仕立て上げた人々。
彼が本当に芸術家だったのなら、のめり込んだのだろう。疑いもせず、無限に。それがあの結果を招いたのだとしたら。
何かを純粋に信じたり、信奉したりすることが、出来なくなってしまいそう……怖くて。

でもこんな考え方が出てくるのは、本当につい最近だ。それまでは思いつきもしなかった。あるいは思いついた人がいたかもしれないけれども、そんなことを言い出せる雰囲気の時代じゃなかった。
まあ……少しは時代や世界も成熟したのかな、と思う。こういう考えを言い出せるだけの余裕が持てたのかなと。

この映画の主人公は、実は彼ではなく、原題のタイトルロールともなっている、戦争で片腕をなくした画商、マックスである。演じるのはこの映画制作に情熱を注いだジョン・キューザック。
なるほど、この映画を作ること、作らなければならないと動くことは素晴らしいことだけれど、主人公がこのマックスであるということが、どこか焦点がボヤけて中途半端になっている印象がある。
そりゃ、これだけ歴史上の人物として強烈な男を描くのに、主人公に据えて真正面から描くのは難しい部分もあるのだろうけれど、それならそれで、マックスは語り部程度にすれば良かったのに……などと思う。だって、ヒトラーをワキにして、マックスの物語が確かに主人公、ってな具合でキッチリ描かれてしまうのだもの。
片腕を無くしたことで、もう国の力にはなれない男であるマックスが、半ばヤケになってどこか中途半端な前衛芸術で厭世気分を謳歌するのは……まあ判るし見ごたえもそれなりにあるんだけれども、主人公とはいえ、何せヒトラーがワキにいるもんだから、それもまたなんだか中途半端なのだ。
マックスの物語は、それはそれとして集中して一本の映画になりうる素材なだけに、どうも集中力をそがれる。
実在の人物というわけではなく、当時アドルフの周囲にいた人物何人かをモデルにしているということなんだけれど、それはアドルフ一人の強烈さにかなわないのだ。

美しいバレリーナで社交界の花であるマックスの妻にモリー・パーカー、才能ある現代美術家である愛人にリーリー・ソビエスキー。魅力的な女性キャスト、特に後者のリーリー・ソビエスキーの、厭世的な気分を全身にまとわせる小悪魔ぶりは、まさに愛人、のエロティシズムがパーフェクトで何とも魅力的だった。あるいは、こうした女性キャストに彼が殺されたか。
いや、というよりも、アドルフを演じるノア・テイラーに負けてるのだ。この映画の脚本にホレこんでノーギャラで出たというキューザックだけれど、こうまでテイラーに負けてしまっては……ノーギャラも報われない。ノア・テイラーはまさに鬼気迫るという表現がピタリとくる。迷いさまよっていた若き日のヒトラーがそこにいるのだ。小男で、描く絵も平凡なんだけれど、彼自身のギリギリの、せっぱつまった迫力に気圧されてしまう。マックスはアドルフの描く絵を、即買いはしないもののそれなりに評価するんだけれど、それは絵ではなく、アドルフ自身に威圧されたに違いない。
アドルフ自身の、ある意味マジメな性格からくるのか、絵自体は教科書どおりの平凡なものだった。ただ、アドルフは表現したいという自らの中からつき上がる衝動をどこかにぶつけたがっていて、そのぶつけどころが自分の知っている範囲では教科書どおりの絵の中にしかなくて、そんな葛藤のエネルギーが全身に現われていたのだ。 ほつれたダークブラウンの髪と、その下にギラつく大きな目。……凄い迫力。
こりゃ、アドルフを完全な主役にしたら、かえって危険だったかもしれない。それぐらい、凄いものがあった。

ヒトラーが“発明”したという、“映像をコントロールするものが、政治力を持つ”というのは、まさに悪魔的なぐらい、先見の明があった。もちろんその前身にあの演説があり、そして映像もまた、芸術との融合と言えるものなのだ。演説も、そして映像も、今の世に、今の政治に受け継がれている。あれだけ、ヒトラーを悪人として排除しているにもかかわらず、彼が生み出したものを、有効としてきっちりと、継承しているのだ。しかも、芸術なんてことを何も考えずに。今の世は、進歩しているのか?本当に?

