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「し」


2011年鑑賞作品

潮吹き花嫁の性白書
2010年 分 日本 カラー
監督:竹洞哲也 脚本:小松公典 山口大輔
撮影:創優和 音楽:與語一平
出演:かすみ果穂 倖田李梨 LUNA 毘舎利敬 佐藤玄樹 久保田泰也 岩谷健司 岡田智宏


2011/4/30/土 劇場(テアトル新宿/ピンク大賞ベストテン授賞式AN)
こんなこと言っちゃうともうネタバレ必至なんだけど、本作で思い出したのは「異人たちとの夏」だった。年若い両親は主人公の記憶の中の住人。
「異人たちとの夏」はハッキリと幽霊という雰囲気だったけど、本作はまさにヒロインの心の中に生き続ける、つまり死んだという現実に直面したくない記憶、であった。

まあ「異人たちとの夏」ほどに、ハッキリと子供に比した年若さが強調されている訳ではない。アレは今の子供の年より明らかに若い両親、つまり彼の子供の頃の両親の姿、だったからね。
本作の倖田李梨と毘舎利敬のお二人は、まあムリすればヒロインである真美を演じるかすみ果穂の親に見えないこともないけど、でもいくら倖田姐さんがベテランの域に達してきたからとはいえ、やはりこの年頃の娘を持つ母親にはちょいとムリがある。と、いっておかなければ彼女に対しても失礼である(爆)。

でもこれは、真美の中では何年前ぐらいの記憶なのだろう。それほど前というほどではなさそうである。だって後に回想される両親の不慮の事故死は、彼女が初給料で送り出した旅行に旅立つ日、だったんだもの。
それから何年が経過したのか……もうすっかりキャリアが板についた女性となった彼女は、理解ある恋人との結婚を考え始めている。

ホントにこれはやっちゃいけないネタバレ、てか、オチバレなのよね(爆)。だってこの事実は最後の最後に明かされるんだもの。
両親はずっと、普通に真美を見守り続ける両親であり続ける。たった一つ不自然かな、と思わせるのは、この両親が唐突に、今まで住んでいた一軒家を売り払って、その前に住んでいた小さなアパートの同じ部屋に住み始めたという説明である。そこに真美も足しげく遊びに行く。

なぜ元のアパートに戻ったのか、それはこのラブラブな夫婦が「二人じゃあの家は広すぎるから」とそう言えばなるほどなと思う程度で、実は観ている時には言うほどに不自然だと感じている訳ではなかった。
「私が一人暮らししたのが不満なの」といたずらっぽく聞く真美に「娘が一人暮らしするのに賛成する父親はいない」とこれまたいたずらっぽくも、でも半ば本気っぽく答える父親と「それに賛成する母親はいるけどね」とおどけて付け加える母親はとてもチャーミングで、そこにはちっとも不自然さなど感じなかったんだけど……。

それでも全てが終わってしまえば、見事に様々な伏線がはられているのだ。親代わりのような存在の伯父が何くれとなく真美を気にかけてくれる様子。風呂場のタイルの溝に引かれたマジックの後は、父親が真美の生まれる前に「ここまで大きくなるまでは、一緒に風呂に入る」ともう生まれる前からデレデレだったことを示していた。
その線は今、かすかに残る程度にまで薄らいでいる。その薄らいだ線を感慨深く眺める父親の画は、実は画が示す以上に深い意味があったということなんだ、と思う。

真美が何歳までこの狭いアパートで暮らしていたのかは判らないけど、少なくとも幸せな記憶がいっぱい詰まっていただろうし、そして新しい一軒家は確かに快適だっただろうけれど、真美にとっては自分が両親を死の旅に送り出した場所でしかなかったのだろうことは想像に難くない。
だから彼女の記憶、というか、映画的描写の中でこの一軒家は一回しか出てこない。そう、その死の旅に送り出してしまったあの、たった一回。

で、まあ、だからね、これは思いっきりオチバレなんだけど(爆)。でも実は、本作にはもうひとつ重要な過去の傷があって、そう考えるとこのヒロイン、あまりに傷だらけでホントかわいそうなんだけどさ。
それがあるから、結構伏線で示されている“実は両親は死んでいる”ということに、観客が気づきそうでなかなか気づかないってあたりが上手いんだよなあ。え?気づかなかったのは私だけ?とか言わないでよね……傷つくから(爆)。

まあ、何はともあれ、真美はね、……レイプされた過去がある。それはもう、鮮烈な場面一発で示される。狂ったようにガクガクと揺れるカメラ、雷が鳴っているみたいな目をつぶりたくなるような激しい明滅。
しっかりとカメラを据えて撮っていない、意図的にブレブレにするから、確かにある意味では刺激的だし、エロなんだけど、エロな気分にはならない……のは、私が一応(爆)女子だからなのかなあ。

いや、これは、竹洞監督がちゃんとそういう意図で撮ってくれたと思うなあ。だって、凄く、辛いもの。コトの後に彼女の瞳から流れる涙は、ホンマやと思うもの(なぜいきなり関西弁……?)。
で、そう、このレイプ事件の心の傷こそが彼女の大きなトラウマとして前面に出されるもんで、まさかそれ以外に、こんな大きなトラウマが存在するとは思っても見ない訳。いくら、両親若いなー、と思っても、それだけじゃ思わない訳。

この事件は、両親が健在だった頃、だろうなあ……。カッコからして女子高生スタイルだった。そういうあたりも確かにピンクの要素っぽいけど、先述の様にかなりのリアリズムで撮ってるもんだから、女としてはかなりツラかった。
そうか、だからこそ両親はホントに心配して、幽霊ではないにしても、それに近い形で、ヒロインの側からなかなか成仏できずにいたんだなあ。

レイプの記憶があるせいで、大好きな恋人にも触れることすら出来ない真美。手さえ握っていないのに恋人といえるのか、などという即物的な言い方があるならば、ここではそれに対して全力で反発したいと思うほど、彼女の気持ちも、恋人である彼の気持ちも丁寧に描かれていて、泣けちゃうのだ。
もちろんそれを、この今は亡き両親もちゃんと判っているあたりが泣かせる。それはなんたってクライマックス……おっとっと、そこまで行くにはまだまだ言ってないエピソードがありすぎる。

真美の恋人である常吉はイラストレーターである真美の父親の弟子で、仕事一辺倒のカタブツである。真美はそんな彼にちょっとした物足りなさを感じている……と思ったのは観客にそう思わせただけであり、それはつまり、真美が男性に触れることも出来ないほどの心の傷を抱えていたという描写なのであった。
彼女が羨ましそうに見ていたイチャイチャしているカップルは、自分がそう出来ない歯がゆさ、だったんだよね……。
クライマックスが近づき、つまり両親の死と向き合う時間が近づき、自分の中で生きている両親に、結婚はどうなってるんだと、常吉はイイ奴だと、硬軟含めて諭されたり押されたり。

そのタイミングを見計らったように、常吉は真美にプロポーズする。この場面はとても印象的。彼の用意した指輪の入ったケースを、彼がバットで打ち、彼女がミットで受け止める。それを何度か繰り返すうちに、彼が空振りして指輪ケースは泥川に落ちてしまう。
「ここは空振りするとこじゃないよね」彼女は揶揄し、彼は負けじと結婚を申し込む。「ここは頷くとこだろ」「これじゃ、ダメ?」照れ隠しのように、ニッカリと笑顔を返す真美。
次のシーンでは泥水まみれになって指輪を拾った常吉と、真美が幸せそうにそぞろ歩くショット。ここまででまだ、真美の両親が実は死んでいたという事実は明かされておらず、後はこの両親に報告するばかりと思っていたのだが……。

あの伯父、不動産業を営む伯父から、鍵を渡されるのだ。この伯父のエピソードも色々魅力的で、ちょっと触れておきたい。
常連客である、下見ばかり繰り返すラブラブカップルに悩まされているこの伯父。ついには下見をしている部屋の中でズッコンバッコンやり出し、この伯父も巻き込まれるという、いかにもピンクのカラミ要素をコミカルに描写した場面も用意されているのだけれど、まさかこの“カラミ要素”が大きな意味を持っていたとは。

このラブラブカップルの片方が長年隔たりがあった息子だと明かされるのは、本当に本当に最後、彼が感慨深げに眺めるツーショット写真によって、である。
この息子も死んだ、てことを考えると、本作はまあずいぶんと人が死んでるわね、と思うけれど、全編咲き誇る桜と桜吹雪が、何かそうした喪失感を妙に駆り立てるんである。
不思議だよね、桜って、あんなに咲き誇ってきれいなのに、何であんなに喪失感があるのか……。

この伯父さんがね、いつもヒマそうに店先に座って、まんじゅう(だったかな、なんかそんなようなやつ)やお茶やらにぽとりと落ちる花びらに、風流か否かとつぶやき、真美の成長した姿に「尻を見て時の経つのを知る」なあんて俳句のごとく詠んだりする。
このつぶやきは物語のラスト、新しい命を授かった真美の大きなお腹に、尻と腹を言い換えるあたりがなかなかシャレていて、この伯父さんの存在はちょっと、イイんだよなあ。

なんといってもじーんとくるのは、真美が、自分の中では充分判っていた、でも直面したくなかった両親の死と対面する場面。
彼女の心の変化を悟った伯父さんが、おもむろに渡してくれる鍵は、彼女がそれまで足しげく通った筈の、両親の元だった。
今日は川の字になって寝たい。そう真美は言って、狭いベッドに親子三人ひしめきあうようになって横になった。まるで修学旅行生のようにハシャイで、私はこっちだとか散々ジャレあって、両親に挟まれる形で川の字になった。
「さすがに狭いな」「寝返り禁止ね」そんな冗談めいたことを半ばマジな顔で言って。

で、まるで唐突のように、フラッシュバックする過去。初任給の半分をフンパツして両親を旅行に送り出した真美。
3日前から用意していた冷凍ミカンを忘れた!という母親に笑う父と娘。
しかしドアから出た途端に不快な衝突音がした。冷凍ミカンは無残に潰された。

そして……白い布がかけられた母親に慟哭する父親、しかしそれもまた入れ替わる。「あなたも、なのよ……」さっきまで幸福そうに川の字の真ん中にいた真美を、手を握り合って寝た真美を、二人でいとおしそうに眺める。
真美は、ごめんね、ごめんね、と繰り返した。バカね、あなたのせいじゃない、と、両親は繰り返す。幸せになって、幸せになって……。

真美は、ドアをバタンと閉めた。そこには真美と常吉の名前のプレートが下げられていた。男性に触れることも出来なかった真美が、指と指から彼に全てを委ねるまで、でも思ったより時はかからなかった。
すんごい、このセックスは感動的なの。もう、じんじん来てしまう。全ての道筋にまず気持ちを通じ合わせる、全ての行為に、愛としか言い様のない、目に見えない崇高なものが充満している感じで、ああ、セックスって、こういうものだったら本当に幸福だな、と思う。
彼女が緊張しているのも判るから、余計に達成されたその幸福感がグッとくるんだよなあ。

真美が過去に向き合ったのと同じくして、彼女から勇気をもらって、伯父さんもまた、息子の死と向き合った。
息子の嫁さんに、真美の母親、真美、と経由された、「大丈夫だから」のお守りの押し花を手渡した。
時はうつろう。桜は吹雪く。真美は大きなお腹を抱えて常吉と桜の咲き誇る坂道をゆっくりと歩いている。伯父さんと行き会う。息子の墓に手向けると思しき仏花を手にしている。時はうつろう。そして命も。

真美と常吉が思いを通じ合わせた、あの感動的なプロポーズ場面を彼女が伯父さんに報告すると、「どこからバットが出てきたんだろ」とつぶやく伯父さんと、そういえば……と考え込む真美には思わず噴きだしてしまう!
こういう、黙ってりゃ判らんのに、黙ってられない生真面目さが、結果的にオフビートな魅力になるあたりが、たまらなくイイんだよなあ。 ★★★★☆


死にゆく妻との旅路
2010年 113分 日本 カラー
監督:塙幸成 脚本:山田耕大
撮影:高間賢治 音楽:岡本定義
出演:三浦友和 石田ゆり子 西原亜希 掛田誠 近童弐吉 黒沼弘己 でんでん 松浦祐也 十貫寺梅軒 田島令子 常田富士男

2011/3/3/木 劇場(ヒューマントラストシネマ有楽町)
“オッサン”を演じた三浦友和の、「この生き方が正しかったとも間違っていたとも言えない」というコメントが、やはり全てだと思う。
石田ゆり子の言うように「こんなにも人を愛することが出来るなんて素晴らしい」と手放しに言うのは正直、難しい。確かに本作はそうした趣旨の元に作られているのだろうけれど、そして女は確かにその手の純愛ものは大好きだけれど……。

友和さんはその点、とても正直なコメントだったと思う。三浦友和としての彼自身は、こういう選択が出来るかと突きつけられたら、ということまで真摯に考えてのことだったと思うのだ。
勿論、脚本にほれ込んだと言う彼は、演じている間は全身全霊“オッサン”であったろうし、最初は成り行きだったとはいえ、“死にゆく妻との旅路”に魂を注いだ。
寄り添い続ける二人の姿には素直に心を打たれたし、私だって病院に押し込められて消毒臭い、いやそれ以上に病や死の匂いがひたひたと充満している病院で最期を迎えたくなんかない。例え最後まで愛する人がそばにいてくれたとしても。

