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「ま」


2011年鑑賞作品

−×− マイナス・カケル・マイナス
2010年 120分 日本 カラー
監督:伊月肇 脚本:伊月肇 松野泉
撮影:高木風太 音楽:森田将之
出演:澤田俊輔 寿美菜子 長宗我部陽子 大島正華


2011/12/13/火 劇場(渋谷ユーロスペース/レイト)
いくつかの人間関係が、それら自体は直接関わることがないのに、ある場面、実はすれ違っていたとか、そういうのがなんか上手すぎる気は、したかなあ。
いや、なんかこの日トークに来ていた小説家さんがめっちゃ絶賛してて、まあその点に関してじゃなかったんだけど、「この作品について、このカメラのことに触れないなんておかしいでしょ」という言い方をしてて、そうなんだ……、と。まあそれは、ひとつには長回しという点でもあるんだけど、私、長回し、苦手だからさ(爆)。

監督さんは、より自然に見えるように腐心したと控えめながら言っていたけれど、自然に見えるように腐心するほど長回しにこだわりたいものなのかなあ、などと、最初から長回し恐怖症の私なんぞは思ってしまうんである。
まあ私の場合は刷り込み的に、映画はカット割ってナンボ、みたいなイメージがあるからなあ。

で、まあだから、長回しもカメラのことも最初にあげたこととは関係ないんだけど、……うーん、でも、それらもちょっと、関係あるような、気がする。
この、妙に上手い感じ。長回しが自然に見えるように腐心したように、彼らが偶然すれ違った場面を、いかに自然に演出するかにも相当腐心したように思う。
タクシードライバーがぼんやりしてて横断歩道で急停車した時、「赤信号なのに、危ないなあ」と言った父娘連れは、ドライバーにとって何の関係もないけれど、劇中ではこの父娘のエピソードが展開される。

ドライバーが乗せた謎めいた女が、息子はサッカーやってるんです、とタクシーの窓から何気なく見やる学校の校庭には、その父娘連れの娘が、友達と忍び込んでバスケットをやっている。
あ、いくつかの人間関係などと言ってしまったけど、二つ、なのか。タクシードライバーと、父と娘。
ドライバーが客として乗せる、息子を亡くしておかしくなってしまった女や、父が離婚した母とその新しい恋人とか、娘の友達や淡い恋心を持ってるかもしれない男の子とか、結構印象的に絡んでくるから、いくつかの人間関係、のように思ってしまう。

のは、確かに上手いのだろうなあ。でもでも……何か私、上手さに対してちょっと拒否反応示してる?そう、凄く上手いと思うし、リアルな感情描写にも心打たれるんだけど、この計算されつくした緻密さに、なぜか居心地が悪い感じがするのは……私が年くって、ひねくれてしまったせいなのだろうか?
もしかして、と思うのは……それが神の視点を感じるから、なのかもしれない。この人間関係が、偶然交差する先述の場面、それは神様しか知り得ない交差だから。

その偶然を知らしめるために、同じ場面を視点を変えて提示してきて、あっ、と思わせる訳でしょ。上手いなあとは思うんだけど、やられた、というよりは、上手すぎるよ、などと思う自分がホントイヤ(爆)。
こんな若い時からこんな緻密でどうするの、と思う勝手な老婆心がイヤイヤ(爆爆)。

なんでかなあ。それこそ内田けんじ監督なんかもまさにそういう手法を駆使した人で、それには熱狂したのに。
つまりはアレだな。私は、こんな若いのに、こんなに人生を判っちゃってるということに対しての妬みがあるんだな。あー、ヤダヤダ(恥)。

でも、確かにそうなの。消費者金融から何度も催促が来ている孤独なタクシードライバー。
彼が客として乗せた、彼以上に孤独な女との奇妙な妄想。
親の離婚で転校させられ、母親の新しい恋人まで紹介されて心穏やかじゃない中学生の女の子。
彼女の友達も仲良しなんだけど、事態が重すぎて支えきれない。
そこに介在してくる二人ともが思いを寄せる男の子とか……。
やたら上手いし、印象的な言葉もいっぱいある。あらら、ホント、私妬んでるわな。人生判ってる若い人に嫉妬するオバサンなんてサイアク(爆)。

んーでも……ちょっと長すぎた感じは、あるかもしれない。その偶然の交錯に腐心したせいもあるのかなとも思うけど、父子家庭の女の子、凛にかなり肩入れしている感じがした。
特に凛と彼女の友達の描写。この離婚で凛が転校することになって、高校では一緒になろうね、と微妙な約束をしつつ、恋する男の子との関係やらで、本当にこの時だけの、奇跡のような友情関係をつむぎだす描写に。
正直、このエピソードだけでひとつ映画を作った方がいいような気がするほど、この構成の中では冗長に感じた、というか……もったいない気がした。

だって、親の離婚だの親の恋人だのというセンシティブな問題もはらんでくるからさ、この構成や意図の中には収まりきらない感じがしたんだもん。
それだけ、確かに彼女のエピソードが魅力的だったということなのかもしれない。孤独なタクシードライバーのエピソードは確かにこの構成にとても有効で、彼と交錯するもうひとつのエピソードがもっと上手く作用したら、こんな違和感は感じなかったように思う。

タクシードライバー、いかにもな不毛な独身男。フリーターではないというだけマトモなのかもしれないけれども、何度もかかってくる消費者金融からの電話で、やはりマトモじゃない感じである。
それにしても一人モンで、住んでいるアパートもいかにもなボロで隣のカップルのあえぎ声も聞こえてくるし、特にギャンブルなんかにつぎ込んでる風もなく、休みの日はダラダラと過ごしているし、そして一応正社員についているのに、消費者金融から催促が来るほど、どこにカネを使っているのだろう……。
なんて思うのは、それなりに満足な生活を送っている人間の無知なのだろうか?でもなんか、単純に疑問。

あ、彼が飼っている熱帯魚かな。確かにあれだけは妙にそぐわない。部屋に出たゴキブリを慌てて退治して、水槽に入れてじっと観察、最初はそしらぬ風を決め込んでいた見るからに肉食系アマゾンといった魚が、まだ若干ばたばたしてるゴキブリをぱくりとやるシーンは確かにちょっと……頭にこびりつく。
そーいやー、あの小説家さんは、この熱帯魚のことも誰でも知ってるでしょ、という感じで名前を挙げて、これに意味を持たせるのか否か、と語っていたけど、正直わっかんないなー、という感じ。意味を持たせようと思ったらいくらでも持たせられる気がするけど……。

あー、ヤだ。ホント、私ひがみか(爆)。でもね、ホントどうだったのかな、と思う。この魚のイメージって。
そもそもこのタクシードライバーである吉村という男が何を考えているのか、あるいはどういう経過でこの状況にたどり着いたのか、全く判らない。
まあ状況というほどでもなく、これが一人モンの男の平凡な生活スタイルなのかもしれないけれど……。

休みの日、カップラーメンが出来上がる間も惜しんでむさぼり寝ている彼の元に、まず鳴る催促の電話と、怪しげな宗教団体の訪問。
ああいうの、いまだにあるのかな。子供を連れてパンフレットを渡し、あなたの幸せを願いましょうと手をかざすヤツ。
ああ、そういや、この子供が吉村の客である、息子を亡くしておかしくなってしまった女、京子に回覧板を渡しに来た男の子、つまりは、その亡き息子の友達、というのも、妙に上手い接点のひとつである。
母親のやっている活動を本当は苦々しく思ってるけれど連れ歩かれるのを拒めない、というのを、妹が京子に母親のマネをして手をかざすのを目を吊り上げてやめさせる場面で示すのも上手い。妙に上手い。もういいっての(爆)。

このタクシードライバー、吉村を演じているのは、熊切監督の初期作品に登用されていたという澤田俊輔氏である。フィルモグラフィーは結構観ているもんだから、彼が今“消息不明”というのにはショックを受ける。
つまり、本作に出た後消息不明になったってコトですか……てかそれを、わざわざオフィシャルに明らかにするのもどうなのかなーと思うけど……。

吉村が乗せた、どうにも様子のおかしい客は、ピンクからフレキシブルに活動を広げている長宗我部陽子で、本作のひとつの目玉キャストであるだろうと思う。
正直、彼女をわざわざ登用するんだからエロなシーンがあるのかと思ったが、そう思わせてそうじゃないというのが、俗な気持ちを持ってる観客を嘲笑うかのようで、って、私、えーかげんにせーよ(爆)。なんか、平常心になれないな、疲れてるのかしら(爆爆)。

……ただ、彼女とは年が近い、同じぐらいだからさ。子供を亡くした経験どころか、産んだ経験すらないけど、なんか、こういう微妙な立ち位置、世間との距離感というか、が判る気がするのよ。
近所づきあいはめんどくさいけど捨てきれない、というあたりは、吉村の隣の部屋の若いカップル、あえぎ声をあげてた彼らにはまだ判らないところであろう、なんてね。

タクシーに乗り込んだ時から、なんだか様子が違ってた。それ以前に美人だから、吉村もバックミラーでちらちらと彼女を見てた。
その見開いた彼の目のアップが妙に印象に焼きついて……いや、それは、長宗我部陽子の大きな瞳ともタイ張ってたからかもしれない。

吉村の黄ばんだワイシャツの襟元に、これじゃモテませんよ、と言う京子。落ちたコンタクトレンズを座席の下にもぐりこんで探す様は、突き出した尻がいかにも彼を誘っているように思えた。
その尻にくっついていたコンタクトを吉村がそっと取ると、彼女はそれをペロリと口の中に入れてなめ、これで大丈夫、と言った。もうこれはエロの前哨戦だと思ったが、結局なかった。うーん、何を期待してるんだ、私(爆)。