才能のなさを感じて、その方向に行くのをあきらめること、そしてあらたに拓けた道を信じて歩み出してみること……それはあまりにも私たちに、普通に思い当たるシチュエイションなのだ。
私たちにだって、ヒトラーになってしまう可能性はある。そして、あの時のアドルフが悪名高きヒトラーにならなかった可能性も、あった。

それにしても、これが英語劇なのは、いくらなんでもヒドいと思う。★★★☆☆


ある日、突然TAN DE REPENTE
2002年 93分 アルゼンチン モノクロ
監督:ディエゴ・レルマン 脚本:ディエゴ・レルマン/マリア・メイラ
撮影:ルシアノ・シト/ディエゴ・デル・ピアノ 音楽:フアン・イグナシオ・ブイスカイロル
出演:タチアナ・サフィル/カルラ・クレスポ/ベロニカ・ハサン/ベアトリス・ティボーディン/マリア・メルリノ/マルコス・フェランテ/アナ・マリア・マルティネス/ササナ・パンピン/ルイス・エレーラ

2004/8/24/火 劇場(渋谷シネ・アミューズ/レイト)
人生を変える出来事は、いつだって“ある日、突然”やってくるものなのかもしれない。このサエない女の子、マルシアにとって、本当にそれは突然やってきた。二人の女の子との出会い。出会い?半ば誘拐に近いような旅へと連れて行かれ、愛とセックスは違うと口説かれて女の子とセックスし、そして……何かが、いやもしかしたら全てが変わって元の場所へと戻ってゆく。

この間は、どれくらいだろう。たった一日のような気もするし、2、3日のような気もするし、ひょっとしてひょっとしたら、一ヶ月ぐらいたったような気もする。
マルシアはいつも戸惑い困り果てた表情を見せるけれども、ひょっとしたら待っていたのかもしれない。こんな風に“ある日、突然”何かが変わるのを。冒頭、彼女は地下鉄の通路を歩いている。人っ子一人いない。と思ったら彼女の後ろから男性が歩いてくる。つけられているのかもしれない……と振り向いて、恐怖におののいたように走り出す。
でも、この男性はただ、後ろを歩いていただけかもしれない……可能性の方が大きい。
マルシアはこんな風に連れて行かれるのをきっと待っていた。心のどこかで。彼女が自分にコンプレックスを持っていることくらいひと目で判る。言っちゃ悪いけど……かなり醜く太った体を、より目立つような薄地のボトムで包み、お尻と太ももが結構ヤバい。後に女の子とのセックスシーンで下着姿になる彼女は……そのぱんつがめりこんでる……力士級である。しかもなんだかやけに老けて見える。オバサンみたいである。

マルシアを通りに見かけたマオは、つけてくる。曲がり角に来る。追いつめられて振り返るマルシア。突然告白される。「ひと目惚れ。あなたと寝たい」と。
マオと一緒にいるレーニン。パートナーではあるようだけれど、レズビアンのカップルというよりは、セフレでつるんでいるという感じである。二人ともかなりヤバい雰囲気。まず仕事なんて絶対してなさそうだし、ルールもマナーも人の迷惑もおかまいなし。常識人のマルシアの側で見ている私たち観客にとって、この二人は最初のうちマルシア同様、かなり、とっつきにくい。

でも、不思議な魅力がある。何だか似ている二人。姉妹のように。ベリーショートの髪型。細身のタイトスカートにショートブーツ。ラフなパーカーに手を突っ込んで歩いて。特にオシャレをしているというわけでもない、シンプルな格好なんだけど、マオのまぶたのピアスや、レーニンのくわえたばこなど、中性的なセンスが光る。
だからマルシアのダサさが際立つ。……なぜマオはこのマルシアが気に入ったのか。
実は、この点については最後までどうもよく判らないところがあるんだけど……確かにこの唐突さは、映画的なセンセーショナルは感じさせるけど、それ以上に説得力は正直持たないというか。マオは最後まで、純粋な意味で唯我独尊で、かなりつかみどころがなくって(つまりは、このキャラ自体がリアルじゃない感じ)、どこから来てどこへ行くのか、さっぱり見当がつかないのだ。