……そうなんだよね、いくつかの、引っかかる点というか、これを是と言うにも非と言うにも難しい、いくつかの、いくつもの、点があるから。
勿論本作は、いわゆる事件として見た時には、社会面にほんの小さく載って、当事者やその周囲の人間以外は誰も気に止めないようなことから始まっている。

保護責任者遺棄致死罪。近年は、年若い親が幼い子供を放棄するとか、そういう、いかにも時代的な事件でよく聞く罪状。
まさかこんな初老の男が、しかもその死に至らしめた人物が赤ちゃんでも幼い子供でもなく、20年以上連れ添った妻だなんて。
でもそれでも、いや、だからこそ、扇情的に取り扱われることもなく、ひっそりと小さな記事だけで終わってしまった“事件”。

でもそれでも、もちろん当事者にとっては、犯罪者になってしまった当事者や家族にとっては大きなことで、そして、彼は手記を文学誌に載せた。
それは、これは罪なのかと問うた、その壮絶な時間を妻とともに過ごした彼の視点からの物語で、大きな反響を得たという。

未読だし、そうした反響も知らなかったけれども、判る気がする。いや、この事件のみならず、こと“事件”の裏側には、事務的に処理され、あるいはマスコミに扇情的に取り上げられる中では決して判らない、当事者だけが知る真実、というものがあるのだと思うから。
実は、真実というものは、これだけ情報社会が発達した今でも、いや余計に、余計な情報がジャマをして、真実からどんどんと遠ざかっているのだ。だからこそ、殺伐とした社会になっているのだ、と痛感するんである。

ただ……この“事件”の場合は、当事者がもう一人いる。彼よりも重要な当事者、その“死にゆく妻”であったひとみさんだ。
勿論、彼女の夫である“オッサン”は、彼女の望みだったからこそ、病院に入れることをせず、ワゴン車で旅をしながら、そう、たった二人きりという状況で最期までそばにいることを決意した。
それは確かに彼女の望みだったのだろうと思う。11歳年下の彼女は、結婚前も、してからも子供がいたし、デートさえしてなかったからと、この道行きを子供のようにはしゃいでいたから。

そう、子供のように、なのだよね。それが最も気になった点だった。11歳年下の妻。夫をオッサンと呼ぶ妻。事業が失敗して金策に走り回るオッサンは、闘病中の妻をろくに見舞うことも出来ず、退院後療養している妻の元に帰ってきたのは、季節が変わってからだった。
ずっとずっとずっと、水色のワゴン車を待ち続けて窓の外ばかり眺めていたひとみは、オッサンがようやく帰ってきてくれて、幼い子供のようにクシャクシャに表情を崩す。

……あのね、いくつもの気になる点っていうのは、例えばひとつ、この妻が、これほど年が離れていなかったらどうだったんだろうという点。
実際に石田ゆり子のように美しい妻だったかどうかは判らんが(爆。そんなことは関係ないか……ヒドイな、私)、見ている限りでは何か、夫婦として対等な感じがしないというか、彼女が父親に甘えるように彼に寄りかかってて、そして彼も、まるで幼い子供を慈しむように自分の手の内においている、そんな感じがしたもんだから……。
それはね、彼女は自分に娘もいるのに、あ、でもどうなんだろう、あの娘さんは、年齢的に微妙というか……オッサンの連れ子のような気もする。「最初から沙織がいたからデート出来なかった」と言っていたし。

おっと、ちょっと脱線したが。そう、なんかね、母親の顔が、全然、なかったから。いやそれは、彼女も自分の命がいくばくもないことを感じていて(どうやら告知をしてなかったみたいだし)、ならば愛する人と最後の時を過ごしたいと思ったから、もう思いっきりそのキャラでいたんだろうけれど、でも……。
そう、この旅の道行の最初、「お母さんっていうのも、アレやね。これからは名前で呼んでほしいわ」と彼女はオッサンに言ったのだった。それはね、その時には、ああ、恋人に戻りたいんだなと思ったんだけど、彼女だってきっとそういう気持ちだったと思うんだけど、事態が進行するにつれて、彼女のことは名前で呼び、彼女は夫をオッサンと呼ぶ、っていうのが、恋人というより、親子みたい、なんだよね。

しかも彼女はどんどん弱っていく、そうなるとどうしてもワガママも出るし、彼の世話は深い部分にまでなってくる。
そうすると、どんどん、彼女は幼くなっていくというか……だからある意味、彼が“保護責任者遺棄致死罪”の罪に問われたのは、この展開をつぶさに見ていくと、ちょっとナルホドなあ、などとも思ってしまうというか……。

衰弱していく妻を最期まで看取るオッサンだけれど、彼も決して強い人間ではない。事業に失敗し多額の借金を抱え、姉から自己破産を勧められるのはまあ、当然の成り行きである。
「そんなことしたら、恥ずかしくてこの辺によう住めん」と渋る、その感覚ひとつとっても、決して決して褒められた大人とは言えない。
しかも、親戚との話し合いをすっぽかし、“金策に走り回っている”と言いながらフィリピンパブの女の子と浮気もしていた、らしい。まあさらりと暗示されるぐらいだけど。
その間、オッサンに首ったけのひとみさんは、千々に乱れる心を抱えながら、ずっとずっと窓の外を見つめ続けていたのに。

でね、先述したけれど、この道行きはあくまで成り行きで始まったんだよね。金策に回るんだからと言い含めようとするオッサンに、またそうやって私を置いていく気だと疑って(まあ実際、それは図星だっただろうな)、車の中に居座るひとみ。
娘の沙織の元に送っていこうとするのを彼女は断固拒否して、夫の道行きに同行した。どこかで降ろそうと思っていた彼も、なんかそれも出来ずにズルズル行き、ならば観光地で住み込みの仕事を探そう、夫婦で住み込みがあるといいなとか虫のいいことを考えて、観光地を回る旅をスタートさせる。

しかし50過ぎの彼に、そうそう仕事がある筈もなく、時には苛立ちを募らせ、車で移動しながら寝泊まりする生活は、どんどん困窮を極めていく。
時には畑からさつまいもをくすね、魚釣りは勿論、ワカメを採取してカセットコンロで味噌汁を作る。なけなしの50万を入れた封筒はどんどんよれよれになっていき、そしてひとみも見るからに衰弱していく。
身体中の痛みに耐えかねて叫ぶ彼女を見かねて病院に担ぎ込んだこともあったけれど、彼女はオッサンに泣きながら激しく抗議した。「病院はイヤやって言ったやないの!」と。

彼女がそこまで病院を嫌う理由はただひとつ、そこに入れられるとオッサンと離れ離れになってしまう、と思い込んでいるからである。
それはオッサンが彼女を病院に入れっぱなしにしたままだったからであって、病院に彼女を入れてずっとつきそっていればその問題は解決するんちゃうの、などと興ざめなことを思ってしまうのだが、もうその法則が彼女の中で出来上がってしまっているんで、どうやらそれは覆せそうにないんである。

確かに、病院の白く冷たい中で死んでしまうのはイヤだ。人として尊重されない延命治療を医者や家族たちの自己満足で施されて、ボロボロになって死ぬなんて。
そう思う人が今は増えているからこそ、ホスピスや、あるいは数少ないながらも自宅で最期を迎える制度が整っているところだってある。
でもオッサンは何よりカネがないし、先述のように結構見栄っ張りなところがあるみたいで、それが本作通して最も引っかかっていたところなんだけど……愛する奥さんの“言うとおりに”して、罪に問われてしまう訳なんである。

友和さんがね、これが正しいとも間違っているとも言えない、と言ったのは、そうした彼のズルさも充分に判って言ったことだと思うんだよな……。
いや、これを、ズルさだなんて言ってしまうのはあまりに酷だ。それは金銭的にもある程度は恵まれている側が、しかもこんな事態に直面もしていないからこそ言えることだ。
でもさ、もう余命いくばくもない、もう、助かる見込みがないにしても、延命治療ではなく、この痛みから救ってやりたいと、彼だって思っていた筈ではないか、と。

実際、痛みに耐えかねた彼女をたまらず病院に担ぎ込んだわけだし、激痛に叫び続ける彼女にどうしてやることも出来ず、麻縄を手にしたことさえあった。
そんな彼に先んじて、彼女は痛みに耐えかねたのか手首をカミソリで切ってしまった。病で弱っていたせいもあってか傷は浅く、それで死ねなどしなかったけれど……。

見てられないんだよね。癌は、とにかく痛みが尋常ではないと聞く。助かる見込みがないという状態になれば、自我が失われることは仕方ないと諦めた上で、モルヒネで痛みを和らげる治療を選択していく。
進行していくとそれさえ効かなくなって、だから安楽死が是か非かなどという問題がクローズアップされてくる。
キヨシローや川村かおりなど、最期までハッキリ自分を持ちたいからとモルヒネを拒否するほどに強い人など極々、稀だ。それを基準にしてしまったら、あまりに辛すぎる。
ここまで苦しんだんだもの。もっともっと、楽にさせてあげていいじゃないのと、“普通の”人なら思うじゃないの。

でも、普通という言葉を口にするたびに、逡巡してしまう気持ちも、あるからさ……。普通って、何よ、と。このひとみさんだって、そうした頑強な精神の持ち主だったかもしれないじゃん、て。
ただ、それが少なくとも本作では見えにくかったから……。本作の原作が、あくまでオッサンの視点であることも原因だとは思うけど、ひとみさんがオッサンにおんぶにだっこの、ひどく幼い“女の子”に見えてしまうのがね、なんというか……。

そもそも旅の始まりも成り行きだったし、断片的に「病院はイヤ」「オッサンとずっと一緒にいたい」という台詞が吐かれるにしても、この病気と、その最期に向かってどうしたいのか、どうしようとか、ハッキリと二人が面と向かっていなかったじゃない?
だからね、なんかもんもんと、本当にこれで良かったんだろうか……と、思い続けてしまって、だからオッサンを演じた友和さんの言葉に、そうだよねー、などと思ってしまったんであった。

ずっとずっと痛みに苦しみ続け、食べ物も受けつけず、自力でトイレにも行けなくなって、恥ずかしさに泣きながらオッサンの肩につかまって車の寝床でチョロチョロと排尿するひとみさん。見ていても苦しくなる。
しかしあんなに苦しんでいたのに、ふとある朝起きると、ウソみたいに調子がいい。旅の始めにそうしたように、オッサンにぼさぼさの頭をカットしてもらう。オッサンはなぜだかそんなこともとても器用に出来るのだ。
そしてひとみさんは言う。「オッサン、どこか、行きたいわ」「そうだな。ずっと車の中だったもんな」

東尋坊に行きたい、とひとみさんは言った。この旅の最初に、「こんなキレイなところで、死にたいと思うやなんて」という彼女の言葉に、オッサンがなんとも言えない顔をした場所だった。
その場所を、ひとみは死に場所に選んだのだろうか。でも、たどり着けなかった。間に合わなかった。その前に彼女は静かに車の中でこときれた。
石膏のように艶のない肌と唇。動かなくなった妻のそばで、オッサンは添い寝をした。雪がすべての物音を消し去ってしまったかのようだった。

途中、ひとみさんを乗せての移動が難しくなって、ひとところに逗留するのね。そこでのエピソードが数々、印象的である。
何かいいことをすれば願いが叶うんじゃないかと、サルが飼育されている小さな公園で精力的に掃除をするオッサン。海岸でも掃除に励むんだけれど、当然というべきかどうか、ひとみさんはただただ衰弱するばかりである。

海岸でぼおっと座っているオッサンのところに、ガラクタだかなんだか判らんものを自転車にハデにくくりつけたおじいちゃんが通りかかる。
ガサゴソとパンの袋を取り出しておすそ分けしてくれたおじいちゃんは、コンビニで捨てるものをもらうんだと言い、オッサンは感心する。
ていうか、そんな基本も押さえてなかったのか。そういやあオッサンは路上に寝泊まりするホームレスさんたちに目をやって、その目線はこうはなりたくない、みたいな雰囲気を醸し出していたもんなあ。
やっぱりオッサンはどこか、きちんと思い切っていなかった雰囲気がしてしまう。

このおじいちゃん、東京を目指して旅をしているんだという。オッサンがこのおじいちゃんにふと弱音を吐くかのように今の事情を話すと、その語りを理解しているのかしていないのか、やけに泰然としているこのおじいちゃんは、ウソかホントかも判らないこれまでの経歴……皇室の食事係だっただのなんだのと、華やかな話をするんである。
そして、一緒に事業をしませんか、と持ちかける。いつか機会があったら、とお茶を濁したオッサンは、自分が今のまま行ったらいつか到達する姿をこのオッチャンに見たのだろうか、という気がするんである。
でもそれも、それさえも、“正しいのか、間違っているのか判らない”んである。このおじいちゃんにも、かつて伴侶がいたのかもしれない。そう考えると……どうなのだろうか。

医者から、3ヶ月で再発すると、そもそも言われていた。旅の途中、オッサンはかつての知り合いから漢方薬を手に入れてひとみさんに飲ませていたけれど、その知り合いもなんか見るからにマユツバもので、そもそもホントに知り合いなのかと思うぐらいで……。
なにかね、オッサンがこの漢方薬に一縷の望みを託しているのが、それが最大の逃げだったように感じて、なんか見てられなくてさ……。

覚悟して最期まで付き合う気持ちだったように見えて、そもそもの道行きもナアナアだったし。
そんな、ところどころに見え隠れする覚悟のなさが、恐らく最初から覚悟していたひとみさんの、だからこそ恋人のように、子供のように、甘えていたのかもしれないその気持ちを思うと、なんともやりきれない、などと思うのは、ヤハリ私が女の立場だからなのだろうか?