妄想含めて妙に濃厚な時間を過ごした後、……あのお茶をこぼしたビニールのテーブルクロスからポタポタ落ちる音と接写とか、いかにもだったから、ほんっとなんでエロに行かないのと……しつこいが、とにかく何事もなく吉村は京子の部屋を辞する。
部屋を出ると、引越し準備をしている様子の近所の奥さんが、さも彼女のことを心配しているように、あの人は一人じゃ生きられないから……と吉村に告げ口するのも世間である。

ていうか、なぜか京子の部屋に上がりこみ、まあ彼女からなかなかタクシー料金をもらえないから、なんだけど、それにしても不自然にずるずるべったりいついて、オセロまでし出す。
そのうち、抵抗する彼女にお札をぶちまけ、押し倒したところに彼女から千枚通しで逆襲を受けて血まみれ、そこに彼女の息子が帰ってくる……などという妄想をし出す吉村、なんである。この“実はそれは妄想だった”という感じがね……。

でもやはり、なんと言っても中学生、凛の描写だろう。凛の父親が吉村のタクシーに客として乗っているシークエンスが冒頭に示されるのも、やたら“上手い”んである。
万博公園の、あの太陽の塔に差し掛かった時、父親は「凄かったらしいですね、人類の進歩と調和か。その頃に戻りたいな」と饒舌に話しかける。
この饒舌さと、吉村の寡黙さが、一発目に彼らのキャラクターを示してくる。

人類の進歩と調和、その頃に戻りたい、というのは、本作を通して印象的に、というよりは意味ありげに流れてくるラジオ音声、フセインとブッシュの攻防、制裁攻撃、といった暗いニュースを指し示してくる。
そのラジオ音声をバックに、無邪気にシャボン玉なんぞに興じている子供たちの様子はひどく叙情的で、一枚の絵のように心に焼き付けられる。
しかもこの場面は後に、先述したように偶然の交錯としてもう一度繰り返され、ラジオ音声ももう一度繰り返されるんだから、よけいに、である。

このラジオ音声はひどく印象的だけど、特に、メッセージを言い立てる訳じゃない。平和を願う宗教団体だと、無害を強調している中年女性の介在などが、皮肉さえかきたてさせる程である。
それ故、じゃあ何を言いたいのかともちょっと思うけど、言ってしまえば、何を言いたい訳でもないのかな、と思う。
ブッシュがイラクに侵攻しようが、フセインが自国民を見捨てようが、自分の孤独をもてあますばかりの日本の街角では、どうでもいい、どうしようもない、ことなのだと。
所詮、自分には関係ない海の向こうのこと。確かに効果的だと思う。その上で、国際情勢どころかちょっとした他人にさえ取るに足らない物語を構築するというギャップは。

でもね、逆にやっぱり、ちょっとね、政治的な匂いもしなくもない。つまり、国際情勢のことも考えられないような乾いた社会になってしまった日本、というね。
人間を、乾いた人間を描くには、このラジオ音声は、とてもドラマティックだし、詩的だけど、私はあまり、好きじゃなかった、かなあ。

かなーり脱線しちゃったけど……。そう、進歩と調和を口にしたあの父親の話、だよね。
万博のキャッチコピー、進歩と調和は、無論、この父親が離婚したてで、離婚した妻や、心を閉ざした娘との関係を無意識に意識しているだろうことも察せられる。
この娘とのファーストシーン、まめまめしく朝食の膳を用意した父親が娘を呼び、娘が顔を見せないまま足で向かいの椅子を音を立てて押し出すシーンも、また一発目でこの父子と、そして彼女の気持ちを示してる。上手すぎる、と思う。
うーん、私はホメたいのか、どうなのか、どっちやねん(爆)。妬みやね、ヤハリ(爆爆)。こんな若い人に人生を語られて悔しいという(爆爆爆)。

これはこの監督さんの美意識、というか特徴、というか、凄く構図にこだわってる感じがあるんだよね。このシーンも、スクリーンから見切れて、彼女の足だけが椅子を押し出してる。
後に母親とその恋人に会い、憎まれ口を叩いて母親に殴られ、帰ってきて家で父親と対峙するシーンでも、ダイニングに隣接した部屋の引き戸越しにカメラが設置され、観客の気持ちをじらすかのように画面が仕切られる。
凛が父親との対話中、自らの姿をさらすようにその引き戸をカラリと開けてスクリーンが開放される。

母親とその恋人と会っているシーンでも、ここまで明確ではないけど、母親の恋人のドリンクを取りにいく凛と、背後に遠くなっていく二人の遠近感とか、数学的というか、ストイックというか、凄く計算されている、んだよね。
その中に凛の、中学生の女の子の、表面上は「今時の子供は判らない」と母親が言うような能面の中に必死に押し込めている感情がうずまいているから、息苦しくなる。

個人的に最も好きだったのは、凛の友達、智美、あるいは彼らの関わる男の子とのシーンである。
先述したように、だからこそ、この中学生の心情一発で、潔く?一本撮ってほしかったと思うんである。
まあ彼女たちのシーンでも、片方のブラブラとする足だけをバックに映して、こちら側の顔の表情と対比させたりとか、上手いけど上手すぎる、映画的構図過ぎて、感情が入り込みそうだったのにジャマさせんなあ、と、またしてもオバチャン的ヒガミな感覚を起こさせるトコは数多くあるんだけど。
そんなことばかり言ってちゃ、もったいないよね、と思うほど、本当に彼女たちのエピソードだけで見たかったと思うほど、ここで気ぃとられて、時間とられて、冗長になってしまったのも無理からぬと思われるほど、なんである。

ことに智美が、転校する親友を本当は心配しているのに、あんたなんか友達できないよ、などと憎まれ口叩くあたり、妙にグッときちゃったなあ。
いやね、だって、彼女たちは中3手前という実に微妙なところで、進路を考え、そして、高校からの友達が人生の友達みたいなことって、結構聞こえてくるじゃない。
凛だって、これからも皆で遊ぼうね、って言われたけど、もうそんなこともないよね、と判ってるあたりが切ないし、実際ある程度はそうだろうと思うし……。

そういうのって、経験しなければ判らないもんだと思ってたけど、実は当時中学生だった時点で彼らは、いや私たちも確かに判ってた、なあ。
大人が思うより、中学生はいろんなことが聞こえてるし、その上で人生を組み立てようとしている。
本当は、大人の言うことなんてたわごとであり、気にする必要なんてないのに、そうやって継承していってしまう。

智美の方は、美術系の高校に行きたいという明確な希望があるけれど、凛にはそれがなかった。普通科もあるんだから一緒の高校に行こうよと、憎まれ口を叩く割には智美は誘い、凛もそのつもりだったけど……。
自分には、智美のようなやりたいことがない。これからそれを見つける。だから一緒の高校には行けない。そんな台詞と、それを淡々と受け止める智美と。

場所は凛が春から転校する新しい中学校で、智美が率先して侵入して、はしゃいで、屋上で大声を出して、だから多分、見つかっちゃって、双方の親が呼び出されて。
なんて、本作に漂うクールなリアリズムとは正反対な青春要素、なんだけど、でもあくまでクールなリアリズム、なんだよね。それは凄いと思う。金八先生に出てきてもおかしくないぐらいのエピソードなのに。

智美のお母さんが遊びに来た凛のことを、苗字はどうなるんだと、離婚なさったんだし、違ったら悪いでしょ、と、言う割には聞こえるように言うあたりも、描写はクールなリアリズムなのに、要素としてはベタベタで、と思うと、実はこれこそがこの監督の特徴かも、とも思う。
このシーンでも、ガラス越しの遠くの部屋で、これまたワザとらしく掃除機なんぞかけてる智美の母親。
だって娘の友達が来てる時にそんなこと普通しないよな……という、エピソードの要素としてはベタになりそうなところを、ガラス越しの遠くの部屋から、娘を用事ありげに呼びつける、という、妙に上手いこのワンクッションな描写でさ。
なんかこの、ザワザワさせる感じ、ハラ立つわー(笑)。

−×−、つまりプラスになる、という意味だよね。このタイトルが魅力的だったから、それだけで単純に足を運んだ。凄く上手いし、才能ある監督さんだと思う。
でも実はそれ以上に、人のセンシティブな感情や、その演出力に秀でているとも思う。上手さに目を奪われてしまうから、もったいない気がする、なんて思うのは、ヤハリトッショリのヒガミかな(爆)。★★★☆☆


毎日かあさん
2011年 114分 日本 カラー
監督:小林聖太郎 脚本:真辺克彦
撮影:斉藤幸一 音楽:周防義和
出演:小泉今日子 永瀬正敏 矢部光祐 小西舞優 正司照枝 古田新太 大森南朋 田畑智子 光石研 鈴木砂羽 柴田理恵 北斗晶 安藤玉恵 遠山景織子

2011/2/7/月 劇場(シネスイッチ銀座)
まーそりゃ、やあっぱり、この映画の製作ニュースを聞いた時は驚いたわなあ。離婚した元夫婦が、同じく離婚した夫婦を演じるなんてさ!
でもね……外国じゃ判らないけど、日本ってさ、別れた夫婦、別れた恋人を一緒の作品に使うなんてもってのほか、ましてや夫婦や恋人役でなんて!みたいな暗黙の了解みたいのがあって、そのことでキャスティングの妙が思いっきり失われていることは確かに常々感じてたんだよね。

キョンキョンがさ、結婚したことで共演する機会が減り、離婚したことでますます減ってしまった、と嘆いていたのがさもありなんであり、きっと永瀬だってそのツマラナイしきたりがナンセンスだって、同じように思っていたに違いない。
いや、そんな風に思うのは彼らだけなのだとしたら……やっぱり、二人は素敵な“元夫婦”だなあ、と思う。離婚した時、自分たちはまるでいとこ同士が一緒に暮らしているみたいだった、って語ってて、今回の共演にキョンキョンは「久しぶりにいとこに会ったみたいだった」と言ってた。