でも、このマオ、吸い込まれるような瞳をしている。少女漫画みたいに大きな瞳。ふちどる長いまつ毛。ボーイッシュながら、かなりの美人である。
マオがマルシアにひと目惚れした、と彼女を口説く。マルシアは自分はレズビアンじゃないから、と再三固持するのだけれど、マオは「私も違う」と言う。そして、好きな人でなければセックスは出来ないというマルシアに、「愛とセックスは違う」と言い放つ。
このマオの言っていること、思いっきり矛盾しているんだけれど、マルシアは冷静なこのマオに言いくるめられて主張を通せない。それは……マルシアが、今まででたった一度の恋愛に、破れたばかりだったから。

そう、だから、待っていたんだよね、きっと、マルシア。地下鉄の通路の、ヘンな男だっていいぐらいの気持ちで。
でも彼女だって常識人だから、仕事をほっぽり出すわけにはいかない。いや、そう思っていた。マオとレーニンが仕事してなくて、そのことに対して、この点でだけは優位に立てると思って、仕事を休むわけにはいかない、あなたたちみたいに仕事をしていない人には判らない、という言いっぷりでこの場を逃れようとする。
でも、ダメ。逃げられない。仕事なんて何なの、という態度で切り返されてしまう。返す言葉がないマルシアが、まるで自分を見ているみたいでキツい。そうだ、仕事に人生の転換期をかけるだけの価値があるのか。仕事が最大の言い訳だと思っていたのが、まるでみじめに思えて……。でもなぜ逃げられないのだろう。最初こそレーニンにナイフなぞ突きつけられて脅されていたような感はあったけど、その後はいくらだって、一人で帰れたのに。
マルシアはここに、人生の転換点を認めてしまったのだ。ここでウヤムヤにしたら、きっと人生は一生変わらないっていうような。だってきっと、自分はずっと待っていた。そのことに、気付いたから。

たどりついた先は、レーニンがかつて住んでいた街。彼女の親戚のおばあさんであるブランカが住んでいる。
このブランカに、ベロニカ、と呼ばれるレーニン。思いもかけぬ女の子らしい名前に思わず笑ってしまうマルシアに、レーニンは表情を変えず、「離婚した親がつけた名前よ」と言う。
今までは、マルシアに執着するマオについてくるという程度の、寡黙で、何を考えているのかマオ以上に判らないレーニンだったんだけれど、ここから俄然、レーニンの人となりが見えてくる。
それは、こんなパンクな女の子には意外すぎることばかり。このブランカというおばあさんやその友達の老女とスンナリと仲良く酒なぞ飲んでみたり。寡黙なのが逆に自然で、ワザとらしい愛想良しじゃなくって、本当に、「あなたが来てくれて良かった、ベロニカ」という感じの女の子なのだ。レーニンではなく、ベロニカ。

親が離婚してグレたとか、そういうのはありがちな方向性だと思うんだけれど、彼女の場合、例えそうでも、本質は変わってなくて、すんなり地からいい子なベロニカになれるし、それが彼女自身、なんだと思う。
レーニンはね、だからこの映画の中で一番変貌を遂げるし、一番、魅力的なのだ。
一方、相変わらずつかみどころのないマオは、この場所でついにマルシアを陥落する。というより……ずっと色目を使い続けてきた彼女に、マルシアが抗えなくなった形。だってマルシアは……誰かに愛されることに、飢えていたのだもの。
何も知らなかった頃は平気だったのに、一度愛された経験をすると、愛されることを渇望せずにはいられなくなる。
人間って、ヤッカイな生き物だ。
愛される、って言ってもそれは……カラダの、快感のそれでしかないのに。それを愛されたことだって変換してしまう。
人間って……ホント、ヤッカイな生き物なのだ。

過去のたった一度の恋愛にしがみついて、がんじがらめになっていたマルシア。一度寝たらマオも冷たくて、マルシアはレーニンに「私はフラれてばかり……」と泣く。
でも、マルシアも、マオも、セックスを愛に変換していたから、哀しいのかもしれない。マオは自分はレズビアンじゃないと言った。そしてマルシアと寝た後、冷たくなり、ブランカの家に寄宿しているカタブツ男の学生、フェリペに興味を持ち出した。……最終的にはこの地にフェリペとともに残る決断をする。
一方、マルシアは、自分は女の子と寝ることなんて出来ないとさえ思った。でもマオと寝て、“良かった”。だけどそれは……やっぱりセックスのそれでしかなかったのだ。愛じゃない。そのことにマルシアはなかなか気づかない。マオの方が先に気付いていた。気付いていながら、もう一度マルシアを求めて……さすがにマルシアも気付いて、マオを拒絶する。二度目の失恋。