ひとみさんがこときれ、お兄さんの元に身を寄せ、そして警察によって確保される。犯罪とされ、手錠がかけられ、逮捕され、事情聴取がなされる。
なぜこんなになるまで放っておいたのだと言われる。なぜと言われても。放っておいたんじゃないのに。
そう、世に発覚する事件というものは、きっと皆こんな風に、その質問があまりに事情からハズれすぎて、だからそれに的確に答えることさえ出来ないのだろう。罪に問われたり、逮捕されることは仕方ないと思っていたとしても。

いや……それも……どうだろうか。本作は、あるいはこの事件は、死ぬ時は病院でなければいけない、ということが人間の尊厳を押し込めていることを、実に判り易く、共感しやすく、情感の部分で告発しているのだから。

もしこれが、夫と妻が逆ならば、年の差が逆ならば、きっと全然、違っただろうと思うからなあ……。それに妻側の家族が一切出てこないのも、いかにも夫側の視点って感じで気になってしまったし。
この時点でもとても責められてるけど、妻側の親族がいたら、もっととてつもなく、メチャクチャ、責められてる筈だよね。

ラストシーンは、父を迎えた娘。その娘に悪かったなと声をかけつつも、吸い寄せられるように駐車場におかれたワゴンに近づき、カラッポになった寝床に身を埋めて号泣する。娘を拒絶し、ドアを閉め、閉じこもる。
娘が窓のガラスをぶち破り、父親を引きずりおろし、頬を張る。帰ろう、と言う。
オッサンは、目が覚めたような、いや、目が覚め切らない様な、うつろな目で天空を見上げた。そこでカットアウト。純愛としては最高のラストだけど、娘が気の毒だよなあ、とついつい思ってしまった。

そんな形態で描かれるから、一見して純愛モノの形に作れてしまう。演じる二人もとても素晴らしいし。
だからとても危険だと思いつつ、でも、一石を投じていることは間違いないから。なんともなんとも、是非が難しくて。 ★★★☆☆


少女たちの羅針盤
2011年 113分 日本 カラー
監督:長崎俊一 脚本:矢沢由美 谷口純一郎
撮影:柳島克己 音楽:佐藤直紀
出演:成海璃子 忽那汐里 森田彩華 草刈麻有 黒川智花 戸田菜穂 清水美沙 石黒賢 塩谷瞬 石井正則 水本諭 前田健 金山一彦

2011/5/18/水 劇場(ヒューマントラストシネマ渋谷)
ちょっと想像と違ったかなあ、と思ったのは、ここのところ璃子嬢が連投していた少女の群像劇が、体育会系青春系号泣系だったから、だろうなあ、ヤハリ。ああ、これは泣けるタイプの映画じゃないんだ……などと思ってはいけなかったんだな。
まあ、演劇だし……って、演劇だって彼女たちのように情熱を持って集まってやれば十分体育会系だし、本作の中のクライマックスのひとつである、市民演劇祭で拍手喝采、スタオベを浴びるシーンで泣けても良かったんだけど、やはり難しかった。

それは本作が基本、ミステリであって、別に泣けるとかいう部分になど、まるで重きを置いていないというのももちろんそうなんだけど、ある程度の尺、大きな流れ、感情の流れを劇中の観客と共に完璧に共感することが難しい演劇の世界となると、やはりこのクライマックスで彼女たちと同じように涙するのは難しいように思う。
劇中劇はリズムよく“ハショられ”、感動的な言葉が散りばめられているだけ余計に何か、引いた状態で見てしまう。

いや、それでもちろん正解なのよ。これはミステリであって、演劇に情熱を燃やす少女たちにシンクロして涙する物語ではないのだからさ。
泣ける映画がいい映画、みたいな風潮にケッと思ってるくせに、実際はぼろぼろ泣ける映画にやはり心が傾いてしまう愚かな女子的思考(爆)。

んー、でもやはり、そう、璃子ちゃんがこのところそうした秀作に出続けていたからさ。
ま、キャラ的には、そうした今までの女の子を踏襲してはいるのよ。その一つのことに青春の、いや人生の全てをかけ、妥協を許さず、そのためには先輩や先生にもくってかかってしまうために、一匹狼、孤高の存在。ホント、そういう点は、今までの群像劇とカブッてると言っていいほど似ている。
もちろん、そういう役が璃子ちゃんにこの上なく似合っているからなんだけれど、逆にそういう役をやれるこの年頃の女の子女優が意外にいないせいだとも思われる。
もう、その眉根を寄せた表情、ガンコさを示すように黒々とまっすぐな髪、似合いすぎなんだもん。

女優である彼女にこんなことを言うのもなんだけれど、彼女が演劇にのめりこむ少女、というのを演じるというのもなんか意外な気もし、しかしキャラはいつもどおりなのでなんか落ち着くというか(爆)。
他の三人もそれぞれに個性的。おどおどとした少女、かなめを演じる草刈麻有嬢はこの中で一番好みだったかもしれない。

「甦りの血」の彼女かあ。あれはあまりにキョーレツな映画だったんで、キャストもキョーレツすぎたんで、彼女の印象はあまり……(爆)。いやでも、あんなスゲー映画のヒロインに抜擢されたのは、彼女の勲章だわなぁ。
なんにせよ、本作の彼女はとても素敵だった。
彫りの深いお父さんには似てないけど、揺らぐ繊細さが何とも少女らしくて、彼女がキーマンになる、つまり死んでしまう、いや、殺されてしまう少女を任されるのは実に判る気がする。
二世女優はなかなか難しいけど、この子はちょっと、楽しみな気がする。

璃子ちゃん演じる留美を心密かに思っている、女子校でキャー!と言われそうなタイプの中性的な梨里子役、森田彩華 嬢も良かった。まあ確かにこの役はもうけもんだとは思うが、彼女が、それまではおくびにも出さなかった思いを、留美の寝顔を眺めているうちにふと溢れてしまって、キスしてしまう、そして留美が目覚めてしまう場面、たまらなくキュンときた。その後気まずくなるのもなんともいい。
でも彼女が、留美への思いをあまり明確に自覚していなかった、みたいな着地点で、ウヤムヤに友情に戻っちゃうのは不満足―。もっとキュンキュン、ドロドロとさ!いや……だからそーゆー話じゃないんだってば。

唯一他校の生徒、クールな蘭役を演じる忽那汐里嬢。彼女は、うーん……。この役はね、ただ一人他校で、それが、彼女の家が貧乏に転落してしまったからという理由まで用意されているしさ、意味ありげなんだよね。
この作品がミステリであり、誰が殺したのか?というところから始まっていると、彼女なんて真っ先に疑わしき人物よ。なんだけど……。

汐里嬢を初めて観たのは「半分の月がのぼる空」で、あの時は、病弱で可憐な少女が最初に発したドスの効いた声がものすっごい印象的で、一発で顔と名前を覚えた。
次に見たのは「BECK」うおー、さすがネイティブ英語!とカンドーした。ネイティブのせいか、明るく思えたしね。

しかして本作、「半分の……」でドスが効いてたのかと思っていたのは彼女の地声だったのかも(爆)。ちょっと正直、彼女だけ芝居が練れてない感じなんだよね。棒読みっぽいというか……。
いや、お芝居なんて、演技力なんて、それが役者の魅力として一概に言えるものではないし、ことに若い役者さんなら尚更そうなんだけど、でもツラいのは、他の三人が及第点以上にそこんところ出来ちゃってるからさあ……。
彼女だけがハッキリと暗いバックボーンの持ち主だというのもあって、余計に差が目立つんだよなあ……。

まあとにかく話を進めなければ。最初はね、璃子ちゃん演じる留美が演劇部の先輩にくってかかる場面から始まるんである。実に璃子ちゃんらしい場面である。
タイムオーバーで失格なんてありえない、あんなタメの芝居をするから!ということを皮切りに彼女が先輩にまくしたてる言葉はいちいちもっともで、先輩たちは集団で迫力あるけど、ナマイキなのよとか後輩のくせにとか、語彙力に乏しいんである。

ついに取っ組み合いになるかと思ったところに顧問の先生が割って入る。「楠田さん、またあなたなの。」騒動を起こすのは止めてくれ、という先生にもくってかかるも、結局言い負かされ、ウワー!と留美は悔しい雄叫びをあげながら走りだす。
その後ろを二人の友達が追いかけてくる。彼女たちは常識が判ってるから、突っ走る留美をいさめようとするんだけど、留美は、もう演劇部はやめる!自分で劇団を作る!あんたたちもついてきてくれるでしょ!!!と否応なしなんである。
そして作られたのが女子高生四人だけの劇団「劇団羅針盤」

てな訳で、これで3人。四人目の蘭は、同じ演劇コンクールに出ていた彼女を三人が見初めてスカウトしたんであった。
蘭の高校は留美達と違って部費などの余裕も無いのか、毎年毎年同じ演目の繰り返し、それが先に進めない理由だと言葉少なに蘭は語る。
それならさ!と留美は彼女を強引に誘い、無言で去ろうとする彼女を強引に引き止め、携帯にムリヤリ自分の番号を入れた。やはり蘭も本当にやりたい演劇に飢えていたのか、次のシーンでは一緒にいるんである。

この後も、ストリートでのパフォーマンスに誰も立ち止まってくれずに惨めな思いをするとか、蘭がかつて親が経営していた会社の社員寮だった廃墟を提供した稽古場での熱を帯びた稽古とか、その時に蘭が自分のコンプレックスを告白したりとか、リベンジしたストリートでたくさんの人が集まってくれて拍手を浴びたとか、もう青春さながら、ウルウルの展開が目白押しなのよ。

ただね、この物語の冒頭は、彼女たちではない。最初から、本作のメインはそうじゃないってことが明確にされてる。
冒頭まず示されて、節目節目に挿入され、そしてラストはサスペンスフルな展開になる“メイン”は、今の時間軸、新進女優の舞利亜が撮影現場に臨む、そこは彼女の地元で「あの伝説の女子高生だけの劇団、羅針盤のメンバーなんですよね?」という台詞があることから、この四人のうち誰か一人が女優となってこの場に立っているのだと推測されるんである。

そして地元では有名なこの「劇団羅針盤」を知らない彼女のマネージャーに説明する形で示されるところによると、そのうちの一人が死んでいるんだという。
その話を避けたがる舞利亜。ずっと顔が見えず、後ろ姿ばかりで四人のうち誰だか判らない。
“そのうちのひとりが死んでいる”その死の原因がなんだったのか言ってないのに、彼女は怯えている。
脅迫めいたメモも残される。お前が殺したのだと。

思いっきり禁じ手だけど、オチから先に言っちゃうと……犯人は四人の中にはいない、のね。
まあ確かに上手い展開だな、とは思った。だって誰が疑われてもおかしくない要素を巧みに取り入れていたから、見ている間、犯人はこの子、いやあの子、と観客である私はカンタンに揺れ動いた。
一番ストレートなのは、母親の再婚でエリートな父親から行動を制限され、思い余って、東京に出て女優になる!と思った蘭だけれど、つきそいで行ったかなめの方が選ばれてしまった。そう、死んだのは、自殺に見せかけて殺されたのは、かなめなのね。

留美が嫉妬を覚えるとしたら直接的には梨里子である。並々ならぬ情熱を持って劇団を引っ張ってきた留美なのに、実際に素晴らしい脚本を書いてきたのは梨里子だったのだから。
でも、この劇団を立ち上げ、市民演劇祭では大人たちの謀略にはまって悔しい思いをし、その次にはメンバーが主演映画に抜擢されて東京に出るだなんて言ったら、ひょっとしたら嫉妬を覚えるかもしれない、とも思えた。

梨里子はどうだろう、そうした気持ちのドロドロはなさそうだけど、ただ彼女にも思わせぶりなシーンが用意されている。
主演映画が決まった直後に暴漢に襲われ、レイプされたかなめは自殺してしまった。そのかなめの行方を留美が最初に聞くのが梨里子なのだ。
レイプされただけではなく、ネットへの心ない書き込みで学校でも居場所がなくなったかなめを留美はとても心配していたから「ひとりにするなって言ったじゃない!」と梨里子を罵倒する。
つまり、梨里子が目を離したから、という理由づけのように聞こえるんだよな……そこまでして、全てのメンバーに嫌疑がかかるように仕向けるのもアレだよなー、と思ったのは、犯人は全然別の人物だったから。

あれ?劇団羅針盤のメンバーだと言ってたじゃん、というトコがあるんだけど……つまりイマイチ売れないゲーノー人であるかなめの姉、なつめは、今は舞利亜と名前を変えているみたいだし、伝説の劇団のメンバーと言っていた方が名が通ると思ったのか、ただ単に、メンバーだった死んだ妹の姉だからそんな誤解がされているのか……。