つまり、彼らの関係性は、結婚前も、結婚中も、離婚後も、なんら変わりないんじゃないかと思う。共感しあえる価値観、尊敬し合える才能、そして何より、息が合うこと。
夫婦だからとか、別れたからというだけの理由で、このトップ俳優の二人を共演させずにいたことが、どれほどもったいないことだったのか、本作で本当に切実に思った。

本作に関してはしかし、前後して公開された同じ題材の「酔いがさめたら、うちに帰ろう。」があるもんだから、それとの比較をどうしてもしてしまう。
正直、これ、どっちも観るべきなのかなあ、と思うほど、観る前の印象は似通っていた。どうしても、夫の重いアルコール依存症と、余命いくばくもないガンである、というのが大きなトピックにならざるを得ない以上、宣伝展開も似たようなものだったのは否めないし……。

しかし不思議と、と言おうか、当然と言おうか、この二本の印象は驚くほど違った。「酔いがさめたら……」が鴨志田氏の原作小説が元になっていると知って、「毎日かあさん」は西原氏のコミックだから、そうした視点の違いが分かつのかなとは思ったが、そして確かにそれも言えるんだけれども……こうなると、どっちがホントか判らなくなるような。
いや、これはひとつの映画作品であり、元になった原作だってひとつの小説であり、漫画なんだから、ホントかどうかなんてことはそれこそナンセンスなのだけれど、やっぱりエピソード的に重なる部分は出てくるから、気になってしまう。
でもホント、だからこそ、夫側、妻側の視点なのかもしれないと思うと、ますます興味深いんである。

そもそも、「酔いがさめたら……」は役名自体が架空のものを使っていたんだよね。原作ではどうかは知らないんだけれど、この時点でちょっとオブラートに包んだのかもなあ、という気はしていた。
夫婦の物語というより、精神科アルコール病棟での奇妙な人々の、シュールでクスリと笑えるエピソードこそが特徴だったし。
それでも、誰もが知ってる有名漫画家とその夫の戦場カメラマン。実名を使わないことにそれほど意味は感じなかったんだけれど……。

でも、本作を観ると、何より西原氏の印象が全く違うんだよなあ。「酔いがさめたら……」ではね、可憐な感じだった。それは演じる永作氏がまんま可憐だからなのかもしれないが(いや、キョンキョンだって可憐だけどね!)。
この夫婦の関係性を決定付ける、アルコール依存症の夫が錯乱して暴れ回るシーンの回想は両作ともにあるんだけれども、そこでの妻の印象の違いが、本当に、二つの作品の違いを決定付けた気がしたのだ。

「酔いがさめたら……」では、妻は泣きそうになりながら立ち尽くす。自分の友人とヤッたんだろうと責め立てる夫に押し切られてしまう感じ。
本作の、まんま西原氏はね、暴れ回る夫を冷ややかな目で見つめていて、全然恐れていない。子供にそうした姿を見せるのは恐れているけれども、基本、突き放している。とにかくタフで強い“かあさん”なのだ。

でも、ここまで違うと、実はどちらもホントじゃない気もしてくる。いや、だからどっちがホントかなんて、ナンセンスなんだけどさ(爆)。
別れた夫をなぜ心配するのか、自分でも判らずに、でも慈しんでしまう可憐な永作さんよりも、むしろ本作の、自分で自分を描写した“かあさん”を演じたチャキチャキのキョンキョンの方が、実は……なんか肩肘張っている気がした、と思うのは、一人で全てに頑張っている女、というのが、あまりにも身に覚えがあるかもしれない(爆)。

いや、そんなことを私なんかが言ったら、失礼だよな。だって子供を持って、アルコール依存症の夫を持って頑張ってる彼女とは比べようがある筈がないもの。
でもそれだけに、そう、それだけに……彼女が“毎日かあさん”であることに頑張って、男勝りの自分を描写しているような気がどうしても……しちゃうんだよなあ。キョンキョンもそれを判ってて演じている気が……しちゃうんだよなあ。
確かに情けない夫の頭をバチコーン!とはたき、時には見事なケリもかまし、「この宿六!」「誰がおねしょしたの!」「今度こそ酒やめるって台詞、聞き飽きたわ」と突き放す台詞はどれもこれも男勝りで、カッチョイイことこの上ないんだけど、それだけに、それだけに……その内側の彼女をいちいち感じてしまってなんか、どうにもこうにも切ないんだよね……。

そう、カッチョイイことこの上ない、のは、当然我らが青春のカリスマ、小泉今日子様が演じているからに他ならない。
私ね、「酔いがさめたら……」で永作氏が西原さんを演じるって知った時も素敵だなと思ったけど、キョンキョンは……あまりにピッタリすぎる、って思った。
男社会に立ち向かう凛々しさ、それと矛盾しないキュートさ、そのどちらからも隠されている、誰にも見せないふとした弱音。
そうだよな、このキョンキョンにこの弱音を見せられたらもう、その時点で勝負は決まっちゃうもん。

鴨志田氏を演じる永瀬は、なんたってのめり込み型の俳優だから、最終的にガンに侵されて死んでしまう様を、デニーロばりの減量で体現し、本当に、永瀬氏とは思えないほどの激やせっぷりを披露して、実力派俳優の面目躍如といったところだった。
鴨志田氏にどっぷりのめりこんだ彼が、初日の舞台挨拶で感極まったのは、実に役者としての彼のあり方を思わせるヒトコマだった。それをにこやかにフォローしたキョンキョンも素敵だったしね!

それでまたしても「酔いがさめたら……」に比較するのもアレなんだけど、ここまでのめりこんでも、でも永瀬氏が演じる鴨志田は本作においては、やはり主人公ではないんだよなあ。
これ以上ないぐらいのキーパーソンではあるけれど、本作の主人公は、いわばタイトルロールである西原氏に他ならない。
このタイトルのゆえんは、子供たちのために夫と離婚した西原氏が、その事情を子供たちに説明すると、今までだってお父さんは毎日お父さんじゃなかった。でも、お母さんは毎日お母さん、という見事な切り返しにあるんである。
これは、何も鴨志田氏のような特殊な事情のみならず、ごくごく一般的な家庭でも当てはまるであろうことが、なんたって皮肉なんだよね。

それを示すように全編に渡って、子育てに全身全霊を傾ける、彼女だけではなくいわゆるママ友たちも含めた“かあさん”たちの面白おかしいエピソードが活写されるんである。
「酔いがさめたら……」がアルコール病棟の描写が特徴的であるとすれば、本作はそんじょそこらの男よりも、無論、そのアルコール病棟の男たちより確実に強そうな、“かあさん”パワーを存分に感じさせてくれるんである。

彼女らは実に和気あいあいと子供らを含めて、河辺のバーベキューだの西原宅での持ち寄りランチだのと集まるのだが、毎回、キッチリと言っていいほど酒を飲んでいる(爆)。いや、発泡酒か(爆爆)。
河辺のバーベキューとかは面白エピソードが満載で、山盛りにミミズを集めてきた子供が熱く熱せられた鉄板にジューと放っちゃったり、せっかく靴を脱いで川に入ったお兄ちゃんのその靴で、魚を救う妹に母の西原氏が「兄の気遣い、台無し」とモノローグするのも噴き出しちゃうし。
そもそも子供たちの泥だらけエピソードは、「泥はホント落ちないのよね」という母親たちの大いなる嘆息につながる訳であり、これってほおんと、かあさん、そしてかあさんたちである女たちこそが主人公、なんだよなあ。

それはエンディングで、子育てや夫を見送るといった大変さを、それは全ての女がやっていることだ、と締めくくるところにつながっていくんである。
ううっ、でもそれを、“全ての女”にさせられると、それをやってない私は、もはや生きている資格がないように追い詰められちゃう気がする……せめて“全てのかあさん”と言ってほしかった……。

まあ、それはあくまで希望的、個人的意見(爆)。で、何の話だっけ……えーと、そうだ。親の関わりのありようも大きく違うんだよね。
本作では西原氏が、夫との別居に際して、なんたって売れっ子漫画家であるからにっちもさっちもいかなくて、実家から子守り役で母を呼び寄せて、もう5年が経ってるのね。
「酔いがさめたら……」ではそういう描写はなかったんだよなあ。彼女は一人で頑張っていたし、むしろ出てくるのは夫の母、つまり彼女にとっては姑だった。
姑から全幅の信頼を寄せられている彼女に、夫が血を吐くと当然のように連絡が行って、最終的に余命わずかの夫と最後の日々を過ごすことになるんである。

ちょっと驚いたのは、先に観ていた「酔いがさめたら……」で姑の夫もアルコール依存症で、そして本作の西原氏の父もそうだったというカブリである。これは双方ともに事実なの?だとしたらこれって……ある意味運命だよな(爆)。
それにね、それこそ「酔いがさめたら……」では永作氏が酒を飲むシーンなんてなかったと思うんだけど、本作の西原氏は、まんま実名で、ばんばん飲む。飲むことが前提である。

恐らくその点でも鴨志田氏と気が合ったであろうことは察せられるし、その出会いの回想シーンも、わざとチープなセットとかで軽く描写しながらも、なんとも愛に溢れているんだよなあ。
この出会いで、なんか昆虫のフライかなんかを食べた話を、幼い息子が踏襲して、虫は食べれるんでしょ、と“蝶汁”を作って飲もうとするエピソードは数ある子供エピソードの中でもなかなかの出色。
なるほど、そりゃあ子供を持つ“かあさん”は退屈しないわなあ。

で、えーと。なんだっけ。あ、そうそう、西原氏は依存症にこそならなかったけど、相当な酒好きで“酒を飲まないと一日のオワリが来ない”というんである。
でもこれ、判り過ぎる……だって私も全く同じだから(爆)。でももし私が子供を持って、この法則を崩さずに、酒を飲みながら絵本を読んで寝かしつけることが出来るかどうかは自信ない(爆爆)。
そんな独女の気持ちを見透かしたように、時に気持ちが荒れる劇中の西原氏は、焼酎の梅割りを片手にあの永遠の名作「ぐりとぐら」をオラオラって感じに荒んで読み聞かせて、メッチャ怖い(爆)。