でも、マルシアはマオに恋していたの?あるいは、その前の恋愛だって、本当に恋していたの?とにかく自分の身体にコンプレックスを持っているマルシア。マオに再三自分の服をとられて、いやおうなしに自分の醜い体に直面せざるを得なくなる。こんな自分でも、寝てくれる人なら、それが愛だと思いたかったんじゃないだろうか……。
レーニンはマルシアとは寝ていない。でも最終的に彼女とは気持ちを共有するし、二人寄り添ってブエノス・アイレスへと帰ってゆくのだ。
ブランカは、死んでしまった。まるでレーニン、いや、ベロニカが来るのを待っていたかのように、楽しげな時を過ごして、幸せそうに死んでしまった。そしてこの地に関係のなかったマオが残り、レーニンはマルシアとこの地を辞す。生きる土地が分かれた三人。
やはり、“ある日、突然”起こった出来事が、人生を、変えたのだ。

突然は、この三人の道行きだけじゃなくて、いろんなところに現われる。ヒッチハイク中に突然墜落してくるパラシュート男なんてその最たるもの。彼は「モニカ、モニカ……」とつぶやいて息絶えてしまう。こんな夜に、彼はなぜパラシュートで降りてきたのだろう。モニカというのは恋人なのか。
人生には、青春には、そして若者には、女の子には、男の子には……一瞬で変わってしまう“突然”があって、それが積み重なって人生が作られていく。次第に“突然”にも慣れてゆき、一瞬だったものが、だんだんと長い“突然” になってゆく。
なのに、若い時ほど、やけに判ったような顔をしたがるのはなぜだろう。きっと、その分傷ついてしまうのに。
ブランカはおばあさんだけど、“突然”が、“一瞬”が、積み重なったカッコよさがある。胸元の開いた衣装を着てセクシーに踊るアルゼンチンタンゴ、一服しないと寝られないというタバコ、そして、静かに迎える死でさえ。
こんな風に年をとり、こんな風に死を迎えられるなら、年をとり、“突然”に慣れるのも悪くないな、と思う。

夢のようなモノクロと、タイトルの“突然”に、トリュフォーの「突然炎のごとく」を思い出したりする。男は入ってないけど、三人組は同じだもの。いやいや、やはりここは言われているように、ジャームッシュか、特に「ストレンジャー・ザン・パラダイス」は思い出してしまう……だってあれもやっぱり、三人組だったじゃない?若い監督。若い監督らしい作品。起承転結や物語の波の運びなどを気にしないで、点景で進んでいく感じ。この作風がどんな風に熟成されていくのか、ちょっと興味がある。

何かが変わるのかもしれない。こんな風に、“ある日、突然”。
私も、今でも、それを待っているのだろうか?★★★☆☆


アンテナ
2003年 117分 日本 カラー
監督:熊切和嘉 脚本:宇治田隆史 熊切和嘉
撮影:柴主高秀 音楽:赤犬 松本章
出演:加瀬亮 小林明実 木崎大輔 小市慢太郎 寺島進 大森博 宇崎竜童 麻丘めぐみ

2004/1/22/木 劇場(渋谷シネ・アミューズ)
まったく、この人はどういう人なのよ!と思う。デビューからもう結構たったけれども、それでもこの監督の年齢を見るとまだ驚いてしまう。しかも作を重ねるごとに、どんどん腰をすえた演出になってくる。
今回はことに、他の原作によるものだからそれを余計に感じた。とかく内に内にこもりたがる現代の日本映画、それは若い人ほど意外にそうなんだけれど、だからこそ逆に、原作自体がそういうものを持っていると、そういう人には任せられない。自分の方にシンクロさせてしまう恐れもあるし、あるいはただただドロドロと暗いものになってしまう恐れもある。
この監督はきちんと、自分はフレームの外から見ている。中に入り込んで一緒にドロドロになるということがない。
それでいて、役者をそのドロドロに突き落とす。主演の加瀬亮が言っていたけれど、監督はそういう領域まで連れて行ってくれたんだという。でも監督自身はそこから引き返して役者の変貌をじっと見ている。全ての責任をまさしくその手中におさめて。
答えが出るテーマではない。家族の問題を、そこでひとつ区切りをつけても、それはずっと残り続け、終わらないものだ。その責任もまた監督は負っている。映画はここで終わらせた、その区切りの責任が。