そう、犯人は、かなめの姉、なつめ。物語の割と最初の方で、劇団を立ち上げる!と情熱を燃やす彼女たちを、知り合いの演出家のお芝居に連れて行く。
舞台は福山で、つまり地方だし、事情を知らなかった蘭なぞは「ホンモノの芸能人、初めてナマで見た」とぽっかり口を開けっ放しなんである。

終演後、楽屋に連れて行ってもらった彼女たちは、しかしすっかりヘコんでいる。女子高生ばかりの劇団を誰が見たいのかと厳しく言われたんだという。
後から思えば、そこにもまた舞利亜の息がかかっていたのかもしれない。だって、劇団のブログにイヤガラセのコメントを膨大に書き込んだり、ストリートでのパフォーマンスを警察に通報したりしたのも彼女だというんだもの。

売れないアイドルだったらしい彼女が、妹がいきなり映画のヒロインに抜擢されたのに嫉妬するのは判るけど、その前からこんなにも執拗に陰湿なジャマを仕掛けるまでの彼女の気持ちがよく判らないんだよね、正直。
この姉妹は片親が違うことが一つの理由で、ずっと離れて暮らしていたんだけど、「離れているから」仲がいいんだと言っていた。実際、とても仲良さげだったし、離れていることで仲が保たれるっていうの、良く判るから、全然気にしなかった。

でも……いつから?お姉ちゃんはずっと妹が疎ましかったの?正直、そのあたりの理由づけはまったく判然とせず、だから確かに犯人明かしの場面ではビックリするけど、ちょっと、ないよなあ、とも思うんだよなあ……。
まあ、原作小説はまた違うのかもしれないけど……。

やっぱり、ね。ここまで思わせぶりに引っ張ってたら、四人のうち一人が犯人だと思うじゃない。普通さあ。だからちょっと、なあんだあ、と思ったのね。
結局、四人の絆は固かった、大人たちに揺るがされなぞしなかった、なあんてさ。
かなめの映画ヒロイン抜擢が決まって、申し訳ない気持ちで臆する彼女をほかの三人が背中を押す公園のシーン、四人して子供みたいに無邪気にブランコをこぐシーン、それがそのまま生きてました、なんだ……。
いや、そらあまあ、何よりなんだけど……。

まあ確かに、かなめの姉、なつめは最初からメインキャストとして登場してたさ。思えば印象的だったし、思わせぶりとも言えるキャラだったかもしれない。
でもさ、なんかぁ、なんかなんかぁ、スッキリしないなあ。それは私が、少女たちの絆をドロドロと暗いものにしたいとゆー、大人気ない気持ちでいるからなのだろーか?

まあそうかもしれない……。だって、やっぱり嫉妬だ妬みだって感情が渦巻くのが人間だもの。
しかもこんな、この時に人生決まらなければもう死んじゃう!ぐらいに思い込んでいる年頃に(実際はそんなことないんだけどさー)、こんな重大な亀裂が入って、それでも友情は続くのさ!なんて……。
つまりそれが信じられないってぇのが大人の愚かさ浅ましさ、なのかもしれないのかしらん(爆)。うう、そんなこと言わないで。めっちゃヘコむわ……。

そう思えば、かなめ、そして姉のなつめはそれを、そうじゃない、ってことを体現していたのかも、しれない。
いやそれでもかなめはお姉ちゃんが大好きで、自慢のお姉ちゃんで、裁縫が得意な彼女はお姉ちゃんがはいている靴の飾りのリボンがしょっちゅうブラブラと外れそうになっているのを直してやったりしていたのだ。
後から思えば、華やかなゲーノー人であるなつめが、とれかけた飾りのパンプスを履いてるだなんて時点で、暗示してたのかも知れないなあ。
心の中で妹に対する黒い思いがモヤモヤと湧き上がっていたのかもしれない。そして、なつめは、そしてなつめは……。

ブログへの「キモイ」だの「死ね」だのという書き込み、「女優気取りかよ」という書き込みが一番、なつめの気持ちを表わしていたのかもしれない。
だとしたら、かなめをいじめていた元同級生たちを現場にイヤガラセに行かせたのも彼女?……そこまで考えるのは、悲しすぎる……。

最後、なつめが羅針盤のメンバーたちに追いつめられて、身を投げてしまうラストシーンは、ひょっとしてハッピーエンドとして規定されているんだろうか……?
私が留美たちと同じ年頃なら、すんなりとそう思えたかもしれないけど……。死んで償い、まあ、ミステリだからそのぐらいしか出来ないのかな。
でも正直、このオチは、メンバーのうち一人が犯人だと思わせて、そのドロドロにドキドキしていたのを、まあ予想外と言うミステリの常道とはいえ、逆にそれがアッサリとした結果を生み出してしまったから、なんか残念だったかも……。

数少ない大人たちが、皆とてもいい印象を残す。留美が毛嫌いしまくってる演劇部顧問の戸田菜穂は、一番大人の琴線に触れまくる。
まあ、彼女が劇中、「どうしてあなたのことが気になるのかしら。きっと昔の私に似ているからね」とあまりといえばあまりな解説をするのはあーあと思うけど、そう思っちゃうぐらい、……なんか、判っちゃうんだもの。
まっすぐすぎて誤解されやすい、でもまっすぐ過ぎるから、とてもいい先生。まんま、留美なんだもん!

そして、蘭の母親の清水美沙。ほとんどが理解ない母親の描写のように見えるけれど、たった一つ、つっぱる蘭に再婚相手の石黒賢が、「若い頃の君にソックリだ」このひと言で救われるんだよね。このひと言で、今後蘭が辛い目にあうことがあっても、なんとかなるんじゃないか、という気がする。
ほんの一瞬だけど、彼にそう言われて母親の清水美沙は困ったような、でも誇らしげな表情を浮かべた。それで充分なのだもの。

溶けた保冷剤がガムを噛む音に聞こえるとか、そんな謎解きはどーでもいいのよ。思わせぶりな後ろ姿だの仮面だのメモだの壁の落書きだの駆使したミステリ仕立てもどうでもいい。
少女のちょっと危なげな時もある友情と、それで泣きたい気分がやっぱあったかも。
なにかね、やっぱり題材のせいかもしれないけど……彼女たちの間に、役柄を超えた結束力が感じられないっていうか、なんかそれが、一番の原因だったかも、なあ。★★☆☆☆


ショージとタカオ
2010年 158分 日本 カラー
監督:井手洋子 脚本:
撮影:井手洋子 音楽:寺嶋琢哉
出演:桜井昌司 杉山卓男

2011/6/17/金 劇場(新宿K’scinema)
正式には去年度の作品で文化映画として受賞とかもしてるみたいだけど、今年になってから一般公開はなされたし、なんと言っても公開中にこの布川事件の再審で見事無罪を勝ち取ったから、今後この上映はどんどん広まっていくんだろうな。
その点では実に劇的で、私は再審での無罪のニュースを聞いてから足を運んだけど、その前に見ていたらより一層、おー、やったー!とそのニュースを嬉しく思ったんじゃないかと思う。
いや、その前に観に行く予定は立ててたんだけどね、突発的な仕事でおして、流れに流れちゃって、観れないんじゃないかと思っていたところに、この劇場での最終日をようやくつかまえて観ることが出来て、ホントに良かった。

冤罪事件を扱った映画といえば、つい先ごろ、渾身の作品「BOX 袴田事件 命とは」があるし、なんとはなしにその流れを想起してしまうのは正直なところである。
それでなくてもあの郵政の事件があって、検察の権威が大きく失墜したところに現われた「BOX……」もまた非常にタイムリーな感があったし、こうした映画も後押しになって、袴田さんもいつか必ず出てこられたら、という思いを強くしていた。

しかして、似ているようでまったく違う本作。確かに実在の冤罪を扱い、実在の人物に取材をとり、検察を始めとした警察、司法のイイカゲンさ、傲慢さを糾弾してはいるけれど、不思議なほどに、全く違う。
まず、いくら事実を追っているとはいえ劇映画であった「BOX……」とドキュメンタリーである本作が決定的に違うのは当然とはいえ、その“当然”がここまで違ったものになるのか、というのはとてもとても意外だった。

どこかでね、劇映画でもドキュメンタリーでも、割と同じような印象を持つのかと思っていたのだ。だって彼ら無実の罪によって閉じ込められた人や、その家族たちが抱く思いは大なり小なり共通している筈だし、検察や警察や司法に対する憤りだってそうな筈だし。
実際、その通りのことを彼らは言い、憤り、闘うし、再審が決定された(最終的な勝利の前に、まずこれが大きな闘いなのだ)喜びに沸きあがるシーンでは胸が熱くなるし、そのための証拠固めとして当時を再現しての矛盾点を探る実験とかも「BOX」にだって出てきたんだけど……やっぱり大いに大いに、違うのだ。

そもそもその、証拠固めの実験の場面に、本当の本人たちがいるのが大いに違うよね。「もっと簡単に出られると思ってた」とトイレだかの小さな窓から出る場面を自ら再現するショージの息があがっているのに、タカオも周囲もほがらかな笑いをもらす。
そう、常に二人も周囲の弁護士や支援者も、明るく笑ってて、それが、彼らがこんな目にあったそもそもの始まり、尋問の場面を思い起こして話す場面に至ってさえそうなのだから、驚いてしまう。

尋問の場面の点でが、一番の違いを感じた部分かなあ。ショージもタカオも暴力などは受けなかったという。ただ執拗にねちねちと同じことを繰り返し言われることで精神が疲弊していく。こっちの話を聞く気もない態度が、絶望を深めていく。
ウソ発見器を使えば無実が証明されるからと期待を持たされて、結果を隠されたまま「残念だったな」と言われる。
ショージの語りは実になめらかで、とても話し上手で、弁護士の方が冗談に「カツ丼は食べなかったの?」などとチャチャを入れるもんだから場がドッと沸いたりする。

タカオの方は話ベタで、しかも彼はショージが数日間の尋問に耐えたのに対し、一日で陥落し、やはり暴力はなかったし、何かそのことが支援者らを失望させたのか、「あなたは何か、斜に構えている。自分のことのように考えていないのがいけないのではないか」と辛辣な言葉を浴びせる支援者の女性もいて、彼はそれにじっと考え込んだりする。
彼女の言葉はヒドいと思うけど、でも実際、もっと耐えられなかったの、などと簡単に考えてしまう自分もいて、尋問に耐えた経過があればこそ、助ける気にもなれるとか、なんかそういう風に考えてしまうことに気づかされてひえっと思ってしまう。

確かにね、「BOX」でもそうだったし、映画やドラマで、暴力的な態度で自白に追いつめていく場面を見すぎているんだよね。
実際はもう、捕まった時点で追いつめられている筈だし、ショージが言うように、「おふくろさんはもう、仕方ないと言っている」みたいなウソの一言で陥落してしまうのだろうと思う。
暴力的な尋問に耐えられずの自白だったから無罪なんだとか、バカなことをどこかで考えていた自分に気づいちゃってボーゼンとした。

でもね、そういう、冤罪事件を掘り起こす場面、つまりこっちが期待している場面は、まあ尺的にはちゃんと割かれているけど、本作がいいのはそこじゃないのよ。
ていうか、本作がこんな尺があるなんて、観ている間は全然思わなかった。観終わって時計見て、えっ、こんな長かったんだ、とビックリした。
それぐらい、作品の、いや、二人のチャーミングさであっという間に見てしまった。

ていうか、最初から行こうか。最初はね、二人が仮釈放される場面から始まるんである。それぞれ別の刑務所に収監されている。
最初はタカオ。杉山卓男。ひょろりと背が高い彼、通りの向こうからカメラがその嬉しそうな姿を収める。支援者らから拍手が沸き起こる。
数日後にショージ。桜井昌司。タカオとは対照的に小柄な(いや、ショージが背が高いだけで、彼は普通なのかもしれないが)ショージとひょろ長いタカオのツーショットは、その後も何度も私たちの目を楽しませてくれる。

若い頃、つまり捕まるまでのヤンチャしてた頃は仲が悪かったという二人が、“共犯者”として捕まり、勝利を勝ち取る過程で信頼しあい、戦友となり、それ以上の親友となっていく過程をつぶさに追っていくのを見ると、こんなことが無ければ二人は仲が悪いままであったかもしれないし、少なくともこんな、お互いがいなければ戦えなかった唯一無二の存在にはなりえなかった訳で……。
いや、そりゃ勿論、警察や検察の権威のためにとりあえず犯人を捕まえて、ぶち込んで、あとは知らんわ、みたいなことの犠牲になる人たちがいるという信じ難い、あってはならないことこそがテーマの冤罪、なんだけれど、生身の人間を追っていくドキュメンタリーだと、そうした思いもしないチャームが生まれて、ふと考えてしまうんである。

だってだって、こんな魂を触れ合わせる親友って、そうそう得られないもん。彼らが獄中で、同じ獄中にいたこともあったのに顔を合わせることも出来ないから、手紙でやり取りしていた文面の断片が、時には野球の試合の結果とか柔らかい話題も織り交ぜているあたりが、長い長い闘いを共にしてきたことをリアルに思わせてさ……。
そりゃさあ、そりゃさあ、親友が出来るからって、無実の罪で何十年もブチこまれたい訳では決して無いが(爆)、でもなんだか、こんなこと言っちゃいけないの判ってるけど、うらやましかった。