これほどまでに酒好きの西原氏を、「酔いがさめたら……」では全く描写しなかったのは、判ってしまうとちょっとズルかったかもという気もしてしまう(爆)。
だけど、あの作品は鴨志田氏自身が(仮名ではあっても)主人公であったことを考えると、実は酒好きの妻がアルコール依存症の夫を支えるという図は、なかなか難しいのかなという気もしてくる。まあでも……突き詰めれば両方とも描写するところは同じなんだけどね。

でも思えば、ハッキリ違うのは、「酔いがさめたら……」では妻の言葉だけで夫の戦場でのトラウマを示したのが、本作では、かなりキッチリとした再現シーンを作っていること。
再現……いや違うな。だってそこにいるのは彼の子供たちなんだもの。でも「酔いがさめたら……」では妻が医者に語る言葉で、本作では描写で、夫のトラウマが活写される。
でもそれは、まさに「酔いがさめたら……」で示されたように、確かに地獄ではあるけれども、その地獄で実際に暮らしている人がいるということなのだ。

子供たちの印象も、また違う。どちらかと言えば本作の子供たちの方が幼く感じる、というのは、かあさんから見た目線だから、と言ったら語弊があるかもしれないけれども。
でも、それこそ時々しか父親じゃないのと違って毎日かあさんの目線からは、やっぱり違うのかもしれない、と思う。
このやんちゃなお兄ちゃんのエピソードは満載で、まあわかりやすくおねしょしたり、ゲームに夢中で食事をなかなか食べないとかいうのもありつつ、口に手を入れてしゃぶってたせいか、ワケも判らずゲーしちゃったり、ウーパールーパーが入った水槽を抱えてけつまずいてぶちまけちゃったり。
まあとにかくとにかく、母親が必死に「褒めよう。叱っちゃいけない」と打ち震えているのがなんか不憫に感じられるほどなんである(爆)。

そうなの、「酔いがさめたら……」のお兄ちゃんは、最初から思慮深くて、お兄ちゃん!て感じだったんだよ。でもね、本作のお兄ちゃんは、基本こんな感じの、愛すべきアホアホ男子だから、だからこそ……彼が、大好きなお父さんがいないことに不満をもらしてしまう。
そう、キャッチボールはお母さん、下手だと言っちゃって、徹夜明けで「ばっちこーい」とようよう自らを奮い立たせて子供たちと遊んだ西原氏がついついキレちゃうと、妹の方が追い討ちをかけて、ママを責めちゃう。
でもね、そうなると、お兄ちゃんが「いいんだよ。ここはお兄ちゃんが怒られてるんだから」と言う台詞が泣けるんだよね!
あんなに幼い、子供っぽい、時には妹からも軽んじられる発言をされるぐらいなのに……「いつの間にか、きょうだいになってました」という西原氏のモノローグも凄く、いい。

そう、それぐらい、知らない間に自我を育てている子供たちだから……お父さんに会いに行きたくって、川は海に通じているというお父さんの言葉を信じて、子供の水浴に使うちゃちなビニールボートに乗って目指すのが、泣け過ぎるのだ!
その時お母さんである西原氏はこの「毎日かあさん」のアニメ化かなんかの撮影と記者会見に臨んでる。そんな華やかな時間が終わって、スタッフからマージャンに誘われるとまんざらでもなく、ゲームなんかでマージャンを覚えたワカゾーを打ち負かしてやる、なんて気持ちになっているところに子供が行方不明の一報が入って……。
そうそう、「酔いがさめたら……」では姑だけど、ここでは西原氏の実母。「酔いがさめたら……」と違って、病院に詰めるのもこの母だしね。やっぱり全然違うなあ、って思うんだよなあ。

慌てて交番に駆けつけた西原氏が、高いヒールのドレッシーなカッコをしてて、その姿で「お父さんに会いたかったんだぁ」と泣きじゃくる子供たちを抱き締めるっていうのが、何ともフクザツな心境を抱かせたというかさ……。
あのね、子供たちはお父さんのことが大好きなのよ。おとしゃん、という発音が、なんとも愛しげなのよ。でもそれはね、こどもたちにとっては、なんていうか、そう……ただ好きになるだけの存在、だからなんだよなあ。

仕事をしながら、つまり思うように子供にかまう時間がない中で、でも躾けは必要だからとガミガミ言う母親より、そりゃあ無条件に可愛がる父親になつくのは仕方ない。
“おすしと間違えちゃった”と子犬を抱えて飲んだくれて帰って来た彼を、子供たちはワンちゃんに夢中になっても、母親はなんて無責任なことをするんだ、誰が面倒を見るんだと、そりゃあ、言うだろう。
そのことでますます子供の心は父親の方に傾くだろう。それは、母親にとってどんだけ切ないことか。

でも、子供はそこまでバカじゃないのね。というか、利口なのね。ちゃんとそういう役割分担を知っているんだと、あの「今はお兄ちゃんが怒られているんだから……」という発言で判ったのだ。
そしてついにおとしゃんが亡くなってしまった時も、あんなに困らせられた夫なのに、自分から離婚を突きつけたのに、なのに、涙が止まらなくて、座り込むばかりの彼女に、そうっと入ってきた子供たちが、おかしゃんを笑わせようって、頑張って、ほっぺたぐいーって引っ張ったりするのがさあ……。そりゃさあ……余計泣いちゃうよ、っての。
子供って、ほんとに、ほんとに、ほおんとに、凄いね。

余命いくばくもない鴨志田氏=永瀬が、激ヤセながらも、一見してフツーに生活を送ってるのね。いや、フツーではないか。離婚した元妻の家庭に迎え入れられているんだから。
彼は、シャッターを切る。かつて戦場でシャッターを切ったカメラで、家族や、そのささやかな足跡を撮る。
誰もいないダイニングテーブル、乱雑に置かれた子供たちの靴、妻の靴。ひな祭りの記念写真では、愛娘が鮮やかな振り袖姿になった。
そして、最後の家族写真。「ハイ、大爆笑!」のタイミングに、みんな笑顔になった。

そう、モノクロなんだよね。あんな愛らしい振り袖姿のひな祭りでもさ。でもね、でもでも……この写真、つまり永瀬が撮った(本当にあの場面で撮ってるのね!!!)モノクロ写真が、ラストクレジットでひとつひとつ示されるもんだからさあ、これはちょっとね、ルール違反だよなあ!
だってこれは……泣くじゃん!!劇中で切り取ったアングルとハッキリ判る以外にも、その以外のスナップショットこそ、グッときちゃうものがあって……子供たちの無邪気すぎる笑顔のとかはもちろんそうだけど、キョンキョンの、こどもをかたわらにした穏やかな笑顔とかはマジやばいよ!

これは……本当に、この元夫婦を、この元夫婦が演じる運命があったんだろうなあ……年恰好も同じだし、人生にのめりこむ感覚もなんか、似ている。運命としか、思えない。★★★★☆


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2011年 141分 日本 カラー
監督:山下敦弘 脚本:向井康介
撮影:近藤龍人 音楽:ミト きだしゅんすけ
出演:妻夫木聡 松山ケンイチ 忽那汐里 石橋杏奈 韓英恵 中村蒼 長塚圭史 山内圭哉 古舘寛治 あがた森魚 三浦友和

2011/6/4/土 劇場(有楽町丸の内TOEIA)
劇場から出てくる人たちとすれ違った時、カップルの女の子の方が「ラストが韓国ドラマみたいだったね」と言ったいう台詞がふっと聞こえてきた。その前にも何か感想めいたことを難しそうに語っていた雰囲気だったけど、その台詞が妙に気になってどんなラストなんだろうと思っていたら、妻夫木君が泣いた。
そうか、ここんところか、と思い、まあ韓国ドラマがどうかは知らないけど、泣く男なら妻夫木君だよなあ、と思った。
「悪人」ではイメージチェンジを図って見事成功したけど、あの作品でだって彼が泣きじゃくるシーンは印象深いし、ジョゼ虎も(彼の登場シーンの)最後には、側にいる樹里ちゃんが持て余すぐらい号泣している。
そういやあ、本作の宣伝のためのテレビの鼎談で、監督がショックを受けた作品としてジョゼ虎を挙げていたことをふと思い出したりした。

泣く男ならぶっきー、彼は今時珍しくセンチメンタリズムを深く持ってる男の子だからだろうと思う。ま、男の子なんていう年ではもうないけど、なんかそう言いたくなるようなチャームがある。そこらへんが韓国ドラマっぽいのかな、などとテキトーに想像したりする。
そして、センチメンタリズムというのは劇中、ぶっきー扮する若きジャーナリストの沢田が熟練の上司たちから苛立たしげに、どこか侮蔑気味にさえ言われる台詞であり、彼がこの事件をきっかけにしたとはいえジャーナリストの世界から降りたのは、ひょっとしたらそのキーワードがあったからなのかなあ、などと想像してしまう。

なんて、ね。私、この原作者の名前、見たことあるなあとか思って、全然思い出せなかった。劇中、キネ旬が出てきて、そうか、と。
映画少年、少女たちなら一度は通る映画のバイブル。もう少女の時期を遠く過ぎたが、私にとっても勿論憧れであった。そのアカデミックなところがまた、背伸びする映画少年、少女にとっては憧憬の対象であった。
自分にはレベルが高すぎると割とあっさり諦めて、テキトーにネットの海を徘徊するようになってからすっかり手にしなくなってしまったけれど、キネ旬のライターさんと言ったらもう、もう、憧れ中の憧れ、だよね。
でもその経歴以前に、こんな過酷な過去があったなんてことは、知らなかった。有名な話、なのかなあ。知らなすぎる私はホントダメだな、と思うんだけど。