同じ原作者の、前回の映画化作品「コンセント」と同様、現代を象徴するその電気的な信号を発する言葉は、同時に人間の最も生々しい部分をも示唆する。それは不思議なのだけれど、本当にそうなのだ。
「コンセント」の“穴”は女、だった。そしてアンテナの“屹立”は男。そんな風に、同じく性的なことをも思わせながらも、それよりも精神的なもの、あるいはもっと言ってしまえば呪術的なものさえ、感じる。
主人公の持つアンテナは、劇中で何度も繰り返されるマスターベーションそのものに起因しているのかもしれないと思う。この描写は凄い。マスターベーションのシーンというだけで役者にとっては(これは女性よりも男性の方が過酷かもしれない)厳しいことだろうに、それがカットなしに、しかも何度も何度も挿入されるのだから。
近頃躍進目覚しい俳優の一人であるという認識はしていたけれども、初めて加瀬亮のことを凄いと思う。もちろんその領域まで彼を連れて行った監督も。

小さい頃に失踪してしまった少女真利江。自分が生まれる前にそうしたことが起きた自分の姉をその身に宿らせる少年は、確かにこの年頃には双方共に両性具有のようなところがあるし、全身これアンテナになって、こういうミステリアスをもろにかぶってしまうことをリアルに思わせる。この祐弥はまつ毛ばしばしの美少年で、裸になって鉄塔に登るシーンなど、まさに全身アンテナを思わせる胸苦しいような美しさだ。でも、もはや大人になってしまった主人公、祐一郎はそれを自力で引き寄せるしかない。自傷行為と、女王様の“愛”によって、彼は泣きながら、血だらけになりながら、鼻水をたらしながら、“自ら”を屹立させ、その領域に入り込んでゆく。
忘れていた記憶、あるいは、あの時、妹がいなくなった時、激しく母親から責めたてられたことで引っ込んでしまった記憶だったのかもしれない。
いや、妹がなぜいなくなったのかは、判らない。ただ彼が思い出したのは、その妹が住み込みの青年にイタズラされていたことだ。
彼がその場面を目撃していながらも、その意味するところが判らず見逃してしまったのもキツいけれども、その当の妹自身もまた意味するところが判っていなかった、というのが、さらに辛すぎる。
真利江はこの青年が大好きだったに違いない。純粋に。
そしてこの青年も真利江が好きだったのであろう、欲望に沿って。
そして真利江はいなくなり、青年は自殺し、父親は病死し、全ての悲劇が終わったあと、弟の祐弥が生まれた。

母親がこの小さな命に真利江の生まれ変わりを見たのは、仕方のないことだったのかもしれない、確かに。
でも祐弥は男の子だし、いや何より違う人間なのだ。
でも、祐弥は家族が好きだから。その家族のために何とか役に立ちたい、と思う。そして真利江の身代わりを引き受けた。
あの忌まわしい少女監禁事件がキーワードになっている。9年間監禁状態になっていた少女のニュースが家族の傷を再燃させる。母親はあれは真利江だと言ってきかない。真利江が帰ってきたのだと。
あの悲劇以来、新興宗教にハマってしまったこの母親。息子、祐一郎の言葉は彼女に届かない。それを彼は予期していた。無責任な医者から“こんなことがあったんだから家に帰ったら”と言われて帰ったけれども、こんなことはもうずっと、妹がいなくなった時から続いていたのだ。
この母親、演じるのが麻丘めぐみだというのが驚きである。あの陽気で平和なイメージの彼女が、こんな壊れた母親を演るなんて。
あの事件があって、こんな風に、かすかな、そしてどこか痛ましい“希望”を持ってしまった家族はたくさんいるんだろうな、と思うと……何とも言えず、たまらない。
その時から、祐弥に異変が起こる。まるでとりつかれた様な状態になるこの小さな弟。真利江が帰ってきたと、叫ぶ。彼にはその“アンテナ”で判るのだという。