二人は正反対で、お互いを嫌っていたというし、実際そのことが、アリバイを得られる筈だったのに出来なかった(いや、それでも警察は彼らを犯人に仕立て上げただろうけどさ)一因になったんだけど、最初に取り調べられたショージの“自白”によってタカオが取り調べられ、なんたってショージはしばらくタカオは実際犯人だと思ってたっていうんだから……そのことでタカオがショージを恨んだ時期もあったというけど、そりゃそうだと思うけど、それでも今や二人は、お互い欠けることの出来ない、戦友同士なんだものなあ。

そもそもショージとタカオというタイトル、二人をそう呼ぶスタイルが、本作を決定付けてる訳だけど、それが実にしっくりといっているのが不思議なぐらいである。
つまり二人は、無実の罪を着せられた哀れな冤罪被害者としてではなく、封印された青春を驚くほど積極的に謳歌する、二人のチャーミングなおっちゃんであり、確かにショージとタカオ、と呼びたくなるんである。

いや、その前段階がまず、あるからなんだよね。毎年開かれている二人のための、布川事件の勝利を応援するための、支援者らによるコンサート。
というのもショージが獄中で作詞作曲した作品があるからであって、実際、後にショージが聞かせる歌声も玄人はだしと思えるほど上手い!
それをニコニコと聞いているタカオはそういう才能があるタイプではなく、実直で、きまじめ。
で、このコンサートで歌手が紹介するのに、ショージとタカオ、と呼ばれるんだよね。名前で、親しげに。それが全編を貫いている。

そして何より、彼らが仮釈放された後の、“普通の生活”こそが、本作のメインになっているんである。普通の生活の、尊さ。
それだって声高に言われる訳じゃなくって、見終わった後に、それを大事にしなければ、それができることが幸せなんだということをしみじみとかみしめるように、ホンットに、劇中では、ただただ彼らののどかなチャームこそが示されるんである。

いや、あのね、そりゃあ、30年ぶりに“シャバ”に出たんだから、その戸惑いは実にリアルに描写されるのよ。判りやすく、電車の切符の買い方が判らなかったりね。
でもその中でちょうどの小銭を出そうとするタカオの生真面目な様子が描写されたり、「一番驚いたのは女子高生のスカート丈ですよ」と言ったりするのは、予想の範囲内ではあるんだよね。
あるいはショージが訪ねる田舎の様変わり、それだけじゃなく、二人が事件当日を検証する東京の街並みの様変わり……タカオがその日いたという映画館は、彼の口ぶりではいかにも古き良き時代の映画館で、それは当然のごとくといった感じでなくなり、マンションが建ってしまっていた。

驚くべき偶然で、二人は当日同じ東京のさして離れていないところにいて、更に驚くべきことには、ショージのお兄さんと仲が良かったというタカオはその日そのお兄さんのところに泊まってて、同じくそこを訪ねたショージとニアミス気味であったのだ。
気味、ってあたりが……実際は顔を合わせていた筈なのだが、当時仲が悪かったというせいなのか、タカオは覚えていたけれど、ショージは鉢合わせしたのを覚えていなかった。
そのことが、タカオは犯人なのだとショージが思い込んでいた原因になるのだが、それにしてもなんたる偶然。運命としか思えない……不幸な運命?それとも……。

ちょっと脱線しちゃったけど(爆)。そうなの、二人の普通の生活、なんだよね。ショージはすぐに工務店での、つまりとび職の仕事を見つける。
彼が、「出たら、土方しかないと思っていたから」、と、看守の目を盗んで広辞苑で筋トレしていた話など、彼は実に話が上手いもんだからふふと笑って聞いてしまう。
実際、この話の上手さで、彼は各地の講演に呼ばれ、自身の闘いと並行して、冤罪を語る活動家になった、とナレーションされるぐらいなんである。

ショージに比べるとタカオは仕事を見つけるのに苦労する。生真面目な性格が裏目に出たのか、口あたりよく先延ばしされた就職話を、人を信用したいから、とマジメに待ち、その間の生活費に窮してしまう。
支援者はいるし、支援金も支給されるのだけれど、それにしたって期限的に限界があるし、彼自身もその性格ゆえ焦っているのが見えて、見ているこっちもハラハラしてしまう。
支援者の一人が、その就職話があるところに行って確かめてみれば、という。そのアドヴァイスになるほどと思い、彼は出かけてみる。心配したとおり、その就職話はアヤフヤで、若くてコンピュータのスキルがある人を優先するんだと言われる。
怒るよりガッカリしたと、それでも憤る口調で言うタカオが人事ながら心配になる。
そんな外野の心配をよそに、それをキッカケに動き始めた彼は葬儀社にさらりと仕事を得て、再取得した運転免許証もその役に立ち、働き始め、これまたサラリと彼女も出来ちゃうんである!!

二人共に、結構早い段階で、彼女が出来るんだよね。タカオの方が早かった。彼は余裕で「彼女が出来るとバラ色だよ、って桜井にも言ったんだ」と。「(彼女が出来るのは)自信があったからね」とこれまたサラリと!こんなん、冤罪被害者のイメージと違うー!!
……と思うことこそが、勝手なイメージなのだが、でもいい方向でのイメージの裏切りなの。実際ね、二人はとてもチャーミングだし、カメラが追っていくに従って、どんどん変わってく。垢抜けてく。
いや、ショージはあまり、変わらないかな。タカオはハッキリと変わる。最初は髪の毛の薄いしょぼくれたオッサンにしか見えなかった(爆。ゴメン!)。その背の高さも、持て余しているみたいに哀れっぽく見えたんだけど、仕事を得、彼女も出来、そのあたりからかな、その薄い頭もセクシーになり、かけ始めた色つきメガネが大杉漣みたいにカッコよく決まるようになるのよね。おお、カッコイイじゃん!と。

ちょっと間があいて、改めてカメラが彼を訪ねたとき、彼女に逃げられてたらどうしようと思っていたこっちの気持ちを気持ち良くカッ飛ばして、部屋にはベビーベッドやら出産のために病院に持っていく用意のバッグやら、赤ちゃんのためのおもちゃやらが完璧に用意されている。
その完璧さがいかにもタカオらしいとナレーションされるのが、ホントだね、とここまで彼のパーソナリティを見てきている観客も感じてふふと微笑んでしまう。

今まで子供に興味はなかった。桜井は子供子供と言っていたけど。でも女房が妊娠して、お腹が大きくなってくると、外で子供を見ると目が行く。可愛いと思う。他人の子供があんなに可愛いんだから、自分の子供だったら……と、目を細めるとはこういうことだよな、と思うタカオの様子を見ると、何か知らん、たまらなくうれしくなってしまう。
奥さんはインタビューには出ないけど、でもラストクレジットで成長した男の子と共にタカオと映っている写真は、奥さんだよね??きっと!!嬉しい!!!

一方のショージは、結婚前の付き合っている段階から奥さんは顔出しする。ショージは子供が欲しかったみたいだけど、割と年相応の相手であるこの奥さんだと、子供は難しかっただろうな……勝利の場面でショージにまとわりついている男の子二人は、子供じゃないよ、なあ……。
でもね、最初から顔出しし、ショージの辛い心の内を証言する奥さんの存在はとても大きいのだ。途中、ショージを訪ねた時、奥さんはいなくって、“別居婚”なんて言うからヒヤっとしたが、かつて家族と住んでいた腐って倒れそうな廃屋を自らの手で丁寧に修復し、見事に新しく再建したお風呂に浸かってるショージは、やっぱり出来る限り、家族がいたこの場所で暮らしたいんだなと思う。

彼の奥さんは都会の水戸で仕事をしている人だから、そういう意味での別居婚。後に彼女の暮らすアパートでの二人を見てても実に仲睦まじげだし、強迫観念に襲われて窓から飛び降りそうになるショージを目の当たりにした奥さんが語るインタビュー映像は心に迫る。
心理学を学んでいる。あの人にはナイショだけど……。そんなことしか出来ない。死刑囚の心理学などは残されているけれど、冤罪は全く違うもの。そうでしょう?と。そうだ、その通りだ……。全く違う。全く違うもの!

ショージやタカオがね、刑務所にいた頃の自分の荷物を整理する場面が折々挿入されて、それもまたとても印象的なのよね。
びっしりと書かれた手紙は彼らの必死さを克明に物語り、彼ら自身も、俺、頑張ってたなあ、などと他人事のように笑う。
その時にね、これはショージとタカオ、どっちだったかなあ、やっぱりショージのほうだったかなあ、これは不適切書だって、リクエストして差し入れしてくれたのに認められなくて読めなかった、という中に、死刑囚の心理を自ら描いた本があったんだよね……。
安部譲二の塀の中シリーズの一冊もまたダメだったんだよ、と示されるのには思わず笑っちゃったけど、死刑囚の心理本がダメだってのが、やたら赤裸々な気がしたんだよなあ……。

描写は本当に淡々と二人の日常を追うし、その中には先述したような弁護士や支援者たちとの、あの時何があったのかていう討論もある。
“現場検証”といった趣の、同じ日、同じ時間のそぞろ歩きは、二人が監督の求めに応じての東京での場面の他にも、事件があった現場、二人が目撃されたとされる現場、オートバイで二人を見かけたという目撃証言が果たして可能なのかという実証などなど。
こうした冤罪事件をテーマにした時に求められる場面もちゃんと用意されているんだけど、確かにそのあたりはぬかりはないんだけど、いや、ぬかりがないからかな、逆に……。

本当に大事なのは、二人が普通の生活を取り戻したことであり、勿論それは、あんなことがなければもっと違う“普通”があったかもしれないんだけど、そんなタラレバを感じさせないぐらいに、彼らは貪欲に“青春”を謳歌するんだよね。
もう、ホント、それこそ“普通”ならば、夫婦生活も倦怠期で、ひょっとして彼らなら2、3回離婚してるかも!?いやいや!
彼らが事件当時“やんちゃ”で、犯人に仕立て上げられたのはそこに目をつけられたかも知れず、タカオなぞ、「もしあの事件がなければ……?親分になって殺されてただろう」と笑いながらもさらりと言い放ち、カメラを向けている監督も「そう思います」とこれも笑いを含みながらも真実味を匂わせて返す。
それはタカオのやんちゃさと生来のマジメさがそうした人生もあったかもしれずということで、ショージは同じヤンチャでも、世渡り上手そうだし、また全く違ったと思うんだけどね……。

でもさ、彼らが当時“ヤンチャ”であり、だから別件逮捕で陥れられたというのが、再審の記者会見でもそれを聞かれるのがね、担当の弁護士はなんたって二人のことを良く知ってるから、「まあ当時は彼らもヤンチャでしたから」と笑って流すんだけど、いや、ていうか、ホントにその通りで、それ以上のことはないんだけど、でも確かに私らはさ、冤罪事件でも、そうした別件逮捕で暴力沙汰を実際起こしてるとか聞くと、そうやって疑われるだけの材料があるんじゃんとか、思っちゃうところがあってさ……。
やっぱり権威に与しているところがあって、それが冤罪を後押ししているんだと、思わずにはいられなかったよなあ……。

どこかで、冤罪の被害者は清廉潔白、誠実で真面目で、人生に一点も曇りもないから、逆にワナにはめられたんだ、みたいな、あるいは、貧しく、恵まれず、不幸ばかりの人生の延長線だとか、何かこう、彼らを運の悪い、不幸のループにはまった、哀れな人たちと思いたがっているところがあると思って……。
そうやって、優越感に浸り、だから、かわいそう、応援してあげる!みたいなさ……暴力事件の別件逮捕はそれはその通りだったとか聞くと、暴力事件って言うとさ、すんごいうわって思って、コイツ、暴力団かとかさ(爆)。
まあ、タカオは片足突っ込んでたらしいけど(爆爆)、でも、若い頃ヤンチャして、その後大成した大人物の話はよく聞くのに、そんな可能性もあったかもしれないのに。

何か、ね。本当にこの事件、あるいはこの作品、彼らを追いかけた監督もそうだと思うんだけど、全てが運命的で奇跡的な感じがするのだ。
一人ではなく二人の共犯とされた冤罪。二人は顔見知りで、ていうか“仲が悪い”というぐらい認識しあっている間柄。
事件当日、現場とは全く違う場所でニアミスしていたこと、獄中で戦友となり、親友となり、壁の外に出てからもお互いの生活を人生を分かち合い、無罪を勝ち取るまで、いやきっとこれからも互いに無二の存在であり続ける。
うらやましいと言っちゃいけない、それはそうなんだけど、まるでチッチとサリーみたいにデコボココンビで、おしゃべりと寡黙もそんな感じで、でも二人ともチャーミングで女がほっとかなくて、みたいなさ。なんて映画的、劇的!なんだろうって。

ショージが同級生のちょっと恋してた女の子がやってる居酒屋で幸せそうにくだ巻く場面とか、良かったなあ。ショージの過去などちっとも気にしてない彼女が、きっと当時よりカンロクたっぷりで、「私、太ったでしょ。あの頃は……」と言いかけたところでショージが、ワザとじゃないにしても、ビールをうっかりこぼして会話を中断させるのがね、何かそういう、ギャップなんかないよ、あの頃と変わらないよ、いう彼の気持ちを示しているみたいに思えて、その後印象的に店の外に引くカメラもあいまって、グッときたんだなあ。★★★★☆