両主演となる、沢田が取材する対象である梅山(本名は片桐)は松山ケンイチ。現代の日本映画界を代表する若手実力派の両翼でありながら、まあよくここまで違う個性だなと思う。
だからこそ、今回の二人の共演を知って身震いするほど楽しみにしてた。実際、予告編での二人のオーラ出っ放しにはもう、それだけでお腹いっぱいデス!って感じだったし。
松ケンはほんと、凄いよね。素ではほおんと垢抜けない(!)って言ってもいいぐらいの飾らなさなのに、スクリーンに入ると刃物のような鋭さを見せるこの集中力はどっから来るんだろ。

今回の役は、そうした彼の恐るべき集中力をまざまざと見せつけられるキャラだったと思う。その何にでも染まれる余剰のある風貌が、見事に昭和の、あの数年こっきりの、あんなにも熱かったのにまぼろしのように消え去った大学闘争の中にいた一人の青年を作り上げた。
予告編を見た時からゾッとするぐらいだったけど、本当に彼は梅山で、理想を信じてて、でもその一方でウソつきでしたたかで、でも理想を信じるがゆえに、そんな汚い自分に気づいていないかのような危険なチャーミングさがあって、沢田が彼を信じてしまったことが、判る気がした。
確かに沢田はジャーナリズムを信奉するがゆえに、そして若さゆえに甘かったけれど、だから梅山を信じてしまったんだろうけれど、信じちゃうよ。……それぐらい、梅山は圧倒的だったんだもの。

なんて言いながらも、ね。実はそこまで入れ込んで見ていられた訳では、なかった。というのもこういう時代の、こういう主題の映画を観る時にはいつもそうなんだけど……知らないが故の置いてきぼり感が、他のどんな、過去に題材を取った映画に比しても比べものにならないほど、大きいから。
学生運動、全共闘、そこから派生した日本赤軍だのなんだの、そうした映画を見る度に、置いていかれ感を強くして、いわゆる事実、史実をおさらいしたりする。でも、そうすればするほど、判らなくなる、ていうか、入らせてもらえなくなる、というか。

今回も改めて、全共闘っていうのが何から始まってどこへ行ったのか、全国の大学で何が起こっていたのか、を辿りなおしたんだけど……最初は、ああなるほど、って思うのね、各大学で起こり始めた闘争は、学費や寮管理など、具体的な目的で大学側と対立して、勝ったり負けたり、ああなるほど、大学生ともなると、学校のやり方にただ従わなくてもいいんだ、成人だものなあ、などと思ったりした。
でも時代が進んでいくごとに闘争の目的はあいまいになり、多分に思想的になる。大学は権力で、権力に対しては闘わなければならない。学生として大学に属している自分という存在は、その場合否定しなければいけない。いわゆる“自己否定”ってヤツである。
まあこのあたりまでは何とか判るんだけど、進めば進むほど言葉は難解になり、彼らが何のために闘っているのか、勝ち取りたいのは何なのか、ちっとも判らないんである。
大学や政府といった権力を倒したいのなら、倒した先には何があるのか、……とても彼らが替わりに権力を手にするとは思えないし。

と、いうのが、今までそういう映画に接した時に毎回思って戸惑うことで、彼らが青春を、いや人生を賭してまで闘っている熱さは判るんだけど、理解出来ないからこそ、入り込めないでいた。
今回も確かにそうなんだけど……違っていたのは、私みたいなバカがこんな風に毎回戸惑っていたことを、そのことこそを、本作は示してくれていたような気がしたから。いや、バカの気のせいかもしれないけど(爆)。

だってさ、なんたって主役の一人であり、原作者を投影している沢田は東大出で朝日新聞(劇中では東都新聞)に進んだ超エリートさ。大学浪人、就職浪人が一年ずつあったにしても、やはり庶民の目から見ればその程度何なのさと思うぐらいの、エリート。
冒頭、彼が取材のために正体を隠して放浪生活を送り、路地でテーブルウサギを売っているようなフーテンたちと仲間になって取材をする。信頼してくれた彼らに自分の正体を明かさないことはウラギリではないか、と苦悩する沢田は確かにチャーミングなセンチメンタリズムを持っていて、そこをこそ上司たちに甘いと指摘されるんだけど、それ以上に、本作を観ている観客、あるいは観ることもない市井の人たちの殆んどからすれば、彼が辿ってきたコースやセンチメンタリズムはやはり……ケッと思うところはやっぱりあると、思うのね。それは決して私のヒガミではないと思いたい(爆)。

でも特にこの時代なら、大学出ってだけで、ねえ、そこで人は分かれていったと思うからさあ。このたった数年の出来事に、共感を持って見る人がどれだけいるんだろうと、ちょっとナナメに思ったりもする。
もし私がその時代に同じ年頃でいたら……きっと、その場にはいられなかっただろうなあ。まあ、地方にいたかもというのもあるけど……。地方でもそうした運動は派生した事実は残されているけれど、やっぱり全共闘と言ったら東京、それも東大と日大、やっぱりやっぱり、ここでも選ばれた人間たち、選ばれたエリートたち、なんだもの。

あ、なんか思いっきりヒガミ大爆発、ですかあ(爆)。でもねでもね、本作はそんな、階級的、時代的置いてきぼり感も、きちんとすくい取ってくれたように思う。
製作スタッフもキャストも若く、その時代をリアルタイムに知っている人がいない、だからその立場から考えた作劇なりキャラ作りというのもそうだろうけれど、その立場だからこそ、その立場のスタンスとして見つめたんだと、きっと思う。
あのね、今までも、彼らが口にする、なんか哲学的なんだかもはや判らないほどの、この闘いに対する理想的な弁舌は、ほおんとにね、判らなかったのよ。
何を言っているのか、それは揶揄してるんじゃなく、本当に、純粋に、意味が理解出来なかった。判るように説明してほしい、と言うのは恥ずかしいことなのだろうか、などと思ったりしていた。

先述したようにね、大学運動が始まった当初の歴史としては、具体的で闘う先もピンポイントで、ああなるほどと思えたんだよね。
でもそれがどんどん茫漠としていく。茫漠としていくのに、それに反比例するように青年たちは怒気を強める。これこそが理想なのだという。
一方で、そこに巻き込まれるような形で関わった女子たちは、あなたの言うことが判らない、という。何がしたいのか、何を目指しているのか。
梅山の恋人として彼に涙ながらに訴える重子が一番象徴的で、しかし彼女は恋人という弱い立場で、甘い言葉と愛撫で簡単に押し流されてしまう。
この時ばかりは梅山は「君を守るために世界を変えたいんだ」などと言葉を巧みに甘い方向に言い換えてしまう。
もう一人この組織、赤芳軍に関わっている七恵(韓英恵。いい面構え。彼女はほおんとに、いい感じに成長してるなあ!)はそんな疑問を抱えているのを感じさせるんだけれど、女がそうして流されることへの嫌悪感もまたにじませていて(そんなことは別に言わないんだけどね。なんか、感じるのだ)、黙々と仕事をこなしている。

ただ一人部外者的に存在する、沢田が在籍していた週刊東都のカバーガール、倉田眞子は「よく判らないけど、今までは応援したい気持ちだった」と言いつつ、「でも、罪もない人を殺したんでしょう。この事件はとても嫌な感じがした」と、ひどくまっすぐに沢田にぶつけてきた。
よく判らないけど、というあたりも正直だし、罪もない人を殺したんでしょう、という感慨も正直である。
梅山が自衛官を殺すに至った経緯を自身で説明する時、申し訳ないと思った、という言い方をして目的を遂行したことこそに陶然としていることと、見事に対照をなしていて……そりゃまあ、どう客観的に考えても、眞子の感慨の方が正しいんだけど、でも眞子は女の子で、そしてとても若くて、梅山たちから言わせれば、“何も判ってない”“権力におもねっている”というところなのだろう。

若さはともかく、女の子であること、女なんかには何も判っちゃいない、というスタンスで彼らの理想を崇高に語られると、そりゃあまあイラッとくる訳だし、これまでそうした題材の映画は、どこかそういう目線があったような気がした。
いや、そもそも、こうした女の子の感慨さえ描かれることはなく、排除されていたから。

でも、本作は、入れてきたんだよね。それを女の子に言わせることでちょっとイラッとしたけど、この時には女の子しかそれが言えなかったんだろう、と思った。
いや、違う。もう一人いた。もう一人どころではない。沢田が、その感慨をずっと持ち続けていた。持ち続けていたのに、梅山のチャームに惹かれて、彼を信じてしまって、最後まで彼を……。

やっぱりそういう意味では本作は、今までこのテーマを扱った作品とは違ったのかも、しれない。沢田はセンチメンタリストで正義の人で、そういった理想を追い求めているという点では、梅山と共通していたからこそ、彼の理想主義とウマがあった。
キッカケとしては過激派というイメージとはかけ離れた梅山の、宮沢賢治が好きだったりギターでロックをかき鳴らしたりといったロマンティシズムが結び付けたにしても。
でもまさに、それは沢田と共通する感覚で、それこそが沢田が上司から甘いと言われ、そして梅山が結局は“本物”になれなかったのもだからなのだと考えるとなんとも……ね。

“本物”というキーワードは、本作の中で非常に象徴的に出てくる。結局梅山は本物になりたかったのになれなかった、思想犯として、つまりカリスマとして全共闘の歴史に名を残すことはできず、単なる殺人犯として逮捕され、醜い内輪もめを裁判でさらす体たらくだった。
沢田は梅山を本物だと信じていた。ていうか、本物になってほしかったんじゃないか、という気がした。というのも、梅山が、やり遂げれば本物になれるんだ、と熱く語っていたから。そのためには沢田の力が必要だと、否応なしに彼を引き入れた。