この時、帰ってきたという真利江は、一体なんだったんだろう。
勿論、物理的に帰ってきたわけではない。それでは霊的なものなのか。
そういうものでもないような気がする。母親の中にずっとずっと封じ込めていた真利江が、あの事件で一気に噴出した、それを祐弥が受け止めたというようなことなのか。
そう、あれでも彼女は必死に必死に封じ込めていたんだろうと思う。そうでなければ、本当に狂っていただろうから。
でも、あの真利江がいなくなったことが判った朝、祐一郎を半狂乱になって責めた彼女は、もはや真利江以外に子供が存在しなくなっていたのだ。その時点で真利江はもういないのに。仲の良かった兄、祐一郎も、その後生まれた祐弥も、子供として彼女に認識はされていたのだろうけれど……認識、程度だった。
祐一郎はいたたまれなくなって家を出、弟祐弥は母親の望みどおり、真利江として生きることを決意した。
なんて、哀しいのだろう……母親も、息子も。
ここには、真利江もいないし、祐弥も、祐一郎もいないのだ。誰も、いない。
祐弥と祐一郎を、この母親が殺してしまったのだ。そういうことなのだ。
責めることはとても出来ない。けれど……。

祐一郎は大学院で苦痛からいかに人が解放されるか、という研究を続けている。そして自らそうした精神的な苦痛に苦しんでいる彼は、物理的な苦痛=自傷行為で紛らわそうとしている。母親の目の中に存在していない彼……最も愛されるべき母親にとって存在していない、いやそれどころか罪の権化だとされている彼は、自分がここにいることを確かめるように、痛みを自分に科しているのか。
研究のために会いに行ったSMの女王様、ナオミは、それが甘えだと喝破する。そして彼を精神的にも肉体的にも痛めつけ、昇華させてゆく。彼からもれ出る彼女への欲望の妄想を彼女は受け止め、ギリギリのマスターベーションをさせることで彼から全ての苦しみと記憶をあぶり出してゆく。

真っ黒なロングヘアに、ちょっとドキッとするような独特の美貌と、そのまなざしの強烈さと深さ。今までも折々映画で見かけてきた小林明実だけれど、この映画でまさに開花したように思う。実際、これだけの人をその美貌だけで置いておくような使い方をしていたこれまでが実にもったいなかったのだ。
彼女の前に全裸で正座をし、苦しそうに顔をゆがめながらマスターベーションをし、過去の記憶に沈んでゆく祐一郎……。
まるで、今まで美味しいものを何も食べてこないで青年になってしまったような、そんな痛々しい痩せぎすの体を、女王様の前で猫背にまるめながら、彼は降りてゆく……深い領域へと。
そして女王様に抱きとめられ、ひとつになった時、彼はつかむのだ。終わらせなければいけない、と。
彼の中で目をそむけ続けていたことを。
全てが終わった時、ナオミは姿を消していたけれど、確かに彼はその“アンテナ”で彼女を探し出すことができるのかもしれない。

降り続く雨は性的なものを思わせる。この物語のキーになっている少女の失踪、その夜も、雨だった。少女は住み込みの青年から性的欲望の対象にされていた。兄の祐一郎はその雨にうたれながら妹のことを思い、妹を思い出し、その記憶を自ら葬り去る決意をする。お人形のような愛らしい少女にフードつきの上着をかぶせて表へと促す。そう、これは夢の中。でも夢の中でも雨と裸足の冷たさは感じるし、その首を締める圧力も、感じているだろう。そして少女が流されるのは、いつも兄妹で遊んでいたよどんだような川である。よどんだ川は命を生み出さない性の哀しさか。
妹を見送って呆然とたたずむ祐一郎。ふらふらと川の中に入ってゆく祐一郎を、走って追ってきた母親が抱きとめる、必死に。
お前まで行かないでくれ、と。
男の子に戻った祐弥は、祐一郎にお兄ちゃんのアンテナも機能していたことを言う。夢、確かに夢だったけれど、祐一郎の手で全てを終わらせたあのことが、祐弥の中にも流れ込んでいたのだ。
真利江は、本当に、いなくなった。生き続けているとすれば、今度は幸福な記憶の中で。そうしなきゃ、そう努力しなきゃ……。
でも、本当に真利江はどこにいったのだろう。兄は妹を殺すという儀式をしなければ前に進めなかった。でもその妹はどうして姿を消してしまったのだろう。

山間の中に突然見えている、山をうねうねと登る道路、ぽつんと立っている鉄塔。古い家屋に増築を繰り返し、不自然な形になった家。何かを呼び込むというか、エアポケットというか、そういうものを確かに感じる。真利江が失踪したのも、この土地だったから、その理由だけかもしれないと思うほどの。
日本にはこういう場所が今でも結構あるんじゃないだろうか……なんて気がする。★★★☆☆


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