白いリボン/DAS WEISSE BAND/THE WHITE RIBBON
2009年 144分 オーストリア=フランス=イタリア=ドイツ カラー
監督:ミヒャエル・ハネケ 脚本:ミヒャエル・ハネケ
撮影:クリスティアン・ベアガー 音楽:
出演:クリスティアン・フリーデル/レオニー・ベネシュ/ウルトリッヒ・トゥクール/フィオン・ムーテルト/ミヒャエル・クランツ/ブルクハルト・クラウスナー/ライナー・ボック/ヨーゼフ・ビアビヒラー/スザンネ・ローター/ブランコ・ザマロフスキー/エルンスト・ヤコビ/ウルシナ・ラルディ/シュテフィ・キューネルト/マリア=ヴィクトリア・ドラグス/レオナルト・プロクサウフ/ティボー・セリエ/ガブリエラ・マリア・シュマイデ/ヤニーナ・ファウツ/エンノ・トレプス/テオ・トレプス/ロクサーヌ・デュラン/ミルヤン・シャトレーン/エディ・グラール/ビルギット・ミニヒマイアー/セバスティアン・ヒュルク/カイ・マリーナ/デトレフ・ブック/アンネ=カトリン・グミッヒ

2011/1/17/月 劇場(新宿武蔵野館)
えーっ!何これ!どーゆーこと?判んなーい!判んない部分が多すぎるー!モヤモヤー!……と、いうのが観た後のごく正直な気持ち(爆)。普段は、どうしても影響されてしまうからと戒めている他のレビューをついつい回ってしまった(戒めてるとか言いながら、最近は決心が弱くて結構やっちゃう……)。
その中で、私がどうにも解せなかった、牧師が子供たちのうち、長女のクララと長男のマルティンにだけ辛くあたることが、長女はともかく、マルティンに関しては“自慰をしているから”と指摘している向きが方々であって、えーっ、そんなこと言ってたっけ?と焦ってしまった。

いや……でもそう言われれば、牧師がネチネチとマルティンを責める場面で、“同じことをやった”他の村の少年の例をあげて回りくどく責め立てるんだけど、その“例”でさえ核心を避けているからひどく回りくどく、なんのことやらでさ。
でも、どうやら心当たりがあるらしいマルティンが赤面し、音もなく涙を流すシーン、観ている時にはサッパリ判らなかったけど、そう言われればナルホドと思うんだよなあ……。
その後、マルティンだけが寝る時ベッドに縛り付けられているのが決定的だしさ。これを見て判らないなんて、ああ、私って、ホント、ダメだ……。

それが判れば、同じ“思春期”である点においてはマルティン以上に心配な(女の子だからね)クララに対しても殊更に辛くあたるのは納得できるような……気もする……判らないけど。
でも劇中では、彼らを叱る材料が“遅く帰ってきただけ”なのだから、私が??なのはしょうがないよね、ね?(……なんかだんだん自分がミジメになる……)。

とか言いつつも、言い訳のようだけれど、そうしたどこかモヤモヤとした部分を(私だけかもしれないけど(爆))ある程度明らかにしたり、推測したりして、この映画の輪郭を際立たせようと努力することは、違うような気もしてる。
私は確かに、マルティンが自慰行為を責められた(のかもしれない)ことを知って、なあるほど!とひとつ疑問が解決したような気がしてスッキリはしたのだが、そのことで、この物語が持つまがまがしい魅力というものが失われてしまうような気もした。
やっぱり頭のいい人やカンのいい人はさ、そういうものがちゃんと見えるのかもしれないけど、まあ、負け惜しみで、私みたいなバカな人間は、そのまがまがしさの魅力を充分に享受出来るんだもん!(完全に負け惜しみ……)。

でも、本当に、それは思った。予告編を観た時から、何がここに潜んでいるんだろうと、肌が粟立つ思いだった。
きちんと、行儀のいい子供たちが、きちんと並んでどこかにいる。その理由が判らないことが、何でこんなに怖いのだろう。
全っ然関係ないけどシャイニングの双子のお化けを思い出した。理由も判らず、まっすぐにこちらを見て突っ立っている子供って、不条理にもなぜだかひどく怖い。
そんでもって本作はモノクロだから余計に怖い。白と黒のコントラストはただのモノクロという以上に無菌室のようにストイックで、見る側をもはねつける。

舞台は1913年、北ドイツの小さな村である。村のドクターが何者かによって張られた針金に引っかかって落馬し、重傷を負った事件を皮切りに、平穏な筈の小さな村で残酷な事件が頻発する。
犯人が見つからないまま、時に任せて忘却しそうになったりする。しかし、村の権力者である男爵やその下についている家令の身内が事件に巻き込まれたり、関与したりするもんだから、村の平穏にムリヤリに封じ込めようとしたのも段々無理がきかなくなる。

そんな中、村の若い教師が子供たちの関与を疑うんである。それは、恐らくある一部の子供たちが事件に関与していたことに気付いた、というか、彼女自身も関与していたのかもしれないけれど……家令の娘のエルナが「前も正夢になってしまった、自分の見た夢」として、これから起こる事件を予言したから。
しかし子供の小さな勇気は教師が刑事にそれをバラしてしまった不用意な行為と、その刑事による高圧的な恫喝によって縮み上がらされ、そして権力者によって握りつぶされてしまう。もっともらしい理由をつけられて、事件はもっともらしく収束してしまう、のだ。

でもね、私、先述のようなことも判らなかったけれど、実は観ている間、人間関係もかなりコンランしていた。
こんなこと言うのはホント、ハズかしいんだけれど、男爵と家令と牧師とか、ドクターの愛人の助産婦と小作人の娘フリーダとか、他にもそれぞれの子供たちをいろいろと取り違えて見てたり、ホント、コンランしていた。
うーうーうー、そりゃ私は人の顔を覚えるのは苦手だが(爆。こんなんで映画ファンとか言ってるんだからホントサイアクだ……)でも、モノクロだし、この時代だと年齢や性別で着ているものやヘアスタイルが似通ってくるし。
大体、家令って、ナニ?初めて聞く肩書きだ……観終わって何かの解説で“男爵の右腕”と書かれているのを見て、え?結局それだけの説明?と思ってガックリする私は相当バカなんだろうな……。

でもまず印象的なのは、ドクターである。つまりは、冒頭の、ツカミだからだけれど、小さな村のドクターという肩書きだけでも村の人に信頼されていると観客にも思わせておいて、じわじわと、そして加速度的に、このヒッドイ男の正体を浮き彫りにするからである。
最終的にこのドクターと愛人であった隣人の助産婦が、表面的に全ての罪をかぶせられる形で体よく収束に至るのだけれど、そうなったのは、このヒッドイ男の正体を、実際に手を下した子供たちが知っていたからなんじゃないかという気がする。
そう、だから……そうしたことはひとつも明確にされないんだけれど、明確にしちゃったら、先述したように魅力が失われてしまうような気もするんだけれど。

針金が仕掛けられて落馬し、重傷を負ったドクター。知らない間にその針金も恐らく犯人によって撤去されていた。
幼い息子を産んだ産褥で死んでしまったドクターの妻にかわって、隣人の助産婦が家族の世話をかって出ている。ドクターの落馬をいち早く見つけたのもこの助産婦、という冒頭のくだりから、誰だってこの助産婦がドクターの愛人なんだろうと推測してしまう。
あにはからんや、長い入院生活から戻ってきたドクターと刹那の愛を交わすシーンが赤裸々に描かれる。
しかし、ドクターは、「皺だらけで、醜くて、口が臭い」とあまりといえばあまりにもヒドイことを言って助産婦に別れを切り出すんである。

彼が夢想する皺のないきれいな肌の若い女性というのが、死んだ妻に似てきた14歳の娘だと知っている助産婦は、私を捨てさせないわよ、と涙をためながら言うんである。
こんな男にすがることもないだろうと思う一方で、“死んだ妻に似てきた14歳の娘”に手を出しているらしい、という台詞にゾッとする。

そして、それを暗示するシーンも出てくる。眠れない幼い弟が、なまなましい声がするドアを開けると、夜着姿で診察台に座っている姉とその前に立っている父親がいる。
姉はピアスをあけようと思ったのだと言う。すぐにベッドに戻るから、と。
しかし本当は何をしていたのか。何より恐ろしかったのは、弟を慣れた口調でなだめた娘が妙になまめかしく、イヤがっている様子ではないことだった。
思えば彼女はいつも父親に愛しげに寄り添っていた。……うう、ちょっとゾクリとしてしまう。娘のアンナは確かに14歳とは思えない大人っぽさだものなあ……。

さて。この事件を皮切りに様々に痛ましい事件が起こり、この小さな村の成り立ちもそれにしたがって徐々に明らかになってくる。
小作人の妻が作業中に事故死する。それは雇い主の男爵の責任だと長男のマックスは憤るも、村の半分が男爵に雇われているような状態では歯向かうことも出来ないと、父親は息子を叱りつけるんである。
しかしマックスはその青年らしい正義をぶつけてしまう。男爵のキャベツ畑を荒らしてしまうんである。

しかしその直後、男爵の長男ジギが行方不明になり、逆さ吊りでひどい暴行を受けた姿で見つかる。
マックスはキャベツ畑を荒らした罪は告白するが、暴行の時のアリバイはあったから、その残虐な犯人はまたしても判らない。それに比べりゃマックスのやったことなんてカワイイもんである。
しかし雇い主にたてついたことで小作人一家は職を失い、更に男爵家の荘園が謎の火事に襲われる。その犯人も判らないまま、マックスの父親は首を吊って死んでしまうんである。

その中では、家令の生まれたばかりの赤ちゃんがいた部屋の窓が開いていて、赤ちゃんが風邪をひいてしまった、その犯人が判らない、なんていうのは実にささやかな“事件”なんだけれど、その“正夢”を、家令の娘のエルナは見たんだというんである。
彼女の言う“正夢”は、実際に見たり、あるいは計画を聞いてしまったことに他ならないのだけれど、その恐ろしさに彼女自身がそれを本当に“正夢”だと思っているんじゃないかというふしもある、ような気がする……。
子供って、そういう自己防衛本能って、働くものじゃん。だから殊更に、エルナを大人たちが責めるのがすんごく痛ましいんだよね。

エルナのような女の子は、先頭で動いてはいないけれど、ひょっとしたらある程度加担させられているのかもしれない、という節もあり、大人(世間)という角度からも凄く客観的に見えている分、一人追いつめられていて本当に痛々しい。いや、そういう“立場”というのも、あくまで推測に過ぎないのだが……。

でも、恐らく、あくまで恐らく、事件に加担した子供たち(恐らくクララとマルティン、そしてもしかしたらプラスアルファも)が、自身が大人たち(主に親)に追いつめられ、そしてなんたって子供だということもあって、そうした客観性(それはあくまで大人の勝手なモノサシによるものなのだが)を身につけないまま、ただやみくもに行なったことだと思うと、それもまた、まったく違うベクトルで痛々しい、のだ。
そう、それを推測させる、現場に、あるいはキーポイントになる場所に連れ立って現われる子供たちの、その表情が、妙に“無”で、全く動いてなくって、人形みたいで、だからシャイニングなんかを思い出してしまったのかもしれないなあ……。

でも、そう、あくまで推測でだけれど、この子供たちが加担している、あるいはまんま犯人であるのだとしたら、その行なった理由はなんだろう?と考えるんである。
そもそも冒頭のドクターの落馬事故や、助産婦の知恵遅れの(というのも今は不適当な言い方なのだよね)息子が失明にまで追い込まれたヒドイ傷害事件も、なぜなのか、と。

男爵の息子のジギや荘園の火事ならまだ、判るんだよね。ジギに関しては貧しい暮らしをしている自分たちと違って、貴族のような(って、まんまか。男爵なんだから)生活をしている彼に対する嫉妬かなあとも思う。
その後、男爵夫人が息子を連れて心身を癒しにイタリアに出かける。そして戻ってきたところで家令の兄弟が、笛を上手に吹くジギに対する子供っぽい嫉妬心で彼を川に落とした場面が示されたりもするんだもの。

荘園の火事も、やはりその延長線上にあると思われる。小作人の妻の事故死は恐らく本当に事故死だっただろうことを考えると(これはいくらなんでも子供たちの関与はない……よね)、遺族に管理責任者としての思いやりも示さなかった男爵に子供らしい正義感で憤ったことは容易に考えられる。
息子を連れてイタリアで休養した男爵夫人が恋に落ちて、元々冷酷なダンナに不満を持っていたこともあって三行半を叩きつける場面は、通常の映画ならば十分修羅場になるのだが、この中では、当時の男が判りやすいマッチョを振りかざしていた象徴ぐらいにしか映らないのも痛い、のかもしれない。

でも、本当に、推測、なんだよね。そんな風に“推測”していくと、先述のように、本作の魅力が失われるような気がしてならないんだよね。
暴行を受けたカーリが両目を流血で染まらせている恐ろしさや、深夜に突然発生した荘園の火事の不気味さは、モノクロだからこそだ。流血は真っ黒で、炎は闇夜の中に真っ白くスクリーンを埋め尽くすその恐怖たるや。