本物って、何なの……とも思うけれど、確かに、少なくとも梅山は、本物ではなかったのだ。
梅山の登場シーン、大学に抗うサークルを立ち上げた梅山は、弁の立つ学生に見事に論破されてしまう。一体君はそうして何がやりたいんだと、既にこの時点で本作の基本的な部分を突きつけられていることを、後から思うとかなりショックを受けてしまう。
だって梅山、いやこの時点ではまだ本名の片桐でここにいた彼は、それだけでうっと詰まってしまうんだもの。割と語彙は豊富なのに、理想的な言葉はガンガン言うのに。そんな単純な言葉でうっと詰まってしまう。
権力と闘うこと、そこまでしか目的はなかったというのが、後からこの時代を改めて見直すと、まさにそうだったのだと。

原作がどこまで描かれているのかは判らないけど、あの時代、闘った青年たちが信じていたことが実はこの程度だったのだと、梅山に体現させているみたいな気がして。
そして見事にそれを松ケンは受けてるんだよね。言い負かされて、でもこのサークルを立ち上げたのはオレなんだから!と幼稚とも思える態度をとって、折れずに突き進み、時には宮沢賢治やギターを手にして青年の青春期をたじろぐほど素直に、甘やかに現わし、しかしコトに進む時には、暗闇の中でナイフのように暗く瞳を底光りさせる。
あの頃の思想が、理想が、実はとても子供っぽかったのに、思いつめれば思いつめるほど純度が増していって、子供らしい純度の高さで、だからこそ止めようがなかったのか、などとアノ時代を知らないとそんな風にも言ってしまえる。

だって、だってさ、所詮、仕送りか実家住まいの大学生よ。梅山が沢田の上司からあっけらかんとカンパをせしめたことを知って沢田があっけにとられる場面など、やっぱり梅山の子供っぽさを思ったりするよ。
いや、それを梅山のしたたかさと取ればまた違うんだけど、上司が梅山の魅力にあっさり陥落してメシをおごっちゃった、などというエピソードにしても、やっぱり梅山は何か……得難い純粋さを持っていたように思うなあ。

てか、ここまで全く経過も設定も無視してきちゃったけど……(爆)。
そもそも沢田が梅山と接触したのは、彼のジャーナリスト志向を知っていた上司からの紹介だった。
紹介……とはちょっと語弊があるかも。ある襲撃事件を起こした組織のリーダーだと偽って連絡をしてきた“赤芳軍”の梅山だと。
偽りだと判ったのは大分後になってからだけれど、上司は最初からそれを疑っていたし、やむなく記事にした後も、あいつは危ない、もう近寄るな、と沢田に進言していた。

でも沢田はもともとジャーナリズム志向で、だから東都新聞社に入ったのに、せめて先鋭的な東都ジャーナルで仕事が出来ればと思ったのが、大衆的な週刊誌、週刊東都への配属となり、センチメンタリストだのと上司に揶揄される状況。
そんな中で梅山に出会って……彼が本当に襲撃事件を起こしたのか確証もないまま、彼が起こすと宣言した爆破テロも行われないまま時は過ぎる。
それでも梅山は彼になぜか惹かれ、梅山も沢田を無邪気に慕い、何かが起きようとした予感が漂った時、沢田は梅山に、単独取材を申し込む。

しかしそれは、自衛官殺害事件という事件が実際に起こると、あっさりと新聞の社会部にさらわれてしまう。週刊誌が新聞より先に行く訳にいかないだろうと。
確かにもっともだけれども……そして、社会部は信頼の上で結んだ取材だったのを裏切って、梅山を殺人犯として警察に引き渡したもんだから、彼は思想犯である、そして、取材させてもらう約束の彼を裏切るのかと沢田は実に純粋に憤って……彼もまた逮捕されるに至るんである。

てのが、まあ、大筋的に言えば本作の内容であり、これだけで語れると言えば、語られるのかもしれない。事件の渦中にいる沢田や梅山、そして新聞社の男たちこそが主人公で、彼らを心配する女たちなんぞはものの数ではないのかもしれない。
でもね、でもでもでも……彼らとがっつり四つには組まず、カリスマ的に語られる男たち、京大全共闘議長の前園や、東大全共闘議長の唐谷もまた、今でも理想を突き進もうとする梅山の立場からすればどこか厭世的でさ。

そりゃまあ前園は今も論客で梅山をうっとりさせるほどに熱く語るけど、でも彼は、今は自分を自分だけで成り立たせられる大人の社会に位置しているし、唐谷に関しては、最後の勇姿、つまりこの時代の終わりとしての寂寥感をもって、その姿を見た……のは、沢田だったんだよな。
沢田は時代的に学生運動に参加できずにいてモンモンとして、梅山はただただ時代のヒーローとして前園や唐谷を仰ぎ見ていた。
そもそもこうした運動自体がほんの数年の中で盛り上がり、一気に収束したことを考えると、どれだけの人間が本当の熱の中で生きていたのか、沢田のように遅れ、梅山のように追いつかない青年たちの方が多かったんじゃないのか。
そしてその中でカリスマとして活動した男たちがこんな風に、熱くても、枯れてても、虚しさばかりを感じさせるのは……結局はそれが答えだったのか、と思う。

そんなこと言ったらやっぱり、怒られるのかな。でもさでもさ、事件って、歴史って、時間が経てばそうして、無駄な情報や哲学もそぎ落とされて、見えてくるものがあるじゃない。
勝手な感慨かもしれないけど、本作はそういうスタンスで作られていると思った。梅山に影響を与えたのが前園で、沢田に与えたのが唐谷だってことが、それを象徴している気がした。

だって、唐谷はもう、自分では何も出来ないと判っていたのだ。もう自分はその事件からも歴史からも取り残されている、ただ実績だけが、いや、名前だけが残されている存在だと知っていたから、これが最後だといって、突っ込んで行ったんじゃないのか。
沢田と上司がそれを見逃した、てか助けたのは、どこかで自分たちも、その、見捨てられた、忘れられた、取り残された存在だという意味でシンパシィを感じていたからじゃないのか?

沢田の上司が梅山を取材しながらも疑惑の目をも向けたのも、沢田がそれでも梅山を信じたかったのも、梅山が唐谷のように本物になれるかどうか、見捨てられるかどうかの狭間にいたからじゃないのか?
本物になってほしい、でも彼の中には、自分たちと同じ、本物になりきれないものがあって、だからこそ共鳴して、だからこそ、軽蔑してる。でも、自分を軽蔑したくないから、彼を信じたい、でも疑わしい、そんな風に思っていたんじゃないのか?

……なんて、ね。そんな定義こそロマンチストかな。でもさ、女が本作中でも早めに見限っていたのに対して、男たちが、醜い裁判闘争を起こしてまでもそれを守りたがったのを思うと、実は強さというのがどちらにあるのか、などとも思う。
あのラスト、韓国ドラマみたいなのかどうかは判らないけどあのラスト、なんかすっかり現実の世界でこうべを垂れて過ごしている沢田がね、自分を偽って取材していた、あの冒頭のフーテンの一人と再会するのね。
彼は小さな呑み屋の店主に収まってて、嫁さんと赤ん坊と共に、ささやかながらも幸せそうである。沢田がこんな修羅場を経験したことも知らずに、お前、何してたんだよ、マスコミに行きたいって言ってたけど行けたのか、などと無邪気に問う。
沢田が言葉を濁し、市井のざわめきの中にたまらず嗚咽をもらすと、彼は心配して声をかける。ますます沢田は抑えようとしても涙が止まらない。
……ぶっきーの泣きは非常に感動的だが、でもこうした市井の側にいる私や、あるいはほとんどの民としても、素直にぐっとくる感じはあるんだろうか……という気もする。

まあしつこくヒガミ根性ではあるが(獏)、勿論この時代を知らないということもあるし、ほんの数年で終わった闘争の歴史がそれだけにはかない印象を与えるんだろうと妙に客観的に見てしまうこともあるんだけれど……。やはり、ね。
彼が、こうした平凡な市井の生活を幸せだと思うのならば、じゃあ私らはどうすればいいのかなあ。それを素直に受け取ればいいの?その数年の出来事は一体なんだったの?
何かそれが、そこから外れた人たちや、それを知らない世代の私たちに残すものがあったんだろうか?
たった数年だったからこそ、ちょっとだけ前後に外れて乗り遅れた沢田や梅山といった物語も作れた。今まではずっぱりの物語が作られてて、それにもそんな風に戸惑いの気持ちを持って見ていたけれど、本作はちょっとだけ外れた彼らだから、戸惑いの気持ちが余計に増幅した感じがして……それはきっと、正しい見方ではないのだろうけれど。

だってだってだって、あまりにも言葉が入ってこないんだもの。言葉が好きで、言葉を信じたかったのに、彼らが言葉を発するほど、殊に梅山が熱く言葉を発するほど、判らなくなる。
心にすっと入ってこない。理想を掲げるほどに、言葉が遠く、弾き返される。それは、私がバカな女だからなの?
梅山が重子に、心をつなぎ止めたいのか、ただ単にセックスがしたいだけなのか、「君を守るために、世界を変えたいんだ」と言う言葉がシンプルに入ってきたから、それがそんな状況での言葉だったから、ああ、女はバカにされてるんだと思ってさあ……。

理想以上に、思想以上に。言葉ってなんなの?こんなに言葉に依存して、それを信じているのに、こねくり回して悦に入ってるのに、それが彼らと同じだというなら……こんなの、辛すぎるよ。
しかもそんな言葉が何も、何も、変えないのなら、表層ばかりで、物理的な行動力がないのなら……。言葉って、確かに、確かに、そうなんだけど。でも信じていたいのに。いたかったのに。★★★☆☆