そして、火事を一番に発見する、牧師の長男、マルティンがベッドに縛り付けられているのが発覚するのがこのシーンなんである。
ヒヤリとしたもの。罰でベッドに子供を縛り付けるなんて。しかもそれを、他の子供たちにも監視させているなんて。
そもそもクララとマルティンに無垢と……あとなんだっけ、二つ三つあげてたけど、とにかくその印として、と白いリボンを腕に巻かせる牧師にこそゾッとした。
この白いリボンこそ、タイトルになっていることもあり、本作のテーマを象徴しているに他ならないんだもの。

だってさ、観客のみんなが思うよ。白いリボンを巻かなきゃいけないのはテメーだろ、と。
子供の行動はヘビのようにしんねりと見張っているけれど、その心はちっとも見えていない。ていうか、行動はいつも心とつながっているのに。
クララが教室で騒いでいる年少の子供たちを静めようと大声を出していたのを、彼女こそが先頭切ってサルのように(!!)騒いでいた、と彼女を教室の後ろに立たせる場面なんて、その最たるものじゃないの。てか、ここでは行動さえ、キチンと見ていないじゃないの。
もうホントにこの場面、私が替わってこのしたり顔の聖職者をぶっ殺してやりたい、と思った。立たされたクララは後ろを向いたまま、失神した。そして、父親の大事にしていた小鳥をハサミで突き殺すんである……。

この物語の語り部は、村の年若い教師なんだよね。男爵の家に他の村から勤めに来ている17歳の乳母、エヴァにひと目惚れしちゃう。
彼女が理不尽に男爵家をクビになり、涙ながらに彼の元を訪れた時が、二人の気持ちが最も近づいた時だっただろうなあ。
一夜を過ごしたとはいえ、まあこの時は何もなかったとは思うが(こーゆーことをイの一番に考えてしまうあたりが私はホント、サイテーだ……)、彼女が地元の村に戻って働き始めると、会えなくなるという焦燥も手伝って、彼は彼女に求婚しに行く。

エヴァの父親から「親子ほども年が離れている」(いや、いくらなんでもそれは言い過ぎ……)と言われ、エヴァが幼い弟妹が沢山いる一家の稼ぎ手であることもあり、結婚はお互いの気持ちが固まった一年後に伸ばされる。
このセンセーにとっては充分に理不尽なんだろうけれど、村で起こっている不気味で不可解な出来事に比して言えば、実に健康的なんだよね。なんたって相思相愛なんだし。

でも、二人がデートする場面、彼が連れて行こうとした泉に、彼女が断固とした拒否を示して、そのただならぬ態度に気圧されて彼が言うとおり引きかえした場面はなんとなく気になったけど……。
まあ、あの時代ゆえの、貞操を守るとかゆー、単純な理由だったのかもしれないけれど。

なんかね、だって、このセンセーは結構、ノーテンキに見えるんだもの。教師、というだけで、名前が与えられていない(よね?多分……記憶の限りは(汗))彼は、別に教職に対してアツい場面が出てくる訳でもないし、基本、このカワイイエヴァに夢中な描写しかないし。
実際、今の時間軸で年老いた彼がナレーションをつけている、という作りになっているんだけれど、そのナレーションでも明確にそれは示しているんだよね。

しかし優しげな面持ちもあって、なんとなくは子供たちにも好かれている雰囲気の彼は、家令の娘、エルナから“正夢”の話も打ち明けられるしさ……あ、でも、それも、なんか隠していると直感した彼が、ムリヤリエルナから聞きだした形だったよなあ。
んでもって、結局それをなんだかんだ理由をつけて刑事にバラしちゃってエルナを追いつめちゃうしさ。なんか……なんとも……教師としては青臭い気がして仕方ないんだよね。

でね、だいぶ話が脱線しちゃったけど……加担“したかもしれない”子供たちのその動機が、抑圧されてかなり捻じ曲がった感があるとはいえ、子供らしい正義感や嫌悪感がその根底にあるのだとしたら、助産婦の知恵遅れの息子、カーリが、ジギ以上の凄惨な暴力を受けた理由がね……説明がつかない、訳じゃないから、余計に恐ろしいのだ。
いや、それは、全てが見えていた“かもしれない”子供たちが、ドクターの非道さや、助産婦の慎みのなさを糾弾したのならまだいいんだけれど。だって、助産婦は、夫はいない、よね?寡婦ならば余計にその重責はあるよなあ、と思うし。

でも、そうじゃないならば。助産婦の“知恵遅れ”の息子に対しての単純な嫌悪感ならば。
敬虔という名の元に、あまりにも理不尽に虐げられている子供たちが、カーリに向けるかもしれない蔑みと嫌悪が想像出来るだけに……想像出来てしまう自分にも、鉛を飲んだようないまいましさを感じてしまう。
エルナは、カーリはあんなイイ子なのに、と言った。しかし当時を“噂も含めて思い出した”教師のナレーションでは、カーリは、実に判りやすく、子供たちから疎まれていたのだ。

エルナの言葉がウソだったとは思いたくない。生まれたばかりの弟をきょうだいの中で彼女だけが慈しんでいたし、“正夢”に苦しんでいたのも、彼女が純粋だったからだと思いたい。
でも、でも……。大人になっていきなり邪悪になる訳じゃないもの。同じく、子供がすべて純粋じゃないのは、この作品が苦々しく示している。だから、だから……さあ……。

それを思えばこの教師が一番、憎たらしいほど天真爛漫で、純粋だったのかもしれない、と思う。
ただ彼は確かに、大人だった。全編のナレーションを任される彼は、最初の事件の時、その直前、彼が最終的に関与を疑った子供たちが、連れ立って“村の出口”に向かったことを不思議に思った。
思えばそれが、大人の事情で封じ込められてしまった、小さな村の奇妙な事件を、検証しなおすきっかけになったのだろうと、思う。
村の出口、という言い方自体が、不思議なのだ。今の価値観じゃ、とてもピンと来ない。教師の村はこの村の隣で、彼が妻とした男爵家の乳母、エヴァの村は更に隣である。

彼らが最初に出会ったのは、ようやく休みが取れたエヴァが男爵家から借りた自転車で故郷に帰るところだった。
彼女と話がしたさに、僕の家に寄って、父親に魚を届けてほしい、と教師がムリな提案をするのはご愛嬌だけど、村と村が確固たるコミュニティとして厳然と区画されていることはハッキリと判る。
一度ほかの村に出ると容易に休暇ももらえず、“村の出口”などという言葉が存在し、子供たちがそこから出ることなど、考えられないということなんだろうと思う。

なんかね、それが……これ、ドイツの話じゃない?そしてもんのすごい、排他的で、禁欲的で、高圧的な社会を、それを大人は見て見ぬフリをしているんだけれど、それに我慢ならない子供が反乱を起こしている、と考えると……。
あのね、某解説に、この子供たち世代が後のナチ体制を支えたことが理解のポイントであると書かれてて、衝撃を受けたんだよね。そーゆーことなの、と……。
確かに舞台は大戦前夜で、こんな小さな村も、まだ実際の影も見えない、遠くで聞こえてくる戦争の影だけで雰囲気がガラリと変わる。コミュニティを牛耳っていた人たちの力が失われることを暗示して終わる。

そしてナチ。悪しき足跡を残したナチ。でも、理不尽に対して怒った子供たちがナチに傾倒するだなんて、ナチこそが理不尽なのに。
でもでも……その理不尽を受けない側に回れるならば、親からの“迫害”の被害者だった彼らが傾倒するのは、至極当然のこと、なのか。本作はそれをこそ糾弾しているのか。

……解明したがることが、この作品の魅力を減じると言いながら、結局やってるし(爆)。
でもね、でもでもでも……大人はかつての子供であり、子供は未来の大人である。子供であるというだけで純真であるべきと閉じ込め、それゆえにないがしろにすることが、子供たちを迫害しているのならば……。
それを本作は、何も言わずに、子供たちの表情一発で示しているのだと思うと、彼らの人形のように動かない、言ってしまえば不気味な表情や、声も出さずに涙を流すマルティンが、発せられない言葉をいかに飲み込んでるかと思ってさあ……。

マルティンは、神様が自分を罰しないのかと試そうと、橋の狭い欄干の上を歩いた。それを見つけたのがあの教師で、彼はマルティンの言葉を言葉以上には受け止めなかった、のだ。

本作はこんな風に、バカな私でも軽く推測しようと思えばいくらでも出来るけど、そうじゃないんだと思う。
本作を観終わって真っ先に感じたのはまがまがしさであり、不気味さであり、当惑と疑念はその後から言い訳のように現われて、それを解明しようと試みることでモヤモヤを払拭しようと思ったけれど、それをすればするほど、自身の安っぽさを感じてしまう結果になった。

モノも言えない、もう目も見えない息子、カーリが犯人を教えてくれたと助産婦が、教師が婚約者に会いに行こうと男爵家から借りた自転車をムリヤリ強奪して町の警察に出かけた。
締め切られた部屋には既にカーリはいないのに、表面上心配げな顔をしたクララやマルティン以下、ドクターの事故の時と同じように集結した子供たち、結局戻ってこなかった助産婦と姿を消したドクター一家。
そんな不気味なモヤモヤだけで充分に極上のミステリを味わえるのに、なぜ、解明したがるのか……それはきっと、その中に、私らの中にある悪意が厳然と潜んでいるからに他ならない、きっと。 ★★★★☆


心中天使
2010年 92分 日本 カラー
監督:一尾直樹 脚本:一尾直樹
撮影:金子正人 音楽:倖山リオ
出演:尾野真千子 郭智博 菊里ひかり 國村隼 萬田久子 麻生祐未 風間トオル 今井清隆 遠野あすか 内山理名

2011/2/15/火 劇場(渋谷ユーロスペース)
なんかずっと、いや正確に言うと三人がシンクロし出して、オチに至る前までは、イメージクリップみたいだなあ、と思いながら観ていた。
何が起こっているのか判らない、というか、最初からそれを示す気もないんじゃないか、“不思議な感覚”の映像が連なることが目的のような……。

実はそれは、必ずしも外れてはいなかったのかもしれないと、“名古屋発の映像芸術”という解説のされ方を観て、よりその感を強くした。監督さんは長編デビューの「溺れる人」から10年ぶりに撮った一尾直樹氏。
二作目までに10年が経過するというのも随分長いスタンスだなとも思ったけれど、この監督らしさというのが語られているのを見ると、長編映画、いわゆるストーリーテリングの映画にこだわった活動をしていないのかな、と思う。いや、それは単なる推測なんだけれど……。

でも実際、「溺れる人」の監督さんだと知って、なるほどなあ、とも思った。決着をつけるとか、オチをつけるとか、実はこうだったとかではなく、受け取る人がいかようにも受け取っていい、そんな神秘的で思想学的な雰囲気は確かに「溺れる人」でも本作でもそうだった。
ならばそんなに悩まなくても、判らないなら判らないと感じていいのかもしれないなあ、とちょっと安堵する気持ちも起こったけれど、でもそれもなんかズルイ気がしたような……。

本作はすべてにおいて不思議さに満ち満ちているんだけれど、その象徴的なものは、“何かを忘れているような気がする”という“何か”である。
それが何なのか、明確には示されない(いや、示しているとも言えるのだろうか……あの“オチ”は)し、本当にいかようにも受け取れるし、監督もいかようにも解釈してくれて構わないといった発言をしているから、それでかまわないのかもしれない。

実際、映画は観客の中に何かが落ちた(本作風の言い方をするとすれば)時点で、完成されるのであり、観客の手前にいる段階では、いくら作品として作り上げられていても、それは完成されないのだ……というのは、映画ファンのもっともよりどころとなるものなのだから。
でもそれを思うたび、それはあくまで受け手にしかなれない心を慰めるだけのもののような気がしてならないこともある。

だって本作なんてその最たるもの……いかように受け止めてもらっても構わないというスタンスを持ちながら、監督の中には実はこうだというハッキリとしたビジョンがあるに違いないのだもの。それだけは明確に感じとれるのだもの。
だからこそ観ている間も、観終わって戸惑いながら情報を求めて泳いでいる間も、そんな監督のメッセージを受け取ると尚更、なんかズルいなあ、という思いで満ちてしまったのだった。

私はね、単純に、パラレルワールドの話なのかと思ったのだ。ていうか、今でもそれが一番、自分にとってはしっくりくる“解説”のような気がしていた。
うっかり自分が本来いる場所ではない、隣かナナメか、そんなパラレルワールドに入り込んでしまって、ここは自分の場所じゃない、何か居心地が悪い、何かを忘れているような気がする、という感覚にさいなまれ、自分を心配してくれる家族や恋人にも冷たく当たり、でもそれはだって、本当の自分自身に対しての心配じゃないんだから……みたいな。
そうなると、パラレルワールドというSF的な感慨よりも、“本当の自分自身”というキーワードの方に気が行ってしまって、それこそアイデンティティの話になってくる。だからこそ、哲学的であり、思想学的なんじゃないか、って。

最後の最後に、三組のエピソードの登場人物たちが交じり合った中で、そのうちの二人が手を取り合って全ての世界から消える。他の登場人物たちも今までとは違う、それぞれの本当の居場所を見つけるに至って、パラレルワールドで全て解明できるような気もしたんだけれど……。
でもやっぱり、というか、絶対、そうじゃないんだろうな。そうじゃない、という監督の意識はものすごく感じる。言ってしまえば、そんな単純なことじゃないんだ、と。

物語の始まり、三組のエピソードのそれぞれの登場人物が、天空から何かが彼らの中に“落ちて”来て、そこから自分自身に違和感を感じていく。
そのうちの一人、女子高生のケイのシーンが最も印象的なんだよね。体育館でバスケをやっている。座って見ていたケイが天を仰ぎ見る。何かが彼女の中に“落ちて”きて、彼女はフラフラとさまよい歩く。試合をしていたメンバーたちがふと戸惑いがちに立ち止まって、先生に言う。「一人、多いです」

なんかこれがね、座敷わらし的な感じがしてさ……この台詞の真意がなんだったのか、単にケイがコートに入り込んでしまったからそう言ったのか、あるいはケイのこととは関係なくなのか……。
とにかく、この台詞から始まって、3エピソードの主要人物の、このケイと、ピアニストのアイと、会社員のユウが自身にどうしようもない違和感を感じ出すものだから、パラレルワールド、というキーワードが頭にこびりついてしまったんだよなあ。

本作のフロントマンと言うべきピアニストのアイを演じるのは、オノマチちゃんである。相変わらず素晴らしいテンションで、自身の中の違和感を苛立たしげに演じる。
ピアニストと言っても、彼女にやけに執心しているちょっとキモいヒゲヅラの男(彼女の師匠?)や、どこかのんびりとしている両親の能天気な期待があるだけで、彼女自身がどこまでピアニストとして名を馳せているのかはかなり疑問である。
それが証拠に父親は「“発表会”の前はいつも緊張して眠れなかったじゃないか」などと言い、母親はこれまた能天気に「また頑張ってチケット売るからね」などと言う。ハタから見れば、パラサイト的な実家暮らし。

そんなアイに突然天空から何かが“落ちて”きて、彼女はどたりと庭に崩れ落ちる。庭に水撒きをしようとしていた、鮮やかな黄色のホースがくるりととぐろを巻く上にアイが倒れていて、幾何学的な模様を示す。
アイが屋上の上で手を広げて、何かに呼ばれるように、飛べるような気がしたかのように足を踏み出す場面も印象的。しかもその後彼女が「まさか落ちると思わなかった」と松葉杖をついているのも。

とにかく、何かが“落ちて”きてから、アイはそれまでのアイではなくなった。それまで、が描かれているワケではないんだけれど、レッスンに通ってくる教え子のピアノの音も聞こえず、両親に対してもひどく冷たい。
しかし、父親からのあたたかい言葉に、それがまるでウソのように晴れる。その時全てが解決したように思えたのだが……。

会社員のユウも、突然冷たくなったクチである。その冷たくなった矛先は、彼の恋人である。
ユウはバツイチで、離婚した妻と一粒種の息子と面会する場面がある。先妻は、近々再婚するかもしれない、と言い、ユウの恋人の存在にも寛容で、この三人で会ったりもする。
ユウは何かが“落ちて”来た時から、あからさまに様子がおかしい。恋人に対して冷たくなるのもそうなんだけど、幻覚のような描写があるのは彼に関してだけだったように思う。
読んでいる小説の、その1ページを破っては紙ヒコーキを作る。それを何度も繰り返して、机の上が紙ヒコーキだらけになる。
その本の中から突然出てくる、空の色と思しき青一色の写真。それを、食卓の小さなテーブルの横にピンナップされたモノクロ写真の中に、張り出す。

ユウは写真が趣味なのだろうか、その中には恋人の写真もあるけれど、劇中の彼には、あまりそうしたカメラへの情熱を感じない。
飼っている籠の中の小鳥が、鳥かごが床に叩き落とされ、小鳥がいなくなっている。突然狂ったように青く塗りたくられる壁と、その青の塗料で全身汚れているユウと恋人。彼女には聞こえない電話の音に苛立つ彼……。

最初に感じたイメージクリップ的なものを、このユウに最も象徴的に、というかベタに示されていたように思う。いかにも“映像芸術的”な、というか……。
恋人を追い出したしんとした部屋の中で、グラスに水の量を様々にたがえて入れて、音を鳴らして過ごすなんていう場面はことにそんな気分をかきたてる。
何を考えているのか判らない、嫌われたのかと思って聞いてみても、そんなことない、好きだよ、と言ってはくれるけれど、手の届かないところに行ってしまっているようなユウに戸惑う彼女の気持ちがよく判る。

ていうか、「私のこと、嫌いになったの?」は最も聞いちゃいけない質問だけど……この質問に対して、どんなシチュエイションにいたって、相手の男は「そんなことないよ。好きだよ」と言うに決まっているんだから。
そしてそれが、自身も困惑している彼が、自分に言い聞かせるように、納得させるために、言っている台詞に過ぎないんだから……。

女子高生のケイは、ピアニストのアイとエピソードがちょっとだけつながっている。ケイの高校の教師が、アイの父親なんである。
“オチ”に至るまでは、“ちょっとだけつながってる”と思っていたことが、ちょっとどころではない、あれが伏線だったのだと判る仕組みになっている。
この“何か”の使者でもあるかのように、彼らの前に現われる面相の悪い(爆)グレーの猫がいるんだけれど、この猫と最も関わりあうのがケイであるのね。
一度部屋に入れてごはんをあげ、一緒に寝たこの猫が姿を消し、次にケイの前に姿を現わした時、抱き上げた彼女が、いつのまにやらどこやらかの丘にいて、見知らぬ女が猫を迎えに現われるのだ。「やっと見つけた」と。

この「やっと見つけた」というのは、その前の、メインの二人、アイとユウがお互いを「やっと見つけた」と言って、手を握り合い、どこか違う世界に消えていってしまうシーンとまさにシンクロしている訳で。
思えば、この三人のうちで最も強烈に、この世界に対する居心地の悪さを感じていたのがアイで、仏頂面を崩さなかったしさ。
ユウもまた負けず劣らずで、彼の部屋に来ていた恋人に「一人になりたいから帰ってくれ」とこともなげに言う。ていうか、その前に彼女が彼のほっぺにおはようのチューをすると、何、とすんごい冷たいリアクションするのには、背筋が凍ってしまうんだもの……。
いくら彼らが、何かを忘れている、ここが居場所じゃない、と感じていたとしてもずいぶんと……。

監督はね、ネット社会である現代の、コミュニケーションの不自然さについて言及していたから、こういう描写はそれを示していたのかもしれないけれども、それは判るけれども、“ネット社会のコミュニケーションの不自然さ”というのは、ある意味もはや古びたテーマのようにも感じてしまう。
今はもう、それは大前提の上で、そこから作られるコミュニケーションのあり方を議論すべき時期に入ってきている気が、するのだけれど……。
彼らの仏頂面が、いかにも判りやすく、ネット社会の、回線の向こうの誰かが、何を考えているのか判らない、無表情さを強調しているのなら、それはもう大前提で、乗り越えた上で何を議論すべきなのかだと思うんだけどなあ……。

一番印象的だったのは、ケイが見る白日夢のような一場面。バイトしている小さな商店。コンビニから毛が抜けたような(毛が生えた、ではない)。
レジの前に客が並ぶ。いつもは閑散としている店内。ハッキリ言って、流行っているとは到底言えない店。
それが、どんどん、客が並んでいく。外にまで並んでいく。どんどんどんどん行列が出来て、彼女が住んでいるさびついた団地(あれはメンテしなさ過ぎだ……わっかりやすく都会の裏通りの寒々しさを示してる。)の通路にまでつながっていく。ケイの母親がいる、その部屋まで。

母親が、その最後尾の客に何かを耳打ちする。それが伝言ゲームよろしくどんどんどんどん、どんどんどんどん、耳打ちされていく。
ついにレジのケイの元にまで届く。ただ、その言葉がなんだったのか、オフにされるので聞こえない。そこでハッと目が覚めるケイのアップに切り替わるから、単なる悪夢だったんだろうとは思うけれども、何とも白日夢のような気がしてならないのはどうしてだろう……。

この時耳打ちされたのがなんだったのか、ついに明らかにはされないんだけど。
ただ、本作の中で何度も繰り返し、示される言葉があるのね。ごめんなさい、正確には覚えてないんだけど(爆)、どこの世界にも幽霊はいる、というような言葉だったと思う。
ラストクレジットに引用文書が出てきたから、あるいはこの文献にインスパイアされた部分もあったのかなあ。

どの世界にも幽霊はいる。幽霊っていうのは、この世界にいるべきではない、居場所を間違っているっていう解釈だったのかな。
それに気付かないままいられるならば、それはそれで幸せかもしれないけれど、でもそれに気付かないまま、孤独だけを自覚していたとすれば……。
孤独を感じている人間が、それが自身の責任などではなく、ただ居場所を間違っているだけなのだということならば。
これって、ひどく楽天的で、人生に前向きなテーマなのかもしれない。

ただ、最後の最後、パラレルワールド(あくまで、私自身の印象。やっぱりパラレルワールドと思っちゃう)の錯綜が落ち着くところに落ち着いた時。
女子高生のケイが、男好きのする母親が新しい恋人と結婚を決めて、のみならず妊娠までして、いたたまれない思いをしていたのが、パラレルワールドが補正されて、ケイの持っている家の鍵で開かなくなった時。
その時ケイは全てを感覚的に、瞬間的に、完璧に理解したけれど、それでも呼び鈴を押して、もはや娘だった自分のことなど判らなくなった母親に「大嫌いだったけど、幸せになってね」と、そうやって自分に決着をつける。

ケイはそれが出来た。記憶がしっかりと残っていて、これから先の自分がどこに行くべきかも判っていたから。
こういうのはやはり、ティーンエイジャーの鋭敏な感覚だと思っちゃうなあ。
でもね、新しいケイの両親、いや、父親の方だけが、補正された世界の異変に気づくんである。

ケイは補正された世界で自分がどこに行くのかを本能的に察知して、姿を消したアイの両親の元に行った。
時は朝食の途中、当然のように両親は迎えて、遅刻するわよ、と心配してくれた。父親は彼女を途中まで送ると言った。だって父親は彼女の高校の教師なのだから……。
その途中、父親は、どうしても何かを忘れたような気がして仕方なくて、車を止めてバッグをひっくり返す。そして呆然とした顔をする。
それが何なのか、理由を知っているのはケイただ一人。大丈夫、気のせいだよ、とケイは“父親”をはげまして、“通常”の生活に戻っていく。

同じ台詞を、父親も、そう、まだアイの父親だった彼は、娘であるアイに言ったのだ。
青春時代、そんな風に思ったことは父さんだってある。でも、それはそんな気がするだけなんだ。風邪と同じで、黙って通り過ぎるのを待てばいいんだ、と。
それはこうして文字で起こしてみると、冷たく突き放しているようにも思えるんだけれど、父親を演じる國村隼が娘を思いやって言い聞かせる様は滋味溢れていたし、その言葉を受け止めるアイも、一時はその暖かな言葉に立ち直ったかのように見えたのだ。

それはケイもユウも一時的にはそうだった。それが人生のあるべき姿のように思えたけれど、でも心のどこかで、やっぱりそれは薄っぺらだとも感じていた。
だから……そうやって、人はいつでも、何かおかしい、何か忘れていると感じながら生きているんだろうと思う。
こんな風に気付かないうちに、世界が少しずつ補正されているのかも、などと思わなくもなく……ある意味そうでなければ、世の中はどんどん狂っていくばかりのようにも思ったりもする。

なんとなく、全体的に、女子の衣装がハデなような気がしてしまう。特にユウの恋人の衣装、というかアクセサリー。首元から重そうに下げられたネックレスが気になってしまう。
それはアイも割とそうなんだけど、ユウの恋人は、彼の冷たい言動に翻弄されて、なんか訳判らん、部屋をブルーに塗りたくられて、その塗料で汚れたりして、妙に象徴的なんだよね。てことは、やっぱりあのアクセとかは意識的なのかなあ。
でも、“猫を抱いた女”として、世界のつなぎ目の存在で出てくる内山理名嬢も妙にどぎついデザインのお洋服にアクセだったけど……。そんなことが気になるのは、こうした世界観にありがちなイメージにとらわれすぎかなあ、ヤハリ……。

でもさ、このユウの恋人が、ユウに去られて一人残されて、かかってきた電話が韓国語でさ、つまり空間ごとパラレルだったらしく。
自身は韓国語なんて喋れないつもりだったのにペラペラで、でそのさまよい出る場所が、そうした哲学的な世界観にピッタリの、うっそうたる緑が美しい竹林だったりするんだよね。韓国なのに、ひどく日本的な思想を感じさせるような。
……なんかそんな具合に、色々色々、混乱、困惑、してしまった、気がする。空と同じ色の写真とか、三人に同じく降り注ぐドラマティックなピアノメロディとか、素敵に神秘的なアイテムには心惹かれたけれど……。

ぜんっぜん、どーでもいいことなんだけど、あの“使者”のグレーの猫ちゃんが、犬みたいに舌をハアハア出して息しているのが心配になってしまった(爆)。 ★★☆☆☆


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