まほろ駅前多田便利軒
2011年 123分 日本 カラー
監督:大森立嗣 脚本:大森立嗣
撮影:大塚亮 音楽:岸田繁
出演:瑛太 松田龍平 片岡礼子 鈴木杏 本上まなみ 柄本佑 横山幸汰 梅沢昌代 大森南朋 松尾スズキ 麿赤兒 高良健吾 岸部一徳

2011/5/5/木 劇場(有楽町スバル座)
もう上京してから××年にもなるというのに、いまだに東京オンチな私は「まほろなんて街、あったっけ……?」と本気で首を傾げるアホである。危うく江戸っ子の先輩に聞くところだった(汗)危ない、危ない。
これは名前自体は架空の街。でも舞台はハッキリ町田。“神奈川に突き出るようにある街”を言われると、はあ、そうだっけ、と思う。原作者の在住するのが町田なんだそうである。

天気予報はめったに当たらず、流行も最後に流れ着く街。まほろに生まれた者はまほろで一生を過ごし、出て行った者も帰ってくる街。
そう形容される町田をモデルにしたこの場所は、自嘲のようにも、誇らしげのようにも聞こえる。天気予報がやたら外れる、なんていうのはまるで、特別な磁場があるようにも思えて妙に可笑しい。

直木賞を受賞したという本作を私は未読で、ていうかもういい加減にこういうアンテナが鈍い自分はホント問題だなあと感じている。
そういう話題作ぐらいは手を出しておかなくちゃ。年々世間から置いてきぼりをくらっているような感じがする。しかも本作はシリーズになっていて、コミック化もされていて、女性に大人気だというんだから。

と、いうのもこの映画化に関してはちょっと、意外だった。だって監督を務めるのはめちゃめちゃ作家性の強い大森アニキ。過去二作を観ただけでもめちゃめちゃ映画的マッチョ(?上手い言い方を思いつかないんだけど、なんかそんな感じ)を感じて、凄い監督だとは思いつつも、次に作品を観る時にはまた大いに怖じ気づくんだろうなあと思っていたので、こんなメロウな映画を作るとは随分と、意外だった。
いや、メロウだと思ったのは単に、“女性に大人気の”とか、便利屋というどこかファンタジックな職業を扱っている、とか、イケメン俳優二人を使った、というあたりで勝手に思ってしまっただけなんだけどさ。

まあ、便利屋がファンタジックだと思うのは、今や違うのだろう。ポストにもチラシが散々入っている便利屋さん、本当に今全国にあまたあるんだそうだから。
そしてイケメン、という簡単なくくりをしてしまったけど、そもそもこのくくり自体私も大いにギモンを持っているし、何よりこの二人は、イケメンという単純なくくりには入らない二人だよな、と思う。
松田龍平は両親のエッセンスを絶妙にブレンドしたその特異な風貌がカリスマ性を漂わせているし、瑛太君は顔立ち自体はどこかにいそうな男の子で、その耳の大きさがなんとも個性的である。

瑛太君はずっと見続けているのに、今回は特に耳が気になったなあ。いや、いい意味でね。彼はさ、いい意味で普通で、凄く誠実で、静謐な役者じゃない。この耳の大きさがコミカルになるとかしないだけに、なんとも印象的なんだよね。
そう、コミカルな役をやる時でさえ、彼は誠実さを漂わせる。正直彼が出てきた時にはあんまりピンとこなかったけど、この誠実と静謐さがアラサーになってじわじわと味を出してきた気がする。なんかそういうのって、嬉しいね。

などとオバハンがナマイキなことを言ってないでどんどん行こう。
うっ、これって私の苦手なエピソード方式。ま、オムニバスまでは行かないまでも、いくつかのエピソードが連なってる。もちろんそれぞれがつながりはあるんだけれど、ひとつずつ行こうと思う。
と、その前に。瑛太君演じる多田が、このまほろの街の駅に程近い場所で便利屋を営んでいるのね。で、彼の元に中学の同級生だった行天(松田龍平)が転がり込んできたことから話は転がり始める。
彼との再会のエピソードに絡んでくる、バスが間引き運転をしていないかチェックする仕事を依頼するガンコジジイを演じるのが、監督のお父上である麿赤兒。うーむ、弟は毎回出してきたが、今回は父親も出してきたか。

そのエピソード1、1月の話。これが私的には一番グッときたなあ。なぜってだって……。ワンコが危うく捨てられる話なんだもん。ニャンコだったら号泣してたかもしれない。
もう映画が始まってすぐに、いかにもワケアリな女性が可愛いチワワを抱いてくる。数日間だけ預かる約束。しかし、じゃあね、とチワワの額にチュッとやった彼女は、もうその時点で絶対姿をくらますだろ、って雰囲気だった。

そして、そのチワワを連れながら仕事をしている途中に行天に再会した。多田にとっては若干忌まわしき過去を持つ行天。
それというのも、その昔、技術工作の授業中、フザケ半分に行天を突き飛ばしたことで、彼の小指をケガさせてしまったから。
映画ではどの程度までのケガだったのか、今の時点での行天の小指のケガの傷跡は確かに大きなものだけどイマイチ判断出来ないのだが、原作によると小指は一度切断されてしまった、らしい。

後のエピソードで柄本兄演じる山下が、裏社会の掟に従って小指を落とされることを考えると、やはりなかなかに象徴的である。<p> んでもって、その山下に関わったせいで行天が瀕死のケガをして入院する後半のエピソード、いまだに小指のことを気にしている多田に♪あなたが噛んだ……と「小指の思い出」を歌いだす行天に「噛んでない!」と激昂する多田、という何かほほえましいエピソードも用意されている。

うう、エピソードごとにと思ったのに、やはりついつい先走ってしまう(爆)。でもね、この曲といい、一方が弱みを握られてる、というか、取り返しのつかない過去に苦しんでいて、でもその被害者である行天は彼をどこか愛しく思ってる、みたいな感じ、同性愛までは行かないけど、なんかそんな、運命の絆みたいなものを感じるんだよなあ。
女子が好きなのはそりゃあ、当然かもしれん(爆)。この行天に松田龍平を持ってきたのは、実に絶妙だよなー。

ちょっと思い切ったキャスティングだと思うんだけど、だって彼って凄く異形の持ち主だから(ちょっと語弊があるかな)使いどころが凄く難しいけど、ハマるとホントに素敵なんだもん。
最近のヒットは「悪夢探偵」だったが、本作の、あるものをとりあえず着ているちぐはぐなファッション、やたら凄みが効いてる、でもなんかやたら素直、ていう行天のキャラに松田龍平はホント、絶妙にハマってるのよね。
依頼主の子供のトラブルに巻き込まれた瑛太君が、軽トラのフロントグラスを割られて「何じゃコリャー!」と叫ぶシーン、行天、いやさ龍平君が「何それ。誰の真似?全然似てない」というのには爆笑!
これはサービスシーンだよなー!瑛太君がマジメに「誰の真似でもない。心からの叫びだ」と言ったのも生真面目だけにやけに可笑しい!

……うー、だーかーらー。エピソードごとに語ろうと思ったのに、やっぱり脱線しちゃう。で、なんだっけ。そう、1月の話。チワワの話よ。
結局その依頼主は夜逃げしてて、近所の主婦たちから情報をもらって引っ越し先に訪ねていく。……近所の主婦に聞くだけで判るんじゃ、夜逃げのようにも思えないけど(爆)。
んで、チワワの本当の飼い主である娘を呼び出す。ここも、新しい小学校の担任だというのをビックリするぐらい素直に信じて、夜に娘を外に出すってあたりも、ビックリだけど。でもそれも、まあ、日本の、ある意味ではいいところ、ではあるのかなあ。

娘はチワワを目にした途端飛び出してきて「ハナちゃん!」と抱きしめる。新しい場所では飼えないから、飼ってくれる人に預けた、と母親からは言われたという彼女に、多田たちは真実を告げる。
この安アパートでは見るからに犬を飼うことは出来そうもない。母親は新しい犬を買ってあげるから、と言ったらしいけれど、娘は「私はハナちゃんじゃなきゃイヤ」とぽろぽろ涙をこぼす。

うう、うう、うう……判る、判る、判るよー!!私だって、私だって、のえち(愛猫)と引き離されるなんて考えただけで生きていけない(泣)。今の私は大人だから自分で愛猫を守ることも出来るけど、この子は……そう考えると更に切ない。
しかも彼女は母親のことも愛してて、母親の苦悩もちゃんと斟酌して、「ハナちゃんを飼ってくれる優しい人を探してください」と多田にお願いするのだ。
うう、うう、ううー!!!(号泣)。私、子供でなくて良かった……(伊武雅刀の歌じゃないっての)。

行天はね、依頼主に無残に見捨てられたチワワに「こんな小さい犬、絞め殺してゴミに出してもわかんないよ」とスゲーことを言ったのだ。
この時には、まだ行天が登場して間もなかったし、なんてヒドイヤツなんだろうと思った。多田も「……本気で言ってんのか」と憤った。
でもあまり積極的に飼い主を探そうとしない多田に対し、行天は街角でチワワを抱いてプラカードをかざすというかなりムボーな方法をとって、イタ電じゃんじゃんだし、コンタクトをとってきたのはいかにもカルそーな自称コロンビア人の娼婦だし、多田は行天に怒り、そしてこの娼婦にも断わるのね。
でも行天は「犬は必要とされる人のところに行くのが一番幸せなんだよ。必要とされるのは、その人の希望になるってことだろ」と多田の心を揺り動かす。そんな台詞が出るのは、行天自身が必要とされない子供だったからなのだ……。

おっとっと、またエピソード越境しちゃったか??そうそう、コロンビア人娼婦のエピソードはその次の3月だったんだっけ。
そもそも一晩だけ泊める筈の行天がここまでズルズルいるのは、最初に再会した後、チワワ騒動の時に「オレのことは捨てちゃうの?」と本気とも冗談ともつかないことを言ったからだったんであった。
こんなカワイイ台詞がウッカリ似合ってしまう異形の松田龍平は恐るべしだよなー。

コロンビア人娼婦を演じる片岡礼子と鈴木杏嬢がイイ。ぜえったいコロンビア人なぞではないだろう、というのはそもそもの設定がそうなのか、あるいはホントにコロンビア人なのをムリヤリ彼女たちの演らせているのかは定かではないが……。
なんか、久しぶりにヴィヴィッドな片岡礼子を見た気がするなあ。杏ちゃんもキュートで良かった。麻薬密売人の男との腐れ縁よりチワワを取るルル(片岡礼子)ってのが、その男、松尾スズキは気の毒だが、そりゃーまあ、コイツよりあの可愛いチワワをとるだろうなあ、っていう(爆)。
コワモテ(ってのも松尾スズキだと微妙なとこだけど)なのに行天の脅しに簡単に屈してしまうシンちゃん、松尾スズキの情けなさがなんとも可笑しくてさあ。

ああもう、エピソードごとに書いてく筈がぐちゃぐちゃ(爆)。まあいいや、次。
6月のエピソードに出てくる、塾からの迎えを母親から依頼される、その小学生、由良と二人の邂逅は、本作の中でメインといえるものだと思う。
だってなんたって多田と行天は、子供、あるいは子供時代というキーワードにはとても敏感なものを持っているんだもの……。
二人ともバツイチである、というのは、最初からうっすらと示されてはいた。でもその中身は二人とも壮絶だった。

多田は幼子を亡くした。行天は産まれた子供に一度も会ってない。それだけならよくある話かもしれん。実際、中盤までは、特に行天の方は「オレは種付けしただけ」などと言うから、多田は「サイテーだな」と吐き捨てるように言ったりもするのだ。しかし、孤独な小学生、由良との出会いがあって……。

由良とのことを、先に書こうか。彼はね、どうやら母子家庭、なのかなあ。それとも父親は登場しないだけなのか。
まるで表情のない母親が、多田たちに塾からのお迎えを頼み、最初こそ母親の前で殊勝に頭を下げた由良だけど、母親のいない場所では彼らに反抗しまくる。
一人で帰れるから、便利屋さんに送ってもらったって言うからいいよと抗いまくる。彼が言うには、お迎えがあるのはお金持ちだってことだから、母親はそれを示したいだけだというのだ。そして段々と聞いてみると……自分は興味を持たれてない、と言うのだ……。

しかもそれは、確かに証明されてしまう。由良が熱を出し、彼に付き添ってマンションに留まっていた彼らに、母親は興味なさげにまず冷蔵庫からミネラルウォーターを出して自身ののどをうるおし、「お茶を入れますから……」とめんどくさそうに言った。
……あのね、多田に関してはどうなのか判らないんだけど、少なくとも行天は、親に恵まれなかった。親に虐待されて育った過去があった。
彼が“種付け”をしたのは、同性のパートナーがいる女性との契約の上であり、その“元妻”は多田に、「あの人は、自分が子供の頃虐待されたから、子供が苦手なんです」と言った。

この元妻を演じる本上まなみが凄くいいんだよなー。これはキャラというか演出なんだろうけれど、すっごく、淡々としてるの。もうすべてを……諦めているかのように。
でも行天をはるちゃん、と呼び(春彦だから)、娘にもはる、と名付けている彼女は、愛した相手ではないけれど、友達として、恩人として、本当に行天を心配している。
行天は人との信頼関係をどこかあきらめているようなところがあるのは致し方ない部分もあるけれど、それが判るからこそ、多田は、はがゆいのだろうと思う。本気で怒る。凪子さん(その元妻ね)は本当に心配していた、と。

……えーと、また脱線した上に、先に行っちゃったか?まだ由良の話だったのに。
由良がね、フランダースの犬を見ているのが実に効いてるんだよね。最初に依頼の話を受けに訪れた時から、行天は釘付けなの。で、由良に「あの犬のアニメ、どこまで行った?」と聞く。「おじいさんが死んだところまで」
由良はスティックシュガーに見せかけた麻薬の運搬のバイトをしていて、熱を出してそれが出来なくなったことから多田に助けを求めてくる。
行天はね、チワワの時と同じように、突き放すことを言う。それでも多田は知った以上ほっとけない、と、街の裏組織の若きボス、星(高良健吾)とかけあうんである。
この場面はすんごいエンタメっぽくてドキドキする。フロントグラスがないからか、防弾みたいなメガネをかけて軽トラに乗る多田と行天もカッコイイしさ。

由良のことは助けられた。でも取り引きの場所に来たのは子供たちだったし、犯罪を根絶出来た訳じゃない。行天は皮肉たっぷりに、お前は正義の味方にはなれないな、と言う。多田も充分判ってて、返事をする。
お互いの気持ちは判るし……でもね、行天が、まるで行き当たりばったりみたいに、気まぐれみたいに起こす行動は、確かに“正義の味方”みたいなんだよな。

イカれたストーカーに悩まされている娼婦のハイシーを他の街に逃げ出させてまで、そして自分が山下に刺されて瀕死の状態になってまで、更に言えば裏組織に目をつけられて、警察からもあらぬ疑いをかけられてヤバイ状況になっても、行天は、チワワの時と同じように、関わる全ての人が幸福になる道を模索した、んだよね。
確かにそれは、多田とはちょっと、違った気がした。でも行天はそれをなし得るほどに、やはりどこか、浮き世離れしたような存在、なんだよなあ……。

行天は、フランダースの犬はハッピーエンドだと言った。それに対して幼子を死なせてしまった多田は怒った。
古いアニメをなぜか熱心に見ていた由良にも聞いてみた。死ぬのにハッピーエンドな訳ないよ、と由良は多田の期待する言葉を言ったけれども、ただ彼は……「最初から親がいないのと、親に無視されるのと、どっちがましなんだろうと思った」と、言った。
由良の、フランダースの犬に関しての感想がそこなのかと思うと、辛かった。

多田と行天が二人でフランダースの犬の最終回を見て涙を流すシーンは、微笑んでしまいながらも、心に痛い。
そして多田が幼い心いっぱいに悩んでいる由良に「お前の親が、お前の望む形で愛してくれることはないと思う。でもお前は誰かにそれを与えることが出来るんだ」と語りかけた。凄く、重い言葉だった。
でもそれは、多田が自分自身に言い聞かせているように思えた。だって多田は「由良、俺はでも、今でもそれが出来ていないんだ」と心の中でつぶやいたから。

由良が、二人に秘密と心の重荷を打ち明けた時、二人の行きつけの中華屋でね、「ギョーザ、食べてもいいですか」と搾り出すように言い「凄く、美味しいです」と涙をこぼさんばかりにかぶりついたあの場面、泣けたなあ……。

えーと、で、なんかめっちゃ前後してるけど、大体、どこまで行ったっけ?(爆)まあでも、大体行ったかなあ。
由良とのエピソードが6月で、凪子の登場で行天の過去が明かされるのが8月、山下につきまとわれているハイシーを助けたことで行天が裏組織とのトラブルに巻き込まれ、瀕死の重傷を追い、その傷が癒えて仕事に復帰したのが10月。

山下の行方不明のことで刑事につきまとわれ、多田が幼子を亡くしたことを暴かれる。それには妻の浮気があって、葛藤があって、それでも産まれた子供を心から愛したのに、DND鑑定とか言われて更に葛藤して、その中で子供が死んでしまって……。
今までのらりくらりと一緒に過ごしてきた行天と初めて真正面から向き合い、全てをぶちまける。静かに酌み交わす夜。
そういえば二人、酒を飲むシーン、なかったな。ありそうで、なかった。そして全てをぶちまけた多田は言う。明日の朝、出て行ってくれと。
出て行ってくれないか、というおもねる言い方じゃなかった。静かではあるけれど、ストレートだった。
でも行天は驚くでもなく、いつものように、いつもの会話のいつもの行天のようにすんなりと、承諾した。何かそれが、ひどく切なく思えた……。

どう結ぶのかな、と思ったのだ。二人の別れが、あまりにスマートだったから。
でも、季節が変わり、またあの、バスの運行にしつこく疑問を持つガンコジジイの元で仕事をする場面になったから、トクン、と胸が鳴った。収斂する、という言葉がポクンと浮かんだ。
それでもまるで思わせぶりのように、一度多田があのベンチを、行天と再会した時、彼が座っていたベンチがあった路上の方を何気なく見やった時は、誰もいなかった。

一度軽トラに戻り、ドアを開け、……そう、あの時、チワワがいなくなってて、ヒヤリとして飛び出したのだ。あのタイミングと同じように、ドアを閉め、路上に出て、多田はもう一度、あのベンチの方を見た。
彼の表情一発で、判ったよ。まるで魔法のように、あの時と同じように、黒コートにサンダルを突っかけ、ボサボサの髪と無精ひげの、ホームレスともなんともつかないいでたちの行天がベンチに座っているんだもの!

多田、帰るぞ、って言う。行天、ぼんやりとした疑問を示す。多田、今、多田便利軒はバイト募集中なんだ、と言う。
戸惑い交じりの笑いを浮かべる行天に構わず、ほら帰るぞ、とい意志を示して立ち上がる。行天、子供のような、いや、子犬のようなかな、嬉しそうな顔をして、立ち上がり、あのいつものような不敵な、いや、聞きようによっては純粋なからりとした高笑いを聞かせる。

……こりゃあ確かに、女子に人気のシリーズだって、判るわ。だってこーゆーの、めちゃ女子は好きだもん、こーゆー男子の友情、メチャ憧れるもん。

この後シリーズになってて、多田の恋物語も描かれていると聞くと、映画でも後の展開を期待しちゃうなあ。
このコンビ、瑛太君と松田龍平は静謐と軽さと重さ、あるいはオフビートのバランス、チャーミングでとっても良かった。★★★★☆


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